闇黒日記

平成十六年五月三十一日
せんせいのお時間終つた。今週も面白かつた。次囘は六月十三日。殺す。
平成十六年五月三十一日
昔の文章なんて讀返しただけで舌を噛んで死にたくなるやうな代物であるのに決つてゐるのに、それをわざと轉載して「恥づかしいでしょ」「何でこんな文章公開したの」「こんな文章を公開したのもあんたの自己責任なんですよ」とやるのは人として何うかしてゐる。
平成十六年五月三十一日
野村雅昭編『東京堂用字用語辞典』
河合榮治郎編『學生と科學』日本評論社

平成十六年五月三十日
金鳥リキッドが蚊を撃墜した。
平成十六年五月三十日
闇黒日記 - 異体字変換串
平成十六年五月三十日
イラクは石油が出るんだし、放つておいても復興する。云々。
平成十六年五月三十日
『航海日記』に據ると、萬延元(1860)年、遣米使節が大統領への親書、日米修好通商條約の批准書などを携へ、咸臨丸及びポーハタン號でアメリカに渡つたが、航海中、日章旗を國旗として掲揚したさうである。
文久元年に執筆された「航海日記」には、「神州」「神國」の文字が見える。

平成十六年五月二十九日
山形マット死事件の控訴審。
小野裁判長、事件の發端を「(有平君に)一発芸をさせようと連れ出したこと」としたのに、なぜか「いじめの存在」について言及せず。
「芸をさせよう」とした時點でそれは「いじめ」なのだが、「いじめ」を「いじめ」と認識出來ない人間が世の中にはゐるらしいのである。

平成十六年五月二十八日
昨日だか一昨日だかに共産黨員が演説してゐるのを見た。彼等の演説を耳にする度に、「あんたが今言つてゐる事は、あんたの信ずるマルクス主義と何んな關係があるの?」と訊きたくなる。
平成十六年五月二十八日
本日の買物。
詞の八衢
ほかに、三島由紀夫『若きサムライのために』(文春文庫)、桶谷繁雄『金属と人間の歴史』(講談社ブルーバックス)、村垣淡路守範正『航海日記』(時事通信社・時事新書)、E.H.カー『ロシア革命の考察』(みすず書房)、中村雄二郎『言葉・人間・ドラマ』(青土社)、大類伸『桃山の春』(冨山房)、など。
『若きサムライのために』には、三島と福田恆存との對談が收録されてゐる。色々と興味深い。二人が仲良く話をしてゐると見るか、表面的にはなごやかでも、實は雙方、相手の意見には否定的で對立してゐると見るか。俺は、三島の「忠義」の説に對して、福田氏が批判的な態度をとつてゐる、と見る。そして、福田氏の批判の方が、三島氏の「忠義」の説よりも、妥當であるやうに思はれる。
平成十六年五月二十八日
いや、俺が買つた冷藏庫ではないので。と言ふか、俺は使はないから、自分では扉を開けた事もない。
呼ばれて行つてみれば、びつしりと言ふより最早數センチの厚みがあると云ふほどの霜の塊が出來てゐて、取敢ず霜取りボタンを押して一日放置。したらば、次の日また御呼びがかかる。で、行つてみたら、大洪水になつてゐたと。
平成十六年五月二十八日
「署名するのは文章に責任を持つと云ふ事なのに、誰も知らないペンネームを使つたら責任を取る事にならないぢやないか」云々。
平成十六年五月二十八日
Google 検索: マショマロ

平成十六年五月二十七日
EXA'S PICATA
平成十六年五月二十七日
田中美知太郎の『正説と逆説』を開いてみたら「匿名批評について」論じてゐる文章が冒頭にあつて、善いことをして、惡く言はれるのが、王者といふものだ、なる古人の言葉とか、廣場で朝から晩まで忙しく働いてゐるペリクレスに一日中誹謗や非難の文句を浴びせかけたたちのよくない男の話とか、が書かれてゐるのを目にしたけれども、俺は何うにも王者やペリクレスにはなれさうにない。
政府や權力者に惡口を言へる社會は自由な社會であり、自由な社會を良い社會だと考へる人は惡口に堪へなければならないと田中氏は説いてゐる。所詮、人間は完璧にはなれないのだし、完璧な人間だけで構成される社會は存在しない。だから、謂れの無い誹謗中傷を言ふ人間も常に存在する、と田中氏は言ふ。
が、偉い奴に惡口を言ふのならばともかく、「無職の人間」を痛めつけるやうな眞似をするのは、自由社會であつても、何うかと思ふ。
と言ふより、俺は民主主義とか自由主義とかを、必ずしも好まない。
平成十六年五月二十七日
何んな政府の元でも、密告や内部告發が存在し、結局のところ、人間の社會は完全なものとは絶對にならない、と云ふ事を人々は認めてゐる。ならば世間の人は、自分の住んでゐる世界に少しは絶望して良からうと思ふ。
平成十六年五月二十七日
自分の惡口を言ふ人間を相手に「○○さまは」とか「××でございます」とか、常日頃と變らず、慇懃無禮な言ひ方を出來るやうな人種と俺は違ふ。あゝ云ふのを「孤高の人」氣取りと言ふ。「孤高の人」が好きならアレクセイのところでも行つて下さい。
俺は、腹を立てたら八つ當りをするやうな、ホランドに「虫」呼ばはりされるやうな人間の方が、まだしも人間らしいと思つてゐる。
平成十六年五月二十七日
冷藏庫の霜を成長させてはいけない。

平成十六年五月二十六日
携帶電話に「お前、○○日にあだるとさいとにユーザ登録しただらう。早く金拂へ」みたいな電話がかかつて來た某さん、「登録してゐませんよ」「知りません」「訴へたければ訴へて呉れて結構です」「忙しいので切ります」と應對してゐた。
世の中、惡い奴ほど自分勝手な根據をでつち上げて、他人を責める。ゆゑなく責められた側が何かをすれば、「逆切れ」と稱してさらに攻撃される。

平成十六年五月二十五日
マイクロソフトからオペラに約1200万ドルの支払い--MSN関連の訴訟回避? - CNET Japan
Microsoftも、Operaユーザに嫌がらせをする積りであんな事をした訣ではなかつたのだらうが。

平成十六年五月二十四日
日本國では物を言ふのに資格が必要であると「義」は言つてゐる訣で、要するに民主主義の日本國には言論の自由はないのだと。
實際、民主主義なんてものを俺は呪つてゐるのであつて、「義」のやうな人間にも俺と同じ權利があるだなんて、全くもつて蟲酸が走る。
もつとも、プロレタリアートにあらずんば人間にあらず、と云ふ事を「義」が言つてゐるのだとしたら、或意味、話は解る。
平成十六年五月二十四日
まあ大體、人間みのない人間に限つて、人情みのない誹謗中傷を平氣でやる訣で。
平成十六年五月二十四日
「新カナヅカヒの問題」で坂口安吾も言つてゐる。

この春、朝日新聞社で座談會があつたとき、司会者の岩上順一先生が、私にかう云つた。私の小説「花妖」の妖の字は今度の漢字制限には無くなつた字であるが、それをなぜ使ふか理由をききたい、といふのである。

そこで私はバカバカしくて言ふまでもないことだけれども、仕方がないから、文部省が新カナヅカヒや漢字制限をしたからと云つて、なぜ我々が無批判にそれに從はなければならぬのか。それに對して批判を加へるのが我々文學者の義務ではないか。役人のつくつた天下りの新文法に盲從しなければならないといふアナタの考へが妙ではないか。私はかう答へた。

