闇黒日記

平成十六年三月十二日
今さらながらやつて見る。
無料占い あなたのロリコン度チェック
あなたのロリコン度は【80%】です。
「何とか度」の數値は、リロードすると變化するのだけれども、「二次元倒錯度」の數字が100%から動かない。
http://www.exa5.jp/sfs_diary/200306.htmlの2003年06月03日(火)より。
誰がやつても同じ結果になるんでは無いかと推測したが、一往、でたらめにチェックを入れて確認したら、さうではなかつた。凹。
と言ふか、意地惡でわがままなセーラー服美少女の登場するろりこん小説でも書いてみようかと思ひ附いたのだが、希望者はゐますか?
平成十六年三月十二日
現代教養文庫教養ワイドコレクション
慥かに高いなこれは。
參考記事・http://www.yomiuri.co.jp/bookstand/news/20040113_01.htm
平成十六年三月十二日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040311#p4
何だか良くわからないけれども。
「ネイション」はやはり所与のものだと考えているのか。
「いるのか」と疑問文で書いてゐるけれども、北守將軍は私が所与のものだと考えていると決め込んでゐて、だから私が變な事を言つてゐるに決つてゐると思つてゐる。しかし、私は、北守將軍が説明してゐる事を知つてゐる。ところが、ホブズボームなどが「ネイション」は自明なものでないと立証した。と言つてゐるけれども、そんな事はホブズボームが立證するまでもなく、解つてゐる人には常識だつた。
と言ふか、だから、「記憶の場」嫁というとるのに。つて何よ。俺の嫁を晒すな。北守將軍のすすめる本は讀む價値が無い、と云ふ事は、ホブズボームが讀む價値の無いのを見れば明かだ。
「讀め」「讀め」言つてゐるけれども、どうせ北守將軍だつて、讀んで理解してはゐないんだらう。北守將軍が、自分で説明出來ないのを見れば解る。
平成十六年三月十二日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040311#p5
その下の指摘に関しては、「歴史とは何か」嫁で回答済み。
だーかーらー。其れは囘答になつてゐないと、何度言はせれば氣が濟むんだ。
平成十六年三月十二日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040311#p6
「〜人は〜で、〜人は〜である」という説明をあなたはなんどもしているが、それに対して根拠らしい根拠を示したことは一度もない。
根據は示してゐるが、それを北守が「根拠じゃない」と勝手に極附けてゐるだけだ。俺は、北守の「論證」の方こそ間違つてゐると言ひたい。北守は、自分の信じてゐるものを疑つたら何うだ。馬鹿。
ちなみに、「日本人の素朴な信仰は、神道の信仰と一致する。なぜなら、神道は日本人の素朴な信仰だからである。」というのは根拠を示したことにはならないのです。
阿呆か。トートロジーとして證明すべき時にトートロジーを持出して何が惡い。餘計な定義をするより、既存の定義に從へ、と言つてゐるだけの話だ。日本語の文章も讀めない癖に、北守は偉さうに批判するな。
平成十六年三月十二日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040311#p7
それは、ほかの研究者がきちんと反証すればすむ話。ていうか、そんな「不誠実な」研究者はそうそう残れません。
日本の戰後の歴史を見れば、そんな「不誠実な」研究者が殘つてゐた事は解る。それに、今だつて澤山殘つてゐるぢやないか。そんな事も解らないのか。歴史の研究者は自分の身内の事も解らないのか。
或は。とぼけるのも好い加減にしろ。
平成十六年三月十二日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040311#p8
誰もそんなこと言ってませんが。
「言ってません」「言ってません」でごまかすなよ。ではきくが、北守は何を言つた?
平成十六年三月十二日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040311#p9
外野の人は言いたいことがあるならはっきりいいなさい。
お前こそはつきり言へよ。「嫁」「言ってません」を連發して、あとは何處かに「歴史学」の「正しい方法」があつてそれを自分だけが知つてゐるかのやうな顔をして他人を見下して見せるだけ。それで説得力があると思つたら大間違ひだ。
平成十六年三月十二日
そもそも、北守は勘違ひをしてゐる。北守は私が歴史の論證をしてゐると思ひ込んでゐる。さうではない。私は飽くまで歴史的な物の見方を示してゐるだけだ。
寧ろ、北守こそ、物の見方を知らないと言へる。なぜなら、彼は自分の好きな歴史學者だか歴史家だかの口眞似をしてゐるに過ぎない――と言ふより「嫁」と言つてゐるだけだからである。
歴史家と言つても、彼の言つてゐる歴史家は皆、現代の西歐の歴史家である。さう云ふ「文脈」に基いて彼等の言葉も解釋しなければならない、と云ふ事は、彼も知つてゐなければならない事だ。ところが、彼は自分の大好きな歴史家の言ふ事を、歴史家の教へる歴史學の方法で批判する事が出來ない。これは、嘗てマルクス主義の歴史家がやらかした過ちを單に繰返してゐるだけなのだが、北守將軍は過去に學ばないから同じ過ちを平氣で繰返す。それで彼は、自分が偉い歴史研究者なのだと思つてゐる。御立派なものだ。
平成十六年三月十二日
話が戻るけれども。
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040310#p6
多分、北守はホブズボームの本を一册しか讀んでゐないのだ。それで解つた氣になつてゐるのだからしやうがない。
平成十六年三月十二日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040312#p2
理性と信仰の分離なんて俺ずっと前から言ってたじゃん。
だーかーらー。解つてゐてとぼけるなよ。理性と信仰を分離する考へ方つて、いかにもキリスト教的だと言つてゐるんだよ。「兩者には親近性がある」つて言へば良いのかな。神のものとカイザルのもの、道徳と政治、信仰と信仰以外の事との分離を、キリストは言つてゐた。そして、さう云ふ風に物事を分かつのが彼等の考へ方なのだと。
と言ふか。
信仰は自由だから信仰に基づく道徳も個々人が好きなように守ればいいけど、それは権利であり義務ではない。近代自由主義思想がカトリック道徳を押し付けるわけではないだろう。
さう云ふ方向に話を持つていくのが間違つてゐるんだよ。高橋氏は、どうして自分の短絡思考に氣附かないかな。
近代の成果を踏まえつつ伝統的な宗教道徳の復権を目指すのであれば、
大體、俺が道徳と理性の分離の話をし始めたのであつて、高橋がし始めたのではない。そして、俺は、飽くまで理性の話をしたのであつて、それを道徳の話だと勘違ひしたのは高橋が惡い。高橋は、俺がキリスト教を信じてゐない、と行つたのを忘れてゐる。俺は、キリスト教の道徳に從へ、等と言つてゐない。信じてゐない物に從ふ理由はない。
平成十六年三月十二日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040312#p3
宮台氏は面白いと言ってるだけで、賛同してるわけではない。
贊同してゐない物を「嫁」と言ふ馬鹿も、世の中にはゐる訣だが、さう云ふ馬鹿と俺とを一緒にして貰つては困る。
平成十六年三月十二日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040312#p6
高橋氏は、他人の尺度を無視し、他人の言つてゐる事を自分の尺度で理解してしまふ惡癖がある。どうも彼は、「文学的な読み」を、私の言つてゐるのとは違ふ意味で理解してゐるやうに思はれる。
俺の考へる「文學的な讀み方」は、「讀取るべき事を適切に讀取り、讀取るべからざる事は讀取らない」と云ふ事だ。高橋氏は、多分、妄想を勝手に賦與するとか印象で判斷するとか、要は「好い加減な讀み方」の意味で捉へてゐるのだらうが。
以下は私見――といふか私の感じた印象だが。高橋氏は、フェミニズムの「読み」を面白がつてゐるのを見れば解るが、讀取るべからざるものを讀取らうとする事を「學問的な讀み」だと思つてゐる。北守は逆に、讀取るべきものを讀取るまいとする事を「學問的な讀み」だと思つてゐる。のではないか。
平成十六年三月十二日
で、議論は北守の方に戻るのだが。
かつて、學問の世界でも、「キリスト教的な讀み」が支配的であつた事、物事を觀察するのにキリスト教の觀念が常に考慮された事が、歴史的にあつた。それゆゑ、西歐の學者にとつて、「キリスト教的な讀み」の排除が、スピノザの「理性と信仰の分離」ではないが、要請されたと言ふ事は、容易に推測出來る。そして、さう云ふ西歐の學問の世界で要請された事が、同樣に日本の學問の世界でも要請されるのか、と云ふ事は、反省されて良い。なぜなら、西歐人がキリスト教的な示唆を敏感に感じ取るほど、日本人は感じ取れないからである。話は逆で、日本人は、努力してキリスト教的な觀念の片鱗を捉へようとしなければ、捉へる事が出來ない。論證するまでもない事だ。「ハムレット」で、福田恆存はキリスト教的な科白を、聞き手が判るやうに譯してゐる。しかし、原文或は「不親切」な譯で「ハムレット」を讀む・聞く・觀る日本人が、「ハムレット」のキリスト教的な側面を適切に認識するかと言へば、しないだらう。北守は「ハムレットにキリスト教的な側面を讀取るのが間違ひだ」と主張するかも知れない。そして、それで結構、「ハムレット」論は構築出來る。しかし、理論とは別に、イギリス人が「ハムレット」を觀て、キリスト教的な片鱗がある事を認識しない、と云ふ事はあり得ない。ならば、その種の理論は間違つてゐるのである。
北守は、素人は恐い、と言つた。しかし、北守は、素人が感ずる違和感を、感ずる事が出來ない。それこそ恐ろしい事だ。理論は所詮理論であり、理論の中で完結してゐる事はあり得るが、事實と照し合せて檢證しなければならない。そして、北守の言つてゐる事は、非現實的なのである。ならば、北守の理論が間違つてゐる事は明かである。北守は、全ての西歐の歴史的現象に、キリスト教は何ら關與してゐないと言つてゐる。そんな馬鹿な話はない。
もちろん、北守は「そんなこと言ってない」と繰返すだらう。そこで私は尋ねたいのだが、「では君は、何を言つたのかね?」
北守は、何も言つてゐない。ただ、「野嵜は馬鹿だ。野嵜は間違つてゐる。野嵜は本を讀め」と繰返し喚いてゐるだけである。實際のところ、北守のすすめた本は駄目な本であり、北守は「正しい論證」もしてゐない。にもかかはらず、北守は偉さうな口をきく。北守の「説得力」は、認められないだらう。
北守に改めて尋ねるが、西歐の學者が今、キリスト教を無視しようとしてゐるのは解る、が、日本の研究者まで彼等に附き合つてキリスト教を無視しなければならない必然的な理由は何か。歴史學の方法はユニヴァーサルだ。しかし、歴史學者が住んでゐるのは、全然違ふ場所だ。その「場所の違ひ」は、なぜ考慮されなくて良いのか。北守は、西歐の歴史と、日本の歴史とは、違ふ、と云ふ事を、理解してゐるか。そして、その歴史の違ひは、歴史を研究する際の態度の違ひとして現はれて當然だとは考へないか。
そもそも、「なぜ歴史を研究するのか」と云ふ事を、北守は考へた事がないのだらう。歴史を研究する歴史家は、人間である。人間がする事には動機がある。もちろん、「絶對の探究」と云ふ事はあり得るが、それは氣狂ひのする事だとバルザックが指摘してゐる。北守は狂人ではない筈だ。ならば、動機がある筈だ。で、「自分語り」をしようかと北守は言つてゐる。しかし、どうせろくな話は出て來まい。俺のだつて、北守にとつては「ろくな話ではなかつた」訣だし。
平成十六年三月十二日
で、また高橋氏の話に戻るのだけれども。
ちゃんと学問的に指摘してくれないかなあ、なんて言ふのなら、天皇主義同好会の内輪ウケな読みには興味ないだの「ファシスト」だのと言つたイデオロギー的なレッテル貼りと非難は一切しなければ良いのではないか。
學問的だの法律談議だのと言ふけれども、高橋氏の學問や法律解釋にはイデオロギーが入り込んでゐるやうな印象があるからねえ。
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040311#p3
普通に学んだだけで左翼呼ばわりされるというのは。
「どこが普通なんだよ」「お前の普通を押附けるな」と突込めば良いですか。
自分では、薄いながらも中道を行くスタンダードな哲学史理解してると思うんだが。どうなんだろ。なんて言つてゐるけれども、誰がどう見ても高橋氏は左翼だらう。俺は、ネット右翼の鐵扇會會長を「左翼」と罵つた者だ。俺もしつこいな。
平成十六年三月十二日
高橋氏が、何にでも「父権」を見出すフェミニズムを「面白い」と言ひながら、自分が共産主義者として解釋されると「俺は共産主義者ではない」と言張るのは、何うかしてゐる。
高橋氏は、歴史で「隠されたもの」を「暴き出す」のには熱心だが、自分の匿してゐるものを他人に「暴き立てられる」のは喜ばないらしい。
平成十六年三月十二日
北守は、唯物論つて何、とか、共産主義なんて知らない、とか拔かしたが。
他人の無知は咎めるのに、自分は積極的に無知を裝ふ――と云ふのは、何うかしてゐると思ふが。
平成十六年三月十二日
http://d.hatena.ne.jp/apkz/20040312#p1
毬藻は良い。
中公新書の『マリモはなぜ丸い』は内容も厚みも薄つぺらでしたが。マリモは謎だらけで良くわかつてゐないのだ。
平成十六年三月十二日
めも。
アメリカの生物教科書
ちやんと讀んでゐるのが解る。讀むのもさうだが、纏めてレポートを作るのも大變だつたらうなーと思つた。獨自の考へを述べるよりも、この種の單なる報告の方が、書くのは大變であるものだ。
教育についての意見も一言述べておかう。教へる内容のレヴェルを上げれば、生徒のレヴェルも上がる。當り前の話だ。
平成十六年三月十二日
机の上がとても暗いので、あつちでもこつちでもスタンドを置いて對處。
明るいだけで眼の疲れ方は全然違ひます。肩が凝つたり目が疲れたりする人は、手許を明るくしてみませう。

