闇黒日記

平成十六年二月十七日
「マカー」がなぜ「マカー」かと言へば、Macを持つてゐるからだらう。
俺は十年ちよつと前に、「マカー」になり損ねて、以來、「PC/ATユーザ」である。
當時、「使へる」マシンを選ばうとしたら、所謂「DOS/Vマシン」しか撰擇肢は無かつた。ほかに檢討すべきマシンとしては、Macintosh II vx、PC-9801 FA、PC-486GR、以下略、があつたが、これらと比べれば、どう考へてもPC/ATが「一番増し」だつたのである。
ちなみに、Mac II vxは、半年後にCentrisが出て、購入者が皆、怒り捲つた迷機。
My Mac History
餘談。Windows 3.0と言ふと、皆惡口を言ふけれども、うちでは割と快適に動作してゐたよ。Word 1.2Aで同人誌一册作つたのはなつかしい思ひ出。
平成十六年二月十七日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040216#p1
俺は政治性が最優先だなんて言ってない。道徳には優先する、といってるだけ。
道徳と政治とでは政治の方が優先される、と云ふ發想は、非常に嫌なものだ。共産主義の國ではそれが常態だつたのだから。
俺は、表現規制論において政治と分離された道徳的な主張はありえない、といっている。
これは明かに欺瞞である。表現規制論に限定された話を高橋氏はしてゐない。高橋氏は、明かに一般論として述べてゐるし、一般論として俺を非難してゐる。
論理性もまた、相手に対して有効な限りにおいて利用される道具に過ぎない。どうも、有効ではないようだが……。
それが勘違ひなのである。セールスマンが團地の奧さんに一對一で面談して賣込んでゐる時にならば、論理の「有効性」は高橋氏的な意味を持つ。しかし、此處はウェブである。論理によつて高橋氏を説得し得る事の「有効性」は、本質的に意味を持たない。寧ろ、論理的に正しい意見を高橋氏が感情的に拒絶した時、高橋氏の思想に對して論理が「無効」である、と評價するのはナンセンスである。その高橋氏の態度が、甚だ非論理的である、と云ふのが世評となる。また、もし高橋氏が感情論で私をやり込めたり、或は、某アレ氏のやうに嫌がらせと誹謗中傷で私の名誉を毀損するやうな眞似をしたりして、それが當座、「有効」だつたとしても、「見る人が見ればどつちが正しいかわかる」のであつたならば、いつまでも「有効」でありはしないのである。
法律論としては当たり前な「表現の自由」の主張を「悪用」と批判する、その「悪」とはなんなのか。
法律を楯にとつて、自己中心的な考へを他人に押附ける事が、一般的に言つて「正しい」事だとは思はれない。
「和魂洋才」が不可能だという意見は論理的か。仮に論理的に不可能だとして、それで何が困るのか。困るとして、それが抑圧的な貴方の道徳論を受け入れてまで改善しなければならないことなのか。採算は合うのか。これは政治的な議論になってしまうでしょうな。
抑圧的な貴方の道徳論と云ふ言ひ方が論理的か。假に論理的にその通りだとして、それで何が困るのか。徳目は常に「抑圧的」である。
和魂洋才が論理的に可能だとして、それで現實的に實現可能か。その方法は具體的にどうすれば良いのか。現状、事實として、日本人は、「洋才」を「和魂」で以て適切に扱つてゐるか。そもそも、高橋氏の言ふ「和魂」とは何か。抑圧的な貴方の道徳論を拒否する高橋氏にとつての「和魂」が、抑圧的なものである筈がないが、本質的に魂の規範は魂にとつて抑圧的である筈であり、その抑圧的な徳目とそれに從ふ魂とが「和魂」である。即ち、高橋氏の言ふ「和魂」は「無魂」である。實際、今の日本人は、江戸時代の吾々の御先祖樣が持つてゐた「魂」と同じものを持つてゐない。そして、明治時代、やはり同じく我々の御先祖樣は「和魂洋才」を唱へた。これは、「和魂洋才」と言つたにもかかはらず、「和魂」が失はれた、と云ふ事を意味する。ならば、「和魂洋才」は實際に不可能だつた、と云ふ歴史的事實がある、と云ふ事である。
例えば、野嵜氏のリンクした「極東ブログ」の記述の、日本仏教文化に対する配慮が、野嵜氏には見えていない。野嵜氏は、書かれた物の文脈や状況という概念を解しないので、文章だけを取り出して現代にそのまま持ち込んでしまう。そういうのを「アンチョコ」と表したのだけど。
書かれた物の文脈や状況という概念を解しないのは、高橋氏の方だらう。今まで、高橋氏が私の文章の概念を、文脈や状況に應じて適切に讀取つた事があるだらうか。高橋氏は、自分を否定すべき文句で以つて俺を非難してゐる。
貴方が突然持ち出したんだろうと<禅宗
突然と見てしまつたのは、高橋氏が書かれた物の文脈や状況という概念を解しないからであらう。
足を取られても
高橋氏は、自分の行爲が單なる揚げ足取りに過ぎない事を自覺してゐる。
ゲルマン民族はキリスト教を血肉化しているけど、日本人は仏教を自分の文化にはできていないといいたいのか。それで、神道は自分の文化で血肉化されているといいたいのか。
その通り。
ただし、俺の言つてゐる神道とは、國家神道でも無ければ神社神道でもなく、教派神道でもない。柳田國男の言ふ「常民」の土俗信仰の事でもない。もつと抽象的な、日本人の精神文化の事である。
キリスト教だって異民族文化を取り入れて変化している。
變化した部分もあれば、變化してゐない部分もある。それがキリスト教の傳統だ。そして、キリスト教徒が意識して變化を拒絶してゐる部分がある。それがキリスト教の正統だ。
座禅というのは修行法だから、修行しない人が習得している必要はない。信仰が足りないからではなく、元々そういう主旨のものではない。
修行してゐない一般人が禅を理解し血肉化してゐると言へるだらうか。
信仰をしてゐれば、宗教生活に自然に入るものではないか。
日本人の死生観が一枚岩と考える根拠はどこに。
一枚岩だとは言つてゐない。變化してゐる部分もある。だが、變化してゐない部分もある。
アブラハムとイサクなんて、特別難しいところへなんでまた突っ込んでいくかな。
わからないで批判するな。
今は特に興味ないし、欲しくなったら買うので、いらないです<現代語法新説
千圓もしないものだから、お代なんて取りませんよ。要らないなら要らないで良いけど。と云ふ訣で、欲しい人がゐたらいろいろな方法で野嵜にアピールして下さい。先着一名樣に上げます。
あと、教養文庫が段ボールに一箱くらゐ、創元選書がやはり同じくらゐ、ダブつてゐて、置き場所に困つてゐるのだけれども、誰か貰つて呉れないかな。
平成十六年二月十七日
何と言ふか「法律で決つてゐるから」「憲法で保證されてゐるから」と言ふ人に限つて、「道徳で決つてゐるから」「常識ではさうだから」と云ふ考へ方に贊成しないのだけれども、道徳や常識よりも、憲法や法律の方が信用すべきものなのだらうか。
高橋氏だつて、「児童ポルノ法」の類の法律の制定に反對してゐるのだから、法律を變へたり運用したりする原理について、自分の考へをきちんと説明して良いと思ふのだが。
「憲法で『表現の自由』は保證されてゐる」は結構だが、ではなぜ積極的に或現象・事實に對して「表現の自由」を適用しなければならないのか。
高橋氏の「サッカーのルール」の議論でをかしいのは、「サッカーのルール」は「道徳の規則」の説明に用ゐるべきであるのに「憲法」の説明に用ゐられてゐる事だ。「ゴールキーパー以外の選手は、手でボールに觸つてはいけない」と云ふのは、絶對的な命令であり、哲學的な・思想上の問題とは何ら無關係である。「なぜ」と理由を問はれても「嫌ならラグビー部に行け」で濟む話である。法律の場合、權利が「保證されてゐる」のは事實だが、何らかの理由で「保證されなければならない」から「保證されてゐる」のである。そして、その「保證されなければならない理由」は、哲學的な・思想上の理由である。
平成十六年二月十七日
あと、高橋氏にききたいのだが。
法を犯してゐないのならば、何をやつても良い、と云ふものなのか。
道徳や傳統と言つた秩序をどうして積極的に破壞しなければならないのか。過去の秩序を破壞した後、高橋氏は一體、どのやうな秩序を建設したら良いと考へてゐるのか。或は、秩序は一切なくても構はないと考へてゐるのか。高橋氏は、一切の放恣が許されると考へてゐるのか。もし、さうだとしたら、人はどのやうにして自分の欲望を抑制すれば良いのか。
平成十六年二月十七日
自由というのは、一切制限されていないのが理想なのであり、それでは権利が衝突するから、公平な調整による制限が入るわけです。
自由は目的ではなく手段である。そして、手段に理想はない。理想は、目的にのみ存する。
高橋氏の主張の間違ひの根元は、そこを取違へてゐる所にある。
或は、一切制限されていない状態は存在しない。人は、さう云ふ「自由」を求め始めたら、永遠に求めねばならない。
人が自由の感覺を味はふのは、實は、自由に振舞はうとした擧句、自分の行爲が運命に支配されてゐる事を自覺した時だ。
――と云ふ風な事を、福田恆存はシェイクスピアの悲劇を論じて述べてゐる。
従って、表現の自由を規制しようとするものに、表現規制の必要があることを証明する義務があるのであって、表現規制反対側には表現の自由の必要性を証明する義務は、少なくとも法的もしくは政治的社会的には、ない。
道徳的には「ある」と言へる。高橋氏のやうに「言つても良い筈だから言ふ」と云ふのでは、普通、人は納得しない。高橋氏の所謂「表現規制反対側」は、アプリオリに「秩序を破壞するのは良い事だ」と考へてゐる。しかし、實際のところ、秩序を破壊する積極的な理由を「表現規制反対側」は示さなければならない。「造反有理」では話にならない。「表現規制反対側」には、正義がなければない。
1.性秩序は法によって守られているものではないでしょう。主に宗教的性道徳によって制限されてきたものです。俺はそれを単に「あるべきでない抑圧」と考えます。
その考へる理由がわからない。抑壓がなかったら、人は放恣になる。それでは困る。
2.法が守るべき社会とは、あくまで国民の権利を擁護するためのものであり、社会秩序を守るために人権侵害をするようになっては本末転倒です。社会を守るために人がいるのではなく、人を守るために社会があるのです。
「児童ポルノ法」の類の法律を制定したいと考へる人も、全く同じ事を考へてゐる筈。「寫眞は駄目だが繪はOK」と云ふ發想を、彼等はアプリオリには信じてゐないのです。寫眞も繪も同じpictureだし(茲は笑ふところ)。
3.貴方の考える権利の乱用の定義はなんですか? この場合、「表現の自由の乱用」の定義ですね。僕の場合、権利の主張が他人の権利を不当に侵害している場合、それを権利を濫用していると定義します。
自己中心的な發想の擁護に法律を利用するのは、特權を自分にだけ認めろ、と云ふやうなものではないですか。
「特定のヲタ集團」にのみ有利な「特權」を認めろ、と云ふのだから、その筋の人に睨まれるのは或意味「當然」ですよ。と言ふか、高橋氏だつて、フェミニズムと自分の思想との間に、巧い折合は附けられてゐないのではないですか。
女性の中には、えっちないらすとを女性に對する抑圧的な感情の表れであると看做す人だつてゐるでせう。
平成十六年二月十七日
カント以来、法と道徳の峻別は常識です。
「法は最低の道徳である」と云ふのも常識で、「法さへ守つてゐればそれで良い、と云ふものではない」のです。
平成十六年二月十七日
理想主義哲學の上に立つ社會民主主義者を自稱した河合榮治郎は戰前、大學における「言論の自由」について述べて、自分は「言論自由主義」であると、「言論自由主義」とは權力を以て研究言論を壓迫すべからずと云ふ事であると言つてゐる。
だから、自分はマルクス主義に反對で、マルクス主義の運動に反對するが、マルクス主義の研究を自分は否定しない、と言つてゐる。
そして、自分の主張と自分の發言とは矛盾してゐない、思想に對して權力で壓迫するのならば矛盾だが、思想に對して思想で對抗するのが矛盾であるとは思はれない、と述べてゐる。『大學生活の反省』
俺は、エロの研究、及び、それを通じて人間性の本質を探る研究ならば否定しない。「えろのいらすとを眺めてハァハァしたいから『表現の自由』を利用する」と云ふ「主張」は否定する。それはさうだらう。そして、「憲法がその種の『表現の自由』を認めてゐる」と云ふのならば、當然、「憲法を改正したい」と言出す人間もゐて良い筈である。憲法の改正は、憲法が認めてゐる事だから、法的には何ら問題は無いし、法的に問題の無い主張は非難されるべきでないと主張する「表現規制反対側」や高橋氏に、その種の「改憲論」を非難する資格はない。もちろん、權利はあるが、自分を棚に上げてする非難を、世人は認めないだらうし、ならば「有効な非難」にならないだらう。

平成十六年二月十六日
宏精堂 家門表具店
2004-02-14 @ [脱 三日坊主 宣言!]
