俺は政治性が最優先だなんて言ってない。道徳には優先する、といってるだけ。
俺は、表現規制論において政治と分離された道徳的な主張はありえない、といっている。
表現規制論に限定された話を高橋氏はしてゐない。高橋氏は、明かに一般論として述べてゐるし、一般論として俺を非難してゐる。
論理性もまた、相手に対して有効な限りにおいて利用される道具に過ぎない。どうも、有効ではないようだが……。
法律論としては当たり前な「表現の自由」の主張を「悪用」と批判する、その「悪」とはなんなのか。
「和魂洋才」が不可能だという意見は論理的か。仮に論理的に不可能だとして、それで何が困るのか。困るとして、それが抑圧的な貴方の道徳論を受け入れてまで改善しなければならないことなのか。採算は合うのか。これは政治的な議論になってしまうでしょうな。
抑圧的な貴方の道徳論と云ふ言ひ方が論理的か。假に論理的にその通りだとして、それで何が困るのか。徳目は常に「抑圧的」である。
抑圧的な貴方の道徳論を拒否する高橋氏にとつての「和魂」が、
抑圧的なものである筈がないが、本質的に魂の規範は魂にとつて
抑圧的である筈であり、その
抑圧的な徳目とそれに從ふ魂とが「和魂」である。即ち、高橋氏の言ふ「和魂」は「無魂」である。實際、今の日本人は、江戸時代の吾々の御先祖樣が持つてゐた「魂」と同じものを持つてゐない。そして、明治時代、やはり同じく我々の御先祖樣は「和魂洋才」を唱へた。これは、「和魂洋才」と言つたにもかかはらず、「和魂」が失はれた、と云ふ事を意味する。ならば、「和魂洋才」は實際に不可能だつた、と云ふ歴史的事實がある、と云ふ事である。
例えば、野嵜氏のリンクした「極東ブログ」の記述の、日本仏教文化に対する配慮が、野嵜氏には見えていない。野嵜氏は、書かれた物の文脈や状況という概念を解しないので、文章だけを取り出して現代にそのまま持ち込んでしまう。そういうのを「アンチョコ」と表したのだけど。
書かれた物の文脈や状況という概念を解しないのは、高橋氏の方だらう。今まで、高橋氏が私の文章の概念を、文脈や状況に應じて適切に讀取つた事があるだらうか。高橋氏は、自分を否定すべき文句で以つて俺を非難してゐる。
貴方が突然持ち出したんだろうと<禅宗
突然と見てしまつたのは、高橋氏が
書かれた物の文脈や状況という概念を解しないからであらう。
足を取られても
ゲルマン民族はキリスト教を血肉化しているけど、日本人は仏教を自分の文化にはできていないといいたいのか。それで、神道は自分の文化で血肉化されているといいたいのか。
キリスト教だって異民族文化を取り入れて変化している。
座禅というのは修行法だから、修行しない人が習得している必要はない。信仰が足りないからではなく、元々そういう主旨のものではない。
日本人の死生観が一枚岩と考える根拠はどこに。
アブラハムとイサクなんて、特別難しいところへなんでまた突っ込んでいくかな。
今は特に興味ないし、欲しくなったら買うので、いらないです<現代語法新説
自由というのは、一切制限されていないのが理想なのであり、それでは権利が衝突するから、公平な調整による制限が入るわけです。
一切制限されていない状態は存在しない。人は、さう云ふ「自由」を求め始めたら、永遠に求めねばならない。
従って、表現の自由を規制しようとするものに、表現規制の必要があることを証明する義務があるのであって、表現規制反対側には表現の自由の必要性を証明する義務は、少なくとも法的もしくは政治的社会的には、ない。
1.性秩序は法によって守られているものではないでしょう。主に宗教的性道徳によって制限されてきたものです。俺はそれを単に「あるべきでない抑圧」と考えます。
2.法が守るべき社会とは、あくまで国民の権利を擁護するためのものであり、社会秩序を守るために人権侵害をするようになっては本末転倒です。社会を守るために人がいるのではなく、人を守るために社会があるのです。
3.貴方の考える権利の乱用の定義はなんですか? この場合、「表現の自由の乱用」の定義ですね。僕の場合、権利の主張が他人の権利を不当に侵害している場合、それを権利を濫用していると定義します。
抑圧的な感情の表れであると看做す人だつてゐるでせう。
カント以来、法と道徳の峻別は常識です。
理想主義哲學の上に立つ社會民主主義者を自稱した河合榮治郎は戰前、大學における「言論の自由」について述べて、自分は「言論自由主義」であると、「言論自由主義」とは
權力を以て研究言論を壓迫すべからずと云ふ事であると言つてゐる。
野嵜さんは、ポルノ表現規制反対の文脈で提示された、近代思想に基づく「表現の自由」論の政治性を批判している。
道徳性が政治性に優先すると言う根拠は何か。
優先する等と言つてゐない。高橋氏は、高橋氏自身の「政治性が最優先事項だ」と云ふ主張に贊成しない俺(野嵜)の意見を、自分の意見の單なる裏返しだと勝手に極附けて、野嵜の意見は「堂特性が最優先事項だ」と云ふものだ、とレッテルを貼つてゐるに過ぎない。
彼は、キリスト教的な絶対普遍の道徳性こそが近代の前提であり、その絶対的普遍的道徳性は、政治性より優先する、と考えているらしい。
道徳性と政治性は、そもそも分離できるのか? 彼は、出来ると考えている。それを可能にするのがキリスト教信仰であり、それが取り入れられなかったせいで日本の近代化は不徹底で西欧には劣るのだ、と考えている。
つまり、彼の主張の根拠となっているのは、「西欧=キリスト教」と、「日本=非キリスト教」の対立構造であり、前者を後者と比較して近代的という意味で優位に置いているのだ。
おいおい……自分で禅宗を日本人の非論理性の例示に持ち出したんではないのか。今更、外来文化だからとか言われても。
「新佛教」の「新しさ」も、結局のところ、「日本的」な要素の附加である訣で。とヒントを書いておいたのだけれども。
つーかそんなこと言いだしたら、イギリス人やフランス人たちは大本をたどればゲルマン民族(もちろん他にもいっぱいいるが)なんだから、キリスト教だって外来文化になってしまう。
野嵜氏の主張というのは、要はスローガンであって、論理のいい加減さを指摘するのも馬鹿馬鹿しい気がしてます。「日本人はキリスト教が理解出来ていないので真の近代化を達成できていない」→「日本は西欧列強に追いつくためにキリスト教を理解しなければならない!」→「でも日本人は神道の信者だから完全な理解は無理だけどね。せいぜい努力しろよ、俺が努力してるんだからさ」って勘弁してくれ。
完全な理解は無理→
西欧列強に追いつくのは無理→
真の近代化を達成するのは無理――だけれども、一度西歐を受容れてしまつたのだから、西歐を理解する努力はすべきだ、と言つてゐる。
あー、でも、主張に「表現の自由」という言葉を使う以上、それ自体に優越するものを持ち出されてしまっては反論できなくなってしまいますからねえ。そこはきっちりつぶしておかないとまずい気もする。
彼がアンチョコにしている思想家たちの思想はもちろんもっと隙がないでしょうし、そこへ論理で対抗しようなんて思ってるわけではないけれど。彼のWEB活動が、スタイルの追随者を生む程度には影響力を持ちえているということに、俺はうす寒さを感じます。
