闇黒日記

平成十六年三月二十一日
さつきファミリー劇場でやつてゐた昔のドリフ大爆笑を觀て「面白かつた」と例によつて例の如く投げやりなコメントを附けようと思つてゐたらいかりや長介氏死去の由。
平成十六年三月二十一日
http://www.memorize.ne.jp/diary/57/36889/の2004/03/19 (金)の項。
道徳やら徳目の場合そこが曖昧だ。違法行為だとか人権侵害とかならはっきりしてるんだけどね。
なんか、「はっきりしてる」事だけを論じてゐれば良い、と云ふ態度があからさまなんですがー。
世の中、そんな簡單に割切つて貰つては困る訣でー。
平成十六年三月二十一日
イコールで結ばれる、というのが意味不明。
「高橋氏にとつては同じ意味の言葉」と云ふ意味。
仮に命令だとして、道徳的命令ではないから徳目ではないですね。
「抑圧は抑圧であるから排除しなければならない」は政治的命令であるが、高橋氏は政治と道徳を區別しないので、即、「道徳的命令」であり、よつて、高橋氏の言ふ「徳目」に當る。
俺が誰を抑圧したというんで?
高橋氏は、「天皇主義者」の「天皇主義」を「あつてはならない」と云ふ「道徳的な絶對の命令」を下してゐる。そして「道徳的な絶對の命令」を野嵜は「徳目」と定義した。高橋氏はその野嵜の「徳目」を、高橋氏の抑圧であるだけの「徳目」と全く同一のものであると看做してゐる。ならば、高橋氏のやつてゐる事は、高橋氏自身が悪いものと呼んでゐる「抑圧」にほかならない。これはあなたの發言をそのままつなげただけであり、そのままつなげただけのものは、高橋氏に據れば眞實であるのだから、高橋氏は自分の言葉によつて自分の主義が惡いものである事を證明した事になる。
平成十六年三月二十一日
俺が言っているのは、他人からの抑圧は受けないぞということだ。
さう云ふ高橋氏が、他人の思想を抑壓してゐるのは、どう云ふ事なのか。
平成十六年三月二十一日
2004/03/17 (水)の話に戻る。高橋氏が消しちやつて、書直してゐる所。
法的に妥当な形式を取っていれば、動機が宗教だろうが道徳だろうが私怨だろうが、法的には正当な主張として扱われる。/貴方は法的に妥当な形式を取っていなかったから法的に批判されたわけだ。
それは「法律議論」の話に過ぎない。
法的に妥當な形式を取つてゐようが、動機が間違つてゐるならば道徳的には不當な主張として扱はれる。高橋氏――と言ふよりも、或種の「児ポ法」の類の法律の制定に反對の立場をとる人々――は、道徳的に不當な内容の主張をしてゐるから道徳的に批判された訣だ。
日本人の道徳的支柱であるところの天皇が著した「教育勅語」は、普遍的で絶対的な徳目だということになるのでしょうか?
普遍的で絶対的な徳目ではなく、徳目は絶對的な命令の形式をとるだけだ。そして、普遍的な徳目は存在しない。道徳的命令は、文化によつて異るからだ。
徳目=道徳的命令に従うという他律性よりも、自ら正しさを確信した倫理を貫く、という自律性のほうを俺は大事に思う。/後者のほうが、より近代的理性的な態度だ。
倫理とは人倫の道であり、道徳である。(岩波国語辞典第三版)そして、「倫理を貫く」と云ふ言ひ方は存在しない。
「自分の認めた徳目に從ふ」のも「自分の確信した正義に從ふ」のも、全く同じ事であり、區別する事は出來ない。
高橋氏の言つてゐる事は、日本語として意味不明である。
さらに言ふならば、徳目はただ「ある」だけのものであり、それに從ふか從はないかは個人の裁量に據る。徳目なり正義なりに、從ふか、從はないか、を決める爲、考へ惱む事が道徳的と云ふ事である。
なほ、岩波国語辞典で道徳は、社会生活を営む上でひとりひとりが守るべき行為の基準(の総体)。自分の良心によって善を行ない悪を行なわないこと。と説明されてゐる。しかし、この定義では、基準と行爲とが區別されてゐない問題がある。また、善を行はず惡を擇ぶ事にも道徳的である場合があり得る。その爲、私の議論では岩波国語辞典の定義を採用してゐない。
徳目に關しても、岩波国語辞典では仁・義・孝など、徳を分類してつけた名。と定義されてゐるが、そのの定義を見ると身についた品性。社会的に価値のある性質。善や正義にしたがう人格的能力。とあり、これは「既に身についてしまつてゐる品性」「既に善や正義に從つてゐる時に見られる能力」の意である。しかし徳目は、未だ人が身につけてゐない品性を「持つべきだ」として掲げたものであり、また、人格的能力ではなく從ふべき善や正義を擧げたものである。因つて、やはり岩波国語辞典の「徳」「徳目」の定義は不完全であると見るべきであり、私の議論では採用してゐない。
正義や善と云ふ「從ふべき事柄」に對して「果して本當に從ふ可きか」と批判的に考へる事が、道徳的な判斷である、と私は定義してゐる。これは松原氏の定義である。
そして、批判的に考へた結果、「從ふ」のも「從はない」のも、態度としてはどちらもあり得る。そして、どちらの態度をとるにしても、理性は働いてゐる。「從はない」態度を常にとる、と云ふ場合、寧ろそれこそ、理性的でない、と云ふ事が出來る。
俺にしてみれば、抑圧であるだけで、それは悪いものです。抑圧的な徳目には、必要悪なものと不必要悪なものしかありません。
道徳と政治とは根本的に次元が異るから、一概には言へない。
政治の領域における抑壓について。政治は常に、「惡いもの」と「惡いものよりは惡くないもの」とを比較して、「惡いものよりは惡くないもの」を選擇するものである。ならば、必要悪なものと不必要悪なものしかない事は何ら問題にならない。
道徳の領域における抑壓について。そもそも、抑壓とは欲望・行動などを押さえつけることに過ぎず、イデオロギーや思想のやうな價値觀に據る判斷がなければ、「良い」も「惡い」もなく、單にそれだけの意味でしかない。そこに良いとか惡いとか云ふ政治的な價値判斷を持込み、抑壓自體の善し惡しを決めようとしてゐるのは高橋氏である。一方、道徳に於ては、欲望なり行動なりに良い惡いがあり、抑壓自體に良い惡いはない。だが、惡い欲望や行動を抑へ込むと云ふ意味での抑壓には意義を認め得る。私の定義する道徳は、一方的に「良い人間である」とか「人間が良いとされる行爲を擇ぶ」事を意味せず、「良い行爲を擇ぶか、惡い行爲を擇ぶか」と考へる事を指す。人間が、惡い行爲をしたいと考へる欲望を、抑へ込まうか、抑へまいか、と考へる事は、あり得る。そして、それは、私の定義では、道徳的、と云ふ事であるが、私のみならず、まともな文學者ならばこの種の葛藤は道徳的と看做す筈であり、それについてはフィールディングの例を擧げたし、「普段、損得勘定で動いてゐる筈の人間が、時として他人に共感する事」の道徳性については高橋氏も良く知つてゐる筈である。
そして、何が必要な抑圧なのかは、社会的政治的相対的に決まるものであり、俺はそれを最小限に見積もるべきだと考えています。
最小限と無とは異る。
まづ、高橋氏の自律主義について。「守るべき事を自分で決める」と云ふ意味で、高橋氏は自律と言つてゐる。しかし、自分で決めようが他人が決めようが、決めたものは徳目であり、正義である。或は、「守るべき事」は、自分が決めるのではなく、常に「既に決つてゐる」ものである。「私は○○する事に決めた」と宣言する事は可能である。しかし、その「○○すべきだ」と云ふ命令は、果して自分で考へたものであるか。人の行爲は意志によつて決められてゐるが、過去の人の行爲によつて現代の價値觀は決つてゐるのであり、その價値觀によつて現代人の意思は制約されてゐる。言換へると、「○○すべきだ」と云ふ「○○する」事は、自分で考へる事が出來ない。行爲として認識され、言葉となつてゐる概念は、自分によつて再發見されるが、新發見されはしない。そして、既存のものであり、言葉として社會的に普遍的に存在する以上、價値判斷は既に存在する。自己の價値判斷は、既存の價値判斷に、常に依つてゐる。ならば、高橋氏の言ふやうな自律は存在しない。高橋氏の徳目=道徳的命令に従うという他律性批判は、ナンセンスである。
また、註釋しておくが、良心の下す命令は、絶對的命令であり、徳目であり、また、從ふか從はないかの判斷を要請する道徳的命令である。以下は例へば、の話である。人は、「電氣ショックを與へられるから」といつた理由で、良心の命令に反した行爲を行ふ事が出來る。一方、それでも良心の命令に従ふ事も出來る。今、この例で、「電氣ショック」は、「良心の命令に從ふ」のをためらはせる要因である。この、「良心の命令に從ふ」のをためらはせる要因を、狹い意味で「抑壓」と呼ぶ事がある。一方、「良心の命令」を「欲望の命令」と置換へて議論する事も可能であり、その時にも全く同樣に「抑壓」の言葉を用ゐる事が出來る。このやうに、「抑壓」の概念は、異るパターンの事例で使用可能な、かなり曖昧な概念であると言へる。ただ、このやうな使はれ方をする「抑壓」と云ふ語は、いづれの場合にも、限定的な用語である、と諒解しておくべきである。高橋氏は、この狹い意味での「抑壓」と、より廣義の抑壓とを、混同してゐる。
貴方が社会や法や政治や哲学や歴史を語る上で論拠に引いている文章って、だいたいそういう門外漢のものなんじゃないですか?
