道徳やら徳目の場合そこが曖昧だ。違法行為だとか人権侵害とかならはっきりしてるんだけどね。
イコールで結ばれる、というのが意味不明。
仮に命令だとして、道徳的命令ではないから徳目ではないですね。
俺が誰を抑圧したというんで?
抑圧であるだけの「徳目」と全く同一のものであると看做してゐる。ならば、高橋氏のやつてゐる事は、高橋氏自身が
悪いものと呼んでゐる「抑圧」にほかならない。これはあなたの發言をそのままつなげただけであり、そのままつなげただけのものは、高橋氏に據れば眞實であるのだから、高橋氏は自分の言葉によつて自分の主義が惡いものである事を證明した事になる。
俺が言っているのは、他人からの抑圧は受けないぞということだ。
法的に妥当な形式を取っていれば、動機が宗教だろうが道徳だろうが私怨だろうが、法的には正当な主張として扱われる。/貴方は法的に妥当な形式を取っていなかったから法的に批判されたわけだ。
日本人の道徳的支柱であるところの天皇が著した「教育勅語」は、普遍的で絶対的な徳目だということになるのでしょうか?
普遍的で絶対的な徳目ではなく、徳目は絶對的な命令の形式をとるだけだ。そして、普遍的な徳目は存在しない。道徳的命令は、文化によつて異るからだ。
徳目=道徳的命令に従うという他律性よりも、自ら正しさを確信した倫理を貫く、という自律性のほうを俺は大事に思う。/後者のほうが、より近代的理性的な態度だ。
社会生活を営む上でひとりひとりが守るべき行為の基準(の総体)。自分の良心によって善を行ない悪を行なわないこと。と説明されてゐる。しかし、この定義では、基準と行爲とが區別されてゐない問題がある。また、善を行はず惡を擇ぶ事にも道徳的である場合があり得る。その爲、私の議論では岩波国語辞典の定義を採用してゐない。
仁・義・孝など、徳を分類してつけた名。と定義されてゐるが、その徳の定義を見ると
身についた品性。社会的に価値のある性質。善や正義にしたがう人格的能力。とあり、これは「既に身についてしまつてゐる品性」「既に善や正義に從つてゐる時に見られる能力」の意である。しかし徳目は、未だ人が身につけてゐない品性を「持つべきだ」として掲げたものであり、また、人格的能力ではなく從ふべき善や正義を擧げたものである。因つて、やはり岩波国語辞典の「徳」「徳目」の定義は不完全であると見るべきであり、私の議論では採用してゐない。
俺にしてみれば、抑圧であるだけで、それは悪いものです。抑圧的な徳目には、必要悪なものと不必要悪なものしかありません。
必要悪なものと不必要悪なものしかない事は何ら問題にならない。
欲望・行動などを押さえつけることに過ぎず、イデオロギーや思想のやうな價値觀に據る判斷がなければ、「良い」も「惡い」もなく、單にそれだけの意味でしかない。そこに良いとか惡いとか云ふ政治的な價値判斷を持込み、抑壓自體の善し惡しを決めようとしてゐるのは高橋氏である。一方、道徳に於ては、欲望なり行動なりに良い惡いがあり、抑壓自體に良い惡いはない。だが、惡い欲望や行動を抑へ込むと云ふ意味での抑壓には意義を認め得る。私の定義する道徳は、一方的に「良い人間である」とか「人間が良いとされる行爲を擇ぶ」事を意味せず、「良い行爲を擇ぶか、惡い行爲を擇ぶか」と考へる事を指す。人間が、惡い行爲をしたいと考へる欲望を、抑へ込まうか、抑へまいか、と考へる事は、あり得る。そして、それは、私の定義では、道徳的、と云ふ事であるが、私のみならず、まともな文學者ならばこの種の葛藤は道徳的と看做す筈であり、それについてはフィールディングの例を擧げたし、「普段、損得勘定で動いてゐる筈の人間が、時として他人に共感する事」の道徳性については高橋氏も良く知つてゐる筈である。
そして、何が必要な抑圧なのかは、社会的政治的相対的に決まるものであり、俺はそれを最小限に見積もるべきだと考えています。
自律主義について。「守るべき事を自分で決める」と云ふ意味で、高橋氏は