アンチョコとか言つて、俺の意見を貶めようとしてゐるのが惡質。「こういう事を言うのが戦術的に有効」なんて教へる學校でもあるのかねえ。或は、戰術の有效性に拘る高橋氏が、どうしてこんな自分に不利になるやうな事を平氣で言ふのだらう。
「ポルノや大江健三郎の本は倫理にもとるから公権力の検閲によって発禁にすべきだ」
その理由が「西欧列強に追いつく為」じゃあ、意味不明の妄言としか受け取れないし――それはさうだらう。Kuroneko氏が
意味不明の妄言をでつち上げてゐるのだから。
キリスト教に対するニーチェの戦いはかれ自身がキリスト教的であることから生れている事を論證してゐる。
西洋の近代化はがっちりキリスト教と融合した不完全な形での近代化でして、日本の徳川幕府のような『宗教の毒を無効化して有効・利益的な部分のみ取り出してシステム化する』といった方式(檀家制度)とは違うのです。私は西洋よりも日本の方が、西洋に比べより優れた近代化(宗教の内面支配性をカットして道徳律としてのみ残す)をしていたのに、西洋の近代化を見習って逆転した近代化を行なってしまい、歴史が後退したのが、日本という国であると考えています。キリスト教と融合した近代が輸入されてしまった日本近世より徳川泰平の世の方がより近代的であったと思っていますね。>Rさん
がっちりキリスト教と融合した近代化は、西歐の歴史の中で「完全な近代化」であつたと思ふ。日本の中で、日本的な近代化も進んでゐたと思ふ。そして、日本が西歐の近代を受容れるのには無理がある、と云ふのもその通りだと思ふ。ただ、明治時代に日本が西歐の近代を受容れる事にしたのも事實だと思ふ。それを今更昔に返すのは無理だと思ふし、何より既に世界を西歐の近代が覆つてしまつてゐる事は否定出來ない事實だと思ふ。そして、日本が西歐の近代を受容れたのは、歴史の必然であつたのだし、宿命的な事だつたのだから、否定する事は出來ないと思ふ。だから、日本人は西歐の
がっちりキリスト教と融合した近代を知らなければならないし、必然的にキリスト教を知らなければならない。
現代日本人の宗教性の分析をやるなら、おっしゃるとおり、江戸時代の特殊性もみるべきでしょうね。
特殊性に拘ると、分析に終つてしまふ。問題は、個別の宗派が存在し、宗教が存在するにもかかはらず、日本人が日本の文化を持つ、と云ふ事だ。その日本の文化を全體として理解するには、個別の宗教・宗派の個別性と同時に、共通性を見出さなければならない。
つまり「違う」ことを突き詰めて考えると必然的に「同じ」ことについてに考えが含まれるはずです。それ無しに「違う」と言う語りは正に「違う」「違う」と言っているに過ぎないかも知れません。「違い」が難しいのと同じぐらい「同じ」も難しいでしょうし、先ほど書いたように「同じ」と「違う」は表裏一体です。/高橋氏の反論にはこういう点で「違う」を考えるための同一性や、対象内部の差異が含まれていると思います。それをマッピングし整理することが野嵜氏が「違い」について深く考えるために必要な作業だと思うのですが、いかがでしょう?
完全にスタイルシートでデザインされた、自作ツールによるウェブログを運営している。らしいのだが。Operaでプラグインを無效にしてゐると先に進めないし、有效にしてもFlashで表示される文字が小さくて(環境によつては)讀み辛い。
今年は毎週土曜日が登校日です。
大宗派の宗祖を出た順から例外扱いしていいのなら、そんな理論は確かに反論のしようがなく無敵だ。
順なんて言つてゐるし。高橋氏が、物事を「質」の觀點から捉へられず、「量」の觀點からのみ捉へてゐる事は明か。「順番」に話を還元してしまふ高橋氏のやり方こそ、
乱暴だよな。
即身成仏と他力本願じゃ方向性としてカトリックとプロテスタントの違いに劣らず違う教えだろうに。
日々の生活に追われ厳しい修行など出来るわけも無い普通の庶民を直接射程に収めた浄土宗の新しさを「量の問題」と切って捨てるなら、律法から信仰へというキリストの教えだって単に「量の問題」になってしまうだろう。
日蓮は難しい。絶対の真理を主張するなら、どうしても、他の教えとは対立しがちだ。
絶対の真理だと信じたのかを説明しろと言はれても、高橋氏は、
日蓮の信仰が導いたひとつの結果以上の事を言へないと思ふ。そして、實際のところ、日蓮が自分の思想を
絶対の真理だと信じてゐたとしたら、後ろ楯になるものは何もない、やつぱり思ひ込みだつたのだとしか言ひやうがない。
一向宗が政治的である程度にはカトリックやプロテスタントも政治的だろうに、なぜ一向宗だけ政治に回収しようとするのか。
ヨーロッパ基層文化を形成しているものが「ヘブライズム・ヘレニズム」文化だけだと考えるのは大間違いで、最近の研究ではそれに加えて「ケルト・ゲルマン」文化も折り重なっていることが指摘されています。
まずキリスト教を理解してからと言うのは、有理数の前に自然数を全部数え上げてからと言うぐらい無理があると思います。
ロレンスぐらい読め→はぁ?あんたこそAIRぐらいやれ→そんなものやるに値しない
つうか、ロレンスやらの具体的な一著述に根拠をとろうとする彼にくらべたら、俺はずっと一般的な話をしてるはずなんだけど、これを専門的って言われたら困る。
パスカルも怒ってるしね。
じゃあ、なんでシェイクスピアなんですか?
結局「キリスト教社会から出てゐる」からで終わらせるのであれば、キリスト教と近代思想について何を言っても無駄ですな。
終わらせるなのだらう。そこが出發點ではないのか、と言つてゐるのだが。
コードや文脈ってのは鍵カッコを外せるけど、野嵜さんの「キリスト教的」からは間違っても外せない。
真言宗と浄土真宗の違いが「細かすぎる」ってのは、本気で言ってるんですか?
単に、貴方が聞く耳を持つ言葉を選んでいるだけです。
聞く耳を持つと、どうして高橋氏は判斷出來るんだ? 高橋氏には、相手の意圖が判つてしまふのか? なのに、なぜ「筆者の意圖はわからない」と言つたんだ?
ちなみに、景教は仏教にも色々影響を残しているようなのですが、云々。
日本が近代において抱えた問題が仮に何かの対立に由来しているとして、それは非キリスト教とキリスト教という枠組みでとらえるべき問題なのかどうかが疑問なのです。
枠組みでとらえるべき問題だと、高橋氏は考へてゐるのですか? また、「キリスト教は對立の根元にない」と言ふにしても、理由が「恣意的だ」と云ふ極附けだけであるのは、何うかと思ひますね。
鎌倉新仏教は既存仏教への批判から始まったのだし、旧勢力から危険視され、時には迫害もされたのだが。
そこから時代が下って、明治の廃仏毀釈が起こった訳だけど、「たいした問題ではない」で済まされるようなものではなかったわけで。
こんなの、高校レベルの歴史の知識だ。ちゃんと調べればもっといろんなことが分かる。専門的で細かい話なんてしてないよ?
どこまでがキリスト教文化でしか通用しない話でどこまでがそうではないのかを量る議論において、
「でも結局キリスト教文化から出たんだろ、だからキリスト教的なんだ」とやるのは
あなたの「キリスト教的」は、キリスト教ではない、といっている。
文化の観点から見ても全然違うっての。仏教宗派の違いを、単に僧侶の間の学問的ないさかいに過ぎないとか思ってるの?