平成十六年三月十一日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040310#p2
何これ。
何うでも良いけれども、高橋氏は明かに共産主義者ですね。共産党非公認と言つて威張つてゐる共産主義者は澤山ゐます。
と言ふか、高橋氏の言ふまともな哲学入門書と日本仏教の解説書つて何? 變な「入門書」を讀んで、高橋氏はをかしくなつたのではないか?
平成十六年三月十一日
高橋氏は、少しキリスト教の勉強をしたら何うか。自分の大好きな哲學と日本佛教だけに拘るのは何うか(してゐる)と思ひます。
ちなみに、俺はキリスト教の倫理學の授業や教會史の授業を受けた事があるし、キリスト教のミサにも出た事がある。聖書研究會で聖書を讀んだ事がある。しかし、キリスト教を信じてはゐない。高橋氏は、キリスト教について、どこまで知つてゐるか。キリスト教の生き方を、どこまで知つてゐるか。北守將軍にしても同じ。觀念的にしか(詰り、本に書かれてゐる事しか)、高橋氏も北守將軍も、キリスト教の事を知らないのではないか。
ついでに言ふと、部活動で社會科學系の研究會に中學一年の時に入つたし、高校の時、マルクス主義の教師が讀書會をやつて、マルクス主義の入門書を讀まされた事がある。だからと言つて共産主義を憎惡してゐたりはしない。
平成十六年三月十一日
ぐぐつてゐて見附けた宮台に關する意見。
http://web.sfc.keio.ac.jp/~s00015jw/miyadai.html
平成十六年三月十一日
さらに餘計な話をすると。
高校の頃からSFを讀込んでゐたし、だから小谷真理とか大原まり子とかその邊からそつち方面にも手を出してゐた。所謂「戰後」のSFと、SFから派生して現代思想方面の勉強も、高校の頃に一度やつてゐる。
で、厭きた訣だ。
平成十六年三月十一日
本日の買物。
世界文學大系74『ルネサンス文學集』筑摩書房
ジョンソン(吉田健一譯)『シェイクスピア論』思索選書
『ダン抒情詩選』新月社・英米名著叢書
『ハアデイ短篇全集』森田書店
エルヴェ・ルソー『キリスト教思想』文庫クセジュ576
平成十六年三月十一日

 またこの世紀には、プロテスタントのカペル(『聖典批評』)、オラトリオ会士モラン(『聖書講義』)、スピノザ(『神学=政治論』)、なかんずくオラトリオ会士リシャール・シモンらによって聖書の原典批判が生れた。『神学=政治論』のなかでスピノザは、哲学と神学、理性と信仰の完全な独立を提唱する。そうとなれば神学に合理的基礎をあたえることは不可能であるが、逆に哲学的思弁が「啓示」を脅かすこともまたありえない。

「聖書はあくまでも理性に自由を許しており、また聖書には哲学となんら共通なものはない、というまったき確信を私は得た。」(序)「信仰と哲学を分離せしめることがこの作品の主要な目的である……。哲学の目的はただ真理のみであり、信仰の目的はただ服従と敬虔のみである……。哲学の基礎は共通な観念であり、それはただ自然からのみ引き出されなければならない。「信仰」の基礎は歴史および文献学で、もっぱら聖書から、また啓示から引き出されるべきものである。信仰はしたがって一入ひとりの人間に哲学することの至高の自由を認める……。神学は理性の侍女たるべきではなく、理性は神学の侍女であってはならない。両者はたがいに固有の王国を有するのである。」

 このような立場は中世にもすでに現われていた。だがスピノザはその『神学=政治論』のなかで、理性は他のあらゆる文献に対すると同様、聖書の批判的検討にもあたらなくてはならないと考えている点においてさらに一歩を進めているのである。スピノザの指針はリシャール・シモンによって『旧約聖書批判史』(一六七八)において実行に移され、この書は禁書処分を受けた。……

平成十六年三月十一日
教父哲学とかスコラ哲学とか、当時の神学について語ろうとすれば、哲学史の知識は必要。何が変革で何がそうでないのかも分からない人間にまともに議論ができるとは思えない。あと景教をろくに押さえもしないで仏教とキリスト教の比較検討をできるとは思えないし、親鸞の新規性や後の日本史における意義が分かってないようで日本の宗教を語れるとも思えない。 なんつーか基本的なところが欠けてるから、宗教議論としても哲学議論としても同好会レベル。文学としても、穴が開いてるのに自分で気づけないようではあまりレベルが高いとも思えない。
高橋氏は、自分と違ふ理解の仕方をしてゐるからといつて、俺の事を無知と極附けてゐるが、何うかしてゐる。
俺にしてみれば、高橋氏こそ、何が変革で何がそうでないのかも分からない人間であるやうに見える。高橋氏は、自由と云ふ觀念すら、理解してゐないのだから。
おそらく彼は、一般教養で哲学を取らなかったんじゃないですかね。だから、スタンダードでマクロな視点での哲学史の把握が出来てない。そんなの所詮理系の俺だって出来てないけど、俺にでも指摘できる程度の間違い……といってわるければ、かなり偏った読解がある。
理系で解つてゐない高橋氏の方こそ、かなり偏った読解をしてゐない、とは言へまい。
平成十六年三月十一日
と言ふか、高橋氏がキリスト教の事を何も知らないのに、ひたすらキリスト教的な物の見方を非難してゐるのは、何うかしてゐると思ふ。俺だつてキリスト教の信者ではないし、キリスト教社會で生れ育つた人間ではないが、俺にでも指摘出來る程度の間違ひ、と言つて惡ければ、可なり偏つた讀解の仕方を高橋氏はしてゐる。スタンダードで正統的な視點でのキリスト教の把握が高橋氏は全然出來てゐない。
高橋氏のしてゐるのは、アナーキズムと共産主義が入交じつた、現代左翼の内輪受けの「読み」でしかない。そんなものには興味が無い。良いからまともなキリスト教の勉強をしろ。
平成十六年三月十一日
http://d.hatena.ne.jp/YasudaS/20040311#p1
絶対的他律はありえない
絶対的自律もありえない。
何かしらを自己の判断で吸収するということがないとね。と言つてゐるのだから、やの日記の中の人は、「自律」と「他律」のうち「自律」の方を支持してゐる。
ところで、絶對的な自己の判断なるものはあり得ない、と云ふ事もまた、自明である。判断が先か、吸收が先か。もちろん、吸收した知識を前提に、人は判断するのである。
平成十六年三月十一日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040310#p7
北守將軍の考へてゐる事は何なのだらう。あれでもなければこれでもないのださうだが、では何なの? 説明して下さい。
出來るものならな。
平成十六年三月十一日
噂の真相いよいよ休刊ださうだが、本屋の店頭では全然注目されてゐない模樣。もつとも、あと一册、別册だか増刊だかを出すらしい。
平成十六年三月十一日
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2004/03/post_24.html
昭和天皇は至誠の人であったと私は信じる。と述べ、昭和天皇の心中に思いを致せ。と述べる。
しかし、昭和天皇には、道義的の側面とともに、近代的な立憲君主としての側面もあつた事を忘れてはならない。
實際のところ、明治天皇の誕生日を明治節、大正天皇の誕生日を大正節と呼ぶのだが、當然、昭和天皇の誕生日を「昭和節」と呼ぶ筈である。昭和天皇が反對しても、昭和天皇の誕生日は動かない。
單に、「祝ふ日」「顕彰する日」「思ひを致す日」等と意義を附けるから話がをかしくなるだけの事だ。
個人的には、「昭和の日」だけを突然、創設しても、無意味だと思つてゐる。祭日は、作れば良いと云ふものではない。一貫しない由來に基いて休日を設けるのはナンセンスだ、と言ひたいだけである。祭日の體系的な整備が必要である。
平成十六年三月十一日
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2004/03/post_25.html
國家神道は、明治時代に「作られた」ものだが、代りになるものが無い以上、それでやつて行くしかなからう。ただ、國家の一方的な統率下に置かれた神道が敗戰まで辛酸を嘗め、敗戰後にもやはり辛酸を嘗めさせられた事に思ひを致すべきである。國家神道の現實を知つてゐれば、「でっちあげ」等と非道い事を安易に言ふ事は出來ない筈である。
アメリカのアーリントン墓地がキリスト教の墓地であるのと同樣、戰沒者の慰靈施設が神道の靖國神社であつて惡い訣がない。寧ろ、無宗教の慰靈施設等と云ふ訣の解らないものを作る方が何うかしてゐる。宗教心無くして靈の觀念もあり得ないからである。靈が存在する、と信じた時點で、その人は宗教を信じてゐるのである。
そして、亂暴な事を言ふやうに聞えるかも知れないが、日本人の素朴な信仰は、神道の信仰と一致する。なぜなら、神道は日本人の素朴な信仰だからである。神道自體と、國家神道や教派神道等の宗教團體の個別の教義とを混同してはならない。素朴な信仰しか、日本人は持ち得ない。西歐人が宗教と言つたら先づキリスト教を想起するのと違つて、日本人には特定の宗教を想起する事が無い。自分の信じてゐるのは「佛教」だと言ふ人もゐるが、「葬式佛教」以上の觀念を持たないのが普通の日本人であり、漠然と「死んだらあの世に行くのかなー」等と考へるのは佛教的ではなく神道的な發想である。そもそも、佛教では、あの世に行かない。行くのは轉生先である。轉生先は、來世か、淨土かである。餓鬼道に落ちれば御終ひだが、供養をすれば濟はれる、と云ふ例の盂蘭盆經のエピソードは、シャーマニズムとしての儒教が普及した支那での創作である。日本人の死生觀に、佛教が根本的な影響を與へた事實はない。西歐人に訊くと「キリスト教なんて信じてゐない」と云ふ意思的な否定の答が返つて來る場合があるらしいが、日本人に訊くと「私は佛教徒です」と云ふ分析的な肯定の答が返つて來る。これこそ正に、西歐人が積極的にキリスト教に對する態度を決め、日本人が佛教に對して消極的である事を示してゐる事實である。
精々素朴な信仰をしか日本人は信じない。そして、その素朴な信仰として神道を捉へ、現に存在する神社神道を嘗ての國家神道のやうにではなく素朴な信仰の對象としてあらしめるやうにすれば良いだけである。靖國神社に戰沒者が祀られる事に反對する連中は、このままでは「國家神道が必然的に復活する」ものであるかのやうに言つてゐるが、必然なら必然で受容れるしかないし、積極的に歴史を變へられると言ふのなら、何も國家神道と神社神道とをイコールで結ぶ必然性こそ「無い」と言ふべきである。結局のところ、左翼の連中は、意思の力と、必然とを、適切に把握出來てゐないのである。そして、その意味で、「極東ブログ」の中の人も、左翼的である。まあ、「反米」等と言つてゐるのだから、左翼的である事は明かであるが。「反米保守」はまたぞろアメリカと戰爭をやらかして日本を潰したいらしい。見上げた保守派である。國を潰して何が保守派か。國を守つてゐないぢやないか。
平成十六年三月十一日
世の中の多くの人が、「○○である」と云ふ事、「『○○である』と思はれてゐた/ゐる」と云ふ事、「○○であるべきだ」と云ふ事を意識する。しかし、「『○○であるべきだ』と思はれてゐた/ゐる」と云ふ事は「意識する必要がない」と思つてゐるらしい。
平成十六年三月十一日
小林秀雄日記 [知られざる文献]
この間の全集も買つてゐない訣で云々。