自律と言つてゐる。しかし、自分で決めようが他人が決めようが、決めたものは徳目であり、正義である。或は、「守るべき事」は、自分が決めるのではなく、常に「既に決つてゐる」ものである。「私は○○する事に決めた」と宣言する事は可能である。しかし、その「○○すべきだ」と云ふ命令は、果して自分で考へたものであるか。人の行爲は意志によつて決められてゐるが、過去の人の行爲によつて現代の價値觀は決つてゐるのであり、その價値觀によつて現代人の意思は制約されてゐる。言換へると、「○○すべきだ」と云ふ「○○する」事は、自分で考へる事が出來ない。行爲として認識され、言葉となつてゐる概念は、自分によつて再發見されるが、新發見されはしない。そして、既存のものであり、言葉として社會的に普遍的に存在する以上、價値判斷は既に存在する。自己の價値判斷は、既存の價値判斷に、常に依つてゐる。ならば、高橋氏の言ふやうな
自律は存在しない。高橋氏の
徳目=道徳的命令に従うという他律性批判は、ナンセンスである。
貴方が社会や法や政治や哲学や歴史を語る上で論拠に引いている文章って、だいたいそういう門外漢のものなんじゃないですか?
強調した部分の事を書かないのが、自由主義を支持する人間の議論の際に守るべきルールだと思ひますが。なぜかと言へば、それは言論ではなく、ただの惡口だからです。なぜ惡口かと言へば、根據を提示してをらず、提示する氣も無い状態で、言ひつぱなしで言つてゐるからです。(野嵜)/
そんなルール誰が提唱したんですか? 知らないので教えてください。(高橋)
そんな状況がどこにあるんで?
打算的な人間しかいない非現実的な状況下を想定するのが理屈ですか?
持たない人間もたまにいるし、そういう例外者のうちさらに一部の人間は理解しがたい犯罪を起こすこともある。/そして、そういう奴に道徳が何か有効であるとは期待できないと俺は思う。/殺人の禁止に関して、道徳に他人への共感能力以上の効果はないんじゃないかな。
他人の苦痛への共感能力を持つのではないですか。
そもそもそんな統計調査を誰かやったのか? 打算的というのをどう定義し、共感力というのをどう計測したんだ?/やってない調査から肯定的な結果が出るわけがなく、それは仮説を否定したことにはならない。肯定したことにもならないが。/常識で十分なら統計調査なんか必要ない。なんとなく科学的なフレーバーをかもすためだけに「統計」なんて言葉を使うのは安っぽいからやめよう。
打算的に生きてゐる人間は他人に共感を示し易い、と云ふ統計結果でも持つてゐるの?
天皇も制度だし概念です。それは社会的構築物であり本質ではない。
どうしてシナリオで食つてゐるのだらう。(野嵜)/これも、議論の上で答えなければならないことのうちに入るのかな?(高橋氏)
貴方はすりかえられていない本来の次元の違いがあり、それは本質的なので普遍的に通じると思っているが、そんなことはないと言っている。
自律的なものであるか何うかは、檢討の餘地がある。
ドイツ民族意識は、18世紀後半―19世紀初頭にゲーテなどの文学作品によってその支柱が形成され、ナポレオン戦争によって一気に国民運動化するが、その過程でドイツ・ロマン主義思想が成立する。この歪んだ*1思想はドイツ統一運動のみならず、その後の世界各国の国民主義を規定していく。
*1:というのは僕の価値判断である。
勿論浪漫主義は主として文学上の運動であり、我々はここで文学上の問題について語る事は出来ない。然しこの文学運動の生み出した雰囲気は一つの強い政治的傾向を生み、その傾向は更にその中から社会国家に関する一個の理論体系をも生み出した。而して最近に於て重んぜられたものは正にこの浪漫主義国家理論に他ならないのである。我々はこの様なものの代表として、アダム・ミュラーとその主著『国家術要論』を取上げれば充分であろう。
