闇黒日記


平成十七年二月二十八日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20050228#p1
ですから、具體的に渡邊さんの仰る「構造主義」とか「記號論」とかは、誰の言つてゐる事でどんな内容なのかをきちんと定義していただきたいと。ウェブでのやりとりでは、單純に「野嵜さん」相手に話す、と云ふ訣には行きません。ギャラリーの存在もあるのです。「唯物論」の主張を渡邊さんがなさりたいのでしたら、それを逆手にとつて、「野嵜さん」相手の討論であつても、同時にギャラリー向けのアピールとすべきかと存じます。啓蒙書と言ふよりも、まさに「実物」とは何か、を私は質問してゐるのですし、それはギャラリー諸氏にも興味のあるところであると思ひます。
また、「その場その場で切換へる」やり方は、日本人の處世術であり、世知であり、言はば常識です。が、さう云ふ常識を、常識であるがゆゑに固執する、と言ふのは、良くない事だと思ひます。人は一般に、自分の知らない事を學ぶべきであり、知つてゐる事をただ漫然と繰返しやつても意味はありません。日本人は明治以來、切替へ式のやり方でやつて來ました。けれどもそれだけでは困ります。日本人の近世の文學者の、文學上の立場が融通無碍であつた事を、中村真一郎は問題視しましたが、私も同感です。
で、「徳目と道徳とは異る」と前々から何度も申し上げてゐるのでして、私の定義に基いて話をするのならば、「徳目に從ふ/反抗する」と「人が道徳的である」とは一對一で對應しません。それに、共同體の規則が共同體の生存の爲の規則であるならば、それは飽くまで政治に屬するものであり、道徳的なものではありません。個人の身がどうであるかは、形式的に御芝居を規定しますが、御芝居の價値は規定しません。主人公が死ぬから悲劇である、とは言へますが、だからその御芝居は悲劇として價値がある、とは言へません。飽くまで「私人」としての言動が、「善い」或は「惡い」のどちらの方向性であれ「優れてゐる」場合に、或は優れた描かれ方をしてゐる場合に、その御芝居は優れてゐると言ひ得ます。ジュリアス・シーザーの場合、ブルータスその他の登場人物の言動は、主に、正義に基いたものであり、共同體の利益を名目としたものであり、「公人」としてのものであり、「私人」としての道徳的な關係に關するものではありません。彼等は、道徳的には皮相な行動をしか取つてゐないやうに描かれてゐます。それゆゑ、形式としては悲劇に屬するものの、「ジュリアス・シーザー」と云ふ御芝居は、悲劇として弱いのであります。主題とか題材とかの政治なるものではなく、主人公その他のキャラクタの言動が政治的であるのです。慥かに、シェイクスピアは「理想主義者の自己欺瞞」を鋭く剔抉しているのであり、正義漢の「公人」の問題點を指摘してゐる點で、單純に正義や沒正義を禮讚するだけの凡庸な作品とは一線を劃しますが、しかし、それだけの作品に過ぎません。眞直ぐなだけの正義漢よりも、迷ひのある惡漢の方が、人間として魅力的です。ブルータスらよりもマクベスの方がより偉大な人間として描かれてゐる、と言へます。それゆゑ、「ジュリアス・シーザー」と云ふ御芝居よりも「マクベス」と云ふ御芝居の方が優れてゐる、と云ふ訣です。主題とか題材とかではなく、描き方が問題であると。
もつとも、シェイクスピアの悲劇で、どれが一番であるかは、批評家によつて見解が分れてゐます。けれども、「ジュリアス・シーザー」を所謂四大悲劇と比べて、より優れたものと看做す見解は、一般にないやうに思はれます。ただ、シェイクスピア研究の全ての文献をチェックした訣ではありませんので、大雜把な印象論であり、根據として「弱い」と言はれればそれまでですが。ちなみに、大井邦雄に據れば、過去の研究で言ふべき事は言盡くされてしまつた爲、今のシェイクスピア研究では「間違つてゐると承知で敢て間違つた事を言つてみる」學説くらゐしか新説の立てやうがない、その爲、その種の新説が歐米では續出してゐるのださうです。が、さう云ふ研究に意味があるのか何うか、或意味、疑問です。
平成十七年二月二十八日
というか野嵜さんは主観という言葉を認識論的な意味合いで使っているわけではないんですかね。と云ふ御指摘ですが、私は認識論的な話をしてゐるのでせうかねえ、良く知りません。
ただ、そもそも、西歐の科學にしても、唯物論にしても、デカルトを出發點としてゐるのであり、デカルトの例の「我思ふ、故に我あり」は認識論です。もちろん、イスラムにしても佛教にしても、認識論は何處にでもあるのですが、何處でも認識論からは單純に科學が生れてゐません。それが、西歐に限つては、なぜか飛躍的に科學が出現してゐます。そして、その科學からフィードバックされて現代的な唯物論が成立してゐます。けれども、科學を生まなかつた非西歐的な認識論と、科學を生んだ西歐的な認識論との間の懸隔は、現代の思想では、案外見過ごされ勝ちとなつてゐるやうに思はれます。そして、唯物論がその解決となるとは必ずしも言ひ難いのではないですか。現代の唯物論は、餘りにも性急に非唯物的なものを否定してゐます。單純な唯物主義の主張は、受容れられる素地があるだけに、危險であると思ひますが、單純ではない唯物主義の主張も、單純な唯物主義と混同されるのを避ける爲、相當の注意を以つて行はれるべきかと存じます。
平成十七年二月二十八日
既にぐだぐだになつてゐるやうな感じは慥かにします。そろそろ潮時ですか。さうですか。
平成十七年二月二十八日
まほらば。二次元実況や虹裏 @ img鯖を見ながら適當に流し觀。眞面目に觀なければ觀られるのか? 酒亂ぴんくが最後に「良い事」をしたから許す。と言ふか、あれで「いいおはなし」にしてやらうと云ふ制作者の意圖が透けて見えるのが。
平成十七年二月二十八日
野沢那智のコブラは良い。
平成十七年二月二十八日
本日の買物。伊藤博文『憲法義解』、スピノザ『スピノザ往復書簡集』『神・人間及び人間の幸福に關する短論文』。いづれも岩波文庫2005年春のリクエスト復刊。
平成十七年二月二十八日
本日の拾ひ物。笠信太郎『ものの見方について』(市民文庫1)。副題に曰く、「西歐になにを學ぶか」。以下、「序」より。

私が日本に歸つてきてからずつと痛感していることの一つは、我々日本人には、一般的にいつてまだ自分の考えというものが缺けているということである。戰爭前には、それでも何かしらしつかりした考えをもつているように我々は感じてゐた。しかしそれは、極端にいうと、敗戰と共に一擧に吹き飛ぶようなものであつた。いまは何もないという空虚な感じが、多くのまじめな若い人逹を支配しているように思われる。かと思うと、あり合せの一つの思想に手當り次第に飛びついて、特攻精神から共産主義へと三段跳びをしたような人も多いという。これも自分の考えをもつたとはいえない。自分の考えをもつていないということは、この考えを作りあげるための考え方をもつていないということである。料理を作るには、調理法の心得がなくてはできない。たゞ何かの思想をもつことは、そうむつかしいことではない。それには出來合いのいろいろの思想があるからである。日本は今日まで、いつもそういう出來合いの西洋の思想を買つてきて、サシ根して育てようとした。デモクラシーにしても今度がはじめではなかつたが、サシ根ではやはりはげしい嵐や旱天には堪えきれず、過去においてはいつも枯らしてしまつている。しかしほんとうに自分の考えをもつためには、それをもつ手段としての自分の考え方がなくてはならない。その考え方が我々にないならば、新たに學ぶほかはないのである。

そういうわけで、いまの世界を覆うている文化の源流である西ヨーロッパに、もう一度、考え方をたずねてみる必要を私は感じたわけである。……。

附記にて著者曰。

本書では、一、二の例外をのぞいては、現在の慣用により新かなづかいによつた。私自身は、新かなづかいは根本的に再檢討さるべきものと考えているが、いまこれに慣れている人々にも讀んでもらう場合を考えて、一應そうしたに過ぎない。この重大問題が、いまの恐るべき混亂から一日も早く脱却することを願わざるを得ない。

平成十七年二月二十八日
……正確には「川端の『雪國』において登場する「トンネルの向こう」や「鏡」といった記号が意味しているのは《死》のイメージである」ということです。
しかしマクベスは「期待だけさせておいて裏切る」と言い切ってしまう)、マクベスの死は単なる卑小で無意味な死である。『マクベス』が、シェークスピアの他の悲劇に較べて優れた作品となっているのは、この無意味さにある。『マクベス』は構造的に「悲劇」を否定する悲劇なのだ。
實を言ふと、私はかう云ふ渡邊さんの「分析」が、「構造主義」的、或は「記号論」的な「分析」として本當に妥當なものなのか何うか、疑つてゐる。
渡邊さんは、そしてもう少し言うなら、その分析は具体的な文章に即して行われなければならないと述べてをられる。けれども、渡邊さんのされた「分析」は、原文をありのまゝに記述したものではないやうに思はれる。渡邊さんは、御自身の判斷で「記号」なり「構造」なりを創り出し、御自身の價値觀に基いて對象を再構成してゐる。それは果して「分析」と言ふに値する行爲なのか。そもそも、「分析」對象となる文章に見出すべき「記号」「構造」は、どのやうな基準に基いて析出されるのであらうか。
また、「マクベス」の「分析」における渡邊さんの判斷――「マクベスは無意味であるから優れてゐる」と云ふ評價――の仕方は、私には「デタラメ」にしか思はれないものだが、案外、保田與重郎のレトリックに近いのではないか。
渡邊さんが「唯物的」と云ふ言ひ方をされた時點で明確に述べておくべきだつたと思ふが、なぜ渡邊さんは今更、古めかしい共産主義を支持するのだらう、と私は疑問を抱いた。以前、渡邊さんは、遠山茂樹について私に尋ねてをられるが、今時、マルクシズムの歴史家に過ぎない遠山氏を讀んでゐる、と云ふ事が、渡邊さんのマルクス主義的な傾向を暗示してゐる。渡邊さんの「新思想」を、私は「ニューアカ」と讀み替へても良いと思つてゐる。が、いづれにしても、古いよ。
私の小説でレギュラーと化してゐる真木先生にはモデルがゐて、高校の時の漢文教師なのだが、その某先生曰、漢文を讀む時には「鑑賞」と「批評」とが必要である。まづ、漢文を讀んで、原作者の意圖なり何なりをありのまゝに再記述するのが鑑賞であり、それに對して自分の意見を述べるのが批評である。かうした區別は、漢文を讀む時のみならず、常に必要である。この某先生、授業中に考へ込んで固まる愉快な先生だつたが、まあ、教へて呉れた事は正當だつたと思ふ。客觀的な事實の把握と、それに對する主觀に據る價値判斷とは、嚴密に區別した方が良い。この區別は、如何なる立場に立つ場合でも、有效だと思ふ。どうも、渡邊さんの「分析」には、この客觀的な事實の把握と主觀的な價値判斷とのけぢめが無いやうに思はれる。マルクシズムの歴史觀が、科學的と稱しつゝ、實は客觀と主觀との曖昧な混合物であつた事は、言ふまでもない。マルクシズムの史的唯物論は、外見上の客觀主義にもかかはらず、メシア思想との關聯を指摘され、批判されて來た。だが、その反省が、今に至るまで、マルクシズム系の思想には無いやうに見える。渡邊さんの「分析」に見られる、客觀主義の建前と、實は主觀が混入した實踐との乖離現象は、問題である。
平成十七年二月二十八日
http://esu.oresama.org/200502c.html#20050226
御説ご尤もと言ひたいところだが、實のところ秀氏はその「前提」に「田中宇氏の假説」やら「宮台真司氏の説」やら「本多勝一氏の説」やらを放り込んで平氣な顏をしてゐるのである。
秀氏は意見が合はないと見るや、相手に對して「地蔵」だと「田吾作」だのと散散に罵しる。どちらも宮台氏の用語らしい。迷惑な言葉を流行させやうとする學者もゐるものだ。それでも罵しるだけならばまだ良い。罵しつた後に、それがさも正しい行爲であるかのやうに辯明を行ふのだ。
馬鹿を罵つて馬鹿と言ふのは私野嵜も屡々するところなのだけれども。
宮台や本多の場合、或は、佐高信もさうなのだが、罵倒が罵倒の根據となつてゐる觀がある。彼等「サヨク」は、屡々「主觀的な價値判斷→それに基づいた敵の立場の極附け→その自分の極附けた立場を根據とした敵への罵倒」と云ふパターンで他人を攻撃する。
主觀を排除した客觀的な分析は、必要である。
平成十七年二月二十八日
渡邊さんの場合、自分の用語に基いて、相手の文章の意味を解釋する傾向が無きにしもあらず、と云ふ印象がある。保田與重郎の文章を渡邊さんは「デタラメ」と評してゐる。けれども、渡邊さんの用語を使つてゐないからと言つて保田氏の文章を「デタラメ」と評してゐるのであれば、その非難の仕方は誤である。渡邊さんは、保田氏の思想的な背景を説明して呉れたけれども、それはそれとして、保田氏の文章を讀む時には、保田氏の文章それ自體に當る必要がある。私は、保田氏の文章を、保田氏の「美學的」な價値觀に基いた價値判斷に基いて理解する事が出來る。一往、保田氏は、保田氏なりの價値觀に基いて、文章を書いてゐる。具體的に保田氏の文章に當つて、理解しようとするならば、保田氏の論理は、時々變だが、案外容易に解る。逆に、渡邊さんの文章の場合、客觀主義と主觀主義とが時と場合によつて適宜、混合され、建前と實踐とで齟齬を來してゐる場合がある爲、渡邊さんの論理そのものが判然とせず、渡邊さんの主張が曖昧に見える結果となつてゐる。主義主張は、一貫してゐれば批判可能であり、批判可能である事は良い事である。時と場合によつて主義主張なり方法論なりを遣ひ分けるのは、批判を囘避する事にほかならない。それは、保身には都合が良いけれども、批判と檢討を通してより良い結果を導く爲には大變都合が惡い。私は、批評の場における主義主張の「記號化」は、批評を實現する方便として、必要だと考へる。
平成十七年二月二十八日
あにめ鉄人28号の主題歌は、擬音だらけで非道いと思ふ。
平成十七年二月二十八日
井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』(岩波新書黄版119)讀了。
一往、かう云ふ本も讀んでゐるのですよ?
平成十七年二月二十八日
本日の買物追補。広瀬京一郎『サルトルとマルセル』。小倉貞秀『マックス・シェーラー』。何れも塙新書。古本。
平成十七年二月二十八日
本日の拾ひ物追補。Samuel Beckett "oh les beaux jours"。
先日の拾ひ物。Paul Valery "Variete II"。
平成十七年二月二十八日
今のおつさん連中は日本語の感覺が狂つてゐるから「セントレア」なんて名前を「良い」と思つてしまふのである。
關係あるかないか微妙だけれども、京王電鉄は好い加減、「迎光Express」なる列車名を何とかして下さい。「Express」要らね。

平成十七年二月二十七日
SEO對策、アクセシビリティ、メンテナンスコスト、ランニングコスト――それらにおける優越は、互換性の高いHTMLの實際的な效能に過ぎない。
平成十七年二月二十七日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20050225#p1
引續き檢討。
平成十七年二月二十七日
松原正「ジュリアス・シーザー」解説(福田恆存編『シェイクスピア・ハンドブック』所收)

さて,ブルータスとキャシアスたちはローマより落ちのび,兵を集め,アントニーたちと戦う事になる。そうなってもブルータスは公明正大に振舞い,天幕の中でキャシアスの醜聞を論い,「あの大シーザーが血を流したのも正義のためではなかったのか」などと言う。ここでもキャシアスはブルータスに屈し,「友は友の瑕瑾を許すべきではないか」と,ブルータスの友情に訴えるのであり,そういうキャシアスは頗る魅力的である。

二人は和解し,ついでブルータスはポーシャが死んだ事を告げる。この時のストイックなブルータスの淡々たる態度を,同じく妻の死を知った時のマクベスのそれと較べれば,『ジュリアス・シーザー』が偉大な悲劇ではありえぬ理由が明らかになる。すなわち,ブルータスに限らず,この劇の作中人物の大半は「公人」として描かれているが,悲劇はあくまで「私人」を見舞うものであり,それゆえブルータスはマクベスと異り,おのが苦悩や悲しみを歌う事が無い。独裁に抗して自由のために,ローマのために,自分たちはシーザーを暗殺したのだと,「公人」たるブルータスは思っている。それゆえ,その夜シーザーの亡霊を見ても,マクベスのように怯えはしない。これを要するに,「私人」の道徳的煩悶無しに悲劇は無く,「天下国家のため」との大義名分は人間の良心をいともた易く眠らせるという事である。戦場で合間見えた時,アントニーは言う,「きみはその悪しき手を振りかざしながら,ブルータス,口には善き言葉を吐く手合いだ。」

渡邊さんは、題材と價値とは無關係と仰つてゐる。けれども、描かれる人物が「公人」であるか「私人」であるかは、作品の價値に重大な意味を持つ。「他者性」を論ずるにしても、「公人」としての「他者」と、私人においての他者とでは意義が異る筈だ。特に前者に於て「唯物的」な見方があり得るとしても、後者に於てはあり得ない筈である。
マルティン・ブーバーの定義する「我−汝」の關係が「私人」の關係に當り、「我−それ」の關係が「公人」の關係に當る。福田恆存「一匹と九十九匹と」では、牧人と一匹の羊との關係は「私人」の關係に、同じく九十九匹の羊との關係は「公人」との關係に比する事が出來る。宗教・道徳・文學の問題が、他の科學の問題と區別されるのは、扱はれる「公人」「私人」の關係の差にあると思ふ。
この「公人」「私人」の區別は、人間においては普遍的に存在すると考へる。儒教で言ふ修身斉家治國平天下は、修身斉家が「私人」に關はる事であり、本質的に道徳に關る事である一方、治國平天下は「公人」に關る事であり、政治に關る事である。が、この異る次元に屬する事象を一括りにしてゐる時點で、儒教が政治と道徳とを峻別しないものである事は明かである。我々日本人は、儒教の影響を受けてゐるし、「祭」と「政」とが同じ「まつりごと」として認識してゐる。キリスト教が「カイザルのもの」と「Godのもの」とを峻別する文化を西歐に齎してゐるのとは異る。この點、日本人が「自らが持たないもの」である「道徳と政治の峻別」の觀念を西歐の文化に學ぶべき理由がある。
平成十七年二月二十七日
井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』(岩波新書黄版119)序

とまれ、このような東洋思想の遺産の重層的総体を担いながら、しかも明治以来圧倒的な力で流入してきた西洋思想の影響で多分に西洋化された心をもって世界を意識し、「欧文脈」化された思惟方法でものを考えながら、われわれはこの時、この場所に生きている、そういう実存で、われわれはある。しかもこのように、東洋と西洋という、力ール・ポッパーのいわゆる二大文化の「枠組み」の衝突の現場として存在するわれわれの実存には、尖鋭な危機感がただよっているのだ。この危機は衝突が対話に変っていかないかぎり、決して乗り越えられることはないだろう。こういう意味において、われわれは自分が意識的あるいは無意識的に担っている東洋的思想文化との実存的関わりの意義を、いまここで反省し検討しなおしてみる必要があるのではなかろうか。

實際問題として、道徳と政治とを峻別しない日本人は、道徳と政治とを峻別する西歐人の齎した文物・觀念の前で、自分達の持つてゐた文化が理念として甚だ脆弱であつた事を自覺せざるを得なかつた。その一方で、さう云ふ「脆弱性」を持つ日本の文化、東洋の文化に、現代の西歐が、過去の西歐文明への反省の下、接近しつつある事も事實である。が、さう云ふ西歐の接近にのみ期待して、我々が西歐の經驗した西歐文明の理解を缺いて、それでやつていけるのか、と云ふ問題がある。
右翼的・國粹的に、西歐が日本や東洋のレヴェルに追附いた、と「理解」するのは容易である。しかし、私はさう云ふ發想に同意出來ない。我々日本人が、西歐の連中と對峙するのに、結局のところ、西歐的な觀念や近代科學を武器とせざるを得ない事は、意識しておいて良い。
平成十七年二月二十七日
ウェブデザイナーのウェブデザインに關する考へ方と、女の化粧に對する考へ方とは、似てゐる。女が、自分では「御洒落だ」と思つてやつてゐる化粧を、他人は必ずしも良いとは思はないものだ。
昨日、日産提供の歴史ミステリー「道は何を運んだか」(フジテレビ)で、ハイヒールがもともと汚れたパリの道を歩くのに便利なやうに作られたものである事をやつてゐた。現代に於て、さう云ふハイヒールの合理的な機能は消滅してゐる。「背が高く見える」といつた效能は、合理的な機能とは言へない。
現代のハイヒールには、爪先が尖つてゐるものがある。しかし、尖つたハイヒールの爪先が持つ合理的な機能とは何か、と尋ねられた時、特に御洒落な女性は怒り出すであらう。
我等がウェブデザイナー諸氏が、ウェブデザインの合理性を問はれて、怒り出すのも、似たやうなものである。
平成十七年二月二十七日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20050227#p1
渡邊さんの考へる、構造主義や記號學の、日本人が日本人として理解するのに適した參考書や文獻は、どのやうなものでせうか。また、それらがどのやうにして日本人に日本人として學ぶ意義を持つのか、さう云つた事も御説明いただければ幸ひです。ただ「唯物的」のやうなスローガンを言はれても困る訣で。「意義を悟る」事が出來るまで漠然と「學ぶ」には、人生は短過ぎる。「解つてゐる」方には是非、啓蒙活動を御願ひしたいものです。
西歐のみならず、支那、朝鮮、東南アジア、中近東、アフリカ(以下略)にも「他者」として學び得るものはあるでせう。けれども、日本が今――或は、日本のみならず全世界が今――西歐の近代文明と云ふ極めて特殊な地域的なものに壓倒されてゐる現實があります。特に明治以來、西歐の近代文明を受容れる事が國是となつて來た日本に於て、特に西歐を「他者」の中でも特別の存在として意識し、對峙し、宥和を圖つて行く事は必要であると考へます。
T.S.エリオットは、或面で文學を「無時間的である」とする一方、他面に於て「時間的である」とし、また、さらに他の面に於いては「無時間的且つ時間的である」とします。慥かにそれはその通りでせう。エリオットは、『荒地』でダンテもシェークスピアもボードレールも共時的に扱つてゐます。一方で、例へばエリオットはダンの詩を高く評價し、形而上派の詩人の意義を意識して強調してゐます。
しかしながら、一般論として「AとB」と言はれる時、その一般論はそれ自體、意味を持ちません。なぜなら、「そのAとBのどちらを取るか」が現實には問題となるからです。そして、現在、私と渡邊さんとでは、その「どちらを取るか」で見解が分れてゐます。渡邊さんは、日本と云ふ前提を排除する事を述べてをられます。しかし、私は飽くまで「私は日本人である」と云ふ事を前提とします。
殊に日本において、無時間的な空間の中でそれぞれの作品を等価なものとして分析する抽象的な方法は、寧ろ一般的であると私は考へます。客觀的な方法は、實は比較的容易に導入可能な方法です。日本人は、西歐の科學文明を比較的容易に「自らの物」としました。「唯物的」な方法は、さう云ふ科學・技術と同樣の方法であり、比較的容易に使ひこなせる方法である、と私は考へます。ならば、學ぶべきプライオリティはそれほど高くはない。寧ろ、私は、自覺的に擇んだ或立場から文學作品のあるべき姿を主張し、自らの據る立場の理論的強化を圖りつゝ、他の立場と批判し合ふ論爭的な方法――それは日本には殆ど存在しないと言つて良い――を日本人は學ぶべきである、と考へます。エリオットも、さうした論爭的な歐米の「文壇」で批評家として活動した文學者であり、單純に詩人であつた訣ではありません。
平成十七年二月二十七日
あと、極めて重大な問題だと思ふのですが、「モダン」と「ポストモダン」と云ふ言ひ方、これが日本語となつてゐない事は、注目して良い事實だと思ひます。
平成十七年二月二十七日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20050227#p3
ブルータスがシーザーを暗殺したのは、道徳觀ではなく正義感に基いての事であり、渡邊さんは其處を勘違ひしてをられる。そもそも、私は題材としての政治ではなく、道徳と對立する政治の事を考へてゐるのであり、それはうちのサイトが出來た當初から一貫して私が言つて來た事である。渡邊さんが題材としての「政治」に拘つてをられるのに附合はなかつた私が惡かつたと言へるのかも知れないが、單に用語の違ひが彼我にあるに過ぎない。が、道徳と政治の混同と云ふ大問題を日本人である渡邊さんが抱へてゐる事は、渡邊さんがインターナショナリズムを唱へても意味がない事を或意味證明してゐる。私は飽くまで二人稱の汝に關はる事だけを文學・道徳・宗教と看做し、三人稱の彼・それに屬する事を政治と呼んでゐる。この定義について、渡邊さんは何ら反論してゐないに等しい。今の渡邊さんの「反論」は、表面的には、具體的な作品の記號に拘る構造主義の重大な缺陷を露呈してゐるやうに見えるが、實は渡邊さんは構造主義や記號論をそれほど嚴密に理解してゐないのである。渡邊さんも、用語の差異を認識出來ず、それは記號としての用語の個人的な差を意識しない惡き客觀主義に基くものだが異る定義で語を用ゐる場合の讀み替へは、渡邊さんの「記號論」的には何うだか知らないが、可能である筈であるし、さうした讀み替へに基いた正確な讀解に基く議論は、記號論や構造主義と言つた特殊な立場を越えて、學問的には一般に認められる方法であると思はれる。例のえろげの高橋氏との論爭の際に痛感したのだが、「唯物論」や新左翼的な思想を主張する人には、他人の用語を表面的に自己の用語の定義で解釋してしまふ人が矢鱈と多い。「新思想」の客觀主義は、絶對的な自己中心主義に屡々轉化する。それは所謂「價値相對主義」でも同じである。もちろん、それは私の印象に過ぎないが、さう云ふ印象を覆すやうな思想家が、現代に於て餘りゐないやうに思はれる。とにかく、客觀主義が、無意識の主觀主義に轉化する事は、屡々ある事である。私が「意識」の重要性を執拗に主張する所以である。私が「主觀主義」を主張してゐるとしたら、それは飽くまで、主觀的な態度の相對化を方法として用ゐる、結果としての客觀性の實現を主張したものに他ならない。