貴方が「論理」(これもどうやら鍵カッコを取れない概念のようだけど)に固執しているというのは、文章レベルで何度も表明されてますからね。
単に貴方の枠組を批判しているだけなので、別に代案は必要ないでしょう。貴方の恣意的な枠組が何を目指しているのかは分からないけど、その過程で出てくる乱暴なやり方に俺は怒ってるんですよ。
貴方の枠組等と云ふ亂暴な言ひ方をしておいて、何が
乱暴なやり方だ。「文脈」だ「コード」だと、高橋氏は言葉の遣ひ方が
乱暴ぢやないか。
個々の信徒の意識のレベルを、「質」ではなく「量」のレヴェルだと高橋氏が考へてゐる事だ。この時點で、高橋氏の精神と云ふものに對する考へ方が示されてゐる。高橋氏は、精神は量的に扱へるものである、と考へてゐる。明かに、高橋氏は精神を物質と同じやうに考へてゐる。高橋氏は、唯物論者である。
その辺が、キリスト教の影響を受けていると言われるわけで
戦国大名と10年も渡りあった、一向宗なんてのもあったわけですが。
日本の近代化には、外国から取り入れられなかった何かがある、というのには同意できるのです。ただ、それを「キリスト教=西欧」に集約してしまうのは乱暴すぎると。
で、具体的にどのようなものなのかを、一神教性とか超越性(俺はよくわからんけど超越論性ってのもあるの?)とか近代二元論とか、わけて考えていこうと。
乱暴なやり方だ。
西欧の文化的コードを理解すべきだという意味では、同意できます。でも彼の言う「西欧」は色々抜けてそうですけどね。経験論とか唯名論とか、プラグマティズムとか実証主義とか、ちゃんと押さえてるのかなあ。
西欧文化のコードと呼べるような特定の傾向は、多分あるでしょう。それに、キリスト教は確かに深く関係している。でも、それは別のものであり、どちらがどちらを内包するわけでもないと。だから、西欧⊃キリスト教でも西欧⊂キリスト教でもない。どちらからもこぼれ出るものがあると。そして、近代思想や科学にはそのこぼれ出ているものの影響がとても大きいと。
こぼれ出るものの影響の大きさよりも、キリスト教の影響の大きさの方が、大きいに決つてゐるでせう。と言ふか、高橋氏は、どうして傳統よりも異端に固執しますか。その邊の高橋氏の選擇、恣意的と言ふか、趣味的と言ふか、とにかく出たら目だと思ひますがねえ。
虚構は、ここでは、嘘という意味ではない。言語学の方法論というのは、こういう虚構を必要とする。そして、この虚構がなければ、果てしない混乱になるし、私は白川静の漢字研究はその混乱の果てであると考えている。
時枝誠記の認識論とまざったヘンテコな文法論を三浦つとむが展開し、吉本隆明がさらにスターリン言語論のように発展させても、それは、近代言語学とは関係ない。
混乱を避ける爲にソシュールは言語の記号的側面である「ラング」を言語から抽出し、記號學として混亂のない體系を作れると考へた。それは確かにさうだ。だが、そこで切捨てられたものが、言語にとつて無用のものであるとは言へない。もちろん、そこでは混亂が存在するが、その混亂を含んだトータルなものとして言語を捉へなければ、言語をありのままに知る事にはなるまい。
ひどい言い方をすれば、その内容はどうでもいいのだ。とまでは言い過ぎか。しかし、日本人が儒学を中国から輸入したと思い込み、論語だの研究しているが、同時代の中国人はそうした古代的な儒学などすでに廃棄している。儒教とは道教のバリエーションなのだ。ちょっと極言するが、朱子学とは道教なのである。
<dl> <dt>投稿者名</dt> <dt>日時</dt> <dd>本文</dd> <dd>……</dd> <dd>本文</dd> …… <dt>投稿者名</dt> <dt>日時</dt> <dd>本文</dd> <dd>……</dd> <dd>本文</dd> </dl>
その「キリスト教的」なる概念も、結局、実際にキリスト教圏で起きたこと、という以上の理論を必要としない、単に帰納的に定義されるものにすぎないようだしね。高校で習うことだけど、数学的帰納法以外の帰納的推論は論理的には間違いです。注意。
そっち方面の西洋哲学の成果には、野嵜さんが後生大事にしている「普遍」というものに懐疑的なものもたくさんあるんだけどね。
日本に限っても、仏教宗派はたくさんある。例えばうちのおとんの家は真言宗、おかんの家は浄土真宗なわけですが、真言宗と浄土真宗とで比較すると、同じ仏教だからと簡単に割り切ってしまえるものではない。本尊も違えば価値観も違うし、風習もいろいろ違う。やはり違う宗派であり、個別に学ばないと難しいと思う。
前にも言ったし、話がループするのはやなのですが<自由についてどう考えているか 法的・政治的な権利とは、目的達成のための道具です。そもそも政治自体が、個々人がそれぞれの目的を達成するための道具です。
野嵜さんが言う「キリスト教的」というのは、「キリスト教社会の現象」のことなのですか? だとすれば、歴史的に自然科学も近代思想もキリスト教社会から発生した以上、それがどの程度キリスト教の特性に依存してるかの議論をまったく行う必要なくそれは「キリスト教的」だということになってしまいます。激しく徒労感。
どの程度キリスト教の特性に依存してるかの議論は既にされてゐるんだけどな。何でもかんでもキリスト教的と言つてゐるんぢやないんだどな。全然解らうとしてゐないよ、高橋氏。徒勞感を覺えてゐるのはこつちだよ。どうしてわからないんだらう。
ラノベの読者層とギャルゲやエロゲのユーザ層はそこそこ重なってると思いますがね。
流行を拒否し、普遍的な価値の為に物を書く。えらくゴシックな純文学指向ですなあ。本当はそちらがやりたいんですか?
野嵜さんには、オタ文芸評論の用語は全部「隠語」なんでしょうね。
使うとなにごとか素敵なものを語った錯覚しやすいのが怖い。と指摘されてゐるだらう? あんたもほかの人も、その手の言葉をわかつて使つてゐるのかね。言葉を「それつぽくきこえる」から使ふ、と云ふのでは困るんだよ。
- impart, transmit (news, heat, motion, feelings, disease, ideas,etc.).
- succeed in conveying information.
- (often followed by with) relate socially; havedealings.
- be connected.
何かを学ぶためには成功と失敗の両方の応答が必要です。以下の文章は、説得術の話ですか?
それも前に言いましたが、「エロゲを書きたいし読みたい」それだけです。
議論をつめたところで「キリスト教社会の現象ですよ」で全てをぶちこわしにするのはやめてくださいよ。
近代以前のカトリックの哲学において、二元論はどちらかの優位の元に回収されていた。
近代の二元論はそのように一元的に解決せずに問題を分離するところに新しさがある。
選択肢にこだわるゲームの読み方も、今のゲーム表現を語る上ではちょっと古いかと。
では、頑張って流行に乗らずシェイクスピアみたいなのを徹底的にやればいかがですか? ラノベやアニメなんかやってないで。
貴方の「キリスト教的」よりはよほどちゃんとした用語だと思うけどね。<文脈とかコードとか。
貴方の「西欧的」「キリスト教的」なる概念はいっぺん崩壊させたほうがいいと思う。
自分の国の文化のことなのに、あまりに大雑把すぎませんか?
たまたま日本人と似ているだけで、それも西洋思想ですよ、と言ってるのだけど。
それを無理矢理「日本的」の側に分類し、「西欧的」だの「キリスト教的」だのという怪しい概念との対立構造をしたてようとしているのは、貴方のほうでしょうに。
真言宗やら浄土真宗やら禅宗やらについて、高校の日本史で習う程度の概略的理解でも、その違いは分かるはずだ。即身成仏とか悪人正機説とか、そのくらいの言葉は知ってるでしょう?
