闇黒日記

平成十六年三月三十一日
横書き文語体日記 やまとにありて
文語の苑
平成十六年三月三十一日
「文語文」の定義が世間では曖昧であるやうに思はれる。「擬古文」だつたり「美文調の文章」だつたり「漢文訓讀調の文章」だつたり單に「口語文でないもの」だつたりする。
江戸時代の戯作文學の文體を眞似る「文語文」使用者もゐる。「明治」風の「れとろちっく」な文體を愛用する人もゐる。個人的には感心しない。戯文的な文體を「文語文」だと思つてゐる人の事は馬鹿だと思つてゐる。
平成十六年三月三十一日
めも。
全国漢文教育学会
全国漢文教育学会(これまであった質問001)
平成十六年三月三十一日
http://d.hatena.ne.jp/matsunaga/20040330#p7
なんか馬鹿な「擬古文」を書いてゐるし。
http://d.hatena.ne.jp/jizou/の中のjizou氏が野嵜さんは愛蔵太と同じ属性だから相手にしない方がいいです(´ー`)言葉だけ古くて書いてる内容が新しいのは本末転倒であって無意味的とコメントを附けてゐる。jizou氏はmatsunaga氏やdokusha氏と同じ属性だから云々。matsunaga氏も地蔵あるところギスギスあり!とか書いてゐるし。また、俺の言葉は古くないし、内容は保守的だから、jizou氏の指摘は正反對云々。
平成十六年三月三十一日
と言ふか、matsunaga氏、ワラタ さすが原理主義者、とかソース至上主義にはついていけん等と書いてゐて、「原理主義」だの「至上主義」だの「ついていけん」だのと言つた言ひ方には明かに個人的な價値判斷が見えてゐる。なのにmatsunaga氏本人は見方の違いだと思つてゐるのだからどうしやうもない。
平成十六年三月三十一日
今となってはNN4.xxを使う方が異常(´ー`)別にそういう人に見えないページでもいいと思ってる。切り捨てヽ(´ー`)ノ切り捨て、と云ふ發言について。matsunaga氏が「盗用」と言つて非難した相手の人がNescape Navigator 4.xを最う無視してゐるが、そんな時代なのだねえとコメントしたのに、matsunaga氏は何を反應してゐるんだらう。ええとですね、NN4はiframeを知らないのでインラインフレームとしてレンダリングしないのですよ。だから、NN4で動作確認、w、してゐれば、某氏はiframeを使はなかつただらうと。別にmatsunaga氏がNN4を無視しても、得保氏が無視してゐるのと同樣、どうでも良いと俺は思つてゐる訣で。云々。
ちなみに、俺はW3Cの仕様書にしてもISO/IEC 15445:2000の仕様書にしても、人間的でないと思つてゐないし、その仕様書に基いた話をする時にも人間を無視した話をした事はない。←パクってみました笑 野嵜さんのことじゃないよと、噂の真相の記事のやうに末尾に註釋を入れてごまかす卑怯な書き方をmatsunaga氏はしてゐるが、そんなごまかしに騙されはしない。
平成十六年三月三十一日
議論とか論爭とか、眞面目な話をする際に、戯文調の文體を用ゐるのは、單に不適切だと考へる。
「或文體を用ゐるのが正しい」と云ふ發想はをかしい。文體は、TPOに應じて適切に遣ひ分けるべきだ。
ちなみに、文體と表記とは別のものだ。
平成十六年三月三十一日
正漢字・正仮名が読めない人を野嵜さんは切り捨ててるわけで
さう云ふのは「切り捨て」と言はない。讀む人間の知識の多寡を根據に「切り捨て」等と言ふのは無意味。讀まうと思へば讀めるものなのだから「切り捨て」ではない。
平成十六年三月三十一日
jizou氏が、つか中の人とか偉い人にはわからんとか(ネタでなく)平気で使える人はと書いてゐる。なぜ「ネタでない」とjizou氏は「わかった」のだらうか。
ウェブログ@ことのははてなダイアリー - @ことのはインフォーマルは、松永氏個人のサイトであるやうに思はれるが、ことのは編集室 - Editores Verborum et Scriptorumを見ると、複數のメンバーが「ことのは」なるものには關はつてゐると言ふ。ならば、「ことのは」=松永氏個人ではないし、實際に「ことのは」關係のサイトの文章を書いてゐる人物が松永氏個人であるとは斷定出來ない。ならば「ことのはの中の人」とでも言ふしかなからう。――と云ふ事でさう書いただけだが。「中の人」と云ふ言ひ方は、もちろんネタ。
ちなみに虹裏關係のネタを使つたら、例の高橋氏が全く眞面目に受取つてしまつて、困つた事がある。
で、「ネタだ」と言ふと、「野嵜の文章は全てネタなのだそうだから」等と單純に解釋してしまふ人が出て來るし。「ネタをネタと」云々と書けば御都合主義だの逃げだのと言ふ人が云々。例がネタでも主張もネタである訣ではないのだが云々。
と言ふか、松永氏、と言つちやつて本當に良いのだらうか? アレ氏みたいな例もあるし。
平成十六年三月三十一日
意固地になってliタグを避けたのではなく「面倒」だったからたまたまだと言っているのに
なら一々そして、ul-liリストにすれば箇条書きになるというのではなく云々と、「屁理屈」を言はなければ良かつたのに、と。あゝ云ふ反論をして自己正當化をはかつておいて、意固地になってなどゐない、と主張するのは如何なものかと。面倒であつた、と云ふだけでなく、その「面倒」にも理窟があつた、と松永氏は主張してゐる。何故松永氏は、「面倒だつた」だけで話を濟ませなかつたのか。なぜ松永氏は、理窟を附けて自分の「面倒」を正當化しなければならなかつたのか。やつぱり、依怙地になつてゐたのだらう。
平成十六年三月三十一日
http://d.hatena.ne.jp/dokusha/20040330#p2
「ふれあい」「ヒヤリ ハット」の類の言葉が嫌ひだ、造語能力というものが劣化しているように思えて仕方がないと「読者」氏は述べてゐて、同感なのだけれども。
俺は「憲法改悪反対」「天皇主義者」「親米保守派」「ポチ保守」の類の語も嫌ひで、そのやうな造語能力ばつかり身につけようとする現代の一部の日本人こそ馬鹿野郎だと思つてゐる。と言ふか、このやうな價値觀が入り込んだ言葉を用ゐながら自分は客觀的だと思つてゐる人は、右であれ左であれ馬鹿だらう。
ええと、「読者」氏の爲に註釋。「読者」氏が「憲法改悪反対」以下の言葉を使つてゐる馬鹿だと言つてゐるのではないよ。別に、上の二つの文章をそんな風に繋げて讀む理由はない。大體、「読者」氏は小林よしのりの用語は使はないだらう。
平成十六年三月三十一日
http://d.hatena.ne.jp/dokusha/20040329#p2
なんか「つるんでる」と云ふ言葉が御氣に召さなかつたやうだが。党派根性も何も、あんたの方こそ党派根性が染み込んでゐるからさう見えたのだらう。http://d.hatena.ne.jp/matsunaga/20040326のコメント# dokusha 『すげ』以降、「読者」氏が松永氏に好意的なのは明か。その好意が、松永氏の「反撃」のやり方――そしてその背景にある松永氏の考へ方――への好意である事も明か。
でだ、誤解をしてもらっちゃあ困るがわたしは「アンチW3C原理主義者」ではない、自意識過剰過ぎ。
また變な處に注目してゐるし。直前の文章と話が繋がつてゐると、「読者」氏は思つた訣だが。そこまで俺は「論理的」ではない。何か知らんが、何でもかんでも論理が繋がつてゐると思ふ人がゐるらしい。高橋氏とか。取敢ず言つておくと、W3C云々で「読者」氏が松永氏と「つるんでる」等と俺は言つてゐない。俺は昔から「読者」氏の「思想・信條の方面」にしか注目してゐない。HTMLとかCSSとかについて「読者」氏が何か考へてゐるとは夢にも思はなかつた。
平成十六年三月三十一日
http://www.remus.dti.ne.jp/~a-satomi/nikki/2004/03b.html#d31n01
すわっちゃだめだ。すわっちゃだめだ。
毎日坐つて寢てゐますがそれが何か。行きも歸りも。
坐れない時は新宿驛で京王線新宿驛折返しの電車に乘換へるのだけれども、乘換へが大變で困る。矢鱈深いところにある京王新線新宿驛ホーム殺す。
平成十六年三月三十一日
http://d.hatena.ne.jp/theoria/20040331#1080680614
ことのはの中の人も大變だなとか他人事のやうに言つてみる。
平成十六年三月三十一日
http://park15.wakwak.com/~maro/diary/200403.html#n200403300345
http://park15.wakwak.com/~maro/diary/200403.html#n200403310110
のあ
きたよ?
あやの
きたよ、つて言はれても。
のあ
キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!! の方が(・∀・)イイ!! かな?
