闇黒日記

松原正先生東京講演會
日時
10月2日(土)午後1時30分受付開始、2時開演
會場
日本キリスト教會舘 6階會議室 東京都新宿區西早稻田2-3-1(早稻田奉仕園内:MAP・構内図)
參加費
2000圓。
懇親會
講演會終了後の午後5時から、同じ階の「フォークトルーム」にて。2時間程度。輕食附。要別途3000圓。
事前豫約は不要です。講演會・懇親會どちらか一方のみの參加も可。
御問合せは「松原正先生を圍む會」事務局・木村氏まで。(地獄の箴言)


平成十六年九月三十日
GA終つた。何だこの落ち。
今囘の颱風はあんまり期待してゐなかつたのだが、やつて呉れた。神奈川県大雨洪水警報。まあ、前にもテロップ乘つた囘、あつたからなー。
平成十六年九月三十日
めも。アニメ新番組一覧
平成十六年九月三十日
NHKアニメワールド:モリゾーとキッコロ
監督が高橋良輔。觀る積りは全くなかつたのだが。と言ふか、多分觀ない。
平成十六年九月三十日
フジテレビ深夜アニメで続く迷走劇のデータ集

平成十六年九月二十九日
http://groups.google.com/groups?hl=ja&th=e0f72e767aa0d506
ルビはそもそも一次元ではありませんとあるのだけれども。
紙媒體の視覺的な表現である「ルビ」をHTMLに持込むなら、object並の扱ひにでもしてしまへば良かつたのではないか。
以下私案。<ruby><rt xml:lang="ja" dir="ltr" title="しやう"><rb title="仕樣"><img src="shiyo.png alt="仕樣" /></rb></rt></ruby>
一番中には、テキストや「ルビ附きのテキストを畫像したもの」を記述する、と云ふ風にすれば、互換性の面でもよろしいのではないか。
等と、http://hpcgi1.nifty.com/vangal/bbs/を見ながら考へてみた。
平成十六年九月二十九日
本日の買物。とかち書房にて。
アンリ・グイエ『人間デカルト』白水社
新村出『外來語の話』修文館
教養文庫二册。
折畳み傘一本。

平成十六年九月二十八日
本日の買物。
竹山道雄『ヨーロッパの旅』新潮社
清水幾太郎『戦後を疑う』講談社 ※ダブつてた
遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史(新版)』岩波新書青版355
『昭和史』は、竹山道雄や龜井勝一郎が批判し、「昭和史論争」を惹起こし、のち堀米庸三が『歴史と人間』で採上げた問題の本(の新版)。マルクス主義が過去のものとなつた現状、露骨にマルクス主義の本である同書は過去の本なのだが、今でもこの手の「歴史書」が案外通用してゐるとかゐないとか。ならば今、百圓で買つて來たこんな本でも、讀んで役に立つのである。別に最新の歴史書を買つて來る必要は必ずしもない。

平成十六年九月二十六日
いろんな事があつても、DearSとシノブ伝はちやんと觀てゐますよ。最終囘終つた。來週から何を樂しみに生きて行けば良いのやら。
DearSは、豫想と期待を全く裏切らない終り方で、そのうち第二期が來るのだらうな。
シノブ伝も、まあ大體豫想と期待通りの終り方で、以下略。
えーと。原作が足りないらしい。
平成十六年九月二十六日
noz-watcher's WEBSITEに「義」が出現。
某さんへ。私も一往日本人なので「水に流す」と云ふ事は存じてをりますので。
平成十六年九月二十六日
いろは 伊呂波 IROHA
波江が例によつて宣傳をしたら以後、宣伝目的の書込みは御遠慮願ひます。と言はれたので、腹癒せにうちを誹謗してゐる。
人を恨むやうな人間が大乗的な見地から云々と言ふのはをかしいのだが、本人はをかしくない積りなのである。
波江にしてもアレクセイにしても「本氣か何うか」と云ふ「根據」で人を評價する。その評價の仕方が極めて主觀的である、と云ふのは、彼等の一つめの問題である。波江は今、伊達で使ひ居る仮名遣と當方を罵つてゐる。波江の「いろは」説を受容れないから、當方を「本氣でない」と波江は極附けてゐるのである。これは、誰が何う見ても「自分に反對する奴は間違ひと極附ける」と云ふ「戰術」でしかない。にもかかはらず、波江本人は十分、論理的である積りである。アレクセイにしても同じで、「本氣ならば」をかつて連發してゐたものである。それに木村さんがひつかかつたのだが、アレクセイの「本氣」は、「本氣ならテロをやるものだらう」と云ふ事で、氣に入らない相手には、合法・非合法を問はず、ありとある方法で攻撃を仕掛ける、と云ふものであつた。それが結局、「呪い」だの「復讐」だのとアレクセイが言出す理由なのだが、結局のところ「人は保身の爲にしか本氣になれないものだ」と云ふ考へを、アレクセイは持つてゐるのである。結果として、アレクセイらは自己愛を否定出來ず、保身の爲には犯罪も冒す。これが「本氣か否か」を根據にする波江やアレクセイのやうな人間に見られる二つめの問題である。
かつて某高橋氏が述べた「人が保身をはからうとすれば、結局互ひに譲り合はねばならない。だから人は自分で自分を律するやうな事を考へる必要はない。だから、さう云ふ事は『抑圧』と看做し、排斥して良い」と云ふ假説は、アレクセイや波江、或は「義」と云ふ現實の反證があるので、眞實ではない。高橋氏の言ふやうな「抑圧」であれ何であれ、自己の欲望を抑へるなにものかを持たなければ、他者を抑壓して自己の欲望を徹底的に追求してしまふ、アレクセイや波江、或は「義」のやうな人間が「ゐる」のである。
平成十六年九月二十六日
http://www.hyuki.com/diary/200409#i20040926140945
教会に行きたいけれど行けない方のために 2004年9月26日 14:09
聖書を読みたい・教会へ行きたい
結城さんの布教の記事。
日本ではプロテスタントが(比較的)人氣ですが、カトリックはなぜ不人氣なのでせうか。
結城さんは、カトリックではなくプロテスタントを擇んでゐるのですが、なぜカトリックではなくプロテスタントなのでせうか。
三位一體説等の教義については、カトリック、プロテスタント、正教は大體、一致してゐます。では、なぜ宗派が岐れてゐるのでせうか。
「キリスト教への改宗は自由意志に據らなければならない」と云ふのは、キリスト教の一つの原則ですが、一方で、歐米では幼兒に洗禮を受けてクリスチャンになる、と云ふ事例も多くあります。また、カルヴァンの豫定説のやうに、自由意志そのものを否定するプロテスタントの主義もあります。また、カルヴァンにしてもルターにしても、信仰の自由を認めてゐませんでした。カルヴァンは三位一體論の否定者であつたスペイン人セルヴェトゥスを告訴し、死刑にさせてゐます。のち、社會的な情勢によつて、信仰の自由をキリスト教も認めるやうになりましたが、それは果して宗教的な理由に據ると言へるのでせうか。寧ろ政治的な理由に據ると言ふべきではないでせうか。そして、神のものとしての信仰と、カイザルのものとしての政治とを峻別するのが、キリストの考へ方であつた筈です。
ルターは、人は直接、神と人格的に交流すべき事、人が濟はれる爲には心の底からの改悛が必要である事、を主張しました。ルターは、カトリックの禮典主義を批判しました。そして、教會そのものの意義を否定し、聖書に歸れ、と叫んだ訣です。現實には禮典がないと信者が納得・滿足・安心しないので、牧師と教會がプロテスタントにも存在する事となりました。しかし、プロテスタントでは「個人が本氣で信仰する事」が基本的に必要とされる事であります。特に、ルターの考へでは、禮典は人間の救濟の爲に本質的に必須のものではありませんし、無くても構はないものです。ルターの思想は萬人司祭主義であり、救ひを獲得する爲の外面的な行爲は不要であるとされました。ルターに於いては、救ひを得る爲には信仰があれば良いのです。
カルヴァンに至つては、全ては神に據るもの、と云ふ考へ方が徹底されてゐます。信仰を持つか否か、救濟されるかされないかは、神によつて豫定されてゐる、救濟されるやうな人間は神によつて信者として生きるやうに作られてゐる――その結果として、信者には「この世で神の計劃を實現する者」と自覺する傾向が生れます。そしてカルヴァンも、信者に必要なのは「ふさはしい行動」をとる爲の訓練である、と考へてゐたやうです。カルヴァンは「教會規定」で牧師の職務は聖書の講解と會衆の指導云々、と定めてゐます。
人格的な神と人との對峙を主張するのがプロテスタントです。が、このプロテスタントは、「本氣である」事を重視した宗派であると言へます。が、既に述べたやうに、「本氣」主義には問題があります。内面的禁欲主義等への思想の一元化・尖鋭化の傾向が甚だしくなる、と云ふ事が、思想的・論理的な傾向の強いプロテスタントでは、避けられません。プロテスタント信者にとつて、神への信頼は疑ひ得ないものとなり、神に據る救ひも確信となります。
一方のカトリックですが、こちらは地上における神の代理者である教會を中心とした禮典主義をとります。聖餐式のパンと葡萄酒は、神の恵みを現實に、或は物質的に傳達するものであり、救ひに必須のものであるとされます。ルターが反對した免罪符にしても、カトリックでは有效なものです。懺悔にしても、司祭の言葉に據つて赦免される事となります。教會にしても司祭にしても、地上における代理者ですから、過ちを冒す事はあり得ます。が、それでもその禮典なり發言なりは有效である、と云ふのがカトリックの考へ方です。これが表面的な形式主義に繋がり、ルターの非難に繋がるのですが、一方で、プロテスタント出現後のカトリック内部の自淨努力が成功してゐる事も無視出來ない事實です。そもそもカトリックに於いては、神に據る救ひも、「信仰によつて決定される事」ではありません。カトリック信者は、自分の罪は完全に赦されてゐる、と確信する事が禁止されてゐます。神への信頼は、希望としてのみ許されるものです。「救ひが確實でない」爲、當然「救はれる爲」に信者は善行を積重ねる努力が要求されます。
プロテスタントとカトリックとは、元が一緒ですから當然、同じキリスト教です。しかし、信仰のあり方、信者の態度等に、根本的な差異があります。
この項、浅野順一編『キリスト教概論』(創文社)を參考にしました。
平成十六年九月二十六日
要するに。
プロテスタントは、自分で自分が神に赦されてゐるか何うかを判斷する。
カトリックは、赦免の言葉を言ふ資格を持つ他者に據る赦免の言葉が神に赦される必要條件となるが、本當に神に赦されてゐるか何うかは誰も解らない。
――と云ふ、信仰における根本的な差異があります。
グレアム・グリーンの『權力と榮光』で、主人公のウイスキー神父が、呑んだくれで破戒僧であるにもかかはらず、民衆の懺悔を聞くのが可能である所以であり、そのウイスキー神父が死刑となる直前に、やはり破戒僧ではあつても、とにかく自分以外の神職である別の司祭に、是非とも懺悔しなければならない、と考へる所以であります。
平成十六年九月二十六日
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平成十六年九月二十六日
Nakid Official Website
MOMOI.COM
UNDER17解散。

平成十六年九月二十五日
例へば、HTMLの正誤確認サーヴィスがあるが、これは規格外の文字があると「判定」そのものができないのである。
ええと、規格外の文字を含む時點で、HTMLとして不正なのです。
平成十六年九月二十五日
http://d.hatena.ne.jp/yms-zun/20040924#Heliocentrism
例の天動説と地動説の話。
あんまりあちこちの議論に首を突込むのもアレなので觀測者の立場に引下ります。
筒井康隆に、宇宙の すごい 構造が出て來た、とても短いSFがありましたね。とか言つてみる。
平成十六年九月二十五日
「横書きの讀點」の議論に關して意見を表明されてゐるので、と云ふ理由を附けてリンクを張つて見る。
はてなダイアリー - 使いみちのない歌
「純粋無垢な初物に穢れたアレを押し付ける人非人!」の項。
田代まさしはですね、多分、貯金があるのですよ。と、とても適當な事を言つてみる。
平成十六年九月二十五日
金曜日の買物。
堀米庸三『歴史の意味』中公叢書
日本文化会議編『日本人は自由か』紀伊国屋書店 ※田中美知太郎の序文が正假名。明治時代の自由民權の考へ方においては、自由よりも平等が主となる傾向が強かつたといふ指摘は、今日においても、依然としてわれわれの自由の意識には、同じ缺陷がほとんど致命的な弱點として殘されてゐることを自省させるだらう。
日夏耿之介『輓近三代文學品題』實業之日本社
デフォー『疫病流行記』現代思潮社・古典文庫2
キェルケゴール 吉田健一・堀田善衞共譯『追憶の哲理』大地書房
林健太郎『ドイツ史論集』中央公論社
平成十六年九月二十五日
丸ゴシック系で14ピクセルのビットマップフォントが欲しいけど、見当たらない。
V-Text時代に16ドットフォントの上下を壓縮して14ドットフォントを作るフリーウェアなんてものがあつたなーと思ひ出した。昔はTrueTypeなんかからDOS/V用・V-Text用のフォントを作るコンヴァータとか使つて、いろいろ遊んだものだ。DOS/Vだと、ほかに遊べる事がなかつたし。
平成十六年九月二十五日
Fuku Diary: 言い訳&告白
ところで、この場をお借りして声を大にして言いたいことが。コメントで「実は『妹』にそれほど『萌え』は感じない。」とありますが、本当は続きがあったんです。「むしろ『弟』の方が。」と(爆)。しかし、高度な判断によってオチが途中で消えてしまったというわけで。
(福)は馬鹿だなあ。こんな可愛い子が女の訣ないぢやないか。云々。
平成十六年九月二十五日
林健太郎『ドイツ史論集』所收の「プロイセン改革とフランス革命」を興味深く讀む。この論文は、マックス・レーマン、マイアー兩者の論爭より始まつたドイツ史學史上のシュタイン論議を概觀したもの。「(極端な言ひ方をすれば)感情的な言爭ひ」に終つたレーマンとマイアーの論爭をきつかけとして、この研究の進展は單にシュタインの人物乃至プロイセンの歴史の問題ばかりでなくヨーロッパにおける絶對主義より近代社會への推移を示すイギリスの立憲制度、フランス革命、プロイセン改革のそれぞれの特質とそれら相互の聯關の認識に對しても一つの光を投げかけるものとなつたのであるが、その過程を林氏は簡單だが的確に記述してゐる。その結果、「論爭のあり方」を考へる、と云ふ本來の林氏の執筆動機とは異る側面から讀む事も可能となつてゐるのだが、歴史を專門としない門外漢の「讀み方」としてはそれも「あり」だらう。
平成十六年九月二十五日
堀米庸三が述べる通り、歴史は(もつとも、歴史のみならず、數學にしても、物理學にしても、化學にしても、その他の學問にしてもさうなのだが)假設(堀米は「假説」ではなく「假設(仮設)」と書いてゐる)に基いた世界の再記述・再解釋であり、世界を認識する爲のものである。
感情的な言爭ひの側面が強い論爭であつても、事實・論理の指摘が含まれてゐるならば、當事者のみならず第三者に據る客觀的な檢討が可能であり、結果として何らかのより公正と思はれる結論が出る事もあり得る。かなりアレな今囘の論爭も、檢討のされ方によつては、その他の人間にとつて事實や世界のより良い認識に繋げられる可能性もある。
平成十六年九月二十五日
XとYの對立があつたとする。
Xが「他者の感情を傷附ける事は許されない」としてYを非難したとする。
Yが「感情を傷附けても、眞實や正義を追求する事は許される」と反論したとする。
この時、Xが再反論するのには幾つかの方法がある。
「眞實や正義を追求する事は許されない。他人の感情を傷附けない事が最も重要な事だからだ」
「いや、Yのした事は、眞實や正義の追求ではなく、單に他人を傷附ける目的のものだつた」
「眞實や正義を追求してゐたと言ふYの主張は、實際には眞實でも正義でもなかつた」
Lの場合、「ではXの非難はYの感情を傷附けないものなのか」と云ふYの反論を受ける可能性がある。そして、「Xが、Yに感情を傷附けられたからと言つて、反撃と云ふ名目でYの感情を傷附けるのが許されるのならば、名目があれば他人の感情を傷附ける事が許される事になり、Yの主張が肯定され、Xの主張が否定される」と云ふ結論になる。
Nの場合、Yの主張の内容を客觀的に檢討する事が必要となり、感情の問題は取敢ず檢討の對象から外される。そして、Yの主張がXに對して行はれたとなれば、そもそものXの主張が檢討の對象となる。
Mの場合、動機を決定する方法が問題となる。が、この時も、XはYを感情的に罵倒する事は許されなくなり、Yの發言を論理的・客觀的に檢討する必要が生じる。と同時に、Yの側からXの動機を檢討する事も可能となる。いづれにしても、發言の動機は發言の具體的な内容から檢討されねばならなくなり、感情論は否定される。
平成十六年九月二十五日
ホーソン『伝記物語』讀了。吉野源三郎『君たちはどう生きるか』を想起した。どちらも今の時代、讀まれない本ではある。と思つたが、『君たちはどう生きるか』は先日、岩波文庫のフェアで重版がかかりましたか。さうですか。
吉野源三郎『君たちはどう生きるか』 /トート号航海日誌(読書録)