俺が論理論理と言うようになったのは、単に貴方に対して強度を持つ言葉は論理しかないようだと理解したからです。俺自身が論理性を重視しているのではまったくないですよ。
論理学ってのは、本気で追求するなら、そもそもおそろしく専門的で難しいものなんですよ。
例えば、さすがに高校では習わないかもしれないけど、キリスト教と仏教について語ろうというなら、「景教」についても一定の見解が欲しいところではある。
専門的?とか細かい言葉遣ひをつついて揚げ足を取るばかりで、こちらの言つてゐる事を全體として把握しようとしない。
まず、漢字であれ、それが言語なら言語を扱う原則に従わなくてはいけない。それは、言語とは「音」であって、漢字などは「表記(Writing System)」だということだ。だから、漢字の意味というのは、「音」に付属するのものである。そして、表記は音を写し取る性質を持つ。
言語というのはソーシュールの言うラングである。ラングは音の体系だが、以上のように、表記の体系は音から写像されるものだ。
漢字が呪術的な符号であるとき、それは、言語の表記システムではない、ということが重要だ。呪術符号なら、それは、謎の神秘的な概念を表すのであり、特定の呪術集団のなかでその理解のレベルが階層化される。例えば、その教団の師匠のみが「器」なる呪術の意味を体得しているが、平信徒にはその意味が卑近にしかわからない、といった感じだ。つまり、ここにはコミュニケーションのモデルがない。共通に理解できるコードにはなっていないのだ。
漢字の起源にそのようなものが関係しているとしても、我々東洋人が継承している漢字について言えば、そんな呪術は無意味なのである。
つまり、呪術的なレベルでの漢字の研究は、漢字が言語の表記システムであるという点から見れば、まったく無意味な作業なのだ。とこの文章の筆者は斷定的に述べてゐますが、亂暴な話です。言語は、ソシュール風に言へば、音と意味との結合したものなのだから、音だけに基いて言語を考へてはいけないのです。
あるいは、その作業を行うなら、その呪術集団を特徴づけるしかなく、しかも、その呪術集団の単一性は保証すらされていないのだ。
漢字の研究は、それが、表記システムとして共通のコード化された状態をいわばラングのように、共時システムとして取り出し、そのモデルのなかで、まず音と意味のネットワークが考察されなくてはならない。端的に言えば、漢字の語源は、音に意味を与えなくてはいけない。
さらに、漢字は表記システムとしては、つねに、リプレースしていく性質を持つ。つまり、より単純な代替文字や、より頻繁な文字に置き換わる性質がある。これは、おかしなことに現代日本でも行われているが、ある意味で、漢字という表記システムの持つ自然的な傾向なのだ。
2ちゃんねるで白川静が「と」じゃねーのということで話題になっていた。ふーんという感じだ。やっぱ、白川静は「と」だと思う人は少くないようだ。やっぱなと思う。と言つてゐるけれども、元のスレ(http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/kobun/996415552/)を見ると、白川氏は「と」ではない、と云ふ話になつてゐるんだなこれが。
俺が今問題にしている「表現の自由」は、法や政治思想を展開する上で定義される規約に過ぎない。その外でまるで実在するもののようにそれについて考えることには興味が無い。
問題にしなければならないのか、と云ふ質問を躱すのが目的でこんな事を言つてゐるんぢやないでせうね。高橋氏、どう云ふ訣か自分の意圖とか動機とかを匿すのが好きなやうですが、「怪しい」と見られても知りませんよ。詐欺師は、常に善意を裝つて儲け話を持つて來ます。騙されない爲に、人は儲け話の有效性と同時に、儲け話を持つて來た人間の目的を疑ふものです。そして、高橋氏も私の目的を「政治的ではないか」と勘繰りました。當然、高橋氏の目的も、勘繰られるべきでせう。そこで
その外でまるで実在するもののようにそれについて考えることには興味が無い。と宣言したとしても、信用されるものではないでせう。
それは、日常生活におけるサッカーのハンドのルールについて考えているようなものだ。
法や政治思想の「規約」が
法や政治思想の中でしか通用しないものであるとは考へられないからだ。
法や政治思想について考へる事はナンセンスである」と言ふ事だつて出來てしまふのだが、それについて高橋氏は何う考へますか。
二元論というのが、西欧近代を支えた心身二元論のことなら、それはデカルトの発明であり、キリスト教の最初からの本質と見るのは無理では。
心身二元論は、キリスト教的な二元論から派生したものに過ぎない。と言ふより、キリスト教社會では、二元論的に物事を把握する事が多い、と云ふ事。と言ふか、キリスト教社會で二元論的に考へる習慣があるから、デカルトも二元論的な發想をした、と云ふだけの話だ。デカルトは「發明などしてゐない」と言ふ事も出來る。デカルト以前から、二元論は「あつた」のだから。
ちょっと昔ならエヴァ的な表現とかも流行りましたけど、これも、原典を知らずに面白い表現だと評価すればそれは阿呆でしょうよ
反論を想定するのは私も事実として肯定しています。反論以外の相手の反応を想定しているかが問題です。「そうか!とうとう分かってくれたか!友よ!」という類の野嵜氏の反応を想像できないのですが、それは私の偏見でしょうか。
野嵜氏の自己言及的な認識=意味の次元で見るとそうなるでしょうね。でも、コミュニケーションによって何が起きているかという現象のレベルで見ると、私のような解釈になります。
いつの間にか焼き鳥が赤いキツネになった模様だ。
それはパロールの問題だろう。総じて、ラングとパロールの違いを理解されていない印象を受ける。
私が述べたのは、漢字の研究を言語の研究にするということ。
音素をたまたまアルファベットのような記号で表記するだけで、諸言語に適応できる、と言つてゐるが、表記言語は音聲言語の影ではない。と言ふか、音素についての研究を、漢字の研究の批判に使ふのは、どうかしてゐると思ふ。漢字は音素を寫したものではないのだから。
白川静が音を考慮していないわけでもないということなど、当方、知ってはいるが捨象している部分でもある。
捨象をしてする批判が、正當な批判になるのだらうか。なる訣がないだらう。「俺は白川氏の××を無視する。すると白川氏は××について觸れてゐない事になる。だから白川氏は間違つてゐる」――かう云ふ論法が「トンデモ」である事は明かである。
また、極東ブログのこの見解は、欧米の言語学の基本原理のままだが、中国語学なり漢字の学では異端であるだろうとも思う。
欧米の言語学が、本來の歐米の言語學と全然異るものである事も指摘しておく必要がある。
一点目は、漢字を考えるとき、それをラングから見るということだ。
闇黒日記の批判点の大半はパロールの領域なので、問題点を失当している印象を受けた。
音声言語とはspeechであろうか。記述言語とはdescriptive languageということだろうか。
私は漢字を、古代中国語の音と意味の組織であるラングとして(その写像として)捕らえるべきだと前回主張した。暗黒日記の指摘は確かにそれに真っ向から対立する。
というのは、私は漢字の体系を音の体系の写像としているので、日本人がそれを受容することはありえないと考える。
日本人が受容したのは、その表意性の記号である。
表意性の記号なる言ひ方は、ソシュールの「ラングの學問」では成立たない。
ソーシュールの言語学は西洋のアルファベットなどベースとしてはいない。音素表記の記号がアルファベットに似ているというだけだ。
例えば、"I love you."という表記で、Iを「われ」、loveを「このむ」、youを「そなた」と日本語で訓じれば、同じことなのである。と書いてゐる人間に對する批判とならう。
漢字が意味を表しているというのは当たり前だろう。だが、同時にそれは不十分な対応ではあるが音を表している。そして、ここが重要なのだが、漢字の意味とは、その音が担っているのである。
