闇黒日記


平成十七年四月三十日
パスワードというのは,ちゃんとしたシステムなら,ハッシュ化といって文字類を一方通行の規則で変換してから保存します.そのため,管理者にも変換されたものを元に戻せないようになっています.このような技術を使用しているため,パスワードは管理者にもわからないが普通であると考えています.
さうみたいですね。失禮しました。
ただ、ばけら氏のアレは神經質になり過ぎだと思ひますよ? それも「外部のセキュリティ」に對して。ばけら氏自身の「内部のセキュリティ」――パスワードを共用しない、のやうな態度――の穴を、氏自身は全然氣にしてゐないし。
平成十七年四月三十日
谷沢永一『聖徳太子はいなかった』(新潮新書)
聖徳太子と云ふ歴史上の人物が「創作された」事の檢證と「創作された」理由の説明と、さらに檢證や説明に關聯した餘談・教訓の類とが混在してゐて、「トンデモ本」のやうに混亂してゐる本だけれども。
以下、皇太子親肇作憲法十七条なる日本書紀の記述から派生して、谷沢氏が述べてゐる事。pp.82-83

現在、当今の世をはばかって、明治憲法、という仮称で呼ばれているもの、正しくは、大日本帝国憲法、であるのだが、この憲法もまた、憲法としてのあるべき形態と機能とを十全にそなえていた。この憲法が、公に厳粛な儀式をもって発布されたことは周知である。国民の各層に向けての浸透もまた申し分なかった。さらに重要なことは、明治にあっては理論的反体制の大立者、中江兆民が、憲法を一瞥して、ふふ、と苦笑し、ぽいと投げすてたと伝えられ、そのエピソードに多くの人が、拍手喝采したという一幕があったことである。その報道を聞きつけた官憲が、中江邸に踏みこんだという話を聞かない。大日本帝国憲法は、すくなくともその当初においては、理念と志向における反対派をも、懐に抱いてゆく姿勢を示したのである。

それに比較して日本国憲法は、反対派を絶対に許容しない硬直した制圧のもとに出発した。マッカーサーがかつてフィリッピンに下し与えた憲法の、その草案にひとはけ加えたのが、日本国憲法である。GHQの高官が、英語で書かれたこの文書を、我が国のかたちばかりの委員たちに交付し、ただちに諾否を決せよと迫ったあと、しばらくベランダに出て、太陽光線の恵みを受けよう、と言ったと伝えられる。原子爆弾の効果を忘れるなという脅迫であろう。憲法草案をめぐって、議会では若干の応酬はあったけれども、日本国憲法は、反対派を許さない雰囲気のなかで成立した。宮沢俊義が一夜にして新憲法肯定にまわった処世はよく知られる。

我が国民の政治意識の伝統には、憲法あるいはそれに類するものを、改訂したり廃棄したりの記憶がない。それでは、新しい法への転換に際して、いかなる方式をとったのか。その手段は決まっている。つまり、棚上げ、である。ほとんどの政治的処置は何かの棚上げであった。

平成十七年四月三十日
谷沢永一『聖徳太子はいなかった』(新潮新書)
p.167 メモ。

伊藤仁斎が『大学』を、これはニセモノだ、と記したような方向で、バイブルに表向きケチをつけた人があるとは聞いたことがない。D・H・ロレンスの『アポカリプス』(邦訳昭和9年)は、のち、伊藤整および福田恆存のすぐれた評論を派生したけれど、ロレンスにしても、ヨハネ黙示録から演繹(おしひろめて考える)したのであって、これをバイブルから除いてしまえと言ったのではない。いずれにせよ、宗教の聖典にかんしては、触るな、という声がどこからか聞えてくる。

以前書いたけれども、『おもしろい暦の科学』(教養文庫)で、新約聖書の記述がでつち上げである事、キリストが實在しなかつた事が主張されてゐて、ソ聯ではさう云ふ説が主流であつた事が窺へる。
平成十七年四月三十日
『聖徳太子はいなかった』の結論は題名通りだが、その論據と主張としての否定論の全體像とを端的に知りたければ、「二十一の章」の後半、百九十七ページから二百一ページに聖徳伝説検討史批判史が要約されて書かれてゐるし、「二十二の章」に谷沢氏の推測を含めた結論が書かれてゐるから、其處だけ讀めば良い。

平成十七年四月二十九日
以下、メモ。
平成十七年四月二十九日
『どう考えるか 知識と人間』(二玄社)
pp.96-98 吉田夏彦氏。

そこでね、何千年前のプラトンの言ったことを、一所懸命ギリシア語を勉強して、理解したつもりでもわかっているのかどうかわからないということもありますね。例えばクーラーのある部屋にいて、水割りを飲んで考えるというようなこととは、まあギリシアのお酒も水で割ったそうだけれど、違うわけです。そういう具体的なところが非常に違ってしまっている時に、抽象的なことだけでわかり合ったつもりになっているというふうなことは、果してほんとうのことかどうかという疑いは残るわけです。むしろこんにゃく問答みたいなことなのかも知れない。ただ、こんにゃく問答にしても、コミュニケーションが成立すれば、お互いに非常に満足して……。そういう意味で、プラトンを読んでみて、たまたまそれに啓発されればそれでいいじゃないかっていう考えになりますと、それはそれでいいんですけれど。ただ普遍性というのはそういう時には、何といいますか、相互誤解かも知れないような普遍性になってしまいますね。

……

それでこの間の相対主義――私も相対主義なんですけれども――先ほどカトリックという言葉がでましたが、少なくとも中世のカトリックの信者や学者のかなりの人は、そういう相対主義を知らなかったと思うんですよ。全部が全部そうではないと思いますけれど、かなりの多くの人は、ほんとうの意味の普遍性をもっていると思っていた。つまり時代を超えて適当にフレキシブルに変わって、いろいろな角度から普遍性があるというようなものじゃなくてね、非常に厳密な、明確な普遍性があると思っていたんじゃないでしょうかね。

……

ええ、ですから普遍論争が起きたのはつまり相対主義が芽生え出した頃……、ですから中世といっても時によるんですけれど、いわば絶対的な普遍性に対する信仰は、正しかったかどうかは別として、在った時代があるんじゃないか。ですから現代でもそういう人がいないとは言えないと思う。そういう絶対的な普遍概念と、今日ここでお話の出ている相対的な普遍概念というものを考えてみた場合、絶対的な普遍概念というのは非常にむずかしいんで、われわれには理解できないけれども、普遍という言葉に忠実であろうとすれば、そっちの方ではないかと思うんですけれどね。

平成十七年四月二十九日
『どう考えるか 知識と人間』(二玄社)
p.108 吉田夏彦氏。

今こうやって相対主義なんてことを言っているけれど、相対主義であるためにはどこかで論理を使うんで、ある絶対主義でなければならないという、非常にパラドキシカル(逆説的)な言い方をしなければ、この今の状況は叙述できないわけです。

平成十七年四月二十九日
『どう考えるか 知識と人間』(二玄社)
pp.120-121 吉田夏彦氏。

これは半分は質問で半分は議論になりますが、例えば相対性理論によると時間とか空間が絶対的でないとか、因果関係がひっくり返るとか、そういう話をちらっと聞くと、私はそれが何のことかわからぬうちに死んだらくやしいですね。例えば物質というのは、はじめは分割してみるとまるい球みたいなものが集まっていると聞いたんですが、そうじゃなくて、プサイ(ψ)とかいうものがあってというようなことを言われた場合に、それが何のことかわからなければもう死ぬに死ねない。要するに救済知って言うかそっちヘドライブがかかるんですがね。そういうことないでしょうか人間には。ソクラテスは若い頃自然学を少しやって、これでは人生の問題は片づかないと称して哲学に向かったということを言うけれど、実は弟子のプラトンは結局また同じところに返ってきたわけです。救済知というものは実はそういう意味で科学的な知識の追求ということと相当密接な係わりがあるように思うんです。

平成十七年四月二十九日
『どう考えるか 知識と人間』(二玄社)
pp.121-122 吉田夏彦氏。

ええ、それはそうだと思いますが、人生の問題をやるときに、私が言いたいのはそういう天上のこと数学的なことを知らなくてはならないというのは、自然改造のための手段じゃなくて、知らなければ死ぬに死ねないというふうなことじゃないか――だいたい救済って言いましても具体的に考えてみますと例えば恋愛とか、借金とかいろんなことがあるでしょう。借金を返すことも大事なことですけれど、借金に比べて、時間、空間に関することが人生にとって浅いことだとは私は決して思わない。もちろんいろんな人があるんでしょうけれど、科学というものの中にはそういう救済知というものと非常に通った面があるように思うんですけれど。

