1900-03-01 言葉、言葉、言葉
別に違うなら違うでいいので、はやく民主主義とか自由主義の定義をしてください。
いや、そりゃあ僕はまだまだエッジの思想をきちんと語れるレベルに達してませんからねえ。だから本嫁っつってるのに。間違ったことを堂々とかける人って怖いわ。ギンズブルグをポストモダンの思想家だと言ってみたり、E・P・トムスン、ナタリー・デイヴィスはもちろん、ホブズボームも知らないんだろうね。「イギリス邊では不人氣だらう。」て言うくらいなら。
夫妻から直接聞いたことだが、エドワードは本当は歴史家より詩人になりたかったのだという。
というか、なんで話が「宗教は必要かどうか」の問題に摩り替わっているのよ。
そりゃ、ヨーロッパの歴史において、キリスト教の影響は皆無だったという人はいないからねえ。
古すぎです。最近の研究では「ゲルマン民族等を教化する際、土俗的な祭祀の方法を採入れた。」のではなく、ゲルマン民族側が、自分たちの文化に都合のいいようにキリスト教を受容したという文化横領説のほうが有力。
さらに、キリスト教の受容の仕方は階層によって全然異なる。
支配階層はキリスト教を支配の原理として利用した。
當時、未開であつたゲルマン民族が、キリスト教の思考樣式を受容れた事の意義が大きい。と書いてゐる。即ち、俺は、受容期(中世、と言ふとまた突込まれさうだが)の事を言つてゐるのではなく、中世以來、近世、近代を經て、ゲルマン民族等が、もともとの文化に加へ、キリスト教の文化を受容し續けてゐた、と考へてゐる。宣教師が來た、即座に教化された、と云ふ話ではない。常識的に考へれば馬鹿馬鹿しいほどに簡單な事だが、北守將軍は、俺を非難する爲に、極端に單純化された主張をでつち上げて「野嵜の主張」と極附け、その、北守將軍自身が作り上げた餘りにも單純で馬鹿馬鹿しい説を「あまりにも單純で馬鹿馬鹿しい」と言つて非難してゐるのである。
ひとつは、まず上に書いたようにゲルマン的慣習は消滅したどころかヨーロッパの歴史を通じて非常に重要なものだったこと。と北守將軍は書いてゐるが、その「上」の説明が、本質的に的外れで、しかもゲルマン的慣習が「あつた」と言つてゐるのみで、歴史的に
非常に重要であつた事の證明が全然ない、と云ふ致命的な缺陷を持つてゐる。
樺山紘一、ル・ゴフ、ギンズブルグ、バフチン
あれはマシュランボーを念頭に置かないと理解できないんだってば。
インケルス博士は、いかなる社会科学者も完全には価値判断を排除しえないことを十分に知っておられるし、博士自身の価値判断については、博士自身も承知し、読者にも承知させておられるのであるが、博士が比較的客観的な立場をとっておられることは、本書の特別な美点である。敏感な読者であれば誰しも、たとえ僅かにしろ、ソヴェートの内部に踏みこんだという感じを、禁じえないであろう。この客觀的な立場に加えて、最高の理論的精密さと厳密なデータの蒐集こそ、ソヴェートにおけるコミュニケーション・メディアの構造と社会組織の構造との関係をはじめて本質的に叙述した本書を、ロシア研究所が誇りをもって世に送るゆえんのものである。
本書で提出される材料は論争のためのものでもなければ、また宣伝的な政治論議のためのものでもなく、科学的な研究の形をとろうとするものである。私は事実をできる限り客観的に報告するように努力した。しかし、ソヴェート研究の領域では、はっきりと非難しない限り、或る人々からは承認するものだとみなされ、またはっきりと称讃しない限り、他の人々から派批判的なものだとみなされる。こうした誤解は、もし読者が政治的道徳的な評価と科学的な判断との区別を明記していれば、避けられるのであり、少くとも最小限にくいとめることができる。これらの判断は別のものだという原理を受けいれなかったならば、ソヴェート社会の本質について、また特にその強さと弱さとについて、在るがままの姿をとらえることはできないであろう。