あやの
いくない。と言ふか、やめなさい。
どうもありがたうございます>>Maro樣。
平成十六年三月三十一日
公開ブックマークが必要です - 査察報告書
dnozが正にその公開ブックマークだつたりする。
平成十六年三月三十一日
「藝術だから合法、問題ナシ!」なんて言つてゐるサイトは、ウェブで幾らでも見附けられます。けれども、證據としてでもリンクを張るのは躊躇はれるのでして。
會員制だつたり有料だつたり。

平成十六年三月三十日
仕様書とか法律とかのみに基いて話をするのは、「言論の自由」的な觀點から言へば「勝手」なのだけれども、能く「人間不在」の議論を出來るよな、と俺は思つたりする。
人權論者、人權を論じて、人を論ぜず。そんな人權論者なんて信用出來るかと。
平成十六年三月三十日
櫻の花:擴大
平成十六年三月三十日
俺は「初めにテキストありき」と云ふ立場なので、コンテンツ内容によって箇条書きになると云ふ認識は正しいと評價するのだけれども。ただ、箇條書きならば箇條書きとしてマーク附けするのが俺としては當り前の事に思はれるので。マーク附けに縛られたくないと言つても、HTML文書として公開するのならばマーク附けには縛られてゐるのであつて、ならばより適切にマーク附けしたら良からうと。
日本語表現にW3Cマークアップが完全対応しているわけではないと言つてゐるけれども、あの箇條書きについてはW3Cのul-liの記法で十分だと思はれるが。
リスト要素を毛嫌ひする必要もないと、俺は思ふ訣だ。依怙地になつて何かを避ける、と云ふのも、何かに固執するのと同樣、「縛られてゐる」事に變りはない。
「自分は自由だ!」と言つたところで、その實、何かに縛られてゐる、と云ふ事は屡々ある話。
平成十六年三月三十日
http://d.hatena.ne.jp/matsunaga/20040330#p5
自分で作つた運命――と言ふより、運命は自分を超えたものなのだが。人は運命を作れない。
平成十六年三月三十日
野嵜氏はmozaicやNetscape1や2やIE2とかでチェックしてるのか
今のスタイルシートは、Navigator 4.x、MozillaのSeamonkey以降、IE3以降、Opera 5以降、Amaya、Ice Browserで見た目をチェックした事がある。
CSSの實裝は、規格通りである事が求められてゐるけれども、現實のブラウザでは屡々間違つてゐるから、チェックしておくのは惡い事ではない。規格通りの實裝がなされてゐれば、スタイルシートの作成に際しては、規格通りに書けば良い事になるので、話が非常に簡單になる。筈。
ちなみに、mozaicやNetscape1や2やIE2とかは、CSS非對應なので、チェックする必要ナシ。
HTML文書は、The W3C MarkUp Validation ServiceAnother HTML-lint gatewayミケネコ HTML-lintで檢證してゐた。今は面倒なのでW3Cのでだけ。
自分勝手な事をしないで規格通りに書いておけば、ISO-HTMLの場合、問題になる事はない。自分勝手な流儀で書けば、トラブルが起きた時、原因の調査が難しくなるし、結局、「なんでうまく表示されないんだ!」と怒る事にしかならないが、そんなの時間の無駄である。大事なのは中身であり、マーク附けは飾りです。偉い人(略)。規格通りに書いておく方が問題になり難い訣で、中身が表示されればそれで良いと考へてゐる俺にしてみれば、マーク附け如きで獨自性だか個性だかに拘つて規格を毛嫌ひするなんて眞似をするのは、愚かしい事だとしか思はれない。
平成十六年三月三十日
出典を明記しないで著者に断りなく「転載」することは(つまり引用の条件を満たさない無断転載は)そのまま「盗用」と同義なのだけどなあと、著作権の立場から言えばそういうことです
iframeの場合、src屬性の價にフレーム内に表示する文書のURLが記載されてゐる事になるのだけれども。
まあ、引用ならばblockquote或はq要素としてマーク附けするのが當然ですし、出典は、URIがあればcite屬性に記述するのが當然云々。
と言ふか、さう云ふルールを機械的に守るのが一番簡單。原稿用紙の使ひ方に變に凝るのがナンセンスなのと一緒。
平成十六年三月三十日
「今そこにある問題」への近視眼的対応をやつて威張つてゐるが、どうして近視眼的である事が威張れる事なのだらう。
このやうな近視眼的な態度が、某氏への近視眼的反撃に繋がり、餘計なところにまで迷惑をかけたのではないかと思はれるのだが、ことのはの中の人は自分のやつた事は正義だと信じ込んでゐるから反省しない。
「盗用」した人が勘違ひした反省の仕方をしたと言ふのなら、ことのはの中の人は勘違ひして反省をしないと言へる。
平成十六年三月三十日
「権利」「権利」と言ふ人は煩いね。
平成十六年三月三十日
『ジェイン・オースティン』讀了。
『小さなお茶会完全版』購入。
平成十六年三月三十日
眼精疲勞に據る頭痛が非道いので今夜は最う寢ます。

平成十六年三月二十九日
4月からセーラールナ登場 2004-03-28 @ [湾岸日記]
原作を讀んでゐる人間にとつては或意味感涙ものだつたりする。實寫版の原作へのリスペクト具合は、素晴らしい。
第二話以降、録畫したまゝ、まだ觀てゐない人間が言つても、説得力皆無かも知れんが。
平成十六年三月二十九日
齒を磨いたあと、RDの録畫データのタイトルを編緝したり、RDからデータをDVD-RAMに移したりして、さて寢ようと云ふ段になつて、また齒を磨いてしまつたり。のあたん92歳説もあながち否定出來ない。
平成十六年三月二十九日
續報。
VEGA CLUBの汚名をそそぐ : ウェブログ@ことのは
例によつて例の如く、話の本題とは全然關係の無い指摘なのだが。ポイントを簡単にまとめておくと、の後の箇條書きが、なぜかul-li形式のリストになつてゐない。云々。
平成十六年三月二十九日
のあ
わたし、92歳らしいよ?
あやの
らしいよ、つて言はれても。と言ふか、あの文脈で「のあたん」は、「闇黒日記」の中の人の事だと思ふけれども。
のあ
いや、文脈よめない讀者、結構ゐさうだし。
あやの
……何時になく辛辣だな。
平成十六年三月二十九日
久々にのあ&あやのたん03/20 05:06 @ [Maro's...memo?]
黒と白きぼんぬとか書いてみるテスト。ふたりは
平成十六年三月二十九日
日曜日は八時半に起きてプリキュアを觀て録り置きの灰羽を觀て居間と臺所の間の壁をぶち拔いてLANケーブルを通して掃除をして美味しいコーヒーを喫んでLANでファイルの轉送實驗をして風呂に入つてRDの録畫データを整理して現在に至る。
土曜日深夜から日曜日早朝にかけては二時間しか寢てゐないし、日曜日の晝間にもおひるね等全然してゐない。月曜日の本日は晝間、死ぬ豫定。
平成十六年三月二十九日
實寫版せらむんは、取敢ず先月分まで、CM拔いてDVD-RAMに燒いた。
平成十六年三月二十九日
まだ寢てゐないよ。
平成十六年三月二十九日
こんばんは。
平成十六年三月二十九日
「共感」と「損得勘定」云々つて、ひよつとして「釣り」だつたのかな?
平成十六年三月二十九日
高橋氏に對抗して、「児ポ法」の類の問題の話を、なつかしいno_z's WEBSITEに待避してみる。
平成十六年三月二十九日
夜櫻 @ 某小學校裏
夜櫻 @ 某工場前
夜櫻 @ 別の某工場駐車場
夜櫻 @ 某國道脇
平成十六年三月二十九日
うまく撮れてゐない寫眞を加工してみた。
夜櫻おまけ
平成十六年三月二十九日
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/tv/tv04032902.htm
「深夜アニメ 納得できぬ打ち切り」 by (福)氏。
平成十六年三月二十九日
めも。
はてなダイアリー - @ことのはインフォーマル
はてなダイアリー - 磁石と重石の発見の「読者」氏とつるんでるし。
今囘の教訓。「W3C原理主義者」も「アンチW3C原理主義者」も、己の信ずる正義の爲には、結果として餘所のサイトが潰れるやうな行動を取る事がある、と云ふ點で同じ。と云ふ事で良いか知らん。
平成十六年三月二十九日
皆「自由」なんて簡單に言つてゐるけれども、人が或行動を擇んだ時、それは常にそれ以外の可能性としての行動を全て否定した結果なのだ、と云ふ事を覺えておいて良い。人は一度に一つの行動しか取れないものだ。そこに自由はない。

平成十六年三月二十八日
五時に寢て八時半に起きる。最近の日曜日のパターン。
と云ふ訣で。
平成十六年三月二十八日
プリキュア終つた。
平成十六年三月二十八日
http://www.memorize.ne.jp/diary/57/36889/の2004/03/26 (金)の邊。
じゃあ児ポ法の話じゃないじゃん……。
「児ポ法反対派」の話をしてゐたんだけれども? 最初から高橋氏、話を讀み違へてゐたみたい。
天皇がなぜ道徳と結びつくんですか。
政治と道徳とを區別しない日本人にとつて、天皇と道徳とが結び附いても問題なからう。
必要性を証明してみてください。
性は匿すものである。以上。
方の体系(貴方が書いている図)においてそうだというのは分かりましたが、俺の体系においては違うのです。/俺の体系において誤りだと指摘できない限りは、俺には関係ありません。
誰それの體系等と云ふ話はしてゐない。論理の體系において、高橋氏の論理は破綻してゐる。それで十分だ。高橋氏の論理は、論理として、既に破綻が證明されてゐる。そして、その論理の破綻を實證してゐるものが、高橋氏の言葉なのだから、仕方がない。
社会主義を推進した人(この話では「レーニン」)は、実際に自由が何のために使われるかを先に定義し、その世界観を押し付けて、そこから逆算して邪魔になるような形式的自由を排除したのです。まるっきり逆です。
高橋氏の引用したのは所詮、レーニン批判でしかありません。
貴方は天皇制の奴隷なんだろうけど、俺は違うから。
貴方は、自由主義からも自由であると。即ち、高橋氏は自由主義者ではない。
奴隷根性丸出しに卑屈に変なことを言っている人と比べれば、まだ人を楽しませるものを作ってるだけ立派だと思う。
自分で自分を襃めるのは何うかしてゐる。或は、他人が全て、高橋氏のエロゲに滿足してゐるとでも思つてゐるのか。それは甚だしい思ひ上りだ。
天皇は人だ。神ではない。
だから、俺は、西歐では「神の前の平等」がある、日本では「天皇の前の平等」で我慢するしかない、と言つてゐるだけなのだが。と述べたのだが。俺は、神と天皇とを區別してゐるのだが。
現代において、身分の低い人の権利の主張を妨げるような不平等を認める自由主義なんかないでしょう。
俺が何時、身分の低い人の権利の主張を妨げるような不平等を主張したのだらう。俺は、「天皇の前の平等」を主張したのだが。俺は、平等を主張したのだが。
先生の名前を出してサイトやってる以上、その先生の名を汚すようなことしちゃまずいんじゃない? と言ってるんだけど。/自分の弟子がこんなことやってるって貴方の先生は知ってるの?
知つてゐるんだが。ちやんと、OKして戴いてゐるから、電子テキストも公開してゐるのだが。
<天皇擁護論をやってみる>
俺は天皇擁護論をやつてゐない。俺は道徳擁護論をやつてゐる。それだけの話だ。
實際のところ、日本では戰後、共産主義者が「自由」を旗印に掲げて、大學や企業の乘取りをやつて、「恐ろしい共産主義」を實現しようとした事があるのである。/だから、「自由」の主張が、何らかの思想やイデオロギー――と言ふより、明かに左翼的なイデオロギー――と結び附いてをり、にもかかはらず動機を匿してゐる場合、疑つて良いのである。(野嵜)/ヒダリをミギに、共産主義を天皇主義に入れ替えれば、貴方が今やってることそのものなんじゃないのかな?(高橋氏)
俺が述べた共産主義者の事は事實であり、高橋氏はただ疑念を表明してゐるだけである。ただの疑念と、歴史的な事實とでは、事實が勝つ。
いいから、ジジェクから俺の引用した部分を読み直してください。
自分に都合の良い文献しか讀まない高橋氏は自己批判せよ。w
だから、貴方が貴方の価値体系からそうだと言ってるだけでは貴方にしか通用しないんだって。
高橋氏の言葉が高橋氏の主張を裏切つてゐる事を俺は説明した。だから、俺の價値體系から「そうだと言ってるだけ」なのではない。
と言ふか、高橋氏こそ、高橋氏の價値體系から、俺の説を「そうだと言ってるだけ」でせう? 高橋氏は「抑圧は悪」と云ふ高橋氏の價値體系から「そうだと言ってるだけ」ですね。人は自らを否定すべき文句で以つて他人を罵る。
個人としての天皇がどうやって人の自由を制限するの?