平成十七年二月二十六日
「私は時々犬になる」の山本夏彦氏を好きな人には、ジェイムズ・サーバー『サーバーのイヌ・いぬ・犬』(ハヤカワ文庫NF115)を御薦めしておく。多分品切れ。カヴァ缺でも古本屋で三百圓する場合がある。云々。
平成十七年二月二十六日
M. E. T. : HTMLを正しく書く利点

平成十七年二月二十五日
AIR。白鳥なぎさと野坂昭の逃避行。
平成十七年二月二十五日
それはべつとして、 - かなづかひについては結論はでない。
平成十七年二月二十五日
今、漢字の字體について煩い議論が生じてゐるのは、結局のところ、個人個人が自分で判斷しなければならなくなつたから。昔は、原稿に適當に書いておけば、印刷所の職人さんがきちんと活字を組んで呉れた。今では最う、印刷所に職人さんは(殆ど)ゐない。版下を作るのは編緝者の仕事の一部になつてゐる。もちろん、デザイナーと編緝者とが別である事もあるけれども、場合によつては同一人物が兼ねるし、どちらの場合でも、印刷所は貰つたPDFデータをそのまゝ使つて印刷するのだから、印刷所の職人の仕事がない、と云ふ點で話は變らない。
平成十七年二月二十五日
私見・偏見(2005年)の2005年2月21日邊から山本七平『日本人と中国人』が言及されてゐる。けれども當方未讀。取敢ず、朱舜水でぐぐつたら、松岡正剛の千夜千冊『朱舜水.』が出て來た。それだけ。
平成十七年二月二十五日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20050225#p1
野嵜の言つてゐるのは一般と言ふより普遍の方だと。慥かにその通りです。もちろん、普遍性を好むのは好みであつて普遍的とは言へない、と云ふ批判はあり得ます。けれども、一方で、では、カントが批判した西歐的な普遍性への志向を、日本人は一度でも持つた事があるのか、と云ふ問題があります。日本の傳統の中に、普遍性への志向が一度もなかつた、としたら――否、少くとも西歐的な意味での普遍性への志向は、日本には一度も存在しなかつたと言つて良いでせう。そこで單純に、カントが普遍性を疑つた、と云ふ事を「その通りだ」と言つて受容れてしまつたら、日本人は普遍性とは無縁の歴史しか持たない事になる。しかし、西歐には、近代科學にしてもキリスト教にしても、普遍の眞理を追求した過去がある。さう云ふ過去の歴史の有無は、彼我に現在、差異を生じてゐない、とは言切れない。日本人が西歐の連中と附合つて行くのならば、西歐の連中が一度は經驗した事を日本人も知つておく必要がある。ならば、何度となく逆轉を生じて來た西歐の價値觀の、現代のものだけを、それもたまたま日本には一貫して存在してゐた價値觀と類似してゐるものだけを、日本人が「同じだ」と言つて、それで安心してしまふのは、實は彼我の差意を認識しまいとする態度であり、寧ろ「他者性」を否定する事なのではないか。さう私は考へます。
そして、渡邊さんの仰る私が普遍的賛成を要求する芸術の理念が、他者性(の発見、との格闘、の理解)と云ふものであるのが、私には良く解らない。文章で表現されてゐない、キーワードであるので、他者と言ふ場合の主體は何か、が不明確になつてゐる。だから、「他者が何うである」と云ふのは、單なる事實なり觀念なりの問題に過ぎない。さう云ふ事實なり觀念なりに對して、誰が何うするのか、が問題だと思ふ。「いや、作者は讀者に、他者が存在する事を教へなければならないのだ」と、渡邊さんは説明してをられる。その點は同意するのであつて、しかし、問題は、その「教へる」方法だらう。マルティン・ブーバーが『我と汝』で、「他者性」について論じて、「我−汝」の關係と「我−それ」の關係とがある、と述べてゐる。或主體に對して、他者は二人稱として、或は三人稱として、存在する。茲で結論を述べると、三人稱としての他者との關係を扱ふのは、政治である。二人稱としての他者との關係を扱ふのは――ブーバーはGodを想定してゐるのだが、福田恆存が「一匹と九十九匹と」で同一視したのに倣ふ――道徳であり文學である。
私は日本人である。日本人は人類に屬する。西歐人も人類に屬する。しかし、だからと言つて單純に、日本人と西歐人との間に差異はない、とは言へない。もし彼我に差異がなかつたとしたら、日本の文物も西歐の文物も差異はあり得なかつた筈である。彼我の文物に強弱がなかったら、日本人は明治以來、別に西歐の文明を取入れようとしなくて良かつた筈である。だが、日本人は日本的な生活の様式を捨て、西歐的なそれを取入れてゐる。彼我には差異があつたのである。それも、強い弱いを言へる差異である。だからこそ、「他者性」を意識した日本人と西歐人との附合が必要となる。渡邊さん式に言ふと、西歐の近代を經て來てゐない日本の現代は、西歐の現代に比べると「古い」のである。だからこそ西歐の現代の流儀を取入れるべきだと渡邊さんは主張されてゐるのだけれども、私はそれだけでは不十分で、過去に西歐が經驗して來た事柄日本人は知つておく必要がある、と主張してゐる。
日本と西歐との間には違ひがある、と云ふのが野嵜の主張であり、この點で同意して頂かない事には話にならない。で、彼我に違ひがあり、日本人が他者としての西歐を完全には理解してゐないならば、日本人は西歐の連中の事を學ばなければならない。その時、彼我の違ひを意識しないまゝ西歐の中の問題だけを考へてゐるスタインと、彼我の違ひを意識して日本の問題を考へてゐる保田與重郎と、どちらから日本人は彼我の違ひについて有益な知識・認識を得る事が出來るか。別にスタインや保田氏のやうな固有名詞を使はなくても良いのであつて、「スタイン」は今、單に西歐人の爲に文章を書いてゐる西歐人の代表であり、「保田與重郎」は日本人の爲に文章を書いてゐる日本人の代表として使はれてゐるだけである。單純な「日本人が書いた文章ならば日本人も「切實」に「實感」出來るだらう(この場合の「切實」「實感」は、センチメンタルな意味)」と云ふ話を、私は今、してゐません。ただ、意識的な情報の再構築を通した「まざまざと見た」と云ふ感覺は、結果として「あり得る」と言へます。さう云ふ言ひ方をするならば、話は繋がると言へば繋がります。
日本人が西歐人と一般に具體的な附合があるか否か、は、或意味、問題になりません。全ての日本人が、西歐の文物を利用し、西歐の思考法に基いた西歐の科學を利用してゐる以上、西歐との關係は、或意味、「切實」であり、考察に價します。その考察の方法が問題です。日本人が西歐の文化・文明を知る方法として、或種の矛盾を含んでゐる事を承知で申しますが、私は何うしても西歐的な方法は必要であると思ひます。否、日本でも昔はやつてゐた方法ですが、それは取入れる對象の文化を、歴史的經緯を含めて組織的・體系的に取入れる、と云ふものです。それが現代にはない。象徴的に言へば、日本人は、支那の漢語は漢字の造語の原理を含めてそつくりそのまゝ取入れたが、歐米の言葉は單に外來語として取入れてゐます。しかし、外來語式の取入れ方では、文化を取入れた、と云ふ事にはならないだらう、異文化の他者を理解した事にはならないだらう。
平成十七年二月二十五日
「余談について」についてですが、「古典」とはマルクス・レーニンですか? とか云ふ皮肉な質問をしたくなるのですけれども。岩波用語ではさうですから。社民党邊にも頑固な人がゐますし。あー、私は日本の古典はさつぱりです。「妙貞問答」邊なんか難しくて讀めないので、東洋文庫の飜譯でやつつけようかと。
平成十七年二月二十五日
「SFというジャンルが崩壊した」の件ですが。福島正実は、海外の名作・傑作と呼ばれる作品を日本に紹介する事を早川書房のハヤカワSFシリーズやSFマガジンの使命と考へてやつてゐました。さう云ふ觀念は、東京創元社がスペースオペラブームを卷起して相對化した一方、森優がハヤカワSF文庫を出して自社でも一度、崩潰してゐるのですが、何だかんだ言つて1980年代までは續いてゐたと言へます。サンリオSF文庫も、駄作はありましたが、とにかく海外の「進んだSF」の紹介をやつてゐました。けれども、さう云ふ時代は1987年に決定的に終つたと言へます。端的に言へば「日本のSFが歐米に追附いた」と云ふ事になりますが、内容面の話ではなく、單に紹介すべき作品が最う無くなつた、と云ふだけの話です。その時點で、日本のSFも海外のSFも「同時代」のものとなつたと言へますが、大森望氏が指摘したやうに、海外でも優れた作品がばんばん出版されてゐる訣ではありません。さうなると、玉も石も飜譯される事になるのですが、さう云ふ玉石混淆の飜譯までもきちんと追ひ掛けるとなると、讀者は限定されるのです。もちろん、以上の話は海外SFの飜譯の話ではあるのですが、日本のSF界が歐米を中心に廻つてゐた事は否定出來ません。それが、1988年以降、中心が中心でなくなつて、それで日本ではSFがジャンルとして成立たなくなつた。野嵜はさう云ふ風に理解してゐます。
で、判る人には判る話。岬兄悟氏の事。『風にブギ』とか「ラヴ・ペア・シリーズ」とかで、岬氏は一時期、「同時代」の最先端を走つてゐました。その岬氏が『SFバカ本』なんてものを出すやうになつて、世も末だなと。あれが、一面でノスタルジックな「昔のSF」の氛圍氣を纏つてゐる事に、私は「絶望」したものです。SFが、「新しい」ものであつた時代は、1980年代で終つてゐます。以後のSFは、「同時代」を通り越して「古い」ものとなつた――それがSFと云ふジャンルに止めを刺した、と私は考へてゐます。大森さんが今に至つても禮讚してやまない鈴木いずみ、今では「古い」作家に過ぎません。
「SFと云ふパラダイム」は「過去のものになつた」のです。そして、日本の「現代文學」も、直ぐに過去のものになる。「パラダイム」としての現代の思想に私がさつぱり興味を懷けないのは、「古い」ものを「弱い」ものと看做す思想が直ぐに「古くなる」からです。
平成十七年二月二十五日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20050225#p5
先日あるところで、古来の伝統や風俗習慣と思っていたものが意外と近代に起源を持つことがあり、それが「伝統」の力を持ち得たのは明治新政府による国家的な政策が背景にあったからで、近年「伝統」の力が弱まったように見えるのは敗戦によってその力を失ったからではないか、という主旨の文章を読んだ(Webではない)。
國語に關しては正にさうで、歴史的假名遣なんぞは「明治政府のデッチ上げ」呼ばはりされてゐるくらいですよw で、敗戰の混亂に乘じて表音主義者が国語審議会を乘取り、宿願の「國語の傳統」の破壞をやらかしたと。
平成十七年二月二十五日
小中学生の読み書き能力、なじみ薄い漢字に弱点 (読売新聞) - goo ニュース
asahi.com : 教育・入試 : 教育ニュース:「楽書き」「電園地帯」……子どもの苦手な漢字くっきり
野村雅昭氏が『漢字の未来』(筑摩書房)で、1948年8月に行はれた「読み書き能力」の調査について述べてゐる。從來、この調査の結果を、國字改革の批判派は「日本人の日本語の讀書きする能力が劣つてゐない事」の證據としてゐたのに對し、野村氏は、批判派のひとびとは、漢字こそが日本語の根幹をなすものとかんがえているのだから、漢字のヨミカキができているかということを問題にしなければならないと指摘し、批判してゐる。野村氏は、この1948年の調査で、漢字の書取りで正答率が高い字でも、それが八十パーセントに留まる事を問題視して、この結果を冷静にながめるならば、当時の一般の日本人のヨミカキ能力が、すくなくとも漢字を自由にかきこなすという点からは、不十分なものであったことは否定できない。と述べ、「漢字が難しかつた」事の證據としてゐる。
で、さう云ふ野村氏の主張は、當然、「当用漢字」による漢字制限と字體改革を評價するものになる訣だが――しかし、今囘の調査で判る通り、「漢字を易しくした」にもかかはらず、正答率は大して變つてゐない、と言へる。或は、「漢字を少くし、易しくしたら、讀書きの能力は向上する」とする國字改革が行はれて半世紀以上が經つたのだから、日本人の讀書き能力は飛躍的に向上して、「当用漢字」「常用漢字」の範圍内の漢字ならば完璧に讀書き出來てゐなければならない。ところが現状、さうはなつてゐない。
字體改革はナンセンスだつたのである。そして、野村氏の主張は、根本的に間違つてゐる。まあ、字を弄つたところで、字の形と讀書きの能力とは別次元の話だからねえ。「讀書き能力を向上させる爲には漢字を削減し、易しくすると良い」と云ふ國字改革推進派の主張が間違つてゐたのである。そして、本質的に讀書き能力があつたかなかつたかは、論點でないのだから、其處に拘つて野村氏が國字改革批判派を批判しても、的外れである。『漢字の未来』は、この種の根本的な野村氏の勘違ひを滿載してゐて、國語政策に野村氏が關はる資格がない事を明かにして呉れてゐるのだが、誰も買ひませんかねえ。さうでせうねえ。面白くない本ですからねえ。云々。
平成十七年二月二十五日
窓の杜 - 【NEWS】IDN形式のURLは2バイト文字を使わずに表示するようになった「Firefox」v1.0.1
平成十七年二月二十五日
眠い。
平成十七年二月二十五日
株屋はやくざ。

平成十七年二月二十四日
獨逸社會民主黨のベルンシュタインが、英國社會主義とマルキシズムとは全くの別物であると述べたさうである。英國の勞働階級の中に瀰漫してゐるところの基督教の宗教といふものが、英國の無産階級のイデオロギーにおける重要な特質をなしてゐるのであつて、無神論といふものの上に立つてゐるところのマルキシズムと熱心なる基督教の上に立つてゐるところの英國の無産階級との間には重要なる違ひがあると、ベルンシュタインが述べてゐるのである。また、トロツキーが『英國は何處へ行くか』で英國の社會主義をマルキシズムと誤解してはならぬ。全然違つた體系の上に立つてゐるところの社會主義である。と述べてゐるさうである。この違つた社會主義は英國國民の中に奥底迄も普及してゐるところの基督教といふ宗教と結び附いた、一種特有なる社會主義である、これをわれわれは區別しなければならぬ。河合榮治郎「英國勞働黨のイデオロギー」第2章
河合氏は、イギリスの社會主義の歴史について述べて、空想的社會主義、リカルド派社會主義、キリスト教社會主義の三つの社會主義の形態があつたけれども、いづれも社會の理想を掲げてその目標の爲に社會主義を實現しようとする目的的な社會主義であつた點に特徴がある、としてゐる。一方で、マルクシズムでは、實現すべき理想の何物も持たず、全て資本主義の分析と解剖が重要な問題であり、その中から必然的に社會主義の實現する事を主張してゐる、と説明してゐる。河合榮治郎「英國勞働黨のイデオロギー」第3章
平成十七年二月二十四日
子安きたーねぎま。なんか妙に安心して觀られる。日常生活の描寫が餘りに駄目過ぎたので、こんなへろへろのアクション展開でもまともに觀られるやうな氣がするらしい。
平成十七年二月二十四日
Glmai の日々: ぼくが「舊假名」を使ふ理由1
平成十七年二月二十四日
昨日、野村雅昭『漢字の未来』(筑摩書房)と国立国語研究所『ことばの研究』を買つて來た。野村氏のは、前に圖書館で借りてきて非道いと思つたトンデモ本だけれども、と学会方面の人は誰もこのつつこみどころ滿載の本をトンデモ本だとは思はないのだらうなー。表音主義の宣傳と、正字正かな派の人による表音主義批判への反論が内容なのだけれども、アレクセイがつつこみどころ滿載にもかかはらずとにかくだらだらと長い文章を書いてつつこむ氣を失せさせるやうに、野村氏も長々と書いて眞面目に批判する氣力を喪失させてゐる。けれども、正字正かなの人が皆でこれを買ふなり何なりして調達して來て、きちんと理窟で反論するのは、必要な事だと思ふ。野村氏、正字正かなを何とかして叩かうと必死になつて色々とネタを集めてきてゐるので、これにきちんと反論しておけば、正字正かな派は反正字正かな派の主張の多くを論理的に潰す事が出來る。『ことばの研究』は、1959年に出た本だけれども、林大「漢字の字体と正誤」、有賀憲三「日・中両国の略字について」、村尾力「中国文字改革の諸問題」邊は、批判的な意味で參考になる筈。特に林氏のは、のちのJISの文字改革等に關聯して、字體に關して關係者がどのやうな認識を持つてゐたかを知る上で、それなりに參考になると思はれる。
平成十七年二月二十四日
昔、雜誌「思想の科學」で「天皇制」を特集した時、もちろん左翼の連中が集まつて作つてゐた雜誌だから「天皇制」を批判する論文ばかりが集まる訣だけれども、右翼にも一往書かせようと云ふ事で、葦津珍彦に論文執筆が依頼された。誰もが右翼だからと云ふ事で心情的な文章が寄せられるだらうと豫想してゐたところに、葦津氏が書いて來た論文が、理路整然、論理的に筋の通つたもので、極めて説得的なものであつた爲に、皆が驚いた、その結果、まともな論爭が起つた、と云ふエピソードがある。
茲で指摘しておきたいのは、葦津氏の理性的・論理的な論文が、戰略的に書かれたものであつた、と云ふ事である。葦津氏は、現代と云ふ時代に、「神がかり的」な文章を書いても通用しない事を知つてゐて、自覺的に説得的な論文を書いた。だから、神道ジャーナリストであつた葦津氏の文章が論理的であるからと言つて、神道が本質的に論理主義的である、と云ふ證據にはならない。寧ろ、氏の論文は、現代と云ふ時代の傾向を反映したものであると言ふ事が出來る。
スピノザは、ユダヤ人であり、ユダヤ教の知識を持つてゐた人である。そのスピノザが書いたエチカは、極めて論理的である。だが、これを以つて、スピノザがユダヤ的な傾向を持つてゐたがゆゑに合理主義的であつたのである、とは言ふ事が出來ない。スピノザは、論爭をしてゐたがゆゑに論爭的な文章を書いた。スピノザに合理主義を強ひた論敵は、キリスト教であつた。「合理主義と敵對するキリスト教」と云ふ見方は單純な見方である。合理主義の出現を強ひたキリスト教社會の存在、と云ふ事を我々は考へる必要がある。
論爭の存在と云ふものが、主張の合理性を強める傾向がある。もちろん、單なる中傷合戰に陷る論爭もあるが、一方の力が壓倒的な場合、弱い側の誹謗や權謀術數の使用は戰術として有效に働かない。その時、立場として弱い側は、理論化の傾向を強める。ローマ帝國で國教とされるまでに弱者であつたキリスト教は、それゆゑに神學を發達させてゐる。國教化されてゐても、ローマ帝國とともに教會も東西に分裂してゐた。アジア・アフリカの教會には異端の活動があつた。政治權力を持つ皇帝と別に宗教的權威として法王を戴いてゐる事もあつて、西ローマのカトリック教會は、必ずしも強い權力を持つてゐたとは言へない。さうした「弱者」としての側面を持つがゆゑに、キリスト教は神學の高度な理論化を達成した、と言へる。その一方で、「強者」としての側面を持ち始めた中世以降、對抗勢力の理論化が進んだ、と云ふ見方は可能である。
アラブ世界を統一したイスラム教は、政治的強者の立場であつたがゆゑに、神學において理論化の弱さを見せ、反神學の立場からの批判的な合理主義の出現を促し得なかつた――かう云ふ見方をする事は可能である。
平成十七年二月二十四日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20050224#p2
『メダカの方言』なんて本があつて、國語學――今では日本語學と言ふのですか――の研究だけれども、どこそこでメダカは何とかと言ふ、と、さう云ふ記録が載つてゐるだけならば、それは報告書に過ぎない。言語學でレポートを書いてゐる大學生か、餘程のメダカ好きでない限り、さう云ふ報告書としての『メダカの方言』なる本は參照しない。一方、柳田國男に『蝸牛考』と云ふ本があつて、「かたつむり」だの「まいまい」だのと言ふ方言を集めてゐる。この本は――と言ふより、柳田の研究そのものが、研究として問題を抱へてゐる事は指摘されてゐる。けれども、それでも、單純に『蝸牛考』は研究として駄目、と云ふ事にならないし、今でも讀む價値がある。柳田國男の思想には、渡邊さんの言ふ強弱とは違つた意味で「弱さ」があつて、それは柳田が傳統について非常に弱腰の態度しか取つてゐない事なのだが、柳田には傳統に自信がない。とは言へ、傳統的な日本と云ふものを知る上で、柳田の著作は讀む價値がある。單純な報告書以上の意義は持つてゐる。翻つて今、大量に出版されてゐる本の中で、「報告書」以上の價値を持つてゐるものがどれだけあるだらうか。單純に趣味のジャンルを指定して、これだけの人が讀めば良い、と極附けられた消費すべき「報告書」は隨分あるやうに思ふ。「新思潮」(これも彼我で用法に差があるやうな氣がする)の方法が、かうした傾向に拍車をかけたやうに思ふのだけれども如何。SFと云ふジャンルが崩潰するのを私は目の當りにした。單純に「SFが古びた」「SFが解體した」とは言へない。「バカSF」が、岬兄悟氏らに據つて提唱されてそれなりに支持された一方、一般の讀者を遠ざけた、と私は思つてゐる。「まだ見ぬ読者」と「一般」とをイコールで結ぶのは、一般と云ふ語の定義から考へて無理がある。一般を私はgeneralの意味で考へる。渡邊さんの「読者」は、「一般」よりも寧ろ「特殊」と云ふ言ひ方で説明した方が解り易いと思ふ。作家は特殊な事を書いて良いし、その特殊な事に興味がある讀者が讀む。だが、この時、作家の書く事について、一般論は成立し得なくなる。「新しい」「古い」は、特殊な個人の感想となる。その個人的な感想を一般論として主張した時、好みの押附けとして排除されるべき理由となる。一往、一般的に「かくあるべし」と云ふ主張をしたい時には、特殊な作家・特殊な讀者の次元を超えた話をする必要があると思ふ。
「分析→記述→批判」と云ふ形式も、或意味、(野嵜の用語としての。「新」しい、と云ふ事に重點を置いた言ひ方になる)「新思潮」的であるやうに思はれるが、それは兔も角、用語で彼我に喰違ひを生じてゐるのは問題だと思ふ。用語は御互ひ、話をする上で、嚴密に使つて置いた方が良いと思ふ。その上で、ニュアンスを追加するのであれば、御互ひ、説明を入れておいた方が解り易いかと。で、「分解して組立てる分析」の「組立」なのだが、さて、組立てて何うするのか、組立てられたものが讀者を裨益するものとなつてゐるのか、其處に問題がある、と私は考へてゐる。「新思潮」にしても「メダカの方言」にしても、組立は徒組立てる爲になされてゐるやうな氣がする。「別にそれでも良いぢやないか、興味を持つ讀者だけ讀めば良い」と、渡邊さんは考へてゐるのだと私は讀んだ。けれども、その時に、一般論として「唯物論的な分析が必要である」とは言へなくなる。一般論として論ずる場合、興味のある讀者だけでなく、或程度は一般的な讀者が、議論の對象として措定されるべきだ。
それから、今、批評と創作とが、かなりカオスな状態で交じり合つた話が展開してゐるけれども、茲もきちんと分離して議論した方が、互ひに判り易いし、稔りもあるやうな氣がする。結局のところ、一般論的な「べき」論を展開するならば、或文章が一般的な讀者にとつてどれだけの意義があるか、が問題になる、と云ふ事を私は言つてゐるので、本質的に批評も創作も一緒くたで構はないと言へば構はないと言へるのだが、批評に於いては「物の見方」の側面が強調されるべきだし、創作に於いては「表現の方法」の側面が強調されるべきで、さう云ふ論點の違ひを意識しておく事は、議論が混亂するのを避ける爲に必要だと思ふ。現代は批評の時代で、創作もまた批評的な物の見方を必要とするのだけれども、それは表現の方法とは區別して論じられなければならない。
シェイクスピアの御芝居で、「ジュリアス・シーザー」は政治劇であり、「マクベス」は悲劇である。作品の價値としては「マクベス」の方が上になる。中野重治の文章で、日本共産党批判は、大著だが、今となつては全く價値を持たない。一方、『歌のわかれ』『むらぎも』は、今でもかなりの部分が讀む價値を持つ。三島由紀夫の「憂國」「英靈の聲」は駄作である。一方、「橋づくし」はエンタテインメントとして今でも讀める。一時期以降のピカソの畫は、見るに堪へない。渡邊さんは、政治的な状況から創作のモチベーションを引き出してくる作家が、芸術的に優れた作品を残すことだってあるだろうと思う。と書いてをられて、數人の作家の名を擧げてゐる。茲で、渡邊さんの考へる「芸術的に優れた作品」とはどのやうなものか、それがどの程度の一般性を持つのか、に私は興味がある。
常に「正しい」事だけをしてゐても詰らない、と云ふ辯解は、それ自體としては同意。ただ、この辯解は、全體としての主張に轉化した時、否定すべきものとなります。作品が、(言ひ方が妙だが)「一般的な日本人のためだけに書かれて」ゐないとしても、「一般的な日本人にも讀める」事は必要だし、さう云ふ「一般性」の事を私は考へてゐます。保田の文章は、日本の文明に關する言及を常に含むものである訣ですが、日本の文明に屬してゐる日本人にとつて日本の文明に關する言及は、何處かの國の人に比べて、より切實な問題として受止める事が可能である――さう云ふ意味での「解り易さ」は、日本人と云ふレヴェルにおける「一般性」と言つても良いのですが、私は排除しません。
で、「經濟的な見方」と「文明論的な見方」とを、渡邊さんは「往つたり來たりするのが良い」と仰る。慥かにそれは理想なのだけれども、何うも「文明論的な見方」が日本人に根附いてゐると思へないのが氣になる。渡邊さん的な「実感」でなく「分析」として(それでは野嵜の考へでは不十分なのだが)文明の問題を扱つてゐる人が、私はそれほど多くないと思つてゐるのだけれども。それに、渡邊さんの考へでは、「經濟の人」もまた「文明の人」と同樣に、非難すべき對象となる。そこでなぜ渡邊さんが「經濟の人」的に「唯物的」と云ふ用語を使つて主張したか。そこが疑問。渡邊さんがこの邊、「実感」だけで主張してゐたやうな印象を、私は持つてゐる。
パロディや説明拔きの内輪のネタは、シェイクスピアにもあつて、研究對象となるのですが、さう云ふ研究だけで、「なぜシェイクスピアの戲曲は優れた作品となつてゐるか」の議論は出來ません。さう云ふ議論を避ける傾向が、「新思潮」以前にもありましたが、以降にはさらに強まつてゐるやうに思はれます。と言ふより、現在は、「好み」で話が方附けられる事が餘りに多い。
平成十七年二月二十四日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20050224#p3
最初に柳田國男の傳統觀に觸れておいたのが、伏線で、茲で效いてきます。柳田氏も「傳統主義者」である筈で、野嵜も「傳統主義者」である筈ですが、私の「傳統主義」は柳田氏の「傳統主義」と異る、區別して貰はなければ困る、と思つてゐます。私は、日本の傳統である美意識を信用してゐません。一度、西歐的な近代の觀念を經由した傳統なので――寧ろ正統主義者と呼んでいただいた方が良いのかも知れませんが――西歐的な近代の觀念に基いて、傳統的なものの論理的・合理的な再生に興味がある、だからこそ、近代的な國語の整備・假名遣ひに興味があるし、合理的に整備された國語の表記である歴史的假名遣を支持する訣です。傳統的な美意識は、柳田國男の傳統主義にはありますが、西歐の合理主義の前には木つ端みじんとなります。その爲に、柳田氏は自信を無くして、おづおづとしか『先祖の話』その他の日本の傳統の本を書けませんでした。それでは困る。
そもそも、あにめに關しては、審美眼に御登場頂くまでもなく、暇潰しとして使へるか使へないか程度にしか私は考へてゐません。「あにめは藝術の名に價しない」――と、下の方のねこまたぎの文章の中に書きました。
もつとも、岸田國士の「日本人畸形説」に據れば、日本のTVアニメの絵柄はどう考えても醜悪であり、と云ふのは或意味、日本的な傳統の延長上にあると解釋する事は可能です。