松原氏も福田氏も、道徳的な見地から物を見てゐるし、道徳は――高橋氏の定義する、或は岩波国語辞典の定義する「道徳」と違ひ、私の定義、或は文學的な定義では――人間の生き方であるから、全ての人間に普遍的に存在する。言換へれば、道徳的葛藤を必要としない人間は存在しないから、いかなる人間も道徳に關して門外漢となり得ない。完全に善を行ひ得るのは(定義上)Godのみであり――と云ふ事は、人間には存在しない――、また、完全に惡を行ひ得る者は存在しない。
そして、道徳の立場は、政治の立場も、法律の立場も、批判しないが、政治や法律が道徳の領域を冒さうとする時には、當然の權利として抵抗する事が許される。
強調した部分の事を書かないのが、自由主義を支持する人間の議論の際に守るべきルールだと思ひますが。なぜかと言へば、それは言論ではなく、ただの惡口だからです。なぜ惡口かと言へば、根據を提示してをらず、提示する氣も無い状態で、言ひつぱなしで言つてゐるからです。(野嵜)/そんなルール誰が提唱したんですか? 知らないので教えてください。(高橋)
では、私が高橋氏に對して根據のない罵倒・中傷をどれほどしても、それは全て言論の自由の範圍で許された事であると高橋氏は考へ、容認する、と云ふのですね。
平成十六年三月二十一日
そんな状況がどこにあるんで?
それを言つたら、高橋氏の言ふ意味でも、私の言ふ意味でもどつちの意味であれ「抑壓」の無い状況が何處にあるんで?
打算的な人間しかいない非現実的な状況下を想定するのが理屈ですか?
打算的だが同時に他人に共感する人間がゐる、と云ふ非現實的な状況を以下略。
(他人の苦痛への共感能力を)持たない人間もたまにいるし、そういう例外者のうちさらに一部の人間は理解しがたい犯罪を起こすこともある。/そして、そういう奴に道徳が何か有効であるとは期待できないと俺は思う。/殺人の禁止に関して、道徳に他人への共感能力以上の効果はないんじゃないかな。
ループぢやないか。でも、「他人の苦痛への共感能力を持たない人間のうちさらに一部の人間は理解しがたい犯罪を起こすこともあるが、道徳が何か有効であるとは期待できないし、他人への共感能力以上の効果はない」と高橋氏は言つてゐるけれども、さう云ふ非現実的な状況下を想定するのが理屈ですか?「他人の苦痛への共感能力を持たない人間」に「道徳的な葛藤」は無いのであつて、道徳的な人間は――と云ふ事は全ての人間が――他人の苦痛への共感能力を持つのではないですか。
そもそもそんな統計調査を誰かやったのか? 打算的というのをどう定義し、共感力というのをどう計測したんだ?/やってない調査から肯定的な結果が出るわけがなく、それは仮説を否定したことにはならない。肯定したことにもならないが。/常識で十分なら統計調査なんか必要ない。なんとなく科学的なフレーバーをかもすためだけに「統計」なんて言葉を使うのは安っぽいからやめよう。
常識で判斷して何が行けないのか全然解らない。それとも、高橋氏こそ、打算的に生きてゐる人間は他人に共感を示し易い、と云ふ統計結果でも持つてゐるの?
と言ふか、「他人への共感能力に道徳以上の効果はないんじゃないかな」「損得勘定に道徳以上の効果はないんじゃないかな」と。
平成十六年三月二十一日
天皇も制度だし概念です。それは社会的構築物であり本質ではない。
n氏も掲示板で「天皇は地位である」「天皇は現行憲法では象徴である」と言つてゐたけれども、天皇の中の人その地位についてゐる人間がゐる事も忘れてはならない。
平成十六年三月二十一日
どうしてシナリオで食つてゐるのだらう。(野嵜)/これも、議論の上で答えなければならないことのうちに入るのかな?(高橋氏)
嫌みを嫌みと云々。
貴方はすりかえられていない本来の次元の違いがあり、それは本質的なので普遍的に通じると思っているが、そんなことはないと言っている。
高橋氏こそ、「道徳にも政治にも普遍的に通用する絶對的眞理があり、兩者を區別する必要はない」と言つてゐる訣だが。
平成十六年三月二十一日
と言ふか、「えっちないらすとを見たい」「へろげでスッチャスッチャしたい」なる欲望が、高橋氏の言ふやうな意味でも自律的なものであるか何うかは、檢討の餘地がある。
欲望を抑へる事は、必ずしも惡い事ではない。その邊の食堂や屋臺のらーめん屋で代金を踏み倒した人間が「俺は腹減つたので、食べ物を食べたかつた。でも金は拂ひたくなかつた。この俺の欲望をどうして抑壓するのか。それは誰にとつてどのやうな理由で必要な抑壓なのか。そもそも、抑壓の良い惡いの判斷つてどうやるの? 何度も言つてゐるとほり、自分を抑壓したいマゾヒストは勝手にやればいい。お好きにどうぞ。俺が言つてゐるのは、他人からの抑壓は受けないぞといふことだ。」等と言つても、「お前は自分勝手を言つてゐる」とおまはりさんか誰かに説教されるだけで、世間には通用しない。統計は取つてゐないが、通用しないのは確實。俺が食堂の店主なら、そんな理窟に納得しない。「金拂へ。でなければ皿洗ひ」とか言ふ。
一概に「抑壓」を認めない高橋氏の主張はをかしい。
平成十六年三月二十一日
「法律に道徳以上の効果はないんじゃないかな」とか。
平成十六年三月二十一日
PCが突然落ちる現象が發生して數日。
うちのBIOS、起動時にステータスを喋るんだけれども、良く聽くと、memoryのチェックでfailedとか訴へてゐる事が時々。
買つて來てやらんと。
平成十六年三月二十一日
OOoを入れて起動したら餘りの遲さにぶち切れですよ。と云ふ訣で、意味もなくWord98とExcel98を入れて「速い」「速い」と喜んでみた。
OOoのワープロ、アウトラインモードがないのな。殘念。
平成十六年三月二十一日
で、Opera 7.50 Preview 3も今頃になつて突然入れてみた。Panel關係の仕樣はやつぱり不評だつた模樣で、變更になつてゐる。
平成十六年三月二十一日
八時二十五分頃起床→例によつてリアルタイム鑑賞→コーヒーを戴きつゝ新聞を讀む→鹽らーめん→うぇぶ→風呂→家庭内LAN構築をもくろみPCの設定→二階から一階へLANケーブルを引くべく二階の壁の穴を擴げてケーブルを外に出す→一階で引込みに使はうと思つて換氣口の中を確認したら柵が行く手を阻んでゐて挫折→最う眞つ暗なので續きは來週→お夕飯
無線LANを何で使はないのかと言ふと、私は日本人なので、目に見えないものは信じないからだ。やつぱり物理的に繋がつてゐないと不安で不安で。
平成十六年三月二十一日
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平成十六年三月二十一日
のあ
のあとあやののろりろり大作戰。
あやの
みたいな小説を……書けと?
平成十六年三月二十一日
はてなダイアリー - 揮発性メモ。
平成十六年三月二十一日
Operaの豆字對策。
[Preference]-[Fonts]でMinimum font sizeを指定。

平成十六年三月二十日
のあ
わたし……黒の方?
