自分の欠点を省みずに他人を笑うこと。とある。それで、noz_watcherの文章を讀んでみると、野嵜が
自分の欠点を省みてゐない事の論證もなければ
他人を笑つてゐるとの論證もない。野嵜は
量ではなく質の觀點から言ふならば、ウェブは掲示板や「ブログ」のやうな複數の人間で生成されるコンテンツの所爲で「ノイズ」だらけになつてゐる。と書いてゐる。また、noz_watcherは故意に
そして、署名がナンセンスである以上、掲示板とか「ブログ」のコメント欄とかの發言は、全て例外ナシにナンセンスであると言へるのでないか。雙方向性はウェブの特質である、と云ふのは一般論だが、その雙方向性があるからこそ、ウェブは腐つたのだ、と言つて良いと思ふ。と云ふ今の議論の前提となる重要な文章を拔かして引用し、それを無視して論じてゐる。
まー、2ちゃんねるのような掲示板や、ブログなど複数の人の生成されるコンテンツに「ノイズ」が多いのは事実。ただね、だからと言って個人が運営してるコンテンツが「ノイズ」が少なくて良いとは限らないんだヨ。とnoz_watcherは述べる。が、野嵜は、
個人が運営してるコンテンツが「ノイズ」が少なくて良い等と言つてゐないし、もし「さう言つてゐる」とnoz_watcherが思つてゐるとしたら、それまでのnoz_watcherの
テメーに都合の良い時は持ち上げといて、都合が悪くなると「ネットは匿名だからダメ」とホザき始める厚顔無恥ぶりは、かのナントカ宣言の某馬鹿漫画家と同じ。と云つた指摘と矛盾する。となると、「さう言つてゐない」と判つてゐながらnoz_watcherは
限らないんだヨ等と言つてゐる事になる。今度はこつちで矛盾してゐる訣である。
2ちゃんねるは、何処を掘ってもゴミしかない「×黒日記」よりはよほど有益である。とnoz_watcherは述べてゐて、この「×黒日記」と云ふ伏字はナンセンスであり、「闇黒日記」の事を指してゐるのは明白だが、noz_watcherは「闇黒日記」の讀者を纏めて馬鹿にしてゐるのである。それはさうだらう。
ゴミしかない日記を毎日讀む人間は馬鹿である筈だし、
ゴミしかない日記の文章を引用して論じてみたり、擧句、
ゴミしかない日記の文章を突ついて論爭したり――そんな事をしてゐる「闇黒日記」の讀者は、noz_watcherには馬鹿にしか見えない筈である。「『闇黒日記』の
ゴミを掘つてゐる『闇黒日記』の讀者を、noz_watcherは一括りにして貶めてゐる。一方、noz_watcher自身は2ちゃんねらーである。そして、その2ちゃんねらーが
よほど有益であると稱してゐるのは、「2ちゃんねる」と云ふ掲示板ではなく、實は、そこで活動してゐる自分自身の發言である。noz_watcherは、「有益な物」が埋つてゐる「2ちゃんねる」の住人である事を誇つてゐる。もちろん、論理的に、「或2ちゃんねるの記事は有益である事がある」からと言つて、「2ちゃんねらーのnoz_watcherは有益な事を言つてゐる」と云ふ事にはならない。だが、noz_watcherには、さう云ふ理窟が判らない。別にnoz_watcherが2ちゃんねらーだからと言つて、noz_watcherの發言が全て有益である訣でもないし、或發言が有益である事もあり得ると云ふ事の證明にもならない。noz_watcherの言ふ通り、
まー大事なのは、何が「玉」で何が「石」かをしっかりと見極める能力を養う事。これが出来ない人は2ちゃんねるを見ない方が良い。noz_watcherの發言が「玉」であるか「石」であるかも、第三者は「しっかり見極める」必要がある。そして、その第三者のした「見極め」を、noz_watcherは勝手に否定しない事だ。noz_watcherが「闇黒日記」の中から「ゴミ」許りを拾はうとするのを、野嵜は別に止めようと思はない。が、既に「闇黒日記」の文章を引用したり言及したりしてゐる人がゐる現状、さう云ふ人を一概に貶めるやうな迂闊な眞似をnoz_watcherはしない方がよろしい。しても構はないが、それは敵を増やすだけの事であらう。敵を増やしても正しい事を言はねばならないと思つてゐるのならば、noz_watcherは野嵜と同じ考へである。さて、noz_watcherの「ブログ」が
何処を掘ってもゴミしかないものにならない事を一往願つておくが、現在までのところ、noz_watcherの發言は全部「石」の部類に屬する。と言ふか、noz_watcherは石頭なのではないか。取敢ずnoz_watcherは、野嵜の發言を、恰も矛盾してゐるかのやうに見せかける爲に歪曲したりする惡癖は直した方が良い。と言ふか、最初から「全てゴミ」と云ふ結論ありきで「闇黒日記」を讀むのなら、もつとnoz_watcherにとつて爲になるサイトを見た方が、色々な意味で良いだらう。或は、
基本的にノズラー諸氏の個人サイトへの荒らし攻撃を推奨いたしません、
彼らを反面教師とすることで自らを糺すことを目的とする、と云ふnoz_watcherの宣言と、
だったら自分のサイトの掲示板、さっさと閉鎖しなさいな。と云ふnoz_watcherの直接的な「忠告」との整合性がない事を、noz_watcherは自覺した方が良いと思ふ。云々。
方々の掲示板に「野○健秀」の名を騙り荒らし行為を行う「義」(野○サンは荒らし行為者を「義」と総称してるようなんで、それに従っておく)を当会はきっぱりと否定します。と、言葉だけは潔癖を裝つてゐるけれども、noz_watcherが「義」やアレクセイを實質的に支援した事があるのは事實。noz_watcherの行爲がnoz_watcherの言葉を裏切つてゐる。
個人的に、一旦公開した文書を、閲覽者に斷りなく(或は、斷りを入れても)ばつさりと削除してしまふのは「マナー違反」だと思ふ。せめて、何らかの形でコンテンツを殘すやうにしてほしい。これが大原則。だから、一旦公開した掲示板と云ふコンテンツを俺は削除しないでゐる。何も問題はない。
当会は、ノズラー諸氏を観察し、彼らを反面教師とすることで自らを糺すことを目的としており、彼らのサイトの崩壊や彼らの破滅を望むものではありません。と「同好会」は言つてゐて、一言も「正當な批判をする」等とは言つてゐない。野嵜は自分の論理で他人の文章を解釋しました。訂正します。「同好会」には期待しない事にする。ところで、野嵜の事を指して
名誉ノズラー等とレッテルを貼るのは如何なものかと思ふので、改善して貰ひたい。
野○さんの弁によると、野○サンはネットの世界には「反野○同盟」みてぇなモンがあると思いこんでる節があるけど、野○サンを批判してる連中(私も含めて)が裏で手を握ってるとは必ずしも限らない。
裏で手を握って等ゐない」とは書いてゐない。だから、これはレトリックなのだが、それに「同好会」は氣附かない。「一部のアンチは手を握つてゐる」と云ふ事を、「同好会」は否定してゐない。この時點で、「同好会」が
野嵜を「掲示板荒し」に仕立てようとする勢力がありますと云ふ野嵜の指摘を否定出來てゐない事は明かである。
野○サンの「理論」を分かり易く書くとこうなる。以下の「三段論法」は、「同好会」の想像した「三段論法」であり、野嵜の主張と一致しない。或は、言ふまでもなく、私はそんな事は思つてゐない。
松原正氏に悪意を持っている人たちが必ずしも仲が良いとは限らないし(実際に西部邁氏と西尾幹二氏は犬猿の仲)、同じ「松原正の読者」だからと言って、必ずしも野○サンに好意を持ってるとは限らない。
あと、このブログで個人名を表記するのはマズいと思いましたので、一部伏せ字にしておきました。とあるが、http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/aboutnoz.htmlにリンクを張つてゐるのだから、個人名は特定出來るのであり、それで伏字にしたところで意味はない。個人を特定出來る形で誹謗中傷を行つた場合、犯罪となる。それに、伏字なんて使つて及び腰になつて貰つては困る。「同好会」には、是非ともまともな批判をやつて貰ひたい。それでこそ、「アンチ野嵜」の代表としての「同好会」である。あと、個人でやつてゐるのならば、「会」等と名乗らない方がよろしい。もし本當に「会」であるとしたら、その時點でhttp://d.hatena.ne.jp/noz_watcher/20050327の「同好会」の主張は崩潰する。大體、一人でやつてゐるのに「同好会」の看板を掲げるのは、「看板に佯りあり」だ。それに、「同好会」が、「アンチ野嵜」は互ひに「手を握りあつてゐないばらばらの存在」であると主張したいのなら、「同好会」なる組織があるかのやうな看板を掲げて活動するのは、好ましくない事だらう。私は「同好会」の爲を思つて、忠告してゐるのです。いや、
ノズラー諸氏を観察し、彼らを反面教師とすることで自らを糺すことを目的とした人々が集まる
ノズラー観察スレッドがあり、そこを率ゐる「noz_watcher」なる人間がゐて「ノズラー観察同好会」を名乘つてゐると言ふのだから、詭辯を弄して野嵜の主張を否定してゐるにもかかはらず、野嵜の言ふ「勢力」は「ある」のである。
野○を「掲示板荒し」に仕立てようとする勢力がありますを