我々は彼が所々に於て述べるすぐれた命題も、その理論的基礎づけに於ては極めて曖昧模糊たるものがあり、そして少なからぬ論理の矛盾、混乱が存在する事を直ちに見出すであろう。否、彼の思想には――他の浪漫主義者一般と等しく――元来一貫した理論は存在しないのである。そこにあるものは、人々の感情や気分に訴える詭弁に非ざれば他人の様々な理論の勝手な借用である。と言ふ。そして、シェリングの有機的自然觀を國家にも適用したものだとするミュラー自身の「宣言」に觸れつゝ、
自然乃至社会事象の機械的把握より有機的把握への発展は、さきに述べた如く既に早くカンとに於て見られ、シェリングの理論も亦カントよりヘーゲルに至るドイツ古典哲学の発展の一齣として観察されなければならないと指摘し、ミュラーにはドイツ古典哲學の重要な基礎である理性の立場と、理性を規定する自由の意識が缺如してゐる事を指摘する。林氏は、ミュラーの
国家及びすべての偉大な人間的要件は、それ自身、その本質は全く言葉乃至は定義の中に包括乃至は圧縮し得ない所のものを持っていると云ふ發言を引き、
国家に関しては何の概念も存在し得ないと言ふミュラーが、「概念」と對立する用語として
かかる崇高な対象を把握すべき思惟を「理念(イデー)」なる語を用ゐてゐる事を述べて、ミュラーの「理念」が非論理的である事を説明する(
それは例えばヘーゲルのイデー説とは全く似ずして非なるものである)。以下、ミュラーにおける論理性の缺如、歴史の意識の缺如――就中、「國家」「民族」の觀念が、ミュラーに於いては觀念として理論的に成立してをらず、單に
プロイセン、オーストリア等の既存の封建国家に過ぎなかった事を指摘する。そして、林氏は、
勿論我々はこの事を以て直ちにロマン主義運動全般の本質を論断するような性急な態度はとらないであろうと言ふ。續けて林氏は、
然し、この問題に関する議論はしばらくおくとしても、ノヴァーリス、シュレーゲル兄弟以下のロマン主義文学の代表者たちが、後年に於ていずれもカトリック教に改宗し、メッテルニヒの反動体制の熱心な支持者となった歴史事実を我々は単なる偶然と見做す事は出来ないであろう。時に人によって甚だ高い評価の与えられるその「熱情」や「憧憬」や「皮肉」や「警喩」の文学も、ヘーゲルやゲーテによれば単なる「恥ずべき病気」に過ぎないとされた事を指摘する。そして、クローチェの評價を引いて曰
この病気はその後芸術、科学的思惟、感情生活、道徳、国民的乃至国際的政治の中に蔓延し、それ等があからさまな驚くべきものとなった時、それは人々によって、頽廃主義の名を以て呼ばれた。
全く封建貴族の精神的武器以外の何物でもなかったと評すのだが、一方、
ロマン主義を単なる封建貴族の意識形態と規定し去る事は必ずしも正しくないとも述べる。初期のロマン主義文學者は、多くが市民社會層に屬してをり(貴族出身のノヴァーリスについては
その生活環境は筵市民層に近かったと註釋を附けてゐる)、フランス革命勃発當時には
等しく之に歓呼の声を上げたのだし、
その意味に於て彼等の「情熱」や「憧憬」は青年時代のゲーテやシラーの「シュトゥルム・ウント・ドラング」運動と等しく、ドイツの新興市民層の革命精神の表現であったと云う事が出来ると指摘する。
この彼等の革命的情熱は極めて速かに彼等から去って、彼等はその情熱や憧憬を益々現実から遊離した夢幻の世界に向けたのであるが、実はその事の中に彼等の反動性が存在したと云うべきであろう。彼等が、理性を放棄して感情へ逃避し、近代精神を否定して中世を讃美するに至つた事により、彼等の主義が封建的勢力の武器となり得た。そして、林氏は、
彼等の置かれた地位があまりにもみじめであったがために、彼等は逆動的に敵勢力と結びつき、それに奉仕する事によって自己の救済を求めようとしたと述べたアリスの「心理主義」的な説は、全面的に信ずる事は出來ないが、アダム・ミュラーの場合には當嵌るだらうと述べる。
分泌活動によって支配者達の好意を得、何らかの官職にありつこうとしたミュラーの『国家術要論』がその目的の爲になされた講演であつた事を林氏は示し、