民主主義だの何だのといひ廻る岩上先生はかういふバカなことを言ふ先生なので、いつたいに左翼的な人たちはみんな役人型であり、ファッショ型だと思へば間違ひがない。

何が便利か、どんな表記が讀み易いか、といつた合理的な判斷をせず、ただ、統制する事が決つてゐるから統制する、と云ふ發想――と言ふより、頭を使はない官僚的な態度が、民主主義の時代になつて民主主義を唱へられるやうになつて、その民主主義時代に民主主義民主主義と言ふやうな連中にはある、と安吾は言つてゐる。
頭を使ふ事よりも、社會的な決り事に從つてゐる事が、その手の人間には重要なのである。だから、その手の人間には、「物を言ふ資格」の吟味が、「言はれた事の内容」よりも重要になる。そして、それが行着くのは「お前は××だから、物を言ふ資格がない」「お前は××だから死ね」である。これで自分は民主的だとか、世間的に正しい事を言つてゐるとか、本人は思つてゐるのだから處置なしである。しかし、「義」など、人の親まで馬鹿にしておいて、本人は良い事を言つてゐると思つてゐるらしいのである。人間の屑は「義」なのだが、その「義」が人を默らせる爲に人の事を人間の屑呼ばはりをする。そして、うちの讀者がさう云ふ「義」を見て見ぬふりをする。俺が何を言つても無駄なのである。
平成十六年五月二十四日
働かざるもの食ふべからずとか、さう云ふ「御立派」な事を言ふ「義」も、自分が本當に仕事に就いてゐるかは絶對に明かにしない。そして、では野嵜は何うなのかと人は問ふのだらうが、何の仕事かを明かにすればそこに「義」はつけ込むのである。それが「義」の狙ひである。野嵜が隱し立てすれば、言ひがかりを附けるし、情報をオープンにすれば告げ口する積りでゐる。何であれ、「義」は攻撃の種に出來れば良いのである。この種の卑怯な人間が、御立派な事を言ふのだから、人間とは嫌なものである。
そして、この種のやり口で他人を默らせようとするのが「義」をはじめとする「アンチ野嵜」の人間の常套手段である。と言ふか、「アンチ野嵜」派は、最近はそのやうにしか見られなくなつた。
御蔭で、まともな野嵜批判すら、出て來ない始末である。アレクセイや竹下義郎、波江の仲間と見られるのでは、「アンチ」もやり難いだらう。中でも「義」はやり過ぎた。これでは最う、並の「アンチ」には、野嵜批判なんて出來ないだらう。やるなら、餘程ちやんと批判の論理を組立てなければ、またぞろ人格攻撃、「義」と同類か、と思はれてしまふ。
實際のところ、「義」の同類は、それなりの根據を持出して野嵜批判をやつてゐる人には、結構多いので、「義」のやうな象徴的な人物が出て來るのは、或意味、願つたり適つたりではあるのだが、迷惑な人間が増えても迷惑なだけなので、何とかして下さい。
平成十六年五月二十四日
泥棒が入つた時には警察を呼ぶもので、そこで泥棒が「警察を呼ぶと言つて俺を脅迫した!」と言つて騒いでも、引かれ者の小唄のやうなもので、負け惜しみであり、強がりを言つてゐるに過ぎない。
ところが、「義」は平氣でさう云ふ事を言ふのである。アレクセイもさうだつた。「引かれ者」の心理は大體、共通であるらしい。誰が見ても「義」やアレクセイの言つてゐる事は中傷であり、侮辱であつて、犯罪的であるのだが、さう云ふ犯罪的な言動に言論で對抗しないのを彼等は非難するのである。しかし、言論にならば言論で對應しても、言論でない誹謗中傷や侮辱の類ひに言論を以て對抗する必要はないのである。寧ろ、「官憲に訴へる」事がその人の不利益とならないやうな社會體制こそ民主主義體制である筈だと、俺が言つても信用出來ないと言ふのなら、福田恆存が述べてゐる。
平成十六年五月二十四日
無職だの女と附合つた事がないんだらうだのと、人格攻撃を加へられて、俺が默つたとしても、俺の言つた理窟は全く否定されてゐないので、却つて俺を默らせた側のやり口の鄙劣さが強調されるだけである。
俺の論理の論理的な誤りを指摘して俺を默らせるのならば、妥當なやり方である。しかし、俺の人格を否定し、惡い噂を流して評判を落して、俺の主張の説得力を無くさうとする事で、俺を默らせようとするのならば、寧ろ俺の論理の正當性が強調されると言へる。
そのやうな事で、俺の反對派の評判が惡くなつて、相對的に俺の言つてゐる事がまともに見えるやうになつても、別に嬉しくない。
最近は、うちの事をまともに相手にする人間が殆どゐない始末である。ただ、取敢ず見下して見せ、馬鹿にして見せる、紋切型で非人間的な左翼が、入代はり立ち代はり現はれるだけである。
何と言ふか、議論にならない、話を拒絶する「義」のやうな人間しか、敵がゐない、と云ふのは、哀しい話である。波江もさうだが、こちらの言つてゐる事をまともに理解して、その上で誤りを指摘して呉れるやうな敵が、澤山ゐても良いと思ふのだが、誰もゐないのである。
平成十六年五月二十四日
と言ふか、「義」のやうな「無職は默れ」式の嫌がらせが正當な行爲であると一般に認められる社會ならば、こちらから願ひ下げである。
平成十六年五月二十四日
ジョージ・スタイナーは『マルティン・ハイデッガー』でハイデッガーを論じて、ユダヤ人虐殺にかかはつたのに口を噤んだハイデッガーを非難しながら、一方でハイデッガーの思想には檢討すべき重大な事柄が多數含まれてゐる、と云ふ事を指摘してゐる。
俺の言つてゐる事がハイデッガーの哲學のやうに偉大なものであるとは俺自身が言ふ事は出來ないし、ハイデッガーのやうに俺もナチズムに接近してゐると判斷されるのは迷惑であると言ふ。しかし、人格だの政治的な言動だの職業だのを根據に「發言する資格」があるかないかと論ずるのではなく、それらの事とは獨立して思想なり主張なり理窟なりを檢討する態度があつてもよろしからうと。
波江の「字数歌」説のやうな出たら目は問答無用で默らせて良いが、俺は波江のやうな出たら目を言つてゐるのではないと自分では思つてゐるし、自分の主張については一往、合理的な判斷に基く批判を受ける事を希望しても良いだらうと自負を持つてゐる。
此處まで言つても「義」は嫌がらせを止めないだらうし、「義」は所詮その程度の人間だらうと思ふ。だから、どうせ俺がこんなに喚いてもみつともないと云ふだけの話にしかならないし、讀者も何とも思はないだらうと思ふが、それでも書く。
平成十六年五月二十四日
ウェブで俺を攻撃して來た人間から、俺は何も學ばなかつた。そもそも、ウェブで有益な議論がなされたところに俺は立合つた事が一度もない。と言ふより、ウェブで議論はなされないし、ウェブ以外でも議論なんてものは成立たないのである。殊に日本では。氣に入らない人間を默らせる爲に、人格攻撃を仕掛けて評判を落とすやうにする戰術や、議論をする資格がないかのやうに極附ける戰術がとられる。理窟を言ひ合つて、合理的な結論を出さうとする事がない。
結論は最初に決つてゐて、その結論を他人に押附ける爲に、自分と異る結論を持つてゐる人間に主張させまいとする事が、極當り前に行はれる。議論ではなくて、論戰が戰はれるのである。
かうなると、俺としては日本人に絶望するしかない。しかし、眞の民主主義を信奉してゐる連中だの左翼だのに言はせれば、國境で世界を區切るのは誤りなのださうである。ならば、日本人を含む全ての人類を、俺は見限るべきなのであらう。
そして、人類を見限る積りのない樂天的な人間が、この世には多過ぎる。彼等は何うしてそんなに仕合せで、ポジティヴな思考をしてゐられるのだらう。
平成十六年五月二十四日
さらに言ふと、これでも反應する人間は、身近な極少數の人だけである。常連さんと、いつも御附合ひがある方々、さう云ふ訣で支持して下さる方々には感謝の言葉もありません。しかし、通りすがるだけの多くの讀者は、まづは當てにならないと、俺は思ふ資格があるだらう。そして、所詮その程度にしか思はれてゐない俺はその程度の人間であるのだらう。良く知らんが、とにかく默れと云ふ意見が有力であるのならば、俺は默る。日本が民主主義社會であるのならば、民主主義のルールに従ふ。民主的に決つた事なら、正しからうが正しくなからうが、從へと、ソクラテスは教へてゐる。ソクラテスを殺したのは民主主義である。キリストを殺したのも、結局は大衆の意見であつた。民主主義は何と素晴らしいものなのであらうか。
平成十六年五月二十四日
で、今週のせんせいのお時間は、異樣に冴えた脚本だつたのだが、やはりときたひろこ氏の擔當囘。
あにめの話をする自由も、民主主義で言論の自由が認められてゐる筈の日本國に、實はなかつたりするらしいのだが。「義」だか誰だか知らないが、「アンチ野嵜」の連中にとつて、あにめの話をした、と云ふ事が、野嵜に物を言ふ資格がない證據となるらしい。そんな事で物を言へなくなる社會が、果して民主主義社會なのか、俺は疑ふのだが、實際のところ、民主主義社會とはそんなものなのだらう。
平成十六年五月二十四日
と云ふ訣で、明日も朝が早いので寢る。明日と言ふか、今日。
寢ると言つてから一時間、ずつと人類を呪ふ文章を書き續けてゐる訣だが、本當に寢るので。正直言つて、「義」の最近の發言を見過ごしてゐる今のうちの讀者を、俺は誰一人、信用しない。
平成十六年五月二十四日
ちなみに、今年の「戰時下」は、一往本日、と言ふか昨日、終了。へろへろ。
平成十六年五月二十四日
なんで人が歸つて來る時に雨が降るんだよ。びしよ濡れ。
平成十六年五月二十四日
昔、と言つても數年前の事らしいが、都内の電器屋に俺の分身が存在した模樣。
平成十六年五月二十四日
日本の糊メーカは、どうして容器の使ひ勝手に無關心なのだらう。どんなに良く附く糊でも、蓋が開かなければ使へないのは誰にでも解る事だが、なぜか蓋の邊が固まり易いやうに糊メーカは容器を作る。さうやつてすぐ糊を使へないやうにして新しいのをどんどん買はせようと言ふのならば、メーカはせつかく開發した素晴らしい糊を、購入者にに使はせたくないのである。
平成十六年五月二十四日
うちに著いたら雨、やみやがつたよ。何で歸る時に降るのかと。
平成十六年五月二十四日
本日の買物。

平成十六年五月二十一日
ライブドア、Opera 7.5日本語版を6月発売〜従来ユーザーは無償アップグレード
@Style -- ブラウザと電子メールの情報ポータル --- 株式会社トランスウエア

現在弊社に対しまして、Opera Software ASAおよびライブドア社より以下の点に関して書面による正式な通知を受けていないことをお知らせいたします。

  • Opera国内販売契約の解除
  • Opera社とライブドア社との間で独占販売契約が結ばれた旨

また、ライブドア社よりサポート引継ぎに関する発表がありましたが、現在弊社に対してライブドア社およびOpera Software ASA.よりサポート移管及びその日程に関する連絡はございません。

impressその他の情報サイトは、ライブドアからのリリース情報だけを基に報道をしてゐるのではないか? どうもライブドアによる情報操作(既成事實作り)の臭ひがぷんぷんする。
平成十六年五月二十一日
本日の買物。
平成十六年五月二十一日
トランスウエア、Operaの販売契約打ち切りについてまだ正式な通知はない
そもそも、ウェブの情報しか見てゐないのかなインプレス。そこいら邊のニュースサイトと同じ事をやつてゐるんだな。

平成十六年五月十九日
昨日、知らない人間は人間ではないとでも言ふかのやうに平然と岡田氏岡田氏と書いた讀賣新聞、今日の朝刊では岡田克也氏と、恰も誰も知らない人を紹介するかのやうにフルネームを書いてゐた。
幹事長には藤井裕久氏。藤井さんの名前は知つてゐる。地元だもの。
平成十六年五月十九日
ネタバナーコレクション : 何か。の略歴
平成十六年五月十九日
私はIEユーザーに対する「合法的」嫌がらせには大賛成。
ウェブ標準化プロジェクトの公式サイトを作成する際には気の利いた嫌がらせを考えてみたい。
「イヤガラセ」の中身を問いただすのではなく、「イヤガラセ」という単語に条件反射する意見ばかりだったのには正直うんざりした。
「気の利いた嫌がらせ」という言葉でイメージしていたのはその程度のことだ。
嫌がらせではなく合法的の方を鉤括弧で括つたら、それは「誤解」されるよ――と言ふか、それは誤解ではない。
鉤括弧で括つて「合法的」と書いたら「所謂合法的」の意味になる。それは鉤括弧なしの本來の意味の合法的とは違ふものと理解される。續けて鉤括弧ナシで嫌がらせと書いたら對比的に文字通りの嫌がらせと云ふ意味で受取られる。
上で「理解」と理解とを區別して書いたけれども、鉤括弧の遣ひ方で文章の意味は變る。
平成十六年五月十九日
ライブドア、ブラウザー「Opera」の独占販売権を獲得(ITビジネス&ニュース)
ライブドア、Operaの国内独占販売契約を締結。7月にも販売開始
ライブドア、Operaデスクトップ版の国内独占販売代理店に - CNET Japan
あれれ。
Opera Internet Browser
livedoor Opera
@Style -- ブラウザと電子メールの情報ポータル --- 株式会社トランスウエア
Opera社、トランスウェアに默つて何やつてゐるんだ。
Operaの国内販売がライブドアに - 搭載製品の拡大目指す (MYCOM PC WEB)
こつちでは、三者で協議したとあるが……トランスウェアは知らなかつたやうだし。
何と言ふか、「第四のブラウザ」が出て來ないかなー。
平成十六年五月十九日
やじうまWatchが都道府県保管庫(仮)を紹介してゐるが。(2004/05/12附)
萌えキャラで埋め尽くされた日本地図とか言つてゐるが。
まあいいか。

