あなたのロリコン度は【80%】です。
「ネイション」はやはり所与のものだと考えているのか。
所与のものだと考えていると決め込んでゐて、だから私が變な事を言つてゐるに決つてゐると思つてゐる。しかし、私は、北守將軍が説明してゐる事を知つてゐる。
ところが、ホブズボームなどが「ネイション」は自明なものでないと立証した。と言つてゐるけれども、そんな事はホブズボームが立證するまでもなく、解つてゐる人には常識だつた。
だから、「記憶の場」嫁というとるのに。つて何よ。
その下の指摘に関しては、「歴史とは何か」嫁で回答済み。
「〜人は〜で、〜人は〜である」という説明をあなたはなんどもしているが、それに対して根拠らしい根拠を示したことは一度もない。
ちなみに、「日本人の素朴な信仰は、神道の信仰と一致する。なぜなら、神道は日本人の素朴な信仰だからである。」というのは根拠を示したことにはならないのです。
それは、ほかの研究者がきちんと反証すればすむ話。ていうか、そんな「不誠実な」研究者はそうそう残れません。
そんな「不誠実な」研究者が殘つてゐた事は解る。それに、今だつて澤山殘つてゐるぢやないか。そんな事も解らないのか。歴史の研究者は自分の身内の事も解らないのか。
誰もそんなこと言ってませんが。
外野の人は言いたいことがあるならはっきりいいなさい。
理性と信仰の分離なんて俺ずっと前から言ってたじゃん。
信仰は自由だから信仰に基づく道徳も個々人が好きなように守ればいいけど、それは権利であり義務ではない。近代自由主義思想がカトリック道徳を押し付けるわけではないだろう。
近代の成果を踏まえつつ伝統的な宗教道徳の復権を目指すのであれば、
宮台氏は面白いと言ってるだけで、賛同してるわけではない。
ちゃんと学問的に指摘してくれないかなあ、なんて言ふのなら、
天皇主義同好会の内輪ウケな読みには興味ないだの「ファシスト」だのと言つたイデオロギー的なレッテル貼りと非難は一切しなければ良いのではないか。
普通に学んだだけで左翼呼ばわりされるというのは。
自分では、薄いながらも中道を行くスタンダードな哲学史理解してると思うんだが。どうなんだろ。なんて言つてゐるけれども、誰がどう見ても高橋氏は左翼だらう。俺は、ネット右翼の鐵扇會會長を「左翼」と罵つた者だ。俺もしつこいな。
まともな哲学入門書と日本仏教の解説書つて何? 變な「入門書」を讀んで、高橋氏はをかしくなつたのではないか?
またこの世紀には、プロテスタントのカペル(『聖典批評』)、オラトリオ会士モラン(『聖書講義』)、スピノザ(『神学=政治論』)、なかんずくオラトリオ会士リシャール・シモンらによって聖書の原典批判が生れた。『神学=政治論』のなかでスピノザは、哲学と神学、理性と信仰の完全な独立を提唱する。そうとなれば神学に合理的基礎をあたえることは不可能であるが、逆に哲学的思弁が「啓示」を脅かすこともまたありえない。
「聖書はあくまでも理性に自由を許しており、また聖書には哲学となんら共通なものはない、というまったき確信を私は得た。」(序)「信仰と哲学を分離せしめることがこの作品の主要な目的である……。哲学の目的はただ真理のみであり、信仰の目的はただ服従と敬虔のみである……。哲学の基礎は共通な観念であり、それはただ自然からのみ引き出されなければならない。「信仰」の基礎は歴史および文献学で、もっぱら聖書から、また啓示から引き出されるべきものである。信仰はしたがって一入ひとりの人間に哲学することの至高の自由を認める……。神学は理性の侍女たるべきではなく、理性は神学の侍女であってはならない。両者はたがいに固有の王国を有するのである。」
