闇黒日記


平成十七年三月三十一日
録畫したまゝ放置してゐたまほらば @ 海 をやつと觀た。途中で邪魔が入つて一時間、焼きたて!!ジャぱん @ AT-Xを觀てゐたりしたけれども。焼きたて!!ジャぱん、實はとてもおもしろいのではないか。
平成十七年三月三十一日
ネギま! 作畫を氣にしない人にはそれなりに面白く觀られるのではないですか。俺は作畫を氣にしない人。最初の三話くらゐが致命的に駄目だつたのだけれども、その後はそれなりに觀られるやうになつて來た。
平成十七年三月三十一日
ラトルズの本:ネットノベル・パーフェクトガイド
dnozが紹介されてゐたりする。當方への掲載の依頼や豫告や確認等は一切ナシ。立讀みしてゐたら載つてゐたのでぎよつとした。編著者はうちの斷り書きを讀んだのだらうか。「言葉 言葉 言葉」の解説が怪しいところを見るとどうやら讀んでゐないみたいだが?
平成十七年三月三十一日
一往買つて來たけれども、dnoz : nozaki directory project 特記事項は讀んでゐる模樣。
平成十七年三月三十一日
親父がケロロ軍曹を知つてゐる件について。

平成十七年三月三十日
http://d.hatena.ne.jp/noz_watcher/20050329
さて、野嵜が「猿の尻笑い」をしてゐるとnoz_watcherは言つてゐる。で、「猿の尻笑い」とは、広辞苑に據れば、自分の欠点を省みずに他人を笑うこと。とある。それで、noz_watcherの文章を讀んでみると、野嵜が自分の欠点を省みてゐない事の論證もなければ他人を笑つてゐるとの論證もない。野嵜は量ではなく質の觀點から言ふならば、ウェブは掲示板や「ブログ」のやうな複數の人間で生成されるコンテンツの所爲で「ノイズ」だらけになつてゐる。と書いてゐる。また、noz_watcherは故意にそして、署名がナンセンスである以上、掲示板とか「ブログ」のコメント欄とかの發言は、全て例外ナシにナンセンスであると言へるのでないか。雙方向性はウェブの特質である、と云ふのは一般論だが、その雙方向性があるからこそ、ウェブは腐つたのだ、と言つて良いと思ふ。と云ふ今の議論の前提となる重要な文章を拔かして引用し、それを無視して論じてゐる。
また、「掲示板だけでは困る」「ブログだけでは困る」と野嵜は何時も言つてゐた筈。もちろん、今のうちの掲示板も、ノイズは多いので、サイトのコンテンツとして見た場合、「使ひ物にならない」。が、うちは掲示板だけのサイトではない。
まー、2ちゃんねるのような掲示板や、ブログなど複数の人の生成されるコンテンツに「ノイズ」が多いのは事実。ただね、だからと言って個人が運営してるコンテンツが「ノイズ」が少なくて良いとは限らないんだヨ。とnoz_watcherは述べる。が、野嵜は、個人が運営してるコンテンツが「ノイズ」が少なくて良い等と言つてゐないし、もし「さう言つてゐる」とnoz_watcherが思つてゐるとしたら、それまでのnoz_watcherのテメーに都合の良い時は持ち上げといて、都合が悪くなると「ネットは匿名だからダメ」とホザき始める厚顔無恥ぶりは、かのナントカ宣言の某馬鹿漫画家と同じ。と云つた指摘と矛盾する。となると、「さう言つてゐない」と判つてゐながらnoz_watcherは限らないんだヨ等と言つてゐる事になる。今度はこつちで矛盾してゐる訣である。
さて、2ちゃんねるは、何処を掘ってもゴミしかない「×黒日記」よりはよほど有益である。とnoz_watcherは述べてゐて、この「×黒日記」と云ふ伏字はナンセンスであり、「闇黒日記」の事を指してゐるのは明白だが、noz_watcherは「闇黒日記」の讀者を纏めて馬鹿にしてゐるのである。それはさうだらう。ゴミしかない日記を毎日讀む人間は馬鹿である筈だし、ゴミしかない日記の文章を引用して論じてみたり、擧句、ゴミしかない日記の文章を突ついて論爭したり――そんな事をしてゐる「闇黒日記」の讀者は、noz_watcherには馬鹿にしか見えない筈である。「『闇黒日記』のゴミを掘つてゐる『闇黒日記』の讀者を、noz_watcherは一括りにして貶めてゐる。一方、noz_watcher自身は2ちゃんねらーである。そして、その2ちゃんねらーがよほど有益であると稱してゐるのは、「2ちゃんねる」と云ふ掲示板ではなく、實は、そこで活動してゐる自分自身の發言である。noz_watcherは、「有益な物」が埋つてゐる「2ちゃんねる」の住人である事を誇つてゐる。もちろん、論理的に、「或2ちゃんねるの記事は有益である事がある」からと言つて、「2ちゃんねらーのnoz_watcherは有益な事を言つてゐる」と云ふ事にはならない。だが、noz_watcherには、さう云ふ理窟が判らない。別にnoz_watcherが2ちゃんねらーだからと言つて、noz_watcherの發言が全て有益である訣でもないし、或發言が有益である事もあり得ると云ふ事の證明にもならない。noz_watcherの言ふ通り、まー大事なのは、何が「玉」で何が「石」かをしっかりと見極める能力を養う事。これが出来ない人は2ちゃんねるを見ない方が良い。noz_watcherの發言が「玉」であるか「石」であるかも、第三者は「しっかり見極める」必要がある。そして、その第三者のした「見極め」を、noz_watcherは勝手に否定しない事だ。noz_watcherが「闇黒日記」の中から「ゴミ」許りを拾はうとするのを、野嵜は別に止めようと思はない。が、既に「闇黒日記」の文章を引用したり言及したりしてゐる人がゐる現状、さう云ふ人を一概に貶めるやうな迂闊な眞似をnoz_watcherはしない方がよろしい。しても構はないが、それは敵を増やすだけの事であらう。敵を増やしても正しい事を言はねばならないと思つてゐるのならば、noz_watcherは野嵜と同じ考へである。さて、noz_watcherの「ブログ」が何処を掘ってもゴミしかないものにならない事を一往願つておくが、現在までのところ、noz_watcherの發言は全部「石」の部類に屬する。と言ふか、noz_watcherは石頭なのではないか。取敢ずnoz_watcherは、野嵜の發言を、恰も矛盾してゐるかのやうに見せかける爲に歪曲したりする惡癖は直した方が良い。と言ふか、最初から「全てゴミ」と云ふ結論ありきで「闇黒日記」を讀むのなら、もつとnoz_watcherにとつて爲になるサイトを見た方が、色々な意味で良いだらう。或は、基本的にノズラー諸氏の個人サイトへの荒らし攻撃を推奨いたしません彼らを反面教師とすることで自らを糺すことを目的とする、と云ふnoz_watcherの宣言と、だったら自分のサイトの掲示板、さっさと閉鎖しなさいな。と云ふnoz_watcherの直接的な「忠告」との整合性がない事を、noz_watcherは自覺した方が良いと思ふ。云々。
ところで、noz_watcherが以前、アレクセイや「義」に誹謗中傷を書込む場を與へた事についての辯解はまだですか? 方々の掲示板に「野○健秀」の名を騙り荒らし行為を行う「義」(野○サンは荒らし行為者を「義」と総称してるようなんで、それに従っておく)を当会はきっぱりと否定します。と、言葉だけは潔癖を裝つてゐるけれども、noz_watcherが「義」やアレクセイを實質的に支援した事があるのは事實。noz_watcherの行爲がnoz_watcherの言葉を裏切つてゐる。
平成十七年三月三十日
Amazon.co.jp: 検索結果 本: 日経ビズテック
ビジネスイノベーター | 新雑誌関連のお知らせ:第6号の特集テーマをお知らせします 2005/03/10
「日経ビズテック No. 6」が出てゐますよ。松原先生の連載第二囘が掲載されてゐます。
平成十七年三月三十日
goo ヘルプ:gooトップページのCSS対応について(gooからのお知らせ > 2005/03/16)
エイプリルフールから、と云ふのは避けたのかな?
小物の戯言 - 略歴雑記 - このカテゴリのネタも久しぶりだがに據る。
平成十七年三月三十日
ええと、「掲示板やブログのやうなインタラクティヴなコンテンツは『ノイズ』が多い」と云ふのも野嵜の原則ですが、現在の「言葉 言葉 言葉」の掲示板に關しては、クールなURIは変わらないと云ふ原則もあり、そちらを優先して考へてゐます。作つちやつたし、御金も拂つちやつてゐるから、云々、と云ふ理由もあります。
しかし、かうした原則を原則として認める事と、それを實踐する事とは話が別です。例へば、野嵜は時々假名遣を間違へる、だからと言つて、野嵜は正假名遣の主張をしてはならない、と云ふ事にはなりません。ただ、正假名遣の主張をしてゐるからには、出來るだけ間違ひを無くさうとするのは、態度として正しい。野嵜は、理念と現實とは別、と考へてゐます。
で、noz_watcherは、言行は常に一致でなければならない、と考へてゐます。だからnoz_watcher自身は既に言行を一致させてゐなければなりません。もちろん、言行が不一致であつても言行一致を理念として主張する事は構ひません。が、實際に「言行不一致」であるnoz_watcherが、理念としての言行一致を主張しつゝ、「言行不一致」の他人を非難してゐる時、そのnoz_watcherの「言行不一致」をさらに他人が非難する事は當然、許される事だと言へます。
と言ふか、noz_watcher自身は、一言も「自分は言行一致を主張する」とは言つてゐません。ですから、noz_watcherは、自分自身、何ら立場を持たないまゝ、ただ他人の發言を非難してゐるに過ぎないのです。
平成十七年三月三十日
あー、あとサイトの死個人的に、一旦公開した文書を、閲覽者に斷りなく(或は、斷りを入れても)ばつさりと削除してしまふのは「マナー違反」だと思ふ。せめて、何らかの形でコンテンツを殘すやうにしてほしい。これが大原則。だから、一旦公開した掲示板と云ふコンテンツを俺は削除しないでゐる。何も問題はない。
但し、茲にもまた「裏」の意味があるのであつて、「さう云ふ原則を持つてゐるにもかかはらず、敢て積極的に『削除すべからざるコンテンツ』をばつさり削除する」のは、それ自體、積極的な主張であつたりする。「敢てヲタと書く」事の理由や、「敢て『現代仮名遣』のまゝ引用する事の理由」を昔、説明した事があるけれども、或意味、似てゐる。もちろん、明言ではなく「ニュアンス」に據る暗示だから、理解出來ない人もゐるだらうし、曲解する人もゐるだらうが、そんな事を考へてゐたら、人間は一切の表現をする事が出來なくなるだらう。と言ふか、noz_watcherが自分の表現に無頓着であるにもかかはらず、他人の事をとやかく言ふのは如何なものか。「いかにも2ちゃんねらー」を氣取つた文體はイタ過ぎる。ただの厨だよあれでは。2ちゃんねらーにも良い2ちゃんねらーと惡い2ちゃんねらーがゐるのだらうけれども、noz_watcherは惡い2ちゃんねらーに屬すると言つて良し。
平成十七年三月三十日
わしズムの最新號をちらつと見たのだが、小林よしのりの人を見下したやうな文體、各方面に惡影響を與へてゐるやうな氣がする。黄とかnoz_watcherとか。

平成十七年三月二十九日
月詠終つた。スタッフ絶對ふたばの二次元実況見てゐる。何と言ふか、今囘最高畫質でキャプチャしたのは正解だつたのかな?
平成十七年三月二十九日
カートゥーンネットワークで始まつたヤッターマン、次囘豫告があつて貴重だけれども、エンディングが間違つてゐる。ドロンボーのシラーッケは2年目のEd。始まつた頃のEdは天才ドロンボー。

平成十七年三月二十八日
チャンネルNECOの「光と水のダフネ」一擧放送なんてものを觀てゐたので、まほらばの視聽は明日以降に録畫したのを。ダフネ、駄目だの何だのと言はれてゐたけれども、觀返してみると結構面白い。
平成十七年三月二十八日
さて、誰かが自分の論理で他人の文章を解釋してゐると云ふ批判が2ちゃんねるの某スレにあつたのだけれども、誰の事を言つてゐるのだらうか。私は、對象の文章の中にある文章自體の矛盾を指摘して批判してゐる。だから、私の事ではないのだらうが、氣になる。
ぼかした言ひ方ではなく、はつきりと物を言つたら何うだらうか。どうせ匿名なのだし。
平成十七年三月二十八日
ノズラー観察同好会報
さて、正當な批判をするらしいので、期待して行かう。当会は、ノズラー諸氏を観察し、彼らを反面教師とすることで自らを糺すことを目的としており、彼らのサイトの崩壊や彼らの破滅を望むものではありません。と「同好会」は言つてゐて、一言も「正當な批判をする」等とは言つてゐない。野嵜は自分の論理で他人の文章を解釋しました。訂正します。「同好会」には期待しない事にする。ところで、野嵜の事を指して名誉ノズラー等とレッテルを貼るのは如何なものかと思ふので、改善して貰ひたい。
さて、「同好会」、http://d.hatena.ne.jp/noz_watcher/20050327で曰。

野○さんの弁によると、野○サンはネットの世界には「反野○同盟」みてぇなモンがあると思いこんでる節があるけど、野○サンを批判してる連中(私も含めて)が裏で手を握ってるとは必ずしも限らない

「同好会」は、「アンチ野嵜の人間は裏で手を握って等ゐない」とは書いてゐない。だから、これはレトリックなのだが、それに「同好会」は氣附かない。「一部のアンチは手を握つてゐる」と云ふ事を、「同好会」は否定してゐない。この時點で、「同好会」が野嵜を「掲示板荒し」に仕立てようとする勢力がありますと云ふ野嵜の指摘を否定出來てゐない事は明かである。
「全てのアンチ野嵜は手を握つてゐる」の否定ならば、「全てのアンチ野嵜が手を握つてゐるとは限らない」と云ふ言ひ方が正しい。しかし、「一部のアンチ野嵜は手を握つてゐる」の否定は、「全てのアンチ野嵜は手を握つてゐない」でなければならない。
野○サンの「理論」を分かり易く書くとこうなる。以下の「三段論法」は、「同好会」の想像した「三段論法」であり、野嵜の主張と一致しない。或は、言ふまでもなく、私はそんな事は思つてゐない。
また。

松原正氏に悪意を持っている人たちが必ずしも仲が良いとは限らないし(実際に西部邁氏と西尾幹二氏は犬猿の仲)、同じ「松原正の読者」だからと言って、必ずしも野○サンに好意を持ってるとは限らない。

西部邁と西尾幹二とが犬猿の仲である事は、「義」とアレクセイとが「犬猿の仲」である事(或はその逆)の證據ではない。zak_kやomegatribesやuso888が手を握つてゐない事の證據でもない。ちなみに、omegatribesが、アンチ野嵜同士が聯絡を取合つてゐる事を、かつてYahoo!掲示板で報告してゐた事がある。zak_k、omegatribes、uso888は、いづれもYahoo!のIDで、Yahoo!掲示板で「アンチ野嵜」だつた連中。もちろん、今、「名前」を出した連中が相互に聯絡を取合つてゐたとは證據を擧げて言ふ事は出來ないが、少くとも、omegatribesがYahoo!掲示板方面の誰かと聯絡を取合つてゐた事は、本人の發言により明かになつてゐる。また、アレクセイが掲示板で「義」に呼びかけてゐる事は、周知の通り。「アンチ野嵜の人間同士が、必ずしも仲が良いとは限らない」事は、「アンチ野嵜の人間同士が、必ずしも仲が惡いとは限らない」事も意味し、「アンチ野嵜の人間同士が、常に仲が惡い」事を意味しない。だから、「同好会」の批判は、論理的に妥當な批判ではない。誤つた知識と理解に基いた根據のない非難である。或は、野嵜の主張を「全てのアンチは同盟してゐる」と「同好会」が曲解した爲に、引出された間違つた否定であるに過ぎない。「同好会」は形式論理學を少し齧つたら良いと思ふ。
ついでに言つておくと、アレクセイと竹下義朗が、野嵜を「掲示板荒し」に仕立て上げようとしてゐるのは、「野嵜健秀」でぐぐれば直ぐに判る事實である。「同好会」にそこまでスキルがないとは信じられないから、馬鹿念を押しておくだけだが。
ついでのついでに言つておくと、あと、このブログで個人名を表記するのはマズいと思いましたので、一部伏せ字にしておきました。とあるが、http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/aboutnoz.htmlにリンクを張つてゐるのだから、個人名は特定出來るのであり、それで伏字にしたところで意味はない。個人を特定出來る形で誹謗中傷を行つた場合、犯罪となる。それに、伏字なんて使つて及び腰になつて貰つては困る。「同好会」には、是非ともまともな批判をやつて貰ひたい。それでこそ、「アンチ野嵜」の代表としての「同好会」である。あと、個人でやつてゐるのならば、「会」等と名乗らない方がよろしい。もし本當に「会」であるとしたら、その時點でhttp://d.hatena.ne.jp/noz_watcher/20050327の「同好会」の主張は崩潰する。大體、一人でやつてゐるのに「同好会」の看板を掲げるのは、「看板に佯りあり」だ。それに、「同好会」が、「アンチ野嵜」は互ひに「手を握りあつてゐないばらばらの存在」であると主張したいのなら、「同好会」なる組織があるかのやうな看板を掲げて活動するのは、好ましくない事だらう。私は「同好会」の爲を思つて、忠告してゐるのです。いや、ノズラー諸氏を観察し、彼らを反面教師とすることで自らを糺すことを目的とした人々が集まるノズラー観察スレッドがあり、そこを率ゐる「noz_watcher」なる人間がゐて「ノズラー観察同好会」を名乘つてゐると言ふのだから、詭辯を弄して野嵜の主張を否定してゐるにもかかはらず、野嵜の言ふ「勢力」は「ある」のである。
と言ふか、野○を「掲示板荒し」に仕立てようとする勢力があります「反野○同盟」みてぇなモンがあると「同好会」は言換へるが、これは妥當な言換へでない。「勢力」と「同盟」とは、別の物だ。日本社会党と日本共産党とは、同じ「左翼勢力」だつたが、「同盟」ではなかつた。「同好会」は、自分に都合の良い結論が出るやう、野嵜の文章を言換へてゐる。そして、この「同好会」自身に據る勝手な言換への上に「同好会」の論理は成立してゐるのである。だが、言換へそのものが間違つてゐるのだから、「同好会」の論理は全て崩潰してゐる。
「同好会」の論理は餘りにも杜撰だが、論理以前に「同好会」は自分の妄想の中で話を展開する惡癖を持つてゐる。うちの掲示板で「チミ」等と言つて好い氣になつてゐたが、「同好会」にはアレクセイと同じ、ナルシストの氣がある。
野嵜の主張を否定したいのならば、野嵜の言つた事を正確に讀取り、曲解なしで、ありのまゝの野嵜の主張を批判するやうにすべきだ。もちろん、野嵜がそれを出來てゐない、と非難する事は可能である。けれども、それだからと言つて「同好会」が免責される、と云ふ事にはならない。野嵜と同レヴェルと看做されるのでは「同好会」も氣持ちが惡いだらう。「同好会」は、野嵜よりもまともな事を言ふべきである。まあ、そもそも2ちゃんねらー丸出しの「同好会」のやり方では、誰も「同好会」を信用しないだらう。「同好会」の印象は、今のまゝでは惡過ぎる。
自分の誤を悟つたら、「同好会」は謝罪すべきである。「同好会」は、此處を見てゐる訣だから、野嵜の指摘は讀む筈である。野嵜の指摘によつて「同好会」は自分の誤を悟る筈。そこで訂正記事を出さないとしたら、「同好会」は、言論として妥當な批判をしてゐるのでなく、名譽を毀損するのを目的として犯罪的に野嵜を非難してゐる事になる。まあ、野嵜の言つてゐる事に誤があると言ふのなら、「同好会」は反論するが良からう。ただ「また馬鹿な事を言つてゐますね」のやうな事を言つて、スルーしようとする事は許されない。もちろん、「同好会」に限つて、そんな事はないであらうと思ふが、念の爲。
平成十七年三月二十八日
頭が痛いので寢ます。
平成十七年三月二十八日
で、電車で貧血を起して、驛で倒れたので、一日休み。
平成十七年三月二十八日
ところで「同好会」ことnoz_watcherには、以前GaiaXでサイトを作つて、アレクセイや「義」の書込みを放置した前科があるのだが、あれの謝罪はまだですか?
今囘はnoz_watcher、ブログのコメント欄に管理者以外は書込めないやうに設定してゐるやうで感心。
平成十七年三月二十八日
さて、我々は、「同好会」noz_watcherが、野嵜の主な主張を含む國字問題やHTML關係の記事に興味を持たず、瑣末な「掲示板荒し」關係の記事にのみ注目してゐる事實を、どのやうに解釋すべきであらうか。瑣末な問題に拘泥してゐる點で、「同好会」noz_watcherは、「義」やアレクセイと全く同じメンタリティを持つてゐると言つてよいだらうと思ふが如何。
實際のところ、突つかうと思へば、野嵜の國字問題關係の記事には樣々のミス・勘違ひ・誤を見出せるのであり、それをnoz_watcherは突ついたら良い筈であるが、なぜかnoz_watcherはそれを避けるのである。そして、本當に瑣末な問題ばかりを採上げて、それを誇張して傳聞し、野嵜の評判を落さうとしてゐるのだから、「同好会」noz_watcherのやつてゐる事は「義」やアレクセイと同じだと言へる。
「義」にしてもアレクセイにしても「同好会」noz_watcherにしても、何うしてもつと本質的な部分で、野嵜のやつてゐる事を批判しないのだらうか。さう云ふ批判をした方が、野嵜批判として決定的なものになり、有效な痛撃を與へられるものと野嵜は考へるのだが。今のやり方では、單なる嫌がらせにしか見えないし、嫌がらせに屈するとしたら、それは「野嵜個人が」であるに過ぎず、「野嵜の主張が」ではない。もしnoz_watcherが一般に正かな派を誹謗する意圖が無いと言ふのなら、野嵜が公開してゐるとは言へ、國字問題に關する記事について、正當な批判を行ふべきだらう。野嵜の國字問題に關する記事の誤を指摘し、それを改善するやう野嵜に壓力をかけるのは、自分の行爲が一般の正かな派に對する誹謗ではないと云ふnoz_watcherの自己證明として必要な事であり、野嵜批判の「代表」であるnoz_watcherの或意味「義務」である。noz_watcherが「野嵜は愚かである」と人の惡口を言ふのは構はない。しかし、それだけでは何の意味もない。野嵜を反面教師にする、と云ふnoz_watcherの御題目は現状、實現出來てをらず、「noz_watcherは野嵜を小馬鹿にして好い氣になつてゐる」と云ふ印象を與へるだけの結果になつてゐる。noz_watcherは、批判をしてゐる積りなら、もつと有益な目的の爲にしたらよろしい。そして、その目的と、實際のnoz_watcherの行爲が誰の目にも合致してゐるやうに見えるやうにする事は必要である。noz_watcherは、自己満足の爲に野嵜を非難してゐるのではあるまい。自己滿足が目的では、アレクセイがさうであるやうに、嫌な奴と思はれるだけである。ならば、noz_watcherは、野嵜を非難する事が妥當であり、それによつて他者を裨益する處がある、と云ふ事を證明すべきである。
土臺、野嵜如きの人格を何う斯う言つて非難したところで、大した事はないのである。noz_watcherは、もつと高いところを見るがよろしい。もし、敢て野嵜を叩かねばならないと云ふ理由があるとすれば、noz_watcherはそれを明かにして、「野嵜が有害である」事を主張するがよろしい。「ただ目についたから叩いてゐる」では、世間も納得すまい。そして、そのnoz_watcherの野嵜叩きの動機が正當なものであるか、noz_watcherが野嵜を誤解しないで正しく理解した上で叩いてゐるかは、第三者の判斷するところである。noz_watcherは、今やブログの中の人であり、言論活動を行つてゐる人である。noz_watcher自身、きちんと「言論の不自由」を味はふべきである。さう云ふ意味では、相變らずnoz_watcherが身許を匿してゐるのは、當を失してゐると言つてよからう。noz_watcherが責任を囘避しようとしてゐる事は「みえみえ」である。
平成十七年三月二十八日
バーチャルネット思想家平成15年5月1日 旧仮名遣ひの邊。
マッカーサーも言ふ通り、日本人の精神年齡は未だに十四歳であるらしい。以下、唐突にバーチャルネット古本オタクの人登場。
ええと、野嵜の「闇黒日記」、讀者の方々はすらつと讀めませんでせうか? 文章の書き方と言ふのもあるので一概には言へないのですが、普通の文章を讀むよりもちよつとでもスピードを落して讀まなければ、何が書いてあるのか理解出來ない等と云ふ事はないのではないですか。歴史的假名遣の代表例として「闇黒日記」の文章を持出すのも何うかと思ひますが、取敢ず野嵜の文章をただ新字新かなに直したからと言つて、誤解が減るとも思へません。
なぜか、歴史的假名遣を馬鹿にして喜んでゐる人がゐます。「現代仮名遣」こそが「日本語としての本道であり、美しさである」等とはちつとも思つてゐない癖に、「なぜかこれを使ふべきだ」と思つてゐる人です。ブログでも時々、さう云ふ事を言つてゐるところがあります。でも、果してそれは何うなのでせうか。
日本語には假名遣と云ふ概念があります。契沖の假名遣を明治政府が採用した事實はあります。が、しかし、假名遣ひの觀念自體は平安時代からあります。それは、上代から昭和二十年の國字改革まで、一貫したものでした。その歴史的に存在する假名遣ひの觀念――これは歴史的なものとして尊重すべきですが――歴史的に成立した現代の表記、これを「歴史的假名遣」と呼びます。單に「古い文章が良い」と云ふだけの理由で「古い文章の眞似をしよう」と主張する――そんなのは「歴史的假名遣」の發想ではありません。思ひ違ひをしてゐる人は澤山ゐますが、文體と、表記の規則とは、次元が異る概念です。近代を經た現代の日本人が、さう云ふ異る次元の概念をごつちやにして考へるのは、何うかしてゐるやうな氣がします。やつぱり精神が十四歳なのですかねえ。
時代によつて、文體や語彙は變つて行くものです。平安時代に使はれてゐた語彙や文體も、現代使はれてゐる日本語とは異りますし、その所爲で當時の文章は現代人にはさうさう簡單に讀めるものではなくなつてゐます。慥かにそれは古文であり、或面では勉強しなければ讀めない日本語です。けれども、さうやつて變化した日本語の部分もあれば、逆に、なかなか變化しようとしなかつた日本語の部分もあります。それが、假名遣です。昭和二十年の時點で、話し言葉と書き言葉とは、現在と全く同じ程度にまで「乖離」してゐました。とは言へ、それは正しい事でした。書き言葉が書き言葉として話し言葉から獨立してゐるのは當り前です。書き言葉は、話し言葉と違つて、保存される爲に存在し、その爲になかなか變らうとしない傾向を持つてゐるからです。さう云ふ書き言葉の本質を理解した明治政府によつて、歴史的假名遣は教育で採用されて來ました。慥かに、現代の發音と、歴史的假名遣の表記とは、懸離れてゐる面もあります。しかし、歴史的假名遣を常用してゐた時代の現代人は、比較的ですが、同じ歴史的假名遣が使はれてゐる過去の文献(古典)を、「現代仮名遣」に慣れた今の人よりも樂に讀めました。過去の文献を讀む時の違和感が少い、と云ふ點で、「現代仮名遣」に慣れるよりも歴史的假名遣に慣れておく方が良い、と云ふ事が言へます。發音と表記との「乖離」には、誰も困つてゐませんでした。いや、寧ろ、「古文」に惱まされる現代の日本人よりも、當時の人々の方が樂をしてゐたとも言ふ事が出來ます。過去の文献と現代の文獻とに、共通の假名遣があつて、意志の疎通は出來たのです。
ところで、歴史的假名遣と云ふ言葉を見て下さい。「歴史的」なのです。詰り、歴史的假名遣と云ふ言葉は、歴史的に長い間使はれ續けてきた假名遣と云ふ意味です。それだけではありません。歴史的に成立した假名遣でもあり、歴史的な合理性を持つ假名遣でもあります。その一方で、「現代仮名遣」は、「現代にしか通用しない仮名遣い」と云ふ意味です。現代になつて、國字改革の際に、人工的に作られた假名遣なのです。詰り、歴史的假名遣は自然に成立した假名遣であり、「現代仮名遣」は現代人が作つた假名遣です。だから、「現代仮名遣」こそが不自然なのですね。ついでに言ふと、今、「常用漢字」と言つてゐる制限漢字は、國字改革の當時には「当用漢字」と呼ぶ事になつてゐました。將來、漢字を全廢する過程で、暫定的に當座、使用する漢字、と云ふ事で「当用漢字」だつたのです。結局、漢字の全廢は不可能で、かと言つて、一度實施した政策ですからさうさう撤囘も出來ず、取敢ず「常用漢字」として、少しだけ制限を緩めた形で「当用漢字」は固定化されました。が、それも今、見直されるやうになつて來てゐます。閑話休題。
もし、人が歴史を尊重し、歴史的に成立したものに内在する合理性を信頼するならば、歴史的假名遣を使ふべきなのです。文字や文章と云ふものは、單に自分の意思を傳へる爲にある話し言葉と違つて、保存され、記録され、後世に傳へられる爲にあります。「現代仮名遣」は、現代と云ふ時代の中でのみ意志の疎通を圖れれば良いと云ふ、刹那的な取決めでしかありません。將來の事も考へて、長期に亙つて保存される事を考へて文章を書く場合には、歴史的な合理性を持つ言葉を使ふべきです。
さて、この「闇黒日記」の文章には、「使ふ」「言ふ」と、は行四段活用が頻出してゐます。これは、北極三號をベースにした野嵜特製の正字正かな辭書を使つてゐるから簡單に入力出來るのですが、最近はATOKも歴史的假名遣に對應してきたとの事で、一般の人にも容易に歴史的假名遣の入力が出來るやうになつて來ました。まあ、「こだはり」と言つたらATOKレヴェルでは物足らないのかも知れませんが、ジャストシステムが本氣になれば。しかしまあ、これぐらゐの事で「こだはり」と呼ぶのは不當でせう、たつたこれだけの事なのですから。何も向きになつて歴史的假名遣を排撃しようとする必要はありません。それに、入力のしづらさがあるとしても、それと讀み易さとは關係がありません。(IME用の正字正かな辭書關係のリンク集を見よ)
ここで一往、解つてゐない人の爲に申し上げますが、「歴史的假名遣の讀み辛さ」は「正字體の讀み辛さ」の責任が轉嫁されてゐる面が多分にあります。新字正かなの文章であつたならば、十四歳の子どもでもすらすらと讀む事が出來るでせう。それに、發音に比較的忠實な「現代仮名遣」よりも、語に忠実な歴史的假名遣の方が、語を語として認識し易いのです。「慣れ」のレヴェルで單純に判斷するのは、人間のメンタリティの存在を考へれば、妥當とは言へません。
なるほど、新字新かなに馴れた日本人が多い現状、正字正かなで書く事は、毛嫌ひされて讀まれない、と云ふリスクを持ちます。が、妥協する事は可能です。ですから、例の丸谷才一が編緝した『國語改革を批判する』(中公文庫)は前半部が新字新かなで印刷されてゐますし、渡部晋太郎『国語国字の根本問題』は全文が新字新かなで印刷されてゐます。
しかし、正字正かなであると云ふだけで讀まれないものであるならば、「闇黒日記」は讀者がゐない筈です。「闇黒日記」は、正字正かなで書かれてゐます。けれども、かのえろげの高橋氏も、アレクセイ氏も、「義」も、この「闇黒日記」を讀んでゐるのだし、一往讀んで、それなりには理解してゐるやうです。HTML關係の記事も、正字正かなであるにもかかはらず、讀んで呉れる人は讀んで呉れるやうです。相手に自分の意思を傳へる爲に、わざわざ「現代」に阿つたり、「人工」語を使つたりする必要等全くない筈なのです。
冒頭にも言ひましたが、櫻花には「現代仮名遣」を使つてゐる人と言ふのは、ただ惰性で使つてゐるやうにしか見えません。歴史的假名遣を排撃する根據などないのです。ただ、馴れてゐるものと「違ふ」と云ふだけの理由で、多くの人は歴史的假名遣を排除しようとしてゐるのです。
ええと、繪馬の文章を「引用」した、と云ふ十四歳の娘さんの主張は、何うか(してゐると)思ひます。高森氏、國語に關する文章を書いてゐる訣ではないのだから、一般的な「それつぽい繪馬の文句」を、「地の文」に合はせて正かなにしても、別に問題はないのではないですか。もちろん、わざと正假名の文章の中で新假名の表記をする事もありますけれども、その場合、揶揄のニュアンスが含まれて來ます。そんな意圖は、高森氏にはないでせう。詰らない事に「現代仮名遣」と云ふ現状を「保守」したい人は拘るものです。
實際のところ、歴史的假名遣を使ふのは、それが美しいからではなく、正しいからで、それは「正しい」と云ふ理想があるのである、と云ふ信念に基いた發想であり、單純に現實を追認する現状維持派とは異る發想に據るものです。公の場で自分の意見を述べ、それを將來にも長きに亙つて保存され、記録される事を豫期・期待するからには、「現代仮名遣」のやうな變化の激しい話し言葉に依存した表音的な表記でなく、一貫した原理に基いて、過去から現在、そして未來まで、何時までも通用する歴史的假名遣で書かなければなりません。もちろん、「現代の人にだけ判れば良いのだ」と云ふ刹那的な發想でやつて行かうと云ふ人には何も言ひません。しかし、「現代仮名遣」に固執しなければならない必要性も理由もありませんし、正かなを讀めるのに「讀めない」、書けるのに「書けない」と言ふのは、嘘を吐く事である、と云ふ事を良く理解しておいて下さい。
最近「保守ブーム」になつて、何でもかんでも「保守」と言へば「保守」である、と云ふ風潮があるやうです。その所爲で、「現代仮名遣」を「保守」すると云ふ發想が生れて、歴史的假名遣を排撃する動きが出て來てゐます。しかし、さう云ふ人が「日本國憲法」の改正を主張したりするのですから不思議です。「日本國憲法」を「保守」する社民党の人なんかを西部邁が應援しないのは變ですが――否、村山首相を褒めた前歴が西部にはあります。一方、西尾幹二は、「保守」の筈なのに、「なんでもかんでも古いモノが優れている」とは思つてゐません。寧ろ、變るものはどんどん變れ、と西尾は考へてゐます。しかし、いづれにしても、單なる現状追認、現状維持の「思想」は、思想でも何でもないのであり、單に現實を運命と看做して受容れるだけの受動的な處世術に過ぎません。理想の觀念拔きに、思想と言ふものは存在しないのです。
バーチャルネット古本オタク櫻花23.4歳は、歴史的假名遣こそ正しいのであり、正しいものは長持ちするから良いのである、と斷言します。大體、歴史的假名遣に拒絶反應がある奴には、古本なんて讀めないのではないですか。十四歳の思想的怠け者やえよ、てめへは古本屋と古本マニアを敵にまはした。以上。ちなみに、櫻花さん番外地、URL變更+更新再開。
平成十七年三月二十八日
37.14度。