平成十六年五月十八日
「國民年金制度の改定の議論をする資格は國民年金に加入して御金をきちんと收めてゐる事だ」と云ふ事で、資格論爭をはじめて、水掛け論になつてゐる訣だが。意見が正しいか正しくないか、それだけが問題だと、俺は何時も言つてゐるのだが。一々物を言ふ資格なんてものを作つて、論者を叩くのは無意味なのだが。馬鹿に限つて、人が物を言ふ資格を作りたがるものらしい。日本に言論の自由はないらしい。
閑話休題。以上の事は閑話です。
民主黨の代表に岡田氏がなると、今朝の讀賣新聞が報じた。記者は讀者が岡田氏の事を知つてゐるものと看做してゐるらしく、岡田氏岡田氏と書いてゐた。しかし、俺は岡田氏なんて人物が民主党にゐる事を知らなかつた。岡田氏と言つたら岡田俊之輔先生(OKADA Shunnosuke's Page)に決つてゐる。
俺の事を無知だとか世情に疎いだとか非難したければして呉れて結構だが、俺みたいに今の世の中の事を知らない人間が讀者に一人もゐない事を前提に記者が書くのは如何なものか。新聞記者は、解り易い文章を書く商賣だらう。どうして何も知らない人間が讀んで解らない文章を、新聞記者が平氣で書くのだらう。
素人が説明不足の文章を平氣で書くのも非道いものだと思ふけれども、商賣で文章を書く人間が説明不足の文章を書くのは、素人に示しがつかない事になる訣で、何とかして貰ひたいものだ。
と言ふか、さつきのNHKのニュースでやつと噂の岡田氏のフルネームが判つたよ。昔々、某總理大臣が新聞記者相手には記者會見をしない、テレビの會見だつたら應ずる、と云ふ事をやつて、新聞記者から嫌はれた事があるのだけれども、新聞記者の方が惡いよ。やつぱりテレビの報道の方が増しだよ。或は、増しな事がある。
平成十六年五月十八日
あと、上手な文章を書きたい人は、新聞のスポーツ面を參考にすると良い。但し反面教師として。キャッチーな事(推測)を書いて讀者を引込まうとするわざとらしい文章が、讀賣のスポーツ面には毎日必ず載つてゐる。あれは眞似しない方が良い。と言ふか、あれを「良い」と思つて眞似するのは馬鹿。馬鹿の眞似をするのは馬鹿。
と言ふか、新聞記者、讀者を面白がらせようとし過ぎ。新聞記事は、事實を傳へるものだ。エンタテインメントではない。
平成十六年五月十八日

もじら組サイトのデザインは過去に何度か変更されている。そのたびに、どのWeb標準を採用するか(HTMLかXHTMLか)、個々のブラウザにどの程度まで配慮するか、などといった論点で激論が起こる。それで嫌気がさしてもじら組から離れてしまった人も何人かいるほどだ。どういうわけか、ウェブデザインの分野には他人の意見を尊重することができない人が多い。今回の騒動もその一例となった。今回の場合、組長が最初から感情的で、もじら組からの脱退までほのめかしたのには困った。あぶなくて反論することもできなかった。

俺と違つて小池氏は大人である模樣。
俺なら、相手が「脱退する」と言出したら、本當に脱退するまで平氣で追詰めるからな。
なんでみんな、「組織の論理」で動けるんだよ。
平成十六年五月十八日
http://d.hatena.ne.jp/fookpaktsuen/20040514
http://fookpaktsuen.tripod.com/diary/may2004.html
吉田健一(一般・弁護士)……自衛隊のイラク派遣など憲法に従って政治が行われていない中で憲法「改正」すればそれが正されるのか。戦争への道進む憲法改正は認めるわけにいかぬ。平和主義が危うくなれば人権保障も危うい。前文や十三条をもとに権利の救済を求めてきたが改憲を口にする人はこうした救済に対して寧ろ足を引っ張っている。
「憲法を守つてゐない人間に憲法の議論をする資格は無い」と言つてゐるやうなものだが。
平成十六年五月十八日
http://d.hatena.ne.jp/fookpaktsuen/20040505
今日は憲法記念日。今や国民の過半数が憲法を改正すべきだと考えているようで(日経4月世論調査)、今朝の日経社説も「憲法改正の機は熟しつつある」というもの。たしかに文章がおかしな憲法ではある。前文が長ったらしいのは特にカッコウが悪い。でも冷静に解釈すれば特に不都合がある部分があるとは思えない。解釈をきちんとすれば何ら支障はない内容である。また借金や連帯保証を頼まれた時に断る際によく使われる「それは親父の遺言でダメなんだ」という口実のような便利な使い方もできる。
解釋では駄目なんだよ。形式が駄目なら駄目なんだよ。憲法なのだから。
平成十六年五月十八日
無職の人でも國民年金に加入してきちんと御金を納めてゐれば年金制度改正について發言してもよろしいのでせうか。

平成十六年五月十七日
「仕樣書に書かれてゐない事」と言つたら、この界隈で所謂「strictの思想」がそもそもW3CのHTMLの仕樣書に書かれてゐない事です。嚴密に言へば「或HTML文書は、DTDに照らしてvalidであるか」と云ふ事しか、話は出來ません。「どうあるべきか」について、仕樣書では殆どと言つて良いほど觸れられてゐません。せいぜい、「見出しはh1から順番に作るべきだ」と云ふ意見あるよ、と云ふコメントを附けてゐるくらゐです。構造化等と云ふ理念は、示されてゐません。
http://www.w3.org/TR/html4/struct/global.html#edef-H1に、Some people consider skipping heading levels to be bad practice. They accept H1 H2 H1 while they do not accept H1 H3 H1 since the heading level H2 is skipped.とあります。これは飽くまで「こんな考へ方をする人もゐるよ」と云ふ參考意見への言及でしかありません。
HTML 4.01の仕樣書は、見出しレヴェルに基く論理構造の暗示・明示も、div等による論理構造の明示も、全く要求してゐません。ただ、こんな要素がある、こんな文字は使つてよろしい、云々、と言ふだけです。
平成十六年五月十七日
石川氏はかつて、明らかに div 要素として存在しているものだから div 要素として明示すべきだ、と述べているのです。と書いた事があります。しかし、この意見は受容れられません。明らかに、と石川氏は書きましたが、divの所在は誰の目にも明かなものではありません。そもそも、divは單なる汎用ブロック要素であり、必然的な存在となる事はありません。仕樣書にも、offer a generic mechanism for adding structure to documentsとあるのみで、「要求する」の類の文言はありません。
Thus, authors may use these elements in conjunction with style sheets, the lang attribute, etc., to tailor HTML to their own needs and tastes.
制作者は、divを用ゐて良いのであつて、用ゐなければならないのではありません。
HTML 4.01の仕樣書におけるdivの説明では、わざわざtableと併用するサンプルが掲げられてゐます。そのサンプルを見ると、adding structure to documentsのstructureは「文書構造」の意味ではないやうに思はれます。また、We might use the TABLE element as follows to structure the information:と、mightと云ふ表現を使つてゐるのを見ると、この種のdivの使用を仕樣策定者が好ましからざるものと思つてゐる可能性があります。もちろん、tableの使用についてさう考へてゐる、と讀む方が良いかも知れませんが、この邊はニュアンスの問題になりますから、嚴密な話の根據として斷定的な結論を引出すのに利用するには不適切と言へるでせう。あーここで「知れません」式の書き方をまたやつてゐますね俺。
平成十六年五月十七日
と言ふか、嚴密な話をすれば、そもそもW3CのHTMLの仕樣書は「Recommendation」即ち「おすすめ」でしかないのであつて、「絶對に守らなければならない」とする根據にならない、と云ふ事になります。
餘談ですが「Recommendation」でぐぐると「HTML 4.01 Specification」が一番上に來ますね。
平成十六年五月十七日
今週のせんせいのお時間も例によつて終了。
作畫が非常に微妙だつたが脚本は良かつた。
あと、清水香里の中山、違和感をキャラクターと思へばそれなりに味がある演技であると思へるやうになつて來た。と言ふか、さう思はないと見てられない。
平成十六年五月十七日
僕は「解析しようとすれば解析出來るやうになつてゐる」という主張が JIS X 4151-1992 14 にそぐわないものだと申しているのです。
俺には、それがどうしてそぐわないのか、さつぱり解らないのです。
そのような意図ならば、せめて「その爲」ではなく「その爲には」という条件付きの文として記述していただかないと、誤解を招くと思います。
その點では御詫びいたしますが、そこまで「嚴密」な讀み方をされるとはこちらとしては思つてゐませんでした。
平成十六年五月十七日
というか、仮に XHTML 文書の文書型宣言を HTML 4.01 のものに書き換えても、その場合の / は NESTC と見なされるので文法上正しいはずですけれども (/ に続く > は、内容モデルの関係上 Transitional や Frameset でないとエラーになりますが)。
ISO/IEC JTC1/SC34 N0029
SGML的には正しいらしい。しかし、HTML 4.01 Strictでinvalidだつたら問題ではないですか。
僕が否定したのは「SGML 文書に対する非 SGML 的な機械処理」なのですが。<hr /><hr></hr> と解析するのは SGML 的な機械処理でしょう。
「XML文書に對する非XML的な機械處理」ではないんですか。さうですか。いや、SGML的な處理でもこの場合はXML的な處理でもある、と云ふ事ですか。さうですか。何がSGML的で何がXML的なのかも俺的には最早不明ですが。
と言ふか、石川氏が言ふ「SGML 文書に対する非 SGML 的な機械処理」を、ISO-HTMLは常に要求してなどゐないので、石川氏の非難はISO-HTMLに對する非難にならないのですが。野嵜に對する非難だつたら、ISO-HTMLを否定するやうな結論は石川氏は出せなかつた筈だし、その邊、石川氏が何を言ひたかつたのか、全然俺には解らない。
平成十六年五月十七日
HTMLにしてもXMLにしてもSGMLのどこそこを參照だの何だのと自己完結してゐないので落とし穴が多過ぎ。と言ふか、これでは正直言つて、HTMLは素人には扱へないよ。「正しいHTMLが普及しない」方が自然だよ。
平成十六年五月十七日
<hr />を含むHTML 4.01 Transitionalの文書を檢證してみた。W3Cのチェッカはvalid、AHLはinvalidと報告して呉れた。Another HTML-lint gatewayHTML4.01 Transitional では空要素タグを `<HR />` と書くことはできません。と云ふ警告を出した。解説にはXHTML以外では、空要素タグを /> で閉じることはできません。とある。AHLのバグと云ふ事?
平成十六年五月十七日
で、書いておくけれども。
俺がXHTMLを嫌ひなのは、XMLが嫌ひだからではなくて、HTMLをXMLで書直したものだからだ。
「XMLとしての利點がある」と言つても、もとはHTMLなのだから、XHTMLはHTMLとしての弱點を引繼いでゐる。
それにHTMLは、SGMLの應用として整備されてゐた。で、SGMLとXMLは、似て非なるもので、だからHTMLをXMLで書直せばそれで良いと云ふものではないと思ふ。
XMLの性質に基いて、全く新しい言語を作るのならば、それはそれで良いと思つてゐる。しかし、「HTMLをXMLで書直したXHTML」と云ふのは、無理があると言ふか、無意味であるとしか思はれない。
HTMLとの互換性を言ふのならばHTMLのままで良いし、逆にXMLとしての利點を活かしたいのならば、XMLで完全な言語を作つてそれに基づいてデータを作成し、必要に應じてウェブ向けにはHTMLとして變換・出力する、といつたやり方をとればそれで十分だと思ふ。なぜXHTMLとして文書を公開しなければならないのか、と云ふ必然性が俺には理解出來ない。
平成十六年五月十七日
W3CのHTMLにしてもXHTMLにしても、規格自體に「構造化文書」の觀念が「守らなければならない事」として記載されてはゐない。だから、この界隈で所謂「strictの思想」の類は、仕樣書からは出て來ない。「tableレイアウト」だらうが「div厨」だらうが、文法的に正しければ正しいと言ふしかない。
その邊の事を決り事として仕樣に盛込んでゐるのはISO/IEC 15445:2000で、だからそれを俺は擇ぶしかなかつたのだが、ほかに撰擇肢がないのだから仕方がない。
ISO/IEC 15445:2000は、既存のHTMLの仕樣で許された以上の決り事として「構造化文書」の觀念を盛込みつゝ、データ自體は既存のHTMLの仕樣の中でやりくりする、と云ふ方針をとつてゐる。さうなると、結局のところ解釋でデータが「構造化文書」であるか何うかを判定するしかない。石川氏は、解釋に依つて何う斯うするのはをかしい、と言つてゐる(のだと思ふ)。が、ISO/IEC 15445:2000では、檢證システムと適合システムとを區別する、と云ふ書き方をして、適合システムでは「構造化文書」としての解釋をしなくても良いとし、一方の檢證システムではその解釋をする事としてゐる。この邊でISO/IEC 15445:2000としては既存の仕樣等と折合を附けようとしてゐると俺は看做す。が、このISO/IEC 15445:2000の抱へ込んだ厄介事は、そもそものHTMLの仕樣に「構造化文書」と俺が今、假に呼んでゐる觀念が盛込まれてゐないがゆゑの事であつて、責任は既存のHTMLの仕樣にある。そして、HTMLを單にXMLで書直しただけの(實際にはそれだけでない事は解つてゐるが、敢てさう言ふ)XHTMLはHTMLに缺落した「構造化文書」の觀念を相變らず缺落させてゐる。
石川氏が「明かにdivがある」と言つたけれども、divの存在は自明でない。見出しや段落を、tableに收めるのは何うか、リストに收めるのはどうか――divは汎用ブロック要素であり、「構造化文書」としての文書の構造を明示する爲のものと定義された要素ではない。餘程、文書を「構造化」されたものとして明示したいと考へるのであれば、個人的にはリストとして表現してしまつた方がまだ良いとすら俺は考へる。だから「闇黒日記」の文書はさうしてゐる。
平成十六年五月十七日
本日の買物。
カール・レーヴィット『世界と世界史』(岩波書店)※ダブり
W・バネンベルク『なぜ人間に倫理が必要か』(教文館)
平成十六年五月十七日
今朝の讀賣新聞の編集手帖に「笑顔がはじけた」とあつたのだけれども、かう云ふ言ひ方、「あり」なのかなー。