不十分な対応ではあるが、と云ふ言ひ方をしてゐる時點で「ごまかしがある」と言へる。しかし、同時に、ここが重要なのだが、白川氏は、漢字の音が擔つてゐる意味ではなく、漢字の語形が擔つてゐる意味について、研究したのである。
くどいようだが、漢字の意味とは、漢字の字面が担っているのではなく、それをどう読むか、つまり音価を与えるか、によって、初めて、コードとして成立するのだ。
コードとして成立するかどうかは、例の「コミュニケーション」の議論と一緒で、「通じなければ言語ではない」と云ふ考へ方である。しかし、これがナンセンスな説なのである。漢字で書かれた文章を、我々は音自體で理解する事が無いからである。本人も、
あまりいい例ではないが、と言つてゐて、實際、當人にとつては良くない例なのだが、
例えば、日本語で「その人の話を聞く」と「その人に訊く」では後者は文科省的ではないが、漢字表記を便法にして意味を分けて表記できる。だが、日本語というラングのレベルでは同じく「きく」であって、それが多義的な意味を持つだけだ。と書いてゐる。この
多義的な意味を持つの意味の多義性を、「同じ『きく』」であると看做す事、これがそもそもごまかしである。明かに、「聞く」と「訊く」とでは、意味が異つてゐる。そして、その意味の違ひは、書かれた文字によつて理解出來る。別の言ひ方をすると、「音聲レヴェルで區別出來ない」のは、「同じ意味なのである」と云ふ事ではなく、「音聲が同じである」と云ふだけの話である。そして、漢字の意味の違ひは、字形の違ひに基いてゐる。ならば、我々は、字形の違ひに注目しなければならない。今、ラングの側面に注目しても、何も出て來はしない。寧ろ、ラングのレヴェルで「同じ」ものを、なぜ漢字では別に書かなければならないのか、と考へ始めるべきである。そもそも、支那の文字である漢字について、「訓讀み」で「同じ」とか「違ふ」とか言つても始まらない。支那では、「聞」と「訊」とでは、もともと意味が違ふのである。
いい例ではない。漢字は、支那では長い事、漢文を作るのに使はれた。そして、漢文は、口語とは全然違ふものだつたのである。日本でも、漢文の讀み下し文と、口語の文章とは異る。支那でも、漢文と、白話とは異る。
くどいが、音価のない漢字はコードとして存在しえないのである。と書いてゐるが、實際のところ、漢字が音と獨立してゐるから、別の地方の別の言葉を用ゐる人同士が意思疎通をはかるのに、漢文を媒介に出來たのである。日本で漢文調の文章が使はれたのも、參勤交代で江戸に出てきた地方の武士が、互ひに言葉が違つて話が出來ないので、事實上の標準語として使用したのだ、と云ふ話がある。
だから、漢字の語源というとき、一義的に問題となるのは、その漢字の音の持つ意味であり、その音がどのように漢字の形態に組み合わされたり、表意性において補足されているかということが研究の課題になる。
捨象する事になつてしまふ。「ラングの學問」の觀點ではそれで十分なのだらうが、ラングは飽くまで言語を構成する一部分である。言語をトータルな形で理解する爲には、分析の爲に捨象されてきたものを掬ひ上げる事が必要なのではないか――さう云ふ理由で、白川氏は意圖的に「ラングの學問」と異る方法論を採用したのだらう、と私は考へてゐる。その邊の白川氏の意圖も、理解してはいただけないだらうか。
野嵜さんが法的でも政治的でもない文脈で使っている「表現の自由」という概念を俺は知らないし、興味もないのです。/
「表現の自由」が問題になるのは法的政治的な文脈でしかありえないでしょう。
デカルトの心身二元論は、カトリックの枠内に収まるものではありませんよ。
今のオタ文芸評論は、ときメモを語る前にKeyやageやニトロプラスやTYPE−MOONを語るのですよ。
オタ文芸評論をやつてゐる連中と、ライトノヴェルの讀者とは、一致しませんよ。
(一部の)エロゲこそが、今のオタ文化の流行発信基地だ。
暗黙に自分の育った頃の文脈やコードを前提にしてしまい、年を取るごとに若い作品が分からなくなっていく。
使うとなにごとか素敵なものを語った錯覚しやすいのが怖い。、と云ふ指摘もありますが。
文章の中での文の続きぐあい。また、文の中での語の続きぐあい。のやうな常識的な意味で、「コード」は「電線」や「ケーブルの親戚」みたいな具體的なものの名稱として、使ひたいですね。「隱語」は良くないですよ、文藝的な「隱語」もです。仲間内でしか通用しないものですから。音樂の用語としてもコードつてありましたが、それはそれで問題はないと思ひますが、文藝用語としては如何かと。
十年前の文脈で今採点されても困ります。
あるいは、作品構成や文章技巧などの純粋に技術的な評価だけなら時流と関係なく出来るかもしれない。でもそちらのサイト上の作品にもしご自身で満足されているのであれば、野嵜さんに技術的評価能力があるかは疑わしい。
アインシュタインの神とキリスト教の神も、神道の神とキリスト教の神と同様、イコールではありませんが。
貴方の言う「キリスト教的」が、現実のキリスト教そのものではない以上、そこが説明されないと、何がキリスト教的かというのが貴方の恣意的判断でしかなくなる。
都合よく論理性を採用したり放棄したりするのは
都合よく、と云ふ私の意圖を推測したやうな言ひ方をするのは、そもそも高橋氏の「他人の意圖は推測不可能である」と云ふ主張に反します。
道徳と政治を峻別する際の貴方の基準が、恣意ではなく論理的必然であると証明できればいいんですけどね。と言つてゐるのは腰碎け。この時點で、高橋氏が「假定を根據に斷定的な結論を下す」誤を冒してゐる事は明か。私の政治と道徳の峻別は、キリストのやつた事の眞似だから、私が恣意的だと非難したいのなら、高橋氏は、そもそもキリストが恣意的だつたと證明するか、私がキリストを眞似し損ねてゐると證明するかしなければなりません。そのいづれも、高橋氏はしてゐません。
僕が野嵜さんをファシスト(全体主義者)と呼んだのは、人権を制限することに関する物言いの粗雑さに対してです。個人の人権を、社会全体の利益(秩序や道徳など)のために犠牲にしようという考え方は、全体主義的です。
人をファシストとののしる以上、俺はそれなりに考えてやりましたよ。貴方の脊髄反射的なレッテル貼りと一緒にしないで下さい。
脊髄反射的なレッテル貼りを他人の所爲にしてゐるのだ。
人をファシストとののしる以上、俺はそれなりに考えてやりましたよ。貴方の脊髄反射的なレッテル貼りと一緒にしないで下さい。と云ふ末尾の文章の文體が、非常に多くの事を語つてゐる事にも注意。と言ふか、「貴方」と言ひ始めた時點で、高橋氏はキレ始めたな、と思つた。
貴方の言う「キリスト教的」を定義する責任は貴方にあると思うのだけど、「我と汝」という本のどこかにその定義が載っているのですか?
キリストはもちろん恣意的だったでしょう。彼の目的は救うことで、教義の論理性を求めることではなかった。それはもうちょっと後の人々の仕事だ。キリスト教は宗教ですよ。科学ではない。例えば三位一体説などが定まったのはだいぶ後で、キリストやペテロ・パウロの時代にはその辺は未解決なままだったわけで。
なんぢらの中、罪なき者まづ石を擲て。にしても、「神のものは神へ返せ。カイザルのものはカイザルへ返せ」にしても、理窟以外の何物でもない。我々が驚くべきは、ユダヤ教の教義に精通した人間を相手に、大工の息子が理窟で對抗し、負けなかつた事だ。そして、最後にキリストは、理窟ではなく輿論によつて十字架に掛けられるのだが、三日後に復活する。キリスト教を信ずるとは、キリストの復活を認める事が、何よりの條件だ。そして、「キリストの復活を信ずる」とは、「輿論や通念のやうな地上の價値ではなく、理念や眞實の永遠・永久なる價値を信ずる」と云ふ事にほかならない。
個人の人権を制限できるのは、他の個人の人権との調整によってだけであり、その調整機能を指して言う言葉が「公共の利益」である、というのが、現代的なリベラリズムの解釈です。
その調整を行はなければならない理由と、實際に行ふ主體が何かと云ふ事とを考察すべきではないですか。
自由や権利はあくまで道具なのであって、それ自体の価値を感じたりそれ自体に満足したりは目的ではない。俺の満足は目的達成の中にありそれを許す自由の中にはない。
達成したい
目的は何ですか?