平成十六年三月十日
http://d.hatena.ne.jp/YasudaS/20040308#p4
早稻田に限らず、或學校の在学生なり卒業生なりが母校の惡口を言ふのは特權だけれども、餘所の人が餘所の學校の惡口を言ふのは如何なものか。
早稲田で学んだ人を一概に、全員があの低能レベルだと考えるのは間違い。その可能性が非常に強いだけで、まだ奥島孝康並の腐った根性でいるかは、個別にあたらないといけません。
個別に當つてから確率を決定して呉れ。可能性ではなく。やの日記の中の人にしてみれば、俺も早稻田卒のドキュソの一人なのかも知れんが。
奥島孝康氏についてはアレだと慥かにずつと思つてゐたけれども、かう云ふ風に好い氣になつて早稻田を貶す人の姿を見るのも良い氣はしない。
平成十六年三月十日
神保町驛の都營新宿線プラットフォームにゐる驛員が「間もなく扉が閉ります。オリノリツヅイテクダサイ」なる奇怪な文句を毎朝發して呉れる。「ゆめもぐら」なる奇怪な名稱を却下した石原は何とかして下さい。
平成十六年三月十日
神保町のマクドナルドで「フライドポテトのおソース」なる奇怪な文字列を發見。何とかして下さい。
平成十六年三月十日
http://d.hatena.ne.jp/YasudaS/20040310#p2
早稲田について、今の状況から合理的に考えられることを提示すると、それが悪口に聞こえるとしたら、それは単なる被害妄想です。
上の引用で強調した部分、これは明かに邪推であり、惡口以外の何ものでもない。邪推をする人は自分の邪推は適切な推測であると信ずる傾向があるやうだ。
自分のところのことでしたら、ご自分でどうぞ、がんばっておやりになれば、よろしい。
他人のところの事ですので、あなたは早稻田の事をあれこれ言ふのを止めるがよろしい。
ま、関係してしまった人は、がんばって身の証をたてる、もしくは母校に「奥島孝康の詐欺まがいを否定し、今後はこういった馬鹿を出さない様にする」といった公示をさせるのがよろしいでしょう。
早稻田の關係者は全て関係してしまった人なんですかねえ。やの日記の中の人は、その邊を勘違ひしてゐます。
と言ふか。「早稻田の中の人は、自律自浄の精神があるから、総長とは關係がない」と云ふ理窟も成立つ。もちろん、理窟は理窟であるが、所詮「や」氏の言つてゐる事も理窟である。
ただ、「や」氏は、勝手に「関係」をでつち上げ、關係のない人を恰も關係があるかのやうに見せかけて、それで早稻田の印象を惡くしようとしてゐる。「や」氏のやつてゐる事は、「印象を惡くする」と云ふ事である。これは、中傷以外の何物でもない。具體的な證明は何一つ無い。
「総長が惡い事をしたら、総長以下の總ての早稻田關係者は惡い事をしてゐる」と言へるだらうか。言へる訣がない。當り前の話である。言へる筈のない事を平氣で言ふのは、馬鹿である。奥島孝康といった糞低能の元で教育を受けるという災厄にあった人と書いてゐるが、奥島氏に習つた學生より、習はなかつた學生の方が多い筈である。俺は習はなかつた。第一、學部が違ふ。
また、「や」氏は、早大SuperFreeを早稲田に気をつけるといったらと言つて採上げ、さすが、奥島孝康の薫陶です。と書いてゐる。「や」氏は、恰も早大SuperFreeの逮捕された和田容疑者が奥島氏と關係があるかのやうに書いてゐる。しかし、和田容疑者が奥島氏の授業を取つてゐたと云ふ話は聞かない。「プロ学生」の和田容疑者が、授業に出てゐたとも思はれない。そもそも、和田容疑者が奥島氏の薫陶を受けた、即ち、奥島氏の人格に感化され、人格が形成された、と云ふ事を、「や」氏は立證してゐない。ただ、「同じ早稻田」と云ふ事で、「や」氏は聯想ゲームをやつてゐるだけである。杜撰極まる思考と言ふほかない。
と言ふか。
しかし、あの奥島孝康という馬鹿の教えやらをまだ持ち続けている早稲田人とかいうのは、多くいるだろうし、世の中にとっては大変危険な存在であることは、示しておくべきことでしょう
「や」氏は、何一つ、論證してゐないのである。
早稲田について、今の状況から合理的に考えられることを提示すると、それが悪口に聞こえるとしたら、それは単なる被害妄想です。
「や」氏の言つてゐる事の方が妄想である。自分の妄想を妄想と自覺出來ないのだから、「や」氏の病は膏肓に入つてゐる。
あと、この手の間違つた論法を平氣で用ゐる連中は、どうして同じやうな文體を用ゐるのだらう。「〜しちゃいました」「〜なんだよね」「〜なんですよ」等と、とても押附けがましい文體を、彼等は用ゐる。アレ氏とかホラ氏とか、自稱お兄ちゃんとか。もちろん、と××氏もさうだ。
平成十六年三月十日
と言ふか、「や」氏は早稻田に何か、恨みでもあるの?
合理的を自稱するのは勝手だが、合理的に判斷してゐるだけの割に、「や」氏の文章には他人を見下す態度が露骨に出過ぎてゐる。「や」氏の文章が、冷静で客觀的な文章であると判斷する奴がゐたら、そいつこそ間抜けである。あの文言では、そう読めてしまうってことね。
それと、「や」氏の奥島孝康といった糞低能と云ふ文句は、名誉毀損だか侮辱だかになるから、奥島氏に訴へられれば「や」氏が逮捕される可能性はあるし、少くとも「はてな」の規約には違反してゐると言へる。
個人的には、「や」氏が誰の薫陶を受けたのか、興味がある。「自律」でこんなになつてしまつたのだと云ふ可能性もある。「自律」とは大した物ですねえ。
平成十六年三月十日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040307#p3
カトリックの道徳論とスピノザやアインシュタインの宗教観と言つてゐる高橋氏は、道徳論にしても宗教觀にしてもその内容を言つてゐるのであつて、その形式を言つてゐるのではない。スピノザの論じ方、アインシュタインの宗教に言及する仕方に、私は著目してゐる。高橋氏は、ただ、教條的に、「道徳論」「宗教論」の内容をキリスト教の教義なり何なりの内容と比べてゐるに過ぎない。スピノザの哲学の想定する神ではなく、「スピノザが神を提唱するやり方」に私は興味がある。
もちろん、高橋氏には「俺は形式など興味がない」と言ふ權利はある。
しかし高橋氏は、DDT氏に、かう言ひ放つてゐる。
つまり、あなたが「むしろ」程度のつもりで出してる認識のほうこそ、俺にとっちゃ本題。
私も高橋氏に、同じ事を申し上げたい。どうして私が、高橋氏の「物の見方」に附合はなければならないのか。高橋氏こそ、視野を擴げたらどうか。またぞろフェミニズムの上野千鶴子なんか讀んで。
しかし、高橋氏にしてみれば、形式に著目するのは、「淺い」讀み方なんだらうなー。おね2の私の見方を、高橋氏は嘲笑つてゐたからなー。形式的な事も理解しないで、内容だけ知らうとする馬鹿。
平成十六年三月十日
と言ふか、高橋氏はこんな事を言つてゐる。
彼の理論 ひらたくいうと、心の中で思うだけで姦淫だ、なんて言い出したら思想信条の自由もなにもあったものではないと。
高橋氏が、キリスト教の事も、自由主義の事も、全然理解してゐない事は、わかる人にはわかるんだがな。
自由主義が、思想信條の自由を認めつゝ、個人が自然に或種の思想信條を持つやうになるのを期待してゐる事は、ちよつと勉強すれば解る事なのだが。高橋氏には、フェミニズムだとか何だとかと言つた瑣末な思想ばかり勉強しないで、正統的な思想を基礎から確り勉強する事をおすすめする。
平成十六年三月十日
現に野嵜さんと俺でこれだけ違うんですよ。
私はキリスト教社會の人の思考方法を模倣してゐて、それを日本人的な餘りに日本人的な高橋氏が理解出來ない。それだけの話だ。
平成十六年三月十日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040310#p2
野嵜さんにしてみれば、たとえば大塚久雄もマルクス主義歴史学者になるんだろう。
何かのジョークですか?
近代化という語について(中略)私のばあいには(中略)資本主義以前の社会諸形態のどれか一つから資本主義へだけでなく、社会主義への移行を含めるものだったのです。
ちなみに、私の言つてゐる「近代」は、大塚氏の用語の「近代」とは違ふよ。
平成十六年三月十日
ホブズボームはソ連に甘い。これも昔から批判されてること。とりたてて騒ぐことでもない。
自分に都合の惡い事には目を塞ぐ、か。
平成十六年三月十日
歴史的な現象だよ。何言ってるんだ。
どうやら、「歴史的な現象」は、觀念の事を指すらしい。
この種の言換へ許りやつてゐては、頭がをかしくなるのも仕方がない。
と言ふか、「昔の人が考へたネイションの概念」は概念に決つてゐる。それを「イギリスと云ふネイション」等の具體的なものと取違へてゐるのではないか。と言ふか、どうも北守將軍やホブズボームは、その手の間違ひを冒してゐるやうに思はれる。「歴史学」の對象を、精神から除外し、物質に限定してしまつてゐる。「一般言語學」で、記號としてのラングにのみ言語學の對象を限定すると云ふソシュール學派が冒した誤と同じやうな誤を、彼等は冒してゐる。のではないか。
ホブズボームは、「ネイション」を定義するのに、人が考へる概念を「曖昧だ」「曖昧だ」と極附けて否定し、唯物的な「歴史的な現象」で捉へられる範圍でのみ、考へようとした。此が誤だ、と私は言つてゐるのである。
平成十六年三月十日
しかし、歴史学のスリルとは、その仮説が史料によって裏切られるところにある、ということをギンズブルグがどこかのインタビューに答えて言っていた。
スリルを味はふ爲に、歴史學の研究者が史料に假説を裏切らせる、と云ふ事をやつてゐないとは言へない。間違つた假説をでつち上げるか、間違つた史料をでつち上げるか。
平成十六年三月十日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040307
陰翳に対する美意識は、けして日本固有のものではないのだ。
人間のモノに対する感覚というのは、文化つまりヨコの関係だけでなく、時間―タテの関係においても無数に切れている。
平成十六年三月十日
私は「日本特殊論」ではなく、「西歐特殊論」を支持してゐる。
平成十六年三月十日
現代の歴史學は、恣意的な「インターナショナルな枠」にはまり込んでしまつてゐるやうに思はれる。
と言ふか、全體としては皆何でもかんでも同じと看做す割に、個人と個人との間には何の共通性も見出してはならないと考へるらしいのだが、支離滅裂としか言ひやうがない。
平成十六年三月十日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040307#20040307f2
言ひ訣にしか聞えない。言つてゐる事とやつてゐる事とが一致しないからだ。
平成十六年三月十日
戰前、日本國民は西歐等とは違ふ固有の大和魂を持つてゐるがゆゑに優秀なのである、と云ふ説が存在してゐた。しかし、敗戰で、この論は猛烈な批判に晒された。批判者逹は言ふ、日本は、アメリカやイギリスのやうな自由主義・民主主義を實現させず、封建社會を維持・強化した。だから日本は軍國主義を招いたのだ。
この批判者逹が「アメリカやイギリスのやうな自由主義・民主主義」よりも「ロシアのやうな共産主義」を實現しなかつた事が最大の問題だ、と考へてゐた事を露骨に表明しなかつた爲に、話が無駄にややこしくなつた事は否めない。
實際のところ、結局は歴史學も長い間、政治的な枠――恣意的な枠組み――を拔け切れなかつたと云ふ話だが。
「日本國民の優秀性」とか「封建的」とか、さう云ふ價値觀を持込んで話をするのが惡いだけだ。
平成十六年三月十日
論者の思想的立場――具體的に言へば共産主義――に對する配慮を拔きにして、その論者の主張する唯物論的「歴史学」を受容れてしまふ、と云ふのは、大變危險な事だと思ふのだが、その邊に無頓着な北守將軍だからこそ、自由主義なり民主主義なりの精神的バックボーンであるキリスト教の精神を無視してしまふのだらうなー。
平成十六年三月十日
書泉グランデでジョージ・スタイナー『ヒトラーの弁明 サンクリストバルへのA・Hの移送』を買つた。
「好評既刊」に、呉善花氏等の著作とともに、『ユダヤ人とは誰か』以下三册のユダヤ關係の本がラインナップされてゐるのを發見。三交社は、何だつて宇野正美なんかに變な本を飜譯させるんだ。

