このところ続けている日本人との「対話」の一環として、創価学会の池田大作会長と二時間ほど話し合った。池田はつとめて愛想よく接してくれ、こちらもいい関係を築いて彼の考えに影響を与えたいと思うので、会談はスムーズに進んだ。だが、彼もその組織全体も、国際世界の諸問題や政治については驚くほど理解に欠けている。……。
創価学会の池田会長と二時間半の会談。今回は(三ヵ月前にも会っている)、こちらが先方の豪華な本部へ足を運んだ。池田は、人払いしてじっくり話をした。この前会ったときとはまったく違い、アメリカのベトナム政策を強く支持し、日本の再軍備を力説する。前回の曖昧な態度から一転して、かなり人種差別的、権威主義的な傾向が見て取れた。大きな影響力となりうるこのような集団の考え方が、どのようにして形成されるかは興味深い。彼が好ましい方向へ進むよう、影響を与えるべく努力を惜しまないつもりだ――たとえば原爆反対など。
話は絵画のことに移り、ゲーテは言葉をつづけていった。「芸術にはすべて血筋がある。大家を見れば、いつでもわかることだが、大家は先人の美点を利用しているし、またまさにそのことが彼を偉大にしたのである。ラファエロのような人々が大地から生えてくるわけはない。彼らは古代をふまえ、彼ら以前につくられた最上のものに立脚している。もし彼らがその時代の長所を利用していなかったら、彼らについて論ずるほどのことはほとんどあるまい。」(1827年1月4日)
非難する気もないと書いてゐるので、俺は中野さんが文書を削除した事を非難したくなつた。
皇嗣問題。前から書いているように、跡継ぎだけじゃなく、皇室だけを天然記念物のように残したって上手くいくはずがない。皇室の藩籬たるべき存在は必要だ。しかし、今、華族を堂々と復活できるかどうか側室はより一層難しかろう
私自身は、皇族はホモサピエンスの一員で、その血統に意味を見出せない。私においては科学的論理性が神話を凌駕する。ただし政治的には象徴という近代国家の機関としての存在意義は認める。前に書いたように、先帝とその弟宮達、今上帝夫妻、東宮夫妻が品性と知性に秀でた方々だから尊敬する、というだけで、あくまで相対的な存在である。だから、万が一、アホで下品で国民のことを何にも考えず、王としての風格もない人物が立太子、そして践祚という事態になれば、絶対支持できない。ところでその場合でも多くの皇室「ファン」はファンであり続けるのだろうか。そしてファンより真面目に伝統や保守を考えている人々は皇嗣を認めるのであろうか。女帝問題よりもアホ皇嗣問題の方が余程深刻だと思うが
アホで下品で国民のことを何にも考えず、王としての風格もない人物が立太子、そして践祚という事態になりはしないか、と云ふ危惧を抱いて、「何とかしなければならない」と考へてゐる人は、極めて少いやうである。
実は、啓蒙すらも神話への陥穽が潜んでいるものです。
知識といふものが(略)物と人間との直接の關係であり、自己から外へ向つて進んで行く働きであるとすれば、これに對して信仰はイメージによつて導かれる生き方であると考へられる。
物を自分の眼で見るといふことは、いかに論理がこれを助けるとしても容易なことではなく、凡ての人が行ひ得ることではない。そこで多くの人々は知識といふ世界を或る少數の人々に委任して、自分は古くから與へられてゐるイメージに從つて信仰の世界に生活し、この少數の人々がやがて齎らす知識の成果をも信仰の態度を以て受容れる。デモクラシーといふことは、全ての人々が自分でイメージを作り出すこと、即ち自ら事實に直接に觸れることを理想或は前提として成立したものであつた。併しこの少數の人々にしてもその生活の一切に亙つて知識の態度を堅く持して生きて行くことが出來るのでない。自分の狹い專門の領域から一歩出れば、やはり信仰に生きなければならないのである。
