闇黒日記

松原正先生東京講演會
日時
10月2日(土)午後1時30分受付開始、2時開演
會場
日本キリスト教會舘 6階會議室 東京都新宿區西早稻田2-3-1(早稻田奉仕園内:MAP・構内図)
參加費
2000圓
懇親會
同じ敷地内の小ホールで午後5時より2時間程度。輕食付、參加費3000圓。
事前豫約は不要です。講演會・懇親會どちらか一方のみの參加も可。
御問合せは「松原正先生を圍む會」事務局・木村氏まで。(地獄の箴言)

平成十六年八月三十一日
「レン=綾波、ミゥ=アスカ、武哉=シンジ」
「武哉(=シンジ)=のび太、メロンパン=ドラ燒、押入れ(一致)、缺陷品(一致)」
宇宙船の漂着と云ふ點でNieA_7と類似。
云々。
DearSをファフナー同樣のパクりアニメと見る事は十分可能。
なのだが、「蜜香先生=阿素湖素子」と考へると、見方が全然變る。
とか適當。
平成十六年八月三十一日
三十日の買物。
堀米庸三『中世の光と影(上・下)』講談社学術文庫205/206
E・O・ライシャワー/ハル・ライシャワー 入江昭監修『ライシャワー大使日録』講談社学術文庫1612
以下は『ライシャワー大使日録』から引用。

このところ続けている日本人との「対話」の一環として、創価学会の池田大作会長と二時間ほど話し合った。池田はつとめて愛想よく接してくれ、こちらもいい関係を築いて彼の考えに影響を与えたいと思うので、会談はスムーズに進んだ。だが、彼もその組織全体も、国際世界の諸問題や政治については驚くほど理解に欠けている。……。

創価学会の池田会長と二時間半の会談。今回は(三ヵ月前にも会っている)、こちらが先方の豪華な本部へ足を運んだ。池田は、人払いしてじっくり話をした。この前会ったときとはまったく違い、アメリカのベトナム政策を強く支持し、日本の再軍備を力説する。前回の曖昧な態度から一転して、かなり人種差別的、権威主義的な傾向が見て取れた。大きな影響力となりうるこのような集団の考え方が、どのようにして形成されるかは興味深い。彼が好ましい方向へ進むよう、影響を与えるべく努力を惜しまないつもりだ――たとえば原爆反対など。

云々。原文のまゝ。
平成十六年八月三十一日
三十一日の買物。羊頭書房で高田保『第三ブラリひょうたん』(創元文庫A-96:解説・福田恆存)とホーソン『伝記物語』(角川文庫1779)を、ちいろばで林健太郎編『西洋史學大綱』(河出書房)を購入。
平成十六年八月三十一日
プロジェクトX始まつた。
平成十六年八月三十一日
プロジェクトX終つた。東芝のワープロ開發の物語。
平成十六年八月三十一日
誰の發言かが餘りにも明かな時にわざと名乘らない、と云ふ事の詩情を解しない波江は云々。
平成十六年八月三十一日
ヴィデオボードのドライヴァで畫面を囘轉表示させる事が出來る。
出來るが、横倒しの状態にしても、それだけでは駄目。
システムフォントに@附きの縱書きフォントを強制適用し、マウスの動きとカーソルキーの擧動とを何とかすれば、Windowsが縱書き環境となる。が、現在のWindowsXPの標準機能だけでそこまでするのは無理。今のところ、容易には縱書きにならない。
と言ふか、通常のWindowsは、畫面の左上を起點とした横書きの環境なので、個別のウィンドウの中だけで完結した縱書き環境を作つても、全體として整合性がなく、非常に使ひ辛い事となる。システムが全體として縱書きの状態となつてゐなければ意味がない。
現在のWindowsは、アラビア語等の右から左にテキストが進行する環境をサポートしてゐる。少しの設定の變更で、右上から左下に縱にテキストが進行する環境をサポートする事は可能の筈である。次期Windowsでこの邊の改善がなされる事を求む。
なほ、カーソルキーの擧動はキーのマッピングを變更するツールがある。

平成十六年八月三十日
エリオットが「傳統と個人の才能」で述べたのと似たやうな事をゲーテも述べてゐた。

話は絵画のことに移り、ゲーテは言葉をつづけていった。「芸術にはすべて血筋がある。大家を見れば、いつでもわかることだが、大家は先人の美点を利用しているし、またまさにそのことが彼を偉大にしたのである。ラファエロのような人々が大地から生えてくるわけはない。彼らは古代をふまえ、彼ら以前につくられた最上のものに立脚している。もし彼らがその時代の長所を利用していなかったら、彼らについて論ずるほどのことはほとんどあるまい。」(1827年1月4日)

『ゲーテとの對話』は、ニーチェが絶贊したもので、邦譯が數種ある。面白いので一讀をおすすめする。岩波文庫版は先日、重版がかかつた。
平成十六年八月三十日
良く考へたら、コピー出來ない筈のディジタル放送の番組で、畫面に局のロゴが入るのはをかしい。
平成十六年八月三十日
http://www.akatsukinishisu.net/wiki.cgi?%A5%A6%A5%A7%A5%D6%C9%B8%BD%E0%A4%C8%B7%F9%A4%AC%A4%E9%A4%BB%A4%C8
http://www.akatsukinishisu.net/wiki.cgi?IE%A4%CF%C1%EB%A4%AB%A4%E9%C5%EA%A4%B2%BC%CE%A4%C6%A4%E9%A4%EC%A4%EB%A4%D9%A4%AD%A4%AB
http://slashdot.jp/journal.pl?op=display&uid=8507&id=244301
http://www.d-toybox.com/studio/weblog/show.php?mode=single&id=2004082500
http://everybody.good-day.net/~iwai/blosxom/media/www/merit.htm
いわい氏が非難する気もないと書いてゐるので、俺は中野さんが文書を削除した事を非難したくなつた。
平成十六年八月三十日
http://www8.plala.or.jp/cgi-bin/wforum/wforum.cgi/Kusimitama/bbs?mode=all_read&no=8093
http://d.hatena.ne.jp/urasimatarou/20040829
http://www8.plala.or.jp/Kusimitama/report/report20.html
浦島太郎氏 v.s. 高坂氏。その他。
「オリンピックに何だつてそんなにのめり込むの?」「オリンピックにのめり込んだつて良いぢやない?」と云ふ意見の對立らしい。
この手の論爭は良くある話だが、「何うでも良い」の領域に屬する議論に過ぎないやうに思はれる。「オリンピック」と云ふ語を「プロ野球」や「Jリーグ」に置換へても、似たやうな論爭が成立する。好き嫌ひの領域の話だ。オリンピックで熱心に日本を應援しようが、日本が金メダルを幾つ取つたかなんて何うでも良いねと思つてゐようが、それでその人が偉いか偉くないか、決る訣ではない。愛國者であるか非國民であるかの議論も似たやうなもの。
そして、この手の論爭となると、人は熱心になるのである。好惡の問題なればこそ、結論が出ない訣で、幾らでも意見を言ふ事が出來る。
平成十六年八月三十日
色々なねたをあつちこつちから引つ張つて來てゐても、ファフナーはパクりで叩かれ捲り、DearSはパロディでなかなかの評判と書かうかと考へついて取敢ず參考にはてなダイアリー方面の感想文を讀んでゐたらDearS、それほど評價が高くない。が、何もDearSと言はなくとも、シノブ伝と言つておけば全然問題がない、と云ふ事が判明。
平成十六年八月三十日
内容に觸れるなと言つてゐるhttp://cgi.din.or.jp/~kaya-z/cgi-bin/diary/について。何で小麦ちゃんZとシノブ伝に言及しながらDearS無視するんだよ。
ええと、日記の内容には觸れてゐないので當方には海に叩き込まれる理由ナシ。日記に書かれてゐない事に觸れただけ云々。
平成十六年八月三十日
谷沢永一氏の『人間通』を古本屋の店頭ワゴンで見附けて、少しだけ讀んでみた。日本では物事を決める前に根囘しするのが大事である、云々。げんなり。
昔、PC WAVEが出したDOS/V史のムックに載つてゐた、日本アイ・ビー・エムのDOS/V部隊がDOS/Vリリース前に社内で根囘しをやつた話は、面白かつた。PC Jr.の失敗の後、ソフトウェアで日本語表示をする方式の「DOS/V」(當時はそんな名稱はなかつた)は、御藏入りとなり、IBM PC及びその子孫のXT、ATの日本導入は行はれなかつた。もちろん、本家IBMの腰が引けてゐたから、他所のメーカもIBM PC互換機を大々的に扱ふ事もなく、日本には日本獨特の「PC文化」が成立してゐた。もちろん、それはそれで或種の意義はあつたのだが、世界がIBM PC互換機で標準化されて行く中で、日本だけは事實上の「鎖國」状態となつてゐた。もちろん、アイ・ビー・エム内部にも、至極全うな方法であるソフトウェア方式の日本語化=ハードウェアレヴェルでは世界標準化が必要であると考へる「勢力」は存在した。そんな彼等「DOS/V部隊」は、色々と下準備をし、何度も「浮上」のチャンスを伺つてゐたが、機熟さずと見るや再度潛行する、言はば「潛水艦プロジェクト」として、アイ・ビー・エムの中でひつそりと登場の機會を伺つてゐた。紆餘曲折があつて、やつと「DOS/V」のリリースが殆ど決りかけた、その頃の話である。DOS/Vが出れば、それまで日本アイ・ビー・エムがやつてゐたPS/55と日本語DOSは、不要となつてしまふ――この事は社内でも明かになつてゐたのだが、根囘しは濟んでゐる筈だつた。ところが、そんな代物が出てしまつては困る、だからDOS/Vなんてものは「俺が潰す」と言つて、某幹部氏が乘込んで來たのださうである。その時、DOS/V部隊のトップであつた三井氏は、「これがわからんのなら辭めてしまへ」と怒鳴つて、某幹部氏を追返したのだと云ふ。根囘ししてゐさへすれば良いと云ふものでもない。三井氏は、のちにIBM本社の副社長に昇進した偉い人である。
「DOS/V」が日本で發賣されたのは1990年。當時、絶對的な地位にあつたのはPC-9800シリーズであつた。しかしIBM PC互換機勢力は結局、98を打倒してしまつた。今、日本でPersonal Computerと言ふと、AppleのMacintoshを除けば、全て所謂「IBM PC互換機」を指す。
平成十六年八月三十日
例のスポーツ談義に關する議論から話は逸れて。
浦島太郎氏のさるさる日記 - 龍宮城と現代の落差にビックリの「2004/08/26 (木) 曇り時々晴れ。巨大台風近づく。不気味」の發言。

