闇黒日記

平成十六年三月十六日
うち以外に、「児ポ法」の類の法律の制定に反對してゐないサイトは無いのかな。だから高橋氏と北守將軍は攻めて來るのかな。ウェブで最う「児ポ法」の類の法律に對する態度が完全に統一されてしまつてゐるのだとしたら、逆に怖いぞ。
戰術に關して意見を對立させるのならば簡單な事だ。「空氣」に抵抗する事くらゐ、難しい事はない。
と言ふか、效果の話をするのならば、高橋氏はうちを攻撃するのが果して有效な事か何うか、よくよく考へた方が良い。うちはマイナーだよ? もつとほかに、叩くと效果がある處があるのではないかい? 良く知らんけれども。
平成十六年三月十六日
Namamusu
まったり日記。
平成十六年三月十六日
私が、自由や民主主義の觀念はキリスト教と關係がある、と言つた時、高橋氏は「教義」の側面から「無關係」を主張した。しかし、鏤々述べた通り、私はキリスト教社會には道徳と政治とを峻別する傳統がある、と言つたのである。そして、高橋氏は、道徳と法とは區別するものだ、と主張してゐる。明かに、高橋氏はとぼけてゐるのである。
もつとも、高橋氏の「理解」は、相變らず誤解である。高橋氏は、法と道徳とを區別すべきだ、と、口では言ふが、道徳的な觀念に基いて法を作る、と云ふ事の妥當性を理解出來ない。ただ、自分は法治主義の立場に立つてゐる、と、自分で自分を定義するだけである。實際には、高橋氏自身、自分の道徳観に基いて法を何う斯うしてゐるのだが、「法律談議」の形さへとつてゐれば道徳とは無縁でゐられる、と、高橋氏は信じてゐる。そんな馬鹿な話はない。
目を背ければ無關係になると、高橋氏は言ひたいらしい。
沙漠に住む駝鳥は、敵に追はれると、砂の中に顏を突込んで、敵が見えなくなるから敵はゐなくなると思ひ込むさうである。
平成十六年三月十六日
北守將軍の非難は、論理的に異常だつた。北守將軍は、野嵜が「全ての西歐の觀念にキリスト教の影響がある」と言つてゐると認識したのか、[或種の西歐の觀念にキリスト教の影響がある」と言つてゐると認識したのか、そこがまづ、わからない。
ホブズボーム等の本を讀めと言つた理由もわからない。讀んだ上で、變だと述べたら、俺はホブズボームを信じてゐない、と言出した。では、なぜホブズボームの名前を出したのか。
「野嵜は歴史學的な方法で論じてゐない」と非難する。では、北守將軍の「歴史學的な方法」はどのやうなものなのか。北守將軍の文章を讀んでも、これがまた全然わからない。「歴史は歴史家の解釋を通してしか記述されない」と野嵜が言ふと、「そうじゃない」。そこで、「歴史を科學と思つてゐるのか」と尋ねると、「そうじゃない」。では、北守將軍の歴史學とは何なのか。説明しろと言ふと、本を讀め。本を讀んで批判すると、「俺は信じてゐないから幾らでも勝手に非難しろ」。
北守將軍には「歴史学」の事「わかっている」らしいのだが、北守將軍以外の全ての人間が、北守將軍の言ふ「歴史学」がどのやうなものなのか、理解出來ないのである。少くとも、北守將軍のこれまでの文章だけで彼の言つてゐる「歴史学」を理解出來る人間がゐるとは思はれない。
平成十六年三月十六日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040315#p1
ただ、「歴史家は主觀に基いて事實を再構成しなければならない」とあるが、確かに限界はあるものの、その再構成の仕方には蓄積された方法論があるわけで、なんでも許されるというわけではない。
野嵜は「なんでも許される」等と言つてゐない。林氏も言つてゐない。
平成十六年三月十六日
話が戻るけれども。
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040314#p5
これが正しいとすればと北守將軍は言つてゐるが、高橋氏も理性と信仰を分離する考へ方が「ある」と云ふ事を大前提にものを言つてゐるのに注意。
平成十六年三月十六日
http://www.memorize.ne.jp/diary/57/36889/の2004/03/16 (火)の項。
道徳と徳目を區別して何かいいことがあるんですか?と高橋氏は言つてゐるが、何故異る概念を區別しないのだらう。
そのような「徳目」などというものを俺は持たないし、持たなくてもいいし、持たないほうが幸せだと思っています。と高橋氏は言つてゐるが、高橋氏のそのような「徳目」は、私の言つてゐる徳目とは何ら關係がないと思はれる。高橋氏は「徳目」を、「惡い意味で抑壓的な徳目」の意味で使つてゐるが、私は「徳目」にも「抑壓」にも「惡い意味」を見出してゐない。
と言ふか。色眼鏡で物を見るな。馬鹿。
つまり、まったくなんの魅力も感じないから、そういう話題には興味が無いのです。
高橋氏、貴方に動機や得があろうがなかろうが知ったことじゃない、と言ってるんですが。と言つてゐるのですが、(2004/03/15 (月))自分は動機や得の有る無しを理由にするのです。
平成十六年三月十六日
高橋氏の「コメント」欄での發言。
まあ、彼の中で天皇が占める位置を俺の場合法や人権思想が占めているのだろうなあとは思うけど。
また何の根據も無しに「思う」「思う」言ふんだからこの馬鹿は。
高橋氏が「法」や「人権思想」を「自己の欲望を實現する爲に、手段として利用すべきもの」と考へてゐるのと違つて、俺にとつて天皇はただ「ある」ものだ。俺は天皇を利用しようなどと考へてゐない。
平成十六年三月十六日
ネットに旧仮名遣いがじわじわ増えていくのが薄ら寒くて嫌なんですよ。
本音が出たかな。増えて何が惡いのだらう。高橋氏は、正しい事が嫌ひであるみたいだ。
平成十六年三月十六日
高橋氏の眞似をして「演出」をしたら、怒られてしまひました。高橋氏は自己批判せよ。
人権は徳目なんぞより優先されるべき概念であることを理解すべきだ。
國民は、すべての基本的人權の享有を妨げられない。この憲法が國民に保障する基本的人權は、侵すことのできない永久の權利として、現在及び將來の國民に與へられる。
日本國憲法の基本的人權に關する規定は、徳目であり、禁止の形で書かれてゐたりします。
と言ふか、高橋氏は、私の言つてゐる意味での「徳目」ではない、高橋氏の頭の中にある「徳目」の觀念に基いて、私の使つてゐる高橋氏のかんがへてゐない意味での「徳目」を罵倒してゐるのです。
私は、道徳的な命令の事を徳目と呼んでゐますし、徳目の命令に從ふか從はないかを考へるのが道徳的な事だと言つてゐます。高橋氏には、その邊の私の考へを理解する氣が毛頭ないらしい。これで對話をしろと言はれても、無理です。高橋氏は、相手の言つてゐる事を理解する努力をして下さい。一方的に自分の意見を主張するだけでは駄目です。自閉と一緒です。
実際に読んでみれば社会学的もしくは哲学的な解説が書いてあるわけですよ。/聖書の記述は信仰においてしか正しさを保障されないものじゃないですか。
高橋氏の言ふ宗教的でしかない態度とは、一句だけ引いてことたれりという態度の事ではないのですね。普通の人間は、さう云ふ風にしか意味をとりませんよ、あの文章。
高橋氏が、日本語の文章を讀めないだけでなく、書けない事も分かりました。どうしてシナリオで食つてゐるのだらう。
余力があるなら読んでみたほうがいいと思いますよ。
これ、「余力がないんだろお前はギコハハハ」の意味で言つてゐますか、「余力がないのに読む必要はありません、その程度のものです」の意味で言つてゐますか。
宗教と言うのをどう定義してるんだろう。
少くとも、高橋氏の言ふ「抑壓的」なものとは思つてゐませんね。
ようするに門外漢なんですね。
それはさうでせう。そして、門外漢の話を持出したのは高橋氏です。何故高橋氏が門外漢の福田氏や松原氏の話を持出したのかと言へば、今の文脈を高橋氏が取違へてゐるからです。
言論に反対することと、そのような言論をする自由を否定することとは別です。/俺は、貴方がどんなに反動的な思想を吹聴しようが、それ自体は自由だと思いますよ。/ウザいし迷惑だとは思うけど
強調した部分の事を書かないのが、自由主義を支持する人間の議論の際に守るべきルールだと思ひますが。なぜかと言へば、それは言論ではなく、ただの惡口だからです。なぜ惡口かと言へば、根據を提示してをらず、提示する氣も無い状態で、言ひつぱなしで言つてゐるからです。
持つべきだ、なんて俺が一言でも言いましたっけ? 普通に育てば人は他人への共感力を持つだろう、といってるんです。
打算的な人間しかゐない状況下で普通に育つと、どうして他人への共感力を持つ人間が出來上がるのでせう。理窟にも何にもなつてゐない、ただの樂觀的な希望でしかありません。
