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皇太子親肇作憲法十七条なる日本書紀の記述から派生して、谷沢氏が述べてゐる事。pp.82-83
現在、当今の世をはばかって、明治憲法、という仮称で呼ばれているもの、正しくは、大日本帝国憲法、であるのだが、この憲法もまた、憲法としてのあるべき形態と機能とを十全にそなえていた。この憲法が、公に厳粛な儀式をもって発布されたことは周知である。国民の各層に向けての浸透もまた申し分なかった。さらに重要なことは、明治にあっては理論的反体制の大立者、中江兆民が、憲法を一瞥して、ふふ、と苦笑し、ぽいと投げすてたと伝えられ、そのエピソードに多くの人が、拍手喝采したという一幕があったことである。その報道を聞きつけた官憲が、中江邸に踏みこんだという話を聞かない。大日本帝国憲法は、すくなくともその当初においては、理念と志向における反対派をも、懐に抱いてゆく姿勢を示したのである。
それに比較して日本国憲法は、反対派を絶対に許容しない硬直した制圧のもとに出発した。マッカーサーがかつてフィリッピンに下し与えた憲法の、その草案にひとはけ加えたのが、日本国憲法である。GHQの高官が、英語で書かれたこの文書を、我が国のかたちばかりの委員たちに交付し、ただちに諾否を決せよと迫ったあと、しばらくベランダに出て、太陽光線の恵みを受けよう、と言ったと伝えられる。原子爆弾の効果を忘れるなという脅迫であろう。憲法草案をめぐって、議会では若干の応酬はあったけれども、日本国憲法は、反対派を許さない雰囲気のなかで成立した。宮沢俊義が一夜にして新憲法肯定にまわった処世はよく知られる。
我が国民の政治意識の伝統には、憲法あるいはそれに類するものを、改訂したり廃棄したりの記憶がない。それでは、新しい法への転換に際して、いかなる方式をとったのか。その手段は決まっている。つまり、棚上げ、である。ほとんどの政治的処置は何かの棚上げであった。
伊藤仁斎が『大学』を、これはニセモノだ、と記したような方向で、バイブルに表向きケチをつけた人があるとは聞いたことがない。D・H・ロレンスの『アポカリプス』(邦訳昭和9年)は、のち、伊藤整および福田恆存のすぐれた評論を派生したけれど、ロレンスにしても、ヨハネ黙示録から演繹(おしひろめて考える)したのであって、これをバイブルから除いてしまえと言ったのではない。いずれにせよ、宗教の聖典にかんしては、触るな、という声がどこからか聞えてくる。
聖徳伝説検討史批判史が要約されて書かれてゐるし、「二十二の章」に谷沢氏の推測を含めた結論が書かれてゐるから、其處だけ讀めば良い。
そこでね、何千年前のプラトンの言ったことを、一所懸命ギリシア語を勉強して、理解したつもりでもわかっているのかどうかわからないということもありますね。例えばクーラーのある部屋にいて、水割りを飲んで考えるというようなこととは、まあギリシアのお酒も水で割ったそうだけれど、違うわけです。そういう具体的なところが非常に違ってしまっている時に、抽象的なことだけでわかり合ったつもりになっているというふうなことは、果してほんとうのことかどうかという疑いは残るわけです。むしろこんにゃく問答みたいなことなのかも知れない。ただ、こんにゃく問答にしても、コミュニケーションが成立すれば、お互いに非常に満足して……。そういう意味で、プラトンを読んでみて、たまたまそれに啓発されればそれでいいじゃないかっていう考えになりますと、それはそれでいいんですけれど。ただ普遍性というのはそういう時には、何といいますか、相互誤解かも知れないような普遍性になってしまいますね。
……
それでこの間の相対主義――私も相対主義なんですけれども――先ほどカトリックという言葉がでましたが、少なくとも中世のカトリックの信者や学者のかなりの人は、そういう相対主義を知らなかったと思うんですよ。全部が全部そうではないと思いますけれど、かなりの多くの人は、ほんとうの意味の普遍性をもっていると思っていた。つまり時代を超えて適当にフレキシブルに変わって、いろいろな角度から普遍性があるというようなものじゃなくてね、非常に厳密な、明確な普遍性があると思っていたんじゃないでしょうかね。
