闇黒日記

平成十六年二月二十九日
PCの動作確認とかHDDの換裝とか。
マザーボードが一枚、逝つてゐた模樣。
平成十六年二月二十九日
はてなダイアリー - 「なぜベス」日記
1900-03-01 言葉、言葉、言葉
平成十六年二月二十九日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040227#p2
別に違うなら違うでいいので、はやく民主主義とか自由主義の定義をしてください。
あれれ。歴史の話だとばつかり思つてゐたら、いつの間にか「児ポ法」の話になつてゐる。
いや、俺としては、「西歐」とか「日本」とかが未定義だ、と言つて、北守將軍が非難してゐるものとばつかり思つてゐた。だから歴史の話をしたんだらうと。
何の事はない。北守將軍は、高橋氏と同樣、政治の話をしたかつたのだ。
自由主義について知りたければ、河合榮治郎の本でも讀んだらどうですか。何度も言及してゐるよ。
あと、福田恆存氏と松原正氏の名前は、何囘出せば良いのかな。そもそも、歴史の話でないと言ふのだから、文學者とか評論家とかの名前を出しても一向構はない訣で、ならばもう、説明する必要はない。俺の本棚にある、重要と思はれる思想の本は既に紹介濟み。
と言ふか、はてなのキーワードにリンクが自動的に張られてしまつてゐるのが皮肉。
平成十六年二月二十九日
いや、そりゃあ僕はまだまだエッジの思想をきちんと語れるレベルに達してませんからねえ。だから本嫁っつってるのに。間違ったことを堂々とかける人って怖いわ。ギンズブルグをポストモダンの思想家だと言ってみたり、E・P・トムスン、ナタリー・デイヴィスはもちろん、ホブズボームも知らないんだろうね。「イギリス邊では不人氣だらう。」て言うくらいなら。
みすず書房邊の本なんて讀まないからね。
晶文社とかみすず書房とか岩波とか(以下略)あの邊の歴史家・思想家達は、俺の頭の中では、皆一括りにされてゐる。そんな理解で十分だらう。「ポストモダン」と言つたつて、結局のところ俺に言はせれば「反近代の思想」に過ぎない。福田恆存氏が「反近代の思想」ではなくて「超近代の思想」と言へと現代文化會議の人に忠告したと云ふ事で、慌てて某サイトのタイトルを變更した訣だが、單なるアンチでは駄目なんだよ。日本では、アンチがアンチでなく、過去の因襲的な思想を乘越えた劃期的なものに見えてしまふらしい。そこで俺は、それもまた「日本人の適應異常」と言つてしまふ訣だが、自分でも人氣不人氣と言つてしまふのだから結局日本人としての俺は日本人の限界を超える事は出來ないでゐるらしい。
と言ふか、俺の「連中はみんな詩人」と云ふ指摘はスルーなのだからな。
EPTを悼む
夫妻から直接聞いたことだが、エドワードは本当は歴史家より詩人になりたかったのだという。
何も知らない割に、俺は結構、眞實を言當ててゐるぢやないか。自分で自分に感心したよ。笑。
平成十六年二月二十九日
というか、なんで話が「宗教は必要かどうか」の問題に摩り替わっているのよ。
俺の方こそびつくりだよ。北守將軍が結局、政治的に俺に反對してゐるだけだ、と云ふ事が明かになつたのだから。まあ、その手の「歴史」の本を讀んでゐるんだから、政治も歴史も一緒くたなんだらうが。
平成十六年二月二十九日
そりゃ、ヨーロッパの歴史において、キリスト教の影響は皆無だったという人はいないからねえ。
なるほど。キリスト教關係の事では反論出來ないから、民主主義と自由主義の事に話をずらした訣だ。
平成十六年二月二十九日
古すぎです。最近の研究では「ゲルマン民族等を教化する際、土俗的な祭祀の方法を採入れた。」のではなく、ゲルマン民族側が、自分たちの文化に都合のいいようにキリスト教を受容したという文化横領説のほうが有力。
意味のない指摘をして、批判した積りになつてゐる。
俺の文章で、教會の側か、ゲルマン民族の側か、は問題ではない、と云ふ事が、北守將軍には全然理解出來てゐない。基本的に、北守將軍には文章を讀み取る能力がないのだ。
さらに、キリスト教の受容の仕方は階層によって全然異なる。
それあ、異ると言つたら個人差もあるだらうし、階層の差もあるだらう。
支配階層はキリスト教を支配の原理として利用した。
この割切り方が亂暴だと言ふ事に、北守將軍は全く氣附いてゐない。キリスト教は、支配階層にとつて、完全に「支配の原理」であつて、精神的には何ら影響を與へなかつた、と北守將軍は今、亂暴な事に、言ひ切つてゐる。これが嘘である事は、火を見るよりも明らかだ。
あと、ここで北守將軍は、ゲルマン民族がキリスト教を受容した當時の話をしてゐるのだが、それがそもそも間違ひ。俺は、當時、未開であつたゲルマン民族が、キリスト教の思考樣式を受容れた事の意義が大きい。と書いてゐる。即ち、俺は、受容期(中世、と言ふとまた突込まれさうだが)の事を言つてゐるのではなく、中世以來、近世、近代を經て、ゲルマン民族等が、もともとの文化に加へ、キリスト教の文化を受容し續けてゐた、と考へてゐる。宣教師が來た、即座に教化された、と云ふ話ではない。常識的に考へれば馬鹿馬鹿しいほどに簡單な事だが、北守將軍は、俺を非難する爲に、極端に單純化された主張をでつち上げて「野嵜の主張」と極附け、その、北守將軍自身が作り上げた餘りにも單純で馬鹿馬鹿しい説を「あまりにも單純で馬鹿馬鹿しい」と言つて非難してゐるのである。
大體、今だつて、キリスト教の事を完全に理解してゐる民衆なんて存在は何處にもありはしないのだし、北守將軍はその邊の完全性まで俺に要求してゐるのである。
平成十六年二月二十九日
俺の言つてゐるのは、「日本人は、佛教の形式を採入れたが、佛教の教義は採入れなかつた」「西歐の連中(此所では「ゲルマン民族等」と言つてゐる)は、キリスト教の教義を採入れたが、キリスト教の形式には影響を及ぼした」と云ふ事だ。北守將軍の非難が、これに對する正當な批判となつてゐるかは、甚だ疑問。
クルティウス批判一つにしても、ひとつは、まず上に書いたようにゲルマン的慣習は消滅したどころかヨーロッパの歴史を通じて非常に重要なものだったこと。と北守將軍は書いてゐるが、その「上」の説明が、本質的に的外れで、しかもゲルマン的慣習が「あつた」と言つてゐるのみで、歴史的に非常に重要であつた事の證明が全然ない、と云ふ致命的な缺陷を持つてゐる。
そもそも、クルティウス批判と言ふのが妙である。俺は「クルティウスが要約したトインビーの思想」を引用した。だから、北守將軍は、「トインビー批判」をしてゐる筈である。
平成十六年二月二十九日
樺山紘一、ル・ゴフ、ギンズブルグ、バフチン
この手の思想家なり何なりを好きな人がゐるんだよねーいまだに。
阿部謹也も、讀む氣がしない。
平成十六年二月二十九日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040227#p3
古代のキリスト教と違つて中世以降のキリスト教が異教的な側面を取込んでゐた事は、福田恆存も書いてゐたのだと思ふのだけれども。
同時に、異教的色彩を纏つたキリスト教が、それゆゑに異教社會に定着した事も書いてゐたと記憶するのだけれども。
ただ、一度定着してしまへば、異教的であらうが何であらうが、キリスト教社會はキリスト教社會である。そして、中世をキリスト教一邊倒の時代と思ひ込んでゐた近世以來の西歐では、自分逹の社會をキリスト教社會と認識してゐた。當時の知的階級は當然、變質以前の本來のキリスト教に考へを及ぼす。それは、復古と切つても切離せない近代の人間の意識である。さう云ふ近代的であると同時に復古的な近代人の意識を批判してゐるのが現代の思想家なのである。しかし、その批判は「批判の爲の批判」で、近代の復古的と云ふ側面に對する反動としての「進歩的な態度」であるやうにしか、俺には思はれない。そして、「批判の爲の批判」の常として、フェミニズムでは全てのものに「父権」なるもののみを見出し、北守將軍の歴史學では支配者に支配意識のみを見出す。これが亂暴極まる推論であり解釋である事は、俺は「明か」だと思ふのだが、フェミニズムファンの高橋氏には分らなかつたし、北守將軍も分らない。
そもそも、非キリスト教的な價値觀に縋り附く態度は、キリスト教的な傳統の延長として出現した近代における觀念に對する反動としての反近代の思想の態度そのものである。即ち、キリスト教を拒絶し、是が非でも否定しなければならない、とする態度の中に、逆説的に、キリスト教的な二元論的な態度が潜んでゐると言へるのである。
アンチキリストを標榜したニーチェの文章を採上げて分析したヤスパースは、餘りにもニーチェがキリスト教的である事に驚いてゐた。北守將軍が、キリスト教以外の要因の歴史的意義を主張したとする歴史家・思想家の文章を叮嚀に分析してみれば、そこにキリスト教的な態度を見出す事は、案外簡單に出來さうな氣がする。さう云ふ意味で、彼の紹介した人の本には興味がある。
が、人生は短く、本は餘りにも多い。目の前の本棚の本を片附けるので、俺は手一杯だ。新しいものが好きな奴は新しいものを讀んでゐれば良い。俺は、流行りのものが流行る中で忘れられたものを讀むのも、一つの態度だと思つてゐる。そして、俺は英文學をやつた人間で、新しい流行りものよりは古くからある傳統的なものの方を信用すると云ふ英國の保守的な態度を學んだ人間だから、「古い」と言はれても別に古い事に問題はないと思ふし、寧ろ、古いものを古いからといつて安易に排除する人間を輕蔑するだけだ。
平成十六年二月二十九日
御招きを受けてゐたりするのだが。
某リンク集の登録ですら三月くらゐためてゐる状況だし。
メールの返事すら書いてゐないくらゐで。
平成十六年二月二十九日
2004-02-29 @ [はてなダイアリー - xxxxx-chan]
あれはマシュランボーを念頭に置かないと理解できないんだってば。
激しく同意するが。・゚・(ノД`)・゚・。
平成十六年二月二十九日
貰ひ物のHDDをフォーマットしながら『ソヴェートの世論』を讀んでみる。

インケルス博士は、いかなる社会科学者も完全には価値判断を排除しえないことを十分に知っておられるし、博士自身の価値判断については、博士自身も承知し、読者にも承知させておられるのであるが、博士が比較的客観的な立場をとっておられることは、本書の特別な美点である。敏感な読者であれば誰しも、たとえ僅かにしろ、ソヴェートの内部に踏みこんだという感じを、禁じえないであろう。この客觀的な立場に加えて、最高の理論的精密さと厳密なデータの蒐集こそ、ソヴェートにおけるコミュニケーション・メディアの構造と社会組織の構造との関係をはじめて本質的に叙述した本書を、ロシア研究所が誇りをもって世に送るゆえんのものである。

本書で提出される材料は論争のためのものでもなければ、また宣伝的な政治論議のためのものでもなく、科学的な研究の形をとろうとするものである。私は事実をできる限り客観的に報告するように努力した。しかし、ソヴェート研究の領域では、はっきりと非難しない限り、或る人々からは承認するものだとみなされ、またはっきりと称讃しない限り、他の人々から派批判的なものだとみなされる。こうした誤解は、もし読者が政治的道徳的な評価と科学的な判断との区別を明記していれば、避けられるのであり、少くとも最小限にくいとめることができる。これらの判断は別のものだという原理を受けいれなかったならば、ソヴェート社会の本質について、また特にその強さと弱さとについて、在るがままの姿をとらえることはできないであろう。