しかし、勝手に育つのならば、わざわざ言出す事もないのでして、それを一々口にするのは、現實にはその状態が出來てゐない事が高橋氏は解つてゐるからです。即ち、高橋氏は「普通に育つと人が他人への共感力を持つ」状態の出現を希望してゐるのです。ならば、「べき」は、明示されてゐないが、暗示されてゐる、と言つて良いでせう。
「そんなこと言ってない」と言張つても、文脈で「言ひたい事」は解るのです。
と言ふか。
(他人の苦痛への共感能力を)持たない人間もたまにいるし、そういう例外者のうちさらに一部の人間は理解しがたい犯罪を起こすこともある。/そして、そういう奴に道徳が何か有効であるとは期待できないと俺は思う。/殺人の禁止に関して、道徳に他人への共感能力以上の効果はないんじゃないかな。
これ、話がループしてゐるのですが、高橋氏、判つてゐるんでせうかねえ。
打算だけで生きてる奴なんかあんまりいないし、共感だけで生きてる奴もあんまりいないでしょう。
高橋氏は「打算的な奴が稀に人への共感を見せる」感動的な場面を想像してゐるのでせう。非常に「文学的」です。惡い意味で。そんなの、滅多にないから感動的なだけです。
打算的に生きてゐる人間は他人に共感を示し易い、と云ふ統計の結果は出てゐませんし、常識的に判斷しただけで、高橋氏の言つてゐる事は御都合主義的だと解る、と言つておけば十分でせう。高橋氏、本氣であんな言ひ方が例證になると、思つてゐるのでせうか。
高橋氏、この種の「逆説」に頼る、惡い意味での「文学的」な態度は改めた方がよろしい。
誰にも分からない電波次元にいってらっしゃい。
「次元」の語の意味をすり替へてゐるが、高橋氏は、自分では面白い事を言つた積りなのでせう。ところで、誰にもわからない事を私は言つてゐますか。高橋氏がわからないだけではないですか。高橋氏は、自分一人の感想を、他人に押附けてゐませんか。それが「言論の自由」ですか。素晴らしいですね。
平成十六年三月十六日
2004/03/16 (火)で高橋氏、gooの辭書を引いてゐるんですよ。馬鹿ですね。この人、文脈に沿つて理解しろ、と言はれたのが、まだわからないのです。高橋氏がこれほど「頭が良い」とは思つてゐませんでした。
平成十六年三月十六日
誤讀とか偏見とかを前提に非難されても、と云ふ事。
平成十六年三月十六日
何と言ふか……疲れたよ。喉が痛いし。
平成十六年三月十六日
http://www.page.sannet.ne.jp/hirasho/diary/diary0403.html#16p2
平成十六年三月十六日
今日は八木書店で『日本を知る小事典2 ことばと表現』(教養文庫1002)と安本美典『日本語はどのようにつくられたか』を買ひました。
平成十六年三月十六日
ぽかぽか夢工房
平成十六年三月十六日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040316#p1
ある歴史家がどのような歴史哲学を持っているかということと、その歴史家の研究が正しいものかどうか、あるいは歴史学的に重要なものであるかどうかということは別です。
いや。野嵜がどのやうな歴史哲学を持ってゐるかといふことと、野嵜の研究が正しいものかどうか、あるいは歴史学的に重要なものであるかどうか、を區別してゐない人がそんな事を言ふ資格があるのかと。
何が「読み取れるもの」で、何が「読み取れないもの」なのかというその許容範囲が文学と歴史学では異なっているわけで、それを混同するべきではありません。
異なっているわけで、つて、具體的に、どう異なっているのか説明していただければと。
實際には、兩者とも、許容範圍は同じです。單に、置かれる重點が違ふに過ぎない。
あなたは以前「日本人キリスト教徒」はキリスト教を完全に理解することができないということを述べました。単なる知識の問題ならば、このような結論にはならないはずですが。
私は以前、日本人はキリスト教を完全に理解する事が出來ない、とは申しましたが、北守將軍の言ふやうな言ひ方をした事はありません。助詞の使ひ方にも気をつけて、文章を讀まなければいけません。
そういう視点を持つことはかまわないと思いますが、実際に個別的な歴史的現象、まあ歴史的現象という言い方に特別な含意がこめられているように見えるかもしれないので、単に個別的な事象と言い換えてもいいですが、それを分析する際に、その「西欧の云々」を自明なものとして議論するのは単なる先入観に他なりません。
高橋氏と同樣、北守將軍にも人の意見に勝手に自分の解釋を滑り込ませる癖があります。意識が足らないからです。
「西欧人」や「日本人」は相対的な区別に過ぎませんから、そのような区別をするときには、その議論においては区別をすることが妥当であるというという論証をまずしなければなりません。
西歐と日本との精神に關して對比的に述べると云ふ文脈において、キリスト教だとか神道だとかいつた信仰に關する視點が出て來るのは當然の話だと思ひますが。
平成十六年三月十六日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040316#p2
北守將軍が何を問題にしてゐるのか、全然わからない。
これは明らかにそれ以上のことを言っていますが、と言はれても、何が明らかなのでせうか。これつて何ですか。それつて何ですか。兩者がどのやうに矛盾してゐる、と云ふのですか。あなたの言葉で説明して下さい。
平成十六年三月十六日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040316#p3
なんでこういうこと平気で言うことができるのか、それが知りたいよ。
なんで北守將軍、理由・根據があつて言つてゐる、ただ、理由と根據を(北守將軍が書かないやうに)書いてゐないだけだ、と云ふ事に氣附かないのだらう。と言ふか、ここでなんでと書いてゐる北守將軍が知りたいのは、言うことができる野嵜の心理的な理由であつて、「西歐人がキリスト教的な物事を峻別する態度を身につけてゐる」と野嵜が言ふ歴史學的・文化史學的(その他)な根據・理由ではない。これは、北守將軍が私の人格を非難してゐる事を示してゐるのであつて、私の學問的な態度を批判してゐるのではない事を示してゐる。即ち、北守將軍は、私の人格を否定するのが目的で、學問的な論爭をしてゐるのではない。北守將軍は、自分の信ずる「歴史学」の立場だけから判斷して、既に學問的には自分(北守)が勝つてゐると確信してゐるから、野嵜の言ふ事は全て間違つてゐるに決つてゐると考へ、野嵜はアプリオリに馬鹿である、と考へてゐる。だが、馬鹿は北守將軍自身である。
お前ドイツ人のエリートとか知識人と実際に会って話したことあんのかよ。
何で実際に会って話したことが出て來るのかな笑。北守將軍は、過去の歴史的な人物に実際に会って話して歴史を知つたのかな。
その人間に「物事を峻別する力」があったとして、その力がキリスト教からきているなんてどうしてわかるんだよ。
その考へでは、歴史の事は何一つ、わからないよ。
と言ふか、ヤスパースがニーチェの文章を分析した話、前にしましたよね? わかるんだよ、適切な文献批判の方法を用ゐれば。
と言ふか、「會つて話してわかる事」もあれば、「會つて話して解つた人間像から推測される相手の言葉の意味」もある、と云ふ、人間を理解する上で必ず生ずるディレンマを、北守將軍は全然理解してゐない。
これも幼稚な「比較文化」論だなあ。「中国人」と「日本人」を比べたって「日本人」のほうが主張しないと思うぜ。
幼稚は惡口。「中国人」と「日本人」の比較は、それで何が問題なの? それが事實でせう? 支那人は歴史的に日本人よりも「或種の主張が強い」事は事實。それだけの話だ。また、「中国人」と「日本人」とを比較しても、西歐人と日本人との比較の是非とは何の關係もない。
イタリアやスペインの人間がディベートが得意だという話は寡聞にして聞かん。