平成十七年三月二十七日
http://www5d.biglobe.ne.jp/~quia/report/2005/2005_03_c.html#date26-1
何だか誤魔化されてゐるやうな氣がする。と言ふか、はつきり言つて、野嵜の指摘を無視して、平野氏は論じてゐるので、誤魔化しである。最初の、綺麗にド・モルガンの対をなしている、と云ふ處の式は、野嵜の指摘を無視した「ハンバーグ」の例の式でしかない。だから無意味である。
私は、「何うでも良い」と思つてゐる人が、「〜しなければならない」と言つてゐる人の意見を「何うでも良い」と思はないのは矛盾だ、と、さう言つてゐる。この常識を、レトリックで平野氏は打破しようとしてゐる。
平野氏は、仮定より,AはBの主張の是非を気にしない。よってBに賛同することも反論することもない。と述べてゐる。此處までは、野嵜の考へと同じである。
しかし、平野氏は、續けて、無表情で,あるいは困惑したような笑みを浮かべて,ただBの傍らを通り過ぎる。その行動に自己矛盾はない。と述べてゐる。野嵜は、もし「人は何が正しいかを考へるべきである」と考へる BにAが反對の意見を表明したら、その時點以前にAは「人は何が正しいかを考へるべきである」と云ふBの意見が「正しいか正しくないか」を、A自身の信條に反して、考へてゐなければならない。これは矛盾である。と書いた。平野氏の「矛盾はない」と、野嵜の「矛盾である」とは、別の事象を指して言つてゐる。平野氏は、野嵜の言つてゐる事を、全く否定してゐない。單に、野嵜の言つてゐない事を採上げて、「矛盾ではない」と述べてゐるだけである。單に、ド・モルガンの対の方を、平野氏は指摘してゐるに過ぎない。
平成十七年三月二十七日
と言ふか、そもそも。

しかし、「人は正しいと云ふ事に拘るべきでない」と考へる人は、「人は何が正しいかを考へるべきである」と考へる人に反對出來ない。もし反對すれば、その瞬間に「正しい事に拘つた」事になつてしまひ、矛盾してしまふからである。

に對して、平野氏が、「べきでない」という禁止の表現が,一定の規範体系を前提としているため,命題「正しさに拘るべきでない」は必然的に自己矛盾に陥る。と書き、恰も野嵜が間違つた事を言つてゐるかのやうに規範の枠組み自体を拒否する主張は,むしろ「拘らなくてもよい」と認容の表現をとらなければならない。と指摘した事が、レトリックであり、論理的に正しくない。。
野嵜は、命題「正しさに拘るべきでない」は自己矛盾に陥つてゐる、と言つてゐる。そもそもの「立脚点」は、「人は正しいと云ふ事に拘るべきでない」と考へる人に存在しない、と指摘してゐる。
平野氏は、その存在しない「立脚點」をあらしめる爲に、野嵜が矛盾してゐるとした命題を、矛盾がない命題に置換へようとした。しかし、その「矛盾が無い命題」と平野氏が考へる命題も、實は矛盾があつたので、話がややこしい事になつてゐる。ハンバーグと、正しさとでは、同じやうにド・モルガンで割切る事が出來ない。
が、平野氏は、最初にレトリックの問題としてと言つて論じてゐるので、話にすり替へがあつたりしても、平野氏の論としては問題がない。
平成十七年三月二十七日
平野氏の重大な誤は、Aの「拘り」は規範の拘束力によるものではなく,自由選択の結果にすぎない(*)。と云ふ處にある。平野氏は、 野嵜さんはこの点につき,一方を撰擇した時點で,或種の規範が既にあるものと看做し得ると述べる。だが,これを認めてしまうとそもそも「正しさに拘るべき」という主張が立脚点を失うことになる。誰もが合規範的に行動しているのであれば,ことさらに「拘れ」と命じる意味はない。当該主張は自由選択の可能性を含意していると解さなければならない。と述べてゐる。この「立脚点をあらしめる爲の操作」は、誤である。
と言ふか、根本的な問題は、平野氏と野嵜との間で、「選擇」の概念が全く異るところにある。平野氏は、「自由選択」と言ふ。しかし、思想・信條に關する現在の議論における撰擇は、意思的になされる撰擇である筈で、偶然に據り確率的に決るものではない。賽子の目が偶然出るやうに、人間の言動が偶然「出る」ものではない。平野氏は、意思を無視して確率的に論理を展開してゐる。しかし、野嵜は人間に意思がある事を前提に、論理を考察してゐる。もし、今の議論に於て、人間の意思を考慮しないで良いのならば、「正しい」「拘り」と云ふ觀念そのものがナンセンスである。しかし、そもそも人間の意思に關する野嵜の議論自體が根本的にナンセンスだと平野氏は言つてゐるに等しい。野嵜は「規範」「正しい事」に行爲なり何なりを合致させる事について論じてゐるのに、平野氏は「規範」「正しい事」に行爲なり何なりが合致してゐるか何うかについて論じようとしてゐる。
平成十七年三月二十七日
平野氏にも學問的な立場がある事は解る。しかし、だからと言つて、野嵜の立場を勝手に自分の立場にすり替へて、それで野嵜の發言を解釋し、ねぢ曲げて、誤と極附けるのは、止めて頂きたい。人の文章を解釋する時は、その人の論理に從つて解釋するものだ。それが不可能であるならば、大學入試の文章讀解の問題は全て不可である。平野氏が今囘やつた事は、例のえろげの高橋氏がやつた事と同じである。即ち、論理の矛盾の指摘でなく、論理の前提の否定である。
平成十七年三月二十七日
と言ふか、「自由選択」とわざわざ「自由」なる語を入れて論じようとしてゐる邊、平野氏には何かの意圖があるやうに思はれる。野嵜は、撰擇が不自由なものである、と考へてゐる。平野氏は、撰擇が自由なものである、と考へてゐる。平野氏は、他人の文章を、自分の價値觀を前提に、歪め、解釋しようとしてゐる。それは許されない事だ。しかし、かうした「自分の價値觀を他人の文章に持込む」事の危險性を、平野氏は全く意識してゐないらしいのである。論理は客觀的だが、論理を操る人間は主觀的である。論理學とか唯物論とかを信奉する人に、その邊の自覺が足らないやうであるのは困つた事だ。そして、「論理學とか唯物論とかを信奉する」と云ふ言ひ方は、それ自體、矛盾を含んでゐる。野嵜は、さう云ふ矛盾を「立脚点」とする人の事を、問題視して、論じてゐる。
平成十七年三月二十七日
まじかるカナン、何で一時間やるんだ? 三十分録畫して、そこでMagicTVのキャプチャが終了したのに、まだ放送してゐる。一往、MXTVとかAT-Xとかで補完可能なので補完する積りだが、觀る價値あるのかなー? 録畫しただけで一度も觀てゐない。世評は芳しくないやうですが?
「まじかるカナン」公式Wwb
Opera 8で見るとなんか變だ。と言ふか、Flashでメニュー作るなよ。まあ、見られたくない内容なのかも知れないが。
二次元実況方面によると、奇跡落ちらしい。エロ以外觀るところ無いらしいなー。
平成十七年三月二十七日
こみっくパーティー 公式サイト
放送豫定のお知らせ欄が變だ。
TVK
4月4日〜26:15 毎週月曜日放送
テレビ神奈川
4月10日〜25:30 毎週日曜日放送
tvk=テレビ神奈川なのだが……。
あと、放送局と放送日時とが對應した形にマーク附けされてゐない。tableによるマーク附けが變と言ふか單に見た目がそれつぽくなつてゐるだけで、例へば讀上げプログラムでは、左のセルのテレビ局が一氣に讀上げられた後、右のセルの放送日時が讀上げられる事になる、「アクセシビリティ的に最惡」なもの。
粗筋とキャラクタ紹介とで説明に矛盾があるし、他にもこの公式サイト、色々な意味でアレ過ぎる。
平成十七年三月二十七日
無表情で,あるいは困惑したような笑みを浮かべて,ただBの傍らを通り過ぎる。=「反對出來ない」。恐ろしく簡單な話だ。機械として通り過ぎるしかしないのならば、自然、反對しない訣であるが、それは人間として反對出來ないのである。
もしかすると、平野氏は「反對出來ない」を「反對してはならない」の意味でとつたのだらうか。それは明かに誤讀である。
平野氏は野嵜に全く反論してゐない。
平成十七年三月二十七日
ニッポン放送の問題を、ライブドアの堀江氏の言ふがまゝに「TVとインターネットの融合」と云ふメディアの觀點からのみ論じようとする人が多過ぎる。プラットフォームとしてのメディアの上で何をやるか、が問題だ。堀江氏ははつきり、ニッポン放送の藝能に關する強みを活かして行く、と言つてゐる。と云ふ事は、フジサンケイグループの「正論路線」を、堀江氏は重視してゐない。寧ろ、「儲からない」として切捨てる方向に行きたい筈である。
が、今囘、フジテレビもニッポン放送も、「正論路線」こそが自らの「企業の価値」であると言はなかつた。もちろん、ニッポン放送もフジテレビも、扶桑社や産經新聞社がとつてゐる「正論路線」とは一線を劃してをり、御笑ひとか藝能とかを重視してゐたから、堂々とさう云ふ主張を出來なかつた。だが、其處にライブドアがつけこんだやうな印象がある。思想的な面で、フジサンケイグループが「一枚岩」であつたら、メディアの融合等と云ふ低次元の議論で今囘の事件は終らなかつた可能性がある。
平成十七年三月二十七日
ガンダムSEED DESTINY。脚本が大野木寛なのも駄目な一因ではないか。
平成十七年三月二十七日
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20050327#1111910337
はてなブックマーク - 判りにくい文章を書く方法 - hirax.net
判りにくい文章を書く方法 - hirax.net
文法論で「日本語に主語はあるか」と云ふ議論があるけれども、文章技術のレヴェルの話でそんな事を言つても仕方がない。「主語-述語」の對應とか、てにをはとかがきちんとしてゐる事は必要だ、と云ふ程度の事は、技術の話として、言つて良いと思ふ。次に、一つの文章は單文で書く事、一つの文章には「主語-述語」の關係が一つであるのが原則である事も、きちんと指摘しておくべきだ。その邊でこちやこちや煩い議論をしてゐるから、駄目な文章しか書けない連中がつけあがる。

平成十七年三月二十六日
http://www5d.biglobe.ne.jp/~quia/report/2005/2005_03_c.html#date25-1
「人は正しいと云ふ事に拘らなくてもよい」「人は正しいと云ふ事に拘つてもよい」と考へる人Aがゐたとする。
「人は正しいと云ふ事に拘らなくてもよい」をAが採用した時。この時、「他人の意見」が「正しいか正しくないか」をAは考へない筈である。だから「人は何が正しいかを考へるべきである」と云ふ他人Bの意見を「正しいか正しくないか」と考へない筈である。もし「人は何が正しいかを考へるべきである」と考へるBにAが反對の意見を表明したら、その時點以前にAは「人は何が正しいかを考へるべきである」と云ふBの意見が「正しいか正しくないか」を、A自身の信條に反して、考へてゐなければならない。これは矛盾である。
「人は正しいと云ふ事に拘つてもよい」をAが採用した時。この時、「他人の意見」が「正しいか正しくないか」をAは考へる筈である。だから「人は何が正しいかを考へるべきである」と云ふ他人Bの意見は「正しい」とAは考へる筈である。もしAが「人は何が正しいかを考へるべきである」と考へるBに反對の意見を表明したら、その時點でAは「人は何が正しいかを考へるべきである」と云ふBの意見が「正しいか正しくないか」を考へたA自身の行爲を否定する事になる。これは矛盾である。
ところで、「人は正しいと云ふ事に拘らなくてもよい」「人は正しいと云ふ事に拘つてもよい」と「人は正しいと云ふ事に拘つてはならない」「人は正しいと云ふ事に拘らなければならない」とは、異る命題である。「人は正しいと云ふ事に拘らなくてもよい」「人は正しいと云ふ事に拘つてもよい」は、「人は正しい事に拘らなくても拘つてもよい」と纏めて表現する事が出來る。「人は正しいと云ふ事に拘つてはならない」「人は正しいと云ふ事に拘らなければならない」は、排他的な二つの命令であり、纏めて表現出來ない。
平成十七年三月二十六日
「ハンバーグを食べてもよい」「ハンバーグを食べるべきだ」と「人は正しいと云ふ事に拘らなくてもよい」「人は正しいと云ふ事に拘つてもよい」とは、性質が異る。
ハンバーグにしても正義にしても、命令の主體は正義の概念に據つて拘束される。「ハンバーグを食べてもよい」「ハンバーグを食べるべきだ」は、單純に正義の概念で正義の外部のものを拘束する。「ハンバーグを食べてもよい」と考へる人は「ハンバーグを食べなくてもよい」とも考へる筈で、だから「ハンバーグを食べなければならない」とする意見に反撥する事はあり得る、と云ふ單純な考察は可能である。しかし、「人は正しいと云ふ事に拘らなくてもよい」「人は正しいと云ふ事に拘つてもよい」の場合、正義の概念で正義の概念自身を拘束する。この時、「人は何が正しいかを考へるべきである」に反對する以前の問題として、「人は正しいと云ふ事に拘らなくてもよい」「人は正しいと云ふ事に拘つてもよい」と云ふ主張が「人は正しいと云ふ事に拘らなくてもよい」「人は正しいと云ふ事に拘つてもよい」と云ふ主張自身を批判する問題を檢討しておかなければならない。
平成十七年三月二十六日
ところで、「人は一切、正しい・正しくないに拘つてはならない」と云ふ命令は、自分自身に矛盾を含むもので、成立たない。
平成十七年三月二十六日
なほ、「拘る」と云ふ用語は、「拘らなくても良い事に拘る」と云ふ惡い意味が本來の意味であり、さう云ふ事前の價値判斷を含むものだから不正確な用語だが、當座、價値判斷を想定してゐないと思はれる平野氏の用法に從ふ。
平成十七年三月二十六日
しかし、本當に「ハンバーグを食べてもよいし、食べなくてもよい」人は、「ハンバーグを食べなければならない」とする命令に、唯々諾々として從ふ筈である。「食べなくてもよい」けれども、別に「食べてもよい」のである。「食べない」に固執すべき理由はない。もし、「食べなければならない」に抵抗するとしたら、その時點でその人は、「食べてもよいし、食べなくてもよい」と云ふ意見を抛棄し、「食べない」と云ふ意見を諸有した事になる。
實は、「食べてもよいし、食べなくてもよい」と云ふ「主張」は、「食べなければならない」と云ふ、自らの立場とは次元の異る命令の存在を豫想してゐないから成立してゐる「主張」である。その種の命令が外部からやつて來た時、應答は態度となつて擇一的に現はれる。その態度の撰擇に當つて、「食べてもよいし、食べなくてもよい」と云ふ從來の「主張」は根據とならない。「どちらでもよい」と云ふ場合、どちらか一方を必然的に撰擇しなければならないとする規範とはならない。そして、一方を撰擇した時點で、或種の規範が既にあるものと看做し得る。もちろん、完全な偶然と云ふ事も自然界にはあり得るが、人間の行爲――特に、命令に對する應答――に偶然性を認めるのは困難である。
批判の存在を豫想しないから「正しいと云ふ事に拘つてもよいし拘らなくてもよい」と云ふ「主張」は成立つ。批判が來た時、その人は或立場に移る。その移り方がランダムであるとする主張はあり得るが、しかし、移つた時點でその立場の根據をその人は撰擇してゐる。それが既存の主張と矛盾するものである事は、あり得る――と言ふより、必然的に矛盾する。「どちらでも良い」と云ふ立場が、現實には「どちらか一方」になるのだから、矛盾である。
平成十七年三月二十六日
?D 大和但馬屋バンブラ日記 - 私が何故譬へ話を警戒するか
話を圓滑に進めようと云ふ目的で言換へなり喩へなりが出現する餘地はある事。しかし、言換へなり喩へなりは、妥當である場合にのみ、有益である事。元の論理Aと、「Aの言換へ」「Aの喩へ」と稱されるものの論理とが、一致してゐるか何うかは、確認されて良い事。
平成十七年三月二十六日
?D 大和但馬屋バンブラ日記 - 数少ないサンプリングによる結論ありきの分析をするひと
唐突に「野嵜は『現代仮名遣』を卒業して正かなを使ふやうになつた」なんてフレーズを思ひ附いた。「鈴木氏は、せつかく卒業した『現代仮名遣』に戻つてしまつて『幼時退行』を起してゐる」とか。ええと、以上は「レッテル貼りだけでは惡口の言ひ合ひになる」と云ふ譬へ話です。云々。
平成十七年三月二十六日
リンク集の續き。そんなリンク集があるかと突込まれれば反論のしやうが無いが、それも俺の不徳の致す所だとか何とか言つておけば世の中、丸く收まるらしい。
海賊マルドロオル » Blog Archive » れきしてきかなづかい
http://www.otsune.com/diary/2005/03/26.html#200503261

平成十七年三月二十五日
AIRおしまひ。各方面には申し訣ないが、何が何だか全然わからん。最後の五分は涙流してげらげら笑ひながら觀てゐた。何か壮大な話なんだが。えーと。ゲームは未プレイ。やつてゐたら解るんだらうか。次囘は總集編。
平成十七年三月二十五日
舞-HiME。何だかんだ言つてちやんとクライマックスに向つてゐる。おもしろい。
平成十七年三月二十五日
なんか先日から投稿してもメールが流れないは、メンバーの承認をメールで出來ないはで、變だと思つてチェックしたら、egroupが何時の間にかYahoo!グループになつてゐた。Yahoo!殺す。管理出來ないので仕方がないから數年ぶりにYahoo!のIDを取つたけれども、いろいろ面倒な事をYahoo!の都合で押附けられて、非常に腹が立つ。取敢ずペンディングになつてゐた人は承認しましたけれども、このメーリングリスト、續けるか續けないかは檢討中。
あと、GeoCitiesのサイトのYahoo!GeoCitiesへの移行とかは絶對にしない。櫻花さん番外地は更新再開しません。
平成十七年三月二十五日
「中二病」について。
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20050324#p1
最近「中二病」という言葉をよく聞くが、こういうキャッチーな概念を使っていろいろな対象を分析するのはほとんど自動的にできてとても便利ではあるのだが、その分とても安易なのではないかという疑問もつきまとう。
結論としての「キャッチーな言葉」を最初に設定して、それに適合するやうに「論理」を組立てる、と云ふ「分析」は、例の鈴木氏がやつてゐるのだけれども、駄目だらう。
概念は定義されていなければ論理的な分析は不可能だが、たとえばデカルトの「コギト」にせよ、カントの「超越論的」にせよ、その概念内容の定義は、論考に先立って与えられているというよりもむしろ論考とともに示されているといったほうがより相応しい。
堀米庸三が『歴史をみる眼』で述べてゐるけれども、假説を設定して歴史を見て行くのは必要な事だ、だが、その假説に固執してしまふのは困る。
對象を、觀察するのみならず、分析するのならば、自分の據つて立つ場所をきちんと設定しなければならない。けれども、その立場が確かに信頼出來るものであるかは、常に反省されてゐなければならない。
大體、渡邊さんの指摘に同感。「キャッチフレーズ」「符丁」「紋切型」「スローガン」の類を使ふ人間には思考が無いと言つてよろしい。
ところで、古書會館の古書展で青銅社版のフローベール『紋切型辞典』を買つて來た。
平成十七年三月二十五日
http://d.hatena.ne.jp/castle/20050325#p2
舞-HiMEの感想をはてなで見てゐたら、なんかうちへの言及があつて吹いた。
プロレスでプライドをしている違和感というか。
うちはノアだからガチなんだよ。

平成十七年三月二十四日
「Aが正しい」と考へる人は、「Bが正しい」と考へる人に、理由を擧げて反對出來る。この場合、議論が成立する。
しかし、「人は正しいと云ふ事に拘るべきでない」と考へる人は、「人は何が正しいかを考へるべきである」と考へる人に反對出來ない。もし反對すれば、その瞬間に「正しい事に拘つた」事になつてしまひ、矛盾してしまふからである。それでも反對するのならば、その人は、自分が矛盾を氣にしない無頓着な性格である事を暴露するか、根據なしに氣に入らないからと言つて他人を罵るやうな性格である事を暴露するか、のどちらかである。
平成十七年三月二十四日
ネギま! @ 圖書館島。設定はいろいろとつつこみどころがあるけれども、作畫はいつもほどつつこみどころがない。
平成十七年三月二十四日
pêle-mêle - ひゅーひゅーと口笛吹いて譬喩を吐く
うちがターゲットではなかつたのだと。餘計な事を言ふと、駄洒落を言ふのはおつさん。
關聯リンク集。
http://d.hatena.ne.jp/yms-zun/20050323/chunibyo
http://d.hatena.ne.jp/yms-zun/20050324/resyskszk
http://esu.oresama.org/200503c.html#20050323_s4
http://esu.oresama.org/200503c.html#20050325_s3
平成十七年三月二十四日
最後に、バードウォッチャーが巣箱を突くのはウォッチャーのマナーに反する行為なんで、私のカキコはこれで本当に最後にします。と「ノズラー観察同好会資材係」 @ 59.222.100.220.dy.bbexcite.jpが譬喩で物を言つてゐる。この發言について、たしかに感覚的な譬喩を濫用することで「判った気」になるのは危険かもしれません。しかし譬喩そのものに拒否反応を示している(ように見える)のは、行きすぎなのではないでしょうか。と評價するのは、妥當でないと考へる。バードウォッチャーと「観察同好会」とは何の關係もない。關係があるとしても、單にパラレルの關係にあるだけで、因果關係にはない。ならば、バードウォッチャーが何う斯うしても、「観察同好会」がそれに倣ふべき必然的理由はない。となると、この「譬喩」は、單なる洒落である訣だ。或は聯想ゲーム。で、これがその場の洒落なり何なりならまだ良いのだが、「観察同好会」を名乘るこの人物は、全てを聯想ゲームで考へてゐる――と言ふより、考へる、と云ふ事をしてゐない。「観察同好会」は、ただ好き嫌ひで、人を評價してゐる。自分が嫌ひであると云ふだけの理由で誰かを駄目であると評價し、それで十分、自分は論理的だと思ひ込んでゐる。そして、その嫌ひな相手を見下して、自分一人で好い氣になつてゐる。實際、「チミ」云々と言つてゐるのだから、「観察同好会」は自己陶醉に陷つてゐるのである。が、これは困つた事だと思ふ。
平成十七年三月二十四日
はてなダイアリー - 中二病とは
スローガンで物を考へるやうでは駄目。
平成十七年三月二十四日
そしてこうした「譬喩に対するかたくなさ」が、すべてを整然と秩序立てていたいという欲望にドライブされており、そこが正かなへのこだわりやCSS原理主義的と共通しているのが面白く、ついつい「それって中二病っぽいよね」とひとくくりにしてしまいました。と鈴木氏は書いてゐる。ここで先づ疑問に思つたのだが、なんで「ドライブされており」なんて書かなければならないのだらうか。「衝き動かされてをり」といつた程度の事なのだらうけれども、さう書けば良いのではないか。しかし、それならばそれでまた疑問が殘る。「かたくなさ」が「ドライブされる」と云ふ言ひ方は、「あり」なのだらうか。「かたくな」ならば動いてゐないぢやん。
平成十七年三月二十四日
ここから先は一般論になるので別項目にするが、新思想だかニューアカデミズムだかに毒された人の文章は、一々意味が取りづらい。秩序とか理路とかを輕視する人は、秩序だつた、理路整然とした文章を書けないのではないか。
平成十七年三月二十四日
さて、言葉の指示するものと言葉との關係については、ギリシャ時代から議論の對象となつてゐた。けれども、ソシュールに至つて、「言語」とは「社會制度」であり、個別の「社會制度」を客觀的に研究するのが「言語學」であると規定され、その「言語學」において言語能力については思考停止する事となつた。人間の判斷力なり直觀なりは、言語能力に據るものだけれども、それの據つて來たるところを考察するのは最早哲學である。科學的な「言語學」が研究の對象とすべきではない。ところが、それでは、言葉の指示するものと、言葉との關係を、説明出來ない。それで時枝誠記が言語過程説で、事物を認識し、言葉に表現する過程の説明を試みたけれども、結局のところ、なぜその兩者が人間の頭の中で結び附けられるのかは、説明出來てゐない。茲で、象徴の概念に據る説明もあり得るのだが、もちろん、最早客觀的な科學ではない。だが、言葉に據つて人間が事物なり何なりを認識するのならば、カテゴライズの能力としての言語能力を人間は普遍的に持つ。そのカテゴライズを行ふ根據として、我々は幾つかのものを考案し、檢討して來た。その結果、現在、我々は、單なる故事つけと、論理的な關聯附けとを、區別して考へるし、可なりの程度で區別し得る。この時、或「譬喩による説明」が、果して故事つけに屬するか、論理的な説明となつてゐるのかは、檢討して決定すべきであり、大體のところ決定し得る。
平成十七年三月二十四日
「何とか病」に關して。日本の「中二病」は定義が曖昧なレッテル――と言ふより、單なる罵倒の爲の惡口――だから話にならない。海の向うの「Wiki病」は、もちろん、批判すべき對象を想定はしてゐるが、Mr Edの文章に於てはそれなりの定義がなされてゐるから、議論の對象となる。日本と歐米の違ひもあるのだらうが、所詮「中二病」はラジオ番組で未定義のまゝ何となく使はれるやうになつた「それつぽい言葉」であるに過ぎないのに對し、「Wiki病」は定義の爲に書かれた文章に據つて明確に概念が定義された言葉である、と云ふ、據つて來たるところの違ひが大きい。「中二病」は、取敢ず言出された言葉であり、定義が後附けである。「Wiki病」は、先に明確な批判對象が設定され、批判對象に關して詳細な定義がなされた上で、その限定された批判對象に附けられた名稱である。「中二病」の場合、定義レヴェルで泥仕合の言爭ひが起り得る。「Wiki病」の場合、定義者のMr Edによる定義自體は明確だから、それに對する價値判斷のレヴェルで議論が行はれ得る。
平成十七年三月二十四日
ハーバート・リードが藝術を定義してゐるのだけれども、例によつて譯本が(二册ある筈なのに)何處かに埋つてしまつて見附からない。仕方がないので、田村書店の無料箱から拾つて來たペリカンブックス版から原文を引用しておく。

It was Schopenhauer who first said that all arts aspire to the condition of music; that remarks has often been repeated, and has been the cause of a good deal of misunderstanding, but it does express an important truth. Schopenhauer was thinking of the abstract qualities of music; in music, and almost in music alone, it is possible for the artist to appeal to his audience directly, without the intervention of a medium of communication in common use for other purposes. The architect must express himself in buildings which have some utilitarian purpose. The poet must use words which are bandied about in the daily give-and take of conversation. The painter usually expresses himself by the representation of the visible world. Only the composer of music is perfectly free to create a work of art of his own consciousness, and with no other aim than to please. But all artists have this same intention, the desire to please; and art is most simply and most usually defined as an attempt to create pleasing forms. Such forms satisfy our sense of beauty and the sense of beauty is satisfied when we are able to appreciate a unity or harmony of formal relations among our sense-perceptions.