平成十七年四月二十九日
『どう考えるか 知識と人間』(二玄社)
pp.129-130 吉田夏彦氏。

ただね、西洋原産のものの中で、科学と哲学とキリスト教を考えますと、科学は一応かなりすんなり入っているんじゃないでしょうか。もちろん西洋人の考える科学と、山内先生の科学とは少し違うかも知れない。哲学はちょっとむずかしいところで、さっき永井先生の言われたことに賛成なんですが、私は西洋哲学じゃなくて哲学をやっているんだから西洋人が理解でき得なかったらそれでもいいということあるんです。けれど、まあ西洋原産の人参もってきて、自分で栽培をしてやってみたという感じ。ですがキリスト教というのはこれは絶対に日本には入らないと思うんです。断定的に言いますけれど。まあ信徒二〇〇万、ひいき目に勘定しても二〇〇万。絶対数も少ない。クリスチャン自身が言っていますね、いま日本で割合に代が続いているのはかえってプロテスタントで、カトリックは二代かせいぜい三代です。プロテスタントは四代目が生まれる位です。彼等自身が非常に奇妙な位置にあると自認しているわけです。つまりクリスチャンとしては絶対に本物じゃない。しかし日本人でもない。要するにあれは売国奴みたいなものになっちゃっている。(笑)そういうことがまた、彼等にとっては非常に魅力でその中にいたい。それは認めますけれど日本的クリスチャンというのはほんとうのクリスチャンじゃないんですね。それに比べると日本の物理学というのはちゃんと国際性があるし、哲学がちょうど中間になっているようなところがあるんじゃないですか。

平成十七年四月二十九日
……パスワードは管理者にもわからないのが普通だと思うんだけどなぁ.
管理者なら、ユーザのパスワードはわかるのが普通だと思ふけれども。管理者ならば自分が管理してゐるサーヴィスの仕組は解つてゐる筈。ならば、サーヴィスにおいて利用可能なパスワードを復號する方法は知つてゐる筈。或は、ユーザはログインする際、パスワードを送る。その流れるデータを見てISPの管理者がパスワードを知るのは可能な筈。
と言ふか。他人の事が決定的に信用出來るか何うかと言へば信頼出來ない訣で、ならば當然、管理者も信用出來ない事になるけれども、それならば自分で管理するしかないから自分でISPでも何でもやるしかない。が、そんなのは無理であると「現實的」になるのならば、ISPの管理者もそれなりに信用しておくのが「現實的」だらうと。別に私は、ISPの管理者は信用出來るものだ、等と言つてゐる訣ではありません。ただ、信用出來ないからと言つてさうさう神經質になるのも何うかと言つてゐるだけで。

平成十七年四月二十九日
昭和天皇の御誕生日。
平成十七年四月二十九日
支那の思想では、生きるのに役立つものが知識である。儒教とか道教とかで考へ方は違ふけれども、まあ全體として支那人は現實主義の傾向があると言はれてゐる。そして、日本人も同じやうな現實主義だらう。一方、プラトンのイデア論だとか、キリスト教だとかでは、事物の本質としての理想と、個別的な現實のものとを區別して考へる。もちろん、西歐人の皆が皆、現實と理想とを普段から嚴密に區別して考へてゐるとは言へないだらう。けれども、連中は、兩者を區別するヘレニズムとヘブライズムの二つの考へ方を、建前としてではあつても、とにかくヨーロッパ精神の根柢に置いてゐる。さう云ふ發想に、日本人は馴れてゐない。そして、馴れる事が出來る環境に日本人は生きてゐない。が、だからと言つて、理解を拒否する態度が正しいものだとは言へないだらう。
平成十七年四月二十九日
「ニフティのパスワードは読み出し可能」@水無月ばけらのえび日記
ニフティの問題以前に、同じパスワードを複數のサイトだかサーヴィスだかで共用してゐたばけらさん自身の態度が問題なのではないかと。全てのサーヴィスなり何なりでパスワードは違つたものにする、と云ふのはセキュリティを確保する上では基本中の基本の態度。ただ、それをやるとパスワードを覺え切れないから、メモなり何なりを取つておく必要がある。それを保護したいと思つたら、また別の對策が必要となる。金庫にしまつて鍵でもかけておくしかないだらうが、さうなるとその鍵の保管に頭を痛めなければならない。實際のところ、完璧なセキュリティはないのであり、パスワードの保護は極めて低い確率ながら偶然によつて破り得る。セキュリティに完全なものはない。だから、或程度、注意する以上のセキュリティ對策は意味がないとすら言ふ事が出來るのであり、そこそこ妥當で、クラッカー等に「やる氣」を起させない程度の事をやつておけば、あとは最う、細かい事は氣にしないやうにして、寢てしまふしかない。あんまり神經質になると夜も眠れない事になる。と言ふか、ISPの管理者ならばパスワードくらゐ讀めて當り前だらうし、さう云ふISPの管理者をユーザは信用するのが當り前。管理者を信用出來ないのなら、サーヴィスなんてものには一切入らないに越した事はない。もちろん、信頼を裏切られる事はあり得るが、「裏切らない」と云ふ事でサーヴィス提供者はサーヴィスを提供してゐるのであり、實際に裏切つて呉れたらその時、ユーザはサーヴィス提供者を非難すれば良いし、被害を蒙つたら賠償を請求すれば良い。神經質になるのも良し惡し。
と言ふか、「覺えられるものにパスワードを變更する」と云ふ發想が信じられない。パスワードは覺えられないやうなランダムな文字列にするのが當り前。
平成十七年四月二十九日
沖ノ鳥島が「岩」であると經濟的に不都合であるから、燈臺を造つたりして「島」と云ふ事にしよう、と云ふのが日本政府の考へ方であるやうだけれども、そもそもの「岩」「島」の定義からして疑つてかかつたら良いのだらうか。
北朝鮮と韓國とは半世紀の間、分斷してゐたから、今更統合を主張するのは非現實的であると言つたら良いのだらうか。

平成十七年四月二十八日
ネギま。來週は神作畫ださうですよ。今週はアレ。実況觀ながらだとあんまり關係ない氣もするが。個人的にはそんなに詰らない感じはしなかつたのだけれども、実況觀に行つたのは結局詰らなかつたからなのかな。
極上生徒会。これは良い黒田。
平成十七年四月二十八日
あにめの脚本が作家志望者に非道い惡影響を與へてゐる件について。

平成十七年四月二十七日
?D 大和但馬屋日記 - 廣辭苑前文方式
それはべつとして... - 廣辭苑前文方式。
昔々、PC TipsのHTML關係の記事をその「方式」に「改訂する」と言つたら反對の大合唱に遭つた事が。HTMLの基本については書直したけれども、飽きて、CSSの方はほつたらかし。ISO-HTML夜話は完全にその「方式」にした。

平成十七年四月二十六日
めも。
清水幾太郎「無思想時代の思想」(『精神の離陸』竹下書店)

かつて方々で話題になった『昭和史』(一九五五年)という本は、暗く充実した昭和年代をいかにも貧しく仕立て上げた書物であるが、その貧しさも、その狙いも、悪玉としての天皇思想と善玉としてのスターリン主義との闘争のドラマとして昭和年代を取扱っているところから来ている。それは、読者に向って、日本の近代化の魂からロシアの近代化の魂に乗り換えることを要求する。事実、この要求に従って一方から他方へ乗り換えた読者もいるであろうが、そういう乗り換えというか、転換というか、それを可能にするような同質性が両者の間にはあるのである。この同質性のために、「左翼天皇制」というような表現が自然に生まれもしたのであり、また、戦前および戦中、スターリン主義から天皇思想への転換――謂わゆる転向1が大量的に行なわれ得たのである。

しかし、宗教的にしろ、世俗的にしろ、こういう個人崇拝と必然的に結びつくような思想のシーズンが終ってしまったというところに、大衆社会時代の特徴の一つがある。悪玉としての天皇思想は敗戦によって骨抜きになり、その後の資本主義の立ち直りのプロセスを通じて、それみずから、大衆社会の一要素になってしまったし、善玉としてのスターリン主義の方も、第一に、その姿を強く浮かび上らせて来た背景としての悪玉の影が薄くなったことによって、第二に、資本主義の立ち直りによって、第三に、ソヴィエト自身におけるスターリン批判――スターリンそのものの悪玉化――によって、第四に、安保闘争におけるスターリン主義者たちの不可解な行動によって、急速に悪玉と同じ運命を辿ることになった。永久的か、半永久的か、その辺は何とも言えないが、少なくとも当分の間、包括的で暴力的な思想体系というものは、それに特別の職業的な利益を持つ人間以外の大衆にとっては、意味も必要もないであろう。それでも未練のある人は、アフリカヘ行ったらよかろう。

とにかく、大衆社会に住む普通の人間にとって、思想というものの機能が新しくなって来ているにもかかわらず、思想を職業とするものの大部分が天皇思想やスターリン主義に似た形式においてしか思想というものを考えることが出来ないでいるのである。以下、若干の気づいた点に触れておくことにしよう。