平成十六年三月九日
フィールディングの『トム・ジョウンズ』を讀んでゐる。現在第三章。
平成十六年三月九日
http://blog.sakichan.org/ja/index.php/2004/03/04/p70
http://deztec.jp/design/04/03/000162.html
http://blog.sakichan.org/ja/index.php/2004/03/06/p71
http://d.hatena.ne.jp/jintrick/20040309
以下、徳保氏の辯。
このときセルフチェックは信用ならないので、他律的環境を構築せよといっているのです。
これだけ見ると、をかしな事は何もない。
崎山氏曰く。
被雇用者は給与を受け取るかわりに雇用契約とそこから参照される就業規則によって雇用者である企業との間でさまざまな義務を負う。しかし、その義務はあくまでも業務執行やそれにかかわる情報の扱いなどについてであって、私生活上に関する義務は通常はない。
これだけ見ると、やはり、をかしな事は何もない。
徳保氏が、他律的環境として組織を持出した事がをかしい、と云ふ指摘は、當つてゐる。ただ、我々は奴隷か?否。と云ふスローガンがをかしいだけだ。
徳保氏も、崎山氏も、全く同じ考へ方をしてゐる。津村氏も同樣の考へ方をしてゐる。皆、そもそもの三中氏の或考へ方について、相對的な意見を述べてゐるに過ぎないのである。
三中氏は以下のやうに述べる。
それは「自分のため」です.少なくとも他人のためではありえない.そういう利己的なモチーフがあって初めて持続するパワーが生まれるのだと思います.
これに對して、津村氏は、サラリーマン的な人と自営業的な人とが意見を述べる動機を區別して分析してゐる。そして、かう纏める。
ウェブで語るのは「自分のため」が基本でありながらも、公開の場で書くこと自体、誰かの反応がほしいという気持ちがあるわけで、他人のためになる(=より多く読まれる)ことがすなわち自分の励みにもなる・・・という動機づけ経路が存在することについては、多くの人が言及しています。
津村氏は、しかし、この観点はあまりに当たり前なので置いておいて。と書き、以下の事を述べる。
社員が個人的にやってることが世の中全般の役に立ったって、会社にとっては別にありがたくないんです。問題は、会社にとってメリットがあるかどうかです。
崎山氏は以下の文句から文章を始めてゐる。
が、最近話題になっているblog記事で、あまりにも有害なものがあることに気づいたので。影響力なければ放置すればいいんだが、そこそこ有名な個人blogから参照されつつある状況で下手に影響力を持たれてもかなわないので批判しときます。
徳保氏は反論して、一般人を不安にさせることは、組織(ひいては業界全体)のためにならないといっているだけです。
徳保氏の反論は、http://deztec.jp/design/04/03/000157.htmlの文章を見ると、怪しいのだが。徳保氏曰く、WWW がみんなの道具となるにつれ、専門家がバカな発言をする事例が目立ってきています。そうして、組織と業界の信用を落としているのです。間違いを指摘されたとき、多くの専門家は反省するでしょう。しかし、セルフチェックではまた同じミスをしますよ。だから、組織のプレッシャーを利用すべきだといっているのです。
徳保氏は、また、かう述べる。自称専門家が誤ったことを述べて一般人が迷惑するから「個人の責任で情報発信するな」という主張を、私はしていません。
私の指摘に對する反論も、かうして見ると理解は出來る。徳保氏の、けれども、そういった現実を包み隠さず消費者に見せてしまうのは間違いだと思う。と云ふ文章も、徳保氏の思想を推測する參考に出來る。
http://blog.sakichan.org/ja/index.php/2004/03/06/p71で、崎山氏は、先の我々は奴隷か?否。と云ふスローガンの線に沿つて、議論を展開してゐる。これが結局、徳保氏の意見の相對化にしかなつてゐない。崎山氏の意見と徳保氏のそれとは相對的な違ひしかない。それなのに崎山氏が、自分の立場は徳保氏の立場と絶對的に違ふ、と考へて、徳保氏の意見、或は徳保氏をけがらわしいものと看做してゐる。これはをかしい。崎山氏に可能なのは、「私は徳保氏の意見に反對だ」と云ふ程度の表現である。
この議論では皆、立場とか動機とかに拘り過ぎである。もつとはつきり言へば、議論の影響を考へ過ぎる。
私にしてみれば、議論では誰がどんな立場から何を言つても良い、ただ、その言はれた事が正しいか正しくないかが問題である。根據がただ「立場」なり「職業」なりでしかないのであれば、もちろん、論ずるまでもない話だ。しかし、それで出てきた意見が、偶然でも、正解であるならば、文句を言ふべきではない。間違つてゐたならば、批判が可能である。「立場」や所屬組織を理由に非難する、と云ふのは、やはりもちろん、馬鹿のする事である。根據を提示しつゝ論者が提唱したAと云ふ意見には、別の論者が根據を指名しつゝ非Aの意見を述べる事が許される。そして――一番重要な事を言ふが――Aと非Aとでどちらが正しいかを最終的に判斷するのは、第三者である、讀み手である。此所では、論者の責任も糞も無い。最後には、複數の意見を取りまとめて自分の意見を作るのが、個人個人に任されてゐるのである。言論の受け手は、言論に對して批判的な讀み方をする事が必要である(批判的とは、單なる「アンチ」を意味しない。機械的な「アンチ」的反應は、「無批判」的な態度と變りがない)。批判的な讀み方をするのが、言論の自由の許された國・日本國における、言論の享受者の義務であり、責任である。言論の發信者の責任許り――と言ふより、「メリット」だの「動機」だのといつた事許りが議論されてゐるやうに思はれる。或立場の利害得失許りが論じられてゐる――しかしこれは、寧ろ、その立場に立籠つた議論である。そのやうな議論に、あるのは相手の意見の相對化と、自己の意見の絶對化のみである。この時、彼我に對話はない。
近代文學は批評文學であるとは、オスカー・ワイルドの示したテーゼである。私は、近代とは批評の時代であると考へる。そして、批評とは、單なる相手の意見の機械的で絶對的な否定を意味しない。利害得失の計算に據る打算的判斷も意味しない。眞理の探究が、神及び神の代行者から、個人個人の手に委ねられたのが現代である――少くとも、西歐では。そして、この種の考へ方が受容れられない日本において、打算なり現世利益的な效能なりが珍重されるのは、私には西歐における眞理探究の態度の存在するのと、殆ど絶對的な懸隔があるやうに思はれる。そして、純粹な眞理探究の態度が西歐的な態度でないとしても、私の意見の本質に影響はない。所謂「絶對の探究」がなされてゐない事を、私は指摘してゐるだけだからである。
實際のところ、動機のない「絶對の探究」を、人間はするのである。だから、動機の分析や利害の計算は、必ずしも意味のある事ではない。
平成十六年三月九日
机の すごい 埃。
平成十六年三月九日
眞理の探究者(をもつて自認する人)と、世間の普通の人とは違ふ。
オーウェルの『動物農場』で、ボクサーの態度は、近代以前の普通の人の態度(の象徴)である。彼は、眞理の探究を自らの使命と考へない。頭の良い動物から與へられた眞理を眞理として受けとる。一方、スノーボールやナポレオンは、「眞理」を與へる側の動物だが、眞理の探究者ではない。特にナポレオンは、自らの都合にかなふやう、「眞理」を書換へる。だが、豚も馬も、眞理等に興味を持つてゐない。
眞理を、個人を超越したものと認識し、絶對的なものと認識して、夫れ自體を追求する意識なり態度なりは、洋の東西を問はず、存在する。しかし、その意識を、西歐ほどに肥大化させた文明は存在しない。東海の小島である我が日本國の國民が、自分逹が現世利益を求めて科學を利用し、政治を利用してゐるのを、この世で唯一の原理と看做し、その原理を西歐人の行動原理と極附けるのは、一種の思ひ上りである。寧ろ、個人の利害を超えた價値の存在を認める傳統を、西歐人の生き方の背景に見出した方が良い。キリスト教が、結果として現世利益的な事してゐるのは、紀元以來の歴史を見れば明かである。しかし、キリスト教のGodが、ユダヤ教のヤハウェである事も、明かな事實である。そこに、矛盾と一貫性のなさを見出すのは、寧ろ近代の副作用としての潔癖主義である。キリスト教は、本質的に矛盾と葛藤とを孕んだ――と言ふよりそれらを人間の根本原理として認めた宗教であると見るべきである。キリスト教は、新約聖書を聖典とするが、舊約聖書を單に否定してなどゐない。そして、その矛盾・對立する理念を考察し、止揚して、ジンテーゼを見出す事は、可能である。絶對者・Godと云ふ絶對的で超個人的な存在を、ユダヤ教以來、キリスト教の文化では認めてゐる、と云ふ事である。そして、キリスト教文明である西歐文明の中に住む西歐人の、特に教養人は、常にキリスト教の存在を意識してきた。そして、教養と文化とは、同じものである。我々日本人が、cultureと云ふ一つのものを、異る側面から見て、認識して、區別してゐるに過ぎない。彼ら西歐人の生において、一時期以來、常にキリスト教の超個人的な觀念との關りが意識されてきた。そして、意識する主體は常に教養人である。茲では、眞理の探究者と意識的な人と教養人――そして近代人――とは同義である。だが、その種の人間は、近代と云ふ時代以前、既に存在した。ならば、近代と云ふ時代に彼等の存在を押込める理由はない。そして、彼等の系譜を「正統」と呼ぶ。一方、ここで、彼等教養人と、大衆とを、對立させて考へる、階級史觀そつくりな批判をする人がゐる。もちろん、この種の批判は、あり得る。が、私はこの對立が相對的な差異に過ぎないと考へる。日本において、日本的な大衆と、日本的な教養人との間の懸隔が、絶對的な懸隔でないやうに。西歐においても、大衆と教養人との間は、懸隔が「ある」と見るべきでなく、境界線をはつきり引く事の出來ない連續的なものと見るべきである。基本的に、彼等の思考パターンや行動原理には共通性がある。そして、そのバックボーンを意識してゐるか、ゐないかが差異であるだけである。西歐に於いては、キリスト教を意識する、しないが、その差異である。そして、キリスト教を意識した時、積極的に同意するか、積極的に反撥するか、によつて、教養人の態度が異るに過ぎない。そして我々は、西歐の教養人が殘した文献を調べる事が出來る。アンチキリストのニーチェでさへ、甚だキリスト教的である、と云ふ事が、ヤスパースによつて指摘されてゐるが、これは既に述べた。他の多くの思想家・科學者・歴史家・思想家・文學者(以下略)の、個々の著作を檢討すれば、屡々キリスト教に對する個人の意識が明確に表はれてゐるのが解る。不明確であるとしても、個人を超えたものへの志向ないし積極的な反撥が、常に表れてゐる。日本の思想家のやうに、意識せずしてキリスト教に言及しない、と云ふのとは違ふ。
平成十六年三月九日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040219#p4で出て來たホブズボーム氏の『歴史論』と『ナショナリズムの歴史と現在』とを立讀み。北守將軍もほかの人も言はなかったけれども、ホブズボームは共産主義者の歴史學者。共産主義の本流に楯突いてゐた御蔭で、ソヴィエトが崩潰した時、却つて自分の立場の正當性を主張出來た人だ。基本的に、「この手の人」の主張は全部同じ。讀んで見ても、Yahoo!の掲示板等でおなじみの主張が書かれてゐるだけだ。
ホブズボームは、事實が一つである事、客觀的に認識可能である事、その客觀的な認識の方法はユニヴァーサルな「歴史學」と云ふ方法である事を――主張するのではなく――事實として記述する。そして、歴史物語は「嘘」を含み、「歴史學」と云ふ方法を知つてゐる人ならば誰でもその「嘘」を見破る事が出來、正しい歴史を示す事が出來る、と述べる。
なるほど、言つてゐる事はいちいち御尤もである。別に反論する積りもない。と言ふより、その程度の事は私が常々主張してゐる事だ。
一方、ホブズボームは、ちやんと「歴史學」の限界を心得てゐる。ホブズボームに學んだと思しき北守將軍が、その限界を忘れて、他人の主張を「歴史學」で割切らうと試みたのは、寧ろホブズボームの教へに反する事である。しかし、ホブズボーム自身、その自ら設定した境界線を、時々踏越えてゐるやうに思はれる。
平成十六年三月九日
「ナショナリズム」の議論で、ホブズボームは「ネイション」の概念を嚴密に定義しようと試みる。そして、既存の思想において、「ネイション」の概念が常に曖昧である事を指摘する。
ここに落とし穴がある。ホブズボームは、現象として――科学的な分析が可能なものとして――歴史を扱つてゐる。しかし、「ネイション」にしても「ナショナリズム」にしても、觀念であつて、現象ではない。
ホブズボームが「曖昧」と極附けた過去の「ネイション」なり「ナショナリズム」なりの觀念であるが、曖昧だから何うだと言ふのだ。「曖昧」であると言つてホブズボームは、觀念の肝腎な部分を削りに削る。その結果、殘るものは、元の生き生きとした觀念とは異る、死んだ觀念だけである。死んだ觀念に人は衝き動かされない。しかし、人は生きた觀念に衝き動かされ、歴史を作る。
ホブズボームは、共産主義者であるが、「異端」の共産主義者だから――と言ふより、共産主義の觀念的な研究者であつて實踐者ではないから、教條主義的である。彼にしてみれば、宗教の否定はテーゼである。宗教が歴史の動因となる事はあり得ない。共産主義者にとつて、精神は無意味であり、唯物論が精神を支配する(これは矛盾した表現だが、この矛盾を共産主義者は認識しない)。宗教も傳統的な精神も、精神的なものであり、歴史の動員である事は認められない。そして、精神の「曖昧さ」を、共産主義者は、非科學的であるとして排除する。その結果、「科學的歴史學」が成立する訣だが、もつともらしく構築されてゐるその學問も、重大な缺陷を抱へてしまふ。歴史を動かす人間の動機を説明出來ないのである。
この事は、ホブズボーム自身が氣附いてゐたやうで、歴史の再構成と解釋は「歴史學」の任務でない、と述べてゐる。
ただ、歴史の再構成と解釋に至る以前の「歴史認識」の部分で歴史の「科學的」な分析を必要とすると言ふのならば、「歴史學」の任務の領域は、それ以外の領域と單に別である訣ではなく、「歴史學」以外の領域を規定する大前提となつてしまふ。北守將軍は、さう云ふ理解をしてゐる。しかし、既に述べたやうに、ホブズボーム流の「科學的」な「分析」は、マルクス主義の唯物論的な解釋そのものである。言換へれば、「科學」と云ふ名の解釋を行つてゐるに過ぎない。過去に、マルクス主義者は、自らの方法を「科學的」と稱し、史的必然論を唱へた。ホブズボームも、全く同じ過ちを犯してゐる。そして、その過ちを、北守將軍も犯してゐる。
平成十六年三月九日
北守將軍は、自分が左翼である事を、ちやんと表明しておくべきだつた。そして、自分の支持する「歴史學」が、共産主義的で唯物論的な「歴史學」である事をちやんと言つておくべきであつた。どう云ふ訣か、左翼の人は、自分が左翼の思想にかぶれてゐる事や、マルクス主義を支持してゐる事を明言したがらない。そして、飽くまで自分は客觀的な物の見方をしてゐるのだ、と自分で自分にレッテルを貼る。自分が客觀的なのだから、敵は主觀的である。主觀的である事は非科學的である。非科學的である事は間違ひである。この、嘗て敵對者に「空想的共産主義」なるレッテルを貼り、自ら「科學的共産主義」を稱へたマルキストの戰術を、北守將軍は再び採用してゐる。
しかし、「科學的共産主義」である筈のマルクス主義が、決して科學的でない事は、證明されてゐる。
北守將軍の「科學的歴史學」も、決して科學的とは言へない。ホブズボームの歴史學も、「ネイション」を正確に定義しようとするやり方を見れば、彼の「分析」が、意圖的で、主觀的なものである事は明かである。ホブズボームは、意圖的に歴史から人格を削落とす、と云ふ、人文科學に於て致命的な誤を冒してゐる。
平成十六年三月九日
或は、ホブズボームは、科學と、科學を用ゐる人間とを、區別してゐない。科學的方法はユニヴァーサルだが、科学的方法を用ゐる人間は決してユニヴァーサルでない。この根本的な誤を、北守將軍は誤と認識しない。何でも「科學」で割切れば良いのではない、と云ふ事を、北守將軍は解らない。この點、北守將軍は教條主義的であると言へる。
私は、曖昧なものも、曖昧なものとして、在りのままに受容れたいのだ。事實を在りのままに受容れる事こそ、學問における本當の合理精神と言ふものだらう。
平成十六年三月九日
ITmediaニュース:米特許商標庁、「ブラウザプラグイン特許は無効」の予備判断
Microsoftにはデスラー總統がゐるから無敵。
平成十六年三月九日
ホブズボームの例證にも、問題がある。ホブズボームが、「歴史物語の嘘」を説明するのに用ゐた、「虐殺のあつた村」と「歴史學的な方法で正しい歴史を把握した村民」の例(だつたつけ?)が、果して例として適切であるか何うかは、檢討の餘地がある。可なり意圖的に、「虐殺」と云ふ甚だ偏つた例が持出されてゐる事に、讀者は注意する必要がある。
「物事が隠蔽され易い状況」を持出し、「ほら、事實が隠蔽されてゐるだらう」と言はれると、讀者は「ああ、確かに隠蔽されてゐる」と感ずるが、それは「それらしい」と感じたに過ぎないものである。しかし、その心理的操作を行つたにもかかはらず、「歴史物語では物事が隠蔽されがちである」と云ふ一般的な結論が出される。この結論こそ、「嘘」と言つて良い。そもそも「隠蔽されたもの」を「明るみに出す」と云ふのを、歴史家の使命と見てゐるのなら、既に價値觀が入り込んでゐると言つて良い。客觀主義を裝つた主觀主義である。そして、この手の詐術を使ふ歴史家は、他人の「嘘」を、「明るみに出す」爲に、屡々でつち上げる。