「反野○同盟」みてぇなモンがあると「同好会」は言換へるが、これは妥當な言換へでない。「勢力」と「同盟」とは、別の物だ。日本社会党と日本共産党とは、同じ「左翼勢力」だつたが、「同盟」ではなかつた。「同好会」は、自分に都合の良い結論が出るやう、野嵜の文章を言換へてゐる。そして、この「同好会」自身に據る勝手な言換への上に「同好会」の論理は成立してゐるのである。だが、言換へそのものが間違つてゐるのだから、「同好会」の論理は全て崩潰してゐる。
平成15年5月1日 旧仮名遣ひの邊。
綺麗にド・モルガンの対をなしている、と云ふ處の式は、野嵜の指摘を無視した「ハンバーグ」の例の式でしかない。だから無意味である。
仮定より,AはBの主張の是非を気にしない。よってBに賛同することも反論することもない。と述べてゐる。此處までは、野嵜の考へと同じである。
無表情で,あるいは困惑したような笑みを浮かべて,ただBの傍らを通り過ぎる。その行動に自己矛盾はない。と述べてゐる。野嵜は、
もし「人は何が正しいかを考へるべきである」と考へる BにAが反對の意見を表明したら、その時點以前にAは「人は何が正しいかを考へるべきである」と云ふBの意見が「正しいか正しくないか」を、A自身の信條に反して、考へてゐなければならない。これは矛盾である。と書いた。平野氏の「矛盾はない」と、野嵜の「矛盾である」とは、別の事象を指して言つてゐる。平野氏は、野嵜の言つてゐる事を、全く否定してゐない。單に、野嵜の言つてゐない事を採上げて、「矛盾ではない」と述べてゐるだけである。單に、
ド・モルガンの対の方を、平野氏は指摘してゐるに過ぎない。
しかし、「人は正しいと云ふ事に拘るべきでない」と考へる人は、「人は何が正しいかを考へるべきである」と考へる人に反對出來ない。もし反對すれば、その瞬間に「正しい事に拘つた」事になつてしまひ、矛盾してしまふからである。
「べきでない」という禁止の表現が,一定の規範体系を前提としているため,命題「正しさに拘るべきでない」は必然的に自己矛盾に陥る。と書き、恰も野嵜が間違つた事を言つてゐるかのやうに
規範の枠組み自体を拒否する主張は,むしろ「拘らなくてもよい」と認容の表現をとらなければならない。と指摘した事が、レトリックであり、論理的に正しくない。。
命題「正しさに拘るべきでない」は
自己矛盾に陥つてゐる、と言つてゐる。そもそもの「立脚点」は、
「人は正しいと云ふ事に拘るべきでない」と考へる人に存在しない、と指摘してゐる。
レトリックの問題としてと言つて論じてゐるので、話にすり替へがあつたりしても、平野氏の論としては問題がない。
Aの「拘り」は規範の拘束力によるものではなく,自由選択の結果にすぎない(*)。と云ふ處にある。平野氏は、
野嵜さんはこの点につき,と述べてゐる。この「立脚点をあらしめる爲の操作」は、誤である。一方を撰擇した時點で,或種の規範が既にあるものと看做し得ると述べる。だが,これを認めてしまうとそもそも「正しさに拘るべき」という主張が立脚点を失うことになる。誰もが合規範的に行動しているのであれば,ことさらに「拘れ」と命じる意味はない。当該主張は自由選択の可能性を含意していると解さなければならない。
- TVK
- 4月4日〜26:15 毎週月曜日放送
- テレビ神奈川
- 4月10日〜25:30 毎週日曜日放送
無表情で,あるいは困惑したような笑みを浮かべて,ただBの傍らを通り過ぎる。=「反對出來ない」。恐ろしく簡單な話だ。機械として通り過ぎるしかしないのならば、自然、反對しない訣であるが、それは人間として反對出來ないのである。
最近「中二病」という言葉をよく聞くが、こういうキャッチーな概念を使っていろいろな対象を分析するのはほとんど自動的にできてとても便利ではあるのだが、その分とても安易なのではないかという疑問もつきまとう。
概念は定義されていなければ論理的な分析は不可能だが、たとえばデカルトの「コギト」にせよ、カントの「超越論的」にせよ、その概念内容の定義は、論考に先立って与えられているというよりもむしろ論考とともに示されているといったほうがより相応しい。
プロレスでプライドをしている違和感というか。
最後に、バードウォッチャーが巣箱を突くのはウォッチャーのマナーに反する行為なんで、私のカキコはこれで本当に最後にします。と「ノズラー観察同好会資材係」 @ 59.222.100.220.dy.bbexcite.jpが譬喩で物を言つてゐる。この發言について、
たしかに感覚的な譬喩を濫用することで「判った気」になるのは危険かもしれません。しかし譬喩そのものに拒否反応を示している(ように見える)のは、行きすぎなのではないでしょうか。と評價するのは、妥當でないと考へる。バードウォッチャーと「観察同好会」とは何の關係もない。關係があるとしても、單にパラレルの關係にあるだけで、因果關係にはない。ならば、バードウォッチャーが何う斯うしても、「観察同好会」がそれに倣ふべき必然的理由はない。となると、この「譬喩」は、單なる洒落である訣だ。或は聯想ゲーム。で、これがその場の洒落なり何なりならまだ良いのだが、「観察同好会」を名乘るこの人物は、全てを聯想ゲームで考へてゐる――と言ふより、考へる、と云ふ事をしてゐない。「観察同好会」は、ただ好き嫌ひで、人を評價してゐる。自分が嫌ひであると云ふだけの理由で誰かを駄目であると評價し、それで十分、自分は論理的だと思ひ込んでゐる。そして、その嫌ひな相手を見下して、自分一人で好い氣になつてゐる。實際、「チミ」云々と言つてゐるのだから、「観察同好会」は自己陶醉に陷つてゐるのである。が、これは困つた事だと思ふ。
そしてこうした「譬喩に対するかたくなさ」が、すべてを整然と秩序立てていたいという欲望にドライブされており、そこが正かなへのこだわりやCSS原理主義的と共通しているのが面白く、ついつい「それって中二病っぽいよね」とひとくくりにしてしまいました。と鈴木氏は書いてゐる。ここで先づ疑問に思つたのだが、なんで「ドライブされており」なんて書かなければならないのだらうか。「衝き動かされてをり」といつた程度の事なのだらうけれども、さう書けば良いのではないか。しかし、それならばそれでまた疑問が殘る。「かたくなさ」が「ドライブされる」と云ふ言ひ方は、「あり」なのだらうか。「かたくな」ならば動いてゐないぢやん。
It was Schopenhauer who first said that all arts aspire to the condition of music; that remarks has often been repeated, and has been the cause of a good deal of misunderstanding, but it does express an important truth. Schopenhauer was thinking of the abstract qualities of music; in music, and almost in music alone, it is possible for the artist to appeal to his audience directly, without the intervention of a medium of communication in common use for other purposes. The architect must express himself in buildings which have some utilitarian purpose. The poet must use words which are bandied about in the daily give-and take of conversation. The painter usually expresses himself by the representation of the visible world. Only the composer of music is perfectly free to create a work of art of his own consciousness, and with no other aim than to please. But all artists have this same intention, the desire to please; and art is most simply and most usually defined as an attempt to create pleasing forms. Such forms satisfy our sense of beauty and the sense of beauty is satisfied when we are able to appreciate a unity or harmony of formal relations among our sense-perceptions.