伝統的な西欧自由主義である。しかし、その立場から見たソヴィエトの非自由主義的な状況の批判をすると云ふのではない。飽くまで、學術的な研究の成果――そしてより重要な事だが、單に學術の範圍に留まらず、一般的にソヴィエト社會を評價する際の一つの手がかり――を提供しようと言ふのである。
伝統的な西欧自由主義は、強制が最小限にとどまるような社会の建設を理想に掲げ、不完全ではあるがその方向に努力してきた。そのかわり各個人が社會的に規定された期待にそって、みずから行動することになるように、個人の生活状況を整えることを信条としてきた。更に、何をなすのが正しくまた適切であるかということについては、広く承認されているしっかりとした社会的規範を拠りどころにしようとしてきた。しかもその社会的規範は個人的な信念として、各人のうちにあらわれるものとされている。政府による大衆説得の運動は危機の場合をのぞいては疑いの眼をもってみられてきた。
西欧と日本とで話をごつちやにして、日本でも
社会的規範は個人的な信念となつてゐると理解し、
政府による大衆説得の運動を
疑いの眼をもってみるのは當然の事だと考へるのは、寧ろ危險である。飽くまで、著者の敍述は、西歐の社會における自由主義のあり方を述べたものと看做しておくべきである。もちろん、私は「政府の言つてゐる事は常に正しい」と主張したい訣ではない。ただ、「日本では、社會的な規範が、納得された個人的信念となつてゐるか何うかは怪しい」と言ひたいだけである。即ち、政府の言つてゐる事に對して、日本人が屡々、機械的に反對の姿勢を示すに過ぎない事が、とても多い、と云ふ事を指摘したいのである。そして、その「機械的な反對」をする人が「西歐の思想」と云ふ「裏附け」を主張する時、「適應異常」と云ふ批評をしたい、と言ひたいのである。
これだって、とりあえずあなたが言った定義に合うように言っているだけなんだから。違うんなら違うのでいいから、再定義してくださいよ。
定義をしたんですか?
「児ポ法改悪が行われるような国は民主主義的でない」は、一般に言ふ定義ではないやうに思はれますが。
児ポ法改悪云々と言出すのですか。
児ポ法改悪云々なんて話を北守將軍が持出したのがをかしい。北守將軍は、自分が變な事を言つてゐる自覺がないのか?
ていうか、今定義の問題でもめているのはあなたが論争的な言葉を何の留保もつけずにポンポン使って雑な議論したことに端を発するということに気づいてください。
論争的な言葉つて、具體的に何と言ふ語を指して言つてゐるんですか?????? そもそも、北守將軍は、説明拔きで文献を羅列したり、説明拔きで
論争的な言葉と言つたり、他人を批判出來るほど叮嚀な議論をしてゐるとは思はれませんが。
西欧諸国のもろもろの問題と、日本が抱える問題は本質的に異なるというのは、僕じゃなくてあなたの仮説じゃないですか。
僕は別に同じとも違うとも言ってないですが。
それはただ単に読めてないだけ。
- そもそも、日本が自習主義・民主主義的に全く問題がないならこのような結論はでてこない。
- 日本が抱える民主主義・自由主義の問題が、少なくとも「西欧と日本」というファクターを介在しなくても説明可能な場合もまた、このような結論にはならない。よって、上のことが言えるためには、日本が抱える民主主義・自由主義的問題は、日本固有の問題であるということが証明されなければならない。
なんでそこで「西欧」とか、「日本」とかが自明なものとして出てくるのだと聞いている。
んなこたわかっとる。と言つておきながら、「わからない」と云ふのは何なのだらう。とぼけるのは止して下さい。