平成十六年五月十六日
ひつそりとhr論爭。
hr 要素 : Code-404
この要素って一般に罫線が表示されますが、これって区切りを表す論理要素じゃないんですか?
Other Voices -Poesia
問題は如何なる見栄えかではなく、如何なる論理構造か、なのではないのですか。論理構造はhr要素なしに明示できるし、むしろそちらのほうが好ましいのではないかと思う。
い) hr要素について @ [釣瓶雜記(2004年5月)]
hr要素は視覺系のUAに水平線をレンダリングさせる、とそれだけです。
Other Voices -Poesia
hrが出現するのは、brの次くらゐ珍しいはずですが。といふのは、このやうに考へればhrの使ふ余地は見出しにかからない文字列を対象とした場合で、それは野嵜氏の闇黒日記のやうな、dl-dt-dd型マークアップゆゑに日附の区別をつけなければならないやうな場合と、h1要素が出現する前にある文字列に区別をつける(例へばパン屑リストとサイトコンテンツを区別するやうな)場合くらゐしか私は思ひつきません。
平成十六年五月十六日
SGMLの適用業務(此所は笑ふところ)として開發されたHTMLとその發展形である1.1までのXHTMLは、マーク附けされ、構造化されてゐたとしても、テキストに毛が生えたやうなもので、ただ、べたのテキストよりは處理し易いデータとなつてゐるに過ぎません。データベースのデータのやうに、ソートが效くとか言つた、ノンリニアなデータになつてゐる訣でもなく、ツリー状に構造を圖示出來ても、個々のツリーには位置關係・前後關係・文脈が存在するリニアなデータです。プログラムには、頭から讀込まれて、順に解析されるデータです。一往言つておくと、W3CのHTML 4.01等は見出しに據る論理構造のツリー化は想定されてをらず、div等で明示しない限り各部分・各要素の入れ子關係は存在しません。それに對してISO/IEC 15445:2000は、見出しレヴェルに基いて文書の論理構造を解析出來るやうにマーク附けする原則を定め、論理構造を意味的に存在せしめる一方、div等に據る要素の入れ子關係を記述しないで外見的にはフラットなものとするやうに定められてゐます。
W3CのHTML/XHTMLでは、そもそも何かの要素で文書の部分を區切る、と云ふ發想はなく、要素の入れ子關係が存在するだけです。hr要素はp等のブロック要素と共に、上位の要素の中に並ぶだけです。
ISO/IEC 15445:2000では、W3CのHTMLが定める以外の要素は追加しない方針をとつた爲、解釋に依つてベーシックなマーク附けから文書の論理構造を解析出來るやうに定められてゐます。その爲、見出しレヴェルに據つて文書の内容をツリー状に構造として解析する事がパーサに要求されますが、見出しレヴェル以外の方法で文書の構造を明示的に變更する事が禁止されてゐます。そして、見出しとその見出しに附随する内容とはセットとしてツリーにぶら下がります。hrもp等と一緒にツリーに並んでぶら下がるだけです。
いづれにせよ、頭から順にHTML文書を讀んで行つて解析するパーサで、ほかの要素と並んで存在する一つのブロック要素としてhrは認識されるのであつて、その時、パーサがhrをどのやうなものと解釋するかはパーサに依るとしか言ひやうがありません。基本的にプレゼンテーションの爲の要素なので、意味的にhrは無視されるものでせう。
平成十六年五月十六日
リニアなデータであるHTMLの場合、前後關係があるからhrの前と後は存在します。しかし、hrの前の、例へば複數のpが一群であり、後の複數のpがやはり一群である、と云ふ事は、hrがあるだけでは、解析するプログラムには解りません。プログラムには、hrの前にpがある、後にまたpがある、……、といつた事しか解りません。
W3CのHTMLの場合、div等で入れ子構造として要素をグループ化する事で、文書の中で區切られた一部分、と云ふものを明示出來ます。ただ、divは汎用ブロック要素であり、別に必然的に文書の中の一部のブロック要素等を群化する要素ではないのであつて、解析するプログラムも、まあそんなブロック要素があるな程度しか思はないでせう。tableやリスト、blockquoteでpをまとめて包含してゐても、HTML 4.01の場合、DTDと仕樣書の定義だけでは不正とも何とも極附けられません。プログラムの側では、はいさうですか、とデータを受取つて解析する事しか出來ません。製作者が「インデント」を意圖してblockquoteを使つてゐたとしても、プログラムの側ではわかりません。ただ、プログラムを作る人が、世間のHTML文書を見てゐて、馬鹿正直に仕樣書の定義通りに解釋すれば馬鹿を見ると解つてゐて、それでそれなりにプログラムを作つてゐるから、それつぽく解析されるに過ぎません(例・Google)。hrにしても、プログラマがそれなりに氣を利かせるパーサを作つてゐれば、文書の區切りとして解釋される事もあり得ますが、さう解釋されなくとも文句は言へません。基本的に、仕様書通りに解析・解釋されれば幸運、それ以上は僥倖、それ以下でも現實には仕方がない、とその程度に諦めておくしかありません。
そもそも、そんなややこしい解釋を出來るやうに、HTMLは作られてゐません。もともとは、最低限のコンピュータ處理を出來る程度のマーク附けを實現する爲にSGMLは作られてゐるのであり、SGMLのアプリケーションとして構想されたHTMLも、大した事に使へる訣がありません。そして、基本的な仕樣をXMLベースで書直しただけのXHTMLも、現状ではHTMLと同じ「弱み」を持つてゐます。それはそれで仕方がありません。
平成十六年五月十六日
うちの場合、dl-dt-dd型マークアップ――と言ふより、ただのテキストの羅列をマーク附けしただけなので、hrは別に要らんのですが、見てくれの調整の爲に入れてゐます。誰も入れてはいけないと言つてゐないので。
平成十六年五月十六日
http://www.satoshii.org/markup/notes/2004/05.ja.html.sjis#date16
非難されてゐるらしいのだが、幾つかの引用文があつて、それに強調がなされてゐるだけで、石川氏が何を言ひたいのか、さつぱり解らない。
平成十六年五月十六日
http://www.satoshii.org/markup/notes/2004/05.ja.html.sjis#date16-2
余談ですが、XHTML Basic には hr がありません、とか、XHTML 2.0 でも hr はなくそうかとか、名前を変えようかとか言った話が出てます、とか。ご参考まで。
何がご参考までなのだらう。
平成十六年五月十六日
「要求されますが」とか「ツリー状」とかいつた用語が氣に入らないんだらうか。
「見出しレヴェルに據つて」云々の記述は「その爲」と云ふ文脈における記述として讀んで貰ひたいし、「ツリー状」と云ふのもHTMLの要素・見出し(h1〜h6)で示したやうなWordのアウトラインモードのイメージで考へて貰ひたい。
平成十六年五月十六日
と言ふか、ISO/IEC 15445:2000 も当然この主張を踏襲しているからこそ、Pre-HTML の機構について which is not a part of this International Standard とか Validating systems are required to support these techniques, but conforming systems are not. とか and conforming systems are not required to support such a construction などと注記しているのです。と述べてゐて、石川氏はISO-HTMLに問題が無い事は解つてゐる筈だ。問題がないのに何を問題であるかのやうに石川氏は言つてゐるのだらう。
平成十六年五月十六日
と言ふか、石川氏がなぜ、もし、この「要素」 ― すなわち「見出しを含む div」 ― をマーク付けせず、しかもそれでなお「見出しから見出しまでの範囲 (例えば div1 疑似要素のような)」を扱うことを期待するのであれば、それは最早 SGML などではないと書いたのか、いまだに俺にはわからない。俺は何も期待してゐない。俺はただ「解析しようとすれば解析出來るやうになつてゐる」と述べたし、述べてゐるに過ぎない。
平成十六年五月十六日
と言ふか石川氏、何うしてそんなにdivが好きなのだらう。divは單なる汎用ブロック要素に過ぎず、文書構造を明示する爲の要素として定義されてゐません。
見返してゐれば石川氏、ISO-HTML の仕様では DTD の制約上、できあがる文書(データ)の構造が特殊なものになるから問題にしているのです。なんて嘘を書いてゐるし。ISO-HTMLの文書はW3CのHTML 4.01に準據した正しい文書になるのだし、そもそも文書の構造について何も定義してゐないW3CのHTML 4.01の觀點から文書(データ)の構造が特殊なものになる等と云ふ批判を行ふ事が不可能である。
機械的に処理できればよいと言うものではありません、なんて言ふのならば石川氏、hrやimgやbrを含むXHTMLのデータはHTMLのパーサで常にエラーになるのだから不可、と言はなければならない筈。「<hr />の/はHTMLのパーサではエラーとして無視される」と言ふのを石川氏は認めてゐるらしいのだが。と言ふか、「<hr />」を「<hr ></hr>」と機械的に處理する事について、石川氏は辯解するなり、謝罪するなり、した方が良くないですか。
平成十六年五月十六日
仕様に記載のない (しかも、もしそのような記載があれば仕様が破綻してしまうような) 事柄を、恰も仕様が要求しているかのように述べていらっしゃることが問題だと言っているのです。
仕樣書の定義に反した記述はしてゐません。と言ふか、さう「讀めてしまふ」のだと言ふのならばそれは申し譯ないとしか言ひやうがありませんが、仕樣の記述に基いて俺の言葉も解釋して貰へればと。と言ふか、石川氏の文章、意地でも野嵜の發言を仕樣に對立してゐるものにしてしまはうとしてゐるかのやうに讀めてしまふのですが、それはそれで問題ではないですか。
僕は "見出しレヴェルに據つて文書の内容をツリー状に構造として解析する事がパーサに要求されます" という記述を、「ISO/IEC 15445:2000 は SGML 構文解析系に対し、h1-h6 に対応する div1-div6 的なコンテナ要素を付加して文書の構造を解析するよう要求している」という主張として解釈したのですが、この解釈が間違っているのでしょうか。
ISO/IEC 15445:2000では、W3CのHTMLが定める以外の要素は追加しない方針をとつた爲、解釋に依つてベーシックなマーク附けから文書の論理構造を解析出來るやうに定められてゐます。その爲、見出しレヴェルに據つて文書の内容をツリー状に構造として解析する事がパーサに要求されますが、と俺は書いてゐます。飽くまで「解釋したいパーサは解釋出來る」と書いてゐるのであつて、「SGMLパーサは常に××しなければならない」とは書いてゐません。ISO-HTMLの仕様書もさう云ふ事を言つてゐるに過ぎないのではないですか。だから前から「暗示」「示唆」と書いてゐるのですし、今も「解釋出來る」と書いて「解釋しなければならない」と書かないでゐるのですが、それを「機械的な處理を期待し、暗示を常に讀取つて貰はうとしてゐる」等と解釋されても困ります。
平成十六年五月十六日
と言ふか、文書が高度な機械處理をされる事を想定してHTMLやSGMLの仕樣が定められてゐると、俺は思つてゐません。それはSGMLの成立ちを見れば解る事です。寧ろ、簡單な處理しかされない前提でテキストにマーク附けを行ふ、と云ふ事で、SGMLは作られ、それを應用してHTMLの規格が定められてゐるのではないですか。
しかし、その「高度な機械處理を期待しない」HTMLに、石川氏は文句を言つてゐると、俺は思つてゐましたよ。「高度な機械處理」が可能となるから石川氏がXMLを――延いてはXHTMLを――推奬してゐるのだと、俺は思つてゐましたが。
ところが今、石川氏は「ISO-HTMLは高度な機械處理を期待してゐるから不可」と述べてゐる訣です。私にはわけがわかりませんでした。
平成十六年五月十六日
嚴密な話をするのだつたら「檢證システムと適合システムとを區別して話さなければならない」と云ふ事がISO-HTMLでは決つてゐるのですし、ならば今日の野嵜の話がそれほど嚴密でない事、單に漠然としたアイデアの話をしてゐるに過ぎない事は明かで、さう云ふ「文脈」で讀んでいただければ助かりますが。
あと、「○○。その爲、××しますが、△△」といつた書き方で、○○と××が繋がつてゐて、「が」で接続された一つの文章が意味的に切れてをり、××と△△が別の話になつてゐる、と云ふ文章を野嵜は良く書きますが、分り難いと云ふ批判ならば受けます。ごめんなさい。ただ、かう云ふ文體は野嵜の拔き難い癖で云々。