嚴密に言ふと、藝術の定義と言ふよりも、美の定義になるのだが、まあ、一往。Herbert Read "The Meaning of Art"
平成十七年三月二十四日
で、その田村書店の無料箱から、河出書房の世界文学全集6 『「ボヴァリー夫人」「惡の華」他』も拾つて來たのだが、月報で佐藤朔が「近代文學の誕生 ボオドレエルとフロオベエル」と云ふ短文を書いてゐる。ここで佐藤氏は、ボードレールとフローベールの關係について簡單に檢討し、二人の文學史における意義を述べてゐる。
ボードレールは、詩人であるとともに批評家である。そのボヴァリー夫人論は極めて優れた文藝評論である。その指摘を受けてフローベールが「ボヴァリー夫人は私だ」と述懷したのではないか、と云ふ推測もあり得るのではないか。姦通事件は、夢想的で知的なボヴァリー夫人にとつて夫や社會に對する反抗の積りであるけれども、田舎女の姦通事件はそれ自體、ありふれたものに過ぎない。だからこそ作者はこれを精緻な文章で小説にし、平凡な女の口を通して、もっとも嚴肅で決定的な言葉を吐かしめたのだ、とボオドレエルは批評してゐる。ボードレールは、『ボヴァリー夫人』とは異る氛圍氣の『聖アントワーヌの誘惑』も論じてをり、兩者に皮肉と抒情の行動の能力が共通して表はれてゐると書いてゐる。皮肉は即ち批評であり、抒情はポエジーであるから近代詩の特質であるし、同時に近代小説の特徴でもある。これらの點で、ボードレールもフローベールも、通ずるところがある。抒情の面では、ボードレールの神に救いをもとめると共に、惡魔の聲にも耳を傾け、上昇する精神と下降する肉體の相克に苦しみ、惱むという宗教的葛藤を、フローベールは、自分では持たなかつたが、理解する事は出來た。フローベールは『惡の華』の理解者であつた。二人は、『藝術のための藝術』の一派に屬するが、これは政治思想や道徳觀が優位を占めている藝術への反動として言われたのにすぎず、決して人生を超越し、象牙の塔にとじこもって創作に耽る態度をさすのではない。既に、ボードレールの「近代美」やフローベールのリアリズムの手法は、一般化して、古臭くなつてしまつてゐる。しかし、二人の近代精神に基いた批評とポエジーに關する能力は、現代の小説家や詩人も、意識して身に附けておかなければならない。
と、そんな事を佐藤氏は述べてゐる。
近代以降の詩人は、單に詩的な文章を書いてゐればそれで良い訣ではなく、ボードレールはさうだし、エリオットもさうなのだけれども、高度に知的である――それは批評的と云ふ意味なのだけれども――必要がある。一方の小説家にしても、批評的な精神とともに詩的な感覺は失つてはならない筈である。これが、日本では、エリオットが入つて來て一時期、常識化した筈なのだが、一度、忘れ去られてしまつたやうに思はれる、現在、詩人は單に詩的である、と云ふ通念が、文藝の世界で再び支配的になつてゐるのではないか。そして、困つた事に、、小説家は感性的である、と云ふ通念が、また別に成立し、支配的になつてゐるのではないか――さう思はれる。だからこそ渡邊さんが「唯物論」と云ふスローガンを持出して、風潮を批判しようとされたのではないか。
だが、問題は、單に技術とか方法論とかのレヴェルで考へられるべきではないと思はれる。もちろん、技術とか方法とかを用ゐるのは構はないのだが、それが何の反省も無しに、無意識で、盲信的になされる傾向が現代にはある。半世紀前の佐藤朔の時代の方が、現代の文藝關係者よりも、文章を書く事に意識的であつたのではないか。佐藤氏や、もちろん同時代の小林秀雄等は、今となつては古臭い方法論をしか知らなかつた。が、それを彼等は意識して用ゐてゐたと思はれる。さう云ふ意識的な態度は、現代に於て復活されるべきではないか。新しい方法論への盲從をこそ、我々は危險視すべきである――「新しい」と云ふ事への無意識の信頼を、我々は疑ふべきである。それが單なる反動に陷つて貰つては困る、と云ふ批判ならあり得る。しかし、意識的な信頼は、意識的な懷疑をも含む筈であるし、さうであらねばならない。その意味で、懷疑を含んだ新しい方法への信頼もあり得る。が、過去の方法を經てゐないで、新しい方法を適切に扱ふ事は可能か。「新しい方法論」が傳統の上に成立して來る西歐と、西歐の方法論を移入してやつてゐる日本とで、條件は異る筈である。
平成十七年三月二十四日
http://www5d.biglobe.ne.jp/~quia/report/2005/2005_03_c.html#date24-3
「人は正しいと云ふ事に拘らなくてもよい」と考へる人は、「人は正しいと云ふ事に拘つてもよい」と考へる筈だから、「人は何が正しいかを考へるべきである」と考へる人に反對出來ない。
ちなみに、「絶對的な眞理」と「或價値觀を認めた上で、それを前提として成立する、論理的な體系としての正しさ」とは區別すべき。
平成十七年三月二十四日
キリスト教の正統の考へ方で、三位一體論は興味深い。非キリスト教徒がクリスチャンになる時は、神と子と聖靈とを信じなければならない。ところで、神と聖靈との實在は證明不可能だが、實は「子」であるイエス・キリストも、實在が證明されてゐないのである。ヤ・イ・シュール『おもしろい暦の科学』(教養文庫)は、ソ聯の科學啓蒙書の飜譯だが、はつきり「キリストは實在しなかつた」と指摘してゐる。その神と子と聖靈との存在を前提に神學の體系は成立してゐる。だが、クリスチャンは「實在が證明出來ない神と子と聖靈」の存在を信ずる事になつてゐる。それで、神學の體系は「クリスチャンにとつて正しい體系」となる。ソ聯の唯物論者は「ぺてん」と呼んだのだけれども、キリスト教と云ふものは確かに良く考へられてゐる「ぺてん」である。

平成十七年三月二十三日
虹裏病 : 無職になる事で、一日中虹裏を見て遊んでゐられると云ふ反社會的な信念を特徴とする精神病。この依存症は、「陛下」以來、發症數を増やし續けてゐる。云々。
平成十七年三月二十三日
pêle-mêle - ちゅうにびょう正かなならばちゆうにびやう 
何でもかんでも「中二病」と呼んでしまふのは思考停止だ、と判つてゐながら思考を停止するこの人は何うかしてゐると俺は思つた。
俺のやつてゐる事が一般に他人の目には「異樣なこだはり」と映るものなのかどうかは知らないし、俺が本當に「重度の中二病」なるものに罹つてゐるのか何うかは自分自身で判斷すべきものでないからしない。けれども、自分が「ティーンエイジャーの頃、粹がつて正かなで書いてゐた」と云ふ眞性の「中二病」だつた事を根據に、他人も「中二病」であると極附けるのは如何なものか。と言ふか、この人、俺の文章を讀んで、なんか過去のトラウマを突つかれたやうに感じて、嫌な氣分になつたからといつて、それで俺に嫌みを言つてゐるやうに見えるのだが、そんな個人的な腹癒せの爲に馬鹿にされてはたまつたものではない。
現在の俺は、正かなに拘つてゐるのではない。拘るとは、拘るべきでない事に拘る事であり、俺は自分のやつてゐる事はさう云ふ正しい意味での「拘り」でないと思つてゐる。別に正かなで書くと嬉しいとか、さう云ふ「中二病」的な無邪氣な感想はない。單に、さうするのが論理的に正しいからさうしてゐるに過ぎない。形式的・論理的な正しさは志向すべき事であり、その志向がないのならば他人の行爲を批判してはならない。他人の行爲を誤だと批判するには、自分に正しいと考へる信念Xがなければならない。そして、批判をしてゐる時點で、その人はそのXを信じてゐるのである。嘗て「中二病」であつた鈴木芳樹氏は、今では「大人」になつて、「正しいと云ふ事許りを氣にしてゐては生きて行けないのだから妥協も時には必要だ」と云ふ處世術を身に附けたけれども、その處世術が信念となつてしまひ、過剩に「正しい」排除の方向に意識が向つてしまひ、却つて自分の立場を棚に上げて他人を幼稚呼ばはりしてしまふ迂闊な眞似をするやうになつてしまつた。しかし、鈴木氏のやうな他人を見下したやうな顔をしてただ惡口を言ふだけと云ふのは、正當な批評とは呼べない。それは誹謗であつて、言論ではない。
自分の立場を意識しないで、自己中心的な價値觀に基いてゐるのにもかかはらず、客觀的であるやうな顔をして他人を罵つてしまふこの鈴木氏のやうな無責任な人が日本には多くて困る。かう云ふ自分を中心とした世界認識しか出來ない鈴木氏のやうな人は、良く知らないが「セカイ系」の人とか言つてしまつて良いのでないか、と思ふ。それは兔も角、原稿が遲れてゐると言ふのに一々うちに反應してしまふとは、鈴木氏も相當俺の文章に腹を立てたものと見える。
ちなみに、俺のWXGの正字正かな辭書は、新字新かなと完全に共存してをり、どつちでも同じやうな速度で入力出來る。以前はPCの文字セットの不備に配慮して新字正かなに「拘つてゐた」が、北極三號では大體正字正かなの方が樂に入力出來るのであんまり新字正かなには「拘らない」事にして入力し易い表記である大體正字正かなに統一した。それだけの話。と言ふか、俺がそんなに拘つてゐるとしたら、櫻花さん番外地とかメディアミックスは可能かとかの新字新かなの文章は何なんだ?
※もちろん、俺は「迂闊」と云ふ言葉を惡口の積りで使つてゐるのである。
少なくともオレには無邪気にしか感じられない。なんて書いてしまふ感性的な人なのだから「セカイ系」と呼んで良いのでないかとか適當。「セカイ系」つて「感性的」つて事ですよね?
平成十七年三月二十三日
はてなダイアリー - セカイ系とはによれば、たかだか語り手自身の了見を「世界」という誇大な言葉で表したがる傾向がある作品を「セカイ系」と呼ぶらしい。なんか自分の中二の頃の事を語つてゐるらしいので、鈴木氏のブログは「セカイ系」なのだらう。まあ、自意識は過剰だが、自己の立場は全然認識出來てゐないと云ふ點、「セカイ系」の概念に當嵌るのか何うかは知らんが、取敢ず「中二病」のやうな曖昧なレッテルを貼る人物には「セカイ系」邊の適當なレッテルを貼つておいて良いだらう。
平成十七年三月二十三日
ローゼンメイデンの第二期があるとかないとか。
2005年4月スケジュール
TBSアニメ「ローゼンメイデン」公式ホームページのBBSで擔當さんは噂を否定。
取敢ず關東と九州で放映された分が今年の夏に關西で放映されるから、虹裏でのブームは續きさう。
平成十七年三月二十三日
「私が正かなを使っていたのは若気の至りでした。大人になったので、もう使っていません。今でも使っている人を見ると恥かしくなります」と、そんな程度の事を鈴木氏は言つてゐるに過ぎない。鈴木氏は、「中二病」と言つてインパクトがある文章に見せようとしてゐる。けれども、さう云ふ「テクニック」を使ふ必要はないと思ふ。普通の言葉で書けば良い。さう云ふ文章の方がすつきりして見える。俺は小學生の頃、それに氣附いた。
とか言つて煽つて見る。
平成十七年三月二十三日
Amazon.co.jp: 本: Blog完全マニュアル―HPよりカンタンに開設できる!
徳保氏の評價は星二つ。
一往、よもよもさんの評價も紹介しておく。鈴木芳樹「[はてな]ではじめるブログ生活」、水野貴明「はてなダイアリーガイドブック」
平成十七年三月二十三日
Amazon.co.jp: 本: メールを書く!ネット掲示板に書く!嫌われないための147のルール
正かな派の人から總好かんを食つてゐる鈴木氏の今囘の發言、「紺屋の白袴」とか「醫者の不養生」とか言ふのの實例ですか?

平成十七年三月二十二日
連休中、全然本を讀めなかつた件について。
平成十七年三月二十二日
「だ」「である」體で書いてゐる=傲慢――と云ふ見方があるとしたら、それは何か變であるやうに思はれる。
平成十七年三月二十二日
月詠。葉月は惡くない、惡いのは葉月に附き纏ふ吸血鬼の方だ、とかいろいろ書かうと思つたけれども最後の最後で長さん吹いた。製作者の人、自棄になつてゐるだらう。
平成十七年三月二十二日
角が丸い畫像で以下略
Operaでは角が丸い。Internet Explorer 6では何も見えん。
平成十七年三月二十二日
CAP! - 快適バードライフを応援するショップ
唐突だけれども。鳥は人間の最良の友であると俺は思つてゐる。
平成十七年三月二十二日
Wikiphilia - The New Illness 日本語訳(Wiki病 - 新種の病気)
http://d.hatena.ne.jp/yomoyomo/20050224#wikiphilia(Wiki病という新種の病?)
http://d.hatena.ne.jp/yomoyomo/20050314#yamdas(YAMDAS更新、もしくはWiki病なんてクソ食らえ)
http://d.hatena.ne.jp/yomoyomo/20050322#wikiphilia(「Wiki病 - 新種の病気」反応リンク集)
これ、非道いところもあるけれども、確かに當つてゐるところも多い文章だよ。當つてゐると思ふのは間違ひなく「義」とか「ノズラー観察同好会」とかの書込みを見てテンションが下がつてゐる爲。やつぱり、誰でも書込める掲示板とかWikiとかBlogとかは、良いか惡いかを檢討して良いものだよ。と言ふより、利用者である人間の本性が善であるか惡であるか、さう言つたところから、反省しても良いのではないだらうか。もちろん、俺自身、そんなに善人である積りはない。冷静に讀めば、「Wiki病」にも、俺のWiki否定論にも、必ずしも當を得てゐない部分があるだらうとは思ふ。云々。
で、その「俺のWiki否定論」。と言ふか、ウェブに公開されたインタラクティヴなコンテンツ一般を否定する論。WikiにしてもBlogにしても、はたまた掲示板にしても、「誰でも書込める」と云ふ類のものは、常に書込まれる内容の質が低下する危險性をはらむ。現在、WikiやBlogを評價する人々は、ただ單に、書込む人間の質が高いWikiやBlogを見て、物を言つてゐるに過ぎない。書込みの質が高いと云ふのは、質の低い書込みを何らかの理由で排除してゐるからである。「質の高いWiki」「質の高いBlog」は、一般人にとつて敷居の高いWikiやBlogであり、多くの場合、或特定の傾向を持つた人々によつて運營され書込まれてゐるWikiやBlogである。ハッカーみたいな人が擧つて書込んでゐるとか、なんかコンピュータ關係やネットワーク關係の偉い人とかが作つてゐるとか、さう云ふところである。その手の處は、餘程のDQNでもなければ、避けて通る。避けて通ると言へば聞えは良い(?)が、要は排他的なのである。だが、そこいら邊のをぢさんや無職の人が良く解らないまゝ流行つてゐるとかそんな理由で取敢ず作つたWikiだのBlogだのは、本當に誰でも氣樂に書込めるから、屡々荒れて、役立たずのコンテンツに墮してゐる。そして、さう云ふ處を救濟しようと云ふ考へは、えらいひとたちには餘りない。そして、排他的なコミュニティの中で、「質が高い」コンテンツが「どんどん出來る」。知的階級と一般人との分裂とか對立とか鬪爭とか、さう云ふ事は別に論じようと思はない。けれども、「知的な人々のコミュニティ」の中から「外部の批判者」を「ただ外部の人間である」と云ふだけの理由で見下してしまふ、と云ふ態度や傾向が、ネットワーク社會にも「ある」と云ふ事を、我々は意識しておいて良いのではないかと思ふのだ。と言ふかさ、ふつうのひととか無職の人とかがサイトをやつてゐると「ギャラリーに泣きつくな」とか「自分がまいた種は自分で刈り取りなさい」とか言はれる訣で、サイトの排他性だとかサイト管理者と閲覽者とのコラボレートだとかを根本的に否定する人間が實際ゐるのである。さう云ふ人間が、匿名の掲示板を利用して他人を罵つて喜んでゐたりするからたちが惡いと言ふか何か矛盾してゐるやうな氣がするのだけれども、さう云ふ人間がゐてウェブを利用してゐる、と云ふ事も、我々は考へておく必要があると思ふ。世の中、性質の惡い人間がゐて、さう云ふ連中にもWikiやBlogは門戸を開放してゐるのだが、今のまゝで果してWikiやBlogが何時までも機能し續けてゐられるのだらうか。と言ふか、今の時點で、機能してゐると一般に言つて良いものだらうか。夜も遲くなつて我ながら何を書いてゐるのか良く解らなくなつて來たので寢ます。
ところで、WikiとBlogを含むサイトは、複數の人間で作るサイトなのだから、「個人サイト」と呼べるものなのでせうか。
平成十七年三月二十二日
「同好会」の何某は、野嵜が自分を、他人とは違ふ特別な「言論人」であるかのやうに思つてゐると考へてゐるらしい。しかし、野嵜の考へはさうではない。なぜなら、ウェブのコンテンツは例外ナシに、全て言論だからである。野嵜のサイトの文章も、ウェブのコンテンツだから、言論であるに過ぎない。だから、野嵜の文章は言論であるが、その野嵜が批判した對象のウェブサイトの文章も全て言論である。野嵜が自分の言論に對する何某の所謂「言論の不自由」を認めなければならないとしたら、野嵜に批判されたウェブサイトの中の人も當然、自分の言論についての「言論の不自由」の実例として野嵜の批判を受容れなければならない。となると、「言論の不自由」なる何某の考へる概念はナンセンスである。ただ、言論がある、とだけ考へるのが妥當である。ただ、言論にも良い惡いがあるだけである。が、それは、何某や「義」が、好みや自分の信奉するイデオロギーに合致する・しない、と云ふだけの理由で決定されてはならない事であり、客觀的・理性的・論理的な檢討を經て決定されるべき事である。
平成十七年三月二十二日
海馬日記 - Firefoxたんを探せ
詳細が出た模樣。何うも有難うございます。ほかにもいろいろとありがたうございます。
平成十七年三月二十二日
中田耕治「田中千禾夫・福田恆存・木下順二・安部公房入門」(『日本現代文學全集103 田中千禾夫・福田恆存・木下順二・安部公房集』昭和四十二年十月十九日發行・講談社)

「芥川を語つても太宰を語つても、つまりはぼくがぼく自身を語ることにしかならないといふ事實に、いまのぼくは批評の生理を誇らしげに吹聴する氣にはけつしてなれぬのである。それは批評家の勝利ではなくて敗北なのだ。にもかゝはらず、批評文學の自律性だけは、なにものにかへても確保しなければならぬ。」(「太宰治」1、「現代作家」新潮社、昭和二十四年)初期の批評は、あくまで批評の自律性を純粹に守りぬこうとしたように見えた。石川淳、坂口安吾などの、いわゆる「戯作派」の作家に對する傾倒も、彼らの裡に笑劇(ファルス)を見出し、それを逆手にとつたふてぶてしい精神を認めるからであつて、後年の福田恆存が喜劇あるいはパロディを本領とする秘密がある。彼の批評は逆説にみちたもので、進歩主義者はしばしぱ論理的な自己矛盾を指摘するが、じつは論理に密着している福田恆存の表情に氣がつくとき、批評も「演戯」の一種であることに氣がつくだろう。批評の世界を離れて演出、戯曲の世界に移つた理由は、批評の自律性がじつは批評家のエゴティシズムにほかならないと悟つて、それよりははつきりした手ごたえのある「演戯」を演出によつて手がけ、戯曲によつて舞臺に現前せしめることにほかならない。いつてみれば自己に執着することの空しさを感じたのではないかと思われる。

平成十七年三月二十二日
SANSEIDO Co.,Ltd.聚珍録(しゅうちんろく)
http://pcc.karpan.net/diary/200503192124.html#d200503192124(聚珍録謎の組み違ひ)

平成十七年三月二十一日
マスコミは、言つてみれば現代の權力者である。マスコミが言論彈壓と言へば如何なる正當な批判も言論彈壓となり、マスコミの掲載拒否・報道拒否によつて發言そのものが抹殺される。
言論の自由と云ふ名目は、屡々人權侵害の正當化を意味してをり、それが實際のマスコミの活動に於いては常態化してゐるし、それ許りでなく、マスコミに倣つた2ちゃんねらーなどの匿名の活動家もまたマスコミ同樣の卑怯なやり方を平氣で用ゐてゐる。
マスコミが報道しない事によつて、國民に知らされる事なく葬り去られる法案もある。それがマスコミにとつて都合の惡い法案である場合、マスコミが報道しない動機は疑はれて良い。
日本は成功した社會主義國であり、治安の良い住み良い國だが、一部のマスコミや匿名の活動家の利益の爲だけにそれが失はれてしまつてゐる。
現状、マスコミ人になるのに資格は要らない。2ちゃんねらーなり匿名の掲示板荒しなりになるのにも、もちろん資格は要らない。彼等に言論の自由を擔ふべき妥當な能力があるかどうかの審査はない。そして、言論が言論であるか何うかを判定するのは、彼等自身である。
マスコミの行動を監視・抑制する機關は、あるにしても、事實上、機能してゐない。機能しようとすると、マスコミから猛攻撃を受ける。2ちゃんねらーや匿名の活動家には、當然の事ながら、監視・抑制する機關は存在しない。冤罪であつた場合の名誉恢復手段は、マスコミの場合、訂正の報道と云ふ手段がある。しかし、マスコミは滅多に誤報の訂正をしない。
人権保護法成立に反對してゐる連中が目指してゐるやうな言論の自由が達成できると野嵜は思はない。誹謗・中傷とか侮辱とかを「言論の自由」の名の下に認めてしまふ「言論の自由」は、最早「言論の自由侵害」以外の何物でもない。
マスコミの人に私は質問してゐないが、してもお座なりな對應しかされないだらう。2ちゃんねらーや「義」には、質問をしてもまともに答が返つて來るとは思はれない。
ちよつと調べてみたのだけれども、日本における「言論の自由」は穴だらけですね。マスコミやウェブにおける匿名の活動家の權限が強過ぎる。彼等の權限をもつてすれば、縱令違憲・違法であつても、やりたい放題が出來るし、實際、彼等は好き放題の事をやつてゐる。朝日新聞が誤報を訂正しないのは有名だし、ウェブでは「義」らが風聞を流布してゐたりします。行政と司法の力を越えたマスコミの報道や掲示板での匿名の書込みで、言葉の暴力を揮ふ事が出來るから、中世の魔女狩りのやうな事が出來ますしね。と言ふか、マスコミも「義」のやうな連中も、他人の發言をねぢ曲げて解釋したり、他人の名前を騙つたりしても、罪に問はれないみたいですしね。と言ふか、こんな言論のど素人が気附くやうな穴に氣附かずに「言論の自由」萬歳とか言つてゐる連中の意見が輿論となつてゐるのだつたら、本氣でこの國終りですよ。
ブレーキは幾つあつても多過ぎる事はないと思ふ。それと同時に事實が報道出來ないやうでは困るので、報道なり發言なりの形式のレヴェルできちんと責任がとれるやうなやり方を考へるべき。詰り、言論と言ふのならば、根據を事前に上げるなり、反論を受けたらきちんと根據を提示出來るやうにしておくなり、理性的な討論が出來る環境を整備しておくべきである。現状の、マスコミの横暴や、ウェブにおける匿名の發言の存在を大前提とした、現状維持の考へ方でやつてゐたら、言論の自由は死ぬ。
「人権保護法」でぐぐつて見附けたサイトの文章を適當にコラージュした。パロディと言つても良い。かうした言論のあり方も、言論の自由を標榜する方々ならば許容して下さる事だらう。もちろん、これらの野嵜の發言は、「言論の自由」を部分的に否定するものである。だが、言論の自由を標榜する方々は、「言論の自由」に對する「言論の不自由」なるものの存在を容認する方々である筈である。ならば、野嵜のこれらの發言も、それらの方々の「言論の自由」に對する「言論の不自由」なるものの一形態であるとして、受容れていただけるものと確信する。
と言ふか、「言論の不自由」なるものを受容れる偉い方々ならば、野嵜が常に「言論の自由」を行使してゐる人々に對して批判を行つてゐる事を理解出來る筈だし、野嵜の行爲は「言論の不自由の行使」であると看做して、容認するのも可能な事である筈である。
もちろん、「言論の不自由」なるものを政府がやらかす(?)のだつて、「言論の自由」を標榜する方々は受容れるほど、度量が大きい筈である。まあ、某「観察同好会」の「広報部」の人は、さう云ふ懐の廣い人であるらしいから、2ちゃんねるであれどこであれ、言論活動をしてゐる限り、自分の言論も「言論の不自由」のターゲットとなる事はあり得る、そして、それは良い事である、と考へてゐる筈である。だからこそ、野嵜にも「言論の不自由を受容れなさい」と「忠告」して呉れたのであらう。もしさうでないとしたら、彼は言行不一致である。
平成十七年三月二十一日
まほらば。鷲田大學。早稻田大學の捩りらしい。食堂。ダウト。こんな光景は存在しない。いんらんピンクが眼鏡外した。眼鏡女は眼鏡を外してはいけない。非眼鏡が眼鏡をかけるのは良い事だ。あー、やつぱり嫌な女だこいつ。と言ふか中古イラネ。
平成十七年三月二十一日
例へば、或日突然、「義」の努力と無關係に「義」の會社が倒産したとする。「義」は當然、無職となる。それは「義」の責任ではない。だが、「義」に據れば、「無職」は物を言ふ資格がないのである。ならば、「義」は、自分の所爲ではないのに、物を言ふ資格を喪ふ事になる。「義」は次の日、早速ハローワークに行く。面接を受ける。しかし、理不盡にも優秀な「義」を會社は雇はなかつた。「義」はそれを何囘も繰返し經驗する――。これは、喩へ話だが、實際、あり得る事である。職業選擇の自由とは、自由に職業に就いて働ける事を意味しない。單に「履歴書をどの會社にでも自由に出せる」と云ふ程度の事を意味する。さて、喩へ話の中で、「義」は依然、無職である。それは「義」の責任ではない。が、さう云ふ場合に、「義」は、自分は無職であるから物を言ふ資格がない、と言ふ事が出來るであらうか。職がある、ないは相對的な事である。或は、常に自己の努力と必然的な關係で決定されるものではない。ならば、職の有る無しは、物を言ふ權原とならない。
言論の自由とは、職業・門地その他を理由に差別を受ける事なく、誰もが自由に物を言へる權利の事である。さう云ふ事は、「言論の自由」を標榜する方々ならば、理解出來る筈であるし、既に理解してゐる筈である。「言論の自由」は、全ての人にあるし、職業・門地等で差別されるべきでない。だからこそ、「言論の自由」を守らうと言ふ方々は、「人権保護法案」に反對してゐるのだらうと野嵜は考へる。が、さう云ふ方々が、「義」のやつてゐるやうな行爲を肯定してしまふとしたら、私は「人権保護法案」に反對する事は危險であると考へざるを得なくなる。實際のところ、何うなのだらう。「義」が野嵜の名を騙つて「人権保護法案」關係のブログや掲示板を荒したとしよう。その時、「人権保護法案」に反對する方々は、その「義」に據る野嵜を騙つた投稿を、野嵜本人のものと即斷し、野嵜を非難しはしないだらうか。しないのならば、言論に對して慎重な態度をとつてゐるのであり、野嵜は安心してそれらの諸氏を信頼出來る。だが、さう云ふ方々は、安易に「義」ではなく「義」の騙つた「野嵜」を非難するのではないだらうか。もちろん、「義」なるストーカーの存在は、ウェブで決して有名でない。だが、さう云ふ人物によつて言論が引つ掻き囘される、と云ふ事態が發生する事は、事實として「ある」のである。「人権保護法案」に反對するのは結構だ。だが、「人権保護法案」を廢案にすればそれで良い、と云ふものでもない筈である。
So-net blog:ブログ鷹森:私案「人権擁護法」なる文章を見かけた。何うも、法案の文言の上の問題ばかりが論じられてゐるやうに思はれる。言論の自由とは何か、と云ふ本質論はそれほど無いやうに思はれる。本質的に「言論とは何か」と云ふ問題を考察するならば、言論が、全面的に信頼出來るものであるとも、全面的に「單なる暴力」であるとも、極附ける事は出來なくなる。
だが、結局のところ、「人権保護法案」にしても「言論の自由」にしても、運用する人間が問題なのであつて、法律の文言や概念それ自體が問題なのではない。さうなると、如何にして穩當で理性的に物を考へられる人間を増やせるかが問題になるのだが、さう云ふ觀點から論じられた文章は、日本には殆どないだらう。法律の問題は、「法律議論」に據つてでしか論じられてはならないと信じられてゐるのであり、哲学的に本質的な檢討を行ふのは迂遠或は無意味である、または、法律屋のする事ではない、と考へられてゐるからである。日本には、法律屋が多過ぎる。
野嵜は、單に「理想的な言論人の存在を前提として議論を進めるべきだ」とは主張しない。話は逆で、「義」のやうな言論を破壞するやうな眞似をする人間がゐる事を前提に、言論の自由については議論を進めるべきだ、と考へる。言論の自由は、或は、言論は、それ自體としては素晴らしいものでも何でもなく、ただ「ある」だけの物に過ぎない。「素晴らしいもの」としての言論の自由や言論は、理性的に築き上げられなければならないものである。だから、人間の教育が必要である。それと同時に、人間は不完全な存在だから、常に「義」のやうな人物が出現し得る。だから、言論の自由の濫用を防ぐ爲の妥當な法律なり何なりは必要である。そして、言論の妥當性は、權力者の立場とか、メディアの都合とか、發言者の面子とか、特定の價値觀とかによつて判定されてはならない。純粹に、公正な立場から、理性的・客觀的に、檢討されなければならないし、その爲には論理性を原則として採用しなければならない。單純に、感情の側面からのみ、言論の價値を判斷する事は、それこそ感情論に過ぎないのであつて、避けなければならない。だが、完全な公正と云ふものは實現し得ない。ならば議論が必要である。議論が成立する爲には、議論出來る人と、議論出來る場とが必要である。人も場も、観念としては完全なものを想定し得るが、現實には常に不完全である。そこでは「ブレーキ」の類が幾つあつても、實は決して十分にはならない。さうなると、人も、場も、議論も、言論も、言論の自由自體も、決して全面的には信用しないやうにする、と云ふ個人個人の態度が要請される。が、その要請も完全には充足されない。不完全性を前提とした議論に完全な結論は存在しない。だが、だからと言つて、さう云ふ不完全な結論をしか出し得ない議論を排除するのは、本質から目を背ける逃避である。
平成十七年三月二十一日
XUL Apps > Tabbrowser Extensions > Advantage and Disadvantage - outsider reflex
俺は、FireFoxを使つてゐないし、當然TBEも使つてゐないので、コメントしないでおく――と云ふ「コメントしない宣言」自體が、實は既に俺の價値判斷である。
平成十七年三月二十一日
ウェブの現實。野嵜ががんばる→周りの人が何でもかんでも野嵜に任せてしまふやうになる→野嵜批判だけが目立つ事となる→野嵜のウェブにおける評價がどんどん下がる。
掲示板のちよつとした發言につつこんでいただくのもありがたいのですが、それよりもうちのサイトの記事自體に、いろいろ突込みどころが殘つてゐるのではないですか。國語の歴史だとか文法だとかの記事に、不備が多いのは事實。それ以外にも不備が多いのは事實。さう云ふ處にばんばん突込みを入れて頂ければ、當方としてはありがたいのですが。Wikiのやうに自分で書換へられない記事は放置、と、さう云ふ訣ですか。
平成十七年三月二十一日
別に2ちゃんねるでも何處ででも野嵜を「ウォッチ」して貰つて構はないのだけれども、「ウォッチ」する人が馬鹿な行爲を繰返してゐるのは如何なものか。
頭の良い人に正當な理由で批判されるのならばそれはそれで嬉しいのだけれども、馬鹿に曲解なり極附けなりをされて非難されるのは全然嬉しくない。たつた一人の「同好会」なんて言ふ人もゐて、本當に馬鹿だと思ふのだが、本人は自分が馬鹿だとは思つてゐないらしい。自分の事を本當に馬鹿だと思ふ謙虚な人間は、實名であれ匿名であれ、人前で物を言つたりしないものだ。
平成十七年三月二十一日
NHKの七時のニュースに據ると、福岡市の圖書館では數萬册の本が棚から落ちたのだとか。氣の毒な話。他人事とは思へない。
平成十七年三月二十一日
firefox.jpg
海外の某サイトで拾つた。詳細希望。
平成十七年三月二十一日
角が丸い畫像に文字を書いて、altにその文字列を入れておけば良いだらうと。
平成十七年三月二十一日
無職ネタが好評らしいので。
無職のための箴言
平成十七年三月二十一日
窓の杜 - 【NEWS】Windows XPの正規ユーザーは来月より標準でLZH圧縮ファイルを解凍可能に
Windows Genuine Advantage Programの報道なのだが。
平成十七年三月二十一日
窓の杜 - 【NEWS】Webページの使いやすさを一括検証「Webアクセシビリティ・ツールボックス」
Firefox用。