……
ええ、ですから普遍論争が起きたのはつまり相対主義が芽生え出した頃……、ですから中世といっても時によるんですけれど、いわば絶対的な普遍性に対する信仰は、正しかったかどうかは別として、在った時代があるんじゃないか。ですから現代でもそういう人がいないとは言えないと思う。そういう絶対的な普遍概念と、今日ここでお話の出ている相対的な普遍概念というものを考えてみた場合、絶対的な普遍概念というのは非常にむずかしいんで、われわれには理解できないけれども、普遍という言葉に忠実であろうとすれば、そっちの方ではないかと思うんですけれどね。
今こうやって相対主義なんてことを言っているけれど、相対主義であるためにはどこかで論理を使うんで、ある絶対主義でなければならないという、非常にパラドキシカル(逆説的)な言い方をしなければ、この今の状況は叙述できないわけです。
これは半分は質問で半分は議論になりますが、例えば相対性理論によると時間とか空間が絶対的でないとか、因果関係がひっくり返るとか、そういう話をちらっと聞くと、私はそれが何のことかわからぬうちに死んだらくやしいですね。例えば物質というのは、はじめは分割してみるとまるい球みたいなものが集まっていると聞いたんですが、そうじゃなくて、プサイ(ψ)とかいうものがあってというようなことを言われた場合に、それが何のことかわからなければもう死ぬに死ねない。要するに救済知って言うかそっちヘドライブがかかるんですがね。そういうことないでしょうか人間には。ソクラテスは若い頃自然学を少しやって、これでは人生の問題は片づかないと称して哲学に向かったということを言うけれど、実は弟子のプラトンは結局また同じところに返ってきたわけです。救済知というものは実はそういう意味で科学的な知識の追求ということと相当密接な係わりがあるように思うんです。
ええ、それはそうだと思いますが、人生の問題をやるときに、私が言いたいのはそういう天上のこと数学的なことを知らなくてはならないというのは、自然改造のための手段じゃなくて、知らなければ死ぬに死ねないというふうなことじゃないか――だいたい救済って言いましても具体的に考えてみますと例えば恋愛とか、借金とかいろんなことがあるでしょう。借金を返すことも大事なことですけれど、借金に比べて、時間、空間に関することが人生にとって浅いことだとは私は決して思わない。もちろんいろんな人があるんでしょうけれど、科学というものの中にはそういう救済知というものと非常に通った面があるように思うんですけれど。
ただね、西洋原産のものの中で、科学と哲学とキリスト教を考えますと、科学は一応かなりすんなり入っているんじゃないでしょうか。もちろん西洋人の考える科学と、山内先生の科学とは少し違うかも知れない。哲学はちょっとむずかしいところで、さっき永井先生の言われたことに賛成なんですが、私は西洋哲学じゃなくて哲学をやっているんだから西洋人が理解でき得なかったらそれでもいいということあるんです。けれど、まあ西洋原産の人参もってきて、自分で栽培をしてやってみたという感じ。ですがキリスト教というのはこれは絶対に日本には入らないと思うんです。断定的に言いますけれど。まあ信徒二〇〇万、ひいき目に勘定しても二〇〇万。絶対数も少ない。クリスチャン自身が言っていますね、いま日本で割合に代が続いているのはかえってプロテスタントで、カトリックは二代かせいぜい三代です。プロテスタントは四代目が生まれる位です。彼等自身が非常に奇妙な位置にあると自認しているわけです。つまりクリスチャンとしては絶対に本物じゃない。しかし日本人でもない。要するにあれは売国奴みたいなものになっちゃっている。(笑)そういうことがまた、彼等にとっては非常に魅力でその中にいたい。それは認めますけれど日本的クリスチャンというのはほんとうのクリスチャンじゃないんですね。それに比べると日本の物理学というのはちゃんと国際性があるし、哲学がちょうど中間になっているようなところがあるんじゃないですか。
……パスワードは管理者にもわからないのが普通だと思うんだけどなぁ.