平成十六年二月十六日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040215#p2
野嵜さんは、ポルノ表現規制反対の文脈で提示された、近代思想に基づく「表現の自由」論の政治性を批判している。
政治性を批判してゐるのではなくて、「表現の自由」なる抽象的な理由を持出すのは良くないと言つただけ。「話が抽象的なのは如何なものか」と云ふ事。
それに對して高橋氏は、文脈を無視して、「俺の仲間を批判してゐる奴がいる。懲らしめてやる」と云ふ事で、「批判者」である俺を叩いた。詰り、高橋氏は、反對する理由もないのに、「批判された」からと言つて反射的に俺を叩いた、と。
平成十六年二月十六日
道徳性が政治性に優先すると言う根拠は何か。
誰も優先する等と言つてゐない。高橋氏は、高橋氏自身の「政治性が最優先事項だ」と云ふ主張に贊成しない俺(野嵜)の意見を、自分の意見の單なる裏返しだと勝手に極附けて、野嵜の意見は「堂特性が最優先事項だ」と云ふものだ、とレッテルを貼つてゐるに過ぎない。
俺は單に、「政治と道徳とは別の話だ」と言つてゐるだけだ。
彼は、キリスト教的な絶対普遍の道徳性こそが近代の前提であり、その絶対的普遍的道徳性は、政治性より優先する、と考えているらしい。
これも、高橋氏自身の「絶対不變の政治性こそが近代の前提」云々と言つた思ひ込みの裏返しに過ぎない。俺は、「道徳と政治とは別の領域の問題だ」と言つてゐるだけだ。また、キリスト教が絶對不變の道徳だとは言つてゐないし、單に「西歐の近代の背景にあるキリスト教を無視すべきでない」と言つてゐるだけだ。
平成十六年二月十六日
道徳性と政治性は、そもそも分離できるのか? 彼は、出来ると考えている。それを可能にするのがキリスト教信仰であり、それが取り入れられなかったせいで日本の近代化は不徹底で西欧には劣るのだ、と考えている。
どうしてこんなに優劣に拘るのだらうと不思議になる。
俺は、「日本は明治時代に西歐の近代を受容れた」と言つてゐるだけだし、「日本人は一度、西歐の近代を受容れる事にしたのだから、西歐の近代を理解しようと努力しなければならない」と言つてゐるだけだ。そして、「西歐の近代には、キリスト教と云ふ文化的背景がある」と言つてゐるだけだし、「キリスト教の道徳と政治を峻別する性格が、物事を峻別する文化を生み、近代科學や近代思想を生んだ」と指摘してゐるだけだ。
「西歐の文化のやうに、物事を峻別する事は日本の文化にはない」「物事を峻別しないからと言つて、日本の文化が西歐の文化に劣る訣でもない」と俺は考へてゐるし、「そもそも俺は日本人で、日本人的な『和を以て尊しとなす』文化の良い側面の恩恵にも與つてゐる」と云ふ事も認めてゐる。
平成十六年二月十六日
つまり、彼の主張の根拠となっているのは、「西欧=キリスト教」と、「日本=非キリスト教」の対立構造であり、前者を後者と比較して近代的という意味で優位に置いているのだ。
何度も言ふけれども、優位も何もない。ただ、日本人は明治時代に「西歐の文明を受容れる」と云ふ方針をとつた、と言つてゐるだけだ。
そして、西歐の文明を理解するには、西歐の文化を理解する必要がある、「和魂洋才」は不可能だ、と言つてゐるに過ぎない。
平成十六年二月十六日
おいおい……自分で禅宗を日本人の非論理性の例示に持ち出したんではないのか。今更、外来文化だからとか言われても。
「新佛教」の「新しさ」も、結局のところ、「日本的」な要素の附加である訣で。とヒントを書いておいたのだけれども。
禅にしろ佛教にしろ、日本人にとつては外來のものなのは事實だ。だから一往、事実の確認くらゐはしておいても良いだらう。その程度の意味で書いたのだが、高橋氏にはその事實の確認も、「野嵜健秀の汚い尻尾」に見えてしまふのだ。
禅は支那で理論化されてゐたし、日本でも正法眼藏のやうな本が出來てゐるのだけれども、日本人は禅を、理論的にではなく、詩的に受止めてゐるんではないか。
禅については、日本人の文化として解釋するよりも、日本人の外來文化に對する態度の側面から解釋した方が適切だらうと、さう云ふ意圖で書いたのだが。
つーかそんなこと言いだしたら、イギリス人やフランス人たちは大本をたどればゲルマン民族(もちろん他にもいっぱいいるが)なんだから、キリスト教だって外来文化になってしまう。
イギリス人もフランス人も、キリスト教は血肉化してゐる。彼等にとつて、キリスト教は「外來文化」であり、今では「自分逹の文化」である。ケルト文化やゲルマンの古文化こそ、既に異文化である。
一方、禅が既に日本人にとつて「自分の文化」となり切つてゐるか何うかは疑はしい。本質的に、佛教は日本人にとつて、今でも異文化ではないか。
高橋氏は、どうも宗派とかに拘つてゐるやうだが、俺は常識的な日本人の佛教理解のレヴェルで話をしてゐる。創價學會の信者とか、熱心に信仰をやつてゐる人とかならともかく、普通の日本人にとつての佛教と言つたら、葬式佛教だらう。そのレヴェルで考へるのが、正しい文化についての考察であらう。言つておくが、西歐人のキリスト教に關する意識も、一般人のレヴェルを十分、考慮してゐる。その上で、專門家の著作なり發言なりを援用して、文化論を組立てる、と云ふ事は可能だらう。
さう云ふ前提で話を進めるが。一般の日本人が、本來のインド佛教の考へ方を完全に血肉化し、自分逹の人生觀に組入れてゐるかと言へば、そんな事はないだらう。葬式で、木魚を叩いて使者とは違ふ佛樣に經を上げてゐる僧侶のうしろで、遺族は使者を「佛樣」と呼び、涙を流してゐる。僧侶にとつて、使者は死んで四十九日が經つたら轉生する存在である。一往、法要によつて使者を極樂往生させられる事にはなつてゐるが、親への孝とか言つた理由で法要を行ふのは佛教の教へにはもともと存在しないもので、支那で作られた僞經で初めて出て來る。この邊の「絡繰り」は、うちのサイト近邊ではいろいろと惡名高い加地伸行の『儒教とは何か』『沈默の宗教・儒教』のどちらかで説明されてゐる(面倒なのでどちらかは確認してゐない)。
基本的に、モンスーン氣候の住み易い土地に住んでゐる日本人にとつて、生は別に苦ではない。インド出自の佛教に見られる「この世は苦の世界である」と云ふ觀念は、日本人の生活感とは程遠い。また、儒教の國・支那でも、佛教はそのままの姿では受容れられるものではなかつたやうで、儒教的な(と言ふより、支那の土俗信仰的な)擬裝によつてやつとそれなりに滲透した、と云ふのが實際のところであつたらしい。
佛教では、生命はみな、死んだら生れ變る。これを輪廻轉生と言ふ。そして、生きてゐる事は本質的に苦であるから、輪廻轉生を繰返す限り、苦から逃れられない。だから解脱しようと言ふのである。しかし、日本人にとつて、生は苦でない。死んでも死者は轉生しない。柳田國男に據れば、死んだ人間は、山か野つ原かをふはふは漂つてゐて、お盆になると額に「シ」と書かれた三角の布を附けて、里にのこのこ歩いてやつて來るのである。宣長に據れば黄泉の國へ行くらしいが、死後の世界は樂しくないらしい。それでも人は死んでしまふのだから悲しいけれども仕方がないと宣長は述べてゐる(この人は悟つてゐないので、諦めてゐるのではなく「めそめそ泣いてゐる」)。葬式でも、遺族は死者が轉生するとは思つてゐない。轉生するものなら別に嘆く事はないし、ただ苦から逃れられないのだから憐れむだけの話である。しかし、誰もさう云ふ意味で使者を憐れむ事はない。遺族は死者が勝手に成佛してゐると思つてゐる。日本では、葬式佛教で葬式を出される限り、人は簡單に佛になる。葬式佛教で葬式を出されなくても、別に困りはしない。あの世があるかないかは、大概の日本人にとつてどうでも良い話だからだ。日本人は「命あつての物種」と言ふ。常識的に「死んだら終り」なのである。
それだから、日本人にとつての宗教は現世利益の宗教である。神樣に息子を生贄にしろと言はれて、それで何か益がある譯でもないのに言はれるがまゝイサクを神に差し出さうとしたアブラハムのやうな信者は、日本にはゐない。たまにゐるけれども、さう云ふ人は日本では只の狂信者である。アブラハムの事については、キルケゴールが一生懸命論じてゐて、ユダヤ教時代の經典だつた筈の舊約聖書の問題を依然、キリスト教が自らの問題と看做してゐた事がわかるが、信仰の問題として議論の對象とされてゐたのであり、單なる狂信と看做して非難されてゐた訣でない事は明かである。
平成十六年二月十六日
野嵜氏の主張というのは、要はスローガンであって、論理のいい加減さを指摘するのも馬鹿馬鹿しい気がしてます。「日本人はキリスト教が理解出来ていないので真の近代化を達成できていない」→「日本は西欧列強に追いつくためにキリスト教を理解しなければならない!」→「でも日本人は神道の信者だから完全な理解は無理だけどね。せいぜい努力しろよ、俺が努力してるんだからさ」って勘弁してくれ。
完全な理解は無理西欧列強に追いつくのは無理→真の近代化を達成するのは無理――だけれども、一度西歐を受容れてしまつたのだから、西歐を理解する努力はすべきだ、と言つてゐる。
平成十六年二月十六日
あー、でも、主張に「表現の自由」という言葉を使う以上、それ自体に優越するものを持ち出されてしまっては反論できなくなってしまいますからねえ。そこはきっちりつぶしておかないとまずい気もする。
高橋氏にとつて、觀念は「ある」ものではなく「持ち出される」ものである。
彼がアンチョコにしている思想家たちの思想はもちろんもっと隙がないでしょうし、そこへ論理で対抗しようなんて思ってるわけではないけれど。彼のWEB活動が、スタイルの追随者を生む程度には影響力を持ちえているということに、俺はうす寒さを感じます。
もう明かだと思ふが、高橋氏は、論理的に正しい事であつても、自分の主義主張にとつて不都合であるものは、とにかく叩き潰す、と云ふ方針で論戰を戰つてゐる。これが何を意味するか。
取敢ず言へるのは、高橋氏が「思想の自由」や「言論の自由」を惡用してゐる、と云ふ事である。或は、高橋氏は「思想の自由」や「言論の自由」を利用してゐる。自由は、自由主義の立場から言ふならば、「利用するもの」ではない。
と言ふか、アンチョコとか言つて、俺の意見を貶めようとしてゐるのが惡質。「こういう事を言うのが戦術的に有効」なんて教へる學校でもあるのかねえ。或は、戰術の有效性に拘る高橋氏が、どうしてこんな自分に不利になるやうな事を平氣で言ふのだらう。
平成十六年二月十六日
「ポルノや大江健三郎の本は倫理にもとるから公権力の検閲によって発禁にすべきだ」
かう云ふ他人の意見の歪曲をする人がゐるのである。
その理由が「西欧列強に追いつく為」じゃあ、意味不明の妄言としか受け取れないし――それはさうだらう。Kuroneko氏が意味不明の妄言をでつち上げてゐるのだから。
はてなダイアリー - 黒猫の備忘録的書評
平成十六年二月十六日
本日の買物。神保町の古書會館にて。
ヤスパース『ニーチェとキリスト教』
林健太郎編『世界各国史 3 ドイツ史』
『佛蘭西詩集』青磁社
西谷啓治『ニヒリズム』アテネ新書(カヴァ缺)
ルーイス(深瀬基寛譯)『現代詩論』
マルティン・ブーバー『ブーバー著作集 第3卷 ハシディズム』
マルティン・ブーバー『ブーバー著作集 第9卷 ゴグとマゴグ』
福原麟太郎『読書と或る人生』新潮選書
田中美知太郎『正説と逆説』
新村出『ちぎれ雲』
聖アウグスティヌス『信仰・希望・愛』
河合榮治郎『大學生活の反省』
三上章『現代語法新説』くろしお出版
平成十六年二月十六日
『現代語法新説』だぶつてたよ。欲しければあげます>>高橋氏。
三上氏、「国語改革」の推進派だから、個人的には好かないのだが。出版社はくろしお出版だし。
平成十六年二月十六日
http://d.hatena.ne.jp/Tskk/20040216#p1
「話が通じないのはコミュニケーションではない」
「話が通じてゐなくても話をしてゐるのならばコミュニケーションだ」
平成十六年二月十六日
http://d.hatena.ne.jp/Tskk/20040215#p1
「自分に都合良く」は「自分に有利になるやうに」の意ではないので。
平成十六年二月十六日
『ニーチェとキリスト教』の冒頭で、ヤスパースはニーチェの著作からニーチェの言葉を引用して、キリスト教に対するニーチェの戦いはかれ自身がキリスト教的であることから生れている事を論證してゐる。
平成十六年二月十六日
アランの教育論なんて、讀んでゐる教育者は少いだらうなー。
平成十六年二月十六日
ねとらんの内容が毎號、WinnyやMXで流れたら何うなるだらう。
平成十六年二月十六日
日本ペンクラブ:電子文藝館
何だか非常に微妙な感じのHTML文書。
それなりに「わかっている」のではないかと思ひたいが。
平成十六年二月十六日
めも。
この無限の空間の・・・
平成十六年二月十六日
--世界傑作格言集--
平成十六年二月十六日
MIA Philosophy Resource from Andy Blunden
平成十六年二月十六日
ソクラテスの弁明 ver.1.0j
平成十六年二月十六日
Opera 7シリーズにファイル名を偽装できる脆弱性
平成十六年二月十六日
實は、ソシュールの「ラングの學問」の系統の「言語學」でも、純粹に音の物理的側面を扱ふ事はない。常に、「意識される發音」の類である。
さうなると、實は「ラングの學問」の扱ふものは、音ではなく、音の意識なのであつて、「意味に基く言語學」と同樣、「曖昧」で「主觀的」な部分が殘る。

平成十六年二月十五日
西洋の近代化はがっちりキリスト教と融合した不完全な形での近代化でして、日本の徳川幕府のような『宗教の毒を無効化して有効・利益的な部分のみ取り出してシステム化する』といった方式(檀家制度)とは違うのです。私は西洋よりも日本の方が、西洋に比べより優れた近代化(宗教の内面支配性をカットして道徳律としてのみ残す)をしていたのに、西洋の近代化を見習って逆転した近代化を行なってしまい、歴史が後退したのが、日本という国であると考えています。キリスト教と融合した近代が輸入されてしまった日本近世より徳川泰平の世の方がより近代的であったと思っていますね。>Rさん
日本でも確かに國學のやうな、自然な形での近代化はあつたのだけれども、明治になつて西歐の近代を受容れてしまつたのであり、今更元へは戻せないのだから、西歐の近代を學ぶしかない。
西歐の中で、がっちりキリスト教と融合した近代化は、西歐の歴史の中で「完全な近代化」であつたと思ふ。日本の中で、日本的な近代化も進んでゐたと思ふ。そして、日本が西歐の近代を受容れるのには無理がある、と云ふのもその通りだと思ふ。ただ、明治時代に日本が西歐の近代を受容れる事にしたのも事實だと思ふ。それを今更昔に返すのは無理だと思ふし、何より既に世界を西歐の近代が覆つてしまつてゐる事は否定出來ない事實だと思ふ。そして、日本が西歐の近代を受容れたのは、歴史の必然であつたのだし、宿命的な事だつたのだから、否定する事は出來ないと思ふ。だから、日本人は西歐のがっちりキリスト教と融合した近代を知らなければならないし、必然的にキリスト教を知らなければならない。
平成十六年二月十五日
現代日本人の宗教性の分析をやるなら、おっしゃるとおり、江戸時代の特殊性もみるべきでしょうね。
特殊性に拘ると、分析に終つてしまふ。問題は、個別の宗派が存在し、宗教が存在するにもかかはらず、日本人が日本の文化を持つ、と云ふ事だ。その日本の文化を全體として理解するには、個別の宗教・宗派の個別性と同時に、共通性を見出さなければならない。
日本と西歐と云ふ大きな括りでは共通性を見出さうとし、日本の中の個別の宗派・宗教と云ふ小さな括りでは個別性を見出さうとする、高橋氏の意圖がわからない。高橋氏は何をしたいのだらう。
平成十六年二月十五日
http://d.hatena.ne.jp/Tskk/20040213#p5
http://d.hatena.ne.jp/Tskk/20040212#p4
つまり「違う」ことを突き詰めて考えると必然的に「同じ」ことについてに考えが含まれるはずです。それ無しに「違う」と言う語りは正に「違う」「違う」と言っているに過ぎないかも知れません。「違い」が難しいのと同じぐらい「同じ」も難しいでしょうし、先ほど書いたように「同じ」と「違う」は表裏一体です。/高橋氏の反論にはこういう点で「違う」を考えるための同一性や、対象内部の差異が含まれていると思います。それをマッピングし整理することが野嵜氏が「違い」について深く考えるために必要な作業だと思うのですが、いかがでしょう?