このような立場は中世にもすでに現われていた。だがスピノザはその『神学=政治論』のなかで、理性は他のあらゆる文献に対すると同様、聖書の批判的検討にもあたらなくてはならないと考えている点においてさらに一歩を進めているのである。スピノザの指針はリシャール・シモンによって『旧約聖書批判史』(一六七八)において実行に移され、この書は禁書処分を受けた。……
教父哲学とかスコラ哲学とか、当時の神学について語ろうとすれば、哲学史の知識は必要。何が変革で何がそうでないのかも分からない人間にまともに議論ができるとは思えない。あと景教をろくに押さえもしないで仏教とキリスト教の比較検討をできるとは思えないし、親鸞の新規性や後の日本史における意義が分かってないようで日本の宗教を語れるとも思えない。 なんつーか基本的なところが欠けてるから、宗教議論としても哲学議論としても同好会レベル。文学としても、穴が開いてるのに自分で気づけないようではあまりレベルが高いとも思えない。
何が変革で何がそうでないのかも分からない人間であるやうに見える。高橋氏は、自由と云ふ觀念すら、理解してゐないのだから。
おそらく彼は、一般教養で哲学を取らなかったんじゃないですかね。だから、スタンダードでマクロな視点での哲学史の把握が出来てない。そんなの所詮理系の俺だって出来てないけど、俺にでも指摘できる程度の間違い……といってわるければ、かなり偏った読解がある。
かなり偏った読解をしてゐない、とは言へまい。
絶対的他律はありえない。
絶対的自律もありえない。
何かしらを自己の判断で吸収するということがないとね。と言つてゐるのだから、やの日記の中の人は、「自律」と「他律」のうち「自律」の方を支持してゐる。
自己の判断なるものはあり得ない、と云ふ事もまた、自明である。
判断が先か、
吸收が先か。もちろん、
吸收した知識を前提に、人は
判断するのである。
昭和天皇は至誠の人であったと私は信じる。と述べ、
昭和天皇の心中に思いを致せ。と述べる。
早稲田で学んだ人を一概に、全員があの低能レベルだと考えるのは間違い。その可能性が非常に強いだけで、まだ奥島孝康並の腐った根性でいるかは、個別にあたらないといけません。
早稲田について、今の状況から合理的に考えられることを提示すると、それが悪口に聞こえるとしたら、それは単なる被害妄想です。
自分のところのことでしたら、ご自分でどうぞ、がんばっておやりになれば、よろしい。
ま、関係してしまった人は、がんばって身の証をたてる、もしくは母校に「奥島孝康の詐欺まがいを否定し、今後はこういった馬鹿を出さない様にする」といった公示をさせるのがよろしいでしょう。
関係してしまった人なんですかねえ。やの日記の中の人は、その邊を勘違ひしてゐます。
自律自浄の精神があるから、総長とは關係がない」と云ふ理窟も成立つ。もちろん、理窟は理窟であるが、所詮「や」氏の言つてゐる事も理窟である。
奥島孝康といった糞低能の元で教育を受けるという災厄にあった人と書いてゐるが、奥島氏に習つた學生より、習はなかつた學生の方が多い筈である。俺は習はなかつた。第一、學部が違ふ。
早稲田に気をつけるといったらと言つて採上げ、