以下略。
平成十七年四月二十六日
古くから――それも千九百九十八年邊から――野嵜の存在に氣附いてゐる人なら知つてゐる筈なのだが一往。以下、昔語り。
うちのサイトは、今でこそ「正字正かなポータル」なんて名乘つてゐるけれども、當初は別に「正字正かな」のポータル的なサイトを目指してゐた訣ではありませんでした。當時、ウェブの正字正かな關係のサイトと言へば、Yahoo!のディレクトリに登録された「國語問題研究會」とか、青方の中村さんが頑張つてゐた「電腦正統記」とかがめじゃーな時代で、そつちに人が集つてをり、そこでうち邊が撃つて出る必要も無いと、取敢ずの資料保管庫的なサイトとして「言葉 言葉 言葉」は始めました。だから國語・國語問題關係の記事は、情報がごたごたと突込まれたまゝ、特に構成も何もない状態で、as is的な、と言ふか「讀者で何とかして下さい」状態で公開してゐました。基本的には「保管庫」であり、「知つてゐる人が見る」サイトとして「言葉 言葉 言葉」と云ふサイトは作られました。「メディアミックスは可能か」は本來、「言葉 言葉 言葉」と完全に別のサイトで、想定した讀者も異りました。だから一部の小説で表記が新字新かなである訣です。その後、「言葉 言葉 言葉」に下部サイトとして統合しましたが、例へば長篇の場合、途中で表記の切替へをやるのは、小説としての一貫性を失ふので出來ません。全體を書直す餘裕もないし、一度書いたものなので取敢ずそれはそのまゝそつとしておくと云ふ事にしました。批評は一往、最初から「新字だが正かな」で書いてあります。もちろん、さうした表記は妥協であり、原則は正字正かなですが、「一切妥協してはならない」と云ふ原理主義の立場を私は取りませんので、時と場合によつて妥協くらゐして良いと考へます(「妥協」と言ふのが嫌であると云ふ理由で大事な原則を抛棄してしまふよりは、妥協しつゝも飽くまで原則は原則として保持する、と云ふ方が増しであると考へます)。ちなみに、「知性のかけらも感じられない」と酷評されたりする「デカイオー」は、もともと「fankee_jr執筆」の名目でfankee_jrの某サイトで公開し始めたものを、いろいろあつて「メディアミックス」で引取つたもので、アレなのですが、アレはアレとしてとにかく最後までやつつけたもので、それも歴史なのだから仕方がない。今「正字正かな掲示板」と稱する掲示板も、當初は「メディアミックス」の附屬掲示板。
「研究會」も「正統記」もなくなつてしまひました。正字正かな關係のサイトが一時期「うちだけ」みたいな状況になつてしまひました。それで仕方がないからうちが目立つやうな事をやつていろいろアレした訣ですが、その間にサイトの移轉や統合を含む諸事情を經て、現状の「言葉 言葉 言葉」と云ふ「サイト群」が成立しました。詳述しませんが、さう云ふ「歴史」がうちにも一往「ある」と云ふ事です。さう云ふ「歴史」を氣にしないで巧い事やつて行くのは、ちよつと難しい事です。過去の歴史と言ふものは、今の状態を制約します。「言葉 言葉 言葉」と云ふサイトは、さうさう變り得るものではありません。サイトは、人が作るものですが、出來上つたサイトは容易に人の手で直し得るものではありません。ですから最初の設計が重要であるのですが、さうも言つてゐられません。取敢ず、「サイト群」の本體である筈の「言葉 言葉 言葉」そのもののがごたごたした状態であるのは色々拙い。
歴史的な過程と言ふものは重視すべきものです。しかし、同時に、それは重荷ともなります。例へば、「既にリンクを張られてゐる事があり得る」と云ふ事情が發生したりしてゐます。それを考慮すると、サイトの再編をするにしても、「URLは變更しない」と云ふ方針が重要なものになつて來ます。そして、それを守らうとすると、既存のリソースの中で「やりくり」が發生します。既存の記事の手直しと、並べ替へとで、それぞれの記事の性質は變へる事なく、全體としてサイトを仕立て直さなければなりません。けれども、さすがに五年も經つと、以前の文章なり論理なりの粗が判つて來るものですし、また、野嵜自身の立場――文法論に對する見方――も變化してゐるので、既存の記事は、直さうとすれば全部(でないにしても相當の量の)書直しになります。けれども、そんな事をする時間は現在なかなかとれません。それに、適切な再編をするには、全體を見て構成を考へる必要があるのですが、HTMLやCSSと違つて國語・國文法に關しては説明すべき問題や論ずべき事柄が可なり廣範圍に亙つてゐる爲、さうさう簡單に構成を決定する事が出來ません。もともと「資料保管庫」的なサイトであつた「言葉 言葉 言葉」を、説明とか説得とか主張とかのサイトとして再編するのは、時期的にそろそろ「やらなければならない」のですが、なかなか手が附けられません。そんな訣で、今ではそれなりに増えた正字正かな遣ひの方々に、御協力を願はうかと思つてゐるのですが、如何でせうか。結局、最後は野嵜が作業するのですが、作業すべき内容を決定するのに、御智慧を拜借出來れば幸ひです。既に何人かの方に御意見を頂戴してゐて、何うも有難うございます、少しだけ手を入れ始めてゐますが、サイトの再編は容易な事ではありません。
と言ふか、PC Tipsで一度、適當に書いた記事を並べ直して讀めるものに仕立て直す作業をやつてゐて、それがあんまり面倒だつたものだから「言葉 言葉 言葉」の記事は長期に亙つてほつたらかしにしてゐた。適當に思ひ附きやメモを並べる「ウェブ日記」「ブログ」の類は、作るのがとても樂。それで闇黒日記なるメモをだらだら續けてゐるのだけれども、そろそろ「ブログ」の類よりも、きちんと構成され情報が組織化されたウェブサイトの存在意義を強調して良い時期が再び來てゐると思ふ。PC TipsでHTMLとCSSの綜合的な解説を書いたのも、斷片的な批判の背景として「思想としてのHTML」が存在する事を示す爲に必要だと思つてやつた事だ。ただ闇雲に他人樣を罵つてゐただけでは只の揚げ足取りにしか見られない訣で、そこで自分の思想を體系的に述べる作業は必要であると。
と言ふか、本音を言ふと、正字正かな關係は、誰かが何とかしてとりまとめをやつて呉れると、とてもありがたいのだけれども。情報のみならず人的な面でも。

平成十七年四月二十五日
牡丹の花が咲いたよ。
牡丹はやつぱり綺麗な花だよ。
平成十七年四月二十五日
こいこい7。「良い話」なのだけれども、そろそろ記憶關係のこの手の話も「ありがち」である事に視聽者は気附くべきなのではないか。或はあにめの制作者。または漫畫家。いや、氣附いてゐるのだけれども何らかの理由で何時までもなくならないのか。さうだらう。と言ふか、今囘までサイボーグの説明が全然なかつた邊。

平成十七年四月二十四日
ウイルスバスターのとあるパターンファイルでWindowsXP(SP2)の擧動がをかしくなる事は世間で大問題になつてゐるのに、J-COMのデジタル放送でEPG送出裝置に障礙があつてSTBの時刻設定が狂ひ、録畫豫約が出來ない状況が發生してゐた事は全然問題になつてゐない件について。
平成十七年四月二十四日
二十二日に買つた本。@ 東京古書會館。荷田春滿全集第四卷〜第六卷。桑原隲藏『東洋文明史論叢』『東洋史説苑』。ウォーコップ/深瀬基寛譯『ものの考え方』(清水弘文堂書房)。大類伸『概論歴史學』(生活社)。エドムント・フッサール『現象学の理念』。
平成十七年四月二十四日
復刻・YanaKenのDOS/V面白探し
なつかしい。
平成十七年四月二十四日
適宜覚書: TrendMicroの定義ファイル不具合の件
Windows自體がよりセキュアになつて行つたとしても、その上で動いてゐるアプリケーションの作り次第でWindowsのシステムまでもがをかしくなる事はあり得る。アップデータの存在が根本的な問題であると云ふ訣ではない。
ユーザが意圖的に行ふアップデートでも、アプリケーションがをかしくなる程度の事ならば頻繁に起る。MozillaのNightly Buildを毎晩入れてゐるやうな人ならば、さう云ふ事は屡々經驗する筈だ。
http://hpbuilder.net/diary/?date=20050419#p01(_ [Windows]Firefoxのアップデート機能うんけすぎ)
なつかしいところでは、偽春菜なんかでネットワーク更新すると變な事になるとか。偽春菜では、黒衣氏→閑馬氏が「偽春菜經由で何でも出來る」みたいな事を明言してゐて、危險性の存在をユーザに警告してゐた。古くからの偽春菜ユーザなら覺えてゐる事だらう。
ウイルスバスターの場合も大して違ひはないのであつて、特にシステムに深く食込むから、不具合があるとシステムを道連れにし易いだけだ。「アプリケーション經由でWindowsのシステムを弄り放題に弄れる」と云ふのは、Windowsでは一般論に過ぎない。今囘、ウイルスバスターの件が騷ぎになつてゐるのは、「被害の範圍が汎い」と云ふのが最大の理由だ。しかし、實は數年前にも全く同じ事があつた。今囘のは、二囘目だか何囘目だかは知らないが、とにかく「よくある事」であり、驚くべき事ではない。
ノートンの不具合、原因はベリサインの期限切れ証明書 - CNET Japan
昔のニュース。いろいろな要素が組合さるから現在のWindowsではこの手の問題は常に起り得る。
平成十七年四月二十四日
知識探索:JapanKnowledge(小学館系のデジタルコンテンツパブリッシャー)
encyclopaedicnet.com(Wikipediaの記事を利用してゐる)
知のコンシェルジェ ネットで百科(日立システムアンドサービス)
ブリタニカ・ジャパン/Encyclopædia Britannica
Microsoft Reference 製品一覧
事典ドットコム(デジタル・クリエイターズ連絡協議会)