何と言ふか、結局のところ「高橋氏の意圖は無視しろ」と云ふ事なんだらうなー。高橋氏のやつてゐる事を、自分に都合良く、巧く利用しろと。なるほど。
平成十六年二月十五日
MPEG動畫のCMカットは結局、TMPGEncPlusを使ふのが一番樂である模樣。要再エンコード。
平成十六年二月十五日
俺には「西歐の近代は正しい」と云ふ意識はないよ。近代は乘越えるべきものだと思つてゐるよ。
ただ、乘越えるには、その前にすべき事があるだらうと言つてゐるだけだ。
平成十六年二月十五日
日本の文化と西歐の文化とを比較對照する爲には、或種の統一のある文化としての日本及び西歐と云ふものを考へてみない訣には行かない。そこで、日本の文化なり西歐の文化なりを、解體してしまつては、話にならない。
平成十六年二月十五日
プリキュア第三話。
今日は東芝RD+VictorのS-VHSデッキ+PC(キャプチャユニット)の三臺による録畫體制。+リアルタイム視聽。
PC+キャプチャユニットの録畫豫約は、終了時刻をあと一分遲らせる必要があつた模樣。次囘豫告の途中で切れた。
次囘は作畫がヤバめらしい。
平成十六年二月十五日
今更指摘するのもアレだけれども、佛教はもともと外來思想だから。
「新佛教」の「新しさ」も、結局のところ、「日本的」な要素の附加である訣で。
平成十六年二月十五日
ソシュールの「ラングの學問」を「言語學」と呼ぶ人間は、他人を「ラングとランガージュを混同してゐる」と言つて非難する資格がない。なぜなら、その人は「ラング」と「言語」とを同一視してゐるからである。
と言ふより、その人は明かにラングと言語とを混同してゐるのである。「ラングの學問」を「言語學」と誤譯したのは小林英夫だが、小林は知つてゐてわざと誤譯した。だから罪は一番重い。その誤譯を誤譯と知つてか知らずか、日本の「ソシュール學派」の言語學者は、常に「ラングの學問」を「言語学」と言ふ。
「ラング」は言語(嚴密には「音聲言語」)の、記號としての側面の事であり、言語そのものではない。ソシュールは、言語學として分析の對象とし得るのはラングのみである、と言つたに過ぎない。實際には、ソシュールの「ラングの學問」は「言語の学問」である言語學のサブジャンルに過ぎない。
この邊りの事を全然理解せず、機械的に「ソシュールのラングの研究法とは違ふ研究法だから、言語學ではない」と言つた批判を平氣で口にする人がゐる。例のブログの中の人もその一人だ。
さう云ふ人に限つて、「ラングの學問」が、ただの研究の一方法に過ぎない事を忘れる。そして、「ラングの學問」が對象とする音聲言語ではない、「書き言葉」の研究にも「ラングの學問」の方法を適用すべきだと主張したり、剩へ、「書き言葉」を「ラング」と一致する記號にせよと主張したりする。後者は、「書き言葉は話し言葉の影」と云ふソシュールの根據のない思ひ込み(と言ふより、勘違ひ)を眞に受けた上、言語の研究法を言語の原理と取違へた二重の意味での誤なのだが、日本の「ソシュール學派」が自分の誤に氣附かないのは異常である。
現代の「書き言葉」は、「話し言葉」を寫した「言文一致」のものである。だが、發生時の「書き言葉」は、決して「話し言葉」と一致してゐなかつた。古事記や日本書紀の日本語は、決して話し言葉の日本語ではない。文語はもちろん、話し言葉でない。そして、のちの「言文一致」の文章も、決して話し言葉と一致しない。「闇黒日記」の文體で、野嵜が平素、喋つてゐる訣ではない。てにをはは、明かに、話し言葉のものとは違ふ。
「ラング」が、言語學で果した役割が大きかつた事は事實である。しかし、だからと言つて、「ラング」が言語の中で果してゐる役割をを過大評價すべきではない。「ラング」だけで言語が出來てゐる訣ではない事に、「ラングの學問」の信奉者の方々には氣附いていただきたいものである。假名遣ひを表音式に改め、漢字を簡略化するのは、表記の記號化である。假名遣も漢字も、記號化された事によつて、記號以外の性質を削落とされてゐる。その結果、表記は記號となり、言語でなくなつてゐると言ふ事が出來る。言語學の名の下に、言語を非言語化する事は許されるであらうか。
ソシュールの「ラングの學問」が、言語學史上で果した役割は大きい。しかし、日本語に與へた害惡も非常に大きい。

平成十六年二月十四日
『スタイルシート スタイルブック』
cat@log
「blog」。
http://www.yasuhisa.com/
完全にスタイルシートでデザインされた、自作ツールによるウェブログを運営している。らしいのだが。Operaでプラグインを無效にしてゐると先に進めないし、有效にしてもFlashで表示される文字が小さくて(環境によつては)讀み辛い。
SEshop.com/商品詳細:スタイルシート スタイルブック
平成十六年二月十四日

今年は毎週土曜日が登校日です。

のあ
ウィスキー入りチョコレートボンボンなんてどうかな?
あやの
どうかな? つて言はれても。誰にあげるのよ?
のあ
ふぁんきーじゅにあ。
あやの
……ふぁんきーじゅにあ?
平成十六年二月十四日
大宗派の宗祖を出た順から例外扱いしていいのなら、そんな理論は確かに反論のしようがなく無敵だ。
理論ではなくて事實だから仕方がない。事實だから反論のしやうがないんだよ。
なんて言つてゐるし。高橋氏が、物事を「質」の觀點から捉へられず、「量」の觀點からのみ捉へてゐる事は明か。「順番」に話を還元してしまふ高橋氏のやり方こそ、乱暴だよな。
即身成仏と他力本願じゃ方向性としてカトリックとプロテスタントの違いに劣らず違う教えだろうに。
「即身成仏」の意味をわかつて言つてゐるのかねえ。
現代人が常識的に考へると、即身成仏なんて無理に決つてゐるんだが。
けれども、そもそも「佛樣には簡單になれる」んだよ、特に日本の佛教では。
日々の生活に追われ厳しい修行など出来るわけも無い普通の庶民を直接射程に収めた浄土宗の新しさを「量の問題」と切って捨てるなら、律法から信仰へというキリストの教えだって単に「量の問題」になってしまうだろう。
變な纏め方をしてゐるね。
浄土宗にしてもそれまでの佛教にしても、絶對者と對峙する宗教ではない。そこが同じなら同じなんだよ。
キリスト教と佛教とでは、根本的に違ふ。今の話では、そんな理解で十分なんだよ。「佛教にも色々宗派がある」なんて、それこそ「反論のしやうがなく無敵」だらう。
彼我の「宗教改革」は、性質が異る。佛教の場合、基本的に誰でも佛になれる、と云ふのが大前提の改革だ。貴族だけではなく、庶民でもなれるんだ、と、改革をやつた新佛教の人は皆言つた。で、キリスト教の場合、天國に行くのは基本的に難しい事だ(實は、キリスト教では人が天國に行くのは本質的に不可能)。改革の結果、誰でも容易に天國に行けるやうになつたかと言へば、そんな事はない。話は逆で、「免罪符を買へば誰でも天國に行けますよ」とカトリックの教會がやつた時、「それは堕落だ」とルターは批判した。ルターは、ラテン語の聖書を獨譯して、ドイツの庶民にも讀めるやうにはしたけれども、聖書を讀める事と、天國に行ける事とは違ふ。佛教の改革の場合、教義の知識を習得する勉強とか、修行とかの手間を省いて、救ひの門戸を庶民に開放したのだけれども、基本的に佛教は誰でもならうと思へば佛になれる。一方、キリスト教の場合、教會の介在なしに、信徒が一人一人神と直接結び附いて自助努力をしないとならないやうに改革が行はれたけれども、人が濟はれるのが途轍もなく難しいと云ふ事は全然變らなかつた。教會の介在の有る無しに關らず、「姦淫する勿れ」と云ふ教へを守れる人間はこの世にゐない。
カルヴァンの豫定説となると、異端の性格が入り込んで來るとか色々言へるのだが、その邊の細かい話はしない。俺の興味はプロテスタントよりも、プロテストを生じさせたカトリックの側にある。
宗教改革を、政治的側面から説明すれば全然別の説明も附くのだらうけれども、俺は政治の方面には興味が無い。
英國國教會の話はまた別で、政治的理由で論じて良い。けれども、あれの教義自體は、基本的にカトリックのそれと變らない訣で、宗教の側面から見ると大して面白い話はない。宗教と政治の對立について見るならば、國教會成立前後には面白い話が幾つかある訣だが。ロバート・ボルトの"A Man for All Seasons"のやうな戲曲もある。
A Man for All Seasons (1966): Paul Scofield, Wendy Hiller, Leo McKern, Fred Zinnemann
平成十六年二月十四日
日蓮は難しい。絶対の真理を主張するなら、どうしても、他の教えとは対立しがちだ。
日蓮が、なぜ絶対の真理だと信じたのかを説明しろと言はれても、高橋氏は、日蓮の信仰が導いたひとつの結果以上の事を言へないと思ふ。そして、實際のところ、日蓮が自分の思想を絶対の真理だと信じてゐたとしたら、後ろ楯になるものは何もない、やつぱり思ひ込みだつたのだとしか言ひやうがない。
カトリックにしてもプロテスタントにしても、信者の最後の後ろ楯はGodにある。そこが佛教や神道の信者と違ふところだ。
平成十六年二月十四日
一向宗が政治的である程度にはカトリックやプロテスタントも政治的だろうに、なぜ一向宗だけ政治に回収しようとするのか。
なぜカトリックやプロテスタントの政治的側面しか見られないんだらうねえ。
俺は日本人だから、日本人の信仰と政治の關係くらゐ、わかるよ。歴史の勉強をすれば、一向一揆が政治的な一揆だつた事はわかる――一揆はもともと政治的なものだ。
平成十六年二月十四日
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040213#p2
ヨーロッパ基層文化を形成しているものが「ヘブライズム・ヘレニズム」文化だけだと考えるのは大間違いで、最近の研究ではそれに加えて「ケルト・ゲルマン」文化も折り重なっていることが指摘されています。
それは結構な事だけれども、だからと言つてヘレニズムはもとより「ヘブライズムは無視すべきである」と云ふ結論にはならないと思ふ。
高橋氏にしても、なぜ故意にキリスト教を無視して「西歐とは何か」を規定しようとするのだらう。西歐を考へる時、特に現代の西歐文明が世界を覆つた状況と關聯して考察するには、キリスト教を一番重大な要素として認めざるを得ないのは誰の目にも明かな事ではないか。
北歐的な文化(或は、キリスト教傳來以前のヨーロッパの文化)が基底にあつて、そこにキリスト教の文化が覆ひ被さつた事は、クリスマスや復活祭のやうなキリスト教の行事について觸れた文献は常に觸れてゐる筈だ。そして、その邊のキリスト教以前の文化が注目されるのは、飽くまで反近代の思想の「文脈」で論じられた場合である筈だ。だが、反近代の思想は飽くまで近代の思想を知つた上での反動であるべきであつて、それ自體が自立した思想である訣ではない。
平成十六年二月十四日
まずキリスト教を理解してからと言うのは、有理数の前に自然数を全部数え上げてからと言うぐらい無理があると思います。
だから「上滑りの理解」と何度も言つてゐるのだが。
平成十六年二月十四日
ロレンスぐらい読め→はぁ?あんたこそAIRぐらいやれ→そんなものやるに値しない
AIRとロレンスとでは比較にならないと思ふが。
と言ふか、消費される記號としての現代のえろげは、記號に過ぎないのだから、他の記號的なものの記號を交換する事で、容易に類推・理解出來る筈。
平成十六年二月十四日
つうか、ロレンスやらの具体的な一著述に根拠をとろうとする彼にくらべたら、俺はずっと一般的な話をしてるはずなんだけど、これを専門的って言われたら困る。
小説で書かれてゐる事は具體的な事だけれども、だからと言つてその具體的な内容が普遍的なものと何ら關係がないと考へるのは理由がない。小説家は、哲學なり思想なりを持つてゐても、それを具體的な状況と人物とに當嵌めて描く事で表現する。哲學者や思想家、評論家が直截的に思想や哲學を表現するのと、單に方法論が違ふだけで、小説家は普遍的、一般的な考へ方をしてゐるものだ。それを讀取らない高橋氏の言葉を見たら、ロレンスは怒るだらう。と言ふか、高橋氏がロレンスを讀んでゐるか何うかは甚だ疑問。默示録論も讀んでゐないんぢやないかな。
平成十六年二月十四日
めも。
W3C QA - Quality Tips for Webmasters

平成十六年二月十三日
日本と西歐とで物の考へ方が全然違ふ、と云ふのは、證明するまでもなく自明の事だ。
理窟で「同じ事」を幾ら言つてみたところで、違ふのは明か過ぎるくらゐ明かなのだから仕方がない。
問題は、「なぜ違ふか」を適切に説明する事だ。「同じ」「同じ」と言つてみたところで始まらない。違ふのだから。
或は、違ふ事が明かであるものを「同じ」に見せかけてしまふやうな理窟は、理窟の方が間違つてゐるのである。
平成十六年二月十三日
もちろんな、理窟と現實認識とが衝突した場合、現實認識の方が間違つてゐる可能性もあるんだよ。でも、西歐と日本は、まさか同じではないだらう。
ならば、「同じ」と云ふ結論になつてしまふやうな「理窟」を疑ふ方が筋だらう。
と言ふか、本當に高橋氏は「西歐と日本は同じだ」と思つてゐるのだらうか。
平成十六年二月十三日
突込み忘れ。
パスカルも怒ってるしね。
高橋氏は、パスカルの意圖がわかるの? もしさうなら、前言つた事と話が違ふぢやん。高橋氏は、「筆者の意圖は解らない」と云ふ立場の筈だ。
この邊の理窟を、きつちり説明して貰ひませうか。
平成十六年二月十三日
http://mai.cute.bz/mt/archives/000180.html
平成十六年二月十三日
めも。
eClinic
平成十六年二月十三日
キャプチャしたMPEGむーびーの編緝、何でやつたら一番效率が良いかな。CMカットとか。
平成十六年二月十三日
じゃあ、なんでシェイクスピアなんですか?
英文學と言つたらシェイクスピアに決つてゐる。
結局「キリスト教社会から出てゐる」からで終わらせるのであれば、キリスト教と近代思想について何を言っても無駄ですな。
何で終わらせるなのだらう。そこが出發點ではないのか、と言つてゐるのだが。
コードや文脈ってのは鍵カッコを外せるけど、野嵜さんの「キリスト教的」からは間違っても外せない。
話が全然逆だ。キリスト教は一般的な概念だ。「コード」も「文脈」も現代になつて出現した、或特定のジャンルでしか通用しない特殊な用語だ。
真言宗と浄土真宗の違いが「細かすぎる」ってのは、本気で言ってるんですか?
「文化の觀點から見れば」と云ふ文脈から言へば。高橋氏は、何でもかんでも同レヴェルにしてしまふ。違ふレヴェルのものは違ふのだと言ふ事が、どうしてわからないんだ?
単に、貴方が聞く耳を持つ言葉を選んでいるだけです。
ものは言ひやうだな。しかし、私が聞く耳を持つと、どうして高橋氏は判斷出來るんだ? 高橋氏には、相手の意圖が判つてしまふのか? なのに、なぜ「筆者の意圖はわからない」と言つたんだ?