平成十六年五月十五日
その小池氏のMLの文章がShow's Hot Cornerの「乳の詫び状(2004/05/14)」で引用されてゐる。
それにしても「乳の詫び状」と云ふ見出しは何とかならないですか云々。
平成十六年五月十五日
これを受けてbtmさん(誰)が、全然楽しくないイヤガラセ計画、そしてもじら組の総意という発言を行っている。
いわい氏は、btmさん(誰)と書いてゐる。もしいわい氏がbtm氏の事を知らないからこんな風に(誰)を連發してゐるのだとしたら、それはそれで問題だと思ふ。
もし、知つてゐてわざと(誰)を連發して面白がつてゐるのだとしたら、小池氏が面白がつて「嫌がらせ」云々と言つてゐるのと同樣、不快なものであると言つて良い。
平成十六年五月十五日
のあ
「つかれがとれるくすり」つてどうかな?
あやの
……人間を罷める積りなら止めないけど……。

平成十六年五月十四日
數年ぶりに唐木順三を讀む。『中世から近世へ』。
ちなみに、野嵜が奬める批評家の中で最も讀まれない人の一人が唐木順三である。
平成十六年五月十四日
バーナード・ショオ『資本主義・社會主義・ファシズム・共産主義』(上下卷)磯部書房
吉田健一『言葉といふもの』
龜井勝一郎『大和古寺風物詩』天理時報社
小林秀雄『文藝評論』日産書房
江上波夫編『騎馬民族とは何か』毎日新聞社
江上波夫・大野晋編『古代日本語の謎』毎日新聞社
大野晋編『日本古代語と朝鮮語』毎日新聞社
『大和古寺風物詩』はカヴァ附きなので買つた。歸宅して見てみたら、あとがきのところが一枚破られてゐる。
『文藝評論』には、なぜか創元社版全集全八卷の月報が插み込まれてゐる。ので買つた。多分だぶり。『文藝評論』自體も、月報も。だが、それがいい。
ちなみに龜井勝一郎も、野嵜が奬める批評家の中で以下略。
平成十六年五月十四日
http://diary.smellman.homelinux.org/?20040512#12-6
もじら組は普通の人の集りであるけれども、その中で小池氏だけがDQNであると。嫌な要約だな。
小池氏にしても哀氏にしても、惡氣があつた訣ではなくて、天然であつただけです。そして、だからこそ困る訣です。
平成十六年五月十四日
なんか近所で餌をやつてゐる人がゐるらしく、野良猫が増えてしまつて困つてゐる。生ごみが早めに收集に出されれば引つ掻き囘す、庭に入り込んで糞をする、植木をひつくり返す、云々。迷惑なのだが、自治會が違ふので、話がその人に傳はらない。直接言へば嫌な顔をするだらうし。本人、良いと思つてやつてゐるので、周りの迷惑には御構ひなしである。
猫好きに惡い奴はゐないさうだが、善人にろくな奴がゐない事はかの親鸞上人も述べてゐる事である。
平成十六年五月十四日
善人は、俺みたいな意地惡に比べれば、明かに好い人であつて、好ましい訣だが、さう云ふ人が「正しい目的」の爲に「正しくない方法」をとらうとしたから叩かれてゐるのである事。
叩く側も適當なところで引いておいた方が良いかと。

平成十六年五月十三日
岡崎律子Book
MELOCURE[メロキュア]
岡崎律子 情報
http://www5b.biglobe.ne.jp/~nnaro/brainstorm200405.html#20040512
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%b2%ac%ba%ea%ce%a7%bb%d2
平成十六年五月十三日
何處のどなたかは存じませんがどうも。
http://www.themexp.org/preview.php?mid=51567&type=vs&view=date&page=1&cat=&name=Windows+3x.zip
http://www.venus.dti.ne.jp/~mueji/skins/skins.htm