あやの
……どつちでもいいけど……わたしを卷込まないでね。
のあ
ひとりでプリキュア?
あやの
わびしい話だな。
平成十六年三月二十日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040318#p1
ドイツ民族意識は、18世紀後半―19世紀初頭にゲーテなどの文学作品によってその支柱が形成され、ナポレオン戦争によって一気に国民運動化するが、その過程でドイツ・ロマン主義思想が成立する。この歪んだ*1思想はドイツ統一運動のみならず、その後の世界各国の国民主義を規定していく。
*1:というのは僕の価値判断である。
林健太郎「ドイツ市民精神」(『歴史と体験』所收)にかうある。

勿論浪漫主義は主として文学上の運動であり、我々はここで文学上の問題について語る事は出来ない。然しこの文学運動の生み出した雰囲気は一つの強い政治的傾向を生み、その傾向は更にその中から社会国家に関する一個の理論体系をも生み出した。而して最近に於て重んぜられたものは正にこの浪漫主義国家理論に他ならないのである。我々はこの様なものの代表として、アダム・ミュラーとその主著『国家術要論』を取上げれば充分であろう。

さて北守將軍は、ロマン主義に肯定的な評價を與へる氣にならない事の傍證として、ドイツ・ロマン主義の文學者がユダヤ人であつたハイネの詩を非ドイツ的だと看做した事を擧げてゐる。此が北守將軍の言ふ「歴史学」的な價値判斷なのか、と私は思ふ。
アダム・ミュラーの著作に基いて、林氏は彼の思想を簡單にまとめ、我々は彼が所々に於て述べるすぐれた命題も、その理論的基礎づけに於ては極めて曖昧模糊たるものがあり、そして少なからぬ論理の矛盾、混乱が存在する事を直ちに見出すであろう。否、彼の思想には――他の浪漫主義者一般と等しく――元来一貫した理論は存在しないのである。そこにあるものは、人々の感情や気分に訴える詭弁に非ざれば他人の様々な理論の勝手な借用である。と言ふ。そして、シェリングの有機的自然觀を國家にも適用したものだとするミュラー自身の「宣言」に觸れつゝ、自然乃至社会事象の機械的把握より有機的把握への発展は、さきに述べた如く既に早くカンとに於て見られ、シェリングの理論も亦カントよりヘーゲルに至るドイツ古典哲学の発展の一齣として観察されなければならないと指摘し、ミュラーにはドイツ古典哲學の重要な基礎である理性の立場と、理性を規定する自由の意識が缺如してゐる事を指摘する。林氏は、ミュラーの国家及びすべての偉大な人間的要件は、それ自身、その本質は全く言葉乃至は定義の中に包括乃至は圧縮し得ない所のものを持っていると云ふ發言を引き、国家に関しては何の概念も存在し得ないと言ふミュラーが、「概念」と對立する用語としてかかる崇高な対象を把握すべき思惟を「理念(イデー)」なる語を用ゐてゐる事を述べて、ミュラーの「理念」が非論理的である事を説明する(それは例えばヘーゲルのイデー説とは全く似ずして非なるものである)。以下、ミュラーにおける論理性の缺如、歴史の意識の缺如――就中、「國家」「民族」の觀念が、ミュラーに於いては觀念として理論的に成立してをらず、單にプロイセン、オーストリア等の既存の封建国家に過ぎなかった事を指摘する。そして、林氏は、勿論我々はこの事を以て直ちにロマン主義運動全般の本質を論断するような性急な態度はとらないであろうと言ふ。續けて林氏は、然し、この問題に関する議論はしばらくおくとしても、ノヴァーリス、シュレーゲル兄弟以下のロマン主義文学の代表者たちが、後年に於ていずれもカトリック教に改宗し、メッテルニヒの反動体制の熱心な支持者となった歴史事実を我々は単なる偶然と見做す事は出来ないであろう。時に人によって甚だ高い評価の与えられるその「熱情」や「憧憬」や「皮肉」や「警喩」の文学も、ヘーゲルやゲーテによれば単なる「恥ずべき病気」に過ぎないとされた事を指摘する。そして、クローチェの評價を引いて曰この病気はその後芸術、科学的思惟、感情生活、道徳、国民的乃至国際的政治の中に蔓延し、それ等があからさまな驚くべきものとなった時、それは人々によって、頽廃主義の名を以て呼ばれた。
林氏はメッテルニヒ治下の反動ドイツにおけるドイツ・ロマン主義を、全く封建貴族の精神的武器以外の何物でもなかったと評すのだが、一方、ロマン主義を単なる封建貴族の意識形態と規定し去る事は必ずしも正しくないとも述べる。初期のロマン主義文學者は、多くが市民社會層に屬してをり(貴族出身のノヴァーリスについてはその生活環境は筵市民層に近かったと註釋を附けてゐる)、フランス革命勃発當時には等しく之に歓呼の声を上げたのだし、その意味に於て彼等の「情熱」や「憧憬」は青年時代のゲーテやシラーの「シュトゥルム・ウント・ドラング」運動と等しく、ドイツの新興市民層の革命精神の表現であったと云う事が出来ると指摘する。この彼等の革命的情熱は極めて速かに彼等から去って、彼等はその情熱や憧憬を益々現実から遊離した夢幻の世界に向けたのであるが、実はその事の中に彼等の反動性が存在したと云うべきであろう。彼等が、理性を放棄して感情へ逃避し、近代精神を否定して中世を讃美するに至つた事により、彼等の主義が封建的勢力の武器となり得た。そして、林氏は、彼等の置かれた地位があまりにもみじめであったがために、彼等は逆動的に敵勢力と結びつき、それに奉仕する事によって自己の救済を求めようとしたと述べたアリスの「心理主義」的な説は、全面的に信ずる事は出來ないが、アダム・ミュラーの場合には當嵌るだらうと述べる。分泌活動によって支配者達の好意を得、何らかの官職にありつこうとしたミュラーの『国家術要論』がその目的の爲になされた講演であつた事を林氏は示し、この様な個人的な問題を離れて見ても、ドイツ市民社会の内部からこの様な思想家を生み出したことは、畢竟するにドイツ社会の立遅れ、所謂「ドイツ的みじめさ」の反映であったと云わなければならないであろうと述べる。
そして、このドイツのみじめさ、ドイツ社会の後進性が、ロマン主義と同樣、古典哲學者にも制約を課してゐる事を林氏は指摘し、例として反動哲學としての側面を持つヘーゲルを擧げてゐる。ただ、>古典哲学者はドイツ的みじめさの制約を受けながらも、なおその独自の形に於てドイツ市民社会の要求を明瞭に代表していた。そして彼等はその(後れて来たもの」の利点をも十分に発揮して、自由と民族の意識に世界無比の深さと高さとを与えたのであった、と評し、ロマン主義者と古典哲學者とを區別する必要がある事を指摘する。之に反してロマン主義者は元来の市民社会の要求を全く放棄し、之と全く正反対の場所に彼等の理論を樹ち立て、かくする事によって全面的に封建貴族階級の双翼の下に彼等の安息所を見出したのであった。ここで林氏は、この相反する二つの立場の人々が二つの派に分れた理由を、才能や資質に求めるべきではなく、ドイツ市民社会の経過した時代の差異に求めるべきであらうと述べる。カント、フィヒテ、ヘーゲル、ゲーテ、シラーの成長した時代は尚フランスに於ける革命的勢力の伸張時代であり、ドイツに於ても、仮令上からの力によってではあれ、尚近代的変革の気運が漲っていた。然るにロマン主義の栄えた時代はフランス革命がそのあらゆる教訓を残して経過し去った後であり、既にドイツの封建貴族が、ナポレオンに對する国民的昂揚の気運を利用して自己の勢力挽囘の努力を開始した時であった。ドイツ・ロマン主義者が現はれた時代、封建勢力は、ドイツ社會を壓倒的な形で支配してをり、フランスのナポレオンが現れて昂揚したドイツの國民意識を指導する役割も擔つてゐた。かうした閉塞した時代の中にあつて、現實から逃避し、支配層に阿るロマン主義が榮えたのも無理はない。
そして、同時に、古典主義哲學の政治思想が實現せずにをはつた事も指摘されねばならない。ドイツ市民社会の課題を解決した一八七一年のドイツ帝国成立に当っては、ドイツ古典哲学の政治思想は遂に地上に移される事なくして永遠に精神の王国の碑銘として終った。古典主義哲學者の作り上げた民族と國家の理論は現實のドイツ國家成立には生かされなかつた。それゆゑ、却つてロマン主義によつて歪曲・模倣された有機體説となり果て、ドイツ社會における國家主義の原理として説得力を持つやうになつた、と言ふ事が出來る。
ドイツの市民精神は、自らの力で市民國家を形成するに至らなかつた。彼等の理想は遂に現實のものとならなかつた。ロマン主義のやうなものもあつたし、古典主義哲學もヘーゲルに見られるやうな反動的な性質を含む事があつた。しかし、優れた思想・哲學を多數、人類史上に殘した事は事實である。さう林氏は、昭和十六年の『世界歴史 第六卷』(河出書房)に發表されたこの論文で結論を下してゐる。
さて、この林氏の論文、明かに決定的で純客觀的な論證のみに依つて進められてはゐない。北守將軍は、ドイツ・ロマン主義の文學者が「ユダヤ人である」事をもつてハイネを排撃した事をもつて、彼等の駄目な事の決定的な根據としてゐる。しかし、私には、北守將軍の「論證」よりも、林氏の論證の方が、歴史學的に正當な論證であるやうに思はれる。
平成十六年三月二十日
上の文章、やたらと長いのだけれども、レポートならばこの位は書かなければ仕方がない。林氏の論文の前半部分の紹介を思ひ切つてカットしてゐるので、本當は原文に當つて貰ひたい。このレポートですら十分委曲を盡したとは言ひ難い。

平成十六年三月十九日
高橋氏は私にろりこん小説を書かせたくないらしい。
http://www.memorize.ne.jp/diary/57/36889/
2004/03/19 (金)
天皇についてはなんの理由付けも必要なく社会的政治的機能の面での解釈や批判は受けないと言えるわけですか。
現行憲法では、「言論の自由」は保證されてゐます。
もつとも、明治憲法でも現行憲法でも天皇の社会的政治的機能の面での責任を問はれない事になつてゐます。
憲法でさう規定されてゐるのだから仕方がない。
貴方の発言をそのままつなげただけなのだけど?