ちなみに、景教は仏教にも色々影響を残しているようなのですが、云々。
支那の佛教には、儒教が隨分影響してゐるのですが。云々。
景教の佛教に對する影響が、具體的に日本の文化にどのやうな影響を與へたのか、論述して下さい。
日本が近代において抱えた問題が仮に何かの対立に由来しているとして、それは非キリスト教とキリスト教という枠組みでとらえるべき問題なのかどうかが疑問なのです。
では、どのやうな枠組みでとらえるべき問題だと、高橋氏は考へてゐるのですか? また、「キリスト教は對立の根元にない」と言ふにしても、理由が「恣意的だ」と云ふ極附けだけであるのは、何うかと思ひますね。
平成十六年二月十三日
鎌倉新仏教は既存仏教への批判から始まったのだし、旧勢力から危険視され、時には迫害もされたのだが。
法然・親鸞・日蓮が例外だつたと言へます。
實際のところ、在來の佛教と既存の佛教とで、教義の對立がどれだけあるにしても、その教義が信徒の意識を變革するやうなものだつたか何うかは疑問。當時の既存の佛教は、既に國家鎭護の佛教か、貴族の救濟の爲の佛教だつた。新佛教は、庶民をも救濟しようと云ふものだつた。國家鎭護の佛教は個人とは無縁のものだから議論する必要はない。その他の佛教にしても、他力本願だつた點では變らないのであつて、ただターゲットが擴大されただけだ。質的には何ら變らない。人が「佛や菩薩に救濟されるもの」である點は既存の佛教でも新佛教でも變らない。ただ「救濟を願ふ」方法が變つただけだ。そして、その部分の變化には、宗教のあり方自體にかかはる問題は生じない。
キリスト教の、カトリックとプロテスタントの對立には、宗教のあり方に關る重大な問題が存在する。カトリックは、信者とGodとの間に、Godの地上における代理人としての教會の存在を認める。プロテスタントは、それを認めず、個人とGodとが直接對峙する事を要求する。この、個人が「Godに直接對峙する事」の自覺が、個人の意識の自覺に繋がつた。
宗教だから、個人の救濟が目的である事は變らない。ただ、宗教の改革において提示された問題が、佛教では南無阿彌陀佛(念佛)や南無妙法蓮華經(御題目)といつた「救はれる爲の手段」の問題であり、キリスト教では信者の意識のあり方の問題であつた。そこが大きな違ひだ。
佛だらうが題目だらうが何を唱へたつて大して變りやしないだらうと思ふのだけれども、そこで反對者を惡魔呼ばはりした日蓮は、かなりエキセントリックな人間だつたやうな氣がする。
そこから時代が下って、明治の廃仏毀釈が起こった訳だけど、「たいした問題ではない」で済まされるようなものではなかったわけで。
時代は最う、明治でした。即ち、日本は既に西歐と接觸した後でした。
と言ふか、廢佛毀釋つて、本來は神佛混淆の禁止であつて、佛教の排斥ではなかつたりするんだが。神祇省が教部省になつたり、教導職が廢止されたり、神官が説教を禁止されたり、所謂國家神道と教派神道とが分離されたりと、明治初期の神道周邊の事情は、結構知られてゐなかつたりんだけれども、なかなかややこしいんだよ。その邊の事、高橋氏はちやんと知つてゐるのかねえ。
こんなの、高校レベルの歴史の知識だ。ちゃんと調べればもっといろんなことが分かる。専門的で細かい話なんてしてないよ?
西歐との對決を重要なテーマとした鴎外も漱石も、最う高校では習はないんだよな。
高校の教科書を讀むまでもなく、近代の歴史の主役は西歐であつた事は自明だし、日本が支那に續いて接觸した外部の文明が西歐であつた事も自明なのだけれどもな。
で、西歐の歴史と言つたら、キリスト教の歴史なんだがな。美術でも文學でも、キリスト教の影響拔きに、西歐の文化は考へる事が出來ないのだがな。そして、西歐の文化は、西歐人の生き方と一致するから、西歐人の精神構造が基本的にキリスト教的である事は自明なんだがな。
近代の萌芽がルネサンスと宗教改革である事を考へれば、宗教が西歐の歴史で重大な役割を果してゐる事は明かなのだがな。そして、西歐の宗教はキリスト教なのだがな。
と言ふか、二千年前に成立した宗教團體がそつくりそのまま殘つてゐる、と云ふ事が驚きなのだがな。現代に到つて、高橋氏のやうな考へ方の人間が西歐にも澤山出て來てゐる筈だが、にもかかはらず、カトリックの教會はちやんと「ある」のだからな。「既に弱體化してゐる」と見るか、「依然一定の力を持つてゐる」と見るかが問題だがな。俺は「まだ力を持つてゐる」と見るがな。
平成十六年二月十三日
さう言へば、篤胤はキリスト教の影響を受けてゐるな。
高橋氏は、佛教は詳しさうだが、神道は何うかな。
平成十六年二月十三日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040213#p3
どこまでがキリスト教文化でしか通用しない話でどこまでがそうではないのかを量る議論において、
「どこからどこまで」等と云ふ計量が、文化の話で可能か何うか。
「でも結局キリスト教文化から出たんだろ、だからキリスト教的なんだ」とやるのは
そんな事はやつてゐない。
西歐人が「キリスト教の『思考パターン』に從つてゐると云ふ説明が、それ以外の説明よりも、適切である場合が多い、と云ふだけの話だ。
また、今は思想・宗教・文化の話をしてゐるのであり、人文的な研究・論證の方法を利用するべき時だ。
あなたの「キリスト教的」は、キリスト教ではない、といっている。
では、何がキリスト教的なのか。
文化の観点から見ても全然違うっての。仏教宗派の違いを、単に僧侶の間の学問的ないさかいに過ぎないとか思ってるの?
そもそも俺と高橋氏とで「文化」と云ふ語の解釋が違つてゐる説。
貴方が「論理」(これもどうやら鍵カッコを取れない概念のようだけど)に固執しているというのは、文章レベルで何度も表明されてますからね。
俺は、教條的な論理主義ではなく、合理主義の立場だから、全てのジャンルなり何なりで全く同一の論理を用ゐよなどとは主張してゐない。道徳については道徳的に、政治については政治的に考へよ、と言つてゐる。思想の影響の問題については、人文的に考へよ、と言ひたい。
単に貴方の枠組を批判しているだけなので、別に代案は必要ないでしょう。貴方の恣意的な枠組が何を目指しているのかは分からないけど、その過程で出てくる乱暴なやり方に俺は怒ってるんですよ。
全く同じ言葉を高橋氏には返したい。と言ふか、高橋氏には、「枠組み」がそもそもない。そもそも貴方の枠組等と云ふ亂暴な言ひ方をしておいて、何が乱暴なやり方だ。「文脈」だ「コード」だと、高橋氏は言葉の遣ひ方が乱暴ぢやないか。
平成十六年二月十三日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040213#p4
支持されるかされないかと云ふ「量」の問題を、「質」の問題と勘違ひしてゐる。しかし、注目したいのは、個々の信徒の意識のレベルを、「質」ではなく「量」のレヴェルだと高橋氏が考へてゐる事だ。この時點で、高橋氏の精神と云ふものに對する考へ方が示されてゐる。高橋氏は、精神は量的に扱へるものである、と考へてゐる。明かに、高橋氏は精神を物質と同じやうに考へてゐる。高橋氏は、唯物論者である。
その辺が、キリスト教の影響を受けていると言われるわけで
教義の側面では本質的に何も影響を受けてゐないんぢやないですか。既に述べた通り、「救はれる對象」が擴大した、と云ふだけで。
戦国大名と10年も渡りあった、一向宗なんてのもあったわけですが。
あれも、政治的な理由が大きいらしいよ。
平成十六年二月十三日
日本の近代化には、外国から取り入れられなかった何かがある、というのには同意できるのです。ただ、それを「キリスト教=西欧」に集約してしまうのは乱暴すぎると。
私の言ひ方は大雜把かも知れないけれども、高橋氏の言ひ方は細か過ぎると思ふし、細かい事に拘つて瑣末な話に流れるだけなのはナンセンスだと思ふのだけれどもねえ。
で、具体的にどのようなものなのかを、一神教性とか超越性(俺はよくわからんけど超越論性ってのもあるの?)とか近代二元論とか、わけて考えていこうと。
ぐぐってみた(謎)ら、柄谷行人的な言ひ方らしいが、「超越論性」つて何だよ。笑。
高橋氏が「道徳と政治は分けられない」と言ふのはわかる。高橋氏は日本人だから、道徳と政治を分けない。私も日本人だから、道徳と政治とのけぢめをつける習慣は持たない。けれども、キリスト教ではそれを區別してゐるよ、と。高橋氏は、「他人の文章の意圖を理解する事は出來ないから、自分勝手に解釋するのは許されるし、積極的にすべきである(ただ、「他人が高橋氏の文章の意圖を勝手に解釋した時、高橋氏はそれを否定する事が許されるし、それに他人は從はなければならない」と云ふとんでもなく自分勝手な條件附きだが)」と主張してゐるから、キリスト教も高橋氏流に勝手に解釋してゐるのだらうが、それこそ私に言はせれば乱暴なやり方だ。
キリスト教は一神教である。Godは絶對者である。英語で言ふGodは、ユダヤ教のヤハウェである。ヤハウェが他の宗教の神と比べて異樣な神である事は屡々指摘されてゐる。この時點で、ユダヤ教が異樣な宗教である事は明かであるし、實際、屡々指摘されてゐる。このユダヤ教は民族宗教だつた。キリスト出現當時、ユダヤ教は政治と結び附いてゐたが、ユダヤ民族が世界に離散してからもユダヤ教を守つたのを見れば、政治とユダヤ教との結合はユダヤ教の宗教としての本質でなかったのが明かである。それはともかく、ユダヤ教の關係者がユダヤ民族の間で力を持つてゐた時代にキリストが現はれて、民族宗教であつたユダヤ教を世界宗教に變へた。この時、キリストがやつた事は、單なる政治的な民衆の解放ではなく、その拒絶だつた。磔刑にされた時、キリストは罪状として「ユダヤ人の王」と云ふ皮肉を書かれた。もちろん、キリストは「ユダヤ人の王」となつてユダヤ人を政治的に解放する「ユダヤ民族の救世主」とはならなかつた。キリストは、全人類の魂の救濟者としてメシアだつた、とキリスト教ではされてゐる。キリストは、政治的な解放と、魂の救濟とを、嚴密に區別してゐたし、自分の使命は後者、魂の救濟である、と自覺してゐた。四福音書ではそのやうに書かれてゐる。キリスト教は、地上の權力と、天の榮光とを區別する。そして、それをGodと云ふ絶對者が保證する。このやうな宗教は類を見ない。同じユダヤ教系の世界宗教であるイスラムの宗教は、聖俗一致の宗教で、地上においても神による政治的支配が實行されるべきだとする。だから、今でもアラブの國家には、宗教の指導者が政治的指導力を發揮する國がある。もちろん、ギリシア正教も、聖俗一致――と言ふより、教會は皇帝に服從し、皇帝は教會を庇護する。ギリシア正教の傳統はロシア正教に引繼がれた。その聖俗一致の傳統があつたロシアで、俗世間の權力が聖なる領域を完全否定し、精神を物質が支配する唯物論を信奉する共産主義を實現させた事は興味深い事實である。そして、さう云ふ聖俗一致の世界と對立して存在したのが西歐のカトリックの世界だ。西歐では、宗教界の最高權威である教皇と、政治の世界の相對的な實力者である國王とが、別々に存在した。初めは宗教の権威でもつて教皇は國王に壓力をかけた。しかし、のちには國王が力を持ち、教皇に反抗するやうになつた。さう云ふ聖俗の對立が續いたのが西歐の傳統である。
平成十六年二月十三日
西欧の文化的コードを理解すべきだという意味では、同意できます。でも彼の言う「西欧」は色々抜けてそうですけどね。経験論とか唯名論とか、プラグマティズムとか実証主義とか、ちゃんと押さえてるのかなあ。
と言ふか、プラグマティズムについて、高橋氏、知つてゐるのかなあ。ベルグソンも讀んでゐなささうだし。
西欧文化のコードと呼べるような特定の傾向は、多分あるでしょう。それに、キリスト教は確かに深く関係している。でも、それは別のものであり、どちらがどちらを内包するわけでもないと。だから、西欧⊃キリスト教でも西欧⊂キリスト教でもない。どちらからもこぼれ出るものがあると。そして、近代思想や科学にはそのこぼれ出ているものの影響がとても大きいと。
こぼれ出るものの影響の大きさよりも、キリスト教の影響の大きさの方が、大きいに決つてゐるでせう。と言ふか、高橋氏は、どうして傳統よりも異端に固執しますか。その邊の高橋氏の選擇、恣意的と言ふか、趣味的と言ふか、とにかく出たら目だと思ひますがねえ。
『悲劇の死』等の評論で有名なジョージ・スタイナーが、來日した時、「日本の知識人」に呆れ返つた事がある。
文學と人間の言語──日本におけるG・ジョージ・スタイナー──における日本の知識人
高橋氏には『文學と人間の言語──日本におけるG・ジョージ・スタイナー──』の一讀をおすすめする。高橋氏には、「日本の知識人」によるスタイナーの吊し上げが正當なものに見えるだらうが。
『文學と人間の言語──日本におけるG・ジョージ・スタイナー──』(慶應義塾三田文学ライブラリー)の表紙
平成十六年二月十三日
極東ブログ: 漢字は表意文字という話
「漢字は、表意文字として發生した。だが、後には表音的にも用ゐられるやうになり、だから『假借』の現象が生じる事もあつた」と解釋した方が自然だと思ふが。
あと、「世界の文字はどれも最初は表意文字として生れたらしい。そして、『音價』の側面が著目されて表意文字から表音文字が生れたものであるらしい」と云ふ學説は、既に認められてゐるやうだ。アルファベットでも、もとは何を象つた文字で、と云ふ研究があつた筈。
極東ブログ: 漢字という虚構
虚構は、ここでは、嘘という意味ではない。言語学の方法論というのは、こういう虚構を必要とする。そして、この虚構がなければ、果てしない混乱になるし、私は白川静の漢字研究はその混乱の果てであると考えている。
白川氏の研究に混亂はないし、寧ろ極東ブログの中の人の主張にこそ、混亂が見られると言つて良い。
時枝誠記の認識論とまざったヘンテコな文法論を三浦つとむが展開し、吉本隆明がさらにスターリン言語論のように発展させても、それは、近代言語学とは関係ない。
認識論を排除した所謂「ソシュール言語學」が、言語學の名に價しない事が理解出來てゐないやうだが、それこそ今の日本人の「常識」なのではないか。
實際のところ、認識論は言語の理解に必要な事だし、「近代言語学」の域を超えて言語の研究には必須であると言へるのだが。
引用した文章にある通り、混乱を避ける爲にソシュールは言語の記号的側面である「ラング」を言語から抽出し、記號學として混亂のない體系を作れると考へた。それは確かにさうだ。だが、そこで切捨てられたものが、言語にとつて無用のものであるとは言へない。もちろん、そこでは混亂が存在するが、その混亂を含んだトータルなものとして言語を捉へなければ、言語をありのままに知る事にはなるまい。
と言ふか、「ラング」が言語の一側面を體系的に研究する爲の道具である事を、どうも日本人は忘れがちのやうだ。「ラングの學問」以外の方法による言語研究を、混亂が含まれる、の類で批判し、否定するのは、間違つてゐる。實際には、言語がそもそも、混亂を含んでゐるのだ。
あと。
ひどい言い方をすれば、その内容はどうでもいいのだ。とまでは言い過ぎか。しかし、日本人が儒学を中国から輸入したと思い込み、論語だの研究しているが、同時代の中国人はそうした古代的な儒学などすでに廃棄している。儒教とは道教のバリエーションなのだ。ちょっと極言するが、朱子学とは道教なのである。
シャーマニズムとしての儒教と、學問としての儒教=儒學とは、區別して捉へる必要がある。
朱子學など、訓詁・註釋の學問は、本來シャーマニズムであつた儒教を理論化する爲に、色々な思想を持込んでゐる。だが、それでも論語の孔子の發言には古代の祭祀の氛圍氣が色濃く殘つてゐる。
白川氏が漢字の研究で言つてゐるのも、祭祀としての儒教の記録に使はれた漢字、と云ふ概念である。その記録に使はれた繪文字を、當時の支那人は、自分逹の知つてゐる語で呼び、結果として漢字の「音」が生れたのだらう。それは、音を寫す爲に漢字が作られたのではない、と云ふ事を意味する。漢字は、初めに意味を表象する目的で使はれ、後から音が附加された。と言ふか、そもそもどんな文字でもそんなものだつたのだらう。ただ、(嚴密な事實に基いた話でない事を御理解いただきたいが例として)「A」が「えー」と云ふ「音價」と結合した後、本來の役目としてそれが表象した意味が缺落して、はじめて表音文字となつたのに對し、漢字の場合、「字形が何かの意味を表象する」と云ふ繪文字の機能が維持されたのである。
平成十六年二月十三日
めも。
デュアルシーブ・ラボ
平成十六年二月十三日
掲示板のマーク附けなんて、
<dl>
<dt>投稿者名</dt>
<dt>日時</dt>
<dd>本文</dd>
<dd>……</dd>
<dd>本文</dd>
……
<dt>投稿者名</dt>
<dt>日時</dt>
<dd>本文</dd>
<dd>……</dd>
<dd>本文</dd>
</dl>
で十分ではないか。
あと、classとかidとかの屬性を附けておけば、スタイルシートでそれつぽくレイアウトも出來るだらうし、色々便利に使へるだらうけれども、その邊の記述の仕方は腦内補完して下さい。
平成十六年二月十三日
本日の買物。例によつて古書會館。
大島一彦『ジェイムズ・ジョイスとD・H・ロレンス』カヴァ缺
中村光夫『作家の青春――荷風と漱石――』フォルミカ選書3
坂口安吾選集。二卷と六卷。編輯・解説は、當サイトではおなじみ福田恆存氏。
原田義人譯『ゲーテの言葉』創元選書178
土居光知譯『ブレイク詩集』創元選書196
柳田國男先生著作集第七册『女性と民間傳承』

平成十六年二月十二日
服部四郎氏が時枝誠記氏を非難した時にも「ソシュールの言語学を誤解している」「ラングとランガージュを混同している」式の言ひ方をしてゐるのだけれども、「ラングの學問」に反對する人間に「ラングの學問」の信奉者のする非難のやり方はパターン化してゐる。「お前はラングを知らない」――そんなにラングと云ふものは素晴らしいのですかね。
平成十六年二月十二日
流行のものを知るのは結構だけれども、流行の調査は流行の研究以上のものとならない。
平成十六年二月十二日
殺人を犯さなければ殺人者の心理は解らない――それはさうかも知れないが、だからと言つて、殺人について研究する人間が、人を殺さなければならない、と云ふ事はない。
平成十六年二月十二日
阿辻哲次『漢字道楽』(講談社選書メチエ)は、漢字に關する知識を與へて呉れる本ではなく、精々隨筆集としか言へない本だが、はつきり言つて箸にも棒にもかからない無内容の本である。
良い本か、惡い本ならば、讀む意義はある。無内容の本は、讀む意義が全くない。
平成十六年二月十二日
「卷込まれ型」のお話しかない、と云ふのが問題。あにめにしても小説にしても。
平成十六年二月十二日
http://d.hatena.ne.jp/funaki_naoto/20040211#p3
いつもどうもありがたうございます。
平成十六年二月十二日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040212#p1
その「キリスト教的」なる概念も、結局、実際にキリスト教圏で起きたこと、という以上の理論を必要としない、単に帰納的に定義されるものにすぎないようだしね。高校で習うことだけど、数学的帰納法以外の帰納的推論は論理的には間違いです。注意。
歸納とか言つてゐるけれども、さう云ふものではないのだけれどもなあ。何か無茶苦茶高橋氏にとつて都合の良いやうに話を要約してゐるし。
高橋氏の「論理」では、比較文化學とか比較文學とかは成立たなくなるよ。でも、實際にさう云ふ學問は「ある」んだけれどもなあ。
どうして西歐の社會はキリスト教社會だつて事が、高橋氏にはわからないんだらう。常識の話をしてゐるんだよ。數學以外では歸納による推論が成立しない、だつて? そんな馬鹿な話はないよ。だつて、既に高橋氏が、俺の事を「ファシスト」だつて推測してゐるぢやないか。高橋氏は、どうやつてその推論を證明するのかね?
