ルビはそもそも一次元ではありませんとあるのだけれども。
<ruby><rt xml:lang="ja" dir="ltr" title="しやう"><rb title="仕樣"><img src="shiyo.png alt="仕樣" /></rb></rt></ruby>
以後、宣伝目的の書込みは御遠慮願ひます。と言はれたので、腹癒せにうちを誹謗してゐる。
大乗的な見地から云々と言ふのはをかしいのだが、本人はをかしくない積りなのである。
伊達で使ひ居る仮名遣と當方を罵つてゐる。波江の「いろは」説を受容れないから、當方を「本氣でない」と波江は極附けてゐるのである。これは、誰が何う見ても「自分に反對する奴は間違ひと極附ける」と云ふ「戰術」でしかない。にもかかはらず、波江本人は十分、論理的である積りである。アレクセイにしても同じで、「本氣ならば」をかつて連發してゐたものである。それに木村さんがひつかかつたのだが、アレクセイの「本氣」は、「本氣ならテロをやるものだらう」と云ふ事で、氣に入らない相手には、合法・非合法を問はず、ありとある方法で攻撃を仕掛ける、と云ふものであつた。それが結局、「呪い」だの「復讐」だのとアレクセイが言出す理由なのだが、結局のところ「人は保身の爲にしか本氣になれないものだ」と云ふ考へを、アレクセイは持つてゐるのである。結果として、アレクセイらは自己愛を否定出來ず、保身の爲には犯罪も冒す。これが「本氣か否か」を根據にする波江やアレクセイのやうな人間に見られる二つめの問題である。
教会に行きたいけれど行けない方のために 2004年9月26日 14:09
例へば、HTMLの正誤確認サーヴィスがあるが、これは規格外の文字があると「判定」そのものができないのである。
明治時代の自由民權の考へ方においては、自由よりも平等が主となる傾向が強かつたといふ指摘は、今日においても、依然としてわれわれの自由の意識には、同じ缺陷がほとんど致命的な弱點として殘されてゐることを自省させるだらう。
丸ゴシック系で14ピクセルのビットマップフォントが欲しいけど、見当たらない。
ところで、この場をお借りして声を大にして言いたいことが。コメントで「実は『妹』にそれほど『萌え』は感じない。」とありますが、本当は続きがあったんです。「むしろ『弟』の方が。」と(爆)。しかし、高度な判断によってオチが途中で消えてしまったというわけで。
マックス・レーマン、マイアー兩者の論爭より始まつたドイツ史學史上のシュタイン論議を概觀したもの。「(極端な言ひ方をすれば)感情的な言爭ひ」に終つたレーマンとマイアーの論爭をきつかけとして、
この研究の進展は單にシュタインの人物乃至プロイセンの歴史の問題ばかりでなくヨーロッパにおける絶對主義より近代社會への推移を示すイギリスの立憲制度、フランス革命、プロイセン改革のそれぞれの特質とそれら相互の聯關の認識に對しても一つの光を投げかけるものとなつたのであるが、その過程を林氏は簡單だが的確に記述してゐる。その結果、「論爭のあり方」を考へる、と云ふ本來の林氏の執筆動機とは異る側面から讀む事も可能となつてゐるのだが、歴史を專門としない門外漢の「讀み方」としてはそれも「あり」だらう。
- ひとつは、主張はおかしくても最低限話の通じる人を「敵に回す」ようなことはしないほうが良いのでわ、ということ。
- もうひとつは、サイトをもっとまとめるべきだということ。全部読まないと何が言いたいか解らない作りはよくない。部分的に読めばその部分の主張がわかるような構造を目指すべき。
ご承知のとおり、nozは都合が悪くなると、すぐに過去の発言を削除隠蔽しますから、この掲示板のログも、こまめに取っておかれることを、ご提案いたします。とアレクセイは書いてゐる。
で,句読点としての利用方法は,漢文の訓点とは用途が違います。そして,元々日本語文では句読点の役目は分かち書きが担っていたと考えます。そこで,句読点を使っていた西洋の影響なしに句読点が発生した,とするのは無理がある,と考えている訳です。
句読点に関心ある人が少ないため,PCに慣れない人は句読点に「点」と「丸」を使っている,と考えています。
どちらかというと私は,形は見易さ,書きやすさで決めるべきだ,と考えております。なので,読点に「点」ではなく「カンマ」でいいじゃん,と謂っているわけで。
それに、野嵜健秀のような掲示板荒らしの場合は、痴漢とはちがって警察のような公権力が、われわれの代わりに彼らを捕まえたり罰したりしてくれませんからね。責任をとらせるための手間を考えたら、相手にしないのが一番だと思います。