本書で著者は、マスコミュニケーションの方法や效能についてではなく、社會制度とマスコミュニケーションとの相互作用について、考察し、論じてゐる。
著者の立場は、伝統的な西欧自由主義である。しかし、その立場から見たソヴィエトの非自由主義的な状況の批判をすると云ふのではない。飽くまで、學術的な研究の成果――そしてより重要な事だが、單に學術の範圍に留まらず、一般的にソヴィエト社會を評價する際の一つの手がかり――を提供しようと言ふのである。
著者は、ソヴェート社會に、全階級に對する暴力的な思想・態度の強制(「暴力」)と、併行して、或集團に組織的・統一的な運動を喚起すやうな宣傳(「説得」)の、二つのキーワードがある事を指摘し、從來、「暴力」の側面のみがクローズアップされて來た、と指摘する。そして、自由主義の立場から共産主義を非難する際、そのやうな態度が出現してゐるとする。しかし、それではソヴェート社會(と、ソヴェートのマスコミュニケーションの形態)を理解するのには、不十分である、として、「説得」の領域の研究と理解とが必要であるとしてゐる。

伝統的な西欧自由主義は、強制が最小限にとどまるような社会の建設を理想に掲げ、不完全ではあるがその方向に努力してきた。そのかわり各個人が社會的に規定された期待にそって、みずから行動することになるように、個人の生活状況を整えることを信条としてきた。更に、何をなすのが正しくまた適切であるかということについては、広く承認されているしっかりとした社会的規範を拠りどころにしようとしてきた。しかもその社会的規範は個人的な信念として、各人のうちにあらわれるものとされている。政府による大衆説得の運動は危機の場合をのぞいては疑いの眼をもってみられてきた。

ここで、西欧と日本とで話をごつちやにして、日本でも社会的規範は個人的な信念となつてゐると理解し、政府による大衆説得の運動疑いの眼をもってみるのは當然の事だと考へるのは、寧ろ危險である。飽くまで、著者の敍述は、西歐の社會における自由主義のあり方を述べたものと看做しておくべきである。もちろん、私は「政府の言つてゐる事は常に正しい」と主張したい訣ではない。ただ、「日本では、社會的な規範が、納得された個人的信念となつてゐるか何うかは怪しい」と言ひたいだけである。即ち、政府の言つてゐる事に對して、日本人が屡々、機械的に反對の姿勢を示すに過ぎない事が、とても多い、と云ふ事を指摘したいのである。そして、その「機械的な反對」をする人が「西歐の思想」と云ふ「裏附け」を主張する時、「適應異常」と云ふ批評をしたい、と言ひたいのである。
平成十六年二月二十九日
「今更ソヴィエトの事なんか古い」とか云ふ批判はナシ。「特定の社會における事例の研究」として見れば、「古い」研究と云ふものは存在しない。研究對象の古さと、研究方法の古さとは、區別されるべきである。
そして、研究方法の新舊と、その當否とは、やはり區別されるべきである。
平成十六年二月二十九日
現代の西歐の社會を、キリスト教社會と見るか、異教社會と見るか――そこが問題なのだが、近代に一度、西歐社會はキリスト教の傳統を意識したのであり、全ての思想が――キリスト教出自とは必ずしも言へないにしても――キリスト教との距離を測定した上で成立してゐる事を考へると、やはりキリスト教社會と見るのが常識的な態度であると言へるだらう。
自由主義や民主主義に、非キリスト教的な由來があるとしても、理論化の際にはキリスト教の理論が援用されてゐるのであつて――と言ふより、キリスト教を意識した上で、理論が構築されてゐる。さうなると、近代に於いて認識されたキリスト教の理念を知る事が、近代以降の思想を知るには必須である、と云ふ事になる。
ギリシャ哲學は、中世になつてキリスト教の關係者によつて再發見され、再認識されたものである、と云ふ事も忘れてはならない。
西歐で、無意識の領域に於いて異教的な觀念が存在したとしても、意識の領域ではキリスト教の理念が支配的であつた、と云ふ事は、意識された觀念であるイデオロギーや近代思想に於て、意識の側面でキリスト教が支配的である事を意味する。そして、意識的であらうとする態度が近代の態度である。現代では、近代に對する反省から、無意識の領域が見直され、「キリスト教の支配」なるものに對する批判が出現したのである。
そして、これらの近代的な意識や近代に對する反省は、西歐社會に於てのみ、自然な歴史の流れの中で出現し得た事實である。日本では、飽くまで「外發的」な理由で西歐の近代的な意識は意識させられたのであり、西歐の近代に對する反省も示唆された。
平成十六年二月二十九日
近代の意識は、自己の由來に對す類式である。
西歐ではキリスト教を傳統として認識する所に、近代が始まつたと言へる。これに對しては、後世の立場から批判派可能だが、意識と云ふ事を問題にした端緒であるデカルトにしても、デカルトを批判したパスカルにしても、自己の觀念をキリスト教との關係で認識してゐた事は疑ひやうが無い。近代に於いて「キリスト教が支配的であつた」と云ふのは、觀念の領域で、全てがキリスト教との關係として認識された、と云ふ事を意味する。
日本に於ては、江戸時代に出現した復古思想である國學が、西歐の近代意識と相似的な近代意識である。しかし、國學の思想は、明治時代に斷絶し、西歐由來の近代意識によつて淘汰されてゐる。ただ、小林秀雄の『本居宣長』に據れば、國學者の思想は、近代に對する反省で生じた西歐の「超近代の思想」に寧ろ類似してゐる。ベルグソンの形而上學の觀念を援用して、小林は國學者に「直觀」的な事實の把握の仕方を見出してゐる。西歐に於てキリスト教と云ふ「思想上の支點」を基準にした近代思想の展開があつたのに對し、日本では「直かに觀ずる」(「ありのままに見る」と言つても良い)方法に據る學問が出現し、或程度まで獨自の展開を見せた。(篤胤がキリスト教の思想を援用して獨自の神道を打立てたが、これは正統の國學と看做すべきでないだらう)この時點で、彼我に根本的な態度の違ひがあつたと言つて良い。
平成十六年二月二十九日
歴史家の仕事に、歴史學の方法論を讀み取るのは歴史學の研究者の仕事であらう。しかし、詩人としての側面を見出すのは文學の研究者の仕事として限定されるべきだらうか。歴史學の研究者は、歴史家の理論だけに興味を抱き、歴史家の詩心をなほざりにして良いだらうか。それによつて、歴史家を一人の歴史家として、トータルな形で理解する事は可能だらうか。歴史の研究において、人間を離れた理論の研究と云ふものは、「あり得べきもの」だらうか。
平成十六年二月二十九日
とかちゃんの「ほけほけ日記」の2月29日「ひとりごと」の邊。
平成十六年二月二十九日
思想にしてもあにめにしても、背後に思想なり何なりを創造し統率する一箇の人格を見出し、同時に思想自體、あにめ作品自體の社會的・歴史的な位置づけを把握出來ないと、俺は落著かない氣分になる。
そして、一度した把握を基準に、修正を加へて行く、と云ふやり方を俺は採りたいと思つてゐる。
平成十六年二月二十九日
前項までと全然關係ナシ。
「朝霧の巫女」や「ワるきゅーレ」、或は以前の作品を見て、月村氏を評價するのも一つの方法だけれども、月村氏が自ら提出した企劃である「Noir」を「月村氏が本當にやりたいもの」と看做し、そこから月村氏の好みなり主義なりを考へた上で、他の作品を檢討する、と云ふ方法も「あり」だらう。
「ワるきゅーレ」にしても「朝霧の巫女」(アニメの方のみ)にしても屑だと思つてゐるのだけれども、「ワるきゅーレ」のワるきゅーのあんまり絡んで來ないリカの話とか秋菜がちつこくなる話とかが他の話と比べると妙に浮いた雰圍氣で、寧ろ月村氏の好みはこの手の話なのではないかと推測すると、逆に獨特の面白みを感じたりするのである。
平成十六年二月二十九日
何うでも良いけれども、「である」「である」と書くと、何となくもつともらしく見えて便利なのである。
平成十六年二月二十九日
http://d.hatena.ne.jp/nobml/20040228#1077979917
なつかしいな。