必要な説明を省いて、詰り「抑壓」の定義をわざと省いて、それで「つなげただけ」とは良く言つたものですね。
今回の俺の読みは、貴方の言ってることをただつなげただけで、どこにも文学性なんか無いと思うけど?
「つなぎ方」にも意味があるんだよ。
違わない。貴方の発言をつなげただけ。ちゃんと引用してどこをつなげたか示したでしょ?/つなげられたら意図と違ったように読まれる言説を吐く貴方が悪い。
「つなげ方」が惡い。そもそも、筆者の意図と違ったようにした「引用」は、引用として認められない。
違っている違っていると宣言するのは結構ですが、僕は貴方の個々の意見が自然に帰結するものを明示しただけです。
高橋氏の明示した事に自然に帰結しない。高橋氏のやうな操作の結果生ずる「読み方」でしかない。
平成十六年三月十九日
私は、道徳的な命令の事を徳目と呼んでゐますし徳目は本質的に抑壓的だ、と言つてゐる。「○○してはならない」と云ふのが、徳目である。この「してはならない」と云ふのは、欲望を抑壓する命令である。そして、徳目は全て抑壓的である。「○○してはならない」と云ふ絶對的な命令を、「抑壓的」と呼ぶのならば。
徳目とは欲望を抑圧する絶対的命令である。/(下で書くが)天皇は日本の道徳的支柱であるので、天皇の名の下に出された道徳的命令こそが徳目であり絶対であるということになる。
この二つの文章を「イコールだ」と思ふ馬鹿は、高橋氏以外に存在しない。と思ひたい。そんなに馬鹿が澤山ゐては困る。
高橋氏は、「抑壓」と云ふ言葉に私が惡い意味を籠めてゐない事、單に「○○してはならない」と云ふ絶對的な命令を意味してゐるに過ぎない、と云ふ事が理解出來ないらしい。
法律は最低の道徳(此所は徳目の意)であり、法律の改定によつて「政治的な抑壓」を排除しようとしても、「道徳的な抑壓」は排除出來ない。
これを高橋氏は、徳目は道徳的な抑圧なので政治的批判を受けない。と讀むのである。無茶苦茶だ。私が「つないでいない」ものを、高橋氏は自分で「つないで」、それでゐて、「つないだ結果」を「野嵜の言つてゐる事」にしてしまふ。
高橋氏は「この種の情報操作をして他人の意見をでつち上げるやうな人間である」と云ふ結論を、出して良いのではないか。
今回のレスには、どのように間違っているか論理的に示した部分はないようですね。
だつて、私の文章と高橋氏の文章とが並べてあるのだよ、馬鹿が見たつて、二つの文章がイコールでない事は明かではないか。
そういう風に読ませて批判を回避したいのだろうなあということくらいは分かりますよ。でもそれはおかしいんです。
そういう風に読ませて批判したいのだろうなあということくらいは分かりますよ。でもそれはおかしいんです。
明治憲法のその条文を現行憲法の規定と同じ解釈に読み変えるくらいなら、単に現行憲法の記述をそのまま持って来ればいいでしょうが。
形式の問題なのだよ。憲法改正と云ふ形式になつてゐないのだから、憲法改正として正しい形にすべきだと言つてゐるだけだ。
明治憲法下で明治憲法を読み替えるという主旨なら分かるけどさ、これ、現行憲法が出来た後での議論なんでしょ。
意味が解らない。今だつて、明治憲法は生きてゐる――改正手續きが妥當でないのだから、現行憲法は無效。
天皇のケツは内閣が拭く、現行憲法の記述は過不足なくそれをきっちり宣言している。必要十分です。
この邊り、「法律議論」になつてゐないよな。「法律議論」をしなよ。天皇のケツは内閣が拭く――このやうな言ひ方をするのが「法律議論」なんだな。高橋氏は、このやうな言ひ方をする事を「法律議論」だと考へ、實踐してゐる、さう看做して良いのだな。さう看做される言説を吐く貴方が惡い。呵々。
つーか敗戦でアメリカに占領されてたわけで。明治憲法から現行憲法への移行が当時の法学的観点から見て妥当だったかどうかが問題なのではない。仮に不当だったとして、それで現行憲法が明治憲法に巻き戻ることは有り得ないのだから。
占領下で憲法改正が合法だと。
問題は、この現行の法制度が今妥当かどうかでしょ。
成立の仕方が妥當でなければ、いつまでだつて妥當でないんだよ。そんな事も解らないのか。解らないのだらうなあ。
貴方は、自分が書いたことを繋ぎ合わせると何が帰結されるのかまで考えて発言していないのです。
まさか、正しくないやり方で言葉を繋ぎ合せて威張る馬鹿がゐるとは思はないのでねえ。
いいえ、これは貴方の記述したことから導かれる天皇観です。/それが貴方の天皇観と矛盾したとして、その責任は貴方にあって俺にはない。
だーかーらー。俺の記述した事から、變なものをお前が導き出してゐるんぢやないか。ふざけるのも大概にしろ。
デカルトもスピノザも大陸合理論ですよ。スピノザ的な神というのはまさしく大陸合理論ならではの発想では。英国経験論の代表格はロックやヒュームです。近代市民社会の成立には大きく影響している経験論だけど、それを持って合理論が後進的というのはどうかと。
では、高橋氏は、「近代市民社會の成立に影響してゐない合理論こそが先進的だ」とでも言ひたいのですか?
いやいや、さう言ふと、高橋氏の眞似になつてしまふ。
違うでしょう。合憲だから合憲だと言っているのです。
おいおい。貴方の論理性は政治に毒されすぎです。
それが法的に問題の無い主張なら、通る。合憲だ。
「児ポ法」の類が法的に問題の無い主張なら、通る。合憲だ。なんでそこに法の外の「天皇主義者」や道徳を幻視しようとするのですか?