かつて方々で話題になった『昭和史』(一九五五年)という本は、暗く充実した昭和年代をいかにも貧しく仕立て上げた書物であるが、その貧しさも、その狙いも、悪玉としての天皇思想と善玉としてのスターリン主義との闘争のドラマとして昭和年代を取扱っているところから来ている。それは、読者に向って、日本の近代化の魂からロシアの近代化の魂に乗り換えることを要求する。事実、この要求に従って一方から他方へ乗り換えた読者もいるであろうが、そういう乗り換えというか、転換というか、それを可能にするような同質性が両者の間にはあるのである。この同質性のために、「左翼天皇制」というような表現が自然に生まれもしたのであり、また、戦前および戦中、スターリン主義から天皇思想への転換――謂わゆる転向1が大量的に行なわれ得たのである。
しかし、宗教的にしろ、世俗的にしろ、こういう個人崇拝と必然的に結びつくような思想のシーズンが終ってしまったというところに、大衆社会時代の特徴の一つがある。悪玉としての天皇思想は敗戦によって骨抜きになり、その後の資本主義の立ち直りのプロセスを通じて、それみずから、大衆社会の一要素になってしまったし、善玉としてのスターリン主義の方も、第一に、その姿を強く浮かび上らせて来た背景としての悪玉の影が薄くなったことによって、第二に、資本主義の立ち直りによって、第三に、ソヴィエト自身におけるスターリン批判――スターリンそのものの悪玉化――によって、第四に、安保闘争におけるスターリン主義者たちの不可解な行動によって、急速に悪玉と同じ運命を辿ることになった。永久的か、半永久的か、その辺は何とも言えないが、少なくとも当分の間、包括的で暴力的な思想体系というものは、それに特別の職業的な利益を持つ人間以外の大衆にとっては、意味も必要もないであろう。それでも未練のある人は、アフリカヘ行ったらよかろう。
とにかく、大衆社会に住む普通の人間にとって、思想というものの機能が新しくなって来ているにもかかわらず、思想を職業とするものの大部分が天皇思想やスターリン主義に似た形式においてしか思想というものを考えることが出来ないでいるのである。以下、若干の気づいた点に触れておくことにしよう。
_ [Windows]Firefoxのアップデート機能うんけすぎ)
※第1話&第2話を限定で、テレビ放映終了後16時間30分後の同日24時(翌日0時)より1週間放送いたします。
「毒蛇」田中真紀子と「サソリ」鈴木宗男の対決は、両者を駆逐するための(外務省)官僚たちによる天才的権謀術数(なぜか外交には全く生かされていない)の結果なのだが、両者の追放とともに、省内で拮抗していた(1)対米忠誠派、(2)アジア重視派、(3)ロシアその他の地域とのバランス重視派の三潮流の内、(2)(3)が封じられ(1)一辺倒になっていく。イラクへの自衛隊派兵、最近のロシア、中国、韓国、北朝鮮との関係悪化は、その帰結とも読める。
その時ははたして大丈夫かな。竹山氏は結論をぼかしてゐるが。
バックドア?日本語入力?