そっち方面の西洋哲学の成果には、野嵜さんが後生大事にしている「普遍」というものに懐疑的なものたくさんあるんだけどね。
だーかーらー。日本人が、自分逹と「同じ」ものにだけ注目して、「違ふ」ものを無視する、と云ふのは、良くない事ぢやないの?
どうしてそんなに高橋氏は、「わかり切つた事」だけを強調するのかねえ。どうして「自分と同じもの」を相手に見出したがるのかねえ。どうして高橋氏はそんなに「俺」の世界に引籠りたいのかねえ。
日本に限っても、仏教宗派はたくさんある。例えばうちのおとんの家は真言宗、おかんの家は浄土真宗なわけですが、真言宗と浄土真宗とで比較すると、同じ仏教だからと簡単に割り切ってしまえるものではない。本尊も違えば価値観も違うし、風習もいろいろ違う。やはり違う宗派であり、個別に学ばないと難しいと思う。
「本尊」の性質も、「価値観」の性質も、同じだよ。名前と、細かい部分が少しだけ違ふだけだよ。もちろん、さう云ふ違ひを研究するのは、佛教學の専門家なら、したら良い事だ。けれども、今は、佛教の範疇を越えて、文化の範疇の話をしてゐるんだよ。「日本の文化」における現象として見れば、浄土宗も眞言宗も、同じやうなものだ。高橋氏の注目するやうな「違ひ」を殊更強調し始めたら、「日本文化」と云ふ概念自體が崩潰する。世の中には、共同體が存在しなくなつて、異る個性を持つた孤獨な人間の集合體があるだけになつてしまふ。しかし、地上にはやつぱり異る文化圈が幾つも存在すると言つて良いだらう。そして、異る文化圈であるならば、互ひに異る所があるものだ。
高橋氏は、佛教の宗派の違ひに注目する癖に、どうして文化の違ひには注目しないんだらう。とても不思議だ。
逆に、「似てゐる」と言ふならば、人間ならば必ず似てゐる所はある筈だ、と云ふ事になる。しかし、それではお話にならない。
平成十六年二月十二日
前にも言ったし、話がループするのはやなのですが<自由についてどう考えているか 法的・政治的な権利とは、目的達成のための道具です。そもそも政治自体が、個々人がそれぞれの目的を達成するための道具です。
では、あなたの目的は何ですか。
野嵜さんが言う「キリスト教的」というのは、「キリスト教社会の現象」のことなのですか? だとすれば、歴史的に自然科学も近代思想もキリスト教社会から発生した以上、それがどの程度キリスト教の特性に依存してるかの議論をまったく行う必要なくそれは「キリスト教的」だということになってしまいます。激しく徒労感。
どの程度キリスト教の特性に依存してるかの議論は既にされてゐるんだけどな。何でもかんでもキリスト教的と言つてゐるんぢやないんだどな。全然解らうとしてゐないよ、高橋氏。徒勞感を覺えてゐるのはこつちだよ。どうしてわからないんだらう。
ラノベの読者層とギャルゲやエロゲのユーザ層はそこそこ重なってると思いますがね。
と言ふか、重ねなければならない必然性がないよ。小説は小説。ゲームはゲーム。プレイヤーに選擇させるゲームと、讀み手に一貫したストーリーを讀ませる小説とでは、本質的に方法論が異る、と云ふ事もわかつてゐないんだらう。小説は、近代に發生したものだけれども、ゲームに比べればオーソドックスなメディアなんだよ。ちなみに今の文脈で言つてゐる「ゲーム」は、ゲーム一般ではなくて、えろげの類を指す。もう一つちなみに、ここで言つてゐる「文脈」は、高橋氏の愛してゐる特殊な意味の用語ではなくて、一般的な用語の方。
流行を拒否し、普遍的な価値の為に物を書く。えらくゴシックな純文学指向ですなあ。本当はそちらがやりたいんですか?
ゴシックつて何ですか。
別に流行を拒否してゐるんぢやないけれども、流行に乘ればそれだけでどうにかなる、と云ふものでない事は、高橋氏、わかつてゐますか?
野嵜さんには、オタ文芸評論の用語は全部「隠語」なんでしょうね。
わかつてゐないんだよこの人。隱語を使ふのが「かっこいい」とでも思つてゐるんだらう。普通の言葉で喋れ、つて言つてんだよ。使うとなにごとか素敵なものを語った錯覚しやすいのが怖い。と指摘されてゐるだらう? あんたもほかの人も、その手の言葉をわかつて使つてゐるのかね。言葉を「それつぽくきこえる」から使ふ、と云ふのでは困るんだよ。
平成十六年二月十二日
ロバは旅に出て馬になつて歸つて來る訣ではない、と山本夏彦氏が良く言つてゐた。
何でも經驗すれば良いつてものではない。
平成十六年二月十二日
と言ふか、變なところで異樣に專門的な方面に話を持つていきたがる――それも文脈を無視して――と云ふのは、明かに西歐の學問を表面的にしか理解してゐない日本人の「適應異常」の顯れと言つて良いだらう。
平成十六年二月十二日
と言ふか、細かい所で論理的に考へる恰好をしておきながら、全體として一貫性を缺いてゐる、と云ふ事の問題は、高橋氏にとつては問題ではないやうです。
全體の大筋が見えてゐないのは、結局のところ、「わかつてゐない」のです。
平成十六年二月十二日
http://d.hatena.ne.jp/Tskk/20040212#p3
小林秀雄が飮屋でアメリカの駐留軍の兵隊を相手に、日本語で話をして、感動させて泣かせたとか云ふ話もありますが。
「同じベンチに腰かけた見ず知らずの男と、會話は無くとも或種の意識が成立してゐる」と云ふ喩へ話もあつて、窮極的には言葉なしの「我と汝」の關係も成立すると言へば言へるのだけれども、ここはウェブだ。
と言ふか、「コミュニケーション」の意味が、微妙にずれてゐる。
ちなみに、communicateには、The Pocket Oxford Dictionary (8th Edition)"によれば、以下のやうな意味がある。
  1. impart, transmit (news, heat, motion, feelings, disease, ideas,etc.).
  2. succeed in conveying information.
  3. (often followed by with) relate socially; havedealings.
  4. be connected.
「感情などの共有」と「情報の傳逹」とは、區別すべきだ。
何かを学ぶためには成功と失敗の両方の応答が必要です。以下の文章は、説得術の話ですか?
この種の、共通點を見附けて、相手との宥和をはかる、と云ふ發想も、日本人的なものと言へます。しかし、そればつかりやつてゐても、仕方がないでせう。直ぐに意見の對立を解消させてしまつて、それで生れるのは「コミュニケーションをしたぞ」と云ふ達成感だけでしかありません。それは、自己滿足と同義でせう。自己滿足が目的ならば、コミュニケートする意味はないのです。
そもそも、自分の事を自分で正當に判斷する事は不可能です。だから、議論でも、自分で自分の判斷を極附けてはならないのであつて、「自分は正しい」と云ふ態度を演ずる以上の事は出來ません。第三者が、その演じられた正義の衝突を見、あれは正しい、これは間違ひだ、と判断し、取捨選擇して意見を採入れれば良いのです。
ウェブでの論爭は、公開の場の論爭であり、公開の場の論爭は、多數の觀客のゐるショーであつて、一對一のコミュニケーションとは別物です。コミュニケーションなら、メールなりメッセンジャーなりで個別にやればよろしい。
平成十六年二月十二日
それも前に言いましたが、「エロゲを書きたいし読みたい」それだけです。
何でエロゲなんですか? エロゲを書いたり讀んだりする目的は何ですか?
議論をつめたところで「キリスト教社会の現象ですよ」で全てをぶちこわしにするのはやめてくださいよ。
近代の二元論は、伝統的なカトリックの哲学から逸脱するけれども、飽くまでキリスト教社会から出てゐる価値観だと言つてゐる。そして、「新しい價値觀」も、キリスト教出自なら、キリスト教を理解しなければ解らないに決つてゐるだらう。
近代以前のカトリックの哲学において、二元論はどちらかの優位の元に回収されていた。近代の二元論はそのように一元的に解決せずに問題を分離するところに新しさがある。
だが、二元論だ。
選択肢にこだわるゲームの読み方も、今のゲーム表現を語る上ではちょっと古いかと。
だが、それがゲームだ。
では、頑張って流行に乗らずシェイクスピアみたいなのを徹底的にやればいかがですか? ラノベやアニメなんかやってないで。
やりたい事だけやつて生きて行けたら、そんなに樂な話はない。
貴方の「キリスト教的」よりはよほどちゃんとした用語だと思うけどね。<文脈とかコードとか。
キリスト教のどこがちやんとしてゐないのかね。「文脈」も「コード」も、所詮鉤括弧附きの用語に過ぎない。
貴方の「西欧的」「キリスト教的」なる概念はいっぺん崩壊させたほうがいいと思う。
あんたは、まづ一度、キリスト教の概念をいつぺん、きちんと確立させた方が良い。きちんと立つてゐないものを崩潰させるのは不可能だ。
自分の国の文化のことなのに、あまりに大雑把すぎませんか?
あんたのは細かい處では細か過ぎる癖に、全體として支離滅裂ぢやないか。その方が出鱈目だ。
たまたま日本人と似ているだけで、それも西洋思想ですよ、と言ってるのだけど。
似てゐる事ばかり強調するのは何うか、と言つてゐる。
それを無理矢理「日本的」の側に分類し、「西欧的」だの「キリスト教的」だのという怪しい概念との対立構造をしたてようとしているのは、貴方のほうでしょうに。
日本の側に分類などしてゐない。西歐のものは西歐のものだ。だが、その西歐のものの中で日本のものに似てゐるものばかりを高橋氏が重視し、ほかのものを默殺しようとしてゐるのはをかしいと言つてゐるだけだ。
高橋氏が一方的で絶對的なものの見方をしてゐるから、俺は相對的な物の見方を提供してゐるだけだ。高橋氏は、それなのに自分の一元的なものの見方が絶對に正しいと言張り、俺の相對的な見方を絶對的と極附けて非難してゐる。高橋氏は、自分を否定すべき文句でもつて、俺を罵つてゐる。
平成十六年二月十二日
真言宗やら浄土真宗やら禅宗やらについて、高校の日本史で習う程度の概略的理解でも、その違いは分かるはずだ。即身成仏とか悪人正機説とか、そのくらいの言葉は知ってるでしょう?