なんでイタリアやスペインが出て來るかな。ピレネーの西側はヨーロッパではない、なんて説もあるくらゐで、スペインは西歐の文化圈の代表ではない。(等と言ふと、糞眞面目に北守將軍は反應するのだらうが、スペインにセルバンテスがゐてオルテガがゐた事も私は知つてゐる)イタリアは、近世以降、西歐の中では後進地域の側に入つてゐる。西歐の文明の中心地と言つたら、矢張り産業革命の起つたイギリスだらう。イギリスの地位はアメリカが引繼いでゐる。フランスでは革命が起きて王制が倒れ、ドイツでは革命で帝政が崩れなかつた。段々、東に行くと後進地域になつて來る。同じドイツの中の東西の地域ですら、近世まで、樣々な格差があつた事は、林氏の初期の論文を讀めばわかる。同じヨーロッパでも、その中には地域毎に差異がある。それは十分承知してゐる。そして、さう云ふ地域性の違ひが、役割分擔を行つた事も知つてゐる。自由主義や民主主義は、先進地域であつたイギリスでは現實のものとして、後進地域であつたドイツでは觀念として、發達した。しかし、少くとも、自由主義・民主主義と言つた觀念が、ヨーロッパでは近世以來、何らかの形で意識され、身近で實踐されてゐた、と云ふ事は、認めて良い事實である筈だ。西歐において、近代的な觀念は、單なる觀念ではなく、傳統として根附いてゐた、と言ふのは、その意味で、だ。
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040316#p4
結局最後は罵倒になった。
最後だけでは無いと思ふ。と言ふか、罵倒以外に大した内容がない。
平成十六年三月十六日
北守將軍は、「お前の哲學は理解出來るが、お前の態度が氣に入らない」と言ひたいのかな。
平成十六年三月十六日
そろそろ過去帖送りかな。
論爭にかかりきりで、みなさまおまちかねのろりこん小説にとりかかれない。讀みたい人は、高橋氏と北守將軍を默らせる事。
ロリコン小説と言つても、野嵜の書くものだから、エロゲのシナリオみたいなものになる訣がありませんが。「アンティゴネ萌え」とか言つてゐる人間の書くものに背徳的なものを期待しては駄目。

平成十六年三月十五日
今夜は早寢しようと思つてゐたのですが、本の山の中から真柴ひろみ『Kissの奇跡』なんぞをうつかり發掘してしまつて、仕方がないからRDの録畫データをDVD-RAMに移しながら思はず讀み耽つてしまつたり。何やつてゐるんだ俺。
全盛期の真柴ひろみそのままですよ。ええと、昔々、真柴ひろみが『硝子白書』『てぃーんず』『瞳いっぱいの涙』と云ふ特に優れた作品を連發した時期があつて、その「三部作」の後は「今一つ」な感じの作品が續いてゐたのです。(その三作に比べれば、の話)
でも、俺は十年待つた。待つただけの事はあつた。
隙のない設定。完璧なストーリー。そして二十年近く前の舊作のモチフ。真柴ひろみは真柴ひろみだ。全然變つてゐない。否、變つてゐるんですが、變つてゐない處は全く變つてゐない。それが良い。素晴らしい。
で、なんか今月、新刊が出てゐるんですねー。明日買つて來よう。
平成十六年三月十五日
『Kissの奇跡』は、大人しい印象の作品で、マニアの間で話題にならない。しかし、真柴ひろみは本作で、良く考へると非常に過激な事を言つてゐる。
昨今、醫療過誤が屡々報道される。しかし、「醫療過誤だからと言つて、明るみに出されればそれで良いのか」と真柴ひろみは疑問を投げかける。醫療過誤は、「あつてはならない」と云ふ事になつてゐる。しかし、醫療過誤を隠蔽した醫師は例外なしに惡人か。さうとは言切れない。本作で真柴ひろみは、醫療過誤はあつてはならないとする社會正義と、遺族の爲に醫療過誤を匿さうとする醫師の患者に對する善意との相克を採上げてゐる。
例によつて、真柴ひろみは複數のテーマを同時に平行して作品に盛込んでゐる。そして、きつちり大團圓に持込んでゐる。
平成十六年三月十五日
で、今月の新刊『昭和モダンガール』を買つて來たのですが、真柴ひろみがなぜか好んで描くタイムスリップもの。讀む前から不安。
平成十六年三月十五日
國家なり民族なり文化なりの「アイデンティティ」を定義する事は「危險だから許さない」と云ふ主張は、明かにイデオロギーに基いた政治的な主張であり、歴史學の學問的主張ではあり得ない。
即ち、國家主義・國粹主義に對する警戒が其處にはある。そして、何にとつて「危險」なのか、と云ふ疑問が茲では呈されて良い。その囘答は、國家主義・國粹主義に政治的に敵對する勢力にとつて、である筈である。
平成十六年三月十五日
歴史學において、過去の歴史を調べる時、常に記述された文獻に基いて、過去を探らうとする。この時、文獻に書かれた事は全て、記述者の主觀を通つてゐる。その爲、事實と記述とには、或種のずれが必然的に生ずる。即ち、記述者の主觀に據つて生じたずれである。このずれを解除して、事實を探る事が歴史家の仕事である。歴史家は、記述者の主觀を分析しなければならない。この主觀は、當然の事ながら、記述者の生きた時代に制約を受ける。ここで歴史家は、最初のディレンマに陷る。次いで、ずれを見極めて、見出した事實を、再び歴史家は記述しなければならない。この時、歴史家は主觀に基いて事實を再構成しなければならない。歴史の記述が表現である以上、事實を事實のまゝ示す事は不可能である。歴史學とは、事實を事實のまゝ示す事ではなく、事實と事實の因果關係を記述し、説明する事である。既存の文獻の分析が分析ではあり得ないのと同樣、新規の文獻の記述は純客觀的な記述ではあり得ない。此處に歴史家は二番目のディレンマに陷る。
歴史家に要請される事は、文獻の分析を單なる分析と混同しない事、文獻の記述を有りの侭の事實の提示と混同しない事である。ディレンマから逃げるな、と云ふ事だ。
ただ、公正な態度をとる努力が必要であるだけである。
河合榮治郎編『學生と歴史』所收の林健太郎「西洋の歴史家」で林氏がかう述べてゐる。我々が一人の歴史家を論ずる場合、我々はその歴史家がいかなる環境にあつて、いかなる生活を行ひつつ彼の歴史を書いたかと言ふ事を知る事なしには彼について語る事は出來ない。之を要するに歴史家もまた歴史の所産であつて、それの認識はただ歴史的立場からのみ可能である。かくしてマキァベリを知る爲にはルネサンスのイタリーを、ヴォルテールを知る爲には十八世紀のフランスを、ニーブール、ランケを知る爲には十九世紀のドイツを知る事が不可缺の條件となるのである。
その一方で、歴史は歴史家によつて媒介されて始めて歴史であり得る。
歴史が歴史家をつくり、同時に歴史家が歴史をつくると云ふ事は、その限りに於ては單なる自己矛盾である。
ただ、人は、意識的に生きる時、初めて自己を反省し、自己の據つて來たるものを振返る。その時、歴史家が「歴史」を示し、人の要求に應へる。歴史家は、社會的な役割を持つ。それは、政治家なり何なりの持つ役割と同じである。政治家が、私利私欲で以つて、或は少數者の幸福のみを圖る事が許されないのと同樣、歴史家も亦自己に與へられた歴史的知識を自己の私有財産として神秘化し、或ひはそれを濫用して人々の眞の要求と異つた目的に奉仕せしめるのならば、彼は誤つた歴史家と呼ばれなければならぬ。
政治家が行ふ政治に責任を持たねばならないのと同樣、歴史家が歴史をが扱ふ際にも責任を持たなければならない。政治家には公正な態度が要求される。歴史家にも公正な態度が要求される。
平成十六年三月十五日
左翼の人逹が屡々「私達は偏向していません。純粋に歴史学的に歴史を検証しているのです。私達を非難している人達は、歴史を物語化して歪曲している歴史修正主義者なのです。」などと客觀的を裝ふけれども、客觀的な歴史の記述と云ふ事はあり得ない、と云ふ話。何かを列擧するだけでも、順番を決める時點で主觀は入つてゐるものだよ。
平成十六年三月十五日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040314#p1
何で日本語の文章を讀めないのか解つたやうな氣がする、とか嫌みを言ふのはほどほどにしておいて。
ドイツ人はもちろんそのほとんどがキリスト教徒のわけでけれど、経験的に言って「キリスト教徒の教義は〜である。」「ゆえにキリスト教徒は〜と考える。」という論法で割り切れるものはひとつもありませんね。
この人、私の言つてゐる事を誤解してゐますね。私はキリスト教の教義に基く歴史解釋、なんて話をしてゐません。教義ではなく、思考方法の話をしてゐるのですから。
それが「児ポ法」そのほかの議論とどうつながってくるのかがよくわからない。
勝手につなげてゐるのは自分自身である、と云ふ事に、北守は氣附いてゐないやうです。
同じだなあと思うこともあれば、違うなあと思うこともある。
それでゐて、何でもかんでも同じ、と言張つてゐるのだから、北守は救ひやうがありません。違ふ事は違ふと言はなければならない、と云ふのは、馬鹿でも解る事でせう。
まあ、私と北守とでは同じ日本語を喋つてゐて、でも、本質的な部分で對立してゐますよね。それでゐて、北守は、これは本質的だ、これは本質的でないという区別をつけることに意義はあるんでしょうかね、なんてとぼけて見せてゐるのです。明かに、北守の態度はパフォーマンスです。理窟だけなのです。