皇嗣問題。前から書いているように、跡継ぎだけじゃなく、皇室だけを天然記念物のように残したって上手くいくはずがない。皇室の藩籬たるべき存在は必要だ。しかし、今、華族を堂々と復活できるかどうか側室はより一層難しかろう

私自身は、皇族はホモサピエンスの一員で、その血統に意味を見出せない。私においては科学的論理性が神話を凌駕する。ただし政治的には象徴という近代国家の機関としての存在意義は認める。前に書いたように、先帝とその弟宮達、今上帝夫妻、東宮夫妻が品性と知性に秀でた方々だから尊敬する、というだけで、あくまで相対的な存在である。だから、万が一、アホで下品で国民のことを何にも考えず、王としての風格もない人物が立太子、そして践祚という事態になれば、絶対支持できない。ところでその場合でも多くの皇室「ファン」はファンであり続けるのだろうか。そしてファンより真面目に伝統や保守を考えている人々は皇嗣を認めるのであろうか。女帝問題よりもアホ皇嗣問題の方が余程深刻だと思うが

「人は不完全である」と云ふ事は當り前で、だから「人の上の人を戴く」日本のやり方は完全であり得ない。その時、據つて「人の上の人を戴くべきでない」と結論するのが、現代の日本では――或は、左翼の側の人にとつては――至極當然の態度である。が、右翼の側で、アホで下品で国民のことを何にも考えず、王としての風格もない人物が立太子、そして践祚という事態になりはしないか、と云ふ危惧を抱いて、「何とかしなければならない」と考へてゐる人は、極めて少いやうである。
「天皇は、人物として尊敬に價しない場合、不必要になるのか」と云ふ問題はあるだらうと當方は思つてゐるし、そこで議論の餘地があると思ふのだが、それを言ふと「野嵜は天皇主義者だから天皇を意味もなく守りたいのだ!」と極附けられる事になるのだから、この國で物を言ふのは難儀である。(浦島氏がさう云ふだらうと言ふのではなく、かつて某高橋氏がさうやつて當方を極附けた事がある、と云ふ話です)
あと、話を戻して(?)、スポーツとかオリンピックとかの話。オリンピックに國中が熱狂してゐる、と云ふ見方があるとしたら、俺は「それは嘘だ」と思つてゐる。何處へ行つても「感動」なる千篇一律、紋切型の感想しか聞かれないのだから、誰も感動など本氣でしてはゐないだらう。そこでファシズム等と本氣で言ふ人間はゐる筈がないのであつて、左翼にはゐるかも知れないが、浦島氏は言はないだらうし、言つたとしても本氣でないに決つてゐる。問題は、實に穩當に「感動」なる輿論が成立するところにある。流行りつぽい言ひ方を適當にでつち上げて言へば「柔かいファシズム」が成立してゐるのだらうが、それは「硬いファシズム」とは全然別ものと言つて良い。現代の日本に於いては、ファシズムの出現形態も、かつての軍國主義のやうなものではあり得ず、パロディ化され輕佻浮薄な、戲畫化されたものとしてのみあり得る。私が言つても信用出來ないと言ふのならば、福田恆存が戲曲「總統いまだ死せず」で言つてゐる。
平成十六年八月三十日
ウェブではリンク切れになるのが當り前なのださうで、ならば掲示板の一記事だらうが何だらうが當座リンク出來るものにリンクして、あとはほつたらかしと云ふ刹那主義でやつて十分だらう。後の讀者に訣がわからなくても、困る話ではないし。閑話休題。
http://www8.plala.or.jp/cgi-bin/wforum/wforum.cgi/Kusimitama/bbs?no=8110&reno=8100&oya=8093&mode=msg_view
実は、啓蒙すらも神話への陥穽が潜んでいるものです。
以下は反論・非難の類でなく註釋。
清水幾太郎『流言蜚語』で、次のやうに説明されてゐる。まづ、前提として、「環境」を、人間は直接完全に認識出來るものでなく、イメージとして認識する、と云ふ事がある。そして、知識といふものが(略)物と人間との直接の關係であり、自己から外へ向つて進んで行く働きであるとすれば、これに對して信仰はイメージによつて導かれる生き方であると考へられる。

物を自分の眼で見るといふことは、いかに論理がこれを助けるとしても容易なことではなく、凡ての人が行ひ得ることではない。そこで多くの人々は知識といふ世界を或る少數の人々に委任して、自分は古くから與へられてゐるイメージに從つて信仰の世界に生活し、この少數の人々がやがて齎らす知識の成果をも信仰の態度を以て受容れる。デモクラシーといふことは、全ての人々が自分でイメージを作り出すこと、即ち自ら事實に直接に觸れることを理想或は前提として成立したものであつた。併しこの少數の人々にしてもその生活の一切に亙つて知識の態度を堅く持して生きて行くことが出來るのでない。自分の狹い專門の領域から一歩出れば、やはり信仰に生きなければならないのである。

また、清水氏は流言蜚語と神話との聯關を指摘し、ジョルジュ・ソレルの文章を引いてゐる。

私(ジョルジュ・ソレル)はこの研究を通じて餘り主張する必要がないほど單純に思はれる一つの事柄を確認したのであるが、それは即ち樣々な社會的運動に關係してゐる人々は、自己の將來の行動をばその主張の勝利を確保する戰といふイメージの形態で考へてゐるといふことである。私はこれ等の構成物を神話と呼ばうと提議したのであるが、これの認識は歴史家に對して大なる重要性を提供するものである。堪へ難い試練の中にあつてカトリックの人々は撫ぜにその意氣を沮喪せぬのであらうか。この事態を殘りなく解明することが出來るのは神話の觀念である。即ちカトリックの人々はサタンとヒエラルシーとの間に行はれる鬪爭として教會の歴史を理解する。如何なる困難が彼等の前に現はれるにしても、彼等はそれをこの鬪爭の一つのエピソードとしてしか考へない。彼等はそのあらゆる苦痛にも拘らず、常にカトリシスムの最後の勝利を堅く信じて疑はないからである。このやうな神話によつて貫かれてをればこそ、彼等はその意氣と氣魄とを喪失することがないのだ。

清水氏は、「眞實であるかないか」は「神話」の成立と維持に何の意味も持たない事――それが流言蜚語の場合についても言へる事――を指摘してゐる。流言蜚語にしても「神話」にしても、或種の「イメージ」である。そして、今は流言蜚語の話ではないから、「イメージ」を行動の基盤とする事が「信仰」である事を考へる。啓蒙とは、一般の用語で言へば知識を與へる事であるが、清水氏の、或は『流言蜚語』と云ふ本の用語で言へば、「イメージ」を與へる事である。同書での用語法に從へば、「知識」と言ふと、直接獲得されるものを指さなければならない。そして、「環境」に適應する爲の言はば割切つた物の見方を「イメージ」と呼ぶ。
茲に、「イメージ」の積極的な賦與である啓蒙と、「知識」から離れた「イメージ」を行動の原理とする「信仰」、そして「環境」とは別物であり眞贋を問はれない「イメージ」である「神話」とは、直結する。「神話」とは、toka氏の言ふ物語("fiction")である。
ええと、書いてゐて何を言ひたいのか忘れたので此處で唐突に終り。
平成十六年八月三十日

……それから、われわれはみな、ある条件のもとでだけ自由になれるのであって、これはどうしても満たさなければならない。市民は貴族と同じように自由だ。ただし、自分の生まれついた身分によって神から割りあてられている限界を守る必要がある。貴族も王侯と同様に自由だ。なぜなら、宮廷でほんのちょっとした儀礼さえ守れば、王侯と同等だと思ってさしつかえないからだ。自分の上にあるものを一切認めようとしないということで、われわれは自由になれるのではない。上にあるものを尊敬することこそ、われわれを自由にするのである。なぜなら、上にあるものを尊敬することで、われわれは自分をそこまで高めることになるからであり、上にあるものを認めることによって、われわれ自身が心の中に一段と高いものを持っていて、それと同等になる資格があることを、そとに示すことになるからだ。……。