惡質な人はどうして慇懃無禮な態度をとりますか。或は、「忠告する」と云ふ一見「親切」な振りをして人を見下す、と云ふ嫌らしい態度をとりますか。と書いてゐるのだけれども、これはnoz_watcherに對しても良く當嵌る批判だと思ふ。
少し古めの新書と文庫の在庫を處分したブックセンターいとう殺す。と書いたのを、「ノズラー観察同好会資材係」はいとうに「通報」したらしい。かう言ふのを「言葉尻を捉へる」とか「揚げ足を取る」とか言ふのであり、文脈から考へれば別に不穏な事でも何でもない。「何で少し古めの新書と文庫の在庫を處分したんだよ」と、その程度の事を言つてゐるに過ぎない事は、文章を普通に讀める人間ならば誰でも理解出來る筈だ。
プロバイダーに削除の要請をしたいとうも何うかしてゐる。いとうは、自社のサーヴィスに不滿がある顧客があると考へるべきであり、自社が脅されてゐると考へるべきではない。當り前の話だ。この程度の書き方は、ウェブの「日記」ならば良くある事だ。
学生の頃に思想や哲学の本にはまると自分が選ばれた人間の様に感じ、周囲の人間を馬鹿だと見下す時がよくある。その後実社会に出て、今までの自分がいかに世間知らずで視野狭窄だったかを思い知るんだけど、野崎サンの場合学生時代の精神状態のまま年を取ったって印象を受ける。と書いてゐる。資材係は、野嵜が
自分が選ばれた人間の様に感じてゐる、と、何の論證も無しに極附けてゐる。かう云ふ極附けをする人間の方こそ、「さう云ふ事をする資格がある」と思ひ上がつてゐるのではないかと思ふが如何。
とにかく言えるのは式の強引な結論の出し方をする人間が集まつてゐる。
とにかく言えるのはと言へば、論證拔きで、或は正當な手續きナシで、自分に都合の良い結論を出す事が出來る。
…まぁ野崎サンにまともな反応なんて初手から期待してないから別に構わないんですけどね。
そんなくだらないことに悩んでるから大人になれないんだろうなw、と云ふ豫想した通りの、人を見下した囘答が誰だか知らないがnoz_watcher側の人間から出て來た。
とにかく言えるのはでごまかすのは今囘、「ナシ」にして頂きたい。
人権擁護法反対論批判 リジョインダー編(その10)
あ ん た に 言 わ れ た く な い わ い !
で、一体何が言いたいの?
ちゃんと起承転結の「結」を書きましょうや。とは良くも言つたものだ。noz_watcherは、自分こそ、ちやんと起承轉結の「起」と「承」と「轉」とを書き玉へ。今のまゝでは、人の振り見て我が振り直さないnoz_watcherと云ふ非難が良く當嵌る。もちろん、こんな事を言はれても、無責任なnoz_watcherは、「自分がまいた種は自分で刈り取る」氣がないだらうから、反省も改善もしないだらう。言ひつ放しなら何とでも言へる。
てか、早くしろ。と云ふ命令ですが、これは
ノズラー観察同好会のスタンスである
当会は、ノズラー諸氏を観察し、彼らを反面教師とすることで自らを糺すことを目的としており、と云ふ規定に矛盾してゐますね。
自らを糺すことが決してありません。noz_watcherの「ブログ」、各エントリではその中で一往、論理が完結してゐると見る事は出來ます。が、そのエントリ同士の整合性は全然ありません。noz_watcherの言ふ事は矛盾だらけです。
あ ん た に 言 わ れ た く な い わ い !とか言つてゐますけれども、野嵜に苦情を言ふ前に、それを
反面教師として、
自らを糺すのが筋ではないですか。noz_watcherのやつてゐる事は、宣言と違つて、單に自分を棚に上げて野嵜の惡口を言ひ、野嵜のサイトの崩潰や野嵜の破滅を望む事であるのではないですか。いやいや、noz_watcherが野嵜を反面教師として、自らの態度を正すのを見てみたいのです。今の2ちゃんねらー丸出しで見るからに厨のnoz_watcherが、野嵜を反面教師にしてどれだけまともな事を言つて呉れるのか、期待してゐるのです。云々。閑話休題。
崩壊させるのが望みでないらしいが、本當にさう思つてゐるのなら、一々「闇黒日記」の野嵜の文章に言ひがかりをつけないで頂きたい。
つーか相手する価値ないだろと述べてゐる。noz_watcherはこの2ちゃんねらーの指摘を、「ゴミ」だと考へるだらうか。野嵜はこの一2ちゃんねらー氏の指摘を「玉」の部類に屬するものと考へる。好い加減、noz_watcherは相手にしないやうにしようと思ふ。