闇黒日記

平成十六年三月二十二日
と云ふ訣で以下略。
平成十六年三月二十二日
で、例によつてhttp://www.memorize.ne.jp/diary/57/36889/の2004/03/21 (日)の項。
はつきり分かれてゐるものを「わかれていない!」と言張る方が困る訣で。
だから、道徳じゃなくて、法もしくは自由主義思想だと何度も言っているのだが。
「抑圧は抑圧であるから排除しなければならない」法もしくは自由主義思想なのか? しかし、誰が見ても政治的主張だぞ、これ。具體的に、このやうな主張をしてゐる法學者または自由主義思想家の名前と典據を示してもらひたいですね。
貴方がただの天皇主義者だと言っているだけで、それをいけないことだとは言ってない。/もちろん、思想信条は自由ですからね。
だれも高橋氏がいけないことだと言つてゐるなどと書いてゐない。高橋氏は、あつてはならない事だとしてゐる、と書いた。
抑圧であることは確かでしょう。俺が言及しているのはそこだけです。/抑圧であるということ以外の点を問題にしているのは貴方であり俺ではない。
しかし、高橋氏は次の發言で、抑圧であることを悪いと言っているのですからとはつきり書いてゐる。
抑圧であることを悪いと言っているのですから、貴方が説こうとしている部分とは関係なく、抑圧である時点で悪いのです。
もし私が説こうとしている部分とは関係が無いのなら、高橋氏の「野嵜の主張」と呼んでゐるものは、野嵜とは關係が無いものと云ふ事になる。
俺の言ってないことが入ってるのは上で明確に示しました。
それは上で明確に否定されました。
平成十六年三月二十二日
口で言つても解らないやうだから圖で説明。高橋氏の聯想ゲームは所詮聯想ゲームである。私は、それをパロディ化して揶揄つてゐるだけなのだが、高橋氏は自分が揶揄はれてゐる事を理解しない。では、眞面目に説明すれば聞入れるのかと言へば、高橋氏こそ、自分が野嵜を揶揄つてゐるものと思ひ込んでゐるのだから、聞入れる訣がない。
ならば、文章で説明するだけ、時間の無駄である。
高橋氏の「抑壓」の觀念、野嵜の「抑壓」の觀念に關するベン圖。
面積は實際(?)の分量と必ずしも比例しない。
また、鉤括弧で括つてゐるやうに、野嵜の「抑壓」は、野嵜が考へる抑壓の觀念とは異るものである。そして、高橋氏の考へる「抑壓」の觀念も、偏つてゐるから、鉤括弧で括つた。
平成十六年三月二十二日
と言ふか、抑圧であることを悪いと言っているのですから、貴方が説こうとしている部分とは関係なく、抑圧である時点で悪いのです。と言つてゐる高橋氏は、そして、徳目は全て抑壓的である。「○○してはならない」と云ふ絶對的な命令を、「抑壓的」と呼ぶのならばと云ふ私の文章を讀めてゐない。私は、ならばと言つてゐる。これは、「假定」を意味してゐる。そして、假定であるのだから、實際のところ、私は「○○してはならない」と云ふ絶對的な命令を「抑壓的」と呼んでゐない。私は、「○○してはならない」と云ふ絶對的な命令である事が「徳目」の性質であると述べてゐるに過ぎないし、「○○してはならない」と云ふ絶對的な命令を「抑壓的」と高橋氏は呼ぶだらうが、俺は呼ばない、と宣言してゐる。
この時點で、高橋氏が聯想ゲームを完全な勘違ひから始めてゐる事は明かになつた筈である。
平成十六年三月二十二日
その邊の食堂や屋臺のらーめん屋で料金を踏み倒した人間が(以下略)(野嵜)/ただの違法行為じゃないの。徳目に出番があるとは思えないが。(高橋氏)
「料金踏み倒し」の例を考察する際、關與する事柄を示したベン圖。
汚い圖だな。
平成十六年三月二十二日
と言ふか、「えっちないらすとを見たい」「へろげでスッチャスッチャしたい」なる欲望が、高橋氏の言ふやうな意味でも自律的なものであるか何うかは、檢討の餘地がある。(野嵜)/ラノベの下読みをしたり天皇主義にハァハァしたりとたいして変わらないと思いますよ。(高橋氏)
「欲望」から話を逸らしてゐますが何故?