平成十七年二月二十三日
メーカの論理と云ふものがある。けれども、それだけで「賣れる」かと言ふとさにあらず。消費者には消費者の言ひ分がある。メーカにとつてメリットがあつても、消費者にとつてメリットがあるものでなければ、賣れない。そこを多くの人が忘れてゐる。
平成十七年二月二十三日
本は須らく讀者を裨益するところがあるべきである。と云ふのは、要は、作者が「書きたいから書く」と云ふだけの「論理」で書いて、「何で讀まれないんだよ」と怒つても仕方がない、と云ふ事。
平成十七年二月二十三日
と、輕く前置きをしておいて。
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20050222#p1
「文學」の地位の低下がある、と云ふのは同意だけれども、それが所謂「新思潮」のせゐである、と私は考へます。そして、所謂と言ふのだけれども、「新思潮」――所謂、とやつぱり言ふのだけれども、「構造主義」「記号論」がさうした状況にもかかはらず、相變らず文學理論として幅を利かせ過ぎてゐる、と私は考へます。大學の比較的若手の教授・助教授邊では、今、その手の文學理論が支配的であると思はれます。詰り、「新思潮」で「育つた」世代が今、教へる側にゐると。で、その前はと言ふと、古いマルクス主義の世代となる。間に「小林秀雄的」な教授はゐません。一貫して、文學部では、マルクス主義的なり「新思潮」的なりの、とにかく「左翼的」で「現代的」な方法論を學んだ學生が生産されて續けてゐる。文學の領域では今、誰もが「好きな事」が行はれてゐると渡邊さんはおつしやるのだけれども――そもそもその「好きな事が出來る」と云ふ風潮自體が、やはり一つの「風潮」と看做されるべきで、それは傳統主義・歴史主義に全體として對立する。個別の「好きな事」に傾向があるとしても、「好きな事」である時點で一つの傾向を共通して持つ。それが問題であると考へるのです。それらは全て「分析的」であり、「實感」に關しては殆ど興味が持たれてゐない。もちろん、センチメンタル・感性的である人はゐます。しかし、「感性的」である事と、私の言ふ「實感」とには根本的な違ひがあります。センチメンタル・感性的の場合、叙情性は特定の氛圍氣を既に持つた事物に依存します。私の考へる――これは、福田恆存の考へに沿つたものですが、事物について、人間の意識の積極的な關與があります。
「被差別部落出身」と云ふマイノリティに屬する中上健次氏が、「在日」と云ふマイノリティに興味を持つ事は自由であり、ピカソが「ニグロの時代」の作品を殘さうが勝手です。しかし、さう云ふ作家の受ける影響、作家の受ける刺戟は、讀者・鑑賞者にとつて、どのやうな意義を持つのでせうか。作家が何かを考へる――考へる事は自由ですし、何を考へても自由です。が、その考へた事が讀者にとつて何になるのか。その邊を忘れた文學者は少くないと思ひます。
マイノリティの問題は、言ふまでもなく政治問題です。或は、當事者の問題です。當事者である作者にとつて當事者として問題である事は、讀者の一人である私にとつて他人事である事も大いにあり得ます。政治問題なり、當事者の問題なりは、さうした問題にコミットしてゐない人間にとつて、切實な問題ではありません。政治の問題は、文學の問題とは次元の異る問題だと言へます。文學の問題とはなり得ないし、なるべき必然性が存在しないと言へます。さらに言ふならば、文學の中に政治が持込まれれば、その時文學の獨自性は失はれ、文學は政治の道具に成下がります。政治的な文學の價値は、絶對的に低い、と言へます。
ステレオタイプ的な思ひ込みの打破は、文學の一つの使命と言へるでせう。けれども、それが創作の動機に過ぎず、説明的に讀者に披瀝されるだけである場合、讀者にとつて「作者の思ひ込みを打破した刺戟」の價値とは何でせうか。
現代の創作者が、創作者の論理に據つて創作活動を行つてゐる。それで、鑑賞者の立場は何うなるのでせうか。モーツァルトにしても、シェイクスピアにしても、自分の作品を藝術と思つて創作活動を行つてゐた訣ではありません。にもかかはらず、彼等の作品は藝術として高く評價されてゐる。
スタインの文章を「判る人には判る」と云ふ事で引用された件。慥かに、「ブログ」と云ふ特殊な状況においては「あり」であるとは言へるでせう。しかしながら、我々が考へなければならない事は、「判る人」にしか「判らない」と云ふのが、一般論として「あり」であるのか何うか、と云ふ事です。實際のところ、「判る人には判る」と言ふのであれば、保田與重郎の「デタラメ」な文章であつてもさうなのです。渡邊さんと私の間には「樂しめる」と云ふ點で保田氏の文章について同意がありますが、どちらかと言ふと、スタインよりも保田氏の文章の方が、日本人にとつては「判り易い」面があります。その種のコンテクストを、渡邊さんは積極的に否定してをられます。しかし、依然として、「判る」ものは「判る」。が、さう云ふ「判る」を一般的に否定するならば、創作者が豫め文章に一般性を持たせておく必要がある。この時、「創作者の論理」は排除される必然性を持つ。
正確には「川端の『雪國』において登場する「トンネルの向こう」や「鏡」といった記号が意味しているのは《死》のイメージである」。この種の分析は、フロイド的な精神分析であり、夢卦に比べれば歴然と合理的・唯物的と言へるでせう。しかし、それは、フロイドの「論證」の主觀性・主情性を指摘するまでもなく、やはり主觀的な解釋であると言へます。そもそも、フロイドの精神分析は、精神病の治療の方便であり、精神病患者の精神を合理化して安心せしめ、治癒させるのが目的のものです。必ずしも、文學の方法として一般的に採用されるべき必然性はありません。或は、方法として可能であるとしても、絶對に必要である事は説明されてゐません。それに、精神分析が明かにするものは、本能的な無意識の領域に屬するものです。意識的に行はれる創作を、無意識の側面から分析する事は、創作の意識的な側面を無視する事に繋がり兼ねませんし、少くとも明かにする事は出來ません。私は、創作の無意識的な側面には興味がありません。私見ですが、かう云ふ無意識の領域は、日本人好みのものです。全てを意識化する方向で動いて來た西歐の近代が、反省的に無意識に興味を示してゐる現状、無意識的なものを好む日本人がそれに飛びつくのも無理はないと私は考へます。が、その爲に日本人が、無意識の領域に閉籠り、西歐が經驗して來た意識的の領域を知らないで濟ましてしまふ事は、大變な損失であると考へます。否、實は、無意識の世界に關心を懷く事が、西歐人にとつては意識的な行動であつても、日本人にとつては無意識の行動である、と云ふ違ひがある。かうなると、彼我の行動が同じに見えても、單純に兩者を「同じ」と極附けてしまふ事は出來ない。唯物的な經濟の形式から彼我の差異を否定しても、その經濟を成立させてゐる歴史的な文明の原理において重大な差異が存在してゐる事はあり得るし、私は「ある」と考へます。
個々の作品が、他の作品に開かれてゐるべきである――私にはこの種の「開く」「閉ぢる」のやうな用語が曖昧であると思はれるのだけれども。何うしても、西歐の連中がやつたやうに、日本人もきちんと「意識的に創作する」態度を學んでおく必要があると思ふ。シェイクスピアですら、御芝居の續篇を書いて失敗してゐる。藝術的に優れてゐるとは、やはり作品としてこれ以上無いと言へる程に緊密な状態で完結してゐる事を言ふ。「開かれてゐる」としたら、それは破綻であり、破綻があれば、藝術は現實と擇ぶ所がなくなる。ギリシャの演劇からT.S.エリオットは影響を受けてゐます。が、『寺院の殺人』は、それ自體、完結してゐます。けれども、さう云ふエリオットの演劇が福田恆存に影響を與へてゐる。或作品が他の作品に與へる影響と言ふものと、作品の完結性とは、それこそ區別して考へる必要があります。
分析は、慥かに結構なものです。けれども、物事を分解するだけが藝術の能ではないでせう。話は逆で、個別の要素を、間に存在する關係を意識的に顯在化し、首尾を整へて説明する――そこにこそ藝術的精神があると言へるでせう。小説なり戲曲なり批評なりを分析した――その分析で判つた事から、作品の何んな意義が解るのか。その「解る」と云ふ價値判斷が重要であり、單に事實が判明しても、そこでストップしたら意味がない。言換へると、作品の分析を通して、作品と讀者との關係がどのやうに變化するのか、を考へない分析は、ナンセンスです。
この邊の分析的な現代の手法に、私は不滿があります。「實感」(渡邊さんの用語として)と「分析」とが單に別々にあつて、調和してゐない事例が餘りに多い。分析をありのまゝに受容れて、これが現實だ、と言つて濟ましてしまふ。「實感」(渡邊さんの用語として)との對立なり葛藤なりは屡々缺如してゐる。
さて、「分析」についてですけれども、我々は文學作品について、純粋に客觀的な「分析」は可能でせうか。既に述べた通り、フロイド的な精神分析は主觀的です。けれども、どうも(渡邊さんの用語として)「實感」が先行した「分析」が行はれる事例は多々あるのではないか。
平成十七年二月二十三日
「實感」と云ふ事について。作品の完結性を前提として、冒頭に張られた伏線が、物語の結末に於て強烈に效いて來る、と云ふ事が起こり得ます。主人公が運命を出し拔いたと思つた瞬間にその運命にしつぺ返しを喰らふ――この時、主人公は最大の自由の感覺を味はふであらうと福田氏は述べてゐるのですが、この感覺を私は「實感」と呼んでゐます。或は、「まざまざと見た」と云ふ感覺ですが、これは繰返しと云ふ物語的な圓環構造によつて呼び覺まされる感覺です。
以下は、渡邊さんとの討論と無關係のコメントですが、さう云ふ圓環構造に據る完結した物語の構成を、福田さんは意外にも創作に於て實踐してゐません。「マクベス」に直接的な影響を受けた「明智光秀」はその實踐の例ですが、この「明智光秀」ほどのカタルシスを觀客・讀者をして感ぜしめる御芝居や小説は、福田さんの作品には無いやうに思はれます。ですから、評價が決して高くない福田さんの唯一の長篇小説『或る女』を、さう云ふ實踐の一例として、私は興味深く讀みました。

平成十七年二月二十二日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20050221#p2
今晩は。毎度どうもです。
眠いので今夜は寢ます。また明日と云ふ事で。
一點だけ。やはり中村真一郎の言つてゐる事なのだけれども、西歐では新しい方法が現はれても、それで風潮ががらりと變るのでなく、以前の立場に留まつて活動を續ける人々が殘るのであると。さうした活動の積重ねがあつて、本家西歐の思想・文藝には厚みがあるのであると。
もう一點だけ。人が文章を讀んで受ける「刺戟」と云ふ事が、私には良く解らない。在日の小説を讀んで日本人が刺戟を受ける、と言ふ時、その刺戟とはどのやうなものなのか。渡邊さんは、その種の「刺戟」と云ふ事を重視してをられるのだけれども、よろしければ御説明頂ければと。
SFすらも、讀んで「すごいなあ」と思ふ事はない、と判つてしまつた時點で、私は文章に「刺戟」なり何なりを求めないやうになつてしまつたので。
初めて見る事なり刺戟的な事なりの「刺戟」であるとしたら、それは飽きるものだと。藝術と云ふものが可能であるならば、飽き飽きしてゐるやうな事實であつても――例へば毎日通る道端の櫻の木、それを「まざまざと見た」と感ぜしめるやうな效果を齎すものがそれだと思ふ。この世に珍奇なもの、見知らぬものはないのであり――いや、あつたとしても、その時、我々が驚くとしたら、驚かしたのは見知らぬものであり珍奇なものと云ふ材料に過ぎない。藝術が材料にのみ依存するとは思はない。
平成十七年二月二十二日
アルティメットガール始まつてしまつたので寢られなかつたよ。UG終つたよ。内容は各地で既報の通り。それ以上でも以下でもない。寢る。今度こそ寢る。
平成十七年二月二十二日
歴史學が、未經驗のものの新發見でなく、經驗濟みの事の再認識であり解釋である事。
一方、或民族の歴史は、他の民族にとつては未經驗のものである事。
平成十七年二月二十二日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20050221#p2
「記号」そのものへの愛充たされると云ふのも良く解らない。川端の「雪國」における「死の世界」と云ふ「記号」がある――で、それが何なの? と思ふ訣です。
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20050221#p1のヘンリー・ミラー『ある読書』の一節。渡邊さんはメロメロになってしまうのだけれども、私には何の事かさつぱり判らない。渡邊さんは保田氏の文章をほとんどデタラメと評してをられるけれども、私には渡邊さんがメロメロになつてゐるこの文章に意味或は意義を見出せない。
渡邊さんにしてみれば、「現實的」である事が文學の價値なのだらうけれども、私にしてみれば、別にそんなものを文學に求める必然性がないと思はれる。同時代的・現代的である事を樂しみたいのであれば、現實には確實に遲れをとるメディアである活字を讀む必要はなくて、TVの生中繼を觀れば良い――それより、ウェブを見られる人は二次裏で「」の一人になつてゐた方が、餘程同時代的な樂しみを味はへると思ふし、それゆゑに二次裏に嵌るにーとな人が續出してゐるのだらう。冗談ではなく、ウェブが出現して、「一次創作」が「二次創作」の爲の素材として消費される時代が到來してゐる。この時代に、純文學の價値とは何だらう。「記号」を樂しむとしても、既にローゼンメイデンの真紅よりも二次裏の赤提灯の方が「萌える」人はゐるのである。ならば、「一次創作」のローゼンメイデンと云ふ作品が、キャラクタを「記号」として利用する二次裏に對して、素材として以上の價値を持ち得る可能性はあるのか。さうなると、同時代的である事、「記号」的である事は、藝術の價値としては必ずしも十分であるとは言へなくなる。(なほ、二次裏の赤提灯は設定上、妖怪であり、所謂「萌え」の對象とはなり難い面があるが、説明上、その邊の細かい事は氣にしないでおく)
で、「刺戟」については、上で簡單に觸れたけれども、やつぱり「何なのだらう」と云ふ事しか言へない。刺戟と言ふからには、何かが何かを何らかの理由で刺戟して反應を引出す事になる訣で、「私は刺戟を受けました」と單純に言ふ事は出來ない筈。川端の「雪國」における「死の世界」なる「記号」に、「刺戟を受ける」と、言ふのは簡單だが、それは一體何? と私は問ひたくなる。
そもそも、文藝作品の自律性と云ふものが問はれて良いと思ふ。そして、サルトルの實存主義を――と言ふより、『嘔吐』を論じて、福田恆存が藝術作品の自律性の問題に目を向けてゐるのだが、實存主義が一度は流行した日本で、案外、この問題は省みられてゐない。藝術作品は、ただ、「藝術作品」として提示されれば、それで自立・自律した存在となるのか、と云ふ問題なのだけれども、その邊の事は、現代の藝術論では餘り問題視されないのではないか。物語の圓環構造による自己完結化と存在の自己證明が、嘔吐すべき偶然世界である現實に生きる人間にとつての慰謝である、と云ふ主張がある事をサルトルの『嘔吐』を論じて福田氏は述べてゐる。『西歐作家論』ニーチェが永劫囘歸を唱へて時間の圓環構造を示唆したのは、結局のところ、リニアで一度きりの時間と云ふ現實を藝術化しようとした試みだと言へる。さう云ふ藝術の定義、或は人間のさう云ふ「藝術化」の傾向を認めるならば、「記号」として作品から解放されたものを認める藝術觀には疑問が生ずる事になる。
ロマン派については、それはもちろん、イギリスのロマン派は相對的に弱體だけれども、本質的にドイツのロマン派と變らないと思ふ。それに、イギリスのロマン派の理論を日本人作家に適用しようとしてゐない。どつちみち、日本のロマン派はイギリスのロマン派でもドイツのロマン派でもない。中村氏の文章に言及して日本のロマン派がロマン主義者でない事は示唆した。ただ、西歐のロマン主義に徹底して基いてゐない川端氏の小説を論ずるのに、ロマン主義の側面だけを強調する意義はない。けれども、日本の純文學が(やはりフランスの自然主義とは似ても似つかない)日本的な私小説と云ふ傳統の影響下にある以上、川端氏の小説の私小説的側面を指摘する事には意義があると思ふ。「日本には日本的な私小説と云ふ傳統がある」と云ふ歴史的な「文脈」上、日本人作家のロマン派的な側面と私小説的な側面との分類――そして、分類不可能である事――は、必要不可缺だと思ふ。西歐では、ロマン主義と自然主義は別の主義であり、論理的には交雜し得ない。それが「巧みに接木」されるのは、西歐の文化を移入してやつて來た日本における非西歐的な現象だと言つて良い。そして、さう云ふ非西歐的な現象が起きる以上、日本と西歐との間に事實として存在する差を認めざるを得ない。現象として異文化間の交流があるとしても、超文化的な交雜は必ずしも「ある」とは言へない。
「文學の讀み方」について言へば、やはり「なぜ」分析し、「なぜ」記述するのか、と云ふ事を意識しない分析や記述はナンセンスだと思ふ。分析や記述を否定してゐるのではありません。單純な「唯物論」の主張では、「実感」の側面がすつぽり拔け落ちてしまふ。それでは困る、と。ロマン派と私小説とが兩立し得ると云ふのが渡邊さんの主張なら、分析と實感とは兩立し得る、と云ふのが野嵜の主張です。だからこそ、ブッキッシュな唐木順三も讀めば、唐木氏をブッキッシュと批判する寺田透も讀む、と云ふ話になる訣で。しかし、今の世間では皆、分析分析と言つてゐるのではないですか。小林秀雄の評論の惡影響を渡邊さんは強調してをられるけれども、今の時代は寧ろ、小林氏の惡影響への反動である唯物的な分析が、評論の世界では主流となつてゐるのではないでせうか。だからこそ、渡邊さんも「実感」の類を「古い」として切つて捨てる事が出來てゐる。
平成十七年二月二十二日
@wonder。行つて來た。最近、かう云ふ微妙に古い文庫や微妙に古い新書を無闇に澤山置いてゐる大規模古書店は、案外少くなつた。しかし、必ずしも探してゐる本が見附かるとは限らない。