だからこそ作者はこれを精緻な文章で小説にし、平凡な女の口を通して、もっとも嚴肅で決定的な言葉を吐かしめたのだ、とボオドレエルは批評してゐる。ボードレールは、『ボヴァリー夫人』とは異る氛圍氣の『聖アントワーヌの誘惑』も論じてをり、兩者に
皮肉と抒情の行動の能力が共通して表はれてゐると書いてゐる。皮肉は即ち批評であり、抒情はポエジーであるから近代詩の特質であるし、同時に近代小説の特徴でもある。これらの點で、ボードレールもフローベールも、通ずるところがある。抒情の面では、ボードレールの
神に救いをもとめると共に、惡魔の聲にも耳を傾け、上昇する精神と下降する肉體の相克に苦しみ、惱むという宗教的葛藤を、フローベールは、自分では持たなかつたが、理解する事は出來た。フローベールは『惡の華』の理解者であつた。二人は、
『藝術のための藝術』の一派に屬するが、これは政治思想や道徳觀が優位を占めている藝術への反動として言われたのにすぎず、決して人生を超越し、象牙の塔にとじこもって創作に耽る態度をさすのではない。既に、ボードレールの「近代美」やフローベールのリアリズムの手法は、一般化して、古臭くなつてしまつてゐる。しかし、二人の近代精神に基いた批評とポエジーに關する能力は、現代の小説家や詩人も、意識して身に附けておかなければならない。
少なくともオレには無邪気にしか感じられない。なんて書いてしまふ感性的な人なのだから「セカイ系」と呼んで良いのでないかとか適當。「セカイ系」つて「感性的」つて事ですよね?
たかだか語り手自身の了見を「世界」という誇大な言葉で表したがる傾向がある作品を「セカイ系」と呼ぶらしい。なんか自分の中二の頃の事を語つてゐるらしいので、鈴木氏のブログは「セカイ系」なのだらう。まあ、自意識は過剰だが、自己の立場は全然認識出來てゐないと云ふ點、「セカイ系」の概念に當嵌るのか何うかは知らんが、取敢ず「中二病」のやうな曖昧なレッテルを貼る人物には「セカイ系」邊の適當なレッテルを貼つておいて良いだらう。
Wiki病 - 新種の病気)
Wiki病という新種の病?)
YAMDAS更新、もしくはWiki病なんてクソ食らえ)
「Wiki病 - 新種の病気」反応リンク集)
「芥川を語つても太宰を語つても、つまりはぼくがぼく自身を語ることにしかならないといふ事實に、いまのぼくは批評の生理を誇らしげに吹聴する氣にはけつしてなれぬのである。それは批評家の勝利ではなくて敗北なのだ。にもかゝはらず、批評文學の自律性だけは、なにものにかへても確保しなければならぬ。」(「太宰治」1、「現代作家」新潮社、昭和二十四年)初期の批評は、あくまで批評の自律性を純粹に守りぬこうとしたように見えた。石川淳、坂口安吾などの、いわゆる「戯作派」の作家に對する傾倒も、彼らの裡に笑劇(ファルス)を見出し、それを逆手にとつたふてぶてしい精神を認めるからであつて、後年の福田恆存が喜劇あるいはパロディを本領とする秘密がある。彼の批評は逆説にみちたもので、進歩主義者はしばしぱ論理的な自己矛盾を指摘するが、じつは論理に密着している福田恆存の表情に氣がつくとき、批評も「演戯」の一種であることに氣がつくだろう。批評の世界を離れて演出、戯曲の世界に移つた理由は、批評の自律性がじつは批評家のエゴティシズムにほかならないと悟つて、それよりははつきりした手ごたえのある「演戯」を演出によつて手がけ、戯曲によつて舞臺に現前せしめることにほかならない。いつてみれば自己に執着することの空しさを感じたのではないかと思われる。
聚珍録謎の組み違ひ)
そういう体制を考えたときにネックになるのは、Firefox本体のバージョンアップで拡張が動かなくなってしまうことがあまりに多いという問題だ。ぶっちゃけ、API変えすぎ。
松原正の批判文とよみ比べて、上記の文章をご自身の判断力で検討し、考察していただきたい。新聞の小品なので舌足らずは否めないが、私は言うべきことをきちんと言ったつもりであるし、今でも基本的にこの文明観に変更の必要を認めない。
文明観に話を摩り替へてゐる。松原氏は、
何ともはやふやけた文章である。と書き、西尾の文章が惡い事を先づ指摘してゐる。この批判を西尾は無視してゐる。
神話・文学・芸道・文献・寺社仏閣は古代以来を保存する。住宅・街・衣食生活・思想観念はどんどん新しく取り替える。そこに日本の強さがあったと私は信じている。と書いてゐる。「信じてゐる」のだから西尾は非論理的な信念を根據に物を言つてゐるに過ぎない。松原氏は、
成程、「昨非今是」の無原則は我々の宿痾だが、それが宿痾である事だけは承知してゐなければならぬ。無原則とは「原則が無く、成行き次第で變る」事だが、成行き次第でころころ變る無節操は斷じて美徳ではない。と書いてゐる。これは正當な理窟である。惡口でも何でもない。理窟に「俺はかう思ふんだよ」と西尾は返してゐる。西尾の返答は、反論ではない。
開國直後、所謂「大正デモクラシー」の時代、そして敗戰直後、「外國崇拝のいやらしい形態」が存在した事は事實だが、いくら「無節操」な御先祖樣も「普遍文化」ばかりは取込めなかつた。と指摘してゐる。これは、松原氏の指摘の方が正しい。西尾は、
秀吉の時代にはそういう良好な結果にはならなかったが、古代日本人が仏教や律令をとり入れたときに、中国文字を介するという屈辱などはおそらく感じたはずはない。と述べてゐる。西尾は
漢字漢文は当時の国際公用語であった。中国崇拝に光だけを見た。それで危険はなかった。と書いてゐる。これは、日本人が
無差別主義である事の證明である。しかし、これは、日本人が
確実に普遍文化を取り込んだ事の證明にはならない。西尾は、何うでも良い事の證明はしてゐるが、肝腎の事の證明はしてゐない。これは誤魔化である。
私は処女作『ヨーロッパの個人主義』以来、必ずしもヨーロッパ主義者ではない。と宣言してゐる。
日本では神話がきちんと全部残っているが、ゲルマン神話は残っていない。いまゲルマン神話とよばれるものは、アイスランドに残存した類似の神話から類推して復元したものである。
日本には平安時代に中国から輸入された多数の古書が保存されている。中国では大半が消滅してしまった。江戸時代に保存された古書に基づく儒教の経書のテキストクリティークの花が開いて、清朝の学者達を愕然とさせたこともある。と書いてゐる。慥かに、「ヨーロッパ主義者」なるものではないのだらう。が、ならば、西尾は「日本主義者」である。
「福田さんは暗渠で西洋に通じてゐるでせう」と、まるで不義密通を質すかのやうな調子で決め附けられたことがある。のだが、その三島の國粹主義こそ
暗渠で日本に通じてゐるものであると批判してゐる。西尾は、福田氏よりも三島の方に近い。
新聞の小品なので舌足らずは否めないが、私は言うべきことをきちんと言ったつもりであるし、今でも基本的にこの文明観に変更の必要を認めない。と述べてゐる。西尾は、正しい正しくないが「ある」と考へてゐる。そして、自分の主張は正しいと思つてゐる。が、それならば、西尾の曖昧な立場は、西尾の正邪をきちんと分かたねばならないとする考へと矛盾する。さう云ふ矛盾を反省しないのは、惡い事である。
指摘するなら、コメント欄だって用意してあるのに、自分のBlogに書いて挙げ句の果てにあの表現ですか。
また、コメント欄や掲示板があると訳の分からん悪意のある人間に一方的に絡まれるかも。反論、罵倒、削除等々の反応をすれば「因縁」になってしまう。同じ土俵(日記どうし、トラックバックもなし)なら無視すれば良いだけ。反応する義務なんてないのだから因縁にはならない。