私は野崎さんにまったく突然かみつかれて、ブログを閉鎖する憂き目にあったもので「恨み骨髄に徹す」がまだ抜け切れておりません(笑)。と言つてゐる。これは「義」で、明かに嘘だが、假に本當の事を言つてゐるとしても、このやうな根性ならば私にまともな批判をされても逆恨みする事だらう。「野嵜がどのやうな誹謗中傷をしたのか」を具體的に書かず、野嵜に「まったく突然かみつかれ」たと云ふ事をしかeaoska012028.adsl.ppp.infoweb.ne.jpが書かないのは、野嵜が何も惡い事をしてゐないからである。野嵜が突然「噛み附く」事は、eaoska012028.adsl.ppp.infoweb.ne.jpが突然ブログなり何なりに物を書いたからに他ならないし、文章を發表するのは突然の事であり、豫告なしであるに決つてゐる。だから突然である事はそれ自體、惡い事ではない。噛み附くのが惡いと言ふのならば、その惡い事をして仕返しをしてゐるeaoska012028.adsl.ppp.infoweb.ne.jpも野嵜と同じ程度に惡い人間である事になるし、アレクセイ沖泰光も當然惡い人間である事になる。そして、同じ惡い人間ならば、eaoska012028.adsl.ppp.infoweb.ne.jpにしてもアレクセイにしても、野嵜を非難する事は出來ない。それなのに「する」と言ふのだから、eaoska012028.adsl.ppp.infoweb.ne.jpにしてもアレクセイにしても、單なる個人的な恨みに據るものなのであり、呪詛である。
じっさい、野嵜健秀らの下劣なログは全部確保してありますから、それをいつでも公開できるし、こっちはフェアプレーに徹しているから弱みはない。
野崎さんを軽くいじる事をやつてゐる。と云ふ事は、さう言ふ事が彼等にとつては「正しい批判の方法」なのだと考へざるを得ない。さう云ふやり方に贊成し、賛同してゐるところを見ると、或は「汚い尻尾」等と罵倒の文句を書いて讀み手に先入見を植ゑつけようとしてゐるところを見ると、アレクセイもさう云ふやり方を「正しい批判」と思ひ込んでゐる節がある、と判斷せねばならない。
また、恨みの念に恨みで對抗するのは一番危險なことで、さうするとキ合、穴が四つも出來てしまふ。やはり反對の念ひで對抗するといふか打ち消すのがよいと思ふ。「汝の敵を愛せよ」なんていふのもさういふことでせう。
Godは特別扱いの語で、真剣に宗教の話をしているとき以外は、みだりに用いてはいけないことになっている。宗教と無関係にGodを用いると神聖を汚すことになるので、しばしば最も下品な表現というイメージを持つ。日本語の「くそくらえ」、「…しやがる」などに似た響きを与える。したがって、Godには婉曲語が多い(婉曲語法は下品ではない)。for goodness' sake(=for God's sake)(お願いだから)、Thank goodness.(やれやれ、助かった)、Good Heaven(s)!=Goodness gracious!(おやまあ、これはしたり)など。
といふか、「現代かなづかい」公布の四十年後に「現代仮名遣い」が公布されたのは、自ら「かなずかい」と表記できない矛盾を隠蔽するのが真の目的だつたのだといふ仮説を提唱してみる。
国語を書きあらわす上に、従来のかなづかいは、はなはだ複雑であって、使用上の困難が大きい。これを現代語音にもとづいて整理することは、教育上の負担を軽くするばかりでなく、国民の生活能率をあげ、文化水準を高める上に、資するところが大きい。それ故に、政府は、今回国語審議会の決定した現代かなづかいを採択して、本日内閣告示第33号をもって、これを告示した。今後各官庁においては、このかなづかいを使用するとともに、広く各方面にこの使用を勧めて、現代かなづかい制定の趣旨の徹底するように努めることを希望する。
……
餘談だが、この内閣訓令にある、
もとづいて、と云ふ語が、のちのち国語審議会を惱ませる事になる(「現代かなづかいの適用について」昭和30年11月10日総会)。
- ★ノズラーとは?★
- 評論家の福田恆存や松原正の著作を愛読し、ネット上の掲示板などで旧かな旧漢字(彼らは正字正仮名と呼ぶ)を使いまくり、自分のことを「反時代的教養人」だと信じて疑わない人たちの呼称。
- ★ノズラーの性質★
- 「正字正仮名」がいかに正統な仮名遣いであるかをネット上の掲示板などで布教するが、語り口が傲慢なので皮肉にもかえって「正字正仮名」に嫌悪感を示す人を増やすという事態に陥っている。
- また、「正字正仮名」こそが現代の日本に残された数少ない(唯一?)伝統であり、これを守ることこそが真の保守であると盲信しているので、保守を名乗りながら「正字正仮名」を使わない西部邁や西尾幹二やその信奉者を罵倒することを生き甲斐にしている。
評論家の福田恆存や松原正の著作を愛読し、と書いてゐるが、この時點で事實の誤認がある。福田氏は、評論家でもあるが、戲曲家でもあり、演出家でもあり、飜譯家でもある。小説も書いてゐる。松原氏も、單に評論家であると云ふ訣ではない。
ネット上の掲示板などで旧かな旧漢字(彼らは正字正仮名と呼ぶ)を使いまくり、とあるが、普通に使ふ事を「使いまくる」と言ふのは如何なものか。世間の人は「現代仮名遣いを使いまくっている」のか。「使いまくる」と云ふ言ひ方そのものが、偏見と惡意とに滿ちたものである。ものの呼び方に附いては、以前にも指摘した通り、表音主義者にとつては「旧かな旧漢字」であつても「正字正仮名」であつても、それ自體、單なる記號であつて、意味を云々すべき事ではなく、氣に入る氣に入らないと言へるものでもなく、況してや「傲慢」の根據とする事は出來ない。「正」と云ふ用字に文句がある、と言ふのならば、その時點で表音主義を否定した事になり、「現代仮名遣」を否定する立場の人間を非難する理由を失ふ。
自分のことを「反時代的教養人」だと信じて疑わない、と云ふ言ひ方も、何うかと思はれる。かう云ふ動機の極附けを他人に許すと云ふのであれば、同好会氏の動機を「惡意」「嫉妬」と私が極附ける事も、同好会氏は禁止出來ないし、それを否定するのも出來ない事になる。言ひ方そのものが自己否定を含み、他者の批判になつてゐないのである。