平成十六年二月二十七日
日本は、國家が國民を守るのにも法律を作らないとならない國だからな。
平成十六年二月二十七日
めも。
Fuku Diary: ふたりはプリキュア アーカイブ
俺が録畫をミスつたあにめは大概名作になるので云々。
平成十六年二月二十七日
俺も讀んでゐないのでめも。
XHTML and RDF
平成十六年二月二十七日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040225
これだって、とりあえずあなたが言った定義に合うように言っているだけなんだから。違うんなら違うのでいいから、再定義してくださいよ。
私が何時そんな定義をしたんですか?
「児ポ法改悪が行われるような国は民主主義的でない」は、一般に言ふ定義ではないやうに思はれますが。
しかも、そんな主張を俺はしてゐませんが。
toka3aki氏との會話の中で、どうしていきなり児ポ法改悪云々と言出すのですか。
そもそも、いきなり児ポ法改悪云々なんて話を北守將軍が持出したのがをかしい。北守將軍は、自分が變な事を言つてゐる自覺がないのか?
平成十六年二月二十七日
ていうか、今定義の問題でもめているのはあなたが論争的な言葉を何の留保もつけずにポンポン使って雑な議論したことに端を発するということに気づいてください。
論争的な言葉つて、具體的に何と言ふ語を指して言つてゐるんですか?????? そもそも、北守將軍は、説明拔きで文献を羅列したり、説明拔きで論争的な言葉と言つたり、他人を批判出來るほど叮嚀な議論をしてゐるとは思はれませんが。
西欧諸国のもろもろの問題と、日本が抱える問題は本質的に異なるというのは、僕じゃなくてあなたの仮説じゃないですか。
そんな事は言つてゐない。文章を正しく讀み取る能力が、北守將軍には根本的に缺けてゐるらしい。
自分の誤讀に、自分勝手な解釋を重ね、他人を馬鹿に見せかけようとする上、歴史の專門家であるからと云ふ理由でさう云ふ態度を正當化する北守將軍は、本當に惡質だ。
僕は別に同じとも違うとも言ってないですが。
そんな話を俺がそもそもしてゐないのだから當り前の話だ。
それはただ単に読めてないだけ。
隨分叮嚀な議論ですな。と言ふか、難しい術語を用ゐたところで、言つてゐる事は常識的なものに決つてゐる。
平成十六年二月二十七日
  1. そもそも、日本が自習主義・民主主義的に全く問題がないならこのような結論はでてこない。
  2. 日本が抱える民主主義・自由主義の問題が、少なくとも「西欧と日本」というファクターを介在しなくても説明可能な場合もまた、このような結論にはならない。よって、上のことが言えるためには、日本が抱える民主主義・自由主義的問題は、日本固有の問題であるということが証明されなければならない。
理窟になつてゐない。
或は、北守將軍は、術語を尤もらしく使つて見せてゐるが、論理的に混亂した文章を書いてゐる。
と言ふか、「このような」とか「上のこと」とか、代名詞を濫用してゐるが、その代名詞が指示する語が、北守將軍の場合、とかく不鮮明になり勝ちだ。
北守將軍は獨り合點で文章を書いてゐる。それで他人の文章を「亂暴」と極附けるのだから恐れ入る。
なんでそこで「西欧」とか、「日本」とかが自明なものとして出てくるのだと聞いている。
どうしてそこで「西歐」とか「日本」とかを自明でないものと言張るのかが解らない。
北守將軍は、この世には西歐も日本も存在しない、と主張してゐるのだらうか。
うちのサイトでは、福田恆存氏とか松原正氏とかの紹介をしてゐるんだぜ。それらを一切無視して以下略。
と言ふか、んなこたわかっとる。と言つておきながら、「わからない」と云ふのは何なのだらう。とぼけるのは止して下さい。
平成十六年二月二十七日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040226#p3
この邊の指摘も、北守將軍はやつぱり獨り合點で書いてゐるとしか言ひやうが無い。
さんざん説明したと言ふのは、http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040224#p2邊の事なのかも知れないが、日本語の文章ならばともかく、それつぽい術語が亂暴に使はれた讀めない文章なのだから、説明にもなつてゐない、としか言ひやうが無い。
「証拠が現実に開かれている」「テクストに外部はない」「歴史叙述においてこの相対主義を推進する」「構築主義的な語り」「歴史叙述をレトリックとナラティヴの次元へと還元する」云々。
俺には、この手の術語の使ひ方と、文體とが、へつぽこ詩人のそれにしか見えない。北守將軍は口眞似だから「正確な用語法だ」と思つてゐるんだらうが、思想家逹は、なかなか巧く言葉では言ひ表せない概念を言葉にする爲に苦勞してゐた筈で、擧句、やむを得ず、詩的な表現を用ゐてゐるのだが、讀み手はそれらの言葉を口眞似する必要はない訣で、留保條件がある事を承知しつゝ、常識的な言葉で理解しておけば良い。大體、思想家の言葉の内容を理解してゐるのならば、噛碎いた表現を出來る筈で、それなのに北守將軍が、ただ術語と文體とを模倣してゐるだけなのは、理解が足らない事を示してゐる。北守將軍は、俺の單純な割切り方を憎んでゐるが、自分自身が相當に割切つた思想の理解をしてゐる事に氣附いてゐない。
ギンズブルグは、歴史的証拠を「ゆがんだガラス」にたとえている
北守將軍が支持する「歴史家」は、みな詩人である。ポストモダンの思想家を、純然たる歴史家として考へるのは止した方が良い(そして、餘計な話だが、その手の思想家の何とか主義の類はどれも最う古びてゐる)。「現実」と「証拠」の関係云々と言つてゐるけれども、その手の理論は、現實から遊離した理論にしかならなかつた訣だし、實際のところ、日本の一部の研究者の間で流行つてゐるほど、世界の歴史學で支配的な位置にある訣でもない。イギリス邊では不人氣だらう。
いかに「歴史を逆なでに読」もうと、やはり歴史家は自身の価値判断から逃れられないのではないかという疑念は消えない。と云ふ邊も、『世界史の誕生』(だつたかな?)で岡田英弘氏が非常に常識的な文章で指摘してゐる。
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040224#p2の北守將軍の要約は、或意味、非常に面白い。このやうな術語と文體とで思想家が互ひに意見を交換してゐた、と云ふのは、或意味、洒落た話である。
でも、やつぱり文章としては死んでゐるよ。この文章を「生き生きしてゐる」と感じる人がゐたら、やつぱり感性がをかしいよ。
平成十六年二月二十七日
どのような研究によってキリスト教の地位が低くなったかも知らないのに反発ですか。
その研究に、キリスト教の立場とか、傳統的な立場の研究者から反論が出た、と云ふ事を考慮する必要はない、と北守將軍は考へてゐるらしい。
俺は、その種の研究が、キリスト教やキリスト教的な立場にとどめを刺した、と云ふ話を聞いた事がない。
バートランド・ラッセルの『宗教は必要か』が出たら、ダグラス・クラークの『再び宗教は必要か』も出た。その手の論爭は現在まで、決着がついてゐない。そして、俺は「宗教は必要だ」と云ふ側の人間だから、「宗教は必要ない」派に肩入れする積りはない。
と言ふか、北守將軍は、キリスト教的な立場の側とか、傳統的な立場の側とかの言つてゐる事を、讀んでゐないだらう。さう云ふ立場の事を、北守將軍は「文学的」と極附けて、尊重はすべきなのだらうけれども歴史に關係ないから無視して良い、と思ひ込んでゐるのだから。
平成十六年二月二十七日
本日の買物。例によつて神保町の古書會館の古書展にて。
ベルトラム『獨逸的形姿』
平成十六年二月二十七日
http://d.hatena.ne.jp/ryokusai/20040227#p1
日本の歴史學の研究者が何を言はうとも、海の向うでは相變らずキリスト教やユダヤ教が行動の原理となつてゐる事。歴史は、それ自體に生成の論理がある訣ではなく、人間の行動によつて形作られるものなので、人間の行動原理を知らなければ歴史の原理も理解出來たものではない。
平成十六年二月二十七日
日本における佛教受容の歴史と、西歐におけるキリスト教受容の歴史とは區別して考へる必要がある。
高橋氏は、念佛等の方法を採入れた新佛教を、佛教の大衆化として評價してゐた。しかし、親鸞は、「師匠に騙されてゐて、これで地獄に落ちるかも知れないが、それでも俺は念佛を唱へる」と云ふ態度をとつてゐたのだし、死んだ後は賀茂川にでも流せと言つた。親鸞の教への根本的な部分は、全く日本的ならざるもので、大衆化とは無縁のものだ。しかし、親鸞が死んだ後、後繼者はそれを引繼がなかつた。教義の點において、親鸞と、親鸞以後とは、連續してゐない。新佛教は、新しい要素を切捨て、古くからの日本人好みの要素を導入した事で、大衆化し、定着したと言へる。
一方、ローマに本據を置いたキリスト教は、ゲルマン民族等を教化する際、土俗的な祭祀の方法を採入れた。クリスマスや復活祭は、冬至や春の祭をキリスト教風にアレンジしたものである。それによつてキリスト教は、生活に密着した宗教として定着した。しかし、それでキリスト教は教義を失つた訣ではない。依然、Godはユダヤ的な人格神としての性格を保つたまゝであり、信者との關係も變化は無かつた。それよりも、キリスト教が定着した事によつて、當時、未開であつたゲルマン民族が、キリスト教の思考樣式を受容れた事の意義が大きい。ちなみに、祭祀の形式で現地の風俗に讓歩する事は、ヴァティカンで現在でも正式な宣教の方法として容認されてゐる。
佛教に於いては、教義よりも、救はれる爲の形式の普及が優先されたと言へる。その一方、キリスト教は、布教の爲に祭祀の形式では從來のものに妥協しつゝ、教義や思考樣式の面では寧ろ從來のものを壓倒したと言へる。
平成十六年二月二十七日
イワマン日記の平成十六年二月廿七日の邊。

平成十六年二月二十六日
めも。
新学社 近代浪漫派文庫
平成十六年二月二十六日
本日の買物。
E.バーク(鍋島能正譯)『フランス革命論』理想社
岩波文庫の譯は駄目らしい。
平成十六年二月二十六日
どうも最近の人は、文學の方法を馬鹿にしてゐるやうに思はれる。
歴史學にしても、今の歴史學も解釋學に過ぎない。ただ、「今の歴史學」を信奉してゐる人は、少し前の歴史學は「古い」、文學は「學問的でない」、とレッテルを貼つてしまふ。それはちよつとをかしいのではないか。
解釋學ならば解釋學でも結構だが、今風の解釋でなければならない、とする理由は無いだらう。もしそれが「あり」であるにしても、少し經てば「今」は「昔」になる。
實際のところ、「解釋學としての歴史學」專門の人がうちを批判する時、その方法が「野嵜の行爲」の解釋に過ぎない事は、屡々ある。
平成十六年二月二十六日
その解釋學で、相對的にキリスト教の地位が低くなつてゐる事に、俺は反撥してゐる。俺は、キリスト教が西歐の歴史の中で果した役割は大きかつたと思つてゐるし、今でも相當大きいと思つてゐる。それも、消極的な許りでなく、積極的な意味で、キリスト教は歴史の中での役割を果してゐると思つてゐる。
だから、解釋の方法として、キリスト教的な物の見方は決して捨てる事は出來ない――殊に、かつてキリスト教的な傳統の存在する西歐諸國での出來事を解釋するには――と俺は言つてゐる。
平成十六年二月二十六日
補遺。
マキャベリ。
平成十六年二月二十六日
トインビーの歴史の研究を要約して批評したクルティウスの「トインビーの歴史学」(『ヨーロッパ文学批評』所收)は解り易いので御薦め。1948年發表なので、批評對象は未完の状態だつたが、前半部分の要約であり、同時に、クルティウスの理解したトインビーの歴史觀であると云ふ「限界」を知つた上で、參考になる文献だと思ふ。
自分にとつて都合の良い部分を引用。

世界国家の私達に最もなじみ深い例はローマ帝国である。《ギリシャ正教》文明はオスマン帝国の形でそれを作ったし、シナは蒙古人の支配、後には満州人の支配等の形でそれを作った。世界帝国には常に「空位期間」が続く。この概念の雛形を一二五六年から一二七三年にいたるドイツ史が提供する。世界史的な次元における空位期間を、私達は約二七五年から約六七五年にいたるヨーロッパで経験した。西ゴート族は三七八年にアドリアノープルの近くでヴァレンス帝に勝つ。五世紀と六世紀にローマ帝国はいくつかの継承国家に分裂する。指導的役割はフランク人に帰する。しかしメロヴィング王朝の勢力は六五〇年頃に瓦壊する。アウストラシアの宮宰である中ピピンは六八七年のテルトリの戦闘に勝って全国の支配権を収める。ピピン一族またはカロリング王朝の上昇はこれによって決定されたのである。これは《ギリシャ》(ギリシャ・ローマ)文明が《西欧》文明と交代したことを意味する。しかしこの西欧文明は、トインビーによると、ゲルマン人のおかげで成立したのではなく、ローマ教会のおかげなのである。これがローマ帝国の崩壊した器のなかの唯一の創造的な力であった。なるほど多くの歴史家は、「新鮮な血の流入」なるものが、あるいは服従が中世の成立に際してのゲルマン人の貢献であるとしたがる。トインビーによるとこれは正しくない。「原始的なチュートン族の自由」は、もしそんなものが存在したとしても、ほとんどすベての原始人に見られるような発育不全の制度であって、民族大移動の後まで残ることはできなかった。ゲルマン人は古代文明を破壊したのではなく、「たんにそれが内的にすでに死滅したときに破壊の仕事を完成したにすぎない」(エドゥアルト・マイアー)。カトリック教会はローマ帝国のなかで生まれたが、帝国よりも長命だったばかりでなく、西欧文明がそのなかで発達した器となった。ここにも一般的な法則の特別な例がある。つまり世界教会が二つの交代する文明の中間項をなしているのである。