だから、天皇は抑壓をしてゐない。
この「思想に縋りつく」と云ふ言ひ方が差別的な口吻を伴つてゐる事に、高橋氏は氣附いてゐる筈である。(野嵜)/どこが差別的なの?(高橋氏)
高橋氏は人を見下して「思想に縋りつく」と言つてゐるのではないのか。凄いセンスだな。論理的に解説してください。どこがどう差別なの? なんて言つてゐるが、これ、本當に日本語の文章を書いて飯を食つてゐる人の言葉か?
余談になるが、それはちょっと違う。差別的な考え方をする自由もあるし、差別的な言い方をする自由もある。
高橋氏の差別容認論。
貴方にそんな風に賛美されるのは天皇にとってはいい迷惑なんじゃないかと言ってるんですが。
だから、貴方が貴方の価値体系からそうだと言ってるだけでは貴方にしか通用しないんだって。
人の上の人、という絶対的に固定された身分制がないと人は謙虚になれない、と貴方は言っているのだ。/身分差別意識でしかないだろう。/身分制を必然的なものと考える人間が、「下」の人間を自分と対等の存在として扱うことはないと思うが。
昭和天皇と云ふ反證がある。反證がある以上、高橋氏の論理は破綻が明かである。
後鳥羽上皇が、定家を相手に歌の勝負をして、自ら進んで負けを認めた歴史的事實もある。
「人の上の人」と「人の下の人」とが癒着すれば「人の下の人」は増長するものだ。(野嵜)それは増長ではない。同じ人間同士が互いを同じ人間だと思うのは当たり前のことだ。(高橋氏)
では、高橋氏は大東亞戰爭の時、天皇の名の下に軍部がした傲慢な事を当たり前のことだと言つて擁護するのか? 俺はそんな事は認めない。
身分が上の人を怖れ萎縮して言いたいことすら言えない人間は卑屈ではないか。
なぜ言ひたい事を言つてはならないのか。言へば良いぢやないか。と言ふか、誰が「言ひたい事を言ふな」と主張したのだらうか。「人の上の人」も、人だから、誤りを冒す事もある。そんな事は自明の話だ。事實、天皇に直言する人もゐる。
共産主義から発生しようが、天皇主義から発生しようが、身分差別はよくないわな。
詰り、身分差別の必然的な原因が「天皇主義」なるものである訣ではない事を、高橋氏は良く知つてゐる訣だ。
ちなみに、俺は共産主義の動機自體を疑はない。だから、ソ聯が破綻しようがスターリンが大量虐殺をしようが、「共産主義は正義ではない」等とは言はない。
俺はキリスト教信者ではないが、それでも、日本という小さな島国で相対的に一番偉いとされただけの、人間が営む政治的社会的軍事的歴史的経緯から発生したただの制度にすぎない「天皇」という概念と、絶対普遍のGodという概念が同じでないということくらいは分かる。/天皇と呼ばれている人は、人間であり、Godではない。俺はキリスト教やユダヤ教のGodも信じないが、天皇をGodだとも信じない。/信じたい人が信じるのは勝手にすればいいと思うが、それは信仰であり、押し付けられても困る。
俺は、「天皇とGodとは同じだ」と言つてゐない。高橋氏は、また俺の主張を歪めてゐる。高橋氏が他人の言説を歪めて傳へようとするのは癖である。詰まり、高橋氏は、デマを流さないではゐられない體質の人であり、精神的に自由主義に向いてゐない人である。
ちなみに、国家神道と云ふ呼び方をしてゐるが、高橋氏に神道の知識が皆無である事は明かである。俺は國家神道を信じてゐないし、神社神道も信じてゐない。神道の信者と云ふ訣でもない。そもそも、宗教團體としての神道と、文化としての神道文化の神道とを、俺は區別してゐるし、その神道文化の神道について、俺は話してゐる。(野嵜)/細かい違いはともかく、やってることはたいして変わらないようだが。/貴方に話を聞けば聞くほど、そんな論理的帰結をみるのが神道なら、ないほうがいいと思える。(高橋氏)
この邊、捨臺詞と言ふか、單なる反射的な惡口としか言ひやうがありませんね。高橋氏、少しは神道の勉強をしたら如何? 自分の好きな本ばかり讀んでゐては以下略。
自由な表現さえも出来ないほど畏怖しているというのは、つまりびくびくしているだけではないのか。
ポルノが「自由な表現」だと言ふのが噴飯ものなのに、どうして氣附けないのだらう。
と言ふか、高橋氏、「改正された児ポ法」にびくびくしてゐるのかな?
ジジェクにしろ宮台にしろ、別に身分が俺より上だとは思わない。対等の人間だ。ただ俺よか頭が良く物を知っているというだけだ。
共産主義のソ聯が、階級を否定しながら、結局エリートを優遇して、極端な階級社會を作り上げたのを聯想しますね。
貴方が「人よりも上の人」を自分にひきつけて物を言う時にいかに傲慢に振舞ったかは確かに誰の目にも明らかだろうけれど。
高橋氏ほどではない。高橋氏は、自己批判せよ。
誰もがそう思って合理的にふるまえば、結果、みんなが極力抑圧されずに済む社会が出来るだろう。
それは「他人に抑圧されている」のではないのか? 高橋氏の「抑圧」の定義が全然わからない。非常に都合良く、「自由の制限」を決定してゐるやうに思はれる。
俺以外のたくさんのエロゲファンも幸せだと思うけどね。
エロゲを目の敵にする「児ポ法」の類の法律の策定者の幸福は、考へないで良い訣だ。
目的や動機をおのおのが選んでいいということこそが自由なんですよ。/貴方が俺の目的や動機を気にいるかいらないかは議論において関係ないわけで。
その通り。だから、目的や動機のやうな思想の自由は認められる。ただ、「何をしたか」で、犯罪になつたりならなかつたりするだけだ。ポルノを好むか好まないかについて、法律は關知してはならない。ただ、「ポルノ表現」の公表については取締り得る。
貴方が極端に抑圧的な政府を望んでいるから、最小構成の政府を望む俺がアナキストに見えてるだけでしょう。
貴方が極端にアナーキーな政府を望んでいるから、天皇中心の日本を望む俺が抑圧的に見えてるだけでしょう。
自由競争によって勝者と敗者の格差が生まれることと、身分差別制とは違うだろう。
自由競争によって勝者と敗者の格差が生まれることを絶對化するのが、絶對化された身分差別制よりも恐ろしい結果を招く事は、ソ聯の實例を見れば判る事だらう。
身分差別的な道徳を保守することが必要であることを証明してください。
俺は身分差別的だと全然思つてゐない(何故なら、天皇以外の全ての日本人は平等とするのだから)が、天皇を保守する事が必要である所以ならば既に説明した。天皇は、日本人の道徳にとつて十分條件ではないが、必要條件だ。天皇の權威を否定する事は、他人を自分以上の存在として認め、自分の肖るべき存在と看做す事を否定し、結果として「自分が一番偉い」と云ふ思ひ上つた根性を養成する。思ひ上りは否定されるべき事である。もつとも、高橋氏に據れば、思ひ上つた人間同士が合理的にふるまえば、結果、みんなが極力抑圧されずに済む社会が出来るだろうと云ふ事になるらしいが、どうしてさう云ふ人間が合理的に振舞へるのだらうか。思ひ上つた傲慢な人間が、合理的に振舞へると云ふ高橋氏の主張の合理的な説明をききたい。全人類がそう振舞うと考えられる根拠を示してください。
と言ふか、高橋氏、俺の敬へばよい。と言つた言葉に、全人類がそう振舞うと考えられる根拠を示してください。なんてコメントを附けてゐるのだが、敬へばよい。と云ふ「べき論」に、「である論」の證明を要求する理由は何なのだらう。高橋氏は、時々、こんな變な質問をする。
なぜほどほどでないといけないのか? ほどほどというラインは誰が決めるのか?/無制限ではありえないとして、どうして天皇を支柱とする身分差別や、それを根拠にした自由の抑圧を肯定しなければならないのか?/そういうことを尋ねているわけだけど。
なぜ無制限の自由、無制限の快樂でないといけないのか? ほどほどというラインが決められなければ、どこまでやつても良いと言へるのだらうか? 自由の抑圧であるとして、どうして天皇と云ふ身分や、それを根拠にした日本人の道徳を否定しなければならないのか? その邊の合理的な説明を、高橋氏にはして貰つてゐないのだけれども。
そして、無際限の快樂を高橋氏が求めるのならば、「ポルノ表現」の自由が、具體的な行動の自由に發展しないと高橋氏が斷言出來る理由は存在しない筈だが。
詰り、高橋氏らが「ポルノ表現の自由」から「具體的に獵奇趣味(その他)を現實に實踐する自由」に話を發展させない理由が、俺には見附けられないのだ。
平成十六年三月二十八日
高橋氏との言爭ひには飽き飽き。
讀者にとつても「猫跨ぎ」の記事である筈。
平成十六年三月二十八日
ページ盗用とレンタルサーバーMLM屋 : ウェブログ@ことのは
ページ盗用問題のまとめ : ウェブログ@ことのは
例によつて「本題」と全然懸離れた感想。「Netscape Navigator 4.xで表示を確認」と云ふ風習は最う、なくなつたのだなあと。「盗用」した某氏は、iframeを平氣で使つてゐた。
平成十六年三月二十八日
ちなみに、野嵜のいろいろな解説記事は引用・盜用・流用可です。(HTMLの記事は、ちゃいぱさん他、何人かの人によつて、いろいろなレヴェルで、利用された實績あり)HTMLの解説や正字正かな關係の記事の著作權とか著作者人格權とかは、餘り氣にしません。やりたければiframeの中にでも普通のframeの中にでも入れて、利用して下さい。(ほつまさんがやつてゐた實績あり)コピーしたければ、して下さい。ただ、コピーした人が、その文章の著作權を主張して「野嵜こそ盜用してゐる」等と言出したりしなければ、の話です。
純然たる創作(小説・詩・少女漫畫家論:要は「メディアミックスは可能か」のコンテンツ)に關しては、轉載・盜用・流用の類を御斷りします。もし勝手に誰かが私の小説をどこかの出版社の新人賞に應募して、それが入選し、出版の運びに至つた場合、印税は野嵜のものです。まあ、落ちる筈ですが、その時には問題にもならない訣ですから云々。
著作權に關してはうるさく申しませんが、文章をコピーして野嵜を誹謗するなんて事は、やめて下さい。名譽毀損とか侮辱とかに關しては話が別。
平成十六年三月二十八日
まあ、正字正かなで如何にもアレな内容の野嵜の文章を自分の文章と言張るのは、變な人から言ひがかりを附けられるリスクを背負ふ事になる訣で、素人にはおすすめできない。普通の人はやらない筈。
平成十六年三月二十八日
御花見おふは、參加希望のめーるは戴いてゐるものの、主催希望の申し出が全然ないので、云々。
平成十六年三月二十八日
TV東京・Anime X-press Get Ride! アムドライバー
サイトは現状、中身なし。
4月5日から。コナミ、「Get Ride! アムドライバー」でTVアニメ参入。GBAソフトも開発中。何だか良くわからん。
平成十六年三月二十八日
TV東京・Anime X-press MADLAX
サイトは現状、中身なし。
4月6日から。真下耕一、黒田洋介、梶浦由記、ビィートレイン。NOIR+Agenger。月村拔き。みたいな感じ?