さすが、奥島孝康の薫陶です。と書いてゐる。「や」氏は、恰も早大SuperFreeの逮捕された和田容疑者が奥島氏と關係があるかのやうに書いてゐる。しかし、和田容疑者が奥島氏の授業を取つてゐたと云ふ話は聞かない。「プロ学生」の和田容疑者が、授業に出てゐたとも思はれない。そもそも、和田容疑者が奥島氏の薫陶を受けた、即ち、奥島氏の人格に感化され、人格が形成された、と云ふ事を、「や」氏は立證してゐない。ただ、「同じ早稻田」と云ふ事で、「や」氏は聯想ゲームをやつてゐるだけである。杜撰極まる思考と言ふほかない。
しかし、あの奥島孝康という馬鹿の教えやらをまだ持ち続けている早稲田人とかいうのは、多くいるだろうし、世の中にとっては大変危険な存在であることは、示しておくべきことでしょう。
早稲田について、今の状況から合理的に考えられることを提示すると、それが悪口に聞こえるとしたら、それは単なる被害妄想です。
合理的を自稱するのは勝手だが、合理的に判斷してゐるだけの割に、「や」氏の文章には他人を見下す態度が露骨に出過ぎてゐる。「や」氏の文章が、冷静で客觀的な文章であると判斷する奴がゐたら、そいつこそ
間抜けである。
あの文言では、そう読めてしまうってことね。
奥島孝康といった糞低能と云ふ文句は、名誉毀損だか侮辱だかになるから、奥島氏に訴へられれば「や」氏が逮捕される可能性はあるし、少くとも「はてな」の規約には違反してゐると言へる。
カトリックの道徳論とスピノザやアインシュタインの宗教観と言つてゐる高橋氏は、道徳論にしても宗教觀にしてもその内容を言つてゐるのであつて、その形式を言つてゐるのではない。スピノザの論じ方、アインシュタインの宗教に言及する仕方に、私は著目してゐる。高橋氏は、ただ、教條的に、「道徳論」「宗教論」の内容をキリスト教の教義なり何なりの内容と比べてゐるに過ぎない。
スピノザの哲学の想定する神ではなく、「スピノザが神を提唱するやり方」に私は興味がある。
つまり、あなたが「むしろ」程度のつもりで出してる認識のほうこそ、俺にとっちゃ本題。
彼の理論 ひらたくいうと、心の中で思うだけで姦淫だ、なんて言い出したら思想信条の自由もなにもあったものではないと。
現に野嵜さんと俺でこれだけ違うんですよ。
野嵜さんにしてみれば、たとえば大塚久雄もマルクス主義歴史学者になるんだろう。
近代化という語について(中略)私のばあいには(中略)資本主義以前の社会諸形態のどれか一つから資本主義へだけでなく、社会主義への移行を含めるものだったのです。
ホブズボームはソ連に甘い。これも昔から批判されてること。とりたてて騒ぐことでもない。
歴史的な現象だよ。何言ってるんだ。
しかし、歴史学のスリルとは、その仮説が史料によって裏切られるところにある、ということをギンズブルグがどこかのインタビューに答えて言っていた。
陰翳に対する美意識は、けして日本固有のものではないのだ。
人間のモノに対する感覚というのは、文化つまりヨコの関係だけでなく、時間―タテの関係においても無数に切れている。
このときセルフチェックは信用ならないので、他律的環境を構築せよといっているのです。
被雇用者は給与を受け取るかわりに雇用契約とそこから参照される就業規則によって雇用者である企業との間でさまざまな義務を負う。しかし、その義務はあくまでも業務執行やそれにかかわる情報の扱いなどについてであって、私生活上に関する義務は通常はない。
他律的環境として
組織を持出した事がをかしい、と云ふ指摘は、當つてゐる。ただ、
我々は奴隷か?否。と云ふスローガンがをかしいだけだ。
それは「自分のため」です.少なくとも他人のためではありえない.そういう利己的なモチーフがあって初めて持続するパワーが生まれるのだと思います.