「正字正仮名」がいかに正統な仮名遣いであるかをネット上の掲示板などで布教するが、と書いてゐるが、確かにこれは或程度まで事實である。しかし、同好会氏による事實の指摘は、茲までである。事實を紛れ込ませるのは、風聞・デマの基本である。或程度までと書いたのは、野嵜にしても他の人にしても、そのやうな事を積極的にしてゐる訣ではなく、事實とは必ずしも言へないからである。
語り口が傲慢なので、と云ふのは、印象批評であるが、「だ」「である」調を傲慢と呼んでもらつても困るし、そもそも同好会氏自身の文體の方が餘程傲慢に見えるのが問題である。同好会氏自身は、野嵜から見れば傲慢な「語り口」で上のやうな文章を綴つてゐる。だが、自分の文章なのだから、同好会氏はそれを當然「良い」と思つて使つてゐる筈である。すると、同好会氏の言ふ「傲慢な語り口」と云ふものが、世間一般の物の見方から判斷して、本當に傲慢と呼べるものなのか、野嵜なり誰なりの文章を「傲慢」と極附ける前に、同好会氏自身の文章觀が最初に檢討されなければならない。同好会氏の文章觀を、檢討抜きに「正しい」と認めて、その批判を頭から「正しい」と信じ込む事は、批判的な物の讀み方とは言へないだらう。そして、同好会氏の文章觀が狂つてゐるのだつたら、同好会氏が「傲慢」と呼ぶ野嵜らの文章は、即座に傲慢であるとは極附けられなくなる。
皮肉にもかえって「正字正仮名」に嫌悪感を示す人を増やすという事態に陥っている。とあるが、これも事實と言へるか何うかは怪しい。誰も調査してゐないからである。しかし、從來「正字正仮名」を知らなかつた人が大多數である筈で、そこで新たに「正字正假名」を知つた時、「好感を抱く人」も「嫌悪感を示す人」も共に増えて當り前である。さう云ふ事情を拔きに、一方的に「嫌悪感を示す人が増えている」と言ふのは如何なものか。さらに、「皮肉にもかえって〜という事態に陥っている。」と云ふ言ひ方が問題である。事實の報告なら、かう云ふ書き方はしない。となると、色眼鏡をかけて人の文章を讀んでゐて、同好会氏はかう云ふ揶揄・嘲弄の文章を書いたのだ、と判斷せざるを得ない。すると、同好会氏の態度は、隨分傲慢だ、と云ふ事になる。その、自分の傲慢さを自覺しないで他人を傲慢と罵る態度は、果して褒められたものか――或は、世間的に見て、説得力を持つものであるか。
また、「正字正仮名」こそが現代の日本に残された数少ない(唯一?)伝統であり、これを守ることこそが真の保守であると盲信しているので、とある。ここで「盲信」とあるが、盲信とは訣も判らず信じ込む事で、訣を説明して「布教」してゐる人間のする事ではない。だから、同好会氏の文章は矛盾を含むのであり、間違つてゐる、と云ふ結論になるのだが、まだ文章が終らない。そもそも「お前らの信仰は盲信だ」と極附けるのは、相手を非常に馬鹿にした傲慢な言ひ方だ。が、同好会氏の文章がまだ終つてゐないので一往最後まで附合ふ。
保守を名乗りながら「正字正仮名」を使わない西部邁や西尾幹二やその信奉者を罵倒することを生き甲斐にしている。「生き甲斐」と言ふのが根據のない極附けで、事實の指摘としてはをかしい。また、「盲信」でなく「理由があつて信じてゐる事を根據に批判を加へる」のならば、誰が何う考へても惡い事ではあり得ない。さて、ここで、逆から考へてみよう。なぜ同好会氏は「ノズラー」の「信仰」を「盲信」と云ふ事にしたのか。同好会氏は、結論として、「ノズラーの批判は不當なものである」と言つてゐる。と言ふ事は、同好会氏は、「ノズラーの批判は不當な批判である」と云ふ結論を出す爲に、根據としての事實を歪めたのである。
漏れにも罪はある、野崎にも罪はある。だから野崎に石を投げる。と書いてゐる。自分に罪があるから、相手にも罪がある事にする、そして自分の罪は棚に上げ、でつち上げた相手の罪だけを非難して好い氣にならうとする――同好会氏もさう言ふ意圖で上の文章を書き、個人攻撃だけの爲のサイトをでつち擧げた、かう考へる事は、可能である。何しろ、そのやうな動機で實際に野嵜を罵倒した「1234」なる人物が現に「ゐる」のである。現に實例がある以上、可能性がゼロと云ふ事はあり得ない。そして、「1234」もアレクセイも同好会も、仲間なのである。同じやうな考へ方をし、態度をとるものであると考へても、不當な推測とは言へまい。そして、實際、アレクセイにしても「1234」にしても、同好会と同樣、餘裕があるかのやうに振舞つて相手の感情を煽り立てるのが上手である。彼らに似た傾向がある事は指摘して良いだらう。
立場によるけれど、少なくともウェブ屋という立場からいえば、必要なのは、優しい心とか気配りとか配慮とかの結果を成果物にキッチリ出すためのクリエイティブ(創造力)と実装力だ。
(略)ルネサンスの科学思想の進歩を考えるとき、一般にはガリレオの「それでも地球は動く」という言葉が、他のすべてのコンテクストを無視して取り出される。ガリレオに地動説の取消しを強制したキリスト教会の反動性を浮彫りにするのには、これ以上によいエピソードはない。このエピソードを取り扱った歴史小説の類にはしかし、一般に恐しく啓蒙主義的バイアスの強いものが多く、しかもそれがわが国では一般の常識となっている。天動説の理論であるプトレマイウスの説は、教会の支持する反動理論の代表のようにみえる。しかし事柄はそんなに単純なものではない。