他の個人の人権との調整を行はず、「自己の人權」の無限の擴大を目指すのが當り前となるからです。「それでは快樂を失ふかも知れないから、妥協として
他の個人の人権との調整を容認してゐるだけである」と云ふのならば、「目的の達成」が常に不十分となるのは自明です。結果として、自由主義者は常に不満を鬱積させてゐる、と云ふ事になります。そんな「自由主義」なんて、御免ですね。實際のところ、その種の「消極的な自由主義」を、現代の自由主義は乘越えてゐる筈です。が、やはり「外發的」な理由で自由主義を受容れたに過ぎない日本人にとつて、生き方と密接にかかはる現代的な自由主義は依然、血肉化してゐない、と思ひます。
しかし、野嵜氏の反応を見るに高橋氏の誤解は予期せぬアクシデントどころか、誤解を期待しそれに対応した反応をあらかじめ用意しているように思える。既に一般的な戦略として確立しているようだ。
個人の人権を、社会全体の利益(秩序や道徳など)のために犠牲にしようという考え方は、全体主義的です。
一神教性について話したいのなら、単に「一神教的」と言えばいい。
全ての人の権利を同時に完全に満たすことが出来ない以上、どうしても、法に基づいて公正に裁定する必要がある。それが「公共の福祉」
キリストのある種の論理性を別に否定はしませんよ。それはそれとして、例えばテルトゥリアヌスとかは、「不合理なるがゆえに我信ず」というようなことを言ったりもするわけです。
そもそも、公案は、座禅と同様、禅宗の修行の一環ですよ。学術論文のようにそれだけ取り出して論理性を云々言うためのものではない。主旨が違う。
主旨が違うのは當り前の話で、指摘されるまでもありませんが、だからといつて、それだけ取出して論理性を評價しようとする事が許されないとは、をかしな話です。そもそも、さう言ふ高橋氏自身が、西歐由來の科學とか自由主義とかを、西歐の傳統と切離して論じようと言つてゐるのですから妙です。
巷の研究書とか読んで欲しいのですが、非論理的なのは欠陥ではなく意図的なものです。
信仰が民衆に根をおろすということと、教義体系が学問として理解されると言うこととは違う、と言っているのですが。キリスト教は、一部の学問を修めることの出来る専門家だけを救う教えではない。むしろそういう考え方への批判から始まっていて、だからこそ世界宗教になりえたのです。
そもそも貴方の言う論理学=ギリシャ哲学は、キリスト教的という言葉でくくれるものではない、と言っているのですが。
アリストテレスにしてもプラトンにしてもそうですが、哲学をなんとか馴致してカトリックに取り込むその過程で異端はたくさん生まれたし、そこまで行かずとも理性や真理に関する異論もたくさん生まれた。それら正統カトリックには弾かれた思想も後の西洋哲学の歴史には生きています。
近代以降の哲学者達の考えた「神」は、教義による束縛を受けていないので、キリスト教の枠内にはありません。例えばアインシュタインの想定したのは、宗派を超えた非人格的な神、いわゆる宇宙的宗教です。
そういう深衣奈の気付いた意味のいかにも発展途上な未熟さに、同じ目線から感心は出来ないなあ、と言ってるのですが。
というか、こんな一連の解釈はお約束の範疇、今風のギャルゲのコードに過ぎない。
物語的主題には興味が無いなー。意圖も主題も、解つてたまるかと言つたところ。
便利な言葉ですが、つまり貴方が当然だと認定するだけで、どのような政治的主張も政治的主張ではなくなる、ということを言いたいのですか?
貴方の政治主義反対は、貴方が当然の事と認めた以外の政治的主張への反対であり、貴方が当然の事と認めたところの、実際には単なる政治的主張を特権化する、批判性をあらかじめ欠如させた政治主義でしかないのではないか、と俺は思っています。
それが仮に真だとして、そこから「反対者を常にファシストと決め付けるものは、コミュニストである」は導けませんし、「高橋は野嵜をファシストと決め付けた」から「高橋は反対者を常にファシストと決めつける」も導けません。
元の文面をよく読んで欲しいのですが、俺は貧乏人と裕福な人間の間での「フェアな」経済闘争の話なんかしていない。
聖化という言葉を俺は知りませんが、目的が手段を正当化するということならマキャベリですし、(目的ではなく)結果が手段を正当化するという意見にならまた別の人々が同意するでしょう。
えーと、俺は別にコミュニストだと言われてなんら困りはしないので好きにしてくれていいのですが、
疑問をさしはさみたいのかなと。高橋氏の意圖が謎。俺としては、高橋氏の政治的信條も何もどうでも良いけれども、高橋氏の個人的な面は良く理解したいと思つてゐる。
公案に分かりやすい論理性があったら、単に理解されちゃって、修行の題材にならんでしょうということなんだけど。
野嵜さんの言う「キリスト教的」は、むしろ「一神教的」と言い換えたほうが良くないかな。
「普遍」の実在に懐疑的な哲学もまた西洋の伝統です。
なるほど作劇的面白さの話なんですか。にしても、表層的ですなあ。
後半も前半と同程度にはシチュエーションの提示に過ぎないと思うけど。
野嵜さん、貴方はONE,Kanon,AIRをやったことがないのではないですか?
妙にラノベの一次選考に詳しく、そういうコンテンツまで書いて人を指導している野嵜さんは、もしかして下読み委員とかやってるんですか?