平成十七年二月二十一日
http://www5d.biglobe.ne.jp/~quia/report/2005/2005_02_b.html#date20
例の御葬式とか宗教とかの檢討。何うも有難うございます。
のあ・あやの・ふぁんきーじゅにあは情報商品なのだとか。と言ふか、この三人がセットなのかよ俺の中では。
平成十七年二月二十一日
ねこまたぎ
平成十七年二月二十一日
http://d.hatena.ne.jp/karpa/20050220
お前こそすつこんでろ。俺は無用な口出し等してゐない。有用な口出しをしてゐる。
Britty氏曰。黙って見過ごした時点で、君もAAはった人間と同じ次元に落ちているのだよ? 俺がはったんじゃないというのは虫が良いというものだ。撤回したなら打ち消し線を引くとか対処することを希望。その日のエントリだけ読む人もいる可能性に配慮しないことに疑問を感じます。/言葉に対して鈍感な人が用字法を説いても説得力はないと思うがどうかね。
こんな言ひ方をしてkahusi氏を詰つてゐるのだから、默つて見過ごせる訣がなからう。これを默つて見過ごす事こそ、Britty氏の定義する「AAはった人間と同じ次元に落ち」る事にならう。俺は正しい。
あと、徳保氏が、明示しないでほのめかす言ひ方をするのは卑怯だと言つてゐたけれども、その定義に從へば、karpa氏は卑怯者である。(「ほのめかし」は嫌い)
と言ふか、「無用な口出しをするな」と言ふ事が惡い、と云ふのがkarpa氏には解つてゐない。ちやんと「話が讀めない」と書いて、Wikipedia關係者の閉鎖性を指摘しておいた積りだけれども?
平成十七年二月二十一日
Wikipediaなんか、「誰でも書き込める」點で、2ちゃんねると同じだ。
平成十七年二月二十一日
「『荒し』を默つて見過ごしたら『荒し』と同じ」として相手を憎まなければならないのなら、俺は「義」や「波江」を見過ごしてゐる我等がコミュンなり何なりの方面の人を全て憎惡しなければならなくなる。しかし、其處まで行つたら「逆切れ」だらう。
平成十七年二月二十一日
野次馬の如く勝手にをめいてゐるだけだ
だから何が言ひたいのだらうか。勝手に喚くも何も、そつちこそ勝手に閉鎖的なコミュンを作つて勝手に内紛を起してそれをウェブに持込んでゐるのだらうが。
Wikipedia仲間の積りで「口出しをするな」とkarpa氏は言つてゐるのだらうけれども、kahusi氏はうちのサイトの掲示板に書込んで呉れてゐる知合であり、俺はただ知合のサイトに書込んでゐるに過ぎない。karpa氏の横槍こそ勝手な口出しだと思ふ。と言ふか、説明も何もなしで「出て行け」と言ふkarpa氏はをかしい。Wikipediaとはさう云ふ流儀で人を追出すのが常識なのか。嫌なところだ。
平成十七年二月二十一日
http://d.hatena.ne.jp/karpa/20050220
かう云ふ、人を無知呼ばはりして、見下したやうな顔をして馬鹿にするエリート意識丸出しの奴が、俺は一番嫌ひだ。
初めから最後まで無用な口出しをするな、としか云つてゐないけれど。
まさにkarpa氏はさう云ふ惡口しか一貫して言つてゐない。karpa氏は、説明しないで、ただ人を馬鹿に見せかけようとするだけである。
家族の中では秘密を作つてはいけないとか、さういふのを思ひだします。
何を思ひ出すかは勝手だが、それが當方への批判として、どう云ふ意味なのか、さつぱり解らない。何處の誰も自分は無關係としてゐないのであり、ただ單に、karpa氏らが「Wikipediaのコミュン」内部の事としてゐるのに對し、此處はオープンなウェブだ、と言つて、ウェブサイトの間の關係あると指摘したに過ぎない。Wikipediaを中心に世界が廻つてゐるkarpa氏の判斷は、自己中心的なものである。こちらはさう云ふ自己中心的な態度を相對化し、批判したに過ぎない。
一應説明すれば、ウィキペディア日本語版は來るもの拒まず去るものそんなに追はず、であつて、
そんな事を説明しても意味がなからう。これは單に、野嵜を無知に見せかける爲の發言である。
私のやうにくどい人間を以てウィキペディア日本語版のコミューンに觸れたつもりになつてもしかたがないです。
それで説明した積りになつても仕方がないです。Wikipediaと云ふ組織に屬してゐる人間である以上、karpa氏は對外的にWikipediaと云ふ組織を「代表」してゐる。
また、閉鎖的・開放的を問はず、當事者にしかわからない問題といふのは當然あり、今囘はまさにそれで、書き方が氣にいらないのもあり、少々きつめに口出しをするなと云ひました。
今囘がまさにそれか何うかは知らないが、karpa氏は「B氏の書き方が氣に入らない」と云ふ野嵜の書き方が氣に入らない、と言ふのである。それにしても、當事者にしかわからない問題ならば、一々外部に持出すなと。ウェブと云ふ公開の場でやり合ふなと。しかも、さう云ふ内紛が外に出てゐる状況で「野次馬」が出て來れば、「野次馬になる方がをかしい」と極附けて、誤魔化さうとする。その「誤魔化さうとした關係者」がkarpa氏である。誤魔化さうとしても誤魔化し切れませんよ。人を小馬鹿にすればするほど、karpa氏の立場が惡くなる。
ちなみに、居丈高なのはB氏とkarpa氏であり、俺ではない。俺は、居丈高な態度のB氏の書込みと、居丈高なkarpa氏の横槍とに、怒らされたのである。
Kahusiさん、コメント欄でごちやごちや云ひあひ、そのうへ氣分を惡くさせてすいませんでした。
謝るくらゐなら最初から餘計な口出しなどしなければ良いのだ。口出しして却つて本人のためにならない好例を見るかのやうですね。馬鹿。
平成十七年二月二十一日
それで怒つてしまつたのは殘念ですが。
karpa氏は、人を怒らせたいだけだらう。本氣で残念だとは思つてゐまい。かういふのを無駄といふのであらう。以下の文章の文體で判る。karpa氏は、人を小馬鹿にして、樂しみたいのである。だから私のやうにくどい人間を以てとkarpa氏は自分を定義して、悦に入つてゐる訣である。惡質である。或は、慇懃無禮な人間は例外ナシに惡性。
一々ウィキペディアのコミューン全部をけなさないと氣がすまない幼稚さは可愛いと思ひますが、と、karpa氏は人の人格を貶してゐる。こちらもやられたからやり返すだけだ。俺は何一つ惡い事を言つてゐないのであり、そこでkarpa氏から問答無用で「默れ」と言はれたり、小馬鹿にされたりしたのだから、怒るのが當り前だ。
それにしても「をめく」と來たものだ。karpa氏は、正字正かな派でなく、ただの反動的な文語派に過ぎない。
平成十七年二月二十一日
と言ふか、そもそも本人のためと云ふkarpa氏の判斷が、獨斷で、根據を缺いたものだ。もつとも、さう云ふ自分の考への不確かさをkarpa氏は自覺してゐたから、見るかのやうと書かざるを得なかつたのである。結局のところ、karpa氏は、根據があつてこちらを非難してゐるのではない。
平成十七年二月二十一日
相手の程度が低いと、ろくな話にならない。
平成十七年二月二十一日
ねこまたぎ終了。
平成十七年二月二十一日
日曜日には、ベルトラム『獨逸的形姿』所收の講演記録「ヨハン・ゼバスチアン・バッハ」を讀んだ。「バッハは偉い」と言ひ續けてゐるのだが、駄目な對象を貶すよりも、優れた對象を襃める文章の方が大概、内容があるものだ。バッハの音樂は、カトリック的であり、プロテスタント的であり、同時にマイスタージンガーの傳統にも連なるものである。本質的なものであり、慥かにそのまゝの形式や様式に固執しても駄目ではあるけれども、しかし、新しい様式の音樂に影響を與へる事が出來る。斯る重要な存在を忘れ去つて來たのは如何にもドイツ的な事であるが、現代に於て我々(ドイツ人)はバッハを思ひ出しつゝある。云々。
平成十七年二月二十一日
まほらばよりもAT-Xでやつてゐる陰陽大戰記の方が樂しさう。と云ふ訣であつちとこつちを往つたり來たり。それにDVD-RAM燒きが絡んで、粗筋しか把握してゐないが、それで十分のやうな氣がする。ちなみに、DVD-RAMに燒いてゐるのはどれみドッカーン @ ANIMAXの年末年始邊放映の分。「ぴよぴよドリーム」云々の變な造語が鬱陶しい。と今更言つても仕方がないかも知れないが、同じ會社が作つてゐるプリキュアの主題歌に「真逆」が出て來るのだと言ふのだからこれは叩かざるを得ない。ちなみに、テレビ朝日は昔「NETテレビ」と言ひ、もともとは教育テレビである。何でこんなに教育に惡い番組ばかりやるかねえ。と言ふか、キャラクタの科白で、變な語尾を附けたり、あにめは屡々、教育に惡いよ。「にょ」を附けるな。
平成十七年二月二十一日
MarkupDancing - scribbles and scrabbles at crossedge.netの2005-02-21 02.13 (JST: GMT+0900) @759の記事「講談社現代新書の装丁」に據れば、講談社現代新書の装釘が變つた模樣。氣附いてゐなかつた。氣附いてゐなかつたものは氣附いてゐなかつたのだから仕方がない。
平成十七年二月二十一日
取敢ず參照用。
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20050220#p2
多分夕方こめんとなり何なりを。渡邊さんの文章については、やつつけで何か書くやうなものではありませんので。寢ます。
平成十七年二月二十一日
B氏の言葉に対して鈍感な人が用字法を説いても説得力はないと思うがどうかね。と云ふ個別の發言について、野嵜はそれにしても、相手を「君」呼ばはりしたり、「のだよ?」「どうかね」とか高壓的な言ひ方をしたりするのは、匿名で掲示板を荒す人にありがちな文體だと思ふのですが如何?と批判したに過ぎません。それを「當事者」のkarpa氏が勘違ひして「やりとりに噛みついた」――即ち、野嵜がB氏とkahusi氏のやりとりを論評したと極附け、話を「當事者」の問題にすり替へたのです。karpa氏のせゐで、問題が「Wikipedia當事者の問題」となつたのであり、そこで野嵜がWikipedia批判を行つても話の流れに過ぎません。幼稚であるとすれば、話を「當事者」の問題にすり替へ、野嵜を其處に誘導したkarpa氏自身であると言へます。
ちなみに、「言葉に対して鈍感な人が」云々と言つてゐる人の文體が荒し文體ならば、それを指摘されても當然でせう。それに、「他人のやりとりは下手に噛みつくのは攪亂も同じ」だなんて、他人のやりとりに噛附いてゐるkarpa氏に言ふ資格があるのですかね。と云ふ野嵜のB氏の發言に含まれる矛盾の指摘に對して、karpa氏はすいません、ぜんぜん當然ではないです。今までのこの二人のやり取りを知つてゐれば荒らしとは違ふとわかりますが、はてなダイアリに現れた部分ではなんともいへません。云々と囘答してゐる。しかし、二人のやり取りを知つてゐたからといつて、B氏の文體とB氏の主張との間に明白に見られる矛盾が解消される訣ではありません。單に、karpa氏は茲で議論をすり替へたに過ぎません。そして、karpa氏自身が自分の議論のすり替へを意識してゐないのは、karpa氏が無自覺に、即ち反射的に野嵜の書き込みに反應した事を意味します。karpa氏がカッとなつて書込んだ事は、karpa氏自身のまた、閉鎖的・開放的を問はず、當事者にしかわからない問題といふのは當然あり、今囘はまさにそれで、書き方が氣にいらないのもあり、少々きつめに口出しをするなと云ひました。と云ふ發言で明かです。
平成十七年二月二十一日
あらためて。
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20050220#p2
「アクチュアリティ」の面から「弱い」と云ふ御指摘だけれども、福田氏が現實離れしてゐるとは思はない。寧ろ、現代的な批評の方が――印象で論ずるけれども――現實から離れた觀念論に陷つてゐるやうに思はれる。私にとつての現實みと言ふのは、飽くまで「自分自身の問題として捉へられるかどうか」なのだけれども、さう云ふ觀點が、何うも今の批評家逹には缺けてゐるやうに思ふ。單に同時代に生きてゐるから現實みがある、と云ふ感覺は、私には餘りない。慥かに福田氏が現代に於てアクティヴな存在であるかと問はれれば、さうではないと言はざるを得ないけれども。
構造主義と記號論は、現代のパラダイムだけれども、CDやmp3の録音が聞えない音を切捨ててゐるやうに、記號化・單純化の過程で何らかの切り捨てが行はれてゐるやうな感じがする。ソシュールが言つた、記號學としての「言語學」と云ふ主張が、研究對象として「言語の中の記號の部分」を取出すべき事の主張である事は、多くの人が忘れてゐるけれども、もつと自覺されて良いと思ふ。記號論・構造主義としてのソシュール言語學が、研究成果を擧げてゐる事は否定しないけれども、やはり研究の爲の方法論に過ぎないと思ふ訣です。研究するには記號で十分かも知れないけれども、生きた言語として「まざまざと實感する」には記號では足らない。そして、その「實感」の部分が、やはり文學とか文藝とか呼ばれる部門の擔當すべき事なのではないかと。
そして、文明論となると、記號論とか構造主義とかの個別的な感覺では駄目で、事實と事實との關係を飛躍的に綜合する歴史的な視點や認識が必要になる。そして、この種の綜合的な感覺は、言はば藝術的な感覺であるのだけれども、其處に私は興味がある。
T.S.エリオットが、もとアメリカ人で、のちにイギリスに歸化し、カトリックに囘歸してゐる。フランス文學の研究では、クルティウスが面白いと思つてゐるのだけれども、このクルティウスはドイツ人です。だから、國際的である事は決して新しい事ではない。ただ、現代では、英米佛獨露邊までは西歐文明・キリスト教文明の範圍なので、その間の「國際的」と云ふ事は餘り意味を爲さないやうに思ふ。また、イギリスの文明の中で育つたカズオ・イシグロを、一般の日本人と同一のメンタリティを持つと看做すのも妥當とは言へないと思ふ。實際のところ、文明を超えた批評の交叉と言ふものは滅多にない――と言ふよりも、歴史上「ない」のではないかとすら思つてゐる。もちろん、西歐文明が世界を蓋ひ盡しつゝある現代に於て、文明間に跨る批評があり得るかと言はれればそれまでなのだけれども、一方で、西歐の西歐文明と、西歐から移入した西歐文明とでは、自づから異るものはあるだらうと考へざるを得ない。と言ふより、西歐以外で西歐文明を受容れた土地では、必ず傳統と西歐文明が衝突してゐる。單純な屈伏で濟んでゐるならばともかく、或程度の傳統を持つ文明ならば、受容と反動と、二つの態度があり得る筈で、日本に於てそれは現在まで續いてゐる。日本人が、西歐の機械文明(と敢て言ふ)を受容した一方で、キリスト教を受容しなかつたのは、日本の文明と云ふ傳統がある状況下、受容と反動の二つの作用が存在した事の證據と言へる。そして、話を端折るけれども、さう云ふ西歐文明に對する受容と反動の存在した地域において、西歐文明が育つた地域の批評とは異る種類の批評が發生する事は「ある」訣で、それが例へばロシアのドストエフスキーである。さう云ふ文明論的な觀點で、ドストエフスキーの小説なり評論なりを讀む事は、日本人にとつては興味深い筈だ。西歐文明に對して「後進國」であるロシアに於て、西歐文明への適應の方法としてマルクス・レーニン主義が用ゐられ、にもかかはらず、或はそれゆゑに、現在までロシアは依然、相對的に「西歐文明に對する後進國」(一般的な意味での後進國ではなく)である。實際のところ、共産主義批判の文獻で屡々指摘されるやうに、共産主義は西歐文明の用語で飾つたツァーリズムと化したのだけれども、さう云ふ共産主義を、我々はイデオロギー的に反撥するのではなく、文明論的に認識しなければならない。日本も西歐文明を受容した「後進國」の一つである訣で、單純に「西歐文明を受容した」或は「我々の西歐文明」と云ふ觀點から許りでなく、他者として西歐文明を認識する文明論的な觀點――言はば、受容と反動の二元論的觀點――が必要だと思ふ。
で、保田與重郎が「二流の詩人」であると渡邊さんは指摘してゐて、それはその通りだと思ふのだけれども、敢て深讀みしたり、敢て單純に見た目で判斷するよりも、保田の文章は時々出て來る警句的な言葉を樂しく讀めばそれで良いと思ふ。オスカー・ワイルドの小説を評して、さう云ふ讀み方をして良い、と福田恆存が言つてゐるけれども、保田氏の文章に福田氏の評を適用してもよろしいかと。ニーチェにしても、結構言つてゐる事は出たら目で、永劫囘歸の邊は後から深讀みの結果として構成された説であるやうにしか思はれない。と言ふか、そんな話を聞いた事がある。
川端康成は、文學史的に言ふと、新感覺派に屬する。で、新感覺派は、自然主義・私小説的な既成文壇を否定し、あるいはプロレタリア文學に對抗して、政治ぬきの文學そのものに取組む作家たちのグループである「藝術派」に含まれる。けれども、さうやつて一括りにされる新感覺派でも、横光利一や片岡鐵兵らと、中河與一や岸田國士らとは、方向性が異る。また、私小説に對抗したと言つても、それは文壇に對抗したのであつて、新興藝術派に分類される嘉村磯多は、福田恆存が私小説の極致のやうに評してゐる。一方、岸田國士は、福田氏に影響を與へてゐるけれども、ウェルメイドの御芝居を書いた。新感覺派と一括りにされる作家は、一時新感覺派と呼ばれただけで、後年には樣々な傾向に岐れてゐる。文學史的な定義は餘り意味を爲さない。で、川端氏は、幼時の「孤兒體驗」を基に屡々小説を書いてゐる事が指摘されてゐる。その邊、西歐的なロマン派とは懸隔があると思ふ。ロマン派と言ふと、バイロンとかシェリーとかがさう。日本では、しがらみ草紙の鴎外、文學界の透谷・藤村、明星の與謝野晶子・鐵幹、三田文學の荷風、スバルの北原白秋といつた邊が代表格になる。が、中村真一郎の指摘するやうに、日本の作家は××主義と一概に言へなくて、なぜかと言ふと、それらの××主義が全て西歐にある本家を移入したものだからだ。中村氏は「日本の象徴主義・超現実主義」で、日本においては、象徴主義は流派としては一盛期を持ったけれども、方法としては展開しなかつた。と述べてゐる。

……象徴主義はその最も過激な発展として、今世紀の初めに、ダダイズムから超現実主義へと向ったが、日本においては、ダダイズムも超現実主義も、殆ど全く詩の運動としてのみ開花し、それが文学全体の空気を変えるには至っていない。西欧現代文学においては、最前衛を受け持った文学的方法が、日本では文壇の外で、又、一般読者の関心の外で、詩壇のなかに孤立したまま埋没している。

それが日本文学の流れを停滞させているように見える。多くの批評家は、現代文学を自然主義の文学理念によって、その理念の発展の線に沿ってだけ考えていて、それに対立するものとしての象徴主義及びその発展としての超現実主義は、考察の外においている。しかし、二十世紀の西欧文学の新しい展開を理解するには、象徴主義と云う文学理念が、その展開の中心にあるという事実を抜きにしては、不可能である。そして今世紀になってからの我国の多くの新しい文学的冒険がいずれも十分な発展を見せずにいるのは、専ら自然主義的な文学的風土のなかでそれが息を止めることになるからである。(プロレタリア文学が絶えず私小説形式に戻ろうとする傾向に注意しよう。)……

中村氏に據れば、西歐の思想の移入を急ぐ日本の文學者の多くが、西歐に於いては正反對の主張である思想を、一人で同時に受容れ實踐してゐる。例へば、高踏派と象徴派との相反する主張を上田敏はレトリックを以つて同時に融合したものとして受け入れた。薄田泣菫は浪漫派的高踏派であり、蒲原有明は浪漫派的象徴派である。中村氏は、前の方法と後の方法とが、同一の実験者のなかで巧妙に接木される事態が屡々生じたけれども、その巧妙さ同時に不徹底であつたと指摘してゐる。
川端氏にしても、やはりその邊の巧妙さと不徹底とがあつたやうに思はれる。「雪國」は、どちらかと言ふと、川端氏の作品としては例外的であり、本領はロマン派的なものでなかつたやうに思ふのだけれども、私小説とロマン主義とが竝立する、と云ふのは、結局のところ「不徹底」と言つて良いやうに思はれます。
小林秀雄については、或面では同意です。ただ、歴史學では津田左右吉の惡影響と言ふものも否定出來ませんし、マルクス主義・史的唯物論への反動としての「藝術主義」の存在も否定出來ないのではないかと考へます。
平成十七年二月二十一日
ひかりのまち。めがねのおねえさん小説。SF風なのだけれどもSFではない。氛圍氣はハローサマー・グッドバイに似てゐる。