そのことは例えば、今日われわれの常識である地動説を経験的に証明してみようとすればすぐわかることである。経験的なことは一般に合理的だと考えられる。ところが、地動説を経験に即して証明することは不可能なのである。他方プトレマイウスの天動説は、精密な天体の観測と合理的な計算に基く天体の運動論なのであって、一切の暦算はこれにより、人間の生活はそれによっていささかの支障もなかったのである。これを否定したコペルニクスは、決してプトレマイウス理論の経験的反証をあげたのではなかった。コペルニクスのプトレマイウス批判は、アリストテレスのいう運動の一様性という基本原理が、プトレマイウスの場合、惑星の運動の非一様性という点で、この基本原理に反するという点にあった(広重徹「科学における近代と現代」堀米編『歴史としての現代』所収、潮出版社、昭和三十八年)。ガリレオはまたアリストテレスの権威を疑ったのであったが、彼もまた経験的根拠からして、天動説を単純に否定できると考えていたわけではない。
こんなことから、私のいおうとしているのは、近代の科学思想なるものが、決してキリスト教的な神の宇宙支配という観念の否定としてではなく、却ってその証明を目ざして出てきたということである。それは十三世紀のスコラ学の開いた道の上を歩んでいるということなのである。万有引力の法則を発見したニュートンもまた同じであった。ニュートンに始る十七世紀の科学革命は、キリスト教の信仰と結びついて起り、それに支えられて発展した。科学が神を前提することなく自然の説明を行いうるようになるのは、ニュートンから一世紀おくれたフランスのラグランジュ以来なのである。
キェルケゴールの「主体性が真理である」という発言の内容を更に説明するために、プリンストン大学神学部のマカイがキェルケゴールのこの考えを説明するのに用いた方法を相当程度借りて試みてみよう。
- Mackay, John A.:A Preface to Christian Teology, 1943. 土山牧薫訳『キリスト教神学序説』新教出版社。
人がバルコニーから道を眺めているとする。その時には、誰が下の道を通ろうと、その人はバルコニーからの傍観者なのであって、別に道路上の人の故に行動を起さなければならないという必然性をもたない。このように、バルコニー上の人がものを考えるような仕方での思考形態が、人間の生活の中にはある。科学はすべてこの領域に入るものであろう。ところが、その人物がバルコニーから降りて下の路上を歩くとなると、事態はどういう変化を蒙るであろうか。向うから自動車が走ってくるような場合には、その人はそれを避けなければならないのであり、路上ではこのように絶えざる緊張と決断とが要求されている。そうすると、バルコニーで下を眺めているような状況と、路上を歩いている時のような状況とでは、異なる思'考態度をわれわれから要求する。キェルケゴールが「主体性が真理である」と言った時、われわれが本当に知りたい真理、われわれの生の根底となるような真理は、路上を歩いている時のような状況での思考態度によってしか知ることの出来ないものである、ということを主張したのである。すなわち、傍観者的な態度を止めて、自分をあるものに賭けるというような冒険をおかさなければ、われわれの人生を基礎づけるような真理は、それ自身を明らかにしてくれないという主張であった。
ここでキェルケゴールは、真理には次元の相違があるということを見抜いたのである。自然科学のように、観察することにその本領があり、その観察の対象に生命を賭けなくても認識可能な真理の次元と、生命を賭けなければ認識可能でないような真理の次元とが存在する。
真理の次元的相違を、更に例をあげることによって明瞭にしてみよう。ヤスパースが『哲学的信仰』という著書の中で言っていることであるが、ガリレオが地動説を提唱した時、当時の教会から非常に迫害された。その結果ついにガリレオが、公けに「太陽が動く」ということを認めて、教会にゆずったのは歴史に有名な事件である。しかし、彼はその時「それでも地球は動く」とつぶやいたと言われている。ところが科学者のガリレオとことなって、哲学者のブルノーは、自分の哲学上の意見のために迫害された時、最後まで教会に屈服せずにその哲学的信念をまもって、ついに、処刑された。今日、われわれは両者を較べて、ガリレオの態度を非難し、ブルノーは偉大であったと言いがちである。しかし、ヤスパースは、両者とも偉大であったと言うが、その理由は、あの時ガリレオが殉教していたら滑稽なことになっていたからである。何故ならば、地球が動くということは科学的真理であって、ガリレオがそのことで死ななくても、後の科学の進歩によって必ずや発見される真理だったからである。すなわち、ガリレオの発言はバルコニーからの傍観者の言得るような事柄に関してであった。そのような客観的真理に、生命を賭けなかったガリレオは正しかった。
ところが、ブルノーの場合には、人生の意味の問題、すなわち、誰かが命を賭けて証しなければ存続しない哲学的真理がそこで問題にされていたから、彼は殉教したのである。こういう真理が実存的真理なのである。