平成十六年三月二十二日
打算的だが同時に他人に共感する人間がゐる、と云ふ非現實的な状況を以下略。(野嵜)/まともに女と付き合ったり普通に会社で働いたことありますか?(高橋氏)
「他人に共感を覺えられる」傾向と「打算的」な傾向とが重なる部分は寧ろ少いだらう事を示したベン圖。
平成十六年三月二十二日
黒のマッキーと赤・緑・茶色のサインペンしか持つてゐない事については、つつこみ不要。
平成十六年三月二十二日
次は、人がどのやうな態度をとり得るかを示した圖。
「人の上にGodを戴く文化」と「人の上に人を戴く文化」の關係を示したベン圖。
どちらが偉い、と云ふ關係を示してゐるのではない。「人の上にGodを戴く文化」の人間は、「人の上に人を戴く」事を理解出來ない訣ではない、と云ふ事を示してゐる。「人の上にGodを戴く文化」の人であつても、人の上の人を尊敬する事は可能だからである。
平成十六年三月二十二日
で、高橋氏の非難してゐる領域と、俺が最低限守るべきだと考へてゐる領域を示した圖。
高橋氏の所謂「抑壓」と野嵜の「守るべき道徳」の關係を示したベン圖。
平成十六年三月二十二日
適當に色を落したら、なんか見難くなつた。すまん。
平成十六年三月二十二日
大ざつぱな圖なので、正確を缺く處があるかも知れんが、豫め謝る。
平成十六年三月二十二日
法は選挙で選ばれた国民の代表がその妥当性有効性を討議した上で定まっているものだけど、貴方の道徳・徳目はそのような検討を経ていない。
高橋氏は、妥當である事と、國民の代表が「妥當だ」「有效だ」と思つた事と、法律とを、同一視してゐるが、實際には同一視出來ない。。
「妥當である事」「多くの人が妥當と思ふ事」「法律」の關係を示したベン圖。
平成十六年三月二十二日
やっぱ、こういう逐語レス的なやり方は良くないんじゃないかなあ。/読む気を無くす人が増えるだけでしょう。
これでどうよ。
平成十六年三月二十二日
17年間生きて、1996年に死んだ、うちのせきせいいんこ。
平成十六年三月二十二日
地獄変00:blockquoteはもう古い〜fieldsetの伝説(legend)!!
Appendix A: A sample style sheet for HTML 4.0
The full presentation of some HTML elements cannot be expressed in CSS2, including replaced elements (IMG, OBJECT), scripting elements (SCRIPT, APPLET), form control elements, and frame elements.
fieldsetを再現出來るプロパティがないんだから仕方がない。
と言ふか、「HTMLの要素のスタイル」と言ふよりも、「HTMLの要素をレンダリングするブラウザのスタイル」と言ふ方が正確だらうと言ふか、仕様書が或意味、非常に曖昧な言ひ方をしてゐてtypical formattingつてなんだよそれな感じなのだけれども。まあ。所詮、例だし。
ワレズ日記: どちらもカッコよく見えないっていうか(笑)
CSSの記述。
body
{
background-color: #FFF;
color: #333;
}

blockquote
{
position: relative;
padding: 0.5em;
border: 1px solid #333;
}

dt
{
display: block;
position: absolute;
top: -0.5em;
left: 1em;
z-index: 1;
padding: 0 0.5em;
background-color: #FFF;
}
HTML文書の記述。
<blockquote>
<dl>
<dt>地獄変00</dt>
<dd>地獄変00(ダブルオー)が世界の覇者となるまでの軌跡</dd>
</dl>
</blockquote>
これだけでなんかそれつぽく出來たんですが。IEとOperaでのみかくにん。NN4無視。
test.html
これだけの記述ならばそれつぽいけれどもアレつぽい。手を加へただけで良く考へて作つてゐないし。
平成十六年三月二十二日
あと、永続的なURIはhttp://www.aboutworks.com/shokodei/diary/2004/2004_03_b.html#PrintNo10になりさうなカナかな団の躁鬱_Previewの2004年03月22日 16時49分の791番目の記事でも言及されてゐる。
平成十六年三月二十二日