平成十七年二月二十日
ギャラリーフェイク。實は面白いのではないか。
平成十七年二月二十日
AIR。結局トンデモのおはなしなんですけれども? 合理的な説明、どうせないだらうし。心理的な合理化ばつかり。
平成十七年二月二十日
舞-HiME第四話 @ AT-X。の録畫。暢氣な馬鹿話をやつてゐた頃がなつかしい。今の舞-HiME、誰も望んでゐない展開を平氣でやつてゐるのだから云々。
平成十七年二月二十日
今川版鉄人28号。第三話、第四話。何と言ふか、鉄人使へないし。キャラクタがみんな馬鹿で色々噛合つてゐないし。しよつぱなから鬱展開だし。
平成十七年二月二十日
らいむいろをRDにてDVD-R燒き作業。DVD-RAMに保存する程のものではないとの理由でDVD-Rに燒く事にしたのだが、全くもつて「こんなの」の爲に面倒な作業が必要である事。しかも時間がかかる事。
平成十七年二月二十日
と言ふか、DVDに保存なんて面倒な事、やつてゐられないよ。今度出るRDのHDDしか載つてゐないレコーダを買つて、とにかく録れるだけ録つて、HDDが滿杯になつたら次のを買ふ、と云ふ鼠講的録畫生活をするのが樂かも知れん。安いらしいし。
平成十七年二月二十日
隗よりはじめよ(といってみる)
他人の矛盾を指摘するのに、徳保氏自身が矛盾した事を平氣で言ひ、好い加減で良いと宣言してゐるのは何故なのだらう、と思ふ。一人だけ筋を通しても利點がない、と云ふ判斷でせうか。云々。
あー。「詰り、好い加減な事を言ひたい人が好い加減であると宣言するのは良いけれども、單に好い加減である人が好い加減になる必要はない、と徳保氏は言ひたいのかな。徳保氏は、天然の好い加減ではなく、意識して好い加減であらうとしてゐると。好い加減に天然もわざともないだらうに。
平成十七年二月二十日
匿名だから責任感が無くなるのか、責任感がもともとないから匿名なのか。
平成十七年二月二十日
MinuteDesign | Archives | blog とブログ
「ブログ」なり「ブログの精神」なりがあるのではなく、國民性の違ひが彼我の「ブログ」の性質に差を生じてゐるのだらう。アメリカ文學と日本文學が異るのと同じ。
平成十七年二月二十日
技術は独占せず対価を得て広めていくべき
プログラムのソースコードにおける引用は成立するのか。Firefox mixi拡張1月上旬より当ページで配布していたFirefox mixiツールバーですが、作成にあたりasahibarというFirefox拡張を参考にし、また、一部ソースコードの引用を行っておりました。と述べてゐる。しかし、引用ならば、引用を除いた部分のみで作品として成立してゐる必要がある。プログラムで必要な機能を實現する爲に他人のソースコードが組込まれてゐる場合、引用とは言へず、流用なり何なりと言はなければならないだらう。無断に引用・再配布したと「Firefox mixiツールバー」の作者は述べてゐるが、引用ならば無斷で可能である。無斷でしてはならないのは轉載であり流用である。
著作權侵害である場合、金錢的な解決がベターであると徳保氏は述べてゐる。徳保氏の主張は、「利用者」の「幸福」の爲、と云ふ名目の下、侵害者の提供するプログラムを繼續して公開すべき事の主張である。適正な対価で技術を広めていくことができれば、もっといろいろ便利なソフトウェアが誕生しているはずなのです。と徳保氏は述べてゐる。だが、無茶な金額を吹っかける事なく適正な対価が支拂はれる事が常に行はれ得ると云ふ現實があるのか何うか、と云ふ問題がある。徳保氏の主張は性善説に基いたものだが、世の中には惡人が澤山ゐるのである。
平成十七年二月二十日
逐条点検 日本国憲法
平成十七年二月二十日
テーブルレイアウト排斥の根拠薄弱について
Douglas Bowman さんがサーバ側の負荷低減と製作コストの圧縮だけを利点に挙げていることには注意すべきです。と徳保氏は指摘してゐる。
ブロードバンド利用者が過半数となり、もはや閲覧者側の表示速度は問題になりません。しかし、徑路が太くならうとも、ユーザエージェントに制限がある場合がある。當方がたまに使用するテレビ搭載のNetFrontは、ハードウェアのメモリの量が少いらしく、太つたHTML文書を讀込む事が出來ない。tableの幅關係は設定で何とかなるが、文書そのものを讀込めない場合には話にならない。
例えば個人サイトにおいて、CSS を勉強するよりブログツールの使い方を勉強する方が、日々の更新の効率化という点ではずっと優れています。「CSSか、ブログツールか」なる二者擇一の問題であるかのやうに徳保氏は言つてゐる。しかし、さう云ふ排他的な二者擇一の問題は存在しない。
慥かに、「いかなるtableレイアウトも惡である」とは言へない。徳保氏は、「或種のtableレイアウトは惡でない」「或種のtableレイアウトは惡である」と、兩方の意見を述べてゐる。それ自體は認められる。だが、徳保氏は、結論として「現實にはCSSブームなんて糞なんだよギコハハハ」(意譯)と極附けてゐる。
「CSSによるレイアウト」を、徳保氏は「完全に實現しなければ意味がないもの」と極附けてゐるらしい。「現實を見ろよ。CSSレイアウトの理想は完全には實現してゐないだらう? だからCSSレイアウトは駄目なんだよ」と極附けてゐるやうな印象がある。徳保氏の主張は、どうもをかしい。
平成十七年二月二十日
自動で CSS デザインに変換するツールは実現可能か
逆にいって、HTML を正しく使うことに興味がないのなら、テーブルレイアウトの方が多くの環境で表示が大崩れしないという点で優れています。またブラウザのデフォルトスタイルで満足できるなら、やっぱり CSS なんて使う必要はありません。
ブラウザのデフォルトスタイルに依存する場合、特定のブラウザによつて閲覽される事を必要とする。これは、多くの環境で表示が大崩れしないと云ふ主張と矛盾する。また、テーブルレイアウトにしても、多くの環境で表示が大崩れしないやうにする爲には、CSSでレイアウトを定義するのと同樣、注意を必要とする。そもそも、何も考へないでレイアウトする事について考へる事がナンセンスである。その場合、tableとCSSのどちらにメリットがあるか、と云ふ疑問自體が意味を爲さない。「どう云ふメリットがあるかに基いて、どちらかに態度を決めようと」といつた事を考へないから、「何も考へない」と云ふ事になる。何かを考へる時、始めて「メリット」なる觀點が出現し得る。
で、その「何かを考へる」→「メリットを考へる」「作り方を考へる」となつた時、文書の視覺的なレイアウトに、tableを利用するか、CSSを利用するか、と云ふ檢討が行はれる餘地が現はれる。だが、文書構造に基いたマーク附けが既になされてゐる事は大前提となる。その時、tableを用ゐるにしても、適切に文書構造に基いたマーク附けと、レイアウトの爲のマーク附けとが、バッティングしない、矛盾しないやうな形のマーク附けが必要となるのだが、それで制作者の「思ひ通り」にレイアウト出來るのか、と云ふ疑問が殘る。tableレイアウトでも、見出しは見出しとして、段落は段落としてマーク附けする事は必要である。
平成十七年二月二十日
「教える人」に厳しく、「学ぶ人」に甘い
他人への態度は關係ない。自分の理論は一貫したものでなければならない。その自分の理論と、他人への態度との整合性に、徳保氏の場合、問題がある。
要は、徳保氏の場合、立場が「好い加減」だから、何を言ふにしても主張がふらついてゐて、場當り的で、信用し兼ねる。
平成十七年二月二十日
http://homepage1.nifty.com/kazuf/renewal.html#web_1108868159
2/20/2005 (Sun.)[Web Development] HTMLとXML
平成十七年二月二十日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20050219#p3
福田恆存が「私」「自己」の存在を確信してゐるとは思はない。だからこそ、福田氏は日本人が個人主義を學ぶべき事を主張したのだし、個人主義を超えるべき事を主張したのだと思ふ。その「超えた」ところに二十世紀の文芸批評があるにしても、それは西歐の文藝批評であつて、日本人の文藝批評ではあり得ない。そもそも、西歐の文明を受容れた日本は、思想も文藝も批評も西歐に遲れを取つてゐる。その事を福田氏は自覺してゐる。その點で私は福田氏を評價してゐる。今風の批評家は無自覺である點で、福田氏よりも劣つてゐると考へてゐる。意識しないと「自己」はないのだし、その「自己」を西歐は意識して作り上げたのだし、だから日本人も意識して「自己」を作り上げてそれを乘越える事によつてはじめて西歐的な自己の超克を學ぶ事が出來る筈だと。
老人様式と云ふものは、良く解らない。ただ、ここで引用されてゐる吉田健一の文章は、内容的には單なる敍景に過ぎない。中村真一郎が、日本の詩人とフランスの浪漫派詩人――ボードレール等と比較して、日本の詩人はフランスの浪漫派詩人を模倣しながら、結局、彼等の論理の飛躍を學び切れず、我等の傳統的な風景詩しか書けなかつた、と指摘してゐる。中村真一郎『文学的感覚』
まあ、福田氏の飜譯の文章が惡い事は屡々指摘される事だし、必ずしも福田氏の文章が「良い」とは私も思はない。星新一の文體と比較すると、案外良く似てゐる。
思想面で保田與重郎を評價すると、右か、左か、と云ふレヴェルの政治主義的な非難にしかなりやうがない。ニーチェもさうなのだけれども、保田氏は、或種の詩人として評價しておいた方が良いと思ふ。また、西尾幹二が『反近代の思想』の解説で、福田恆存の名前で書いてゐるけれども、保田は單純に復古を主張したのではなく、現代のセンスで古典を説明したから解り易かつたと述べてゐる。實際のところ、ロマンティックとは必ずしも言ひ難い主張が、特に保田の時事評論には少からずあり、代表作とされる「日本の橋」のやうな文章は寧ろ、例外だと思ふ。なほ、「日本の橋」冒頭に出て來る小さな橋は保田氏のでつち上げらしい。
保田氏は、文武兩道の三島由紀夫に影響を與へた事は知られてゐるけれども、何うも單純に復古を唱へたり、古代に幻想を抱いたりした夢想家であつたとは言切れないやうに思ふ。『文明一新論』所收の「時務と時務論」に我等は文化に於て、時務論的關心の言論の代りに、至誠を以て高踏を行ふ如き、大樣の宣言を希望するのである。とあつて、時代に迎合した國粹主義のやうな氛圍氣を持ちながら、確信犯的に超時代的な主張をしてゐる。實際、保田氏は軍から歡迎されなかつたらしい。保田氏の文章は、もともと奈良の邊の方言をベースにしてゐるやうなのだけれども、同時に、どうもドイツ文學の影響を受けたらしい飜譯調が交ざつてゐる。(みすず書房版ツヴァイク『昨日の世界』と比較せよ)センスは單純に復古主義・國粹主義とは言へず、寧ろ西歐的な態度を身に附けてゐたやうに思ふ。浪漫派を唱へてゐたけれども、日本の浪漫派だから判然としたロマン主義ではなく、古典主義的な側面もある。露骨に言ふと、保田氏は、用語は日本的だけれども、センスは全く西歐的だ。それも可なり意識してやつてゐる節がある。「日本浪漫派」と云ふ甚だ西歐的なスローガンを保田氏らが掲げた事を、みんな忘れてゐる。あと、これだけ文體に惡影響を與へる人も珍しいと思ふ。桶谷秀昭なんかは、中身は空つぽで、保田風の文體だけで食つてゐる。
川端康成は、渡邊さんはロマン主義に分類してゐるけれども、私見では、日本的な私小説の系譜に連なる小説家だと思つてゐる。そして、さう云ふロマン主義や自然主義の日本的な受容れ方が、中村真一郎の批判の對象となつてゐる訣だ。
日本と西歐との間に境界を認めず、一元的に論ずるのが現代的、と云ふ事になつてゐるのかも知れないけれども、さう云ふ現代思想はをかしいと私は思つてをります。
嘗ては人間の疎外なんて事が盛んに言はれたのだけれども、その時代を我々が乘越えて、超克して來たかと言へば、どうもさうではないらしい。今の時代の思想家にしても小説家にしても、文章の背後に人の顏が見えない。小林秀雄が、「最近文章の背後に人の顏が見えないものは平氣で駄作と斷ずる事が出來るやうになつて來た」と云ふ風な事を書いてゐる。それは一面では印象批評となるのだらうとは思ふ。けれども、さう云ふ人間的な觀點を缺いた批評が文藝批評として正しいものと言へるのか何うかは問題が殘ると思ふ。小林氏の場合、客觀主義に對して意識的に主觀主義を主張したやうで、それで批評的だと思ふのだけれども、『本居宣長』で「讀め、讀めば解る」を延々繰返してゐるだけなのを見ると、袋小路に入り込んだ觀は否めない。ドストエフスキーにしてもモーツァルトにしても、小林氏は理解出來なかつたのだらうと思ふ。ただ、小林自身、それを認めてゐる。それで「自己を語る」結果となつてゐるのだらうけれども、直截的に自己を語る私小説作家と違つて、寧ろ小林氏の方が狙つてわざとやつてゐた氣がする。それで結局、どんどんめろめろになつて行つたのだけれども、私小説作家でさう云ふ變な深みにきちんと嵌まつた人が何人ゐたか。
餘談だけれども、たしか丸谷才一が、小林秀雄を教科書に載せるな、入試で出題するな、と主張してゐたのだけれども、それは如何なものだらう。分析すれば、ちやんと論旨は文章の中で繋がつてゐるので、小林のエッセイ(批評とは敢て言はない)は教育の現場で「使へる」と思ふのだが。
平成十七年二月二十日
「スルーしたら荒しと一緒」と言はれたので書込んだら今度は「攪亂するな」と言はれた。
平成十七年二月二十日
書込み規制されて書込めないのでこちらに書く。
http://d.hatena.ne.jp/kahusi/20050218

今までのこの二人のやり取りを知つてゐれば荒らしとは違ふとわかりますが、

「Wikipediaの内紛」と云ふ事ですか? 良く知らんですけれども。

「荒しを見過ごしたからkahusi氏は荒し同然」と云ふBritty氏の主張は、必ずしも一般論とは言へず、寧ろ暴論であり、その暴論を根據にkahusi氏を非難するBritty氏こそ「荒し同然」と判斷出來るかと思ひますが?

また、karpa氏は、Britty氏に對する野嵜の書込み、及び、kahusi氏に對する野嵜の書込み、の雙方に割つて入つて噛附いてゐます。單に現時點でBritty氏及びkahusi氏が當方に反論してゐないだけです。二人が反論する以前にkarpa氏が割つて入つたから、karpa氏は「やりとりに噛み附いたのでない」と言ふ事は出來ないと存じますが?

野嵜の發言の後、二人が書込んで反論してゐないから、野嵜は「やりとり」をしてゐない、と云ふのは、官僚的な、重箱の隅をつつくやうな指摘だと思ふ。レスが附くまで、誰かの發言に附けたコメントは「やりとり」にならんのださうだ。馬鹿馬鹿しい。それにしてもkarpa氏、既に當方と「やりとり」を始めてゐるのだが、ここに誰かが首を突込んだら、「攪亂するな」と居丈高に非難するのでせうね。
かう云ふ人々がWikipediaのやうな百科事典を作つてゐるのかと思ふと云々。
それにしてもkarpa氏、いつから中身を見ないで云々するやうになつたのでせうか?と言つて當方を非難してゐるが、俺は何時だつて「中身を見ないで云々する」人間だ。そんなのは、うちを昔から見てゐれば判る話だ。俺は丸谷才一の小説を讀まないで丸谷才一は讀むに値しないと批判した男だ。讀まなくたつて判るものは判るとは小林秀雄氏の説だし坪内祐三氏の説だ。
あー、「見てゐる」人間の言ふ事なら信じられるのでしたら、あにめを觀てばつかりゐる俺が「あにめは藝術の名に價しない」と言つたら、信じて呉れますか?
大體、俺はBritty氏の文體を見て完全に「荒し」と極附けてゐる。「ほとんど」決め付けるやうな書きぶりと言はれても困る。
平成十七年二月二十日
http://d.hatena.ne.jp/kahusi/20050220#1108909173
續きが分る樣にリンク張りました。ねこめしにっき式に。と言はれても、何處から何處へリンクを張つたのか解らないので何が何やら? あと、「ねこめしにっき式」つて何だらう。「Wikipedia」だか「ブログ」だかの世界には地方ルールだの方言だのが澤山あるみたいだけれども、覺える氣は當方には毛頭ないですから。一般的な用語で説明して頂ければ。あと、何處から何處へ何のリンクを張つたのか、教へて頂ければと。
平成十七年二月二十日
探してみたけれども全然わからない。
取敢ず、電子會議室が宣傳屋で掲示板荒しの波江に占據されてゐるのは何とかして下さい。
平成十七年二月二十日
「ブログ」は、最新の情報だけを閲覽してゐれば問題ないけれども、過去の情報を探すのは矢鱈面倒でないですか? リンクされてゐて、そのリンク元――記事を紹介してゐるサイト――から辿るなら比較的樂ですけれども、その「ブログ」の中で或記事にアクセスしようとすると、探しやうがなくて困る、と言つた事態に陷る可能性大。あと、「ブログ」の幾つかの記事に跨る「連載」を追ひ掛けるのも屡々面倒。
平成十七年二月二十日
漫畫がTVアニメーション化されると、アニメーション版の感想が「ウェブ日記」や「ブログ」に氾濫して、もとの漫畫に關する情報を集めようとしても集められなくなる事態多發――と云ふのも、何とかして下さい。「ブログ」が情報を増やしたのは、或意味「良い」けれども、ノイズを増やしたのは「惡い」事だ。
平成十七年二月二十日
Wikipediaの重大な缺陷は、常に複數の人間の間で意見を調整して、一つのコンセンサスに達しなければならない點にある。
あと、素人が作つてゐる、と云ふのも問題。特に、滿足な資料を持つてゐない一般人が、資料を豐富に持つてゐる、或は何處からか資料を集められる立場の出版社や專門家に對抗する、と云ふのは、ジャンルによつてはナンセンスな事でしかない。
平成十七年二月二十日
もつとも、Britty氏の日記も、讀めなくなる前に一往見てゐる。見てゐるのだから仕方がない。
平成十七年二月二十日
CD/DVDドライヴ。トレー式よりもキャディ式の方が「安全」だから良い、と云ふ考への俺は古いのだらうか。
必ず知っておきたいDOS/Vマシン用語集 8.CD-ROM

平成十七年二月十九日
http://d.hatena.ne.jp/faerie/20050218#1108738367
平成十七年二月十九日
眠い。
平成十七年二月十九日
全国国公私立大学の事件情報: 信州大構内の神社違憲訴訟、「憲法の精神に反し不相当」 藤原英夫帝京大学教授の賠償請求は棄却 東京高裁
さて「憲法の精神」の問題らしいのだが、目的効果基準的には何うなのだらうか。
で、御教示いただきました。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~quia/report/2005/2005_02_b.html#date19-1
葬儀は宗教行爲か。死んだ人の靈は「ある」と考へて葬式を出すものならば、超自然的,超人間的本質の存在を確信してゐる事になる。澤山の人が列席すれば、少くとも何人かは靈の存在を確信してゐる人がゐるに決つてゐるもので、ならば世間的に知名度が高く列席者も多い名士の葬式は少からず「宗教的」になる。如何でせうか。と言ふか、民事訴訟の場合、御金の問題にして訴へなければならないから、一般論としての「宗教行爲」では訴へられいと。「特定の宗教・宗派の助長或は抑壓」であると言はなければならないと。さうなると、漠然と「宗教的」と言つても仕方がないと。
平成十七年二月十九日
http://homepage1.nifty.com/kazuf/renewal.html#web_1108727164
Web Forms 2.0 対 XForms ?
平成十七年二月十九日
赤肩な話題だが念の爲。
Alertbox: ティーンエージャーのためのウェブサイト・ユーザビリティ(2005年1月31日)
「10代の若者を引きつけるウェブサイト」の作り方
「そんなに派手でなくて良い。操作が簡單な方が良い」「長文は嫌ひ。畫像があつてぱつと見で判るのが良い」「こちらがやつた事に、即座に反應が返つて來るのが良い」「あまりにも幼稚なのは嫌」――さう云ふ厨房〜工房の好むサイトとは? 案外これらの條件に、虹裏は良く當嵌つてゐるやうに思はれる。
平成十七年二月十九日
「ブログ」のユーザビリティは高いか。一概には言へない。
ブログツールに據つて低いものもある。
平成十七年二月十九日
「真逆」と書いて「まぎゃく」と讀む風習は何時から始まつたのだらう。本氣でこんな言葉が「ある」と思つてゐる人が結構ゐるみたいなのだけれども?
平成十七年二月十九日
雪。
平成十七年二月十九日
kimiya's css style
平成十七年二月十九日
正しい HTML 其の四ぐらい - Weblog
このスレッドの論争では歴史的仮名遣いではなく、正字正仮名と新字新かなという内容。と言はれても、假名遣ひが全然問題になつてゐないやうな氣が。
マークアップ対象の文章がどういう情況かを問わないのであれば、表題も含めて全てパラグラフ(P)でマークアップすることも可能です。 なぜ表題は Hx でマークアップすべき、または好ましいのかを説明出来ません。 表題は表題であるとする書き手の意思は、文章そのものにあって、HTML にはありません。については、ISO-HTMLでは云々と俺には言へる。
ただ現状において新字新かなもどきを採用しているのは論理的には正しくない。 よって筋を通そうとすれば、「互換」である Transitional になります。HTML 原理主義者であるなら正しい日本語(歴史的仮名遣い)を使ったらどうですかと何回も言います。 首尾一貫しない態度は宗教的に許されません。 あ、日本の宗教では許されるのか。について。福田恆存が言ふやうに、「現代仮名遣」を使ふのが「正義」とされる現状及び場面に於て「現代仮名遣」を使ふのは「正義」である。だから俺は、「不正字不正假名遣ひ」派の人がHTML 4.01 StrictやXHTML 1.0 Strict、XHTML 1.1、XHTML Basicでマーク附けしてゐても別に文句を言つたりはしない。
「非論理的な日本人である」→「出來るだけ論理的であらうと決意する」→「出來るだけ論理的な文章を書かうと決意する」→「出來るだけ論理的な日本語を用ゐようとする」或は「出來るだけ論理的なマーク附けでウェブに公開する文書を作らうとする」と云ふ流れは、論理的に「あり得る」。けれども、「論理的な日本語/論理的なHTML文書を作る」→「論理的な人間になる」と云ふ流れはあり得ない。何が原因で、何が結果かは意識しておくべきだ。
あと、日本人はどこかで折り合いを付けざるを得ないからと言つて「好い加減で曖昧である」事を「善し」とする事は出來ない。「折合を附けざるを得ない」が、「惡い事である」「必ずしも良くはない事である」と意識し續ける事は可能であり必要である。そもそも、俺の言つてゐる「折合を附ける」事と、今の「好い加減である事」「曖昧である事」とは、話が違ふ。聯想ゲームで何か關係がありさうな語句を適當に繋げて自分に都合の良い「理窟」をでつち上げるのを屁理屈と言ふ。俺はその種の屁理屈を言つてゐないが、世間にはさう云ふ屁理屈を言ふ人が多くて困る。俺は、屁理屈ではなく、論理に基いた理窟を言つてゐるのだから、論理的に理解していただきたい。どこぞの「義」が良くやる事だが、言葉の票面的な形を見て適當に屁理屈をでつち上げる、と云ふ眞似をするのは、止めて頂きたい。あと、『文章は古来の言葉で書くべきである。』と主張する『変な正字正かな論者』と『変な新字新かな論者』との論爭を指摘せよとの要請に、一般論として正字正仮名と新字新かなは「敵対する」概念です。と答へても仕方がないだらう。正字正かなと新字新かなとが敵對する概念である事と、具體的に何處の誰が『文章は古来の言葉で書くべきである。』と主張して『変な新字新かな論者』と言爭つてゐる事とは、全然關係がない。適當に「正字正かな」「新字新かな」等のそれつぽい語を用ゐて文章を作れば理窟となる、等と思はない方が良い。
あと、HTML 4.01 Transitionalは定義上、單に視覺的プレゼンテーションの爲の要素を定義してゐるだけで、文書のマーク附けと文章の構造との關係については定義してゐない。けれども、文章の構造と文書のマーク附けとの關係を定義してゐないのはHtML 4.01 Strictも同じ。HTML 4.01 Strictは、單に視覺的プレゼンテーションの爲の要素を排除してゐるだけに過ぎない。fontやtableで見た目を制御してゐる一方で、見出しには見出しとしてのマーク附けを施してゐる、と云ふ「構造的」なHTML 4.01 Transitionalの文書、と云ふものはあり得る。また、見出しも何も無しでvalidなHTML 4.01 Strict準據の文章と云ふものもあり得る。だから、或種のDTDに單に準據する事と、論理的に正しい構文の日本語を綴る事とは關係がない。もちろん或種の假名遣を用ゐる事とも必然的な關係はない。「正しいHTML」「正しい日本語の文章」「正しい假名遣ひ」との間に、直接の因果關係はない。但し、それらの上位に「正しい觀念」を置く場合、それらの個別の「正しい」は、その結果としての成果物として、關聯を持つ。ただ、「正しいHTML」→「正しい日本語」のやうな論理的關係はない。
平成十七年二月十九日
月刊アスキーのおまけの用語辭典を見たら、HTMLとCSSの定義がをかしかつた。使へない。
平成十七年二月十九日
既にこの「闇黒日記」はにじうらネタを扱ふと定義されてゐるので、「面倒臭い」を虹裏ネタとして「めどい」と略して書くのは定義上「正義」である云々。
めどいさんは手を拔いてめどい事になるとめどいので手を拔かない云々の二次裏設定があつたけれども。
平成十七年二月十九日
B-CASカードの登録。B-CASカスタマーセンタにはしたのだが、それだけだとNHKを觀るのは駄目で、NHKに聯絡しなければ駄目なんだと。ややこしい事極まりない。年寄には無理だよ。
平成十七年二月十九日
http://www.netlaputa.ne.jp/~robaq/200502.xhtml#d20050219_1
非標準的な言葉を使うにあたり、なんの宣言もなく非標準的な言葉を使うよりは理由を述べた上で、あえて使うと言う立場を表明した事自体は評価するが、しかし、解っているなら標準的な言葉を何故使わないのか
「窓の杜」の中の人は「相對主義者」なのだらう。
平成十七年二月十九日
時枝誠記『國語問題と國語教育』昭和二十四年版
塩田良平『國語隨筆 ―國字國語の正統を護るために―
平成十七年二月十九日
ピーチガールが取敢ず七話まで進んだのでDVDに焼かうとしたら、16MB容量オーヴァとなる事が判明。仕方なく六話まで焼く事にした。
平成十七年二月十九日
ゴジラとかQちゃんとかホリエモンとか、どうしてみんな渾名で呼びたがるのでせうねえ。氣持ち惡い。
平成十七年二月十九日
軍人らしからざる軍人に馬鹿な事とか殘虐な事とかをやらせて「戦争は悲惨ですね嫌ですね」と宣傳するな種。