平成十六年二月二十六日
"Adobe Reader"のアップグレードを即すダイアログが出て来たので
「促す」は「うながす」と讀む。云々。

平成十六年二月二十五日
書くのを忘れてゐた。スピノザ。
平成十六年二月二十五日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040224#p1
イギリスだったら、国教会とか貴族院どうよとか、アメリカだったらネオコンどうよとか、いろいろ言えますな。
言えますな、ですか。はあ。さやうでございますか。言つてどうするんですか。
ではあなたは、どのやうな状態ならば、自由主義的・民主主義的に妥當な状態だと言ふのですか。
もちろん、こうした問題の背後にはもろもろ個別的な理由がありますな。でも、その検証って俺の仕事?
自分から檢證する義務を除去しつゝ、相手に檢證の義務を負はせようとする批判のやり方がありますか。
そういった西欧諸国のもろもろの問題と、日本が抱える問題は本質的に異なるということを示さなければいけないのは野嵜さんのほうのような。
北守將軍は今、西欧諸国のもろもろの問題と、日本が抱える問題は本質的に同じだ、と言つてゐるも同然なのだが、ならば西欧諸国のもろもろの問題を研究すれば日本が抱える問題の解決に繋がる、と云ふ事になる。
いや別に問題は当然解決したほうがいいと思いますよ。と言つてゐるんだから、いい結果が出るやうにしたら良いぢやないですか。と言ふか、北守將軍、「日本にも問題はあるけれども西歐諸國にも問題がある」と言つたり、「問題は解決させた方が良いけれども、俺自身は何もしたくない」と言つたり。
そもそも、北守將軍、http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040223#p3で、俺の文章を明かに誤讀してゐるんだが。「訓練」がどうのかうのと言ふ前に、北守將軍は文章讀解の訓練をしたら如何。
あと、ていうか、これは多分既出だろうと思うけど、日本人は確かに自由主義や民主主義を使いこなしていないのは確かですなんて書いてゐますけれども、文章をちやんと書く訓練もしたら如何かと。
と言ふか、落着け。
平成十六年二月二十五日
暴力による政権交代が民主主義的かどうかはたぶん議論がわかれるだろうけど、選挙で政権交代が行われた場合、そんなに議論がわかれないでしょ。
「歴史の検証」と言ふ割に、北守將軍は大雜把ですね。
平成十六年二月二十五日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040224#p2
ややこしく言つてゐるけれども、常識的な歴史の理解と大した差はない。
平成十六年二月二十五日
そもそも、北守將軍は、俺の「問題」とか「適應異常」とか云ふ用語を、「或種のイデオロギーなり思想なりに適合しない」とか、「現在一般的な價値觀に適合しない」とか、さう言つた類の意味で理解してゐる。だから、民主主義の話でも、「議論がわかれる」「わかれない」と言つた、極めて卑俗なレヴェルの話をしてしまふのである。
基本的に、西歐の價値觀が世界を覆つてゐるのが近代以降の世界の實状であり、日本人は西歐の價値觀を理解しなければならない――と云ふ俺の主張のは、「日本人も西歐人と同じ態度をとれ」と云ふ事を意味しない。
以下、思ひ附いた事を羅列。
「西歐人の價値觀を理解しない事には西歐人の言動を理解出來ないし、適切に批判する事も出來ない」
「日本人が、理解可能な範圍でのみ西欧人の言動を理解して。理解困難な領域の事をひたすら無視しようとするのは、彼等の言動を誤解し、彼等の言動を的確に批判出來ない原因である」
「西歐人が價値觀に基いて、自由主義や民主主義に對處してゐる一方で、日本人は形だけ自由主義や民主主義を模倣してゐるが、その爲に、自由主義や民主主義の結果として出て來た結論が日本人の價値觀と適合しないし、西歐人の價値觀とも適合しない事になつてしまふ、と云ふ事はあり得る」
「形だけ模倣した自由主義や民主主義の成果物を無批判に受け入れる爲に、日本人は價値觀そのものをも喪失してゐるのではないか」
これに對して、北守將軍は「餘所の國だつて多かれ少かれ問題を抱へてゐるんだよ」と問題を(惡い意味で)相對化し、「解決出來ればそれは良いんですがねー」と冷笑するだけである。ここで確實に言へる事は、北守將軍が「自由主義だとか民主主義だとかはどうでも良い」と思つてゐる事である。そもそも、民主儀的・自由主義的とは何ぞやの議論からしたいのであれば一人でどうぞ。と云ふ甚だ投げやりな態度をとつてゐる事が傍證である。もつとも、北守將軍が誤字をやらかしたり語句の重複に氣附かなかつたりしてゐるのには、心理學的な分析の餘地もありさうだが。
と言ふか、この場合、定義というか基準は、「児ポ法改悪が行われるような国は民主主義的でない」なわけ。云々と言つてゐる邊、北守將軍が、高橋氏と同樣、政治的な目的で俺を非難し、名目として「歴史学」を持出してゐるだけであるらしき雰圍氣が極めて濃厚。
平成十六年二月二十五日
http://esu.oresama.org/200402c.html#20040224_s10
議論の流れと全然關係ない事ですが――江洲さんはちやんと休みを取つていらつしやるのでせうか。毎日毎日御仕事のやうなのですが。
平成十六年二月二十五日
とかちゃんの「ほけほけ日記」の2月24日の邊。
最近の展開は、かつてのYahoo!掲示板の俺を知る人間にはたまらなく愉快なものなのではないかなーと思つた。良い意味でも惡い意味でも。と言ふか、成長してゐないな俺も。
平成十六年二月二十五日
と言ふか、北守將軍は、「野嵜が、全ての西歐傳來の思想や概念はキリスト教で割切れる、と言ふか割切れ」と主張してゐる、と考へ、「西歐の思想や概念には、非キリスト教的な側面もある」と言ふ事で論理的に反論出來てゐる、と信じてゐる。しかし、北守將軍が俺の文章をさう云ふ風に讀取るのは、適切とは言へない。
平成十六年二月二十五日
追補。
デカルト。カント。ショーペンハウエル。
サルトル。
クラウゼヴィッツ。
平成十六年二月二十五日
本日の買物。
カール・A・メニンジャー『おのれに背くもの』日本教文社
ドウソン『中世のキリスト教と文化』新泉社
P.A.ソローキン、P.ガイル、C.H.ドーソン(山口光朔譯)『トインビー批判――その史観の発展のために――』社会思想全書
平成十六年二月二十五日
デカイオー外傳の掲載された奇魂第八號が屆いた。

平成十六年二月二十四日
シェイクスピアの「ハムレット」は、キリスト教的な道徳觀と正義觀とに基いて書かれてゐるのだが、全てのイギリス人に讀まれ、記憶され、理解されてゐる戲曲である。シェイクスピア自身が、キリスト教を良く理會してゐた事は疑ふ餘地がない(ただし、教義に通じてゐた、と云ふのではなく、世俗的・常識的に知つてゐた――と言ふより、生き方として身につけてゐた、と言ふのである)。
ハムレットが、劒をかざして亡靈に向ひ、劍に誓ひを立てる。この行爲の意義について、我々日本人は雰圍氣以上のものを解しない。しかし、イギリス人にとつて、これらの行爲がキリスト教的な意味を持つ事は自明である。ならば、全てのイギリス人は、キリスト教的な常識を身につけ、キリスト教的な道徳觀・正義觀を生き方として知つてゐる事になる。
平成十六年二月二十四日
原罪について。
智慧の實によつて、アダムとイヴは罪を知つたのだけれども、その智慧と言ふのが、例へば裸でゐるのが恥づかしい事である、と云ふ類の智慧だ。二人はそれまで、獸のやうに、罪の意識もなく平然と性行爲をしてゐた。ところが、智慧のみを食つて以降、さう云ふ事は「惡い事」である、と認識するやうになる。ところが、さう云ふ事をしないと人間は殖える事が出來ない。と云ふ譯で、キリスト教的(と言ふより、キリスト教が引繼いだユダヤ教)に言へば、誰もが「惡い事」に據つて生れて來る訣である。
で、日本人に「sexは本質的に惡い事である」と云ふ意識があるかと言へば、無いに決つてゐる。
キリストは、母であるマリアが「惡い事」であるsexをしてゐないのに生れて來た。
平成十六年二月二十四日
Opera 7.50 pr2だけれども、いつの間にか、ここは笑ふところ、餘計なウィンドウの類が全部表示されなくなつたので、常用中。
平成十六年二月二十四日
http://www.angel.ne.jp/~kobamos/diary0402a.htm#2004020503
「さかしま」に言及してゐるT.S.エリオットの"The Borderline of Prose."は、散文と韻文の違ひについての優れた議論、或は文體に關する有益な評論である。
吉田健一氏が『英國の近代文學』冒頭のワイルド論で、"The Borderline of Prose."の内容を、しれつと利用してゐた。
平成十六年二月二十四日
デンマークの王子であるハムレットが、非キリスト教的、異端的、異邦人的な側面を持つてゐる事も事實であり、我々日本人にも理解出來る情熱や感情、思考を持つてゐる事も事實である。が、同時に、日本人には理解し難いし、そもそも感覺として持つてゐない側面――キリスト教徒としての側面――も持つてゐる、と云ふ事が重要である。ハムレットをトータルな形で理解する爲には、日本人が解る事、日本人にとつて判り易い事だけを根據に理解してしまふのではなく、日本人には分かり難いがハムレットが持つてゐるであらうと思はれる面をも含めて何とか理解しようとする事が必要である。
平成十六年二月二十四日
2ちゃんねるぷらすに吾妻ひでおが漫畫を連載してゐる。
平成十六年二月二十四日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040223#p3
イギリスとアメリカについては?
これらの問題が山積みにされていない国ってどこよ、と云ふ事は、「餘所の國でも民主主義や自由主義にかかはる問題は山積みなのだから、日本人も問題をほつたらかしにして良いのである」と云ふ事でせうか。
「問題を解決しようとしないで良い」と北守將軍が考へる理由は何でせうか。
それとも「他に問題を解決する方法はある」と云ふのでせうか。
「歴史の專門家は、その邊の問題に頭を惱ませる必要が全くない」と云ふ事でせうか。
イタリア・ドイツ・フランスにおける民主主義や自由主義の問題を北守將軍は並べ立ててゐます。ここで重要なのは、北守將軍が、事實として問題ありまくりであるとしてしまつてゐるだけで、それぞれの國で出て來る問題の由來を考察した形跡が見られない事です。また、或程度、自由主義や民主主義が定着し、機能してゐるイギリスとアメリカを、故意に無視してゐる氣配がある事にも注目する必要があります。
その「他民族の思想」発祥地のひとつフランスは、ミッテラン政権が誕生するまで「穏健かつ民主主義的な」政権交代はなかったという有様。と云ふ説明にも、問題があります。ここで、政権交代の形態で以て、北守將軍はフランスにおける民主主義や自由主義にかかわる問題を端的に示してゐる積りでゐます。しかし、重要なキーワードが北守將軍の文章に紛れ込んでゐます。どうも、北守將軍の觀念として、「民主主義」と「穩健」とは直結してゐるらしいのです。しかし、「民主主義」はアプリオリに「穩健」と結び附くものでせうか。「革命が傳統と化してゐる」と見るならば、フランスでは「戰鬪的である事が寧ろ民主主義的である」と云ふ事になるかも知れません。
平成十六年二月二十四日
と言ふか、北守將軍の受けた訓練と云ふものが一體、どのやうな類のものであつたのか、興味があります。文學と歴史とを分けて考へてゐるやうだけれども。
それから、北守將軍が「歴史學者」と認める人つて、どんな人だらう。取敢ず、「その手」の人の本は持つてゐないよ。高いし。
平成十六年二月二十四日
カール・レーヴィットなんてどうかな?
平成十六年二月二十四日
日本人の問題を自分の問題として認識し、追求しようとするのは、日本人以外にはあり得ない。
現代の日本の歴史學では、歐米の歴史學に追隨する事が至上命令となつてゐる。北守將軍が、歐米の歴史家の「進んだ歴史學」を紹介してゐるのを見れば、その事が事實である事は解るだらう。
文化の問題について考察するには、歴史についての考察が缺かせない。日本の近代の歴史については、西歐の近代の歴史との比較が常に要請されるし、近代の歴史については近世以前の歴史の理解が常に要請される。日本の現代の文化について考察するには、日本の近代の文化、近世以前の文化、竝びに西歐の近代・近世以前の文化との比較が必要である。西歐の「進んだ歴史學」の研究者はもとより、さう云ふ歴史學の方法論しか受容れない日本人の研究者も、トータルな形で日本の文化を論ずる事は出來ない。
福田恆存は國語問題について述べて、西歐の言語學を專門とする研究者が國語政策をリードしてゐる状況を批判して、「言語學の素人」が意見を出さなければならない、と言つてゐる。福田は何も、無知な人間が好き勝手を言ふべきだとか、さう云ふ類の事を言つてゐるのではない。ただ、「先進國の進んだ學問」の性急な移植を行はうとする態度を批判してゐるだけである。そして、言語學の方法論絶對の態度を取る人々に對して、「常識」による批判の必要性を問うてゐる。詳しくは『私の國語教室』を參照の事。
文化の問題にしても、「同じ事」とは言はないけれども、似たやうな事は言へる筈だ。
さう云ふ意味で、北守将軍の考へる歴史研究者とは異る思想家・文學者の文章は、日本の文化を考へる上では絶對に必要であると俺は主張する。名前を擧げろと言はれれば、以下ランダム、福田恆存、小林秀雄、松原正、保田與重郎、唐木順三、龜井勝一郎、山本健吉、夏目漱石、森鴎外、永井荷風、森銑三、葦津珍彦、清澤冽、三木清、坂口安吾、柳田國男、深瀬基寛、きだみのる、といつた人々の本は讀んでおく必要があるだらうと思つてゐるから讀んでゐる。神道關係の研究書も讀んでゐるが、全面的に信用出來ると思つてゐないから、名前は擧げない。
平成十六年二月二十四日
博士課程の教育を受けた訣ではないけれども、一往、文學的な文章の讀み方は習つた。
そして、近代文學は批評の文學だから、文學的な文章の讀み方は必然的に批評的な讀み方になる。それは歴史を讀む際にも十分通用すると、俺が思つてゐるだけでは信用出來ないと言ふのなら、小林秀雄もさう云ふ立場だつたと言つておくが、小林秀雄なんて信用出來ないと言ふのが今の流行りらしいから北守將軍を説得する事は不可能だらうけれども、「闇黒日記」で北守將軍は話の出しで、俺の話は讀者の中でも優しい讀者に通じれば良いのだから問題ない。意地惡な讀者は要らない。と言ふか、通じる通じない、説得力があるない、が問題である訣ではないだらう。問題は、北守將軍の考へる「歴史の讀み方」が、どのやうな類のもので、それが何處まで妥當性を持つものなのか、と云ふ事だ。
平成十六年二月二十四日
the 3rd hentai-Japanimational正式版(或いはセリユ萌え萌え日記)
平成十六年二月二十四日
白川靜『常用字解』を買つたので金が無い。字書と言ふより讀物。
平成十六年二月二十四日
PCの筐體を宅急便で送つてみる。
平成十六年二月二十四日
本棚から。極一部。
プラトンが書いたソクラテスの對話篇。
アリストテレス。
ソフォクレスとアイスキュロスとエウリピデス。
ツキジデスとヘロドトス。
聖書。舊約と新約。
神曲。
對比列傳。
聖アウグスティヌス。
シェイクスピア。
ショー。ワイルド。バリ。
フィールディング。スウィフト。
チェスタトン。
T.S.エリオット。
D.H.ロレンス。
ジョージ・オーウェル。
グレアム・グリーン。
ラシーヌとか。
パスカルとモンテーニュ。
フローベール。
スタンダール。
モーパッサン。
ボードレール、ランボオ、ヴェルレーヌ、マラルメ。
アラン。ヴァレリイ。ジイド。ベルグソン。
テーヌ。
ジルソン。
マルセル。
シオラン。
シモーヌ・ヴェーユ。
キルケゴール。
ヤスパース。
ツヴァイク。
シュペングラー。
ハイデッガー。
マルクス・エンゲルス。レーニン。スターリン。
シェストフ。メレシコフスキー。ベルジャーエフ。
ドストエフスキー。トルストイ。
マルティン・ブーバー。
オルテガ。
以下略。
現代の思想を知るには現代の直前の思想を知つておく必要があるし、現代の直前の思想を知るにはさらにその前の時代の思想、そして、古典を讀んでおかなければならない。だからなかなか現代に行着かない。それだけの話。上に擧げたのは、俺が積極的な意味で興味を持つてゐる本とその著者のリスト。これらを理解するには、そこで言及された文献も讀まなければならない。
言ふまでもなく、古事記、日本書紀、ばつさり、源氏、保元・平治、平家、ばつさり、江戸時代の文章、ばつさり、の邊の古典は讀まなければならない。ただ、日本では、明治より前とそれ以後とで傳統が切れてゐるから、明治の文學から讀み始める事は可能。同時に、大正邊にもまた一度切れてゐるから、以下略。
書庫の棚には、言ふまでもなく普通の文庫――角川、新調、岩波、現代教養、その他――も竝んでゐる。こいつらをやつつけない事には、現代の思想書とか歴史研究とかには手を出せたものではない。
あと、SFマガジンの1980年代までの揃とか、サンリオ文庫とか、ハヤカワ銀背とか、ハヤカワ文庫とか創元推理文庫とか、電撃文庫とか、角川スニーカー文庫とか、富士見ファンタジア文庫とか。そんなものがある。SF關聯の藏書は、「今のSF」を知るのにはサンリオを掘り出し古いSFマガジンや銀背を集めと言つた大森望氏の文章を眞に受けて集め捲つたもの。SFを知る爲に古いSFを集めてゐたら、SFと云ふジャンルが消滅してしまつてゐて。これは笑ふしかない。
ほかに、録りためたあにめのヴィデオテープとかDVD-RAMとかの山。そろそろあにめ業界も崩潰しさうだし。