さて、ここでゲーテは、身分制の固定を言つてゐるのだ、だからゲーテは封建主義者なのであり、諸君はゲーテの言葉等、聞いてはならない、と、例の高橋氏等は言ひさうなのであるが、身分制度護持の主張にしても、身分制度打倒の主張にしても、政治的主張である。
そして、シラーは若い頃、この政治的自由に拘つたが、のちには觀念的な自由に拘るやうになつた、即ち、肉體的な制約――病氣、虚弱、老衰、等々――から精神は自由になれる、として肉體に無理を掛け過ぎた、その爲に若死にした、と云ふ事で、ゲーテは「觀念的な自由はほどほどに」と述べてゐる。しかし、後者の「自由」は、日本人的な「修行」の類に良く似てゐて、自力本願、自律、といつた事に繋がつて行く。そして、「ほどほどに」しておかないと、ゲーテの言ふやうに病理学的な個所として缺陷が露はれて來兼ねない。その一方で、他力・他律の觀念が無い場合、自力・自律のやり方しか、人は自らを律する事が出來ない。そして、自らを律する、とは道徳的に立派な事である。さて、律すると言つたが、「××すべきである」事について「××し、そこから逸脱しないやうにする」事である。「すべき事をする」のは「道徳的に良い」事であり、「すべき事をしない」のは「道徳的に惡い」事である。そして、「道徳的であらうとしてゐるか否か」の觀點から絶對値的な言ひ方として、「善をなす」のも「惡をなす」のも「道徳的である」事となり、「大善をなす」のも「大惡をなす」のも「道徳的にはい事」である。「道徳的に善い事」には「べき」論が必然的に附帶する。「である」の話は道徳とは無關係である。そして、「道徳的に良い」ではなく「道徳的に善い」と云ふ點で人間の偉大は判定される。正義の議論は「べき」論に屬する。好き嫌ひの議論も、精々この種の正義論に屬する。道徳の議論と正義の議論とは次元が異る。そして、正義の議論のみが日本國では繰返されてゐる。そこで道徳の議論の重要性を強調してゐる。
平成十六年八月三十日
友人が貸してくれた西部邁と小林よしのり『本日の雑談1』を読む。疑問多々だが、家畜病騒ぎ、保育園や幼稚園の民営化、スポーツ重視、負け犬論争、少子化や元癩者宿泊拒否問題、への西部による批判や、華族や側室制度復活案には頷けた
西部の議論は、原文を讀まないで浦島氏の要約を信用して言ふが、制度の議論である。
これに對して、アホで下品で国民のことを何にも考えず、王としての風格もない人物が立太子、そして践祚という事態の問題は、道徳の領域における問題である。
左翼(必ずしも浦島氏に非ず、例へば某高橋氏、しつこいな俺も)は單に「身分制度反對」のイデオロギーに基いて割切る。一方、西部のやうな右翼は、精々制度弄りの話しかしない。某ネット右翼團體・鐵扇會の某初心者會長氏に到つては、天皇がアホで下品で国民のことを何にも考えず、王としての風格もない場合、「そのやうな人格こそが立派な人格である、なぜなら天皇は絶對に正しいからだ」と言張り兼ねない。と言ふか、そんな風な事を初心者氏は昔、確かに言つた。
が、右にしても左にしても、道徳の議論だけはしないのであつて、それでは困る、と申し上げてゐるのであります。
平成十六年八月三十日
http://d.hatena.ne.jp/KyaTanaka/20040825
おねてぃ、こっぱずかしくて見るのに疲れます(笑)
おねてぃについては昔某高橋氏と言爭つた記憶が微かにあるけれども、まあ、一言で言へばこれが問題だつたのだと。
おね2の方は一貫して微妙な緊張感が續いてゐるのに對して、おねてぃの前半は微妙に弛れてゐる。と今になつて書いても何うかと思ふのだが一往。
平成十六年八月三十日
默々とはてなを漁る。
そんなに評判惡くないなDearS。
一部にファフナー面白いと云ふ聲あり。マジか。(落ち着け

平成十六年八月二十九日
DearS終つた。
引續きシノブ伝。
平成十六年八月二十九日
シノブ伝終つた。
氣象情報のテロップが入つた特殊ヴァージョンとして永久保存。及び後日、ノンテロップ版をキッズステーションで録畫する事が決定。

平成十六年八月二十八日
「義」による嫌がらせ掲示板出現。
http://pub3.bravenet.com/guestbook/189178973
平成十六年八月二十八日
「義」出現。
http://www.geocities.co.jp/NeverLand/1278/geobook.html
平成十六年八月二十八日
「義」は現在、木村氏とkanchan氏の名前を騙つて嫌がらせをはじめてゐる。明かに名譽毀損であり犯罪行爲である。
株式会社インターメディア
帝国データバンク倒産情報2004/08/27(金) DVDディスク製造 株式会社インターメディア 民事再生法を申請 負債37億円
平成十六年八月二十八日
波江が「こちやこちや煩い事を言ふとまたネタにしてやるぞギコハハハ」(意譯)と言つてゐる。
こちらも、波江が「四の五の言はず」と言つたり掲示板にマルチポストをしたりと非論理的な主張や主張の仕方を續けてしてゐるから、批判し續けてゐるに過ぎない。
波江には反省していただきたい。原因は全て波江の間違つた言動にあるからである。波江が間違つてゐる理由は何度も指摘してゐる。私は根據ナシに波江を誹謗して等ゐない。寧ろ、「四の五の言はずに」と言ひ、「俺に反論するな。反論すればまた罵倒の歌を作り、宣傳して廻つてやるぞ」と脅迫してゐる波江の方こそ、根據ナシに野嵜を誹謗してゐると言へる。
平成十六年八月二十八日
はじめに。(「web投げ銭」)
web拍手CGI公式サイト
貶すのは簡單だが襃めるのは大變、と云ふのがウェブの世界。
平成十六年八月二十八日
例の自稱予備校生(19歳)「あずマリア様が見ている」が參戰。
http://www.geocities.co.jp/NeverLand/1278/geobook.html
「義」が騙つてゐるのか何うかは不明。しかし、餘程野嵜の事を「煽り屋」に仕立て上げたいやうだ。
追記。20.145.215.24=actkyo124024.adsl.ppp.infoweb.ne.jpだから、ここで「あずマリア」を名乘つてゐるのは「義」本人。
平成十六年八月二十八日
アレクセイの盜人猛々しい發言を發見。
ところが、当初その「偽者」容疑者本人からの応答が無かったことため、私は『がんばれ公明』の管理人JIRO氏に対し、いつもどおりの遠慮のない正論で「リモートホストすら確認できない、こんな、なりすましや一人数役が容易に可能となる掲示板を、政党関連のサイトが使うのは好ましくない。取り替えたらどうです」と要求したのだが、これがスッキリしない理由で断られたあたりから、話が大きくなってしまった。つまり、私はこの管理人氏とこのサイト自体に、うさん臭さを感じはじめ、そちらの問題にのめり込んでいったのである。
リモートホストが確認できるにもかかはらず、BBS『アレクセイの花園』で沖泰光は「アレクセイ」「ホランド」「ナイルズ」等の一人數役を平氣で演じてゐるではないか。こんな、なりすましや一人数役が容易に可能となる掲示板を、政党関連のサイトが使うのは好ましくない。とは、良くもぬけぬけと言へたものだ。一人數役を批判したければ、自分が先づ止める事だ。それを「遊び」だと言張り、しかもその「遊び」の「ホランド」の名前で、木村氏を叩いたのは誰だ。
かう云ふ二枚舌を使ふアレクセイを批判したところ、アレクセイは「掲示板荒し」呼ばはりをして、野嵜を社會的に抹殺しようとしたのである。このアレクセイが「義」を擁護し、「義」に野嵜を誹謗中傷させ、プライヴァシー侵害をさせる爲の掲示板を提供した事實は、忘れてはならない。
ちなみに、「花園」でアレクセイは現在、事前檢閲をしてゐる。檢閲される事を承知で私信の積りであれこれ書くと、またアレクセイは「荒された!」と大騷ぎするので御用心。當方はその手でアレクセイに騙し討ちを喰つた。
竹下義朗が、そのアレクセイの尻馬に乘つて、アレクセイの誹謗中傷の文書を自分のサイトに轉載してゐる。犯罪者は繋がつてゐるのである。
ちなみにアレクセイがようこそ小樽文學舎への掲示板で、媚る發言をして、管理人だの館長だのを喜ばせてゐる。(2004-03-31〜)アレクセイ氏は何とも世渡りが巧い人である。
これも、かつて「占拠学生」に研究室の文献を全部持ちだされるという意味不明の嫌がらせを受けた亀井氏が、「文庫本1冊でも研究はできることを示すいい機会だ」と〈開き直った〉というような話が、じわりと効いているのです。
このタマガワ氏の發言の後、アレクセイは投稿してゐない。多分、因果關係はない。あればまだアレクセイには希望が持てる。その場合、アレクセイは耻を知つてゐる事になるからである。
「義」やアレクセイ等がどれほど嫌がらせをしても、當方は屈する積りはない。

平成十六年八月二十七日
例へば野嵜は「教育勅語は素晴らしい道徳であり、國民はすべからく之を守らなければならない」などと云ふ右翼的で國粹的な事を信じてゐない。
そもそも、相對主義にしろ徳目にしろ、絶對的なものを野嵜は信じてゐない。
平成十六年八月二十七日
削除しました。
平成十六年八月二十七日
平和論爭の時に、蔭では「賛成だ」と言つて呉れる人がゐたけれども、新聞・雜誌の紙面で公然と擁護して呉れた人はゐなかつた、と、のちに福田恆存氏は述懷したさうである。
福田氏を公然と擁護しなかつた人々は、本當に福田氏に贊成してゐたのだらうか。
平成十六年八月二十七日
正假名遣を使つてゐる人が「現代仮名遣」を讀めない事はないし、その逆も無い。正字體を用ゐてゐる人が略字體を讀めない事はあり得るし、その逆もあり得る。讀めないのは、字體の問題に過ぎない。そして私は、字體に關しては妥協し得ると言つてゐる。
平成十六年八月二十七日
本日の買物。
を例によつて並べ立てておかうかと思つたが、ろくな本がないので略。
鈴木信太郎『虚の焦點』(一九七〇年七月二十五日發行・中央大學出版部)の序文で渡辺一夫が書いてゐる。