とすると、高橋氏は、その程度の知識で「違う」「違う」言つてゐる訣か。馬鹿か。
俺が論理論理と言うようになったのは、単に貴方に対して強度を持つ言葉は論理しかないようだと理解したからです。俺自身が論理性を重視しているのではまったくないですよ。
「改変コピペ」の類ですか。相手のやつてゐるのと違つた事をしておいて、「真似です」と言つても仕方がないだらうに。
論理学ってのは、本気で追求するなら、そもそもおそろしく専門的で難しいものなんですよ。
そんな事を俺が知らないと思つてゐるのか。
例えば、さすがに高校では習わないかもしれないけど、キリスト教と仏教について語ろうというなら、「景教」についても一定の見解が欲しいところではある。
關係ない。何でも知識をひけらかせば良いと云ふものではなからう。
何と言ふか、ヲタの良くやる知識ひけらかし合戰を高橋氏はしたがつてゐるらしいな。問題は知識ぢや無いんだよ。もちろん、知識は無ければ話にならないが、持つてゐる知識をきちんと綜合して考へる事が大事なんだよ。高橋氏は、瑣末な知識は幾らでも持つてゐるやうだが、それらを統一するものがない。
で、高橋氏は「日本と西歐とは全く對立しない」と本氣で考へてゐる? 日本は西歐と全く同じだと? 冗談を言ふなよ。
平成十六年二月十二日
佛教の宗派の違ひなんてものは大した問題ではない。日本は「神道の國」だし、神道の神樣は佛教の佛樣だ。神佛は習合してゐた。そして、それで皆「いい」と思つてゐた。宗派の違ひだの何だのといつた細かい事は、日本人にとつて「どうでも良い事」だつた。本當にどうでも良いと云ふ訣ではないにしても、別に深く考へる必要は全然なかつたし、一般の信徒がそもそも本氣で宗教を信じてゐた訣ではなかつた。江戸時代の檀家制度は、きりしたん取締りの一環で作られたものだと云ふのは高橋氏も良く知つてゐる事だらうが、飽くまで政治的なものだ。眞言の寺の檀家の人間と、眞宗の寺の檀家の人間とは、平氣で附合つてゐた。或は、或宗派の僧侶が、別の宗派の僧侶を惡魔呼ばはりしたりした事は殆ど無い。カトリックとプロテスタントがやつたやうな宗教戰爭は、日本にはない。
日本人はさう云ふ國民だ。
平成十六年二月十二日
と言ふか、高橋氏は、専門的? とか細かい言葉遣ひをつついて揚げ足を取るばかりで、こちらの言つてゐる事を全體として把握しようとしない。
細かい部分で誤があつたら、その部分を幾ら積上げても全體として誤になる、と言ふかも知れないが、高橋氏の場合、「正しい部分」を寄集めると全體として矛盾だらけになつてゐる、と云ふ問題がある。その方が餘程重大な問題ではないか。

平成十六年二月十一日
極東ブログ: 白川静は「と」だと思う
まず、漢字であれ、それが言語なら言語を扱う原則に従わなくてはいけない。それは、言語とは「音」であって、漢字などは「表記(Writing System)」だということだ。だから、漢字の意味というのは、「音」に付属するのものである。そして、表記は音を写し取る性質を持つ
言語というのはソーシュールの言うラングである。ラングは音の体系だが、以上のように、表記の体系は音から写像されるものだ。
ソシュールは、「言語をありのままに分析する事は不可能である。言語の中のラングのみが、記號學として、研究可能である」と述べただけです。「言語はラングである」と云ふのは所謂「ソシュール言語學」の誤解釋です。
また、音聲言語があつて記述言語も存在するのですが、記述言語は成立してしまつた瞬間から音聲言語と相對的に獨立した存在となります。
漢字が呪術的な符号であるとき、それは、言語の表記システムではない、ということが重要だ。呪術符号なら、それは、謎の神秘的な概念を表すのであり、特定の呪術集団のなかでその理解のレベルが階層化される。例えば、その教団の師匠のみが「器」なる呪術の意味を体得しているが、平信徒にはその意味が卑近にしかわからない、といった感じだ。つまり、ここにはコミュニケーションのモデルがない。共通に理解できるコードにはなっていないのだ。
そもそも、同じ「階層」の人の間でも、言語の理解は異る、と言ふか、個人個人で理解の仕方は異るものです。
また、異る「階層」の間で理解の仕方が異るとしても、だからと言つて、その「コード」によるコミュニケーションは成立しない、とは言へません。文系の人間と理系の人間とが、それぞれ異る發想の下、別の場所で、異る語彙を使用して話をしてゐても、日本語は日本語です。
漢字の起源にそのようなものが関係しているとしても、我々東洋人が継承している漢字について言えば、そんな呪術は無意味なのである。
漢字を體系的に採入れた時點で、日本人は漢字の體系も受容れてゐます。そして、漢字の體系は、漢字の原義に基く體系です。つまり、呪術的なレベルでの漢字の研究は、漢字が言語の表記システムであるという点から見れば、まったく無意味な作業なのだ。とこの文章の筆者は斷定的に述べてゐますが、亂暴な話です。言語は、ソシュール風に言へば、音と意味との結合したものなのだから、音だけに基いて言語を考へてはいけないのです。
あるいは、その作業を行うなら、その呪術集団を特徴づけるしかなく、しかも、その呪術集団の単一性は保証すらされていないのだ。
支那の呪術集團が複數あり、それぞれが異る原理で行動し、思考してゐた、と考へる必然性はありません。近世的な儒教が成立する以前、シャーマニズムの儒教が存在した、と考へる事は十分、可能です。
漢字の研究は、それが、表記システムとして共通のコード化された状態をいわばラングのように、共時システムとして取り出し、そのモデルのなかで、まず音と意味のネットワークが考察されなくてはならない。端的に言えば、漢字の語源は、音に意味を与えなくてはいけない。
實際のところ、白川氏が音を無視してゐるかと言ふとさうでもないのですが。
しかし、そもそも、西歐のアルファベットをベースとしたソシュールのラングの學問の原則を、そつくりそのまま表意文字である漢字の研究に適用せよと言ふのが無理なのですが。
さらに、漢字は表記システムとしては、つねに、リプレースしていく性質を持つ。つまり、より単純な代替文字や、より頻繁な文字に置き換わる性質がある。これは、おかしなことに現代日本でも行われているが、ある意味で、漢字という表記システムの持つ自然的な傾向なのだ。
それは何うだらう。寧ろ、漢字は表記システムとして、常に原形を保存する傾向がある筈ですが。字形の變化は問題にならないし、別の意味の語で置換へられるのは單なる單語の消長でしかない。
と言ふか、2ちゃんねるで白川静が「と」じゃねーのということで話題になっていた。ふーんという感じだ。やっぱ、白川静は「と」だと思う人は少くないようだ。やっぱなと思う。と言つてゐるけれども、元のスレ(http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/kobun/996415552/)を見ると、白川氏は「と」ではない、と云ふ話になつてゐるんだなこれが。
平成十六年二月十一日
人間通になる読書術(松原正) 復刊リクエスト投票
平成十六年二月十一日
「漢字文化の今」レポート
平成十六年二月十一日
俺が今問題にしている「表現の自由」は、法や政治思想を展開する上で定義される規約に過ぎない。その外でまるで実在するもののようにそれについて考えることには興味が無い。
なぜ問題にしなければならないのか、と云ふ質問を躱すのが目的でこんな事を言つてゐるんぢやないでせうね。高橋氏、どう云ふ訣か自分の意圖とか動機とかを匿すのが好きなやうですが、「怪しい」と見られても知りませんよ。詐欺師は、常に善意を裝つて儲け話を持つて來ます。騙されない爲に、人は儲け話の有效性と同時に、儲け話を持つて來た人間の目的を疑ふものです。そして、高橋氏も私の目的を「政治的ではないか」と勘繰りました。當然、高橋氏の目的も、勘繰られるべきでせう。そこでその外でまるで実在するもののようにそれについて考えることには興味が無い。と宣言したとしても、信用されるものではないでせう。
それは、日常生活におけるサッカーのハンドのルールについて考えているようなものだ。
この譬喩は、不適切であるやうに思はれる。
サッカーのルールはサッカーの中でしか通用しない。しかし、「表現の自由」と云ふ法や政治思想の「規約」が法や政治思想の中でしか通用しないものであるとは考へられないからだ。
「表現の自由」は日常生活から遊離したものである、と云ふのが高橋氏の意見なのだらうか。
或は、高橋氏の論法で行けば、「日常生活において法や政治思想について考へる事はナンセンスである」と言ふ事だつて出來てしまふのだが、それについて高橋氏は何う考へますか。
と言ふか、高橋氏の場合、戰略的に「考へない」殊に拘つてゐるのは,ばればれなのだが。
平成十六年二月十一日
二元論というのが、西欧近代を支えた心身二元論のことなら、それはデカルトの発明であり、キリスト教の最初からの本質と見るのは無理では。
心身二元論は、キリスト教的な二元論から派生したものに過ぎない。と言ふより、キリスト教社會では、二元論的に物事を把握する事が多い、と云ふ事。と言ふか、キリスト教社會で二元論的に考へる習慣があるから、デカルトも二元論的な發想をした、と云ふだけの話だ。デカルトは「發明などしてゐない」と言ふ事も出來る。デカルト以前から、二元論は「あつた」のだから。
平成十六年二月十一日
18禁のえろげをやつてゐないから何う斯うと云ふのは、根本的にをかしい。ライトノヴェルのターゲットは、基本的に十八歳以下の中學生、高校生だからだ。
ウェブでこれだけえろげ情報が溢れてゐるのに、わざわざ「ゲームをやる」必要があるのかね。
ヤマトにしてもガンダムにしてもエヴァにしても、流行つただけで、別に物語なるものに革新を起した訣ではない。小道具・大道具の發達、「世界觀」の變化、と言つた者はあつたが、人が「面白い」と感ずる部分での變化は過去から現在まで全く無い。人の精神は進化してゐない。
ちょっと昔ならエヴァ的な表現とかも流行りましたけど、これも、原典を知らずに面白い表現だと評価すればそれは阿呆でしょうよ
あとこの指摘なのだけれども、一次審査の段階でそのやうな理由で評價されて通つたとしても、上ではじかれるから問題ナシです。で、「えろげ的な流行を採入れてゐて、面白い筈なのに、詰らないとして落してしまふ危險性だつてあるのではないか」と云ふ批判もあり得ますが、流行を採入れたからといつてそれだけで小説が面白くなる訣がありません。巧い採入れ方をしてゐれば面白く讀める、と云ふだけの話です。パロディ作品であつても、「パロディだから面白い」とか、さうい云ふ事はないのであつて、パロディとは別の次元の面白さがある事は、一般に面白がられる爲に必要な事です。
シェイクスピアの御芝居は、王侯貴族も樂しみましたし、一般庶民も樂しみました。そして、過去のイギリス人のみならず、現代の日本人も樂しみ得ます。もちろん、シェイクスピアの芝居には、當時の人間にしか解らない小ネタもあつたでせうし、イギリス人でなければ理解出來ない概念も含まれてゐます。だからと言つて、日本人は絶對に樂しめない、等と云ふ話はない。物語の面白さには、表面的な面白さと同時に、本質的な部分での面白さがある筈であり、それがないものが詰らないものなのだと考へれば、別に「同時代的なもの・流行のものに關する深い知識がなければ、現代的な小説を鑑賞する事は出來ない」と極附ける理由はありません。
平成十六年二月十一日
反論を想定するのは私も事実として肯定しています。反論以外の相手の反応を想定しているかが問題です。「そうか!とうとう分かってくれたか!友よ!」という類の野嵜氏の反応を想像できないのですが、それは私の偏見でしょうか。
意見に對する反應は「贊成」か「反對」かのどちらかになる筈ですが? 「反對」以外に「贊成」しか考へないのはをかしい、と言はれても困るんですが?
野嵜氏の自己言及的な認識=意味の次元で見るとそうなるでしょうね。でも、コミュニケーションによって何が起きているかという現象のレベルで見ると、私のような解釈になります。
何と言ふか、コミュニケーションと、意味の理解とを、排他的に考へてゐるらしいのだけれども、「相手の言つた事を理解しないでもコミュニケーションは成立する」と云ふ考へ方は、理解出來ない。
と言ふか、どうして私の見方でなくTskk氏の見方で見なければならないのでせうか。その邊の必然性を、Tskk氏も全然説明しようとしません。ただ「かう云ふ見方ある」と、可能性の話をするだけです。
平成十六年二月十一日
とかちゃんの「ほけほけ日記」、2月11日の邊。「『ファシスト』について」。
平成十六年二月十一日
現代において、「紀元説」「建国記念の日」に關する右翼と左翼の言論は、それらに對する不快感を増幅するやうな形にしか働かない。感情論だからである。
平成十六年二月十一日
いつの間にか焼き鳥が赤いキツネになった模様だ。
Thunderbirdは緑のタヌキ。
Firefox への道のり 2004-02-10 @ [えむもじら news(2004/1-2)]
平成十六年二月十一日
それはパロールの問題だろう。総じて、ラングとパロールの違いを理解されていない印象を受ける。
私が述べたのは、漢字の研究を言語の研究にするということ。
ラングの學問と言語學とは違ふのだが。ソシュールの學問は飽くまで言語の中のラングについてしか分析しないと云ふ立場の学問で、言語の学問ではないのだ。それがわかつてゐない。
音素をたまたまアルファベットのような記号で表記するだけで、諸言語に適応できる、と言つてゐるが、表記言語は音聲言語の影ではない。と言ふか、音素についての研究を、漢字の研究の批判に使ふのは、どうかしてゐると思ふ。漢字は音素を寫したものではないのだから。
白川静が音を考慮していないわけでもないということなど、当方、知ってはいるが捨象している部分でもある。
さう云ふ捨象をしてする批判が、正當な批判になるのだらうか。なる訣がないだらう。「俺は白川氏の××を無視する。すると白川氏は××について觸れてゐない事になる。だから白川氏は間違つてゐる」――かう云ふ論法が「トンデモ」である事は明かである。
また、極東ブログのこの見解は、欧米の言語学の基本原理のままだが、中国語学なり漢字の学では異端であるだろうとも思う。
實際のところ、日本人の理解してゐる欧米の言語学が、本來の歐米の言語學と全然異るものである事も指摘しておく必要がある。
平成十六年二月十一日
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2004/02/post_23.html#c63390
一点目は、漢字を考えるとき、それをラングから見るということだ。
これは、言語を言語として見ない事になる。言語の中の記號的な側面しか見ない、と云ふのは、ソシュール言語學の致命的な缺陷なのだが、この人もその缺陷を缺陷と認識出來てゐないらしい。
闇黒日記の批判点の大半はパロールの領域なので、問題点を失当している印象を受けた。
白川氏の研究を、「ラングの學問」の觀點から批判してゐる事がそもそも問題なのである。
音声言語とはspeechであろうか。記述言語とはdescriptive languageということだろうか。
この邊は、知つてゐてとぼけてゐるのだらう。
「パロール」の事を扱はれると、「白川氏の研究はトンデモである」と極附けられないから、故意に「ラングの學問」を「言語學」であると言張り、「ラング」の中に閉ぢ籠つてゐるのである。しかし、「ラング」は言語そのものではないのだから、「ラングの學問」は「言語の學問」ではない。はつきり言つて、「ラングの學問」を「言語學」と譯すのは誤譯である。そして、ソシュールの「ラングの學問」を、言語の學問で唯一正しい研究方法であると極附けるのは、間違つてゐる。
私は漢字を、古代中国語の音と意味の組織であるラングとして(その写像として)捕らえるべきだと前回主張した。暗黒日記の指摘は確かにそれに真っ向から対立する。
言語と、言語の中のラングとは別物である。言語を研究する際に、ラングの側面からしかしない研究は、限定的な研究である。ソシュールは、「ラングの側面からならば、分析的に研究する事が出來る」と主張して、言語の研究の中のラングの研究のみを「研究可能」と主張したに過ぎない。しかし、それゆゑに、「ラングの研究」だけでは言語の研究として不十分なのである。
というのは、私は漢字の体系を音の体系の写像としているので、日本人がそれを受容することはありえないと考える。
漢字は、表意文字であり、漢字の一文字が英語の一單語に相當する以上、音の寫像として研究する事は不適切である。
日本人が受容したのは、その表意性の記号である。
「音と意味とが結合して記號となる」と云ふのがソシュールの「ラングの學問」のテーゼである。表意性の記号なる言ひ方は、ソシュールの「ラングの學問」では成立たない。
ソーシュールの言語学は西洋のアルファベットなどベースとしてはいない。音素表記の記号がアルファベットに似ているというだけだ。
これは、例えば、"I love you."という表記で、Iを「われ」、loveを「このむ」、youを「そなた」と日本語で訓じれば、同じことなのである。と書いてゐる人間に對する批判とならう。
漢字が意味を表しているというのは当たり前だろう。だが、同時にそれは不十分な対応ではあるが音を表している。そして、ここが重要なのだが、漢字の意味とは、その音が担っているのである。
不十分な対応ではあるが、と云ふ言ひ方をしてゐる時點で「ごまかしがある」と言へる。しかし、同時に、ここが重要なのだが、白川氏は、漢字の音が擔つてゐる意味ではなく、漢字の語形が擔つてゐる意味について、研究したのである。
くどいようだが、漢字の意味とは、漢字の字面が担っているのではなく、それをどう読むか、つまり音価を与えるか、によって、初めて、コードとして成立するのだ。
コードとして成立するかどうかは、例の「コミュニケーション」の議論と一緒で、「通じなければ言語ではない」と云ふ考へ方である。しかし、これがナンセンスな説なのである。漢字で書かれた文章を、我々は音自體で理解する事が無いからである。本人も、あまりいい例ではないが、と言つてゐて、實際、當人にとつては良くない例なのだが、例えば、日本語で「その人の話を聞く」と「その人に訊く」では後者は文科省的ではないが、漢字表記を便法にして意味を分けて表記できる。だが、日本語というラングのレベルでは同じく「きく」であって、それが多義的な意味を持つだけだ。と書いてゐる。この多義的な意味を持つの意味の多義性を、「同じ『きく』」であると看做す事、これがそもそもごまかしである。明かに、「聞く」と「訊く」とでは、意味が異つてゐる。そして、その意味の違ひは、書かれた文字によつて理解出來る。別の言ひ方をすると、「音聲レヴェルで區別出來ない」のは、「同じ意味なのである」と云ふ事ではなく、「音聲が同じである」と云ふだけの話である。そして、漢字の意味の違ひは、字形の違ひに基いてゐる。ならば、我々は、字形の違ひに注目しなければならない。今、ラングの側面に注目しても、何も出て來はしない。寧ろ、ラングのレヴェルで「同じ」ものを、なぜ漢字では別に書かなければならないのか、と考へ始めるべきである。そもそも、支那の文字である漢字について、「訓讀み」で「同じ」とか「違ふ」とか言つても始まらない。支那では、「聞」と「訊」とでは、もともと意味が違ふのである。
だが、今の例の場合、もう一つの意味でいい例ではない。漢字は、支那では長い事、漢文を作るのに使はれた。そして、漢文は、口語とは全然違ふものだつたのである。日本でも、漢文の讀み下し文と、口語の文章とは異る。支那でも、漢文と、白話とは異る。くどいが、音価のない漢字はコードとして存在しえないのである。と書いてゐるが、實際のところ、漢字が音と獨立してゐるから、別の地方の別の言葉を用ゐる人同士が意思疎通をはかるのに、漢文を媒介に出來たのである。日本で漢文調の文章が使はれたのも、參勤交代で江戸に出てきた地方の武士が、互ひに言葉が違つて話が出來ないので、事實上の標準語として使用したのだ、と云ふ話がある。
だから、漢字の語源というとき、一義的に問題となるのは、その漢字の音の持つ意味であり、その音がどのように漢字の形態に組み合わされたり、表意性において補足されているかということが研究の課題になる。
音ももちろん、漢字の字形の一部で表現されてゐる場合はある。しかし、漢字の字形は、音のみならず、象徴的に指示する意味をも持つてゐる。そして、「ラングの學問」の側面からしか漢字を見ないのは、漢字が「象徴的に指示する意味」の側面を捨象する事になつてしまふ。「ラングの學問」の觀點ではそれで十分なのだらうが、ラングは飽くまで言語を構成する一部分である。言語をトータルな形で理解する爲には、分析の爲に捨象されてきたものを掬ひ上げる事が必要なのではないか――さう云ふ理由で、白川氏は意圖的に「ラングの學問」と異る方法論を採用したのだらう、と私は考へてゐる。その邊の白川氏の意圖も、理解してはいただけないだらうか。
平成十六年二月十一日
極東ブログ: 仏教入門その1
唐木順三は『正法眼藏隋聞記』を薦めてゐた。岩波文庫の和辻版よりも筑摩叢書(今、ちくま学芸文庫)に入つてゐる水野版の方がよろしいと、唐木氏は述べてゐた。
平成十六年二月十一日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20040211#p1
平成十六年二月十一日
野嵜さんが法的でも政治的でもない文脈で使っている「表現の自由」という概念を俺は知らないし、興味もないのです。/「表現の自由」が問題になるのは法的政治的な文脈でしかありえないでしょう。
と言ふか、「自由」について、高橋氏は何う考へてゐるんですか?