平成十六年三月二十八日
爆裂天使オフィシャルサイト
テレビ朝日。4月6日から。
FLASHを有效にしてゐないとコンテンツを見られない。
平成十六年三月二十八日
TBSアニメ 忘却の旋律公式ホームページ
4月6日から。但し第一話のみ時刻變更。GAINAX+J.C.STAFF。榎戸洋司、長谷川眞也、出渕裕、貞本義行。なんだかなー。
平成十六年三月二十八日
www.kita-he.com|北へ。.com
TVKは無視の模樣。
平成十六年三月二十八日
サムライチャンプルー[SAMURAI CHAMPLOO] OFFICIAL WEB SITE
5月19日から。先の話なのだが、フジテレビはR.O.D.を何故打切以下略。
平成十六年三月二十八日
「恋風」 〜 公式ホームページ〜
テレビ朝日4月1日から。第一話のみ放映時刻變更。
キッズステーション4月19日から。こちらはCM拔きでやるものと推測。根據餘りナシ。
平成十六年三月二十八日
avex mode
テレビ朝日「天上天下」。サイトのtitleが腐つてゐる。4月1日から。第一話のみ放映時刻變更。の筈。エイベックス。マッドハウス。微妙に微妙。
平成十六年三月二十八日
NHKアニメワールド:今日からマ王!
4月3日から。スタジオディーン。腐女子向。ほんのすこしだけ期待age。
平成十六年三月二十八日
TV東京・Anime X-press DANDOH!!
4月3日から。
平成十六年三月二十八日
TVアニメーション 美鳥の日々
TVK4月3日から。UHF系。脚本執筆陣に佐藤卓哉氏が入つてゐるが。ぴえろ。微妙だなー。
平成十六年三月二十八日
TV東京・Anime X-press せんせいのお時間
4月4日から。放送局のサイトには何もない。
ももせたまみ『せんせいのお時間』
C.V.南央美樣。微妙だ。
平成十六年三月二十八日
何か今期、やたら彈數あるんですが。フォローし切れない。
ちなみに俺はオタクではないと。説得力皆無。
平成十六年三月二十八日
さて。無法地帶と、壓制とでは、どちらが困りものであらうか。
兩者の間には無限の段階がある。では、そのどの段階が「中庸」を得たものと看做し得る段階なのであらうか。それを定める根據は、相對的なものであるか、絶對的なものであるか。
平成十六年三月二十八日
我々は、人間の善意を樂觀的に考へて良いものであるか。
例へば、「差別主義」に反對する人々が、自分は差別と無縁である、と考へるのは、寧ろ危險な事だと私は思ふのだが、如何なものであらうか。
私は、自分に差別的な傾向がある事を認めるが、人間には元來、差別的な側面が誰にもあるものだと思ふ。そして、その己の性向の存在を無視して、ただ理想の社會を夢想するのは、單なる逃避行動でしかない。ただ「全ての差別を無くせ」「全ての階級を排除せよ」と叫び、他人を斷罪し、自分の内部にある筈の差別意識から目を背けようとするのは、僞善的であり潔癖症的である。
寧ろ、己の差別的な性向を自覺しつゝ、巧く折合を附けて行かうとする態度こそ、必要なものだ。天皇を否定しても、偉い課長部長社長會長は依然、存在し、差別はなくならない。
平成十六年三月二十八日
法的な人格と、道徳的な人格とには、違ひがある。法人は、個人ではない。
平成十六年三月二十八日
個々人の差異、身分・階級の對立や性差、人種間の對立と云ふ觀點で見る事が許されて、文化・文明・國家の觀點から見る事が許されない、と云ふのは何故か。私には良く解らないが、世間には「判つてゐる」人がゐるらしい。。
平成十六年三月二十八日
例によつて言ひつ放しの話。
「チャチャ」-「りりか」-「こどちゃ」のラインと、「どれみ」-「ナージャ」-「プリキュア」のラインを對比的に考へてみる、と云ふのは何うか。
平成十六年三月二十八日
續けて、やはり言ひつ放しの話。
[スペースオペラ期]-[アシモフ・クラーク・ハインライン」-(SF暗黒時代)-「ディック」-[Specurative Fiction/New Wave]のラインと、[永井豪以前]-「ヤマト」「ガンダム」-(間に鳥山明・高橋留美子・その他フジの土日夕方の帶アニメ)-「エヴァ」-[えろげベースのあにめ]のラインとを、云々。英國ニューウェーブからはオールディスの『手で育てられた人間』が出たりしてゐるのであつて云々。
平成十六年三月二十八日
有川浩『塩の街』と、J・G・バラード『結晶世界』との對比。云々。

平成十六年三月二十七日
天皇を戴くのを認める事は即差別主義と云ふ訣ではない。再掲。
Nadamoto Masahisa Page
「部落解放に反天皇制は無用」
平成十六年三月二十七日
すちゃらかCSS素材集
このサイトは 、Movable Typeとチャンネル北国tv用のスタイルシート&テンプレートを無料で配布しています。
(゚听)イラネ
平成十六年三月二十七日
目に見えない電波なんて信じられないので有線で家庭内LANを組むべく、二階と一階との間にLANケーブルを延々引いてみたり。

平成十六年三月二十六日
染井吉野が日本で作られたか何處で作られたかは知らないが、日本人なら山櫻。
御花見オフでも? 主催して呉れる偉い人がいらつしやいましたら掲示板へよろしく。
平成十六年三月二十六日
天皇と言う地位、その機能は、まさしく観念であり、観念でしかない。
観念でしかないものに反對しても仕方ないでせうに」とか思つた。
實際のところ、「反天皇主義者」の人にとつて、天皇は「観念以上」のものなのである。
ポルノ表現と表現の自由一般が自由と言う観念において結びつくことを観念的と呼ぶのは間違ってはいないが、それは道徳やら徳目やら謙虚さやら天皇やらいう話が観念的であるのとあり方としては変わらないと俺は言っているわけだ。
天皇は存在するし、人は他人と附合ふ時には「自分は何をすべきか」の判斷をしてゐるものだ。道徳的である事は、常に具體的な存在や行爲と結び附いてゐる。それに對して、「児ポ法」の類に對する反對運動をやつてゐる人は、「ポルノ表現」と「表現の自由」とを結び附けてゐる。「結び附いてゐる」のと「結び附ける」のとでは、話が全然違ふ。
平成十六年三月二十六日
実写には被写体がいて、被写体の人権は侵害されている、という主張は強力だ。俺も納得する。
被写体の人権に俺は興味が無い。また、「写す側」の権利も問題にしてゐない。俺はそもそも「権利」の話をしてゐない。だから、高橋氏らが權利の話を持出して反論して反論した氣になつてゐるのがをかしい。権利については、別に文句を言ふ積りもない。ただ、「写す側の権利」を制限する法律を作らうとする動きに、何が問題があるのか、と言つただけだ。高橋氏の説に據ると、法律に據る權利の制限は「必要悪」であるだけである。「児ポ法」の類の法律に據る「えっちないらすと」の制限も、單なる權利の制限であり、「必要悪」であるだけである。
平成十六年三月二十六日
俺は個人に関する「禁止と云ふ形式の命令としての徳目」は全て「抑圧」である、と言っている。
高橋氏が言ふのは勝手だが、その高橋氏の定義に、野嵜の定義は完全には包含してゐない。ならば、高橋氏が自分の定義に基いて奇妙な「天皇主義者」説を野嵜の説とした事は、單に誤である。
平成十六年三月二十六日
ジジェクの言葉を高橋氏の文章から孫引き。
自由に関して、レーニンで思い出されるのは、「自由?――いいよ。でも誰のための? 何をするための?」と言い返したことだということである
たとえそれが現実には俺を幸せにしてくれない夢追い人の自由だとしても、「人の上の人」をびくびく怖れ卑屈になって分相応に生きる人生よりはマシだと思う。それで俺には十分なのだ。
山本夏彦氏が「分際を知れ分際を」と言つてゐたりする。
さて、私は何時、「人の上の人」をびくびく怖れ卑屈になれ、と言つただらうか。高橋氏は「恐れる」と「畏れる」とを混同してゐる。
ところで、高橋氏は、續けてこんな事を言つてゐる。
実際に自由が何に使われどう人を幸せにするかは自由が保障されたその次の段階で問題になることだ。それ以前の認識の人に言われてもなあ。
ジジェクが<現実に存在する社会主義>の恐ろしい体験と述べてゐるさうだが、その恐ろしい社會主義を推進した人々は、「実際に社會主義が何に使われどう人を幸せにするかは社會主義が保障されたその次の段階で問題になることだ。それ以前の認識の人に言われてもなあ。と言つてゐたのである。
平成十六年三月二十六日
俺は貴方の思想を卑屈な奴隷根性でしかないと思うけど、貴方が卑屈な奴隷であることを望むのは貴方の自由だ。
さて、「奴隷根性」と高橋氏は言つてゐるが、「奴隷が自由を待望む根性」は「奴隷根性」ではないか。ニーチェは「ツァラトストラ」で、高橋氏のやうな「自由主義」を嘲笑してゐたものである。そのニーチェが「超人思想」を唱へてゐた事を思ひ出すが良いのである。
平成十六年三月二十六日
俺はエロゲを作るのもやるのも好きなの。それが動機。
で、俺は、「エロゲ好き」と言つて胸を張るのはみつともない、と言つてゐるだけだつたりする。それあさうだらう。恥知らずくらゐみつともないものはない。
平成十六年三月二十六日
道徳・徳目の主張の帰結が身分差別の肯定だと言うのは、こっけいであるだけでは済まず、迷惑です。
いや、俺が何時何處で誰かを差別しろと言つたんですかねえ。俺は、西歐では「神の前の平等」がある、日本では「天皇の前の平等」で我慢するしかない、と言つてゐるだけなのだが。
――まさか、「天皇がその邊の人よりも偉い」事に、高橋氏は怒つてゐるんではないでせうねえ。それつて、自由主義ではなくて、平等主義ですよ?