平成十六年二月二十三日
高橋氏や北守將軍は私を見下してゐて、私も確かに彼等を見下してゐる。平野氏も私を或面で見下してゐて、それは私も同じである。
そして、幾らこの種の傍證を集めてみても、全く證明にならないと言はれるかも知れないけれども、「人は他人を見下す事がある」と云ふ事は屡々事實である、と言へる。
ならば、小説や歴史的事實を、フェミニズムの立場から解釋する事は無駄である。さらに言ふならば、それによつて作者なり歴史的人物なりを非難するのは全くのナンセンスである。それよりは、「人は他人を見下す事がある」と云ふ事實を事實として受止めて、他人事ではなく自分の問題として考へる方が、ずつと意味のある事である。
平成十六年二月二十三日
人は、ナショナリズムと言ひ、宗教と言ふ。ナショナリズムも宗教も當り前にあるものである。さう云ふ「常識」を大前提に、人は屡々、ナショナリズムや宗教を排撃する。
しかし、人間以外の動物は、ナショナリズムも宗教も知らない。この事は、餘りにも常識的な知識であつて、誰もが忘れてゐる事實である。これらの觀念を人間が持つと云ふ事は、絶對的な意義を持つ事實である。
動機とか意圖とかでナショナリズムや宗教を解釋する事は良く行はれてゐる。しかし、ナショナリズムや宗教の觀念を人間が持ち、猿が持たない事の理由は解らない。それどころか、猿が持たないそれらの觀念を、人間がいつ、どのやうな訣で持つやうになつたのか、と云ふ事は、全く解らない。猿と人との間には絶對的な懸隔がある。
平成十六年二月二十三日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040222#p3
「キリスト教」という概念が、歴史学において非常に多様な意味で使われるということは、どこがどう違うのかを説明するまでもなく「明らか」で、それは歴史学の本を読めばすぐにわかることです。
うちの掲示板にも、白鳩さんが「Godと言つても色々な側面がある」と書込んでをられます。
これらの區別は、分析的な區別でしかありません。實際には一つの物です。
逆にいえば、野嵜さんも自分の説を支持している歴史学者をあげればいいんですよ。
あ、ロレンスは禁止で。歴史学者じゃないので。とか、無茶な事を言つてゐやがる。
クリストファ・ドーソンとかベルジャーエフとかトインビーとかテーヌとか、名前だけなら幾らでも擧げられるけれども。日本の人だと、林健太郎とか宮崎市定とかは少しだけ讀んでゐる。と言ふか、「誰それの本を讀む」と言つたら、五册か十册は讀んでゐないと駄目。
ただ、読まなきゃ何も始まらないから。と言つてゐる北守將軍は、トインビーを批判出來るほど、北守將軍はトインビーを讀んでゐるか?
と言ふか、ロレンスだつて北守將軍は讀まないで切捨ててゐるんだらうに。
平成十六年二月二十三日
うちの書棚には、林健太郎・澤田昭夫『原典による歴史学入門』なんてものがある。
誰の目にも明かに文藝批評家であるサント・ブーヴが書いた、歴史として書かれたものでない事が「明か」な「ポール・ロワイヤル」が、歴史學上、意義のある文献として收録されてゐる。
平成十六年二月二十三日
北守將軍は、ヘロドトスとかツキジデスとかは、當り前のやうに讀んでゐるんだらう。
平成十六年二月二十三日
と言ふか、北守將軍は、自分の信奉してゐる歴史學者の事を俺が信奉してゐないからと言つて、無知だの脳内歴史だのと言つてゐるに過ぎない。
大體俺は、歴史學を專攻した人間でないのだから、物の見方が違つて當り前。
ただ俺は、文學を讀むやうに歴史の本も讀むから、「その手」の「歴史の本」の文章が死んでゐる事は良くわかつてしまふ。
平成十六年二月二十三日
本の題名を擧げるだけの北守將軍が、歴史の事を――そもそも歴史と云ふ事を――理解してゐるとは思はれない。
というわけで、めんどくさいから適当に参考文献下につけといてるんで、やるならちゃんとやってください(オレモナー)。と言つてゐるのだから、北守將軍は、自分の事を棚に上げて俺を非難してゐる事を自覺してゐるのである。惡質極まる。
と言ふか、自分が歴史學上――と言ふより、明かに思想上――の都合で、一つの物事を別々の側面から記述してゐるに過ぎない、と云ふ事を忘れて、トータルの事を論じようとする人間を馬鹿にする、と云ふ「專門家の態度」は、專門馬鹿の態度として嗤はれて然るべきだ。
平成十六年二月二十三日
これはつまり、アナール第二世代が経済の動きのようなコンンジャンクチュールにを重視しすぎていたという反省から、ル・ロワ・ラデュリやギンズブルグ、コルバンといったいわゆるアナール第三世代の人々が提唱した「心性史」の重視のことですよね?
さう云ふ事ぢやないよ。良く讀め。
平成十六年二月二十三日
ところで、100年前の「日本の知識人」的な観念にいまだに囚われているあなたもどうかと。
北守將軍に御願ひがあるのだけれども。
日本人は、100年前の「日本の知識人」的な観念から、何時、どのやうにして、「解放」されたのでせうか。現代の日本人は、その観念から「既に解放されてゐる」と云ふ事を「立証可能である」と考へてをられる北守將軍には、是非ともきちんと立證していただきたいのですが。
既に日本人が西歐傳來の觀念を完璧に使ひこなしてゐる事、日本人は最う自由主義とか民主主義とかを完全に理解してゐて何一つ問題を生じてゐない事、現在日本人が政治の場や宗教の場で抱へてゐる問題は日本人の「西歐への適應異常」が理由でなくほかの理由に據るものである事、は、北守將軍の頭の中では「立証可能」であるのでせうし、簡單に立證出來るから北守將軍は全然問題視してゐないのでせう。
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040222#p9
と云ふ答しか返つてこないのだらうけれども。
人文科學を理系の科學とごつちやにして、歴史を分析の對象にしかしてゐないから、歴史の中に人間が存在する、と云ふ事を忘れてしまふのである。
平成十六年二月二十三日
何うでも良いけれども、俺は右翼ではないよ。左翼も右翼も嫌ひ。
平成十六年二月二十三日
http://esu.oresama.org/200402c.html#20040223_s2
平成十六年二月二十三日
あと、2ちゃんねるの某CSSスレ。
平成十六年二月二十三日
通常モードへ移行。通常モードつて何。
平成十六年二月二十三日
いまさらながらリンクしてみる。
お座布団 - MozillaFirebirdで複数ホームページ設定
平成十六年二月二十三日
定點觀測。
神保町中野書店。吾妻ひでお『妖精の森』は賣れた模樣。個人出版の『かがみあきらコレクション2』が四千圓で出てゐる。
平成十六年二月二十三日
一言で言ふと、歴史學や法学の專門家の人には、と言ふか、讀者のほぼ全てにとつて、途轍もなく曖昧な言ひ方だが、俺は「魂の問題」を考へたい訣なのだ。
――と言ふと、「野嵜はトンデモ」と云ふ話になるのだらうが、「侍魂」を「侍魂」と標榜してゐるからと言つて、それだけで「トンデモ」呼ばはりする人はゐないだらう。そして俺は少くとも「侍魂」よりは眞面目に魂の問題を扱つてゐる積りだ。假令、下らないパロディ小説を書かうとも、シリアスな落ちに持つて行く自信はある。
と云ふ訣で、「デカイオー」に續く駄目小説をまたぞろ書き始めようかと考へてゐるのだけれども、何か樂しさうなネタはないですかね。