違憲だから自衛隊は不要、とはならないのと同様、自衛隊が必要だからといって、合憲にはならんのです。
だーかーらー。お前の目は節穴かよ。俺はさう言つてゐる。
ただ、定説としては、自衛隊は合憲ってことになってんじゃないの、ってこと。
だーかーらー。定説が何だよ。明治憲法の定説だつて、アメリカに日本が負けたら、途端に崩れたぢやないか。定説だから合憲? 馬鹿かよ。合憲なら合憲、違憲なら違憲。それだけの話だとお前が言つたんだらう? 自分の言葉も忘れたのかよ。鳥頭。
誰が持ち出した話でしたっけ。
お前だらうが、高橋さんよ。
俺は、自衞隊の合憲・違憲の話をしてゐない。と言ふか、觀念的な話をするのに、具體的な例を出して何が惡い。その例の方に、高橋氏は反應した。高橋氏は、話の本題を讀めてゐない。文章を讀む能力が根本的に缺けてゐるからである。これでシナリオライター以下略。
俺は、動機だのイデオロギーだの何だのといつた側面での考察を省く事について論じた。だから、何度もキーワード動機だのイデオロギーだの何だのといつた側面での考察云々を繰返した。ところが、あれほどテーマが明瞭になるやうに書いたにもかかはらず、高橋氏は誤讀したのである。
もちろん、高橋氏は、誤讀したかつたから誤讀したのだ。高橋氏は、「反天皇主義者」として、あゝ云ふ誤讀をせずにはゐられなかつたのだ。Yahoo!の掲示板で高橋氏のやうな誤讀をする人間は何人も見てゐる。彼等の言ひ方は完全にパターン化してゐる。だから、高橋氏の誤讀にはうんざりしてゐるだけなのである。
平成十六年三月十九日
と言ふか、高橋氏は「Xと云ふ條件の下で」と云ふ話は理解出來ませんか。さうですか。どうも、條件の話は忘れてしまふらしいのですが。
「A=B、B=C、C=Dである。D=1であるとしたらA=1である」と私が言つた時、高橋氏が「俺にとつてD=2である。野嵜はA=1と主張してゐる。よつて野嵜は間違つてゐる」と極附けたとする。これは明かに、高橋氏の勝手讀みである。しかし、この勝手讀みを、高橋氏はやつてゐる。しかもややこしい事に、高橋氏は「E=F、F=Gである。G=3」と定義して、未證明のまゝ「B=F」とか適當に「つなぎあわせ」て、話を作つてしまふ。
高橋さん、あなた、大學入試の國語の文章題を解く時、文章を讀みながら、同じ事を意味してゐる語句を線で繋いで、それで筆者の文脈を追ふ、と云ふ事をしませんでしたか? 或は、或語句に線が引かれてゐて、「この語句の意味と同じ事を言つてゐる文章を、以下の撰擇肢から擇べ」とか云ふ問題が附いてゐる時、文中の前後で言換への語句を見出して、線で繋いで行つて、撰擇肢と合致する適切な語句を見附ける、と云ふ訓練を、豫備校なり高校なりでしませんでしたか?
私は、ちやんと「問題を解ける」やうに、文章を作つてゐます。と言ふか、ひよつとして高橋氏は「何うして國語の問題が解けるのか解らない」人ですか。
平成十六年三月十九日
何と言ふか、變な人を相手にすると文章が荒れるので困る。
平成十六年三月十九日
金曜日。古書展の日。神保町で逢ひませう。
平成十六年三月十九日
「抑壓」に「惡い」意味を持たせたのはそもそも高橋氏。私は、「抑壓」と云ふ語を單に「否定の形での命令」と定義したに過ぎない。そして、私はそれを前提に理窟を構築してゐる。その前提を、高橋氏は勝手にすり替へてゐる。
平成十六年三月十九日
高橋氏に尋ねたいが、「天皇の名の下に命令が下された」ら、その命令の結果の良し惡しの責任を「天皇と呼ばれる人」がとらなければならないのか。
それは、地位としての天皇と、天皇の中の人とを混同した議論ではないか。
また、「天皇の名の下に出された命令」の責任は、命令を出した人の責任である。それを、天皇の責任にすり替へる事は許されない。
逆に言ふならば、「天皇の名の下に命令を出すのならば、ちやんとした命令を出すやうにしなければならない」と云ふ意識があれば、命令を出す人間はちやんとした命令を出す。「天皇の名を使へば、どんな惡い命令も淨化される」と云ふ發想を、高橋氏がしてゐるとすれば、それは、高橋氏の非難するであらう「惡い命令を出した人」の發想と同一のものである。人は自らを否定すべき文句で以つて他人を罵る。高橋氏は、自分の愚かな發想を、他人の言動の上に投影して、罵つてゐるだけである。
平成十六年三月十九日
ろりこん小説の書出しを、昔書きかけた小説から流用しようか何うしようかと考へてゐたりゐなかつたり。
主人公は、意地惡でせーらー服で主人公の事はさん附けで呼ぶ、と云ふ大雜把かつ支離滅裂な設定しかないのだが。名前募集。と言ふか、ストーリー自體、何も決つてゐないし。一往、舞臺は湘南の海岸、と云ふ事が確定的。
同じ設定で高橋氏と競作、讀者の投票で勝ち負け決定、とか云ふ案も考へたけれども、負けると鬱なのでやらない。
平成十六年三月十九日
コメント欄より。高橋氏。T.M.さん>はじめまして、私も野崎さんが自衛隊と児ポ法をアナロジーとして(彼流に言えば、X=Yとして)扱いたいのだろうと思っていました。しかしあの人の論理は、A(1、3)、B(1,2)においてX軸の座標において(『Xと云ふ條件の下で』)のみ「A=Bである」といっている。確かにそれは論理的に見て正しい、しかし『Xと云ふ條件の下で』と言うものはアプリオリなものではないので、「Y軸から見たらこうなるだろう」と言う批判を当然に受ける。
その「Y軸」の見方をすりこませて「これが野嵜の意見だ」と高橋氏は言ひました。高橋氏は、野嵜の意見と、野嵜の意見に對する高橋氏の批判とを、混同しました。
どうも、判つてゐてやつてゐるやうな氣がしますね。惡質です。
nordenwind氏。まぁあの人(註・野嵜の事、らしい)は『「理屈」と「屁理屈」とは同一である。理屈は「説得力がある」ように見えるだけである。』とのたまい、戦略としてそれもアリだとするのですから、いつまでも脳内俺様論理大爆発の議論に付き合うのは…………だと思います。
私が何時、そんな事を言つたのだらう。n氏もデマを流す人間の一人らしい。
平成十六年三月十九日
高橋氏の批判だが、俺の文章を良く讀め、としか評しやうがない。
天皇論:メモ/日本を斬る
神道と天皇について
日本國憲法の問題點
明治憲法を改訂する案
さて、これらは高橋氏の言ふ「天皇主義」だらうか?
しかし、よくよく高橋氏の非難を讀んでみたら、最後のところでひつくり返りさうになつた。
さて、これらは天皇主義だろうか? 俺は天皇主義をところどころ思想の言葉で洗練してみただけのものに思える。
高橋氏は、私の事を「天皇主義者」と罵つたものの、最後に「天皇主義者ではない」と言つてゐるのだ。
これでは何う反論されても、高橋氏は困らない。野嵜が「天皇主義」なる極附けに反論してゐるとも、「天皇主義ではない」なる結論に反論してゐるとも、高橋氏は自分に都合良く勝手に決める事が出來るからである。
平成十六年三月十九日
日本國憲法を點檢するに書いたのですが。
明治憲法の問題點を論ふのに、惡意に基いて一々の條文を解釋し、非難を浴びせかける、と云ふやり方がいまだに殘つてゐます。當然、さう云ふ人は、善意に基いて現行憲法を解釋するのですが、實に不公平なやり方だと思ひます。
「明治憲法の問題點」を「野嵜の天皇論」に、「現行憲法」を「高橋氏の抑圧説」に言換へれば、高橋氏のやり方に對する適切な批判になると思ひますが如何。
平成十六年三月十九日
そもそも、高橋氏の「抑圧」なる用語が、そもそも怪しい。
「良いものを抑壓する」事には、私はもちろん、反對だ。しかし、「惡いものを抑壓する」事に、高橋氏は反對らしいのだが、私は反對しない。
高橋氏に言はせれば、「抑圧は抑圧である」と云ふ事になるらしいし、さう云ふトートロジーに高橋氏は立籠つて、それで自分が結構客觀的であると高橋氏は思ひ込んでゐるらしい。しかし、「良い抑圧」がある事を、私は認めておきたい訣だ。高橋氏は「抑圧は抑圧であるから排除しなければならない」と考へてゐるのだらうが、「人を殺すな」のやうな「抑圧」は「必要な抑圧」である。
ちなみに、高橋氏の説を見ると、野嵜の「禁止であり絶對的な命令である徳目」と高橋氏の「徳目は抑圧的なもの」と云ふ定義とはイコールで結ばれるらしい。そして、「抑圧は抑圧であるから排除しなければならない」と云ふ高橋氏の考へは、「抑圧」の存在を禁止する命令だと解釋出來る。ならば、高橋氏は、排除されるべき(と高橋氏自身が主張する)「抑圧的」な考へを平然と述べてゐる、と云ふ事になる。
平成十六年三月十九日
天皇關係の俺の記事では、高橋氏とは別の高橋氏とやつた論爭の記録がある。こつちの博彦高橋氏は右翼。
憂國掲示板1 v.s. 高橋博彦氏
直樹高橋氏は、ここまでは見てゐないだらうから一往。
「初期」の文章なので、あちこちアレですが、言つてゐる事は今と變らない。
平成十六年三月十九日
日本人の道徳についても高橋氏、讀んでゐないんだらうな。と言ふか、松原正『天皇を戴く商人国家』(地球社)を嫁。
平成十六年三月十九日
茲數日、PCが突然再起動する現象が出來してゐるのだけれども、メモリの所爲かな?