平成十六年九月二十四日
某所にて御忠告を頂戴してゐるので。
  • ひとつは、主張はおかしくても最低限話の通じる人を「敵に回す」ようなことはしないほうが良いのでわ、ということ。
  • もうひとつは、サイトをもっとまとめるべきだということ。全部読まないと何が言いたいか解らない作りはよくない。部分的に読めばその部分の主張がわかるような構造を目指すべき。
どうもです。おつしやる通りです。努力します。
平成十六年九月二十四日
松下文法への言及がないぞとか、野嵜が反論出來ない批判はいろいろ出來る筈。
三上章の『現代語法序説』を五十ページまで讀んだ。山田・橋本・時枝文法のわかりやすい入門書としても讀める。あと例文が歴史的假名遣。本文の用字はかなり妙。
平成十六年九月二十四日
録畫しておいた「天上天下」を見たのだが、何が何やら。
取敢ず(もっと)がわざとなのは判つた。
平成十六年九月二十四日
寢ます。
37.4度だけれども明日は出。
明日ぢやないよ、今日だよ。無事歸投。
平成十六年九月二十四日
noz-watcher's WEBSITE(ノズラー観察同好会HP)の「掲示板」にアレクセイ沖泰光降臨。わらひ。
なんかまた長々と誹謗中傷を書込んでゐる。
さて、ご承知のとおり、nozは都合が悪くなると、すぐに過去の発言を削除隠蔽しますから、この掲示板のログも、こまめに取っておかれることを、ご提案いたします。とアレクセイは書いてゐる。
このアレクセイが例の「自らブログを削除した」と言つたpd39930.tkyoac00.ap.so-net.ne.jpの「復讐」を「支援」すると言つたのである。アレクセイには舌が二枚、生えてゐるに違ひない。もつとも、「アレクセイ」と「ホランド」で二枚、と考へれば、頷ける話である。面白くない冗談だな。
ちなみに、「通報」してゐないよ。
あと、「議論専用」と言つてゐた「ARGUMENT」のキャッチコピーを、アレクセイは「掲示板あらし対策用BBS」と言つてゐる。From アレクセイ( HP ) To noz-watcher@goo at 2004 09/24 13:42アレクセイが堂々と語句の改竄をやる人間である事が證明された訣である、なんて書くと、また「煽り屋」呼ばはりされますか。さうですか。
平成十六年九月二十四日
アレクセイのやうな「限定用法」で形容句を使ふ人とは議論し難い。
平成十六年九月二十四日
DDT's Room:Web Site Watch Sep-2004の二十四日附け。「句読点についての考え」
畫像はすぐに過去帖送りされるので、そちらで保存して使つて下さい。一往、日本古典全集刊行會云々のクレジットは附けておいて下さい。スキャンしたら本の背が割れた。
で,句読点としての利用方法は,漢文の訓点とは用途が違います。そして,元々日本語文では句読点の役目は分かち書きが担っていたと考えます。そこで,句読点を使っていた西洋の影響なしに句読点が発生した,とするのは無理がある,と考えている訳です。
漢文訓讀に便利なやうに、文の切れ目なり何なりを示す爲、「、」等を打つてゐたのですが、これは明かに句讀點としての利用方法です。レ點や一二點とは別です。既出の畫像を良く見て下さい。
また、分かち書きは日本の傳統的な文章に見られた事がありません。古典の寫本を見ると、草書で書かれた所謂「連綿體」が普通です。
「連綿體」についての參考文獻:電子出版のデスクトップ 16
句読点に関心ある人が少ないため,PCに慣れない人は句読点に「点」と「丸」を使っている,と考えています。
それが自然と思つてゐる、と見たら如何かと。
どちらかというと私は,形は見易さ,書きやすさで決めるべきだ,と考えております。なので,読点に「点」ではなく「カンマ」でいいじゃん,と謂っているわけで。
とすると、見た目をDDT氏は基準としてゐる事になります。が、HTML文書で見た目は極附けられるものでしたつけ? そこで最初の私の指摘が出て來る訣です。DDT氏は、「HTML文書は横書き文書だ」と考へてゐるから、「HTML文書では常にコンマを使ふ」と云ふ「俺原則」を作つて實踐してゐます。しかし、HTML文書に縱書き横書きはないのです。そもそも、「HTML文書で見た目を制御出來る」と云ふ發想がないのならば、「HTML文書でコンマ」と云ふ發想も出て來ないのです。句讀點の統一とかの問題ではなく、單に、DDT氏の「横書きにおけるコンマ使用の規則」は、正しからうが正しくなからうが、HTML文書では適用できない、と最初に私は指摘したのです。私の最初にした指摘は、「日本語では縱書きと横書きとでは異る句讀法を採用すべきか否か」の議論と次元が違ひます。話がリニアに繋がつてゐたからいろいろ勘違ひがあつたのですが、さう云ふ事です。閑話休題。
私は、見た目や書き易さを基準にすべきではないと考へてゐます。なぜなら、さう云ふ事は議論で正邪を決定出來ない事だからです。寧ろ、「戰後、國字改革の流れの中で一方的に規則として定められた」と云ふ事を重視して、「横書きにおけるコンマ使用」を反省すべきだと主張します。
平成十六年九月二十四日
まあ確かに小説書いた方が生産的かも知れませんが。
二十三日の早朝はMeたん祭と恰好いいOp祭だつたから寢られなかつたんですよう。どなたか、にじうら中毒を何とかする方法を教へて下さい。
平成十六年九月二十四日
XMLのマーク附けつて「他者から利用される事が前提」ですよね? 「Xさんのデータを別のYさんが利用する時、Yさんの規則に合せてデータを變換出來る」と云ふのがXMLの利點ですよね? なんか「自分の都合の爲にマーク附けを行ふ」と云ふ發想が世間にはあるみたいなのですが。もちろん、それはそれでXMLの利用法としては「あり」なのでせうが。XMLは「データ交換が前提」で使はれるものだと思ふのですが。それこそ「機械的に統一」で流れがXHTMLに一方的に行つてしまふのは如何なものかと。と誰とはなしに。
平成十六年九月二十四日
雑念雑記【2004年9月分】 −高天原−「2004年9月25日」

平成十六年九月二十三日
37.4度。
平成十六年九月二十三日
朝まで虹裏。37度。寢る。
平成十六年九月二十三日
ねこまたぎ
平成十六年九月二十三日
人を誹謗中傷し、個人攻撃する爲だけの目的でアレクセイが設置してゐる議論専用掲示板 ARGUMENTで、アレクセイ沖泰光が茲に來てまた執拗に惡口を言ひ始めてゐる。まはりで沖泰光を煽り立てて「野嵜包圍網」を作らうとしてゐる人物がゐる模樣。
しかし、沖泰光曰。

それに、野嵜健秀のような掲示板荒らしの場合は、痴漢とはちがって警察のような公権力が、われわれの代わりに彼らを捕まえたり罰したりしてくれませんからね。責任をとらせるための手間を考えたら、相手にしないのが一番だと思います。

私は警察によつて掴まへられる事があり得ないらしい。と云ふ事は、沖泰光の定義する「掲示板荒し」とは、非合法的な犯罪行爲をなす者ではない事を意味する。これは私の定義する掲示板荒しが、非合法的な犯罪行爲をなす者であるのと反對である。即ち、沖泰光は、惡い事をしてゐない人物を「掲示板荒し」呼ばはりする、と云ふ事をしてゐるのである。
沖泰光の價値觀は、まともな價値觀とは正反對である。
一方で、見方を變へると、さう云ふレッテル貼りをして自分の敵を攻撃してゐる沖泰光は、相手の名譽を毀損すると云ふ手段をとつてゐるのであり、明かに犯罪をなしてゐるのである。と云ふ事は、沖泰光は明かに犯罪者であり、現在、犯罪者の仲間が野嵜を包圍してゐる訣だ。
あと、eaoska012028.adsl.ppp.infoweb.ne.jpが、私は野崎さんにまったく突然かみつかれて、ブログを閉鎖する憂き目にあったもので「恨み骨髄に徹す」がまだ抜け切れておりません(笑)。と言つてゐる。これは「義」で、明かに嘘だが、假に本當の事を言つてゐるとしても、このやうな根性ならば私にまともな批判をされても逆恨みする事だらう。「野嵜がどのやうな誹謗中傷をしたのか」を具體的に書かず、野嵜に「まったく突然かみつかれ」たと云ふ事をしかeaoska012028.adsl.ppp.infoweb.ne.jpが書かないのは、野嵜が何も惡い事をしてゐないからである。野嵜が突然「噛み附く」事は、eaoska012028.adsl.ppp.infoweb.ne.jpが突然ブログなり何なりに物を書いたからに他ならないし、文章を發表するのは突然の事であり、豫告なしであるに決つてゐる。だから突然である事はそれ自體、惡い事ではない。噛み附くのが惡いと言ふのならば、その惡い事をして仕返しをしてゐるeaoska012028.adsl.ppp.infoweb.ne.jpも野嵜と同じ程度に惡い人間である事になるし、アレクセイ沖泰光も當然惡い人間である事になる。そして、同じ惡い人間ならば、eaoska012028.adsl.ppp.infoweb.ne.jpにしてもアレクセイにしても、野嵜を非難する事は出來ない。それなのに「する」と言ふのだから、eaoska012028.adsl.ppp.infoweb.ne.jpにしてもアレクセイにしても、單なる個人的な恨みに據るものなのであり、呪詛である。
eaoska012028.adsl.ppp.infoweb.ne.jpもアレクセイも、してゐるのは批判ではない。感情的な罵倒である。
野嵜は感情的な罵倒をしてはゐない。理性的に批判をしてゐる。感情的に言はれたからこそ感情的に言返す事はあるが、結論は常に論理的である積りだし、結論が論理的なものか何うかは文章を讀めば判る事だ。それをわざとeaoska012028.adsl.ppp.infoweb.ne.jpも沖泰光も無視して、野嵜の動機を感情的なものと極附けて、非難してゐるのである。私はeaoska012028.adsl.ppp.infoweb.ne.jpや沖の同類ではない。
平成十六年九月二十三日
議論専用掲示板 ARGUMENT
じっさい、野嵜健秀らの下劣なログは全部確保してありますから、それをいつでも公開できるし、こっちはフェアプレーに徹しているから弱みはない。
かう言ふのを「盜人猛々しい」と言ふのだ。
掲示板の主宰者が「アレクセイ」と「ホランド」の名で投稿者を總括する、と云ふのがフェアプレーか。
沖泰光アレクセイの價値觀は一般人のそれとは正反對である。しかし、さう云ふ顛倒した價値觀で他人を非難してゐると、「アレクセイの非難は一般人の非難とは正反對のものだ」と解されるやうになるだらう。アレクセイが一番執拗に非難してゐる野嵜の評價を相對的に引上げる事にもなり兼ねない。アレクセイに忠告しておくが、もし本氣で他人を叩きたければ、常識人が常識的に判斷して、自分の考へ方と根本的には同じだ、と感じられるやうな、常識的な批判の仕方をする事だ。
言換へると、野嵜ほどアレクセイを怒らせた人間はゐない。そして、アレクセイの連勝記録は野嵜の前でストップしてゐる。此處からは推測だが、連戰連勝の記録を塗り變へる爲に、アレクセイは野嵜を屈伏させたいのであらう。しかし、力でねぢ伏せる事と、論理的に相手の非を指摘する事とは違ふ。アレクセイは今に至るまで、野嵜の非を指摘し得てゐない。そして、アレクセイが言ふ通り、「言いたきゃ言え、それを信じる馬鹿など、もとより問題外だ」と云ふ事だ。アレクセイの「正義」を人が信ずるか何うかは、人次第である。他人はアレクセイのコントロールの外にゐる。アレクセイは、掲示板では「園主」として威張つてゐられても、世間ではただの「論客」の一人でしかない――が、「花園」掲示板に貼られてゐる「沖自身を美化したイラスト」を見ては、アレクセイをまともな論客と見るのは辛い所だ。
平成十六年九月二十三日
と言ふより、あゝ云ふナルシスト的な事を喜んでやつてゐては、「沖泰光の行爲は全て自己愛に據るものだ」と判斷されても仕方のない所だらう。情況證據と言ふものは結構、馬鹿に出來ないものだ。
もちろん、あの「花園」掲示板のナルシスト的なイラストを見ても木村さんはアレクセイの事を評價し續けたのだから、欺される人はゐるだらう。しかし、何時までも欺し續けられる事はなかつた。何しろ、沖の方から木村さんの信頼を裏切つたのである。どんなに綺麗に裝つてゐたとしても、本性は出るのである。私は、あの「アレクセイ・ホランド・ナイルズ」揃踏みのイラストを見て直感的に「アレクセイはアレだ」と思つたが、世間の人もさう思はない人許りではなからう。もしゐても、沖の逆鱗に触れれば、即座に沖から罵倒を浴びせかけられる事になり、裏切られる事になるから、わかる。そして、沖の逆鱗は相當巨大なものであるらしい。
世間の人から、「自己を美しく飾らなければならないからこそ、沖泰光は野嵜に『汚い尻尾』のやうなレッテル貼りをしないではゐられないのだ」と判斷されても仕方が無い、と云ふ事は言つておく。自分に對しては綺麗事を言ひ、他人に對しては汚い言葉を投附けてゐるのは、沖泰光である。それは見る人が見れば判る。「アレクセイ」が「ホランド」を襃めるのは、「花園」掲示板では「日常茶飯事」である。自分で自分を襃めるのは、まともな事ではない。「遊び」だらうが何だらうが、理屈を言つて言ひ訣したところで、道徳的に許されるものではない。
平成十六年九月二十三日
あと、最う一つ豫言しておくけれども、假に「議論専用掲示板 ARGUMENT」に沖に對して批判的な意見が書込まれたとしても、沖は「野嵜一派」と括り、さう云ふレッテルを貼る事で意見を封殺し得た、と考へてしまふだらう。
「アレクセイはさう云ふ人間なのである」とは言はない。單に、過去の掲示板でのアレクセイの行動パターンから推測するだけの事である。
しかし、さうやつて沖が、自分に都合の良い意見だけを自分の掲示板に集めてゐる事は、否定出來ない事實である。pd386c4.tkyoac00.ap.so-net.ne.jpは、「野嵜は言論の自由を否定している!」と非難してゐるが、その同じ非難がアレクセイにはより適切な形で當嵌るのである。
平成十六年九月二十三日
あと、pd386c4.tkyoac00.ap.so-net.ne.jpは「野嵜はクラッカー」と言觸らしてゐるが、さう云ふ事實はない。
「具體的な證據も無いのに極附けを行ふ」のは、「アレクセイとホランドが同一人物だというのには証拠がありますか」「リモートホストが同一なのは、アレクセイとホランドが同一人物である事の証拠になりませんよ」と言放つたアレクセイに嗤はれる事だから、アレクセイシンパのpd386c4.tkyoac00.ap.so-net.ne.jpはその手の非難の仕方は止めるがよろしい。アレクセイの主張をアレクセイの身内が否定するのは、矛盾だからである。
平成十六年九月二十三日
さて今、私はアレクセイとpd386c4.tkyoac00.ap.so-net.ne.jpの粗探しをしてゐるのだらうか。彼等はさう言ふだらう。しかし、では「粗探し」でない批判の仕方とは何かを、彼等に尋ねたら、彼等は何と答へるだらう。
「野嵜健秀包囲網という「呪い」(上) 投稿者:アレクセイ@管理人  投稿日: 9月20日(月)18時40分48秒」と云ふタイトルを見る限り、前近代的な呪詛と云ふ方法が、アレクセイにとつては「粗探しでない正しい批判のやり方」であると云ふ事にならう――今、私は餘りの馬鹿げたアレクセイの主張を信じたくないが故に「ならう」と書いてゐるが、論理的には「なる」と斷定の形で書かざるを得ないところである。私は一往、敵として、アレクセイを貶めたくない。敵が剩りに馬鹿であつては困る。
しかし、他にアレクセイの考へる「正しい批判の仕方」が、私にはわからないのである。
pd386c4.tkyoac00.ap.so-net.ne.jpにしても「義」にしても、論理的な誤を指摘する事を「粗探し」と極附け、誹謗中傷や嫌がらせ、野崎さんを軽くいじる事をやつてゐる。と云ふ事は、さう言ふ事が彼等にとつては「正しい批判の方法」なのだと考へざるを得ない。さう云ふやり方に贊成し、賛同してゐるところを見ると、或は「汚い尻尾」等と罵倒の文句を書いて讀み手に先入見を植ゑつけようとしてゐるところを見ると、アレクセイもさう云ふやり方を「正しい批判」と思ひ込んでゐる節がある、と判斷せねばならない。
が、さう言ふ感情的なやり方を、野嵜は正當の批判の方法とは思はないのである。そして、民主主義の社會で、言論は理性を基準としなければならないと考へるのである。「呪詛」等は、近代社會ではもつてのほかだと言ひたい。アレクセイには反省を求める。が、アレクセイが價値の顛倒をはかるニーチェのツァラトストラ(或はツァラトストラのニーチェ)のやうな事をしようと考へてゐるのならば、それはそれで結構である。が、一言、「私アレクセイのする罵倒は、一般的な意味での罵倒ではなく、舊弊の社會の考へ方では賞讃を意味するのだ」とでも言つておいて貰ひたいものだ。もしそんな考へ方はない、アレクセイの考へ方は一般人の考へ方と一致するものだ、と主張するのならば、それはをかしいぞ、と申し上げたい。
アレクセイのしてゐる事は、どれもこれも非常識だ。
平成十六年九月二十三日
地獄の箴言: (元)文藝評論家の近況
平成十六年九月二十三日
/ねこまたぎ。
平成十六年九月二十三日
天動説と地動説の話。
http://seijiseikana.g.hatena.ne.jp/iwaman/20040922#p1
http://d.hatena.ne.jp/yms-zun/20040923#season
野嵜が書いた闇黒日記「平成十六年二月一日のところ」の記述は、觀測者についての話で、理論についての深い話ではありません。
あと。
http://seijiseikana.g.hatena.ne.jp/iwaman/20040923#p4
また、恨みの念に恨みで對抗するのは一番危險なことで、さうするとキ合、穴が四つも出來てしまふ。やはり反對の念ひで對抗するといふか打ち消すのがよいと思ふ。「汝の敵を愛せよ」なんていふのもさういふことでせう。
聖書の文句を引用するとまた某so-netの中の人やらアレクセイやらから「詭辯」だの何だのと言はれる訣ですよ。何うしたものやら。
それから。日本の神樣に限らず、ユダヤ教にしてもキリスト教にしても、名を呼ばないのではないですか。アンカー英和辭典の第二版の附録にこんな説明があります。
Godは特別扱いの語で、真剣に宗教の話をしているとき以外は、みだりに用いてはいけないことになっている。宗教と無関係にGodを用いると神聖を汚すことになるので、しばしば最も下品な表現というイメージを持つ。日本語の「くそくらえ」、「…しやがる」などに似た響きを与える。したがって、Godには婉曲語が多い(婉曲語法は下品ではない)。for goodness' sake(=for God's sake)(お願いだから)、Thank goodness.(やれやれ、助かった)、Good Heaven(s)!=Goodness gracious!(おやまあ、これはしたり)など。
それから、匿名の掲示板荒しは神樣だから下手に手を出すと祟りがあるなんて事を某紋切型辭典で書いたのを思ひ出しました。某アレクセイ氏も、「呪う」だか「しかし地獄行く」だか何だか良く知りませんが言つてゐて、まあ、困つたものです。
平成十六年九月二十三日
議論専用掲示板 ARGUMENTのbody要素のbgcolor屬性の中に、へんな文字が紛れ込んでゐる。
平成十六年九月二十三日
"exchange of views;dipute"とか"reason given;reasoning process"とかを意味する「argument」を名乘つておきながら、「呪う」だとか「復讐する」だとか云ふ文章を書込むのは、變な話だ。
アレクセイ氏は、「私憤を公憤に昇華する」事をせず、「私憤を公憤にすり替へる」詐術を使つてゐるやうに思はれる。「呪い」とか「復讐」とかを原理としてゐる場合、「嫉妬によるもの」即ち私的な行爲とは考へられるが、「公益性がある」とは言ひ難い。公益性がないものは、批判にも批評にもならない。
平成十六年九月二十三日
一往述べておくと。私はアレクセイ自身の發言を根據にその動機を述べてゐる。アレクセイ等がするやうに、臆測や邪推によつてそれを極附けてゐる訣ではない。だから、私はアレクセイの人格を攻撃してゐるのではなく、誹謗中傷してゐるのではない。
平成十六年九月二十三日
キリストの記録は聖書にしかありません。
教養文庫から飜譯が出た『おもしろい暦の科学』では、「キリストは實在しなかつた」と極附けてゐます。ソヴィエトで出た本だから茲まで書いたのでせうが。
平成十六年九月二十三日
アレクセイの主張は、要約すると、「野嵜は犯罪行爲をしてゐない。だから/しかし/とにかくアレクセイ等は野嵜に對してリンチ(私刑)を行ふ權利を持つ」と云ふものだ。法治主義を否定する危險思想である。
「かう云ふアレクセイ等の危險思想に對抗する事は公益性を持つ」と野嵜は考へる。
平成十六年九月二十三日
http://d.hatena.ne.jp/yms-zun/20040923#misunderstanding
といふか、「現代かなづかい」公布の四十年後に「現代仮名遣い」が公布されたのは、自ら「かなずかい」と表記できない矛盾を隠蔽するのが真の目的だつたのだといふ仮説を提唱してみる。
現代かなづかい(昭和21年11月16日内閣告示)