平成十七年三月二十日
http://piro.sakura.ne.jp/latest/2005/03.html#d20
そういう体制を考えたときにネックになるのは、Firefox本体のバージョンアップで拡張が動かなくなってしまうことがあまりに多いという問題だ。ぶっちゃけ、API変えすぎ。
昔、似たやうな事を俺も言つたつけなー。なつかしい。が、何時、何處で言つたかは忘れた。
平成十七年三月二十日
概念に基いて對象を分析するのは、慥かに現代的である。一方、その、分析に用ゐる概念について、深く反省するのは、現代では流行らない事だ。だが、良く考へてみると、分析に用ゐる様々の概念は、屡々、定義が曖昧である。「創作」と云ふ觀念すら、さうである。
料理人が、ふくらし粉や砂糖を材料に、パンケーキを作つた――それを「パンケーキを創作した」とは言はない。畫描きは繪の具とカンバスを材料に畫を描く――それは創作である。繪の具やカンバスは、慥かに材料である。しかし、畫を鑑賞する時、我々は繪の具の色やカンバスの布地を意識しない。詩は、慥かに言葉で出來てゐる。だが、詩を鑑賞する時、我々は名詞とか動詞とかを意識しない。創作において、材料はイメージを構成する。そして、創作を創作として認識する時、鑑賞者は、材料を材料として意識する事なしに、構成されたイメージをシンボリックに認識する。イメージによつてシンボライズされた觀念を想起する。パンケーキ作りと、藝術的な創作は、異る次元のものである。そして、その兩者の違ひを考察するのは、藝術哲學である。物事の本質を考察する哲學は、現代に於ても必要である。
S.K.ランガー『芸術とは何か』(岩波新書青版641)の第一章「ダイナミックなイメージ、舞踊に関する哲学的考察」を讀んだ。
平成十七年三月二十日
ボックスの角を丸めたいつて、そんな欲求を持つ事自體が云々。
とことん見た目に拘ると言ふのなら、記事全體を畫像にすれば良いぢやん。一往、altに内容、書ける訣だし。問題ない。
見出しは見出し、パラグラフはパラグラフ、としてマーク附けするのは大前提。パラグラフの中身がimgであつても、別に問題ない、と云ふだけの話。パラグラフの中身が「テキストが書かれた角が丸い畫像」で、altにそのテキストが記述されてゐる、と云ふ「マーク附け」の仕方は、一往「あり」である。800×600ドットの畫面を前提としたレイアウト、なんて事を言つて「良い」ものならば、そんなやり方だつて「良い」筈である。
あー、かう云ふ「詭弁」を使はない方が、論爭はスムーズに進みますか。さうですか。これでも、ぎゃらりーの方々に樂しんで頂けるやう、配慮してゐる積りなのですが? 云々。
平成十七年三月二十日
画像なしで角を丸くするCSSテク: Nifty Corners - PLAYNOTE
sutero choice weblog salon: 画像を使用せずCSSで角を丸くする方法
「ここは画像を使用しないでCSSで角を丸くしています」なんて「文章」を書くのは如何なものか。Lynxとかで見たら、何の事だかわからんのだから。CSSで何をやつても結構だが、そのCSSが無效の環境が「ある」と云ふ事も、一往考へておくのは必要な事だらう。
さう云ふ意味で、CSSの解説サイトで、ぶらうざのレンダリング結果に依存するやうなサンプルを書いてゐるところは、すべからく反省すべきである。筈である。が、それは俺もやつてゐるのであつて、一體何うしたものだらう。
建前として言ふと。CSSで見た目を弄るのは、單に見た目の問題に過ぎず、そんな見た目を拔きにして、十分、讀者が理解出來るやうにコンテンツを作つておくのは重要な事だ。
Nifty Corners
画像なしで角を丸くするCSSテク: Nifty Corners - PLAYNOTE
ボックスの角を丸くする事は何らかの意義を持つものである、と言ふ事は出來ない。ならば、本質的にはナンセンスな事である。さう云ふ事をやりたい人は、正に「やりたい」だけなのであつて、「やらなければならない」から「やる」と言ふ訣ではない。餘計な事をしてゐるのであつて、本質的には餘分な事である。ならば、spanでは綴りが長いからbでマーク附けする、等と云ふ儉約をするのも、當然ナンセンスである。どうせ餘分な記述なのだから、綴りを短くする儉約をするのに意味はない。
しかし、空のbにしても空のspanにしても、「あり」なのかねえ。慥かに仕樣上は、aですら、屬性なし、内容なし(と言ふか長さゼロのテキスト)でvalidだつたりするが、しかし。云々。
平成十七年三月二十日
井伏鱒二『風貌・姿勢』。二ページとかの短い文章が收められてゐる。さくさく讀めると云ふ類の本。
あれれ、さつきまでその邊にあつたのに、最う見附からないよ。なんでだよ。
平成十七年三月二十日
再び「義」發生。以下、「義」のリモートホスト。
p9087-ipbffx01marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
usen-221x244x38x154.ap-US01.usen.ad.jp
いづれのリモートホストからの投稿も、野嵜本人に據るものではありません。極一部の掲示板の投稿を除き、全ての掲示板の「野嵜健秀」名義の投稿は、「義」の騙りです。讀者は、野嵜を掲示板荒しに見せかける爲の「義」の策謀に惑はされないやうに。
平成十七年三月二十日
「野嵜健秀」でぐぐると、野嵜を「掲示板荒し」と中傷するサイトの評價が高いのな。Google死ね。
平成十七年三月二十日
Mozillaは生き残れるか?
平成十七年三月二十日
地震の時は虹裏を見に行く、と云ふのは、必ずしも誤ではない。ウェブで一番情報が早いからだ。ただし、「變な畫像」も多いので注意が必要。あと、そのまゝ嵌つて拔出せなくなる事も多いので云々。

平成十七年三月十九日
http://www.megaegg.ne.jp/~nitiroku/kako10.html
松原正の批判文とよみ比べて、上記の文章をご自身の判断力で検討し、考察していただきたい。新聞の小品なので舌足らずは否めないが、私は言うべきことをきちんと言ったつもりであるし、今でも基本的にこの文明観に変更の必要を認めない。
西尾幹二は、文明観に話を摩り替へてゐる。松原氏は、何ともはやふやけた文章である。と書き、西尾の文章が惡い事を先づ指摘してゐる。この批判を西尾は無視してゐる。
そして、西尾は神話・文学・芸道・文献・寺社仏閣は古代以来を保存する。住宅・街・衣食生活・思想観念はどんどん新しく取り替える。そこに日本の強さがあったと私は信じていると書いてゐる。「信じてゐる」のだから西尾は非論理的な信念を根據に物を言つてゐるに過ぎない。松原氏は、成程、「昨非今是」の無原則は我々の宿痾だが、それが宿痾である事だけは承知してゐなければならぬ。無原則とは「原則が無く、成行き次第で變る」事だが、成行き次第でころころ變る無節操は斷じて美徳ではない。と書いてゐる。これは正當な理窟である。惡口でも何でもない。理窟に「俺はかう思ふんだよ」と西尾は返してゐる。西尾の返答は、反論ではない。
松原氏は開國直後、所謂「大正デモクラシー」の時代、そして敗戰直後、「外國崇拝のいやらしい形態」が存在した事は事實だが、いくら「無節操」な御先祖樣も「普遍文化」ばかりは取込めなかつたと指摘してゐる。これは、松原氏の指摘の方が正しい。西尾は、秀吉の時代にはそういう良好な結果にはならなかったが、古代日本人が仏教や律令をとり入れたときに、中国文字を介するという屈辱などはおそらく感じたはずはないと述べてゐる。西尾は漢字漢文は当時の国際公用語であった。中国崇拝に光だけを見た。それで危険はなかった。と書いてゐる。これは、日本人が無差別主義である事の證明である。しかし、これは、日本人が確実に普遍文化を取り込んだ事の證明にはならない。西尾は、何うでも良い事の證明はしてゐるが、肝腎の事の證明はしてゐない。これは誤魔化である。
平成十七年三月十九日
さて、西尾は私は処女作『ヨーロッパの個人主義』以来、必ずしもヨーロッパ主義者ではない。と宣言してゐる。
そして、日本では神話がきちんと全部残っているが、ゲルマン神話は残っていない。いまゲルマン神話とよばれるものは、アイスランドに残存した類似の神話から類推して復元したものである。日本には平安時代に中国から輸入された多数の古書が保存されている。中国では大半が消滅してしまった。江戸時代に保存された古書に基づく儒教の経書のテキストクリティークの花が開いて、清朝の学者達を愕然とさせたこともある。と書いてゐる。慥かに、「ヨーロッパ主義者」なるものではないのだらう。が、ならば、西尾は「日本主義者」である。
福田恆存は、国民講座『討論・現代日本人の思想』の討論で、三島由紀夫とやり合ひ、三島に「福田さんは暗渠で西洋に通じてゐるでせう」と、まるで不義密通を質すかのやうな調子で決め附けられたことがある。のだが、その三島の國粹主義こそ暗渠で日本に通じてゐるものであると批判してゐる。西尾は、福田氏よりも三島の方に近い。
そして、右傾化する今と云ふ時代において、三島や西尾の右翼的な言動の方が受けるのである。西尾の場合、「今の時代、右翼的な言辭は受ける」と云ふ事を、強く意識してゐるやうに思はれる。だからこそ、「受ける」と踏んで、『国民の歴史』なんて本を、西尾は短期間で編緝し、刊行して、賣名に勵んでゐる訣である。
だが、私は西尾がかつて、「正論」で書いた自傳だか何だかで、自分は天皇を「天ちゃん」と呼んだ、と云ふ事を嬉しさうに書いてゐたのを忘れない。かうした記述を見ると、西尾の國粹主義も相當怪しいものだと言はざるを得ない。けれども、さう云ふ批判も西尾は計算濟みであらう。西尾にしてみれば、自分は全くの「ヨーロッパ主義」でもなく、また全くの「日本主義」でもない、と云ふ積りなのである。そして、さう云ふ曖昧な状態である事こそが、西尾にして見れば「いかにも日本人的」で「良い事」なのである。
しかし、それでは西尾の立場は何か。曖昧な立場の人間は、疑つて良い。特に、曖昧な態度を取りながら、他人を非難する人間は、疑つて良い。自分の曖昧な態度を許すのならば、他人の曖昧な態度も許すのが當然だからである。にもかかはらず、西尾は松原氏を非難してゐる。と言ふより、西尾自身が新聞の小品なので舌足らずは否めないが、私は言うべきことをきちんと言ったつもりであるし、今でも基本的にこの文明観に変更の必要を認めない。と述べてゐる。西尾は、正しい正しくないが「ある」と考へてゐる。そして、自分の主張は正しいと思つてゐる。が、それならば、西尾の曖昧な立場は、西尾の正邪をきちんと分かたねばならないとする考へと矛盾する。さう云ふ矛盾を反省しないのは、惡い事である。
平成十七年三月十九日
京王グループ - 京王線・井の頭線時刻表検索
改定後の時刻表。若葉台行きと岩本町行きの區別がつけ難い件について。
平成十七年三月十九日
つ[そのテーブル、本当に必要? - 徒委記]
平成十七年三月十九日
十八日の買物。古書會館。井伏鱒二『風貌・姿勢』(講談社)。五百圓。世界思想教養全集『フランス啓蒙思想』『近代の文芸思想』『ウェーバーの思想』『現代フランスの思想』各百圓。
平成十七年三月十九日
「芸」という字をウン読んでいるのを見かけたのですが、そんな読み方があるのですか?
結論が氣に入らない。
「進捗」の「捗」の右側は、「歩」と同じように書いていいのですか? 1画少ない形が正しいのではないですか?
結論がまるで他人事。
平成十七年三月十九日
AIRは、心理上の合理化はなされてゐるけれども、合理的な説明が缺如してゐる。AIRはSFではない。
平成十七年三月十九日
ワードプロセッサに代つてPCが一般化し、かな漢字變換プログラムで文章を作成出來るやうになつて以來、漢字を澤山使ふ人が増えました。日本語の文章は、漢字假名交じりが原則でありながら、「書くのが面倒」なので手書きの際に假名を多用する傾向があつたのですが、それが本來あるべき姿へと戻つて來たやうに思はれます。手書きの文章で「くどい」とは野嵜も書きますけれども、IMEを使つて入力する文章では「諄い」とします。「諄い」と云ふ漢字そのものの讀みを知らない讀者はゐるでせう。しかし、文章を讀む時、讀者は文脈を追ふものです。「諄い」の讀みが「くどい」であるとはつきり判らなくとも、文脈上、この漢字は何か「くどい」みたいな意味なのだらうなーと漠然と理解する事はあり得ます。單純に、「漢字は讀みを知らなければ讀めないものである」と考へるのは、よろしくありません。
漢字を多用しただけの文章、難しい漢字を使つただけの文章――それでさつぱり魅力がないのだつたら、さう云ふ文章は問題があります。が、それは、漢字の責任ではありません。文章自體に魅力がないだけです。魅力的な文章であれば、讀みが判らない漢字が使はれてゐても、讀者は辭書を引いて理解しようとするでせう。さう云ふ文章を書く事が大事です。單純に、「一般の文章では讀み辛い文字を使ふべきでない」と極附けるのは、それこそ、如何な物かと思ひます。
平成十七年三月十九日
http://hpbuilder.net/diary/?date=20050319#p01
指摘するなら、コメント欄だって用意してあるのに、自分のBlogに書いて挙げ句の果てにあの表現ですか。
http://d.hatena.ne.jp/jintrick/20050307
また、コメント欄や掲示板があると訳の分からん悪意のある人間に一方的に絡まれるかも。反論、罵倒、削除等々の反応をすれば「因縁」になってしまう。同じ土俵(日記どうし、トラックバックもなし)なら無視すれば良いだけ。反応する義務なんてないのだから因縁にはならない。

平成十七年三月十八日
相手に憎惡の口實を與へないのは利口者のする事だ。だが、それは利口なのか、小利口なのか。
平成十七年三月十八日
木田元『現象学』五十六ページ邊まで讀んだ。「迂闊な言ひ方」をするが、「わかる」本なので良い本だと思ふ。
生の原典をありのまゝに讀むのも結構だけれども、讀み方の指針が必要な類の本もあるのではないだらうか。或は、適切な讀み方の指針が示されるならば、それは、必然的に存在すべき本であるとは言へないにしても、あつて良い本、或は、單に良い本と言つて良いのではないだらうか。
平成十七年三月十八日
AIR。ふつうにいいはなしつて奴? 根本的にとんでもなんだけれども。俺の理性が何かを拒否してゐる。
平成十七年三月十八日
舞-HiME。始-MaTA。いきなりエヴァ最終囘展開きたー。この手のあにめつて、何で「そつち」の方が面白さうなんでせうね。
平成十七年三月十八日
ぐだぐだ。ろまんと言ふか何と言ふか。
平成十七年三月十八日
さくさくはなしがすすむ。最う嗤ふしかないよこれ。
平成十七年三月十八日
次囘は運命の刻へ。
平成十七年三月十八日
フジサンケイグループが「正論」路線一本槍だつたら、藝能關係を強化すると云ふほりえもん氏の發言はニッポン放送の價値を根本的に下落させただらう。が、今のニッポン放送では、ほりえもん氏の示した方針はそんなにマイナスにならない、やうな氣がする。
平成十七年三月十八日
竹島問題は、北朝鮮が「暴發」すれば一瞬で片附く。
平成十七年三月十八日
もし日本共産黨が「日本中の杉の木を引つこ拔きます」とか云ふ政策を提示したら、俺は選擧で一票入れるかも知れない。
平成十七年三月十八日
(無題)  投稿者: 一読者  投稿日: 3月18日(金)22時16分29秒 nttkyo034174.tkyo.nt.adsl.ppp.infoweb.ne.jp

 義珍氏へ

 野崎氏は無謬です。このサイトで許されているのは野崎氏を賛美することだけだ。あなたは野崎氏と議論をしようとしている。それが最も根本的な間違いです。

「義」の騙りを一々報告して呉れた親切な「一読者」が、このやうな事を掲示板に書込んで、本性を暴露してゐる。この「一読者」を名乘る人物は「野嵜はアレクセイのやうな人間の仲間である」と極附けてゐる。しかし、このサイトで許されているのは野崎氏を賛美することだけだ。と云ふのは根據のない「一読者」の極附けで、俺は論理的に正當な批判なら受容れる。論理的に正しいのならば、論理的に反論出來ないから、受容れざるを得ない。そんな事は當り前の話だ。なぜ「一読者」にはそんな簡單な事が理解出來ないのだらう。否、「一読者」は、人を惡人に仕立て上げて、ウェブから葬り去りたいのである。西尾幹二が松原氏の事を根據ナシに松原正は自分が唯一の弟子だと錯覚したのかもしれない。しかし彼は福田先生の文章の癖の強い悪い面だけを猿真似したエピゴーネンにすぎない。松原正は福田恆存の人生の最後に姿を現した「恥部」の一つであった。エピゴーネンに醜悪はもっとも具体的かつ絵画的に、本人の代役となって立ち現れるものである。福田論を書くときには松原正の存在を欠かすことはできない。勿論「恥部」として彼が福田氏において果していた生理機能上の役割とその陰画としての存在をである。と書いて、誹謗してゐる。
http://www.megaegg.ne.jp/~nitiroku/kako10.html
今、俺は、常連の「義珍」と名乘る匿名の人物の非難が、不當な非難であるから、反論してゐるに過ぎない。

平成十七年三月十七日
ネギま! 何かイタい内容だつた。失笑出來ると云ふ點では非常に良く出來てゐる。CV赤松。
平成十七年三月十七日
ローマ字入力のMS-IMEをonにしてmixiと打つてしまつて思はず笑つた。
平成十七年三月十七日
MinuteDesign | Archives | そのテーブル、本当に必要?關係の纏めサイト希望。
この程度のデータなら、何もテーブルを使わなくたって、定義リスト を使ってシンプルに書いてしまうことができます。云々。俺も大體、さう云ふ發想だが、表の代替としての定義リスト、或は、定義リストを表の代りに使ふみたいな言ひ方をするから話が拗れるんだと思ふ。「單にデータを羅列するだけならリスト」とか云ふ話にしておけば、うるさ方の突込みを招かなかつたのではないか。
で、その「うるさ方」の一人の岩井氏の突込み。「表」は表ですよね。当り前ですが。 [/design/html] - 行動記録単に CSS を適用してみたときの見映えが同等になっているだけで、前者は表で後者は定義リストでしかないと思うんだが。此處の「見映え」は「見た目」ですよね。野嵜も昔さう書いてゐたけれども。
それで。MFSA 2005-04: 「view-source:」形式の URL を使って安全なサイトを示す鍵アイコンが偽装されるなのだが。Opera 8で見ると、レイアウトが崩れてゐるんだが。

平成十七年三月十六日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20050316#p1
渡邊さんは「素材である」「コードである」と云ふ極めて單純に割切つたものの言ひ方をされてゐます。しかし、それはないのではないでせうか。もつと理窟で考へる事は出來ないのでせうか。映画においては「映像と音」の使用法において現象する、そういう、映画における「言語」を一般に「映画言語」と呼ぶとすれば、文学における「言語」は「文学言語」なのです。と渡邊さんは書いてをられますが、その使用法は「文字言語」に據る文學作品の文字の使用法と同一なのであり、その點で同一の理論に據る批評が可能である、と私は指摘してゐます。そして、私が音樂のコードを持出さなかつたのは、それが文學作品における文字言語の使用法とは異る原理に據るものだからです。また、渡邊さんは今、極めて抽象的に「映畫」「文學」を考へてをられますが、實際の映畫にしても文學にしても、同一の理論でストーリーが構想されてゐることは明かです。伏線を張るとか、辻褄を合せるとか、さう云ふレヴェルで映畫もドラマも小説も戲曲も、同じやうにしてストーリーは作られてゐます。その點で、同一の基準による批評は可能です。しかし、音樂において、例へば伏線となる音程「ド」が、終盤のクライマックスで效いて來て、鑑賞者が知的に納得する、等と云ふ事はあり得ません。しかし、一方で、旋律の繰返しが與へる效果と云ふものがあり、これは科白の繰返しが與へる效果と似たやうな見方で捉へる事が可能です(ワイルド「サロメ」)。渡邊さんは、さうした「同じ批評が可能な部分」を故意に無視し、ジャンルによつて異る「素材」「文法」に固執してをられます。ところが、さうやつてジャンルの次元における差異を強調しながら、渡邊さんは「藝術」と云ふレヴェルで「同じである」と主張されます。此處がどうも私には理解出來ない。しかし、どうも今、渡邊さんは、渡邊さんの術語としての「言語的」と云ふ語の意味で、野嵜の文章を誤解してゐるやうな氣配がある。私はこれまで普通の意味で「言葉」で構成されるような「物語」という用語を使ってきましたが、野嵜さんの言う「言語」は、一般には「記号」という呼ばれ方をする場合が多い拡張的な概念であるとしか思えないので、ここではそれに対応するかたちで「ストーリー」という言葉を使用します)。と書いてをられますが、野嵜が記號論なり記號學の立場を取つてゐない事を渡邊さんは忘れてをられます。(敢て言ふならば、構造主義――と言ふより、實證主義そのものに反撥したフッサール的な現象學的な立場、と、野嵜の立場を規定して頂いても、それが便宜として好都合であり、理解に役立つならば、して頂いて結構です。が、私は昨日、田村書店で拾つて來た木田元『現象学』の冒頭を少しだけ讀んで、それで適當に言つてゐるので、餘り當てにはなりません。但し、福田恆存『反近代の思想』でも、「反近代の思想」と云ふ體系的な思想は存在しない、と福田氏(?)は明確に述べてゐます)
そして「映画言語」における「文法」は、ワン・シーン・ワン・ショットとか、クローズ・アップとか、同時録音とか、基本的にカメラと録音をめぐる技法によって決定されます。と渡邊氏は、自分の用語を説明してをられます。しかし、渡邊さんの言はれる「文法」としての技法は、作品の部分部分において效果を擧げる爲のものであつて、作品全體を統一的に構成するものではない、と言ふ事が出來ませう。そして、渡邊さんは、これらは「文学言語」における「隠喩」や「描写」などに相当するでしょう。と書いてをられます。が、私はこのレヴェルの個別のテクニックには關心を持つてゐません。もちろん、文章による藝術にしても、映像を利用する藝術にしても、かうしたテクニックに關して全く考慮しない批評は不當である、とは言へます。しかし、私は、實踐で示してゐる通り、さうした渡邊さんの所謂「文法」について觸れて構はない、が、それだけでは不十分である、寧ろ、そのレヴェルの事は「誰にでも判る」事實であり、文學としての批評ではその事實に基いた價値判斷が必要である、と述べてゐる訣です。映畫の撮影で、カメラのテクニックを驅使するのは表現の手段です。手段について云々するのは、單なる事實の確認です。もちろん、その時點で誤があつては大變です。が、だからと言つて、其處から先に進まないのは、もつと問題です。批評の主體は、事實を確認した上で、價値判斷し、改めて對象を再構成して提示しなければならない。渡邊さんの主張では、終點が事實の確認にある訣です。が、さうなると、價値判斷が先に來る危險性がある。私は、價値判斷が終點である、と申してゐます。が、この場合、事實の確認が先にこなければならない。重要なのは、事實の確認の時點で既に價値判斷が入り込んでゐない事である、と私は考へます。價値判斷拔きで事實を確認したら、それに基づいて價値判斷をしてよろしい。野嵜の主張は、さう云ふ主張です。
觀劇と、戲曲の讀書とは、當然、經驗としては質が異ります。が、それは、突詰めて言へば、實感の差に過ぎません。しかし現象として感覚的な部分がまったく違っています。と渡邊さんの言はれる通りです。が、それを「實感」を排すべきだ、と主張する渡邊さんが言ふのは如何なものか。
平成十七年三月十六日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20050316#p2
慥かに、漱石の作品を讀んでから漱石論を讀むのと、漱石論を讀んでから漱石の作品を讀むのとでは、經驗として質が異るでせう。それはその通りです。が、それを言出つたら、それこそ「構造主義」も「記号論」もなくなるのではないですか。實際のところ、さう云ふ「原典主義」をとるならば、現代の理論を學ぶより以前に、我々は古典を順番に讀んで行く羽目に陷ります。さうなると、やつぱり「人生は短過ぎる」と云ふ事になるのではないですか。適當なところで、我々は徹底的な「原典主義」を諦めざるを得ません。
「他者性」を意識する、と云ふ渡邊さんの考へからすれば、矢張り我々は「他人の讀み方」を參考にすべきであり、その點、渡邊さんも批評の意義を認めざるを得ない筈です。
もちろん理論には理論の面白さというものもあるのですが、しかし理論偏重はやはりおかしいと思います。と云ふ渡邊さんの御指摘に、私は全く反對してゐません。しかし、だからと言つて、讀んだら讀みつぱなし、では困るのではないですか。「世界を經驗する」のは結構ですが、その經驗が何らかの意味で血肉化されないやうでは、經驗する意味がない。經驗が目的となつては困るのでして、それが實際の生き方なり人生なりに繋がつて來なければならない。別に、漱石のそれからを讀んで「働かない」と云ふ生き方を撰擇する、とか云つた直接的な生き方の決定をしろと言つてゐる訣ではありません。ただ、「面白かつたなー」で終つては困る、と云ふ事です。
平成十七年三月十六日
若杉慧は、そんなに凄い作家でもないですし、晩年には作家としては忘れられて、『野の佛』の寫眞家として知られるやうになつた人です。そんなに好きと言ふ訣でもない筈ですが、にもかかはらず、まあ、好きと云ふ理由で讀んでゐるのでせう。『花をつくる少年』(若杉慧著)紹介
平成十七年三月十六日
で、渡邊さんから「そろそろ」と云ふ御話ですので、今囘の渡邊さんとの「文学雑談」は御終ひです。またそのうち何かの折りに。
平成十七年三月十六日
昨日、何となく豫感がして晝休みの時間を繰上げて表に出たところ、大當り。田村書店がまた岩波新書を無料大放出してゐました。と云ふ訣で、机の上が凄い事になつてゐます。取敢ず今後暫くは、毎日六册づゝ自宅に持歸る積り。目標、半年机の上に放置しない。
平成十七年三月十六日
日経ビズテックには今のところ、何の壓力もかかつてゐないとの事。中の人から直接聞いた話なので間違ひはない。
平成十七年三月十六日
記號として「萌え」を論ずる事は可能です。しかし、それだけでは「なぜあかほりはつまらんのか」と云ふ疑問に答へる事が出來ません。
「あかほりはつまらん」は、例へば、らいむいろ戦奇譚と流奇譚を一往見てゐるので(もちろんそれだけではない)、「實感」として言へますし、世間的にもそんな評判。
平成十七年三月十六日
今から十年くらゐ前、神保町でアラビアのロレンスのシナリオのコピーを手に入れて、一萬圓もしたので元をとらうと思つて卒論に使はうとしたら松原先生に「やめなさい」と言はれてやめてそのまゝになつてゐるのだけれども、中は見てゐます。で、タイプ原稿のコピーなのだけれども、脚本を擔當したロバート・ボルトがちやんと「ここでフェードアウト」とか「パン」とか撮影に關する指示を入れてゐます。科白のみならず撮影の方法まで脚本家が指定してゐるのであり、その方法は映畫の方法ですが、その記述は飽くまで文章です。映畫の脚本は、文章として、文學的な批評の對象となります。ロバート・ボルトは、もと戲曲家で、アラビアのロレンスで當つて以來、映畫の脚本に轉向しました。それで駄目になつたと松原先生は評されてゐるのですがそれは兔も角、ロバート・ボルトと云ふ人が書いてゐると云ふ點で、戯曲としてのA Man for All Seasonsとアラビアのロレンスとは同時に批評する事が可能です。が、ならば、たまたまライターが違ふからと言つて、或戲曲と、或映畫の脚本とを比較對照して論ずる事は絶對に不可である、とは言へるでせうか。言へないと思ひます。すると、當然、一般に、戯曲と映畫の脚本とを一概に論ずる事は常に不可である、と言ふ事は出來ない、と云ふ事になります。必ずしも映畫と戲曲とは別々のものとして論じなければならないと云ふものでもない、と言ふ事が出來ます。
平成十七年三月十六日
本日の買物。カミュ『不条理と反抗』。カミュ=サルトル論爭なんて、今時の人は知らんのではないですか。
かつて實存主義が一世を風靡したのだが、今、「實存主義を經てゐない」文學作品は決して少くない。忘れ去られてゐるのだ。だから、「構造主義や記號論を經てゐない」と言つて何かを非難するのは、意味がない。我々日本人は、西歐の大概の主義主張を、一過性のものとして通過するのみである。それは、單なる通過であつて、經驗ではない。我々日本人が、西歐の文物の何かを「經る」時、その前の何かは既に忘れてしまつてゐるものである。