平成十六年三月十九日
Stardust Crown
平成十六年三月十九日
TokiMeki Networkの更新に二箇月以上氣附かなかつたと云ふ事實は相當のものです。まあ、縁切られてゐるからな。
みにとぅるは地道に更新が續いてゐる模樣。
蜀犬も健在のやうで何より。
平成十六年三月十九日
DIVEの2004-03-16の邊。(そのうちhttp://pu-lab.hp.infoseek.co.jp/nodo1.htm#memo20040316邊に出て來る筈)
平成十六年三月十九日
FAXで指圖書を送つたら早速つつこみの御電話が。「ああ、こちらでもミスに氣附いてゐて、今、訂正を送る處だつたんですよ」と如何にもな言ひ訣をしたが嘘を言つてゐたのではなく事實なのだから仕方がない。
平成十六年三月十九日
で、例によつて本日の買物。神保町の東京古書會館。愛書会主催の古書展にて。
ベルグソン『道徳・宗教の二源泉』新地社
吉田健一『文明に就て』新潮社
吉田健一『私の食物誌』中央公論社
『串田孫一随想集』一卷と四卷。
松坂忠則『火の赤十字』。後書を目當てに買つた。松坂忠則は國語國字改革を推進した當事者。本書後書でも、國字改革は有意義であると、當り前の事のやうに書いてゐる。
ハイエク『隷従への道 全体主義と自由』現代社会科学叢書
平成十六年三月十九日
このところ本を讀めないのだが鬱なのかな?
大島先生の『ジェイン・オースティン』を相變らずじりじりと地を這ふやうなスピードで讀み進める。名著なのでみんな、買つて讀むと良い。
平成十六年三月十九日
キーボードで入力すると、Winampのmp3の再生がぶちぶち切れる。
Operaでページ(何)をスクロールさせようとカーソルキーを押すだけでさうなるのだから最うぶち切れですよ。云々。
平成十六年三月十九日
Alertbox: なぜ消費者向け製品のユーザ体験はよくないのか(2004年3月15日)
照明を暗くしてTVを觀るのはいかんですよ。
それにしても「ユーザ体験」なる譯語はどうにかならないのでせうか。

平成十六年三月十八日
のあ
クラインの壺ごつこが出來るくらゐ大きな穴が空いた靴下……つてどうかな?
あやの
どうかな……つて言はれても。と言ふか、捨てなさい。
平成十六年三月十八日
http://d.hatena.ne.jp/raijin/20040314#p1
  1. 高橋さん、野嵜は日本の文化や天皇について論ずるのが好きなんですよ。
  2. 高橋さん、野嵜は天皇主義者なんですよ。
1に比較して2が特定の印象を與へるのは自明。云々。
平成十六年三月十八日
  1. 北守將軍、野嵜は「日本人が西歐人の文化や思想を考へる時には、キリスト教の存在を意識・考慮する事が必要だ」と言つてゐるんですよ。
  2. 北守將軍、野嵜は「日本人は西歐の文化をキリスト教の教義で割切れば良い」と言つてゐるんですよ。
云々。
平成十六年三月十八日
ところで、「一般の市民は、プロ市民のエリートによる指導に、忠實に從ふべきだ」と云ふのは、民主主義的な意見か、それとも共産主義的な意見か。
カトリックの司祭を否定したプロテスタントが牧師を必要とし、封建勢力打倒を主張した共産主義者は指導者に據る獨裁を必要とした。茲から何らかの教訓を讀取るべきか。
平成十六年三月十八日
全ての人間は「めざめる」べきか。
「めざめてゐない人間」の存在を否定する社會は、民主的な社會か。
「政治的ならざる人間」の存在を以下略。
平成十六年三月十八日
「天皇主義者」と云ふ極附けは、當事者が認知してゐない場合、名誉毀損になる場合があります。云々。
http://d.hatena.ne.jp/theoria/20040317#1079531719
平成十六年三月十八日
チャンネルNECOで「光と水のダフネ」をやつて呉れてゐるのだけれども。1話から4話までまとめてやつたあと、本作中で不適切な表現があつたけれども作品のオリジナリティを尊重して原形のまゝ放送した云々とテロップが出るのだけれども。
平成十六年三月十八日
まんが宇宙大作戦つて、そこそこ觀られますね。
平成十六年三月十八日
昨日の買物。鉄道ジャーナル5月號。
平成十六年三月十八日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040317#p1
単純に「自己主張する/しない」でみると、「中国人」「西欧人」は自己主張して「日本人」は自己主張しないと言うことができるとする。なぜこのような差が生じるのかを考えるとき、中国と西欧にまたがる文化的同質性と日本との差異という論点も導くことが可能であり、したがって「自己主張する/しない」という問題を、「日本」と「西欧」の習慣の差という個別的問題に落とし込むことは自明とはいえなくなる。
別にさう云ふ事を「してはいけない」等とは誰も言つてゐませんが。
と言ふか、それでなぜ、日本と西歐とを比較してはいけない、と云ふ結論になるのか不明。中国と西欧にまたがる文化的同質性と日本との差異を論じて良いのなら、ますます「日本」と「西欧」の習慣の差を論じたつて良い事になるではないですか。
あと、世界システム論については、宮崎市定氏もさうだし、割と常識なのだと思ふけれども、「東洋史」「西洋史」「日本史」(以下略)の中だけで考へてはいけない、と云ふのは、私も承知してゐますよ。しかし、同時に、「世界の中の西歐」「世界の中の日本」と云ふ視點だつて、必要ではないですか。さう云ふ地域性の違ひが、役割分擔を行つた事も知つてゐる。と云ふ事自體に、北守將軍も反論する氣は無いやうだし。
ただ、野嵜さんは「近代文明」と「西欧文明」を一緒くたにして考えているんだよなあ。
私に解らないのは、「近代文明は西歐文明と全く無關係である」と考へてゐる訣でもないだらう北守將軍が、なぜか兩者の關係を指摘されると物凄い勢ひで否定にかかる事。
結局、どうしても野嵜さんの言う「西欧」が良くわかんないんだよなあ。
良いから福田恆存編『反近代の思想』を嫁とか。
平成十六年三月十八日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040317#p2
読んだがそれは「ヤスパースがニーチェをキリスト教的に読んだ」というそれ以上でもそれ以外でもないでしょう。
何を讀んだんだか。野嵜の文章を讀んで、なんて馬鹿な事は言はないでせうね。
ニーチェは自身のキリスト教的な意識を意識していたんでしょうか?