平成十六年三月七日
メモは取敢ずメモ用紙に。
あとはここ、闇黒日記に書いておくとか。
平成十六年三月七日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040307#p1
哲学者の著書を「文学的に」何冊か読んだくらいじゃあ、その哲学史上の意義は分かりはしない。
宮台の著書を以下略。
正しい讀み方をすれば良いだけの話だ。意義が解らないとしたら、讀み方が間違つてゐただけである。
もちろん、概略からは零れ落ちるような、つまり不徹底性とか後継者達の受け継がなかった余剰の部分に後の哲学者によって焦点が当てられて別様に解釈されるということは一杯あるのだけど、それは出てきたときにそう学べばいいのであり、まずは概略を押さえておくべきだ
しかし、キリスト教からは零れ落ちるような事を最優先事項として、とにかく「学べ」と、高橋氏は言つたではないか。
思想的に気に入った人の読解だけを摂取しようというのは良くない。自分にどれだけバイアスが掛かってるのか自分で分からなくなるからね。
しかし、高橋氏こそ、政治的にバイアスのかかつた思想だけを以下略。
俺もちょっと真面目にやり直そうと思う。
眞面目にやりたければ、未熟である事を自覺すべきだ。そして、既に未熟である事を自覺してゐるのならば、偉さうに説教出來る訣がない。即ち、高橋氏の「真面目に」は口先のものに過ぎない、と云ふ事だ。
だが、高橋氏が「やり直す」とか「やり直さない」とかは、何うでも良い事だ。高橋氏の問題は高橋氏の問題に過ぎない。人は自分の頭の蝿を追へば良いのである。
平成十六年三月七日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040307#p2
本質主義に対して、構築主義という考え方があります。この場合だと、欧米人と日本人の差異を、自明かつ本質的なものではなく、社会的に構築されたものと見る見方です。構築されたものは、変更されうる。差異を修正不可能な本質だとみなすとき、それは差別や排除や抑圧の正当化に繋がる。本質主義を批判するという意味において構築主義はメタレベルに立ち、アドバンテージを持ちます。本質主義の立場は、その本質と定めたものの自明性を疑う能力、政治性を批判する能力を持ちえない。
高橋氏は、「本質主義」「構築主義」と言つてゐる。高橋氏は、「主義」の話をしてゐる。高橋氏は「歴史は或主義の立場から政治的に解釋されるものである」と主張してゐる。しかし、イデオロギー的な物の見方は、常に偏向である。そして、一つの立場が他の立場の相對化である、と云ふ事は、單に議論の泥沼化を齎すと云ふだけの話であり、政治的な意味をしか持たない。
問題は、物事の一方的な解釋を、高橋氏が當り前のものと看做してゐる點にある。即ち、一元的な思考を、當然の事と高橋氏は信じてゐるのである。
歴史は、客觀的な事實と、事實の認識との、二つの側面を持つ。歴史書が記述する前の事實と、事實を記述した歴史書とを、我々は等しく「歴史」と呼ぶ。
ここにおいて、我々は常に、二つの歴史を混同する危險の崖つぷちに立たされてゐる。その崖から滑り落ちぬやう、我々が屡々する努力は、一つの立場に固執する、と云ふ方法である。しかし、それが齎す結果は、一面的な物の見方である。
主觀を通してしか客觀的な事實を見る事は出來ない。そこで嚴密な人々は、客觀的な事實の把握を不可能と斷ずる。ただそこで、「全ての認識は主觀的に決定して良い」と判斷するか、「全ての認識を客觀的な事實に近附けるべきだ」と判斷するかが問題である。
高橋氏は、或立場からの認識を否定する。しかし、その代りに提唱するのは、ただ、別の立場からの認識をすべきである、と云ふ事である。それでは意味がない。
不可知論の立場に立つならば、立つべきである。
一方、認識が客觀的事實と即座には一致しないにしても、それに徐々に近附く事は可能だと考へる立場は、やはりあり得る。私はその立場に立つ。そして、その方法として、まづ事實から歸納して假説を立て、その假説によつて演繹的に事實を解釋する、そして、その解釋が可能か何うかを檢證した上で、改めて假説の當否を檢討する。そして、必要があれば假説を修正し、再度、事實に適用してみる。繰返し。
私は、一つの立場に固執し、一つの理論によつて全てを割切る、と云ふ方法を提唱してゐない。ただ、假説を假説と認識しつゝ、假説と事實との關係を對話的に考察する事を提唱してゐるだけである。換言すると、私は二元論的な發想を提唱してゐる。二元論とは、單に物事を二つの立場に割切る事ではない。二つの立場を同時に認識し、兩者の間に對話を成立させつゝ、止揚をはかる事である。
もちろん、日本文化と欧米文化は違うわけで、日本におけるキリスト教の布教は、欧米に比べれば困難なのでしょう。別にそこに反論してるわけではない。問題は、それを日本人における修正不可能な本質とみなすことなわけです。
高橋氏は、自分が言つてゐる事がをかしいと、どうして氣附かないのだらうか。
日本人における修正不可能な本質とみなし、日本人はキリスト教を一切理解する事が出來ない、と私が言つてゐるのならば、私が「日本人はキリスト教的な思考方法を知る努力をすべきである」と主張するのはナンセンスであり、餘りにも馬鹿げてゐる。努力しても、報ひられる事が絶對にない事ならば、しない方が良いに決つてゐる。しかし私は、「上滑りに滑つて行くしかない」――「理解出來る範圍で理解する努力をすべきだ」と言つてゐる。これは、彼我の相違が、本質的な理解は不可能であつても、或程度までの理解は可能である、と云ふ事を意味してゐる。
重要なのは、理解が主觀的なものである事――客觀的に理解可能な事と、主觀的に理解可能な事とが異る、と云ふ事である。日本人は、聖書を讀む事が出來る。譯文のみならず、勉強すれば、ラテン語やギリシャ語で讀む事も不可能ではない。キリスト教に關する文献も讀める。そして、客觀的に知識は得られる。だが、客觀的な分析結果を幾ら集めても、それで對象を理解した事にはならない。生れてからずつとキリスト教の習慣や思考樣式、傳統が周圍に存在した西歐のキリスト教信者が自然に物事を考へ、肌で感ずるやうに、日本人がなれる訣ではない。
驢馬は旅に出て馬になつて歸つて來る訣ではない。留學したところで、生れた土地の風習を捨去り、新たな土地の風習に心から馴染む事は出來ない。エトランゼは永遠にエトランゼである。
況してや、日本の國の中で、日本人の間で成長し、日本人的な思考形態に馴れた日本人が、西歐で生れ、西歐の傳統の中で成長した西歐人と精神的に一致する事は不可能である。もしもそんな事が可能であると高橋氏が信じてゐるとしたら、高橋氏は馬鹿と言ふよりも寧ろ樂天的過ぎると評されるべきである。
平成十六年三月七日
http://www.remus.dti.ne.jp/~ddt-miz/think/watch/200403.html
ID「id20040307sophism」が重複してゐます。
平成十六年三月七日
http://esu.oresama.org/200403a.html#20040306_s6
そして「キリスト教」「神道」各々が宗教的な意味合ひではなく、精神的傾向を表はす意味合ひで使つてゐることも提示されてゐた筈です。
平成十六年三月七日
僕児童ポルノ法の話なんてしてないよねえ(笑)。
えええええ。
とりあえず「野嵜さんの議論にそって児童ポルノ法云々」という自由主義・民主主義の定義はしたが、違うなら違うでもよいと書いたし、普通に読めば誰も僕が「児童ポルノ法」を議論の主題に据えたとは思わないと思うけどなあ。
高橋氏と同じで、そつと短い言葉を插み込んで、自分の立場を根本的に覆しながら、表面的に言葉が似てゐるから「自分の立場は一貫してゐる」と言つてゐるやうにしか見えない。
そもそも児童ポルノ法の話からはじまったんでしょ。
この場合、定義というか基準は、「児ポ法改悪が行われるような国は民主主義的でない」なわけ。
誰がどう見ても、ここで北守將軍は、「児ポ法」の「文脈」で「議論をしてゐる」と宣言してゐる。
論理的に一貫した立場をとる人と議論をしたいと心から思ふ。議論で勝つ爲に、都合良く自分の立場をころころと變へる人とは話をしたくない。今囘も、北守將軍の方から絡んできたので、仕方なく應對しただけだが。
西欧―アメリカの問題を、別に文明論からであっても、論じた本はいくらでもあります。少なくとも留保なしに結び付けてよいものではありません。
と言ふか、文化論だと言つてゐるのだから、「留保」はしてゐるのです。それを讀取れなかつたのは、北守將軍に文章を讀む能力が根本的に缺けてゐるからです。そして、文章を正しく讀取る事の出來ない北守將軍の主張を、私は全然信用出來ないのです。どうも、北守將軍の「読み」は、自分に都合良く、對象を歪めた形で「讀取る」と云ふものでしかないやうに思はれます。正直、http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040304の「読み」は非道かつた。そして、その指摘に、北守將軍は何一つ反論しません。反論出來ないのだらうと推測します。と言ふか、あの程度の突込みに「反證」が出來ないと言ふのだから、北守將軍の「論理的思考能力」なんて、たかが知れてゐます。
平成十六年三月七日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040305#p2
「詭弁のガイドライン」第五項に該當。
と言ふか、「詭弁のガイドライン」で北守將軍の話は全て解釋出來る。
平成十六年三月七日
或は。
自説が正しいと信じてゐる筈の北守將軍が他人の保證を欲しがる、と云ふのは、如何にも日本人的な事だ。別にキリスト教の信仰なり教義なりの裏附けに據ると極附ける必要はない。ただ、西歐人ならば、正しいと自分が信じてゐるならば、他人の保證は必要としない、と云ふ事が屡々ある物だ。其處に彼我の態度の違ひを見出す事は可能である。別に此れは、歴史學の話ではない。文化の話だ。歴史學の嚴密な話を持出して、全ての議論を相對化しようと云ふのはそもそも、筋違ひである。
「法學」を標榜する高橋氏にしても、「歴史學」を標榜する北守將軍にしても、文脈を讀み違へ、自分の立場を議論の本題に根據なく設定し、自分勝手に非難してゐるに過ぎない。
平成十六年三月七日
某HARD OFFに行つて、東芝のCATVホームターミナル用リモコンとか、KEY THE METAL IDOLのBGM DISC IIとか、昔のA.D.POLICEの第三卷とか、PC-98用のマウス(NEC純正)とか、オーディオケーブルとかを、ジャンクで買つた。
平成十六年三月七日
「歴史学」が歴史を割切る爲のものになつては困る。
平成十六年三月七日
某Winamp5のインターネットTV。
NURU計画 [04/02/27-22:45] Winamp5でInternetTVを見よう
好きな人は、NASA TVなんかを一日中つけつぱなしにしておいたりするのが良いかも知れない。
と言ふか、海賊局がエヴァをえんえんやつてゐるよ。別のところは十兵衛ちゃん2とかダフネとかの最近の囘を勝手に流してゐたりするし。
平成十六年三月七日
「俺は政治主義者に怒られてゐたわけですね」云々。
平成十六年三月七日
北守將軍の「歴史学」では、「全てのものが等價値である」か「全てのものが等しく無價値である」の、どちらかの結論にしかならない。
平成十六年三月七日
http://www.toybox.jpn.org/studio/weblog/2004/200403.shtml#td0705
どうして日本では尺とか寸とかいつた日本獨自の單位を使用する事が禁止されてゐるのだらう。