平成十七年三月十五日
「人權擁護法案」の事がウェブでは話題になつてゐるけれども、能くもそんなものに興味を持てるものだと思ふ。豫言しておくが、法案が通つても通らなくても、三日くらゐで皆、忘れるよ。法律談義が好きな人が多いやうだが、どうせ直ぐに飽きるやうな話ならば、しない方が良い。
「自分の身に降りかかつてからでは遅いんだぞ」なんて脅かされるかも知れないが、降りかかりやしないよ。「盜聽法」だつて、何ともなかつたぢやないか。
平成十七年三月十五日
「われわれ」を主語にしてしか物を書けないやうなWikipediaに毎日物を書いてゐて、ゲシュタルト崩潰だか何だかを起さない人は、何うかしてゐるのではないでせうか。
平成十七年三月十五日
昨今、一クールで終るTVアニメーションが増えました。にもかかはらず、依然、ネタとして年中行事が使はれてゐます。四クール、一年やるアニメーションならば、季節と合つてゐる季節ネタをやれます。しかし、一クールでは、夏場にクリスマスネタをやつたり、冬に海水浴ネタをやつたりしなければなりません。それは、無理がある、と云ふものではないでせうか。
比較的長丁場のスクールランブルでも、御正月スペシャルで夏休みネタをやつてゐてアレでしたが。
平成十七年三月十五日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20050314#p1
なるほど、文學の上位概念が藝術であるとして、或文學作品の藝術としての價値を判斷する時、言語以外の要素も考慮すべきである、と云ふのは、正當性がある主張だと思ひます。が、その場合、「藝術としての價値」とは何か、を一般論として定義可能であるか何うかも問題ですが、單純に、上位の概念である藝術の價値を判斷する爲には下位の概念である文學の價値のレヴェルの判斷必要ではないか、と云ふ問題があります。そして、一般に藝術である、としても、文學作品は先づ、文學に屬するのでして、その場合、藝術と云ふ一般的なレヴェルでの價値判斷に優先して、文學としての價値判斷が要請されるのではないでせうか。しかし、そもそも、我々論者が、文學の立場に「ある」と云ふ前提は、忘れるべきではないと思はれます。文學者が文學作品を論ずる際に、文學の立場からの視點よりも他の視點を優先する、と云ふのは、如何なものかと。
映畫や演劇、アニメーション、コミックは、もちろん、當座の樂しみの爲のものもありますし、シュルレアリスティックなストーリー性を缺いたものもあります。が、ストーリー性があるならば、それはストーリーの原理に基いた批評が必要である、と言ふ事が出來ます。そして、ストーリーに關する批評は、文學の批評なのです。觀點が、何時いかなる場合にも、固定不可能である、と言ふ事が出來ないならば、我々は、或作品がどのやうな状態のものであるかを假定して議論せざるをえませんし、その假定の仕方が、既に渡邊さんと私とで、異つてゐる。この時點で、話が噛合はないのですが、しかし、私としては、自分の想定の方が、現實の作品には、より近いのではないかと考へます。
或は。私には、文學以外の立場を強調なさる渡邊さんの立場は何なのか、が氣になります。渡邊さんは、餘りに物事を一般化して考へ過ぎなのではないでせうか。何故文學を、敢て藝術と云ふ上位のカテゴリに屬させて、文學として吟味しようとしないのでせうか。しかし、そもそも、藝術的な價値は、文學の場合、文學としての價値であり、音樂の場合、音樂としての價値であり、繪畫の場合、繪畫としての價値です。藝術と云ふ上位の「カテゴリ」は想定可能ですが、その「カテゴリ」として考へる事は出來ません。映像は映像として、言語は言語として、音聲は音聲として、我々は考へざるを得ません。そして、或種の藝術に於ては、それらの組合せ方が問題となる。茲に於て、私は、實は映像や音聲や言語と云ふ要素を問題にしてゐるのであり、それらを越えた「藝術と云ふカテゴリ」を問題にしてゐる渡邊さんと對立してゐるのですが、その渡邊さんが作品の要素に基いた議論を主張し、「記号論」や「構造主義」を主張し、それに私が反對してゐるのですから、話が捩ぢれてゐます。しかし、渡邊さんの場合、「記号論」「構造主義」の觀念と、「藝術と云ふカテゴリ」の觀念とが、別々の存在となつてしまつて、論理の一貫性を缺いてしまつてゐます。
縱令、映畫に、文章の藝術にない映像の要素があつた、としても、我々は一般の脚本のある映畫に文章の藝術の要素を認めない事は出來ません。この時、我々は、飽くまで映像の側面のみを見、文章藝術としての側面を徹底的に無視しなければならない理由を持ちません。寧ろ、脚本の存在は、或意味、映像の存在よりも、重要であります。シェイクスピアの御芝居は――劇詩でなく、詩劇ですが――劇場で演じられる事もあり、讀者が讀む事もあります。だから、文學的價値を論ずる事が出來る――と渡邊さんは主張されるのですが、それは間違つてゐます。なぜなら、對話として書かれてゐる戲曲は、紙に印刷されて讀まれる時にも、上演を想定して讀まれるのであり、文學作品として舞臺から獨立して讀まれはしないからです。戲曲は對話であり、對話は言葉の藝術です。その對話は、舞臺の上で演じられて鑑賞されるか、紙に印刷されて讀まれるかで、違ふ感動を與へるものでせうか。否、私は違ふとは思ひません。いづれの場合にも、鑑賞者と讀み手とは、同じ感動を得ます。それは矢張り、言葉に據つて得られる感動なのであり、ならば、それは言葉による藝術なのです。
映像によるスペクタクルは、言ふまでもなく存在します。そして、それが本質となつてゐる映畫やアニメーションもあります。が、それは所詮、オバケ屋敷のオバケと同じです。虚假脅しです。「アラビアのロレンス」の沙漠の風景も、所詮は「自然の脅威」であり、ただ「すごい」だけの話です。さう云ふのは、知的な樂しみを引出す藝術とは何の關係もない――それが言過ぎであるとすれば、淺い樂しみをしか與へない。樂しみにも深淺があります。藝術の樂しみは、知的な樂しみでなければなりません。そして、知的の知とは、單なる知識ではなく、「本質を知る」の知でなければなりません。我々は、文學の話をしてゐるのですが、しかし、文學は、本質的な意味で、哲學(Philosophy:知を愛する事)であるべきです。取敢ず、一言だけ申し上げますと、脚本を缺く映畫、ストーリーを缺く戲曲で、それらを備へた映畫や戲曲に優る作品が、どれだけあつたでせうか。そもそも、映畫で、戲曲を越えたものがどれだけあつたでせうか。否、あつたでせうか。そもそも、様式の限界として、或は、様式の性質として、或程度、成立する作品には限界はあるのです。成立しうるより完全に近い作品の程度が、様式によつて、或程度、規定されるのです。その點は、考慮に入れておいて良いと思ひます。
平成十七年三月十五日
綿密にテキストを讀む、と云ふ事について。慥かに、デカルトとデカルト主義の差、カントとヘーゲルの違ひ、と云つた、知識に屬する事柄で、嚴密に區別する事も大事です。その點、私が屡々、ミスをする事は、或意味、有名です。が、一方で、文章を讀む時に、文脈を意識して讀む事も大事ではないでせうか。意外にも、嚴密に用語を遣ひ分ける人に限つて、文脈に應じて他人の用語を理解する事が出來ない、と云ふ傾向があります。專門用語だけならまだしも、一般的な單語の遣ひ方で、時として個人差があり、にもかかはらず、自分の遣ひ方に固執して、他人の言葉を勝手に自分に引きつけて判斷する、と云ふ事例が、跡を絶ちません。江藤淳の漱石論は、まさにその、「自分に引きつけて判斷する」事例ですが、どうも、江藤の參照したと云ふ「記号論」を「信じて」ゐる人には、さう云ふ誤を冒す人が多いやうです。やつぱり、スローガンのレヴェルで何かを信ずる人は、良くないのではないでせうか。ええとですね、私は渡邊さんが「唯物論」とか「構造主義」とかの言葉を使つたからと言つて非難したのではなく、客觀的な分析を主張してゐるかのやうで、實はかなり主幹が入り込んだ議論を實際に渡邊さんがなさつてしまつてゐるやうだ、と云ふので批判したのであります。
平成十七年三月十五日
エリオットもヴァレリイも、既に「古い」のではないですか。「構造主義」や「記号論」の人が詩なり批評なりをちやんと讀んで、その邊の感性をきちんと身につけてゐる、と、私は信じられません。詩を理解してゐるのなら、まともな「讀める」文章を書いて然るべきです。實際には、とても讀み辛い、言はば符牒を用ゐた文章が、現在は横行してゐるやうに思はれます。もちろん、符牒が判る人には、その手の文章は「判る」のです。が、符牒は、危險な存在で、理解しないでゐても「それつぽく」便利に使へるものなのです。符牒で考へる事は、大變危險なのですが、それを、渡邊さんもまた、どこまで理解してをられるのか。
私も、そんなに澤山、ものを讀んでゐる訣ではありませんから、その點は反省したいと思ひます。が、だからと言つて、良いものはさうさう讀めはしないのではないですか。凡作ならば、我々は氣樂に讀めるのであり、讀飛ばす事が出來ます。渡邊さんは、恐らく素人の小説を、某協會で隨分澤山御讀みになつてゐる事と思ひます。私は、ウェブの小説は最うさつぱり讀まなくなりましたが、それ以外でそれなりに讀んでゐます。が、さう云ふのは讀んでも仕方のないものが殆どです――全てと言つてもよろしい。その中の最も優れたものとされる作品が――本の雑誌の書評で大森望氏に星一つ半を附けられたりしてゐるのですから、その他のものは推して知るべし。否、渡邊さんも、御解りである筈です。素人の小説は幾ら讀んでも仕方がない。名作をこそ讀むべきです。が、そこで我々は何を讀むべきか。名作だけでも相當の數があると思ひます。渡邊さんが非難されてゐる小林秀雄だつて、良い事を言つてゐるのでして、讀むなら全集を讀むとよろしい、例へばトルストイ全集を讀んでみ給へ。さう言つて本當に實行する人が何人ゐるだらうかと小林氏は書いてゐますが(うろ覺え)、さう云ふ讀み方をしてゐて、どれだけの名作を讀めるものでせうか。しかし、さう云ふ讀み方は必要であると思ひます。すると、荷風であれ露伴であれ、漱石であれ鴎外であれ、讀めるだけのものを讀むにしても、かなり數は限定されるでせう。
大森望氏が慥か1989年にSFの状況について述べて、既に全ての飜譯SFを讀切れるものではなくなつてゐて、世代によつて認識の差が出て來る事を認識しておく必要があると指摘してゐましたが、同じ事は或意味、文學一般の領域においては正當な指摘として受容れざるを得ません。しかし、その指摘は、單純に「新しいものだけを讀んでゐれば良い」と云ふだけのものではなく、「今、面白いものが譯されないのであれば、昔のものを省みるべきではないか」と云ふものでもありました。この點、私は隨分、苦勞して、銀背だとかサンリオだとかを集めて、大森氏に忠實だつたのですが、そこから先が駄目で、抛げました。で、以後、「こつち」の世界に來たのですが、讀んでゐないよりはゐる方が、話をする時には「説得力」が出て、よろしいですね。その點は同意です。が、さうなると、本當に「構造主義」とか「記号論」とかの理論は要らなくなつてしまふ。小林秀雄の「良く讀め」に話が行つてしまふ。小林氏の『本居宣長』は、さう云ふ話ばつかりで、それで面白くないのです。ですが、さう云ふ讀書經驗の多寡が問題になると、讀書でない實人生の經驗の多寡までもが問題になるのでして、さうなると矢張り、問題は日本的な「私小説」の方向に行つてしまふ。或は、「名作を讀む」以前に「名作を集める」のが先だらう、と云ふ事になつて、コレクター萬歳、古本マニア萬歳と云ふ櫻花さん番外地的な結論に至つてしまふのですが、さうなると完全に本末轉倒。
平成十七年三月十五日
小島信夫はわしもしらない。讀むべき人なのですか?
渡邊さんに對抗して適當に人の名前を舉げてみる。岸田國士。獅子文六。若杉慧。上司小劒。上林曉。太宰治。井伏鱒二。小沼丹。田山花袋。正宗白鳥。井上靖。冥王まさ子。D.H.ロレンス。ジョージ・オーウェル。グレアム・グリーン。オスカー・ワイルド。フィールディング。スウィフト。ブレイク。バリ。バイロン。シェリー。モリエール。ジイド。ゴーティエ。スタンダール。メルヴィル。イプセン。ゴーゴリ。
平成十七年三月十五日
月詠。最初はただの萌えアニメだつたのが、何時の間にか、いろんな意味で微妙なあにめへと變貌してしまつてゐる。盥の演出が變に冴えてゐるのだけれども。ええと、今囘はもしかして停電のアレがもとネタですか。
取敢ず、何んなオチになるのかだけが樂しみだが、全員集合のアレに持込んで呉れたら俺は絶讃する。
葉月が萌え萌え新Ed。二番。
選りによつて型月。
平成十七年三月十五日
寢ます。
平成十七年三月十五日
映像作品(映畫・アニメーション・コミック)であつても、それが作品である限り、知的な構成が存在します。知的な構成は、知的な批評の對象となり得ます。言換へると、知的に構成されてゐないならば、映像は作品として鑑賞する對象となりません。映像の製作者は、映像を意圖的に或形に整へ、提供します。鑑賞者は、整形され、排列された映像を、鑑賞します。脚本が存在しなくとも、時間の制限により、鑑賞者は線條的にしか作品を鑑賞する事が出來ません。インタラクティヴでマルチストーリーのゲームやハイパーテキストも、プレイヤー・閲覽者は常に一つの筋を辿り、線條的に作品を體驗します。その鑑賞者が體驗し得る線條的な作品の形態を、映像なり何なりの作品を製作する人間は、豫想し、意圖的に設定してゐる事となります。マルチストーリーで、鑑賞者に「自由」が與へられてゐる作品であつても、その「自由」の範圍は製作者によつて限定されてゐます。ならば、さう云ふ限定の仕方について、或は作品の構成の仕方について、批評する事は可能です。が、さう云ふ作品の構成に關する議論には、言語作品の構成に關する議論と同じ理論が適用可能です――と言ふより、映像作品の構成は、常に言語的に行はれる、と言つて良いのです。ならば、言語作品の批評と同じやうにして、映像作品を批評する事は、可能です。
平成十七年三月十五日
ウェブ制作者は、屡々、サイトの中で情報を探す過程を閲覽者に樂しんで貰はうとする。しかし、閲覽者は、情報を得て樂しみたいのである。閲覽者は、サイトに到達するまでに既に情報を探す過程にあり、なかなか情報を得られないで苛々してゐる。情報が「ある」とされるサイトで、制作者によつて再び情報を探させられる羽目に陷つた閲覽者は、ストレスを感ずるであらう。
平成十七年三月十五日
「てにおはでぐぐってもわからん」らしいのだが、書直した方が良いのだらうか。良いのだらう。

平成十七年三月十四日
まほらば。まだ觀てる。今囘は一往樂しく觀られました。
平成十七年三月十四日
ドクロちゃん @ AnimeTV on カミングスーンTV。また觀てる。何度觀ても下らないですね。
平成十七年三月十四日
Zガンダム @ ANIMAX。最う何囘も觀てる。何度觀ても馬鹿ばつかですね。シャアの正體、何とか准將にはばればれだつた訣だし。
平成十七年三月十四日
GATV。烏丸ちとせの中の人、入院してゐたらしい。なんか本當にミュージカルやるらしいが、露骨に地雷臭いので、ネタで觀に行くのも「あり」かと半分本氣で思つてしまひました。
平成十七年三月十四日
めも。暇潰し用。
住友グループ広報委員会:現在の主な活動事業紹介
住友グループ広報委員会:三井住友海上発展略図
平成十七年三月十四日
Wikipediaの「山一證券」の項に、印象的であった。なる記述があつて、變だと思つた。
平成十七年三月十四日
Word の使い方、教えるべきことは何?
「アウトラインモードで構造を意識して文章を作成する」「スタイル機能で見出しや本文の見た目を決定する」が正しいWordの使ひ方だ。かう云ふ使ひ方をしないなら、Wordを擇ぶべき理由は全く無い。標準モードやページレイアウトモードで、ツールバーのボタンを使つて文字修飾する奴は、例外ナシに馬鹿。
取敢ず、正しい文字の組み方の話と、Wordの正しい使ひ方の話とを、混同するのは止めようよ。
平成十七年三月十四日
「〜だよー」とか「☆」とかAAとかを濫用した愉快なメールを一生懸命打つてゐる事がたまにあるので、電車の座席で携帶電話を弄つてゐるをぢさんを見掛けたら横目でそつと覗き込んでみよう。面と向つて嘲笑してやるのは可哀想なのでやめておく事。

平成十七年三月十三日
ドクロちゃん @ AnimeTV。なんかすごくおもしろいやうなきがする。
平成十七年三月十三日
http://d.hatena.ne.jp/meigara/20050312#1110646426
追記。サブタイトルの「〜だよ!」の元ネタはドリフ?
「〜だよ! ××」のパターンは、ゼンダマンに前例がある。
Google 検索: ゼンダマン
が、元ネタか何うかは知らない。
平成十七年三月十三日
冲方丁『撲殺天使ドクロちゃん』論
まじめに論じられてるし。但し原作。
平成十七年三月十三日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20050313#p2
音樂・繪畫と、詩歌・戲曲・小説・評論とは、同じ藝術と云ふカテゴリに屬しますが、前者は言語に據らない藝術であり、後者は言語に據る藝術です。茲に根本的な差異が存在します。私は、言語に據る藝術のそれぞれのジャンルの差異を否定するのに、音樂や繪畫を持出すのは妥當な論法だと思ひません。詩歌・戲曲・小説・評論・映畫・テレビドラマ・アニメーションは、全て、言語に據る表現に基いてゐます。(一部の「藝術的」な映像作品は除く)言語に據る藝術に關しては、言語の存在を前提とした議論は可能である、と考へます。
渡邊さんの「アジテーション」としての「唯物論」の主張ですが、「研究方法の一つとして、藝術作品の記號の側面にのみ著目する」と云ふものであると考へられます。慥かにさう云ふ研究の方法はあり得ます。しかし、方法は方法であり、本質と取違へる事は許されません。「記號が藝術作品の本質である」と云ふ勘違ひをしてはなりません。しかし、さう云ふ「記号」的側面に着目する、と云ふのは、私の主張でもあるのです。ただ、私は、「記号」を單に操作して、變形して、解つた氣になるのは駄目だ、と申し上げたい訣です。
それらの記号は、それぞれの作品において、それぞれ固有の構造を有するように配列され、それが人間の知覚に何らかの刺激を与え、その刺激が意味に変換され認識される。優れた芸術作品は、その作品を受容する人間の知覚に何らかの変容をもたらし、認識を拡張させる役割を有していると考えます。
その「変容」が、記号的な「変容」では、何にも意味がないのです。渡邊さんの「記号論」が、記號論の域から出ようとしない――それでは、渡邊さんの主張は文學と何の關係もないものであると言はざるを得ません。それは、飽くまで記號論であり、記號論的な文學論とはなりません。渡邊さんは、單純に記號論と仰いますが、記號論と文學論とは別物であるべきではないですか。記號論と文學論とを分かつものを、渡邊さんは考へてをられません。私が渡邊さんの主張が本質的にをかしいと思ふのは、渡邊さんが「記号論」に基いて分析をしよう、と主張される割に、物事を嚴密に分かたうとしない傾向がある事です。渡邊さんの主張に據れば、音樂も繪畫も文學も、全て區別がありません。それはをかしいのではないですか。文學は記號論である、と言ふのならば、文學とは何ですか。「他者性の発見(と理解)」である、と云ふ説明では、音樂・繪畫・文學・記號論云々と云つた異る概念のものを、異るものとして區別する事が出來ません。しかし我々は、それらを異る概念として區別してゐます。ならば、その異る概念として認識する理由をこそ、我々は明確にし、意識するやうにしなければなりません。物事を曖昧にする事が「記号論」であるとしたら、私は渡邊さんの方法に反對せねばなりません。實際、渡邊さんの仰る「記号論」では、單純に批評對象の藝術作品を切り刻む方法が示されてゐるだけで、それを再構成する藝術的な方法が缺如してゐます。ただ、ばらばらにされた要素の個別のものに、個人的な興味を見出せたらその興味を表明する、自分と同じ興味を持つ人がゐたら一緒に面白がれば良い、後の人は知らないよ、と云ふ、抛げつ放しの「研究方法」であると、私は思ひます。言はば、個別の要素に「萌え」を見出して、それ自體として「萌える」と云ふ、駄目なアニヲタの行動パターンと、渡邊さんの「記号論」との違ひが、私には見出せないのです。
もちろん、実証的な研究において、歴史的に確定できる作者の残した足跡は、参照項として読解に意味を持つのは認めますが、しかしにもかかわらず作品の意味は作者に由来しない、というのは重要な認識であると思います。そしてそれは「作者」のみならず、作品の意味は「人間性」とか「精神」とか「社会」といったものから由来するのではなく、作品そのものを構成する物質的条件としての「記号」の構造性から読者の読解を通じてそれらの観念に結びつけられ認識されるわけであって、逆ではない、と主張したいわけです。
實は、文學作品を讀む際に、渡邊さんのやうな「記号論」のやり方でなく、讀解としての客觀的な讀み方を通して、表現されてゐる内容を讀者が把握する事は可能です。文藝作品を讀む事によつて、其處に表現されてゐる内容は把握出來ます。作品の外部の、歴史的に確定できる作者の残した足跡参照項として文章の讀解に持込むのは、「逆照射」であり、讀解の方法として正しくありません。そして、「記号」の「構造性」と云ふ「パターン」から、作品を解釋するのは、やはり解釋であつて、讀解ではない、それも「逆照射」である、と私は考へます。飽くまで文章は文章に書かれた事のみを持つて判斷されるべきである、と私は考へます。作者の經歴にしても、「記号」とか「構造」とかにしても、さう云ふ物は全て文章の外部に存在するものです。文章を、文章の外部のものを利用して解釋する方法は、全て、例外ナシに、文章を讀解する方法ではありません。「記号」とか「構造」とか、「記号論」や「構造主義」と云つた方法論に基いた特殊な概念に基いた解釋は、全て私には疑はしい物に見えます。私は、「文章に書かれてゐる事」を基に文章は讀解されるべきである、と考へます。そして、それならば、日本の一般的な批評家がやつてゐないだけで、昔から西歐の優れた批評家ならばやつてゐる事です。江藤淳の漱石論は、「嫂」の存在を常に作品の解釋に持込む、と云ふ、文章の外部のものを利用した文章の解釋の典型例ですが、大岡昇平が批判してゐます。この時、大岡氏は「記号論」も「構造主義」も意識してゐませんが、妥當な批判となつてゐます。大岡氏は、作品論は「作品に書かれてゐる記述」を基にすべきである、と考へて、江藤氏の漱石論を非難してゐます。それで十分であると私は考へます。何も「記号論」とか「構造主義」とかを言ふ事はありません。實際のところ、さう云ふ「論」とか「主義」とかになると、作品の外部の、論者の主義・主張が、作品論に入り込むのです。或は、本來論じられるべき論點が、「記号論」や「構造主義」の「論」や「主義」として表明された或種の價値觀によつて排除される。ところが、「唯物論」と渡邊さんが言つてをられますが、「記号論」や「構造主義」の論者は、日本では、自分が恰も客觀的な立場で物を言つてゐるかのやうな錯覺に陷る。それが困るのです。作品論が、一つの「論」として成立するには、一貫した原理が必要です。その原理が、或種の主觀主義に陷る事を「記号論」「構造主義」は拒否するのですが、それが單なる「價値相對主義」に行つてしまつたら困るのです。この邊の逆説的な現象を、客觀主義的な人々は、どうも意識されてゐないやうです。「記号論」「構造主義」は、西歐に於ては既に逆説に關する耐性を持つ人が多いので問題は少いのですが、さうではない日本では問題が多いやうに思はれます。マルクス主義では「科學的社會主義」を主張し、「空想的社會主義」を排斥しながら、理論によつて現實を歪める妄想的な史的唯物論が常態化しました。科學とか客觀とかを宣言し、主觀の存在を排斥して見せても、屡々、排除された筈の主觀が判斷に入り込んで來るのです。其處に人間の意識の逆説があるのですが、逆説の存在を意識してゐない社會――近代化が遲れた社會――に顯著な現象です。日本は、近代を輸入した後進國です。現在、意識されるレヴェルの世界に屬する事物は近代化された、と言ふ事は出來ます。が、無意識の領域まで日本人は近代化されたとは――これは必ずしも言切れないと私は思ひます。日本では、最初に厄介な逆説の理解が必要である、と私は考へます。主觀の逆説的な復讐を意識し、主觀を手懷けた上で、客觀の實現をはかる、と言ふのであれば、私は贊成ですが、結論として「客觀」「唯物論」のアジテーションに飛び附く、と云ふ事であれば、私は「危險過ぎる」として贊成しません。
平成十七年三月十三日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20050313#p3
ですから、私がエリオットと言つた時、エリオット以前の全ての存在を閑却して、いきなり結論としてエリオットに飛附け、と言つてゐるのではないのです。それはデカルトにしても同じですが、どうもその邊、「記号」として文章を讀んでしまふ人には解らないらしい。實際のところ、ボードレール邊を讀んでゐるならば、單純な「記号」と云ふ言ひ方は出來なくて、象徴と云ふ概念を文學的には常に考慮せざるを得ない事になる筈ですが、矢張り、日本人にとつてサンボリズムも「我−それ」の關係にあるものでしかないらしい。
エリオットの詩の作品を讀めと私は申してゐる訣ではありません。ヴァレリイやエリオットの詩論――と言ふより、そこで指摘された詩の理論は、實は現在においても、文學の常識或は基礎知識として、日本では大學の授業で習ふものです。歐米でも、華々しい文藝理論として展開してゐないですが、基礎として習ふものでせうし、大概の論者は知識を持つてゐるでせう。それが日本の知識人なり文學者なりには缺けてゐます。「或時點の形態」に日本人は著目する傾向があります。歴史的假名遣への非難にしてもさうなのですが、日本人は性急に、「或時點のもの」として歴史的假名遣を固定化し、攻撃します。エリオットと言へば、それこそエリオットだけが問題になり、エリオットに至るまでの歴史は全て閑却して論ぜられるべきである、と云ふ發想になります。「近代科學の出發點はデカルト」と言へば、デカルトと云ふ人に「自明の事を疑ふ精神」「合理的な精神」と云ふ事を象徴させてゐる意圖を無視して、歴史的な連續を無視した「デカルトだけ」の事を言つてゐるかのやうに理解される。文章を讀むにしても、讀み方の基礎がなつてゐないのです。かうなると、讀解の先にある解釋について論ずる事――「記号論」とか「構造主義」とか言ふ事――はナンセンスな事でしかありません。
「記号論」にしても「構造主義」にしても、文藝作品中の記號や構造は、價値觀に基いて選擇しなければなりません。單純に「記號」とか「構造」とか言ふ事は出來ません。ならば、我々は價値觀を意識する訓練が最初に必要となります。スローガンやアジテーションだけで「記號」や「構造」が客觀的なものとはなりません。客觀的であらうとする爲には、主觀と云ふものを理解しておかなければなりません。この逆説が、日本人には理解し辛いものです。私は、かうした逆説は容易に理解出來るものでないと思ひます。だからこそ、私はその逆説を理會したいと考へてゐます。その爲には、矛盾とも思へる西歐の各種の歴史的な思想・理念を清濁合はせ呑む態度が必要であると考へます。が、その際には「新しい」ものも「古い」ものも區別出來たものではありません。そして、常に「新しい」ものよりも「古い」ものの方が多いのです。ならば、等しく何でもかんでも受容れようとする場合、「古い」もの許りを受容れるやうな印象となりますが、それが正しいのです。「新しいもの」の比率を高めるのは、平等ではありません。
平成十七年三月十三日
逆説と云ふ觀點から言へば、チェスタトンが色々言つてゐる訣ですが、それは理念的な側面が強い訣で、ワイルドの箴言集や『ドリアン・グレイ』のやうな具體的な表現を見た方が、逆説を身につける爲の訓練にはなります。
ニーチェにしても、さう云ふ逆説的な表現として讀んだ方が良い、と言へるのであり、眞に受けてしまつてはなりません。保田與重郎にしても、逆説的な讀み方をすれば相當「樂しめる」のであり、眞に受けて文字通りの事を口眞似しても仕方がありません。その點、實は、福田恆存についても言ふ事が出來ます。「日本共産黨禮讚」は、福田氏の逆説的なセンスに基いて書かれた文章です。「平和論に對する疑問」「防衞論に對する疑問」と云ふ對照的な文章を福田氏が書いたのも、逆説的なセンスに基いての事です。
「記号論」「構造主義」は、矢張り物事を多面的に見る方法として、理解されて、それで受容れられてゐるものです。けれども、多面的なものの見方は、實は、方法論以前に教養として身につけられてゐるべき事です。西歐人は、逆説を受容れると云ふ事を、習慣として身に附けてゐます。かうして一般論化すると例によつて非難を浴びさうですが、一般論でなければないで構ひません、ただ、西歐人ですら身につけられてゐないのなら、それこそ日本人は身につけられてゐない事が明かである、と言へるのではないですか。物の見方として、多面的に見る、と云ふ事が重要である、と云ふ點で、私と渡邊さんでは見解が一致します。ただ、方法が違ふ。その理由は、根本的に價値觀が違ふ。渡邊さんは、言はば客觀一本槍です。しかし私は、「主觀と客觀とがある」と云ふ事こそが客觀的な事實であり、その事實を認識する必要がある、と思ふのです。
渡邊さんのは、主觀を排除して客觀だけを擇んだ、實は主觀主義であります。それは、渡邊さんの反對してゐる、客觀を排除して主觀だけに基いて「實感」を表明する主觀主義の、單なる裏返しに過ぎません。發想が一元論なのです。主觀と客觀とが存在する、それは同時に存在するのであります。そして、同時に主觀と客觀との存在を認める――これは二元論ですが――そこではじめて、逆説的に、客觀的な認識が可能となる。
平成十七年三月十三日
ケッケコーポレーション
のび太役の大原めぐみ孃は、もしかして、顏で擇ばれたのではないか。
ちなみに、探すと水着姿が見附かる。えろげだか何だかのオーディションに出た過去がある模樣。

平成十七年三月十二日
虹裏に馬鹿なスレが立つたので晒してみる。http://img.2chan.net/b/res/23024228.htm

05/03/12(土)00:55:41 No.23024228 01:50頃消えます[返信]
文字は決して發音をそのまま寫すものでなく、意味を寫すものである。
その觀點に立てば、舊カナづかひは決して習得に困難なものでない。
逆に表音主義は國語の音韻體系を根本から破壞するだらう。
狂信的なカナモジ、ローマ字論者が國語審議會を獨占して、國語を取り返しのつかぬ混亂におとし入れつつある。

君たち程の人間なら私の考へも分かつてくれるだらう。
さあ、正しい國語で今日の一日を振り返つて見なさい。

福田さんは「舊カナづかひ」等と言はない。文字は意味を寫すものではない。口調がそこはかとなく「義」。
ちなみに現在、J-COMから投稿は出來ないので、このスレ「」は俺ではない。
平成十七年三月十二日
「Blog」の要らないもの。カレンダー。カテゴリ別の分類。外部へのリンク(或はアンテナ)。
誰も使はないものを詰込んで「これ、使ひ易いでせう?」等と本氣で思つてゐる「Blog」のオーナがゐたら、何うかしてゐる。
平成十七年三月十二日
大類伸の文章。

……。

固よりキリスト教本來の精神的立場から進んで、キリスト教會がその歴史的發展の過程に於て、ローマ帝國の世界統一の繼承者となつたことは、たとひそれが宗教信仰の上に限られたにせよ、重大な意義をもつものであつた。實際ローマ帝國沒落の後に、ヨーロッパは遂に統一された一國家とはならず、多數國家の並立状態が現在に至るまで續けられてゐる。此のヨーロッパの分裂に對して、ヨーロッパを一の世界として纏めることが出來たのは、全くキリスト教の力によるものである。所謂「キリスト教世界」として西洋を一體として考へることの出來るのは、キリスト教のお蔭でなければならない。ギリシアが幾多の小國家に分裂しながらも、後世から一の纏つたギリシア世界として見られてゐるのは、彼の優れたギリシア文化が永久に輝いてゐればこそである。それと同じく、キリスト教に依て精神的に裏づけられたヨーロッパ世界の統一性も、また偉大と云はねばならない。さうしてその統一も實は、その準備としてローマの政治的統一があつてこそ可能なのだつた。

西洋は中世以來諸國家の對立状態をつゞけ、その爲に分裂紛爭の不幸を釀したことが少くない。最近には二囘も世界大戰の悲劇を繰返さなければならなかつた。しかしかゝる對立の叛面に、ヨーロッパ共同體の精神が働いてゐることも看過されてはならない。キリスト教がその母胎とも見られるユダヤ教の狹い國民的立場から超脱して、萬民共通の世界的宗教として乘出したことは、民族文化興亡の歴史上に偉大な意義をもつてゐる。キリスト教は自己の誕生した東方世界に於ては、上述の如き世界史的發展を遂げることが出來ず、それは西方のローマ世界に入るに至つて始めて可能となつた。こゝに至つてローマの世界史的意義も重大なりと云ふべきである。