さんざん説明したと言ふのは、http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040224#p2邊の事なのかも知れないが、日本語の文章ならばともかく、それつぽい術語が亂暴に使はれた讀めない文章なのだから、説明にもなつてゐない、としか言ひやうが無い。
ギンズブルグは、歴史的証拠を「ゆがんだガラス」にたとえている。
「現実」と「証拠」の関係云々と言つてゐるけれども、その手の理論は、現實から遊離した理論にしかならなかつた訣だし、實際のところ、日本の一部の研究者の間で流行つてゐるほど、世界の歴史學で支配的な位置にある訣でもない。イギリス邊では不人氣だらう。
いかに「歴史を逆なでに読」もうと、やはり歴史家は自身の価値判断から逃れられないのではないかという疑念は消えない。と云ふ邊も、『世界史の誕生』(だつたかな?)で岡田英弘氏が非常に常識的な文章で指摘してゐる。
どのような研究によってキリスト教の地位が低くなったかも知らないのに反発ですか。
研究に、キリスト教の立場とか、傳統的な立場の研究者から反論が出た、と云ふ事を考慮する必要はない、と北守將軍は考へてゐるらしい。
研究が、キリスト教やキリスト教的な立場にとどめを刺した、と云ふ話を聞いた事がない。
世界国家の私達に最もなじみ深い例はローマ帝国である。《ギリシャ正教》文明はオスマン帝国の形でそれを作ったし、シナは蒙古人の支配、後には満州人の支配等の形でそれを作った。世界帝国には常に「空位期間」が続く。この概念の雛形を一二五六年から一二七三年にいたるドイツ史が提供する。世界史的な次元における空位期間を、私達は約二七五年から約六七五年にいたるヨーロッパで経験した。西ゴート族は三七八年にアドリアノープルの近くでヴァレンス帝に勝つ。五世紀と六世紀にローマ帝国はいくつかの継承国家に分裂する。指導的役割はフランク人に帰する。しかしメロヴィング王朝の勢力は六五〇年頃に瓦壊する。アウストラシアの宮宰である中ピピンは六八七年のテルトリの戦闘に勝って全国の支配権を収める。ピピン一族またはカロリング王朝の上昇はこれによって決定されたのである。これは《ギリシャ》(ギリシャ・ローマ)文明が《西欧》文明と交代したことを意味する。しかしこの西欧文明は、トインビーによると、ゲルマン人のおかげで成立したのではなく、ローマ教会のおかげなのである。これがローマ帝国の崩壊した器のなかの唯一の創造的な力であった。なるほど多くの歴史家は、「新鮮な血の流入」なるものが、あるいは服従が中世の成立に際してのゲルマン人の貢献であるとしたがる。トインビーによるとこれは正しくない。「原始的なチュートン族の自由」は、もしそんなものが存在したとしても、ほとんどすベての原始人に見られるような発育不全の制度であって、民族大移動の後まで残ることはできなかった。ゲルマン人は古代文明を破壊したのではなく、「たんにそれが内的にすでに死滅したときに破壊の仕事を完成したにすぎない」(エドゥアルト・マイアー)。カトリック教会はローマ帝国のなかで生まれたが、帝国よりも長命だったばかりでなく、西欧文明がそのなかで発達した器となった。ここにも一般的な法則の特別な例がある。つまり世界教会が二つの交代する文明の中間項をなしているのである。
"Adobe Reader"のアップグレードを即すダイアログが出て来たので
イギリスだったら、国教会とか貴族院どうよとか、アメリカだったらネオコンどうよとか、いろいろ言えますな。
言えますな、ですか。はあ。さやうでございますか。言つてどうするんですか。
もちろん、こうした問題の背後にはもろもろ個別的な理由がありますな。でも、その検証って俺の仕事?