――と言ふか、階級鬪爭史觀そのもの。
平成十六年三月二十六日
まあ、好きなだけ悲しんでくれればいいと思いますが、貴方の言論活動は、エロゲに価値において勝るものを今までひとつでも生み出しましたか? これから先生み出す可能性はありますか?
エロゲなんて作つてゐる時點で既に人間失格である、と云ふ事に、高橋氏は氣附いてゐない。人間以下の高橋氏に、人間の私が劣る訣がなからう。
平成十六年三月二十六日
恩師との連絡とは取ってますか? 注意されたりしませんか?
これ、例の「ネット右翼」鐵扇會の會長「初心者・元気だぞ」が、俺と言爭つて、俺に投附けた捨臺詞と全く同じなんだよな。
と言ふか、「人の上の人」の論理を否定しながら、「人の上の人」を持出すなよ。阿呆か。
平成十六年三月二十六日
ついでに言ふと、河合榮治郎が戰前、「學園の自治」「學問の自由」と言つて共産主義者が大學を乘取らうとした時、「學問の自由とは、研究の自由を指すのであつて、大學の自治權を獲得する事ではない」と云ふ事を著書で述べてゐて、引用しようと思つたのだけれども、私が探すと見附からない。
平成十六年三月二十六日
實際のところ、日本では戰後、共産主義者が「自由」を旗印に掲げて、大學や企業の乘取りをやつて、「恐ろしい共産主義」を實現しようとした事があるのである。
だから、「自由」の主張が、何らかの思想やイデオロギー――と言ふより、明かに左翼的なイデオロギー――と結び附いてをり、にもかかはらず動機を匿してゐる場合、疑つて良いのである。
高橋氏の場合、「自由」と言ひながらその主張はアナーキズムと結合してゐる。ならば、「自由主義」は高橋氏にとつて單なる手段であり、アナーキズムの實現が目的である。とするならば、自由主義を守りたい俺としては、戰術として、道具として、自由を用ゐてゐる高橋氏を批判する事は當然なのである。
――と言ふより、自由は手段であり、目的は常に他にあるものである。ならば、その目的を明かにしなければ、その手段の實現の方法を論ずる意味はない。間違つた目的を目指してゐる高橋氏に、わざわざ手段としての「自由主義」を實現する方策を授けてやる理由はない。
平成十六年三月二十六日
何度も言うのは嫌なのでこれで最後にしたいんだけど、俺が誰かを抑圧したというなら具体的にどこでしたのか挙げてくれ。
高橋氏は、高橋氏の定義で高橋氏が誰かを抑壓した例を挙げろと言つてゐるが、それがナンセンスなのである。
ナンセンスな事をわざわざ俺がする必要があるのかねえ。既に、論理的に、高橋氏が「天皇主義者」説を「でつち上げてゐた」事は明かなのだから、これ以上、俺は何も言ふ必要がない。俺に無駄な手間を取らせないで呉れ。もつとも、この種の「拷問」を強要する事は「抑圧」でない、と高橋氏は考へてゐるらしいから、この世に「抑圧」はないのではないかとすら俺は思ふが。
例えば俺は「必要なく自由を制限してはならない」というような禁止を主張するわけだが、これは公権力に対して禁じているのであり、言うまでも無く個人の自由と抑圧の話とは別問題だ。
ならば、「個人としての天皇が必要あつて自由を制限する」事に、高橋氏は反對出來ない筈だが。
もう一度言うが、どんなにクソで有害で低レベルで、それ自体はゴミ箱に捨てるしかないような思想でも、それに縋るのは貴方の自由だ。
日本國憲法第14條第1項に、すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されないとあるのだが、高橋氏は「思想に縋りつく」と言つてゐる。この「思想に縋りつく」と云ふ言ひ方が差別的な口吻を伴つてゐる事に、高橋氏は氣附いてゐる筈である。しかし、そのやうな差別的な言ひ方をする事が、そもそも思想の自由を冒すものである、と云ふ事に、高橋氏は氣附いてゐない。俺は他人のその権利だけは絶対に侵害しない。と高橋氏は宣言してゐるが、高橋氏自身の言葉が既に高橋氏を裏切つてゐる。俺は或思想を「糞」呼ばはりする事は、咎めてゐない。ただ、「思想に縋る」と云ふ言ひ方が既に差別的である、と指摘してゐるだけである。
一言忠告。天皇制の賛同者を増やしたいのであれば、貴方の一連の理論展開は逆効果だと思う。
さて、俺は、自分の政治的な目的を達成する爲、戰術的に、或は道具として、天皇を利用してゐる訣ではない。と言ふより、その爲には逆効果である事を述べてゐる事が、俺の「理論展開」が政治的な目的と無關係である事を證明してゐる。
平成十六年三月二十六日
当然のことながら、最初の天皇には、天皇を名乗り始める前の時期があったはずだ。最有力豪族の長だとかそういう感じの。/何の前置きも無く突然天皇が天皇として生まれ、その瞬間から誰もが彼を天皇と認めたわけではない。/天皇が一番偉い人である、というのは、ある前提条件、ある限定された状況の中でのみ言えることだ。
高橋氏も認める通り、茲は日本だ。日本と云ふ限定された状況だ。
同時に、自分が「人の下の人」であると意識する事によつて自分が謙虚になる契機となる(野嵜)/それはただの身分差別意識だ。卑屈になっているだけで、謙虚ではない。/目上の人同様に、自分より目下の人間にも人は謙虚に対するべきだ。(高橋氏)
「目上の人間が目下の人間に對して一方的に傲慢に振舞ふべきだ」と言ふのならただの身分差別意識だらうが、私はそんな事を言つてゐない。
昭和天皇の話をしてゐるのだから、「目上の人間だつて、目下の人間に尊敬されるやう、努力する必要がある」と私が考へてゐる事は明かだし、何處かでさう云ふ事も書いた積りだ。と言ふか、言つてゐない事を勝手に推測して「これが野嵜の主張だ」と極附ける高橋氏の論法は、「魔女裁判」の論法であり、認められない。
ここで、「人の上の人」と「人の下の人」が「身近な人」として結合すると、「偉い人」と「自分」とが結合し、「自分は偉い人の仲間」であると云ふ意識が生じて、謙虚ではなく傲慢になる。(野嵜)/ようするに天皇を神秘化せよと言いたいのだろう。(高橋氏)
何がようするになのか、全然わからない。
一方で、「人の上の人」と「人の下の人」との間に畏怖の念が入り込んで、「人の下の人」に「人の下の人」の自覺と意識を要求する時、「人の下の人」は謙虚に振舞ひ得るし、そのやうな形でのみ、日本人は謙虚さを保ち得る。(野嵜)/実に不愉快な思想だが、批判は置いといて、とりあえず先に聞いておきたい。そのように言える根拠は何?/あと、個人的には、卑屈になるよりは傲慢なほうがまだいいと思う。(高橋氏)
「人の上の人」と「人の下の人」とが癒着すれば「人の下の人」は増長するものだ、と言つてゐるのだから、その反對でしか「人の下の人」が謙虚になる事は出來ないに決つてゐる。
それから、卑屈であるよりも傲慢である方が良い、と高橋氏が考へるのは例によつて高橋氏が自分の頭の中で考へてゐる事に過ぎない。私は、傲慢であるよりも謙虚である這うがよい、と言つてゐる。そして、卑屈と謙虚とがイコールである事を、高橋氏は全く證明してゐない。
人が謙虚であるためには絶対的身分差別が必要だと言うこと?