国語を書きあらわす上に、従来のかなづかいは、はなはだ複雑であって、使用上の困難が大きい。これを現代語音にもとづいて整理することは、教育上の負担を軽くするばかりでなく、国民の生活能率をあげ、文化水準を高める上に、資するところが大きい。それ故に、政府は、今回国語審議会の決定した現代かなづかいを採択して、本日内閣告示第33号をもって、これを告示した。今後各官庁においては、このかなづかいを使用するとともに、広く各方面にこの使用を勧めて、現代かなづかい制定の趣旨の徹底するように努めることを希望する。

……

餘談だが、この内閣訓令にある、もとづいて、と云ふ語が、のちのち国語審議会を惱ませる事になる(「現代かなづかいの適用について」昭和30年11月10日総会)。

「現代かなづかい」には多くの矛盾點があります。そして、さう云ふ矛盾の根本的な原因は、「現代かなづかい」がダブルスタンダードである、と云ふ點にあります。そして、原理にダブルスタンダードがある事は、その規則なり主張なりが間違つてゐる事を意味します。
歴史的假名遣の場合、原則として「表意主義」――「基本的に表記は語の意味に從ふ」――が一つだけあつて、時と場合によつて例外を認める、と云ふ事になります。この場合、理想と現實との二元論になりますが、この二元論はダブルスタンダードではありません。原則は理想主義であり、現實容認は例外であるが、例外の出現を認める場合はまた別に規定があるからです。
平成十六年九月二十三日
ねこまたぎ その二
平成十六年九月二十三日
noz-watcher's WEBSITE
★ノズラーとは?★
評論家の福田恆存や松原正の著作を愛読し、ネット上の掲示板などで旧かな旧漢字(彼らは正字正仮名と呼ぶ)を使いまくり、自分のことを「反時代的教養人」だと信じて疑わない人たちの呼称。
★ノズラーの性質★
「正字正仮名」がいかに正統な仮名遣いであるかをネット上の掲示板などで布教するが、語り口が傲慢なので皮肉にもかえって「正字正仮名」に嫌悪感を示す人を増やすという事態に陥っている。
また、「正字正仮名」こそが現代の日本に残された数少ない(唯一?)伝統であり、これを守ることこそが真の保守であると盲信しているので、保守を名乗りながら「正字正仮名」を使わない西部邁や西尾幹二やその信奉者を罵倒することを生き甲斐にしている。
この定義がつつこみどころ滿載である事は言ふまでもない。
評論家の福田恆存や松原正の著作を愛読し、と書いてゐるが、この時點で事實の誤認がある。福田氏は、評論家でもあるが、戲曲家でもあり、演出家でもあり、飜譯家でもある。小説も書いてゐる。松原氏も、單に評論家であると云ふ訣ではない。
ネット上の掲示板などで旧かな旧漢字(彼らは正字正仮名と呼ぶ)を使いまくり、とあるが、普通に使ふ事を「使いまくる」と言ふのは如何なものか。世間の人は「現代仮名遣いを使いまくっている」のか。「使いまくる」と云ふ言ひ方そのものが、偏見と惡意とに滿ちたものである。ものの呼び方に附いては、以前にも指摘した通り、表音主義者にとつては「旧かな旧漢字」であつても「正字正仮名」であつても、それ自體、單なる記號であつて、意味を云々すべき事ではなく、氣に入る氣に入らないと言へるものでもなく、況してや「傲慢」の根據とする事は出來ない。「正」と云ふ用字に文句がある、と言ふのならば、その時點で表音主義を否定した事になり、「現代仮名遣」を否定する立場の人間を非難する理由を失ふ。
自分のことを「反時代的教養人」だと信じて疑わない、と云ふ言ひ方も、何うかと思はれる。かう云ふ動機の極附けを他人に許すと云ふのであれば、同好会氏の動機を「惡意」「嫉妬」と私が極附ける事も、同好会氏は禁止出來ないし、それを否定するのも出來ない事になる。言ひ方そのものが自己否定を含み、他者の批判になつてゐないのである。
「正字正仮名」がいかに正統な仮名遣いであるかをネット上の掲示板などで布教するが、と書いてゐるが、確かにこれは或程度まで事實である。しかし、同好会氏による事實の指摘は、茲までである。事實を紛れ込ませるのは、風聞・デマの基本である。或程度までと書いたのは、野嵜にしても他の人にしても、そのやうな事を積極的にしてゐる訣ではなく、事實とは必ずしも言へないからである。
語り口が傲慢なので、と云ふのは、印象批評であるが、「だ」「である」調を傲慢と呼んでもらつても困るし、そもそも同好会氏自身の文體の方が餘程傲慢に見えるのが問題である。同好会氏自身は、野嵜から見れば傲慢な「語り口」で上のやうな文章を綴つてゐる。だが、自分の文章なのだから、同好会氏はそれを當然「良い」と思つて使つてゐる筈である。すると、同好会氏の言ふ「傲慢な語り口」と云ふものが、世間一般の物の見方から判斷して、本當に傲慢と呼べるものなのか、野嵜なり誰なりの文章を「傲慢」と極附ける前に、同好会氏自身の文章觀が最初に檢討されなければならない。同好会氏の文章觀を、檢討抜きに「正しい」と認めて、その批判を頭から「正しい」と信じ込む事は、批判的な物の讀み方とは言へないだらう。そして、同好会氏の文章觀が狂つてゐるのだつたら、同好会氏が「傲慢」と呼ぶ野嵜らの文章は、即座に傲慢であるとは極附けられなくなる。
皮肉にもかえって「正字正仮名」に嫌悪感を示す人を増やすという事態に陥っている。とあるが、これも事實と言へるか何うかは怪しい。誰も調査してゐないからである。しかし、從來「正字正仮名」を知らなかつた人が大多數である筈で、そこで新たに「正字正假名」を知つた時、「好感を抱く人」も「嫌悪感を示す人」も共に増えて當り前である。さう云ふ事情を拔きに、一方的に「嫌悪感を示す人が増えている」と言ふのは如何なものか。さらに、「皮肉にもかえって〜という事態に陥っている。」と云ふ言ひ方が問題である。事實の報告なら、かう云ふ書き方はしない。となると、色眼鏡をかけて人の文章を讀んでゐて、同好会氏はかう云ふ揶揄・嘲弄の文章を書いたのだ、と判斷せざるを得ない。すると、同好会氏の態度は、隨分傲慢だ、と云ふ事になる。その、自分の傲慢さを自覺しないで他人を傲慢と罵る態度は、果して褒められたものか――或は、世間的に見て、説得力を持つものであるか。
また、「正字正仮名」こそが現代の日本に残された数少ない(唯一?)伝統であり、これを守ることこそが真の保守であると盲信しているので、とある。ここで「盲信」とあるが、盲信とは訣も判らず信じ込む事で、訣を説明して「布教」してゐる人間のする事ではない。だから、同好会氏の文章は矛盾を含むのであり、間違つてゐる、と云ふ結論になるのだが、まだ文章が終らない。そもそも「お前らの信仰は盲信だ」と極附けるのは、相手を非常に馬鹿にした傲慢な言ひ方だ。が、同好会氏の文章がまだ終つてゐないので一往最後まで附合ふ。
保守を名乗りながら「正字正仮名」を使わない西部邁や西尾幹二やその信奉者を罵倒することを生き甲斐にしている。「生き甲斐」と言ふのが根據のない極附けで、事實の指摘としてはをかしい。また、「盲信」でなく「理由があつて信じてゐる事を根據に批判を加へる」のならば、誰が何う考へても惡い事ではあり得ない。さて、ここで、逆から考へてみよう。なぜ同好会氏は「ノズラー」の「信仰」を「盲信」と云ふ事にしたのか。同好会氏は、結論として、「ノズラーの批判は不當なものである」と言つてゐる。と言ふ事は、同好会氏は、「ノズラーの批判は不當な批判である」と云ふ結論を出す爲に、根據としての事實を歪めたのである。
同好会氏の主張は、根據が「グダグダ」であり、ただ結論として「野嵜や正字正かな派を否定する」と云ふものが確固としてあるだけである。ならば、同好会氏の目的は單に「野嵜らを否定する」と云ふだけのものであり、理由は後附けに過ぎない、と云ふ事になる。となると、根據のない罵倒を同好会氏はしてゐるのである。野嵜らの西部・西尾批判を「根據ナシ」にして、不當な誹謗と見せかける爲に、同好会氏は野嵜らの思想を「盲信」と極附けたのである。
――長々と分析を書いたが、子細に調べるまでもなく、同好会氏の惡意は、文章のぱつと見から明かである。分析しなくとも、常識のある人ならば、同好会氏の文章がをかしい事は、解るだらう。もつとも、同好会氏の目的は、解る人に解らせる事ではあるまい。單なるイメージ戰略なのだから、スパムや「俺俺詐欺」の類のやうに、無智の人間をひつかけるのが同好会氏の目的である。そして、さう言ふ人の無知につけこむ連中は、人が無知でなければ困ると考へてゐる筈であり、無知な人間を操縱する自分中心の愚民政治を思ひ描いてゐる筈であるが、そこまで突込んで論ずる餘裕は今はない。
以下は推測だが、大外れではないだらう。同好会氏は、「自分が根據ナシに罵倒してゐるから、野嵜一派も同じ事をしてゐるのだらう」と考へてゐるのである。例のso-netの中の人も、漏れにも罪はある、野崎にも罪はある。だから野崎に石を投げる。と書いてゐる。自分に罪があるから、相手にも罪がある事にする、そして自分の罪は棚に上げ、でつち上げた相手の罪だけを非難して好い氣にならうとする――同好会氏もさう言ふ意圖で上の文章を書き、個人攻撃だけの爲のサイトをでつち擧げた、かう考へる事は、可能である。何しろ、そのやうな動機で實際に野嵜を罵倒した「1234」なる人物が現に「ゐる」のである。現に實例がある以上、可能性がゼロと云ふ事はあり得ない。そして、「1234」もアレクセイも同好会も、仲間なのである。同じやうな考へ方をし、態度をとるものであると考へても、不當な推測とは言へまい。そして、實際、アレクセイにしても「1234」にしても、同好会と同樣、餘裕があるかのやうに振舞つて相手の感情を煽り立てるのが上手である。彼らに似た傾向がある事は指摘して良いだらう。
平成十六年九月二十三日
/ねこまたぎ その二

平成十六年九月二十二日
37.2度。
こんな時に三上章『現代語法序説』なんてものを讀んでゐたりする。「日本語は膠着語である」と云ふのはまあ大體、共通認識だが、何と何がどんな風に膠着してゐるのか、と云ふ部分の考へ方で、文法學者の間に見解の相違があると。で、三上氏は、判然としないものは取敢ず「準詞」としてしまへよ、そこから取敢ず細かい部分を見て行かうよ、と言つてゐる。のだと理解してみた。違ふかも知らんが、ならばその違ふ部分は俺のオリジナルの考へだ。何が惡い。と、又「義」に叩かれさうな傲慢な言ひ方をして今夜は寢る。「義」だかウオッチャーだか知らんが、そいつらの方こそ偉さうな口を利いて人を見下しては威張つて見せてゐる傲慢な連中だから、文句を言はれる筋合ひはない。
平成十六年九月二十二日
だーかーらー。
今夜は何匹蚊がゐるんだよ。寢られない。
平成十六年九月二十二日
必要なのは優しい心ではない @ securecatのMT
立場によるけれど、少なくともウェブ屋という立場からいえば、必要なのは、優しい心とか気配りとか配慮とかの結果を成果物にキッチリ出すためのクリエイティブ(創造力)と実装力だ。
「必要なのは優しい心だけではない」と言つたら如何かと。
かう云ふ細かい文章の表現で示されるニュアンスの差がわからん人もゐるのかも知れないけれども。「義」とか。
平成十六年九月二十二日
以下は、「例へば」の話だ。論理の話。
X氏が、○月○日に死刑執行人に着任し、翌日離任したとする。
その間、死刑が行はれなかつたとする。
この時、「義」が「X氏は人殺しの犯罪者だ」と言つたとする。
辯護人は以下のやうに述べた。「X氏が死刑を執行しても、死刑は合法的なものであり、違法行爲でないからX氏は犯罪者ではない」
ここで「義」は「X氏は死刑を執行したと白状したな。X氏は犯罪者だ」と主張した。
辯護人は、次のやうに事實を述べた。「○月○日に死刑執行人に着任し、翌日離任するまでの間、X氏は死刑を執行してゐない」
「義」は「盗人猛々しい」と述べた。
さて、X氏の辯護人と、「義」とでは、どちらの論理が正しいだらうか。そもそもこの場合の「義」の主張は、「論理」と呼べるものだらうか。
平成十六年九月二十二日
昔、Yahoo!掲示板で、野嵜は以下のやうに書いた事がある。
「假に日本人が南京で支那人を大量に殺してゐたとしても、軍上層部に據る命令が無かつたのだから、日本軍に據る虐殺とは言へない」
「そもそも日本人が南京で數萬人の支那人を殺すのは不可能であつた」
この時、「南京大虐殺あつた派」の連中は、「義」と同じ理屈で野嵜を非難したのである。
平成十六年九月二十二日
「小學生の四割が天動説を信じてゐる」との事だが、天動説を信じてゐる小學生は「地動説が正しい」と主張する相手をどのやうに扱ふのだらうか。その事の方が氣になる。
平成十六年九月二十二日
37.2度。
平成十六年九月二十二日
堀米庸三「ヨーロッパ中世史の問題点」(『紀行と随想』所收)より。

(略)ルネサンスの科学思想の進歩を考えるとき、一般にはガリレオの「それでも地球は動く」という言葉が、他のすべてのコンテクストを無視して取り出される。ガリレオに地動説の取消しを強制したキリスト教会の反動性を浮彫りにするのには、これ以上によいエピソードはない。このエピソードを取り扱った歴史小説の類にはしかし、一般に恐しく啓蒙主義的バイアスの強いものが多く、しかもそれがわが国では一般の常識となっている。天動説の理論であるプトレマイウスの説は、教会の支持する反動理論の代表のようにみえる。しかし事柄はそんなに単純なものではない。

そのことは例えば、今日われわれの常識である地動説を経験的に証明してみようとすればすぐわかることである。経験的なことは一般に合理的だと考えられる。ところが、地動説を経験に即して証明することは不可能なのである。他方プトレマイウスの天動説は、精密な天体の観測と合理的な計算に基く天体の運動論なのであって、一切の暦算はこれにより、人間の生活はそれによっていささかの支障もなかったのである。これを否定したコペルニクスは、決してプトレマイウス理論の経験的反証をあげたのではなかった。コペルニクスのプトレマイウス批判は、アリストテレスのいう運動の一様性という基本原理が、プトレマイウスの場合、惑星の運動の非一様性という点で、この基本原理に反するという点にあった(広重徹「科学における近代と現代」堀米編『歴史としての現代』所収、潮出版社、昭和三十八年)。ガリレオはまたアリストテレスの権威を疑ったのであったが、彼もまた経験的根拠からして、天動説を単純に否定できると考えていたわけではない。

こんなことから、私のいおうとしているのは、近代の科学思想なるものが、決してキリスト教的な神の宇宙支配という観念の否定としてではなく、却ってその証明を目ざして出てきたということである。それは十三世紀のスコラ学の開いた道の上を歩んでいるということなのである。万有引力の法則を発見したニュートンもまた同じであった。ニュートンに始る十七世紀の科学革命は、キリスト教の信仰と結びついて起り、それに支えられて発展した。科学が神を前提することなく自然の説明を行いうるようになるのは、ニュートンから一世紀おくれたフランスのラグランジュ以来なのである。

平成十六年九月二十二日
ガリレイと天動説について。浅野順一編『キリスト教概論』(創文社)からも引用しておかう。二百六十四ページから二百六十五ページ。

キェルケゴールの「主体性が真理である」という発言の内容を更に説明するために、プリンストン大学神学部のマカイがキェルケゴールのこの考えを説明するのに用いた方法を相当程度借りて試みてみよう。

  • Mackay, John A.:A Preface to Christian Teology, 1943. 土山牧薫訳『キリスト教神学序説』新教出版社。

人がバルコニーから道を眺めているとする。その時には、誰が下の道を通ろうと、その人はバルコニーからの傍観者なのであって、別に道路上の人の故に行動を起さなければならないという必然性をもたない。このように、バルコニー上の人がものを考えるような仕方での思考形態が、人間の生活の中にはある。科学はすべてこの領域に入るものであろう。ところが、その人物がバルコニーから降りて下の路上を歩くとなると、事態はどういう変化を蒙るであろうか。向うから自動車が走ってくるような場合には、その人はそれを避けなければならないのであり、路上ではこのように絶えざる緊張と決断とが要求されている。そうすると、バルコニーで下を眺めているような状況と、路上を歩いている時のような状況とでは、異なる思'考態度をわれわれから要求する。キェルケゴールが「主体性が真理である」と言った時、われわれが本当に知りたい真理、われわれの生の根底となるような真理は、路上を歩いている時のような状況での思考態度によってしか知ることの出来ないものである、ということを主張したのである。すなわち、傍観者的な態度を止めて、自分をあるものに賭けるというような冒険をおかさなければ、われわれの人生を基礎づけるような真理は、それ自身を明らかにしてくれないという主張であった。

ここでキェルケゴールは、真理には次元の相違があるということを見抜いたのである。自然科学のように、観察することにその本領があり、その観察の対象に生命を賭けなくても認識可能な真理の次元と、生命を賭けなければ認識可能でないような真理の次元とが存在する。