人間を無理やりあるイ型に押し込んで、それが実際の、あるいは正しい人間のあり方なのだとする議論を、恰も私がしてゐるかのやうに北守は言つてゐます。しかし、私はただ、同じだなあと思うこともあれば、違うなあと思うこともある。その違うなあと思う部分を理解するには何うしたら良いか、を論じてゐるのです。そして、ドイツに住んでゐたせゐか何うか知りませんが、それで北守がドイツ人の精神を理解してしまつてゐるとしても、まあ、單に感覺が麻痺してゐるだけなのでせう、キリスト教的な物事を峻別する態度、と云ふものは、西歐人の、特に意識して自分の態度を決めてゐるやうな連中――知識人とかエリートとかですね。――が皆、身につけてゐるものです。そして世の中は往々にして、さう云ふ人々――政治家とか――を中心にまはつてゐるものです。西歐を中心にまはつてゐる現代社會で、歐米諸國の歴史を作つてゐる人々の言動を理解するには、彼等がどのやうな態度を意識してとつてゐるか、を理解する必要がありますし、その態度は今述べた通りです。そして、その手のエリートと、一般大衆とで、胃式に違ひがあつても、一向に構はないのです。否、實際には、文化を共有してゐる人々の間に、意識のレヴェルでの相對的な差異はあつても、習慣は一貫して存在するのです。「自己主張の強さ」と云ふ點で、日本人の平均と西歐人の平均を比べて見れば、西歐の連中の方が餘程強く自己を主張するでせう。或は、ディベートの巧拙は、彼我で大きな違ひがあります。こんな事にまで、具體的なデータを示す必要があるとは思はれません。
それ以来、ある集団とある集団を宗教や文化などによってわけることで「本質的」な違いを見出してしまっている人、つまり、何を比較するにしても、その差異は「本質的な」差異に還元してしまう人を見ると、なんというかウロコならぬ「憑き物」につかれているなあと思ってしまうのよ。
なんと言ふか、自分の好みに適合したアナール派に、進んで入信した、と言つた雰圍氣がぷんぷん。
歴史学はどんな価値観も正当化しないけど、ある価値観の裏にある「憑き物」を落とすことはできる。
この人、自分が或種の「憑き物」を落とすことには成功したみたいですが、同時に別の「憑き物」に憑かれてしまつた事には氣附いてゐないやうです。新興宗教の信者に良くゐますよね、自分は最うすつかり悟つてしまつたのだと思つてゐる人が。
平成十六年三月十五日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040314#p2
意味がわからない。というか、僕はホブズボームが「マルクス主義者」であることは認めております。
その人がどんな立場か、を認めて、それで「歴史学的な検証」が濟んだ事になるのでせうか。
そもそも「暦歴史論」がどういう本であるかを考えれば、ホブズボームがイブン・ハルドゥーンの「革命」というキーワードをどう読もうと、それこそ「文学」のレベルなんで別にー?っていう感じ。
ホブズボームがどう云ふ思想家であるか、を考へなければ、歴史論」がどういう本であるかを考える事は不可能です。そこがこの人には解つてゐません。
そもそも僕はホブズボームの歴史哲学自体はそんなに支持してないし。
で、こんな落ちですか。あなたは、自分の支持してゐないものを他人に讀ませて何うする氣でしたか。
いやはや、相手に無駄骨を折らせて、嘲笑する、と云ふ戰術を使ふ人が、或種の思想を持つた人々には多いですね。
と言ふか、無責任です。
平成十六年三月十五日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040314#p3
たとえば自由主義を論じるうえでミルというのは欠かせない人物だと思うけども、彼の思想の中にキリスト教的観念がもしあったとして、それを理解するのは宗教学の知識と、論理的な分析能力でしょう。
さう言つてゐるんですが?
19世紀当時なら兎も角、現在の西欧のミル研究者にその2つがなくても自然にミルの思想のキリスト教的観念を読み取ることができるのだ、と主張するならば、やはり現在の西欧人が(あなたの解釈するような)キリスト教精神を完全に身につけているということを証明する必要がある。
北守が、自分勝手に設定した假定を元に、私を裁斷してゐる事は、明かですね。
なんと言ふか、還元主義を非難する癖に、北守は自分自身が還元主義に陷つてゐるやうです。北守は、私野嵜を或種の人々の一員に「還元」してゐますからね。
もちろん、キリスト教徒で、その教義をマスターしている人はいると思うし、そういう人は感覚的にすぐわかるかもしれない。
教義の事を言つてゐるのではないのです。
歴史学者はキリスト教の知識を持っておくべきだ。というのはそのとおりだと思う。やはりほとんどの西欧の研究者に比べほとんどの日本の研究者はキリスト教に触れる機会が少ないわけだし。それはゼミでも教えられた。ただ、歴史学者は歴史にキリスト教の含意を読み取るべきだというのは話が別だろう。
あのねえ。何處の誰が、歴史学者は歴史にキリスト教の含意を読み取るべきだ、なんて言つたよ。俺は、歴史学者はキリスト教の知識を持っておくべきだ、と言つてゐるだけだよ。
北守は、私の文章を歴史學的に讀めてゐないんだよ。私を馬鹿にする目的で、北守は自分の否定する「還元主義」的な戰術を、好んで採つてゐるんだよ。反省しろ。馬鹿。
平成十六年三月十五日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040314#p4
それが本当に歴史的物の見方かどうかの論証なしの歴史的な物の見方というのには何の意味があるんでしょうかね。
意味が解らない。
あんただつて、ほとんどの西欧の研究者に比べほとんどの日本の研究者はキリスト教に触れる機会が少ないわけだし歴史学者はキリスト教の知識を持っておくべきだ。ゼミでも教えられたんだらう? それとも北守は、そんなゼミでの説明を、歴史學的な立場から批判して、既に指導教授なり誰なりをやつつけてしまつてゐる、とでも言ひたいのですか?
あなたはそもそも歴史学的な議論と文学的な議論の区別がついていない
あなたはそもそも歴史學的な議論と文學的な議論を區別してしまつてゐる。
北守は「文學的な議論」と云ふ事を、高橋氏と同樣に、變な意味で理解してしまつてゐるのだらう。それも、間違つた理解。「文學的な讀み」は、「讀取れるものを讀取り、讀取れないものを讀取らない」と云ふ、ごく當り前の「讀み」だ。北守は、「自分の好きな物語を賦與する」事が「文學的な讀み」だと思ひ込んでゐる。それは北守が、文學をやつてゐないから、偏見で見てゐるに過ぎない。
平成十六年三月十五日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040314#p5
キリスト教の教義を現實に適應する問題の檢討を、俺がしたがつてゐると思つてゐるのだらうか。
「公教育 カトリック フランス政府」でぐぐつたら、「日本人の知らない〈政教分離〉の多様性――宗教との向き合い方は永遠の課題」、『論座』(朝日新聞社)2001年10月号なんて記事がひつかかつた。
俺はただ、キリスト教と云ふ宗教の意識が西歐の歴史を作つて來た主體である西歐人に「あつた」事を意識して、日本人は西歐人の歴史を理解しようとすべきである――日本人の尺度だけに據つて一方的に計測するのでなく、西歐人にも西歐人なりの尺度があつた(ある)のだと云ふ事を意識して、日本人は西歐人の言動を、自分以外の獨立した存在である他者として、理解しようとしなければならない、と言つてゐるだけだ。
彼女さんであつても、相手が自分と完全に價値觀が一體となつてゐる訣ではない事は意識しなければならない。相手が自分と異る價値觀を持つてゐる事は、推測出來るし、そのやうに考へて相手を扱はなければならない。相手も自分も同じ人間だ、だからお前は俺の言ふ事を默つて聞け、等とやつたら喧嘩になるし、それで相手が納得してしまつたら、相手は人間ではない。彼我の相違は、ちやんと辨へるべきである。相手を自分と對等の、自分とは別の存在と認める事は、必要だからである。と言つて、エドガー・アラン・ポオをD・H・ロレンスは非難した。俺はロレンスに賛成である。
平成十六年三月十五日
http://www.memorize.ne.jp/diary/57/36889/
2004/03/14 (日)の項。
表現規制反対論に対して宗教道徳に基づく批判をするから反論されるんですよ。
そんな批判はしてゐない。高橋氏の誤讀。或は、勝手讀み。
どうして「なくしてはならない」のか説明していただけませんか?