- (無題) 投稿者: 一読者 投稿日: 3月18日(金)22時16分29秒 nttkyo034174.tkyo.nt.adsl.ppp.infoweb.ne.jp
義珍氏へ
野崎氏は無謬です。このサイトで許されているのは野崎氏を賛美することだけだ。あなたは野崎氏と議論をしようとしている。それが最も根本的な間違いです。
このサイトで許されているのは野崎氏を賛美することだけだ。と云ふのは根據のない「一読者」の極附けで、俺は論理的に正當な批判なら受容れる。論理的に正しいのならば、論理的に反論出來ないから、受容れざるを得ない。そんな事は當り前の話だ。なぜ「一読者」にはそんな簡單な事が理解出來ないのだらう。否、「一読者」は、人を惡人に仕立て上げて、ウェブから葬り去りたいのである。西尾幹二が松原氏の事を根據ナシに
松原正は自分が唯一の弟子だと錯覚したのかもしれない。しかし彼は福田先生の文章の癖の強い悪い面だけを猿真似したエピゴーネンにすぎない。
松原正は福田恆存の人生の最後に姿を現した「恥部」の一つであった。エピゴーネンに醜悪はもっとも具体的かつ絵画的に、本人の代役となって立ち現れるものである。
福田論を書くときには松原正の存在を欠かすことはできない。勿論「恥部」として彼が福田氏において果していた生理機能上の役割とその陰画としての存在をである。と書いて、誹謗してゐる。
この程度のデータなら、何もテーブルを使わなくたって、定義リスト を使ってシンプルに書いてしまうことができます。云々。俺も大體、さう云ふ發想だが、表の代替としての定義リスト、或は、定義リストを表の代りに使ふみたいな言ひ方をするから話が拗れるんだと思ふ。「單にデータを羅列するだけならリスト」とか云ふ話にしておけば、うるさ方の突込みを招かなかつたのではないか。
単に CSS を適用してみたときの見映えが同等になっているだけで、前者は表で後者は定義リストでしかないと思うんだが。此處の「見映え」は「見た目」ですよね。野嵜も昔さう書いてゐたけれども。
映画においては「映像と音」の使用法において現象する、そういう、映画における「言語」を一般に「映画言語」と呼ぶとすれば、文学における「言語」は「文学言語」なのです。と渡邊さんは書いてをられますが、その
使用法は「文字言語」に據る文學作品の文字の
使用法と同一なのであり、その點で同一の理論に據る批評が可能である、と私は指摘してゐます。そして、私が音樂のコードを持出さなかつたのは、それが文學作品における文字言語の
使用法とは異る原理に據るものだからです。また、渡邊さんは今、極めて抽象的に「映畫」「文學」を考へてをられますが、實際の映畫にしても文學にしても、同一の理論でストーリーが構想されてゐることは明かです。伏線を張るとか、辻褄を合せるとか、さう云ふレヴェルで映畫もドラマも小説も戲曲も、同じやうにしてストーリーは作られてゐます。その點で、同一の基準による批評は可能です。しかし、音樂において、例へば伏線となる音程「ド」が、終盤のクライマックスで效いて來て、鑑賞者が知的に納得する、等と云ふ事はあり得ません。しかし、一方で、旋律の繰返しが與へる效果と云ふものがあり、これは科白の繰返しが與へる效果と似たやうな見方で捉へる事が可能です(ワイルド「サロメ」)。渡邊さんは、さうした「同じ批評が可能な部分」を故意に無視し、ジャンルによつて異る「素材」「文法」に固執してをられます。ところが、さうやつてジャンルの次元における差異を強調しながら、渡邊さんは「藝術」と云ふレヴェルで「同じである」と主張されます。此處がどうも私には理解出來ない。しかし、どうも今、渡邊さんは、渡邊さんの術語としての「言語的」と云ふ語の意味で、野嵜の文章を誤解してゐるやうな氣配がある。
私はこれまで普通の意味で「言葉」で構成されるような「物語」という用語を使ってきましたが、野嵜さんの言う「言語」は、一般には「記号」という呼ばれ方をする場合が多い拡張的な概念であるとしか思えないので、ここではそれに対応するかたちで「ストーリー」という言葉を使用します)。と書いてをられますが、野嵜が記號論なり記號學の立場を取つてゐない事を渡邊さんは忘れてをられます。(敢て言ふならば、構造主義――と言ふより、實證主義そのものに反撥したフッサール的な現象學的な立場、と、野嵜の立場を規定して頂いても、それが便宜として好都合であり、理解に役立つならば、して頂いて結構です。が、私は昨日、田村書店で拾つて來た木田元『現象学』の冒頭を少しだけ讀んで、それで適當に言つてゐるので、餘り當てにはなりません。但し、福田恆存『反近代の思想』でも、「反近代の思想」と云ふ體系的な思想は存在しない、と福田氏(?)は明確に述べてゐます)
そして「映画言語」における「文法」は、ワン・シーン・ワン・ショットとか、クローズ・アップとか、同時録音とか、基本的にカメラと録音をめぐる技法によって決定されます。と渡邊氏は、自分の用語を説明してをられます。しかし、渡邊さんの言はれる「文法」としての技法は、作品の部分部分において效果を擧げる爲のものであつて、作品全體を統一的に構成するものではない、と言ふ事が出來ませう。そして、渡邊さんは、
これらは「文学言語」における「隠喩」や「描写」などに相当するでしょう。と書いてをられます。が、私はこのレヴェルの個別のテクニックには關心を持つてゐません。もちろん、文章による藝術にしても、映像を利用する藝術にしても、かうしたテクニックに關して全く考慮しない批評は不當である、とは言へます。しかし、私は、實踐で示してゐる通り、さうした渡邊さんの所謂「文法」についても觸れて構はない、が、それだけでは不十分である、寧ろ、そのレヴェルの事は「誰にでも判る」事實であり、文學としての批評ではその事實に基いた價値判斷が必要である、と述べてゐる訣です。映畫の撮影で、カメラのテクニックを驅使するのは表現の手段です。手段について云々するのは、單なる事實の確認です。もちろん、その時點で誤があつては大變です。が、だからと言つて、其處から先に進まないのは、もつと問題です。批評の主體は、事實を確認した上で、價値判斷し、改めて對象を再構成して提示しなければならない。渡邊さんの主張では、終點が事實の確認にある訣です。が、さうなると、價値判斷が先に來る危險性がある。私は、價値判斷が終點である、と申してゐます。が、この場合、事實の確認が先にこなければならない。重要なのは、事實の確認の時點で既に價値判斷が入り込んでゐない事である、と私は考へます。價値判斷拔きで事實を確認したら、それに基づいて價値判斷をしてよろしい。野嵜の主張は、さう云ふ主張です。
しかし現象として感覚的な部分がまったく違っています。と渡邊さんの言はれる通りです。が、それを「實感」を排すべきだ、と主張する渡邊さんが言ふのは如何なものか。
もちろん理論には理論の面白さというものもあるのですが、しかし理論偏重はやはりおかしいと思います。と云ふ渡邊さんの御指摘に、私は全く反對してゐません。しかし、だからと言つて、讀んだら讀みつぱなし、では困るのではないですか。「世界を經驗する」のは結構ですが、その經驗が何らかの意味で血肉化されないやうでは、經驗する意味がない。經驗が目的となつては困るのでして、それが實際の生き方なり人生なりに繋がつて來なければならない。別に、漱石のそれからを讀んで「働かない」と云ふ生き方を撰擇する、とか云つた直接的な生き方の決定をしろと言つてゐる訣ではありません。ただ、「面白かつたなー」で終つては困る、と云ふ事です。
印象的であった。なる記述があつて、變だと思つた。
追記。サブタイトルの「〜だよ!」の元ネタはドリフ?