この様な個人的な問題を離れて見ても、ドイツ市民社会の内部からこの様な思想家を生み出したことは、畢竟するにドイツ社会の立遅れ、所謂「ドイツ的みじめさ」の反映であったと云わなければならないであろうと述べる。
>古典哲学者はドイツ的みじめさの制約を受けながらも、なおその独自の形に於てドイツ市民社会の要求を明瞭に代表していた。そして彼等はその(後れて来たもの」の利点をも十分に発揮して、自由と民族の意識に世界無比の深さと高さとを与えたのであった、と評し、ロマン主義者と古典哲學者とを區別する必要がある事を指摘する。
之に反してロマン主義者は元来の市民社会の要求を全く放棄し、之と全く正反対の場所に彼等の理論を樹ち立て、かくする事によって全面的に封建貴族階級の双翼の下に彼等の安息所を見出したのであった。ここで林氏は、この相反する二つの立場の人々が二つの派に分れた理由を、才能や資質に求めるべきではなく、
ドイツ市民社会の経過した時代の差異に求めるべきであらうと述べる。
カント、フィヒテ、ヘーゲル、ゲーテ、シラーの成長した時代は尚フランスに於ける革命的勢力の伸張時代であり、ドイツに於ても、仮令上からの力によってではあれ、尚近代的変革の気運が漲っていた。然るにロマン主義の栄えた時代はフランス革命がそのあらゆる教訓を残して経過し去った後であり、既にドイツの封建貴族が、ナポレオンに對する国民的昂揚の気運を利用して自己の勢力挽囘の努力を開始した時であった。ドイツ・ロマン主義者が現はれた時代、封建勢力は、ドイツ社會を壓倒的な形で支配してをり、フランスのナポレオンが現れて昂揚したドイツの國民意識を指導する役割も擔つてゐた。かうした閉塞した時代の中にあつて、現實から逃避し、支配層に阿るロマン主義が榮えたのも無理はない。
ドイツ市民社会の課題を解決した一八七一年のドイツ帝国成立に当っては、ドイツ古典哲学の政治思想は遂に地上に移される事なくして永遠に精神の王国の碑銘として終った。古典主義哲學者の作り上げた民族と國家の理論は現實のドイツ國家成立には生かされなかつた。それゆゑ、却つてロマン主義によつて歪曲・模倣された有機體説となり果て、ドイツ社會における國家主義の原理として説得力を持つやうになつた、と言ふ事が出來る。
天皇についてはなんの理由付けも必要なく社会的政治的機能の面での解釈や批判は受けないと言えるわけですか。
社会的政治的機能の面での責任を問はれない事になつてゐます。
貴方の発言をそのままつなげただけなのだけど?
今回の俺の読みは、貴方の言ってることをただつなげただけで、どこにも文学性なんか無いと思うけど?
違わない。貴方の発言をつなげただけ。ちゃんと引用してどこをつなげたか示したでしょ?/つなげられたら意図と違ったように読まれる言説を吐く貴方が悪い。
意図と違ったようにした「引用」は、引用として認められない。
違っている違っていると宣言するのは結構ですが、僕は貴方の個々の意見が自然に帰結するものを明示しただけです。
明示した事に
自然に帰結しない。高橋氏のやうな操作の結果生ずる「読み方」でしかない。
私は、道徳的な命令の事を徳目と呼んでゐますし徳目は本質的に抑壓的だ、と言つてゐる。「○○してはならない」と云ふのが、徳目である。この「してはならない」と云ふのは、欲望を抑壓する命令である。そして、徳目は全て抑壓的である。「○○してはならない」と云ふ絶對的な命令を、「抑壓的」と呼ぶのならば。
徳目とは欲望を抑圧する絶対的命令である。/(下で書くが)天皇は日本の道徳的支柱であるので、天皇の名の下に出された道徳的命令こそが徳目であり絶対であるということになる。
法律は最低の道徳(此所は徳目の意)であり、法律の改定によつて「政治的な抑壓」を排除しようとしても、「道徳的な抑壓」は排除出來ない。
徳目は道徳的な抑圧なので政治的批判を受けない。と讀むのである。無茶苦茶だ。私が「つないでいない」ものを、高橋氏は自分で「つないで」、それでゐて、「つないだ結果」を「野嵜の言つてゐる事」にしてしまふ。