サラリーマン的な人と自営業的な人とが意見を述べる動機を區別して分析してゐる。そして、かう纏める。
ウェブで語るのは「自分のため」が基本でありながらも、公開の場で書くこと自体、誰かの反応がほしいという気持ちがあるわけで、他人のためになる(=より多く読まれる)ことがすなわち自分の励みにもなる・・・という動機づけ経路が存在することについては、多くの人が言及しています。
しかし、この観点はあまりに当たり前なので置いておいて。と書き、以下の事を述べる。
社員が個人的にやってることが世の中全般の役に立ったって、会社にとっては別にありがたくないんです。問題は、会社にとってメリットがあるかどうかです。
が、最近話題になっているblog記事で、あまりにも有害なものがあることに気づいたので。影響力なければ放置すればいいんだが、そこそこ有名な個人blogから参照されつつある状況で下手に影響力を持たれてもかなわないので批判しときます。
一般人を不安にさせることは、組織(ひいては業界全体)のためにならないといっているだけです。
WWW がみんなの道具となるにつれ、専門家がバカな発言をする事例が目立ってきています。そうして、組織と業界の信用を落としているのです。間違いを指摘されたとき、多くの専門家は反省するでしょう。しかし、セルフチェックではまた同じミスをしますよ。だから、組織のプレッシャーを利用すべきだといっているのです。
自称専門家が誤ったことを述べて一般人が迷惑するから「個人の責任で情報発信するな」という主張を、私はしていません。
けれども、そういった現実を包み隠さず消費者に見せてしまうのは間違いだと思う。と云ふ文章も、徳保氏の思想を推測する參考に出來る。
我々は奴隷か?否。と云ふスローガンの線に沿つて、議論を展開してゐる。これが結局、徳保氏の意見の相對化にしかなつてゐない。崎山氏の意見と徳保氏のそれとは相對的な違ひしかない。それなのに崎山氏が、自分の立場は徳保氏の立場と絶對的に違ふ、と考へて、徳保氏の意見、或は徳保氏を
けがらわしいものと看做してゐる。これはをかしい。崎山氏に可能なのは、「私は徳保氏の意見に反對だ」と云ふ程度の表現である。
哲学者の著書を「文学的に」何冊か読んだくらいじゃあ、その哲学史上の意義は分かりはしない。
もちろん、概略からは零れ落ちるような、つまり不徹底性とか後継者達の受け継がなかった余剰の部分に後の哲学者によって焦点が当てられて別様に解釈されるということは一杯あるのだけど、それは出てきたときにそう学べばいいのであり、まずは概略を押さえておくべきだ
からは零れ落ちるような事を最優先事項として、とにかく「学べ」と、高橋氏は言つたではないか。
思想的に気に入った人の読解だけを摂取しようというのは良くない。自分にどれだけバイアスが掛かってるのか自分で分からなくなるからね。
俺もちょっと真面目にやり直そうと思う。
本質主義に対して、構築主義という考え方があります。この場合だと、欧米人と日本人の差異を、自明かつ本質的なものではなく、社会的に構築されたものと見る見方です。構築されたものは、変更されうる。差異を修正不可能な本質だとみなすとき、それは差別や排除や抑圧の正当化に繋がる。本質主義を批判するという意味において構築主義はメタレベルに立ち、アドバンテージを持ちます。本質主義の立場は、その本質と定めたものの自明性を疑う能力、政治性を批判する能力を持ちえない。
もちろん、日本文化と欧米文化は違うわけで、日本におけるキリスト教の布教は、欧米に比べれば困難なのでしょう。別にそこに反論してるわけではない。問題は、それを日本人における修正不可能な本質とみなすことなわけです。