戦後の日本語があらゆる意味で紊れ切り、その血肉が稀薄になってゆくことを慨いて居られた(鈴木信太郎)先生は、御自身の文章が新假名に変へられて印刷されることを嫌悪して居られた。先生は、漢字制限にも大反対であり、むつかしい語法や微妙な差異のある漢字を調べることは、人間の精神を陶冶すると主張して居られた。これは先生として当然なお考へだし、私も、これに心から賛同してゐる。

著者が亡くなつた後に出版されたもので、著者本人に據る校正が不可能であつた爲、表記は初出紙・誌のそれに從つてゐる。因つて、本書では字體と假名遣が統一されてゐない。
渡辺氏は序文で以下のやうに書いてゐる。

本書は、先生が比較的近年発表された隨筆を集めたものであるが、若干の文章は、新假名になってゐるし、先生が折角選ばれた筈の漢字が平假名に変へられてゐる小品も二つ三つある。これは、発表された雑誌或は新聞の独断的方針によるものと思ふが、先生はさぞかし不快に感ぜられたことだらう。出版部の方々も先生の潔癖さを知って居られたので、御遺族の方々とも、字句の統一について相談されたが、発表されたまゝの形で本書にまとめ、改変の事実をむしろ明示することになったと承ってゐる。

平成十六年八月二十七日
波江究一が「俺は文化のためにスパム行爲を働いてゐるのだ」と威張つてゐた。馬鹿かと思ふ。手段が間違つてゐれば、目的を何と言はうが、駄目である。
そもそも、波江の言ふ「字数歌」はただの「言葉遊び」であり、文化と何の關係も無い。「いろは四十八文字=韻律」説に到つては、波江の獨斷であり、根據が無い口から出任せである。さう云ふ出たら目なものを問答無用で押附ける波江の行爲は、正義のないスパム行爲である。
しかし、波江には自分の獨斷が侵すべからざる正義に見えてゐる。頭を使はないから、波江は自分の論理の飛躍に氣附かない。そして、批判されるとキレて批判者の中傷を始める。
スパムで無差別テロ紛ひに書込み捲つてゐると、たまに馬鹿が釣れる。さう云ふ馬鹿が勘違ひして「波江先生」等と呼ぶ事がある。それを何度か經驗してゐるので、波江は自惚れて、思ひ上がつてしまつてゐる。年寄が浮れるのくらゐ、困つた事も無い。波江は、馬鹿に御追從を言はれて氣分が良いところで頭ごなしに言はれて頭に來てゐるのかも知れないが、反對者・批判者の論理的な批判にも耳を貸すべきである。根據のない誹謗中傷と極附けて、片附けようとするのは止し玉へ。
根據を擧げて主張してゐる人間に、問答無用で「默れ」とやるのは誹謗中傷だが、根據がない事を言つてゐる人間に「あんたの主張には根據が無い」と云ふ指摘をするのは誹謗中傷でない。
根據がない事を言つてゐるのは波江自身である。
いろは 伊呂波 IROHA
俺のサイトのそれを盜んだやうなタイトルだがそれは良いとして、URL(http://blue.ap.teacup.com/roha/)が、irohaでなくrohaになつてゐるのが氣になる。
と言ふか、掲示板でスパム行爲をやつたり、「字数歌」などと下らない事を言つたりする波江のやうな人間がゐるから、正字正かな派が馬鹿にされるのである。
http://blue.ap.teacup.com/applet/roha/msgcate8/archiveの内容を、またぞろ波江はコピー&ペーストで各地の掲示板にマルチポストし始めてゐる。好い加減にしろよ。
no1boy
「波江先生」大威張り。
平成十六年八月二十七日
IE叩きのキャンペーンサイトが出現--ブラウザの乗り換えを訴える - CNET Japan
Internet Explorerは、そんなに非道いブラウザだとは思はないが、俺の常用ブラウザはOpera。

平成十六年八月二十六日
おとうさんの人のプリキュア視聽率が結構高い事。
なほ、重要な事實であるので指摘しておくが、野嵜は最近プリキュアに追從出來てゐない。時期は「闇黒日記」にプリキュアの事を書かなくなつた頃から。
あと、野嵜は仮面ライダーが嫌ひである。昔のも平成の御代のも一度として觀てゐない。これも重要な事實である。何が重要なのかは全然解らないが事實であるのだから仕方がない。
平成十六年八月二十六日
山陽堂書店、篠村書店、日本特価書籍が、假店舗から正式店舗に移轉、營業を開始してゐる。今まで書いてゐなかつたが、月曜日に既に氣附いてゐた事實である。とにかく事實なのだから仕方がない。多分先週中に引越をしたのである。先週は夏休みで神保町を見てゐないから詳細は不明。バーチャルネット無職にも夏休みがあると言ふのは不思議なやうだが事實なのだから云々。
平成十六年八月二十六日
鉄道ジャーナルに據ると鉄道友の会の會員が減少中である。特に二十歳臺。若い世代が色々な面で「傳統」と無縁となりつゝある。原因は色々と推測されてゐるが、はつきりした事は不明。
平成十六年八月二十六日
二十四日附けで書いたWindowsの話。Product IDを見るとOEM版なので、さう云ふものだつた。と云ふ事は、無印WindowsXPが一本、未使用状態でうちの何處かに轉がつてゐる。
冷靜に思ひ出してみると、諸事情に據りPCの臺數以上にWindowsのライセンスを持つてゐたりする。勿體ない話。Win-OS/2も一本、英語版Windows 3.1も一本、と勘定したりすると、さらに増える。
平成十六年八月二十六日
Another HTML-lint gateway
とても今更な話だが。
URL/DATAの入力欄の右側に「クリア」ボタンがある、と云ふ構成は、アクセシビリティ的に如何なものかと思ふ。
てつぺんに「チェック」ボタンと「リセット」ボタンが並んでゐる、と云ふのも、或意味何うかと思ふのだが。「リセット」ボタンは必要か。
Another HTML-Lintの畫面キャプチャ
平成十六年八月二十六日
http://cgi.din.or.jp/~kaya-z/cgi-bin/diary/
何このinvalidなHTML文書を平然と公開してゐるサイト。titleが無い。見出しの積りで表組。brの嵐。云々。惡いのはHyper NIKKI System Projectの「ハイパー日記システム」の吐く文書なのだらうが。h14m.org 公式日記を見ると、微妙にHTML文書の書式が違ふ。
ちなみに「内容についてガタガタ言う」積りはない。ただ、一點だけ極めて重大な問題に觸れるが、みか先生は俺の嫁なので勝手に取らないやうに。
http://sakura.s3p.net/sap/now.htmlhttp://d.hatena.ne.jp/magisystem/20040822#p2經由。
平成十六年八月二十六日
表音主義の人からすれば言葉は記號だから、「正字正かな」だつて記號に過ぎない筈。「何が『正しい』だ、傲慢だ、許さん!」等と言つて怒り出すのは、表意主義になつてしまふ。もし表意主義の立場を取るのならば、正字正かなを支持すれば良いだけであり、わざわざ表音主義の「現代仮名遣」と「常用漢字」とを支持しなくても良い筈。
平成十六年八月二十六日
「自分の考へは正しい」と主張する人を、「『自分の考へは正しい』と言つてゐる」と云ふだけの理由で「傲慢だ」と言つて非難するのは不當。そのやうな理由で他人を「傲慢だ」と非難出來るのならば、その人は「『傲慢だ』と言つてゐる」と云ふ理由で「傲慢だ」と非難されなければならない。

平成十六年八月二十四日
OSが足りないので、Plamo Linuxの本と、Vine Linux/SUSE LINUXを收録したCD-ROM附きのLinux WORLDを買つて來たよ。
で、取敢ず電源を入れてみたらWindowsXPが起動したよ。HDDにWindowsXPを入れたまゝだつたのを忘れてゐたよ。Windowsが起動しなくなつたのでシステムHDDとしての使用を止めて、データ保存用HDDとして餘生を送らせてゐたのを今囘、再利用しようとして、そこでどつこい生きてゐた事實が發覺した訣だ。ええと讀者の諸氏は良くわからんかも知れないが俺は解つてゐるので問題ない。Linuxは要らなかつたと云ふ結論。
ライセンス的には大丈夫なので御安心を。パッケージが部屋の何處かに埋もれて出て來ないが探せば出て來る筈だから問題ない。現在のメインPC「無名戰士二號(推測)」くんには、これとは別の、SP1適用後のパッケージのWindowsXPを使用してゐる。今囘、生きてゐた事が判明したHDDに埋もれてゐたのは、初期のWindowsXP(但しWindowsUpdate濟)で、別物。一つのパッケージのWindowsを二臺で使つてゐる訣ではない。
それにしても、がんがんドライヴァを組込みながら起動したXPの逞しい姿には感動した。マザーボードが新しくなつてゐるがヴィデオボードは昔の奴で、恐ろしくアンバランスな構成だが、動作檢證の積りで好い加減に組んだのだから仕方がない。ファイルシステムがを變になつてゐてscandiskを三、四囘かけたけれども何となくあやしい邊が不安材料。樣子を見てこのまま使ひ續けるか組み直すかその他の何かをするかは決める積り。
平成十六年八月二十四日
うちで生きてゐるPCいちらん。
EPSON PC-286。MS-DOS 3.1。
Gateway2000 4DX2-66V。通稱牛。Windows95。
IBM Aptivaの古い奴。WindowsME。
無名戰士二號(推測)くん。WindowsXP。
IBM ThinkCentre。WindowsXP。
PanasonicのノートPC。WindowsXP。
貰ひ物の謎PCのマザーとHDD+無名戰士一號くんの筐體。Windows98。
今囘組んだ新品マザー+古ATi+貰ひ物の謎PCの筐體。WindowsSP。
あと、マザーボードが二、三枚ある。イーサのボードも三枚餘つてゐる。
ネックはモニタが足らない事と物を置く場所が最うない事だ。牛くんと古Aptivaくんと謎PCの中身くんと今囘組んだ「」くんとはモニタの配線を繋ぎ替へて使ふしかない。メインの無名戰士二號(推測)君と、ThinkCentreとはモニタ切替機で切替へて使つてゐる。
平成十六年八月二十四日
ちなみに、昔懷かしDeskJet505Jなんてものまで生きてゐたりする。牛にはそのうちPC DOS 2000+Windows3.1(若しくは英語DOS+英語Windows 3.1)を入れて、古の世界を再現させてみようかと思つたり思はなかつたり。ネットワーク接續が何うにかなれば案外それなりの世界が出來上がつてしまひさうな氣がする。