ニーチェを讀め、と言つておきませうか。
と言ふか、北守將軍が考へてゐる「キリスト教」の概念と、俺の考へてゐる概念とに、やつぱりずれがあるやうに思はれる。北守將軍は、飽くまで教條的に、狹い意味での教義の事を考へてゐるのではないか。
あと、北守將軍の「文化」の定義も、非常に疑問。「文化」とは「生き方」の事なのだが、北守將軍は、何か形のあるものとか、定義可能なものに限つて「文化」と呼ばれるべきだと考へてゐるのではないか。
あと、北守將軍の考へ方では、歴史を理解出來ませんよ。北守將軍の「歴史学」では、歴史の全體像は浮び上がつてこない。個別の事象を全體との聯關と無關係に、ばらばらな状態で存在させる事しか出來ない。それでは、歴史的な意識も存在しなくなる。そもそも歴史が存在しなくなる。歴史の流れも存在しなくなる。そんな「歴史学」は、歴史學ではない。
と言ふか、茲まで「證據は?」「證據は?」と言つて疑ふのなら、徹底した不可知論の立場に立つて歴史學そして歴史そのものを否定する、と云ふ處まで行つて貰ひたいものですね。北守將軍のやり方では、社會そのものですら存在し得なくなる。全ての人の意見は異るから、輿論が成立しなくなる。もちろん、民主主義も成立しなくなる。しかし、現實を見玉へ。
と言ふか、論拠を言え、と言はれて論據を言つたら、そんな論據をは認めない、と言張つてゐるだけぢやないか。どんな論據なら認めるんだ? 具體的に説明しろ、と言つても、北守は答へないぢやないか。「嫁」「嫁」言ふ許りで。北守は結局、何も解つてゐないんだよ。
こう言い換えても別に僕のイイタイコトは変わらないですね。
亂暴な文章の書き方をし、亂暴な文章の讀み方をして、それで「歴史学」と言ふのだから、北守將軍は濟はれません。
平成十六年三月十八日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040317#p3
「わからない」「わからない」を連發されても、がわからないのか、わからないんですよねー。わからない奴が馬鹿、と言ひたくなる。
自分でも説明出來ない「わからなさ」を他人に押附けるな。
過程をすっとばしていきなり「西欧云々」と書き始めたら、それは自明なものとしているとみなされても仕方ないでしょう。
だーかーらー。みなしたがる北守の意識に、既に「解釋」が入り込んでゐるんだよ。
とくに、「西欧云々」は「結論」ではなくて、児ポ法そのほかの問題を論じるときの「前提」なのだから、より厳密な議論が必要でしょう。
結局、北守は児ポ法そのほかの問題を論じたい、と云ふだけの話らしい。
高橋氏と同樣、政治的に精神・文化の問題を論じたい、と云ふ前提が北守將軍にもあるやうだが、精神・文化の問題は精神・文化の問題として論じなければならないから、北守將軍のやうな政治的に物事を見なければならないと考へてゐる偏見のある人間とは議論したくない。
平成十六年三月十八日
本日の買物。鉄道ピクトリアル5月號。
平成十六年三月十八日
http://www.memorize.ne.jp/diary/57/36889/
2004/03/18 (木)。
天皇は本質であり実在であるから、社会的政治的に構築された概念ではない。/だから、社会的政治的機能の面での解釈や批判は受けない。
なんでだから云々の理由附けが可能なのだらう。
徳目とは欲望を抑圧する絶対的命令である。
それは高橋氏の定義であり、私の語彙ではない。あなたの定義で私の語彙を解釋してはならない。高橋氏は、野嵜の文章の意味を、野嵜の語彙に基いて理解しなければならない。
と言ふか、あなたのやつてゐる「読み」は、あなたが否定するあなたの「文学的読み」そのものではないか。
徳目とは欲望を抑圧する絶対的命令である。/(下で書くが)天皇は日本の道徳的支柱であるので、天皇の名の下に出された道徳的命令こそが徳目であり絶対であるということになる。
先づ、徳目の定義が、私の言つてゐる徳目とは違ふ。
次に、日本の道徳的支柱である天皇の名の下に出された命令は、即、道徳的な命令となるものではない。
「だから」とか「よって」とか、それつぽい語句を用ゐてゐるが、高橋氏の「理窟」は、勝手な定義と、勝手な飛躍だらけで、理窟になつてゐない。
高橋氏の、勝手な定義に基く「理窟」がをかしいのは、「戰鬪とは、國家の軍隊同士のするものだから、自衞隊がテロ組織と戰つても戰鬪ではない」と云ふ例の「理窟」がをかしいのと同樣である。
高橋氏の、論理の飛躍に基く「理窟」がをかしいのは、例の波江の「字数歌」説が異常なのと同樣である。
と言ふか、こんな自己中心的な文章の讀み方をする高橋氏には、何を言つても通じないんだらうなー。高橋氏による俺の文章の解釋、全部間違つてゐる。
一つ例を擧げると、ともあれ、天皇の下に人権が根拠付けられることを彼は望んでいる。それは、天皇の根拠付けがない範囲では人権は侵害されてもいいと言うことだ。――こんな異常な解釋をする人がゐるのである。
ともあれ、彼にとって天皇とはこういうものなのだ。
野嵜の天皇觀を高橋氏は述べてゐない。ずばり言ふと、野嵜の天皇觀に假託して、高橋氏は自分の天皇觀を語つてゐる。高橋氏にとつて、天皇とはかう云ふものなのだ。
高橋氏は、「反天皇主義者」である。
福田恆存「當用憲法論」について、高橋氏はコメントしてゐる。
第3条がどうしてそういう解釈になるのか俺には分からない。/現行憲法の「内閣が責任を負う」というのは、つまり天皇は責任を負わないと言う意味なので、天皇を免責するという意味では共通するけど、「神聖にして侵すべからず」はそれにとどまらないことを言っている。
「そういう解釈にする」んだよ。福田氏は「當用憲法論」で、現行憲法で、解釋によつて「自衞隊は合憲」と云ふ事に出來るのだから、と述べてゐる。
と言ふか、解釋次第で野嵜を異樣な「天皇主義者」に仕立て上げる事が出來る、と云ふ事を、高橋氏は自らの筆で以て見事に證明してゐる。解釋次第で明治憲法を現行憲法と同等の民主的な憲法とする事は十分可能――福田氏はさう言つてゐるに過ぎない。天皇が何うたらかうたらと言ふ解釋は、高橋氏の偏見に基いた歪曲。
ともあれ、野嵜氏はこれを支持するのだろう。天皇は神聖にして侵すべからずと憲法に書け、と要求しているのだ。
高橋氏の歪曲である。私は、書かれてゐない事を憲法に書け、等と主張してゐない。事實として、天皇は神聖にして侵すべからずとは、明治憲法に書かれてゐたのである。憲法の改正は、適切に行はれるべきである。高橋氏と同樣、或はそれ以上に、私は法治主義の立場である。だから、合法的かつ法學的に妥當な範圍で、「憲法は改正すべきだ」と言つてゐる訣である。そして、明治憲法から現行憲法への「改正」は、法學的にも法的にも問題がある。
さて、これらは天皇主義だろうか? 俺は天皇主義をところどころ思想の言葉で洗練してみただけのものに思える。/そして、洗練度という意味でいうなら宮台天皇論のほうがはるかに上だ。だから宮台を読めと言っている。
高橋氏は、高橋氏自身が歪めた「天皇論」を罵倒し、「宮台天皇論」と比較してゐるだけである。どうして高橋氏はかうも他人の意見を歪曲するのだらう。北守將軍なら「わからない」と言ふだけだらうが、俺ははつきり言ふ。高橋氏が馬鹿だからです。
高橋氏の歪曲した「天皇觀」が愚かしいものである事は、nordenwind氏が突っ込みどころ満載とコメント欄で評してゐるのを見れば解る。
平成十六年三月十八日
もつとも、nordenwind氏も高橋氏と同樣の馬鹿で、天皇は象徴であり、それ以上でもそれ以下でもありません。国民でも公務員でもないので、一般の法律(刑法・民法etc)は適用されませんがそのかわりに皇室典範があります。と平氣で言つてゐます。
象徴とは何ですか。人間ではないのですか。「象徴」と云ふ語の意味を、憲法は全く定義してゐません。その意味では、それ以上でもそれ以下でもありません、となるのでせうが、それこそ「トートロジー」でせう。「象徴は象徴以上でも以下でもない」。そして、その種の「トートロジー」はナンセンスです。ちなみに今、私は鉤括弧附きで「トートロジー」と言つてゐます。論理學的なトートロジーとは別の意味です。
国民でも公務員でもないので、一般の法律(刑法・民法etc)は適用されませんがそのかわりに皇室典範があります。
それどころか、憲法は、國民には保證する基本的人權を、象徴以上でも以下でもない天皇には保證しません。そして、法學的に、天皇の基本的人權は、單に「考慮外」となります。しかしながら、天皇は人間であり、人間には基本的人權が認められるべきである、と云ふのが、人權論者の持つべき思想でせう(何うも、その邊、勘違ひした「人權論者」が跳梁跋扈してゐるやうですが、理念から言つて)。ならば、「憲法の規定に穴がある」と言ふ事は妥當ですし、それが「法學」的な意見でなくとも、「法學」は何の反論も出來ません。單なる法に書かれた事について訓詁注釋を行ふ「法學」の扱へる範圍とは、次元の異る範圍の話だからです。そして、改憲を行ひたいとか、法律を改正したいとか、さう言つた主張を行ふ動機は、所謂「法學」の範圍に属しない範圍に屬する事です。そして、その種の動機がなければ、改正の手續きについての取決めがあらうとも實際に改正が行はれる事はあり得ません。ならば、「法學談議」は、法の改正の提唱には無意味なのです。単に、改正手續きの議論が可能なだけであり、手續きの事を一生懸命論じても――そもそも、そこで一生懸命になる事自體が、「法學」とは次元の異る事象です。
文脈から離れますが一往。
平成十六年三月十八日
なほ、法學的な解釋の側面から解釋すれば、「現行憲法は無效である」か「現行憲法は天皇の名の下に明治憲法を改正して成立した憲法である」の、どちらかにしかならない。
平成十六年三月十八日
イギリスは近代以降は経験論の強い国で、それがイギリス近代市民社会の成立において中心的な役割を果たしたわけなのだが。/英国経験論と大陸合理論って構図を習ったわけなんだけどね。野嵜さんはどっちかというと大陸合理論よりなのかと思ってた。
イギリス文學をやつたから、英国経験論の立場を採りたい訣。ただ、日本は、西歐の近代と云ふ觀點から見れば、「後進國」であり、大陸合理論の發展した地域が「後進地域」であつたのと軌を一にする。だから、大陸合理論的に、理論に偏りがちになつてゐる。のだと思ふ。
平成十六年三月十八日
上から下へ讀んでゐるので、話が逆になるが、高橋氏の日記・2004/03/17 (水)分について。
動機とイデオロギーには関係なく、違憲ならば違憲だし、合憲なら合憲でしょう。
動機だのイデオロギーだのが入り込んでゐるから、自民党は自衞隊を「合憲」だと言つてゐるのでせう。
論理の相対性、政治性、イデオロギー性を主張してるわけですか?