今回のレスには、どのように間違っているか論理的に示した部分はないようですね。
そういう風に読ませて批判を回避したいのだろうなあということくらいは分かりますよ。でもそれはおかしいんです。
明治憲法のその条文を現行憲法の規定と同じ解釈に読み変えるくらいなら、単に現行憲法の記述をそのまま持って来ればいいでしょうが。
明治憲法下で明治憲法を読み替えるという主旨なら分かるけどさ、これ、現行憲法が出来た後での議論なんでしょ。
天皇のケツは内閣が拭く、現行憲法の記述は過不足なくそれをきっちり宣言している。必要十分です。
天皇のケツは内閣が拭く――このやうな言ひ方をするのが「法律議論」なんだな。高橋氏は、このやうな言ひ方をする事を「法律議論」だと考へ、實踐してゐる、さう看做して良いのだな。さう看做される言説を吐く貴方が惡い。呵々。
つーか敗戦でアメリカに占領されてたわけで。明治憲法から現行憲法への移行が当時の法学的観点から見て妥当だったかどうかが問題なのではない。仮に不当だったとして、それで現行憲法が明治憲法に巻き戻ることは有り得ないのだから。
問題は、この現行の法制度が今妥当かどうかでしょ。
貴方は、自分が書いたことを繋ぎ合わせると何が帰結されるのかまで考えて発言していないのです。
いいえ、これは貴方の記述したことから導かれる天皇観です。/それが貴方の天皇観と矛盾したとして、その責任は貴方にあって俺にはない。
デカルトもスピノザも大陸合理論ですよ。スピノザ的な神というのはまさしく大陸合理論ならではの発想では。英国経験論の代表格はロックやヒュームです。近代市民社会の成立には大きく影響している経験論だけど、それを持って合理論が後進的というのはどうかと。
違うでしょう。合憲だから合憲だと言っているのです。
それが法的に問題の無い主張なら、通る。合憲だ。
違憲だから自衛隊は不要、とはならないのと同様、自衛隊が必要だからといって、合憲にはならんのです。
ただ、定説としては、自衛隊は合憲ってことになってんじゃないの、ってこと。
誰が持ち出した話でしたっけ。
自衞隊の合憲・違憲の話をしてゐない。と言ふか、觀念的な話をするのに、具體的な例を出して何が惡い。その例の方に、高橋氏は反應した。高橋氏は、話の本題を讀めてゐない。文章を讀む能力が根本的に缺けてゐるからである。これでシナリオライター以下略。
動機だのイデオロギーだの何だのといつた側面での考察を省く事について論じた。だから、何度もキーワードの
動機だのイデオロギーだの何だのといつた側面での考察云々を繰返した。ところが、あれほどテーマが明瞭になるやうに書いたにもかかはらず、高橋氏は誤讀したのである。
T.M.さん>はじめまして、私も野崎さんが自衛隊と児ポ法をアナロジーとして(彼流に言えば、X=Yとして)扱いたいのだろうと思っていました。しかしあの人の論理は、A(1、3)、B(1,2)においてX軸の座標において(『Xと云ふ條件の下で』)のみ「A=Bである」といっている。確かにそれは論理的に見て正しい、しかし『Xと云ふ條件の下で』と言うものはアプリオリなものではないので、「Y軸から見たらこうなるだろう」と言う批判を当然に受ける。
まぁあの人(註・野嵜の事、らしい)は『「理屈」と「屁理屈」とは同一である。理屈は「説得力がある」ように見えるだけである。』とのたまい、戦略としてそれもアリだとするのですから、いつまでも脳内俺様論理大爆発の議論に付き合うのは…………だと思います。
さて、これらは天皇主義だろうか? 俺は天皇主義をところどころ思想の言葉で洗練してみただけのものに思える。
明治憲法の問題點を論ふのに、惡意に基いて一々の條文を解釋し、非難を浴びせかける、と云ふやり方がいまだに殘つてゐます。當然、さう云ふ人は、善意に基いて現行憲法を解釋するのですが、實に不公平なやり方だと思ひます。