このようにヤスパースは書いているのであるが、これはキェルケゴールの「主体性が真理である」を、よく解釈していると言えよう。
私の理解では,日本語は縦書きするものであり,句読点も持たなかった,というもの。そして,句読点を使うようになったのは西洋からの輸入であり,もともとはカンマが使われていたものが,縦書きでは点が使われるようになり,それが最近になって横書きでも使われるようになってきた。横書きで文章を書くのもまた,西洋からの輸入である。
原則を確立させるとき,どの原則にするかを決める理由が,日本語として何が適しているか,という理由ではなく,機械に便利なように,という理由で決まるとしたら,それには情緒がないと謂う意味です。
機械に便利なように,という理由で物事を決めようとしたのかと。
レッテル貼りのつもりはない,というか記者ハンドブックで推奨していることですし。教科書はもとより,技術書なんかでもあまり使われていない横書き文の読点に「点(、)」を使う記法を推奨しているのが記者ハンドブックなわけですし。
横書き文の読点が
あまり使われていないか何うか。また、「,。」で書け、と御上に指示されるやうになつて以來の事例が事例として適切であるか何うか。
クエスチョンマークにしろエクスクラメーションマークにしろ輸入されたものですし,アラビア数字もそうでしょう。カンマだけ特別視する必要はないと思うのだけども。
それと,私が感情的な反感をもっているのは,機械のためという理由で統一することであって,日本語の読点にはカンマよりも点がいい(若しくは現状通り縦書きは点で横書きはカンマがいい),と決まること自体には反感はないです。
機械のためという理由で統一しようとしてゐる、と言ひたいのですか。
あれ?野嵜さんが平成十六年九月二十日に書かれた,
DDT氏は,自分の文章が常に横書きで表示される,と思つてゐるのか? 最初に指摘した通り,HTML文書はそれ自體,縱書きとか横書きとかの屬性を持たない。ならば,より汎用性のある讀點をHTML文書では用ゐるべきだ
って言葉はそういう意味と解釈してましたが,違います?
機械のためという理由で統一しようとしてゐると云ふ一般論とを、DDT氏は混同したのだらう。
先にも書きましたが,これは文字コードのフェイスの問題だと思っています。Web上に限らず日本語の句読点には何がいいか,という話とは別問題だと認識しております。
何がいいではなくて、單に「横書き」でしか使へないコンマを現在、DDT氏が使つてゐる、と云ふ問題を指摘したのだが。
先にも書きましたが,HTML文書に限らず電子データの表示が縦書きか横書きか判らないって理由でどんな句読点を使うか決めるとしても,それは妥協でしかないと思うですよ。
縦書きで読点が「カンマ」になってしまうという不都合を取るか,横書きで読点が「点」になってしまう不都合を取るか,という選択肢のなかで,私は前者で妥協している訳で。
縦書き表示されるブラウザをお使いの方には申し訳ないけど,どちらをとっても不都合があるので已む無し。
正直謂って,個々人がワープロで打った文書とかネット上の文書以外では,横書き文で読点に「点」を使っているのを余り見かけません。あとは仕事関係で,書き方を制限されている文書くらい。
ワープロやネット上の文章に関しては,それこそ大元の文章[see 入力方法]や昔書いた文章[see re:日本語横書き文における読点表記]で書いたとおり,PCへの不慣れや句読点に対する無関心が原因に因るものが多数と考えていますし。
出版物では,私が見る雑誌や書籍は縦書きが殆どで,横書きのものは大抵「カンマ」と「丸」か,「カンマ」と「ピリオド」です。まぁ,これは見る本の種類で変わってくるのかもしれませんね。私の生活圏では余り見かけないだけかも知れません。
戦国期以前の文書や書簡をみても句読点が使われている気配はないですし,使われだしたのは江戸時代の頃から,と野嵜さんも謂っておられる。江戸時代といえば,西欧と接触が持たれて随分と経ってからだと思うのだけど。鎖国中だとはいえ西洋貿易はあったわけですし。それまで使われなかった句点が,西洋との接触があったのちに偶然自然発生した,というのは無理があると思うし。
もともと漢文を訓讀する際の訓點の一種として出現したと書きましたが?
そういう決まり事ができるなら,それはそれでいいと思いますです。/
あとは何処が原則を作るかですよね。
さて、DDTさんのやうに「そもそも日本語には句讀點がなかつた」と云ふ話をされてしまふと、「そもそも日本語には文字そのものが無かつた」と云ふところまで行かねばならぬ訣で。
あれ?とか
えっ?とか言つて、知らない振りをしてとぼけて見せる。どうしてDDT氏はこんなにも俺の神經を逆撫でしたいのだらうと疑つてゐるのだが、DDT氏の事だから惡氣はないのだらう。
そもそも,日本語で横書きを使う,ということ自体が日本語を破壊していると思うけど,それは認めているのでしょうか?
まぁ,それでも決まり事ができるならばそれに従うまでですが,その過程に情緒が無いなぁ,とは思いませんか?
横書き日本文が書かれてから慣習的に読点として使われていたカンマが,マスコミ御用達の記法に統一される日も近いのかもしれない。
マスコミ御用達の記法と極附けるレッテル貼りは許し難い。どうしてさう云ふ嫌みたらしい言ひ方をして證明した氣になれるんだ?