平成十六年五月十二日
『ウィンドウズXP』を『マックOS X』風にするユーザーたち
しかし決してマカーにはならないの法則 (2004/05/12 - 03:53) @ [ねこめしにっき(2004年5月前半)]
Mac][Windows]その説に激しく同意 (2004-05-12) @ [おさんぽさんぽ]
Macのインタフェイスは、Macで使ひ易くとも、Windows上では使ひ易くない。
俺は、Windows 3.0〜3.1の頃のGUIデザインが好きで好きで堪らないのだが、誰もそんなスキン・テーマを作つて呉れない。ただし,Windows 3.0標準のインタフェイスはそれほど好きではない。プログラムマネージャは要らない。古いファイルマネージャも要らない。
あと、Macのインタフェイスは必ずしも使ひ易いとは言へない。マルチタスクが一般化する以前に作られたMacのインタフェイスは、マルチタスク環境下では幾つか不都合な部分を持つ。アクティヴなアプリケーションが解り難いとか、タスクの切換が解り難いとか。また、個々のアプリケーションのウィンドウにメニューが存在するウィンドウの環境に馴れてゐると、、畫面の上にメニューがあり、タスクが切替はるとメニューも切替はる、と云ふのが、甚だ不自然に感じられる。
もつとも俺は、マウスの第二ボタンでコンテキストメニューを出すのが正しい作法で、メニューバーは邪道であるOS/2のインタフェイスがベストだとか思つてゐたりする訣で。云々。
今日も眠い。
平成十六年五月十二日
http://slashdot.jp/articles/04/05/12/0036258.shtml?topic=19
ねとらんが家宅搜索を受けるのなら、文教堂も家宅搜索を受けるのかな。
47氏、BBS機能強化の爲に1系の開發を中止して2系に移行したとか言つてゐたやうな記憶があるのだが。
平成十六年五月十二日
http://diary.smellman.homelinux.org/?20040511#11-4
今のもじら組は最う駄目らしい。
正直言つて、前からもじら組のやつてゐる事はアレだと思つてゐたりするのだけれども。
ここいらで適當に「日本もじら普及協会」とかでつち上げてみようかなー。なんか個人で適當に協会をでつち上げるのがウェブのしきたりらしいし。良く知らないけれども。
取敢ず、もじらは全然使つてゐない訣で。やつぱりOperaですよ奧さん(誰)。
平成十六年五月十二日
健康診斷で血を拔かれてきた。詳細は例によつて例の如くなので書かない。毎年同じ。
新しい事なんて滅多に起りはしないものだ。

平成十六年五月十一日
本日のMADLAXも終つた。次囘「繪本」。原文のママ。
平成十六年五月十一日
ソニー、キーボードレスの最小Windows XP機「VAIO type U」
ちよつとほしいと思つた。OS/2入るかなー。
平成十六年五月十一日
Webブラウザ徹底比較(1) - むぅもぉ.jp
Webブラウザ徹底比較(2) - むぅもぉ.jp
ブラウザの比較つて、何處かのサイトの表示を比較すればそれで十分なのだらうか、と最近思ふ。
平成十六年五月十一日
kazhik.mozilla.blog:Web標準化プロジェクト≠Web標準普及プロジェクト
なんでわざわざ紛らはしいネーミングをするかなーとか思つたり思はなかつたり。
Free the Web!
「自由」とは「氣に入らない相手/連中に嫌がらせをする自由」は意味しないんだよと言つてみたりみなかつたり。
これから立ち上げる予定らしいのだが、どんなものになるのやら。
Mozilla JLP :: フォーラムを表示 - 準備委員会本会議場を見ると、コンセンサスが全然とれてゐない状況のまま、とにかく「運動」を始めようとしてゐるやうに思はれる。
もじら組のWeb標準普及プロジェクトではありません。と小池氏は「kazhik.mozilla.blog:Web標準化プロジェクト≠Web標準普及プロジェクト」で述べてゐるが、Mozilla JLP :: トピックを表示 - 共同ウェブ標準化プロジェクト(仮称)準備委員会の發言を見ると、中野氏とMoonstone氏とは、既存のWeb標準普及プロジェクトopen the web -MoonStone'S Laboratory-とを引繼ぐのが「Web標準化プロジェクト」であると認識してゐる。
どうも、小池氏の「暴走」――と言ふより、小池氏が獨りで勝手に突走つてゐるやうに見える。
もじらと關係がないと言ふのなら、もじら關係のサイトで「準備委員会」ごつこなんてやらなければ良いのに。と言ふか、個人サイトで「委員会」もないものだらう。
と言ふか、もじらとOperaの名を借りて、小池氏は自分の個人的なプロジェクトを、恰も公的なプロジェクトであるかのやうに見せかけようとしてゐるのではないか。個人でやる事ならば個人の責任でやるべきだ。すぐ「何とか委員会」「何とか協会」みたいなネーミングをするのは感心しない。
平成十六年五月十一日
上の項目と下の項目とは無關係の筈。
平成十六年五月十一日
自分とは反對の意見を持つ人の自由も認めつゝ、自分の意見を述べる自由mo 主張する、と言ふのでなければ、自由主義的な態度とは呼べない。ただ「自分だけの自由」を主張するのは、自由主義的な態度ではない。
「自由な態度」と「自由主義的な態度」とを混同してゐる人が――特に、自由である事がそれ自體として素晴らしい事であるかのやうに言ひ、自分と意見を同じうしない人を「反自由主義的」と極附ける人の中に――良くゐるのだけれども、勘違ひだから考へを改めるべきだ。
平成十六年五月十一日
反對者の意見をねぢ曲げたり、反對者の印象を惡くするやうな嘘を言つたりする事で、自分の意見を通さうとしたり、反對者の人間を不快にさせて自己滿足したりする人がゐる。
特に、或種の言論活動に對して、その種の嫌がらせ的な攻撃をする人がゐる。
さう云ふ人は、自分のやつた「工作」に對して、言論以外の手段で反撃される可能性を豫期しておいた方が良い。その種の「工作」は、言論ではないからである。

平成十六年五月十日
せんせいのお時間、中山登場。
中山の漫畫が下手な事よりも、清水香里の演技が下手な事の方が目立つてゐるやうな氣がするのは俺だけでいい……。
來週はクリスマスねたか……。
平成十六年五月十日
オープンなのは良いけれども、DQNを排除出來ないのはいろいろと云々。
平成十六年五月十日
本當にどうでも良いのだが、ヴァンパイアホストつて、どんな人がターゲットなのだらう。
平成十六年五月十日
京王の券賣機ではぎざ附き十圓玉は使へないんだな。
某カレーショップで處分。
平成十六年五月十日
カレー屋を出ようとしたその瞬間にふられ気分でろけんろーるがかかるし。

平成十六年五月九日
「○○運動」「○○反對運動」の類の事をやつてゐる人は、常に自らの正義を信じてゐるものだが、どうでも良い事を主張したり、どうでも良い事に反對したりしてゐるにもかかはらず、屡々自分の正義に醉つてしまふ。
「運動家は常に自分の正義に醉つてゐる」と機械的に判斷する人が世間に澤山ゐる。
運動の正義の妥當性は、主張の内容の妥當性や原理の妥當性を證明するものとはならない。運動に對する印象は、それ自體、批判の妥當な根據とならない。
運動によつて「物事の是非を變へる」事は、何の意味もない。
運動に先行する「確定した物事の是非」が存在してゐるならば、その「是非」を指摘する事、「是非」に反した現實が存在してゐるのを指摘する事が、最大の效果を發揮する批判となる。運動家の人格、物の言ひ方が氣に入られなくとも、「是非」自體と、それに對する批判とが、反論の餘地のないものであれば、正義と批判は運動家の印象を超えて勝手に現實に干渉し始める。
運動家の印象を強調するのは、「物事の是非や眞實に基く現實の變革=現實を改善する爲の變革」よりも「運動家に據る變革=運動家の都合に據る變革」を望む人間がする事だと言へる。
「いつも自己中心的な判斷を下す」「いつも電波を受信してゐるやうな事を言つてゐる」と云ふ印象は、飽くまで「運動家の主張に對する印象」であり「運動家の印象」ではない。
「正しい目的」であつても「間違つた手段」を取つてゐたら駄目。
「間違つた目的」であつても、「正しい手段」を取る事はあり得るし、その「手段」として「正しい根據」が提示されてゐたら、それはそれとして認めるしかない。一方、「正しい根據」が「間違つた結論」を導いてゐる時、その理由を指摘するのは必要な批判である。
平成十六年五月九日
「正しいHTMLとCSSの普及の爲にはもじらを」と云ふ言ひ方と「正しい假名遣の普及の爲には『字数歌』を」と云ふ言ひ方とは、似てゐる。やうな氣がする。
平成十六年五月九日
サイト管理人美少女化計画推進のページは、その役割を終えました
平成十六年五月九日
CASSHERN〜なぜキャシャーンは人を激怒させるのか?
しかし、例えば僕などは日記をみてもらえれば判るようにキリキリ監督に尋常ではないレベルの妬み・嫉み・恨みを抱いているが、それとこれとは別で、「CASSHERN」という映画じたいは素晴らしく面白い!と手放しで絶賛してるし、云々。
平成十六年五月九日
「Internet Explorerの不具合を氣にしないで、正しいHTMLやCSSを書く」と言ふのならば話は解るが「Internet Explorerの不具合を衝く爲に間違つたHTMLやCSSをわざと書く」と云ふのは何うかと思ふし「不具合があるInternet Explorerを故意に排除する」と云ふ努力をするのは無意味だと思ふ。
「不具合があるNetscape Navigator 4.xやInternet Explorerでも、正しい記述でこれだけの表示を實現出來る」とか、さう云ふ努力なら、して良いだらう。
平成十六年五月九日
正義を掲げてゐるからと言つて、嫌がらせが許される筈もない。と、日頃、天誅の名の下に惡質な嫌がらせを受け續けてゐる俺は言ひたい。
平成十六年五月九日
Internet Explorerを使ふのは、それ自體、惡い事ではない。Internet Explorerに不具合があるからといつて、それを擇んだユーザを「惡い」と極附ける事も出來ない。知識を持たうとしないのは罪であるが、知識がない事は、それだけでは罪にはならない。
啓蒙ならば、理詰めで説得をすれば良い。
特定の相手との議論で、説得が通じない場合、その時點で相手をDQNと判斷し、次の段階に移る、と言ふのならば、仕方がない話である。が、特定の相手ではなく、不特定多數が相手であるのならば、「次の段階」への移行は不可能である。
平成十六年五月九日
めも。
Windows コンソーシアム記念館
Windows コンソーシアム記念館:Windows アーティクル