どうして「なくさなければならない」のか以下略。「殺人禁止」も、高橋氏は全面的に否定してゐるのでせう。全ての人が全ての他人を殺さなければならない必然的な理由を高橋氏は説明する義務があります。
俺は遵法主義者ですし、人権を大事に思ってますから、法や他人の権利に抵触するような欲望は我慢しなければならないことはあると思いますよ。/それ以外の抑圧なんかないほうがいい。
あれれ。急に腰碎けですね。もちろん、腰碎けと言つて演出してゐるのは私ですが。
と言ふか、高橋氏は、人權を守る徳目は「あつて良い」と考へてゐるのでせう。私だつて同じですよ。
聖書の一句だけ引いてことたれりという態度は、宗教的でしかないでしょうが。
はあ? では、「○○を嫁」も「宗教的」と呼んで良い事になりますね。
俺ひとりを知れば表現規制反対者すべてについて分かるわけですか?
高橋氏、日本語の文章を讀めないのですね。私は屡々と書きました。屡々すべてとは違ひます。もつと嚴密に文章を讀む訓練を、高橋氏はしなければなりません。馬鹿を相手に文章を書く積りはありませんからね。
えっ、戦争については道徳的な批判はやってはいけないの?
「えっ、戦争については道徳的な批判をやって良いの?」つて感じですが。
しかも、次の文章に話が續いてゐるのに、さう云ふ文脈を斷切つて、高橋氏は「つつこみ」を入れますね。高橋氏の惡い癖です。そして、その次の文章で述べた私の説明に、高橋氏は別にそれならそれでいいと思うけど、と言つて同意します。同意するのならば、一々つつこみを入れる必要はないのですが、高橋氏は何でもかんでもつつこみを入れたいやうです。
宮台は社会学者だよ。社会システム論の固い論文書いてるし。
さう云ふ方面の著書を、あなたは「嫁」と言つたのですか?
上野千鶴子も社会学者。フェミニズムは社会科学の一潮流だよ。
マルクシズムも社会科学の一潮流ですが、宗教としての側面も持つてゐますね。フェミニズムも同じです。
福田恆存氏や松原正氏は何か社会学で功績あげてるの?
擧げてゐる訣がないではないですか。文學者ですから。そして、今の文脈では、社會科學の話をしてゐるのですから、文學者が社会学で功績あげてるか何うかを訊くのは、ナンセンスです。そして、さう云ふナンセンスな質問を高橋氏は、わざとしてゐます。惡質です。ただの罵倒だからです。
同日のコメント欄から。nordenwind氏(日時:2004/03/14 23:39)
なんか今回の野崎さんはスマートじゃない感じ……取ってつけたように『徳目』(フィールディング読んでるとか言ってたからその影響かな)なんて物を出したり云々。
「徳目」と「道徳」との區別は、もう何年も繰返し述べてゐるのですが。徳目は、過剰な言い方をすれば上から下への封建的な抑圧で、とnordenwind氏は定義してゐますが、さう云ふ「社會科學用語」的な特殊な意味で私は「徳目」と言つてゐません。なんと言ふか、文脈で用語のその文章での意味を決定する、と云ふ「文学的な読み」に慣れてゐない人が、やたらと多いですね。『表現規制反対者が、「言論の自由」を否定する方向に動いてゐる事は明かである。』なんて意見はナンセンスです、野崎さんの物言が赦されるなら、それこそ野崎さんの言った事は『言論の自由』を否定しています。とか言つてゐますけれども、典型的ですね、言論の自由を守る爲には言論の自由を否定する言論を否定して構はないんださうです。それは單に戰術のレヴェルの意見でしかありません。言論の自由を否定する言論も、言論ですから、彈壓してはならないに決つてゐます。その種の言論に對しては、別の言論で反論する事しか許されません。「言論の自由」を認める社會では、言論に據る説得のみが許される、と云ふ事が、nordenwind氏には分かつてゐないやうです。一往、高橋氏は、あー、前から彼は「徳目」って言ってましたから、今急に言い出したわけではないかと。と述べてゐます。(日時:2004/03/15 00:50)しかし、道徳と徳目という分節にはあまり興味が無いのでと言つてしまつてゐます。高橋氏は、解つてゐないのです。高橋氏、n氏の質問に、殺人行為を奨励する積もりはありませんが、殺人を防ぐためになら自由を否定してでもある特定の道徳を押し付けても良い、とも思いません。と答へてゐます。そして、他人の苦痛への共感能力と現代社会における最低限の損得勘定が効けば、人はそうそう人を殺そうとは思わないはず。と述べてゐます。ここで高橋氏が述べてゐるのが、やはり、ある特定の道徳である事は、火を見るよりも明かですが、なぜか高橋氏は氣附いてゐません。本當に不思議なのですが、高橋氏は他人の苦痛への共感能力持つべきだと云ふ命令が、一種の徳目である、と云ふ事に、氣附いてゐないのです。もちろん、高橋氏は、現代社会における最低限の損得勘定と云ふ非道徳的で非人間的な打算を持出してゐるから、自分は道徳的な話をしてゐない積りなのでせうが、高橋氏は價値觀の話をしてゐるのです。粗の邊の自覺が、高橋氏には足りません。
ちなみに、現代社会における最低限の損得勘定なんてものが大して役に立たない事は、あちこちで指摘されてゐる筈ですが。そこで高橋氏は、都合良く「共感」なんてものを組合せようとしてゐるのですが、打算的感情と、共感とが、一人の人間の中で共存する、と考へるのは、餘りにも人間の心理を知らないとしか評しやうがありません。これで、人が感銘を受けるシナリオを書けるのだとしたら、それはそれで大した才能です。
2004/03/15 (月)の項。
俺が言っているのは、表現規制法案反対を批判するというのは、それ自体政治的な発言だ、ということです。
次元が違ふんだよ。の一言で終はり。
平成十六年三月十五日
例年のやうに、またそろそろ忙しくなつて「戰時下」状態になるので(ゴールデンウイーク直前締切。多分)、何時までも、「自分の誤讀を根據に他人を罵る人」を相手にしたくないんですがー。
平成十六年三月十五日
物質と記憶
かう云ふのだつて文學的な讀みだ。
平成十六年三月十五日
めも。ぐぐつてゐて見附けた。増刊第2号 読書の虎
微妙に面白かつた。
書評マガジン■■読書猿Reading Monkey■■のこんてんつ。と言ふか、バックナンバー。
と言ふか、面白かつたら、面白かつた、で良いんだよ。なぜ意味を求める、高橋氏。自分は意味を説明しないで教條的な説明をする癖に。
平成十六年三月十五日
のあ
ブッシュ型配信サービス、つてどうかな?
あやの
どうかな、つて言はれても。プッシュ型配信サービス?