例によつて、高橋氏は絶対的身分差別を惡い事だと極附けてゐる。しかし、階級の對立を否定し、プロレタリアートの獨裁を主張した共産主義が、平等主義でありながら、結局はエリート主義に陷つて、獨裁を「民主集中制」と呼んで、正當化した現實を、俺は忘れない。一般の人間と、一般人から極端に離れた一人の天皇とが存在する社會は、決して差別社會と呼べない。逆に、完全に全ての人間が平等である社會は、存在しないし、し得ない。その存在し得ないユートピアの實現を、高橋氏は主張してゐるに過ぎない。
そもそも、信仰抜きで人間としての天皇について言うなら、絶対者であるGodと同列に並べるなんて考えられない。/もちろん天皇を神であると見なすなら別だが、それは信仰でしかなく、俺は国家神道の信者ではない。
高橋氏も、天皇を「人の上の人――日本では、人と神とを區別しないから『神』と呼んで構はない――」として認めれば良いだけの話だ。
ちなみに、国家神道と云ふ呼び方をしてゐるが、高橋氏に神道の知識が皆無である事は明かである。俺は國家神道を信じてゐないし、神社神道も信じてゐない。神道の信者と云ふ訣でもない。そもそも、宗教團體としての神道と、文化としての神道文化の神道とを、俺は區別してゐるし、その神道文化の神道について、俺は話してゐる。
ちなみに、この神道の定義については、明治以來、現在に至るまで、延々議論が續いてゐる事なのだが、高橋氏はその邊の事を調べた事もないだらう。
要するに、日本人はGodを戴かない西欧近代に適さない特殊な民だから、その代わりに天皇を戴くことで、分をわきまえ、自由なんか主張せずに、卑屈に身をかがめて偉い人にはびくびくしながら生きていけ、ということを言いたいわけだ。
「偉い人を敬ふ」事と「偉い人にびくびくする」事とは違ふ。
大體、高橋氏だつて、「何々を讀め」と言つて、高橋氏にとつての「偉い人」を屡々持出すのである。「人の上の人」は、どんな人にだつて「ゐる」、と云ふ事は、高橋氏の例を見ても明かである。そして、その「自分のよりも偉い人」を自分に引きつけて、「この人を見よ」とやる時、どれほど人が傲慢になるかは、高橋氏の「何々を讀め」と云ふ言ひ方を見れば判る。
「びくびくする」なる、野嵜が言つてゐない高橋氏の偏見を導入して、吐き気がするほどくだらない思想と言ふのは、高橋氏の誤である。自分の偏見を持込んで吐き氣がしてゐるのだから、高橋氏の偏見が腐つてゐるだけの話である。
平成十六年三月二十六日
俺にはどう考えたって自由主義のほうがのびのびと楽しく幸せに生きられそうに思われる。
高橋氏は、傲慢を肯定し、「自分よりも目上の人」の存在を認めず、他人の思想を自分の偏見で「吐き氣が出る」と極附ける。さう云ふ人間が自由にがのびのびと楽しく幸せに生きられ社會と言つたら、その人が一番偉い社會でしかない。高橋氏が「抑圧は悪」と言ふのは、「全ての人間にとつて」ではあり得ない訣で、ならば「俺(高橋氏)にとつて」と云ふ事でしかあり得ない。高橋氏は、自分が抑壓されなければ、それで良いのである。當然、高橋氏は、自分を天皇の地位――或は、Godの位置――に持つて行きたがつてゐる。そして、高橋氏は、自分以外の全ての人間を抑壓したいのである。さうでなければ、高橋氏は、完全に自由で、完全に抑壓から解放され、完全にのびのびと愉しく幸せに暮せはしない。
全ての人間が自由で幸せに暮せる社會は、ユートピアであり、地上には存在し得ない。だから、妥協點が個人の相互に必要なのだが、高橋氏にはその妥協點を定めるのに甚だ自己中心的な視點しか持つてゐない。
――と言ふより、高橋氏だけが自由で幸せな社會に、俺は生きたくないなー。
平成十六年三月二十六日
簡単に纏めとくと、「どこを矛盾として指摘しているつもりなのかが分からない」に尽きる。
おいおい。あんたの言つてゐる「抑圧」が、野嵜の言つてゐる「抑圧」を包含してゐない、と、圖まで附けて、説明したぢやないか。何で解らないんだらう。
平成十六年三月二十六日
人格的自由を最大限認めるところでこそ俺は一番俺らしく生きることが出来るので、自由主義につくのは俺としては必然なのですが、他の人にはそんな事情関係ないわけで。
人格的自由と言つたら、行動の自由とは違ふのだが。
平成十六年三月二十六日
「天皇」という「実在」が根拠付けになるんじゃ、信仰の話でしかないもの。
目的や動機抜きの話だと、技術論でしかないもの。
技術は、使ひ手の意思によつて、良いものにも、惡いものにもなる。高橋氏が自由を、良い目的で使はうとしてゐるのか、惡い目的で使はうとしてゐるのかが問題だ。そして、アナーキズムと云ふイデオロギーを信奉してゐる事が、高橋氏の場合、明かであつて、そのアナーキズムの實現が高橋氏の目的である事はバレバレなのだが、それを容認する事が俺には出來ない訣で。アナーキズムの社會が自由な社會ではなく弱肉強食の社會となる事は目に見えてゐる訣で。差別主義者を糺彈してゐる高橋氏が、結局のところ、弱者の事を全然考へてゐない事は、明か過ぎるほど明かである訣で。
平成十六年三月二十六日
アルフォンス・ドーデ「最後の授業」
何となれば、作者の底意が奈邊にあれ、母(國)語を奪はれまいと決意してその學習に情熱を燃やすといふテーマそれ自體は、依然として普遍的・心情的に訴へかける力を有するからだ。
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040320#p2
の、なぜならば、それらに書いてあることは「事実を記録すること」を重点に置いた書物とは異なり、「まず第一に」作者の願望―フィクション―だからです。と云ふ發言に對しても、有效な反論となつてゐると思ふ。
平成十六年三月二十六日
岡田先生の文章を捩つて言へば>>高橋氏。
天皇は道徳を保守するための「充分條件」ならぬ「必要條件」なのであり、「人の上の人との癒着あるいは目下の人間への差別的な態度」を恐れるなら、さういふ状態に陷つてゐる他人の轍を踏まぬやう自らが主體的に「構へ」て「人の上の人」を敬へばよい。
平成十六年三月二十六日
物凄く簡單に圖式化すると。
高橋氏=快樂至上主義者/自由至上主義者
野嵜=「快樂もほどほどに/無制限の自由はあり得ない」と言つてゐるだけ
と云ふ事になる。
平成十六年三月二十六日
http://d.hatena.ne.jp/yms-zun/20040326#1080293969
はてなのキーワードに限らず「自由に書き込める」システムに自淨作用が働かない事は、證明するまでもなく、大體事實と認めて良いと思はれる。「自律」と言つたところで、人は容易に自律的な態度は取れないものだ。
規則なり何なりを作つたところで、規則は萬能ではない。投票によるアンケートシステムも、多數決が必ずしも萬能でない――民主主義的な議決が必ずしも萬能でない――のだから、決して常には有效に働くものでもない。
何かものを言ふとしたら、突込みを入れられる機能を設けるものではない。自分の言葉が、自己の意思とは無關係に變なキーワードと認識され、リンクされるのは、自己の一貫した主張を述べる際には不適切である。
で、キーワードやコメントの機能を無效にするのならば、それらのデメリットは避けられる。が、同時に、はてなで「blogする」理由もなくなる。
平成十六年三月二十六日
他者を抑壓せず、他者に抑壓されずに、「自己の欲望を守る」爲には、一人の世界に閉籠るしかない。が、その醜惡さを悟るにはエヴァの25話から26話邊(TV版)を觀るのが一番良いだらう。
平成十六年三月二十六日
例によつて金曜日は神保町の東京古書會館で古書展です。
と云ふ訣で本日の買物。
林健太郎『バイエルン革命史』
田中美知太郎『古典への紹介』岩波新書
中公バックス世界の名著4『老子・荘子』
浅野順一編『キリスト教概論』創文社
照屋佳男『イギリス文學に學ぶ』エイジ出版
エピクテェトス『精神の自由について』養徳叢書外國篇1033
ジンメル『藝術の哲學』文進堂
壽岳文章『本の正坐』
中村雄二郎・生松敬三・田島節夫・吉田光『思想史』東京大学出版会
龜井勝一郎『日本人の精神史研究』第1部〜第4部
自分の好きなものばつかりと言はば言へ。嫌ひなものを讀む趣味はない。少くとも、「今の人が嫌ひな本」を俺は讀んでゐる。

平成十六年三月二十五日
高橋氏は、「よい抑圧」の例を擧げる事が反論である、と主張したが、それが唯一の反證である訣ではない。
何であれ、高橋氏が「抑圧」と呼ばないものを、野嵜が「禁止と云ふ形式の命令としての徳目」と解釋してゐれば、既に高橋氏の理窟は破綻が證明されるのである。
高橋氏の理窟が成立するには、高橋氏の用語「抑圧」が、野嵜の用語「抑圧」を完全に包含してゐなければならない。
ところで、野嵜は、高橋氏の「天皇主義者」なる非難を「天皇主義者への抑圧である」と解釋してゐる。それに高橋氏は反論を加へた。だが、その反論こそが、野嵜の用語「抑圧」と、高橋氏の用語「抑圧」とに、指示する對象の食違ひがある事を歴然と示すものであつた。
高橋氏自身の反論に據り、野嵜が「抑圧」と呼ぶものを高橋氏が「抑圧」と認めない事例がある事が證明された。
平成十六年三月二十五日
ちなみに、高橋氏のやうな聯想ゲーム方式に據る「理窟」が罷り通るものならば、高橋氏は「鬼畜趣味」から「女性差別容認論者」と云ふ結論を引出す事が可能。
の筈である。面倒だから高橋氏のやうに一々「論證」の振りなどしない。
平成十六年三月二十五日
あと、高橋氏の理窟が胡散臭くて仕方がない理由が、「何の爲の自由」なのかが全然見えて來ないところにあつたりします。
「抑圧は悪いという定義なのだから」「法律違反は法律違反なのだから」「自由主義の立場だから」とばかり高橋氏は言つてゐます。動機を穿鑿されると、「動機には興味が無い」と言つてゐます。疾しい所がなければ、別に、動機を聞かれて困るものでもない筈ですが。
ただまあ、高橋氏、「鬼畜趣味」なんて言ひ、「児童ポルノ法反対」と主張してゐる訣ですから。ねえ?