句読点自体が西欧にカブれるのが流行だった時代に作られたものだからそういう動きだったンだろうけどもと言つてゐる。DDT氏はとぼけてゐるのである。DDT氏の發言が非論理的で訣がわからないのは珍しい事だ。
ふつうは、ホームシアターといえばプロジェクタとスクリーンを用意して何とかかんとかというものを指すので。テレビの話だという時点でずれていると思う。というか、ホームシアターの基本的な使い方は、最高品質のソフトを買って(借りて)きて、自宅のセットで上映するというもの。放送されたコンテンツを録画して云々、というのは例外的な使い方。
DVDソフトやデジタル放送の画質や音質をより忠実に再現し、高画質・高音質を十分に堪能させてくれるのがホームシアター。DVDやデジタル放送による映画やコンサートなどを、映画館や劇場にいるような臨場感で楽しめます。
スピーカーやアンプなどのホームシアター機器と接続できれば、手持ちのテレビも利用可能です。大画面のハイビジョン対応薄型テレビなら、画質の面でも問題はありません。とある。
3つじゃちょっと少ないかもしれませんが、うまくすればアクセス倍増くらいは狙えます。と書いてゐるが、私は十倍百倍のアクセス増の話をしてゐるから、この時點で徳保氏とはずれてゐる。が、「十倍のアクセス増」を依頼者は希望してゐるのであり、それに答へるのならば、徳保氏の囘答は不十分。
青空文庫という発展途上の図書館に何が収まるのか、それは工作員のみなさんが決めることです。
運営者というものが不在の図書館なのですから。とコメントで言つてゐる。某Wikipediaにしても徳保氏にしてもさうだが、この種の「一貫性がある」のだか「一貫性がない」のだかがわからない、非常に曖昧な状態を、「良い」と思つてゐる人がウェブには澤山ゐる。
「、」より「,」のほうが書きやすいなんて、首をかしげます。
何だか落ち着かない印象を受けます。第一、いちいち「,」に変換するのは面倒です。
毛筆で縦書きするならともかく,横書きを手書きするときは点よりカンマの方が書きやすいと思うのだけど。
横書き日本文が書かれてから慣習的に読点として使われていたカンマが,マスコミ御用達の記法に統一される日も近いのかもしれない。
常に横書き状態で表示されるとは限らないHTML文書で、讀點として「,」を用ゐるのは如何なものか。
そんなのは縦書表示するUAといふかブラウザなり何なりの方で対応すれば済む話、とはいへないでせうか。
そもそも、句讀點を横書きの際には「,」と「。」を使ふ、と云ふ規定は、國字改革の一環として、日本語を破壞する爲に定められた規則だ。俺は認めない。
前後の文脈から考へて野嵜氏が「文書と視覚的ブラウザの表現」の話をしてゐのかと思つたら、国語国字改革に論点をずらされた。
わが国の戦後におけるゆき過ぎた国語統制策は、今や青少年の著しい国語力の低下となってはね返ってきつつあり、国民の国語意識の衰弱化は、社会的混迷に拍車をかけており、国語審議会は目下その手なおしに追われているというのが現状ではなかろうか。理想をいえば、国語国字などは、もともと政府主導型の統制策など取るベきではなく、すこし乱暴な言いかたであるが、むしろ放任しておいても、やがては自然に落ちつくべきところに落ちつくものであって、むやみな統制など百害あって一利なしといってよいであろう。
世に漢字の不便を説く者は多いが、その便利さを弁護する者の少いのは遺憾である。そもそも漢字が非アルファベット系の諸文字のうちにあって、そのすぐれた特質を生かしつつ、地域による多少の音値差はあるものの、日中韓を中心とする東アジア文化圏における国際的共通字たる機能を十分に果しつつあることは、今日何人も否定し得ない事実であろう。ただし、それはあくまで正書体、すなわちいわゆる旧字体に属するものであって残念ながらわが国のいわゆる当用漢字体や中共の簡化字などではない。この意味からしてもわれわれは、ひとり当用漢字体に通暁するためばかりでなく、古典の読解や書道、篆刻などの研究上からと共に、その広汎な国際性を有する点にかえりみて、さかのぼってその正書体や、字源を示しているとみられるその古形・古義をも把握することが、真に漢字を活用し、これを自家薬籠中のものとすることにつながるものであると思う。
というか、ホームシアターの解説はどこにあるのでしょうか。
実際には匿名でも仮名でも失うものがあります。例えば、自称専門家が適当なことを書けば、専門家全体の信用が落ちます。一人の警察官の不祥事が警察全体への不信につながるように、です。そのことの是非と関係なく、事実としてそういうことがある。で、そんなことは自分の知ったことではない、と断言できる人は、じつはそれほど多くない。こうしたケースまで含めて考えるなら、匿名だろうと仮名だろうと、守りたいものは山ほどあるはずなんです。
守りたいものがあつたとは思へませんが? 純粹に匿名の枠内に留まつて、單に他人を誹謗中傷してゐるだけ、と云ふ人はゐるのですよ?