平成十六年三月六日
録り置きのサイキックアカデミー煌羅万象なんぞを鑑賞してみた。結構面白かつた。
平成十六年三月六日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040306#p1
なるほど、現状に対する文学的に可能なひとつの解釈を主張してるだけなわけですね。
高橋氏が、常にそつと、この種の價値判斷的な文言を插入する癖のある人物である事に、讀者は注意すべきである。この種の人物は、自分の主觀が事實を歪めてゐる事に氣附かないか、それを認めない。そして、その自分で歪めた言ひ方を、大前提の「事實」としてしまひ、そこを出發點に、惡口を言ひ始めるのである。
ただの文学的解釈に法的な自由を語る上で何か意味があるとは思えないのも確かですが。
「ただの法的議論」にしては主觀が入り込み過ぎてゐる、とかいつた批判がそもそも可能だらう。高橋氏の議論は、餘りにも恣意的である。「法的議論」とかいつたレッテルを自分に貼つてゐるけれども、他人の目から見て、妥當だとは思はれない。
野嵜さん的な児ポ法改悪反対派批判は、「改悪反対派が基づいているのは自由主義であり」「日本の自由主義は西欧のそれが持っている本質的に必要な要素を欠いていて」「それはキリスト教であり」「その要素を考え合わせると、改悪反対派の主張は成り立たない」ということを言ってるわけですよね?
ですよね? と確認してゐるからには、高橋氏の推測は所詮、自信のない憶測であり――と言ふより、高橋氏自身、自分がわざと歪めた解釋をしてゐる事を知つてゐるのである。高橋氏には、その種の「読み」をする、と云ふ戰術そのものを反省した方が良いと申し上げたい。
「キリスト教」という曖昧な言葉の使い方について俺が異議を唱え明確化を要求しているのは、そういうすり替えをやられては困るからです。
ここで、注意すべきなのは、曖昧な言葉の使い方をしてゐるのが高橋氏だと云ふ事である。と言ふより、高橋氏の戰術的で歪曲的な「読み」によつて、私の「言葉」が「曖昧」であるかのやうに見せかけられてゐるに過ぎない、と云ふ事である。
例えばこれを「超越性・一神教性という意味でのキリスト教」みたいに意味合いを限定してくれるなら、少なくとも俺は、一つのありうる解釈としてなら、そんなに抵抗を感じないのです。
實際のところ、俺の言つてゐるのはその程度の事なのだが、其れを高橋氏は勝手にややこしい話にでつち上げて、獨りで誤解して、その責任を私になすりつけてゐる。私のあつちの文言、こつちの文言を、文脈とは關係なしに勝手に組合せ、それで「互ひに矛盾してゐる」「曖昧だ」と高橋氏は極附けてゐる。馬鹿も休み休み言つて貰ひたいものである。
あと、宮台なんて、讀まなくたつて、讀者が例外ナシに馬鹿である事を見れば、讀む必要のない物書きである事はわかる。
平成十六年三月六日
(ところでアインシュタインとかスピノザの神というのは自然に内在する汎神論的なそれであって、ユダヤ教やキリスト教の超越神とは相容れないものであり、特にスピノザはかなり批判を浴びていたような)
波多野精一がスピノザ論を書いてゐたから、讀んでみようかな。
平成十六年三月六日
あと、俺がキリスト教の話を持ち出したのは、「汝姦淫する勿れ」――即ち、行爲をなした時點でなく、行爲を想像した時點で既に罪である、と云ふ事を言つてゐるのだが、それなのに「法的議論」なんて事に固執し續けるのだから高橋氏も何うかしてゐる。
……と書くと、またぞろ「野嵜氏の民主主義はキリスト教的なものだそうだから」云々と、妄想に基く誤讀と勝手な「論理」のでつち上げを、高橋氏ははじめるのだらうな。
平成十六年三月六日
あと、俺の推測した「逃げ」方とは違ふけれども、問題提起と云ふ逃げを打つてゐる事を、讀者には注意して貰ひたい。
平成十六年三月六日
kagami氏が、文化的差異を絶対視する立場と言つてゐる。「立場」と言つてしまふから話がをかしくなる。(http://www.remus.dti.ne.jp/~ddt-miz/think/watch/200403.htmlの2004.03.06附「文化的差異についての考え」後半部分)立場として「文化的差異を絶対視する」と言ふのと、「絶対的な文化的差異がある事を認める」と言ふのでは、全然違ふ。
「四角いもの」覚書の目次 - 眠る前の写真集、H16-3-1の項で述べられてゐる事は參考になる。「文化の相違」の認識は、必ずしも「立場」による訣ではない。
平成十六年三月六日
例へば、キリスト教の議論で、「地の塩」と「世の光」とを區別しながら、「神のもの」と「カイザルのもの」とを區別しない、と云ふ事をやらかすのは、適切と言へない。「地の塩」と「世の光」とは、同じ事を別の言ひ方で喩へてゐるだけである。一方、「神のもの」と「カイザルのもの」とは、本質的に異るものであるとキリストは考へてゐる。
Godは、新約では「愛の神」である。が、舊約の「嫉妬する神」としての側面も考慮しない事には、キリスト教のGodの觀念は理解出來ない。そして、この時、「キリスト教」は、個人の信仰としても捉へ得るし、文化と直結した宗教としても捉へ得る。その意味で曖昧な用法である。しかし、ここで嚴密に兩者を區別したところで意味はない。Godが「愛の神」であるか「嫉妬の神」であるか、と云ふ問題が、そのどちらかの「キリスト教」の意味でのみ意義を持つ問題である、とは限定出來ないからである。寧ろ、その種の問題が惹起こす事態による區別を考へるよりも、問題を多數惹起こすキリスト教自體の抱へる矛盾・對立を、キリスト教の本質として把握する、と云ふ止揚が必要であらう。もちろん、同時に、個別の問題を個別に檢討する事も必要である。しかし、個別の問題の分析のみを重視する考へ方に拘る事には贊成出來ない。分析によつて全體を把握する事は不可能だからである。そして、まともな歴史學ならば、個別の分析と同時に、全體の直觀的な把握をも、重要な歴史家の使命として認めるものである。
平成十六年三月六日
「○○をしなさい」式の一方的で一元的な命令をする日本の宗教のやり方にしか馴れてゐないから、「○○と××は違ふ」といつた理窟が述べられ、神の定義自體に對立が含まれるキリスト教の二元論的思考法を、日本人は理解出來ないのではないか。でなければ、常に「一方に極附ける」解釋の仕方を、日本人が當り前のやうにやる理由は説明出來ない。

平成十六年三月五日
なんで北守將軍が俺の事をこんなに見下してゐるのか全然解らないのだが。俺は、そんなに的外れな事は言つてゐない積りだが。
平成十六年三月五日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040303#p8
ええええー。戦後の話だったのー!?
今は戰後ではなかつたのか?
と言ふか、「児ポ法」を持出したのが北守將軍自身だつたと云ふ事を、北守將軍は忘れてゐないか? 「児ポ法」の議論だと、北守將軍自身が定義したのだから、こちらはそれに附合つただけだ。「児ポ法」は、日本の現代の政治問題であり、當然、戰後の自由主義・民主主義の「文脈」で論じられる筈のものだらう。ここで北守將軍に驚かれると困る。北守將軍は、何を期待してゐたのだらう。と言ふか、議論の流れを北守將軍は、解つてゐないのではないか。人の文章の意味を取違へて、「アプリオリに見下すべきもの」と極附けて、その觀點から人の文章の意味を取違へる、と云ふ目茶目茶な議論を北守將軍がしてゐるのを見ると、この推測は妥當な推測であるやうに思はれる。
アメリカと西欧って一緒にしていいのか・・・。
アメリカと西歐つて、一緒にして行けないものだつたのか? 同じ西歐文明に屬してゐるのだから、全然問題ない筈だが。と言ふか、北守將軍は、「歴史学」の立場からアメリカと西歐とを區別すべき理由を提示し、何時いかなる場合にも、或は、今の議論の流れでは、野嵜の發言は絶對にをかしいとか何とか決定して、それから見下すなり何なりすれば良いと思ふのだが。「歴史学」で全てをごまかしてゐるやうにしか思はれない。
平成十六年三月五日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040302#p1
しかし、野嵜さんの場合どうも西欧社会はキリスト教社会であるということを限定的にではなく、一般的に見ているような気がする。それは、「歴史学的には」許されない。
ような気がする、と云ふ印象批評をされても困るんですが、と言ふか、印象批評は、北守將軍によつて「間違ひ」と定義されてゐるのだから、北守將軍自身がやつては絶對にならないのだが。
平成十六年三月五日
ここでは確かに留保が行われている。しかし、くどいようだが「歴史学的にいえば」これはそのままでは近代とキリスト教の親密性を示したことにはならない。
北守將軍は、彼の「歴史学」では、実際はどうであったかが「解るもの」だと考へてゐるらしい。と言ふか、北守將軍はそもそも「歴史学」を未定義。
と言ふか、彼の「歴史学」は、どうも「歴史社会科学」の事らしい。彼は、「科学」と云ふ文字に惑はされてゐるやうだ。
平成十六年三月五日
ちなみに、俺の豫言――なほ、北守將軍の事だから、アメリカの憲法と日本の憲法とだけを比較してキリスト教が何うの斯うのと云ふのは云々、と言出すに決つてゐるが、これは飽くまで一例である。――は、例によつて適中した模樣。
平成十六年三月五日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040303#p1
「『涼宮ハルヒの憂鬱』はSFではないよ」とつつこみを入れようかと思つたが、逆説を解しない人に逆説を言ふものではないので止め。
平成十六年三月五日
上の引用を見ると、このような立場に立つコッカが、歴史叙述にナラティヴ性を求める風潮に対して激しい危惧を持つのは、ある意味で当然と言えるだろう。
このやうな杜撰な讀み方が「歴史学」的な「テキスト解釈」であるのならば、大した學問では無い。
と言ふか、「批評對象を見下した態度をとる」「常に『××ではない』と云ふ消極的な表現しかしない」「定義は全てキャッチコピー」と云ふ、現代的で思想家的な「歴史家」の文章は、明かに良くない文章なのだが、北守將軍には模倣すべきものと見えたやうだ。
疑いもなくこれは政治的に問題のある議論である。だがそれが破綻しているのは、政治的に問題があるからではなくて、史料に照らして、また史料の活用に際して適用さるべき歴史科学的な尺度で計って、受け入れ難いもの、つまり誤ったものだからである。
また、ここが危險なレトリックである事に、北守將軍は氣附いてゐない。
すなわち、当時様々に分岐していた視点を相互に比較対照し、あるいはできる限り包括的な今日の視点から当時の状況の多様な意味を把握することが、評価せんとする正義の要求であり、また歴史科学の作業の基本ルールでもあるのである。
北守將軍が十分理解してゐるとは思はれないのだが、例のフェミニズムの「父権」のやうに、今日の視点が「割切る爲のもの」であつたならば、それこそ問題である。俺の「キリスト教」を「割切る爲のもの」と看做してゐる事から考へると、北守將軍は「割切る爲のもの」として今日の視点を考へてゐる可能性は極めて高い。
或は、歴史の物語化を拒否しながら、現代の歴史學は、今日の視点を受容れる事により、歴史の物語化に寄與してしまつてゐるやうに思はれる。それよりは、物事を「ありのまま」に見ると云ふ國學者の態度の方が餘程まともな學究的態度と言へる。
平成十六年三月五日
或は。例へば。
「父権」なるもので歴史的事實なり藝術作品なりを「斬る」フェミニズムは、それによつて失はれる「読み」を、アプリオリに無價値と斷ずる。これは、フェミニズム的な「読み」を、アプリオリに絶對の價値と看做す爲、生ずる誤である。
それに對し、西歐の精神史・文化史・思想史・政治史において――と云ふ限定的な領域の話をしてゐるのだが――、キリスト教に注目する「読み」は、對象の價値を取り損なふやうなものとはならない。寧ろ、キリスト教との距離を測定しつゝ發展してきた西歐の文化――キリスト教の存在を前提として成立してゐた西歐人の生き方――を考へれば、その種の「読み」は必要である。そして、西歐の歴史家が今、キリスト教と云ふ觀點からの「読み」を否定しつゝある事についても、「彼等が西歐で生きてゐる」と云ふ限定的な要素を考慮して、日本人にとつての意義を考へる必要がある。
最後の指摘は重要なものだと思ふ。北守將軍が、西歐の歴史家と、日本人の歴史研究者とを、嚴密に區別してゐないからである。兩者は、別の文化圈に住み、異る立場から歴史を扱つてゐる。ならば、研究の態度も、兩者は必然的に異る筈である。ところが、北守將軍は、西歐の歴史家の思想を無批判に受容れてゐる。これは、危險な事である。北守將軍は、「歴史学の方法」を主張するが、「歴史学」の理論によつて自分の研究態度を批判する、と云ふのを忘れてゐる。これは、過去にマルクス主義の歴史家が犯した過ちと同じである。
平成十六年三月五日
例によつて本日の買物。東京古書會館の古書展にて。
『啄木人生日記』教養文庫507
宮崎市定『木米と永翁』中公文庫
グレアム・グリーン全集20『旦那様を拝借 性生活喜劇十二篇』
小林正編『フランス短篇名作集』学生社
福田恆存『私の國語教室』新潮文庫・初版・帶附
『私の國語教室』の新潮文庫本、増補版になるより前のもの(杉森氏の解説附き・定價五十圓の版)は、初版でカヴァ有・帯缺のものと、三版でカヴァ無・帯附のものを持つてゐるのだが、當時、初版でカヴァ有だつたものも、重版の際にはカヴァ無になつたのだらうか。
平成十六年三月五日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040303#p4
どうもここで、高橋氏は俺に對する當てこすりを言つてゐるらしい。ただ、當てこすりで、直接的な批判ではない。高橋氏は、俺が反應しても、「あなたの事を言つてゐるのではないのですよギコハハハ」みたいな逃げを打つ事が可能である。が、別にそんな戰略だか戰術だかはどうでも良い事だ。戰略や戰術で、歴史は變らないのだ。
さて、私は西歐社會でキリスト教が果した役割を重視し、特に精神史の領域では重大な役割を擔つてゐると見てゐる。これに對する批判として西欧が西欧だけで閉じて成立したわけではない。とか「何でもキリスト教で割切るのは感心しません」とかいつた言ひ方はナンセンスである。「多くの要素の中で、キリスト教を重要な要素と見る」と私は言つてゐるだけなのだから、そこに「ほかにも要素はあるのですよ」と言つてみたところで仕方がない。有效な批判としてあり得るのは「××と云ふ理由で、キリスト教よりも○○の方が、西歐人の精神文化を既定するのに決定的な役割を果したと言へる」と云ふ主張である。
カトリックでないものを全て反カトリックと定義しカトリック優位の二項対立に回収してしまう思想において、この世にカトリック的でないものなどひとつもなく、全てはカトリックの元に一元的に解釈される。そういうのを「反証不可能な主張」という。
ここで高橋氏がしてゐるのは、「反証不可能な主張」を自分で勝手に作り上げ、それを否定して見せる、と云ふ「論法」である。高橋氏は、全てはと云ふ語を挿入する事で、批評對象と一見そつくりだが、決定的に異る主張をでつち上げてしまつてゐる。これを、意識せずに行つてゐるのならばただの馬鹿であり、意識して行つてゐるのならば惡質である。
キリスト教は、東欧・東洋へも広がっている。
高橋氏は、量的な側面にしか著目しない。広がるのは良いが、どのやうな内容で広がったかが問題である。
近代ヨーロッパ人が「発明」「発見」と言っているものの多くが、彼らにとっての「発明」「発見」なのであり、真に受けてそこにキリスト教の成果を見出すのは変。
ここでも高橋氏は、例によつて全てのと云ふ語を潛ませて、怪しげな主張を勝手にでつち上げ、それを否定して見せてゐる。
近代の観念がキリスト教との関係で認識されたとして、それが単にキリスト教圏で起こった結果であるに過ぎず、違う地域で起これば違う宗教との関係で、もしくは宗教性抜きに認識されたかもしれない、という可能性を否定したことにはなっていない。
この項目はジョークなのだらう。
詭弁のガイドライン第一項そのまんまだ。
高橋氏の批判は「近代は西歐でのみ成立するもので、他の文明では成立しない」と云ふ主張に對する批判である。このやうな馬鹿げた主張をしてゐる人はゐない。もちろん、私もしてゐない。だから、高橋氏は、例によつて「をかしな主張をでつち上げて、否定して見せる」パターンの主張を繰返してゐるだけである。
西歐文明が地上を覆つてゐる現状、西歐文明から目を逸らす理由はない。と同時に、西歐文明の限界を知り、乘越えようとすべき理由はある。西歐文明の「限界」には、キリスト教の「限界」と考へるべきものがある。西歐文明の「限界」を克服するのに、キリスト教の「限界」を克服する事は、必要十分條件ではないが、一つの方法として「あり」であらう。そして、キリスト教を知る事は、キリスト教の「限界」を知る事である。
また、假に西歐の文明が世界を覆はず、日本が明治以來、西歐文明を受容れる事が無かつたならば、どのやうに文明を發展させてゐたかを考察するのは、「限界」のある西歐文明を乘越えるヒントを得る爲に、必要である。西歐文明の盲目的な崇拜を相對化する事も必要である。其れ許りでなく、依然、西歐文明の全面的な支配下にある訣ではない領域で、日本獨自のものを維持・發展させて行く事は重要である。(その爲、現に私は國語の傳統について、主張してゐる)しかし、現代の世界では、西歐文明の影響を免れてゐる地域は皆無である。ならば、近代の観念がキリスト教との関係で認識されたとするならば、それが単にキリスト教圏で起こった結果であるに過ぎないにしても、一往「現状を認める」意味で、他の可能性よりも優先的に研究されて然るべきである。
平成十六年三月五日
インターネット紋切型辭典は讀まなくても良いと思ふけれども、リンク先の文章は讀んでおいても良いと思ふ。