のあ
のんのん、ブッシュ型。
あやの
……危險な響きがするな。
平成十六年三月十五日
「人のもの盜つちやいけません。天罰、天罰。」と云ふ徳目と、ラスコーリニコフが金貸しの老婆から金を盜むべきか盜まざるべきかで惱む、と云ふ道徳的な問題とは、區別出來るだらう。そこを區別しないから、高橋氏の話が教條的になるのも必然。
『罪と罰』の物語と絡めて本格的に論ずるには、今の例は正しい引用になつてゐないけれども、今言ひたいのは、個人に命令する徳目と、命令と自己の欲望との間で個人が道徳的に煩悶する事とは區別出來る、と云ふ話だから。
平成十六年三月十五日
以前のメインPCのMy Documentsのデータを發掘してゐたら、未公開の小説(書きかけ)が幾つか出て來た。どうしよう。

平成十六年三月十四日
NaokiTakahashiの日記その2の2004-03-13の項より。
感情的かどうかはともかく、宗教道徳の話を表現規制論で持ち出すのはバカだと思ってますけどね。近代的ではないし、理性的でもないな。
「宗教道徳」の話ではないと言つたのに、何うしてこの人は日本語の文章を讀めないのだらう。
無駄な抑圧はないほうがいいと思いますよ。
無駄か無駄でないかを高橋氏は勝手に決めてゐる。
と言ふか、ここで高橋氏は、「野嵜の宗教道徳の話」を、「表現規制論」と云ふ政治の立場から否定してゐる。これこそ、高橋氏が自分で否定した理性と信仰との混同をやらかしてゐる證據である。
俺が言っていることが抑圧的かどうかとは関係なくない?
高橋氏の言つてゐる「抑圧的」は、政治的な「抑圧」か、道徳的な「抑圧」か。
もし政治的な「抑圧」なら、野嵜の「道徳的な抑圧」を否定する事は、高橋氏自身の定義に據り、不可能である。もし道徳的な「抑圧」なら、高橋氏自身が政治的「抑圧」の話と考へてゐる「表現規制論」の「文脈」で出現するのは、高橋氏自身の定義に據り、自己矛盾であると言へる。
存在を認めると言うだけなら、俺だって認めるけど。なくしたほうがいいねというだけで。
高橋氏は、「なくしてはならないもの」まで、「抑圧」だからと云ふ理由で、一概になくさうとしてゐる。此は餘りにも亂暴な意見である。
貴方は抑圧的な徳目なり道徳なりを肯定し是認し推奨するわけだろう?
徳目は本質的に抑壓的だ、と言つてゐる。何度繰返し言はせれば解るのか。「○○してはならない」と云ふのが、徳目である。この「してはならない」と云ふのは、欲望を抑壓する命令である。高橋氏は、全ての抑壓はなくさなければならない――即ち、全ての欲望を解放せよと主張してゐる。
表現規制反対者を批判するのに、言うに事欠いて「汝姦淫することなかれ」だ。人の心の中まで縛ろうとする見事な抑圧だな。
「『汝姦淫する勿れ』とキリストが命じたから、表現規制反対者はその命令に從はなければならない」と野嵜が言つてゐるかのやうに高橋氏は解釋して見せてゐるが、誰が何う見ても私がそんな事を主張してゐないのは明かである。高橋氏は、デマを流さうと言ふのなら、もつと増しな嘘を吐くが良い。しかし、これで一つ、はつきりする事がある。表現規制反対者は、屡々嘘を吐いて、敵の印象を歪め、周圍の人間をして、誤つた印象を元に「敵」に反對するやう仕向ける、と云ふ事である。表現規制反対者が、「言論の自由」を否定する方向に動いてゐる事は明かである。
死刑とか戦争とか安楽死とか尊厳死とかを考えると、人を殺してはならない、というルールも状況に応じて変化する相対的なものだろう。
さて、高橋氏は今、死刑とか戦争とか安楽死とか尊厳死とかと述べた。ここで重要なのは、死刑とか戦争とかと、安楽死とか尊厳死とかの話は、次元が異る、と云ふ事である。前者は政治の次元に屬し、後者は道徳の次元に屬する。政治の次元で、殺人の禁止は相對的な命令である。しかし、道徳の次元で、殺人の禁止は絶對的な命令である。そして、絶對的な命令であるがゆゑに、安樂死や尊嚴死は道徳的な論爭のテーマとなり得るし、容易に結論が出ない。一方、死刑や戰爭における殺人は、政治的な論爭のテーマとなり、現實に「可能な殺人」として受容れられ、汎く實施されてゐる。
しかし今、高橋氏がその邊の事を考へた形跡はない。寧ろ、高橋氏はその場の言逃れとして、「殺人の禁止の命令は相對的である」と、「相對主義者」の常套句を出したに過ぎない。そして、常套句だから、機械的な文句であり、論理的な檢討は全くなされてゐない。だから、この言逃れがナンセンスな反論でしかない事は自明である。高橋氏は、「全ての抑壓的な徳目は排除されなければならない」と述べた。殺人の禁止は、人を殺したいと云ふ欲望の抑壓を目的としたものであり、抑壓的な徳目である。よつて高橋氏は、全ての殺人の禁止を排除したいと思つてゐる。さう私は指摘してゐる。それに對して、「或種の殺人の禁止は排除されてゐる」と答へても、意味がない事は、論理的に明かである。
哲学史の本や社会科学の解説書を思想書と呼ばれても困るんだがなあ。
フェミニズムや宮台を哲學史とか社會科學とか言はれても困るんだがなー。
平成十六年三月十四日
法律は最低の道徳(此所は徳目の意)であり、法律の改定によつて「政治的な抑壓」を排除しようとしても、「道徳的な抑壓」は排除出來ない。
高橋氏は、しかしながら、「政治的な抑壓」を排除しようとしてゐるばかりでなく、「道徳的な抑壓」まで排除しようとしてゐる。兩者は區別すべき事である。しかし、日本人である高橋氏はその邊の事を區別しようとしない。
道徳の絡む處で法の議論なんぞするものではない、と云ふ事なのだが、高橋氏をはじめ、表現規制反対者は皆、その邊の事を完全に誤解してゐる。
法の立場に立籠つてゐるやうに見せかけてゐるが、その實彼等は、道徳の破壞を狙つてゐる。それが私には許せない。
道徳と峻別すべきものとされたはずの法による道徳への侵略を、高橋氏は狙つてゐる。
平成十六年三月十四日
同。2004-03-14の項。
貴方に動機があるかどうか、得があるかどうかと、貴方が政治的であるかどうかには、関係ないのでは?/本気でなんの動機もないのにやってるんだとすれば、狂気とは言わないけど、非理性的な、信仰に近いものを感じますね。
詰り、高橋氏は私の質問に答へたくない、と云ふ事だ。
ここで問題になるのは、貴方が得をするかどうかではなく、貴方以外の人が損をするかどうかなので。
高橋氏は、話を逸らしてゐる。しかし、その逸らし方には一貫性がある。だから高橋氏は、自分の立場が一貫してゐると信じ込んでゐる。しかしそれは、高橋氏が一貫して間違つてゐる、と云ふ事を意味してゐる。
高橋氏はただ、「結果として野嵜の意見は政治的に利用し得るから政治的だ」と言つてゐるに過ぎない。しかし、利用しようと思へば何だつて何にでも利用出來るのである。だから、「結果として政治的に利用できる事」は、「政治的な事」と必然的にイコールである訣ではない。高橋氏の言つてゐる事は、非論理的である。
野嵜さんは、先生に教わった、いわば正統派の右翼の人なんだろけど、
高橋氏は、推測で物を言つてゐる。
世間一般のいわゆるミギな言説に耳を貸す人の中には、国籍やら民族性やら歴史性やらにアイデンティティを求めようとしてる人も多い。以下の批判は、私に對する批判になつてをらず、右翼言説カコイイ! ってついてっちゃう若いオタに對するメッセージになつてゐる。
高橋氏は、突然私から顏を逸らして、世間一般にアピールし始めてゐる。何なのだらう。
何うでも良いけれども、何うして「ミギ」なんて書き方をしますか。小林よしのりが「サヨク」と書く眞似ですか。あなたは馬鹿ですか。
別に俺は共産主義社会を望んでるわけではないもの。貴方が勝手にそう思い込んでいるだけでしょう。
ここで問題になるのは、高橋氏の動機ではなく、高橋氏の主張によつてどんな世界が到來するかなので。云々。
高橋氏、他人の意見に對する態度と、自分の意見に對する態度とが、大違ひですね。かう言ふのを「自分の事は棚に上げ」つて言ふんです。
平成十六年三月十四日
http://www.puni.net/~anyo/diary/200403.html#20040312