真理の次元的相違を、更に例をあげることによって明瞭にしてみよう。ヤスパースが『哲学的信仰』という著書の中で言っていることであるが、ガリレオが地動説を提唱した時、当時の教会から非常に迫害された。その結果ついにガリレオが、公けに「太陽が動く」ということを認めて、教会にゆずったのは歴史に有名な事件である。しかし、彼はその時「それでも地球は動く」とつぶやいたと言われている。ところが科学者のガリレオとことなって、哲学者のブルノーは、自分の哲学上の意見のために迫害された時、最後まで教会に屈服せずにその哲学的信念をまもって、ついに、処刑された。今日、われわれは両者を較べて、ガリレオの態度を非難し、ブルノーは偉大であったと言いがちである。しかし、ヤスパースは、両者とも偉大であったと言うが、その理由は、あの時ガリレオが殉教していたら滑稽なことになっていたからである。何故ならば、地球が動くということは科学的真理であって、ガリレオがそのことで死ななくても、後の科学の進歩によって必ずや発見される真理だったからである。すなわち、ガリレオの発言はバルコニーからの傍観者の言得るような事柄に関してであった。そのような客観的真理に、生命を賭けなかったガリレオは正しかった。

ところが、ブルノーの場合には、人生の意味の問題、すなわち、誰かが命を賭けて証しなければ存続しない哲学的真理がそこで問題にされていたから、彼は殉教したのである。こういう真理が実存的真理なのである。

このようにヤスパースは書いているのであるが、これはキェルケゴールの「主体性が真理である」を、よく解釈していると言えよう。


平成十六年九月二十一日
横書き文の句読点について
DDT's Room:Web Site Watch Sep-2004
句讀點――と言ふより、中點や鉤括弧も含めたより廣義の語としては區切り符號と云ふものがある――は、もともと漢文を訓讀する際の訓點の一種として出現した。
或程度意識して區切り符號が使はれるやうになつたのは江戸時代の頃からだ。例へば、「武家義理物語」に「。」を使用した例がある。が、「世間胸算用」では用ゐられてゐない。「・」を使つた例もある。また、活字がなかつた當時、草書が用ゐられた手書きの文書で區切り符號が書かれないのは常態だつた。しかし、所謂「候文」の「候」が事實上句點に該當し、文の切れ目を示してゐた。(が、これは句讀點とは關係ない話だ。閑話休題)
明治になつて、西歐のコンマ・ピリオドを參考に、區切り符號も發達を始めた。活字が用ゐられるやうになつて、更なる讀み易さを求めると云ふ觀點から、工夫され始めたのではないかと野嵜は見てゐる。明治初期の刊本を見ると、現在の句讀點の外に、讀點の白拔きのもの等も用ゐられてゐる。齋藤緑雨の全集では今から見れば特殊な區切り符號が再現されてゐるので、參考に出來る。區切り符號の議論は、明治二十年代から盛んになつたらしい。山田美妙は當時、かなり意識的に符號の遣ひ分けをしてゐた。
幾つかの方式が整理されて現在のやうな區切り符號の形式に定まつて來たのは、大體明治四十年代の事と見られてゐる。明治三十九年に文部省圖書局による「句讀法案(案)」が出てゐる。この時は、「、」「。」と云ふ形で定められる豫定だつたやうで、横書き文書とか縱書き文書とかの區別は無かつたらしい。
日本英文學會編「英文學研究 第十六卷 第三」は、千九百三十六年七月に出たものだが、現在の横書きと同じ書字方向で組まれてゐるが、「、」「。」が使はれてゐる。昭和十三年に出た齋藤勇『英文學史 三訂新版』(研究社)も同樣である。
戰後、文部省國語調査室「くぎり符號の使ひ方」(昭和二十一年)、「公用文用語の手びき」(昭和二十四年)、總理府「文書の横書き実施要領」(昭和二十五年)で、内閣閣甲第16号依命通知「公用文作成の要領」(昭和二十七年四月四日)等に、區切り符號についての指示がある。
平成十六年九月二十一日
めも。
横書き文書の読点
平成十六年九月二十一日
私の理解では,日本語は縦書きするものであり,句読点も持たなかった,というもの。そして,句読点を使うようになったのは西洋からの輸入であり,もともとはカンマが使われていたものが,縦書きでは点が使われるようになり,それが最近になって横書きでも使われるようになってきた。横書きで文章を書くのもまた,西洋からの輸入である。
事實誤認です。
原則を確立させるとき,どの原則にするかを決める理由が,日本語として何が適しているか,という理由ではなく,機械に便利なように,という理由で決まるとしたら,それには情緒がないと謂う意味です。
何處の誰が機械に便利なように,という理由で物事を決めようとしたのかと。
レッテル貼りのつもりはない,というか記者ハンドブックで推奨していることですし。教科書はもとより,技術書なんかでもあまり使われていない横書き文の読点に「点(、)」を使う記法を推奨しているのが記者ハンドブックなわけですし。
横書き文の読点あまり使われていないか何うか。また、「,。」で書け、と御上に指示されるやうになつて以來の事例が事例として適切であるか何うか。
また、この「横書きでは『,。』を用ゐるべし、カンマを用ゐるべし」との指示は、「近い將來には、日本語の表音化が實現し、全ての文章がローマ字或はカナモジの横書きで書かれるやうになるであらう」と云ふ前提(希望的觀測)の下、表音主義者によつて定められたものではないか。或は、「。」を殘したのは「現代かなづかい」で「は」「へ」「を」を殘したのと同じで、單なる妥協なのではないか。――これらは野嵜の私見ですが、的外れの考へだと言へるでせうか。
クエスチョンマークにしろエクスクラメーションマークにしろ輸入されたものですし,アラビア数字もそうでしょう。カンマだけ特別視する必要はないと思うのだけども。
讀點は輸入されたものではありません。「?」「!」については、正式の日本語の文章では用ゐない筈。アラビア數字は、區切り符號ではないので話の次元が違ひます。
それと,私が感情的な反感をもっているのは,機械のためという理由で統一することであって,日本語の読点にはカンマよりも点がいい(若しくは現状通り縦書きは点で横書きはカンマがいい),と決まること自体には反感はないです。
DDT氏は、野嵜が機械のためという理由で統一しようとしてゐる、と言ひたいのですか。
平成十六年九月二十一日
ところで、DDT氏は、現在の「DDT's Room:Web Site Watch Sep-2004」は常に横書き状態で表示されるものである、と、どうして思ひ込んでゐるのでせうか。DDT氏は、さう思つてゐるからこそ、自分のサイトで「,。」と云ふ横書きスタイルを用ゐてゐるのだ、と當方は解釋してゐますが?
平成十六年九月二十一日
原則として日本語の文章では「、」「。」を用ゐる。横書き等の際に「,」「.」等の符號を用ゐる事は、例外として許容する。――と云ふのならば認められる。
「縱書きでは『、』『。』を、横書きでは『,』『。』を用ゐる」と云ふ規則を日本語の原則としてしまふのには絶對に反對。
平成十六年九月二十一日
DDT氏が變な風に人の文章を解釋してゐる。
http://www.remus.dti.ne.jp/~ddt-miz/think/watch/200409.htmlの「句読点質疑応答」(2004.09.21)の項。

あれ?野嵜さんが平成十六年九月二十日に書かれた,

DDT氏は,自分の文章が常に横書きで表示される,と思つてゐるのか? 最初に指摘した通り,HTML文書はそれ自體,縱書きとか横書きとかの屬性を持たない。ならば,より汎用性のある讀點をHTML文書では用ゐるべきだ

って言葉はそういう意味と解釈してましたが,違います?

なぜDDT氏の文章についてのつつこみ――「個別の事例についてのつつこみ」――と、讀點とコンマを讀點に機械のためという理由で統一しようとしてゐると云ふ一般論とを、DDT氏は混同したのだらう。
先にも書きましたが,これは文字コードのフェイスの問題だと思っています。Web上に限らず日本語の句読点には何がいいか,という話とは別問題だと認識しております。
何がいいではなくて、單に「横書き」でしか使へないコンマを現在、DDT氏が使つてゐる、と云ふ問題を指摘したのだが。
先にも書きましたが,HTML文書に限らず電子データの表示が縦書きか横書きか判らないって理由でどんな句読点を使うか決めるとしても,それは妥協でしかないと思うですよ。
「妥協に過ぎないから俺は横書き決め打ちでコンマを使つてやるぜ」と、DDT氏は言ふ訣ですか。
縦書きで読点が「カンマ」になってしまうという不都合を取るか,横書きで読点が「点」になってしまう不都合を取るか,という選択肢のなかで,私は前者で妥協している訳で。
だーかーらー。どうしてそれが妥協になるのかと。
縦書き表示されるブラウザをお使いの方には申し訳ないけど,どちらをとっても不都合があるので已む無し。
讀點をとる不都合とは? 讀點は縱書きでも横書きでも使へるのです。と言ふより、DDT氏は、「讀點は本來、何時いかなる場合にも横書きの際には使用してはならない、横書きの際に出現してしまふのは不都合であり、已む無く使ふものである」とでも考へていらつしやるのですか? それは完全な思ひ違ひです。
正直謂って,個々人がワープロで打った文書とかネット上の文書以外では,横書き文で読点に「点」を使っているのを余り見かけません。あとは仕事関係で,書き方を制限されている文書くらい。
「見かけません」と云ふのは單にDDT氏の個人的な印象でせう。根據としては今一つですね。
ワープロやネット上の文章に関しては,それこそ大元の文章[see 入力方法]や昔書いた文章[see re:日本語横書き文における読点表記]で書いたとおり,PCへの不慣れや句読点に対する無関心が原因に因るものが多数と考えていますし。
「PCに慣れた人間は、横書き文書を作る際には絶對にコンマに移行しなければならないものである」とDDT氏が考へる理由は何ですか? DDT氏は、「コンマを使ふものである」と云ふ事實の報告と、「コンマを使ふべきである」と云ふべき論とを混同してゐます。
出版物では,私が見る雑誌や書籍は縦書きが殆どで,横書きのものは大抵「カンマ」と「丸」か,「カンマ」と「ピリオド」です。まぁ,これは見る本の種類で変わってくるのかもしれませんね。私の生活圏では余り見かけないだけかも知れません。
だーかーらー。略。
戦国期以前の文書や書簡をみても句読点が使われている気配はないですし,使われだしたのは江戸時代の頃から,と野嵜さんも謂っておられる。江戸時代といえば,西欧と接触が持たれて随分と経ってからだと思うのだけど。鎖国中だとはいえ西洋貿易はあったわけですし。それまで使われなかった句点が,西洋との接触があったのちに偶然自然発生した,というのは無理があると思うし。
私はもともと漢文を訓讀する際の訓點の一種として出現したと書きましたが?
以下、例の日本古典全集刊行會版の『古風土記集 下卷』の印影。
肥前風土記(寛政十二年) 序(長谷川菅緒) ※白點
肥前風土記(同) 本文 ※白點
唐橋世濟(千七百三十六〜千八百年)の箋釋豊後風土記 本文(田能村竹田が文化年間に刊行したもの) ※同書所收の田能村の跋文にある句讀點は井上通泰氏が附したものと明記されてゐるが、本文については特記なし。はつきり讀點。
DDT氏は、白點と讀點は別物、間には斷絶があり、何ら關係はない、白點がいくら出てきても無視、と主張してゐます。しかし、私は兩者の關係を無視しません。むしろ、白點こそが讀點の先祖であり親戚である、よつて讀點には歴史があると言へる、コンマは後から入つて來たものだ、と考へます。嚴密に形が一致しなければならない、とDDT氏が言張るとしたら、それはをかしいでせう。漢文訓讀で、小さく脇に寄せて書く「。」ではなく眞ん中に書く「○」を句點として使つてゐる例があつた筈です。二葉亭「浮雲」に句點として使はれてゐる例があります。岩波の日本古典文學大系『方丈記・徒然草』卷頭の烏丸光廣本徒然草の印影を見ると、讀點の代りに「○」が使はれてゐます。(ただし小さい丸)DDT氏の厳密主義に從へば、「。」と「○」とは区別される事になつてしまひます。
で、「西歐の表記から影響を受けた爲に、江戸時代に區切り符號なり句讀點なりが出現したのである」とDDT氏が主張される具體的な根據は何ですか?
ちなみに、明治二十年に出た浮雲 八十七ページを見ると、登場人物の科白の中に時々句讀點が出現してゐます。このページでは、鉤括弧、句點、讀點が出現してゐるので採上げましたが、他のページでは、必ずしも句點・讀點が出現する訣ではありません。ここでは五行め「なに」の右下の讀點が、六行めに句點が出現してゐます。また、句點の遣ひ方も今のそれとは必ずしも一致しません。浮雲 百三十四ページには、「な。な。なんだと」のやうな句點の遣ひ方が見られます。DDT氏の厳密主義から言へば、使用法の違ふ符號は同じものと看做せないのではないですか。さうなると、句點ですら、DDT氏は否定しかねません。(畫像は日本近代文學會の印影本による)
そういう決まり事ができるなら,それはそれでいいと思いますです。/あとは何処が原則を作るかですよね。
だーかーらー。どうしてさう云ふ「決まり事」の話に行くのですか? DDT氏も官僚主義に陷つてゐるやうですが、困つたものです。
私は原則の話をしてゐるのですよ? 「決まり事」の話なんてしてゐませんし、したくありません。「正しいものなんて存在しない」と云ふ相對主義を前提に「正しいものを決める」と云ふのがDDT氏の立場ですが、「正しいものはある」と私は考へてゐて、その正しいものを原則として採用すべきだ、と言つてゐるのです。
釣瓶雜記(2004年8月〜)
さて、DDTさんのやうに「そもそも日本語には句讀點がなかつた」と云ふ話をされてしまふと、「そもそも日本語には文字そのものが無かつた」と云ふところまで行かねばならぬ訣で。
まき氏の指摘する通りで、私がDDT氏の主張に反感を抱いたのは、DDT氏の理論は「野嵜は歴史的仮名遣と言っているが、本来の日本語は万葉仮名だろ? お前の歴史的仮名遣なんて間違いなんだよ」の類の理論と全く同じ種類のものだからである。私は、假名遣ひについて、假名遣が發展した歴史を重視してゐて、その正しい發展が戰後の國字改革で斷切られたから、その時點からやり直すべきだ、と主張してゐる。それと同樣に、讀點と句點を用ゐると云ふ形で發展してきた歴史を重視したいのだ。讀點の場合、戰後の國字改革派が「横書きでは讀點でなくてコンマ」と云ふ「決まり事」を作つてしまつて、一方的に押附けた。そして今、その「決まり事」を楯にとつてDDT氏が「一旦決つた事なのだから、横書きではコンマ、決り」と言張つてゐる。DDT氏の發言は、「決り事を作らう、作ならば從ふ」と云ふものだが、實は既に、歴史の流れを斷切る形で「決まり事」は作られてゐるのである。だから、その「決まり事」によつて斷切られる直前の自然の發展が續いてゐた時點に話を戻せ、と俺は言つてゐる。そして、さう云ふ俺の考へ方をDDT氏は知つてゐる筈である。だから俺は腹を立ててゐるのだが、にもかかはらずDDT氏は、あれ?とかえっ?とか言つて、知らない振りをしてとぼけて見せる。どうしてDDT氏はこんなにも俺の神經を逆撫でしたいのだらうと疑つてゐるのだが、DDT氏の事だから惡氣はないのだらう。
平成十六年九月二十一日
http://members.goo.ne.jp/home/noz-watcher/
人が體調惡い時に呪ひ殺さうとでも言ふのか「義」は?
俺は、ただ一人の人間を狙ひ撃ちし、執拗に嫌がらせをする爲の個人攻撃サイトなんてものだけは、作つた事がない。
平成十六年九月二十一日
蚊が何匹ゐるんだ?

平成十六年九月二十日
過勞? 37度。
平成十六年九月二十日
例のコンマ問題。
そもそも,日本語で横書きを使う,ということ自体が日本語を破壊していると思うけど,それは認めているのでしょうか?
横書きは日本語の破壞でないと思ふのだが? なぜ横書きは日本語の破壞なのだらうか?
假に破壞であるとして、「だからコンマを使つてさらに日本語を破壞して良い」と云ふ話にはならないと思ふのだが?
まぁ,それでも決まり事ができるならばそれに従うまでですが,その過程に情緒が無いなぁ,とは思いませんか?
決り事が出來たからと言つて從ふと言ふのは如何なものか。「情緒」云々は意味が全く解らない。もしかして、コンマには情緒がある、とDDT氏は言ひたいのだらうか? 私は、コンマだからこそ、日本語らしさがなく、情緒が無い、と思ふが?
横書き日本文が書かれてから慣習的に読点として使われていたカンマが,マスコミ御用達の記法に統一される日も近いのかもしれない。
横書きの讀點をマスコミ御用達の記法と極附けるレッテル貼りは許し難い。どうしてさう云ふ嫌みたらしい言ひ方をして證明した氣になれるんだ?
DDT氏は、「横書きではコンマの方が見易い」「横書きで絶對に讀點を使はなければならないとする理由はない」「讀點に統一されるのは情緒がなくて嫌だ」と主張してゐる。しかし、横書きではコンマの方が絶對に見易いとは言へないし、横書きであれ日本語ならばコンマを使ふべきではないし、統一と云ふ事に對する感情的な反感はそれだけでは反對の理由にならない。横書きコンマが自然發生的だと云ふ主張は嘘である。それは、DDT氏も承知で、だから句読点自体が西欧にカブれるのが流行だった時代に作られたものだからそういう動きだったンだろうけどもと言つてゐる。DDT氏はとぼけてゐるのである。DDT氏の發言が非論理的で訣がわからないのは珍しい事だ。
兔に角、俺は、横書きであれ、日本語の文章でコンマを讀點の代用品として使ふのには大反對。
また、DDT氏は、自分の文章が常に横書きで表示される、と思つてゐるのか? 最初に指摘した通り、HTML文書はそれ自體、縱書きとか横書きとかの屬性を持たない。ならば、より汎用性のある讀點をHTML文書では用ゐるべきだ。そこで「統一されるのは嫌だ」と言ふのであるならば、DDT氏はHTMLの規格そのものに挑戦してゐるのであり、「ほーむぺーじ」派に寢返らうとしてゐるのである。
平成十六年九月二十日
俺は原則を確立したい訣だよ。
例外とか情緒とか大衆への普及とかは、その後に附いてくれば良いのだ。別に誰かを馬鹿にしようとか、そんな事は考へてゐない。
平成十六年九月二十日
プロ野球の問題にしても何にしても、「不景氣」の一言で可なりの場合、説明出來るのだが、この事は何年か前に指摘した。
平成十六年九月二十日
地獄の箴言: 本氣でもない癖に
また「勝手に人の動機を極附けて否定する」と云ふ論法を用ゐる鬪士が出現。ハザマ氏、「さう假定すると説明が出來るから俺の假定は眞實」と云ふ某竹下義朗も愛好するトンデモ論法を平氣で使つてゐる。
それからハザマ氏、hotmailのアドレスを書込んでゐるが、hotmailは身分證明にならない。ハザマ氏、匿名で言ひたい放題の事を言つてゐる。で、唐突に話を振るが、徳保氏は、かう云ふ匿名の論者の存在について、何う考へますか。彼が何か守るべきものを持つてゐると思ひますか。
平成十六年九月二十日
うーん、頭が痛いよ。だからあれほど(略)。何の話だ。
平成十六年九月二十日
http://kita2.net/nisshi/n_200409.html#n20