平成十六年二月二十二日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040219#p4
いかにも頭の惡さうな文章を書いてゐる人に言はれたくはない。
と言ふか、北守氏の提示してゐる著者の本、ある程度バイアスがかかっていることは否定できませんね…。と云ふ批判は當嵌らないのかね。
平成十六年二月二十二日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040214#p1
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040217#p2
要は、「野嵜の説明だけでは信じられん」と云ふ事なのだらうけれども、そんな事を言ふのなら、北守氏も自分の説明不足について責任を取るべきだらう。
たとえば資本主義社会の成立におけるキリスト教の重要性を論じることはあるし、ヨーロッパ基層文化におけるキリスト教の影響を論じることもありますが、それぞれで扱われている「キリスト教」なるものはぜんぜん異なるわけで。
ぜんぜん異なると言放つてゐるけれども、では、前者の意味は何うで、後者の意味は何う、と説明しない理由は何ですか? 私の「明か」を批判したいのなら、自分が「明か」と言つて濟ますのは何うかと思ひますがね。
あと、資本主義が何うの斯うのとかいつた「經濟の側面から歴史の全てを説明する」態度が間違つてゐた事は、既に餘りにも明かになつてゐるやうに思はれるのだけれども。精神文化の側面からも、歴史は見るべきだ。あと、「自分は共時性に拘る」と宣言するのは、「自分は歴史的な物の見方と無縁である」と宣言するのと同義。
平成十六年二月二十二日
「經濟の原理の類のみに據つて人間社會が動いてゐる」と云ふ史的唯物論的な發想は、既に破綻が明かになつてゐるのだが、にもかかはらず、人間精神の歴史に對する影響は相變らず過小評價されてゐる。
平成十六年二月二十二日
マルクスが言つてゐる事なのだけれども、どんな思想も時代の制約下にある。だから、さう云ふ觀點から、全ての思想は批判的に讀まれなければならない。しかし、「教祖」の教へを全然守らず、マルクス主義を「時代の制約下にある思想」と看做さなかつたのが、マルクス主義者である。マルクス主義者批判は今、議論すべき事でない。
ただ、現代思想もまた、現代と云ふ時代の制約下にある、と云ふ事は、現代思想の支持者も自覺しておいて良い事だらう。その自覺があるならば、古典だらうが、百年前の本だらうが、今の本だらうが、必要な事は同じやうに學べる。
平成十六年二月二十二日
本を讀むのは、本に書かれた事を信ずる爲に讀む許りでなく、本の讀み方を學ぶために讀む、と云ふ側面もある。
ヤスパースが『ニーチェとキリスト教』で書いてゐる。
キリスト教的な対象についてニーチェの言説を一つ一つ比べてみるとしたら――例えば「牧師」とか「教会」とかに関する是非の論には、――ほとんど至る所に、こうした辻褄の合わせにくい評価の言葉が見られることだろう。
ヤスパースは、ニーチェがキリスト教を排撃した独特な情熱について考察し、ニーチェの言葉を檢討して、キリスト教の道徳的な刺戟があったればこそ、無限の真理意欲が呼び醒まされた事を指摘し、してみればニーチェは、自分の物の考え方がほかでもないキリスト教的な刺戟によって生れたものだと、そう意識しているわけである、と結論する。
平成十六年二月二十二日
ソ聯が、共産主義を奉じ、世界の勞働者の團結を叫んだ一方で、ナショナリズム丸出しの態度をとつた事は、屡々指摘される事實である。
平成十六年二月二十二日
思想家の思想を思想として、哲學者の哲學を哲學として受取るのは結構だ。しかし、或時代の思想家の思想を、時代と云ふ背景を反映したものと看做すならば、歴史の立場から考察する事は十分可能である。哲學についても同樣。
寧ろ、時代を超越した議論として或時代の思想を考察するのは、時代的制約に據る思想の限界を指摘し、それを根據にその思想を全否定するだけの結果に終るものである。それでは何も學べない――と言ふより、端からその思想を理解する氣がない人間の態度である、と言つて良からう。
平成十六年二月二十二日
實證主義は結構だが、その立場を標榜する人が、實證可能な思想家や歴史家、哲學者の著作を輕視し、「名も無い」市民や大衆の思想を過大評價するのはいただけない。
そして、さう云ふ態度をとる人に限つて、實證主義ではなく形而上學の立場をとる人間を、立場の違ひを無視して、平然と「お前こそ實證主義的でない」と罵るのである。
時代の制約とか論者の立場とかを意識しないやうな人間が、ウェブには隨分多いやうだが、どうにかならないものですかねえ。さう云ふ人間に限つて、自分が「場の氛圍氣」やら「時代の風調」やらを的確に把握してゐると信じ込んでゐるものである。嗤ふしかない。
まだ、時代遲れの意見を言つてゐると自覺しつゝ反時代的な態度をとる拗ね者を演じた方が増しだらう。
平成十六年二月二十二日
「西歐の文化を考へる時、ヘレニズムとヘブライズムとはどちらも重要な要素である」と云ふ事を認めつゝ、「ヘブライズムのキリスト教は重大な要素である」と云ふ事を認めない、と云ふのは、明かな矛盾。
あと、世界史の教科書を持出して證明した氣になるのも、何うか(してゐる)と思ふ。例の「南京大虐殺」の議論の時にも、世界史の教科書に載つてゐると言つて、自明の事だと言張つた異常な論者が存在した。
平成十六年二月二十二日
ソクラテス時代のアテネからの影響に比べたら、ガリラヤのイエスからの影響なんて、へのへのぺーなんですよ。日本の民法にもゲルマン文化の影響があって、そのせいで所有権と占有の関係がばかみたいに難しくなってるんですよ。戦時中の「西洋の超克」がトラウマになって、すっかり西洋化してしまった自分たちの哲学や法や心性が見えなくなって、キリスト教ばかり目につくのが現代の日本人なんですよ。
ドイツの近代思想が觀念的な方面に偏してゐるのは、ドイツが文化的後進國であつた爲。現實に自由が存在しない状況で、自由主義の觀念が追求された結果、現實から遊離した觀念論に偏したのは理の當然と言へる。そして、さう云ふ觀念論の現實からの遊離とその尖鋭化とは、文化的後進國で一般に見られる現象である。
また、戰時中に行はれた有名な討論は「近代の超克」。冨山房百科文庫で總括が出てゐる。樣々な立場の人が參加し、それぞれ勝手に意見を出したせゐで、結局、纏まつた結論も出ないまま終つたので、未だに色々と議論されてゐる。
あと、近代のヨーロッパは、ギリシア文化を、アラビア語文献の中から再發見した、と云ふ事に留意する必要がある。ヨーロッパ人はギリシア文化を、「既存のキリスト教」の思想と比較しながら受容してゐる。
平成十六年二月二十二日
「ドイツとフランスは、歴史的に見てずっと仲が悪かったんだ。だから、EUだってすぐダメになるさ。」
北守氏は、その誤謬が生まれる理由は、われわれが意識的にしろ、無意識的にしろ、「ドイツ」や「フランス」をそれぞれ独自の意志を持った、有機体的なものとしてみているか、でなければ「ドイツ」と「フランス」を喧嘩せしめるような「意志」を、歴史の背後に求めているかのどちらかだろうと思う。と言つて批判した積りになつてゐる。
ヴェルダン條約・メルセン條約で、東西フランクとイタリアとに分割される前は、ドイツもフランスもイタリアも同じフランク王國だつた、と云ふ歴史的事實を提示すれば一發で上の主張は相對化される。
平成十六年二月二十二日
以前書いたけれども、ナショナリズムはフランス革命の時に出て來た思想である。「國は王のもの」と言つてフランス國外の反革命勢力がフランスの革命政府に戰爭を仕掛けた時、フランスの革命勢力が「國は國民のものである」と言つて、革命を正當化し、國民としての自覺を促して國民の士氣を高めるべく、祖國防衞戰爭の大義名分として打出したもの。
あと、昔の教科書の索引に「ナショナリズム」の項目がなかつたものがあるのだけれども、今の教科書では何うなのかな?
平成十六年二月二十二日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040208#p1
と言ふか、この人、根據ナシにキリスト教の意義を過小評價してゐるのだが。
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040208#p2
全然違ふ、と云ふ事がどうしてわからないのだらう。
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040208#p3
おいおい。どうして19世紀のフランス共和国政府が突然出て來るんだよ。馬鹿ぢやねえのか。
と言ふか、公教育の場からカトリックを締め出したのがそもそもをかしい、と云ふ事に氣附けよ。キリスト教の常識から考へれば、公教育の場からカトリックを締め出すのが「神のものとカイザルのものとの區別」と全然關係のない事は明か。さう云ふ問題ぢやないんだよ。キリスト教の事を知らないででかい顏をするのも好い加減にしろ。
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040206#p2
バッサリやる必要がある場面でバッサリやつてゐる人間に、バッサリやつてゐるよあの馬鹿(トップゲラ)みたいな非難をしてゐるんだけれども、馬鹿だねえ。
と言ふか、この北守將軍、代案の一つも出せば良いと思ふのだけれども。西歐と日本の文化の根本的な差異の原因は何? 或は、彼我には何の差異も無いと?
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040203#p1
こんなめんどくさい議論は勿論僕にも処理できない。つーか、わからない。
さう云ふ人間が、何うして安易に「キリスト教」を過小評價出來てしまふのか、と云ふ事の方が不思議。自信がないなら偉さうに見下したやうな顔をするものではない。
その後の北守氏の文章を讀めば、偉さうな事を言つてゐるのは明かである。だから實際のところ、彼は歴史について深い理解と知識を持つてゐると自認してゐるのである。即ち、謙虚を裝ひ、相手にも「謙虚になれ」と説教しつゝ、北守氏自身は尊大である、と云ふ、矛盾した態度をとつてゐる訣である。
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040203#p2以下は既に批判濟み。
北守氏は、キリスト教は確かにガリレオを弾圧したかもしれないけれど、他方で中世を通して人々の知的好奇心を育ててきたという事実もあるのですよ。と言つてゐるけれども、俺も同じ事を言つてゐる。彼が俺を非難する理由が、全然解らない。高橋氏が俺を非難した理由も解らないのだけれども。
と言ふか、むしろ、科学が発達したことによって、人々は初めてカトリックの誤りに気づいた、と考えたほうが自然でしょう。と、安易に誤りと言つてしまふところに、北守氏の危ふさがある。
キリスト教に近代科学を生み出す内在的な力があるなら、もっと早くから近代化しているはずだし。
各文明の進歩の度合を比較すると、ヨーロッパ文明の進歩の度合は他の文明のそれに比べて「かなり早い」方なのだけれども。ヨーロッパ文明はそんなに古い文明ではない、と云ふ事にも注意する必要がある。
平成十六年二月二十二日
二月二十一日附讀賣新聞朝刊15面に「現代に生きる日露戦争」なる記事が掲載されてゐる。「『司馬史観』見直す動き」「『栄光の明治』『破滅の昭和』対比に異論」と云ふサブタイトルが附けられてゐる。
司馬の史觀がをかしいなんて、當り前の話だ。
平成十六年二月二十二日
今の時代、「反体制」「反権力」「異端」が好きと言ふ人は非常に多いが、「伝統」が好きな人は非常に少い。と云ふ事は、現代に於ては、「反体制」「反権力」「異端」好きこそが體制派であり権力者側である、と云ふ事になる。
平成十六年二月二十二日
自分の正しさに自信を持つてゐた人間でないと、誤を指摘された時に反省出來ない、と云ふ逆説。
平成十六年二月二十二日
俺の事を「偏つてゐる」と非難した人間の中に、偏りのない人間が一人でもゐただらうか。
平成十六年二月二十二日
Opera 7.50 pr2。相變らずPanelを殺せない。と言ふか、Panel關係はバグだらけではないか? よつて俺にとつてOpera 7.50 pr2は糞ブラウザと云ふ事になる。
レンダリングエンジンは前よりも速くなつてゐる氣がする。と言ふか良い感じ。何で餘計な機能を附けるんだ。
平成十六年二月二十二日
プリキュアをリアルタイムで鑑賞。
平成十六年二月二十二日
年末だか元旦だかに註文を出したにもかかはらず、「メーカから入荷しない」との事で「待ち」状態だつた篠原美也子「SPIRAL」が今日になつて突然屆いた。
平成十六年二月二十二日
用語の意味を辭書や教科書の定義にのみ從つて認識するのは危險である。
「パスカルの神は『哲學者の神』ではなかつた」と云ふ文章で、「哲學者の神」と云ふ語は、キリスト教との距離を測定された上で示された判斷の結果として用ゐられてゐる語である。となると、この文章の論者は、キリスト教の立場を意識して「哲學者の神」と云ふ語を用ゐてゐる事になる。文脈から言つて、「哲學者の神」と言つた論者は、キリスト教の神と絶對的に無縁である訣ではない、と云ふ事になる。基準が「キリスト教の神」にあるからである。
さらに言ふならば、「哲學者の神」の哲學者が、最初からキリスト教の神と異る存在としての神を意圖して「哲學者の神」を創作した場合も、キリスト教の神を再定義しようとして「哲學者の神」を作り上げてしまつた場合も、その哲學者はキリスト教と無縁の存在ではない。基準が「キリスト教の神」にあるからである。
平成十六年二月二十二日
とかちゃんの「ほけほけ日記」の2月22日分邊。「『ほうめろす』とB.アンダーソン」