日本人における修正不可能な本質とみなし、日本人はキリスト教を一切理解する事が出來ない、と私が言つてゐるのならば、私が「日本人はキリスト教的な思考方法を知る努力をすべきである」と主張するのはナンセンスであり、餘りにも馬鹿げてゐる。努力しても、報ひられる事が絶對にない事ならば、しない方が良いに決つてゐる。しかし私は、「上滑りに滑つて行くしかない」――「理解出來る範圍で理解する努力をすべきだ」と言つてゐる。これは、彼我の相違が、本質的な理解は不可能であつても、或程度までの理解は可能である、と云ふ事を意味してゐる。
そして「キリスト教」「神道」各々が宗教的な意味合ひではなく、精神的傾向を表はす意味合ひで使つてゐることも提示されてゐた筈です。
僕児童ポルノ法の話なんてしてないよねえ(笑)。
とりあえず「野嵜さんの議論にそって児童ポルノ法云々」という自由主義・民主主義の定義はしたが、違うなら違うでもよいと書いたし、普通に読めば誰も僕が「児童ポルノ法」を議論の主題に据えたとは思わないと思うけどなあ。
そもそも児童ポルノ法の話からはじまったんでしょ。
この場合、定義というか基準は、「児ポ法改悪が行われるような国は民主主義的でない」なわけ。
西欧―アメリカの問題を、別に文明論からであっても、論じた本はいくらでもあります。少なくとも留保なしに結び付けてよいものではありません。
なるほど、現状に対する文学的に可能なひとつの解釈を主張してるだけなわけですね。
ただの文学的解釈に法的な自由を語る上で何か意味があるとは思えないのも確かですが。
野嵜さん的な児ポ法改悪反対派批判は、「改悪反対派が基づいているのは自由主義であり」「日本の自由主義は西欧のそれが持っている本質的に必要な要素を欠いていて」「それはキリスト教であり」「その要素を考え合わせると、改悪反対派の主張は成り立たない」ということを言ってるわけですよね?
ですよね?と確認してゐるからには、高橋氏の推測は所詮、自信のない憶測であり――と言ふより、高橋氏自身、自分がわざと歪めた解釋をしてゐる事を知つてゐるのである。高橋氏には、その種の「読み」をする、と云ふ戰術そのものを反省した方が良いと申し上げたい。
「キリスト教」という曖昧な言葉の使い方について俺が異議を唱え明確化を要求しているのは、そういうすり替えをやられては困るからです。
曖昧な言葉の使い方をしてゐるのが高橋氏だと云ふ事である。と言ふより、高橋氏の戰術的で歪曲的な「読み」によつて、私の「言葉」が「曖昧」であるかのやうに見せかけられてゐるに過ぎない、と云ふ事である。
例えばこれを「超越性・一神教性という意味でのキリスト教」みたいに意味合いを限定してくれるなら、少なくとも俺は、一つのありうる解釈としてなら、そんなに抵抗を感じないのです。
(ところでアインシュタインとかスピノザの神というのは自然に内在する汎神論的なそれであって、ユダヤ教やキリスト教の超越神とは相容れないものであり、特にスピノザはかなり批判を浴びていたような)
問題提起と云ふ逃げを打つてゐる事を、讀者には注意して貰ひたい。
文化的差異を絶対視する立場と言つてゐる。「立場」と言つてしまふから話がをかしくなる。(http://www.remus.dti.ne.jp/~ddt-miz/think/watch/200403.htmlの2004.03.06附「文化的差異についての考え」後半部分)立場として「文化的差異を絶対視する」と言ふのと、「絶対的な文化的差異がある事を認める」と言ふのでは、全然違ふ。
ええええー。戦後の話だったのー!?