俺のほうでは野嵜さんに共産主義者と呼ばれようが別にどうでもいいので構わないのだけど、共産主義者のほうでは嫌がられるかと。こいつと一緒にすんなと。
ただ、コミュニズムという枠内に野嵜さんが押し込めて否定したがっているものが何なのかには注目しているわけで。
論理性にどこまで厳密も何もありません。どのようなくだらないものであれ誤謬は許されないのが論理です。もちろん、一般的な(数学的帰納法ではない)帰納的推論は、論理的には正しくありません。
貴方の道徳性/政治性の分節に疑問があると、これはだいぶ前から指摘していると思うのですが、それが疑う余地なき超越的真理であり、だから道徳的主張は政治的主張にならない、といいたいのであれば、俺から見ればまさしく「批判性をあらかじめ欠如させた政治主義」でしかない。貴方は政治的な反動主義者と距離を取っているおつもりなのでしょうが、反動主義的政治傾向のある人がその理屈でどんどん政治性を道徳性へと読み替えて取り込んでいけば、まさしくただの反動主義者の出来上がりですよ。
「コミュニストはマキャベリストである」が仮に真だったとして、そこから「マキャベリストはコミュニストである」は導けない。ワンパターンですが、論理性とはこういうものなのです。
貴方の結論であるところの、僕がコミュニストである、ということには、別にそれほど反発する必要は無いのですが、その際に使われている貴方の論法にいろいろ疑問点があるということです。
何を目標にしているの?と言はれても、小林秀雄氏、福田恆存氏、松原正氏、T.S.エリオット、D.H.ロレンス、と言つた名前はもう擧げた筈だが。
# Kuroneko 『野嵜氏は、論理的一貫性へ非常にこだわってるらしいのに、曖昧な概念をほったらかして恣意的に論を進めてるあたりは、ちょっと呆れますね。「日本人のキリスト教徒」を否定する前に、まずは「日本人」とやらを論理的に定義して見せてくれと言いたくなる。前提の検証の無い論理なんて一体何の意味があるんだ。』
おっちょこちょいだの
曖昧だのと非難されるのだらうけれども、クリアでない事は言つてゐないし、穴のある理窟も述べてゐない。
反動的政治偏向へと屡々直結するのだけれども、さう云ふ政治的なものの重視は結局實利的なもの、目に見えるものの重視であり、日本人的な發想に基くから生ずる。俺は、「日本人は、西歐的な『目に見えないもの』を重視する考へ方も學ぶべきだ」と云ふ事を訴へる立場から、ものを言つてゐる積りであり、政治的な利益しか考へない反動主義には同調する積りもない。
さて我々は、これらの専門家が、数学と論理学の領域では異なった体系があって、ある命題は一つの体系では真であるが、他の体系では偽でありうる、と言っていることが事実であると認めることにしましょう。その場合直ちに、何が我々をしてこれらの体系のうちのあるものを選ばせ、他のものを選ばせないのかという問いが生じます。それはやはり純粋の任意ではありません。物理学者は――たとえばアインシュタイン(Einstein)は、特定の幾何学を、それが彼にとって面白いからという理由で選んだのではありません。彼はそれに対する重大な根拠を持っていたのです。どのような根拠でしょうか? ここに、哲学的に大きな意義のある答えが浮び上がります。云々。
精神レベルの話にこだわったり、反動主義化を大喜びするよりはマシ。
マシとか、根據のない思ひ込みで話を進めるかなー? 説明しろと言つてゐるのに説明しないんだからな、この男は。
これで共産主義者だと呼びたいなら呼べばいいんじゃないの?とかほざいてゐるけど、高橋氏の言ふ「これ」なんてものを理由に高橋氏を「共産主義者」と呼んでゐるんぢやないんだから。反論にもなつてゐない。
文明開化が内発的か外発的かがそんなに問題なの?重要に決つてゐるだらうが。
そもそも、公正さをウリにした覚えは無いのだけど。詰り、高橋氏は公正な人間ではないと。そんな人間とまともに話を出來るかよ。
なんで「欧米」とは言わずに「西欧」なの?
公正さをウリにした覚えは無いとか言つて、自分が公正でないとはつきり言つちやつてゐるしさ。と言ふか、「俺は公正でない」と言つた時點で、高橋氏の主張の説得力はゼロになつてゐたりするんだけれどもな。
アメリカの何があの傲慢なグローバリズムを生んだのか
W3J.orgなる文字列は、果して見出しであると言つて良いものだらうか。
XML 1.1 and Namespaces in XML 1.1 Are W3C Recommendations
XML Infoset Second Edition Is a W3C Recommendation
XML 1.0 Third Edition Is a W3C Recommendation
今時誰かをアカ扱いすればそれで何かやりこめた気になれるってのも。いつの感覚だ。
じゃあ、世の中で公正な人とだけ話してればいいんじゃないですか?
論理性だけならカルト宗教だって持ってますよ。
現にいる日本人キリスト教徒の信仰を否定するわけですか?
真の民主主義を体得し、近代社会に適応異常を起こさないようにするために、みんなでキリスト教徒になろう! ……というのであれば、分かりやすく筋が通ってるのだが、そうではないのか。
日本人にはキリスト教も民主主義もどうせ無理なんだよと。それで、だからどうしろ、とおっしゃりたいので? 日本人に適応異常を起こさない、よりよい政治体制として、どのようなものを想定してるんで?
アメリカだって反動的な法案はいろいろ通ってるしね。そこは欧米がどうとか日本がどうとかいう問題ではない。
知識人の中にも、一般大衆にも、キリスト教を相対化できる人はいるでしょう。
規約主義的な論理学は、戦中〜戦後にかけてアメリカで急速に発展した、20世紀後半を決定付けた、とても実り多い思想なんだけど。
やたら論敵をコミュニスト呼ばわりしたがる上にことさら歴史における物理条件を軽視して情熱や精神性・信仰上の条件ばかり強調したがるものの考え方は反共的でしょう。別に今さら反共的だからといってどうとも思わないけれど。
お互い様説を唱へるのだから、好い氣なものだ。
あるひとが「プディングには塩が不可欠だ」と言ったところで、「プディングの調味には塩を砂糖より多く用いるべきだ」と言っていることにはなりません。たとえ、塩の重要性をどれほど強い語調で述べたとしても。
# Kuroneko 『「唯一の決定要因なんて無い」のところ、ものすごい同意なんですが、プディングの例えは、ちょっとフェアじゃないような。「歴史」と「プディング」では、あまりに自明性が異なります。「プディングには塩が不可欠だ」をプディングを一度も食ったことの無い人間に言ったらどうなるか。(つまらんツッコミですが)』
全てを捨てて相手の文脈に取り込まれる以外には理解さえ不可能な文脈というのがあるのでは。相手の文脈に取り込まれてしまっては、批判さえ出来ない。
俺としては、相手の磐石でどうあっても覆す気の無いだろう部分を弄るのは諦めて(そこは俺もそうだし)、細かいところをちくちくやってるつもりなんだけど。
細かいところをちくちくやって、それで相手(野嵜)の
磐石でどうあっても覆す気の無いだろう部分を完全否定するやうな眞似を高橋氏はしてゐるのだが、それに高橋氏は氣附いてゐない。そして、一方の高橋氏は、相手(俺)がしてゐる事を
細かいところをちくちくやってゐるだけの事だと極附けつゝ、自分の
磐石でどうあっても覆す気の無いだろう部分は絶對に讓らない積りでゐる。
いや、物質レベルでも西洋に追いついてないとか言ってたじゃないですか。
人の情熱や意思は、政治・経済・社会的条件が整って初めて有効になると言ってるわけですよ。坂本竜馬はすばらしく個性的で情熱的な人物だけど、彼が江戸幕府が磐石の時代に生まれていたらたいしたことは出来なかったでしょう。
たいしたこともせず歴史にも名を残さず死んでいった竜馬はおそらく何人もいたのではないかと。と高橋氏は述べる。名前の殘つてゐる人の力だけで歴史が動いて來た、と考へるならば、高橋氏の意見は正しい。
偉人ロマンなんて俺は言つてゐない訣で、それを高橋氏がわざわざ言出したのは、高橋氏にとつてその方が面白いからなのだらうけれども、單に間違つてゐるのだから仕方がない。と言ふか、俺が想定してゐない
偉人ロマンなんて觀念を持出す邊、却つて高橋氏の方がロマンティックである事を曝露してゐるやうなものなのだが。
漱石のそれらのテクストのどこに日本人の適応異常を見つけることが出来るのですか?
政治臭い、と云ふ御定まりの感想しか持てないやうな人に、
漱石の問題意識なんて解りはしないんでせうけれども。
これから日本の開化に移るのですが、はたして一般的の開化がそんなものであるならば、日本の開化も開化の一種だからそれでよかろうぢやないかでこの講演は済んでしまふ訳であります。がそこに一種特別な事情があつて、日本の開化はさういかない。
それで現代の日本の開化は前に述べた一般の開化とどこが違ふかと云ふのが問題です。もし一言にしてこの問題を決しようとするならば私はかう断じたい、西洋の開化(すなわち一般の開化)は内発的であつて、日本の現代の開化は外発的である。以下の「講演の本題」が重要なのだけれども、高橋氏はこの問題は既に解決濟みだと考へてゐるらしい。
物質レベルの話に拘つたり、
反動的な国になりつつあるなあ。やだやだ。と言つたりするのを見れば、高橋氏の立場はばればれのやうな氣もするけれども。
目立たずにネットで情報発信したいと宣言したなら、目立つ情報を
発信しない事が「礼儀」なのではないかと。
AさんとCさんが共存共栄するための技術的アイデアのやうな、飽くまで技術的な話では割とまともな檢討を出來るのに、禮儀とかマナーとかいつた話になるとをかしな意見しか出せない、と云ふのは、やはり、日本人の「西歐」への適應異常を示すものであると思ふ。此處で其處に話が繋がりますか。
で、西洋に本当に追いつくためには何百年か掛けて彼らの抑圧的な精神文化を追体験する必要があるということですか?