但し世界的なるローマも結局は地上的國家であり、之に對してキリスト教は本來現世を超越して彼岸の人間救濟を説く精神教である。かゝる精神的立場から云へば、ローマの如き地上帝國は人間惡の結果であり、それを超剋することに依て眞の人間的幸福は期待される。かくしてキリスト教とローマとは、一面に於ては明かに矛盾した概念に外ならない。從つてローマ帝國沒落につゞく中世一千年の歴史に於て、厭世的悲觀的な世界觀は相當に強く人心を支配し、文化の面にも嚴肅な陰鬱な氣分が濃厚であつた。中世の文化は少なからずこのやうな宗教的世界觀に蔽はれてゐた。それは正に古代文化と矛盾するもので、時代は全く一轉したかの觀がある。かゝる中世的傾向を打破して近代文化の輝かしい幕を開いたものは、ルネサンス(文藝復興)の古代再興運動であつた。かくして近代は古代を復活することを目標としながら、自己の新しい生活を展開したのである。しかし近世を語るに先立つてまづ中世を顧みなければならない。

……。

平成十七年三月十二日
飯塚信雄の指摘。

私たちにとって、資料の冷徹な科学的操作によって書き上げられた実証的な歴史も無論大切であるが、他面、そうした実証と分析が命じるぎりぎりの線をやむなく越えて、血と体温によって書かれた歴史も必要であろう。ツヴァイクの歴史小説は、この意味で実に特異なものだと思う。

しかし、ヨーロッパとヨーロッパ史への過度の愛情が、ツヴァイクを或る意味でめしいにした。人類の友であり、普遍的な人間性を一つの観念としては信仰していたツヴァイクではあるが、世界史の中にえがいたそのヨーロッパ像は、強烈な愛情によってゆがめられていたのである。

今まで自明のものとして伝えられてきたヨーロッパという概念に対して、第二次大戦後、ヨーロッパの内部から様々の反省、根本的な疑いから再出発しようという見事な反省が生じた。ジョフレー・バラックラフ(Geoffrey Barraclough)が『メルクール』(Merkur 1954)に寄せた『ヨーロッパ史と別れねばならないか?』とか、オットー・ブルンナー(Otto Brunner)が「ヒストーリッシュ・ツァイトシュリフト」(Historische Zeitschrift 1954)に寄せた『ヨーロッパ社会史という問題』(Das Problem einer europaischen Sozialgeschichte)などはその輝かしい例と言えよう。このような反省に欠けているという点で、ツヴァイクはたしかに古い歴史家だった。十九世紀的なヨーロッパ教養世界に属する最後の人として、異質な二十世紀を生きたその記録は、非常に貴重なものではあるが。

平成十七年三月十二日
「西歐人が西歐なる概念を疑はざるを得なくなつた理由を理解する必要がある。その爲には、西歐人が理解してゐた西歐なる概念を日本人は先づきちんと知らうとすべきである」と考へるべきか。
「西歐人ですら西歐なる概念を疑ふやうになつたのだから、その最新の風潮を取入れて、日本人は西歐なる古い概念を受容れないやうにすべきである」と考へるべきか。
大類伸は、西歐の歴史學を取敢ず日本に移入し、日本に歴史學を成立させるのに大きな貢献があつた學者だが、さう云ふ「古い」學者のやり方は、「最新の」ではあつても、やはり「西歐の進んだ學説」を採入れようとする現代の日本の學者のやり方と、實は同じである。
現在まで、日本人は日本獨自の歴史學を持つてゐない。それを、「普遍」の名の下に正當化すべきか。
平成十七年三月十二日
新聞に書いてあるやうな現象論を述べるのは知識人の仕事でない事。西尾とか西部とか。西歐の哲學者は、現象論ではなく、本質論に關心を持つた事。さう云ふ御話。
平成十七年三月十二日
Pocket Fancy - 風変わりなHTMLタグ屋さん
本當に風變りだ。こんな裏ワザ的なものを眞似してはいけない。
Pocket Fancy - ホームページ作成講座
こちらも突込みどころ滿載。とにかくHPを作ってみようという講座なのだから、理解する事よりもただ「作る」事だけを目的にしてゐるのは明かであり、HTMLは手打ちですが、HP作成とは何か、理解することを優先しています。と云ふ宣言は大嘘である。實際、理解などさせず、取敢ず「作らせる」と云ふ駄目な「HP講座」の典型的なパターン。まあ、作者が小学生だから、用語も判らないまゝ、記述に矛盾があつても氣附かず、適當にそれつぽい事を言つてゐるに過ぎない訣だが、しかし、小学生であつても、公開の場で物を言つてゐるのであり、その言つてゐる事が間違つてゐるのだから、批判されるべきである。小學生だらうが電通大の名譽教授だらうが、俺は差別しない。筋の通らない事を言つてゐるならば、俺は容赦なく突込む。
http://yaplog.jp/pofan/archive/55
W3Cとか全く信じてませんし、理解していないので、そこのところご了承ください(頼りにならないHP講座サイトでスミマセン;;)
頼りにならないと自覺してゐるのならば、なぜ改善しようと努力しないのか。理解してゐないのなら、どうして他人を理解させられるのか。

平成十七年三月十一日
AIR。改めて全體を認識する自己認識の囘であり、自己證明の囘である。ストーリーは一旦、最初に戻り、閉ぢてゐる。物語の圓環構造が成立してゐる。來週は、閉ぢた圓環、自己を證明した世界から、再度ストーリーが始まる訣である。
平成十七年三月十一日
さて、例のわらぢむし君が、依然、徘徊を續けてゐるのだが。
人工の建物の中で行き場を失ひ、迷子になつてゐるのなら、自然に返してやるのが良いのだらうか。
平成十七年三月十一日
舞-HiME。何か凄いと言ふしか。面白いと言へば面白い。無理矢理話を纏めにかかつてゐる感じだが、最後まで勢ひ持つかなー。先が讀めない。
豫告空氣嫁。ドロンボー一味ですか。
平成十七年三月十一日
不思議な事。
ティッシュペーパーやトイレットペーパーの賣り文句が「柔らかい」であるが、なぜだらう。柔らかくて、鼻をかんだ時に破れるペーパー多數。メーカの開發者は、鼻をかんだ事がないのではないか。
糊が、紙と手を良くくつ附けるのに、紙同士を屡々くつ附けない事。手に附いても、餘計なものとくつ附かない糊が、あつても良いと思ふのだけれども。何處のメーカも開發してゐないみたい? なぜだらう。
都心の廣い道の路上駐車を、交通の障碍になつてゐないのに、集團で取締る警察は何うかしてゐる。そんなに廣くない某所邊の交叉點に駐めて澁滯を惹起こしてゐるやうな車をこそ取締るべきだと思ふのだが。なぜさう云ふのは放つておくのだらう。と言ふか佐川邪魔。
平成十七年三月十一日
わらぢむし君達、實は、植木鉢の中に多數潛伏してゐた模樣なのである。
平成十七年三月十一日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20050311#p1
今晩は。まいど何うもです。
「構造主義」關係の參考書を教へて頂きました。何うも有難うございます。何うも、この邊の文獻、世間で物を言つてゐる人は皆、讀んでゐるやうな氣がしますが。と言ふか、大體、本屋で今でも賣られてゐる「現役」の本許りです。世間的には構造主義が「生きて」ゐるのであり、現在省みられてゐないとして、敢て「構造主義」と言つて、主張しなければならないものとは思へません。それに、スタイナー邊なら、松原先生を通して、福田恆存も知つてゐたと思ひます。スタイナーでは『悲劇の死』が良く知られてゐるかと思ひますが、これ、飜譯が極めて惡い。松原譯で讀みたかつたものです。スタイナー、『悲劇の死』において、戲曲の時代が小説の時代に移つた事を指摘し、さう云ふ現實がある事を認めた上で、そのやうな近代と云ふ時代を批判的に論じてゐます。
「人生」と云ふキーワードも渡邊さんの目に留つてしまつてゐるやうなのですが。「人生の芸術化」は、無秩序で渾沌とした線條的に進行する人生に對して、人間は一定の秩序や周期を與へるものである、と云ふ『人間・この劇的なるもの』や『藝術とはなにか』邊で論じられた福田さんの主張に基いた發言です。「芸術化」と言つても、單に「秩序を與へる」と云ふ程度の意味に過ぎません。サルトルの『嘔吐』に觸れた時にも述べたと思ひますが、無秩序な自然状態と、秩序のある人工の状態とを、私は意識して話をしてゐます。
私にも、考えにしたがって作品を読んだり書こうとしたりする時と、単なる個人的な息抜きや慰めを望む時とが、あります。兩者は並存してゐます。が、兩者を私は別の物として考へます。それが第一義的な「芸術の目的」からは外れていたとしても個人的な人生においては私はそういう「下らない欲望」も肯定する、ということで、具体的に言えば、シェークスピアの演劇も、キムタク主演のTVドラマも「楽しんで(楽しみの内実は違うわけですが)」観る、ということです。と渡邊さんは御書きです。私もシェイクスピアを讀み、あにめを觀ます。渡邊さんは、單に複数の欲望があるとおつしやいます。しかし、私は、「肯定」「否定」と云ふ二分法的な捉へ方ではありませんがく、藝術として「良い」「惡い」、或は、藝術として價値が「高い」「低い」と判斷を下し、區別しようとします。渡邊さんは、事實の確認をされてゐます。私は、事實がある、と云ふ事は認めた上で、その事實に對して價値判斷をしてゐます。私は、何も事實の「切捨て」を主張してゐるのではありません。逆に、價値判斷の切捨てを、渡邊さんは主張してをられるのではないか、と私は考へます。
「欲望」という語が、私の考えのことごとくが私の嗜好に基づいたものであることを示しており、ゆえに私の考えは客観性を欠く、という指摘ですが、「芸術が一般に目的とするものは何か?」という問いと、「私の人生において芸術とは何か?」とは、違う問いであって、前者は客観性を持っていなければならないけれども、後者については主観的たらざるを得ないのではないか、と思います。と、渡邊さんは述べてをられます。確かに、その點は同意します。否、同意するからこそ、渡邊さんの主張はをかしい、と私は指摘せざるを得ないのです。と申しますのは、私は、後者のやうな主観的たらざるを得ない「私の」嗜好をしか述べないのならば、それを根據に前者の「一般」に關して主張する事は許されない、と言ひたいからです。渡邊さんは、「一般に」受容れるべきだとして、「唯物的」な方法を提唱し、「実感」主義を否定してをられました。或は、「一般」的な主張をする際、「私」に關する主觀的な根據が入り込むのは、主張として「弱い」ものになる、と私は指摘してゐるのです。
川端氏の「雪國」解釋ですが、わりとありふれた解釈であるにしても、そもそもその「解釈」と云ふ事を私は問題にしてゐます。解釋の時點で、既に主觀的な價値判斷が入り込んでゐるのではないか。渡邊さんは、さう云ふ解釋は「構造主義」や「記号論(学)」は関係ないと述べてをられますが、少し逆切れ氣味に批判させて頂くと、さう云ふ「関係ない」考へ方が渡邊さんの話では並存し過ぎです。そして、私は「構造主義」や「記号論(学)」がもたらした認識を「踏まておく」ことは現在では必要だろう、といっているのであって、と渡邊さんは書いてをられますが、その根據が依然、さつぱり判らない。渡邊さんの主張は、根據の部分で「私の」考へがあり、にもかかはらず、「一般に構造主義や記號論を踏まへておくべきである」と云ふ結論が下されてゐる。これは、論理として「弱い」のではないですか。
あと、某えろげの高橋氏が「現代のシーンに思想的に影響を與へてゐるので、今のえろげなりぎゃるげなりは踏まへておく必要がある」と主張した事があつて、その高橋氏と似たやうな立場にあつて「構造主義」や「記号論」を踏まへておく必要があると主張される渡邊さんは、現代の思想に或意味とても大きな影響を與へてゐるあにめを踏まへておく必要があるのではないでせうか。それは兔も角、私のエヴァ論は、讀めば御解りになると思ふのですが、具體的に映像やストーリーの個別の要素を指摘して論ずる、と言ふよりも、全體としてどのやうなものであつたか、を大雜把に論じたものです。自分の立場を「演説」してゐるところが多いので、作品を觀てゐなくても、私の立場を理解する、と云ふ目的で讀むならば、それなりに「解る」かと存じますが。何も一般論としてエヴァを理解して呉れ、と私は要請してゐないのです。
平成十七年三月十一日
二十世紀の文芸批評では、どうしても構造主義と記号論を抜きにしては語り得ぬ領域があって、その意味では福田恆存の批評は少々「古く」感じる、ということで。と渡邊さんは前に御書きになつてゐるのだけれども、その構造主義と記号論を抜きにしては語り得ぬ領域がどう云ふ物なのか、そして、その「領域」が一般に我々にとつてどのやうな意義を持つ物であるのか、が、良く解らない。
平成十七年三月十一日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20050311#p2
むしろ私は漢文の素養が決定的に失われていることのほうに日本語を使う人間としては危機を感じます。と渡邊さんは述べてをられてゐて、うちのやうなサイトを閲覽してをられる多くの方々には同意出來る意見であると思ふのだけれども、私は必ずしも同意出來ない。この引用した文章の前に、もっとも、私は文学に専門的な関心がある人でなければ、エリオットまでを「常識」としてしまうのは多少酷かと思いますが。と云ふ文章がある。私にしてみれば、酷であらうが何であらうが、日本人はその兩方の知識を持たうと努力しなければならない、と考へる。が、現代に於ては、既に漢文の知識を「持たう」と主張する人は、屡々反動の意見と結び附いてゐるのであり、それが問題です。と言ふのは、エリオットのやうな西歐の詩人の詩と、漢詩とは、根本的に發想が異ります。もちろん、共通するところもあるのですが――實は、その共通する部分が強調され過ぎて、異るところを匿さうとする態度が、日本では屡々見られます。共通する部分とは、松原先生流に言へば「花鳥風月・好色・政治」となります。が、漢詩の場合、全くそれだけであるのですが、それに對し、西歐の詩人は、政治と文學とを嚴密に區別する態度持つてゐる。そして、我々日本人は、もともと持つてゐた漢文の知識でも、政治と文學とを區別しないのであつて、だからこそ、自分が持たない政治と文學とを峻別する態度を學ぶ必要がある。けれども、さう云ふ状況で、敢て漢文の復興のみを主張するのは、政治と文學との峻別と云ふ事を故意に拒否する態度に繋がります。それは困る。
さて、もっともそういう文学(への希求)の一般性の喪失こそが問題なのだ、ということなのかもしれませんが、しかしそれは実は昔からそうであって、単に現在はそういう無関心な人達がメディアに登場するようになって文化のヒエラルキーが消滅したという例の「大衆社会」という話に行き着く問題ではないかと思います。と渡邊さんは、事實を指摘して、話を終へてをられます。、が、私にしてみれば、「大衆社会」という話に行き着いたら、それをどう評價するか、に關心が向きます。渡邊さんは、事實の確認ばつかりだ。そして、さう云ふ事實に拘つて、敢て價値判斷を下さうとしない態度が、日本には極めて多い。そして、より問題であるのは、さう云ふ價値判斷を下さない客觀主義を主張する人が、實は主觀に基いて、嗜好や趣味に基いて、主觀主義的な主張を一般論であるかのやうな顔をして、他人に押附ける傾向がある、と云ふ事です。
平成十七年三月十一日
以前、述べたやうな氣がするのですが、人は嗜好なり趣味なりに基いて意見を主張するけれども、そこで「私」を離れて、どれだけ話を一般化し、客觀的なものに出來るかが問題です。
渡邊さんは、「唯物論」なり何なりについて、文章を書いてをられて、それは公開されてゐない。けれども、そこで話は、單に渡邊さんの趣味の領域から、客觀的で一般的なものに轉化してゐる筈です。渡邊さんが文章を公開されないのは惜しい。
平成十七年三月十一日
買物。大類伸『増補ルネサンス文化の研究』。大類伸・橋本増吉『世界民族興亡史觀」。桑原隲藏『東西交通史論叢』。ツヴァイク『明日の歴史』。バルザック・スタンダール『小説について』(創元文庫)。メリディス『エゴイスト(自我狂)』(上下:戰前版冨山房百科文庫三一・三二)。
平成十七年三月十一日
野嵜が、「政治を描く事」を「非」としてゐない事、「政治的に描く事」を「非」としてゐる事。

平成十七年三月十日
ネギま! 作畫の駄目さも含めて、とても樂しめた。
平成十七年三月十日
九日に買つて來た鈴木信太郎『フランス詩法 上』を讀んでゐるのだけれども。
ですから私は『アラビアのロレンス』を、「砂漠」の映像の圧倒的な存在感を通して、偶然的な世界と必然的な世界を往復する人間の悲哀を描いた映画、と書いたわけで、決して「物語」を無視していません。
この渡邊さんの文章、渡邊さん御自身は、「構造主義」的に、或は「記号論」的に、要素を擧げて論じてをられる御積りなのだらうと思ふ。けれども、その意圖に反して、この文章には、「渡邊さんが感動した」事が象徴的に述べられてゐると「讀める」のである。
それが何うした、と言はれるだらうけれども、實はこの「感動した」の部分が、「構造主義」や「記号論」の分析では拔け落ちる――と言ふより、閑却されて、省みられなくなる。なるのだが、それは建前であり、今のやうに、「感動した事」は寧ろより生の形で、暗示的・示唆的に議論に出現してしまふ事になる。
エリオットやヴァレリイ、マラルメといつた詩人達は、詩人として感性に愬へる詩を書いたが、同時に、詩人として意識して客觀的に詩を分析してゐる。彼等は、十分意識して、感動について考察し、散文と詩の違ひについて檢討してゐる。そして、さう云ふ彼等の研究は、例へば大學生向けのテキストにも再記述され、一般に使用されてゐる。大學の授業で、詩の理論的な解説を英文のテキストで讀まされたが、其の程度の事は向かうの大學でも普通にやるだらう。エリオットの詩は、既に「過去のもの」であつても、向かうでは一往、常識として習ふ。ヴァレリイも、基礎知識として、向かうでは「やる」だらう。さうして、過去の樣々な立場の文學論を、向かうの研究者は、一往「やつてゐる」。その上で、新しい運動なり思想なりにも觸れて行く事になる。ところが、それが日本には「ない」と言つて良いのではないだらうか。今、エリオットを、英文學を專門にやらない人が、常識として讀むだらうか。或はヴァレリイを。渡邊さんは、詩が言語と云ふ雜多な要素を含んだ素材によつて作られる藝術である事を教場で強調された經驗はないであらう。現代の思想に觸れてそれに「はまる」日本人は、積上げられた過去の思想を、基礎教養として必ずしも持合はせてはゐない。が、それで「現代の思想」を扱ふのは、實は、過去の思想を通らない事になる。
單純に私は「現代の思想」を拒絶してゐる訣ではありません。私は、現代の人間ですから、現代の思想も知つてゐますが、それの缺點を、過去の思想に照らして、補正したいと考へてゐるのであります。
平成十七年三月十日
文章を解釋する際の立場を云々する以前に、我々は文章の意味を的確に把握する文章讀解の技術をきちんと身につけてゐるか何うか、反省してみる必要があらう。基本的な讀解力を缺いた人が、自分の無能力を誤魔化す爲、何らかの立場を主張して自分の身勝手な讀み方を正當化してゐる例は少くない。
大學受驗の文章讀解を馬鹿にしてゐる人は多い。けれども、正しい文章讀解の技術を身に附けてゐれば、文章は正しく讀める。さうした技術を學ぶ方が、讀んだ後の解釋の立場を主張するよりも先である、と私は考へる。
平成十七年三月十日
本日の買物。堀米庸三『歴史をみる眼』『歴史と人間』(いづれも初版で、前に買つたのとは装釘が違ふからダブりではない)、大類伸監修『西洋史物語文庫 ローマ盛衰史 永遠の都』、『西洋文學辭典』、『現代長篇小説全集(16)上司小剣篇』、J.T.アダムズ『米國史』、以上百圓均一。『森鴎外全集別卷』、中村眞一郎『現代文學入門』。
鴎外全集別卷は、「假名遣意見」等について書かれた澤柳大五郎「歐外の言葉遣」を讀む爲に買つた。澤柳氏、鴎外の表記に關する潔癖な態度は本來、作家ならば當り前に持つべき態度である事、マラルメやヴァレリイ、ゴーティエを生んだフランスやその他の諸國ではそもそも綴字について正しく書くのは大前提で、問題にもならないものであつた事、また、表記について嚴格であつた鴎外の文章は若い頃よりも晩年の頃のものの方が平明かつ清澄である事を指摘してゐる。二葉亭や露伴、紅葉、鏡花が屡々使つた宛て字を、鴎外が避けてゐる事も指摘してゐる。その他、句讀點の用ゐ方に氣を配つてゐる事、流行語を用ゐないやうにしてゐる事、人稱代名詞の多用を避けてゐる事、人物の科白が叮嚀なものである事、漢字や假名遣ひは由緒の正しいものを使つてゐる事、等、鴎外が文章を書く際、明晰な表現となるやう、注意してゐた事を澤柳氏は述べてゐる。
平成十七年三月十日
解釋の方法が現代的である事よりも、筋が通つてゐて論理に穴がない意見である事の方が、私には重要な事であるやうに思はれます。論理に穴のない昔の文章よりも、現代的な手法を駆使してゐるけれども論理に穴がある文章の方が、私には「弱い」ものであるやうに思はれます。
平成十七年三月十日
「俺達の要求を呑めない場合、東京を燒け野原にしてやるぞ」と云ふ脅迫を受けた時、その要求が何んなに理不盡なものであつても、「東京を燒け野原にされ、悲慘な事態を再び招くよりは増し」と考へて、その要求を呑んでしまふのが正しい事であるか何うか。
自分達に正義があると確信してゐて、しかし、事態が切迫してゐて、「俺達の要求を呑めない場合、東京を燒け野原にしてやるぞ」と云ふ脅迫をしなければ自らの正義を貫徹し得ない状況下で、「東京を燒け野原にされ、悲慘な事態を再び招くのは許されない」と考へて、己の正義を枉げるのが正しい事であるか何うか。
「悲慘である」と云ふ觀點からのみ物事を判斷しようとするのは、起り得る多くの可能性を排除した、餘りに單純な思考である、と言はざるを得ない。
平成十七年三月十日
今朝、御手洗ひで、今年初めてのわらぢむし君を見掛けたのだが、今(夜十時四十五分)、そいつがまだ居座つてゐる件について。

平成十七年三月九日
まほらば。大家さんが、多重人格でなかつたら――あの性格が全部一つの人格の屬性だつたら。と思つた。最近は、複雜な性格のキャラクタよりも、多重人格にして一つ一つの人格が判り易い方が受けるのですかね。
平成十七年三月九日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20050309#p1
今晩は。御體の調子はいかがでせうか。無理はなさいませんやう。
批評の對象となる作品を考察するには、多面的に見る必要はあるのであり、その點で私は渡邊さんに異論がありません。アニメーション批評のエヴァンゲリオン論(アニメーション批評 エヴァンゲリオン覚え書)を讀んでいただければ、私が映像の側面無視してはゐない、と云ふ事は解つて頂けるかと存じます。と言ふか、この六年前の文章、今の話に關聯して、野嵜の立場を端的に示してゐるやうに思はれます。どうぞ御一讀を。
批評の立場と、實際の批評とで、觀念的に論じてゐると――と言ふか、觀念論ではどうしても話が極端になつて、「純粹を排する立場」ですら純粹主義に傾き兼ねません。しかし、さう云ふ觀念論と、文學の實踐行爲とは、區別して考へられるべきでせう。小説にしても戲曲にしても――文學的な創作であるならば――觀念的ではなく具體的な物となります。そして、批評においても、批評が文學的な創作に連なるものであるとするならば、さうした具體性は必要であり不可避であると考へます。具體性を離れた觀念論に傾く時、文學的な批評は、哲學的・思想的な批評へと、姿を變へます。ただ、いづれにせよ、思想なら思想、文學なら文學の、獨特のものではあつても、明晰な論理性は「あり得る」と言へます。文學の批評が、「實感」に基いただけのものに見えたとしても、實は「見えた」と云ふのが主觀的な判斷である時點で一度、反省が必要であり、さうさう單純には「實感」に基いたやうな批評を非難出來はしません。
私が映画を愛するのと文学を愛するのはぜんぜん別個の欲望に基づいたものです。そういえば以前野嵜さんは私が理論的な仕事に向いていて創作には向かないのではないか、と書かれていたように思いますが、それについても、私が理論的に書きたいと思うのと小説を書きたいと思うのは違う欲望に基づいてのものです。
それらは私にとって食事をしたり家人と愛し合ったりするのと同じく生活の一部であって、決してそれらのうちの一つが全体になるような種類のものではなく多様に共存しているのですと渡邊さんは書かれてゐて、それはそれで「解る」と言へば「解る」のですが、實はさう云ふ「生活」がなぜ茲に出現するのかが、私には解りません。渡邊さんは「欲望」と書かれてゐて、それは渡邊さんの主張が嗜好に基いてゐる事を意味するのであり、結局のところ、嗜好と云ふ事で渡邊さんの主義主張の全てが説明出來るのではないか、と私は思ひます。もちろん、人のする事は大概、趣味なり嗜好なりに基いてゐる訣です。けれども、それを理論化する事が重要である――そして、純粋さは私にとって魅力のある性質ではありません。と渡邊さんがおつしやらうとも、その理論は矢張りより純粹なものとならなければならない。理論は、雜多で、混亂したものであれば、「弱い」ものとならざるを得ない。理論は、理論であるがゆゑに、一貫性を求めるものであります。それゆゑ、理論上の話、觀念論は、必然的に理論の純粹化、主張の單純化・偏向へと繋がります。が、極端な話、さう云ふ純粹化の傾向は、人間ならば誰でも人間であるがゆゑに持つてゐる、と言ふ事が出來ます。その人間としての傾向を反映して、一方で、體系的な科學が存在し、他方で、虚構の體系化としての文學が存在する――さう私は考へます。科學にしても文學にしても、人爲的なものであり、人爲的であるならば人爲的である爲の性質を帶びる。その人爲としての性質は、自然のものとは異る性質である。自然は渾沌へ傾く、一方、人爲は秩序を求める。かうした意味での(渾沌を求める)「自然」の傾向を、敢て人爲に持込む、さう云ふ「自然」主義的な傾向が、現代に於ては餘りにも強過ぎる、さう私は考へます。
平成十七年三月九日
渡邊さんの主張される「唯物論」「構造主義」「記号論」ですが――これらも、人爲的な單純化・秩序化の爲の方法であると言へますが、ただ――これらの方法は、作品を「切り刻む」方にしか向かはないのではないか、さう云ふ懸念があります。どうも、渡邊さんの多様に共存している事の嗜好は、さう云ふ「切り刻む」方法としての「唯物論」「構造主義」「記号論」への嗜好の存在を示唆します。そして、純粋さは私にとって魅力のある性質ではありません。と言はれる渡邊さんですが、實は「切り刻まれた」結果として現はれる「記号」なり何なり――作品を構成する要素ですが――さう云ふ個別の要素は、それ自體、私には純粹なものであるやうに思はれます。
まほらばについての感想で、多樣な要素を同時に包含した一つの人格と、多樣な要素を個別に體現した多重人格とを、私は比較しました。が、これも實は話の伏線でした。多重人格として表現されてゐるまほらばの大家さん(未だに名前が覺えられない)は、個別の人格において――「記号論」的な價値である――「萌え」の要素をそれぞれ表現してゐます。そして、さう云ふキャラクタ作りが「現代的」である事は、實際にまほらばが放送されてしまつてゐる以上、否定出來ません。けれども、このまほらばの大家さんのやうな多重人格のキャラクタが、本當に面白いキャラクタなのか――と言ふより、多重人格と云ふ設定で「萌え」要素を體現した個別の人格を寄集めた「大家さん」は、興味深い人物なのか、それが問題になります。世間ではどうも、「興味深い人物」と「興味深い症例」とが混同されてゐる嫌ひがあります。
「唯物論」や「記号論」が――實は、渡邊さんの簡單な「雪國」論を見てもさうで、主觀的な解釋による「勝手讀み」の傾向があり、非常に心配な事なのですが、さう云ふ心配が「ない」と假定して、文字通りの意味でそれらの方法が完全に實現したとして、それでも、と云ふ話ですが――個別の要素をそれとして認識する、と云ふ方法として有益であつた、としても、です。それで出來るのは、作品の解體であつて、トータルな作品の評價には繋げられないのではないか。そして、「心配事」である主觀的な解釋が介入した「唯物論」や「記号論」が適用された時、解體された作品は再構成され得ますが、しかしその時、再構成されたものは、批評する主體の主觀によつて歪められたものとなるのではないか。さうなると、「ありのまゝに對象を見る」と云ふ批評は、「唯物論」や「記号論」によつては實現されない事となる。そして、さう云ふ傾向は、どうも「ある」やうに私には思はれる。
渡邊さんは、その主張にもかかはらず、客觀的ではなく、寧ろ主觀的に「藝術論」を展開されてゐるやうに思はれます。渡邊さんは、「唯物論」と言ひ、客觀的でありのまゝのものに興味があると主張されてゐて、それで「多樣なものの共存」を言ひ、「純粋さ」を拒絶してをられるのですが、個人的な「欲望」が話の中に出現した時點で、全ての論理がその「欲望」の下に構築されてをり、「欲望」に基いた個人的な嗜好を一般に押附けてゐる、と云ふ風に見えてしまふ。私の考へ方は、「主觀主義」と渡邊さんは評してをられましたが、實は「主觀が存在する事」を客觀的な事實として認める客觀主義であり、或は、認識が主觀を通つて實現する事を前提とした、客觀主義であります。兩者は、似てゐるやうで、實は全然似てゐません。そして、渡邊さんのやうな考へ方は、三宅さんや、徳保さんもさうであるやうに、世間では極めて一般的な考へ方であり、にもかかはらず重大な問題を抱へてゐるのですが、「價値相對主義」であると言へます。私は、「價値相對主義」は問題が多いから、執拗に批判してゐます。けれども「價値相對主義」の人には話が通らない。「價値相對主義」は、客觀的な論理の背後に、主觀的な嗜好が隠れてをり、その嗜好に基いた論理の拒絶が最終的に「價値相對主義者」の價値判斷を決定するのですが、その爲に論理的な主張や客觀的な事實の指摘が必ずしも認められない事になる。それでは困るのであります。
平成十七年三月九日
「標準である」事と「正しい」事とは違ふ。「標準語がある」事と「標準語は正しい」と云ふ事とは別の話である。前者は事實の話であり、後者は價値判斷である。標準語は定める事が出來る。一方、「標準語は正しい」と言ふ時、それは社會的に「標準語を正しいとする」と云ふ正義が成立してゐる場合にのみ、あり得る。だが、「正しい」事と「眞實である」事とは別の話である。絶對の觀點から標準語を「眞の國語」のやうに言ふ事は不可能である。
一方、標準語であるか何うかと、言葉遣ひが正しいか何うかとは、話が別である。
平成十七年三月九日
ソシュールの「言語學」(實は「ラングの學問」)の理解において、日本では誤解が屡々生じてゐる。時枝誠記はラングをランガージュと取違へて「ラングの學問」を否定した、と服部四郎は指摘した。だが、實は、「言語の研究の爲に設定されたラング」を「言語の本質としてのラング」と取違へたのは、服部氏であつた。服部氏は、方法と本質とを取違へてゐた。だから服部氏は、言語を記號と單純に看做し、國語の表音的な表記に贊成した。そして、そもそもソシュールを最初に飜譯した小林英夫も、「言語研究の對象であるラング」を「言語の本質としてのラング」と勘違ひした表音主義者であつた。
構造主義や記號論を、「研究の爲の單なる方法である」ときちんと認識出來なくなる研究者が、日本では續出した。そして、その傾向は今でも續いてゐると思ふ。構造主義や記號論は、「記號が本質である」と云ふ勘違ひを惹起こしたと云ふ極めて深刻な惡影響を、日本における學問の各方面に與へてゐる。これは、小林秀雄の「批評」の惡影響とともに、批判されて良いと思ふ。
平成十七年三月九日
ファンキージュニア
雲の萌え擬人化つてどうかな?
平成十七年三月九日
3月10日 今日は何の日〜毎日が記念日〜
虹裏に轉載されてる。