平成十七年四月二十三日
いろいろな方法での御教示どうもありがたうございます。取敢ずバナーは何とかした。
平成十七年四月二十三日
「自分逹は戰爭に卷込まれた被害者だ」と思つてゐる人が「あの戰爭で支那の人々に迷惑をかけて申し譯ありません」等と本氣で謝れる訣がない。
平成十七年四月二十三日
OperaのNotesにCopy to noteで定型文を登録しておくと、虹裏するのにとても便利。
平成十七年四月二十三日
のあ
「王様のロバは俺のロバ、俺のロバは俺のロバ」つてどうかな?
あやの
どうかなつて言はれても……。
平成十七年四月二十三日
フジテレビの番組でのIQ問題。「馬にムシが近附いた。最初の時、馬は何もしなかつた。ではまた近附いた時、馬は何うしたか」と云ふ問題が出た。答は「漢字に直して考へる」――「馬」「又」「虫」で「騷ぐ」。
この答に、囘答者は納得してゐたし、恐らく視聽者も納得しただらうと推測される。しかし、この囘答、唯一にして必然的な論理的歸結であると云ふ訣ではない。實際のところ、論理性は皆無だと言へる。「漢字に直して考へる」と云ふのは、理窟のやうで理窟でないのであつて、單に「それつぽい理由」であるだけに過ぎない。
この種の「さう考へると納得出來る」から「それが眞實」と云ふ説明は、日本では結構罷り通つてゐるやうに思はれる。現在の日本には、結論を出す爲の「それつぽい理由」を使つて或種の結論を出して見せる人が少からずゐるやうに思はれるのだが、それを助長するやうなフジテレビの番組制作の姿勢には疑問を覺える。
例の竹下義朗の「明治天皇は暗殺されてゐたと考へると納得出來る」式の「歴史」はこの誤つた論法の典型だし、「義」の「野嵜は無職だから」式の中傷もその例の一つだが、それだけではない。「誰某の論理を見てゐると」と言ひつゝその「誰某」の具體的な論理には一切觸れず、それつぽい一般論を持出してその「誰某」を「馬鹿」と極附ける論法も、似たやうなものだ。「『さう考へると納得出來る』式の論法はレトリックであつて論理ではない」と云ふ事は、現在の日本に於て、何んなに強調されても強調し過ぎと云ふ事はあるまい。もちろん、その種の論法は、時として愉快に感じられるものだが、結局のところ、快不快のレヴェルのものでしかない。

平成十七年四月二十二日
近日中にJ-COM解約しようかといろいろ檢討中。
取敢ずPanasonicのSTBはをかしい。
平成十七年四月二十二日
何と言ふか、掲示板で俺が書込むとぱつたり投稿がなくなる現象が起るので默つてゐましたが書込んでしまつたので再び投稿が止まる豫感。
五年以上に亙つて確乎とした方針も決まらないまゝだらだらと記事を追加し續けて結局ごたごた資料の域を脱し得てゐない「正字正かなポータル」の再構築を最近考へてゐるのですが、關係者の人には何か案を考へて頂ければと。
平成十七年四月二十二日
STBが惡いのではなく、EPGの配信ミスなのだと。
平成十七年四月二十二日
原千代海氏も亡くなつてゐる。イプセンを飜譯した人。

平成十七年四月二十一日
各地で既報。か何うかは知らないけれども。
不忍ブックストリートの一箱古本市 - YANESEN.org
俺は多分行かない。
平成十七年四月二十一日
今期は駄目レヴェルが高いあにめが多い。嬉しいやうな嬉しくないやうな。
ネギま。微妙な出來だつたけれどもこんなもんだらう。
極上委員会。これは笑へる黒田。
平成十七年四月二十一日
良く解らんがめも。
味千ラーメン JapanSite:チィちゃんコミュニティ:「拉麺伝説 チィちゃん」アニメーション
と言ふか、豫定を順調に遲れてゐるので見てゐる暇が無い。

平成十七年四月二十日
今更の觀もあるが某記事をアップデートするのに資料を探してゐて云々。
吉野家コピペの歴史
平成十七年四月二十日
ところで、丹羽文雄氏が死去したさうである。
平成十七年四月二十日
大村はま氏も死去したさうである。

平成十七年四月十九日
リンク集。
くえん_俳句鑑賞と作句のための道具箱
平成十七年四月十九日
憲法改正の動きがあるやうだが、また全面改正をしようとしてゐるのが氣に掛る。個別の條文レヴェルで修正する、と云ふ發想は無いのだらうか。
ちなみに俺は現行憲法無效論を未だに支持してゐるので云々。

平成十七年四月十八日
神奈川ではまほらばとかぶるこいこい7。駄目あにめだけれども駄目あにめだと思つて觀れば非常に樂しい作品。必殺技は著作權侵害。
平成十七年四月十八日
最近の若い者は活字も知らんのか。
平成十七年四月十八日
ITmediaニュース:AdobeがMacromediaを34億ドルで買収
ITmediaニュース:[WSJ] AdobeとMacromedia合併で、MSの強敵誕生?
PDF+Flash/Shockwave。Microsoftは、プラグインが動作しないやうにInternet Explorerの仕樣を変更すれば勝てる。

平成十七年四月十七日
聲優が入代つた新生ドラえもん。前と比較しなければ結構いけるのではないですか。三石琴乃演ずる野比玉子、前と違つて異樣にキャラが立つてゐて萌える。
平成十七年四月十七日
本放送終了一年を經てダフネを最後まで觀たのだけれども(チャンネルNECO)、實は結構良かつたのではないですか。
平成十七年四月十七日
交響詩篇エウレカセブン。3Mbpsで録つても意外とノイズが目立たないのだけれども。設定良く見たら5Mbpsで録つてゐた。道理で。來週どうしよう。河森がメカデザインだけなら。
パソコンテレビ「GyaO」ANIME/アニメ
※第1話&第2話を限定で、テレビ放映終了後16時間30分後の同日24時(翌日0時)より1週間放送いたします。
平成十七年四月十七日
「反日デモ」が支那で多發してゐるけれども。
それらは戰前の抗日デモの同類のものであると見るべきだらうか。或は、歴史問題とか愛國心とかの觀點からのみ見るべきであらうか。
讀賣新聞の讀書欄で作家の米原万里氏が佐藤優『国家の罠』(新潮社)を評して述べてゐる。

「毒蛇」田中真紀子と「サソリ」鈴木宗男の対決は、両者を駆逐するための(外務省)官僚たちによる天才的権謀術数(なぜか外交には全く生かされていない)の結果なのだが、両者の追放とともに、省内で拮抗していた(1)対米忠誠派、(2)アジア重視派、(3)ロシアその他の地域とのバランス重視派の三潮流の内、(2)(3)が封じられ(1)一辺倒になっていく。イラクへの自衛隊派兵、最近のロシア、中国、韓国、北朝鮮との関係悪化は、その帰結とも読める。