平成十六年九月十九日
最近の蚊は金鳥リキッドに撃墜されると自らごみ箱に落下するらしい。
平成十六年九月十九日
ふつうは、ホームシアターといえばプロジェクタとスクリーンを用意して何とかかんとかというものを指すので。テレビの話だという時点でずれていると思う。というか、ホームシアターの基本的な使い方は、最高品質のソフトを買って(借りて)きて、自宅のセットで上映するというもの。放送されたコンテンツを録画して云々、というのは例外的な使い方。
DVDソフトやデジタル放送の画質や音質をより忠実に再現し、高画質・高音質を十分に堪能させてくれるのがホームシアター。DVDやデジタル放送による映画やコンサートなどを、映画館や劇場にいるような臨場感で楽しめます。
【楽天市場】パソコン・家電・AV-ホームシアター : ホームシアター、プロジェクター、サラウンドヘッドホンの通信販売ショッピング、カタログ通販オンラインショップによればスピーカーやアンプなどのホームシアター機器と接続できれば、手持ちのテレビも利用可能です。大画面のハイビジョン対応薄型テレビなら、画質の面でも問題はありません。とある。
あの部屋であのテレビだとヲタ的には十分「ホームシアター」だと思ふが如何。徳保氏にしてみれば「何を使ふか」と云ふ形式的な問題が重要なのだらうが、「如何に高畫質で見るか」が「ホームシアター」では重要な筈だし。
實際のところ、徳保氏とホームシアターの定義で言爭ふ爲にしろはたを持出したのではないし、論點は「アクセスを如何に集めるか」であつて「ホームシアターとは何か」ではない。
アクセス數の話に戻すと、徳保氏は3つじゃちょっと少ないかもしれませんが、うまくすればアクセス倍増くらいは狙えます。と書いてゐるが、私は十倍百倍のアクセス増の話をしてゐるから、この時點で徳保氏とはずれてゐる。が、「十倍のアクセス増」を依頼者は希望してゐるのであり、それに答へるのならば、徳保氏の囘答は不十分。
また、「高畫質でコンテンツを楽しみたい」と云ふのが一般的にもヲタ的にも持つ筈の欲求であり、「俺はプロジェクタで見る以外の何ものもホームシアターとして認めない、プロジェクタまんせー」とか言ふ人は既に「ホームシアター」について一般的な解説記事を讀みたがるやうな人種ではない。形式的にジャンルで話を分けて「アクセスを集める話」をするのは、官僚的なやり方にしか見えない。或は、徳保氏は、ヤクザや銀座のママには學ぶべきだが、「ホームシアターではなく録畫機器を扱つてゐるしろはた」には學ぶべきではない、とでも言ひたいのだらうか。私見だが、徳保氏にはどうもヲタ差別的なところがあるやうに思はれる。今囘も、「ウェブでは(現實社會では弱者である)ヲタが強者であり、アクセス數を支配する權力者である」と野嵜が言つてゐると思つて、徳保氏はかちんときて、ほかにいくらでもある批判・反論の仕方をとらなかつたのかも知れない。云々。

平成十六年九月十八日
昨日買つて來た本、コーヒーで全滅。
平成十六年九月十八日
羅列。
パシフィックリーグのファンは比較的少數である。
セントラルリーグのファンも半分は巨人ファンである。
野球と大相撲が人氣だつた當時、サッカー等のスポーツはマイナーだつた。現在はスポーツ以外の娯樂も澤山ある。相對的に野球好きが減少しても仕方がない。
江川の頃からプロ野球の色々な制度に――制度ばかりか選手の人格にも――問題がある事は、ファンには知られてゐた。王監督云々。
選手やOBの中に派閥があつて、監督が交替するとティームが全くの別物になつてしまふ、と云ふ問題は、全く問題視されない。森監督になつて、優勝メンバーがちりぢりになつて、横浜ファン激怒、なんて事例もあるのだが、「強化」と稱すればティームの一貫性は無くても良い、と考へられてゐるらしい。それで固定ファンが附くと思つてゐるらしい。派閥の原理で動いてゐる點では政治家と同じ。
協約の規定とか、選手のスト権の有無とか、さう云ふ形式の議論許りが紛糾し、肝腎の問題についてはさつぱり議論されない。
プロ野球が、營利目的の娯樂であるのか、文化に屬するものであるのか――その邊が問題にされず、曖昧にされてゐる。
讀賣新聞にしてもTBSにしても、自分の身内の問題である、と云ふ意識が無い。
人氣と實力とは、商賣の原理として竝立するか。
「パリーグ消滅」と云ふしろはたの豫言が當りつゝある事實は、指摘しておいて良いと思ふ。
當方には特に一貫した主張ナシ。大騷ぎされなければならないほど野球が現代の日本に溶込んでゐるものか何うかがそもそも疑問。熱狂的なファンは一部であり、他の大部分の人間は傍觀者であり、それは自然な事である。マスコミは騷ぎ過ぎ。なんか書いてゐて面白くない事を言つてゐるな我ながらと思つたが、削除すると書く事がないので削除しないで取敢ず公開。別に煽る意圖ナシ。「煽り屋」呼ばはり無用。
平成十六年九月十八日
と言ふか、未だに「野球と言へば長嶋」なのだから、野球は終つてゐる。
未だに手塚とか永井とか石ノ森とかに頼るあにめや特撮の世界も同じだがな。
何で「古い」と云ふ事が解らないのだらう。
ひばりの「幻」の映畫も發見されてゐるしな。
平成十六年九月十八日
「會議」だの「協議」だのが實際、役に立つとは限らないし。御酒を呑みながらなら纏まる話も、眞面目な顔をしてテーブルのあつちとこつちとで睨み合つてゐては纏まらない事も多い。
まあ、泥醉状態で人事の話をして毆り合ひの喧嘩なんて事もあり得るし。
平成十六年九月十八日
aozora blog: この門を入るものは一切の商品性を捨てよ
津野氏の發言は、「できあがったプロ野球になにを入れるのか、ではなく、野球はそのプロ化によってなにをどう変えることができるのかを、まっさきに考えること。」とか適當なパロディを幾らでも作れさう。
また、「工作員」の一人・門田氏が、青空文庫という発展途上の図書館に何が収まるのか、それは工作員のみなさんが決めることです。運営者というものが不在の図書館なのですから。とコメントで言つてゐる。某Wikipediaにしても徳保氏にしてもさうだが、この種の「一貫性がある」のだか「一貫性がない」のだかがわからない、非常に曖昧な状態を、「良い」と思つてゐる人がウェブには澤山ゐる。
私はそれは如何なものかと思つてゐるのだが。
平成十六年九月十八日
と言ふか、そもそも「ウェブのものをリアルワールドの概念を使つて譬喩的に表現する」と云ふ事がをかしいだらう。「電子図書館」にしても「電子文庫」にしても、「發想が既存のメディアに囚はれてしまつてゐる」と言へないか。「新しいメディア」における「新しい概念」の創造と云ふ事を考へるのならば、それはよろしくない事になるのでないかと思ふのだが?
平成十六年九月十八日
「文庫」と云ふと、「角川文庫」とか「新潮文庫」とか「岩波文庫」とかを聯想するのだが?
もともと角川文庫は、角川源義氏がはじめたシリーズで、當初は「良質の作品を廉價で提供する」と云ふ理想があつた。それが、源義さんから春樹さんに社長が代ると、完全な商業主義に轉換してしまつた。指導者・ボスがプロジェクトや企業の性格を變へてしまつた例である。
新潮文庫は、文藝作品の出版で有名だが、作品のセレクトは基本的に編緝者の權限となつてゐる。だから、大森望氏が在籍した千九百八十年代にSFが大量に出版されたのである。
岩波文庫は、堅い本許りを出版してゐる點で創刊以來、一貫してゐる。が、左翼への色目を遣ふのにしても、背景には商業的な理由がある。今に至るまで殿樣商賣一本槍なのは或意味見上げた根性である。岩波茂雄の個性が未だに生きてゐるのである。
何にしても、文字のものにはやつぱり、「人」が露はれるものだよと。メディアが變つても同じ。
平成十六年九月十八日
青空文庫は、サイトであり、著作權の切れた、或は著作の經濟的な權利を著作者が主張しないと宣言した文書をコンテンツとしてゐる。公開される文書には常に原典がある。公開される電子テキストは全て原典と比較對照されて、校正される。原典は一つなので議論にならない。假に何らかの問題が生じても、作業の結果だけが公開されるので、議論の過程はコンテンツに露はれない。
Wikipediaは、共同作業で百科事典のやうな記述のコンテンツを揃へようとしてゐるサイトだ。だが、作業の過程がそのままコンテンツとして公開されてゐる。その爲、問題が發生しても、それがそのままコンテンツとなる。ノイズが紛れ込む事もあり得るが、紛れ込んだままのコンテンツがそのまま公開される事となる。

平成十六年九月十七日
日本語の文章で、なぜ讀點を「コンマ」にしなければならないのか、解らない。讀點は讀點であるべきで、英語やフランス語の眞似をして「コンマ」にする必要はない。
そもそも、句讀點を横書きの際には「,」と「。」を使ふ、と云ふ規定は、國字改革の一環として、日本語を破壞する爲に定められた規則だ。俺は認めない。
以下、參考文獻。
コラム2:日本語の句読点は何を使う?
公用文作成の要領(昭和27年4月4日付け内閣閣甲第16号内閣官房長官依命通知)
- Brain News Network - 職員も「よく分からない」札幌市役所のナゾ 第2回 公文書は読点を使わず「,」 (コンマ)の怪
平成十六年九月十七日
東京堂書店で、日本古典全集刊行會版日本古典全集の現代思潮社に據る復刻版の目録なんてものを貰つて來た。坂本太郎氏、市古貞次氏の推薦文「日本古典全集の復刊を喜ぶ」も含め、全文正字。それに加へて現代思潮社の挨拶文は正かな。
第一期〜第三期の復刻版、十五セット、全百二十二册揃ひで定價五十萬圓也。第四期の復刻版は八セット全五十七册。二十一萬圓也。單册での分賣不可。
九月末まで東京堂書店本店で現代思潮新社全點フェアをやつてゐる。古典全集も棚に並べられてゐて、手に取つて見る事が出來る。
復刻版が刊行されたのは昭和五十二年の事。小部數の出版だつたにもかかはらず賣切れずに在庫が殘つてゐたやうだ。先日まで全卷揃の一セット分を平臺に積上げてゐたが、最近無くなつてゐる事から考へると、誰かが買つたらしい。
格調が高く、保田與重郎が褒めたこの全集、オリジナル版が出たのが大正末から昭和初年にかけての事である。當時としては割ときちんと校訂されてゐたのだが、現代の目から見ると「良く出來てゐる」とは素直に言へないレヴェルになつてしまふ。印影で複製したものは問題がないとしても、改めて活字を起したものは必ずしも當てにならない。東洋文庫から出た切支丹文學の現代語譯の本で、解説者が日本古典全集の妙貞問答や破提宇子の校訂が駄目である事を書いてゐた。のだが、これがつい先日買つたばかりなのに最う見當らない。
オリジナル版は、珍しいものであるやうに言はれる事もあるが、神保町や早稻田の古本屋や、夏冬の新宿などの大きな古書展では割と良く出て來る。値段も、ものによつて、或は、店によつて、妙に高い事もあるが、三百圓くらゐのものもある。源氏物語や西鶴全集のばらのものが店頭投賣コーナで良く見られる。
平成十六年九月十七日
流れ。
http://tompei.way-nifty.com/diary/2004/07/post_34.html July 24, 2004 「横書き句読点」
「、」より「,」のほうが書きやすいなんて、首をかしげます。何だか落ち着かない印象を受けます。第一、いちいち「,」に変換するのは面倒です。
http://www.remus.dti.ne.jp/~ddt-miz/think/watch/200409.html「入力方法」(2004.09.15)
毛筆で縦書きするならともかく,横書きを手書きするときは点よりカンマの方が書きやすいと思うのだけど。横書き日本文が書かれてから慣習的に読点として使われていたカンマが,マスコミ御用達の記法に統一される日も近いのかもしれない。
闇黒日記:平成十六年九月十六日
常に横書き状態で表示されるとは限らないHTML文書で、讀點として「,」を用ゐるのは如何なものか。
http://d.hatena.ne.jp/yms-zun/20040916#punctuationmarks
そんなのは縦書表示するUAといふかブラウザなり何なりの方で対応すれば済む話、とはいへないでせうか。
闇黒日記:平成十六年九月十七日
そもそも、句讀點を横書きの際には「,」と「。」を使ふ、と云ふ規定は、國字改革の一環として、日本語を破壞する爲に定められた規則だ。俺は認めない。
http://d.hatena.ne.jp/yms-zun/20040917#punctuationmarks2
前後の文脈から考へて野嵜氏が「文書と視覚的ブラウザの表現」の話をしてゐのかと思つたら、国語国字改革に論点をずらされた。
と言ふか、「流れ」と言へるほどリニアに繋がつてゐる話ではないのだけれども? 何しろ「義」に「また野嵜が」云々と言はれると嫌なので、例によつてリンクを張つたり引用したりしてゐないので、云々。
平成十六年九月十七日
「横書きの状態で表示するブラウザが、讀點をコンマに變換する」と言ふのならば、話は解る。逆に、「縦書きの状態で表示するブラウザがコンマを讀點に變換すべきだ」と主張するのは、筋が通らない。日本語は、コンマでなく讀點を使ふのがデフォルトだ。豫め、横書き状態の表示を豫想して、讀點でなくコンマを使ふ、と云ふのは、をかしい。しかし、そもそも、讀點の代りにコンマを使ふ、と云ふ發想そのものがをかしい。
平成十六年九月十七日
例によつて東京古書會館の古書展にて。
福田恆存『西歐作家論』創元社
アラン著・森有正譯『わが思索のあと』新潮叢書
ツヴァイク『フロイト』みすず書房
G・K・チェスタトン著作集6『久遠の聖者』春秋社
唐木順三『現代日本文學序説』春陽堂

平成十六年九月十六日
十五日の買物。山田勝美『漢字の語源』(角川書店)。

わが国の戦後におけるゆき過ぎた国語統制策は、今や青少年の著しい国語力の低下となってはね返ってきつつあり、国民の国語意識の衰弱化は、社会的混迷に拍車をかけており、国語審議会は目下その手なおしに追われているというのが現状ではなかろうか。理想をいえば、国語国字などは、もともと政府主導型の統制策など取るベきではなく、すこし乱暴な言いかたであるが、むしろ放任しておいても、やがては自然に落ちつくべきところに落ちつくものであって、むやみな統制など百害あって一利なしといってよいであろう。

世に漢字の不便を説く者は多いが、その便利さを弁護する者の少いのは遺憾である。そもそも漢字が非アルファベット系の諸文字のうちにあって、そのすぐれた特質を生かしつつ、地域による多少の音値差はあるものの、日中韓を中心とする東アジア文化圏における国際的共通字たる機能を十分に果しつつあることは、今日何人も否定し得ない事実であろう。ただし、それはあくまで正書体、すなわちいわゆる旧字体に属するものであって残念ながらわが国のいわゆる当用漢字体や中共の簡化字などではない。この意味からしてもわれわれは、ひとり当用漢字体に通暁するためばかりでなく、古典の読解や書道、篆刻などの研究上からと共に、その広汎な国際性を有する点にかえりみて、さかのぼってその正書体や、字源を示しているとみられるその古形・古義をも把握することが、真に漢字を活用し、これを自家薬籠中のものとすることにつながるものであると思う。