平成十六年二月二十一日
DDT's Room:Web Site Watch Feb-2004
二月二十日の邊。「日本人カトリック者」
太宰治が生れてきてすいません。なんて言つたけれども、やつぱりさう云ふのとキリスト教徒の原罪意識とは違ふ訣だし。そもそも太宰はクリスチャンぢやないし。
でも,近い身内の死に直面する場面では,日本人といえども原罪なんてことを色々と考えてしまう。
原罪と言ふのは、アダムの犯した罪で、智慧の實を食べた事――即ち、理非を辨別できるやうになつた事を言ふのだけれども、人の死と關係あるのかなー。さう云ふのは寧ろ、柳田國男の『先祖の話』で描かれてゐる日本人の精神文化と關りがあるやうな氣がする。
あと、俺の知つてゐる日本のクリスチャンつて大概、プロテスタントか異端かなのだけれども、何故だらう? 俺はカトリックのファンなのだけれども。そんなにカトリックつて魅力がないですか。さうですか。
平成十六年二月二十一日
萬葉集講座の折口信夫の柿本人麻呂論を讀んでみた。
參考にすべき事を言つてゐる筈なのだけれども、眞に受けるのも何うかと思はれるのが困りもの。土屋文明の論文よりずつと魅力的な文章なのだが、單なる知識を得る爲に讀むやうなものではない。
と言ふか、全集で讀んだやうな氣もする。
平成十六年二月二十一日
今週末は神保町古書會館の古本市がない。
平成十六年二月二十一日
現行日本国憲法制定以前の日本人の後ろ盾だったものは、あきらかに現人神でしょう。それだけが唯一絶対の観念だったはずですが……それすらも先の大戦が終わってからの展開で奪われてしまったのかな?
まぁキリスト教の神の定義と違って、実際に肉体のある人物を崇め奉る訳ですから、権力抗争などで利用されてしまい形骸化してしまいがちだったのは歴史を見れば一目瞭然な訳ですが。そもそも『神が人の姿として生まれてきた』と言う定義が、言い換えれば『神を人に貶めた』と言う時点で破綻している様に私は感じます。
以上はnordenwind氏の發言。一行つつこみ欄より。それに對する高橋氏の囘答。
近代天皇制・国家神道が一神教的西欧近代に対抗するために創作された、という説は結構あるようで、俺はあんまり詳しくないのでその分析としての妥当性や政治的な正当性への評価はパスしますが(ちゃんと調べたほうがいいかな?)、俺は好かんなあ。
うちのサイトで公開してゐる松原正氏の講義録の説明がさう云ふ説明だつたのだけれども、讀んで呉れてゐないみたいだ。
と言ふか、「近代天皇制」とか、左翼の用語を無造作に使つてゐるんだもんな、高橋氏。「創作」とか安易に言つてゐるし。やつぱり或種の「史觀」に支配されてゐるみたい。
あと、あんまり詳しくないのに、簡單に俺は好かんなあと結論を述べてしまふ高橋氏の乱暴さが氣になります。一往調べてから物を言つたら何うかと。まあ、調べるにしても、高橋氏は自分の好みに合つた資料しか調べないんだらうけれども。
平成十六年二月二十一日
あと。
要するに「俺達の怒りを勝手に代弁するな」と言いたいのですか?/それならば、単にそれだけ言えばいい。そして俺は、「代弁しているわけではない」と言っている。「怒る人がいるとすれば」そうだと言っているだけなのだから。俺は自分に関係ない問題に怒るのも筋違いなので、批判しない、というだけです。
あれれ。
そもそも、代辯する積りもない高橋氏が、「怒る人もゐる」などと言ふ權利があるのでせうか。「児童ポルノ法の類ひの法律を作りたがる人もゐる」と言つた私を、高橋氏は物凄い勢ひで潰しにかかつたんですから。
むしろ、(ばっさり略)とか、これは本当に該当者全員に当てはめていいことなんですか? そちらの乱暴さのほうが俺には気になります。
かうやつて、矛先を直ぐ他人に向けるのが、高橋氏のパターンです。
高橋氏には、「自分の言つた事には責任を取る」と云ふ觀念が無いやうです。そして、それこそが「表現の自由」だ、とでも勘違ひしてゐるやうです。しかし、自由と責任とは切つても切離せない觀念です。
平成十六年二月二十一日
日本人は、もともと感傷的な國民だが、大らかさ、寛容の精神を持つてゐる。さう云ふ精神のあり方を俺は「神道的」と呼んでゐるのだけれども、「包容力がある」と云ふのは、多神教の文化の持つ美點だ。
ただ、何でもかんでも「包容」で濟ませてしまつたり、「和を以て尊しとなす」が行き過ぎて「俺達の『和』から逸脱する奴は排除」と云ふ方向に行つてしまつたりするのはよろしくない。
クリスマスやバレンタインデーで一喜一憂する日本人の一人として、日本人のクリスチャンを馬鹿にする積りはない。ただ、西歐のクリスチャンと日本のクリスチャンとでは、やつぱり違ふだらうと。そして、西歐の文明を扱ふ日本人の魂が日本的なまゝならば、キリスト教を受容れた日本のクリスチャンの魂もやはり日本的なまゝである筈だと、さう指摘してゐる訣だ。ただ、宗教ならば、魂の問題は大變重要な問題である筈。
平成十六年二月二十一日
唐突だけれども、HTMLのリスト關係の問題について。
olとulとでは、順序の有無が區別されてゐる。けれども、dlではその區別がない。と云ふ事は、dlの中のdt/ddは「順序あり」と「順序なし」のどちらのリストであつても使用可能である、と云ふ事にならないか。
dlの中の要素について、仕様書から確實に讀取れる事は、「dtの中身はインライン要素かテキスト」「ddの中身はブロック要素でもあり得る」と云ふ事だけ。ならば、それだけの事なのではないか。
平成十六年二月二十一日
先日買つた建設社版ジイド全集第八卷がダブりである事を發見。
平成十六年二月二十一日
「政治的正当性」「政治的正当性」と言ふ人とは話をしたくない。
「政治的正当性」なんて、その時點での政治體制や論者の政治的信條に適合してゐれば「正しい」だし、反してゐれば「正しくない」になるに決つてゐる。そんなものは、議論すべき事ではない。

平成十六年二月二十日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040219#p3
平成十六年二月二十日
キリスト教社會の連中がしてゐる事が、時として我々の目には異常な事のやうに映つても、良く考へてみると實は合理的である事がある。一方、我々が當り前のやうにしてゐる事も、連中から見れば甚だ異樣で、同時に非合理的である、と云ふ事があり得る。
彼我の違ひを相對化して自分逹の言動を絶對化するよりも、相手の視點で見て自分逹の言動を相對化する方が、實が多いと思ふ。
平成十六年二月二十日
昨日の買物。
中村雄二郎『知の変貌 構造的知性のために』弘文堂
鉄道ジャーナル4月號
月刊ASCII 3月號
平成十六年二月二十日
CMカットとDVD燒きはTMPGEnc DVD Authorでやれば良い事が判つた。TMPGEnc Plusでの事前再エンコード不要。
平成十六年二月二十日
大體の場合、他人の意見を參考にする時は、凡人の意見よりも天才の意見の方が參考になる筈だ。
理不尽に感じてはいたが敢えて追求しようとも思わなかった。と言ふやうな人間とは違つて、天才と言ふのは物事を突詰めて考へる人間である。考へないよりは考へた方が、考へが深いに決つてゐる。
意識するしないに關らず、西歐の人間がキリスト教を氣にしてゐる事は確かだ。言換へれば、キリスト教は連中にとつて、常識であり基礎教養である。言ふまでもなく、大半の人間は無意識的である。西歐も例外ではあるまい。だが、さう云ふ連中の中で、意識的にキリスト教を追求したり、意識的にキリスト教と敵對したりして、日本人の目にはもちろんの事、西歐人自身の目にも極端だと思はれるくらゐの事をしてゐる人間が、まあ大體、西歐では天才と呼ばれてゐる。そして、さう云ふ連中の言ふ事なら、少くとも、我々にとつては耳新しい事ばかりだらう、と俺は思つてゐる。彼等は、「無意識的な多くの西歐人」にとつて、甚だ刺戟的な事を言つてゐる筈だ。それは「多くの西歐人と同じやうに、彼等以上に無意識的である、或は彼等とは比べ物にならないくらゐ(キリスト教について)無知である日本人」にとつては、刺戟的である以上に示唆的であるだらうと思ふ。
平成十六年二月二十日
本日の買物。
ヤスパース選集『哲学的自伝』
教養文庫一册。
鉄道ピクトリアル4月號。
ついでに、萬葉集講座の二卷、四卷、五卷を引上げて來た。ちなみにこれ、今はさつぱり振はない春陽堂から出てゐたもの。
平成十六年二月二十日
田村書店の前の舖道で飼はれてゐる鷄は、へんなウイルスに感染してゐないだらうね?
平成十六年二月二十日
めも。
盗作【言いがかり】対策室
http://taisaku.fc2web.com/(みらー)

平成十六年二月十九日
高橋氏はきつと「日本人はもう十分西歐化して、西歐の事を理解してゐるから、これ以上理解しなくて良い、寧ろするな」と思つてゐるんだらうね。
と言ふより、「俺は最う西歐人と同等だ」と思つてゐるんだらうね。
だから、俺みたいに「日本人は西歐の事を理解してゐない」と言ふ人間は、自分よりも西歐化が進んでゐない劣つた人間だと極附けて見下してしまふんだらうね。
平成十六年二月十九日
もし本當に日本人が皆、既に完璧に西歐由來の觀念や思想を適切に扱へるやうになつてしまつてゐるとしたら、高橋氏は不滿を持たない筈ではないかね。
「児童ポルノ法」の類にしても、その手の圖畫にしても、日本人は完璧に適切に扱へるやうになつてゐるのかね。さうではないだらう。だから高橋氏がぴりぴり神經をとがらせる訣だ。ならば日本人はまだ、西歐の事を理解し切つてゐないのである。論ずるまでもない事だ。
平成十六年二月十九日
「西歐社會はキリスト教社會である」と云ふのは、論ずるまでもなく自明の事だが、その事實を認めたくない、と言ふのはどう云ふ事だらう。
キリスト教にGodと云ふ絶對者がゐて、日本人に絶對者の觀念がない事も、やはり自明だが、それを認めたくない、と言ふのはどう云ふ事だらう。
批判者に「では、何が彼我の根本的な違ひなのか」と反問すると、答は絶對、返つてこない。批判はするが、代案は示さない――と云ふのは如何なものかと思ふのだが。
平成十六年二月十九日
「説得力」とか「效果」とか言ふ人は「野嵜の言つてゐる事には説得力がない」とか「有效性を認めない」とか極附けるが、その種の極附けに限つて説得力のあつたためしがない。
そもそも「説得力」や「有效性」の客觀的な判定基準は何か。
平成十六年二月十九日
田村書店が「値がつかない」からと言つて無料で本を放出するのだが、昨日そこで『萬葉集講座』を拾つて來た。別の人と取合ひをしたのだがその人曰く「揃でないので要らない」との事で、讓つて貰つた。各卷「なんとか篇」となつてゐて、しかもいろいろな人の論文の寄集めだから、揃つてゐなくても讀めるのだが。
重いので順次、持歸る豫定。今日は第一卷。函缺。一折の後ろ邊でばらけてゐる。テープ補修痕あり。
平成十六年二月十九日
もう何年もまへに白川静「漢字」(岩波新書)をよんだとき、「口」とあれば全部祭器かよ、と思つたのを思ひ出したり。いま、貨幣にサブリミナルな性器等が図案化されてゐるといふ本書の主張と、白川氏の研究とを正しく線引きせよ、と言はれて私にできるのだらうか。
全部祭器と言つてゐたつけ?
ちなみに、古いものはどうだか知らないけれど、新しい日本銀行券にはどれにも鳥の名前が書かれてゐる。NIPPON GINKO。と云ふ話を昔、関口宏がしてゐた。クイズ100人にききましたの中でだつたつけかな。
餘談だが俺はクイズ100人にききましたが嫌ひで嫌ひで。
平成十六年二月十九日
めも。
Le Parti pris des lettres
ヒトラーはお好き?政治的あやしさの考察 スタイナー/ブール/ベッソン