追体験しろとは言つてゐないし、しろと言つたつて誰も出來ないでせう。そもそも、
追いつけとも言つてゐない訣で。
西洋の相対的な優位と言うのが、多分その言い方だと「健全な民主主義」や「物質的な豊かさ」を指すんでしょうけど、それほどのもんですかね。
物質的な豊かさなんて言つてゐないし、
健全な民主主義にしても一例に過ぎない。
俺は、別に追いつけなくてもいいからこの気楽な日本のほうがいいな。
気楽な日本に、「児童ポルノ法」が出來さうになつたりならなかつたりしてゐる訣ですが。
思想が生まれるのにも、政治・経済・社会の変化は大きく影響しているということですよ。それを無視して安易な偉人伝風に何でも情熱に帰着しようとするのは、羹に懲りて膾を吹くというか、共産主義を忌諱しすぎて反共ロマン主義に陥ってますよ。
政治・経済・社会を無視しろとは言つてゐない訣で。寧ろ、人の意思なり情熱なりを積極的に無視してゐるのは高橋氏である訣で。
近代化に役に立つかどうかで哲学に点数をつけるのはどうかと思います。
日本人が起こしている適応異常とは、例えば何ですか?
なぜ人を殺してはいけないのか
文学作品から父権制度を読む読み方は面白いですが、俺の言動からフェミニズムを読み取ろうとしてもつまらないと思いますよ。
理性に対し抑圧に抑圧を重ねたからこそその反動として近代のヨーロッパの発展はあった、だからキリスト教のおかげなのだ、とおっしゃりたいわけですね?
近代に至る大きな要因に、教会の権力にかげりが見えたということがある。これもまた、政治的で経済的で社会的な現象です。
そもそも西洋の優位というのが、それほど絶対化出来るものなのかどうかは疑問です。せいぜいここ200年ほどの間のことではないですか。ここ50年なら日本も捨てたものではないのだし。
ところで、哲学性という意味なら仏教も相当なもんです。キリスト教をそこまで持ち上げた上で禅宗を非論理的と切って捨てるのは、仏教哲学を学んだ上で言っているのですか?
仏教哲学が何を指すのか、わかりません。支那の禅宗とインドのもともとの佛教とで既に異る「哲學」です。と言ふか、もともとの佛教からして「拈華微笑」なんて話が出て來るくらゐです。快や苦からの解脱、一切の執着から逃れる事が目的の宗教ですから、論理の徹底なんてものは二の次です。唐木順三が書いてゐる禅の問答は、感性的で、詩的なものです。それゆゑに「反近代」の立場から唐木は禅の思想を注目するに至つたのですが。
ですから、俺の意見をフェミニズムとして読もうとする野嵜さんに特にどうとも感じないのですが、ただ単に、間違ってるのではないかなあと。
父権制度なるものを讀まうとするのは間違つてゐないのですか。さうですか。
……自分は西欧的な思考を理解しようとするけれど、彼らが適応異常を起こさないためには、西欧的な思考を理解するよりも、システムの振る舞いを理解してそれに適応する方がいいと思う。……
システムの振る舞いは理解する人が、その背景にある
西欧的な思考を理解しないから、適應異常を起すのだと。
別に間違ってないと思いますけど?<文学作品から父権制度を読む
ですから、俺の意見をフェミニズムとして読もうとする野嵜さんに特にどうとも感じないのですが、ただ単に、間違ってるのではないかなあと。と言ふのは何うかと。
文学作品から父権制度を讀み取るのは間違ひでない、と云ふのは、一體全體どう云ふ事なのかと。
さて、この世界解釈のどこが日本的ですか?と高橋氏はとぼけてゐますが、如何にも日本人らしい西歐解釋ではないですか。
系の内的正しさは系自体が役に立つかどうかとは別問題なのです。と云ふ考へ方は、非常にありきたりの考へ方で、私には全く魅力が感じられません。實際のところ、論理自體は機械的な物でせう。しかし、それを扱ふのが人間である事を、私は聲を大にして言ひたい。
意味はプログラマによる構成とユーザの解釈によって発生します。論理そのものの表現の中にはない。と高橋氏は言つてゐますが、正にその論理を運用する人間には精神があるのであつて、それを言つてゐる訣です。
論理そのものの表現の中にはない。あるとしたら、明かに論理以外の範疇のものの中に、です。
やがて信仰と理性は分離され、そのおかげで理性は自由を得て、近代が始まります。と高橋氏は言つてゐます。この言ひ方が如何にも日本人らしい言ひ方である事に、高橋氏は絶對氣附いてゐない。高橋氏は、
分離され、と言つてゐます。高橋氏にしてみれば、信仰と理性は、誰かが分離したものではなく、分離されちやつたものなのです。
理性は自由を得て、も同樣、理性は勝手に自由を得てしまつたのであつて、誰かが積極的に理性に自由を與へたのではないのです。
「日本には××が存在しない」みたいな言い方を頻繁にしていると、「俺は日本人であることをやめられませんが何か?」みたいな開き直り的ナショナリズムを相手に起こさせるだけではないでしょうか。結果として自説を相手に理解させる機を逸しているように思えます。
野嵜さんが言っていることって、別に西洋だの日本だのという言い方をしなくても書くことができるし、むしろそうすることに意義があると思うのですが。
ところで「萌える」の文語表現は「萌ゆ」だから、名詞化した「萌え」の歴史的仮名遣いも「萌え」ではなくて「萌ゑ」ではないでしょうか?
ところで「好き」という形容動詞は「好く」という動詞が語源ですが、今では「好く」は死語です。
私は「したい」「べき」の世界に生きているのではなく「である」「する」の世界に生きています。等と言換へても、話は變らない。
珍字珍かな派とは「珍しいかなづかいを信じる」人のことだ、と多くの人が思っている。そういう珍字珍かな派も、確かにいる。しかし、「かなづかいをより珍しいものにしようと努力する」というのが、珍字珍かな派の持つべき思想であると私は考える。
「新字新かな」派に一掃された今となっては、「正字正かな」派など、我々「珍字珍かな」という巨大な軍勢の一部に過ぎないわけですが、と書いてゐる。俺がそのやうな理窟を認めてゐない事は自明である。俺は、支持者の多寡ではなく、原理のシステムとしての一貫性を、價値判斷の原則とすべきだと言つてゐる。シスプリネットの中の人はこの「改変コピペ」で、「自分の信ずる個人的な價値觀」にのみ基いて俺を罵つてゐるだけであつて、俺の理窟を全く否定してゐないし、俺の主張の矛盾を衝いてもゐない。
「新字新かな」派に一掃された今となっては、「正字正かな」派など、我々「珍字珍かな」という巨大な軍勢の一部に過ぎないと云ふシスプリ氏の信ずる「理窟」を俺もまた認めなければならない必然性の説明であつたのだが、それをシスプリ氏は今に至るまで全くやつてゐない。俺の意見を否定するのに、シスプリ氏が「アプリオリに知つてゐるべき理窟」を持出し、その妥當性を説明しないでゐる時點で、シスプリ氏が「トンデモ」である可能性が出て來る。
特に国語、言語学、言葉を扱った文献を新仮名にしてしまう(そして漢字を無闇に開く)のは、問題なのではないだろうか。