朝、三時間弱しか寢てゐないから晝間眠かつたし今も眠い。「三時間弱」を「3次閑寂」と變換するうちのWXG萌え。
平成十六年三月二十二日
http://www.cc.rim.or.jp/~iiii/main/past.cgi?d=200403222
この間書いた事はこれだ。
平成十六年三月二十二日
高橋氏の話。2004/03/22 (月)。
それと高橋氏のベン図。
平成十六年三月二十二日
まず3/22の1つめ、「道徳と抑圧」 A=世間が道徳と呼ぶもの、B=高橋の抑圧 C=野嵜氏の抑圧、とする。俺の抑圧は野嵜氏の抑圧を包含する概念なので、オ・キが空。これが間違いだというなら俺が納得する反例をあげていただきたい。
高橋氏の「抑壓」は野嵜の「抑壓」を包含する訣ではない。高橋氏には、定義ではなく、事實としてオ・キが空である事を證明していただきたい。
と言ふか、自由を制限しようとするものは全て抑圧的だと俺は考えますが。と高橋氏が言ふ時の「抑圧的だ」が、「惡い事だ」と云ふ意味になつてしまつてゐる事がをかしいのだが。つまり、全て悪いんだから、いい抑圧悪い抑圧を論ずることに意味は無いと言うことです。なんて高橋氏は書いてゐる。
平成十六年三月二十二日
2つめ、「道徳と違法行為について」 A=法による抑圧 B=違法行為 C=道徳的悪事とおく。違法行為というのは法によって抑圧されている行為なのだから、BはAの部分集合だろう。ウとカは空。食い逃げは、イもしくはエに属する行為である。どちらにせよAとBの要素であり、AとBでカバーできる。
「法による抑圧は抑圧であるだけで悪であり、無くてすむなら無いほうがいい」のか。
と言ふか、抑壓されてゐる筈なのに實行されちやつてゐるよ。
平成十六年三月二十二日
3つめ、「打算的な人と他人に共感を覚えられる人について」これは図式としては野嵜氏のものと同じだが、前に書いたとおり、数の見積もりにおいて異議がある。ベン図は要素数について何をいうものでもないので、ここでは省略。
異義があるなら根據を述べたら何うか。女と距離をつめて付き合ってみれば、その辺がごちゃまぜになった人間の面白さが分かるだろうし、会社で仕事でもしてみれば、誰もが保身や栄達を考えてると同時に、人を人とも思わない外道もそういないことが分かる。は、ただ自分の女性歴だか職歴だかにおける經驗論を述べてゐるに過ぎず、何も證明してゐない。
平成十六年三月二十二日
4つめ、「人がどのような態度をとりうるか」集合で理解可能性を表現するのにはちょっと疑問があるが、あえてこの表記法に乗ってみることにする。まず俺はこれを文化に決定される問題とは考えないので、そこは個々人の価値観に変更する。そして、「人の上に人を戴く価値観」「人の上にGodを戴く価値観」のほかに、「人の上に何も戴かない価値観」というのを加えて、三集合のベン図で書くことにする。A=人の上に人を戴く価値観 B=人の上にGodを戴く価値観 C=人の上に何も戴かない価値観。この場合、俺は、ア〜クの全てが空ではないと考える。つまり、どの価値観からも、互いに理解できる部分も出来ない部分もある。それは一旦自分の価値観を相対化してその外に出ないと理解不可能である。
人の上に何も戴かない価値観は既にあの圖で表現してゐる。圓の外側。
どの価値観からも、互いに理解できる部分も出来ない部分もあるなんて、そんな事を言ひ始めたら、論理で人間を割切れる訣がない、の一言で話が終る。大體、同じやうに「人の上に人を戴く価値観」と言はうが「人の上にGodを戴く価値観」と言はうが「人の上に何も戴かない価値観」と言はうが、個人差がある訣で、そこを割切つて考へてみる時の話をしてゐるのだから――大體の傾向の話をしてゐるのだから――、どの価値観からも、互いに理解できる部分も出来ない部分もあるなんて話をしても仕方がない。
平成十六年三月二十二日
5つめ、「政治と道徳の領域」。/野嵜氏の言う道徳の領域の内部がどのように細分化されているのかには俺は全く興味が無い。そこをどれだけ詳細に論じてもらっても俺の図式に関するなんの補足情報にもならない。/A=高橋が抑圧と呼ぶ領域 B=政治の領域 C=野嵜氏の言う道徳の領域とおく。抑圧、すなわち他人の権利や自由を制限するということは常に政治的だから、ア・オは空である。俺が言いたいのは、CがAやBと共通部分を持つこと、つまり、エやカが空ではないということだ。エの例が、道徳的ポルノ表現規制。カの例が、「人の上に人を戴く」天皇主義(他の物を戴いたり何も戴かない人に押し付けない限りにおいて、抑圧ではないからとりあえずカにしておく)。