平成十六年八月二十三日
北村さんのつつこみにより訂正。毎度どうもです。
平成十六年八月二十三日
今更だがHTML 4.01 Specificationの飜譯をしてみようかと思つてゐるのだけれども、W3Cへの報告がめどいです。
平成十六年八月二十三日
まさか本當に虹裏で夏休みが潰れるとは思はなかつた。
寢ます。
と言ふか、何で集英社版のシェイクスピアが見附からないんだよ。
平成十六年八月二十三日
結局見附からないので、電車内での讀書用に重いのを承知で福田恆存飜譯全集を持つて行く事に決定。本當に寢ます。半日體内時計がずれてゐるので眠れないのだつて百も承知。云々。

平成十六年八月二十二日
例によつてDearSを觀たりシノブ伝を觀たり。
ほぼリアルタイムで追從してゐるのはほかに天上天下のみ。
平成十六年八月二十二日
キッズステーションのエヴァンゲリオンを觀ながらPCを組立ててゐたら訣がわからなくなつた上、使へるOSの類が見當らないので續劇。
平成十六年八月二十二日
數値文字參照メモ

平成十六年八月二十一日
とても久々にlainのふぁんさいとの記事を加筆・修正・追加。

平成十六年八月二十日
東芝キヤリア(株)|当社製品をご利用のお客様へ重要なお知らせ|東芝製 ルームエアコン ご愛用のお客様へ
平成十六年八月二十日
ピュアP2Pソフトに著作権侵害の責任なし〜米控訴審判決
平成十六年八月二十日
隨分前の記事なのだけれども。
AppleがRealNetworksのDRM変換技術「Harmony」を非難する声明を発表
嘗てビッグブルーの支配を諷し、管理社會を批判する、「1984」ばりのCMを打つたにもかかはらず、互換機を潰し、デジタルコンテンツの分野では「デジタル著作権の管理」を標榜して、ユーザの管理・圍ひこみを行ひつゝあるAppleを、どうして信用出來ると云ふのだらう。
平成十六年八月二十日
プラグイン特許紛争--米特許商標庁がマイクロソフトを再び支持 - CNET Japan
「ウェブ」と云ふ文言が入つてゐるから話がややこしくなつてゐるだけで、データの埋め込みそのものは結構古いアイデア。
平成十六年八月二十日
J・B・ハリス氏死去。87歳。
J・B・ハリス『ぼくは日本兵だった』(旺文社)

平成十六年八月十九日
君が代は良い。心が洗はれる。北島2冠。
平成十六年八月十九日
體操・男子個人綜合。アメリカ大逆轉。韓國の仲良し二人組、がつくり。

平成十六年八月十八日
林健太郎氏死去。九十一歳。

平成十六年八月十七日
赤十字はまずいんじゃないですか? - 査察報告書
平成十六年八月十七日
戰爭が始つたら、新聞のスポーツ面(或はスポーツ新聞)の記者が大活躍するのではないか。國威發揚だとか戰意昂揚だとかの煽り文句を日頃、書き馴れてゐるのは、さう云ふ記者だと思ふ。

平成十六年八月十六日

もし事實を説明できない場合があれば、事實の方がこの體系(野嵜註:人類愛と憎惡、正義感とルサンチマン――この相矛盾する人間の根本感情を綜合した體系:ソ聯のイデオロギー)に順應させられる。カルチエ氏があげた例にも、ソ聯人は西獨でいいたてる東獨からの難民の數は嘘だということにしている。この體系はつねにいう――「かくあるはずである。故にかくある。もしそうでない事實があるなら、それは非科學的であるから、事實の方がまちがっている」

それでも否定することのできない事實は、言葉と論理によつてこの體系にあてはまりうるようにとその性格がつくりかえられる。

たとえば、「共存は、資本主義對社會主義の階級鬪爭の一形態である」。すなわち、平和は戰いである。人間は、謎のような言葉には深い意味がある、と思いこむ。

ふしぎなことには、この體系を確信している人にむかつて、その事實との矛盾を指摘すると、その人は非常な激昂を呈す。それは自分の實存を汚された者の憤怒である。

思想の近代化は、世界の事實をありのままに直視して、客觀的事實を知ろうとした。事實の本質的な形相をつかんで、そこに潛んでいる法則をさぐろうとした。それが近代の進歩だつた。しかるにここのイデオロギーによつては、すべては規定の體系にあてはめて判斷される。存在函の觀念の投影の下に見られる。人々は、理論の中から存在しない状態をひきだし、それを現實であるとしている。

いまだ證明されていない獨斷を前提し、ここから世界をそれに合せて解釋してゆく「上からの演繹」は、もともとマルキシズムがきびしく排撃したものだつた。エンゲルスは説いている。「原理は研究の出發點ではなくて、それの最後の成果である。原理はそれを自然と歴史に適用すべきものではなくて、むしろそこから抽象されるものである。自然と人間界が原理にのつとるのではなくて、原理は、それが自然と歴史に一致するかぎりにおいて、正しい。これが事態の唯一の唯物論的な理解であつて、デューリング氏のこれと反對な理解は觀念的である。それはまつたく事態をさかだちさせるものであつて、現實の世界を思想から、すなわち世界のできる前からどこかに永遠の昔から存在している圖式なり範疇なりから構成するわけである。これでは――ヘーゲルなどとまつたく同じだ」

ここまではまことに正しかつた。しかるに、精神の代りに物質というやはり抽象觀念を代入して論理的演繹をしたために、結果はやはり同じようなことになつてしまつた。もともとは觀念を排して實證を――とてはじまつたのだつたが、いまでは觀念左翼といわれるようになつた。

このエンゲルスのいましめにもかかわらず、ある先驗的圖式にあてはめてリアリティを解釋する行き方はしきりに行なわれている。われわれの周圍でも、それが極端なまでに行なわれている。

多く讀まれた「昭和史」は、コミンテルンのテーゼによつて書かれた、と説明されている。

しかし、二七テーゼは昭和二年、すなわちあの動亂がはじまる前である。三二テーゼは昭和七年、すなわち五・一五事件の年で、あの波瀾がはじまつたときである。歴史はその後に複雜な展開をした。

つまり、自分が經驗した年月の歴史を、その事實に即して反省するよりも、むしろその歴史がはじまるかはじまらないかのときに他國で發せられたテーゼにしたがつて判斷している。このテーゼの規定こそは「世界のできる前からどこかに永遠の昔から存在している圖式なり範疇」であつて、歴史家はこれに即して歴史を構成した。これこそはまさに「先驗的な方法」であり、實證ではなくて、いまだ證明されていない獨斷によつて「上からの演繹」をしたのである。これはエンゲルスのいましめに背いている。だから世界がさかだちしている。

まず獨斷を前提して、それにのつとつて演繹をすすめてゆくと、しまいには幻覺に逹する。

幻覺が――實證の名において――しきりに説かれている。

現代に於ては、さらに一歩進んで、幻覺を見てゐる側が、現實を見てゐる他人を罵つて、意識的に「幻覺を見てゐる」呼ばはりする戰術が廣まつてゐる。
ただ、きちんとした根據の提示がない事、或は、歪められた根據が提示されてゐる事で、その罵倒が幻覺を見てゐる側のものか現實を見てゐる者のものかは判斷可能である。屡々、話と全然關係のない論據を理由に相手を罵倒して論破した氣になつてゐる人間や、自分の勝手な定義に基いて相手の文章を曲解して自分に都合の良い結論を出してゐる人間がゐる。また、わざと相手を激昂させて信用を落させる爲に、自分は餘裕があるかのやうに裝ふ人間がゐる。さう云ふ連中は、しかし現實から目を逸らして「幻覺」を信じ、現實を見てゐる敵を感情的に罵倒してゐるのである。
ところでこの「現實」と云ふ用語を、再び曲解して、誹謗の論據に用ゐる人間がゐる。「ありのまま」の意味の「現實」を、「生活」の意味の「現實」に故意に取違へて、イデオロギー的に非難を開始する――このやうな人間に限つて聲が大きく、しかも世間の人間は大聲の人間を信用するのである。始末におへない。