そういった西欧諸国のもろもろの問題と、日本が抱える問題は本質的に異なるということを示さなければいけないのは野嵜さんのほうのような。
西欧諸国のもろもろの問題と、日本が抱える問題は本質的に同じだ、と言つてゐるも同然なのだが、ならば、
西欧諸国のもろもろの問題を研究すれば
日本が抱える問題の解決に繋がる、と云ふ事になる。
いや別に問題は当然解決したほうがいいと思いますよ。と言つてゐるんだから、
いい結果が出るやうにしたら良いぢやないですか。と言ふか、北守將軍、「日本にも問題はあるけれども西歐諸國にも問題がある」と言つたり、「問題は解決させた方が良いけれども、俺自身は何もしたくない」と言つたり。
ていうか、これは多分既出だろうと思うけど、日本人は確かに自由主義や民主主義を使いこなしていないのは確かです。なんて書いてゐますけれども、文章をちやんと書く訓練もしたら如何かと。
暴力による政権交代が民主主義的かどうかはたぶん議論がわかれるだろうけど、選挙で政権交代が行われた場合、そんなに議論がわかれないでしょ。
そもそも、民主儀的・自由主義的とは何ぞやの議論からしたいのであれば一人でどうぞ。と云ふ甚だ投げやりな態度をとつてゐる事が傍證である。もつとも、北守將軍が誤字をやらかしたり語句の重複に氣附かなかつたりしてゐるのには、心理學的な分析の餘地もありさうだが。
この場合、定義というか基準は、「児ポ法改悪が行われるような国は民主主義的でない」なわけ。云々と言つてゐる邊、北守將軍が、高橋氏と同樣、政治的な目的で俺を非難し、名目として「歴史学」を持出してゐるだけであるらしき雰圍氣が極めて濃厚。
これらの問題が山積みにされていない国ってどこよ、と云ふ事は、「餘所の國でも民主主義や自由主義にかかはる問題は山積みなのだから、日本人も問題をほつたらかしにして良いのである」と云ふ事でせうか。
問題ありまくりであるとしてしまつてゐるだけで、それぞれの國で出て來る
問題の由來を考察した形跡が見られない事です。また、或程度、自由主義や民主主義が定着し、機能してゐるイギリスとアメリカを、故意に無視してゐる氣配がある事にも注目する必要があります。
その「他民族の思想」発祥地のひとつフランスは、ミッテラン政権が誕生するまで「穏健かつ民主主義的な」政権交代はなかったという有様。と云ふ説明にも、問題があります。ここで、
政権交代の形態で以て、北守將軍はフランスにおける
民主主義や自由主義にかかわる問題を端的に示してゐる積りでゐます。しかし、重要なキーワードが北守將軍の文章に紛れ込んでゐます。どうも、北守將軍の觀念として、「民主主義」と「穩健」とは直結してゐるらしいのです。しかし、「民主主義」はアプリオリに「穩健」と結び附くものでせうか。「革命が傳統と化してゐる」と見るならば、フランスでは「戰鬪的である事が寧ろ民主主義的である」と云ふ事になるかも知れません。
訓練と云ふものが一體、どのやうな類のものであつたのか、興味があります。文學と歴史とを分けて考へてゐるやうだけれども。
「キリスト教」という概念が、歴史学において非常に多様な意味で使われるということは、どこがどう違うのかを説明するまでもなく「明らか」で、それは歴史学の本を読めばすぐにわかることです。
逆にいえば、野嵜さんも自分の説を支持している歴史学者をあげればいいんですよ。
あ、ロレンスは禁止で。歴史学者じゃないので。とか、無茶な事を言つてゐやがる。
ただ、読まなきゃ何も始まらないから。と言つてゐる北守將軍は、トインビーを批判出來るほど、北守將軍はトインビーを讀んでゐるか?
無知だの
脳内歴史だのと言つてゐるに過ぎない。
というわけで、めんどくさいから適当に参考文献下につけといてるんで、やるならちゃんとやってください(オレモナー)。と言つてゐるのだから、北守將軍は、自分の事を棚に上げて俺を非難してゐる事を自覺してゐるのである。惡質極まる。
これはつまり、アナール第二世代が経済の動きのようなコンンジャンクチュールにを重視しすぎていたという反省から、ル・ロワ・ラデュリやギンズブルグ、コルバンといったいわゆるアナール第三世代の人々が提唱した「心性史」の重視のことですよね?