平成十六年二月十八日
いや、だから、「Macを何らかの形で所有してゐる人は例外ナシに『マカー』である」等と定義してゐる訣ではないんだけれども。
平成十六年二月十八日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040217#p1
自由主義でもそうです<政治は道徳に優先する
論證希望。
暴動を起こして国王を追い出すことが一般的に正しいとは思われない時代に、市民革命は起こった。自由ってのはそういうものです。
「言論の自由」「表現の自由」と言つてえろいらすとを正當化するのが正しいと思はれてゐる時代に以下略。
日本人の精神文化、と一元的に語ることが可能なのかどうか。
詰り、高橋氏は「日本人の精神文化は存在しない」と言ひたい訣だ。
マリア信仰やハロウィンやイースターは正統ではないんですか?
キリスト教だって異民族文化を取り入れて変化している。マリア信仰とか。ハロウィンとか。イースターとか。
高橋氏は、「正統=異民族文化」だと思つてゐるらしい。
性的な抑圧がなくなったところで、貴方は困っても俺は困らない。
俺は、性的な抑圧があつたところで困らない。
貴方が適用すべきと考えるか否かに関わらず、表現の自由は全ての表現に適用されるのです。貴方をその点で説得する意義を感じません。
俺もあんたを説得する氣なんてないよ。
架空キャラの絵の幼児ポルノが誰の権利を侵害しているかと問われて答えられる人はいないのではないですか?
「幼児ポルノ」が弱者に對する抑圧的な感情の顯れだと看做す人もゐるでせうね。
一方、表現規制が個人の表現の自由を制限してしまうことは、誰の目にも明らかです。
「幼児ポルノ」が規制されて、その種の「表現の自由」が制限されたところで、貴方は困つても俺は困らない。
不愉快に思う人がエロコンテンツを目にしなくても済む権利、というのは、法的に検討されてもいいんじゃないかと思います。
えろは隔離されるべきだよ。表に出て良いものではない。
「法は最低限の道徳であり、それ以外に人が守らなければならない道徳がある」というのは、もはや法学の話ではなく、従うつもりはありません。
詰り、法を利用する高橋氏の意圖と云ふものに興味を持つ事は許されないと。
法はアプリオリにあるものなのか。
と言ふか、法學の話ではないのに、高橋氏が勝手に「法律談議」にしようとしたんで話がこぢれたんぢやないか。法律の事だから「法律談議」だ! なんて何うしやうもなく短絡的な「理窟」が、高橋氏は「通る」と思つてゐる。高橋氏はをかしい。「音楽を論ずるには言葉ではなく音樂でやれ」の類の幼稚な「理窟」を高橋氏は言つてゐるんだよ。
そもそも、法學の中で法律はアプリオリに正義である。しかし、法律を運用する人間は法學の外にゐる。その人間にとつて法律が正義であるべき理由を述べる必要が今、高橋氏にはある筈だが、高橋氏は議論から逃げてゐる。要は、高橋氏には法律を正義と看做すべき理由がわからないのである。ただ、利用出來るものを利用してゐるだけなのである。
平成十六年二月十八日
むぅ……どうして規制賛成派の方々はそんなに猥褻表現に過剰反応するのでしょうかね……。実際にレイプした訳でもないのに、そう云う表現が作中に出てきたらNGなのでしょうか?
規制反對派の方々は、實際に權力を使つて思想を彈壓したのでもないし、それどころか、ただ「規制に贊成する人にだつて理由はある」と言つただけの人間を「反動」呼ばはりして叩き潰さうとするんですがね。「規制反對に反對」と云ふ態度の表明自體が彼等にとつてはNGらしいんですよ。
平成十六年二月十八日
例えば、職業選択の自由の一環として売春する自由を考えた場合、法律問題は関わってくると思いますが。
賣春は賤業だよ。
何と言ふか、「自由」「自由」と言ふ人が、變に小林よしのりと繋がつてゐたりする。
平成十六年二月十八日
単にかわいそうなことはしないというだけなら、たとえば犯罪者を告発するのもかわいそうだと言い得る。あんまりかわいそうに感じない奴相手なら何をやってもいいということにもなる。
高橋氏……。
平成十六年二月十八日
プラトンの『法律』でも讀むかな……。
平成十六年二月十八日
日本人はもともと、性交も淫行も「道徳的な惡事」と見てゐない。
佛教も、さう云ふ日本人の傾向を改める事は出來なかつた。
明治になつて入つて來たキリスト教の考へ方が、日本人の姦淫やえろの領域の考へ方に、少からず影響を與へたのは事實。そして、同時に、昔ながらの「えろは惡い事ぢやない」と云ふ考へ方も根強く殘つてゐるのが事實。そこで兩者の間に葛藤や鬪爭が起きてゐる訣だが、これがまさに日本人の「西歐への適應異常」の現象の一例なのである。
平成十六年二月十八日
「チビクロサンボ規制」と「ポルノ規制」「ろりぺど畫像規制」とは、質が違ふ。
と言ふか、「規制」と云ふ文字を見て反射的に「惡」と言出すのは何うかと思ふ。
單純に言へば、「ちびくろサンボ」は子供に見せられるけれども、女の淫猥な恰好のいらすとは子供に見せられるものではない。
平成十六年二月十八日
某さんに食事處を教へて貰つたので行つてみようかと。
どうもありがたうございます。
平成十六年二月十八日
マリア信仰も、イースターも、ハロウィンも、異民族文化に端を発するものでありながら、同時に正統なカトリックの風習でもあるのだけど。
マリア信仰とハロウィンとを同次元で捉へてゐる邊が以下略。
「感情の表れ」とか言われたらもう法の話じゃないなあ。
と言ふか、法律を利用する高橋氏の動機は何かと。
俺は貴方の言説のほうがよっぽど有害度が高いと思いますが、まあ、見たい人の見る権利を妨げない範囲で見たくない人が極力見ないで済むようにする仕組みはあってもいいと思う。
高橋氏の作つてゐるえろげはどう考へても有害だと思ひますが云々。
まあ、18禁らしいし。
表現規制法案の話が法学談義以外のものであるわけがないでしょう。
法案の法的な是非の話は法学談義以外のものであるわけがないでしょうが、なぜそんなにまでしてその種の法律の成立を高橋氏が阻止したがつてゐるのか――と言ふより、高橋氏は、法案に贊成か反對かと云ふ域を超えて、規制に贊成か反對かの話に踏み込んでをり、その觀點から俺の事を「反動」呼ばはりしたのだから、法学談議の域を自分で踏み外してゐるのだから、そこで「アプリオリに法律の話は法學的な話である」等と言つて議論から逃げるのは許されないのである。
貴方の正義になんぞ興味はないし付き合う気もない。
ならば、俺の主張に一々反對したり「叩き潰してやれ」等と思つたりしない事だ。興味が無い癖に、高橋氏はどうして俺の文章を氣にしたんだらう。
子供に見せるかどうかは教育の問題なので、性道徳の話とは分けるべき。
俺は「分けるべき」だと思はない。と言ふか、俺は教育学に関してはまるで知識が足りないのでパス。と言ひながら、平然と教育の問題なのでと言放つのは、無責任極まる。
と言ふか、高橋氏が犯罪者を全面的に擁護したい畸人であり、根本的に正義と不正義の觀念が顛倒してゐる人間である事が判明した以上、議論をするのは單に時間の無駄である。高橋氏から俺が學べる事は何一つない。事實、何一つ高橋氏の言説に讀者を裨益するものは無かつた。
平成十六年二月十八日
俺の「インターネット紋切型辭典」は凄いな。
エロゲ
エロシーンが本當に必要かを論じる事。
平成十六年二月十八日
野嵜氏は私憤を公憤にすり変えていて、高橋氏は表現の自由を大義名分として利用していると。要はエゴのぶつかり合いなんだから「悔しかったら憲法改正しやがれ」というのは正当な主張に思えます。そうでないと決着はつかないし。あとはもうコブシで決着つけて友情を芽生えさせるぐらいしか方法が…。
弱つたねえ。俺の文章のどこが私憤なのだか。
高橋氏のやつてゐる事こそ、私憤を公憤にすり変える事なのだが。
要はエゴのぶつかり合いなんだから「悔しかったら憲法改正しやがれ」というのは正当な主張に思えます。
直ぐに「エゴ」「エゴ」と言出すのも何うかと。
と言ふか、こんな事を言ふKuroneko氏こそ、「エゴ」で俺とかの事を非難してゐるのではないか。或は、Kuroneko氏が俺を非難するのは私憤なのではないか。
平成十六年二月十八日
http://d.hatena.ne.jp/Tskk/20040218#p1
そして、法解釈の選択の根拠は結局の所「法律センス」とか「バランス感覚」と呼ばれる論理的に語ることが困難な領域に属します。法律家ですら日夜悩み続けている問題について語れと言うのは無理がないですか?
ないと思ひますが、あるんですか?
既に法解釈学の域を超えてセンスなり感覺なりの領域の問題となつてゐるのだから、法解釈学の専門家でない人間が法解釈学以外の見地から意見を述べる事は「あり」でせう。
平成十六年二月十八日
http://d.hatena.ne.jp/Tskk/20040218#p2
自爆テロをやるやうな連中の行爲について論ずる時に、法学談議をやらうなんて言出すのは、馬鹿のする事だし。
平成十六年二月十八日
http://d.hatena.ne.jp/Tskk/20040218#p3
賣春は切り売りみたいなものだから人格の切り売りに比べれば賤業だらう。詳細は松原正氏の著作を參照して下さい。
小林よしのり云々についての詳細は『ゴーマニズム宣言』を參照して下さい。
平成十六年二月十八日
『教育論』といつたら、アランのそれが良いのではないかと。
「子供の勉強は、面白いものであつてはならない」とか、アランは言つてゐる。
平成十六年二月十八日
http://www.remus.dti.ne.jp/~a-satomi/nikki/2004/02b.html#d18n01
きゅあきゅあ
http://da.pekori.to/faerie/nikki/?date=20040218#p03
せきゅあ
――いやべつに、ちよつとだけ似てるな、と。それだけ。
落ちナシ。
平成十六年二月十八日
めも。
掲示板の書込みマナー
VNI Theoria Laevatain の血が騒ぐページらしい。ページつて何。
平成十六年二月十八日
ヤマギワソフト火災 - 査察報告書
平成十六年二月十八日
本日の買物。例によつて神保町の古書會館にて。
福原麟太郎著作集×三册
A・インケルス(辻村明譯)『ソヴェートの世論』現代社会科学叢書
建設社版ジイド全集第八卷
創元選書×二册
三木清全集第十九卷
平成十六年二月十八日
サルトルの『嘔吐』は、現實世界には何一つ必然性などなく、全て偶然で出來てゐる、と云ふ事に氣附いてしまつた主人公が、さう云ふ現實に「吐き氣」を催し、結末で「必然的で完結した世界を構築すると云ふ藝術の效能」に気附く、と云ふ話だと福田恆存が『西歐作家論』で述べてゐる。
主人公の意識は「完全な自由の意識」なのだが、そんなものに人間は耐へられないのであつて、必然的で宿命に支配された虚構の世界を人間は求めるものである、とサルトルは示唆してゐる。
それでも「さう云ふ現實を認識すべきだ」と主張したサルトルは實存主義者。
平成十六年二月十八日
まじれすすると。
cure -v. (-ring)
(often foll. by of) restore to health; relieve (cured of pleurisy).
eliminate (disease, evil, etc.).
preserve (meat, fruit, etc.) by salting, drying, etc.
vulcanize (rubber); harden (plastic etc.).
cure -n
restoration to health.
thing effecting a cure.
course of treatment.
curacy.
「きゅあ」を二つ重ねると何か別の意味になるのかも知らないけれども、そこまではわかりません。多分、制作者も深く考へてゐないと思ふ。
と言ふか、プリキュアつて、そんなに評價が高いですか?
せらむんも別に評價が高かつた訣ではないと思ふ。
どつちも變な意味で「評價されてゐる」のでは。「虹裏的」に云々とか「弄り甲斐がある」とか。
なんか去年の年末邊まで設定が固まつてゐなかつたとかいろいろあるらしいので、貶せない。と言ふか最近、あにめについては、制作者に同情したい氣分なので、「客觀的に論じる」のも氣がひけて。
平成十六年二月十八日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20040215#p1
「西欧」と比較するなら論理的には「東アジア」でなければならないはずである(「西洋」に対する「東洋」のように)。
それはどうだらう。西歐は一つの文化圈だが、東アジアは一つの文化圈ではない。岡倉天心が「アジアは一つだ」なるスローガンをぶち上げた事があるけれども、「そんな歴史的事實はない」と云ふのがもつぱらの評判。
平成十六年二月十八日
DOME || COLUMN Feb.18.2004 「日本モータースポーツ小論」
内發的な理由で當然のものとしてレースをやつてゐる外國と、外發的な理由でレースを導入した我が國とでは、レース界の人達の意識が違ふ、と云ふ話。
結局、日本人の「西歐への適應異常」の話である。
ふろむhttp://d.hatena.ne.jp/yms-zun/20040218#1077085467
平成十六年二月十八日
めも。
アランの言葉

關聯リソース

前の記事
日記バックナンバー
2004年2月(その1)
「闇黒日記」の關聯サイト
nozaki directory project
言葉 言葉 言葉
PC Tips
櫻花さん番外地
inserted by FC2 system