平成十六年三月四日
北守將軍は、中世とか近世とかを、何を基準に、どのやうに定義してゐるのだらう。あと、文化とかキリスト教とか。
平成十六年三月四日
歴史家の著作を讀んで、歴史家の態度・思想を全體として把握する事は、寧ろ歴史的な讀書の態度である。
現代人は、過去の人間と直接會つて話を聞く事が出來ない。過去の時代は、過去の人が殘した文献を通してのみ、知る事が出來る。即ち、文献を讀んで、文献を書いた人の時代を再構築するのである。その爲には「歴史家と業績とを分けて考へる」と言つた、都合の良い考へ方は、捨去らねばならない。
同時に、文献を殘した人は、當然の事ながら、時代の制約を受けてゐる。即ち、時代に制約された人の文献を讀んで、過去の時代を再構築する、と云ふ事を、歴史家はしなければならない。この「歴史の再構築」と云ふ作業は、論理的な作業ではない。結論と前提とが、相互的に作用し合ふ關係にあるからである。
だから、歴史家の仕事の出發點は、超論理的な直觀なのである。その直觀を出發點に、論理的に矛盾のない歴史を作る――と言ふよりも、過去を再生する――のが、歴史家の仕事である。
しかし、歴史家の仕事の價値は、最初の直觀の鋭さにかかつてゐる。優れた歴史家は、優れた直觀を持つ。今の歴史家に、直觀の鋭さがあるのか何うか、俺は疑つてゐる。
平成十六年三月四日
サヴァイヴをリアルタイムで鑑賞したり。
平成十六年三月四日
また意味もなくHDDを一臺増設してみたり。
平成十六年三月四日
めも。
http://d.hatena.ne.jp/kusigahama/20040303
平成十六年三月四日
某A.H氏の移送の話は、三省堂本店に無い模樣。店員に訊いたから確實。
平成十六年三月四日
二箇月くらゐ溜め込んでゐた某リンク集への登録作業。
平成十六年三月四日
氣になつたところ。
謎小屋-主にWEB関係
平成十六年三月四日
G. K. Chesterton's Blog
What if G.K.Chesterton had a blog?
平成十六年三月四日
Piroさんのところを閲覽すると、Opera 7.50 pr2が落ちるやうになつた。