平成十七年二月十八日
壁際の本の山が前後三列となつて生活に支障が出たので、整理を敢行。もちろん、場所の移動だけで、捨てたり賣つたりはしてゐない。ダブりが何册もある事が判明したが豫想の範圍内なので愕然としたりはしない。取敢ず、買取つて呉れる優しい閲覽者を希望する。養徳叢書の編集の良くない太宰治『晩年』とか、ドーソン『中世のキリスト教と文化』とか『松村明教授古稀記念国語研究論集』とか『吉川幸次郎講演集』とか林健太郎『流れをとらえる』とか。
平成十七年二月十八日
Wikipediaの項目の事は調べて一生懸命記述したり編緝したりするのに、國語問題については全く調査をせず、ウェブに記事を公開したりもしない正字正かな派の人多數。
「ブログ」は、單なる日記サイトであり、覺書サイトであり、精々ニュース速報サイト・ニュース解説サイトであり、意識的・有機的に組織された作品としてのウェブサイトではない。
平成十七年二月十八日
正義論。正義とは何か。「日本に於ては平和主義が正義である」のやうな言はれ方をする。「正義は相對的である」と云ふやうな言はれ方をする。「御前の正義は本當に正しいのか?」と疑はしいものであるかのやうな言はれ方をする。全て「正義」「正しい」と云ふ概念を、客觀的なものと受取つた事から生じた誤つた言ひ方である。「正義」とは「私・我々が正しいと信じてゐる事」である。客觀的に「正しい事」は存在しない。
「私」一人で考へる、「我々」の同士で話をする時に、正義は絶對的なものとして機能する。正義は私や我々の思考を、屡々絶對的に支配する。
「私」の中や「我々」の間で「正しい」事が、「彼」の中や「彼等」の間では屡々「正しくない」事となる。「私・我々」と「彼・彼等」の間で、正義は相對的である。だから、我の正義と、彼の正義とは、衝突し得る。
正義が衝突する時、二つの正義は、相互の關係で見れば相對的である。しかし、更に第三者の觀點から、或は、客觀的の立場から、二つの正義は檢證可能である。この時、二つの正義が、一方が眞理で他方が誤である事も、兩方が誤である事も、兩方ともそれなりの意義を持つ事も、あり得る。
平成十七年二月十八日
今夜は舞-HiME開始を待たずに寢ようと思ふのだ。寢ます。
平成十七年二月十八日
二次元実況を見る限り、舞-HiMEは絶讃しなければならない状況になつてゐる模樣。死ね。
平成十七年二月十八日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20050216#p1
現代に於て、批評こそが文學の正統であるとすれば、福田氏ほど文學者として「成熟」し切つた人はゐないと思ふのだけれども。私見では、福田氏は必ずしも小説や戲曲が巧くない。そして、批評に關しては、福田氏は寧ろ成熟するよりもしない方を擇んだ。だから、「同じ保守派」から反感を買ふ事が判り切つてゐるのに、敢て「同じ保守派」となつた清水幾太郎を眞面目に批判した。だから偉いと思つてゐるのだけれども如何。と言ふより、成熟して枯れてしまつた福田氏の文章なんて讀みたくないと思つてゐる信者多數(推定)。
あと、吉田健一の文章と誰かの文章とを比較して吉田氏の方が割切り過ぎてゐるだか何だかと批評してゐた人がゐたのを前に讀んだのだけれども、何處の誰だか失念。ウェブのデータだとぐぐればすぐに判るのですけれども、本だとぐぐれませんからね。本は不便ですね。だがそれがいい。云々。
平成十七年二月十八日
昔尋ねられた事。遠山茂樹に關して。よろしければ以下を參照して下さい。
堀米庸三『歴史と人間』(NHKブックス32)
今日、堀米庸三『正統と異端』を、神保町裏の池宮書店(http://www.tcat.ne.jp/~ikemiya/)で發見。池宮書店は三月末に移轉豫定で現在引越の作業中。今なら店内の本を買つて呉れた御客さんに、店の外の本を無料で差上げてゐますとの事。もともと店内で賣つてゐた本だから綺麗。
平成十七年二月十八日
渡邊さんに保田與重郎を讀んだ感想を伺つてみたい。先日買つて來た『文明一新論』を少し讀んだ。俺の文體は保田氏の影響を受けてゐる。
あと、寺田透つてどうかな。
平成十七年二月十八日
日本書房で、日本古典全集本の『賀茂眞淵集』、戰前版冨山房百科文庫の『建禮門院右京大夫集』、塩田良平『國語随筆 ―國字國語の正統を護るために―』(雪華社)、時枝誠記『國語問題と國語教育』(中等学校教科書)を買つたら、百圓おまけして呉れた。
とてもいい本屋さんなので、水道橋駅近くの日本書房で皆さん本を買つて上げて下さい。白山通りの古本屋街は潰滅状態。
平成十七年二月十八日
讀んでゐる歴史家・歴史の本。あとらんだむ。
クリストファー・ドーソン。アーノルド・トインビー。
内藤湖南。宮崎市定。大類伸。堀米庸三。林健太郎。中屋健一。岡田英弘。
中公の奴。教養文庫に入つてゐる世界史・日本史・東洋史をぱらぱらと。岩波新書は部屋の眞中に山をなしてゐる。
その他。探すと色々出て來さうな本の山多數。
平成十七年二月十八日
ろりこん小説はやつぱり勘辨して貰へませんか? めがねのおねえさん小説なら云々。
平成十七年二月十八日
水銀燈軍軍歌『嗚呼我等の水銀燈』を街宣車で流す馬鹿な右翼は出て來ないかな。まあ本當に出て來られても困るのだけれども。
平成十七年二月十八日
http://www5d.biglobe.ne.jp/~quia/report/2005/2005_02_b.html#date18-3
http://ryus.s21.xrea.com/w/item/415
正しいHTMLは得だと思う - 徒書
平成十七年二月十八日
http://aboutworks.com/shokodei/diary/picobbs/の「890 所謂正しい HTML」(2005年02月17日 14時41分):http://www.aboutworks.com/shokodei/diary/2005/2005_01_a.html#PrintNo1
http://ryus.s21.xrea.com/w/item/415
指向性メモの「2005-02-18T20:58:49+09:00」の項。「正しいHTML?」
平成十七年二月十八日
「私は好い加減で曖昧な態度を取る日本人です。だから好い加減で曖昧な態度を取ります」と言ふ場合、「だから」と言つてゐるけれども、これ自體、ナンセンスな「論理」である。日本人が一般に「好い加減で曖昧な態度を取る」事實は、あなたが「好い加減で曖昧な態度を取る」べき理由とならない。
自分の態度について述べる場合、自分の取るべき態度について述べる事になる。そして、「べき」論は、「である」論に對する價値判斷である。
「私は好い加減で曖昧な態度を一般に取る日本人の一人です。好い加減で曖昧な態度を取るのは善い事です。だから、好い加減で曖昧な態度を取りたいと思ひます」「私は好い加減で曖昧な態度を一般に取る日本人の一人です。好い加減で曖昧な態度を取るのは惡い事です。だからこそ、論理的で整然と考へるやうにしたいと思ひます」は、どちらも正當な理窟であり、理解出來る。
そして、この時、「好い加減である事」「曖昧である事」を「善し」とする、或は「惡し」とする價値判斷の根據が問はれる。だが、「良い加減である事」「曖昧である事」は、怠惰な事であり、怠惰は惡い事だから、惡い事である。そこで敢て「善い事」と主張する場合、積極的な説明が求められる。そこで「一般に日本人は好い加減で曖昧であるから」と言ふのは説明にならない。日本人が一般に好い加減で曖昧な態度を取る理由が、それを「善し」としてゐるからである、とは言へないからだ。
平成十七年二月十八日
辟易
<名・ス自>勢いや困難におされて、しりごみすること。※「辟」はさける、「易」は変える意。もと、相手をおそれ道をあけて立ちのくの意。
「辟易する」と言ふ。「辟易とする」とは言はない。
平成十七年二月十八日
アーカイブ - 08 August 2004 - Weblog
某文語の苑とか波江とかは兔も角、文章は古来の言葉で書くべきである。なんて言つてゐる変な正字正かな論者が、どこで変な新字新かな論者と論爭をしてゐるのですかね。
好い加減な知識に基いて正字正かな(派)批判をする前に、福田恆存『私の國語教室』くらゐ讀んで下さい。某言語@談話室の黄氏も。
平成十七年二月十八日
省略されたディレクトリ名より、省略されないディレクトリ名の方が好きだ。
/usr/localよりC:\Program Filesが好きだ。/homeよりC:\Documents and Settingsが好きだ。
と言ふか、unixの場合、何處のHDDにデータがあるのだか、HDDをどれだけデータが占有してゐるのだか、判り難い。假想化されてゐるのも良し惡し。
何うでも良いけれども、C:\homepageなるディレクトリの下にウェブサイトのデータを入れてゐるのは、昔からの因襲であり、いろいろとこちらにも都合があるのである。FFFTPの設定を直すのがめどいとか。
平成十七年二月十八日
昔々、國語を簡單にしよう! と思つた表音主義者がゐました。彼等は、難しい漢字を制限した時、書けない漢語は易しい語で言換へれば良い、と考へました。そして、言換へ方も決めれば良いと考へました。
――そんなのが無理なのは解り切つた話だ。何處の世界に「卑猥」とか「淫猥」とか「猥褻物陳列罪」とかの「難しい漢字」を使つた語を易しく言換へたがるだらう。かう云ふのは、難しく言ふからえろい感じで良いんだ。
と云ふネタを晝間ぼーつとしながら考へてゐて、まあいろいろとアレなので忘れてゐたのだけれども、今更思ひ出してしまつたので一往書いておきます。

平成十七年二月十七日
ネギま。ええと、世間的な評價はアレみたいですが、俺は樂しく觀てゐますよ? 先週邊からそれなりに面白くなつて來たやうな氣が。
あと猫に餌附けするな。近所迷惑だ。
平成十七年二月十七日
無宗教式の葬儀なるものがあるらしいのだけれども、そもそも葬儀を行ふ精神そのものが宗教心と言ふべきものなのではないか。ならば政教分離を命ずる憲法の規定に基いて、全ての國家公務員・衆參兩議員は、誰かの葬式に參列する事が許されず、また在職中に死んだ場合にも葬式を出されてはならない、と云ふ事になるのではないか。と言つてみるテスト。
平成十七年二月十七日
http://www.remus.dti.ne.jp/~a-satomi/nikki/2005/02a.html#d15n01
日本暖房黨黨首(自稱)ファンキージュニア
暖房が惡いんぢやない! 設定温度が高過ぎただけだ!
のあ&あやの
落ち着け!
ファンキージュニア
京王6000系の座席の端つこなんか、暖房が入つてゐても冷たいんだぞ! 都營新宿線のVVVF對應工事出來たみたいなんだから、早く9000系投入しろ!
のあ
いいから落ち着いて、御酒でも呑んで寢て下さい。
あやの
それにしても、ファンキージュニアの「醉つ拂ひ」の設定、忘れ去られてゐるなー。

平成十七年二月十六日
地震きたー。マジか。落ち着け。
寢てゐたけれども目がさめた。別に今の今まで起きてゐた訣ではない。
平成十七年二月十六日
地震→目がさめる→取敢ずmAgicTV立上げてNHK→取敢ずOpera起動して虹裏。
平成十七年二月十六日
のあ
鹿島市娘――つて何うかな?
あやの
鹿島市娘 の検索結果 約 535 件中 1 - 10 件目 (0.35 秒)。ネタを思ひついたら取敢ずぐぐらうね。
平成十七年二月十六日
塙→甚。
引用されて気附く誤變換orz
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20050215#p1
日本は、祭政一致であると共に、道徳と政治とが不分明であり、それゆゑに、權威と云ふものが單純に共同體維持の爲の原理であるとも言切れず、止むを得ず權威による道徳的な效果を期待しなければならないと考へます。かうした「何事をも嚴密に分かたない日本的な文化」は、以前ほど「機能」してゐないとしても、だからと言つて「何事も嚴密に分かつ文化」である西歐の近代的な文化を日本人が身に附けた、或は身に附けつゝある、とは言ひ難いと思ひます。
ちなみに、日本に於て今、獨裁が出現するとしても、それは最早パロディ的なものにしかなるまいと考へて、福田恆存が戲曲『總統いまだ死せず』を書いてゐるのですけれども、よろしければ御讀み頂ければと。
平成十七年二月十六日
寢られないよう。寢れば良いのだけれども。三十分なんて虹裏見てゐるとあつと言ふ間。朝だ。雨が降つてゐる。朝だ雨だ。©よこじゅん。寢ます。
平成十七年二月十六日
ニフティ、パソコン通信サービスを終了 - CNET Japan
平成十七年二月十六日
ITmediaニュース:MSが方針転換、IE 7.0をSP2向けにリリースへ
どうせレンダリングエンジンは腐つたまゝなのでせうね。
平成十七年二月十六日
新宿展。最終日。羅列。ラスキ『國家論』(理想社)。ニイチェ『ギリシア人の世界』(筑摩書房)。武者小路實篤『愛と死』(養徳叢書十四)。太宰治『晩年』(同十五)。堀辰雄『曠野抄』(同二十二)。『河合榮治郎選集十 獨逸社會民主黨史論』(日本評論社)。大類伸監修『羅馬帝國沒落史觀』(タイムス出版社)。西谷啓治『世界觀と國家觀』(弘文堂)。馬淵和夫『上代のことば』(日本文法新書・至文堂)。デカルト『哲學省察祿』(蒼樹社)。和辻哲郎『ホメーロス批判』(要書房)。萩原朔太郎『純正詩論』(第一書房)。寺田透『道の思想』(叢書身体の思想1・創文社)。
例によつてダブり未チェック。

平成十七年二月十五日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20050214#p3
「天皇制」なり何なりが制度であるとしても、その制度の中で天皇は人間として生きてゐるのだし、さう云ふ生きた天皇を戴いてやつてきたのが日本である。假に、天皇を「制度」と呼ぶ事を認めるとしよう。しかし、それならば當然、權威のシステムもまた「制度」である。生きた人間である天皇の權威と云ふものに依存してやつてきた日本で、天皇の權威が失墜する事は、即ち權威そのものの意義が失はれる事と同義である。それは果して好ましい事であらうか。権威は、一概に好ましいものとは言へないが、一概に好ましからざるものとも言へない。ならば、徹底して權威が害はれる事は、決して良い事ではない。西歐に於いて、傳統としての權威は、王に在らず、Godに在つた。政治的に、王の地位は何度となく搖らいだ。しかし、王の地位は政治的地位である。カイザルのものとGodのものとは、キリスト教社會に於ては區別される。Godの地位は、もちろん何度となく脅かされた。ニーチェによつては死を宣告された。しかしGodは、ベケットによつて「不在」である事が暗示され、T.S.エリオットによつて「アリバイ」證明が行はれた。これは、論理的に、Godの地位が、搖らぐ事はあつても、決して崩潰し得ず、恢復し得るものである事を傍證する。しかし、Godと王とは違ふ。Godが理念であるならば、王は生きた人間である。Godに依存した西歐社會で國王の地位が揺らぐ事は、致命的な問題とならない。王の權威が失墜しても、Godの權威は失墜し切れないからである。しかし、日本にGodのやうな理念的・絶對的な權威者は存在しない。日本に存在する權威者は生きた人間のみであり、その最大の權威者は天皇である。その天皇の權威が搖らぐ事は、人の上の人の權威に依存する日本の文化を搖るがす事である。Godの存在する西歐社會の君主と、Godの存在しない日本の君主とを、等し並みに扱ふ事は、私には大變危險であるやうに思はれる。
事實として、據るべき權威として天皇を戴くのは、明治維新以來の「制度」であつたかも知れない。が、それで日本人は日本の近代化を進めて來た。それは、大東亞戰爭の敗戰によつて――いや、事實として、敗戰は、結果として決定的な斷絶を惹起す役割を果したかも知れないが、その時點では、明治以來の近代化の歩みの斷絶ではなかつた。ただ、戰後、日本人が、『天皇を戴く商人國家』の國民として、唯物的に物を見る習性を身につけた事は否定出來ない。けれども、それでは困るのである。私は、一度始めた明治以來の近代化の方法は、抛棄してはならないと考へる。「やり直しのきく歴史」と云ふ發想そのものを私は否定する。江戸時代以前の社會と、明治維新以來の近代社會とは、決して斷絶であつた訣ではない。明治政府のやり方には、間違ひも少からずあつたにしても、歴史的に成立した日本的近代の精神と、西歐の近代文明とに、何とか折合を附けさせようとする試みの意圖があつたやうに思はれる。その折合が、巧く附かないから一氣に過去を切捨てよ、と渡邊さんはおつしやるのだが、それでは近代精神を日本人は血肉化する事は不可能だと考へる。現代の日本人は、過去の日本人が築き上げて來た結果としての日本的な精神を、自らのものとして、西歐の近代精神と意識的に併存させなければならない。――と言ふよりも、所詮は他人のものである西歐の近代精神を受容れるには、やはり、他人のものとして受容れるしかないだらうと私は考へる。それには、日本人は今まで日本人のやつて來た事を否定してはならないのであつて、何らかの形で連續を保たなければならない。もし、その連續を斷切れば、他人のものである西歐の近代は「自分のもの」となるかも知れないが、嘗て自分のものであつた傳統を、今度は改めて「他人のもの」として受容れなければならないからである。いや、恐らく、その時、日本人は嘗て自分のものであつた傳統を、再び自分のものとしようとしないだらう。反動は起らないと思ふ。もし、起きたとしても、それは正に反動であつて、單純な排外主義に陷つて、再びファシズムの慘禍を繰返すだけであらう。和魂洋才が失敗して「無魂洋才」に陷つた日本人が、極端な國粹主義に走つた事は、歴史的事實である。日本人は笊の上の小豆である、笊を右に傾ければ全て右に轉がり、左に傾ければ全て左に轉がる。それでは困るのであつて、日本人には、矛盾を矛盾のまゝで受容れ、折合を附ける努力のみが必要である。
天皇が存在しさへすれば日本の國民は大丈夫である、と言ふのではない。天皇の存在は契機である。可能性である。可能性をぶつ潰す事はない。
平成十七年二月十五日
なほ、皇后美智子樣は、單純に「民間から擇ばれた」と言ふ事は出來ない。それは元宮内廳官房総務課長の大野健雄氏が『なぜ天皇を尊敬するか』(洋販:74ページ〜「第3章 道統の嫡々相承」)で述べてをられる事である。今の皇太子殿下の場合も問題ないだらう。雅子樣が皇室の傳統の意義を理解してをられる事は、宮中の行事を緊張して遂行なさつてゐるのを見れば判る。
平成十七年二月十五日
アルティメットガールが始まるので中斷。
平成十七年二月十五日
アルティメットガール終つた。「親父にも撲たれた事ないのに」笑つた。
平成十七年二月十五日
慥かに今の天皇陛下が傳統を理解してをられなかつたり色々とアレであつたりする事はあり得るし、アレであるところがあるとも思つてゐる。が、しかし、天皇は人間である。ならば、不完全であつても當り前なのであつて、逆にそこで、だから「天皇では駄目」と決定的に言ふ事は不可能だ、と言ふ事が出來る。
平成十七年二月十五日
別の日に買つた本がたまたま同じであつたと言ふのは、實はそんなに問題でないのではないか。否、全く問題ないと言つて良いのではないか。同じ日に二册同じ本を買つてしまふのも、やはり問題は無いのだから。一册だらうが二册だらうが、手許に本があれば讀めるのだ。讀めるのならば問題ない。問題は、買へる時に買ひ逃がす事だ。そのせゐで、その本を二度と讀む事が出來ないとしたら、悔やんでも悔やみ切れない事になる。人は須らく、買ひたい本を買ふべきである。
が、學生のうちは財布と相談して買ふ癖を附けた方が良い。人は一度は審美眼を養ふ期間を持つべきである。そして、人は一度は悔やんでも悔やみ切れない失敗をすべきである。
何度も失敗を繰返すと人生そのものが終つてしまふのでアレだが。
平成十七年二月十五日
さて、月詠が始まる時間だ。寢るタイミングを外すと寢られなくなる。困つたものだ。と言ふか、何で深夜にあにめなんてやるんだよ。
平成十七年二月十五日
終つた。修行篇。金盥亂舞。
平成十七年二月十五日
トップ2! は火星が舞臺と云ふのが肝。だからノノはアンドロイドなんだよ。多分。
平成十七年二月十五日
昔述べた事がありますが、祭祀を政治から徹底的に分離して、それこそ「まつりあげる」事は、特に現代に於ては、祭祀を殺すのと同義です。更にそれは、政治の一元化・絶對化へと繋がり、却つて危險な状況を生ずると考へられます。
平成十七年二月十五日
君主を廢する事の反動が、良い方向に確實に繋がるならば良いのですが、惡い方向に繋がる可能性もあります。そして、その實例を、私に限らず、現代の日本人は知つてゐます。即ち、辨證法を武器としたマルクス主義によつて惹起こされた革命です。ソヴィエト聯邦・中華人民共和國・カンボジア・ルーマニア等、共産主義革命が行はれた諸國では、君主が廢止された反動で、個人の獨裁が生じました。そして、現在に至るまで、支那では近代精神が普及・定着したとは言ひ難い状況です。
辨證法を武器としたマルクス主義――否、それに限らず、觀念論は、現實に安易に適用された時、常に危機を惹起こします。
イギリス、フランスに於ても、君主を廢した革命が行はれました。が、その結果、やはり獨裁と恐怖政治が出現しました。現實主義のイギリス人は、さつさと君主制に戻してゐます。フランス人は、より觀念的である「後進性」を持つてゐたので、獨裁と共和制とを往つたり來たりしました。現在、フランスは共和政體ですが、必ずしも安定した政治體制を築いてゐるとは言へません。
平成十七年二月十五日
天皇に何ら希望がなく、天皇から政治的權限を剥奪すれば確實に良くなる、と云ふ保證があるならば、私も渡邊さんの主張には贊成出來ます。が、渡邊さんの主張は確實な主張ではなく、單なる可能性の主張であり、しかもリスクが塙だ大きい。だから私は保守的な立場をとります。
現在は平和な時代であり、國民が天皇に虐げられて希望を失つてゐる訣でもなく、天皇に何らの可能性も見出せない追詰められた非常時ではありません。かう云ふ時代に、一氣に天皇を政治の領域から追出す革命的・急進的な方策を取るのには、妥當な理由が無いと考へます。
寧ろ、急進主義による革命的な状況の破壞よりも、漸進主義による現状の改革の方が良い結果を生ずると私は考へます。
平成十七年二月十五日
天皇の役割が現代に於て完全に消滅したと考へる事は、寧ろ不合理である、と私は信じてをります。歴史的に成立した天皇の役割は、觀念的に構成されたものではなく、人間性・社會性に適つた合理性を持つてゐる、と思ひます。歴史的な存在には、歴史的に存在してきた理由がある、と思ひます。
平成十七年二月十五日
イギリスには王がゐる、フランスにはゐない。イギリスにはイギリスの文化があつて、イギリスの政體がある。フランスも同樣である。一方、日本には天皇がゐる。日本には日本の文化がある。さて、日本には日本のやり方がある筈である。フランスやロシアの眞似をしなければならない必然的な理由は存在しない。もちろん、革命的な破壞に可能性の存在を見る事は、可能である。しかし、それならば、革命的な破壞でない、漸進的な改良に可能性を見る事も可能である。私は、渡邊さんの方法が不可能だとは言はない。ただ、リスクが餘りにも大きいと言つてゐる。現實問題として、先進國であつたイギリスやフランスで革命を通して近代化が實現したけれども、後進國であつたロシアでは革命によつて七十年も發展が止まり、現在でも近代化が必ずしも定着してゐないのだが、日本はどちらにより近いか、と云ふ事が檢討されなければならない。それ以外にも、西歐と東洋との違ひ、文化の背後にある宗教の違ひ、等も檢討されなければならない。
歴史の流れの中で、と同時に、現代と云ふ時代に於て、現代の状況下で、君主をいきなり廢止する事が、果して合理的な解決と言へるのか、と云ふ問題がある。急進主義と云ふ劇藥を用ゐた時、それが特效藥として働くのか、それとも副作用を生じて死を齎すのか、それも問題である。
安吾の文明論は、注目すべきであるが、それを鵜呑みにして、實踐すべきであるとは必ずしも思はない。安吾の文明論は、分析・解釋の一つとして、參考にすべきであるが、安吾の主張はそのまゝ實踐して良いものでないと思ふ。
平成十七年二月十五日
特に申し上げたいのは、左翼的な思想を持つ日本人が、右翼的な思想を持つ日本人と同樣、實に急進的で安易に物事を變へたがる、と云ふ問題が、日本に於て大變重要である、と云ふ事である。日本に於ては、現實主義が單なる現状維持論に墮し、理想主義が單なる革命主義に陷る。穩健な保守思想が日本には殆どと言つて良いほど存在しない。
左翼と右翼が、自分の立場を絶對の立場と考へつゝ、「今更右だ左だと言ふのは古い」と主張する。さもなければ、「相對主義者」の立場を取ると言つて、時と場合に應じて適當に自分の立場を變へて、それで「正義は相對的だ」と言つて威張る。
現代は、正義の地位が徹底的に失墜した時代である。が、それでは困る。「自分の立場を意識する」と云ふ意味で、正義の復權すべき事を主張したい。「俺は正しいんだ」と言つて、力任せで押附けさへすれば良いと云ふものが「正義」なのではない。理性的な檢討を行ふ際の立場としての正義を、我々は自覺的に用ゐるべきである。
平成十七年二月十五日
混んでゐる電車の座席で二人分のスペースを一人で占領してゐる人を見ると空氣嫁とか言ひたくなる。特におでぶさんには、少しは氣を遣つて頂ければと。
平成十七年二月十五日
「ブログで解雇された」--元グーグル社員認める - CNET Japan
「ブログ」をやるなら無職に限る。
平成十七年二月十五日
本日の新宿展。ウォルター・ローレー『シェイクスピア』。高階秀爾・中村雄二郎・山口昌男『共同討議 書物の世界』。堀米庸三『西洋中世世界の崩壊』。大類伸『西洋史新講』。
平成十七年二月十五日
テープの貼方:通常用の貼方
両脇のつなぎ目もテープで止める。と云ふのは實は宅配屋さんに歡迎されないのだとか。理由は、持つ時、手が滑るから。
箱の裏側は蓋の合はせ目のところに一枚、交叉して眞ん中に一枚の縱横二枚、テープを貼れば十分らしい。
昔、NHKの昼どき日本列島でやつてゐた。