支那や韓國からの支援が期待出來ない現状で親米の態度を否定する事は日本の自殺行爲であり、最早日本はアメリカとの關係を保つて行くしかない。しかし、だからと言つて茲數年、アメリカ寄りの姿勢をとつて來た日本の姿勢を誤とする事は出來ない。かつて「日本は反米の態度を取るべきだ」と主張してゐた「反米保守」の人々は、寧ろ、反日デモを行つてゐる現在の支那の態度を肯定すべきである。かうした反日デモを惹起し兼ねないから日本はアメリカ寄りでなくアジア寄りの態度を取るべきであつた、と言ふのならば、その人はアメリカの力でなく、支那や韓國の力を信頼したに過ぎない。或立場を支持する時、反撥を受けるのは當然である。親米の立場をとれば親米の方向に急進化する事は必然であるし、反支那の立場をとれば反支那の方向に急進化する事が必然である。そして、政治に絶對の「正しい」は存在しない。ただ、或立場である時、その立場に基いた妥當な態度を取るのは、相對的に「正しい」ものである。支那ではなくアメリカと同盟を結んでゐる以上――否、自由主義と云ふ價値觀を戰後、日本が擇んでしまひ、今後もその價値觀を維持して行く積りである以上、その限りに於て、日本が親米的な態度をとつた事は「正しい」。ブッシュ大統領が「獨裁的」で「非民主的」だと非難されるべきであるにしても、アメリカは支那よりもずつと民主的な國だ。アメリカの現在の政策に反對だからと言つて支那を支持する、と言ふのであれば、それは自民黨政權の政策に反對だからと言つて共産黨を支持して見せるのと變らない。支那は共産主義の國である。日本が民主主義の立場を取るのならば、同じ民主主義のアメリカと同盟する方が筋が通つてゐるし、實際に同盟してゐるのであり、同盟してゐるからには連携して行動するのが當り前である。そして、日本の「自衞力」は、アメリカの軍事力に全面的に依存してゐる。「反米保守」の主張は、現實的には實現不可能な理想論でしかなかつた。そして、もし日本の採つた政策が誤であつたとしても、日本の親米政策を現實に阻止出來なかつた「反米保守」にはそれなりの「責任」があると言ふ事は可能である。「あのとき言つたぢやないか」と威張られても困るのである。それに、假に反米の立場を日本が取つてゐたとして、支那や韓國から支持されただけで日本がやつて行けたか何うかは、檢討すべきである。支那との關係は、思想的な一致に基くものでなく、經濟的な利益に基くものである。經濟的な關係があるだけで支那が日本を支持するものであるかと云ふ事は、考へてみる必要がある――と言ふか、考へるまでもない。理によつてでなく利によつて繋がる關係は脆い。
さて、現状、國家によつて「言論の自由」が保證されてゐる言論の場に於いては、暴力的な手段を用ゐる事が許されない。誹謗・中傷・侮辱の類は、警察なり何なりによつて取締り得る。そこには或程度の公正を求める事が出來る。しかし、國家間の意見對立について、我々は國家を越える權力を持たない。だから、國民は國家が容認する限りにおいて、他國への誹謗中傷を行ひ得る。之を抑へるには、軍事力を行使するか、外交努力に據るしかない。そして從來、外交に於いては無能であつた筈の外務省の官僚は、米原氏の指摘にもかかはらず、今まで巧みに對支外交を行つてゐたと言へる。では、その外交努力が消滅した現状、あり得る方策は何か。アメリカは最近、反支那の主張が頻出する状況であるさうである。アメリカは、支那の「反國家分裂法」を非難し、支那が臺灣を「侵掠」する時には武力で以て紛爭に介入する積りでゐる。
「反米保守」の筆頭である小林よしのり氏は、『戦争論』で「戰爭はそれ自體として惡いものではない」と主張した筈である。その小林氏が今、日本と支那との關係惡化を非難し、平和を望むとしたら、それは矛盾である(もつとも、小林氏の『戦争論』は、戰爭を惡と見る觀點に基いた記述が紛れ込んでをり、一貫性を缺いてゐる。その點、自己の主張の矛盾に小林氏は無頓着である、と見るのが妥當であるかも知れないが、いづれにせよ、それでは困る)。
政治の世界は大雜把な世界で、個別の問題に對してその場その場で是々非々の態度を取ると云ふ事が許されない(だから政黨は成立する)。アメリカのやり方に不滿があつても、「全體としてアメリカを支持する」と云ふ大雜把な態度を取る事しか日本には出來ない。アメリカと支那との對立が尖鋭化する事は今後、大いにあり得るが、それを日本が囘避しようとするのは不可能である。一往、親米か親支那か、日本は態度を決めるしかない。日本は小國である。その事實は認めておいた方が良い。どうしても生延びたければ、平和運動でもやつて、支那とアメリカとを何とかするしかないが、共産主義や自由主義のやうな單なる生存の域を越えた價値を主張するイデオロギーを、生存を至上の價値とする平和主義の考へ方が壓倒する事は難しい。

平成十七年四月十六日
十四日の買物。本居宣長全集第五卷。
十五日の買物。福原麟太郎『書齋の無い家』。竹山道雄『憑かれた人々』。きだみのる『東南アジア周遊紀行』。鳥越憲三郎『天皇権の起源』。
平成十七年四月十六日
竹山氏は『憑かれた人々』所收の文章「燒跡の審問官」で、カラマゾフにおける「大審問官」の問題を採上げてゐる。大審問官はイエスに問ふ。「人間は自由を與へられて幸せになつたのか」「人間は權威によつて支配されて初めて幸せになれるのではないか」。
否、現實には、權威によつて人間には自由が與へられて來た。その典型が教會である。しかし、カトリシズム批判として「大審問官」を讀む事は、我々日本人にとつては興味を引くものではない。
とは言へ、キリスト教における問題としてのみならず、自由と權威との關係と云ふ見方をとる事によつて、「大審問官」の問題は我々にとつても切實な問題となつて來る。イエスの自由思想は、近代の自由思想の根柢にあるものである。近代において、教會の權威による信仰を人間は失つた。代りに、進歩の概念が人間に對する信頼を維持せしめ、人間の偉大を人間に信じさせた。その人間に對する信頼が、第一次大戰を經て、搖らぎ始めた。茲にニヒリズムが生じた。しかし、人間に對する信頼を前提とした自由主義は、依然、存在してゐる。現代に於て、自由と權威の問題は、複雜な樣相を呈してゐる。
現代の權威は、イデオロギーと云ふ武器を發見した。イデオロギーは、個人において、信じられても、信じられなくても構はない、ただ輿論において支配的であれば、支配者は自分の思ふがまゝに世の中を動かして行ける。或日のイデオロギーが國粹主義であり皇國史觀であり、次の日のイデオロギーが民主主義であつても、大衆は「それで自由が得られる」と思ひ込めるし、それで大衆は幸福を感じられる。そこで疑問を覺える事は不幸を生ずる。大衆は考へる事を止めるであらう。だが、にもかかはらず、權威によつて與へられた自由を大衆は自ら得た自由だと信じ、それで大衆は幸福でゐられる。パンと自由とを提供するイデオロギーの支配は、一面、ニヒリズムに對する救濟である。しかし、これは本來の自由思想とは根本的に對立するものである。
現代の日本において、イデオロギーを信じない者は大人しい人間である。大人しくない者はイデオロギーを信ずる人間である。だが、いづれにせよ、日本人は「權威によつて與へられた自由」を自ら勝ち取つた自由と信じて、幸せである。かかる日本の社會において、イエスがしたやうに、人間の神性を信頼し、人間に自由を與へようとする事は、途方もない難事である。
しかし――竹山氏は述べる――日本からは近い將來、一切の權威が消滅する、その時ははたして大丈夫かな。竹山氏は結論をぼかしてゐるが。
ニヒリズムは戰前から戰後にかけて、隨分問題になつた筈なのだが、忘れられてしまつた。特に日本においてはさうである――私にはそのやうに思はれる――だが、果してそれで良いのだらうか。ニヒリズムの問題を意識してゐない最近の日本の思想家や文學者の本を、私は好まない。
平成十七年四月十六日
これが私の御主人様。第二話。何と言ふか駄目なのだけれども駄目は駄目なりに觀られるのかもと思へて來た。
平成十七年四月十六日
フタコイオルタナティブ。第二話。ユーフォーテーブルのあにめはこんなものだと思つて觀ると觀られる。

平成十七年四月十四日
ネギま!→極上生徒会の流れは嫌ひぢやない。
平成十七年四月十四日
「デモでの破壞行爲は惡い事だが、支那の人間にさう云ふ事をさせてゐるのは日本が嘗ての歴史を反省しないでゐるからである」と支那の中の人が言つてゐるが、「掲示板荒しは惡い事だが、『義』にさう云ふ事をさせてゐるのは野嵜が偉さうな文章をウェブで公開してゐるからである」と云ふnoz_watcherの理窟に似てゐるところがある。

平成十七年四月十三日
唐木順三編『外国人の見た日本 大正・昭和』を讀み始めてみる。

平成十七年四月十二日
劇団四季 ステージガイド 解ってたまるか!
五月五日から。

平成十七年四月十一日
櫻。
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平成十七年四月十一日
このはなさくや図鑑〜美しい日本の桜〜

平成十七年四月十日
都市シミュレーション学研究会[SimLabo]
平成十七年四月十日
ガンダム:ヤマト=Zガンダム:ヤマト2=ガンダムSEED:ヤマト3

平成十七年四月九日
夜櫻を見て來ましたよ。畫像ナシ。

平成十七年四月八日
これが私の御主人様 @ BS-i。GAINAX相變らず駄目。なんでむかつくキャラ出すかな。
平成十七年四月八日
フタコイ〜オルタナティヴ。何が何だかさつぱり解らんが兔に角凄い勢ひだ。ユーフォーテーブル。SPモードで録畫した俺は勝ち組。勝ち組つて何。
平成十七年四月八日
本日は御釋迦樣の御誕生日ださうですが、嘘か本當かは判りません。4月8日 今日は何の日〜毎日が記念日〜輪廻轉生――同じ事がこの世では延々繰返されるのだと考へるインド人には歴史の感覺がなかつたのだとかで、何年に何が起つたの類の歴史敍述は殆どありません(皆無ではない)。『教養人の東洋史 上』現代教養文庫547
でもつて、茲數日、岩波新書の『日本の仏教』を讀んでゐます。古い本ですけれども、インドのもともとの佛教、支那で變容した佛教、日本に入つて來たあとの佛教を概觀するのには便利。日本で佛教は、現世利益を齎す呪術の一種として扱はれ、政治的な目的で受容れられました。歴史が下つても、さうした傾向は改まりませんでした。江戸時代に成立した檀家制度は、現在も殘つてゐます。もともとのインドの佛教では、佛教の宗教家が葬儀を執行ふ事はありませんでした。御釋迦樣の葬式も、教團内部では行はず、民間の人が行ひました。日本の葬式佛教は、切支丹彈壓の結果としての檀家制度の産物ですが、もともとのインドの佛教とは懸離れたものです。日本の佛教には、慥かに立派な宗教家も出ました。しかし、さう言つた人々の理想は、弟子の代になると見失はれる事が多く、汎く定着する事はありませんでした。個別の宗派に關して見て行けば色々な問題があります。しかし、全體として、「日本の佛教」は、インドの佛教と異るもので、いかにも日本人的に變質した「佛教」であると言ふ事が出來ます。云々。
平成十七年四月八日
ナイトライダーへの道