高橋氏が興味を持つてゐるかゐないかに關らず、事實として政治的な領域と道徳的な領域とは別だから、私が高橋氏に附合つて事實に反した話をする必要はない。そもそも、高橋氏に附合つて話をするとろくな事にならないと言ふのは、高橋氏の用語に附合つて「抑壓と言ふならば」等とやつたものだから、假定と事實とを混同されて變な「天皇主義」をでつち上げられたりしたのを見ればわかる。
平成十六年三月二十二日
文章で書いてもわけがわからんので、俺が見て解る圖で。わかればいいんだわかれば。
高橋氏の考へる「抑壓」と「惡事」との關係を示した圖
野嵜の考へる「抑壓」と、「道徳的な善惡」、「政治的な正邪」との關係を示した圖
俺は高橋氏が興味を持たない領域の存在を指摘してゐるだけである。俺が興味を持つてゐる「道徳的」の領域を、高橋氏は見てゐないだけである。
と言ふか、野嵜の考へを示した圖の、上半分を隠すと、高橋氏の考へに良く似た圖になる。が、その場合でも、「自由の制限」と「抑壓」とが一致してゐない。實は、高橋氏も經濟の無制限の自由を認めてをらず、經濟も政治的である筈だから、高橋氏の考へを示すとしても、「野嵜の考へ」の下半分の形を高橋氏は示さなければならない。ところが、高橋氏は、「政治的に正しくない事」の中に「自由の制限」を完全に包含させてしまふ。高橋氏の興味の範圍だけで考へても、高橋氏の主張は間違つてゐる。
平成十六年三月二十二日
安樂死の問題。「高瀬舟」を參考にせよ。
病気で苦しんでゐる人間を見兼ねたからと言つて安樂死させるのは、人を殺す事が人の自由を奪ふ事であり、人の自由を奪ふ事は人の自由を制限する事に完全に包含されるから、自由の制限に包含される。江戸時代、安樂死は法で認められてゐなかつたから、高瀬舟で運ばれる囚人は法に違反した事になる。現代でも、今のところは、大體のところ、安樂死は法で認められてゐないが、安樂死に關する法の規定は國によつて異る。法律の規定は、政治によつて定められる。安樂死を認めない法律は、政治的な命令である。一方、それでも、苦しんでゐる人間を見れば樂にしてやりたいと思ふのも人情としてあり得るし、苦しんでゐる本人が「殺して呉れ」と頼む事もあり得るし、實際に「高瀬舟」ではさう云ふ事情で安樂死が行はれてゐて、作者の鴎外も「犯人」に同情的であるが、にもかかはらず法律違反である。小説の話に限られない。病氣の人間が既に意識を持つてをらず、意識の恢復も見込めない場合、家族が本人の氣持を斟酌して安樂死を願ふ事もあり得るが、現代の日本では依然、法律違反である。が、何處だかの國では既に合法的である(條件附き。フランスだつけ)。
かうなると、單に「自由の制限」「政治」だけの切り口で「抑壓」なるものを定義し、「惡い」と極附ける事は不可能であるし、法律の規定が多くの人間に據る議論の結果、成立したものであつても、一人殘らず例外なしに、全ての個人の意識に合致した行動の解釋や行動の制限を行へるものではない。また、社會的通念と、個々人のその場その場での判斷とも、當然常には一致しない。そして、社會的通念に反してゐる事、或は違法な事でも「道徳的に善い」と云ふ事はあり(例。「高瀬舟」で安樂死を實行した「犯人」)、合法であつても社會的通念から言つて「好ましくない」事(飽くまで分り易い例。高速道路で法定基準最低限の速度で走る事)、個人の判断では認められ得るし、社會的通念でも認めて良い筈だがなぜか違法(偏つた意見かも知らんが。アウトバーンを100kmオーヴァで飛ばすやうに作られてゐる外車が日本の高速道路では100km制限にひつかかる事)、と云ふ事もある。
平成十六年三月二十二日
ついでに。上(どつち)の「野嵜の考へ方」の圖で、道徳に關しては「善惡」、政治に關しては「正邪」と俺は區別して書いてゐる。日本語では「よい」「わるい」と、まとめて言つてしまふ事は可能であり、高橋氏は、まとめて言へるのならば同じ事だ、と亂暴にも考へてゐる。しかし、道徳におけるevilとgood、政治におけるwrongとrightとの區別は、英語には存在する。ならば、我々日本人が意識してゐなくとも、英語圈の連中ならば認識出來てゐる事がある筈であり、さう云ふ連中が扱つてゐる概念或は彼等の概念に對する認識と、我々日本人の扱ふ概念或は概念に對する認識とには、違ひがある事を推測するのは可能である。
平成十六年三月二十二日
あと。高橋氏のこめんとより。
野嵜氏の主張は、ポルノ規制は道徳の問題だから、法的に問題があっても構わない、というものでした。
ええとですね。法的に問題がない状態であつても、道徳的に問題があつたら何うしやうもない、と指摘したんですよ。
人は、政治的な人間である前に、人でなければならない訣です。
平成十六年三月二十二日
高橋氏の發言につつこみを入れようと思つて考へ始めて氣附いたのだが、俺、最初の最初に何を指摘しましたつけ?