自由主義の目的が「えろ畫像保護」だつたりしたら、哀し過ぎます。
平成十六年三月二十五日
そろそろサヴァイヴ。
平成十六年三月二十五日
サヴァイヴ終つた。
平成十六年三月二十五日
正直、「引用」をlegendでマーク附けするのが氣持ち惡い訣だが。
平成十六年三月二十五日
http://d.hatena.ne.jp/yms-zun/20040325#1080193362
高橋氏や「児ポ法反対」の人についても言へる訣だが。
平成十六年三月二十五日
さて、小説は何時出來上るでせう。まだ書いてゐないし、そろそろ戰時下突入だし。

平成十六年三月二十四日
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平成十六年三月二十四日
HTML入門對譯集 < 底なし井戸の底の底
平成十六年三月二十四日
街頭で「太平洋戦争の頃の事を思い出せ」だか何だかとにかく「戰爭反對」の演説をしてゐる人を見掛けたが。
この手の人は、戰前だつたら、當然のやうな顔をして、「戰爭に協力しない者は非國民」云々と演説をしただらう。
彼等は、聞き手の理性に訴へず、感情に訴へる。左翼ならセンチメンタリズムに、右翼なら民族感情に。そして、聞き手の共感を得ようとする演説者は、常に「どつちが得か」を問ひかけ、常に自分に都合の良い結論を答として引出す。
共感と損得勘定とに訴へかける論法が甚だ危險である事は自明である。そこで重要なのは、物事の善し惡し、正邪をきちんと分かつ爲の理性である。
平成十六年三月二十四日
「共感」と「損得勘定」は屡々、對立する。「共感は覺えるが、自分の利益にならないからやらない」「共感しないが、自分の利益になるからする」。この時、共感は損得勘定を抑壓し、損得勘定は共感を抑壓してゐる。
一方、共感と損得勘定が竝立する事も、高橋氏は主張するであらう。しかし、それを認めるならば、高橋氏は、抑壓と幸福とが竝立し得る事も認めなければならない。
平成十六年三月二十四日
「自由を制限するな」と云ふ禁止の命令は、「抑圧」である。「自由を制限するやうな輩は逝つて良し」の類の婉曲的な表現も、婉曲的であるだけで、直截的な表現をすれば、全て禁止となる訣で、文學的なレトリックに過ぎないから、區別して論ずる必要はない。それも「抑圧」である。
可能性は無限にあつて自由に擇べる。しかし、實踐出來るのは一つの行爲のみである。この時、「可能性と云ふ自由を、現實が抑壓してゐる」と、言ふ事は可能である。
平成十六年三月二十四日
「外部の命令に據る禁止」と「内部の命令に據る禁止」とは區別する必要がある。「内部の命令」とは「良心」の事である。「良心の聲」は、常に「○○してはならない」と云ふ禁止の形で人間に忠告する。この良心の忠告を、「抑圧」と呼ぶのは不適切である。
平成十六年三月二十四日
昨日の話の續き。
高橋氏の場合、「良い」「悪い」、「合法」「違法」、「自由」「抑圧」と云ふ判斷を、「違法は違法であるだけの事だ」と言つて、ぽんと投出す事がある。これが私には理解出來ない。
高橋氏には、上で記した判斷の先に、「認める」「認めない」と云ふ事がある。問題はこの、最終的な價値判斷である。そして、高橋氏が最終的な價値判斷をする時の基準――何かを認めたり、認めなかつたりする時の基準――が、私には見出せない。
「自由を抑圧するものは惡いものであり、認められない」「法律は抑圧だが、同時に必要悪であり、認められる」――ならば、「必要」が高橋氏の根本原理である。ところが、高橋氏に於て、「必要かどうかを判斷する基準」が、高橋氏の好み――或は、政治的なイデオロギー――に依存してゐる。しかし、論理的な議論を高橋氏がしてゐるのでれば、好みやイデオロギーが理由として出て來るのは、説得力を缺く。ならば、もつと合理的にすぱつと「認める」「認めない」を分かつ基準を高橋氏は持つてゐる筈である。それを高橋氏には、きちんと説明して貰ひたい。でないと、どれほど高橋氏が個別的に問題を論じても、全體として議論が無意味になつてしまふ。
平成十六年三月二十四日
例へば、必要悪だって完全に悪です。分けて考えてなんかいない。と高橋氏は言つてゐるが、「完全な悪」だからと言つて、高橋氏は「全部無くせ」と主張しない。ならば、高橋氏は、「完全な悪」であつても、「必要」と言ふのであれば、「存在を認める」し、積極的に受容れる。そして、「必要でない」と高橋氏が考へたものについて、高橋氏は存在を認めない。ならば、高橋氏は、區別してゐない、と言ひつつ、區別してゐると言へる。しかし、にもかかはらず、そこに區別はないのである、と高橋氏は主張する。
となると、高橋氏の「完全な悪」「悪」とは、何を意味するのか、「必要」か何うかを言ふのは何なのか、と云ふ話になる。そこを突込んで話を聞きたい訣だ。
平成十六年三月二十四日
と言ふか、高橋氏の論理において、「悪」は、「必要悪」と定義されれば、容認される。と云ふ私の指摘に對して、高橋氏は、そうだね。必要だからしょうがないでしょう。と應へる。これが私には理解出來ない。「しょうがない」のなら「しょうがない」と全ての現實を認めれば良いだけの話。ところが、高橋氏には、必要かどうかを論ずるべきと云ふ、確固たる信念がある。「必要なものは必要だから仕方がない」と言ひつゝ、「必要か何うかを證明しなければならない」と言ふ。
その「必要性の証明」の際に高橋氏が據つてゐる基準が、私には解らない。
平成十六年三月二十四日
法は改正できるから、容認できないものについては違憲性を訴えるなり法改正を訴えるなりで闘うこともできるけど、とりあえず成立した法律が適用されるということそれ自体は仕組みとして正しいので、文句は言えない。
高橋氏はかう言ひつゝ、憲法の頭のところに書かれてゐる天皇を否定し、天皇を支持する人間を「天皇主義者」と呼んで、罵倒・嘲笑する。
高橋氏は、法自体を容認することと、通った法がそのとおりに運用されることを容認することとの違いが分からないと、これは理解できない。と言つてゐる。なるほど、高橋氏は良く解つてゐるのだらう。
平成十六年三月二十四日
さて、高橋氏の以下の文章には、俺の言ってないことがいくつか入っているようだ。
天皇に根拠を持つものと自由主義に根拠を持つものとどっちを取るかといわれて俺は後者を取っている。貴方は前者を取っている。/ここで問題にしているのは、どちらが相対的に優れているか、であって、どちらが絶対か、ではない。
まづ、私は天皇に根拠を持つものを取つてゐると、高橋氏は言ふ。これが先づ良く解らない。既に私は、道徳と徳目とは違ふ、と述べた。そして、なぜ違ふか、ではなく、私の用語の定義から言つて違ふのだ、と説明した。この用語の定義に基いた議論は、高橋氏だつて「抑圧は全て悪い事である」と云ふ定義に基いて行つてゐるのと同じで、正當な議論の方法である(もつとも、高橋氏の議論は、全體として、正當と言へないが)。だから、高橋氏は、私の論じてゐる事を理解するのに、私の定義に從はなければならない義務があるが、この義務を高橋氏は無視し、抑壓してゐる――と云ふのは冗談にしても、少くとも、私の文章を、私の意圖通りに高橋氏が理解してゐないのは、事實である。これは、明かに高橋氏が私の意圖を默殺し抑壓する意圖の下、やつてゐる歪曲であるが、さう云ふ歪曲を好む人間が「自由主義」を取つてゐるなどと言ふのはちやんちやらをかしい。他人の用語の自由を高橋氏は抑壓してゐる。これは明かに言論の自由を抑壓する行爲である。閑話休題。
高橋氏は、「野嵜が支持する徳目は、天皇の命ずる徳目から、論理的に引出される徳目である」と指摘してゐるに過ぎない。そして、この「徳目」なる用語は、私の定義と高橋氏の定義とで異り、一致しないのだが、高橋氏は「一致する!」と言張つて、無理矢理話を繋げて「野嵜が支持する抑圧的な命令は、天皇の抑圧的な命令に基礎を置いている」と極附ける。ここに、議論上必要な論理性が皆無である事は明かである。「抑圧は悪である」が政治的な價値判斷であり、相對的な價値判斷である事は、既に指摘した。高橋氏は、相對的で政治的な價値判斷の何が惡いかと開き直つてゐるが、政治的な價値判斷に基く高橋氏の一方的な攻撃は即ち、イデオロギー的な非難であり、「左翼が右翼を罵る」と云ふ御決りのパターンとして、一般の讀者に理解される。そして(相變らず懲りずに高橋氏の用語を借りて揶揄するのだが)それ以上の意味で、有效性はない。
しかも、高橋氏は、貴方の主張する価値が相対的ではないということを俺は認めません、と言ふ。その「認めない」根據に、「抑圧は悪」なる相對的な價値觀が入り込んでゐる以上、先づ、私の主張が相對的であらうが政治的であらうが、今の議論で私が不利な立場に立つ事はない。
平成十六年三月二十四日
あと、高橋氏の「抑圧」の定義、つて、聞いてゐない氣がするんだけれども。「自由」の定義も。なんかまた人の嫁貼つてゐるし。
平成十六年三月二十四日
と言ふか、2004/03/22 (月)の發言で高橋氏、広大なこの世界に、事実として何かがないことを証明することは不可能。なんて言つてゐるんだけれども。
「良い抑圧」が「ない」と云ふ事も、「ある」と云ふ事も、事實として證明することは不可能、と云ふ事になる訣で、なのに、高橋氏は例を「挙げてみろー挙げてみろー」と盛んに連發する。これはをかしな話だ。
自分に都合の惡い要求は默殺しつゝ、その要求の仕方が相手にとつても都合の惡いものであると思つて平然と要求する――アレクセイ氏にも高橋氏にも共通してみられる「自分の事は棚に上げ」戰法である。
平成十六年三月二十四日
高橋氏は、「道徳的ポルノ表現規制」と「天皇主義」は政治と貴方の道徳との共通部分です。と述べてゐる。
聖書の「汝姦淫する勿れ」は、政治的な命令ではなく、道徳的な命令である。「汝淫行する勿れ」ならば政治的な命令である。「ポルノ表現を規制する」のは、「頭の中で行はれる姦淫を規制する」のとは話が違ふ。例の「児童ポルノ法」も「幼兒を何う斯うする樣子を想像する」事は取締つてゐない。高橋氏は「同じ抑圧」と見るが、俺は「次元の違ふ話」としか見ない。
「天皇主義」は、高橋氏の理解が間違つてゐるだけである。と言ふか、法による抑圧も、無くてすむなら無いほうがいいですよ。無くてすまないからあるわけだけど。必要悪。の「法」を「天皇」に置換へて考へる事が、高橋氏にはなぜ出來ないのだらうか。人の話を理解しようとしない高橋氏には、その程度の理解でさへも期待する方が間違つてゐるのかも知れないが。
平成十六年三月二十四日
天皇は現實に「ある」のだから「仕方がない」。で、その事實を生かすのは、イデオロギーに基いて無理に事實を無くすよりも、安全だらうと、保守的な俺は言つてゐる訣だ。
高橋氏みたいに、觀念の世界で「抑圧は全て悪」なんて言つて、「事実として何かがないことを証明することは不可能」であるにもかかはらず「良い抑圧は無い」と極附け、理論を構築するのは、危險だと思つてゐる訣だ。
と言ふか、「良い抑圧の例」として擧げたものを、ひたすら高橋氏は高橋氏基準――「抑圧は悪い」――で否定する訣で。
平成十六年三月二十四日
表現の自由を侵すという批判は観念的だが、道徳的批判は観念的ではないらしい。/つまり野嵜氏は道徳を観念的だとは思っていない。/その根拠を近代を持ち出したりカトリックを持ち出したりで延々議論してきたわけだが、結局のところ、彼の根拠は天皇に帰着するようだ。
「ポルノ表現の話を表現の自由一般の議論に擴大するな」と俺は言つてゐるだけ。さう云ふ意味での「觀念的な批判」と「道徳的批判と云ふ觀念」とを、高橋氏は混同してゐる。