平成十六年八月十五日
さて、我が日本軍が負けた日であるにもかかはらず、負けて嬉しい日本人によつて「終戦記念日」と呼ばれてゐる日がまたやつてきた訣だが。
日本人は、西歐思想に抵抗して國粹主義と皇國史觀に基いて軍國主義を作り上げ、にもかかはらず西歐の武器で戰はざるを得なかつた訣だが。
――。
日本人は、色々な意味で、自分逹が敗北した事を認めるべきではないか。
平成十六年八月十五日
DearSのおねえさん、掟と面子とのディレンマで面子を取る。缺陷品を人の目に晒すのは、コミュニティの耻なのだと。
平成十六年八月十五日
新暦ではあるが、世間的には御盆なので、信仰について書く。
人は、自分が單に生れて育つて稼いで遊んで死んで行くだけの存在ではないと思ふのならば、永遠の一部であると云ふ信仰を持つ事になる。そのやうに考へるのでないのならば、その人は自己の存在は刹那的なものだと考へるのであり、自己の存在を主張しながらそれを達成し得ずに敗北者としての意識を持ちながら死んで行くか、飽くまで快樂を追求して自己の存在から目を背け續けるか、のどちらかの途を擇ぶしかない。
人が、自らのみならず、人一般の永遠を信ずるならば、自らのみならず、死者の永遠をも信ぜざるを得ない。その時、死者が生前に信じた正義、死者が生前に從つた流儀は、當然の如く、永遠に連なるものである。ならば、死者の正義や流儀を、永遠に連なるものとして、永遠を信ずる生者は受容れざるを得ない。ここに、「傳統の保守」と云ふ態度が生ずる。そして、保守の態度は信仰に基く。
死者が死んだ事もまた事實であり、死者を肯定するのならば、死者の死もまた肯定すべきものである。永遠に連なるものとして、死そのものもまた生の一部として受容れるべきであると、保守の立場は認める。保守の立場は、現實肯定の立場であり、同時に現實を越えると看做される死をも肯定する理想主義の立場である。
人の死は嘆くべきものである。しかし、同時に、人は(ただ一人の例外を除いて)皆、死ぬ。これは或種の慰めである。死後の世界があるにしろ無いにしろ、慰めである。死後の世界があるのならば人は死者と再會するだらうし、ないのならば人は永遠に嘆かずに濟むからである。
さて、マルクシズムに據れば「宗教は阿片である」。阿片として信仰・宗教が極めて強い力を持つのは、生と死の永遠の事實に或種の囘答を與へ、それが慰撫を齎すからである。合理主義と現實至上主義、そして快樂主義は、不合理の極みであり非現實の世界に屬し快樂との斷絶を意味する死を何うにも出來ない。それらが罵り續けても、信仰と宗教とがなくならないのには、信仰と宗教とに人の永遠の懸念が反映してゐるからであり、死への恐怖・生の喪失を心理的に合理化する效力を備へてゐる爲である。
が、近代において、我々は、科學的な合理性による心理的な合理化の相對化を進めてしまつてゐる。近代的な人間は、最早、信仰の世界に留まる事は出來ない。かといつて信仰の世界を排除しようとしても、し切れないのが現實である。
しかし、信仰と、信仰の拒絶との葛藤は、例へば、早くパスカルの時代に存在した。パスカルが「損をする事のない賭け」としてキリスト教の信仰を奬めた事は、思想史の知識を持つものは知つてゐる。だが我々日本人が、キリスト教の信仰を持つ事は必ずしも可能ではなく――そもそも、賭けとしての信仰なるものを認める文化を、我々日本人は持たない。賭事に何らかの神秘性を感ずる文化が西歐にある事は、今すぐには詳しく論證出來ないが、ドストエフスキーの小説でも眞面目に採上げられてゐる事、確率の學問が成立した事等から、日本人は想像して良い。にもかかはらず、それを事實として認識出來ないのは、日本人が賭事をアンダーグラウンドに屬するものと看做す文化に屬してゐるからである。彼我には文化の差異があり、我々は我々の信仰しか、我々のものとして身近に感ずる事は出來ない。
キリスト教の教義が如何に強靱であつても、我々日本人には、御盆になると先祖や近親の靈が家に歸つて來る、と云ふ、餘りにも嘘臭い信仰の方が、寧ろ心理的には納得出來る信仰である。そして、キリスト教でなくとも、この我々の信仰は、信じて損をするものではないのである。靈の供養などの名目で金を卷上げる新興宗教はあるが、信者は當座、心理的には幸福である。騙されたと感じた時に、はじめて元信者は損をしたと云ふ意識を持つ。そして、我々は必ずしも、新興宗教の商業主義を持つ必要はないのである。福田恆存は、「信じてゐる」と述べたが、何を信じてゐるかは言はなかつたし、それが何かを具體的に述べる事を否定した。御利益が保障されない信仰で十分である。ただ、パスカルに倣つて「賭け」として信仰を受容れて良いのである。「何かに利用される」事を嫌つて信仰のやうな非合理的なものを全て排斥しようとするのが現代の風調だが、利用されない爲に或種の信仰形態を信じないやう努める一方で、何かを信じてゐても一向、構はない筈である。そして、そのやうなもののみを、私は推奬するだけである。それを或種の主義に利用しようとするものと極附け、否定して見せるのは、例へば「天皇主義」のレッテルを貼つた高橋氏のやうに、否定する事で利益を得ようとする或種のイデオロギーが背景にある。
私は、理想主義と、理想を求める人間性を肯定する現實主義とを肯定し、理想も人間性も無視した利益主義・便宜主義を超えるべき事を主張する者である。
御盆であり、敗戰の日であるので書いた。
平成十六年八月十五日
さて、また「義」が暴れ始めてゐるので、打たれ弱い野嵜はろりこん小説を書く氣力も無くして欝になつて自殺でもするかも知れません。さう云ふ訣で、サイトの更新がとまつたら、さうだと思つて下さい。サイトが無くなつたら「義」のせゐです。
「義」がうちのサイトの文章を轉載し捲るから、うちのサイトなんて最う、存在意義が無いのですよ。私がわざわざサイトを作らないでも、「義」が私の文章を保存して呉れるのですから、「言葉 言葉 言葉」なんてあつても仕方がないのです。
平成十六年八月十五日
嘗て、Yahoo!掲示板では日本たばこ産業社員のFutakoto_Mikoto_Yokotoに附き纏はれて議論が出來なくなつてIDを削除されるに至り、その他の掲示板でもzak_kの嫌がらせを受けて、以來、掲示板で物を言ふのを止めてゐたが、その後またぞろ掲示板に書込むやうになつたら、今度は「義」である。再び野嵜は自分のサイトに引籠らざるを得なくなつた。
平成十六年八月十五日
このやうな形で發言する場を失ふ事があるのである。
平成十六年八月十五日
最近は、「義」やその他の煽り屋のせゐで、掲示板でもろくな發言をしてゐない。
また、はつきり言つて、野嵜が何かを言つても、誰も擁護しようとしないし、野嵜が物を言ふと掲示板が寂れるのである。
大和田の場合、黄氏が積極的に大和田の説の穴を衝いてゐるが、他の誰も大和田を批判しようとしない。
波江も、積極的に批判してゐる人間が全然ゐない。野嵜が執拗に波江を批判してゐる事を褒めてもらつても、仕方がないのである。
Kan-chan氏には大分迷惑を御掛けしてゐる。これからも「義」が荒すだらうが、今後とも對應よろしく。
平成十六年八月十五日
さう云ふ訣で當面、掲示板には顏を出さない事にする。どこの掲示板にも、平等に、名を名乘つて書込む事はやめる事とする。野嵜の名前の書込みがあつたら、それは全て「義」が當方を中傷する目的で名を騙つてゐると見ていただいて構はない。「義」は、野嵜の名を騙つた事が過去にあるので、またやるだらう。
そして、「義」の嫌がらせが續く限り、野嵜は掲示板に書込まない。さう云ふ訣で、掲示板の管理者の方々には、さやうなら。
平成十六年八月十五日
ただし、名前を名乗れない虹裏は例外。
平成十六年八月十五日
取敢ず、掲示板で言爭ひをしたりしなければ、某氏が首を長くして待つてゐるろりこん小説も書けるかも知れないので、期待しないで待つてゐていただきたい。ひよつとしたら「奇魂」に載せて貰ふかも知れないが高坂氏もあきれてゐるかも知れないからわからない。取敢ず野嵜が物を自由に言へる場は現状、自分のサイト以外の何處にもないので、何かを期待してゐる人はうちだけ見てゐていただければOKです。何も期待してゐない人は見ないで良いです。
平成十六年八月十五日
「正字正かな掲示板」は、TeaCupに金を拂つてゐるので、使へる間は存續。

平成十六年八月十四日
昨日、なんで思ひ切り舌を噛んだのか、やつとわかつたよ。昨日は十三日の金曜日だつたんだ。
平成十六年八月十四日
なんかすごい開會式だな。

平成十六年八月十三日
加賀百万石異聞・高山右近
平成十六年八月十三日
玉磨かずとも光有り(3)

平成十六年八月十二日
清水幾太郎『流言蜚語』を淡々と讀み進める。
流言蜚語とは、「A→C」と云ふ報道における報道されない「A→B→C」の「B」を臆測で補つた、異常な報道の一形態と看做される事が多い。
「我々はAを要求する」と云ふ輿論に反對する勢力が、要求する「A'」を直接要求し得ない状況にある時、「A」の結果である「B」、或は「A'」の結果である「B'」を、恰も事實であるかのやうに言ひ做し、報道の形で表現したのが流言蜚語である。「B」或は「B'」と云ふ客觀的な形式をとつてゐるが、實は主觀的な「A'」なる主張を暗示するのが流言蜚語である。
云々。
平成十六年八月十二日
或は、流言蜚語は神話と比較すべきものである。事實であるか否かには關りなく、しかし、信ずる人間を行動に移させる力をいづれも持つてゐる。
平成十六年八月十二日
本書は、昭和二十二年に出た本である。「報道は或特定の效果が生ずるのを豫想して行はれる」と云ふ前提や、體制側の意圖に抵抗しようとしてし切れないでゐるけれども依然として體制側の姿勢に不滿を持つてゐる「聲無き反體制勢力」が「それなりの説得力を持つ流言蜚語」を世間に流布させる原動力であると云ふ筆者の想定は、言論統制等が普通に行はれてゐた當時としては意義があつたのかも知れないが、現在では通用しないものとなつてゐる。手許にあるのは昭和四十四年の第4刷だけれども、その頃にも本書の内容は既に時代遲れとなつてゐただらう。
現在では、報道が政府の管制を脱け出した一方で、民間の政治勢力に據つて利用されてゐる事實が明かになつてゐる。また、官憲の目を氣にしつゝ、街頭で噂話をする必要は無くなつてゐる。ウェブには匿名の掲示板がある。かうした状況で、本書の分析はそのまゝ受容れる訣には行かなくなつてゐる。しかし、自由にものを言へる筈の状況で、「義」のやうに、氣に入らない事を言つてゐる人間の惡い評判をでつち上げて、言觸らす人間はゐるのだし、それを聞いて信じてしまふ某氏のやうな人間もゐるのである。流言蜚語の性質は變つたが、流言蜚語の感情的・主觀的な效力は引續き存在する。本書の分析の方法は、問題へのアプローチ方法として或程度まで參考となる。その一方で、分析したところで問題は依然、解決しない。
平成十六年八月十二日
「日記」でぐぐると「闇黒日記」が七番目に出て來る。某「社長日記」の上。
平成十六年八月十二日
SEO対策ディレクトリ型検索エンジン Su-Jine