それらの記号は、それぞれの作品において、それぞれ固有の構造を有するように配列され、それが人間の知覚に何らかの刺激を与え、その刺激が意味に変換され認識される。優れた芸術作品は、その作品を受容する人間の知覚に何らかの変容をもたらし、認識を拡張させる役割を有していると考えます。
もちろん、実証的な研究において、歴史的に確定できる作者の残した足跡は、参照項として読解に意味を持つのは認めますが、しかしにもかかわらず作品の意味は作者に由来しない、というのは重要な認識であると思います。そしてそれは「作者」のみならず、作品の意味は「人間性」とか「精神」とか「社会」といったものから由来するのではなく、作品そのものを構成する物質的条件としての「記号」の構造性から読者の読解を通じてそれらの観念に結びつけられ認識されるわけであって、逆ではない、と主張したいわけです。
歴史的に確定できる作者の残した足跡を
参照項として文章の讀解に持込むのは、「逆照射」であり、讀解の方法として正しくありません。そして、「記号」の「構造性」と云ふ「パターン」から、作品を解釋するのは、やはり解釋であつて、讀解ではない、それも「逆照射」である、と私は考へます。飽くまで文章は文章に書かれた事のみを持つて判斷されるべきである、と私は考へます。作者の經歴にしても、「記号」とか「構造」とかにしても、さう云ふ物は全て文章の外部に存在するものです。文章を、文章の外部のものを利用して解釋する方法は、全て、例外ナシに、文章を讀解する方法ではありません。「記号」とか「構造」とか、「記号論」や「構造主義」と云つた方法論に基いた特殊な概念に基いた解釋は、全て私には疑はしい物に見えます。私は、「文章に書かれてゐる事」を基に文章は讀解されるべきである、と考へます。そして、それならば、日本の一般的な批評家がやつてゐないだけで、昔から西歐の優れた批評家ならばやつてゐる事です。江藤淳の漱石論は、「嫂」の存在を常に作品の解釋に持込む、と云ふ、文章の外部のものを利用した文章の解釋の典型例ですが、大岡昇平が批判してゐます。この時、大岡氏は「記号論」も「構造主義」も意識してゐませんが、妥當な批判となつてゐます。大岡氏は、作品論は「作品に書かれてゐる記述」を基にすべきである、と考へて、江藤氏の漱石論を非難してゐます。それで十分であると私は考へます。何も「記号論」とか「構造主義」とかを言ふ事はありません。實際のところ、さう云ふ「論」とか「主義」とかになると、作品の外部の、論者の主義・主張が、作品論に入り込むのです。或は、本來論じられるべき論點が、「記号論」や「構造主義」の「論」や「主義」として表明された或種の價値觀によつて排除される。ところが、「唯物論」と渡邊さんが言つてをられますが、「記号論」や「構造主義」の論者は、日本では、自分が恰も客觀的な立場で物を言つてゐるかのやうな錯覺に陷る。それが困るのです。作品論が、一つの「論」として成立するには、一貫した原理が必要です。その原理が、或種の主觀主義に陷る事を「記号論」「構造主義」は拒否するのですが、それが單なる「價値相對主義」に行つてしまつたら困るのです。この邊の逆説的な現象を、客觀主義的な人々は、どうも意識されてゐないやうです。「記号論」「構造主義」は、西歐に於ては既に逆説に關する耐性を持つ人が多いので問題は少いのですが、さうではない日本では問題が多いやうに思はれます。マルクス主義では「科學的社會主義」を主張し、「空想的社會主義」を排斥しながら、理論によつて現實を歪める妄想的な史的唯物論が常態化しました。科學とか客觀とかを宣言し、主觀の存在を排斥して見せても、屡々、排除された筈の主觀が判斷に入り込んで來るのです。其處に人間の意識の逆説があるのですが、逆説の存在を意識してゐない社會――近代化が遲れた社會――に顯著な現象です。日本は、近代を輸入した後進國です。現在、意識されるレヴェルの世界に屬する事物は近代化された、と言ふ事は出來ます。が、無意識の領域まで日本人は近代化されたとは――これは必ずしも言切れないと私は思ひます。日本では、最初に厄介な逆説の理解が必要である、と私は考へます。主觀の逆説的な復讐を意識し、主觀を手懷けた上で、客觀の實現をはかる、と言ふのであれば、私は贊成ですが、結論として「客觀」「唯物論」のアジテーションに飛び附く、と云ふ事であれば、私は「危險過ぎる」として贊成しません。
05/03/12(土)00:55:41 No.23024228 01:50頃消えます[返信]
文字は決して發音をそのまま寫すものでなく、意味を寫すものである。
その觀點に立てば、舊カナづかひは決して習得に困難なものでない。
逆に表音主義は國語の音韻體系を根本から破壞するだらう。
狂信的なカナモジ、ローマ字論者が國語審議會を獨占して、國語を取り返しのつかぬ混亂におとし入れつつある。
君たち程の人間なら私の考へも分かつてくれるだらう。
さあ、正しい國語で今日の一日を振り返つて見なさい。
……。
固よりキリスト教本來の精神的立場から進んで、キリスト教會がその歴史的發展の過程に於て、ローマ帝國の世界統一の繼承者となつたことは、たとひそれが宗教信仰の上に限られたにせよ、重大な意義をもつものであつた。實際ローマ帝國沒落の後に、ヨーロッパは遂に統一された一國家とはならず、多數國家の並立状態が現在に至るまで續けられてゐる。此のヨーロッパの分裂に對して、ヨーロッパを一の世界として纏めることが出來たのは、全くキリスト教の力によるものである。所謂「キリスト教世界」として西洋を一體として考へることの出來るのは、キリスト教のお蔭でなければならない。ギリシアが幾多の小國家に分裂しながらも、後世から一の纏つたギリシア世界として見られてゐるのは、彼の優れたギリシア文化が永久に輝いてゐればこそである。それと同じく、キリスト教に依て精神的に裏づけられたヨーロッパ世界の統一性も、また偉大と云はねばならない。さうしてその統一も實は、その準備としてローマの政治的統一があつてこそ可能なのだつた。
西洋は中世以來諸國家の對立状態をつゞけ、その爲に分裂紛爭の不幸を釀したことが少くない。最近には二囘も世界大戰の悲劇を繰返さなければならなかつた。しかしかゝる對立の叛面に、ヨーロッパ共同體の精神が働いてゐることも看過されてはならない。キリスト教がその母胎とも見られるユダヤ教の狹い國民的立場から超脱して、萬民共通の世界的宗教として乘出したことは、民族文化興亡の歴史上に偉大な意義をもつてゐる。キリスト教は自己の誕生した東方世界に於ては、上述の如き世界史的發展を遂げることが出來ず、それは西方のローマ世界に入るに至つて始めて可能となつた。こゝに至つてローマの世界史的意義も重大なりと云ふべきである。
但し世界的なるローマも結局は地上的國家であり、之に對してキリスト教は本來現世を超越して彼岸の人間救濟を説く精神教である。かゝる精神的立場から云へば、ローマの如き地上帝國は人間惡の結果であり、それを超剋することに依て眞の人間的幸福は期待される。かくしてキリスト教とローマとは、一面に於ては明かに矛盾した概念に外ならない。從つてローマ帝國沒落につゞく中世一千年の歴史に於て、厭世的悲觀的な世界觀は相當に強く人心を支配し、文化の面にも嚴肅な陰鬱な氣分が濃厚であつた。中世の文化は少なからずこのやうな宗教的世界觀に蔽はれてゐた。それは正に古代文化と矛盾するもので、時代は全く一轉したかの觀がある。かゝる中世的傾向を打破して近代文化の輝かしい幕を開いたものは、ルネサンス(文藝復興)の古代再興運動であつた。かくして近代は古代を復活することを目標としながら、自己の新しい生活を展開したのである。しかし近世を語るに先立つてまづ中世を顧みなければならない。
……。
私たちにとって、資料の冷徹な科学的操作によって書き上げられた実証的な歴史も無論大切であるが、他面、そうした実証と分析が命じるぎりぎりの線をやむなく越えて、血と体温によって書かれた歴史も必要であろう。ツヴァイクの歴史小説は、この意味で実に特異なものだと思う。
しかし、ヨーロッパとヨーロッパ史への過度の愛情が、ツヴァイクを或る意味でめしいにした。人類の友であり、普遍的な人間性を一つの観念としては信仰していたツヴァイクではあるが、世界史の中にえがいたそのヨーロッパ像は、強烈な愛情によってゆがめられていたのである。
今まで自明のものとして伝えられてきたヨーロッパという概念に対して、第二次大戦後、ヨーロッパの内部から様々の反省、根本的な疑いから再出発しようという見事な反省が生じた。ジョフレー・バラックラフ(Geoffrey Barraclough)が『メルクール』(Merkur 1954)に寄せた『ヨーロッパ史と別れねばならないか?』とか、オットー・ブルンナー(Otto Brunner)が「ヒストーリッシュ・ツァイトシュリフト」(Historische Zeitschrift 1954)に寄せた『ヨーロッパ社会史という問題』(Das Problem einer europaischen Sozialgeschichte)などはその輝かしい例と言えよう。このような反省に欠けているという点で、ツヴァイクはたしかに古い歴史家だった。十九世紀的なヨーロッパ教養世界に属する最後の人として、異質な二十世紀を生きたその記録は、非常に貴重なものではあるが。