ところで、100年前の「日本の知識人」的な観念にいまだに囚われているあなたもどうかと。
100年前の「日本の知識人」的な観念から、何時、どのやうにして、「解放」されたのでせうか。現代の日本人は、その
観念から「既に解放されてゐる」と云ふ事を「立証可能である」と考へてをられる北守將軍には、是非ともきちんと立證していただきたいのですが。
ある程度バイアスがかかっていることは否定できませんね…。と云ふ批判は當嵌らないのかね。
たとえば資本主義社会の成立におけるキリスト教の重要性を論じることはあるし、ヨーロッパ基層文化におけるキリスト教の影響を論じることもありますが、それぞれで扱われている「キリスト教」なるものはぜんぜん異なるわけで。
ぜんぜん異なると言放つてゐるけれども、では、前者の意味は何うで、後者の意味は何う、と説明しない理由は何ですか? 私の「明か」を批判したいのなら、自分が「明か」と言つて濟ますのは何うかと思ひますがね。
キリスト教的な対象についてニーチェの言説を一つ一つ比べてみるとしたら――例えば「牧師」とか「教会」とかに関する是非の論には、――ほとんど至る所に、こうした辻褄の合わせにくい評価の言葉が見られることだろう。
独特な情熱について考察し、ニーチェの言葉を檢討して、
キリスト教の道徳的な刺戟があったればこそ、無限の真理意欲が呼び醒まされた事を指摘し、
してみればニーチェは、自分の物の考え方がほかでもないキリスト教的な刺戟によって生れたものだと、そう意識しているわけである、と結論する。
世界史の教科書を持出して證明した氣になるのも、何うか(してゐる)と思ふ。例の「南京大虐殺」の議論の時にも、世界史の教科書に載つてゐると言つて、自明の事だと言張つた異常な論者が存在した。
ソクラテス時代のアテネからの影響に比べたら、ガリラヤのイエスからの影響なんて、へのへのぺーなんですよ。日本の民法にもゲルマン文化の影響があって、そのせいで所有権と占有の関係がばかみたいに難しくなってるんですよ。戦時中の「西洋の超克」がトラウマになって、すっかり西洋化してしまった自分たちの哲学や法や心性が見えなくなって、キリスト教ばかり目につくのが現代の日本人なんですよ。
「ドイツとフランスは、歴史的に見てずっと仲が悪かったんだ。だから、EUだってすぐダメになるさ。」
その誤謬が生まれる理由は、われわれが意識的にしろ、無意識的にしろ、「ドイツ」や「フランス」をそれぞれ独自の意志を持った、有機体的なものとしてみているか、でなければ「ドイツ」と「フランス」を喧嘩せしめるような「意志」を、歴史の背後に求めているかのどちらかだろうと思う。と言つて批判した積りになつてゐる。
19世紀のフランス共和国政府が突然出て來るんだよ。馬鹿ぢやねえのか。
公教育の場からカトリックを締め出したのがそもそもをかしい、と云ふ事に氣附けよ。キリスト教の常識から考へれば、
公教育の場からカトリックを締め出すのが「神のものとカイザルのものとの區別」と全然關係のない事は明か。さう云ふ問題ぢやないんだよ。キリスト教の事を知らないででかい顏をするのも好い加減にしろ。
バッサリやる必要がある場面で
バッサリやつてゐる人間に、
バッサリやつてゐるよあの馬鹿(トップゲラ)みたいな非難をしてゐるんだけれども、馬鹿だねえ。
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040203#p1
こんなめんどくさい議論は勿論僕にも処理できない。つーか、わからない。
キリスト教は確かにガリレオを弾圧したかもしれないけれど、他方で中世を通して人々の知的好奇心を育ててきたという事実もあるのですよ。と言つてゐるけれども、俺も同じ事を言つてゐる。彼が俺を非難する理由が、全然解らない。高橋氏が俺を非難した理由も解らないのだけれども。
むしろ、科学が発達したことによって、人々は初めてカトリックの誤りに気づいた、と考えたほうが自然でしょう。と、安易に
誤りと言つてしまふところに、北守氏の危ふさがある。
キリスト教に近代科学を生み出す内在的な力があるなら、もっと早くから近代化しているはずだし。
生れてきてすいません。なんて言つたけれども、やつぱりさう云ふのとキリスト教徒の原罪意識とは違ふ訣だし。そもそも太宰はクリスチャンぢやないし。
でも,近い身内の死に直面する場面では,日本人といえども原罪なんてことを色々と考えてしまう。
現行日本国憲法制定以前の日本人の後ろ盾だったものは、あきらかに現人神でしょう。それだけが唯一絶対の観念だったはずですが……それすらも先の大戦が終わってからの展開で奪われてしまったのかな?