平成十六年八月九日
唐突だが、「正しい日本語ってなんだ?」と思ふ人がゐるらしいのである。
言葉は、意思疎通の爲に使ふ道具だが、道具を使ふ人間がそもそも不完全な代物なので、「傳はり易い」「傳はり難い」「完全に傳はらない」の三種類しかない。「完全に傳はらない」場合は、道具として役立たずであつて問題外だが、傳はるにしても完全に傳はる事はあり得ない。發話者・表現者の意圖は、道具としての言葉で表現された時點で既に缺落を生じてをり、受容者の受容の時點でさらに缺落やずれが生ずる。個人個人の意識や感受性は全ての場合に差異がある。符牒としての言葉によるコミュニケートがなされる場合、個人個人のそれぞれ異る意識や認識が、限定された幾つかのパターンに分類され、言はば型にはめられて表現され、それを個別に異る感受性を持つ個人個人が、表現者とは必ずしも一致しないパターン認識の仕方で、受用する。
だから、表現者の意圖が比較的傳はり易いのは、表現過程としての言葉が汎用的である場合に限られる。そして、汎用的な言葉は、何時も變らずに用ゐられてゐる決つた言ひ方である。我々が「正しい言葉」と呼ぶのは、さう云ふ一般性・汎用性のある言葉である。
「正しい言葉等ない」と力説する人がゐる。「正しい言葉って、過去の言葉でしょ? どうして過去の言葉にこだわるのか、わからない」と言ふのである。過去の言葉と言ふが、傳はる言葉は全て過去の言葉である。全く新しい「言葉」なるものは、その言葉の創造者以外には理解出來ないから、言葉としての機能を持たない。「過去の言葉」と云ふ文句は、根據が無いただの罵倒の文句にしかならない。そして、出來るだけ多くの人が比較的理解し易いやうにする爲に、言葉は出來るだけ變へない方が良い。言葉が變化し、言葉の意味が變化すると、その變化についていけない人の數が相對的に増える。變化が少ければ少いほど、認識を共通化する事が容易になる。
現在の人が使つてゐる用法でないのならば「正しい言葉」と言ふのは良くない――なるほど、それはその通りである。しかし、現在でも過去の遣ひ方を知つてゐる人が少くないのならば、「新しい用法」でもつて過去の言葉の用法を否定してしまふのは、それこそ如何なものかと思はれる。「あらた」から「あたらしい」が生じ、それが「正しい」と認められたのは、現在大部分の人がその用法を使つてゐるからだが、これは實際、大部分の人が使つてゐると認めて良い。しかし、その傳(の心算)で、何でもかんでも「現代の日本人は皆こんな言葉の遣ひ方をしているんだ! だから過去の言葉の用法を『正しい日本語』と言ふのは全て間違ひ!」と言つてしまふ人には、それこそ「あんた、何を根據にしてそんな事、言つてゐるんだ?」と批判したい。「全ての現代人がその用語法を正しいと認めて使つてゐるとする根據は何だ?」と。過去の用語法が生きてゐるうちはそれを「正しい」と認めておくべきである。そして、民主主義の多數決で決めるにしても、過半數ではなく、九割九分くらゐが移行しなければ、新しい用語法は「正しい」と認めるべきでない。言葉に關しては、そのくらゐ保守的であつて良い。放つておいても言葉はどんどん變つて行くものだ。特に現代はその傾向が強い。だから、言葉が變らないやうに抵抗してゐないと、どんどんコミュニケーションが困難になる。言葉は、コミュニケーションの道具なのだから、使ひ易い方が良い。使ひ易い言葉は長い間變らないでゐる言葉である。
最近の若い人の「ら拔き言葉」は心地好いと思はれないし、それを「現在大部分の人が使つてゐるし、正しいと認めてゐる」とは誰も主張しないだらう。それなのに、傲慢に「ら拔き言葉を認めよ。これは正しい日本語であるぞ」等と言ふのは何うだかなあ、と思ふ。
――こんな事を深く思ふ時點で最う歳なのかねえ。
さて、某所の文章に反應したのだが、リンクを張ると「人間のクズの野嵜がまた個人に噛みついている」等と「義」に惡口を言つて廻られるので張らない。
平成十六年八月九日
唐突だが、アニメ版「北へ DDD」は斷乎支持する。
平成十六年八月九日
「北へ。〜Diamond Dust Drops〜 (9)」→「serial experiments lain (3)」のコンボは、或意味かなり強力な氣がする。
平成十六年八月九日
昔々、「美」なるものに縋つた芥川龍之介は、プロレタリア文學の連中から散々叩かれて、自殺してしまつた。野嵜は「美」なるものを信じてゐないが、やはり生活が何うの斯うのと言はれて叩かれてゐる。芥川とは根本的に違ふ筈の野嵜は自殺するだらうか。所詮野嵜が書いてゐるのは、「かのやうに」の精神に基いて「Fankee_Jrが原案」の「デカイオー」。
而して、鴎外は「かのやうに」を書きながら、明治天皇崩御の報を聞いて、「興津彌五右衞門の遺書」を執筆し、以後、歴史小説しか書かうとしなかつた。
平成十六年八月九日
さて、世間ではそろそろ御盆休みのやうだが、バーチャルネット無職の野嵜に夏休みはまだ來ないらしい。と云ふ訣で、現在朝の四時四十五分だが、そろそろ寢る。「」たちも早く寢なさい。
平成十六年八月九日
本日の買物。
ヒンチリフ『不条理』研究社
カミュ『太陽の讃歌 カミュの手帖1』『反抗の論理 カミュの手帖2』新潮社
寺田透『表現の思想』現代思潮社

平成十六年八月八日
先日行つた秋葉原で、すごい、慘事が起きてゐた模樣。マイペース!マイペース!の8月8日(日)に、カレイドスタープロモーションDVD配布で秋葉原驛前大混亂關係のリンク集があつて、樣子が何となくわかる。
スタッフがいろいろ叩かれてゐるけれども、これで本氣でカレイドスターを見限るファンはゐないだらうなー。個人的にはあの作品、特に高く評價してゐないのだけれども。所詮平和主義だし。
平成十六年八月八日
「義」の嫌がらせが續く限り、小説の類は書けません。のあたんのろりこん小説を讀みたい人は「義」を何とかしてください。ストーリーを作るのがどれだけ精神的に疲れるものであるか云々。何しろ俺は打たれ弱いのだ。
平成十六年八月八日
GIRLSブラボーfirst season
女の子が部屋を散らかし放題にしてゐるシーンを見て、視聽を繼續する氣がなくなつたのだが、番組に寄せられたメッセージを讀むと何だかとても面白さうな雰圍氣ですね。
平成十六年八月八日
『先輩とぼく』『我が家のお稲荷さま。』がダブつてゐる事が發覺。誰か引取つて呉れる人希望。手渡しのみ。

平成十六年八月七日
社会思想社編『生と死の思索』(教養文庫)を二册同時に買つてゐたよまあ良くある事だorz。

平成十六年八月六日
パンドラの箱からはありとある災厄が飛び出した。蓋を閉めると、希望だけが殘つた。
――ここまでは知られた話である。しかし、この「希望」こそが、最後で最大の災厄とされてゐた事は、案外知られてゐない。希望が完全にはばら撒かれなかつたおかげで、人間は生延びる事が出來たのださうである。
平成十六年八月六日
今月の電撃文庫が売ってるらしいので神保町まで自転車飛ばしてみた。
今月の電撃文庫何を売ってるのか、小一時間問詰めたい氣分。
平成十六年八月六日
金曜日。
竹山道雄『まぼろしと眞實 私のソビエト見聞記』新潮社
ソ聯が崩潰して共産主義の文獻と共に共産主義批判の文獻までもがもろともに古びると云ふ事態が生じ、結果として今では逆に左翼が大威張り出來る状況が出來してゐる。しかし、それだからこそ、例の中国人の反日的な言動が目立つ昨今、共産主義が元氣だつた頃の文獻が讀まれて良いと思ふ。ソ聯と對立してゐたとは言へ、中華人民共和国は現在も共産主義の国なのである。共産主義の國の熱心な共産主義者にとつて、敵は、内政的には過去であり、對外的には諸外國である。ソ聯時代、歴史博物館は、かつての帝國時代の國内が如何にも暗かつたかのやうに示しながら、その外交に於てはきらびやかな榮光があつたかのやうに表現してゐたと言ふ。
『折口信夫全集 第二十七卷 評論篇1』中央公論社
月報に、新カナ使いの主張者である高倉テル氏に大いに共鳴をしていた片柳忠男氏による「私は叱られた」と云ふ短文が載つてゐる。戰時中に設置された片柳氏らの所屬する團體の宣傳用語委員會の話である。對外宣傳の爲に日本語を簡單にしようと云ふ意圖で宣傳用語委員會が作られ、委員長に折口氏が選ばれた。その後、委員會が開かれ、多くの問題が檢討された。或時、横書を左から右に統一すべきだと云ふ結論を早く出せと片柳氏が頑張つた處、折口氏が怒つて片柳君、君はカンが強いぞ。カンの強さだけでは國語の改良は出來ないのだと怒鳴つたのだと云ふ。その後、折口氏は片柳君の意見を受入れます。横書の場合はやはり英語のように書かれる方がよろしい。それは、第一手がよごれずにすみますと述べた。
中央公論社の折口全集は、正字正かなで印刷されてゐるが、折口氏は國字改良論者であつた。折口氏の國語表記についての意見は他の卷に入つてゐる文章で知る事が出來る。
その他、教養文庫を19册購入。