平成十七年二月十四日
高校生用の英語の參考書を讀み始めてみた。結構面白い。
平成十七年二月十四日
さて俺は「天皇には今の政治的な存在であるのをやめて伊勢か京都かに御歸り頂いて、神道の長として宗教のトップとなつて頂くのが一番であらう」式の、へりくだつたやうなその實、天皇の存在を根本的に否定する主張を見ると頭に來るのだが、それはなぜかと言ふと、明治維新で一度、天皇を中心とした立憲君主制の體制を作り上げたのだからそれを維持すべきであるからだ。明治維新は王政復古に過ぎないと言つても、それは明治政府のスローガンであり、實質は王政復古の名の下に行はれた近代的な統一國家の建設であつたのだから、その邊の考察を拔きに反動と極附けるのは許されない。それに、何より天皇は日本と云ふ國家にとつて必要があるのか何うかを餘りにも安直に極附ける態度が氣に入らない。
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20050211#p3
皇族のプライヴァシーに關する報道その他は、人權侵害等と云ふ程度の次元で語られるべきでなく、寧ろ、さう云ふプライヴァシーが「ある」事を國民に意識させる事で皇族と國民との間の距離を接近させる事の問題を論はなければならない。人と人との距離が接近すると云ふ事は、親近感を覺えさせる事であり、一方が他方を敬はなくなる事だが、さうやつて嘗て敬意を以つて接せられてゐた存在が親近感を以つて接せられるやうになる事が果して良い事か何うか――さう云ふ事を全く考慮せず、單なる「人権」と云ふ「機械的」な判斷をしかしない事は、果して良い事であるのか。安吾が何を言はうが、渡邊さんが道徳の觀點から天皇を論じてゐないのを見れば、既に「日本の光輝ある伝統」は、非道い状態に陷つてゐる。破壞の後に保守反動の波が來れば良いと渡邊さんは述べてゐるし、それは保田與重郎も述べてゐるのだが、實際のところ、反動は來ないだらう。日本において、「和魂洋才」は無理があつて、それで何うなつたかと言へば「無魂洋才」と云ふ事になつた。今後、その「無魂」が「洋魂」となる事は、俺は期待出來ないと思ふ。だから、「人権」とか「自由」とかは單なる政治的なスローガンであり、獲得すべき「權利」として唱へられるに過ぎず、結局のところ非人間的で「機械的」な主張でしかないと俺は見る。人權にせよ自由にせよ、全て歴史的に獲得されなければ血肉化しない。だからと言つて、單純に西歐の経てきた歴史を日本が同じやうに眞似ればそれで十分かと言へば、さうではない。だから、本質的に西歐の自由や人權思想は日本には根附かないと俺は考へてゐるが、しかしそれでも日本は、西歐や西歐の近代文明を受容れた諸外國と附合はざるを得ない現状、西歐の自由思想・人權思想を皮相淺薄なものであつても理解しなければならない事は言ふまでもない。それでも、單純に西歐で生れた自由や人權の考へ方は、そのまゝ日本人には受容れられないと考へる。飽くまで日本の歴史に根差した形で――日本的に變形された形でのみ、「自由」「人權」は受容れる事が可能だらう。そして、その「自由」「人權」は、西歐のものと、一往の整合性が取られねばならない。が、その爲には、單純な西歐の模倣ではない、それこそ「和魂」に基いた「洋才」が求められる。云々。
しかし、さう云ふ目的の爲に、皇室の傳統なり歴史なりを破壞せよ、と主張するのは、どうも非人間的な事であるやうにしか思はれない。
左翼人士(含渡邊さん)の「人權」關係の主張は、どうも人間を見ない、觀念的なものであるやうに思はれる。それが、天皇觀に露骨に表れてゐるやうに思はれる。渡邊さんは、天皇を血の通つた人間と見てゐない。單に「人權を持つべき觀念としての人間」と見てゐる。或は、「法的に人間になるべきだ」と云ふ主張であるやうに思はれるが、それは人間的ではなく法的な見方である(「法律は人間的なものである」式の反論は不可である。私は人間的に對立するものとして法的と云ふ言葉を使つてゐる)。
平成十七年二月十四日
まほらばがはじまるので文章がアレになつたのだが、書直したり續きを書いたりする氣力がない。
平成十七年二月十四日
まほらば。主人公の性格を良い事に、周りの連中が主人公を揶揄つて面白がつてゐるいぢめあにめ。
平成十七年二月十四日
トップ2! 第二話 @ AT-X。思つたよりもずつと面白かつた。次邊に中弛みが來さうだけれども、その後盛り返してクライマックスに持つて行ければ、良作になるかも。
平成十七年二月十四日
寢ますよ。寢る。ねるねるねるね。
平成十七年二月十四日
http://web.archive.org/web/19990823061927/www.geocities.co.jp/Berkeley/7148/genronjin001.html
「電腦正統記・言論人著名人の主張」。芥川龍之介、島崎藤村、與謝野晶子、萩原朔太郎の「主張」が、出典が明記されてをらず、文章が全て入力されてゐない。その邊がきちんとしてゐれば資料として「使へる」ものとなつたのだが。
今更言つても仕方が無いのだけれども。
平成十七年二月十四日
一輪車の資料保管庫
平成十七年二月十四日
『月曜評論』連載「この世が舞臺」の特設頁
平成十七年二月十四日
http://seijiseikana.g.hatena.ne.jp/iwaman/20041212
平成十七年二月十四日
羅列。新宿展 @ 東京古書會館。大野晋・森浩一・江上波夫・吉田敦彦・佐々木高明『新日本語考 ルーツと周辺』(朝日新聞社)。福原麟太郎『野方閑居の記』(新潮社)。河合榮治郎選集第一卷『社會思想家評傳』(日本評論社)。慶應義塾大學語學研究所編『世界の言葉』(慶應出版)。ダブりか何うかは氣にしたら負けかなと云々。

平成十七年二月十三日
今期の土曜日深夜〜日曜日早朝は、TVKが糞あにめあわーで觀てゐられないので、RDのHDDからDVD-RAMにデータを移す作業たいむに。
平成十七年二月十三日
ギャラリーフェイク。一往大體毎囘觀てゐるよ。なんか顏の黒い女の子がDQNな行動をとつたらうまくいつたみたいな話。
平成十七年二月十三日
シノブ伝 @ キッズステーション。第十囘。あはは、あはは、あはははは。シノブ伝はにじうらを覗いてゐるかゐないかで面白さが變る。と言ふか、一度觀てゐるんだけれども。
平成十七年二月十三日
忘却の旋律 @ ANIMAX。榎戸。「モンスター」なんて陳腐な命名をしなければ良かつたのではないかと。今更なにを。
平成十七年二月十三日
カウボーイビバップ @ ANIMAX。岡村天齋。過去が何うたら斯うたら。いかにもサンライズ的。
平成十七年二月十三日
鉄人28号 @ ANIMAX。第一話と第二話。ふたりは正太郎。しょたキャラの正太郎が頤キャラなのが氣に入らない。あと、あにき(CV若本)死亡。もつたいないやうなもつたいなくないやうな。
平成十七年二月十三日
ああっさうだっ昨日、てれびでギター侍をはじめてみたんだよ。だからなんだと言はれても困るが。
平成十七年二月十三日
制作者スタイルシートで一々インライン要素だとかブロックレヴェル要素だとか定義してゐる人は、あんまりゐないやうなのだけれども、HTML 4.01とかXHTMLとかを宣言してゐる文書のスタイルを定義する用途の場合、さう云ふ定義の記述は省略可なのかなー。
基本的にHTML文書をブラウザが何うレンダリングすべきかは規定されてゐない。けれども、HTMLの各要素がブロックレヴェルかインラインレヴェルかは規定されてゐる。サイト制作者は、ブラウザがその邊の規定を基に各要素の基本的なスタイルをデフォルトで用意するものである、ブロックレヴェル要素はブロックレヴェルの要素として、インライン要素はインラインの要素としてレンダリングされるものである、と期待して良いのだらうか。
平成十七年二月十三日
掲示板は、書込まれた記事の内容に見るべきものがあつたとしても、情報が未整理のまゝだから、情報源として必ずしも良いとは言へない。全ての掲示板で、情報は時系列で整理されてゐるに過ぎず、精々「○○板」のやうな形でジャンルが分けられてゐるだけである。ツリー形式・スレッド形式の掲示板でも、似たやうなものである。
所謂「ブログ」でも、情報は時系列で竝べられてゐる。カテゴリの分類も、所詮は掲示板の「○○板」レヴェルの分類に過ぎない。カテゴライズ・ジャンル別の分類は、大雜把な分類であり、そこから先の分類が、情報の利用には必要である。情報の整理と云ふ觀點では、「ブログ」は掲示板と同レヴェルのものである。
情報を利用される爲には、大雜把に分けられた記事を、誰かが意圖的に並べ直す事が必要である。それが出來る掲示板は、匿名掲示板にはもちろん無いし、個人の運營する掲示板にも存在しない。掲示板では、書込まれる情報の質が千差萬別であるのみならず、個別の記事の記述の仕方もまた千差萬別である。記事の組合せで情報を整理する術はない。「ブログ」においても、今のところ、そこまで可能なツールはないやうだし、そんな事まで一々叮嚀にやつてゐる制作者はゐない。さう云ふ事をやる手間を惜しんでゐるからこそ、「ブログ」の利用者は「ブログ」を利用してゐる。それに、「ブログ」の場合、完結した記事は基本的にあり得ず、コメントやトラックバックが附く。その場合、記事は記事として完結してゐない。
平成十七年二月十三日
情報を纏めて一貫した主張とするには、一箇の主體が必要である。個人でも、エディター・編緝者でも良いが、とにかく一貫した意志が必要である。けれども、「We」が「blog」する「ブログ」では、意志の統一があり得ない。ならば、「ブログ」では、全體としては、カオスとしての情報の塊が出現するだけであり、個人の一貫した主張は決して表現されない。
平成十七年二月十三日
http://d.hatena.ne.jp/kahusi/20050213#1108287974
福田恆存も新聞で書く時は妥協してゐる。(「私と仮名づかい」)
渡部晋太郎『国語国字の根本問題』
他人の掲示板でもWikipediaでも、それぞれのサイトに「正義」があるのであり、そこで自分の正義を貫かうとしても屡々無理がある訣で、ならば自分のサイトで何でもやるしかない。
誰かの主宰してゐる掲示板では、その主宰者の考へる「正義」が押附けられる。掲示板の主宰者がDQNで根性が腐つてゐて、主宰者の主張や言動を批判をして、投稿者の側が理窟で勝つてゐても、主宰者は投稿者を「掲示板荒し」呼ばはりする事がある。外部の人間から客觀的に見れば、主宰者の方こそDQNであり惡性であるとしても、主宰者は掲示板の中では「正義」である事が出來、投稿者を小馬鹿にし、「荒し」呼ばはりして好い氣になる事もあり得る。俺はその被害者である。さう云ふ事があり得るのだから、他人のやつてゐる掲示板には安易に書込むものではない。そして、それはWikipediaのやうなところも同じである。
俺がWikipediaなんてところに書く氣が全くしないのは、そこが俺以外の誰かが定めた「正義」が通用するところであるのが重大な理由だ。あそこは、俺の文章ではなく「みんなの文章」を書込むところだ。あゝ云ふ處では個性を出してはいけないのだし、正義を押通さうとしてもならない。實に詰らないところだ。だから俺はWikipediaなんてところに書込まうと思はない。書込んだ事はあるけれども、本當に詰らないと思つた。
平成十七年二月十三日
虹裏のやうな特殊な掲示板に於いては、見て呉れる人が多いし、即座の反應があるから、書込んだ人間は當座の滿足を得る事が出來る。が、それは結局のところ、良い暇潰しである、と云ふ事をしか意味しない。が、同時にそれは、虹裏中毒を惹起す原因でもある。あと、前に書込んだネタが或日突然、誰かにまた使はれて、書込まれる、と云ふ事があるのも、虹裏に入りびたる「」を増やす原因となつてゐる。あそこは住人が多過ぎる割にネタが少い爲、コミュニティが成立してゐる。

平成十七年二月十二日
久々に更新された處を叩くのもアレだけれども。
DIVEの「(2/11)わが往くはレスの大海 咽嚢」の記述
年も改まつたといふことで、新しいことを始めてみやうかと。
助動詞の「よう」は「よう」だと何度言へば云々。(形式)名詞の「やう」とは違ふので、區別しなければならない。
「ない」で置換へられる場合は「よう」、置換へられない場合は「やう」と覺えておくと便利。
あと、スレの方が荒れてるよ。
平成十七年二月十二日
「南セントレア市」問題。
某にじうらで「ガンダム市にでもしろよ」なんて皮肉を言つてゐる「」がゐて吹いた。
平成十七年二月十二日
日本語と外国語
平成十七年二月十二日
デジタルテレビは、チャンネル切換やメニュー呼出しの際の反應速度が遲い。これは缺陷だが、改善されるのだらうか。

平成十七年二月十一日
AIR。なんでぎゃるげあにめは皆、トンデモ展開なんだ。取敢ず「笑ふ」と「微笑む」とは區別していただきたいものだ。云々。
平成十七年二月十一日
舞-HiME。典型的なサンライズ流鬱展開。いろいろとうざつたい。特に車椅子。みんなでわるだくみしてる。嫌なすとーりーだなー。どこが萌えあにめだよ。誰も望んでゐない方向に進んでゐる氣が。
あとぬこはぬこ板へ。
平成十七年二月十一日
電撃のルカ。SFに限りなく近いおばけばなし。最近、昔のSFのネタをしれつと投入する人ばつかり受賞してゐる。俺の所爲ではない。
平成十七年二月十一日
バレンタインデーつて何日だつけ。はてなのキーワードの解説を見ても出てゐないよ。使へない。
ええと十四日ですか。バレンタインデーでぐぐつて2ぺーじめでやつと判りましたよ。ぐぐる先生使へない。十四日には男の人とかれーを食べに行きます。フルパワー。
平成十七年二月十一日
と言ふか、今日は紀元節だよ。「きげんせつ」で一發で假名漢字變換できないようちのWXG。使へない。

平成十七年二月十日
ねぎま。いつもより少し面白かつたやうな氣がする。しかし鬱展開。
それにしてもまほろとかまほらとかまほろばとかまほらばとかまぶらほとか言ふのは悉く屑だなー。
平成十七年二月十日
「聖戦士バイバイン」とか云ふあんまりおもしろくないネタを思ひついたのだが何うしたものだらうか。
平成十七年二月十日
何うしたもかうしたも、ぐぐると二件ひつかかる。
平成十七年二月十日
TVの地方局は必要なのだらうか。
平成十七年二月十日
虹裏のライトノヴェルスレに書込みたいがJ-COMがアクセス規制されてゐるので書込めない。
一次選考も二次選考も最終選考も「出版可能と思はれるものを通す」んだよ。建前としては。
一次選考は勢ひだけで通る作品もあるから一概には言へない。
平成十七年二月十日
両国予備校が閉鎖だつて。
平成十七年二月十日
不人氣「南セントレア市」。やつぱり再檢討されて、住民アンケートが行はれる事になつた模樣。
平成十七年二月十日
貝殼蟲驅除の方法について。なんかないか。

平成十七年二月九日
MOTを究める技術経営戦略誌日経ビズテックNo.5は今日發賣です。松原先生の連載が始まつてゐますよ。144〜145ページ。広辞苑批判とか西尾幹二批判とか。
平成十七年二月九日
Tohoo Search Results
「附属」か、「付属」か? なんか教育出版が惡さをしてゐるらしい。
平成十七年二月九日
本の話連載|読書エッセイ
読書エッセイ|本の水脈012
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/nayamama/yoya/
平成十七年二月九日
http://www.megaegg.ne.jp/~nitiroku/kako10.html
私が言わなくても、当時の書き込みのなかにも具眼の士が何人かいた。くどくなるが、二例を掲載させていただく。西尾幹二、アレクセイが「義」を襃讚へるのと同じやうな眞似をしてゐる。
文章書きはどんな人にも闇がある。行動の逸脱もある。三島由紀夫にも江藤淳にもそれはあった。その人と付き合いたくなくなるような厭な側面、人間としての危うい側面がある。福田恆存氏にもそれはあった。晩年それがことさらに露呈した。運命を共にした劇団の事務局長が福田恆存に関する誹謗文書を残している。福田論を書くならこのようなネガティブな側面をどう評価するかは、避けて通ることはできない。福田家のご遺族もたぶん読みたくない部分である。
西尾氏を論ずるには、西尾氏のネガティブな側面にも觸れる必要がある訣だ。西尾信者の方々には教祖樣の御言附けになつた事をしつかり實踐して頂きたいと思ふ。
ところで西尾さん、あなた、例の講演會で、福田氏のネガティブな側面をきちんと指摘し、福田氏を非難していらつしやいましたつけ?
平成十七年二月九日
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/H13/1311/131127afghanistan.html#09
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/H15/1501/150103think.html#10
平成十七年二月九日
ちくまプリマー新書
橋本治『ちゃんと話すための敬語の本』と内田樹『先生はえらい』とを一緒に出す新書。兩方買つて讀み比べてみると面白いだらう。が、思ふに、一方の讀者は他方の讀者ではない。
平成十七年二月九日
帝國海軍への鎭魂頌
平成十七年二月九日
買物記録。吾妻ひでお『オリンポスのポロン』(ハヤカワコミック文庫)。全二卷。第一卷95ページに改變あり。ほかにも幾つかあり。

平成十七年二月八日
昨日は北方領土の日だつたのだが、この界隈では何處も扱つてゐないみたい。俺も忘れてゐたけれども。
北方領土の日でぐぐると何かアレなところが一番上に出て來る。
平成十七年二月八日
UHF局向けのえろいあにめアルティメットガール。そろそろ馬鹿展開から鬱展開に移行するのかな。
平成十七年二月八日
何で最近のあにめは皆、戀愛をてーまにしますか。食傷ぎみ。
平成十七年二月八日
でなければ政治。いづれにしてもぐだぐだ。
平成十七年二月八日
と言ふか、どうしてあにめの登場人物は例外ナシに駄目人間ですか。常識的な人がもつとゐても良いと思ふ。
平成十七年二月八日
TVタックルで北朝鮮に經濟制裁をすべきか何うかで議論をやつてゐたけれども。經濟制裁をやつて何も效果が無かつたら何うするのかとか、そこで金正日がぶち切れたら何うするのかとか、その邊の事についてきちんと話をしてゐる人はゐなかつたやうだ? 途中までしか觀てゐない。
軍事的な背景がないのに經濟制裁だけやつても意味はないよ。
平成十七年二月八日
さて、ちきん野郎の俺は、直接りんくを張らないで、話題にしてゐる日記の記事にリンクを張つて逃げてゐる訣だが。
http://memo.readalittle.net/?date=20050208#p01
松下製品の不買運動をやつて松下に文句を言ふのが效果的か、それとも松下のユーザになつて「俺は御前のところの大事な顧客だ」とか言つて松下に文句を言ふのが效果的か。眠いのでコメントは適當。
特許特許と言ふ人は何處にでもゐるのですよ。と言ふか、「言ふ」と變換出來るだけでそのIMEは特許に牴觸するらしいですよ。
平成十七年二月八日
さて、月詠が始まりますよ。
平成十七年二月八日
終りましたよ。あつさり八箇月經つてる。ねこみみ神社。妖怪何か用かい? 山までねこみみ。また敵かよ。敵いらね。めどいです。Ed白黒。カバディカバディカバディカバディ。
平成十七年二月八日
鬱日記とか馴れ合ひとかはmixiでやれっ。もしかして: mixerなんて言はれてゐるよmixi。
平成十七年二月八日
http://esu.oresama.org/200502a.html#20050205_s2
つ[神奈川の図書館]
紅葉坂の上の横濱縣立圖書館はいろいろとイタい思ひ出のある場所。本は大してない場所――十五年くらゐ前は大した圖書館でもないやうに感じた。今行つたら何んな印象になるかは不明。なんか櫻木町近邊も變つたみたいですね。東横線がなくなつたのださうですね。みなとみらいつて變な日本語ですね。誰が考へたのでせうね。良いと思つたのでせうかね。どうして誰も「やめろ」と言はなかつたのでせうね。
寢ます。
平成十七年二月八日
Amazon.co.jp: 本: 南京事件「証拠写真」を検証する
2005/02/06のレビューによれば盗用のオンパレード問題外であるらしい。

数年前に解散した某研究会の発表内容が、発表者の許可・承諾もないままに使われています。

インターネットの某サイトの内容が、管理者の許可・承諾もないままに使われています。

どうして「許可・承諾もないままに使われた」と云ふ事がこのレビュアーにわかつたのか知りたい。詳細希望。
平成十七年二月八日
ビジネスイノベーター | 新雑誌関連のお知らせ
「2月9日発売」第5号の見所。日経ビズテックは明日發賣です。