私(ジョルジュ・ソレル)はこの研究を通じて餘り主張する必要がないほど單純に思はれる一つの事柄を確認したのであるが、それは即ち樣々な社會的運動に關係してゐる人々は、自己の將來の行動をばその主張の勝利を確保する戰といふイメージの形態で考へてゐるといふことである。私はこれ等の構成物を神話と呼ばうと提議したのであるが、これの認識は歴史家に對して大なる重要性を提供するものである。堪へ難い試練の中にあつてカトリックの人々は撫ぜにその意氣を沮喪せぬのであらうか。この事態を殘りなく解明することが出來るのは神話の觀念である。即ちカトリックの人々はサタンとヒエラルシーとの間に行はれる鬪爭として教會の歴史を理解する。如何なる困難が彼等の前に現はれるにしても、彼等はそれをこの鬪爭の一つのエピソードとしてしか考へない。彼等はそのあらゆる苦痛にも拘らず、常にカトリシスムの最後の勝利を堅く信じて疑はないからである。このやうな神話によつて貫かれてをればこそ、彼等はその意氣と氣魄とを喪失することがないのだ。
物語("fiction")である。
……それから、われわれはみな、ある条件のもとでだけ自由になれるのであって、これはどうしても満たさなければならない。市民は貴族と同じように自由だ。ただし、自分の生まれついた身分によって神から割りあてられている限界を守る必要がある。貴族も王侯と同様に自由だ。なぜなら、宮廷でほんのちょっとした儀礼さえ守れば、王侯と同等だと思ってさしつかえないからだ。自分の上にあるものを一切認めようとしないということで、われわれは自由になれるのではない。上にあるものを尊敬することこそ、われわれを自由にするのである。なぜなら、上にあるものを尊敬することで、われわれは自分をそこまで高めることになるからであり、上にあるものを認めることによって、われわれ自身が心の中に一段と高いものを持っていて、それと同等になる資格があることを、そとに示すことになるからだ。……。
病理学的な個所として缺陷が露はれて來兼ねない。その一方で、他力・他律の觀念が無い場合、自力・自律のやり方しか、人は自らを律する事が出來ない。そして、自らを律する、とは道徳的に立派な事である。さて、律すると言つたが、「××すべきである」事について「××し、そこから逸脱しないやうにする」事である。「すべき事をする」のは「道徳的に良い」事であり、「すべき事をしない」のは「道徳的に惡い」事である。そして、「道徳的であらうとしてゐるか否か」の觀點から絶對値的な言ひ方として、「善をなす」のも「惡をなす」のも「道徳的である」事となり、「大善をなす」のも「大惡をなす」のも「道徳的には善い事」である。「道徳的に善い事」には「べき」論が必然的に附帶する。「である」の話は道徳とは無關係である。そして、「道徳的に良い」ではなく「道徳的に善い」と云ふ點で人間の偉大は判定される。正義の議論は「べき」論に屬する。好き嫌ひの議論も、精々この種の正義論に屬する。道徳の議論と正義の議論とは次元が異る。そして、正義の議論のみが日本國では繰返されてゐる。そこで道徳の議論の重要性を強調してゐる。
友人が貸してくれた西部邁と小林よしのり『本日の雑談1』を読む。疑問多々だが、家畜病騒ぎ、保育園や幼稚園の民営化、スポーツ重視、負け犬論争、少子化や元癩者宿泊拒否問題、への西部による批判や、華族や側室制度復活案には頷けた
アホで下品で国民のことを何にも考えず、王としての風格もない人物が立太子、そして践祚という事態の問題は、道徳の領域における問題である。
アホで下品で国民のことを何にも考えず、王としての風格もない場合、「そのやうな人格こそが立派な人格である、なぜなら天皇は絶對に正しいからだ」と言張り兼ねない。と言ふか、そんな風な事を初心者氏は昔、確かに言つた。
おねてぃ、こっぱずかしくて見るのに疲れます(笑)