そもそも、政治とは何の爲にあるものだと思つてゐるんですか?
それらを、高橋氏は體系的に説明出來ますか???
デカルトの心身二元論は、カトリックの枠内に収まるものではありませんよ。
デカルトが、キリスト教の二元論を前提に、それを乘越える二元論を作らうとした現象は、キリスト教社會の現象ですよ。
今のオタ文芸評論は、ときメモを語る前にKeyやageやニトロプラスやTYPE−MOONを語るのですよ。
オタ文芸評論をやつてゐる連中と、ライトノヴェルの讀者とは、一致しませんよ。
(一部の)エロゲこそが、今のオタ文化の流行発信基地だ。
流行なんてものはそれ自體、ナンセンスだと、何度言つたら分るんでせうねえ。流行を追つかけても仕方がないんですよ。小説の讀者は、小説が流行に乘つたものか何うかで讀むのではないのですから。小説が面白いか何うかで讀むのですから。「新しい」「古い」なんて事に拘る方がをかしいんですよ。
暗黙に自分の育った頃の文脈やコードを前提にしてしまい、年を取るごとに若い作品が分からなくなっていく。
私の「文脈」「コード」は、プラトンとか、アリストテレスとか、聖書とか、パスカルとか、シェイクスピアとか、キルケゴールとか、ニーチェとか、マルクスとか、以下略、だから、古くなるも何もないですよ。
と言ふか、使うとなにごとか素敵なものを語った錯覚しやすいのが怖い。、と云ふ指摘もありますが。
何より、「文脈」と言つたら文章の中での文の続きぐあい。また、文の中での語の続きぐあい。のやうな常識的な意味で、「コード」は「電線」や「ケーブルの親戚」みたいな具體的なものの名稱として、使ひたいですね。「隱語」は良くないですよ、文藝的な「隱語」もです。仲間内でしか通用しないものですから。音樂の用語としてもコードつてありましたが、それはそれで問題はないと思ひますが、文藝用語としては如何かと。
或は、言葉には使用者の主觀の入るものだと考へて、その種の專門用語を用ゐる場合にも、事前に自分の定義を簡單に述べておく、といつた用意が必要でせう。
と言ふか、その種の熟してゐない語は用ゐたくない。信用出來ないからだ。

平成十六年二月十日
掲示板に「他人の意見を『間違っている』として否定するのは、その人の個性を否定する事だから許されない」と言つて、私の意見を「間違っている」と極附けてゐる人が來てゐるのですが、その矛盾を指摘すると「個性と言って言い逃れするのか」と來ました。「個性」と最初に言つたのは誰ですか。
何を考へてゐるのでせうねえ。
平成十六年二月十日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040210#p1
十年前の文脈で今採点されても困ります。
なんか「文脈」なる語が目茶目茶な意味で使はれてゐるんだけれども。
高橋氏の思つてゐるほど、世間の人はトレンディなヲタネタに期待してなんかゐないよ。基本的に一次審査の場合、「讀める」小説になつてゐるか何うかだけが問題なのだから、最初から最後まで通して讀めれば大體通すものであつて、内容が世間的に受けるものか何うかとかを考へて、出版するか否かの判斷をするのは、あとのはなし。
あるいは、作品構成や文章技巧などの純粋に技術的な評価だけなら時流と関係なく出来るかもしれない。でもそちらのサイト上の作品にもしご自身で満足されているのであれば、野嵜さんに技術的評価能力があるかは疑わしい。
それはどうだらう。高橋氏があんな小説で滿足してゐながらシナリオライターとしてやつてゐるのを見れば、俺が審査員をやつてゐてもをかしくない筈だが。
あと、文章を書く人間は、自分の文章に滿足しないものだ。「哲學者の神」等と言ふまでもない。文章で表現した事と、考へてゐた事との肌觸りが違ふものとなつてしまつた事を、ものを書く人間は大概、自覺してゐるものだ。
批評のセンスと詩のセンスとは對立するが、優れた詩人は優れた批評家であり、優れた批評家は優れた詩人である、と言はれる。現代の思想家の文章は、詩人の文章ではない。だから俺は現代の思想家を信用しない。
平成十六年二月十日
アインシュタインの神とキリスト教の神も、神道の神とキリスト教の神と同様、イコールではありませんが。
別にイコールだと言つた覺えもありませんが。
貴方の言う「キリスト教的」が、現実のキリスト教そのものではない以上、そこが説明されないと、何がキリスト教的かというのが貴方の恣意的判断でしかなくなる。
『我と汝』は最う讀んだんですか? T.S.エリオットとか、チェスタトンとかは?
キリスト教を一言で定義して、その定義を基に全てを説明しろ、と言はれても、無理ですよ。
ただ、キリスト教社會の人間だから、アインシュタインだつて最後に「神」と言つたんですよ。
都合よく論理性を採用したり放棄したりするのは
都合よく、と云ふ私の意圖を推測したやうな言ひ方をするのは、そもそも高橋氏の「他人の意圖は推測不可能である」と云ふ主張に反します。
もつとも、直後で、道徳と政治を峻別する際の貴方の基準が、恣意ではなく論理的必然であると証明できればいいんですけどね。と言つてゐるのは腰碎け。この時點で、高橋氏が「假定を根據に斷定的な結論を下す」誤を冒してゐる事は明か。私の政治と道徳の峻別は、キリストのやつた事の眞似だから、私が恣意的だと非難したいのなら、高橋氏は、そもそもキリストが恣意的だつたと證明するか、私がキリストを眞似し損ねてゐると證明するかしなければなりません。そのいづれも、高橋氏はしてゐません。
僕が野嵜さんをファシスト(全体主義者)と呼んだのは、人権を制限することに関する物言いの粗雑さに対してです。個人の人権を、社会全体の利益(秩序や道徳など)のために犠牲にしようという考え方は、全体主義的です。
ふざけないで貰ひたい。何處の社會に、個人の人權を制限しない社會があるんですか。
と言ふか、自由の觀念について、高橋氏こそ粗雜な言ひ方をしてゐる。人間が自由を感ずるのは一體、どう云ふ時であるか、と云ふ事を、高橋氏は一度でも考察した事があるのだらうか。
福田恆存が、「人間・この劇的なるもの」やシェイクスピア關係の論文で、自由の感覺に關して言つてゐるので、高橋氏にも讀んで貰ひたいものだ。無制限の自由で人は滿足しない。人は自由に振舞はうとしながら、結局宿命や運命に敗れ去る。その瞬間、最大の自由を感ずるものだ。――と福田氏は述べてゐる。
人をファシストとののしる以上、俺はそれなりに考えてやりましたよ。貴方の脊髄反射的なレッテル貼りと一緒にしないで下さい。
フロイドの心理學から言へば、高橋氏は今、自分の動機を自白してゐる。高橋氏は、自分のやつてゐる脊髄反射的なレッテル貼りを他人の所爲にしてゐるのだ。
平成十六年二月十日
あと、人をファシストとののしる以上、俺はそれなりに考えてやりました貴方の脊髄反射的なレッテル貼りと一緒にしないで下さい。と云ふ末尾の文章の文體が、非常に多くの事を語つてゐる事にも注意。と言ふか、「貴方」と言ひ始めた時點で、高橋氏はキレ始めたな、と思つた。
平成十六年二月十日
あと、文章で表現された筆者の像が、現實の筆者と一致するとは限らない、と云ふ事は事實だと思ふよ。けれども「筆者の意圖を讀み手はわからない」と主張する高橋氏が、その邊の事を全然悟つてゐないらしいのである。殘念な事だ。
俺だつて、嫌ひと言つてゐる現代思想の本を全然讀んでゐない譯ではないよ。今、新刊書店に行けば、本棚にあるのはその手の本ばかりだからな。それらと比べて、福田恆存とかエリオットとかを擇んでゐるだけ。
平成十六年二月十日
クロデスにおける「ゴールキーパー問題」續々加筆中。
クロスワードの作成は本來ゲームでない、と云ふのが問題の根本原因なのだらうけれども。
それを言へば「しりとり」だつてゲームとして成立つやうなものではない。ただ、「しりとり」の場合、完全にゲームが成立たなくなる状況が出来するまでに時間がかかる。そして、その状況の出て來るまでの暇潰しに、「しりとり」は十分使へる。
もつとも、圍碁にしても將棋にしても、必勝パターンは「ある」筈ではないか、云々と小林秀雄が何處かで書いてゐたやうな記憶がある。
平成十六年二月十日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040210#p5
貴方の言う「キリスト教的」を定義する責任は貴方にあると思うのだけど、「我と汝」という本のどこかにその定義が載っているのですか?
ゐると俺は思つてゐるけれども。特に第三部の邊。
と言ふか、『我と汝』は基本圖書だと思つてゐたけれども。
キリストはもちろん恣意的だったでしょう。彼の目的は救うことで、教義の論理性を求めることではなかった。それはもうちょっと後の人々の仕事だ。キリスト教は宗教ですよ。科学ではない。例えば三位一体説などが定まったのはだいぶ後で、キリストやペテロ・パウロの時代にはその辺は未解決なままだったわけで。
キリストの言動が教義に基いたものではなかつた、と云ふのは事實だ。しかし、キリストの言動に一貫性が見られる、と云ふのも事實だ。
キリストは、信念に基いて、一貫した行動を取つてゐるし、一貫した発言をしてゐる。その信念とは、復讐の宗教であつたユダヤ教を愛の宗教に變質せしめる事だつた。
そして、キリストの言ふ救濟は、この世での救濟ではなく、あの世での救濟であつた。キリストは、「地上の寶」と「天に積む寶」とを區別してゐる。そして、「地上の寶」とは「カイザルへ返せるもの」であり、「天に積む寶」は「神へ返すべきもの」である。キリストの正邪・政治と善惡・道徳との區別は、はつきりしてゐる。
あと、なんぢらの中、罪なき者まづ石を擲て。にしても、「神のものは神へ返せ。カイザルのものはカイザルへ返せ」にしても、理窟以外の何物でもない。我々が驚くべきは、ユダヤ教の教義に精通した人間を相手に、大工の息子が理窟で對抗し、負けなかつた事だ。そして、最後にキリストは、理窟ではなく輿論によつて十字架に掛けられるのだが、三日後に復活する。キリスト教を信ずるとは、キリストの復活を認める事が、何よりの條件だ。そして、「キリストの復活を信ずる」とは、「輿論や通念のやうな地上の價値ではなく、理念や眞實の永遠・永久なる價値を信ずる」と云ふ事にほかならない。
平成十六年二月十日
個人の人権を制限できるのは、他の個人の人権との調整によってだけであり、その調整機能を指して言う言葉が「公共の利益」である、というのが、現代的なリベラリズムの解釈です。
その調整を行はなければならない理由と、實際に行ふ主體が何かと云ふ事とを考察すべきではないですか。
自由や権利はあくまで道具なのであって、それ自体の価値を感じたりそれ自体に満足したりは目的ではない。俺の満足は目的達成の中にありそれを許す自由の中にはない。
で、高橋氏の達成したい目的は何ですか?
「快樂」であると云ふのは答になりません。もし快樂の追求が最大の目標であるのならば、他の個人の人権との調整を行はず、「自己の人權」の無限の擴大を目指すのが當り前となるからです。「それでは快樂を失ふかも知れないから、妥協として他の個人の人権との調整を容認してゐるだけである」と云ふのならば、「目的の達成」が常に不十分となるのは自明です。結果として、自由主義者は常に不満を鬱積させてゐる、と云ふ事になります。そんな「自由主義」なんて、御免ですね。實際のところ、その種の「消極的な自由主義」を、現代の自由主義は乘越えてゐる筈です。が、やはり「外發的」な理由で自由主義を受容れたに過ぎない日本人にとつて、生き方と密接にかかはる現代的な自由主義は依然、血肉化してゐない、と思ひます。
平成十六年二月十日
http://d.hatena.ne.jp/imaki/20040209#p2
http://d.hatena.ne.jp/Tskk/20040210#p3
しかし、野嵜氏の反応を見るに高橋氏の誤解は予期せぬアクシデントどころか、誤解を期待しそれに対応した反応をあらかじめ用意しているように思える。既に一般的な戦略として確立しているようだ。
反論を想定して意見を言ふのは當り前の事で、戰略でも何でもないと思ひますが。
平成十六年二月十日
個人の人権を、社会全体の利益(秩序や道徳など)のために犠牲にしようという考え方は、全体主義的です。
實際のところ、自由ではなく、平等を原理とする共産主義では、さう言ふ全體主義的な發想が當然の事とされてゐるのですが。そして、共産主義では、全體主義的な體制でなければ人間は幸福になれない、と云ふ考へ方が正義なのですが。
平成十六年二月十日
あと、ユダヤ人であるアインシュタインの神は、多神教の神ではなく、一神教の神の筈だよ。アインシュタインの宇宙創成のイメージも、「ふはふは漂つてゐる訣のわからないものに突込んで引つ掻き囘し、引上げた矛から滴り落ちた鹽から島が出來た」とか言ふ類のものではなく、「光あれ」の類だつた筈だよ。
平成十六年二月十日
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402a.html#p040207b
平成十六年二月十日
めも。讀んでゐない。
ロシア文学
ロシアの歴史
「ヨーロッパ」は何をもたらすか?