初心者に匿名や仮名を勧める人が多いのは、「ネットは怖い」という都市伝説が広まっているからです。また、匿名や仮名の発言者としてローリスクで好き勝手書いてきた人々が先達となって後進を導いているので、匿名・仮名の拡大再生産が続いているということでしょう。
View the British Library's copies of the 21 plays by Shakespeare printed in quarto before the theatres were closed in 1642 and find out about Shakespeare's life, works, and the history of his plays in performanceとの事。
ホームシアターなどの解説で有名どころといつたらしろはた。
よそが手を出していない情報を提供する必要があると徳保氏は述べてゐるが、實際はさうではない。アクセスを集める記事は、何か變な凄みがある記事だ。人は珍奇なものに群がる。
known as founder of Wikipedia and Director of the Wikimedia Foundation.と云ふ事であるが、例へば「歴史的仮名遣」――或は國語の表記――について意見を持つてゐるかと言へば、そんな訣はなからう。ならば、氏は、プロジェクトとしてのWikipediaの創設者であり上位組織であるWikimedia Foundationのdirectorであるが、「歴史的仮名遣」や國語の表記に關する具體的な項目の記述については、必ずしも方針を持つてゐるとは言へないし、それらの項目の記述の方針について指導し得る立場にあると言ふ事は出來ない。
普段なら口に出す前にいいとどまるのにキーボードではつい手が滑ったり、ディスプレイに表示される文字はどこか現実味がなく、まだ推敲(すいこう)が必要な文章でもつい「送信」や「投稿」ボタンを押してしまうなど、原因を作った側はさほど意図していないことが多い。
じっぽさんは職業差別の見地から否定したのであり、
判断の基準が職業差別だって、それ自体は構わない。ただ、それを口にすれば怒る人がいる。差別された当人だけでなく、関係ない人も不愉快になるんです。とくにじっぽさんのような立場の人の場合は。
けれども、私が職業差別という言葉を出し、ちょっと不快感を表明したら、じっぽさんは途端に腰が引けてしまう。
不特定の誰かさんを対象にしているからといって安心し、何の覚悟もなしに呑気に罵言を書き連ねているから、
なんだ、やっぱり謝ってしまうのか。私は、そう思いました。
職業差別的な発言は、一般にステータスが高いと判断されている職業の人間が口にすると洒落になりません。と徳保氏は述べた。「職業差別」と「職業差別的」とは違ふ。
危なっかしい事だと、徳保氏は考へるべきである筈だが、徳保氏はさう云ふ自分の立場の事を棚に上げて
呑気に罵言を書き連ねているやうに見える。
ただ、それを口にすれば怒る人がいる。差別された当人だけでなく、関係ない人も不愉快になるんです。と徳保氏は言ふ。では、徳保氏の今囘の攻撃は、じっぽ氏のみならずその他の誰かに、全く不快の念を生じさせないものであつたと、徳保氏は言ふのだらうか。もし「その通り、私は誰も不愉快にさせてゐません」と言ふとしたら、それは嘘である。なぜなら、私が大變不愉快になつたからである。よろしいか徳保氏、あなたは自分自身では平氣で人を不愉快にさせてゐるのに、じっぽ氏に「人を不愉快にさせるな」と説教をしてゐる。これが許される事だと思つてゐるのか? 守るべきだと信じてゐるにもかかはらず、力及ばず守れない、と言ふのならば仕方がないし、その場合には「守るべき事」を主張する事が出來る。しかし、自分ではそもそも守る積りもない事を、他人には「守れ」と言つて強要する、と云ふ事は許されない。その許されない事を徳保氏はやらかしてゐる。
私は野嵜さんとは対極に位置するような人間だから、「傲慢だ」と決め付けてはみても、それはひとつの物の見方に過ぎないとも思っています。
決め付けをやつたのは徳保氏であり、私はやつてゐない。なぜ徳保氏は「御互ひ樣」に見せかけようとするのか。徳保氏が保身の爲にそのやうな戰術をとつてゐる、と考へる事は可能であるし、さう云ふ見方は徳保氏の發言全體から鑑みて妥當であらう。
それでもとにかく、じっぽさんを「傲慢だ」といい、そこにそれなりの理屈をつけることは可能です。そして実際、私が我が身をさておいてじっぽさんを傲慢だと思った気持ちは現実のものだったわけで、そういうことを避けたいのなら、じっぽさんは発言に気をつけるしかない。
以前、野嵜さんは一貫した事を言はないやうにする、と云ふ點で一貫してゐる徳保氏。と評されていますが、これは正しいと思う。だいたい私が他人を批判するパターンは決まっていて、一貫性を重んじる相手には「矛盾していますね」といい、優しい人間になりたいと考えている相手には「冷たいですね」といい、賢くありたいと願う相手には「バカですね」という。
私自身は別に、一貫しているのがいいとか、優しいのがいいとか、賢いのがいいとか、思っているわけではない。と、自分自身について考へてゐるのならば勝手だ。だが、そのやうな態度で他人に接するのは許されない。それは卑怯だからだ。
野嵜さんと私とでは、他者を批判する際の意図が違います。私は、人間は結局、黒にも白にもならない、グレーだと思っています。
何らかの価値観に基づけば、進むべき方向性は見えてきますけれども、なかなかひとつの価値観だけで人は生きられない。だから結局、部分的にしか合理的たりえない。私はいい加減だから、もうほとんど諦めているのに、野嵜さんのいうように「正しい」ものがあるんじゃないかという希望も捨てられない。