アメリカと西欧って一緒にしていいのか・・・。
しかし、野嵜さんの場合どうも西欧社会はキリスト教社会であるということを限定的にではなく、一般的に見ているような気がする。それは、「歴史学的には」許されない。
ような気がする、と云ふ印象批評をされても困るんですが、と言ふか、印象批評は、北守將軍によつて「間違ひ」と定義されてゐるのだから、北守將軍自身がやつては絶對にならないのだが。
ここでは確かに留保が行われている。しかし、くどいようだが「歴史学的にいえば」これはそのままでは近代とキリスト教の親密性を示したことにはならない。
実際はどうであったかが「解るもの」だと考へてゐるらしい。と言ふか、北守將軍はそもそも「歴史学」を未定義。
なほ、北守將軍の事だから、アメリカの憲法と日本の憲法とだけを比較してキリスト教が何うの斯うのと云ふのは云々、と言出すに決つてゐるが、これは飽くまで一例である。――は、例によつて適中した模樣。
上の引用を見ると、このような立場に立つコッカが、歴史叙述にナラティヴ性を求める風潮に対して激しい危惧を持つのは、ある意味で当然と言えるだろう。
疑いもなくこれは政治的に問題のある議論である。だがそれが破綻しているのは、政治的に問題があるからではなくて、史料に照らして、また史料の活用に際して適用さるべき歴史科学的な尺度で計って、受け入れ難いもの、つまり誤ったものだからである。
すなわち、当時様々に分岐していた視点を相互に比較対照し、あるいはできる限り包括的な今日の視点から当時の状況の多様な意味を把握することが、評価せんとする正義の要求であり、また歴史科学の作業の基本ルールでもあるのである。
今日の視点が「割切る爲のもの」であつたならば、それこそ問題である。俺の「キリスト教」を「割切る爲のもの」と看做してゐる事から考へると、北守將軍は「割切る爲のもの」として
今日の視点を考へてゐる可能性は極めて高い。
歴史の物語化を拒否しながら、現代の歴史學は、
今日の視点を受容れる事により、
歴史の物語化に寄與してしまつてゐるやうに思はれる。それよりは、物事を「ありのまま」に見ると云ふ國學者の態度の方が餘程まともな學究的態度と言へる。
西欧が西欧だけで閉じて成立したわけではない。とか「何でもキリスト教で割切るのは感心しません」とかいつた言ひ方はナンセンスである。「多くの要素の中で、キリスト教を重要な要素と見る」と私は言つてゐるだけなのだから、そこに「ほかにも要素はあるのですよ」と言つてみたところで仕方がない。有效な批判としてあり得るのは「××と云ふ理由で、キリスト教よりも○○の方が、西歐人の精神文化を既定するのに決定的な役割を果したと言へる」と云ふ主張である。
カトリックでないものを全て反カトリックと定義しカトリック優位の二項対立に回収してしまう思想において、この世にカトリック的でないものなどひとつもなく、全てはカトリックの元に一元的に解釈される。そういうのを「反証不可能な主張」という。
全てはと云ふ語を挿入する事で、批評對象と一見そつくりだが、決定的に異る主張をでつち上げてしまつてゐる。これを、意識せずに行つてゐるのならばただの馬鹿であり、意識して行つてゐるのならば惡質である。
キリスト教は、東欧・東洋へも広がっている。
広がるのは良いが、どのやうな内容で
広がったかが問題である。
近代ヨーロッパ人が「発明」「発見」と言っているものの多くが、彼らにとっての「発明」「発見」なのであり、真に受けてそこにキリスト教の成果を見出すのは変。
全てのと云ふ語を潛ませて、怪しげな主張を勝手にでつち上げ、それを否定して見せてゐる。
近代の観念がキリスト教との関係で認識されたとして、それが単にキリスト教圏で起こった結果であるに過ぎず、違う地域で起これば違う宗教との関係で、もしくは宗教性抜きに認識されたかもしれない、という可能性を否定したことにはなっていない。
近代の観念がキリスト教との関係で認識されたとするならば、
それが単にキリスト教圏で起こった結果であるに過ぎないにしても、一往「現状を認める」意味で、他の
可能性よりも優先的に研究されて然るべきである。
What if G.K.Chesterton had a blog?