平成十六年五月八日
文字化けするのはエンコードしていないからではなくてcharsetが合ってないからです。
……と云ふ情報を。うぼあー。なるほど。世の中はえてしてかんたんにできてゐるものなのだ。なぞ。どうもありがたうございます。
平成十六年五月八日
ドライヴァとハードウェア周りのサポートプログラム。
WXG & 正字正かな辭書
秀丸
FFFTP
電信八号
Opera
LHMelting & caldix(*.dll)
GV
そのたいろいろ。Winampとか窓の手とかB's Recorder GOLDとかPhotoshopElementsとか。
平成十六年五月八日
simpl-e-blog(例によつてtitleが腐つてゐるが「複数サイト運営スタイル研究」(04/04/25 11:49)
平成十六年五月八日
われ思ふ ゆえに・・・の2004.5.7.FRI「日記書きにどのくらい時間をかけていますか?」
D-Point PICK UP - 431000 日記作成所要時間問題
平成十六年五月八日
駄文にゅうす 〜 Not Found リンク集 〜
平成十六年五月八日
90歳のお祖母さん。
平成十六年五月八日
Internet Explorer 窓から投げ捨て同盟
俺は「投捨てろ」とは言はない。
平成十六年五月八日
user experienceを「ユーザー体験」と直譯するのは如何なものかと。もつと良い譯があつても良いのではないかと。
experienceは、英和辭典には「経験」「体験」といつた譯しか載せられてゐないけれども、Pocket Oxfordにはobservation of or practical acquaintance with facts or events.といつた解釋が載せられてゐて、「見聞」「見聞きする(した)事」をも意味する。
平成十六年五月八日
都道府県保管庫(仮)が出來てゐる。
平成十六年五月八日
Broken Diary:最新 5 日分
kazhik.mozilla.blog
http://diary.smellman.homelinux.org/?20040507#07-2とかhttp://blog.livedoor.jp/kazhik/archives/544962.htmlとか。
kazhik.mozilla
和ジラ
平成十六年五月八日
Web標準普及プロジェクト
ブラウザを選ばないWebサイトを作ろう!
平成十六年五月八日
Log of "Current Status": 2004-05
平成十六年五月八日
檢索エンジンのぼっとをはじく話も、特定のブラウザをはじく話も、似たやうなものと言へば似たやうなものだつたりするのだが。
單にUser Agent詐稱が増えるだけだつたりする。
と言ふか、例の「あなたのブラウザはフレームに対応していません」の類のメッセージを書くのと、「あなたのブラウザはCSSに対応していません」の類のメッセージを書くのとで、何か違ひがあると考へる人は、何か考へ違ひしてゐるとしか。

平成十六年五月七日
年に一度のおつとめ終了。
通常モードへ移行。するか何うかは不明。いいかげん疲れた。
平成十六年五月七日
机の上の本を整理。
代りに机の横の本の山が前後三列に。
平成十六年五月七日
北村さんが「IEは窓から投げ捨てられるべきか」問題のリンク集を作つてをられるのだけれども。
http://www.akatsukinishisu.net/wiki.cgi?IE%A4%CF%C1%EB%A4%AB%A4%E9%C5%EA%A4%B2%BC%CE%A4%C6%A4%E9%A4%EC%A4%EB%A4%D9%A4%AD%A4%AB
http://www.akatsukinishisu.net/wiki.cgi?IEは窓から投げ捨てられるべきか
リンクを張る時、どちらの形でURLを記述すれば良いか。
Wikiと言へばWikipediaの富山さんは、Wikipediaの記事にリンクを張る時、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/富山ライトレール">[[富山ライトレール]]</a>と云ふ書き方をしてゐる。この時、Operaでジャンプすると、目指す「富山ライトレール」には辿り着けず、文字化けしたタイトルの「存在しない記事」に行つてしまふ。
代りにhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%ABとすると、Operaでも正しい記事に行き着く。
これ、Operaの擧動、どうなんだらう。
豫めエンコードして書いておいた方が安全なのだらうけれども、「日本語の文字」が交じつたURLがある時は、ブラウザの側でエンコードして投げるのが「氣が利いてゐる」のではないか。
と言ふか、エンコードした%なんたらかんたらと云ふURLは氣持ちが惡いんで使ひたくない、リンクする時にその手のURLを書かなければならないWikiは氣持ちが惡い、と書かうと思つて調べ始めたのだけれども、さう云ふ印象論をしても仕方がないので調べたら訣がわからなくなつた。昔から現在に至るまで何度と無く蒸返され、議論されてゐるに違ひない話題なのだらうけれども、當方、無知なので、どなたか偉い人、教へて下さい。。
ちなみに、Operaの話だが、[[富山ライトレール]]と云ふアンカーをアクティヴにした時と、平文の「http://ja.wikipedia.org/wiki/富山ライトレール」を選擇して、ショートカットメニューの「Go to URL」を擇んだ時の擧動は、違ふ。後者だと、Operaの側でURLの「日本語の文字」をエンコードして、「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%AB」にして呉れるので、記事に辿り着ける。
平成十六年五月七日
本日の買物。
寿岳文章『日本の紙』吉田弘文館
田中美知太郎『巻頭随筆』文藝春秋
山本健吉『青春の文學』要選書78
聖トーマス・アクィナス『キリスト教要理』大翠書院
バージル・ウィレー著『キリスト教と現代』創文社フォルミカ選書17
平成十六年五月七日
仕事が追加。五月末まで「戰時下」繼續。「忙しい」と云ふ事なので云々。
平成十六年五月七日
「SFは『if』のストーリーである」と定義すると「せんせいのお時間は『もし27歳なのに童顏で幼兒體型である教師がゐたら?』と云ふifのストーリーであるからSFである」と云ふ結論が出る。
平成十六年五月七日
とかげ

平成十六年五月六日
ナディア第一話をDivXでエンコードする時、畫質を最良にしたら900MB超のaviファイルが出來た。やり直し。
平成十六年五月六日
GW中に半日體内時計がずれた。取敢ず本日晝間は死ぬ豫定。
平成十六年五月六日
竹山道雄『續ヨーロッパの旅』(新潮社)とか『土田杏村全集第十卷』とか。
竹山さんの本には我々の世代にはなつかしい「ラスコー洞窟の壁畫」が收録されてゐる。

平成十六年五月四日
何年かぶりに某サイトの手入れをしてみた。CSSとか。
平成十六年五月四日
MADLAXの第五話はWMV9で64MB。一往見られる。ただやつぱり畫質がアレなのでやり直し。

平成十六年五月三日
林健太郎『史学概論』有斐閣
平成十六年五月三日
せんせいのお時間を材料に、DivXとXvidで綺麗に壓縮しようとがんばつてみたが、ふとWMVでエンコードしてみたらデフォルトでDivXとXvidを上囘る畫質を得られる事に氣附いた。orz
ただ、時間は倍かかる。模樣。
この後、PCくんにはしまじろうを録らせるので作業中斷。寢ます。
平成十六年五月三日
WMV9でエンコードしたところ、しまじろうが104MB、せんせいのお時間が88MBのサイズながら、そこそこ見られる映像(VHS 標準程度?)が出來てしまつた。
Xvidでためしに作つた奴は150MB超、Divx 5.1.1でためしに作つた奴は180MB超のサイズになつてもブロックノイズが出た。
どうしたものだらうか(何)。
と言ふか、DivX等でも設定を弄れば綺麗に出來るんだらうけれども、WMV9の手輕さにはかなはないやうな氣が。MSおそるべし。
平成十六年五月三日
[PC][UI]Fw:アプリの独自ユーザーインターフェースは良くないのか?
でも共通して言えることは、「使いやすいものは使いやすく、使いにくいものは使いにくい」ということであって、「標準的なインターフェースが一番使いやすい」ということではないと思います。
QuickTime Player(Windows版)、GUIのデザイン設計はともかく、操作に對する反應が一々遲い、と云ふ問題があるやうな氣が。iTuneは、使つてゐないので詳細は良くわからないけれども、メニュー構成や畫面の設計は割と普通の感じがする。操作への反應はどうなのだらう。
Re: [PC][UI]Fw:アプリの独自ユーザーインターフェースは良くないのか?
ユーザーの環境なんてWebページ以上に想像がつかない訳ですから、 独自インターフェースと共に標準のインターフェースも併設しておく必要があるのです。
メニューに關しては、絞り込むと言ふより、分り易く整理して貰へれば、ユーザとしては助かるなと。
平成十六年五月三日
Windows デスクトップ製品のライフサイクルガイドライン
Windows デスクトップ製品のライフサイクル
平成十六年五月三日
Microsoft Security : Sasser ワームについてのお知らせ
平成十六年五月三日
「真逆(まぎゃく)」と云ふ言ひ方が最近、流行つてゐるんですか?