この説明で野嵜さんに理解されるとも思わないがも糞も無いだらう。或は、徳保氏は人を馬鹿にしてゐる。
危なっかしくない事となつてしまふのか? 無職の野嵜がその手の事を言つたとしても、醫者と違つて刺される事はないと言ふのか? この邊の理窟は、合理的に判斷し得る筈のもので、「正しいと云ふ事が本當にあるのか何うか判らない」等と言つても仕方がないし、もし言つたらそれは遁辭でしかない。そして、誰が何う見ても、「刺される」可能性は、醫者のじっぽ氏も、無職引きこもりの野嵜も、同じ程度である。それなのに、徳保氏は、「醫者」と云ふ事を強調した。
一貫性のない奴はダメだ、とかいっている人が矛盾をさらけ出すと、「そら見たことか」と思う一方で、悲しくもなります。
まず前段、そんな主張はしていません。私はじっぽさん自身がヤクザに学ぼうと考えないことについては、是非を述べていません。
なんでも素直に受け入れてしまうようでは困るけれど、「とりあえず、読んでみる」という姿勢を持てない頑なさも不幸の源。
頑なさも不幸の源は
是非を述べた事にならないと徳保氏は主張してゐるが、そんな馬鹿な話はない。徳保氏の
嫌味は、相手の非を鳴らすものではないと言ふのか。ならば、徳保氏は今囘、單に嫌がらせをした、と云ふだけの話になつてしまふ。徳保氏は、それで良いのだらうか。どうも徳保氏はそれで良いらしいのだが、御立派な信念ですね、なんて書くと嫌みが過ぎるかも知れないけれども。云々。
自分が矛盾していても、冷たくても、バカでもいいと思っていますと言ふ徳保氏。御立派な信念云々。
刺されるというのは、文字通りの意味ではありません。だから、他人に迷惑をかけて口に糊している集団に対して、どうしてネット上でまで「一身の安全」を考えて、媚を売らなくてはならないのでしょうか?といわれても困ります。そんな主張はしていませんから。
自分が矛盾していても、冷たくても、バカでもいいと思っているので、平氣で卑怯な眞似をする。かう云ふ人間がサイトをやつて、しかも他人樣にアドバイスなんて事をしてゐる、と云ふのは、困つた事だと思ふ、なんて書くと嫌みが云々。
また、フレームを使う事で本来HTMLの内容としては不適なナビゲーションを文書中に書かなくて良くなります。
その選択は、個人の意思に任されています。
なかなか野嵜さんには私の考えをご理解いただけないので
その通りだ、といっても構わない。
刺されるは本当に文字通りでない意味で使ったのだけれど。ヤクザが話に登場するからややこしくなったんだと思う。
ヤクザが話に登場するからややこしくなっただけだらう。ならば、徳保氏も、そこで執拗に「職業差別」云々と言はなければ良かつた筈だ。
気ままに生きる代償は自分で納得したんだからいいだろう、という意見があるかもしれません。しかし私はそれほどできた人間ではない。「努力しているつもり」で自分を正当化できてしまう人々はずるいと思う。実態はひどい有様なのに、善人面をして恥じない人々を憎む。だから私は、踏み絵を用意したくなるのです。
「努力しているつもり」で自分を正当化してゐる
ずるい人であり
実態はひどい有様なのに、善人面をして恥じない人である、と徳保氏は言ふ積りだらうか。「さうではない」と恐らく、徳保氏は言ふだらう。だが、徳保氏は今、自分の行動原理を説明してゐる筈である。そして、その行動原理に從つて、じっぽ氏を罵つた筈である。となると、徳保氏が何を言はうが、徳保氏は單なる八つ當りでじっぽ氏に非道い事を言つただけである、と云ふ事になる。
備忘録で批判したのは、今回、私はじっぽさんだけに意見したいわけではなかったからです。新聞が政治家への意見という形式の記事を書くのと同じです。政治家にものをいいたければ直接電話すればいい、新聞社の編集委員にはそれが可能じゃないか、とじっぽさんは仰いますかね?
「教える」と「伝える」は重複部分の多い概念です。私が批判したのは、偉い人だけから学ぶという考え方です。ヤクザは偉くなくても、その交渉術には学ぶべき点があるかもしれない。銀座ママのお話だって同じことです。ヤクザからも何かを学ぼうとする人に対し"反吐が出る"とまでいう狭量に、私は傲慢を感じました。
「いささか理屈をこねすぎるし、理論だけで脳内完結してしまっている傾向はあるけれど、物事に対して真面目に筋を通して考える人だなあ」
正直、僕は徳保さんがどうしてこんなことをなさっているのか、全然わからないんですよ。
実際の内容はともかく、「とりあえず、読んでみる」くらいはいいだろうと思い、意見したのです。と云ふ甚だ怪しい根據を理由にしてゐるにもかかはらず、高壓的に相手を罵つた、と云ふ點にあると言へる。じっぽ氏は、
やっぱりヤクザのマネをする気にはなれないし、僕にはヤクザの前に学ぶべき人はたくさんいるように思えてならないのです。と述べてゐて、この意見の方が徳保氏の可能性の論よりもより確實でありより説得力があると私は考へる。根本的な部分で、じっぽ氏の考へ方の方が確實であり、徳保氏の方が不確實である。ならば私は、徳保氏が幾らじっぽ氏の言葉の上の矛盾を衝かうが、今囘はじっぽ氏の方が理があると思ふし、據つてじっぽ氏の肩を持つ。實際の處、じっぽ氏の言葉には矛盾も何もないのであつて、一々「職業差別をした」の何のと言つて咎め立てしてゐる徳保氏はをかしい。
自分の「正しさ」を証明するのに、他人を踏み台にするのはよくない、とじっぽさんは仰る。ではまず、自説を主張するためにヤクザ交渉本の読者への批判を
踏み台にしたことを反省されるとよいでしょう。そして、間違いと対比させずに正しいことを説明できるのか、よくお考えになるといい。自分が間違いの実例に挙げられたとたんに、
他人を踏み台にするな、と主張されるのは虫が良すぎます。
キーボードとマウスをカスタマイズするツール。シェアウェア。