そうなると次に素人(俺)が安易に考えるのはアバウトに言って「HTMLとPDFのちょうど中間のような何かが新たに作られて、HTMLやPDF以上に普及してくれないか」ということと、
中間と言はれても、想像出來ないのだけれども。どう云ふ比較をしてゐるのか良く解らない。
中間と言はれても、良く解らない。兩者は違ふメディアの爲のデータ構造の規格なので、
中間なる概念は存在しない。
このマルチカラムも厳密な意味での段組なのかどうかいまいちよくわからないのですけど(テーブルタグと同じく使い方次第という部分があると思う。ウェブの宿命か)。
西欧で誕生した思想・文化・社会制度などにキリスト教の痕跡を見出すのは文学的な態度だ。
いくらテクスト解釈的議論を行ったとしても、「実際はどうであったか」ということは理解不可能である。
テクスト解釈なる言ひ方が出て來るのだらうが、文學の立場から言はせて貰へば、
解釈から歴史の全體像が出來て來る事こそあり得ない話だ。
再發見されて、はじめて近世になる。
ときどき思うのだが、この人は数字を2までしか数えられないのではないだろうか。
印象批判だしねえ。
うーむ、「教義」「形式」って何?
じゃあ、天動説でも信じていればいいんじゃないですか?
立証よろ。
「キリスト教の教義に従うこと」と云ふのが何處から出てきた事なのか、訊きたい。俺は、「教義を採入れた、採入れなかつた」と言つた。しかし、「教義を採入れる事」と「教義に從ふ事」とは違ふ。だから、
「キリスト教社会と認識していたこと」と、「キリスト教の教義に従うこと」は別。なるつつこみはナンセンス。
こういうものはその場その場の議論において、これらの枠組みはどのような定義で用いられていて、どのようなものを排除しているのか。なぜそのような分類を行わなければいけないのかという説明が必要なんだろ。
歴史学の場合、ほかの分野に比べてカテゴライズというのが大きな意味を持つし、考えることが多いわけで、だから歴史学の本は誠実であろうとすればするほどエクスキューズが増えるんだろ。
誠実であろうとする態度があるんですかねえ。
局面局面での論理的つながりは全くわからないが、全体のストーリーは明快。
歴史学の態度は何處へ行つてしまつたんですかね。
局面局面での論理的つながりが
全くわからないと、北守將軍の
歴史学では勝手に意味を極附けて、惡いやうに解釋するのが定石なんでせう?
しかし、やはり歴史家と研究業績は分けて考えなければいけないのである。と北守將軍が述べるのは、北守將軍の大事な「歴史家」がどのやうな思想を持つた人物であつたかをつつこまれると困るからである。
歴史家個人を分析する「文学的」な態度は、歴史そのものを左右しないし、してはならない。と、もつともらしい事を言つて、「歴史家」がしてゐるかも知れない「解釋による歴史の改變」の可能性への言及・疑念を閑却してゐるのを見れば判る。歴史家の思想にも、歴史家の政治的な意図による歪曲が入り込んでゐる可能性を、全てを政治的に解釋する人が疑はない事は、明かに疑惑である。
誠実と言出した時點で、怪しいのである。北守將軍は、自分が
誠実である、と言ふ事で、自己を正當化しようとしてゐる。が、自己の誠實を誇示する事くらゐ、傲慢な事もあるまい。
専門家は個人の責任で発言するな。後付けでいいから、組織のお墨付きを得てほしい。一人でやっていると、とかく易きにつきやすい。組織のプレッシャーという強力な動機を用意しない限り、チェック機構はろくに働かないものである。
個人としての
専門家が
組織を
チェック機構と認識し、自ら進んで
組織のお墨付きを得ようとしてゐる時點で、既に自己による
チェック機構が働いてゐる筈である。
チェック機構が働かない
個人としての
専門家である。その手の
専門家は、
チェック機構の必要性を認識してゐないから、
組織を自分にとつて必要な
チェック機構と認識する事も無いし、自ら進んで
組織のお墨付きを得ようともしない筈である。
組織のプレッシャーという強力な動機を用意するのは、チェックする組織の側でなければをかしい。
チェック機構としての
組織は、ちやんと組織員をチェックしろ」と云ふ主張ならば成立つ。徳保氏の言つてゐる事はナンセンスである。
「はてな」利用者に対するウェブ日記・ブログ意識調査と云ふ内容は何うでも良いが、微妙なマーク附けだなと。