平成十六年八月五日
きだみのる『道徳を否む者』(新潮社・一時間文庫)讀了。
本書はきだの自傳的な小説である。鹿兒島で生れ、南洋・臺灣で育ち、東京で親類縁者と不和に陷り、フランス人紳士の下で青春期を送り、人格を作り上げた「山村愼一」の手記の形式を採る。
「山村」の述懷に據れば、彼は、日本的な生き方に反撥を覺える一方で、はじめに育つた鹿兒島の質實剛健で硬派に過ぎる風土に精神を支配された生き方をしてゐる。
フランス人の「彼」J・C氏はJoseph Cotte、「高等佛語」A…F…はアテネ・フランセである。

日本を愛するには、日本人的な生活をしない方が好いというのは殘念なことだよ。

あるとき少年は何かの話のとき答えた。

――それは嘘です。

すると彼は急に顏色を變えた。

――それなら私、嘘つきですか。

少年にはこの激怒の理由が解らなかつた。

――何故そんなに怒るのですか。

――それはあなたが私を侮辱したからです。私を嘘つきと云つて。

少年は當惑して云つた。

――それなら眞實でないときどう云つたらよいのですか。

――それは眞實でないだろうという方が好いね。

――それは私には同じことのように思われます。

――違います。嘘つきというのは侮辱です。眞實でないというのは侮辱でないね。

少年は表現の技術の問題に觸れたのだ。

何處までが小説で何處までが事實であるかは知らない。何箇所か、印象的な場面がある。
平成十六年八月五日
秀まるおのホームページ−ソフトウェア−Hidemarnet Explorer
平成十六年八月五日
HTML MANIAX
iNTERNET magazine+ -究極のホームページ裏ワザ入門 HTML MANIAX-
かずぼんのホームページ / Kazubon's Homepage
本屋で『HTML MANIAX』を眺めたけれども、割と良い感じだつた。装釘はあやしいが。
平成十六年八月五日
せんせいのお時間はあずまんが大王よりも寧ろ吾妻ひでおの漫畫に近い。

平成十六年八月四日
日本人が同じ日本人を平氣で罵倒するのだから、中国人が日本人を罵倒するのは自然な事である。
そして俺は、同じ日本人に個人的に罵倒されるのは頭に來るが、餘所の國の人間に日本人一般を罵倒されても頭に來ない。
平成十六年八月四日
月下美人が一株に二十だか三十だか蕾を附けてそろそろ開くのだが、諸事情に據り殘念ながら畫像を御屆け出來ない。
平成十六年八月四日
番組放送時間変更のお知らせ
サムライチャンプルーを録畫したい人はプロ野球中繼の延長に御注意下さい。
平成十六年八月四日
せんせいのお時間DVD第一卷を觀た。ゴーストが無いのに感動した。新作「ご〜るど」は例によつて投げつぱなしの話。だが、それがいい。

平成十六年八月三日
日本人は兔角深考を缺く事。
平成十六年八月三日
兎にも角にも對話が成立つてゐる掲示板が虹裏くらゐしかないと云ふのは如何なものか。
平成十六年八月三日
二枚に分離したDVD-R。
某さんが、燒きの途中で書込みに失敗したDVD-Rを見てみたら、貼り合せられてゐる二枚のディスクが剥がれかけてゐたのだと。ケースから取り出す時に力を入れたら剥がれたらしい。メーカはマクセル。
「D・V・D! D・V・D!」でDVDが眞二つに割れてゐたけれども、二枚のディスクを貼り合せて作るDVDはあんな風には割れない。
平成十六年八月三日
電車の中に蝉が飛込んできて、乘客の微笑を誘つた。
平成十六年八月三日
清水幾太郎『流言蜚語』(岩波書店)を途中まで讀んだが、田村書店の店頭ワゴンできだみのる『道徳を否む者』を拾つた(買つた)ので歸途そちらを讀んだ。もちろん途中まで。ほかに大山定・吉川幸次郎『洛中書問』(筑摩叢書211)を購入した。
平成十六年八月三日
指南塾
「旧仮名」は便利だ(萩野貞樹)――「旧仮名」と云ふ言ひ方が氣に入らないし、文語と歴史的假名遣とを混同させるやうな書き方をしてゐるのも氣に入らない。
正かなで掲示板に書込むと「文語文やめろ」と云ふ罵倒が屡々返つて來るのだが、文語文主義者はさう云ふ傾向を助長するやうな眞似を何うしてするのだらう。何が肝腎な問題なのかを全然解らない連中が多過ぎる。文語文だの「字数歌」だのよりも、漢字よりも、假名遣ひの方が重要な問題だ、と云ふ事を、國語國字改革に反對してゐる人間の中にも解つてゐない人がゐるのである。
あと、文語の苑は、HTMLとCSSの使ひ方がをかしいので、Operaでは非常に見苦しい事になつてゐる。常々言つてゐる事だが、間違つたHTML文書を公開しておいて正しい日本語を推奬するのはをかしい。そして、うちのサイトで説明してゐる通り、正しいHTMLを書くのは簡單な事である。簡單に出來る事ですら理解しようとしないのは知的怠惰であり、云々。縱書きを推奬するのは結構だが、本質的な解決法でないやり方で縱書きを實現するのは認められない。と言ふより、縱書きを實現出來てゐないのに、出來たと思ひ込んで喜ぶのは愚かしい事だ。MozillaでもOperaでも、文語の苑は縱書きになつてゐない。逆に、影鷹では、Internet Explorerなどで横書きに見えるサイトでも、全て縱書きで表示されるのであり、問題の本質は縱書きブラウザを閲覽者が使つてゐるかゐないかにある。そこを文語の苑の制作者は理解してゐない。ただ、表面的にそれつぽい恰好になつてゐればそれで良しとしてゐる。だから「コスプレ」と罵倒されるのである。
平成十六年八月三日
「月は東に日は西に」がアニメ化されたんですねーとぼけをかまさうとして思ひ出したのだが、私は昔、わかつきめぐみ論を書くと言つてゐなかつただらうか。
平成十六年八月三日
NEXVAF 2nd.-Div. index
「悪魔のミカタ」本ださうですよ。買つて上げてください。それはともかく「2003年12月29日月曜日」云々の下邊りの繪の中によしなにがゐると思つてしまつた私は「」。にじうらはたのしいな云々。
平成十六年八月三日
このコンテンツの意義
<q title="World Wide Web Consrotium">W3C</q>の勧告に従う意味はあります。ただ、<em>意味のないHTMLを書いてしまうと、その文章もほとんど意味のないモノになってしまいます。</em>それだけは忘れてはなりません。
マーク附けが間違つてゐても中身はナンセンスにならないので要注意です。「W3C」と云ふ文字列が原文でq要素になつてゐますけれども、筆者は多分、略語・頭字語の積りなのだらうと人間の私は推測出來ます。ただ、ユーザエージェントが筆者の意圖と違ふ意味にとつてしまふ(可能性が高い)だけです。
あと、當方の文章の影響を被つてゐる事が、明かに見て取れるのですが。
平成十六年八月三日
長島書店の店頭ワゴンに、ナージャとかどれみとかのぬりええほんだか何だかが出てゐたのを目撃した。目撃しただけで買はなかつた。斷じて買つてゐない。

平成十六年八月二日
復活した虹裏でキリ番獲得合戰が行はれ、No.15000000は00:15:55にかいちょーが取つた。
平成十六年八月二日
アズサお手伝いしますを觀た。良く考へるといろいろとつつこみどころがあるのだけれども取敢ず觀てゐる間は樂しかつた。
平成十六年八月二日
キーツ/中橋一夫譯『愛について』角川書店
日夏耿之介譯『ポオ詩集』創元選書189
土居光知『研究社英米文學評傳叢書87 ロレンス』
B・ラッセル『教育論』角川文庫775
山室静編著『新編世界むかし話集5 中国・東アジア編』教養文庫918

平成十六年八月一日
から更新。
平成十六年八月一日
シノブ伝。ユーフォーテーブルががんばつてゐる。
平成十六年八月一日
DivX 5.2をインストールする時、日本語モードにすると、Googleツールバーをインストールするかしないかの確認をし忘れる。あと、デコーダ設定のパネルの文字が化ける。
英語モードでセットアップするのが吉。
平成十六年八月一日
なつかしい記事。
別冊 Mail Magazine Radica
ネットニュースでテロまがいの記事無差別削除事件発生
日本でネットニュース文化が根付かないのは、一部の匿名A氏のような、政治的に正しい表現や行動を出来ない人々が多いことがあるのかもしれない。
テロ紛ひの記事無差別轉載改竄誹謗中傷を續けてゐる「義」のやうな人間もまだまだゐる。
平成十六年八月一日
おたく:人格=空間=都市
日本はもう駄目かも知れん。

關聯リソース

前の記事
日記バックナンバー
2004年7月
「闇黒日記」の關聯サイト
nozaki directory project
言葉 言葉 言葉
PC Tips
櫻花さん番外地
inserted by FC2 system