平成十七年二月七日
相模原書店・古書店情報。差分。
ドラマ淵野辺店。りら淵野辺の斜め前。もとコジマの建物。二階が在庫二十萬册を謳ふ大型セコハン書店になつてゐる。それなりに規模は大きい。なぜか古めの漫畫雜誌が結構ある。一般の漫畫は豊富。一般の單行本の方は、棚は一往整理されてゐるものの、並んでゐるのがベストセラーを中心とした駄目な本許りで使へない。掘出し物は皆無。
ダイエー相模原店内アシーネ。駄目店。
平成十七年二月七日
堀米庸三『正統と異端』(中公新書)、何處を探しても見附からないよ。少し前までは何處ででも見掛けたやうな氣がするのだけれども。少し古めの新書と文庫の在庫を處分したブックセンターいとう殺す。いまだに古めの新書が山のやうにあつて腐れてゐるりらにもない。
平成十七年二月七日
丸谷才一『ゴシップ的日本語論』をBOOK OFFで買つて來た。
歴史的假名遣で表記されてゐるが、憂国の論として書かれた巻頭の日本語論二篇も含めて、何處にも「なぜ歴史的假名遣か」の説明がない。何なのだらう。
平成十七年二月七日
http://www.remus.dti.ne.jp/~a-satomi/nikki/2005/02a.html#d07n01
さとみかん他色々變更。index_nq.shtml廢止等。
「さとみかん」ポリシー
CSSコミュニティ始末記
平成十七年二月七日
まほらば。見てゐて苛々するやうな展開。主人公が主體性を持つてゐない。めがねのおねえさんが一々餘計な事をする。管理人さんは全然出て來ない。この三人がゐなかつたらとてもおもしろいおはなしになつてゐたのではないか。
日本のあにめとかまんがとかの制作者は、視聽者や讀者を苛々させるのがエンタテインメントだと屡々思つてゐる。困つた事である。
と言ふか、嘘臭いストーリーとキャラの描き方をしておいて、生活感も糞もないだらうと。
あと、天然の馬鹿を平氣で出すのは何う云ふ事なのだらう。「嘲笑へ」と云ふ事なのかな? それと天然の意地惡を以下略。
平成十七年二月七日
プリキュアマックスハート駄目つぽいみたいですね。せつかく最高畫質で録つたのに。
平成十七年二月七日
http://d.hatena.ne.jp/kahusi/20050206#1107692753
讀賣新聞朝刊「地球を讀む」のネタ、坪内祐三氏の『靖國』文庫版あとがきのパクりつぽい。
8月15日である理由つて何でせうか。「地球を讀む」に説明が書かれてゐたと思ふのだけれども?
平成十七年二月七日
ゆとり教育は、何が失敗だつたか。授業の時間數が減らされた事か。授業で教へる内容が少くなつた事か。
否。教へ方が根本的に間違つてゐるのに、その間違つた事を改めなかつた事だ。
国語の授業時間數が減つた事は問題か。問題だらう。しかし、増やせばそれで濟むか。濟まないだらう。今のやうな、世間で一般的に使はれてゐる日本語とは全然違ふ、「おこさまむけのやさしいにほんご」を教へる今の国語は、幾ら増やしても駄目だ。提言する、小學一年生にも、新聞・雜誌竝の文章を教へよ。今のやうな、ひらがな許りで、内容も「いかにもこどもがかきましたみたいなぶんしょう」でしかない代物を教へるのは止めて、普通の文章を教へよ。そして、テストの採點方法を變へよ。「大體出來てゐれば良し」にせよ。教へた内容を悉く覺えてゐるか何うか、と云ふ發想に基く試驗問題を改めよ。高度な内容を教へて、それで必要なレヴェルの事が覺えられたか何うかを試す問題を作るやうにせよ。百の事を教へて百の事を完全に覺える事を強ひる、と云ふ今の教育はをかしい。千の事を教へて百の事が頭に殘つてゐれば十分である。さう云ふ教へ方こそ本當の「ゆとり教育」と言へるだらう。教へた事を完璧に覺えさせるのが、どうして「ゆとり」ある教育と言へるのだらうか。
平成十七年二月七日
データ入れ替えで大ポカ

平成十七年二月五日
http://d.hatena.ne.jp/kahusi/20050204#1107465631
HDDのアルファベットを變へる事は出來るのだらうか。
HDDのアルファベット? ドライヴレターの事かな?
ドライヴレターの變更は、WindowsXPなら「コントロールパネル」-「管理ツール」、[コンピュータの管理]の[ディスクの管理]でHDDのパーティションを擇んでショートカットメニュー「ドライブ文字とパスの変更」で出來るけれども。
起動ドライヴとかWindowsのあるドライヴとかProgram Filesのあるドライヴとかのドライヴレターを變更するのは御薦め出來ない。
平成十七年二月五日
datのデフォルトネームがしもんきんに。
平成十七年二月五日
と言ふか、またJ-COMアク禁かよ。俺のせゐぢやない。
平成十七年二月五日
のあ
とても秀逸な替歌を思ひ附いたのに、JASRACのせゐでおほつぴらに歌へないのつて、ストレス溜まるよね?
あやの
いや……。
のあ
溜まらない?
あやの
……コメントのしやうが。
平成十七年二月五日
ファミリー劇場 ---来月のおすすめ
4月からの放送開始を記念して、集中放送◎バラエティ「できるかな」
平成十七年二月五日
受信料に依存した公共放送なるものは、果して必要だらうか。必要ではないと思ふ。公共放送つて何だよ。民間放送だつて公共の放送と言つたら公共の放送だらう。何十萬人、何百萬人が觀てゐるのに、公共のものでないとは言へないだらう。良く知らんが。NHKの存在意義つて何?
寧ろ、税金に依存した國營放送が必要であると思ふ。私の企業に對立すべきは國營企業だらう。NHKなんて曖昧な存在は潰すべきだ。NHKを潰して、國の命令で番組を作る國營放送を作るべきだ。國民の聲は、民間放送が勝手に代辯して呉れる事だらう。
先日來のNHKと朝日との「對立」が良く解らないのは、「體制側なのか反體制の側なのか良く解らないけれどもとにかく國民の代辯者を標榜する公共放送」と「反體制の側であるにもかかはらず公正中立を標榜してゐる民間放送」とが「對立」してゐる事だ。
體制側の國營放送と反體制の民間放送とが意見を對立させるのならば、視聽者にとつても「わかりやすい」話になるだらう。
民間放送は「公正」だの「中立」だのといつた「建前」を言はなくても良い事にすべきだ。マスコミは信頼されてはならないのではないか。何百萬人、何千萬人もの人間が同じ事を信じてしまふのは恐ろしい事であるらしいではないか。放送局が信頼を失ふのは良い事である。
平成十七年二月五日
と言ふか、デジタルテレビの時代には「受信料を拂はない人のうちではNHKが映らないやうにする」と云ふ事で良いと思ふのだが。
平成十七年二月五日
『プログラマの数学』
非論理的な「日本のクリスチャン」である結城さんと、論理的なプログラマである結城さんとは、同一人物なのだらうか。或は、なぜ同一人物なのだらうか。
平成十七年二月五日
http://d.hatena.ne.jp/kahusi/20050205#1107548074
ネタにマジレス云々。
なんか反應が遲いと文句を言はれてゐるし。
平成十七年二月五日
エラーがあつたから二度と松下のDVD-RAMは買はないと言つてみても、ほかのところのDVD-RAMもみんな松下のOEMだつたりするのであんまり意味はなかつたりする。
それはともかく、期間限定で出たマクセルのやけに安い10枚入りスピンドルのDVD-Rは何なのだらう。大丈夫なのかな。
平成十七年二月五日
asahi.com : オフタイム : パーソン
日本語研究の「総まとめ」出版 国語学者・大野晋さん『弥生文明と南インド』(岩波書店)。
(2005/01/04)。赤肩なのは判つてゐる。

平成十七年二月四日
めも。
ImeWatcher - Free Software!
平成十七年二月四日
asahi.com : English
鳥は頭がいいことが判明
平成十七年二月四日
AIR。みんな病氣。あー古書買ひますの店、入つてみたいなー。棒讀み。
平成十七年二月四日
ゆかなさん一人二役のあにめ鬱-HiME。なんか典型的サンライズあにめ化してゐる。勢ひでぐだぐだの状況を押通さうとしてゐるのだけれども。

平成十七年二月三日
のあ
ハンドルなんて飾りです! 偉い人にはそれがわからんのです!
あやの
落ち着け!
平成十七年二月三日
ねこまたぎ
平成十七年二月三日
誰かが野嵜に復讐するのを、アレクセイは支持すると言つた。ならば、アレクセイは、誰かがアレクセイに復讐するのも支持しなければならない。管理人であるアレクセイが先に自作自演や誹謗中傷で野嵜に嫌がらせを仕掛けてゐたのだから、野嵜の行爲が、實際にはさうでないけれども、假に「掲示板荒し」であつたとしても、アレクセイは「復讐」として支持しなければならない。なのに、アレクセイが野嵜を「掲示板荒し」と極附けてゐるのは、自分勝手である。
また、アレクセイには、野嵜を「掲示板荒し」と極附ける自分の行爲を「批評」「批判」と言ふ事が許されない。アレクセイの行爲も復讐となるからである。
平成十七年二月三日
野嵜が餘所の掲示板を荒した事は一度もない。ただ、管理人とやりとりをして、管理人が變な事を言つた時には批判をしてゐるし、變な事をやつた時にはそれをパロディ化して批判してゐる。その時、管理人が野嵜を「掲示板荒し」と極附けて追出すだけの話である。全て批判なので、きちんと理窟で説明する事が出來る。
と言ふか、アレクセイは、野嵜の投稿を檢閲し、野嵜を掲示板から追出した。「言論」「言論」と曰ふ自稱「批評家」のアレクセイが、先に「言論」以外の手を使つたのである。アレクセイは、「批評家」よりも「管理人」である事を擇んだ。「批評家」失格である。彼は未だに「俺は批評家だ」と言つてゐるのだらうか。さうだらう。恥知らずである。
平成十七年二月三日
「義」も、野嵜の眞似をしてゐるだけだ、と言ふ。しかし、「義」は、ただ野嵜の口吻を眞似てゐるだけで、野嵜の理窟をパロディ化してゐるのではない。だから「義」のは、批判ではなく、惡質な嫌がらせである。
そもそも、人の文章を無斷轉載したり、告げ口をしたり、人の名を騙つて餘所の掲示板に書込んだりしてゐる時點で「義」に正義は無い。
平成十七年二月三日
ねこまたぎ終了。
平成十七年二月三日
http://d.hatena.ne.jp/funaki_naoto/20050202#p3
「現代は言葉が紊れてゐる時代なのだから、『常用漢字表』でその混亂を収拾しようとするのは不自然だ」とか「『常用漢字表』を廢止した時に起るのは、混亂ではなく變化である」とか。
漢字制限については問題になるけれども、假名遣ひについては全然問題にならない。それが問題だ。
平成十七年二月三日
うちのサイト邊の閲覽者に需要があるか何うか知らんがリンクを張つてみる。
【コナミネット】アプリゲーム|
平成十七年二月二日
櫻花さん
節分には本を撒く、と言ふ奴は許さない。
蜜子さん
許さないのか。
平成十七年二月二日
蜜子さん
年齡の數だけ本を讀む、なんて何うかね?
櫻花さん
讀めるか馬鹿。
平成十七年二月二日
忘れてた。ネギま。オコジョうざつたい。

平成十七年二月二日
★★★ Ryu's Milk Bar 掲示板 ★★★
アレクセイ沖泰光のたちの惡さはまるで朝日新聞のやう。逆恨みも好い加減にして下さい。あなたの負けは火を見るよりも明かですアレクセイさん。「義」もアレクセイも、他人に迷惑をかけて樂しむのは止めて下さい。
「義」のリモートホストその二。i217235.ppp.asahi-net.or.jp。ISPを幾つも契約してゐる模樣。
ええと、接續する度にinfowebはリモートホストが變る筈です。同じリモートホストであつても、昔の投稿ならば別人です。
と言ふか、アレクセイの所謂「正字正かな論争」、「引用する際、假名遣の變更は認められるか」と云ふ最初のテーマからどんどん論點がずれて、最終的に「如何に野嵜の人格は惡いか」と云ふ話になつてゐて、「汚い尻尾」等とレッテルを貼つてアレクセイ、勝つた氣になつたのだけれども、論點をずらした時點でアレクセイの負けだし、論爭の關係者の人格が論爭の勝敗を決めると云ふのなら、「私怨で野嵜に嫌がらせをする」と言つた某氏を應援したり、犯罪者の「義」と共同戰線を張つたりしてゐるアレクセイの負けは確定する。
理窟がアレクセイには解らないのである。かう云ふ非論理的な人間は、他人の感情に愬へて、氣に入らない人間を袋叩きにしようとする。理窟が通らない人には困つたものである。そして、理窟が解らない人は、世間には餘りにも多い。しかし、だからこそ、アレクセイは感情に愬へて、恥ぢないでゐられるのである。
あと、複數のハンドルを遣ひ分け、複數のIPから接續してゐる「義」を一箇の人格として認めるのは、同一のリモートホストから投稿してゐるにもかかはらず「アレクセイ」と「ホランド」は「別ハンドルだから別人である」と云ふアレクセイのかねてからの主張と矛盾するのだが、アレクセイはどうしてこの矛盾に氣附きませんか? あなたは馬鹿ですか?
それから「掲示板荒しの言ふ事は、理窟であつても無效であり、聞入れる必要はない」と言ふのは「掲示板荒し」のレッテルを貼る事で相手の言論を封殺する事である。それが許されるのならば、アレクセイの所謂「ISPなりTeaCupなりに『泣きつく』」事でアレクセイが默らせられるのも當然「許される」事となる。私は、論理的に相手が許さざるを得ない事をしか相手に爲さない。私を非難しようとしたければ、その前にアレクセイも「義」も先づ自分達自身を非難しなければならない。
そして、もしさうであるのならば、彼我は論理的に「相討ち」である、として、野嵜の行爲を非難する人がゐるならば、その時私は答へるであらう、私には「相討ち」となる理由以外に、さらに別の正當な理由を持つてゐる、と。單純に「相討ち」とはならないのだ、と。アレクセイらの攻撃が一面的に野嵜の言論を封殺しようとしてゐるのならば、野嵜の言論におけるアレクセイらの「言論」の「封殺」には――否、アレクセイや「義」の「言論」は、眞の言論でない。私怨の憂晴しや嫌がらせの目的しかないアレクセイや「義」の言論封殺と違つて、當方のやつてゐる事はアレクセイや「義」による誹謗中傷や侮辱といつた犯罪行爲の封殺である。同じ封じ込めでも、言論の封じ込めは許されないが、犯罪は封じ込められて良い。アレクセイや「義」のやつてゐる事は、私怨に基く事であるのが明かであり、依つて犯罪行爲である事は、彼等が野嵜の言ふ理窟を無視して人格攻撃をしてゐるのを見れば明かだが、さう云ふ犯罪行爲に封じ込めと云ふ對抗手段を取るのは、許される。當り前の話である。アレクセイが「批判の抛棄」と極附けて當方を非難するのは、アレクセイの言動が言論でないのだから、不當な極附けである。
平成十七年二月二日
さて、これだけ書いても、アレクセイは絶對に反論しないし、「義」もしない。彼等は「なぜ野嵜は負けたのか」とは書かない。ただ「野嵜は負けた」「野嵜は掲示板荒し」とひたすら連呼するだけである。
選擧の末期に候補者の街宣車が「○山×夫、○山×夫に皆樣の一票を」を連呼するだけであるのと一緒である。彼等のやつてゐる事が、論爭ではなく、單なる宣傳行爲である所以である。「義」もアレクセイも、「批評家」ではなく、單なる「政治屋」である。「政治屋」のアレクセイが、「批評」だの「批判」だのと言ふのである。
口汚い惡口を書いて批評をやつた積りになつてゐる佐高信と同じである。理窟を言はない「批評家」が、本當の批評家である訣がない。が、世間の人間は欺される。欺される奴は馬鹿だが、さう云ふ馬鹿は多い。批評家に欺されないだけの智慧は持ちたいものである。
平成十七年二月二日
アレクセイの所謂「正字正仮名論争」については、アレクセイの負けが確定し、野嵜の勝ちが確定したと言へる。他人の文章を無斷轉載し、時として内容の改竄も平氣でする「義」を認めてゐるアレクセイは、當然、無斷轉載も、内容を改竄した無斷轉載も「正しい」と考へてゐる。ならば、假名遣ひを變更した引用もまた、アレクセイは「正しい」と言はざるを得ない。それが論理である。
また、アレクセイは、「義」の投稿を削除しながら、「義」を掲示板荒しと認めてゐない。ならば、「自分が削除した投稿は荒しである」と言ふアレクセイの主張は崩潰してゐる。アレクセイは、「野嵜健秀の汚い尻尾」と言ひ、野嵜を掲示板荒しと極附けたが、その根據は崩潰してゐる。
平成十七年二月二日
アレクセイの掲示板を見れば、アレクセイがナルシストである事は一目瞭然で、それが解らなかつた木村さんの人を見る目を私は根本的に疑ふのだけれども、ナルシストであるがゆゑにアレクセイが他人の批判を受容れられない事も最初から解つてゐた事であり、執拗に批判を繰返した我々にアレクセイが復讐を誓ふのもやはりアレクセイの人間性が原因なのだが――要はさう云ふ惡性の人間には近寄らないのがベストである。それは兔も角。
BBS『アレクセイの花園』
「俗物世間(1) 投稿者:園主  投稿日: 2月 1日(火)02時34分12秒」「俗物世間(2) 投稿者:園主  投稿日: 2月 1日(火)02時35分10秒」より。

この時の、私の気持ちを正直に申しますと「イライラしていた」ということになろうかと存じます。なぜかと言えば、父の病状はもとより、私たち自身が決定的な「宙吊り」状態におかれており、見通しも持てなければ予定も立てらない状態にあったからでございます。

親戚も含め、人は、ひとまず父が死ななかったことを「(ひとまず)良かった」と思うのでございましょう。しかし、当事者である私としては、「父の死」という目前の、ほぼ避けがたい可能性むけて、この2週間、自分自身と母の気持ちの整理をおこない、なんとかその覚悟ができたところで、見事にそれを「はぐらかされた」という感じなのでございます。もちろん、これが「快方に向かっている」ということならば喜びもするのでございますが、状況は単に「死の一歩手前で止まったまま」というもので、まったく楽観はできません。幸い、父に意識はございませんので、それで苦しみが長引くということはない(と信じたい)のでございますが、それを見守るわれわれ家族としては、正直これは「蛇の生殺し」状態なのでございます。

結局、だれを責めるわけにもいかない状態にありながら、まるで自分が父の死を願ってでもいるかのような気分に捕らわれているのが自分でもわかり、それが罪悪感ともなれば、そんな状況におかれてしまったこと自体が苛立たしく、何ともやり場のない怒りに捕らわれていたのでございます。

何て非道い奴だらうと思つた。
「俗物世間(3) 投稿者:園主  投稿日: 2月 1日(火)02時36分7秒」より適宜。

さて、なぜこんなことを書くのかと申しますと、それは私が「今のこの感情」に負けたくないからに他なりません。ここで、今の自分の感情を赤裸々に文章化し、そのことによってそれを対象化して突き放し、そのうえでこの苦難を乗り越え「プラスの経験」にまで転じたいと考えて、「愚痴」にしか見えないような内心の苛立ちを、このように公にすることにしたのでございます。

ですから、今の私は、この文章を書くことによって「やり場のない怒り」を対象化し、それを「敵」視することで、この宙吊り状態を逃れようとしているのでございますし、それはわりあい上手くいっているのではないかと、少なくともこの文章を書きながら、斯様に考えているのでございます。

アレクセイ沖泰光は、自分の言葉に醉つてゐる。ナルシスティックに陶醉してゐる。これは許されない事だ。全くの恥知らずである。
書いて良い事と惡い事とがある。アレクセイの「俗物世間」なる文章は、道徳的に汚らはしい、おぞましいものだ。アレクセイは、書いてはならない事を書いてゐる。
で、かう云ふ状況で。
★★★ Ryu's Milk Bar 掲示板 ★★★
「情報、ありがとうございます。 投稿者:アレクセイ@管理人  投稿日: 2月 1日(火)19時51分49秒」

☆ 義さま

ごぶさたしております。地道な活動をしておられるようですね。おおいに結構かと存じます。なにしろ『継続は力なり』ですから(笑)。

今回のご投稿は、この掲示板の主旨にそぐわないので削除させていただきましたが、ログは取りましたので、おいおい「利用」させていただきます。本当に「よいサイト」をご紹介いただけたと、ほくそ笑んでおります(笑)。

ご活動、心より応援しておりますので、楽しみながら頑張って下さい(笑)。

良く笑つてゐられるものだ。アレクセイがこれほど非人間的な人間であるとは思はなかつた。常人の想像を絶してゐる。アレクセイは、もしか生返つたら、父親がこれらの文章を讀んで、喜ぶとでも思つてゐるのだらうか。自分が「如何にアレクセイが立派であるか」を述べるアレクセイのネタにされた事を、アレクセイの父親は怒る筈である。もつとも、怒らないやうな親だからこそ、この子もあつた、と言ふのかも知れないが。
耻を知らないナルシストとは、恐ろしいものである。「掲示板荒し」よりも、アレクセイのやうな父親の命までもネタにする不人情な輩の方が、よつぽど恐ろしいものである。
平成十七年二月二日
餘りにおぞましい文章を引用したので、間を開ける。
http://216.239.63.104/search?q=cache:SEvA-qq-pS8J:book.2ch.net/mystery/kako/1010/10100/1010021273.html&hl=ja
平成十七年二月二日
櫻花さん
バレンタインデーには本を贈る、と云ふのは何うか?
蜜子さん
何うか? と言はれても。贈りたい相手でもゐるのか?
櫻花さん
……ふぁんきーじゅにあ。
蜜子さん
……マジか?
平成十七年二月二日
のあ
……もうすぐ……バレンタインデー……だよね?
あやの
そうだけど。誰かにチョコ贈るの?
のあ
……ふぁんきーさん。
あやの
ふぁんきーさん?
平成十七年二月二日
ふぁんきーじゅにあ
やらないか。
の(誰)
ふぁんきーじゅにあ
俺はノンケだつて構はないでくつちまふ人間なんだぜ。
……あんた、最近キャラ變つてないか?
ふぁんきー
さう思つてゐると、突然その男は僕の見てゐる前でツナギのホックを外し始めたのだ。(棒讀み)
なぜ脱ぐ。
ふぁんきー
寒いからだろ。
平成十七年二月二日
非モテ属性男性25歳のダイエット日記 〜新章突入! devil’s haircut - 四捨五入したら30
一月一日邊から福田恆存氏への言及がちらほら。
はてなダイアリー - 福田恒存
平成十七年二月二日
インフォシークニュース > トピックス > 特許・登録商標 > 特許権侵害で「一太郎」「花子」の製造販売中止命じる
ジャストシステム、東京地裁での敗訴を受け会見
「一太郎」と「花子」が販売差し止め、ジャストシステムは控訴を表明
Windowsのダイアログの右上に「?」マークのアイコンがあつて、それをクリックしてマウスカーソルのアイコンが「?」附きになつた状態で何處かをクリックするとヘルプが出る、と云ふWindowsの標準機能は問題にならないらしいので變だと思つたが、要は、一太郎の場合、「?」アイコンにマウスの繪が描かれてゐたのが問題、と云ふ事らしい。なんだそれは。

平成十七年二月一日
如月。
平成十七年二月一日
何か疲れたので寢ます。
平成十七年二月一日
寢る前にめも。
yasuoka の日記 (21275)
平成十七年二月一日
寢ようと思つたのにアルティメットガール始つちやつたから仕方なく視聽。
まあ暇潰しに觀るには良いんぢやないですか。
平成十七年二月一日
寢る寢る言ひながらまだ寢てゐない。
知ったかぶり・インターネットメイル用語辞典(笑)
平成十七年二月一日
なんか寒くね。
平成十七年二月一日
「義」の今のIP。「actkyo020136.adsl.ppp.infoweb.ne.jp」。
平成十七年二月一日
寢てねえよ。月詠。日常展開まつたり→エロフリーデさん昔話=鬱展開→爺とエロフリーデらぶらぶ=死亡フラグ→本當に死亡→爺豫告。爺死亡は原作通りらしい。
平成十七年二月一日
NHKアニメワールド ツバサ・クロニクル
真下。梶浦。芝美奈子。
脚本川崎ヒロユキ。
平成十七年二月一日
「少し不思議」はSFぢやねえんだよ。SFは合理的なものなんだよ。
平成十七年二月一日
寢る寢る言ひながらまだ起きてる。
寢ます。
平成十七年二月一日
服部四郎が「時枝誠記はソシュールを誤解してゐる」と指摘して、以來、時枝の本は古本屋で値がつかなくなつた、と昔、谷沢永一は書きました。その服部四郎の『音聲學』(岩波全書)が、古本屋で値がつかなくて、無料で放出されてゐたので、拾つて來ました。田村書店。
平成十七年二月一日
例の古書モールにて、寺田透『人間喜劇の老嬢たち ―バルザック一面―』(岩波新書黄版278)、辰野隆『書齋閑談』、同『醉眠巣雜記』を購入。

關聯リソース

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2005年1月
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