平成十七年四月七日
こいこい7も極上生徒会(岩崎良明+黒田洋介)も、そんなに惡くないやうな氣がするけれども? 極上のOpとおひさま演出と人物紹介の仕方は、パクりではなく岩崎だから。他にも色々詰合せつぽいとか言はれてゐるけれども、せんせいのお時間もあずまんがと比較されてゐた訣だし。云々。
ネギまは化けたけれども。さやうなら宮崎なぎさ。

平成十七年四月五日
「こんな事もあらうかと」的状況。
平成十七年四月五日
「アクエリオン」非道かつたね。河森+大野木の時點で云々。
平成十七年四月五日
絶叫REVIEW

平成十七年四月四日
まほらばもこいこい7も無視して、光と水のダフネの一擧放送 @ チャンネルNECOを20話まで觀てゐた。かつてメゾ、バーンナップとともに三大駄目あにめと呼ばれた作品だがダフネ、結構面白いよ。
でも今夜は寢る。續きは15日の放映で觀る積り――なのだが、一往、今夜の分も録畫しておくと。あと4:20からダフネ特別篇と言ふか新作あり。なぜ今頃新作?
光と水のダフネ -DAPHNE IN THE BRILLIANT BLUE-
更新とまつてるし公式。

平成十七年四月三日
英國戀物語エマ @ tvk。ぴえろ、隨分叮嚀に作つてゐる。眼鏡。
平成十七年四月三日
http://dac.lolipop.jp/blog/index.html#blog000280
バックドア?日本語入力?
C:\でdir conime.exe /sすると、C:\WINDOWS\system32にconime.exeなるWindowsのシステムファイルがある事が判る。タイムスタンプは他のシステムファイルと同じ。
conime.exeでぐぐると、米MicrosoftのKnowledge Baseの記事が引掛つた。
アプリケーションの追加と削除が操作出来なくなってしまう
平成十七年四月三日
ゲーム原作、マルチメディア展開もののTVアニメIZUMO。個人的な意見だが、この手の話は例外ナシに異世界に飛ばされない前の學園どらまの方が面白さうだつたりする。
平成十七年四月三日
TBSアニメーション「ローゼンメイデン トロイメント」公式HP
「地上波での放映ナシ」「水銀燈復活ナシ」と公式サイトの掲示板でTBS擔當の人は言つてゐるけれども。