裏ワザ的なものを眞似してはいけない。
とにかくHPを作ってみようという講座なのだから、理解する事よりもただ「作る」事だけを目的にしてゐるのは明かであり、
HTMLは手打ちですが、HP作成とは何か、理解することを優先しています。と云ふ宣言は大嘘である。實際、理解などさせず、取敢ず「作らせる」と云ふ駄目な「HP講座」の典型的なパターン。まあ、作者が
小学生だから、用語も判らないまゝ、記述に矛盾があつても氣附かず、適當にそれつぽい事を言つてゐるに過ぎない訣だが、しかし、
小学生であつても、公開の場で物を言つてゐるのであり、その言つてゐる事が間違つてゐるのだから、批判されるべきである。小學生だらうが電通大の名譽教授だらうが、俺は差別しない。筋の通らない事を言つてゐるならば、俺は容赦なく突込む。
W3Cとか全く信じてませんし、理解していないので、そこのところご了承ください(頼りにならないHP講座サイトでスミマセン;;)
考えにしたがって作品を読んだり書こうとしたりする時と、
単なる個人的な息抜きや慰めを望む時とが、あります。兩者は並存してゐます。が、兩者を私は別の物として考へます。
それが第一義的な「芸術の目的」からは外れていたとしても個人的な人生においては私はそういう「下らない欲望」も肯定する、ということで、具体的に言えば、シェークスピアの演劇も、キムタク主演のTVドラマも「楽しんで(楽しみの内実は違うわけですが)」観る、ということです。と渡邊さんは御書きです。私もシェイクスピアを讀み、あにめを觀ます。渡邊さんは、單に
複数の欲望があるとおつしやいます。しかし、私は、「肯定」「否定」と云ふ二分法的な捉へ方ではありませんがく、藝術として「良い」「惡い」、或は、藝術として價値が「高い」「低い」と判斷を下し、區別しようとします。渡邊さんは、事實の確認をされてゐます。私は、事實がある、と云ふ事は認めた上で、その事實に對して價値判斷をしてゐます。私は、何も事實の「切捨て」を主張してゐるのではありません。逆に、價値判斷の切捨てを、渡邊さんは主張してをられるのではないか、と私は考へます。
「欲望」という語が、私の考えのことごとくが私の嗜好に基づいたものであることを示しており、ゆえに私の考えは客観性を欠く、という指摘ですが、「芸術が一般に目的とするものは何か?」という問いと、「私の人生において芸術とは何か?」とは、違う問いであって、前者は客観性を持っていなければならないけれども、後者については主観的たらざるを得ないのではないか、と思います。と、渡邊さんは述べてをられます。確かに、その點は同意します。否、同意するからこそ、渡邊さんの主張はをかしい、と私は指摘せざるを得ないのです。と申しますのは、私は、後者のやうな
主観的たらざるを得ない「私の」嗜好をしか述べないのならば、それを根據に前者の「一般」に關して主張する事は許されない、と言ひたいからです。渡邊さんは、「一般に」受容れるべきだとして、「唯物的」な方法を提唱し、「実感」主義を否定してをられました。或は、「一般」的な主張をする際、「私」に關する主觀的な根據が入り込むのは、主張として「弱い」ものになる、と私は指摘してゐるのです。
わりとありふれた解釈であるにしても、そもそもその「解釈」と云ふ事を私は問題にしてゐます。解釋の時點で、既に主觀的な價値判斷が入り込んでゐるのではないか。渡邊さんは、さう云ふ解釋は
「構造主義」や「記号論(学)」は関係ないと述べてをられますが、少し逆切れ氣味に批判させて頂くと、さう云ふ「関係ない」考へ方が渡邊さんの話では並存し過ぎです。そして、
私は「構造主義」や「記号論(学)」がもたらした認識を「踏まておく」ことは現在では必要だろう、といっているのであって、と渡邊さんは書いてをられますが、その根據が依然、さつぱり判らない。渡邊さんの主張は、根據の部分で「私の」考へがあり、にもかかはらず、「一般に構造主義や記號論を踏まへておくべきである」と云ふ結論が下されてゐる。これは、論理として「弱い」のではないですか。
二十世紀の文芸批評では、どうしても構造主義と記号論を抜きにしては語り得ぬ領域があって、その意味では福田恆存の批評は少々「古く」感じる、ということで。と渡邊さんは前に御書きになつてゐるのだけれども、その
構造主義と記号論を抜きにしては語り得ぬ領域がどう云ふ物なのか、そして、その「領域」が一般に我々にとつてどのやうな意義を持つ物であるのか、が、良く解らない。
むしろ私は漢文の素養が決定的に失われていることのほうに日本語を使う人間としては危機を感じます。と渡邊さんは述べてをられてゐて、うちのやうなサイトを閲覽してをられる多くの方々には同意出來る意見であると思ふのだけれども、私は必ずしも同意出來ない。この引用した文章の前に、
もっとも、私は文学に専門的な関心がある人でなければ、エリオットまでを「常識」としてしまうのは多少酷かと思いますが。と云ふ文章がある。私にしてみれば、酷であらうが何であらうが、日本人はその兩方の知識を持たうと努力しなければならない、と考へる。が、現代に於ては、既に漢文の知識を「持たう」と主張する人は、屡々反動の意見と結び附いてゐるのであり、それが問題です。と言ふのは、エリオットのやうな西歐の詩人の詩と、漢詩とは、根本的に發想が異ります。もちろん、共通するところもあるのですが――實は、その共通する部分が強調され過ぎて、異るところを匿さうとする態度が、日本では屡々見られます。共通する部分とは、松原先生流に言へば「花鳥風月・好色・政治」となります。が、漢詩の場合、全くそれだけであるのですが、それに對し、西歐の詩人は、政治と文學とを嚴密に區別する態度も持つてゐる。そして、我々日本人は、もともと持つてゐた漢文の知識でも、政治と文學とを區別しないのであつて、だからこそ、自分が持たない政治と文學とを峻別する態度を學ぶ必要がある。けれども、さう云ふ状況で、敢て漢文の復興のみを主張するのは、政治と文學との峻別と云ふ事を故意に拒否する態度に繋がります。それは困る。
もっともそういう文学(への希求)の一般性の喪失こそが問題なのだ、ということなのかもしれませんが、しかしそれは実は昔からそうであって、単に現在はそういう無関心な人達がメディアに登場するようになって文化のヒエラルキーが消滅したという例の「大衆社会」という話に行き着く問題ではないかと思います。と渡邊さんは、事實を指摘して、話を終へてをられます。、が、私にしてみれば、
「大衆社会」という話に行き着いたら、それをどう評價するか、に關心が向きます。渡邊さんは、事實の確認ばつかりだ。そして、さう云ふ事實に拘つて、敢て價値判斷を下さうとしない態度が、日本には極めて多い。そして、より問題であるのは、さう云ふ價値判斷を下さない客觀主義を主張する人が、實は主觀に基いて、嗜好や趣味に基いて、主觀主義的な主張を一般論であるかのやうな顔をして、他人に押附ける傾向がある、と云ふ事です。
ですから私は『アラビアのロレンス』を、「砂漠」の映像の圧倒的な存在感を通して、偶然的な世界と必然的な世界を往復する人間の悲哀を描いた映画、と書いたわけで、決して「物語」を無視していません。
私が映画を愛するのと文学を愛するのはぜんぜん別個の欲望に基づいたものです。
そういえば以前野嵜さんは私が理論的な仕事に向いていて創作には向かないのではないか、と書かれていたように思いますが、それについても、私が理論的に書きたいと思うのと小説を書きたいと思うのは違う欲望に基づいてのものです。
それらは私にとって食事をしたり家人と愛し合ったりするのと同じく生活の一部であって、決してそれらのうちの一つが全体になるような種類のものではなく多様に共存しているのですと渡邊さんは書かれてゐて、それはそれで「解る」と言へば「解る」のですが、實はさう云ふ「生活」がなぜ茲に出現するのかが、私には解りません。渡邊さんは「欲望」と書かれてゐて、それは渡邊さんの主張が嗜好に基いてゐる事を意味するのであり、結局のところ、嗜好と云ふ事で渡邊さんの主義主張の全てが説明出來るのではないか、と私は思ひます。もちろん、人のする事は大概、趣味なり嗜好なりに基いてゐる訣です。けれども、それを理論化する事が重要である――そして、