山田氏は、「教育漢字」の學年別配當の不合理についても觸れてゐる。
平成十六年九月十六日
aozora blog: 旧表記→現代表記
青空に喧嘩を賣られてゐる氣がする。
平成十六年九月十六日
常に横書き状態で表示されるとは限らないHTML文書で、讀點として「,」を用ゐるのは如何なものか。
平成十六年九月十六日
というか、ホームシアターの解説はどこにあるのでしょうか。
「魁!録画塾!」で最近は毎囘のやうにテレビの話をしてゐるけれども?
平成十六年九月十六日
実際には匿名でも仮名でも失うものがあります。例えば、自称専門家が適当なことを書けば、専門家全体の信用が落ちます。一人の警察官の不祥事が警察全体への不信につながるように、です。そのことの是非と関係なく、事実としてそういうことがある。で、そんなことは自分の知ったことではない、と断言できる人は、じつはそれほど多くない。こうしたケースまで含めて考えるなら、匿名だろうと仮名だろうと、守りたいものは山ほどあるはずなんです。
匿名の「義」とか「zak_k」とかに、そんな守りたいものがあつたとは思へませんが? 純粹に匿名の枠内に留まつて、單に他人を誹謗中傷してゐるだけ、と云ふ人はゐるのですよ?
そして、「義」とか「zak_k」とか、或は「アレクセイ」「ホランド」の名を遣ひ分ける某T氏とか、さう言つた人々に、自制を求めても仕方がないのではないですか。渠等は耻を知らないのですから。
平成十六年九月十六日
XHTML 1.0: The Extensible HyperText Markup Language (Second Edition)
Implementing the Ruby Module
Ruby Annotation
XHTML 2.0
XHTMLは、文書を構造化する爲のマーク附け言語から、プレゼンテーションの爲の文書記述言語即ち「ホームページ記述言語」へと囘歸しつゝあるやうに思はれる。rubyなんて、完全に見た目を實現する爲の要素であり、プレゼンテーションの爲の要素だ。視覺的な表現としてルビを實現したければ、スタイルシートでやるのが筋だらう。なぜruby關係の要素をHTMLの仕樣に組込まなければならないのか、なぜルビを文書のマーク附けで實現しなければならないのか、理解出來ない。
そして、かう云ふ視覺的な表現を實現する爲の要素が、XHTML 2.0にはどんどん組込まれようとしてゐる。
平成十六年九月十六日
XHTML 2.0のドラフトには幾つも異樣な點がある。メーリングリスト等を見てゐないので既出であるかも知れないが一往。
文書を構造化すべき事を示唆するsection・h要素と、(何う見てもhrの代替品である)separatorなる視覺要素とが混在するのは、一貫性を缺くものである。
blockcode/codeと、lにおける例示とで、プログラムコードの扱ひ・表現に一貫性が無い。
nlの説明には、露骨に「presentationの爲に使はれる」と書かれてゐる。
また、これらの要素は、視覺的なプレゼンテーションの爲の要素であり、文書の構造化とは何の關係もない。
平成十六年九月十六日
Masayasu ISHIKAWA's Welcome Page
石川氏はHTMLの進化に逆行するやうな仕樣を今更なぜ作らうとしてゐるのだらうか。否、石川氏はeditorに過ぎず、その手の要素の實現を要求する「HTML專門家」の人が世間に澤山ゐる、と云ふ事だらうか。
平成十六年九月十六日
それと、今のHTMLに關するW3Cその他の姿勢を見てゐると、横書き文化にしか目が行つてゐないやうに思はれる。縱書き文化が「ある」と云ふ事すら、W3C方面の連中は知らないのではないか。「影鷹」のやうな縱書きブラウザに對する配慮と云ふ事も、W3C方面の連中は考へてゐないのではないか。「ブラウザ=横書き」と云ふ固定觀念があるから、連中は書字の進行方向の話で「ltr」と「rtl」としか考へて來なかつたのだらう。
平成十六年九月十六日
W3CがXHTML 2.0を「ホームページ記述言語」に戻さうとして呉れても全然構はない。だが、それならば、W3Cが非視覺系ユーザエージェントとかそのユーザとかの話をするのは如何なものか。
或は、W3CはHTML 3.0のXML化でも檢討した方が良いのではないか。XHTML 2.0は現状、渾沌の方に向つてゐる、としか私には思はれない。
平成十六年九月十六日
JAVA VMの無い環境で影鷹を動かさうとしてしまつたよ。馬鹿だね。
窓の杜 - Java 2 Runtime Environment(JRE)
平成十六年九月十六日
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kagetaka/teuti_2.html
平成十六年九月十六日
XHTML Frequently Answered Questions(私的日本語訳) - Software Linkage
平成十六年九月十六日
上田 博和 「「改定現代仮名遣い」の問題點」
Operaで見ると途中からレンダリングが滅茶苦茶になる。
文章が良いので、より多くの人に讀まれるやう、ちやんとしたHTML文書を作るべきだ。
平成十六年九月十六日
國語問題の關係者がHTMLの基本的な知識を持たず、學ばうとしないのは、非常に嘆かはしい事だ。
國語問題協議會 表紙
國語問題協議會も、「會員・關聯團體消息」等と云ふ記事を作つて自分だけで樂しむのは止めるべきだ。個人情報を垂れ流す等、剩りに非常識だ。「會員・關聯團體消息」は即刻削除すべきだ。非會員が、この手の記事を讀んで、面白がつて協議會に入會したがるものか何うか、考へるべきだ。「入會したら個人情報をウェブでばら撒かれるかも知れない」と感じたら、正字正かなシンパの人間であつても、警戒して、敢て入會しようとはしないだらう。それでは困るのではないか。
そもそも、http://www5b.biglobe.ne.jp/~kokugoky/では、なぜ「表紙」等と云ふ文字列をtitleに仕込んでゐるのか。また、何故Internet Explorerで閲覽されなければ意味がない「縱書きモード」を使つてゐるのか。理解し難い事ばかりだ。OperaとMozillaを使つてゐる「上質」のユーザを、國語問題協議會は敢て敵にまはしたいのか。さうではなからう。制作者が單に無知なのである。しかし、無知は知的怠惰であり、知的怠惰は道徳的怠惰である。
波江究一にも言ひたいのだが、稚拙な事をしてゐては、正字正かなの正義を幾ら訴へても、他人を納得せしめる事など出來ない。「頑張つてゐるのだから」と云ふ精神論では勝てないし、それでは許されない。

平成十六年九月十五日
初心者に匿名や仮名を勧める人が多いのは、「ネットは怖い」という都市伝説が広まっているからです。また、匿名や仮名の発言者としてローリスクで好き勝手書いてきた人々が先達となって後進を導いているので、匿名・仮名の拡大再生産が続いているということでしょう。
現在のウェブは恐ろしいところで、「ネットは怖い」と云ふのは「都市伝説」でも何でもない。事實だ。
ただ、さう云ふ嫌な所にしたい人物が後から後から湧いて出た、と云ふ事も事實。インターネットはもともと、實名社會で、匿名は使はないものだつた。それが匿名社會になつたのは、インターネットが學術・軍事ネットワークから商用ネットワークになつたからだ。
しかし、そもそもコンピュータネットワークと言ふものの本質が、匿名社會の出現を必然的に惹起こしてゐると言へる。人と機械とは一體ではないし一對一對應もしてゐない。だから、ネットワークで、使用されたコンピュータは完全に特定し得るが、コンピュータを使用した人間は完全には特定出來ない。使用者・發言者は自己申告するだけである。當然、騙りも簡單に出來る。同じIPアドレスから書込んでゐても、或發言は「アレクセイ」の發言だ、又或發言は「ホランド」の發言だ、と言張られたら、技術的にはそれ以上、追及のしやうがない。だから、申告時のモラルが大事だと云ふ事になるのだが、モラルのない人間――それどころか、自分にはモラルも無ければ一貫性も無い、だがそれがいい、と云ふ變な主張をする人も、ウェブには入り込んでゐるし、それをウェブから締出す技術的な方法は存在しない。
はつきり言つて、私は「インターネットに殆ど希望はない」と思つてゐる。しかし、希望がないのは假想世界だけの事ではないのである。土臺、人間にモラルなんてものを要求するのが間違つてゐる。良い人間もゐれば惡い人間もゐる。そして、現實社會ならば惡い事をすれば可なりの確率で掴まるが、ウェブの社會では餘程の事をしない限り掴まらない。にもかかはらず、ウェブの社會は、少數の惡人によつて容易に秩序を崩潰させられるのである。
或はかう言つても良いだらう。ウェブに限らず、コンピュータの技術は極めて短い間に進化する。しかし、人間の頭は數千年、數萬年單位でもさうさう進化はしない。オールドタイプの連中の觀念は、ニュータイプの側からすれば既に古びてゐるし糞なのであるが、ニュータイプであつても多くの場合、最新の技術に完全には追從出來てゐないものである。ウェブの社會が何らかのモラルなり秩序なりを要求するとしても、人間はそれを完全に理解するのはもちろんの事、對應して適切に行動する事等到底出來やしない――出來る者もゐるかも知れないが、出來ないものは確實に存在するし、さう云ふ人間が一人でもゐれば、他の人間は「迷惑」するのがネットワーク社會である。掲示板は、どれ程澤山の人間がどれだけ分別ある行動を取つてゐたとしても、一人の荒しが攻撃すればたちまちのうちに機能を喪ふ。今、機能してゐるかのやうに見えても、いつ機能不全に陷るかは、誰にも豫測出來ない。もちろん、それは現實社會でも話は同じだが、物理的な限界と云ふものがあつて、現實社會の機能を麻痺させるのは容易な事ではない。少くとも、比較的に、ウェブの秩序は現實の秩序よりも簡單に崩れる、と言つて良いと思ふ。そして、今の時代は特に、秩序を崩潰させる事に意義を感ずる人間が多いのである。にもかかはらず、ウェブは既に一つの社會として成立しつゝある。人はウェブの社會で生きていく事を要請されてゐる。嫌な時代になつたものである。
私は、欲望の擴大が、欲望の相互の掣肘によつて、適正な範圍に自然に收まり、安定した幸福な状況が生れる、と云ふ某T氏が嘗つて述べた説に與しない。我々は、弱肉強食が一人の王者を常に要請する、と云ふ事を知つてゐる筈である。「欲望の追求」ゲームは、より強い欲求を持つ人間に勝利を齎す。殘りは全て敗者である。私はもちろん敗者である。欲望を實現する爲に、ウェブで匿名を使ひ、したい放題の事をして、勝者に成上がる人間は、いつか出現しよう。その人物が、敗者にどれほどの慈悲を垂れると期待出來ようか。「義」を見れば、その手の人間が如何に無慈悲であるかは、誰にも判る筈である。が、だからといつて、さう云ふ人間が出現するのを本氣で止めたいと思ふ人間は先づゐない。多かれ少かれ、他人事だからである。まともな人間は、社會の改革等に本氣になる筈がないのである。

平成十六年九月十四日
THE BRITISH LIBRARY - The world's knowledge
Shakespeare in quarto: view the British Library's digital copies online
View the British Library's copies of the 21 plays by Shakespeare printed in quarto before the theatres were closed in 1642 and find out about Shakespeare's life, works, and the history of his plays in performanceとの事。
平成十六年九月十四日
Advice315 いつかはホームシアターをつくろう
ヲタ方面でホームシアターなどの解説で有名どころといつたらしろはた
ウェブでアクセスを集めるには、情報量のみならずよそが手を出していない情報を提供する必要があると徳保氏は述べてゐるが、實際はさうではない。アクセスを集める記事は、何か變な凄みがある記事だ。人は珍奇なものに群がる。

平成十六年九月十二日
余談と補足とあと何か
と言ふか、看板が「やくざ」でも「銀座のママ」でも、「学べる」とされて書かれてゐる事は、讀んでも何一つ學べないよ。「身に着く」と云ふ事が「學ぶ」と云ふ事であるのならば。山本七平とかの「論語に学ぶ」の類を讀んだところで何も學べないのと同じ。
一方で、呉智英の論語に關する本はとても面白いしとても役に立つのだが、これは所謂「実学」の本とは全然違ふし、實用には何の役にも立たない。
本を讀んで學ぶべきは、一つは實用で役に立つ事であり、最う一つはソクラテスや孔子の言ふ「より善く生きる」のに役立つ事である。
ヤクザとか銀座のママとか山本七平流に「論語を役立てる」方法だとかは、處世術の本だが、讀んだところで世渡りが巧くなる訣でもない。それを讀んで、營業職がいきなり成績を上げたり、管理職が部下を的確に指揮できるやうになつたりはしない。そんなものを讀むのは時間潰しにしかならない。
考へてみるまでもなく、當り前の話だ。かの有名な教育勅語だの何だのを讀んで、それだけで立派になつた人間が何處にゐる? 御説教だの教訓話だの徳目だのは、必ずしも聞いたり讀んだりしただけで役に立つ訣ではない。
じっぽ氏だつて、さう云ふ事を承知で端的に意見を述べたのであらう。それを一々「曖昧だ」と言つたり職業差別だと極附けたりするのは、揚げ足取り以上のものではない。
平成十六年九月十二日
さて、某氏が「職業を明かしている人が意見を述べる時にはそれなりのリスクがある事を忘れてはならない」と云ふやうな事を書いてゐる。ええ、直接リンクを這つたり引用の形式にしたりすると、例によつて「義」に以下略。
この手の意見に私は不賛成で、と云ふのは、裏を返せば、「リスクを回避するために匿名を使いましょう」「匿名でがんがん好い加減で非道い事を言いましょう」と云ふ主張になつてしまふからだ。
實際、「義」のやうに、匿名を良い事に、デマを流したり、人の名前を騙つたりしてゐる人間が云々。
「匿名の發言は疑つてかかる」「匿名の發言は先づ否定する」と云ふ習慣が世間で定着しないうちは、「職業を明かすリスク」はなくならない。しかし、それでは困るのである。風聞や流言蜚語が蔓延する社會は不健全である。
じっぽ氏だつて、何で謝つたのかと言へば、職業が何うの斯うのと言はれれたからだ。「職業を明かしてゐればリスクがあるんだぜおいお前」と言ふのは事實上の脅迫である。脅迫されて身を守る爲に謝るのは處世術であるが、さう云ふ處世術を知つてゐるならば、何も「ヤクザ」だの「銀座のママ」だのに「學ぶ」の類の本から學ぶ事はあるまい。人から好意を持たれる爲の「術」などよりも、反射的な行動の方が正直だし、正直は決して何時でも馬鹿を見る訣ではない。そして、かう云ふ「子供の意見」は、「大人」が幾ら嘲笑しようとも、永遠になくならないし、なくなる時は人類が滅ぶ時である。正義の觀念を失つたとき、人は人でなくなるからである。日本人は、「ヤクザ」だの「銀座のママ」だのに學ぶ前に、漱石の『坊つちやん』を讀んで學ぶが良いのである。俺の知る限り、ヤクザや銀座のママの「知識」は、大概の日本人が既に身につけてゐる。逆に、大概の日本人が知らないのが正義の觀念である。殊に「正義=怪しい」と云ふ誤つた觀念が蔓延してゐる現在、改めて「正義とは何か」を考へてみる事は必要である。「正義」「眞理」「眞實」等の區別を附けず、十把ひとからげに「怪しげ」と云ふイメージで捉へてゐる人は多いだらう。だが、それで良いものだらうか。何でもかんでも好い加減に相對化してゐれば良いだらうか。徳保氏の「一貫しないという点で一貫する」と云ふ相對主義に私は大反對である。單に好い加減な自分をごまかして、自己を正當化して、リスクを囘避してゐるだけの事ではないか――と言ふよりも、大概の日本人が自然にやつてゐる事を、さも御立派な主義であるかのやうに徳保氏は見せかけてゐるだけである。もし「ヤクザに学ぶ」の類の本から何かを學べると言ふのならば、徳保氏は學べば良いし、實地で役立てて見せれば良い。しかし、誰かが指摘してゐた通り、學ぶまでもなく徳保氏は既に實踐してゐるのである。
平成十六年九月十二日
『新釈漢和』(新訂版四版)の音訓索引にミスがあるのを發見。「はたらき」の項、「動 八(十)五(ページ)」となつてゐるが、八十五ページにあるのは「働」であつて「動」ではない。

平成十六年九月十一日
西尾幹二(日録)感想掲示板
「2004/09/11 18:54」の「野嵜健秀」名義の投稿は、野嵜本人に據る投稿ではありません。現在、野嵜の名譽を毀損する爲の行爲を行つてゐる「義」と呼ばれるネットストーカーがをり、當方に對する嫌がらせを行つてゐます。その「義」か、「義」の仲間によるものと思はれます。御諒承下さい>>西尾氏。
「義」かその關係者のサイト→noz-watcher's WEBSITE
平成十六年九月十一日
昨日買つて來たもの。本多勝一『アムンセンとスコット』(教育社)。等々。

平成十六年九月十日
sysop(管理者)すらも知らないleader(統率者)……。
適當に書込んでゐる一般人にleaderの存在が全く意識されない――ならば、さう云ふleaderはleaderではない、と言つて良いのではないか。
或は。Jimmy Wales氏は、known as founder of Wikipedia and Director of the Wikimedia Foundation.と云ふ事であるが、例へば「歴史的仮名遣」――或は國語の表記――について意見を持つてゐるかと言へば、そんな訣はなからう。ならば、氏は、プロジェクトとしてのWikipediaの創設者であり上位組織であるWikimedia Foundationのdirectorであるが、「歴史的仮名遣」や國語の表記に關する具體的な項目の記述については、必ずしも方針を持つてゐるとは言へないし、それらの項目の記述の方針について指導し得る立場にあると言ふ事は出來ない。

平成十六年九月九日
森康裕『DVD/CD‐Rパーフェクトデータ―焼きミスよさようなら!!』(三才ブックス)を買つて來た。定價1800園。高いやうに思はれるかも知れないけれども、とても有益な情報が滿載で、無意味に高い訣ではない。「光もの」を使ふ人――特に録畫&保存マニアの方々におすすめする。
平成十六年九月九日
不定期コラム Engineerを考える(8)
普段なら口に出す前にいいとどまるのにキーボードではつい手が滑ったり、ディスプレイに表示される文字はどこか現実味がなく、まだ推敲(すいこう)が必要な文章でもつい「送信」や「投稿」ボタンを押してしまうなど、原因を作った側はさほど意図していないことが多い。
意圖してやつてゐる人も結構ゐると思ひますが?

平成十六年九月八日
DearSのねねこの話を既に三囘ほど見返してゐるのだが、どうも意味が良く解らんところがあつて困惑してゐる。ねねこは何故レンに感謝せねばならんのだ? 氛圍氣に流されて本放送時と最初に見返した時は納得させられたやうな氣がしたのだが、よくよく考へてみると訣が解らん。

平成十六年九月七日
粉々に碎けた蝉の死骸かな。
平成十六年九月七日
唐突だが、宇宙戦艦ヤマトが機動戦士ガンダムに勝つてゐるのは何處かを考へてみた。で、取敢ず、登場人物の動機の説得力、と云ふ點ではヤマトの方が勝つてゐるだらうと。
ガンダムシリーズでは、主人公がガンダムなり何なりに乘るきつかけは、状況に流されて、と云ふものである事が多い。主人公以外の人物にしてもさう。結果として、受身で行動してゐるから、「巻込まれ型」のストーリーになる。しかしながら、なんでそんなに簡單に状況に乘つかれるの? と云ふ疑問が湧くやうな話が、ガンダムには多い。特にガンダムエース掲載のいろいろな漫畫。
一方のヤマトでは、古代も島もユキも、地球を守ると云ふ使命感に基いて率先して戰ふ連中である。宇宙から侵掠者が來れば、ヤマトのクルーが集まつて、飛び立つて行く、と云ふパターンは、割と納得し易い。もちろん、侵掠者の設定が結構安直だつたり、地球防衛軍が間拔け過ぎたり、とか、そもそも西崎プロデューサがアレでキャラクタを安易に殺したり生返らせたり一年で成長させたり突然デスラーが地球人に對する恨みを無くして古代の友人になつたり、とかの問題はある訣だけれども、今はトータルとしての評價をしてゐるのではないから問題ない。

平成十六年九月六日
地震きたー。マジか。おちつけ。
こんな時こそにじうらを見て心を落ち着けるんだ。
平成十六年九月六日
今夜のファフナーどうなるかな。
平成十六年九月六日
なんか怖いから今夜は動畫のバッチエンコードやめておかうかな。
平成十六年九月六日
と言ふか、茲數日、モニタの調子がをかしいのだが、前兆現象ですか?
平成十六年九月六日
ファフナーやられてる。

平成十六年九月五日
DearS→シノブ伝。
DearSはねねこの話。毎度の事ながら良く出來てゐる。
シノブ伝。Aパートは毎度の事ながら投げつぱなしの落ち。Bパートは神作畫だが話は微妙。
平成十六年九月五日
誤解があるとか言はれても、實態を見ると荒しやらトンデモさんやらの活動を防げてゐない訣だし。
平成十六年九月五日
はてなダイアリーのサーヴィスを利用してゐる日記サイトのアンカーの問題。
時と場合に據つて、自動で生成されるキーワードへのリンクであつたり、それとも、日記を書いてゐる人が意圖的に作つた内部或は外部へのリンクであつたりする。
キーワードの記事なんてものは大概、見ても仕方がない。さうなると、有益なリンクと何うでも良いリンクとを、ステータスバーに表示されるURLを見て判別しなければならない。アダルトサイトの廣告やら變な*.exeやらへのリンクの中に埋もれてゐるまともなリンクを探すやうな感じで、情けなくなる。
平成十六年九月五日
本文の英數字は半角に統一する、URLの尻尾のindex.htmlは削る、と云ふのは、野嵜も良くやる事だが。
アスタリスク: 完璧主義
HTMLのマーク附けの、要素の開始タグの中の餘計な半角スペースは削るとか、見出しは必ずh1から始めるとか、文書型宣言は必ず記述するとか、そこまで行かなければ完璧主義ではないだらうと。
あと、屬性値を括るquotation markが一箇餘計なのが入つてゐますけれども、改善して下さい。
平成十六年九月五日
Alertbox: ウェブデザインのイデオロギー:主導型、不可解型、不愉快型(2004年8月30日)
平成十六年九月五日
自治体サイトWebアクセシビリティ調査|有限会社ユニバーサルワークス
自治体サイトのアクセシビリティ度、宮城県と香川県が高い評価