ただ、序文の中で、「(本書の論文にある限定つきで)マルクスの『唯物史観』が歴史への抜群にすぐれた指針であると思い続けている」(iv)と述べた直後に、いきなりイブン・ハルドゥーンの言葉を英訳本から引用しているのだけど、そこで「革命と蜂起」という表現が出てくる。この「革命」という単語に、ホブズボームがどのような意味を込めているのか。だいたい、イブン・ハルドゥーンがここで述べる原語不明の「革命」って、ホブズボームがそこに込めている意味とどこまで重なり合うのだろう。それは既に、ホブズボームによる「マルクス主義歴史学」的な解釈によって超歴史的な意味内容を上書きされてしまっているのではないか。
この具體的な指摘に對して。
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040313#p1
実証性のレベルで批判しなければならない筈なのに、北守にはホブズボームの文章を実証性のレベルで批判する氣はないらしい。北守は、教条的な意見を述べてゐるに過ぎない。
その研究が徹底して批判吟味されたものであれば、と北守は述べてゐる。しかし、ホブズボームがイブン・ハルドゥーンの表現に見られる「革命」と云ふ言葉をどのやうな意味で用ゐたのか(解釋したのか)に對する批判・吟味を、北守はしようともしない。そもそも、批判・吟味に先立つて、解釋が既に入り込んでゐる、と云ふ事實を、北守は認めようとしない。ここで言へば、ホブズボームの「研究」には「革命」と云ふイブン・ハルドゥーンの語に對するホブズボームの解釋が既に侵入してゐるのだが、北守にはanyo氏の指摘が理解出來てゐないらしい。
この二人の應答に、「教條的な理論は述べられるが、理論に基いて具體的な事例を批判する能力は缺如してゐる」と云ふ北守の缺點が、端的に示されれてゐる。やうに思はれる。野嵜の具體的なホブズボーム批判を、北守が理解出來なかつた、と云ふ先日の事例もある。
http://www.puni.net/~anyo/diary/200403.html#20040314
そういうことでしたら、理念史や精神史、文化史あるいは比較文化論といった領域にも(当然ながらホブズボームらによるこれらへの批判は確認すべきとしても)、それなりの方法論があることをお認めいただければ幸いです。
もちろん野嵜さんがそれらに依拠しているかどうかとか、依拠具合がどうかとかはまた別問題ですし、と云ふ指摘があつて、それが妥當な判斷だらうと思ひます。
間違ひなく、私のキリスト教に對する理解は不十分であり、不備を指摘する事は十二分に可能です。ただ、キリスト教の理解が西歐の理解・近代の理解には必須である、と云ふ私の主張に、變りはありません。
平成十六年三月十四日
例によつて今朝もプリキュアをリアルタイム鑑賞した訣ですが、世間であれこれ感想が述べられてゐて、それに何かしら追加出來る事柄があれば書かうと思ふものの、特にないので、まあ「面白かつた」と例によつて例の如しといつた當り障りのない無味乾燥な感想を一言述べて話を終はらせようとしたら、「乾燥」と「感想」の駄洒落になつてしまつて我ながらアレ。ちなみにこれ、別に意圖した駄洒落ではありません。ただ、人は自由に振舞つた積りで結局、自己の行爲が運命と一致してゐたと悟つた時、最大の自由の感覺を味はふ、と云ふ、福田恆存氏の指摘は正しいのだなーと。なんだこの文章。
平成十六年三月十四日
http://esu.oresama.org/200403b.html#20040313_s7
單なる非難の文章よりも、擁護の文章の方が、餘程プレッシャーになります。
かう云ふ擁護があつた時、平氣で下手な事を言へる人はまづ、ゐない訣で。
http://kaolu4seasons.hp.infoseek.co.jp/3rd/200403.html#_
野嵜さんは「西歐」という言葉に一切の留保条件を明示的にはつけていないのですから、それが特殊な使われ方をしていると気付くためには闇黒日記をきちんと読み込む必要があります。そうしない読者は誤解してもかまわないと野嵜さんは言っているようなものです。そういう誤解を放置する態度を批判し、留保しろと提言するのが北守の目的なのですから、敢えて辞書義的に読んでみせる事は間違っているとは言えません。
「『闇黒日記』の讀者は野嵜の文章を誤解しがちである」と言ふのならば、「敢へて誤讀して見せる」必要はない、と言へるかと。
實際のところ、常に辞書義的に読める文章はこの世に存在しない。それゆゑ、大學入試にしても何にしても、「この語を筆者はどのやうな意味で使つてゐるか」述べよと云ふ設問がある。
と言ふか、「批判・吟味が必要だ」と主張する北守が、辞書義的に読んでみせるのは、それ自體、自己の主張と矛盾し、間違つた行爲であると言へる。が、もしも「提言」が目的ならば、手段自體が完全に間違つてゐるでせう。と云ふ事。
平成十六年三月十四日
「はじめに言葉(ロゴス)ありき」と云ふ言葉から舊約聖書は始まつてゐて、『ロゴスの名はロゴス』で呉智英氏が話を始めてゐるが、既に「ロゴス」はギリシャ譯の語であつて、ユダヤ教の初期に使はれた語ではない。
キリスト教の新約聖書も、ギリシャで譯が作られてゐる。
中世末になつてギリシャ哲學がアラビア經由で流入した、と云ふのは一つの事實だが、同時にキリスト教の神學では初期の段階から神學的な考究がギリシャ哲學の方法に據つてゐた事が認められてゐる。
それと同時に、キリスト教では或物が神學の議論を超越して認められてゐた。神の啓示である。
神學論爭で、父と子と聖霊の位格がギリシャ哲學の方法に據つて論じられたが、神の啓示だけは大前提として保存された。そして、この神の啓示と稱されるキリスト教の本質的な概念は、ヘブライズムの本質なのだが、現在のキリスト教にも存在してゐる。
平成十六年三月十四日
ナショナリズムを論ずる際には、ヘーゲルとマルクスの理論に言及する必要がある。その際、ヘーゲルが「自由」と云ふ語を特殊な意味で用ゐてゐる事は指摘する必要がある。詳細は以前、河合榮治郎の自由主義についての本を紹介した時の文章を參照の事。ネイションの方面からの檢討とともに、イズムの方面からの考察は不可缺である。
平成十六年三月十四日
めも。
はてなダイアリー - 妹D・V・D( ・ω・)
平成十六年三月十四日
警察Q&Aの「問4 もし、友だちが学校の行き帰りなどに交通事故にあったときは、どうしたらよいのですか?」のところにあるいらすとが妙に萌えるのですが。
平成十六年三月十四日
闇黒日記 ビューア - 最近 1 日抜粋
何これ(´A`)
平成十六年三月十四日
録り置きの女神候補生を觀た。面白かつたけれども話が終つてゐない。

平成十六年三月十三日
すつきりと過去帖送り。
平成十六年三月十三日
La Rue Des Etoilesのリサイクル工場
俺には眞似出來ん。
平成十六年三月十三日
NaokiTakahashiの日記その2
2004-03-13の邊。
その西洋近代的な思考の帰結として、「信仰は自由だから信仰に基づく道徳も個々人が好きなように守ればいいけど、それは権利であり義務ではない。近代自由主義思想がカトリック道徳を押し付けるわけではないだろう」が、言えるわけだ。これは「日本人の適応異常」ゆえの誤謬ではなく、普通に西洋の(ひとつの)正論だ。あくまで西洋近代の成果だ。ありがたく成果だけいただいておけばいいじゃないか。科学にしろ数学にしろ経済学にしろ社会学にしろ法学にしろ日本人はそうやってきたのだから。
だーかーらー。どうしてそれを俺が「日本人の適應異常」と言つてゐるんだよ。徳目の話をしてゐるんぢやないんだよ。何で分からないんだ。
――と書いてきて、高橋氏が根本的な所で勘違ひをしてゐるのに氣附いた。高橋氏は、道徳と徳目とを混同してゐるのだ。
高橋氏は、「道徳的に善い」事と、「良い事を規定する徳目」との區別を知る爲に、『トム・ジョウンズ』を讀んだ方が良い。最初のところだけでも。俺も最初の邊しかまだ讀んでゐないが、解る奴には解る。
高橋氏は、カトリック的な思考法と、カトリックの定める徳目とを、混同してゐる、とも言へる。同じ「カトリック」だからと言つて、何でもごつちやにして考へるのは止めようよ。少し、物事を分かつ、と云ふ事を、高橋氏は學んだ方が良い。