「児童ポルノ法改悪反対」にしても、「全てのエロ画像は良いものである」と信じてゐるから「反対」なのか、「或種のエロ画像は良くないが或種のエロ画像は良いものだ」と信じてゐるから「反対」なのか、後者ならばどのやうなエロ画像は良くてどのやうなエロ画像は駄目なのか、さう云ふ事を全然はつきりさせようとしない。とにかく「言論の自由」を冒すから「反対」と云ふ、甚だ觀念的な「反対」が多いやうに見受けられる。
俺の指摘、結局當つてゐるんだよな。
平成十六年三月二十二日
やつぱり俺、ミステリは駄目だと思ふ。
名探偵の推理に「それは推理でしかない」と威張つて答へる高橋氏みたいな犯人がゐたら崩潰するやうな小説なんて、駄目だらう。
逆に、高橋氏が探偵役だつたら、無實の罪を著せられる犯人續出。良く知らんが。
平成十六年三月二十二日
1990年代前半「アンチPC-98」だつた俺が今、「蘇るPC-9801伝説」なんて買つてゐるのである。
昔々、大陸書房からPCフォーラムと云ふMOOKが出てゐてな、「さらば愛しのPC-98」なんてものが出てゐてな。
平成十六年三月二十二日
「蘇るPC-9801伝説」に浮川和宣氏のインタビュー記事が載つてゐて、浮川氏、当時、大學の先生方の論文で本当にあったのですが、「日本は漢字をこれから使うとコンピュータ処理が遅くなる」という、「漢字不要論」などを、まじめに言われた先生があったほどなのです。でも、絶対に漢字がそのまま出力されるようになるのは当たり前だと考えたわけです。と述べてゐる。
それならなんで紀田順一郎なんて漢字廢止論者を連れてきたんだらう。
平成十六年三月二十二日
初期の一太郎では、テキスト自體と、文字の飾り附けとが別々のファイルに保存されてゐたんだよな。
平成十六年三月二十二日
つまり、全て悪いんだから、いい抑圧悪い抑圧を論ずることに意味は無いと言うことです。
いい抑圧悪い抑圧を論じないで「全て悪いんだから全て悪い」と言つたつて意味がない、と云ふ事に氣附いてゐない馬鹿。「いい抑圧」と「悪い抑圧」があるのだから、「全て悪い」と言ふ事がそもそもをかしい訣。
大體、「良い」「惡い」と一方的に極附けてはいけないだらう。「抑壓は惡い」なんて亂暴な言ひ方で割切つて貰つては困るんですよ。
と言ふか、「抑壓と云ふ言葉を使つて表現出來てしまふものは全て惡いものなの。野嵜はそれを認めろ」と高橋氏は言つてゐるだけだし、野嵜が「高橋氏の言つてゐる事も抑壓だよ」と云ふ指摘には「××と云ふ理由があるから抑壓と呼ぶべきでない」と言張り、「除外すべき條件」を後だしじゃんけんみたいに後から出して言ひ繕つてゐるだけである。
平成十六年三月二十二日
「抑壓」→「惡い事」→「自由を制限するもの」。
では高橋氏にとつて「自由」つて何。美味しいの?
未定義のものが後から後から出てくる。
「自由とは制限のない状態」である、とか云ふ定義が出て來たら面白い。話がループしてゐる。
平成十六年三月二十二日
自由が根據だと言ふのなら、「俺の最初の指摘が正しかつた」と云ふ話になつて高橋氏の反論が全部ナンセンスだつた事になるし。「自由を制限するものは許せない」と云ふ價値觀が動機だつたのならば、「動機はどうでも良い」とか言つてゐた高橋氏の言葉は嘘だつた事になるし。
平成十六年三月二十二日
ま、この邊の指摘も、高橋氏には馬耳東風なのだらうなー。
アレクセイ氏と良く似てゐる。

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