純粋さは私にとって魅力のある性質ではありません。と渡邊さんがおつしやらうとも、その理論は矢張りより純粹なものとならなければならない。理論は、雜多で、混亂したものであれば、「弱い」ものとならざるを得ない。理論は、理論であるがゆゑに、一貫性を求めるものであります。それゆゑ、理論上の話、觀念論は、必然的に理論の純粹化、主張の單純化・偏向へと繋がります。が、極端な話、さう云ふ純粹化の傾向は、人間ならば誰でも人間であるがゆゑに持つてゐる、と言ふ事が出來ます。その人間としての傾向を反映して、一方で、體系的な科學が存在し、他方で、虚構の體系化としての文學が存在する――さう私は考へます。科學にしても文學にしても、人爲的なものであり、人爲的であるならば人爲的である爲の性質を帶びる。その人爲としての性質は、自然のものとは異る性質である。自然は渾沌へ傾く、一方、人爲は秩序を求める。かうした意味での(渾沌を求める)「自然」の傾向を、敢て人爲に持込む、さう云ふ「自然」主義的な傾向が、現代に於ては餘りにも強過ぎる、さう私は考へます。
多様に共存している事の嗜好は、さう云ふ「切り刻む」方法としての「唯物論」「構造主義」「記号論」への嗜好の存在を示唆します。そして、
純粋さは私にとって魅力のある性質ではありません。と言はれる渡邊さんですが、實は「切り刻まれた」結果として現はれる「記号」なり何なり――作品を構成する要素ですが――さう云ふ個別の要素は、それ自體、私には純粹なものであるやうに思はれます。
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私は本来は外来の概念用語であったものの日本的な「自然さ」や「普通の意味」の自明性を疑う足場として、西欧の哲学について詳しく知ることは必要であると思います。と云ふ點では同感です。
ところで、ヘーゲル哲学を、ヨーロッパにおける「神」と人間との関係の問題に一般化するのはどうか、と思います。たとえば激しくヘーゲルを批判したキルケゴールは「神」に依拠していますし、当たり前のことですが、ヨーロッパ人の「神」との関係の取り結び方というのは、人それぞれであって、「普遍性への指向」も、論争的に鍛え上げられていったものである限りにおいて、その仕方はそれぞれ違っているし、それをいくつかの傾向に分けて考えることも可能です。
しかし同時に、「西欧」それ自体の内部にあるさまざまな思想傾向や哲学者の考えの差異について考えるのも「西欧」の理解のためには必要であると考えます。
ミソもクソも一緒とは、高橋氏、自分の事を言つてゐますね。高橋氏は「ギリシャ時代の原子論や中世の唯名論を含め、全ての唯物論は一つである」と無茶苦茶に大雜把な事を言つてゐるのですから。
もともとこの雑談は、私が福田恆存について「弱い」と書いたことから、文芸批評は何をもって「文学的に優れている」と判断するか、ということを議論しはじめたわけだった。との纏めは大變ありがたく存じます。
ごく大雑把にいうと、私は形式に拘り、野嵜さんは内容に拘って論陣を張ったわけだが、と云ふ部分については、異論があり、どうもこの「形式」「内容」と云ふ用語で矢張り彼我に認識の差意があるものと。私にしてみれば、野嵜が形式の重要性を主張し、渡邊さんが内容の重要性を主張してゐる、と云ふ事になる。私は、傳統的な御芝居(戯曲)の形式を念頭に置いてゐるので、形式と言つても、小説なり戲曲なりの構成の形式を重視する立場にあります。「悲劇」「喜劇」「自然主義」「ロマン主義」のやうな「形式」ではなく、「起承轉結」のやうな「形式」です。渡邊さんにして見れば、「構造主義」なり「記号論」なりの立場から、書かれてゐる内容を――例へば、「自然主義」か「ロマン主義」かに「形式的」に――分類するのが「形式」重視と云ふ事になるのでせう。しかし、かうなると、視點が私と渡邊さんとで根本的に異る、と云ふ事になります。
ある意味でキリスト教を理解できない、と云ふ點で、我々はキリスト教社會の人間ではありません。茲で、「我々は日本人である」「我々はキリスト教社會の人間ではない」と云ふ前提條件がある、と云ふ事實を、我々は意識しておいて良いと思ひます。そして、「我々は日本人である」「我々はキリスト教社會の人間ではない」と云ふ前提の下、「我々」と「キリスト教社會の人間」との間の「同じところ」と「相違點」とのどちらを良く知る事が重要であるか、は考察されるべきだと思ひます。或は、「我々」と「キリスト教社會の人間」との間の相違點と、「キリスト教社會の人間」の中での思想の相違と、どちらを良く知る事が重要であるか。
キリスト教と西欧的思考の関係については、実際に西欧の人間や読み物を通して知っていくほかないと思うのです。と云ふ渡邊さんの御指摘は、同感ですし、それが私の考へです。ただ、その
実際に西欧の人間や読み物を通して知っていく方法として、「唯物論」とか「構造主義」とか「記号論」とかが、この時點で入り込む事は許されるのか、と云ふ問題があります。この點で私は、方法論そのものが學ぶべき
西欧的思考であり、「我々」のものでない事を重視します。現状、日本人は依然、西歐の思想なり何なりを、相互に矛盾してゐるのであれ關聯があるのであれ、兔に角それ自體として先づは受容れる必要がある、さう私は考へます。そして、さう云ふ矛盾し、對立してゐるものが全て、西歐では並存してゐるのであり、並存してゐるがゆゑに互ひの相違が互ひに問題にされ、「我-汝」の問題として問題にされる。我々日本人から見れば、連中の對立する思想の問題は、現在でも、「我-それ」の關係でしか捉へられない、他者の問題であります。
人生は短すぎる、がやけに渡邊さんの目に留つてしまつたやうで、何度も言及されてゐるのですが、あゝ言ふ警句的な表現は、私の大好きな大袈裟な表現で、「半分冗談」です。そんなに何度も突つかないでやつて下さい。ええと、
その価値を予断で計る前にまずさまざまな考えを学ぶことも有益だ、と云ふのは、私の主張で、それで「構造主義」とか「記号論」とかの
予断でもつて對象を「斬る」やり方はどうか、と申し上げてゐるのですが。「唯物論」にしても、マルクス主義の唯物論が豫斷で以つて對象を切り刻む方法論でした。そして、その手の方法論で私の主張が「天皇主義者」なる物に極附けられた事があり、しかもその極附けをやつて呉れた人が、自分では十分、科學的で客觀的である積りであつたので。云々。
予め扉を閉ざすことはないように思う、と云ふ御指摘ですが、確かにそれは一面の眞理であり、人間があらゆる事象を完全な形で把握出來ない以上、アンテナを多方面に張る事は、必要であると思ひます。けれども、同時に、例へば讀書が自覺的な行爲であるならば、自覺的に讀書の對象を撰擇し、一本筋を通さうとする事も、重要であると考へます。それは、自らの生き方に自ら秩序を與へる事であり、言はば「人生の藝術化」であります。さう云ふ生き方は、もし人が藝術に關心を抱くならば、積極的に撰擇する事が許される行爲であると思ひます。一言申し上げたいのですが、私は今まで、一般論を述べてゐません。常に、特殊な状況下における「なすべき事」について述べてゐます。この點は御理解頂きたく。
デカルトの説を徹底させると、神は不要になつてしまふと述べたさうです(この邊りの事はhttp://nozakitakehide.web.fc2.com/diary/20010706.htmlで言及濟みだつたりします。さう云ふ伏線が――と言へば非常に恰好良いのですが、平成十三年に渡邊さんと議論した事を私は忘れてゐました。ぐぐつて發見。話が繋がつてゐて我ながらびつくり。けれどもまあ取敢ず、渡邊さんとは「長い附合」になるので、野嵜の主張なり意見なりをそれなりに渡邊さんは御存じである筈、と云ふ前提で私は話をしてゐます。云々)。神の否定が西歐で近代の科學を生じた大きな要因であり、近代科學が近代的な唯物論の思想的背景となつてゐる――かう云ふ考へ方は、「非道く大雜把」なものですが、一往、歴史の流れの記述としては、それなりの妥當性を持つものである、と私は思つてゐます。私は、高橋氏のやうな歴史の專門家ではありませんから、用語や細かい知識に誤があると思ひますが、常識レヴェルでの歴史の流れはそれなりに把握してゐる積りですし、さう云ふ流れを大膽に把握する事も歴史學では必要であると考へます。
伊藤仁斎は江戸上期の儒者として、学識と徳行をもって世に重んぜられた人だが、ある時仁斎の堀川塾の玄関に、荒々しい相貌の浪人が来て、
「当家の先生は人に仁愛の道を説き教えていなさるという。門弟衆が多くて、くらし向きもきつう豊かであるという。拙者多年の浪人にて貧窮し、その日のたつきも立ちかねるによって、合力していただきたい」
と、脅迫半分に談じこんだ。
仁斎は門弟数人と談話している席で、とりつぎのことばを聞いた。門弟らは、拙者らが出てことわりましょうと言った。
仁斎はその顔を見て、
「そなたではいくまい」
といい、さらに一人一人門弟らを見て、こなたでもいかぬ、そなたもいかぬ、やはりわしが出るよりほかはない、といって玄関に出て、ぴたりとすわって、