ちなみに、一聯の議論で、俺は「天皇が駄目と言つたから」云々と、一度も言つてゐない。それなのに、高橋氏は、俺が他の文書で「日本人の道徳における天皇の存在の必要性」を論じたからと言つて、リニアに理窟を結合してしまつてゐる。これは、正しい議論の仕方と言へない。どちらかと言ふと、高橋氏のやつてゐる事は、高橋氏の否定する「主張の動機」の穿鑿に近い。
平成十六年三月二十四日
結局のところ、天皇と呼ばれた人の実在性は、単に天皇と呼ばれる人間が歴史的に存在したということでしかない。/なぜそれが道徳や徳目の本質性実在性必然性を支えうるのか。つまりその飛躍こそが天皇主義だ。
天皇の存在が日本人の道徳において果した役割は、歴史的に存在した。なるほど、「天皇が存在すれば必然的に日本人は道徳的に振舞ふ」とは言へない。しかし、「天皇がかつて、日本人にとつて『一番偉い人』であつた事」は、事實である。その「日本人にとつて一番偉い人」が「偉くない人」に轉落する前例が出來たとする。すると、日本人にとつて、「偉い人」は「常に偉い人である訣では無い」と云ふ前例が出來る事になる。すると、日本人は、「偉い人」が、「偉い人」でなくなる事は「あり得る」と考へるやうになる。すると、日本人は、他人を「偉い」と思はなくとも良い、と考へる事が可能になる。さうなると、日本人にとつて、絶對的に偉い存在は自分、と云ふ事になる。
「人の上の人」が存在する事は、「人の下の人」にとつて、抑壓であると言ふ事は可能であるが、同時に、自分が「人の下の人」であると意識する事によつて自分が謙虚になる契機となる。ここで、「人の上の人」と「人の下の人」が「身近な人」として結合すると、「偉い人」と「自分」とが結合し、「自分は偉い人の仲間」であると云ふ意識が生じて、謙虚ではなく傲慢になる。それは避けるべきであるが、一方で、「人の上の人」と「人の下の人」との間に畏怖の念が入り込んで、「人の下の人」に「人の下の人」の自覺と意識を要求する時、「人の下の人」は謙虚に振舞ひ得るし、そのやうな形でのみ、日本人は謙虚さを保ち得る。しかし、「人の上の人」の一人である天皇が「人の上の人」でなくなつた瞬間、「人の上の人」は「人の上の人」でなくなる事があり得ると云ふ事が事實として證明されてしまふ。
「人の上にGodを戴く文化」の場合、「人の上の人」が「人の上の人」でなくなり、權威を失つても、「人の上のGod」は權威を失はないから、「Godの下の人」は「自分以上の存在」を意識して「その存在以下の存在」としての自己を自覺し、謙虚になる事が出來る。自己の傲慢さを自制する契機としてGodの觀念は極めて有效に作用する。しかし、Godの觀念を持たない日本人は、自制の爲には他者による抑制(抑壓と俺は呼ばない)を必要とする。そして、理論的に自制は自分で出來た方が良いにしても、現實問題として自分一人で自分の欲望なり自尊心なりを抑制出來る人間がさうさう澤山ゐるとも思はれない。實際のところ、「えろい繪を見たい」と主張し、自己の欲望を抑制しない事をおほつぴらに宣傳する日本人は、多數ゐるのである。
平成十六年三月二十四日
ついでに言ふと、「欲望は抑へ込むばかりでなく、適度なガス拔きが必要である」と云ふ理論が、屡々提唱される。提唱と言ふほどのものでもないが、良く言はれる。
けれども、「受験勉強の息抜きの積りが、気付いたら朝まで虹裏」なんて事になつたりするのは、我々の良く經驗する事實である。
やつぱり、自己の欲望は、發散させる許りでなく、適度に抑制出來るやうになる事も必要である。が、言ふのは簡單、實踐は難しい。自制なんて事は、誰でも簡單に出來るものではない。そこで、誰かに直接手傳つて貰ふか、「誰かが見てゐる」とか云ふ意識を持つかして、「他律」的にでも自己を抑制しようとするしかない。その時、その「他者」は、絶對の存在でない、と證明されてゐたとすれば、「自制の爲の手段」として效力が弱くなる。Godのやうな、目に見えないし觸る事も出來ないし、「非存在の証明」が不可能である理念であれば、「自制の爲の手段」としてはより有效に機能する。しかし、日本人は、幸か不幸か(不幸にも、とは言はない)、Godのやうな絶對者を持たない――日本人に「ある」のは、目に見えるし觸らうとすれば觸れるし、話も出來る、「同じ人間」としての「人の上の人」だけである。自制が必要であるならば、「人の上の人」の有效性は保持しておく方が有效であるのであつて、さう云ふ理由で「人の上の人」の中で一番上にゐる人である天皇の權威を、簡單に否定してしまつてはならない、と、さう言つてゐるだけである。
そして、自制が人間にとつて必要である事は、事實である。自己の欲望を無限大に擴大する事は不可能である。それを誰か一人がやらうとすれば、獨裁であり、或は絶對君主制である。ただ、互ひに自制し合つて、互ひの欲望なり何なりをそれなりに叶へようとするならば、自由主義であり、民主主義である。逆に言へば、自由主義・民主主義は、自制を前提とする。俺は、そこのところの話をしてゐる訣だ。「自由主義の立場」と宣言すれば自動的に自由主義的になれる、と云ふものでもあるまい。或は、全ての人間が對等に自制を利かせれば、それは最う理想的な自由主義で民主主義の國が出來上がるのだらうが、幸か不幸か、人間は完全には同等に自制出來る存在でないのであり、そこまで論理的に公平を強要してしまつたら、ソヴィエトで失敗した共産主義になつてしまふ。政治の場合、大體の話で結構なのであつて、自由主義も「大體」であつて良い。完全に全ての人間が公平である必要はなく、立憲君主制であつて全然問題ない。だから、事實としてイギリスのやうな國が自由主義の國として存在する。ならば、日本人が天皇を戴く日本國が、自由主義の國であつて全然問題ないのであつて、ただ、「完全な公平でない」と言つて天皇の存在を否定するのは、日本の特殊事情を無理矢理否定し、日本で自由主義を實現する前提を破壞する事であり、寧ろ自由主義の實現を阻害する事である。
平成十六年三月二十四日
何と言ふか、高橋氏つて、憲兵かKGB向きの人だな、と思つた訣よ。
平成十六年三月二十四日
「エマ」を買つて來た。ジェイン・オースティンの。中公文庫の古本。二百圓也。
平成十六年三月二十四日
「ほしのこえ」は、アニメージュライブラリーDVDブック版(二千五百圓)と、ANIMAXで放映された時に録畫したのとを持つてゐるけれども、まだ觀てゐない。

平成十六年三月二十三日
でまた例によつて云々。
平成十六年三月二十三日
さすがに睡眠時間が三時間を切るナポレオン状態が續くと死にさうになるのでそろそろシャットダウン。
平成十六年三月二十三日
單に「人を苛めちや行けません。天罰、天罰。」のやうな一つの命令しかない場合にも、もちろん「苛めるか、苛めないか」の葛藤はある。しかし、二つの命令が競合した時には、より厄介な道徳的葛藤が生じ得る、と云ふ事もある。
「人を殺してはならない」と「今、目の前で、病氣で苦しんでゐる身内が、自分を殺して呉れと頼んでゐるので、安樂死させてやらなければならない」と云ふ、二つの命令は、どちらもそれ一つを取つて見れば徳目であるが、二つの徳目は相互に排除し合ふ徳目である。このディレンマに陷つた時、惹起こされるのは「自由の制限」ではなく、葛藤であり、結果として生ずるのは、意志に據つて決定される一つの行爲の實踐と、實踐されなかつた行爲への悔恨の情である。
平成十六年三月二十三日
ナポレオンは三時間しか眠らなかつたんだつて。とりびあ。
平成十六年三月二十三日
「ローマ市民の敵であるから生かしておいてはならない」と「恩人であるから殺すべきでない」の對立は、單に政治的な正義と道徳的な徳目との對立である。
平成十六年三月二十三日
めも。
Spoken Language Processing panel discussion May-95
パネル討論 「話し言葉の文法構築は可能か?」
平成十六年三月二十三日
ポール・ヴェーヌ『歴史をどう書くか』(法政大学出版局・叢書・ウニベルシタス116)なんて本を買つて來た。とても高かつた。
平成十六年三月二十三日
高橋氏の主張における原則が理解出來ない。
「抑圧」は「自由の制限」だから「悪い」ものである。
「自由の制限」は「悪い」ものである。
高橋氏における「自由」の定義は?
高橋氏における「制限」の定義は?
高橋氏における「悪い」の定義は?
高橋氏は、「全ての自由」は「良い」ものであると考へてゐるのか。
高橋氏は、「全ての制限」は「悪い」ものであると考へてゐるのか。
高橋氏は、「全ての自由の制限」は「悪い」ものであると考へてゐるのか。
高橋氏は、「自由」が唯一の原理だ、と考へてゐる→これは否定される。
高橋氏の定義に據れば、「全ての抑圧は悪である」は「全ての自由の制限は悪である」と同義である筈である。
しかし、多數の人によつて擇ばれた議員によつて作られた法律に據る自由の制限を、高橋氏は「必要悪」と言つて「悪」と言はない。
「必要悪」と「悪」との關係を、高橋氏はどのやうに定義してゐるのか。
「完全な悪」「完全に悪い」と、「條件附きの悪」「條件附きで悪い」「必要悪」とは、違ふ事である。高橋氏が「自由の制限」は「悪い」と言ふ時、その「悪い」は、「完全な悪」か、「必要悪」か。
「自由を制限するのは悪である」「法律は自由を制限する」よつて「法律は悪である」と高橋氏は述べる。この時、それぞれの「悪」の定義は同一でなければならない。しかし、高橋氏は、最初の「自由を制限する悪」を「完全な悪」と考へ、「法律の悪」を「必要悪」と言ひ、區別してゐる。高橋氏は、ごまかしをやつてゐる。
「自由を制限するのは悪である」「自由を制限する法律は必要悪である」「法律に違反するのは法律違反である」――高橋氏は、その「法律違反」を「避けるべきだ」と考へてゐる。その根據は何か。
以上は、高橋氏の主張に感じられた疑問點をアトランダムにリストアップしたもの。檢討の過程と思つていただきたい。
平成十六年三月二十三日
高橋氏の主張を幾つか拔出して並べてみる。
高橋氏は、これらの高橋氏の主張・態度が、一貫したものであると看做してゐる。しかし、私には、一貫したものに見えない。
高橋氏の論理において、「悪」は、「必要悪」と定義されれば、容認される。「法律」は、制定される以前に容認されなかつたものが、いつたん制定されてしまつたら容認される。ここで重要なのは、高橋氏が「自由」とその制限によつて「抑圧」なる概念を形成し、その「抑圧」を根據に野嵜を非難しながら、高橋氏の主張の中で、その「抑圧」は「世間の人」と云ふ別の根據によつて「容認されるかされないか」が決つて來る。さうなると、「抑圧」「自由」なる、高橋氏が野嵜を非難する際の根據は、高橋氏自身の中で相對的な價値を持つものである。と云ふ事は、高橋氏の批判において、「抑圧」「自由」なる根據は、相對的な根據である事になる。これが何を意味するかと言ふと、高橋氏の批判がそもそも相對的な批判でしかない、と云ふ事である。
平成十六年三月二十三日
續報。地獄変00:Fieldsetのような見た目の引用の伝説。傳説になつてるし。
うちのサイトでの言及は、http://nozakitakehide.web.fc2.com/diary/20040304.htmlの眞ん中(何處)邊。いんこの寫眞の下(何處)。
平成十六年三月二十三日
めも。
週刊書評 『求む、有能でないひと』/タオイスト・チェスタトンの面目躍如(小森健太朗氏)
平成十六年三月二十三日
http://d.hatena.ne.jp/theoria/20040323#1080039185
なんでうちの讀者はチェックが早いのか。
平成十六年三月二十三日
結局「るろうに」つて何

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