単純に「自己主張する/しない」でみると、「中国人」「西欧人」は自己主張して「日本人」は自己主張しないと言うことができるとする。なぜこのような差が生じるのかを考えるとき、中国と西欧にまたがる文化的同質性と日本との差異という論点も導くことが可能であり、したがって「自己主張する/しない」という問題を、「日本」と「西欧」の習慣の差という個別的問題に落とし込むことは自明とはいえなくなる。
中国と西欧にまたがる文化的同質性と日本との差異を論じて良いのなら、ますます
「日本」と「西欧」の習慣の差を論じたつて良い事になるではないですか。
世界システム論については、宮崎市定氏もさうだし、割と常識なのだと思ふけれども、「東洋史」「西洋史」「日本史」(以下略)の中だけで考へてはいけない、と云ふのは、私も承知してゐますよ。しかし、同時に、「世界の中の西歐」「世界の中の日本」と云ふ視點だつて、必要ではないですか。
さう云ふ地域性の違ひが、役割分擔を行つた事も知つてゐる。と云ふ事自體に、北守將軍も反論する氣は無いやうだし。
ただ、野嵜さんは「近代文明」と「西欧文明」を一緒くたにして考えているんだよなあ。
結局、どうしても野嵜さんの言う「西欧」が良くわかんないんだよなあ。
読んだがそれは「ヤスパースがニーチェをキリスト教的に読んだ」というそれ以上でもそれ以外でもないでしょう。
ニーチェは自身のキリスト教的な意識を意識していたんでしょうか?
論拠を言え、と言はれて論據を言つたら、そんな論據を俺は認めない、と言張つてゐるだけぢやないか。どんな論據なら認めるんだ? 具體的に説明しろ、と言つても、北守は答へないぢやないか。「嫁」「嫁」言ふ許りで。北守は結局、何も解つてゐないんだよ。
こう言い換えても別に僕のイイタイコトは変わらないですね。
過程をすっとばしていきなり「西欧云々」と書き始めたら、それは自明なものとしているとみなされても仕方ないでしょう。
みなしたがる北守の意識に、既に「解釋」が入り込んでゐるんだよ。
とくに、「西欧云々」は「結論」ではなくて、児ポ法そのほかの問題を論じるときの「前提」なのだから、より厳密な議論が必要でしょう。
児ポ法そのほかの問題を論じたい、と云ふだけの話らしい。
天皇は本質であり実在であるから、社会的政治的に構築された概念ではない。/だから、社会的政治的機能の面での解釈や批判は受けない。
だから云々の理由附けが可能なのだらう。
徳目とは欲望を抑圧する絶対的命令である。
徳目とは欲望を抑圧する絶対的命令である。/(下で書くが)天皇は日本の道徳的支柱であるので、天皇の名の下に出された道徳的命令こそが徳目であり絶対であるということになる。
日本の道徳的支柱である天皇の名の下に出された命令は、即、道徳的な命令となるものではない。
ともあれ、天皇の下に人権が根拠付けられることを彼は望んでいる。それは、天皇の根拠付けがない範囲では人権は侵害されてもいいと言うことだ。――こんな異常な解釋をする人がゐるのである。
ともあれ、彼にとって天皇とはこういうものなのだ。
第3条がどうしてそういう解釈になるのか俺には分からない。/現行憲法の「内閣が責任を負う」というのは、つまり天皇は責任を負わないと言う意味なので、天皇を免責するという意味では共通するけど、「神聖にして侵すべからず」はそれにとどまらないことを言っている。
ともあれ、野嵜氏はこれを支持するのだろう。天皇は神聖にして侵すべからずと憲法に書け、と要求しているのだ。
憲法に書け、等と主張してゐない。事實として、
天皇は神聖にして侵すべからずとは、明治憲法に書かれてゐたのである。憲法の改正は、適切に行はれるべきである。高橋氏と同樣、或はそれ以上に、私は法治主義の立場である。だから、合法的かつ法學的に妥當な範圍で、「憲法は改正すべきだ」と言つてゐる訣である。そして、明治憲法から現行憲法への「改正」は、法學的にも法的にも問題がある。