平成十七年四月二日
訂正しておきましたよ。毎度どうも。毎度か何うかは本當のところ判りませんが。
平成十七年四月二日
ところで、愚かな野嵜は、人間がなぜ死ぬのか、死んだ人間は何處へ行くのか、人間は死ぬのになぜそれまで生きるのか、そんな事が未だに解つてゐない。頭の良い某氏には、是非、納得の行く説明をしていただきたいものである。
平成十七年四月二日
noz_watcherは、自分が野嵜の事を非難する事で「義」のやうな連中を調子づかせてゐる事に氣が附かないのだらうか? noz_watcherのスタンドプレーの所爲で、一々下らないnoz_watcherの言掛りに應答しなければならず、野嵜が眞面目な文學論も人生論も勞働論も「闇黒日記」に書けないでゐる事を、noz_watcherは判つてゐるのか?
平成十七年四月二日
勞働は神聖だみたいなマルキスト丸出しの發言をする氣は俺にはない。
一つだけ言つておくと、金を稼ぐ事だけが勞働ではない。
平成十七年四月二日
あの世に「ノズラー觀察」スレは持つて行けないのである。云々。
平成十七年四月二日
フランス革命の時、ギロチンに掛けられる直前まで本を讀んでゐた學生がゐたさうである。
平成十七年四月二日
古本趣味が、誰も讀まないマイナーな本を見附け出して來る事以外にあり得ないものであるとは初めて知つた。
俺は、漱石とか鴎外とかのメジャーな本は讀むけれども、ハリーポッターだの何だののベストセラーは讀まないよ。
平成十七年四月二日
野嵜は何でもキリスト教に歸着させる、と云ふのは、根據のない極附けである。ヨーロッパの近代文明が成立するのにはキリスト教が本質的な役割を果してゐた、と云ふ歴史的事實がある。だから、ヨーロッパの近代文明を理解する上ではキリスト教の理解が不可缺であり、ヨーロッパの近代文明を受容れた日本人はキリスト教の理解が必須である、と言つてゐるに過ぎない。或は、ヨーロッパの近代文明の産物に、故意にキリスト教的な要素を見まいとする人に、野嵜は反對してゐるだけである。
平成十七年四月二日
鴎外や漱石は立派な文學であり、エロ本は低俗で文學の名に値しない。が、エロ本と鴎外・漱石とを區別しない人が、なぜかアニメを馬鹿にするのは、野嵜には理解出來ない行爲である。
ちなみに、野嵜は別にアニメを高く評價して等はゐない。「好んで見る」事と、見て「高く評價する」事とは違ふ。
平成十七年四月二日
正字正かなで書けば何でももつともらしい意見に見えるやうになる、と云ふ訣ではない。
平成十七年四月二日
野嵜は、機械的に論理を使へとは言はない。人間を論ずるに際して、人間としての側面を無視して機械論的に論ずるよりも、人間的な側面をも認めた上で論ずる方が、より事實に即してをり、より論理的である、と考へる。
平成十七年四月二日
何うでも良いのだが、誰か野嵜を納得させるやうな文章を讀ませて呉れないか。それも、とても上品で、扱ふ範圍が廣く、しかも、書く程に筆者の思考が深まつて行くと云ふ、理想的な文章を。さう云ふ文章を誰かが毎日公開して呉れたら、俺は引退する。
平成十七年四月二日
http://nozakitakehide.web.fc2.com/diary/20040101.htmlの三十日のところにあるのは「萌え」論と言ふよりも「萌え」否定論だと思ひますが?
二十九日のところで惡質な人はどうして慇懃無禮な態度をとりますか。或は、「忠告する」と云ふ一見「親切」な振りをして人を見下す、と云ふ嫌らしい態度をとりますか。と書いてゐるのだけれども、これはnoz_watcherに對しても良く當嵌る批判だと思ふ。
平成十七年四月二日
少し古めの新書と文庫の在庫を處分したブックセンターいとう殺す。と書いたのを、「ノズラー観察同好会資材係」はいとうに「通報」したらしい。かう言ふのを「言葉尻を捉へる」とか「揚げ足を取る」とか言ふのであり、文脈から考へれば別に不穏な事でも何でもない。「何で少し古めの新書と文庫の在庫を處分したんだよ」と、その程度の事を言つてゐるに過ぎない事は、文章を普通に讀める人間ならば誰でも理解出來る筈だ。
と言ふか、もし「通報」が本當の話なら、通報した「資材係」(=noz_watcher?)も何うかしてゐるが、プロバイダーに削除の要請をしたいとうも何うかしてゐる。いとうは、自社のサーヴィスに不滿がある顧客があると考へるべきであり、自社が脅されてゐると考へるべきではない。當り前の話だ。この程度の書き方は、ウェブの「日記」ならば良くある事だ。
が、依然、記事(を含むHTML文書)は削除されないまゝ。しかし、もし本當にこんなやり方で「同好会」が野嵜のサイトを崩潰させようとしてゐるのであれば、「同好会」の「ブログ」の宣言は大嘘であると云ふ事になる。
平成十七年四月二日
西尾幹二が自分のブログで當てこすりを言つてゐるのに、なぜ野嵜は西尾に直接文句を言ひに行かなければならないのだらう。
平成十七年四月二日
俺は、論爭で相手の價値觀を單純に否定した事はない。價値相對主義とかの類の「價値觀」は、價値觀でなく、價値觀の否定であるから、それをさらに否定しても價値觀を否定した事にはならない。
平成十七年四月二日
「ノズラー観察同好会資材係」は、学生の頃に思想や哲学の本にはまると自分が選ばれた人間の様に感じ、周囲の人間を馬鹿だと見下す時がよくある。その後実社会に出て、今までの自分がいかに世間知らずで視野狭窄だったかを思い知るんだけど、野崎サンの場合学生時代の精神状態のまま年を取ったって印象を受ける。と書いてゐる。資材係は、野嵜が自分が選ばれた人間の様に感じてゐる、と、何の論證も無しに極附けてゐる。かう云ふ極附けをする人間の方こそ、「さう云ふ事をする資格がある」と思ひ上がつてゐるのではないかと思ふが如何。
否、前の文章は一般論であり、後の文章の野嵜の事とは關係がない、と資材係ことnoz_watcherは辯解するかも知れない。が、なぜさう云ふ繋がつてゐない話をnoz_watcherはするのだらうか。
noz_watcherの文章には、「起承轉結」の「結」だけがあつて、それ以外がない事が極めて多い。ただ、力強く言切る事で、noz_watcherの文章には「説得力がある」やうに見えるだけであるし、その「説得力」にnoz_watcher自身が騙されてゐるのである。自己欺瞞が一番惡い。
そして、類は友を呼ぶのであり、noz_watcherのスレにはとにかく言えるのは式の強引な結論の出し方をする人間が集まつてゐる。とにかく言えるのはと言へば、論證拔きで、或は正當な手續きナシで、自分に都合の良い結論を出す事が出來る。
平成十七年四月二日
「無視」は「留保」と言換へれば良いらしい。
平成十七年四月二日
野嵜が「轉向は一切不可」の立場であるのならば、なぜ林健太郎を讀んでゐるのだらう。
平成十七年四月二日
…まぁ野崎サンにまともな反応なんて初手から期待してないから別に構わないんですけどね。
お前に言はれたくないよnoz_watcher。
平成十七年四月二日
なんか「ブログ」と2ちゃんねるとで「同好会」noz_watcherの言つてゐる事、整合性がないな。俺は二元論者だが二枚舌ではない。
平成十七年四月二日
死についての疑問を書いたら、そんなくだらないことに悩んでるから大人になれないんだろうなw、と云ふ豫想した通りの、人を見下した囘答が誰だか知らないがnoz_watcher側の人間から出て來た。
惱まないで「大人にな」つて、それで死ぬ直前まで死ぬ事を考へないで、それでいざ死に直面して、そこではじめてあたふたして、或はそれでも何とも思はないで、死んで――それでその人は人間的に生きた事になるのか? 或は、生きた事になるのか?
もちろん、人は死ぬ事を考へなければ考へないで生きて行けるけれども、では、だからと言つて全ての人間が「考へてはならない」と云ふ事にはならないし、寧ろ、全ての人間が死ぬのだからその人間にとつて普遍的である死について全ての人は考へる理由があるのではないか。「ない」と言切るのは、處世術であるか、或は、それもまた一つの生き方であるが、しかし、それを、死から目を背けてゐる、死から逃避してゐる、として非難する事は可能である。生から目を背けるのが惡いのならば、死から目を背けるのも惡い事だらう。
「人間がなぜ死ぬのか」に「事故」だの何だのと云つた「理由」を擧げるのは、的外れな話である。事故に遭はなければ人は死なないのか。病氣に罹らなければ人は死なないのか。老衰は死に向ふ現象をさう呼んでゐるだけで、死の原因ではない。「人はなぜ死ぬのか」で不十分ならば、「人はなぜ老いるのか」と云ふ質問をしてみよう。「さう云ふ風に出來てゐる」では話にならない。
「死んだ人間は何處へ行くのか」――「火葬場」でも野邊送りでも、インド邊ならガンジス河に流すらしいが、「行く」のは屍體である。「死んだ人間」は「屍體」であると誰が斷言出來よう。死んだ人間は單なる屍體でしかない、と、考へるのは、一つの考へ方であり、親鸞上人もさう考へたらしいが、全ての人が納得する絶對的な眞實ではない。だから、死んだら賀茂川に流せ、とか何とか言つた親鸞上人の弟子が、今でも宗派を作つて葬式を出してゐる。
「人間は死ぬのになぜそれまで生きるのか」――特に死にたくないから。なるほど、しかし、特に生きたい訣でもなかった筈のE.M.シオランなんて人が世の中にはゐたりするのだが。否、「特に死にたくないから」が「ある」のなら、「特に生きたくないから死ぬ」と云ふのが「ない」のはどう云ふ訣か。「ある」ぢやないか、自殺する奴は澤山ゐるぢやないか、と反論があるだらうけれども、しかし、自殺しない人間は一人の例外も無しに「特に死にたくない」と考へてゐるのだらうか。そもそも、「死ぬ」のは一人の例外ナシに「死ぬ」のであるのに、人間は絶望しないでどうして「死にたくない」と思へるのか。
とにかく言えるのはでごまかすのは今囘、「ナシ」にして頂きたい。
平成十七年四月二日
ところで、「義」やら誰やらが、なぜ「野嵜は無職か何うか」を議論したがるのか、その答。連中、「野嵜は無職である」と野嵜に言はせたい、若しくは「野嵜は無職でない」と野嵜に言はせたいのである。
前者ならば、即座に彼等は野嵜を馬鹿に出來る。
後者ならば、彼等は證據として野嵜に勤務先を言へと強要出來るし、それで野嵜が白状しなければ「ヘタレ」なり何なりと罵倒出來るし、白状すれば即座に「通報」である。どうも、連中はこれをやつて野嵜を陷れたいらしき節がある。「同好会」ことnoz_watcherは、「ブログ」での宣言にもかかはらず、野嵜のサイトを潰さうと積極的に動いてゐるやうであり、他の連中の考へも似たやうなものである事は推測出來る。「義」は、野嵜を潰す氣が満々である。
平成十七年四月二日
ついで。野嵜の文章は傲慢か。
良く讀んで貰へば判る筈だと思ふけれども、野嵜は文章の文體を、相手によつて變へてゐる。叮嚀な人には叮嚀に言葉を返してゐるし、さうでない人にはさうでない返し方をする事もある。
野嵜の文章を「傲慢だ」と評してゐる人は、野嵜が賣言葉に買言葉で言返してゐるその言葉尻を捉へて傲慢と極附けてゐる。それは少し不公正な見方ではないかと抗議したい。
平成十七年四月二日
野嵜の物の考へ方に深みがないと言ふ事は出來る。けれども、それでは「大人ならばそんな物の言ひ方はしないものだ」式の言葉に、深みと言ふべき内容は「ある」と言へるのだらうか。さう云ふ處世術は、思想の抛棄ではないか。自分は思想を抛棄しておいて、他人を「お前の言葉には思想的な深みがない」と言つて非難をするのは、それこそ「自分の事は棚に上げ」と云ふ非難を受けるべき行爲ではないか。
平成十七年四月二日
さて、こんな風に「必死だな」とでも言はれ兼ねない書き方をして、それでも野嵜はnoz_watcherや「アンチ野嵜」の人や「義」やを見下してゐると言へるだらうか。そもそも、本當に野嵜が人を見下してゐるのならば、その「人」が野嵜を罵倒したり非難したり見下したりしても、野嵜は餘裕ぶつこいてしれつとしてゐる筈である。さう云ふ態度は、かのアレクセイがとつてゐる態度だが、野嵜にさう云ふ餘裕があるやうに見えるだらうか。もちろん、そんな餘裕が野嵜になければないで、「アンチ」の人々は野嵜を馬鹿にするのであるが、その時點で野嵜を指してnoz_watcherが定義した「ノズラー」なる語は、内容を失つた空疎なレッテルと化してゐるのである。
人を非難するにしても、一貫した非難の仕方をして貰ひたいものである。兔に角叩ける處で叩く式のやり方では、説得力を缺くと云ふものであらう。
平成十七年四月二日
某二次元実況でレスが1300を越えてゐるので、ふしぎ星の☆ふたご姫の録畫を觀た。実況(ただしログ)を見ながらだと何でも樂しく觀られる。ええと、世間的には絶讃の模樣ですが、説明的な科白が多過ぎるのでは?
平成十七年四月二日
http://bewaad.com/20050402.html#p01人権擁護法反対論批判 リジョインダー編(その10)
「人権擁護法」について興味を持つ事それ自體の是非は兔も角として、議論の進め方に關しては參考になると思つたのでリンクを張つておく。
平成十七年四月二日
『哲學入門』(中村雄二郎著)紹介
多分、noz_watcherはこの文章を讀んでゐない。