平成十六年五月二日
岩波文庫から出てゐるスピノザの著作――『エチカ』『知性改善論』『神學・政治論』。

平成十六年五月一日
WindowsやMacintosh向けのアプリケーションで、獨自のGUIを勝手に作る馬鹿プログラマがゐるけれども、それでそのプログラムが使ひ易くなつたと思ふのは大間違ひだ。WindowsにしてもMacintoshにしても、標準的なインタフェイスが一番使ひ易いインタフェイスだ。標準から外れたインタフェイスは、それだけで十分、使ひ辛いインタフェイスである。
平成十六年五月一日
インタフェイスを勝手に作るのは、それ自體、ユーザビリティの低下を齎す。
プログラムのインタフェイスは、標準に近ければ近いほど、使ひ易いインタフェイスである。なぜなら、ユーザに改めて慣れる事を強要しないからである。
平成十六年五月一日
全てのゲームのユーザインタフェイスは劣惡なインタフェイスである。標準のインタフェイスが存在しないからである。
共通した操作性のゲームは存在しない。どのゲームも常に、プレーヤに操作性の摸索を強要する。
平成十六年五月一日
UleadのVideoStudioは、Windows標準のGUIと全然關係のない、獨自のGUIで、異常に使ひ辛い。
TMGEncのインタフェイスは、Windows標準のものに近いので、大變分り易い。
どうして、プログラマ――と言ふより、プログラムのユーザインタフェイスの設計者――は、餘計な御世話を燒きたがるのだらう。そして、ウェブのデザイナーも、同じ過ちを繰返してゐる。
平成十六年五月一日
要は、VideoStudioでやりたい事が出來なくて頭にきた訣なのだけれども。
平成十六年五月一日
どうせなので書いておくけれども。取敢ず「Windowsユーザの觀點」と云ふのを前提としてゐる事を御承知いただいた上で。
OperaにしてもMozillaにしても、ウェブコンテンツのレンダリングではInternet Explorerを遙かに上囘る標準準據の度合を示してゐるのだが、プログラムとしてはOSの標準から甚だしく逸脱してしまつてゐる。GUIの生成をOS標準の方法に據らずプログラムの獨自の方式に據つてゐるのは、クロスプラットフォームを實現するのが目的だからだが、結局、各OSに併せて最適なGUIを作る努力を放棄してゐるのであつて、結局のところ、手拔きである。
このやうな手拔きは、已むを得ない事情があつて行はれてゐるのであつて(人手の問題など)、理解は出來るのだが、一般のユーザにその種の事情はどうでも良い事である。ユーザは、プログラムが自分の使つてゐる環境で適切に動作して呉れれば良い。だから、自分の環境に最適化されてゐないプログラムは、どのやうな理由に據るのであれ、最適化されてゐるプログラムよりも駄目なものである。
そして、InternetExplorerは、操作性も感觸もWindowsのプログラムとして標準的である。
OperaにしてもMozillaにしても、Windowsのプログラムらしからぬユーザインタフェイスである。もちろんどちらも、妥協して、Windows風のGUIは、テーマとして、持つてゐる。しかし、所詮は妥協であつて、「そこそこそれつぽい」ものに過ぎない。InternetExplorerの「Windows標準」への準據の度合に比べれば、OperaもMozillaも遙かに「駄目」である。
このやうな部分にも、OperaやMozillaがWindowsでシェアを獲得出來ないでゐる理由があるやうに思はれる。
もつとも、Microsoft純正の製品に、サードパーティのプログラムが「Windows標準」への準據の度合で勝てる訣がないと言へばないのだが。それでWordPerfectもAmiPro/WordProもWordに負けたやうなものなのだし。さう云ふ訣で、どうもWindowsアプリケーションつぽさが足らないOpenOffice.orgも、MS Officeには矢張り勝てないだらう、と俺は推測してゐる。
まあ、「OSとアプリケーションとを作つてゐるMicrosoftが最初から壓倒的に有利」と云ふ事なのだが。
平成十六年五月一日
獨自のGUIを搭載して登場したMicrosoftのWindowsMediaPlayer 8/9は、慥かに新しいGUIに慣れる必要があるのだけれども、從來通り、メニューバーのインタフェイスも完備してゐるので、從來通りの操作で十分扱へるやうになつてゐる。
Microsoftはその點、ぬかりがない。WordやExcelでツールバーを採用した時にも、從來のメニューバーをそつくりそのまま殘して、昔ながらの操作を可能にしてゐた。
もちろん、WordとExcelとの間には微妙な操作性の違ひがあつて、慣れたユーザにはいらだたしい事があるのだが、Wordと一太郎との操作性の違ひに比べれば大した差ではない。
話はどんどん逸れるが。
一太郎には、いまだにWindowsの標準的なユーザインタフェイスとしつくりしない部分が遺つてゐる。それがWindowsで一太郎が昔ほど利用されない理由だらうと俺は思つてゐる。
平成十六年五月一日
秀丸エディタは、古めかしいインタフェイスを持つが、昔ながらのWindowsの作法に則つた操作性を持つ。そこが現在まで多くのユーザーに支持される理由の、少くとも一つではあらうと思ふ。取敢ず、メモ帳が使へるユーザーならば、秀丸を(最低限の機能くらゐは)すぐに使へる筈。
ただ秀丸エディタは、環境設定やカスタマイズ關係の設定をするダイアログが支離滅裂で、異常に分り難いと云ふ缺點を持つてゐる。「その他」メニューの下、秀まるお氏は直す氣、ないのかなー?
平成十六年五月一日
テーブルデザイン不要論
テーブルデザイン不要論/趣味のWebデザイン
俺は「ウェブデザイン不要論」を唱へたい。
「ウェブデザイン」の九割九分九厘までは有害である。とか。
實際、實用的なウェブデザインなんて、滅多に見ない。廣告やリンク集を文章の周りに配置するのに四苦八苦、と云ふ、どうしやうもない「ウェブデザイン」がウェブに蔓延してゐる。
リンク集を作りたければリンク集だけ獨立したコンテンツにすれば良い、と俺は思つたりする。
廣告は、文章の横にわざわざ並べる必要はないだらう。文章の上なり下なり――巧くやれば、文章と文章の合間に插入する事は可能だ。わざわざ「マルチカラムデザイン」をやる必要はない。テーブルでがちがちに固めた段組なんて、單に閲覽者の印刷を妨碍する嫌がらせの意味しか持たない。もつとも、そんな時の爲に、Operaはユーザーモードでテーブルを無效化出來たりするのだが、それをやると本文の上や下に延々他の記事へのリンクや餘所のサイトへのリンクが並ぶ結果になつたりする。要は、「ウェブデザイン」を必要とするウェブの記事には、夾雜物が多過ぎる、と云ふ事。
平成十六年五月一日
なんで「夾雜物」がWXGの辭書にも北極三號にもMS-IMEの辭書にも登録されてゐないんだよ。
平成十六年五月一日
デザインによるごまかしが無い、すつきりしてゐて讀み易い、簡潔な文章と簡潔なメニューで構成されるサイト――さう云ふサイトが「理想的なサイト」とされても良いだらう。と言ふか俺はそれで十分だと思ふ。
なんで世間の「ほーむぺーじ入門」の解説者は、變にデザインする事を推奬するのだらう。
と言ふか、装飾過多が世間の風潮である事を承知した上で、俺は逆らふ。
平成十六年五月一日
OperaのNavigationBarのやうなインタフェイスがブラウザで常備され、メニューの記述方法が標準化されて、ウェブリソースの世界でlink要素の記述が一般化すれば、ウェブのユーザビリティは格段に向上すると思ふのだが。
だが。「素人」「初心者」が、「オリジナリティ」溢れた、「個性的」なサイトをがんがん作り捲る現状で、そのやうな理想は通用しない。
かも知れないのだが。
「ウェブデザイン」で「獨自のGUI」を作る一方、同時に、link要素で標準的なナヴィゲート機能を用意する、と云ふ事は可能である。
獨自のものと標準的なものとが同時に平行して提供されるウェブサイトならば、俺は認めて良いと思ふ。そして、body要素の中の記述が獨自のGUIの構築を分擔してゐる現状では、link要素でのナヴィゲーションメニューの生成を標準化するしか方法はない。「ウェブデザイン」でGUIの標準化を行はうとするのは無理である。
平成十六年五月一日
結局、InternetExplorerがlink要素に對應するのが一番なのだと言はざるを得ない訣なのだが。
現状、StartだのIndexだのContentsだのといつたリンクの形式が非常に曖昧な形でしか定義されてゐない以上、InternetExplorerに勝手な規格を作られても困る。
リンク形式 「6 HTMLの基本データ形式」 @ [Basic HTML data types (ja)]
平成十六年五月一日
「Wiki」についての私見
例の記事。こんてんつとして獨立させました。
平成十六年五月一日
のあ
「のあの大洪水」つてどうかな?
あやの
どうかなつて言はれても……。
平成十六年五月一日
アプリの独自ユーザーインターフェースは良くないのか? Weblog(2004-05-01) a [Web Studio]で宥められてゐるんですが。
このような理由から独自コントロールが作られたりします。
獨自のコントロールは良いのですが。
20040501Interface01.gif
獨自のインタフェイスを作られると困る、と云ふ話です。
Photoshopなど、獨自の操作は必要な部分があるものの、OSのマナーに比較的則つたメニューバーの作りになつてゐたりするので、基本的な操作では違和感が餘りありません。アプリケーションの性質から必要とされる獨自の操作に關しては文句を言つても始まらないので、「畫像の擴大・縮小」の操作が「ある」事自體は問題にすべきでないのですが、Photoshopではその手の操作をメニューバーから出來るやうになつてゐて、慣れない人でも整理されたメニューの中から探し出す事は出來ます。
UleadのVideoStudioのやうな、Windowsの作法に全く從つてゐない獨自インタフェイスのアプリケーションでは、メニューを探す事から始めなければならなかつたりします。
OperaやMozillaの場合、デフォルトで一往、Windows風にそれつぽいテーマが使はれてゐて、慥かに「完全に獨自のインタフェイスを採用してゐる」と云ふ訣ではありません。ただ、メニューのドロップダウンの擧動等、微妙にそれつぽくない部分があつて、やつぱり違和感があります(と言ふ事で、それまでの話と次元が異つた話になつてゐます)。一太郎にしても同じで、やつぱり「Windows風」の「風味」である事が違和感を生ずる原因となつてゐて、その違和感の存在はやはり重大な問題だらう、製作者側が「慣れの問題」で濟ませてもユーザの側では濟ませられない問題だらう、と言つてゐる訣です。
平成十六年五月一日
Mozillaのテーマの場合、Classicがデフォルトで擇ばれてゐるのですが、「Luna」等のテーマが存在するWindowsXPで常に最適な表示となるのか、と云ふ問題があります。
Operaの「Windows Native」スキンのスタイルは、WindowsXPの標準のスタイルと完全には一致しません。
20040501Interface02.gif
メニューバーのメニューで、マウスをhoverさせた時の擧動が、OperaのWindows Nativeスキンのものと、標準的なWindowsアプリケーションのものとでは、違ひます。なほ、これはWindowsXPでClassic表示の状態。
平成十六年五月一日
個人的な感覺の話だが、Mozillaのテーマ、ClassicよりもModernの方が「もつさり」した擧動で、Windowsとは寧ろ親和性が高いやうに思はれたりする。變な話だが、Mozillaはところどころ突出してシャープな印象を殘す部分がある。全體としてはとろいアプリケーションなのだが、その爲に部分的に鋭い擧動を示す部分が浮上がつて見える。特にClassicテーマのメニューとかスクロールバーとか。Windowsの標準のメニューバーやスクロールバーは、あれほど反應が鋭くない。
平成十六年五月一日
Web制作 | Mitsue-Links | ミツエーリンクス | WebIntegration
リスト項目の中に見出し3があつたりするのだが、何うなのだらう。
平成十六年五月一日
なんだか久しぶりにMozillaを入れてみたのだけれども、中野さんのところの表示が異樣に遲かつたりするんですが。
使用したのはhttp://ftp.mozilla.org/pub/mozilla.org/mozilla/nightly/2004-04-30-09-1.7/のmozilla-win32-installer.exe(30-Apr-2004 11:01)。
平成十六年五月一日
アプリの独自ユーザーインターフェースは良くないのか? その2 Weblog(2004-05-01) a [Web Studio]
ただ、そのような非標準なインターフェースでできることは標準的なインターフェースからもできるようになっているべきで、 選択の余地は残されているべきです。
やつぱりその邊、Microsoftが一番がんばつてゐて、WindowsMediaPlayerの8/9は御手本として作られてゐるのだと思ひますが。
20040501Interface03.gif
ゲームはコンシューマは仕方ないと思うのですが、PCゲームはどうなんでしょう。
わざとコンシューマゲームつぽいインタフェイスを使つてゐる感じがします。Windows標準のインタフェイスは恰好惡いとか言つて。
平成十六年五月一日
Winampは獨自インタフェイスでがんばつてゐますが、あれも結局のところ、機能に「使へる」ものが多いから普及してゐるので、使ひ勝手は何うかと思ひます。
機能さへ充實してゐればインタフェイスはOS標準に近いもので良い、と考へる人には、Media Player Classic(→SourceForge.net: Project Filelist)やKbMedia Player(→Kobarinのホームページ)が愛用されてゐたりします。

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