さて、これらは天皇主義だろうか? 俺は天皇主義をところどころ思想の言葉で洗練してみただけのものに思える。/そして、洗練度という意味でいうなら宮台天皇論のほうがはるかに上だ。だから宮台を読めと言っている。
突っ込みどころ満載とコメント欄で評してゐるのを見れば解る。
天皇は象徴であり、それ以上でもそれ以下でもありません。国民でも公務員でもないので、一般の法律(刑法・民法etc)は適用されませんがそのかわりに皇室典範があります。と平氣で言つてゐます。
それ以上でもそれ以下でもありません、となるのでせうが、それこそ「トートロジー」でせう。「象徴は象徴以上でも以下でもない」。そして、その種の「トートロジー」はナンセンスです。ちなみに今、私は鉤括弧附きで「トートロジー」と言つてゐます。論理學的なトートロジーとは別の意味です。
国民でも公務員でもないので、一般の法律(刑法・民法etc)は適用されませんがそのかわりに皇室典範があります。
イギリスは近代以降は経験論の強い国で、それがイギリス近代市民社会の成立において中心的な役割を果たしたわけなのだが。/英国経験論と大陸合理論って構図を習ったわけなんだけどね。野嵜さんはどっちかというと大陸合理論よりなのかと思ってた。
英国経験論の立場を採りたい訣。ただ、日本は、西歐の近代と云ふ觀點から見れば、「後進國」であり、
大陸合理論の發展した地域が「後進地域」であつたのと軌を一にする。だから、
大陸合理論的に、理論に偏りがちになつてゐる。のだと思ふ。
動機とイデオロギーには関係なく、違憲ならば違憲だし、合憲なら合憲でしょう。
論理の相対性、政治性、イデオロギー性を主張してるわけですか?
貴方の論理性は政治に毒されすぎです。
現行憲法が間違っている、という考え方はありだと思うし、そんなに反対でもない。/改憲してすっきり合憲といえる普通の軍隊を作ったほうがいいんじゃないか、という意見もありだと思う。というか、結構賛同できる。/ただ、それは自衛隊が違憲であるかどうかに対して何の答えを与える議論でもないですな。
こんなことをいう憲法学者さんもいるの? それはちょっと飛躍だと思うね。
こんなことをいう憲法学者さんとは、高橋氏の事である。
憲法は絶対不変ではないけれど、最高法規なわけで、超法規的な状態の常態化というのはまずい。だから、自衛隊は合憲だという解釈で押し切るか、自衛隊を無くすか、憲法を変えるか、方策はこれらのうちのどれかでしかありえない。俺は軍隊が普遍だなんて思ってない。ただ、自衛隊が軍隊じゃないから海外には出せないという理屈は、「平和憲法」に関わったアメリカでさえ聞いてくれない。ならばいっそのことちゃんとした軍隊にしてしまって、出すときは出す、出さないときは出さないという基準を明確にしたほうがいいと。
「憲法のほうが間違っている」という意見には、割と賛同できるし、それなりに一目おくことが出来るのですが、今回のポイントは、「だからと言って論理的に違憲なものが合憲になるわけではない」ということです。違憲なものは違憲なんです。つまり、「『自衞隊は憲法違反』と云ふ結論は簡單に出」しちゃいけないんですな。合憲だという解釈を考えて、論理的に整合する形にして、徹底的に法解釈で戦わなきゃいけない。憲法改正できなきゃ自衛隊をつぶすしかなくなる、なんて退路の無い状態はまずい。今の自衛隊って、法学の定説としては超法規的集団なんでしたっけ、合憲なんでしたっけ、どっちだったろうか。
今の自衛隊は、国内活動では軍隊でないので合憲ですが、海外派兵(PKO)なんかは人道的派兵としていて超法規的です。
国内活動と言ふ訣だ。存在から活動に話がずらされてゐる。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戰力は、これを保持しない。國の交戰權は、これを認めない。と規定されてゐて、軍隊は「存在」自體が否定されてゐる。「活動」に話をずらしたところで、單純に「合憲」と結論する事は出來ない。