平成十七年三月八日
アルティメットガール。まだ毎囘觀てる。
平成十七年三月八日
月詠。まだ毎囘觀てる。
平成十七年三月八日
吾妻ひでお『失踪日記』面白いよ。
TVで犯罪の事を喋ると問題になるのに、自傳漫畫だとOKなんだな。
平成十七年三月八日
フジサンケイグループは、藝能路線と「正論」路線とを平行して同時にとつてゐる。ライブドアの堀江氏は、「正論」路線は要らない、藝能路線で賣つて行きたい、と考へてゐる。
さて、現在の藝能と「正論」とを同時に平行して扱つてゐるフジサンケイグループだが、これら二つの路線は巧く整合がとれてゐると言へるだらうか。福田恆存編『日本の將來・新聞のすべて』(高木書房)で、サンケイ新聞は「數少い保守派の論調を取つてゐる新聞である事」が評價された一方、「印刷が汚い」事が指摘され、さらに「藝能欄が下品である」事が批判されてゐた。
平成十七年三月八日
HTML 4.01とCSS1の仕樣書を改めてざつと洗つて見た(と言ふか、大雜把にしか見てゐない)けれども、所謂ブラウザがHTML文書をレンダリングする際のデフォルトスタイルシートで、ブロック要素とかインライン要素とかをどんな風に扱ふべきか、なんて記述はないみたい。よつて、制作者スタイルシートを書く際に個々の要素のスタイルについて制作者は一々「ブロックレヴェル」「インライン」と明示すべきであるか何うか、なんて事も當然、言及されてゐない。みたい。
當時はまだ、そんな「哲學的」な事を考へてゐる時期ではなかつた、と云ふ事なのかな?
制作者スタイルシートがない場合のHTML文書もウェブブラウザは「それなり」にレンダリングしなければならないから、一往、ブロックレヴェルとかインラインとかについては「HTML 4.01準據」のブラウザならば「それなり」に「實裝濟み」であるべきである、と考へておいて良いのだらうか? そこで、制作者のスタイルシートの書き方を論ずるとしたら、「マナー」のレヴェルの話になる?
平成十七年三月八日
とにかく、スタイルシート同士が衝突して、レンダリングがをかしくならないやうにするならば、制作者スタイルシートも、使用者スタイルシートも、それぞれの中で完結した一貫性のある記述にしておかなければならない筈だと思ふのだけれども。
平成十七年三月八日
CSSのえらいひと、さわたりさんのTokiMeki Networkのスタイルシートを見たら、
html {
direction:ltr;
}
なんてあつて驚愕した。
昔のbase2.cssでは、全部の要素について、ブロックレヴェルかインラインかの指定があつた。今でも大事に取つてある。
平成十七年三月八日
のあ
ホリエモンは止めて、ホーリエつて呼ぶのはどうかな?
あやの
……にじうらからネタ拾つて來るなよ。
平成十七年三月八日
アニメ新番組情報

平成十七年三月七日
確定申告ガイド
国税庁ホームページ
確定申告書等作成コーナー
お早めに。最う遲い時期だが。
平成十七年三月七日
Glmai の日々: ことえり用 「北極三號」
北極の房 - 北極三號
なんかKotoba!JAPANの亡靈が。
平成十七年三月七日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20050306#p2
西歐の哲學の本、飜譯すると非常に難しい用語で書かれる事になるけれども、原文では日常語で書かれてゐる、と云ふ話がある訣ですが。私は本来は外来の概念用語であったものの日本的な「自然さ」や「普通の意味」の自明性を疑う足場として、西欧の哲学について詳しく知ることは必要であると思います。と云ふ點では同感です。
野嵜は自分で自分を「主觀主義者」と極附けた記憶が無いのですが? と言ふより、常識的なレヴェルで主觀・客觀の話をしてゐます。特に、認識論とかさう云ふ事とは無關係です。實存主義には關心がありますし、「反近代の思想」としてキルケゴール・ヤスパース・サルトル邊は一緒くたにして考へてゐますが、そこまで用語の一貫性を考慮して「主觀」のやうな語を用ゐてゐる訣ではありません。
ところで、ヘーゲル哲学を、ヨーロッパにおける「神」と人間との関係の問題に一般化するのはどうか、と思います。たとえば激しくヘーゲルを批判したキルケゴールは「神」に依拠していますし、当たり前のことですが、ヨーロッパ人の「神」との関係の取り結び方というのは、人それぞれであって、「普遍性への指向」も、論争的に鍛え上げられていったものである限りにおいて、その仕方はそれぞれ違っているし、それをいくつかの傾向に分けて考えることも可能です。
それは可能性が「ある」と云ふ事であり、必然的に「さうしなければならない」と云ふ「べき」論ではないと思ひます。
しかし同時に、「西欧」それ自体の内部にあるさまざまな思想傾向や哲学者の考えの差異について考えるのも「西欧」の理解のためには必要であると考えます。
實際、さう云ふ視點で私は分析的に西歐の思想・哲學を把握すべきであると主張してゐます。ただ、その際、Godやキリスト教との距離を測定する事は必要である、と言つてゐるものです。ヘーゲルの主張をキルケゴールがキリスト教的な立場から批判してゐるのは、西歐の思想において、キリスト教の存在が可なり多くの場合、重要である事を示唆してゐると思ひます。T.S.エリオットは西歐社會をキリスト教社會と規定してゐますが、さう云ふ視點は常に西歐の思想を考察する際には必要であると考へます。そもそも、日本にはキリスト教的な視點がないので、さう云ふ自分には無い視點を意識して用ゐる事は必要であると考へます。他者である西歐に、自分と同じ物だけを見ようとするのは、決して「他者と附合ふ」態度でないと言つて良いと思ひます。
彼我の違ひよりも、彼の中における違ひを優先しなければならないとする理由が、私には理解出來ません。日本と西歐との間の巨大な差意を意識する事の方が、西歐の中での細かい差異を意識する事よりも、プライオリティが高い、と考へます。世間の人は皆、西歐の中の細かい違ひに拘つて、西歐と日本とは等質である、と云ふ前提で考へてゐるやうに思ひます。さう云ふ風潮をこそ否定すべきである、と思ひます。西歐と日本とは違ふのですから、普遍の名の下に差異を沒却するのは良くないと思ひます。
平成十七年三月七日
まほらば。加害者淫亂ピンクが、被害者になつてゐたので少し滿足。珠が依然、被害者側になつてゐないので、その點が不滿足。
未だに鳴瀧荘が住み良ささうに思へないのですがー。
平成十七年三月七日
http://esu.oresama.org/200503a.html#20050306_s6
ミソもクソも一緒とは、高橋氏、自分の事を言つてゐますね。高橋氏は「ギリシャ時代の原子論や中世の唯名論を含め、全ての唯物論は一つである」と無茶苦茶に大雜把な事を言つてゐるのですから。
例によつて高橋氏の「ブログ」は參照してゐません。けれども、江洲さんの引用された部分だけで、高橋氏が何を言つてゐるかは大體判ります。
平成十七年三月七日
渡邊さんの思想と、渡邊さんの小説を書きたいと云ふ思ひとが、どのやうに繋がつてゐるのか、私には今一つ、良く解らないのですが……思想的・思辨的である渡邊さんの執筆の形式には、小説と云ふ形式が適してゐるとは思へないのですが? 純粹な思想書・哲學書を書く方が、渡邊さんには向いてゐる、と思ふのですが?
平成十七年三月七日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20050306#p3
昨夜はこめんとを書いてゐる最中にまほらばが始まつてしまつて、こめんとが書き毆り状態で失禮いたしました。
既に私自身が、何んな經緯で話が始まつたのか完全に忘れてゐる頃で、もともとこの雑談は、私が福田恆存について「弱い」と書いたことから、文芸批評は何をもって「文学的に優れている」と判断するか、ということを議論しはじめたわけだった。との纏めは大變ありがたく存じます。
ただ、ごく大雑把にいうと、私は形式に拘り、野嵜さんは内容に拘って論陣を張ったわけだが、と云ふ部分については、異論があり、どうもこの「形式」「内容」と云ふ用語で矢張り彼我に認識の差意があるものと。私にしてみれば、野嵜が形式の重要性を主張し、渡邊さんが内容の重要性を主張してゐる、と云ふ事になる。私は、傳統的な御芝居(戯曲)の形式を念頭に置いてゐるので、形式と言つても、小説なり戲曲なりの構成の形式を重視する立場にあります。「悲劇」「喜劇」「自然主義」「ロマン主義」のやうな「形式」ではなく、「起承轉結」のやうな「形式」です。渡邊さんにして見れば、「構造主義」なり「記号論」なりの立場から、書かれてゐる内容を――例へば、「自然主義」か「ロマン主義」かに「形式的」に――分類するのが「形式」重視と云ふ事になるのでせう。しかし、かうなると、視點が私と渡邊さんとで根本的に異る、と云ふ事になります。
「アラビアのロレンス」が、渡邊さんと私とで、一往、共通の話題となつてゐます。けれども、見るところ、目のつけ所が、渡邊さんと私とで、完全に異つてゐます。渡邊さんは、言はば、映像の技術に着目してゐる。もちろん、私もさう云ふ映像の工夫は、「ある」事を認めます。さう云ふ觀點から論ずるのは、慥かに面白い事です。「エヴァンゲリオン」の研究本が山のやうに出現しましたが、映像作品を映像の側面からあれこれ品評するのは樂しい事です。が、映像の技術は、視覺的な印象を與へる爲の技術です。視覺芸術として純粹なものであるならば、映畫は視覺の觀點からのみ論ぜられるべきです。が、同時に、映畫には――もちろん、ないものもありますが、「アラビアのロレンス」には確かに――ストーリーがあります。このストーリーの面で問題がある作品について、映像の效果を強調する事で、ストーリーの缺陷を「隠蔽」する向きがある――私はさう感じてゐます。例へば、TVアニメーションの「まほらば」は、ストーリーや人物の設定、シチュエーションの設定に大量の問題があるやうに私には思はれるのですが、「作畫が良い」と云ふ側面から「魔法先生ネギま!」よりも高く評價されてゐます(例:二次元実況@ふたば)。あにめの話は兔も角、映畫なりドラマなりで、映像の美しさ、インパクトが、脚本の良し惡しに優先して語られる傾向がある。それが、物書きと云ふ文章を書くのが仕事の人間にすら見られる――さう云ふ現状に、私は大變な不滿があります。別に文筆の仕事をしてゐなくても良いのでして、文系の一般人について言つても良いのです。文章に興味がある筈の人が、なぜか脚本に興味を持たず、映像に「目が行つてしまふ」。これは何かをかしい、と思ふのですが。渡邊さんは、小説を書く人ですが、その渡邊さんですら、ストーリーよりも映像の演出に目が行つてしまふ。はつきり言ふと、映像に興味を持つのならば、小説なんてものを一生懸命書かうとしないで、撮影の勉強でもして、カメラマンなり映畫の演出家なりになつた方が良いのではないか――私は「立場」(文章を書かうとしてゐる)と「主張」(文章で表現されるストーリーよりも、視覺效果としての映像の技術に藝術的價値を見出さうとする)とが一致しないのは、よろしくない、と考へます。
「アラビアのロレンス」で言へば、渡邊さんは、「ストーリーは兔も角、映像は素晴らしい」と評價される。それに對して、私は、「映像は兔も角、ストーリーは駄目である」と評價してゐる。どうも、茲に、渡邊さんと私との重大な立場の違ひがあるやうに思はれます。渡邊さんは、「構造主義」なり「記号論」なりの立場から、部分が優れてゐるならば、その點を強調する。それに對して、私は、部分部分を個別に評價しても、それらが全體として完全なものとなつてゐなければ、全體として優れてゐるとは言へない、と考へる。
藝術作品において、或部分で感心出來ても、別の或部分で白けるやうならば、私は「全體としては不出來」と看做します。ただ、その個別の部分の問題點が、それがあつたとしても、全體としての意圖の觀點から「やむを得ない」と判斷出來る場合があります。D.H.ロレンスの小説の場合、全體を通してロレンスは「性を通しての生の恢復」を訴へてゐるのであり、部分部分での表現に拙いところ、退屈なところがあるにもかかはらず、小説全體としては意義がある、と言へます。もちろん、さうは言つても、作品の意義と出來とは別の話で、D.H.ロレンスの小説の出來自體は良くない。「アラビアのロレンス」の場合、映像は秀逸である、幾つかの科白は警句的である、にもかかはらず、T.E.ロレンスと云ふ人物は矮小的に描かれてをり、登場するその他の人物も決して大人物ではない。全體として、出來自體が今一つであり、一方、意圖の觀點から判斷しても、決してよろしいものではありません。「アラビアのロレンス」は、積極的に價値を提唱するものではなく、寧ろ、負の側面から人間を批判してゐる皮肉な作品である、と言ふ事が出來ます。觀客を裨益するところが少い、と言つて良いと思ひます。(もちろん、「戰爭の美徳は青年の美徳、平和の惡徳は老人の惡徳」のやうな科白は、個別に論じられて良いでせう。ただ、個別の要素の判斷と共に、全體としての判斷が藝術に於ては必要です)
さて、私も渡邊さんも日本人です。これは、かのえろげの高橋氏も同じです。江洲さんは、沖繩の人ですが、大雜把に言つて、日本人です。少くとも、ある意味でキリスト教を理解できない、と云ふ點で、我々はキリスト教社會の人間ではありません。茲で、「我々は日本人である」「我々はキリスト教社會の人間ではない」と云ふ前提條件がある、と云ふ事實を、我々は意識しておいて良いと思ひます。そして、「我々は日本人である」「我々はキリスト教社會の人間ではない」と云ふ前提の下、「我々」と「キリスト教社會の人間」との間の「同じところ」と「相違點」とのどちらを良く知る事が重要であるか、は考察されるべきだと思ひます。或は、「我々」と「キリスト教社會の人間」との間の相違點と、「キリスト教社會の人間」の中での思想の相違と、どちらを良く知る事が重要であるか。キリスト教と西欧的思考の関係については、実際に西欧の人間や読み物を通して知っていくほかないと思うのです。と云ふ渡邊さんの御指摘は、同感ですし、それが私の考へです。ただ、その実際に西欧の人間や読み物を通して知っていく方法として、「唯物論」とか「構造主義」とか「記号論」とかが、この時點で入り込む事は許されるのか、と云ふ問題があります。この點で私は、方法論そのものが學ぶべき西欧的思考であり、「我々」のものでない事を重視します。現状、日本人は依然、西歐の思想なり何なりを、相互に矛盾してゐるのであれ關聯があるのであれ、兔に角それ自體として先づは受容れる必要がある、さう私は考へます。そして、さう云ふ矛盾し、對立してゐるものが全て、西歐では並存してゐるのであり、並存してゐるがゆゑに互ひの相違が互ひに問題にされ、「我-汝」の問題として問題にされる。我々日本人から見れば、連中の對立する思想の問題は、現在でも、「我-それ」の關係でしか捉へられない、他者の問題であります。
あと、人生は短すぎる、がやけに渡邊さんの目に留つてしまつたやうで、何度も言及されてゐるのですが、あゝ言ふ警句的な表現は、私の大好きな大袈裟な表現で、「半分冗談」です。そんなに何度も突つかないでやつて下さい。ええと、その価値を予断で計る前にまずさまざまな考えを学ぶことも有益だ、と云ふのは、私の主張で、それで「構造主義」とか「記号論」とかの予断でもつて對象を「斬る」やり方はどうか、と申し上げてゐるのですが。「唯物論」にしても、マルクス主義の唯物論が豫斷で以つて對象を切り刻む方法論でした。そして、その手の方法論で私の主張が「天皇主義者」なる物に極附けられた事があり、しかもその極附けをやつて呉れた人が、自分では十分、科學的で客觀的である積りであつたので。云々。
あと。小説と云ふ「雑」な形式の藝術に、私は相對的に低い評價をしか、下してゐません。小説よりは戲曲や詩の方が、より純粹なもので、藝術の形式としては「正しい」ものである。映畫は小説よりもずつと格下です。あにめはそれ以下。完璧な脚本を基に、完璧な演出で、完璧な俳優が、完璧に演技して、完璧な觀客の前で、完璧な御芝居を實現する――それが藝術の理想です。が、そのやうな理想は絶對に實現しない。映畫なりあにめなりは、編緝で隨分、ごまかしがきくので、出來上つた作品は一見、より完全なものとなるのですが(ならないものも多いが)、理想の完成形により近いものが「現實に出來てしまふ」のは、藝術として何うなのでせうかねえ。より簡單に理想に近いものが出來る状況でより理想に近いものが現實に出來る映畫・アニメーションよりも、理想に近附くのが困難である状況で、屡々失敗するし、實現したとしても映畫やアニメーションほどには完全な形の表現が出來ない(舞臺なので制約が極めて多い)演劇は、しかし、それだからこそ、より完全な形で成立した時には、映畫やアニメーションの作品よりも、藝術としての價値は高いものとなる、と考へます。
予め扉を閉ざすことはないように思う、と云ふ御指摘ですが、確かにそれは一面の眞理であり、人間があらゆる事象を完全な形で把握出來ない以上、アンテナを多方面に張る事は、必要であると思ひます。けれども、同時に、例へば讀書が自覺的な行爲であるならば、自覺的に讀書の對象を撰擇し、一本筋を通さうとする事も、重要であると考へます。それは、自らの生き方に自ら秩序を與へる事であり、言はば「人生の藝術化」であります。さう云ふ生き方は、もし人が藝術に關心を抱くならば、積極的に撰擇する事が許される行爲であると思ひます。一言申し上げたいのですが、私は今まで、一般論を述べてゐません。常に、特殊な状況下における「なすべき事」について述べてゐます。この點は御理解頂きたく。
平成十七年三月七日
ITmediaニュース:Gartner、「顧客サービスの外部委託は80%が失敗する」
平成十七年三月七日
「ユーザーはダイアログボックスのメッセージを讀まない」。
平成十七年三月七日
本日の買物。吾妻ひでお『失踪日記』。

平成十七年三月六日
http://esu.oresama.org/200503a.html#20050305_s5
えろげの高橋氏。續き。
なんか高橋氏とかの主張を見てゐると、用語を無闇に細かく定義して見せるのは、自分の知識を誇るのが目的ではないか、とすら思へますね。他人を攻撃する爲に、ことさら專門用語を持出し、自分を專門家に見せかけて、「專門家でない奴は發言するな」と言はん許りの態度を取る。權威主義的と言へば高橋氏の方が權威主義的です。嚴密な議論をする爲にさう云ふ用語を持出したのだと言ふのであれば、しかしその場合、自分の立場を嚴密に定義する必要も生じるので、一往、一般的であると言つても改めて自分の用語を定義しておく事は必要でせう。高橋氏にさう云ふ嚴密への志向があるやうには見えません。
平成十七年三月六日
私はただ「デカルト」とだけ述べてゐるのではありません。私は、デカルトの「我思ふ、故に我あり」と云ふ言葉に注目してゐます。さう云ふ文脈にまで注目していろいろ言つていただければ大變ありがたいのですが、單純に用語レヴェルで揚げ足取りしていただくのは歡迎出來ません。もちろん、私は先に渡邊さんの發言における「ロマン主義」等の説明を要求しましたので、俺もその眞似をしただけだと高橋氏は言ふかも知れませんが、基本的には相互の意思疎通の爲の、彼我の認識の違ひを明かにして相互の用語の讀み替へを行ふのが前提の要求でしたから、自分の理解してゐる「ロマン主義」「自然主義」の考へ方を私はそれなりに説明してはゐる積りです。一方、高橋氏は、單に野嵜の用語法を否定する爲に専門用語を使用して見せたに過ぎず、野嵜の主張を理解する氣など毛頭ありません。高橋氏はただ、野嵜の用語を機械的に專門用語と照し合せて採點してゐるだけです。高橋氏は、議論における文脈を適切に讀取る意志を持つてゐません。嚴密な話と、專門用語を使用した話とを、高橋氏は取違へてゐるのです。(實は、渡邊さんにもその傾向がある)閑話休題。
で、このデカルトを評してパスカルがデカルトの説を徹底させると、神は不要になつてしまふと述べたさうです(この邊りの事はhttp://nozakitakehide.web.fc2.com/diary/20010706.htmlで言及濟みだつたりします。さう云ふ伏線が――と言へば非常に恰好良いのですが、平成十三年に渡邊さんと議論した事を私は忘れてゐました。ぐぐつて發見。話が繋がつてゐて我ながらびつくり。けれどもまあ取敢ず、渡邊さんとは「長い附合」になるので、野嵜の主張なり意見なりをそれなりに渡邊さんは御存じである筈、と云ふ前提で私は話をしてゐます。云々)。神の否定が西歐で近代の科學を生じた大きな要因であり、近代科學が近代的な唯物論の思想的背景となつてゐる――かう云ふ考へ方は、「非道く大雜把」なものですが、一往、歴史の流れの記述としては、それなりの妥當性を持つものである、と私は思つてゐます。私は、高橋氏のやうな歴史の專門家ではありませんから、用語や細かい知識に誤があると思ひますが、常識レヴェルでの歴史の流れはそれなりに把握してゐる積りですし、さう云ふ流れを大膽に把握する事も歴史學では必要であると考へます。
平成十七年三月六日
實際のところ、西洋の歴史は全部繋がつてゐるし、中近東邊やアフリカ北岸邊も西洋史の源流で繋がつてゐるので、どんな思想でも「關係がある」と言はうと思へば言へます。
けれども、例へば、現代の原子に關する學説は、デモクリトスの原子論とは、單純に「同じ」と言へません。デモクリトスに言及せず、現代の話として原子やら何やらの話をした時、「なんでデモクリトスに言及しないんだよ」と言つて嘲笑するとしたら、それこそをかしな話だと言へます。
「繋がつてゐる」とも「別個のものである」とも考へられる事物について、その「別個である」側面に意義を見出して議論をしてゐるところで、文脈を無視して、「繋がつてゐる」側面を強調して「お前は間違つてゐる」と極附けるのは、揚げ足取りのレヴェルの非難に過ぎないと思ひます。
平成十七年三月六日
何うも高橋氏の場合、未だにしつこくうちを見てゐる邊、ストーカー的な傾向があるのではないかとすら思へるのですがそれは兔も角、野嵜を無知と極附け、野嵜を馬鹿にしなければならない、と云ふ「義」のやうな發想で、野嵜の言及してゐない事を恰も言及すべきであるかのやうに極附けてゐるらしき氣配があります。萬年野黨の社会党が兔に角何でも與黨自民黨の政策に反對したのと、似たやうなものですね。自民黨が常に正しかつた訣でもありませんが、それに無闇に反對した社会党も、常に正しかつたとは言へません。氣に入らない奴の意見は、兔に角全部否定すればそれで良い、と云ふものではない筈。云々。
しかし、何で高橋氏はうちに御執心なのですかね。ええと、囘答を期待してゐるのではないし、高橋氏のぶろぐも讀んでゐませんので高橋氏は囘答しないで結構です。どうせ讀みませんし。えすさんが反論されてゐなければ、高橋氏の言及だか批判だかに私は氣附きませんでしたし、今後も恐らく永久に氣附かなかつた事でせう。で、讀まないで上の文章を書いてゐますので、これらの文章は高橋氏への反論ではありません。
平成十七年三月六日
ファミリー劇場で宇宙戦艦ヤマトの映畫をやつてゐたので觀た。これ、多分二十回くらゐ觀てゐる。色々と突込みどころが多いし、そもそもダイジェストとしても聊かアレなのだけれども、それでもヤマトは良いんだよ。缺陷が多くても、大筋で正しい、と云ふものは「ある」のだと思ふ。ただ、何度觀ても、ガミラス星を滅茶苦茶にした後の古代の科白、我々は愛し合ふべきだつた云々が、唐突で、メッセージの爲のメッセージにしか思はれず、白々しいものに感じられてしまふ。
あと、最近ヤマトを觀るやうになつた人は知らないかも知れないけれども、若桜木虔がコバルト文庫でノヴェライズ版を書いてゐる。これがアニメ版と微妙に話の流れが違ひ、獨特の解釋を含んでゐて、非常に興味深い物に仕上がつてゐる。古代の沖田艦長への屈折した感情とか、森雪の古代への感情の變化とかが、アニメでは特に描かれてゐないのだけれども、若桜木版小説では妙に説得力を持つて描かれてゐる。しかも、さう云ふものだと思つてアニメを觀る事が可能なやうに、アニメを補完するやうな形で書かれてゐるので、知らない人はBOOK OFFか何處かで探し出してきて、讀むと良い。
ただ、若桜木版のヤマト「総集編」は、「さらば」の後の執筆なので、若桜木氏は、古代と雪との後の關係を十分承知して、後附けで設定を練つた可能性がある。
それからそれから。イスカンダルに着いた時、真田さんが雪とスターシャが似てゐると指摘してゐるのだけれども、松本零士の女性キャラは皆、同じ顏なので、結構クリティカルな發言であるやうに思ふ。が、この發言が實は「永遠に」で古代やアナライザーがサーシャ(真田澪)を雪と見間違へたり混同したりする伏線になつてゐると考へるとそれなりに興味深いのだが、考へ過ぎだよ俺。
あとそれからついでのついでですがね。「新たなる」をベースにしたゲームが少し前に發賣されて、CMが時々流れてゐたのだけれども、古代が「デスラーッ!」と叫んでゐるのです。が、このシーンは良くないよ。ヤマトは、今のアニメと違つて、キャラに絶叫させる演出が殆ど無かつた筈。「永遠に」で澪が聖總統スカルダートに撃たれた時、古代が絶叫しつゝ波動砲を發射したのが印象的であるくらゐ。
平成十七年三月六日
鉄人28号 @ ANIMAX。今川さん、キャラクタの心理の表現に拘り過ぎなのではないですかねえ。そこまで正太郎も村雨氏も思ひ詰める事はないでせうに。と言ふか、そんな思ひ詰めるやうなキャラとは見えない邊、演出が拙いのでは。兄貴(CV若本)とかの行動も何だか良く解らなかつたし。戰爭と云ふ事を極端に考へ過ぎてゐるやうにしか見えない。
平成十七年三月六日
Stellarium Astronomy Software
平成十七年三月六日
@Wiki(あっとうぃき)無料Wikiレンタルサービス
一部メールアドレスの漏洩について、お詫びと原因と対策
對策したとの事。
平成十七年三月六日
http://hpmboard3.nifty.com/cgi-bin/bbs_by_date.cgi?user_id=KHC02023
對波江。
ちなみに波江は、この岡田先生のところの掲示板が、http://hpmboard3.nifty.com/cgi-bin/thread.cgi?user_id=KHC02023&msg_per_page=10&def=10のやうなスレッド形式で表示可能なツリー式の掲示板である事に氣附いてゐない。だから「返信」しないで毎囘新しくスレッドを立ててゐる。波江ははてなアンテナ - 正字正假名遣ひの爲のアンテナを利用して宣傳先を擇んでゐるものと推測される。波江は宣傳の爲に他人の掲示板を利用してゐるのである。波江が宣傳屋であり、スパマーである事は明か。
いろは 伊呂波 IROHA
自分のサイトで何を言つてゐようが、それ自體に文句を言ふ積りはない。ただ、餘所に出張つて來て偉さうに説教するから波江は迷惑である。
平成十七年三月六日
野嵜健秀とは誰ぞ?
對「義」。
ちなみに野嵜は過去、一度として「ブログ」に「トラックバック」を送つた事がない。「闇黒日記」に「トラックバックを送る」やうな機能はない。

平成十七年三月五日

伊藤仁斎は江戸上期の儒者として、学識と徳行をもって世に重んぜられた人だが、ある時仁斎の堀川塾の玄関に、荒々しい相貌の浪人が来て、

「当家の先生は人に仁愛の道を説き教えていなさるという。門弟衆が多くて、くらし向きもきつう豊かであるという。拙者多年の浪人にて貧窮し、その日のたつきも立ちかねるによって、合力していただきたい」

と、脅迫半分に談じこんだ。

仁斎は門弟数人と談話している席で、とりつぎのことばを聞いた。門弟らは、拙者らが出てことわりましょうと言った。

仁斎はその顔を見て、

「そなたではいくまい」

といい、さらに一人一人門弟らを見て、こなたでもいかぬ、そなたもいかぬ、やはりわしが出るよりほかはない、といって玄関に出て、ぴたりとすわって、

「そなた様貧窮じゃによって合力してくれとのことじゃが、それはならぬことじゃ。人に合力するほどの金もござらぬが、たとえあっても、道というものがござるによって、わしがままにはならぬのでござる。わしの奉じている聖人の道は、すべて親より疎に、近くより遠くへ及ぼすのを順とすることになっている。そなた様より親しく近い人がわしにはたんとござる。その人をとびこえて、縁もゆかりもないそなた様にめぐむのは道ではござらぬ。されば、合力申すはならぬことでござる」

と、ていねいにことわったところ、浪人は一言もなく、わびを言ってかえって行ったという話がある。

右翼団体からせびられて少しくらいのことはつき合った方がめんどうがなくてよいと、わけもなく金を出す現代の実業家や政治家とはちがうのである。

仁斎は江戸上期の学者だが、このようになにごとにも筋道を立てる行き方は、学者世界だけでなく一般武士の間にも行きわたっていたのである。

平成十七年三月五日
例へば、「千年後、誰かが私の文章を讀んでゐるか何うか」と考へてみるのは何うだらう。
平成十七年三月五日
またネットストーカーの「義」が出て來たので、野嵜の名を騙つて掲示板を荒したり「ブログ」のコメント欄を荒したりする等の犯罪行爲があつたら、通報よろしく>各方面。
平成十七年三月五日
技術的に、ウェブでは「誰」が投稿したかは判らない。ただ「何處」から投稿したかだけがはつきりするに過ぎない。だから、他人の名前を騙る「義」が出て來たり、自作自演で他人を誹謗中傷するアレクセイが出て來たりする。
ウェブにおける匿名と實名についてとか、署名による責任の明示とか、さう云ふ事を論ずるのは可能だけれども、掲示板とか「ブログ」のコメント欄とかの署名はナンセンスであるのではないか。そして、署名がナンセンスである以上、掲示板とか「ブログ」のコメント欄とかの發言は、全て例外ナシにナンセンスであると言へるのでないか。雙方向性はウェブの特質である、と云ふのは一般論だが、その雙方向性があるからこそ、ウェブは腐つたのだ、と言つて良いと思ふ。
掲示板も「ブログ」も、個人ではなく複數の人によつて生成される。Wikipediaも同樣である。だから駄目である。複數の人によつて生成されるコンテンツは、情報が多くても、「ノイズ」も多くなるから、使ひ物にならない。量ではなく質の觀點から言ふならば、ウェブは掲示板や「ブログ」のやうな複數の人間で生成されるコンテンツの所爲で「ノイズ」だらけになつてゐる。
ユーザビリティとかアクセシビリティとかと、掲示板や「ブログ」のコメントやとは、兩立し得ない。「嘘を嘘と見拔ける人でないと掲示板を使ふのは難しい」は即「掲示板はユーザビリティもアクセシビリティも低い」と云ふ事である。
平成十七年三月五日
記名欄がない現在の虹裏の管理人さんは、或意味、良く解つてゐる。
平成十七年三月五日
ウェブの匿名性や匿名による告發の可能性を過大に評價してゐる連中は、匿名を利用した惡意による嫌がらせを實際に受けてみれば良いと思ふ。大概の人は、御氣樂に、何となく「匿名は良い」と思つてゐるに過ぎない。「自由」の氣分で物を言つてゐるのである。しかし、そもそも匿名で物を言はなければならない社會とは、自由がない社會である。
匿名の可能性を主張する人は、匿名による嫌がらせを受けた被害者の救濟について、何らかのコメントを出すべきだと思ふ。
平成十七年三月五日
ガンダムSEED DESTINY、いつもCMカットしてDVD-Rに燒いてゐたのだけれども、それは間違つた行爲であるらしい。特に今囘。
平成十七年三月五日
波江を叩くと「義」が出て來るやうな氣がする。
平成十七年三月五日
無能な大学教師発見法
文化相対主義