平成十六年九月四日
じっぽさんは職業差別の見地から否定したのであり、
判断の基準が職業差別だって、それ自体は構わない。ただ、それを口にすれば怒る人がいる。差別された当人だけでなく、関係ない人も不愉快になるんです。とくにじっぽさんのような立場の人の場合は。
これを逆差別と言ふ。
けれども、私が職業差別という言葉を出し、ちょっと不快感を表明したら、じっぽさんは途端に腰が引けてしまう。
「ちょっと」とは良く言つたものだ。大體「職業差別」などとレッテル貼りされ、散々に罵倒されたら、普通の人なら腰が引けるに決つてゐる。徳保氏は、その邊の事を解つてゐて、わざと言つたのではないか?
不特定の誰かさんを対象にしているからといって安心し、何の覚悟もなしに呑気に罵言を書き連ねているから、
なるほど、徳保氏は、特定のじっぽ氏を對象にしてゐるから自分は覺悟を決めてゐるのであると言ひたい訣だ。私が既に指摘したやうに、徳保氏は傲慢だ。
なんだ、やっぱり謝ってしまうのか。私は、そう思いました。
私にしてみれば、徳保氏はやつぱり謝らないのか、と云ふ印象。
平成十六年九月四日
ところで、徳保氏がじっぽ氏に絡んだ理由は、依然として全然わからない。「絡まれる可能性がある事を思ひ知らせてやつたのだ」と、例によつて可能性の論を徳保氏は言ふのだらう。
平成十六年九月四日
また、得保氏が「職業差別」と言つたのは、單にじっぽ氏を脅すのが目的だつた、と理解してよろしいか? 職業差別な発言は、一般にステータスが高いと判断されている職業の人間が口にすると洒落になりません。と徳保氏は述べた。「職業差別」と「職業差別的」とは違ふ。
平成十六年九月四日
それから、徳保氏は、ヤクザは全うな職業であると考へてゐるのか、それとも全うな職業ではないと考へてゐるのか。本氣で、ヤクザや銀座のママと、八百屋や魚屋、サラリーマン、公務員、代議士、辯護士、總理大臣、以下略、とは同じやうな職業であり、貴賤はない、と考へてゐるのか。そして、「ヤクザに学ぶ」「銀座のママに教わる」の類の本は、センセーショナルな效果を狙つてゐるのではなく、純粋に謙虚な態度で學ぶと云ふ目的で出版されてゐる、と徳保氏は思つてゐるのか。私は斷言するが、ヤクザや銀座のママに職業には貴賤がある。
まさかとは思ふが、徳保氏は、單なる處世術の觀點から、醫者が職業に關する意見を述べるのは拙い、と言つたに過ぎないのか。もしさうだと言ふのならば、なぜじっぽ氏を謝らせるまで追詰めたのか。忠告ならば忠告としての形式がある。徳保氏は、忠告としての言ひ方をしてゐないで、攻撃的な言ひ方をしてゐる。そして、それを「大手サイト」の人間が一「日記サイト」の人間に對してやるのは危なっかしい事だと、徳保氏は考へるべきである筈だが、徳保氏はさう云ふ自分の立場の事を棚に上げて呑気に罵言を書き連ねているやうに見える。
平成十六年九月四日
相手の腰が引けた事は、徳保氏の主張が正しい事の證明とならない。はつきり言つて、徳保氏のした「職業差別」と言ふレッテル貼りは、批判の方法として間違ひである。そして、徳保氏は「大手サイト」のオーナとして驕つてゐる。徳保氏の今囘やつた事は、じっぽ氏に腰を引かせ、謝らせるのが目的の個人攻撃であつた、としか私には思はれない。
最後に、ただ、それを口にすれば怒る人がいる。差別された当人だけでなく、関係ない人も不愉快になるんです。と徳保氏は言ふ。では、徳保氏の今囘の攻撃は、じっぽ氏のみならずその他の誰かに、全く不快の念を生じさせないものであつたと、徳保氏は言ふのだらうか。もし「その通り、私は誰も不愉快にさせてゐません」と言ふとしたら、それは嘘である。なぜなら、私が大變不愉快になつたからである。よろしいか徳保氏、あなたは自分自身では平氣で人を不愉快にさせてゐるのに、じっぽ氏に「人を不愉快にさせるな」と説教をしてゐる。これが許される事だと思つてゐるのか? 守るべきだと信じてゐるにもかかはらず、力及ばず守れない、と言ふのならば仕方がないし、その場合には「守るべき事」を主張する事が出來る。しかし、自分ではそもそも守る積りもない事を、他人には「守れ」と言つて強要する、と云ふ事は許されない。その許されない事を徳保氏はやらかしてゐる。
そして、「處世術」「世渡りの術」の傳授と稱して、徳保氏は脅迫的な物の言ひ方をしながら、じっぽ氏に恩を賣つてゐるやうな顔をする。これは、波江究一が「文化の爲」と稱してろくでもない「字数歌」説の宣傳をして廻つてゐるのと同じく、嫌がらせを正義の名の下に正當化する惡質なやり口だ。理窟を言つてゐるやうで、實は可能性の話をしてゐるに過ぎず、論理に飛躍がある、と云ふ點でも共通する。一言で言つて、波江も今囘の徳保氏も「トンデモ」である。
平成十六年九月四日
私は野嵜さんとは対極に位置するような人間だから、「傲慢だ」と決め付けてはみても、それはひとつの物の見方に過ぎないとも思っています。
決め付けをやつたのは徳保氏であり、私はやつてゐない。なぜ徳保氏は「御互ひ樣」に見せかけようとするのか。徳保氏が保身の爲にそのやうな戰術をとつてゐる、と考へる事は可能であるし、さう云ふ見方は徳保氏の發言全體から鑑みて妥當であらう。
それでもとにかく、じっぽさんを「傲慢だ」といい、そこにそれなりの理屈をつけることは可能です。そして実際、私が我が身をさておいてじっぽさんを傲慢だと思った気持ちは現実のものだったわけで、そういうことを避けたいのなら、じっぽさんは発言に気をつけるしかない。
詰り、言ひがかりを附けられる方が惡い、言ひがかりをつける側にも心理的な必然性があるから正しい、と徳保氏は言ふ訣だ。徳保氏は掲示板荒しの「義」の身方もやり兼ねない。
しかし、實際のところ、じっぽ氏を「傲慢だ」と極附けた今囘の議論は、徳保氏の爲にする議論であつたに過ぎない。「じっぽ氏は傲慢である」と云ふ徳保氏の假説は、理窟で以つて證明されたものではない。徳保氏は、自己の意見を呈示したが、その意見が論理的でない事について私は述べた。
平成十六年九月四日
以前、野嵜さんは一貫した事を言はないやうにする、と云ふ點で一貫してゐる徳保氏。と評されていますが、これは正しいと思う。だいたい私が他人を批判するパターンは決まっていて、一貫性を重んじる相手には「矛盾していますね」といい、優しい人間になりたいと考えている相手には「冷たいですね」といい、賢くありたいと願う相手には「バカですね」という。
私自身は別に、一貫しているのがいいとか、優しいのがいいとか、賢いのがいいとか、思っているわけではない。と、自分自身について考へてゐるのならば勝手だ。だが、そのやうな態度で他人に接するのは許されない。それは卑怯だからだ。
野嵜さんと私とでは、他者を批判する際の意図が違います。私は、人間は結局、黒にも白にもならない、グレーだと思っています。
尋ねるが、徳保氏はなぜ他人に意見をするのか。徳保氏の態度は、他人にいちやもんを附けてゐるだけでしかない。批判をしないのならば何を考へてゐても構はないし、何も考へないでゐても構はない。だが、批判するのならば、自分が一貫した考へ方を持つてゐなければならない。徳保氏には、他人に意見する資格が無い。
平成十六年九月四日
何らかの価値観に基づけば、進むべき方向性は見えてきますけれども、なかなかひとつの価値観だけで人は生きられない。だから結局、部分的にしか合理的たりえない。私はいい加減だから、もうほとんど諦めているのに、野嵜さんのいうように「正しい」ものがあるんじゃないかという希望も捨てられない。
浪花節は結構。
そもそも、徳保氏は何を理解して貰ひたいのか。徳保氏自身は、何も信じてゐないのだらう。ならば、徳保氏には意見が無いのである。その存在しない意見を抱へて、この説明で野嵜さんに理解されるとも思わないがも糞も無いだらう。或は、徳保氏は人を馬鹿にしてゐる。
徳保氏の發言を見てゐると、徳保氏は、自分の立場がふらふらしてゐるから、はつきりした物の言ひ方をしてゐる人間がゐれば、その足下を突崩して、その人も自分と同樣に立場がふらつくやうにしたい、さうして皆で不安になつて、それで皆が同じやうになつて、で、相對的に自分は安心を得よう、としてゐるやうにしか見えない。となると、徳保氏はただ單に他人の足を引つ張つてゐるだけである。
平成十六年九月四日
しかし、じっぽ氏のhttp://d.hatena.ne.jp/fujipon/20040830#p5の發言、どこが職業差別なのだ? じっぽ氏はただ「下らん本が賣れてゐて困つた事ですね」と言つてゐるに過ぎない。タイトルに「ヤクザ」とか「銀座のママ」とかが入つてゐるから引合ひに出して皮肉つただけで、職業差別等と云ふ事は徳保氏が言立てなければじっぽ氏は全く意識してゐなかつただらう。
平成十六年九月四日
主張の核心ではなく、物の言ひ方の側面をわざとクローズアップして、徳保氏は恣意的にじっぽ氏の主張を捉へ、惡く解釋し、非難を浴びせかけた。じっぽ氏も醫者と云ふ立場があるから、非難されれば謝つて當座を繕ふしかない。そして、徳保氏は、さう云ふじっぽ氏の立場が良く解つてゐて、そこにつけこんでゐる。
また、「醫者が言つたから」とか「無職引きこもりが言つたから」とかで、發言の眞贋が變るものだらうか? 無職引きこもりの野嵜が「ヤクザ」云々とか「銀座のママ」云々とかの本を非難したら、その場合には危なっかしくない事となつてしまふのか? 無職の野嵜がその手の事を言つたとしても、醫者と違つて刺される事はないと言ふのか? この邊の理窟は、合理的に判斷し得る筈のもので、「正しいと云ふ事が本當にあるのか何うか判らない」等と言つても仕方がないし、もし言つたらそれは遁辭でしかない。そして、誰が何う見ても、「刺される」可能性は、醫者のじっぽ氏も、無職引きこもりの野嵜も、同じ程度である。それなのに、徳保氏は、「醫者」と云ふ事を強調した。
徳保氏よ、職業差別の危險を指摘したあなたこそ、職業差別を却つて肯定してゐるのではないか――と言ふより、徳保氏に職業差別の意識があるからこそ、その意識をじっぽ氏に投影してしまつたのではないか。
平成十六年九月四日
一貫性のない奴はダメだ、とかいっている人が矛盾をさらけ出すと、「そら見たことか」と思う一方で、悲しくもなります。
どうも徳保氏は、「正しい」と云ふ事を變な風に勘違ひしてゐて、「絶對の探究」で主人公が探し求める「絶對」なる物質のやうなものを索めようとしてゐるのではないか、或は、「絶對の正義」を體現して見せる人物の出現を待望してゐるのではないか――私にはさう見える。そして、そのやうな嚴然たる存在が見出せないから、徳保氏は相對的な正義を、自分の追ひ求める「絶對の正義」の贋物のやうに看做して、輕侮してしまつてゐるのではないか。
だが、「正しい」事――正義なんて相對的なものだよ。相對的で十分な代物だ。正義の體系は、一つの絶對的な假説の上に成立つ虚構的な體系に過ぎない。そして、數學だの科學だのにしても、その程度の體系に過ぎない。が、その體系化をどの學問も徹底的に推進めようとしてゐる。それを無意味と徳保氏は看做すかも知れないが、私はさうは思はない。そもそもの現代の西歐學問は、デカルトの「我想ふ故に我あり」の一つの假説を「絶對の假説」とし、それを基盤にして成立してゐる。さう云ふ西歐の學問を受容れた我々日本人は、まづはその「絶對の假説」から眞似する必要がある。西歐の學問は既にデカルト的な宇宙觀をも克服しようとしてゐると言ふ人があるけれども、一足飛びに過程を飛ばす事が良い事であるとは思はれない。
また、完全な人間等と云ふものは存在しない。人間は人間である時點で不完全である。それは徳保氏自身が重々承知してゐる筈の事である。が、徳保氏は、正義を實踐する人間と、人間が實踐する正義とを區別出來ない。だから、人間の態度が自分の御眼鏡に適はない時には、その人間の實踐してゐた正義が崩れてしまつたかのやうに思ひ込んでしまふ。しかし、人間なんて不完全なものだし、人間が信ずる正義に基いて完璧に實踐をする事も常に可能である訣ではない。その程度の事實は認識しておいて良いだらう。そして、日本人にはその事實だけが目に見える事であり信頼に足る事であるが、西歐の連中は目に見えないイデアをも信ずるらしい、と云ふ事は氣に留めておいて良い。そして、さう云ふ彼我の違ひを意識してゐれば、彼(西歐)の連中が彼の立場で如何に振舞ふものかも想像出來るし、そこではじめて日本人の限界を越えて西歐人つぽい振舞ひも出來るやうになる。そして、日本人の持たない嚴密な思考も或程度まで眞似出來るやうになる――のだが、この邊の文章の理窟について少し考へると、鷄が先か卵が先かの問題と同樣の問題を抱へてゐる事がわかる。だから此處で一つの飛躍を必要とする事を野嵜が主張してゐる事は意識して貰つておいて構はない。閑話休題。
平成十六年九月四日
「ヤクザ」や「銀座のママ」の類を賤業と看做すのは十分妥當である。
平成十六年九月四日
じっぽ氏の發言を讀んで、怒つてじっぽ氏を刺しに行くやくざがゐたら、そのやくざは相當の馬鹿であらう。もちろん、そんな馬鹿なやくざばかりがごろごろしてゐる訣がないし、そもそもウェブの日記の文章に一々反應してゐられるほど、やくざも暇な稼業ではあるまい。
逆に、頭の良いやくざならば、じっぽ氏の文章を讀んで、寧ろ莞爾とするであらう。しかし、そのやうなやくざ氏は、默して語らないだらうし、出版社の人間に口説かれて堅氣の方々に「教える」等と云ふ眞似もすまい。
平成十六年九月四日
まず前段、そんな主張はしていません。私はじっぽさん自身がヤクザに学ぼうと考えないことについては、是非を述べていません。
なんでも素直に受け入れてしまうようでは困るけれど、「とりあえず、読んでみる」という姿勢を持てない頑なさも不幸の源。
誰が何う見ても、2004年09月03日「雑感いくつか」の徳保氏の發言は遁辭。頑なさも不幸の源是非を述べた事にならないと徳保氏は主張してゐるが、そんな馬鹿な話はない。徳保氏の嫌味は、相手の非を鳴らすものではないと言ふのか。ならば、徳保氏は今囘、單に嫌がらせをした、と云ふだけの話になつてしまふ。徳保氏は、それで良いのだらうか。どうも徳保氏はそれで良いらしいのだが、御立派な信念ですね、なんて書くと嫌みが過ぎるかも知れないけれども。云々。
平成十六年九月四日
自分が矛盾していても、冷たくても、バカでもいいと思っていますと言ふ徳保氏。御立派な信念云々。
刺されるというのは、文字通りの意味ではありません。だから、他人に迷惑をかけて口に糊している集団に対して、どうしてネット上でまで「一身の安全」を考えて、媚を売らなくてはならないのでしょうか?といわれても困ります。そんな主張はしていませんから。
「ヤクザに刺される」と云ふ言ひ方は、文字通りの意味ではない、と徳保氏は主張してゐるが、普通は文字通りに受取るものだらう。徳保氏は、それなのに御都合主義的な解釋をして、それを相手に押附けて、押通してゐる。徳保氏庭、かう云ふ逃げが非常に多い。これは大變汚いやり方なのだが、何しろ徳保氏は自分が矛盾していても、冷たくても、バカでもいいと思っているので、平氣で卑怯な眞似をする。かう云ふ人間がサイトをやつて、しかも他人樣にアドバイスなんて事をしてゐる、と云ふのは、困つた事だと思ふ、なんて書くと嫌みが云々。
平成十六年九月四日
frameは本当に便利か - 駄的HTML改善計画
また、フレームを使う事で本来HTMLの内容としては不適なナビゲーションを文書中に書かなくて良くなります。
frame非對應のユーザエージェントの事を考へてnoframesを記述するとなると、全ての文書に必要なナヴィゲーション關係の記述を埋め込む必要がある。ならば、frameを使ふ意義は全く無い、と云ふ事が出來る。
平成十六年九月四日
その選択は、個人の意思に任されています。
かう云ふ事を言ふ人間に、ろくな奴はゐない。
平成十六年九月四日
なかなか野嵜さんには私の考えをご理解いただけないので
その通りだ、といっても構わない。
支離滅裂。支離滅裂な事を言はれても困る。
平成十六年九月四日
刺されるは本当に文字通りでない意味で使ったのだけれど。ヤクザが話に登場するからややこしくなったんだと思う。
じっぽ氏もヤクザが話に登場するからややこしくなっただけだらう。ならば、徳保氏も、そこで執拗に「職業差別」云々と言はなければ良かつた筈だ。
平成十六年九月四日
気ままに生きる代償は自分で納得したんだからいいだろう、という意見があるかもしれません。しかし私はそれほどできた人間ではない。「努力しているつもり」で自分を正当化できてしまう人々はずるいと思う。実態はひどい有様なのに、善人面をして恥じない人々を憎む。だから私は、踏み絵を用意したくなるのです。
じっぽ氏は「努力しているつもり」で自分を正当化してゐるずるい人であり実態はひどい有様なのに、善人面をして恥じない人である、と徳保氏は言ふ積りだらうか。「さうではない」と恐らく、徳保氏は言ふだらう。だが、徳保氏は今、自分の行動原理を説明してゐる筈である。そして、その行動原理に從つて、じっぽ氏を罵つた筈である。となると、徳保氏が何を言はうが、徳保氏は單なる八つ當りでじっぽ氏に非道い事を言つただけである、と云ふ事になる。
徳保氏は、じっぽ氏に謝罪すべきである。徳保氏の自稱「批判」は、公益性がない事になるからである。徳保氏の今囘の行爲は、個人的な不満の解消を目的とした私的なものであり、當然、じっぽ氏に對する誹謗中傷であり、名譽毀損であり、侮辱である。じっぽ氏が訴へないからと言つて、徳保氏は頬被りして濟ますべきではない。
徳保氏が信念を抛り出したとか崇高な價値觀を奉ずるポーズを堅持しながら内實の崩れを放置する人をどう思ふとかは知つた事ではない――或は、さう云ふ事を心の中でどう思つてゐようと勝手だ。だが、そのルサンチマンに基いて、ただ他人を罵倒する事、そして一人で好い氣になる事は、許されない。或は、さう云ふ自分の思ひを他人にも解つて貰ひたいんだ、と主張したければすれば良い。しかし、その方法として、他人に「職業差別」のレッテルを貼り、謝罪させ、腰を引けさせる、と云ふ事をするのは、許されない。
徳保氏は斯う書いた。
備忘録で批判したのは、今回、私はじっぽさんだけに意見したいわけではなかったからです。新聞が政治家への意見という形式の記事を書くのと同じです。政治家にものをいいたければ直接電話すればいい、新聞社の編集委員にはそれが可能じゃないか、とじっぽさんは仰いますかね?
徳保氏は、最初、自分の「批判」は個人的なものではなく、世間に訴へかけるものである――公益性のあるものである、と主張した。ところが、野嵜の批判を受けて、徳保氏は自分の行爲が、實は個人的な動機に基くものである、と述べた。となると、嘘を吐いて徳保氏は自分の個人的な行爲を公益性のある批評に見せかけ、じっぽ氏に謝罪させた、と云ふ事になる。これでは、誰が何う見ても、じっぽ氏が被害者であり、徳保氏こそが加害者である。
さて、徳保氏は、信念を捨てたし、體面も繕ふ必要がない――だから俺は絶對に謝らないぞ、と言つてゐる。これでは誰にでも噛み附く●犬である。徳保氏は一往、狹いコミュニティの中であれ、知られたサイトのオーナである。さう云ふ人物が、自己中心的なだけの態度をとつて、餘所のサイトのオーナを誹謗・侮辱し、結果として自分自身が信用を損ねる事になる、と云ふのは、如何なものであらうか。もちろん、徳保氏は、さうやつて自分の信用を損ねたい、と思つてゐるのかも知れないが、云々。
取敢ず、被害者のじっぽ氏には、徳保氏に攻撃されたのは犬に噛まれたやうなもので、災難だと思つて、早く忘れてしまつて下さい、と申し上げたい。