平成十六年三月十三日
ここと矛盾する。と高橋氏は言つてゐるが、矛盾しない。なぜなら、「汝姦通する勿れ」と云ふ徳目と、「汝姦淫する勿れ」と云ふ徳目とに根本的な差異がある事を示す、と云ふ意味での比較を私はしてゐるのであり、カトリックの道徳観を絶對に從ふべきものとして提示してゐる訣ではないからだ。
「汝姦通する勿れ」と云ふ徳目は、目に見える形で罪を冒す事に對する禁止事項である。「汝姦淫する勿れ」と云ふ徳目は、目に見えない形で罪を犯した事に對する禁止事項である。そして、キリストは前者を道徳的でないとして否定し、眞に道徳的な規定として後者を提示した。キリストは、精神的でない事と、精神的な事とを、嚴密に區別した。この種の嚴密な思考が、キリストにはあつた。そして、さう云ふキリストの精神を、初期のキリスト教徒は既に意識してゐた。キリストの傳記である四福音書を今我々が讀める形で書いたのは、初期のキリスト教徒である。
キリスト教徒は、意識して「意識して物事を區別するキリストの精神」を、福音書に記録した。この「意識して物事を區別する」精神は、「西洋近代理性」に影響を與へてゐる。キリスト教の精神は、キリスト教の初期の頃から、理性的だつた。と言ふか、そのような「罪」の観念はもはや理性の範疇ではなく、表現規制論でそんなものを持ち出すのは問題外に愚かだ。と高橋氏は言つてゐるが、「罪の觀念」を精密に規定したキリストは、理性的であつた、と言へる。高橋氏には、そこがわかつてゐない。道徳の事を論じれば感情的である、と高橋氏は考へてゐる。高橋氏の思考は亂暴だ。もつと叮嚀に物事を考へるやうにした方が良い。
もつと踏み込んで述べると、物事を意識して考へる精神は、即ち近代的な精神である。
平成十六年三月十三日
高橋氏は、文脈を追つて文章の意味を理解する、と云ふ理性的な讀み方をもつと勉強した方が良い。
高橋氏は、自分の未熟な思考を、相手の思考と混同して、罵つてゐる。これを高橋氏は「文学的な読み」と考へてゐるのではないかと思ふが、それは「文学的な読み方」ではない。文學的な讀み方は、理性的なものだ。
貴方はキリスト教徒じゃない代わりに天皇主義者で、国民の自由に対して抑圧的な道徳の根源に天皇をすえようとしていて、その前近代の残滓のような道徳論を展開するために、都合のいいように哲学書を読み替えてくれる先生を探しているだけだ。
さうやつて高橋氏は、道徳に抑圧的なものを讀取らうとしたり、他人を抑圧的と看做して解釋してみようとしたりしてゐるが、理性的な立場から言へば、物事はありのままに見なければならないのであつて、さうやつて變な色眼鏡で物事を見るのは許されない。
そもそも、高橋氏は全ての抑壓を否定するのか。ならば、高橋氏はアナーキストである。アナーキストは、初期のマルクスは同志と考へたが、「哲學の貧困」以降、非難・嘲笑すべき敵となつた。だから、高橋氏は共産主義者でもあり、共産主義者でもない。ただ言へるのは、マルクス主義本流から離れた、或は、ソ聯の共産主義に反對した「新しい共産主義者」が、皆、アナーキズムに強い共感を持つてゐる事は、屡々指摘される事實だ。
あと、俺は共産主義者だと言われても別に困らないし、仮に俺が共産主義者だとして、俺の意見がそれで間違いになるわけでもない。
俺は、高橋氏の規定する天皇主義者ではない類の天皇賛美者だから、高橋氏に變な風に規定された天皇主義者と極附けられるのは迷惑である。そして、この種の自己の誤つた認識に基く――偏見に據る――レッテル貼りに據る攻撃の被害を、俺は長い間、連續して受けてゐる。此れは全て、道徳と政治とを混同する勘違ひに基く誹謗中傷である。そもそも、高橋氏が西洋近代理性をちやんと理解してゐれば、天皇主義者等と云ふ人格攻撃は出來ない筈だ。しかも、高橋氏は、俺は共産主義者だと言われても別に困らないと述べてゐるが、ソ聯や支那の共産主義がどれほど抑壓的であつたかを高橋氏は忘れてゐる。高橋氏こそ抑壓的だと俺は言つてゐるのであるが、それは高橋氏が俺の事をファシスト呼ばはりしたのがきつかけである。俺はファシストではない。なぜなら、抑壓的な徳目の存在を認めるのは、ただの現實主義であつて、ファシズムではないからだ。そして、徳目は全て抑壓的である。「○○してはならない」と云ふ絶對的な命令を、「抑壓的」と呼ぶのならば。しかし、この種の絶對的な命令が絶對に必要である事は、論を俟たない。「人を殺してはならない」と云ふ絶對的な命令を、高橋氏は否定するのだらうか。高橋氏は絶對に否定しない。ならば高橋氏は抑壓的な徳目の存在を、肯定してゐる。それで高橋氏は、ファシストか。高橋氏は、自分は共産主義者と呼ばれても構はない、と述べてゐる。ならば、共産主義的な立場からの抑壓は肯定する、と言つてゐるのである。即ち、高橋氏は、「道徳」(嚴密に言ふと徳目)に據る抑壓は否定するが、唯物的な抑壓は肯定する、と考へてゐるのである。しかし、それこそ、人間精神に對する冒涜以外の何物でもない。人間精神は、精神的な抑壓のみならず、精神的ならざるものの抑壓に抵抗するものだからである。そして、その「精神の抵抗運動」こそが――別の呼び方をすれば「葛藤」となるのだが――「道徳的」と呼べるものである。俺はこの意味でしか、道徳と言はない。雙方向的な性質を持つ道徳を、一面的な徳目と混同する理由は、私には存在しない。高橋氏にはあるやうだが、そこには政治的な理由があるのではないか――いやいや、高橋氏は、單に、無知ゆゑに、粗の邊の區別をしないのである。無知ほど恐ろしいものはない。
まあ哲学史や社会学は絶対学んでないと思うが。と高橋氏は言つてゐるが、一往、創元社の現代社會科學叢書は揃へてゐたりする。高橋氏こそ、變な思想書ばかり讀むのは止めた方が良いと思ふよ。それより、戯曲を讀むと良い。シナリオを書く參考になると思ふ。先に例に舉げた「あつぱれクライトン」を讀んでゐたら、道徳を單に抑壓的なものと看做す事は出來なくなるんだけれどもね。
平成十六年三月十三日
と言ふか、俺が高橋氏の云ふ天皇主義者である事のメリットつて何よ。「政治的」と言ふのは結構だが、それで動機は何も説明出來てゐないぞ、高橋氏。動機がないのに何かをする狂人ですか俺は。もつとも、高橋氏は俺の事を狂人だと思つてゐるらしいが。
ちなみに俺は、高橋氏を共産主義者と呼ぶけれども、高橋氏は自分の正義が命ずるがゆゑに「その手の思想」を積極的に主張してゐるのだと見てゐる。いやいや、高橋氏はただ、「えろげ」を作つて賣りたいのだと、自分で言つてゐた。しかし、共産主義は潔癖症的だつたと記憶するが。高橋氏は、自分で自分の首を絞めてゐるのではないか。何度も繰返すが、無知は恐い。
平成十六年三月十三日
ちなみに、「天皇の存在を認める事はそれ自體、自由主義の否定である」と云ふ主張は、現實問題として、成立たない。自由主義者であればこそ、日本人が天皇を戴いてやつて行く必然性を主張する筈である。
プロレタリアートの獨裁を主張した共産主義者は、例外ナシに個人獨裁を採用した。アナーキズムは現在のところ、實現してゐないし、將來も實現しない。そして、アナーキズムとコスモポリタニズムの結合は、アナーキズムとマルクシズムの聯合が破れたやうに、必然的に破綻する。
平成十六年三月十三日
さう言へば昔、「言論の自由は、言論の自由を否定する言論を、必然的に許容する」と主張したら、「自由民主主義者」の某氏が物凄い勢ひで攻撃して來たつけ。
反論を封じて何が自由主義だと思ふのだが、「自由主義を守る爲には自由主義を否定するやうな意見は封殺すべきだ」と考へるのが「自由主義者」らしい。「主義」とは嫌なものである。
そして、この種の「抑壓的なイズム」に支配される領域(「政治」)とは絶對的に異る領域の存在を信じ、それを提唱するのが文學者の使命である。文學者も人間だから、政治的に思考し、行動する事はあり得るが、政治とは異る文學の領域を信じてゐなければならない。

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