平成十七年四月一日
AIR總集篇。相變らず何が何だか。最後の最後に特報。
平成十七年四月一日
野嵜は嘘を吐きません。
平成十七年四月一日
舞-HiME御終ひ。殆どの視聽者が豫想した通りの展開。なんか俺的絶讃エンドになつても良かつた氣がして來たところなのでアレだけれどもまあこれはこれで良いのではないのですか。
平成十七年四月一日
TVアニメーションにしても小説にしてもさうなのだけれども、「一つの作品」となるには一貫した構成がなければならない。その一貫性は、一つの個性によつて保證されてゐる。TVアニメーションの場合、脚本家がゐて、原畫・動畫の擔當者がゐて(以下略)、と云ふ風にいろいろの人が關はつてゐるけれども、それを纏める監督がゐる。けれども、その監督が作品を纏め切れず、作畫が崩潰したり、ストーリーで風呂敷を擴げ過ぎて疊めなくなつたりすると、失敗作となる。小説の場合も、一人の作者が、一定の筋道を作つて、ストーリーを構成し、登場人物を動かして、それが巧く行けば成功作となるし、巧く行かなければ失敗作となる。が、いづれにしても、一つの筋道を附ける事、全體を纏める事が重要になつて來る。
これは、ウェブサイトの場合も同じであると。サイトの個別の記事のレヴェルでもさうだし、記事を纏めた全體としてのサイトでもさうであると。一つのサイトがサイトであるには、一つの個性による保證がなければならないと。
その保證が、「誰でも書込める」掲示板やWikiや「ブログ」では存在しない。例へば、虹裏でも、流れはあるし、全體の氛圍氣も存在するし、時として一つの大きな流れが出來て「祭」が出現する事もあるが、不人氣桃太郎とかアージュ最高とかぴるすとかの糞コテハンや、場の雰圍氣を讀めない厨が一人でも入り込んで好き放題の事をすれば、直ぐに荒れる事となる。「ブログ」にしても掲示板にしても、「管理人」が「××がテーマ」と宣言したり、或テーマについて書いてコメントを求めたりする事は出來るが、そんなものを無視した宣傳の書込み、スパム的な投稿は、一向になくならないし、わざと場の雰圍氣を惡くする爲だけの荒し目的の書込みもあり得る。それは、何んなに注意して「管理人」が文章を書いたりテーマを設定したりしても、無くなる事はない。さうなると、「管理人」の個性に裏打ちされた一貫したサイトとして、掲示板や「ブログ」が成立する事は不可能である。スパムにしても荒しにしても、「一貫したサイトを構成する」と云ふ制作者の觀點から見れば、全てノイズである。もちろん、玉石混淆の投稿の中に、ノイズであり「石」のレヴェルである投稿に混じつて、有益な「玉」に屬する投稿もあり得る。閲覽者の觀點で「閲覽者はさう云ふ『玉』の情報を見附け出す必要がある」と言ふ事は可能である。しかし、制作者の觀點から言へば、「制作者は自分のサイトにおいて、『石』のレヴェルの情報を排除して『玉』のレヴェルの情報を集めるやうにする必要がある」。
ただ、此處までは、事實の觀察の話に過ぎない。
平成十七年四月一日
http://d.hatena.ne.jp/noz_watcher/20050330
あ ん た に 言 わ れ た く な い わ い !
こんな一言で斬つて捨てた氣になるのがnoz_watcherである。なぜ野嵜に言はれたくないのか、理由を根據を擧げて説明しない。noza_watcherには、ちやんと起承轉結の「起」と「承」と「轉」とを書いて、それを論理的に「結」に繋げるまともな文章を書いて貰ひたい。
平成十七年四月一日
http://d.hatena.ne.jp/noz_watcher/20050331
引用なら出典は正確に。
で、一体何が言いたいの?
「フジサンケイグループの藝能路線と『正論』路線とは巧く整合がとれてゐない」と云ふ野嵜の結論は、明示しなくても判ると思ふが?
それにしても、ちゃんと起承転結の「結」を書きましょうや。とは良くも言つたものだ。noz_watcherは、自分こそ、ちやんと起承轉結の「起」と「承」と「轉」とを書き玉へ。今のまゝでは、人の振り見て我が振り直さないnoz_watcherと云ふ非難が良く當嵌る。もちろん、こんな事を言はれても、無責任なnoz_watcherは、「自分がまいた種は自分で刈り取る」氣がないだらうから、反省も改善もしないだらう。言ひつ放しなら何とでも言へる。
平成十七年四月一日
http://d.hatena.ne.jp/noz_watcher/20050401
「野嵜はプライドが高いから通報しない」と云ふ事を、noz_watcherは論證してゐない。ええと、コピペ荒しとか、人の名前をどこそこで騙つてゐるとかで刑事告訴出來ますか。面倒と云ふのが一番大きな理由なのだが、なぜかnoz_watcherにはさう云ふ理由を考へ附く事が出來ないらしい――あーかう云ふ書き方が「人を見下したやうな文體である」とnoz_watcherは言ふのでせうかねえ。noz_watcherのやうな2ちゃんねらー丸出しの文章を書く厨は、見下されて當然だと思ひますがねえ。noz_watcherは、自分が見下されてゐるやうな氣がして悔しいから一々野嵜に絡むのでせうか? と言ふか、なぜnoz_watcherは「義」の野嵜との關係に執拗に注目し續けるのですか? なぜ正字正かな關係の野嵜の發言とかを無視するのですか? なぜ「闇黒日記」とか「おまけ」とかの野嵜の文章にだけ、noz_watcherは注目するのですか?
豫言しておくと、noz_watcherがまともに野嵜の質問に答へる事はない。もちろんこの豫言は、當つても當らなくても野嵜は構はない。
平成十七年四月一日
ところで、てか、早くしろ。と云ふ命令ですが、これはノズラー観察同好会のスタンスである当会は、ノズラー諸氏を観察し、彼らを反面教師とすることで自らを糺すことを目的としており、と云ふ規定に矛盾してゐますね。
と言ふか、noz_watcherは、野嵜の發言を嘲笑ふだけで、noz_watcher自らを糺すことが決してありません。noz_watcherの「ブログ」、各エントリではその中で一往、論理が完結してゐると見る事は出來ます。が、そのエントリ同士の整合性は全然ありません。noz_watcherの言ふ事は矛盾だらけです。
さつきの件についても、noz_watcherは、あ ん た に 言 わ れ た く な い わ い !とか言つてゐますけれども、野嵜に苦情を言ふ前に、それを反面教師として、自らを糺すのが筋ではないですか。noz_watcherのやつてゐる事は、宣言と違つて、單に自分を棚に上げて野嵜の惡口を言ひ、野嵜のサイトの崩潰や野嵜の破滅を望む事であるのではないですか。いやいや、noz_watcherが野嵜を反面教師として、自らの態度を正すのを見てみたいのです。今の2ちゃんねらー丸出しで見るからに厨のnoz_watcherが、野嵜を反面教師にしてどれだけまともな事を言つて呉れるのか、期待してゐるのです。云々。閑話休題。
平成十七年四月一日
noz_watcherのやつてゐる事は結局、「義」と同じで、野嵜の思想の根幹を無視して、ただ「闇黒日記」の個別の發言に一々反應して見せるだけの事でしかない。「義」にしてもnoz_watcherにしても、一々詰らない嫌がらせをして、野嵜を困らせたり怒らせたりして喜んでゐる點では變らない。
noz_watcherには、「野嵜の書く文章は全てゴミ」と云ふ結論が最初にある。その結論が「正しい」と云ふのはnoz_watcherの信念である。根據があつて結論があるのではなく、はじめに結論ありきだから、noz_watcherの結論は信念である。野嵜が何を言つても「ゴミ」であると極附けなければならないとnoz_watcherは信じてゐる。
その極附けをもつともらしく見せかける爲に、noz_watcherは常に、野嵜の意圖なり動機なりを、noz_watcherに都合の良いやうに歪め、都合の良くなるやうにでつち上げる。その動機や意圖の歪曲やでつち上げは、それ自體として、「義」のやつてゐる事と同じである。「義」は、全てを「野嵜は無職」で説明する。それに對し、noz_watcherは「野嵜の書く文章は全てゴミ」で説明する。「義」のやつてゐるのが露骨な人格攻撃であり憲法の禁ずる身分や門地による差別であるのと違つて、noz_watcherのは論法が自家撞着であり、はじめに結論ありきで他人の理窟を歪曲してゐるのが違ふに過ぎない。が、他人の理窟を歪曲する事がそれ自體として人格否定である事を、noz_watcherには解つてゐない。
平成十七年四月一日
或は、noz_watcherがしてゐるのは、野嵜の言つてゐる理窟の吟味でなく、野嵜の發言と野嵜の行動とが一致してゐるかゐないかの吟味である。これは、「義」が、野嵜の發言と野嵜の「無職」とが「一致してゐない」と言ふのと同じで、理窟でなく、野嵜の人格を否定する行爲である。
平成十七年四月一日
と言ふか、「義」やらnoz_watcherやらの相手をしてゐると、「闇黒日記」がどんどん詰らなくなるので困る。noz_watcherは「闇黒日記」を崩壊させるのが望みでないらしいが、本當にさう思つてゐるのなら、一々「闇黒日記」の野嵜の文章に言ひがかりをつけないで頂きたい。
noz_watcherの敬愛する2ちゃんねらーの一人がnoz_watcherの事を評して、つーか相手する価値ないだろと述べてゐる。noz_watcherはこの2ちゃんねらーの指摘を、「ゴミ」だと考へるだらうか。野嵜はこの一2ちゃんねらー氏の指摘を「玉」の部類に屬するものと考へる。好い加減、noz_watcherは相手にしないやうにしようと思ふ。
あと、多分別の人だと思ふけれども、誤字の御指摘、何うも有難うございます。訂正しておきました。
平成十七年四月一日
と言ふか、そもそもnoz_watcherはなぜ野嵜に粘着しなければならないのだらうか。他の誰かでなく野嵜だけをnoz_watcherが狙ひ撃ちにしなければならない必然的な理由を知りたい。noz_watcherは、そんなに野嵜の事が氣に入らないのだらうか。noz_watcherは、何がそんなに氣に入らないのだらうか。
野嵜が偉さうなのが氣に入らないと言つても、野嵜よりももつと偉さうな書き手はウェブに幾らでもゐる筈である。野嵜が馬鹿であると言つても、野嵜よりももつと馬鹿な書き手はウェブに幾らでもゐる筈である。なのに、なぜnoz_watcherは野嵜を觀察したいと思つたのだらうか。なぜ他の誰かでなく野嵜なのだらうか。noz_watcherは野嵜の何に捉へられたのだらうか。

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2005年3月
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