平成十六年九月三日
當方の指摘が徹底的に無視されてゐるのだけれども。

「教える」と「伝える」は重複部分の多い概念です。私が批判したのは、偉い人だけから学ぶという考え方です。ヤクザは偉くなくても、その交渉術には学ぶべき点があるかもしれない。銀座ママのお話だって同じことです。ヤクザからも何かを学ぼうとする人に対し"反吐が出る"とまでいう狭量に、私は傲慢を感じました。

なぜわざわざ「ヤクザ」と云ふ看板で賣られてゐる本から「學ばなければならない」と徳保氏が考へてゐるのか、全然理解出來ない。また、どうして「あるかもしれない」と云ふ可能性の論を言ふのかが理解出來ない。
もしそんな事を言ふのであれば、徳保氏はamazonでの本のレビューで辛い評價をしたり、サイト診斷で改善案を出したりするのは、今後一切止めるがよろしい。どんなに駄目な本でも「學べる處があるかも知れない」し、どんなに非道い作りのサイトでも「見たいと思ふ人がゐるかも知れない」と云ふ事が出來るからだ。
徳保氏は、「可能性があるものを否定してはならない。否定するのは傲慢な事だからである」と言ふ。だから、徳保氏自身も、可能性がある事を否定する事は許されない、と云ふ事になる。
平成十六年九月三日
「いささか理屈をこねすぎるし、理論だけで脳内完結してしまっている傾向はあるけれど、物事に対して真面目に筋を通して考える人だなあ」
それは間違つた印象だ。徳保氏は、理窟を言ふ割に、筋を通さない傾向がある。
正直、僕は徳保さんがどうしてこんなことをなさっているのか、全然わからないんですよ。
得保氏が、筋を通さうとする人ならば、筋を通す爲に筋を通す、と云ふのが理由になる。しかし、徳保氏は今囘、筋を通す通さないとは關係なく、ただ、「謙虚になれ」と道徳的な絶對的命令を下してゐる。そして、謙虚の定義をするに當つて、場當り的に職業差別とか何とかと言出してゐる。その點で、一方的な價値觀の押附けを徳保氏がしてゐる、と見る事が出來る。はてなダイアリー - None Stories.の中の人が一方的に「ヤクザ差別」「銀座のママ差別」をやつてゐるとしたら、徳保氏も一方的な事を言つてゐるに過ぎない、と言ふ事が出來る。この場合、單なる言爭ひであり、理窟が何うの斯うのの話ではない。
徳保氏の今囘の指摘の最大の問題は、実際の内容はともかく、「とりあえず、読んでみる」くらいはいいだろうと思い、意見したのです。と云ふ甚だ怪しい根據を理由にしてゐるにもかかはらず、高壓的に相手を罵つた、と云ふ點にあると言へる。じっぽ氏は、やっぱりヤクザのマネをする気にはなれないし、僕にはヤクザの前に学ぶべき人はたくさんいるように思えてならないのです。と述べてゐて、この意見の方が徳保氏の可能性の論よりもより確實でありより説得力があると私は考へる。根本的な部分で、じっぽ氏の考へ方の方が確實であり、徳保氏の方が不確實である。ならば私は、徳保氏が幾らじっぽ氏の言葉の上の矛盾を衝かうが、今囘はじっぽ氏の方が理があると思ふし、據つてじっぽ氏の肩を持つ。實際の處、じっぽ氏の言葉には矛盾も何もないのであつて、一々「職業差別をした」の何のと言つて咎め立てしてゐる徳保氏はをかしい。
自分の「正しさ」を証明するのに、他人を踏み台にするのはよくない、とじっぽさんは仰る。ではまず、自説を主張するためにヤクザ交渉本の読者への批判を踏み台にしたことを反省されるとよいでしょう。そして、間違いと対比させずに正しいことを説明できるのか、よくお考えになるといい。自分が間違いの実例に挙げられたとたんに、他人を踏み台にするな、と主張されるのは虫が良すぎます。
徳保氏は不確實な理由で自分の正義を主張し、じっぽ氏の正義を正義と認めなかつた。一方、じっぽ氏は、確實な理由で以て自己の正義を主張し、「ヤクザに学ぶ」の類の本を「正しい」と認めなかつた。徳保氏の場合、本當に正しいか何うかは話を別として、ただ自分の價値觀を正義として他人に押附ける行爲をした。それに對して、じっぽ氏は、本當に正しいか何うかの檢證を經た上で、自分の價値觀を一般化して主張した。「踏み台」と云ふじっぽ氏の表現を利用して、徳保氏は「御互ひ樣」であるかのやうに見せかける理窟をでつち上げてゐるが、彼我でやつてゐる事の質は全然違ふのであつて、「御互ひ樣」ではない。
あと、もし「學べる可能性」の事を言ふのであれば、徳保氏はじっぽ氏を叩くのではなく、じっぽ氏の「ヤクザに学ぶ」の類の本には學ぶ事等無い、と云ふ主張から何かを學ぶべきであつた。自分が他人から學ばうとしてゐないのならば、他人に「學ばうとする姿勢を持て」等と言つても、説得力があるやうには思はれない。この肝腎な點で、徳保氏の主張は支離滅裂であると言へる。
平成十六年九月三日
本日の買物。
佐々木信綱校註『建禮門院右京大夫集』冨山房百科文庫78(戰前版)
バルフィンチ『騎士道時代』冨山房百科文庫82(戰前版)
海老沢有道訳『南蛮寺荒廃記・妙貞問答』東洋文庫14
社会思想社編『トインビー 人と思想』社会思想社
安本美典『古代九州王朝はなかった 古田武彦説の虚構』新人物往来社
ジイド『新日記抄』改造社
清水幾太郎『新しき人間』河出書房
ジョン・ブレイン著/福田恆存譯『年上の女』河出書房新社
中谷宇吉郎『文化の責任者』文藝春秋
平成十六年九月三日
http://d.hatena.ne.jp/yms-zun/20040903#misshit
はてなダイアリーのキーワード機能は、日本語の文章を解析して、文脈から適切に單語を抽出してキーワードとしてリンクを張る、と云ふものではなく、單純な最長一致法に據つてゐるだけのものだから、「誤爆」もあり得るのだし、筆者の意圖しないリンクも勝手に生成する。が、そのくらゐの事ははてなダイアリーのユーザなら承知なのだらうと思つてゐた。そして、キーワードの解説も、ユーザなら誰でも弄れるのだらうし、それならば自分の意圖しない解説文が掲載される事だつてあり得るだらうが、それだつてはてなダイアリーのユーザならば承知してゐる筈だと思つてゐた。さらに、他のユーザが誰か、他人の目には出たら目なやり方でキーワードを作つたり解説を書いたりする事があり得る事も、はてなダイアリーのユーザならば承知してゐる筈だと思つてゐた。が、どうやらさうではないらしく、はてなダイアリーでは、社會或はコミュニティとして、アナーキズムを排した何らかの形の秩序を構築しようとしてゐるらしいのである。が、そんな事は無理だらう。統率者が存在しない社會で、秩序が存在する訣がないのである。
ウェブで秩序ある一聯のコンテンツを成立させようとしたら、一人でやるか、賛同者を集めた上で一人のリーダーがプロジェクトを主導するかしかない。
だから、はてなダイアリーのキーワードも、Wikipediaも、秩序ある「社會」になる筈がないと私は見てゐるし、それゆゑにその手のものに積極的に手を出す氣になれない。

平成十六年九月二日
野嵜を「煽り屋」と呼ぶ人がゐるやうですが、それは間違ひです。なぜなら、言爭ひの際、感情を煽り立てられて、腹を立てるのは、常に野嵜の方だからです。
野嵜を怒らせたり、それに據つていきり立つて喚いてゐる野嵜を眺めて喜んだりしてゐる側が「煽られた側」で、怒らせられて、それで喚き散らしてゐる野嵜の方が「煽り屋」である、とする説は、誰が何う見ても納得し難いものである筈ですが、如何でせうか。
「怒つてゐる相手を見下して樂しむ爲に怒らせる」と云ふ「煽り」を野嵜がした事は、未だ曾てありません。逆に、された事は、幾らでもあります。
平成十六年九月二日
「農作物」の讀みを、私は「のうさくもつ」と習つたのだが、NHKのニュースキャスターは何時の頃からか「のうさくぶつ」と言ふやうになつた。何う云ふ事ですか。
平成十六年九月二日
隨分長い間机の上に放置してゐた出隆『懷疑論』(哲學叢書・角川書店)とアリストテレス『詩學』(碓氷書房)を囘收して來た。
平成十六年九月二日
「既存のテキストにマーク附けする事でHTML文書を生成する」と云ふ原則から考へれば、XHTML 1.1のruby要素の仕樣はをかしい事は自明。表音主義者でない限り、「本文中に括弧附きで讀みを含める」と云ふ眞似をする人間はゐない。
平成十六年九月二日
http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20040830#p5
http://deztec.jp/design/04/09/000454.html
『ヤクザに学ぶ交渉術』『銀座ママが教える…』の類の本は、『医者に学ぶ○○術』であつても同じ事ですが、實用書です。實用書も結構ですが、實用書ばかり讀んで、實用でない本を讀まない、と云ふのでは困ります。實用書に限らない。ハリーポッターにしても宮部みゆきにしても、そればつかり讀んでゐるやうでは駄目です。と言ふより、ベストセラーの類は、讀むに値しません。現實にベストセラーとなつてはゐないけれども、ベストセラー狙ひで出版された本もさうです。
「ヤクザに学ぶ」にしても「銀座ママに教わる」にしても、得られる知識は實學です。ハリーポッターの類を讀むのは、暇潰し以上の何ものでもありません。そして、さう云ふ類の事を「学ぶ」事と、例へば漱石や鴎外、ドストエフスキー、シェイクスピア、ソクラテス(プラトン)やアリストテレス、キルケゴール、ニーチェ(以下略)に學べる事とは、根本的に違ひます。後者の、或種の知識を得ようと思へば、前者の實學的な知識しか與へない本を讀むのは全くの無駄です。
「愉しみのための読書」「知識を得るための読書」とは違ふ或種の読書の形態がある事は、坪内祐三氏がバーナード・マラマッドの短篇「夏の読書」を紹介した短篇で述べてゐます。
さて、私は徳保氏の所謂「謙虚」なんてものを醫者には求めません。そもそも徳保氏の言ふ「謙虚」は、本物の謙虚ではありません。徳保氏が言つてゐるのは、世渡りの爲に示すべき「謙虚な姿勢」の事に過ぎません。しかし、私が思ふに、醫者に必要なのは、さう云ふ表面的な態度ではありません。醫者の仕事は仁術であると言ひます。この仁術が、表面的な態度におけるものであつては困ります。なるほど、醫者の仕事で重要なのは、技術であります。醫者の仕事が、仕事であるならば、正確な仕事を出來る事は重要であります。それと同時に、仕事をする氣構へ・心構へが重要であります――これは、醫者に限らない。さう云ふ生き方や道徳觀と直結した觀念――これを醫者になる者は養成しなければならない。だとしたら、やくざや銀座のママに「学ぶ」と云ふスローガンの下で出版されてゐるベストセラー狙ひの本――金儲けの觀念が附き纏ふ本を、醫者が讀まないやうにする、と云ふのは、大變良い事です。醫者は、「金儲けや世渡りのやうな事を知つてはならない」とは言ひませんし、知識として知つておく事は結構だと思ひますが、一方で、そればつかりにとらはれるやうになつて貰つても困ります。金儲けよりも大事な事が人生にある――さう云ふ事を、先づ醫者には肝に銘じておいていただきたい。そして、そのやうな事を學ぶ爲には、ヤクザや銀座のママに「学ぶ」の類の本を讀むのは、もつてのほかであります。「学ぶ」とか「謙虚」とかのスローガンでもつて話をする人物の安直な處世術に、醫者の方は學ばないやうにしていただきたい。私は、金儲け主義で、妙に世渡りが巧い醫者にはかかりたくありません。
と言ふか、徳保氏よ、あれの何處が職業差別であると。本物のやくざや本物の銀座のママは、何かを教へたがつてゐると徳保氏は主張するのか。それを醫師が妨碍するのは許せないと徳保氏は言ふのか。實際に出版されてゐる本の内容が素晴らしいと言つて、或は、素晴らしい事柄が書かれてゐる筈だとして、徳保氏は文句を言つてゐるのか。「何かを學べるかも知れない」と云ふ可能性の論を言つてゐるとしたら、私は「或種の事柄は絶對に學べない」し、「醫師に知つてゐて貰ひたい或種の事柄は絶對に書かれてゐない」し、「醫師が信じ込んでしまつては困る或種の事柄が、その手の本では大事な事として書かれてゐる」と云ふ事を指摘しておく。と言ふより、その手の安つぽい本で知り得る安つぽい事柄は、偉大な本で知り得る知識の中にも本質的に含まれてゐるし、それ以上の事が偉大な本には書かれてゐる。だから、安つぽいベストセラーを讀むよりも、名作と呼ばれる本を讀んだ方が良い。
平成十六年九月二日
さて、半可通のする事を「困つた事だ」と思ふのは結構だが、それをにやにやしながら傍觀して、超然とした立場に立つた積りになるのは如何なものか。
批判をする事がどうして同じ穴の狢になり、馬鹿と同レヴェルになる事になると言ふのだらうか。
單に、批判して恨まれると後で損をするからと云ふ理由で傍觀するだけならば、素直にさう言へばよろしいのではないか。一々傍觀者を氣取つて見せるのは、「俺は偉いんだぞ」と言ふのと同義で、甚だ傲慢であるやうに見える。
そもそも、半可通氏の誤つた説が實害を生ずると言ふのならば、それを放置する事こそ半可通氏の所業に荷擔する事だ、と考へるべきではないか。目の前で起きてゐる犯罪を看過するのは、犯罪に手を貸すのと同じ事である。
平成十六年九月二日
「天皇の言動は全て正しい」と言つた某鐵扇會の會長さんは、右翼なのに古事記とか日本書紀とかは讀んでいらつしやらなかつたのかな。昔の天皇の惡行を惡行として平然と記録してゐるのだけれども?

平成十六年九月一日
「Keylay21 for WindowsXP」 Readme
キーボードとマウスをカスタマイズするツール。シェアウェア。
平成十六年九月一日
DearSまた始まつた @ MXTV。
アニメ魂 @ TVKも始まつた。
NTVではMONSTERですか。
何で夜中にあにめが3本かぶる?
ウルトラQやつてるし @ TXN。
平成十六年九月一日
當方何しろ面倒くさがり屋であるもので長い本はなかなか讀めないでゐたのだが、プラトンの『理想國』を讀みかけたら「義」のやうな人物がソクラテスに食つて掛かつてゐるのを見附けて面白くなつて六十ページほど一氣讀み。トラシュマコス氏は「義」と違つて對話が成立する人物であつたからソクラテスは助かつた。
尤も、トラシュマコスがソクラテスと對話したのは、周りに人が澤山ゐて、彼を強ひたからである。
ところで私は、思索社版『理想國』で讀んでゐるのだが、青木巖譯と云ふのが非常に微妙で、やけに判り辛い譯文が矢鱈あるのだが、今、河出の「世界の大思想」シリーズに入つてゐる山本光雄譯「国家」と比較してみたところ、言葉の言ひ囘し等が青木譯の方が「讀める」と云ふのに氣附いた――青木譯の方は「文體がある」やうに感じられるのだが、山本譯は「岩波」の飜譯のやうなのつぺりとした印象しか感じられない。そして、問題は、青木譯の本は拾ひもので、上卷しかないので、下卷の分は取敢ず手許にある山本譯で讀むしかないと云ふ事だ。
平成十六年九月一日
とは言へ、青木譯も、對話の文章が一本調子である事、誰でも叮嚀語で話してゐる事等、文藝的な工夫が餘り見られない點で山本譯と共通する。「良い」と言つても程度の問題でしかない。
もつとちやんと讀める飜譯は無いですか。田中美知太郎が昔、「日本の哲學者の文章は惡い」と言つたさうです。困つたものです。
平成十六年九月一日
拾つて來た本で、小泉信三『讀書雜記』(文藝春秋新社)を囘收。

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