論理の非相対性・非政治性・非イデオロギー性を主張してゐる訣です。政治やイデオロギーを持込むから政治的にもイデオロギー的にもなる、と。
貴方の論理性は政治に毒されすぎです。
あなたが私の論理に勝手に政治を持込んでゐるのだ。それは止めて呉れ、と言つてゐる。
現行憲法が間違っている、という考え方はありだと思うし、そんなに反対でもない。/改憲してすっきり合憲といえる普通の軍隊を作ったほうがいいんじゃないか、という意見もありだと思う。というか、結構賛同できる。/ただ、それは自衛隊が違憲であるかどうかに対して何の答えを与える議論でもないですな。
ここで、高橋氏は「違憲=惡い」「合憲=良い」と云ふイメージを守りたいのである。そして、「合憲か違憲か」の議論は、高橋氏にとつては「良いか惡いか」の議論である。だから、その議論に答を出さない私の「自衞隊違憲論」を、高橋氏は否定する。
こんなことをいう憲法学者さんもいるの? それはちょっと飛躍だと思うね。
なのに高橋氏は、あのやうな飛躍だらけの「天皇論」を書いてしまつたのである。こんなことをいう憲法学者さんとは、高橋氏の事である。
こめんと欄から。
高橋氏。憲法は絶対不変ではないけれど、最高法規なわけで、超法規的な状態の常態化というのはまずい。だから、自衛隊は合憲だという解釈で押し切るか、自衛隊を無くすか、憲法を変えるか、方策はこれらのうちのどれかでしかありえない。俺は軍隊が普遍だなんて思ってない。ただ、自衛隊が軍隊じゃないから海外には出せないという理屈は、「平和憲法」に関わったアメリカでさえ聞いてくれない。ならばいっそのことちゃんとした軍隊にしてしまって、出すときは出す、出さないときは出さないという基準を明確にしたほうがいいと。
俺は、軍隊は普遍的に存在するものだと思つてゐるし、事實、「自衞隊」の名で軍隊が存在するのが軍隊を日本が必要としてゐる證據だと思つてゐるけれども、今、結論としては高橋氏と大體同じ。
高橋氏。「憲法のほうが間違っている」という意見には、割と賛同できるし、それなりに一目おくことが出来るのですが、今回のポイントは、「だからと言って論理的に違憲なものが合憲になるわけではない」ということです。違憲なものは違憲なんです。つまり、「『自衞隊は憲法違反』と云ふ結論は簡單に出」しちゃいけないんですな。合憲だという解釈を考えて、論理的に整合する形にして、徹底的に法解釈で戦わなきゃいけない。憲法改正できなきゃ自衛隊をつぶすしかなくなる、なんて退路の無い状態はまずい。今の自衛隊って、法学の定説としては超法規的集団なんでしたっけ、合憲なんでしたっけ、どっちだったろうか。
nordenwind氏。今の自衛隊は、国内活動では軍隊でないので合憲ですが、海外派兵(PKO)なんかは人道的派兵としていて超法規的です。
實際には、「自衞隊は國内では合憲」なる結論も、簡單に出せない。そこでn氏は国内活動と言ふ訣だ。存在から活動に話がずらされてゐる。
憲法第2章第9條第2項で、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戰力は、これを保持しない。國の交戰權は、これを認めない。と規定されてゐて、軍隊は「存在」自體が否定されてゐる。「活動」に話をずらしたところで、單純に「合憲」と結論する事は出來ない。
もつとも、自衞隊の合憲・違憲の話は、我々の議論の本筋とは離れたところにある。例を擧げて説明した意圖と懸離れたところで、高橋氏は一生懸命突込みを入れてゐる。それに私もそれなりに反論したけれども、話の本筋とは離れた議論である、と云ふ事は、高橋氏にも意識しておいて貰ひたい。なんかこつちで執拗に絡まれるとますます面倒なので。俺にろりこん小説を書かせろ。
平成十六年三月十八日
http://www5d.biglobe.ne.jp/~quia/report/2004/2004_03_b.html#date18-1
アメリカが世界の情勢に關はつて來るのは、第一次大戰の頃である。ヨーロッパの戰爭に參戰した時から、アメリカは國際社會で重要な役割を果すやうになつた。もちろん、當時のアメリカはまだまだ「後進國」であつた。戰後、アメリカは、國際聯盟の創設を提唱しながら、自らは加盟しなかつた。依然、アメリカは「大國の自覺」を持つてゐなかつたと言へる。しかし、國際社會は既にアメリカの果す役割が増大してゐる事を意識せざるを得なかつた。
續くか何うか不明。面倒な話になるので續けないと思ふ。
平成十六年三月十八日
http://white.sakura.ne.jp/~piro/latest/2004/03.html#d18
Piro氏は、http://dean.edwards.name/IE7/の「IE7」を紹介してゐる。
高橋氏ならば、「IE7とは、MicrosoftのIEの次ヴァージョンである」云々と、自分の勝手な定義でPiro氏の文章を歪曲する處だらう。
平成十六年三月十八日
のあ
わたし、プリキュアらしいよ?
あやの
らしいよ……つて言はれても。

平成十六年三月十七日
と云ふ訣で、例によつて例の如く、すつきりと。
平成十六年三月十七日
スタンダールの戀愛論を讀まないと、オルテガの『愛についての省察』、讀めないからなー。
平成十六年三月十七日
「るろうに剣心」の「るろうに」つて何。
平成十六年三月十七日
掲示板の方に書いたので北守將軍關係の事は略。
平成十六年三月十七日
動機だのイデオロギーだの何だのといつた側面での考察を省けば、「自衞隊は憲法違反」と云ふ結論は簡單に出る。
ただ、この時、憲法は「アプリオリに存在するもの」であるが、もつとはつきり表現すると「存在を否定する事が許されないもの」となる。そして、なぜ「許されない」かと言へば、議論をする「動機だのイデオロギーだの何だのといつた側面での考察を省」いたからに他ならない。即ち、「動機だのイデオロギーだの何だのといつた側面での考察を省」く時點で、何かを「許さない」とする或種の動機なりイデオロギーなり何なりの類が既に入り込んでゐる、と言へる。
即ち、論者の據つて立つ立場そのものが、論者の主張の論理的歸結に必然的な影響を與へるのである。高橋氏にはその邊の事が全然わかつてゐない。
「自衞隊は憲法違反」と云ふ説についての俺の意見だが、「自衞隊――と言ふより軍隊――は、無ければ困るものだから、その無ければならないものの存在する事を違憲とする今の憲法は間違つてゐる」となる。
一方で、憲法學者が「私は憲法が存在する事を前提にしないと、あなたと議論しません。よつて、自衞隊は違憲であり、存在してはならない事が確定します」等と言つたりするのである。私は「何うかしてゐる」と思ふのだが、世間一般の人は思はないらしい。
平成十六年三月十七日
大島先生の『ジェイン・オースティン』(中公新書)は、ネタバレ全開だけれども良い本だ。
ねたばれされて困るやうな本は名作ではない。

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