まぁキリスト教の神の定義と違って、実際に肉体のある人物を崇め奉る訳ですから、権力抗争などで利用されてしまい形骸化してしまいがちだったのは歴史を見れば一目瞭然な訳ですが。そもそも『神が人の姿として生まれてきた』と言う定義が、言い換えれば『神を人に貶めた』と言う時点で破綻している様に私は感じます。
近代天皇制・国家神道が一神教的西欧近代に対抗するために創作された、という説は結構あるようで、俺はあんまり詳しくないのでその分析としての妥当性や政治的な正当性への評価はパスしますが(ちゃんと調べたほうがいいかな?)、俺は好かんなあ。
あんまり詳しくないのに、簡單に
俺は好かんなあと結論を述べてしまふ高橋氏の
乱暴さが氣になります。一往調べてから物を言つたら何うかと。まあ、
調べるにしても、高橋氏は自分の好みに合つた資料しか調べないんだらうけれども。
要するに「俺達の怒りを勝手に代弁するな」と言いたいのですか?/それならば、単にそれだけ言えばいい。そして俺は、「代弁しているわけではない」と言っている。「怒る人がいるとすれば」そうだと言っているだけなのだから。俺は自分に関係ない問題に怒るのも筋違いなので、批判しない、というだけです。
むしろ、(ばっさり略)とか、これは本当に該当者全員に当てはめていいことなんですか? そちらの乱暴さのほうが俺には気になります。
理不尽に感じてはいたが敢えて追求しようとも思わなかった。と言ふやうな人間とは違つて、天才と言ふのは物事を突詰めて考へる人間である。考へないよりは考へた方が、考へが深いに決つてゐる。
もう何年もまへに白川静「漢字」(岩波新書)をよんだとき、「口」とあれば全部祭器かよ、と思つたのを思ひ出したり。いま、貨幣にサブリミナルな性器等が図案化されてゐるといふ本書の主張と、白川氏の研究とを正しく線引きせよ、と言はれて私にできるのだらうか。
自由主義でもそうです<政治は道徳に優先する
暴動を起こして国王を追い出すことが一般的に正しいとは思われない時代に、市民革命は起こった。自由ってのはそういうものです。
日本人の精神文化、と一元的に語ることが可能なのかどうか。
マリア信仰やハロウィンやイースターは正統ではないんですか?
キリスト教だって異民族文化を取り入れて変化している。マリア信仰とか。ハロウィンとか。イースターとか。
性的な抑圧がなくなったところで、貴方は困っても俺は困らない。
性的な抑圧があつたところで困らない。
貴方が適用すべきと考えるか否かに関わらず、表現の自由は全ての表現に適用されるのです。貴方をその点で説得する意義を感じません。
架空キャラの絵の幼児ポルノが誰の権利を侵害しているかと問われて答えられる人はいないのではないですか?