平成十七年三月四日
AIR。敢て言ふけれどもトンデモ。言ひたい事は良く解る。
平成十七年三月四日
世間の人は相對主義の一元論で行くが、野嵜は相對主義と絶對主義の二元論で行くと。但し、兩者の適用範圍は嚴密に分離すると。さう云ふ事。
平成十七年三月四日
舞-HiME。やつぱり敢て言ふけれどもトンデモ。あと、キャラクタ壞し過ぎ。
取敢ずきちんと擴げた風呂敷疊んだら絶讃する。
平成十七年三月四日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20050304#p2
當方も「認識論」について良く知らないで書いてゐましたので、御説明、まことに有り難いのですが、何だか細かい部分の説明で、全體として渡邊さんが何う云ふ事を仰りたいのかが良く飮込めず。
カントは人間が能動的に対象を構成する以前に、感性を通じて主観を触発し内容を与える物自体を見出し、人間の主観の受動性を強調しているのです。
順番に言ふと、「人間は、感性を通じて、對象となる物自體によつて主觀を觸發され、内容を與へられる。その後、對象を能動的に構成する」とカントは言つてゐる、と云ふ事でせうか。「主觀を觸發される」「内容を與へられる」「對象を構成する」と云ふのが何う云ふ事なのか、實は私にはさつぱり判らないのでして、それが判る渡邊さんはとても頭が良いのだとは思ふのですが……。はつきり言ふと、渡邊さんの仰る「カント的な認識」が理解出來ず。と言ふか、渡邊さんの引用されたカントの文章が全然讀めません。われわれにとって現実に与えられているのは知覚と、この知覚から他の可能な諸知覚への経験的進行に他ならない。と言はれても、「可能な諸知覚」とか「経験的進行」とかの言葉がさつぱり判らない。どうも哲學の邦譯は拙いですねー。小林秀雄が講演で「哲學者の文章は惡い」と言つてゐたさうです。聽衆は皆笑つたが田中美知太郎は笑はなかつた、と松原氏が書いてをられます。かう云ふ良く判らん文章を通して渡邊さんがカントを理解されてゐるとしたら、實に偉い物だと思ひます。つきましては、日本語で噛碎いて「カント的な認識」と云ふ事を、ずばり御説明頂ければと。その上で、というか野嵜さんは主観という言葉を認識論的な意味合いで使っているわけではないんですかね。と云ふ御指摘に就いて、その意味を教へて頂ければと。
平成十七年三月四日
本日の買物。東京古書會館の古書展。エズラ・パウンド『世界文学の読みかた』(宝文館)。和辻哲郎『日本精神史研究』(岩波書店)。海音寺潮五郎『史談と史論(上下)』(講談社文庫)。A.ハックスレイ『文学と芸術』(現代教養文庫341)。
平成十七年三月四日

「真理か? たとえば、2+2=4のような、あるいは、ヴィクトリア女王の即位の年は一八三七年のような、光の速さは毎秒十八万七千マイルのような、そんな真理だというのか?」そう訊ねる者がいるかも知れない。しかし、文学作品にそのような真理が見つからぬことは、自明のことである。いま私の説明した「真理」とは、じつは本当らしさとして認めうるものでしかない。ある文学作品において、そこに描かれている体験が、われわれの現実の体験と照応する時、あるいはまた、潜在的体験とでも呼びうるもの、つまり(周知の事実からの推測によって)われわれも持ちえたと考える体験と照応する時、不正確な言い方であることは致し方ないとして、「この文学作品は真実である」とわれわれは言う。しかし、むろん話はここで終らない。心理学の教科書に実例として書かれているような話を考えてみよう。そういう話は、それがある実話の正確な記録である限り、科学的に真実なものである。ところが、そういう話も、読む者に、わが身に照らして「真実」だと受け取られる事がある。つまり、読む者の現実の体験なり、潜在的体験なりに照応するものとして、ありそうな話だとして認められることがある。しかし、心理学の教科書は芸術作品ではない。芸術作品であるにしても、たまたま付随的にそうであるにすぎない。したがって、単に本当らしいというだけでは、作家の描く体験が読者の過去の体験なり想像上の体験なりに照応するというだけでは、芸術作品を「真実」らしく見せるにじゅうぶんではないことになる。すぐれた芸術というものは、超真理とも言うべきものを持っている。事実そのものよりも、もっとありそうで、もっと認めやすく、もっと説得力のあるものなのである。それも当然のことであろう。芸術家とは、「ものを表現する」能力を、つまり感受性と伝達力を持っている人なのだから。事実そのものにも、その事実にたまたま出くわす人にもたいてい、そのような能力はない。経験から学ぶことのできるのは学ぶ力のある人だけであって、そういう人の数は、ミコウパー夫人(ディケンズの小説『デイヴィド・コパーフィールド』中の人物)の父親か好んで口にする格言によって考えられるほど多くはない。芸術家とは誰よりも学びうる人であり、また教えうる人である。芸術家は、事実から誰よりも多くのことを受け取り、その受け取ったものを、読者の心に深く食いいるような独得な力でもって伝達することができる。すぐれた文学作品を読んで、われわれがしばしば感じさせられることの一つは、つぎの言葉に公式化することができよう。「これこそ、わたしが日頃から感じ考えていながら、自分に対してさえ、はっきりと言葉に表現しえないでいたものだ。」

何うもですね、私は哲學的に考へたいのではなく、文學的に考へたいらしいのです。認識とか存在とかの議論のレヴェルではなく、常識的なレヴェルの話。
ハックスリイは、私はそんなに偉い文學者だとは思つてゐないのですが、茲で、そんなに判らない事は言つてゐないやうに思ひます。單に、讀者の知つてゐる事と、書き手の表現した事とに、内容的に關聯・一致する點があつて、それで讀者が興味を持つたり感心したりする、と言ふ事があつたとしても、別にそれ自體は文學的と云ふ事にならない。書き手が、知覺した事、考へた事を、意識して適切に表現する事で、讀み手が十分意識してゐなかつた事を改めて意識化する事が出來るやうになる、それが文學の表現である。さうハックスリイは言つてゐるのですが、これを「實感」主義のやうに言つて非難しても仕方がありません。ハックスリイは文學者を、意識的な哲學者ではなく、無意識的でも優れた物を作る職人として扱つてゐます。
平成十七年三月四日
思ふに、渡邊さんは、用語とか觀念とかの操作がそれ自體として面白いのではないかと。今のカント云々の御説明ですが、それが渡邊さんの主張や野嵜の用語の問題と、どのやうに結び附くのかが、讀んでゐてさつぱり解らない。議論のテーマから遊離して、言葉の操作が行はれてゐるやうに私には見えます。
平成十七年三月四日
私にしてみれば、文學作品の評價は、職人としての文學者の仕事の評價で十分です。と言ふより、その程度でしか、評價のしやうはないのではないですか。「構造主義」や「記号論」を經てゐるのは結構ですが、さう云ふ方法論で作品を「斬る」と云ふやり方は、どうも、自分の主觀で(かう云ふ言ひ方をするから、その「主觀」とは何か、と突込まれるのですが、常識的な意味です、哲學的な意味を持ちません)對象を歪曲するやうなものであるとしか思はれません。例のえろげの高橋氏が「抑圧」と言つて、人を「天皇主義者」と極附けて罵つて呉れた事がありましたが、あゝ言ふ「自分の好みに基いて設定した解釋の方法」で、他人の文章を、その人の意圖を無視して解釋して、自分好みの結論に結び附ける、と云ふのが「方法論」であるとしたら、さう云ふ「方法論」はよろしくありません。「構造主義」にしても「記号論」にしても、さう云ふ「方法論」で文章を解釋する、と言ふのであれば、現代的な如何にも現代的な方法であり、今風の方法を好む人には受けるのでせうが、私には、對象の歪曲に據つて自分の好みと一致・關聯する結論を引出して呉れる事で「讀んだ」と「實感」するやうなものとしか思はれません。
と言ふより、「構造主義」「記号論」が、十分な文獻解釋を可能とするものだとは思へません。少くとも、ハックスリイが定義するやうな文學としての解釋と言ふ事は不可能であると思ひます。ハックスリイの先程引いた文章における主張は、大體同意出來ます。
が、まあ、或範圍内で――と言ふのは、客觀的に(やはり常識的な意味で、認識論とか存在論とかのレヴェルの話ではありません)正しい(やはり云々)解釋が可能であると確定してゐる範圍内で、適切に「構造主義」的、「記号論」的な操作による妥當性のある結論が引出されるのならば、それは認められます。が、その範圍がどう云ふものなのか、ははつきりしませんし、どうも曖昧に使つてゐる人も結構ゐるやうなのです(例、高橋氏)。だからこそ、「唯物的」と云ふ渡邊さんの用語にも、私は危險が含まれてゐると指摘せざるを得ません。かのマルクシズムの用語として「唯物論」なる用語は普及してゐます。高橋氏が指摘するやうに、マルクシズム以前にも唯物論はありました。しかし、さう云ふ唯物論を、渡邊さんや高橋氏が「マルクシズムを經てゐない」として「非科學的」のレッテルの下、排除しない理由も、私は見出せません。そして、認識等の概念を説明するのに、渡邊さんはドイツ哲學に依つてゐる。――さう考へると、渡邊さんが「カント的な認識」と云ふ言ひ方に拘つてをられるのは、マルクシズムとは別である、と主張なさりたいがゆゑなのかも知れません。が、茲で「辨證法」的に(もちろん、適切な使ひ方か何うかは知りません、レトリックです)カント的もヘーゲル的もドイツ的な觀念論に過ぎない、として、「イギリス經驗論的」(高橋氏にも昔、突込まれましたが、茲ではレトリックです)な事實に基いた考へ方とは根本的に異るものである、と極附けてしまふ事は(樣々の突込みどころを指摘出來るにもかかはらず)可能でせう。マルクス的な唯物論は、觀念論的なドイツ哲學の延長上にあるのです。私には、何うも渡邊さんの「唯物的」その他の主張が、さう云ふ觀念論に基いたものに見えます。が、さう云ふ觀念論と、それに基づいた「方法論」の利用が、日本で盛んであるのは、或意味、ドイツと同樣、「後進國」特有の現象であるやうに私には思はれます。カント、ヘーゲルら哲學者が活躍したドイツは、第二次大戰まで、觀念と現實との結合を實現出來ないでゐた國です。林健太郎が指摘してゐますが、ドイツは、自由について最も哲學的に研究が進んだ國であつたにもかかはらず、自由の實現が遲れた國でした。西歐における近代は、「西高東低」となつてをります。さう言つた側面を考へないと、ドイツ的な觀念論は危險なものとなります。
平成十七年三月四日
少し私も、「自分の世界」で渡邊さんの考へを斬り過ぎたやうです。
私の考えでは、それは他者との合意はそれがどれだけ多数の他者であったとしても必ずしも普遍性を保証しないからです。カントが、認識が、決して認識できない「物自体」によって触発される受動性においてあることを強調するのは、そのような「共同主観性」を成り立たせない決して自己と同一化することのない他者の他者性を想定することによって、むしろ命題がつねに普遍性を要求し、検証され続けることを示すためだと思うのです。ヘーゲルの主観主義は「絶対精神」である「神」が、人間それぞれに分有されているという「同一化」の原理であって、決して同一化されない他者性を消去する思想です。ゆえに私は主観主義はカントに留まるべきだと思っているわけです。
絶對者を想定するか、世間を想定するか、と云ふレヴェルの話で良いと思ふのですけれども? 實際のところ、Godを前提とした普遍志向はキリスト教社會に存在すると思はれます。その「Godなるキリスト教の絶對者」に對して、自然を置いて普遍性を追求するのが、近代の傾向である、とさう云ふ常識的な解釋をして良いと私は思ひます。さうした普遍志向は、西歐には強固にあるもので、一方、我が日本國にはありません。さう云ふ「文脈」を踏まへて、西歐人の普遍と云ふ概念に對する志向とその反省とを考へる時、それらは――矢張りレトリックかも知れませんが――「辨證法」的に、日本人には「ない」ものである、と言ふ事が出來ます。この時、反省の結果としての「普遍性の否定」に飛び附くのは、日本人にとつては、單に「自分と同じもの」を、他者としての西歐人の中に見出す事にしかなりません。そもそもの「Godに依據した普遍性」、それに對抗する「科學の普遍性」があつて、初めて現代的な「普遍性への疑問」が西歐には生じてゐる。さう云ふ經緯を全體として理解する事が、日本人にとつては重要な事である。
しかし、Godなり自然なりの「分有」として個別の存在を考へる、と云ふ發想から、キリスト教なり科學なりの普遍性を、決して同一化されない他者性を消去する思想と極附けるのは、私が常々「何うかしてゐる」と言つてゐる獨斷主義です。全ての物は陽子や中性子や電子で出來てゐる――と言へば、最早個別性は存在しません。が、にもかかはらず、水素やヘリウムは存在し、無機物と有機物とは區別され、動物と植物とは(最近は中間的なものにも注目が集まつてゐるやうですが)別のものであり、動物の中でも靈長目人科は特別の存在と認識されます。キリスト教にしても科學にしても、かう云ふ「常識的」な區別の存在は無視してをりません。寧ろ、さう云ふ區別がある爲に、區別し難い領域の考究が進んでゐると言ふ事が出來ます。キリスト教――或は、キリスト教社會――に於ては、多くの事柄が二元的な形で現はれてゐます。單純に、同一化の側面だけが現はれる、と云ふ事はなく、同時に個別化の側面も現はれます。さう云ふダイナミックな歴史の流れが西歐史にはある、と私は見てゐます。そして、さう云ふ二元的な物の見方は、實は日本人が極めて苦手にしてゐる事であります。その點、カントかヘーゲルか、と云ふ「あれか、これか」の議論はさて措いて、日本的「辨證法」で「西歐」の觀念を「でつち上げ」てでも、カントもヘーゲルも生んだ社會の全體としての姿を「ありのまゝ」に把握する努力が必要であると考へます。が、さう云ふ全體的な把握は、どうも個別的な方法論では巧く行きさうにありません。文明論的――と言つても良いのでせうが、林健太郎が歴史の方法を「藝術的」と云ふキーワードの下に述べた事があります。
平成十七年三月四日
さう言へば、保田與重郎の文體はドイツ語の文獻の飜譯みたいだ、と私、指摘しましたねー。
平成十七年三月四日
用語の客觀性が問題ではない事。個人の用語を、文脈に應じて、その場でどのやうな意味で用いられてゐるかを的確に把握する事が重要であると。用語法においても同一化は不可能であり、時と場合に應じた個別性の理解が必要であると。論理を表現する用語がユニヴァーサルでなくとも、表現された論理はユニヴァーサルであると。議論・討論に於いては、意味に基いた用語の適切な變換が必要であると。
平成十七年三月四日
どうも今夜は、何時にも増して斷片的な文章となつてゐますが、疲れてゐるので勘辨して下さい。何もしてゐないで疲勞がない時も、それはそれで、遊んでしまつて、きちんとした長文を書けないのですが。
さう云ふ訣で、まとまつた一貫した文章を書ける人を、俺は尊敬する。斷片的な事を書いても、そんなもの、幾らでも書けるのだから、偉くはないよ。有機的に結合した藝術作品を構築するのには、強靭な意志と精神力が必要であり、俺にはそれがない。だからこそ、さう云ふ作品をこそ俺は優れた藝術であると呼ぶ。ちよつと氣が利いた事を幾ら言つても、そんな事は簡單に出來る事であつて、簡單に出來るものは優れたものではない。
平成十七年三月四日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20050304#p1
「認識論」と「主観主義」については、途中で突込みを入れてゐますが、氣にしないで「唯物論」「構造主義」「記号論(学)」の御話を。
それにしても、完結した「レポート」を載せるには、「ブログ」と云ふ形式は妥當なものなのでせうかね。「ウェブ日記」にしても「ブログ」にしても、斷片的な記述にしかなりえないと私は考へてゐるのでして、それだからこそ、この闇黒日記の各項目は「定義リスト」である、と誰にともなしに。
平成十七年三月四日
http://d.hatena.ne.jp/kahusi/20050301#1109626528
Wikipediaの記事は、後で他人の手が入る(可能性がある)のだから、假名遣にしても何にしても「自分ルール」を設定するのは意味がないと思ふ。
Wikipediaは、「私の記事」ではなく、「みんなの記事」を書くところ。「自己」を實現しようと考へるべきではありません。
平成十七年三月四日
今朝は降雪の爲、京王線が三十分遲れました。良く眠れました。

平成十七年三月三日
ネギま。だらだら觀るには良いのでは?
平成十七年三月三日
空氣を讀めない波江が、また宣傳をし捲つてゐる模樣。困つたものだ。トンデモさんには協力しないやうに。
平成十七年三月三日
昨日の買物 @ 大雲堂。堀米庸三『歴史家のひとり旅』。清水幾太郎『日本人の突破口――わが精神の放浪記1』。

平成十七年三月二日
今更の話だが、Amayaが今年になつて9.0になつてゐる。二月二十五日に9.1が出てゐる。WindowsXP版は、導入時に.htmlその他のファイルを自分に關聯附けようとするから、注意する必要がある。なんかタブブラウザになつてゐるし、GUIが隨分今風になつてゐるから、作り手が努力してゐる事は解る。レンダリング性能は依然として今一つの感あり。
平成十七年三月二日
のあ
「セレブ」と「セフレ」つて、どう違ふの?
あやの
……さあ?
平成十七年三月二日
http://d.hatena.ne.jp/yms-zun/20050302/masaka
例の「真逆」問題。
平成十七年三月二日
http://esu.oresama.org/200503a.html#20050301_s6
えろげの高橋氏が釣れた模樣。
平成十七年三月二日
無神論のサルトルの用語――延いては發想法が、實は極めて宗教的である事。「照明」「啓示」と言つた用語は、広瀬氏『サルトルとマルセル』でも注目されてゐるが、認識論の側面から理解する事が可能である。その點、広瀬氏の言及の仕方は滿足が行かない(のであるが、今時塙新書なんて讀む人もゐないだらうから或意味何うでも良い)。トマス・アクィナスに影響を與へた哲學者アヴェロイスと、アヴェロイスに對立した神秘主義とを比較した上で、イスラム神秘主義と無神論であるサルトルの現實認識の類似點と相違點とを考察してみると面白い。
平成十七年三月二日
ヤスパース『スピノザ』を先日、讀み始めた。先日のスピノザ關係の記述に色々とアレな處があるのは、重々承知してをります。が、私は反省しない。
平成十七年三月二日
ライブドアの堀江氏は、社長で株主なんだよ、だから(以下略)。
平成十七年三月二日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20050302#p1
大體、「描き方」と云ふ事で、彼我の見解が一致するやうですが。
というよりも、私は文学作品はすべて基本的には「二人称の他者」を描いているのだと思うのです。ただ「描き方」によってそれが不十分だったり変だったりするだけで、そこには相対的な差異しかないと思います。
そのそれが不十分だったり変だったりする事が、私には重大な差異であると思はれます。文學作品は全て「二人稱としての他者の問題」である道徳のレヴェルで嘘を書いてはならない、と云ふのが私の考へ方です。別に政治家が登場しようが、政治運動に取材してゐようが、或意味、問題は無い訣ですが、そこで作爲的、或は無意識的に、嘘が混入して來た時、その作品は非難されて然るべきだと考へます。例へば大江健三郎の小説は、登場人物がまともな人間ならば考へないやうな事を平氣で「考へる」ので、フィクションにしても非道い、と私は判斷します。大江の「SF」では、登場人物の言動は全て、政治的に「立派な事」としてしか描かれてゐません。大體があり得ない、嘘つぱちのものです。(あと、大江は、作者の姿を反映した主人公を通して、作者自身を禮讚してゐるので、極めて惡性です)
「文学的価値」は基本的に「芸術的価値」と同質のものでなければならないと私は思います。
「芸術的価値」と云ふものが如何なるものか、が問題ではないでせうか。藝術の價値にも幾つかの見方に基いた異る價値があります。美的價値は、文學を含めた多くの藝術に共通する價値であるとは思ひます。が、それで全ての藝術が規定出來るとは言へません。建築の場合、物理的な側面、宗教・生活・實用の側面から、批判される事もあり得ます。取敢ず、單純に美のみを基準とした文學の價値判斷が不可能である事は明かです。文學は、言葉の藝術である以上、言葉に據つて明示的な意味を持つ、と云ふ特質があります。その觀點から言ふと、價値判斷に關する明示的な意味を、文學は含み得ます。その價値判斷は、道徳的(「二人稱の他者に關する問題」としての)な價値判斷が最優先されるべきであり、「大衆」や「國民」「市民」を對象とした「三人稱の他者」の問題としての政治に關する價値判斷を優先すべきではありません。その種の政治に關する問題は、極めて簡單に古びます。森鴎外の「大鹽平八郎」は、鴎外自身が大鹽に對して冷淡な態度をとつてゐて見識を示してゐますが、政治を扱つた小説で、面白くありません。一方、「高瀬舟」は、現代でも重大な問題である安樂死の問題を扱つてゐます。「安井夫人」にしても「護持院原の敵討ち」にしても、登場人物の從つてゐる、或は反撥してゐる徳目は古いものですが、にもかかはらず、さう云ふ徳目に從ふ人物を鴎外は立派な人物として描いてをりますし、彼等の立派な態度を我々は矢張り、見事であると言ふ事が出來ます。中野重治が轉向について書いたのを、我々は見事だと言ふ氣になれません。中野が日本共産黨を批判した政治的な文書を、我々は退屈せずに讀む事は出來ません(一部の右翼を除く――そして、この場合、右翼と云ふ政治的立場が、共産黨批判に關心を持つ要因となつてゐるのであつて、文學的興味によつて中野の文章に興味を持つやうになつたのではありません)。
平成十七年三月二日
ドストエフスキー『罪と罰』を、現代の推理小説的に解釋する「讀み方」もあります。が、さう云ふ讀み方は、必ずしもナンセンスと言へないとは言へ、それだけの讀みをしかしないのは、『罪と罰』の讀みとしては不十分であると言へます。と言ふのは、ドストエフスキーは『罪と罰』で、謎解きとしてのスリルだけを、讀者に與へようとしてはゐない、からです。『罪と罰』の結末に至つて、讀者はパズルが解けた時の知的な樂しさを味はふ訣ではありません。逆に、パズルを解くやうな知的な樂しみを第一義とする推理小説は、どれ程、人物の心理が書込まれてゐたとしても、エンタテインメントとしての推理小説であり、シリアスな文學作品ではありません。もちろん、チェスタトンのブラウン神父のやうな特異な例はあります。
『罪と罰』で主人公は、「大衆を救ふ爲」と云ふ大義名分の下、殺人を行つたのですが、實際に似たやうな事件があつた以上、嘘臭いとは言ひ切れませんし、その種の正義の名の下に道徳上「惡」である行爲をなす事は現代でも屡々あります。さう云ふ問題意識から『罪と罰』を見ると、現代でも十分、アクチュアルな問題を含んでゐると言ふ事が出來ます。
平成十七年三月二日
「アラビアのロレンス」は、ロバート・ボルト脚本の映畫です。ロレンスは、「アラブ人」や「イギリス人」「フランス人」と云ふ對象を相手に戰つてゐます。現實のロレンスは兔も角、映畫のロレンスは、政治的な人物として描かれてゐますが、或意味、我々にとつて身近な存在であり、道徳的には矮小な人物でしかあると言ふ事すら出來ます。「アラビアのロレンス」は、戰爭と平和とに關する鋭い指摘を含むものの、凡庸な大作映畫であると言へます。一方、"A Man for All Seasons"において、トマス・モアは、スキャンダラスな英國國王の離婚問題に際して、カトリックに忠實であつた爲に斷頭臺へと送られます。これも史的事實である以上嘘臭いと言へないのですけれども、自らの生命の保全よりも、Godと自分と云ふ「狹い領地」を護らうとするモアは、我々日本人の目から見ると異常な存在です。モアは、道徳・宗教と政治との對立において道徳を擇ぶ態度を取る人物として描かれてゐます。さう云ふ問題が現實に「ある」からこそ、"A Man for All Seasons"と云ふ御芝居は成立するのですが、その問題を我々日本人は研究と言ふ方法を通してしか知り得ません。しかし、例のオウム真理教の事件を見ても解る通り、奇怪としか言ひやうがなくとも、宗教の爲に自分の生命を捨てる人間は現代にも存在します。ならば、その種の人間の問題は現代的な問題であると言へます。寧ろ、超時代的な問題であると言ふ事が出來ると私は思ひます。
大東亞戰爭末期、敗色が濃くなつた日本では、起死囘生の戰法として神風特攻隊に據る體當り攻撃を實行しました。その特攻で、青年が「御國の爲」に命を散らしました。死んで行つた特攻隊の青年は立派だつた、と言ふ事は出來ます。しかし、特攻隊に入つたら百パーセント確實に死んだかと言ふと、さうでもありません。飛行機の不調等の理由で死ぬ事なく、敗戰を迎へた青年はゐました。さう云ふ「特攻崩れ」は、戰後、どのやうにして生延びたかは、確實な事は言へません。即ち、「特攻崩れ」が常に百パーセント、立派な人間として生きた、とは言へない訣です。オウム事件で、洗腦が解けた信者が麻原教祖を罵つてゐました。オウム事件の場合、テロを實行した信者が立派だつたか何うかは意見が分れるでせうが、洗腦が解けた信者が全員、立派な人間として以後の人生において振舞ひ續けてゐるか何うかと言へば、それもまた意見が分れるでせう。となると、オウムの場合も、「特攻崩れ」の場合と同樣、確實に何時までも「立派である」生き方が可能である訣ではない、と云ふ事になります。しかし、實は、問題は、洗腦が解ける前のオウム信者の信仰、「特攻崩れ」となる前の特攻隊員の時の「御國の爲」と云ふ信念――それら自體が可なり「弱い」ものであります。麻原教祖にしても、天皇にしても、人であり、必ずしも常に立派であるとは言切れません。ところで、トマス・モアが信じたGodですが、ニーチェに死を宣告されたり、近代以降散々な扱はれ方をしてゐますが、にもかかはらず、現代でも十分な「強さ」を維持してゐます。と言ふより、論理的には現在でもGodの存在は全否定されてゐません。人間の場合、過ちを冒せば即座に信頼を失ひます。しかし、カトリックにおいて、Godと、Godの地上の代行者である人間とは、區別されます。地上におけるGodの代行者である人間が過ちを冒しても、Godは過ちを冒した事になりません――その爲、Godに對する信頼は、論理的には現在でも相當の程度、有效です。その點、特攻隊員の「天皇陛下萬歳」「御國の爲に」の類の信念や、オウム真理教の信仰と、キリスト教の信仰とは、本質的な差異があります。かうした側面からの彼我の差の檢討は、現代でも十分なアクチュアリティを持つと言へます。

平成十七年三月一日
原隨園『希臘神話』(弘文堂版教養文庫31)等。
平成十七年三月一日
さて、正字正かなを禁止すると云ふ事は、「日本國の政策としてはなかつた」と云ふ事になる。だからと言つて、我々正字正かな派の人間が堂々と他人の前で正字正かなを使ひ難い氛圍氣が現在の日本にある事もまた事實なのだと思ふ。「日本國の政策としては無かつた」と云ふ事實を以つて正字正かなの禁止を「捏造」だと極附ける態度は、餘りに歴史の兩義性を無視する傲慢な態度だと言はなければならない。
僕は少くとも現在において、新字新かなを使つてゐる日本人の傲慢さによるかうした他文化無視の暴力は日常的に行はれてゐると考へる。云々。
ならばさうした思想が、新字新かなを使つてゐる人々の中にどうして形成されて行つたかを考へるのも無益な事ではなからうと思ふ。云々。
http://ngp-mac.com/kumarin/index.php?p=766
途中までしか讀んでゐない。
平成十七年三月一日
東京都交通局>お知らせ>ニュースリリース>都営新宿線ダイヤの一部変更について
http://www.keio.co.jp/news/nr050224v04/index.html:3月25日(金)京王線・井の頭線でダイヤ改定を実施!
「新宿線内各停→新線新宿〜調布間快速→相模原線内急行」の出世魚みたいな列車が出現するらしい(表示は本八幡〜調布間で「快速」、調布〜橋本間で「急行」となる模樣)。但し、逆方向ではどんどん成下がる。
平成十七年三月一日
神保町から秋葉原へ行くのは結構面倒である件。
平成十七年三月一日
秀まるおのホームページ−秀丸エディタの紹介( 概要 )
Ver5のβテスト中。
秀まるおのホームページ−秀丸エディタの紹介( 縦書き編集のサポート )
Ver5で縱書きモードが附くのだと。
秀まるおのホームページ−秀丸エディタ先行バージョン改版履歴
平成十七年三月一日
原隨園『希臘神話』「第一 神話といふもの」

人間が自己の周圍をみまはして、それが何であり、それが如何にして生成したかと疑ふときには、それを先づ神の名に歸するのが常である。人間にとつて如何ほど不合理とみえ、また奇異だとみえることでも、之を神に結びつければ奇異不合理ではなくなるのである。かくして神話は民族の世界觀の詩的表現となり、文學ともなるのである。そして不合理奇異を神の名に歸して、不合理奇異の存するまま領得することによつて、その不合理奇異を解消するといふ仕方は、萬事を理性によつて解決せんとする後の仕方とは異つてゐるけれども、色々な疑問を解決したことにおいて、神話は當時の学問でもあつた。

心理的な合理化とか現代的な用語の「ミュトス」とかとの關係を指摘するのは、常套的であるが、さうしたくなる文章だ。實際、心理的に納得する爲の不合理な解釋は、自然科學の分野では消滅したが――もつとも、現象なり何なりに名前を附ける事は現代でも普通に行はれてゐる――社會科學、人文科學の分野では、非常に良くある事である。それが屡々「科學的」の名の下に行はれるのも、結構良くある事である。神話を神話として意識するのならば、迷信に陷る心配はない。困るのは、「神話とは違ふ」と言ひながら、實質的に神話の頃と同じやうな眞似をする事である。
ギリシア史を專門とした原氏のギリシア神話の解説は、とても古いものだが、普段、御話としてのギリシア神話を樂しく讀んでゐるだけの人には、有益である。
原氏は、ギリシア神話と稱されてゐる物の内容が、實は可なり複雜である事を指摘し、以下のやうな「根源」がある事を指摘してゐる。
  1. ホメロスの記載
  2. ヘシオドスの記載
  3. オルフィク(Orphik)教徒のもつ體系 ※オルフィクはオルフェウスと同じ
  4. 戲曲
  5. アレクサンドリア時代の諸家によつて、説話として委曲を盡くし、各種の神話の綜合が行はれた。さうして出來た御噺。
御話としてのギリシア神話は、現代教養文庫からも出てゐたが、樂しく讀めるけれども、既に整理されたものである。けれども、實際に殘つてゐるギリシア神話は、樣々な形で殘つたものであり、混亂したものである。一往、この邊、樂しい讀書をする讀者も念頭に置いておく必要がある。

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