「そなた様貧窮じゃによって合力してくれとのことじゃが、それはならぬことじゃ。人に合力するほどの金もござらぬが、たとえあっても、道というものがござるによって、わしがままにはならぬのでござる。わしの奉じている聖人の道は、すべて親より疎に、近くより遠くへ及ぼすのを順とすることになっている。そなた様より親しく近い人がわしにはたんとござる。その人をとびこえて、縁もゆかりもないそなた様にめぐむのは道ではござらぬ。されば、合力申すはならぬことでござる」
と、ていねいにことわったところ、浪人は一言もなく、わびを言ってかえって行ったという話がある。
右翼団体からせびられて少しくらいのことはつき合った方がめんどうがなくてよいと、わけもなく金を出す現代の実業家や政治家とはちがうのである。
仁斎は江戸上期の学者だが、このようになにごとにも筋道を立てる行き方は、学者世界だけでなく一般武士の間にも行きわたっていたのである。
カントは人間が能動的に対象を構成する以前に、感性を通じて主観を触発し内容を与える物自体を見出し、人間の主観の受動性を強調しているのです。
われわれにとって現実に与えられているのは知覚と、この知覚から他の可能な諸知覚への経験的進行に他ならない。と言はれても、「可能な諸知覚」とか「経験的進行」とかの言葉がさつぱり判らない。どうも哲學の邦譯は拙いですねー。小林秀雄が講演で「哲學者の文章は惡い」と言つてゐたさうです。聽衆は皆笑つたが田中美知太郎は笑はなかつた、と松原氏が書いてをられます。かう云ふ良く判らん文章を通して渡邊さんがカントを理解されてゐるとしたら、實に偉い物だと思ひます。つきましては、日本語で噛碎いて「カント的な認識」と云ふ事を、ずばり御説明頂ければと。その上で、
というか野嵜さんは主観という言葉を認識論的な意味合いで使っているわけではないんですかね。と云ふ御指摘に就いて、その意味を教へて頂ければと。
「真理か? たとえば、2+2=4のような、あるいは、ヴィクトリア女王の即位の年は一八三七年のような、光の速さは毎秒十八万七千マイルのような、そんな真理だというのか?」そう訊ねる者がいるかも知れない。しかし、文学作品にそのような真理が見つからぬことは、自明のことである。いま私の説明した「真理」とは、じつは本当らしさとして認めうるものでしかない。ある文学作品において、そこに描かれている体験が、われわれの現実の体験と照応する時、あるいはまた、潜在的体験とでも呼びうるもの、つまり(周知の事実からの推測によって)われわれも持ちえたと考える体験と照応する時、不正確な言い方であることは致し方ないとして、「この文学作品は真実である」とわれわれは言う。しかし、むろん話はここで終らない。心理学の教科書に実例として書かれているような話を考えてみよう。そういう話は、それがある実話の正確な記録である限り、科学的に真実なものである。ところが、そういう話も、読む者に、わが身に照らして「真実」だと受け取られる事がある。つまり、読む者の現実の体験なり、潜在的体験なりに照応するものとして、ありそうな話だとして認められることがある。しかし、心理学の教科書は芸術作品ではない。芸術作品であるにしても、たまたま付随的にそうであるにすぎない。したがって、単に本当らしいというだけでは、作家の描く体験が読者の過去の体験なり想像上の体験なりに照応するというだけでは、芸術作品を「真実」らしく見せるにじゅうぶんではないことになる。すぐれた芸術というものは、超真理とも言うべきものを持っている。事実そのものよりも、もっとありそうで、もっと認めやすく、もっと説得力のあるものなのである。それも当然のことであろう。芸術家とは、「ものを表現する」能力を、つまり感受性と伝達力を持っている人なのだから。事実そのものにも、その事実にたまたま出くわす人にもたいてい、そのような能力はない。経験から学ぶことのできるのは学ぶ力のある人だけであって、そういう人の数は、ミコウパー夫人(ディケンズの小説『デイヴィド・コパーフィールド』中の人物)の父親か好んで口にする格言によって考えられるほど多くはない。芸術家とは誰よりも学びうる人であり、また教えうる人である。芸術家は、事実から誰よりも多くのことを受け取り、その受け取ったものを、読者の心に深く食いいるような独得な力でもって伝達することができる。すぐれた文学作品を読んで、われわれがしばしば感じさせられることの一つは、つぎの言葉に公式化することができよう。「これこそ、わたしが日頃から感じ考えていながら、自分に対してさえ、はっきりと言葉に表現しえないでいたものだ。」
私の考えでは、それは他者との合意はそれがどれだけ多数の他者であったとしても必ずしも普遍性を保証しないからです。
カントが、認識が、決して認識できない「物自体」によって触発される受動性においてあることを強調するのは、そのような「共同主観性」を成り立たせない決して自己と同一化することのない他者の他者性を想定することによって、むしろ命題がつねに普遍性を要求し、検証され続けることを示すためだと思うのです。ヘーゲルの主観主義は「絶対精神」である「神」が、人間それぞれに分有されているという「同一化」の原理であって、決して同一化されない他者性を消去する思想です。ゆえに私は主観主義はカントに留まるべきだと思っているわけです。
決して同一化されない他者性を消去する思想と極附けるのは、私が常々「何うかしてゐる」と言つてゐる獨斷主義です。全ての物は陽子や中性子や電子で出來てゐる――と言へば、最早個別性は存在しません。が、にもかかはらず、水素やヘリウムは存在し、無機物と有機物とは區別され、動物と植物とは(最近は中間的なものにも注目が集まつてゐるやうですが)別のものであり、動物の中でも靈長目人科は特別の存在と認識されます。キリスト教にしても科學にしても、かう云ふ「常識的」な區別の存在は無視してをりません。寧ろ、さう云ふ區別がある爲に、區別し難い領域の考究が進んでゐると言ふ事が出來ます。キリスト教――或は、キリスト教社會――に於ては、多くの事柄が二元的な形で現はれてゐます。單純に、同一化の側面だけが現はれる、と云ふ事はなく、同時に個別化の側面も現はれます。さう云ふダイナミックな歴史の流れが西歐史にはある、と私は見てゐます。そして、さう云ふ二元的な物の見方は、實は日本人が極めて苦手にしてゐる事であります。その點、カントかヘーゲルか、と云ふ「あれか、これか」の議論はさて措いて、日本的「辨證法」で「西歐」の觀念を「でつち上げ」てでも、カントもヘーゲルも生んだ社會の全體としての姿を「ありのまゝ」に把握する努力が必要であると考へます。が、さう云ふ全體的な把握は、どうも個別的な方法論では巧く行きさうにありません。文明論的――と言つても良いのでせうが、林健太郎が歴史の方法を「藝術的」と云ふキーワードの下に述べた事があります。
というよりも、私は文学作品はすべて基本的には「二人称の他者」を描いているのだと思うのです。ただ「描き方」によってそれが不十分だったり変だったりするだけで、そこには相対的な差異しかないと思います。
それが不十分だったり変だったりする事が、私には重大な差異であると思はれます。文學作品は全て「二人稱としての他者の問題」である道徳のレヴェルで嘘を書いてはならない、と云ふのが私の考へ方です。別に政治家が登場しようが、政治運動に取材してゐようが、或意味、問題は無い訣ですが、そこで作爲的、或は無意識的に、嘘が混入して來た時、その作品は非難されて然るべきだと考へます。例へば大江健三郎の小説は、登場人物がまともな人間ならば考へないやうな事を平氣で「考へる」ので、フィクションにしても非道い、と私は判斷します。大江の「SF」では、登場人物の言動は全て、政治的に「立派な事」としてしか描かれてゐません。大體があり得ない、嘘つぱちのものです。(あと、大江は、作者の姿を反映した主人公を通して、作者自身を禮讚してゐるので、極めて惡性です)
「文学的価値」は基本的に「芸術的価値」と同質のものでなければならないと私は思います。
3月25日(金)京王線・井の頭線でダイヤ改定を実施!
人間が自己の周圍をみまはして、それが何であり、それが如何にして生成したかと疑ふときには、それを先づ神の名に歸するのが常である。人間にとつて如何ほど不合理とみえ、また奇異だとみえることでも、之を神に結びつければ奇異不合理ではなくなるのである。かくして神話は民族の世界觀の詩的表現となり、文學ともなるのである。そして不合理奇異を神の名に歸して、不合理奇異の存するまま領得することによつて、その不合理奇異を解消するといふ仕方は、萬事を理性によつて解決せんとする後の仕方とは異つてゐるけれども、色々な疑問を解決したことにおいて、神話は當時の学問でもあつた。
アレクサンドリア時代の諸家によつて、説話として委曲を盡くし、各種の神話の綜合が行はれた。さうして出來た御噺。