抑圧的な感情の顯れだと看做す人もゐるでせうね。
一方、表現規制が個人の表現の自由を制限してしまうことは、誰の目にも明らかです。
不愉快に思う人がエロコンテンツを目にしなくても済む権利、というのは、法的に検討されてもいいんじゃないかと思います。
「法は最低限の道徳であり、それ以外に人が守らなければならない道徳がある」というのは、もはや法学の話ではなく、従うつもりはありません。
むぅ……どうして規制賛成派の方々はそんなに猥褻表現に過剰反応するのでしょうかね……。実際にレイプした訳でもないのに、そう云う表現が作中に出てきたらNGなのでしょうか?
例えば、職業選択の自由の一環として売春する自由を考えた場合、法律問題は関わってくると思いますが。
単にかわいそうなことはしないというだけなら、たとえば犯罪者を告発するのもかわいそうだと言い得る。あんまりかわいそうに感じない奴相手なら何をやってもいいということにもなる。
マリア信仰も、イースターも、ハロウィンも、異民族文化に端を発するものでありながら、同時に正統なカトリックの風習でもあるのだけど。
「感情の表れ」とか言われたらもう法の話じゃないなあ。
俺は貴方の言説のほうがよっぽど有害度が高いと思いますが、まあ、見たい人の見る権利を妨げない範囲で見たくない人が極力見ないで済むようにする仕組みはあってもいいと思う。
表現規制法案の話が法学談義以外のものであるわけがないでしょう。
法学談義以外のものであるわけがないでしょうが、なぜそんなにまでしてその種の法律の成立を高橋氏が阻止したがつてゐるのか――と言ふより、高橋氏は、法案に贊成か反對かと云ふ域を超えて、規制に贊成か反對かの話に踏み込んでをり、その觀點から俺の事を「反動」呼ばはりしたのだから、
法学談議の域を自分で踏み外してゐるのだから、そこで「アプリオリに法律の話は法學的な話である」等と言つて議論から逃げるのは許されないのである。
貴方の正義になんぞ興味はないし付き合う気もない。
子供に見せるかどうかは教育の問題なので、性道徳の話とは分けるべき。
俺は教育学に関してはまるで知識が足りないのでパス。と言ひながら、平然と
教育の問題なのでと言放つのは、無責任極まる。
- エロゲ
- エロシーンが本當に必要かを論じる事。
野嵜氏は私憤を公憤にすり変えていて、高橋氏は表現の自由を大義名分として利用していると。要はエゴのぶつかり合いなんだから「悔しかったら憲法改正しやがれ」というのは正当な主張に思えます。そうでないと決着はつかないし。あとはもうコブシで決着つけて友情を芽生えさせるぐらいしか方法が…。
私憤なのだか。
私憤を公憤にすり変える事なのだが。
要はエゴのぶつかり合いなんだから「悔しかったら憲法改正しやがれ」というのは正当な主張に思えます。
私憤なのではないか。
そして、法解釈の選択の根拠は結局の所「法律センス」とか「バランス感覚」と呼ばれる論理的に語ることが困難な領域に属します。法律家ですら日夜悩み続けている問題について語れと言うのは無理がないですか?
法解釈学の域を超えてセンスなり感覺なりの領域の問題となつてゐるのだから、
法解釈学の専門家でない人間が
法解釈学以外の見地から意見を述べる事は「あり」でせう。
法学談議をやらうなんて言出すのは、馬鹿のする事だし。
切り売りみたいなものだから
人格の切り売りに比べれば賤業だらう。詳細は松原正氏の著作を參照して下さい。
きゅあきゅあ。
せきゅあ。
VNI Theoria Laevatain の血が騒ぐページらしい。ページつて何。
- cure -v. (-ring)
- (often foll. by of) restore to health; relieve (cured of pleurisy).
- eliminate (disease, evil, etc.).
- preserve (meat, fruit, etc.) by salting, drying, etc.
- vulcanize (rubber); harden (plastic etc.).
- cure -n
- restoration to health.
- thing effecting a cure.
- course of treatment.
- curacy.
「西欧」と比較するなら論理的には「東アジア」でなければならないはずである(「西洋」に対する「東洋」のように)。
レース界の人達の意識が違ふ、と云ふ話。