ところが、当初その「偽者」容疑者本人からの応答が無かったことため、私は『がんばれ公明』の管理人JIRO氏に対し、いつもどおりの遠慮のない正論で「リモートホストすら確認できない、こんな、なりすましや一人数役が容易に可能となる掲示板を、政党関連のサイトが使うのは好ましくない。取り替えたらどうです」と要求したのだが、これがスッキリしない理由で断られたあたりから、話が大きくなってしまった。つまり、私はこの管理人氏とこのサイト自体に、うさん臭さを感じはじめ、そちらの問題にのめり込んでいったのである。
こんな、なりすましや一人数役が容易に可能となる掲示板を、政党関連のサイトが使うのは好ましくない。とは、良くもぬけぬけと言へたものだ。一人數役を批判したければ、自分が先づ止める事だ。それを「遊び」だと言張り、しかもその「遊び」の「ホランド」の名前で、木村氏を叩いたのは誰だ。
これも、かつて「占拠学生」に研究室の文献を全部持ちだされるという意味不明の嫌がらせを受けた亀井氏が、「文庫本1冊でも研究はできることを示すいい機会だ」と〈開き直った〉というような話が、じわりと効いているのです。
戦後の日本語があらゆる意味で紊れ切り、その血肉が稀薄になってゆくことを慨いて居られた(鈴木信太郎)先生は、御自身の文章が新假名に変へられて印刷されることを嫌悪して居られた。先生は、漢字制限にも大反対であり、むつかしい語法や微妙な差異のある漢字を調べることは、人間の精神を陶冶すると主張して居られた。これは先生として当然なお考へだし、私も、これに心から賛同してゐる。
本書は、先生が比較的近年発表された隨筆を集めたものであるが、若干の文章は、新假名になってゐるし、先生が折角選ばれた筈の漢字が平假名に変へられてゐる小品も二つ三つある。これは、発表された雑誌或は新聞の独断的方針によるものと思ふが、先生はさぞかし不快に感ぜられたことだらう。出版部の方々も先生の潔癖さを知って居られたので、御遺族の方々とも、字句の統一について相談されたが、発表されたまゝの形で本書にまとめ、改変の事実をむしろ明示することになったと承ってゐる。
もし事實を説明できない場合があれば、事實の方がこの體系(野嵜註:
人類愛と憎惡、正義感とルサンチマン――この相矛盾する人間の根本感情を綜合した體系:ソ聯のイデオロギー)に順應させられる。カルチエ氏があげた例にも、ソ聯人は西獨でいいたてる東獨からの難民の數は嘘だということにしている。この體系はつねにいう――「かくあるはずである。故にかくある。もしそうでない事實があるなら、それは非科學的であるから、事實の方がまちがっている」それでも否定することのできない事實は、言葉と論理によつてこの體系にあてはまりうるようにとその性格がつくりかえられる。
たとえば、「共存は、資本主義對社會主義の階級鬪爭の一形態である」。すなわち、平和は戰いである。人間は、謎のような言葉には深い意味がある、と思いこむ。
ふしぎなことには、この體系を確信している人にむかつて、その事實との矛盾を指摘すると、その人は非常な激昂を呈す。それは自分の實存を汚された者の憤怒である。
思想の近代化は、世界の事實をありのままに直視して、客觀的事實を知ろうとした。事實の本質的な形相をつかんで、そこに潛んでいる法則をさぐろうとした。それが近代の進歩だつた。しかるにここのイデオロギーによつては、すべては規定の體系にあてはめて判斷される。存在函の觀念の投影の下に見られる。人々は、理論の中から存在しない状態をひきだし、それを現實であるとしている。
いまだ證明されていない獨斷を前提し、ここから世界をそれに合せて解釋してゆく「上からの演繹」は、もともとマルキシズムがきびしく排撃したものだつた。エンゲルスは説いている。「原理は研究の出發點ではなくて、それの最後の成果である。原理はそれを自然と歴史に適用すべきものではなくて、むしろそこから抽象されるものである。自然と人間界が原理にのつとるのではなくて、原理は、それが自然と歴史に一致するかぎりにおいて、正しい。これが事態の唯一の唯物論的な理解であつて、デューリング氏のこれと反對な理解は觀念的である。それはまつたく事態をさかだちさせるものであつて、現實の世界を思想から、すなわち世界のできる前からどこかに永遠の昔から存在している圖式なり範疇なりから構成するわけである。これでは――ヘーゲルなどとまつたく同じだ」