平成十六年三月三日
そうなると次に素人(俺)が安易に考えるのはアバウトに言って「HTMLとPDFのちょうど中間のような何かが新たに作られて、HTMLやPDF以上に普及してくれないか」ということと、
中間と言はれても、想像出來ないのだけれども。どう云ふ比較をしてゐるのか良く解らない。
HTMLは多くのユーザエージェントで處理可能なテキストデータの規格であり、PDFは多くのプリンタで同等の出力結果を實現するPostScript系のデータの規格だ。その中間と言はれても、良く解らない。兩者は違ふメディアの爲のデータ構造の規格なので、中間なる概念は存在しない。
「テレビとラジオの丁度中間のやうなメディア」と言はれても、想像出來る人はゐないと思ふ。
平成十六年三月三日
このマルチカラムも厳密な意味での段組なのかどうかいまいちよくわからないのですけど(テーブルタグと同じく使い方次第という部分があると思う。ウェブの宿命か)。
異るプラットフォームで「同じ出力結果を得る」事は難しい、と云ふ事。
ユニヴァーサルな「ウェブデザイン」の話で「リキッドレイアウト」と言ふのは、HTML文書をレンダリングしてレイアウト可能な環境が、多種多樣で、フレキシブルであり、それを考慮する必要のある事を意味する。
同じMicrosoft Wordのドキュメントであつても、常に同一の出力結果が保證される訣ではない。制作者のPCと異るPCで出力する場合、制作者の意圖と出力結果とを一致させる爲には、フォントやプリンタドライヴァ等の環境を完全に一致させるしかない。
DTPやワードプロセッサで、出力結果は常にプリンタに依存する。厳密な話をし始めると、「異る環境では常に異る出力結果となる」と云ふ結論しか出せない。
そこで「大體同じになれば良い」と云ふ發想が生れる。實はこれが曲者で、「大體」とは何か――そこからして怪しい話になる。
もともと「A3對應のプリンタで出力してA3用紙いつぱいに收まる」と云ふワープロ文書があつたとする。この文書をA4對應のプリンタしか無い環境で出力する時、泣いて頼んでもプリンタはA3用紙を呑み込んで呉れない。もちろん、A4用紙に收まるやうにデータを作れば、A4以上に對應したプリンタでは出力可能と、普通は推測される。しかし、プリンタによつて、餘白の領域に差がある。餘白を一センチメートルしか取つてゐないデータの場合、プリンタが最低一・一センチメートルの餘白を勝手に取つてしまふ場合、やはり出力結果は完全には一致しない。また、Windowsの場合、プリンタドライヴァが異つても、基本的に出力結果が一致すると云ふ建前だが、解像度の差等で、ドライヴァ(GDIだつけ?)によるフォントの計算に違ひの生ずる場合がある。俺の經驗では、360dpiのCanonのプリンタで出力する事を前提に作成したカラーのWord原稿を、某R社のファクス同報サーヴィスで流す爲の特殊なFAXドライヴァ(確か解像度は150dpi)にそのまま落し込むと、必ず文字送りが變る、と云ふ事になつたものだ。
「キャンバスの左側に作つたペイン」と「キャンバスの右側に作つたペイン」とにそれぞれテキストを割當てて「擬似二段組」を作る、と云ふのが、現状、「可能」とされてゐる「ウェブデザイン」の「マルチカラムデザイン」だ。さうではなくて、「左側」と「右側」とが繋がつてゐて、左上から始まつたテキストが、「左側のペイン」で溢れたら勝手に「右側」に流れ込んで呉れる、さう云ふ「眞の段組」を實現出來るやうにして貰ひたい、と云ふのが、デザイナー氏の發想だ。それを實現する仕組みは、俺も「あつて良い」と考へる。
ただ、その種の仕組みを實現する方式がCSSであれ何であれ、ユーザエージェントが、「仕組み」を理解し、制作者の意圖したデザインを基にレンダリング出來るか何うかは解らない。そこで「極附け」を行へるのならば、話は一番簡單だ。ただ、その際には、或特定の企業に完全にコントロールされた獨占状態を容認する――と言ふより、積極的に要請する事になつてしまふ。
端的に言へば、データの互換性を取つて自分の「ユニークな表現」を抛棄するか、自分の「ユニークな表現」を取つて互換性を抛棄するか、の、どちらかしか、取るべき態度は無い。
平成十六年三月三日
意圖と出力結果とを一致させるだけならば、案外簡單な話である。トリッキーな書き方をして、環境を一意に極附ければ、の話だが。
データとして扱ひ易く、デザインも一意に決る――等と云ふHTML文書とCSSデザインのセットなるものは、存在しない。データとして扱ひ易いか、デザインを極附けられるか、のどつちかを取るしかない。
平成十六年三月三日
眠いので書き毆り。こちらの意圖は適當に腦内補完して下さい。HTMLとかCSSとかの問題については、今のところ、「不完全な規格」「不完全なユーザエージェント」「不完全なハードウェア」等を前提に、現實的な話をしなければならないので、詰らないものにしかならない。
平成十六年三月三日
表にキャプションがあつて良いのならば、listにもあつてよろしいのではないか、とか。
平成十六年三月三日
PiroさんのところをOpera 750 pr2で見ると、こんな事になつてゐたりするのだが、それでも俺はOperaを使ふ。
平成十六年三月三日
昨日の買物。新刊。大島一彦『ジェイン・オースティン』(中公新書)。古本。ベルヂャイエフ『近代世界に於ける人間の運命』。拾ひ物。リルケ選集第三卷散文集。パリ徹底ガイド。
平成十六年三月三日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040302#p1
西欧で誕生した思想・文化・社会制度などにキリスト教の痕跡を見出すのは文学的な態度だ。
キリスト教の精神は、今でも生きてゐるといつてゐるのだよ。痕跡が殘つてゐるのではない。
それと、歴史家の業績は、歴史家の生きた時代と云ふ制約がある事を、やつぱり考慮して判斷しないといけない。歴史家の業績と、歴史とは、違ふものだ。
平成十六年三月三日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040302#p2
いくらテクスト解釈的議論を行ったとしても、「実際はどうであったか」ということは理解不可能である。
歴史學の立場からはテクスト解釈なる言ひ方が出て來るのだらうが、文學の立場から言はせて貰へば、解釈から歴史の全體像が出來て來る事こそあり得ない話だ。
平成十六年三月三日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040302#p3
近世の始まる前は中世なのだが。再發見されて、はじめて近世になる。
平成十六年三月三日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040302#p4
別に、樣子を見る必要等ないと思ふけれども。現に目の前にある本を讀んで惡いと言ふ法はあるまい。後から資料が出て來ると言つても、後で讀めば良いだけの話だ。
個人的には、新しい研究は、新しい研究者によつてなされてゐるから、昔の研究よりも惡い研究となるやうな氣がしてならない。
平成十六年三月三日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040229#p1
ときどき思うのだが、この人は数字を2までしか数えられないのではないだろうか。
この人は、どうして直ぐに意味のない惡口を言ふのだらうか。
印象批判だしねえ。
この人は、どうして直ぐに意味のない惡口を言ふのだらうか。
うーむ、「教義」「形式」って何?
この人は、どうして直ぐにとぼけるのだらうか。「定義しろ」「定義しろ」。常識的に誰もが解つてゐる事を、わざと訊くのは、どうかしてゐると思ふ。
と言ふか、「祭祀」と言つてゐるのに、ねえ。
俺は、時々思ふどころか、確信をもつて言ふのだが、北守將軍は文章をまともに讀めないのだ。
平成十六年三月三日
そもそも、北守將軍が「文化の定義」を聞いて來ないのは、恐ろしく間が拔けてゐると思ふ。
平成十六年三月三日
じゃあ、天動説でも信じていればいいんじゃないですか?
「北守將軍はイギリス人が天動説を信じてゐるとでも思つてゐるのだらうか」と云ふ皮肉を言ひたくなる。
平成十六年三月三日
立証よろ。
キルケゴールを讀め。以上。
平成十六年三月三日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040229#p5
「キリスト教の教義に従うこと」と云ふのが何處から出てきた事なのか、訊きたい。俺は、「教義を採入れた、採入れなかつた」と言つた。しかし、「教義を採入れる事」と「教義に從ふ事」とは違ふ。だから、「キリスト教社会と認識していたこと」と、「キリスト教の教義に従うこと」は別。なるつつこみはナンセンス。
平成十六年三月三日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040229#p6
この人は何を怒つてゐるのですか。少しもちつけ。ぺたんぺたん(AA略)。
こういうものはその場その場の議論において、これらの枠組みはどのような定義で用いられていて、どのようなものを排除しているのか。なぜそのような分類を行わなければいけないのかという説明が必要なんだろ。
相手の言つてゐる事を、文脈に應じて適切に讀取る努力位、したら何うですか? と言ふか、自明の事を一々説明するほど、俺も暇では無い。解らなければ福田恆存氏と松原正氏の本を讀めと最う何囘も書いてゐるし。
歴史学の場合、ほかの分野に比べてカテゴライズというのが大きな意味を持つし、考えることが多いわけで、だから歴史学の本は誠実であろうとすればするほどエクスキューズが増えるんだろ。
北守將軍の態度の何處に誠実であろうとする態度があるんですかねえ。
平成十六年三月三日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040228#p1
局面局面での論理的つながりは全くわからないが、全体のストーリーは明快。
歴史学の態度は何處へ行つてしまつたんですかね。局面局面での論理的つながり全くわからないと、北守將軍の歴史学では勝手に意味を極附けて、惡いやうに解釋するのが定石なんでせう?
はつきり言ふと、北守將軍は、口ばつかりで、「歴史学の態度」なんてものを全然、身につけてゐないのだ。「歴史学の理論」は參考書からどんどん引張り出してくるけれども、それが生き方と全然關係してゐない。これを「歴史學への適應異常」と呼ぶのは妥當な事だらう。
平成十六年三月三日
そもそも、「キリスト教」とか「西歐」とか「近代」とか言つた時、意味を適切に理解出來ないと言ふのならば、生き方としてキリスト教も西歐も近代も身についてゐない事は證明されてゐるのだ。文化とは、生き方の事であり、教養の謂であり、輸出用の品物とか、修學旅行で見物する時の對象とか、そんなものではない。
日本人の生き方に、キリスト教が「痕跡」以上のレヴェルで存在してゐるかと言ふと、常識的に考へて、否である。之は最う、常識で判斷して良い事だ。生き方と常識とが密着してゐる事は、定義するまでもない事實である。
裏の家がプロテスタントで、日曜日になると教會に行つてゐるんだと自慢されるとか、隣の家が創價學會で、なんみょうほうれんげきょうなんみょうほうれんげきょうを連呼してゐる聲がしよつちゆう聞えるとか言つても、別に自分の生き方が、キリスト教とか創價學會とかの生き方と常に對話的な關係にあると云ふ訣ではない――寧ろキリスト教とも創價學會とも生き方の上では何の交渉も無い、と言つて良い。そこで、クリスマスの時にケーキを買つて來てプレゼント交換をしても、キリスト教の生き方をしてゐる訣ではないと言へる。同じやうな意味で、日本人の生き方に民主主義的な生き方とか自由主義的な生き方とか言つたものはない、と言つて良い。
さて、民主主義とか自由主義とかを定義しろと北守將軍は簡單に言つて呉れてゐるのだが、一言で觀念を定義しろと言はれても無理な話で、そもそもそんな事をする必要は無い。なぜなら、民主主義や自由主義の一般的で絶對的な觀念なるものを論ずる事はナンセンスだからだ――と言ふより、歴史的にそんなものは無い。今の議論の中で要請されるべきは、「日本人にとつての民主主義」「日本人にとつての自由主義」の定義以外の何物でもない。北守將軍は――その邊の事をごまかして、と言ふより、本人も良くわからないで、取敢ず「歴史学」の御題目を唱へたのだが――俺にその事をその事と明示して尋ねるべきだつた。そして、さう云ふ質問ならば非常に簡單に答へられる。日本人にとつての自由主義とか民主主義とかは、アメリカが持込んだものだ。そして、その時、民主主義・自由主義はキリスト教の精神が拔かれた、特殊な民主主義・自由主義として再定義されてゐる。アメリカの獨立時の文書(ヴァジニアの權利章典や獨立宣言等には、明かにキリスト教の精神の存在が認められる。『人権宣言集』(岩波文庫) ※但し、同書では自然法と云ふ事が強調されてゐる。これは編纂者の判斷によるものと思はれる)及びアメリカ聯邦の憲法と、日本の憲法とを比較すれば解る。しかし、その後の歴史の流れから考へても、日本の民主主義・自由主義は、アメリカのそれと一致する事が要請されてゐる。ここで、民主主義・自由主義的發想と、民主主義・自由主義的外交(或は、その他の具體的な政治)とを區別する事は意味がない。日本人が、アメリカ人と同じやうにものを考へてゐれば、自然と成果は一致する筈だからだ。だが、日本人の政治家の考へる事(=やる事)と、アメリカ人のそれとは、なかなか一致しない。結局のところ、「民主主義・自由主義」と言つても、具體的に「かう云ふ生き方だ」「かう云ふ發想だ」とは言へない事がわかる――それがわかるのならば、日本の政治家はアメリカの政治家と同じやうに政治を行ふだらうから。ただ、「生き方・發想・成果物がアメリカのそれと一致する民主主義・自由主義」と云ふ、既に「それは何か?」と云ふ疑問を前提とする定義を俺は今、しておくのだが、實は、北守將軍がしたやうに、俺も「それは何か?」と定義を要求してゐるのである。そして、この「定義の要求」に應へるのは、俺ばかりでなく、日本人全員に課せられた課題であるし、課題に應へる理由は今述べた事の中に書かれてゐる。
以上、述べた事を通して、わかる人はわかると思ふが、俺は北守將軍の言ふやうに「割切る」事を主張してゐるのではなく、「定義の要求」をしてゐたのである。
なほ、北守將軍の事だから、アメリカの憲法と日本の憲法とだけを比較してキリスト教が何うの斯うのと云ふのは云々、と言出すに決つてゐるが、これは飽くまで一例である。アメリカと日本と云ふ比較にしても、ただの一例である。民主主義・自由主義にしても、一例である。アメリカなりイギリスなりドイツなりの、學問にしても藝術にしても、日本に來る時、必ずと言つて良いほど、キリスト教の觀念が削落とされてゐる、と云ふ事は、具體的な比較をはじめれば、幾らでも出て來る。そして、北守將軍は、最う豫めキリスト教の觀念等、削落とした状態で受容れて良いのだ、と主張する筈である。だが、受容れるべきだと北守將軍が主張する學問を創造してゐる西歐の學者は、キリスト教の觀念を削落とす爲に、目の前にある文物とキリスト教との強い結び附きを斷切るのに、多大な努力を拂つた筈である。その邊のところに北守將軍が全く氣附いてゐないのは不思議――と言ふよりも、敬意を缺いた不誠實な態度であると非難したい。
福田恆存が半世紀前に書いた事だが、日本人は近代を超克しようとする思想だけ受容れて、近代を受容れてゐない。半世紀が經つて、時間だけは過ぎたが、相變らず日本人は「近代の超克」を論じて、近代そのものと向ひ合つてゐない。既に近代は古いものだ。だが、古いものだからと言つて、見過ごしてしまつて良いと云ふものではない。算數は昔からあるものだが、古いと言つて一足飛びに數學に行つてしまつても仕方がない。「古い」と云ふレッテルの貼り方くらゐ古いものもあるまい。
平成十六年三月三日
例によつて本日の買物。
葦津珍彦『天皇 日本人の精神史』
葦津珍彦『永遠の維新者』
葦津珍彦『近代民主主義の終末』
きだみのる『鼻かけ男の話』
福田恆存編緝・解説『坂口安吾選集 1 文明評論集』
清水幾太郎『精神の離陸』
吉田健一『シェイクスピア』
マックス・ウェーバー『官僚制』(フォルミカ選書16)
平成十六年三月三日
北守將軍は俺の事を「算数もできない馬鹿つたれ」と言つて嗤つて見せてゐるのだが、算數と歴史とは全然別のものだ。惡口にしても程度が低過ぎる。
一方で、俺は「歴史學歴史學と言ふ北守將軍は、歴史學を本當に理解してゐるの?」と言ひたい訣だ。この方が餘程まともな惡口だらう。當つてゐるか何うかの論證は、北守將軍の惡口も、俺の惡口も同樣に「拔き」だが、同樣に當つてゐた時、今の議論に於て、不利になるのは、北守將軍の方だ。
もつとも、今の「義論」が果して議論であるか何うか、と云ふ問題もあるが。北守將軍の仕掛け方を見れば解る通り、彼は俺の全人格を否定する事によつて俺の問題提起を全否定する戰術を取つてゐるのだから、今行はれてゐる事は「議論」ではなく「論戰」である。
繰返し指摘しておくが、北守將軍が俺を攻撃してゐるのは、飽くまで「児ポ法」絡みの政治的な理由である。歴史學とか何とか言つてゐるが、北守將軍はそれらを俺を默らせる政治的な目的で利用してゐるに過ぎない。そして、利用されてゐる「歴史学」は、全て政治的に偏向した特定の思想家に據る「歴史学」である。しかし、やはり歴史家と研究業績は分けて考えなければいけないのである。と北守將軍が述べるのは、北守將軍の大事な「歴史家」がどのやうな思想を持つた人物であつたかをつつこまれると困るからである。歴史家個人を分析する「文学的」な態度は、歴史そのものを左右しないし、してはならない。と、もつともらしい事を言つて、「歴史家」がしてゐるかも知れない「解釋による歴史の改變」の可能性への言及・疑念を閑却してゐるのを見れば判る。歴史家の思想にも、歴史家の政治的な意図による歪曲が入り込んでゐる可能性を、全てを政治的に解釋する人が疑はない事は、明かに疑惑である。
と言ふか、誠実と言出した時點で、怪しいのである。北守將軍は、自分が誠実である、と言ふ事で、自己を正當化しようとしてゐる。が、自己の誠實を誇示する事くらゐ、傲慢な事もあるまい。

平成十六年三月二日
2月29日(日曜日) @ [ ひとりごちる 2004年2月(下旬) ]
整理していただいた。助かります。
平成十六年三月二日
今ごろになつて録り置きのサヴァイヴを觀てゐたりする。
サヴァイヴのテーマは「生延びる事」だ。題名からしてそのものずばりだ。と言ふか、觀れば解る。NHKのウェブサイトで一々確認する必要もない。そして、日本の物語に「生延びる事」と云ふテーマはありふれてゐる。
サヴァイヴはサヴァイヴで、面白い事は面白い――普通に。そして、視聽者は大概、普通に面白い事を求めてゐるものだ。俺だつて、この手の話は面白がつて觀る。
ただ、俺にとつて、「漂流もの(?)」の基準の一つは「あつぱれクライトン」だ。あゝ云ふ話はイギリス人にしか書けない。そして、それと比べて、彼我の差を思ひ知る訣である。
平成十六年三月二日
専門家は個人の責任で発言するな。後付けでいいから、組織のお墨付きを得てほしい。一人でやっていると、とかく易きにつきやすい。組織のプレッシャーという強力な動機を用意しない限り、チェック機構はろくに働かないものである。
關聯:とくほぶしさくれつのまき (2004/03/02 - 03:20) @ [ねこめしにっき(2004年3月上旬)]
良く考へると、個人としての専門家組織チェック機構と認識し、自ら進んで組織のお墨付きを得ようとしてゐる時點で、既に自己によるチェック機構が働いてゐる筈である。
徳保氏が問題にしてゐるのはチェック機構が働かない個人としての専門家である。その手の専門家は、チェック機構の必要性を認識してゐないから、組織を自分にとつて必要なチェック機構と認識する事も無いし、自ら進んで組織のお墨付きを得ようともしない筈である。
組織のプレッシャーという強力な動機を用意するのは、チェックする組織の側でなければをかしい。
チェック機構としての組織は、ちやんと組織員をチェックしろ」と云ふ主張ならば成立つ。徳保氏の言つてゐる事はナンセンスである。

平成十六年三月一日
Questionnaire Survey: Preface
「はてな」利用者に対するウェブ日記・ブログ意識調査と云ふ内容は何うでも良いが、微妙なマーク附けだなと。
平成十六年三月一日
R.O.Dとかレンズマンとかガンダムエースとかを買つた。
まるでオタクみたいだ。

關聯リソース

前の記事
日記バックナンバー
2004年2月(その2)
「闇黒日記」の關聯サイト
nozaki directory project
言葉 言葉 言葉
PC Tips
櫻花さん番外地
inserted by FC2 system