ここまではまことに正しかつた。しかるに、精神の代りに物質というやはり抽象觀念を代入して論理的演繹をしたために、結果はやはり同じようなことになつてしまつた。もともとは觀念を排して實證を――とてはじまつたのだつたが、いまでは觀念左翼といわれるようになつた。
このエンゲルスのいましめにもかかわらず、ある先驗的圖式にあてはめてリアリティを解釋する行き方はしきりに行なわれている。われわれの周圍でも、それが極端なまでに行なわれている。
多く讀まれた「昭和史」は、コミンテルンのテーゼによつて書かれた、と説明されている。
しかし、二七テーゼは昭和二年、すなわちあの動亂がはじまる前である。三二テーゼは昭和七年、すなわち五・一五事件の年で、あの波瀾がはじまつたときである。歴史はその後に複雜な展開をした。
つまり、自分が經驗した年月の歴史を、その事實に即して反省するよりも、むしろその歴史がはじまるかはじまらないかのときに他國で發せられたテーゼにしたがつて判斷している。このテーゼの規定こそは「世界のできる前からどこかに永遠の昔から存在している圖式なり範疇」であつて、歴史家はこれに即して歴史を構成した。これこそはまさに「先驗的な方法」であり、實證ではなくて、いまだ證明されていない獨斷によつて「上からの演繹」をしたのである。これはエンゲルスのいましめに背いている。だから世界がさかだちしている。
まず獨斷を前提して、それにのつとつて演繹をすすめてゆくと、しまいには幻覺に逹する。
幻覺が――實證の名において――しきりに説かれている。
今月の電撃文庫が売ってるらしいので神保町まで自転車飛ばしてみた。
今月の電撃文庫が何を
売ってるのか、小一時間問詰めたい氣分。
新カナ使いの主張者である高倉テル氏に
大いに共鳴をしていた片柳忠男氏による「私は叱られた」と云ふ短文が載つてゐる。戰時中に設置された片柳氏らの所屬する團體の宣傳用語委員會の話である。對外宣傳の爲に日本語を簡單にしようと云ふ意圖で宣傳用語委員會が作られ、委員長に折口氏が選ばれた。その後、委員會が開かれ、多くの問題が檢討された。或時、横書を左から右に統一すべきだと云ふ結論を早く出せと片柳氏が頑張つた處、折口氏が怒つて
片柳君、君はカンが強いぞ。カンの強さだけでは國語の改良は出來ないのだと怒鳴つたのだと云ふ。その後、折口氏は
片柳君の意見を受入れます。横書の場合はやはり英語のように書かれる方がよろしい。それは、第一手がよごれずにすみますと述べた。
日本を愛するには、日本人的な生活をしない方が好いというのは殘念なことだよ。
あるとき少年は何かの話のとき答えた。
――それは嘘です。
すると彼は急に顏色を變えた。
――それなら私、嘘つきですか。
少年にはこの激怒の理由が解らなかつた。
――何故そんなに怒るのですか。
――それはあなたが私を侮辱したからです。私を嘘つきと云つて。
少年は當惑して云つた。
――それなら眞實でないときどう云つたらよいのですか。
――それは眞實でないだろうという方が好いね。
――それは私には同じことのように思われます。
――違います。嘘つきというのは侮辱です。眞實でないというのは侮辱でないね。
少年は表現の技術の問題に觸れたのだ。
<q title="World Wide Web Consrotium">W3C</q>の勧告に従う意味はあります。ただ、<em>意味のないHTMLを書いてしまうと、その文章もほとんど意味のないモノになってしまいます。</em>それだけは忘れてはなりません。
ネットニュースでテロまがいの記事無差別削除事件発生
日本でネットニュース文化が根付かないのは、一部の匿名A氏のような、政治的に正しい表現や行動を出来ない人々が多いことがあるのかもしれない。