明日にでも讀む積り。
平成十六年二月十日
http://www8.plala.or.jp/cgi-bin/wforum/wforum.cgi/Kusimitama/bbs?mode=all_read&no=6659
平成十六年二月十日
一神教性について話したいのなら、単に「一神教的」と言えばいい。
でも、一神教と言つたらイスラムの宗教も一神教なんですけどね。でも、イスラムの文化とキリスト教社會の文化とでは、質が全然違ふ訣で。同じキリスト教社會でも、西歐と東歐・ロシアとではやはり質が違ふ。
全ての人の権利を同時に完全に満たすことが出来ない以上、どうしても、法に基づいて公正に裁定する必要がある。それが「公共の福祉」
それは法律の話。で、今、「法」の中での議論をしても仕方がないでせう。
キリストのある種の論理性を別に否定はしませんよ。それはそれとして、例えばテルトゥリアヌスとかは、「不合理なるがゆえに我信ず」というようなことを言ったりもするわけです。
そもそも、信ずると云ふ事自體が超論理的な事なんですけれどもね。
ただ、それでもキリスト教が論理を異樣なまでに重視した宗教であつた事は無視してはならない事實だと思ふのだけれども。
と言ふか、本質的にキリスト教は二元論なのだから、合理性のみ、或は、不合理のみを偏重する、と云ふ一元論的な態度とは無縁のものなのですが。合理主義と超合理主義とがキリスト教には併存してゐます。基本的に非合理的である日本人の思考方法と、キリスト教社會の人の思考方法とは、かなり懸離れてゐると言へます。
小林秀雄は『本居宣長』で、近世の國學者が超合理的・直觀的な古典研究をしたと執拗に書いてゐますが、ちよつとあれも何うかなーと最近思つてゐる。
平成十六年二月十日
笠井潔 ジャパンバッシング
笠井氏、第二囘で「歐米との比較論としての日本人論」を徹底的に扱下してゐる。それなのに、六囘目で、「日本人の殘虐性」を論ずるのに、「驛のホームで浮浪者ふうの人が倒れた時、日本人は誰も聲を掛けようとしなかつた。驛員を連れて來たのはアメリカ人女性だつた」と云ふ事を書いてゐた。
何だかなーと思つた。
平成十六年二月十日
聖書が本の山の中に埋もれてしまつて、出て來ない。明日發掘豫定。

平成十六年二月九日
そもそも、公案は、座禅と同様、禅宗の修行の一環ですよ。学術論文のようにそれだけ取り出して論理性を云々言うためのものではない。主旨が違う。
主旨が違うのは當り前の話で、指摘されるまでもありませんが、だからといつて、それだけ取出して論理性を評價しようとする事が許されないとは、をかしな話です。そもそも、さう言ふ高橋氏自身が、西歐由來の科學とか自由主義とかを、西歐の傳統と切離して論じようと言つてゐるのですから妙です。
巷の研究書とか読んで欲しいのですが、非論理的なのは欠陥ではなく意図的なものです。
「わざと非論理的なのだから、非論理的と云ふ指摘は當らない」と云ふ言ひ訣は、全然言ひ訣になりません。結局のところ、私の「禅は非論理的」と云ふ指摘は正しいのです。と言ふか、ここで「意図」を持出すとはねえ。嗤ふしかありませんよ。
信仰が民衆に根をおろすということと、教義体系が学問として理解されると言うこととは違う、と言っているのですが。キリスト教は、一部の学問を修めることの出来る専門家だけを救う教えではない。むしろそういう考え方への批判から始まっていて、だからこそ世界宗教になりえたのです。
だーかーらー。私はさう云ふ話をしてゐるんですよ?
そもそも貴方の言う論理学=ギリシャ哲学は、キリスト教的という言葉でくくれるものではない、と言っているのですが。
だから何なのですか。誰が「くく」つてゐますか??????
西歐の源流が、ヘレニズムとヘブライズムにある事くらゐ、常識として知つてゐますが。
ただ、ヘレニズムとヘブライズムの二つが結合してゐる、と云ふ事實に、高橋氏は氣附いてゐないやうですね。
アリストテレスにしてもプラトンにしてもそうですが、哲学をなんとか馴致してカトリックに取り込むその過程で異端はたくさん生まれたし、そこまで行かずとも理性や真理に関する異論もたくさん生まれた。それら正統カトリックには弾かれた思想も後の西洋哲学の歴史には生きています。
どうして異端に惹かれるのですか? 異端があつたとしても、正統もあつたのですよ。そして、その正統の方を無視して高橋氏は論じたいみたいですが、どうして正統なるものは無視されるべきで、異端だけを重視しなければならないのですか????
近代以降の哲学者達の考えた「神」は、教義による束縛を受けていないので、キリスト教の枠内にはありません。例えばアインシュタインの想定したのは、宗派を超えた非人格的な神、いわゆる宇宙的宗教です。
「共産主義は、無神論だから、キリスト教とは無縁です」と言ふのと同じくらゐ、ナンセンスな意見です。アインシュタインが想定した神の概念と、キリスト教の戴く神の觀念とは一致しない、と高橋氏は言ひたいのでせうが、どうしてアインシュタインは「神」と言出したのでせうか。キリスト教では、個人と神とが「我と汝」の關係で向ひ合ふものなので、個人個人の神と對峙する仕方は個性的で構はないのです。
と言ふか、いざとなると「神」と當り前のやうに言出す邊、アインシュタインもキリスト教社會の人間なんですよ。日本人の言ふ八百萬の神樣とアインシュタインの神とは、全然違ひますね。その邊の違ひに、俺はとても興味がある。彼我の違ひ、個性の相違、と言つたものに俺は興味がある。彼我の類似點、共通點を追及するのは、別に「やつてはいけない」と言つたりはしないけれども、單に「聯帶意識を持ちたい」とか「身近に感じたい」とか言つただけの目的でするのならば「やめておけ」と。また、「奴らも所詮俺達と同レヴェルなんだよ」等と言ふが爲に彼我の類似點を殊更強調する、と云ふのには、積極的に反對したい。
平成十六年二月九日
そういう深衣奈の気付いた意味のいかにも発展途上な未熟さに、同じ目線から感心は出来ないなあ、と言ってるのですが。
まいく君の意見も未熟ですが、別に未熟は未熟で構はないのであつて、視聽者は嗤つてゐれば良いでせう。別に、今時のあにめに、御立派な意見は求めません。
ただ、作劇術の觀點から、表面的な意味しかない麻郁の科白と、表面的な意味と同時に別の意味も持つ四道兄妹の最終囘の科白とでは、後者の方が面白い、と言つてゐるだけです。
というか、こんな一連の解釈はお約束の範疇、今風のギャルゲのコードに過ぎない。
黒田洋介ですからおねティもおね2もゲーム的である事はもうあちこちで指摘されてゐますし、今更指摘するまでもありません。
おねティの「後半はおはなしになつてゐる」と云ふのは、「前半が單なるシチュエーションの提示に過ぎない」事との對比で言つてゐます。
と言ふか、物語的主題には興味が無いなー。意圖も主題も、解つてたまるかと言つたところ。
平成十六年二月九日
便利な言葉ですが、つまり貴方が当然だと認定するだけで、どのような政治的主張も政治的主張ではなくなる、ということを言いたいのですか?
「神のもの」としての「道徳・信仰・宗教がかかはる個人の事」――「我−汝」の關係として把握される領域――と、「カイザルのもの」としての政治――社會・世間・集團に關する事――「我−それ」の關係として把握される領域――とは、嚴密に區別出來ます。日本人は、その邊の事を區別しませんが、キリストはしたし、キリスト教社會の人もします。そして、區別をする方が論理的に話が一貫するんです。私は日本人だから觀念的の區別しか出來ないが、話に筋を通すのならば西歐の人間の眞似をするしかない。だから、出來るだけさうしてゐる、と云ふ話。
マルティン・ブーバーの『我と汝』くらゐ、讀んで下さいよ。
貴方の政治主義反対は、貴方が当然の事と認めた以外の政治的主張への反対であり、貴方が当然の事と認めたところの、実際には単なる政治的主張を特権化する、批判性をあらかじめ欠如させた政治主義でしかないのではないか、と俺は思っています。
私としては、道徳に關しては道徳的に論じ、政治については政治的に論じようと思つてゐるのであり、それが失敗してゐると言ふのならば大いに批判していただきたいと。
ただ、政治的のレヴェルで私の主張に反對だから、私の道徳レヴェルの話も政治的と極附けて、政治的主張も含めた私の全ての發言を、高橋氏の政治的信念から否定する、と云ふやり方は、止して貰へればと。
それが仮に真だとして、そこから「反対者を常にファシストと決め付けるものは、コミュニストである」は導けませんし、「高橋は野嵜をファシストと決め付けた」から「高橋は反対者を常にファシストと決めつける」も導けません。
そこまで嚴密に論理的な話はしてゐないんだけれどもなー。と言ふか、今まで見た人が大體さう云ふパターンに當嵌るんで。
元の文面をよく読んで欲しいのですが、俺は貧乏人と裕福な人間の間での「フェアな」経済闘争の話なんかしていない。
そこの「文面」がなんで「フェア」の文脈で出て來るのかなー。
個別の問題ではなくて、高橋氏の議論に對する態度についてフェアか何うか、と言つてゐるんですよ。
聖化という言葉を俺は知りませんが、目的が手段を正当化するということならマキャベリですし、(目的ではなく)結果が手段を正当化するという意見にならまた別の人々が同意するでしょう。
レーニンとレーニン批判とを、少し研究したら如何かと。現實の共産主義を批判する場合、「目的が手段を聖化する」と云ふスローガンがレーニン主義・スターリン主義にある事は常識であり、それを實踐してゐるレーニン主義者、スターリン主義者に對して批判がなされてゐるのです。そして、これがマキャベリズムであると言ふのなら、別にそれはそれで問題ありません。マキャベリズムと共産主義とが排他的なものであると云ふ説は、見た事がありません。
えーと、俺は別にコミュニストだと言われてなんら困りはしないので好きにしてくれていいのですが、
なのになぜ疑問をさしはさみたいのかなと。高橋氏の意圖が謎。俺としては、高橋氏の政治的信條も何もどうでも良いけれども、高橋氏の個人的な面は良く理解したいと思つてゐる。
平成十六年二月九日
表紙(平成疑問かなづかひ)
平成十六年二月九日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040209#p3
公案に分かりやすい論理性があったら、単に理解されちゃって、修行の題材にならんでしょうということなんだけど。
それが何か?
言ひたい事は分るけれども、西歐の論理の觀點から判斷すれば、公案の「超論理」は非論理的であると云ふ事にしかならない訣だし、實際、公案なり何なりから西歐的・近代的な思想は發生しなかつたでせう?
野嵜さんの言う「キリスト教的」は、むしろ「一神教的」と言い換えたほうが良くないかな。
もちろん、キリスト教の一神教としての側面を強調してゐるのですが、一神教とキリスト教はイコールではありません。
「普遍」の実在に懐疑的な哲学もまた西洋の伝統です。
キリスト教は、一神教であるところから出て來るもう一つの性質を持つてゐて、Godと個人とが「我と汝」の關係で對峙するから「二元論的である」と云ふ特徴を持ちます。そもそも、神と惡魔の對立とか、善と惡の對立とかを含んでゐるキリスト教は、二元論的なものです。だから、キリスト的とアンチキリスト的とは、共に西歐の傳統と言へます。そのアンチキリストの部分が近代になつてクローズアップされるやうになつたのですが、アンチを考察するにはオリジンを考察する必要があります。日本では、キリスト教理解を省いたアンチキリストの受容許りが熱心に行はれてゐます。私はそれに反對です。
平成十六年二月九日
なるほど作劇的面白さの話なんですか。にしても、表層的ですなあ。
表層的と非難されてゐるけれども、「相手の發言の意圖はわかるものではない」と主張する高橋氏が「作品の意圖」とか「科白の意圖」とかそんなものを「わかつてしまふ」矛盾を平氣で冒してゐるのに比べれば、遙かに増しな態度で臨んでゐると自負してゐます。
後半も前半と同程度にはシチュエーションの提示に過ぎないと思うけど。
確かに、シチュエーションの提示と言つたら何だつてさうなのだらうけれども。ただ、草薙桂くんと風見みずほ先生の二人がシチュエーションに流されてゐるのに對し、縁川小石孃や間雲漂介くん達は意識した演戯をしてゐますね。桂に振られた小石が山田先生と交はす會話は、別に大して良く出來た科白でもないのだけれども、意識した演技としての會話になつてゐる。状況に對して反射的に出て來る科白ではなくて、人物が考へながら喋る科白になつてゐる。
「停滯」の邊はいんちき臭いです。作る側も判つてゐて、だからおね2でその邊のネタを外したのではないですか。
野嵜さん、貴方はONE,Kanon,AIRをやったことがないのではないですか?
ないですよ。
妙にラノベの一次選考に詳しく、そういうコンテンツまで書いて人を指導している野嵜さんは、もしかして下読み委員とかやってるんですか?
やつてゐますよ。十年くらゐ。
平成十六年二月九日
俺のほうでは野嵜さんに共産主義者と呼ばれようが別にどうでもいいので構わないのだけど、共産主義者のほうでは嫌がられるかと。こいつと一緒にすんなと。
それはもう、共産主義者は、自分逹はエリートだ、と思つてゐますから。
ただ、コミュニズムという枠内に野嵜さんが押し込めて否定したがっているものが何なのかには注目しているわけで。
コミュニズムに押込めたいのではなくて、コミュニズム押込めたいんですよ。
日本人の西歐に對する適應異常と呼んでゐますが。ただ、唯物的な方向への適應異常となると、共産主義が典型です。と言ふか、實際のところ、現代思想のかなり多くのものが共産主義的である事は、既に或意味、常識と化してゐるやうに思はれますが。
平成十六年二月九日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040209#p6
論理性にどこまで厳密も何もありません。どのようなくだらないものであれ誤謬は許されないのが論理です。もちろん、一般的な(数学的帰納法ではない)帰納的推論は、論理的には正しくありません。
常識的な歸納的推論は信頼して良いものです。
常識を離れれば、話は極論に行くしかありません。そしてそれが論理の常識です。論理的論理的と言つてゐますが、確かに、人間の論理は究極的に常に破綻します。人間が、理性とともに感情を持つてゐる事を考へれば自明の事です。と同時に、論理的な説明そのものも、人間の理解にとつては決定的な役割を果たすわけではありません。どれ程大量の分析や觀察を重ねても、「わかる」「悟る」と云ふ事とは次元が異ります。
貴方の道徳性/政治性の分節に疑問があると、これはだいぶ前から指摘していると思うのですが、それが疑う余地なき超越的真理であり、だから道徳的主張は政治的主張にならない、といいたいのであれば、俺から見ればまさしく「批判性をあらかじめ欠如させた政治主義」でしかない。貴方は政治的な反動主義者と距離を取っているおつもりなのでしょうが、反動主義的政治傾向のある人がその理屈でどんどん政治性を道徳性へと読み替えて取り込んでいけば、まさしくただの反動主義者の出来上がりですよ。
理窟で政治と道徳とは切り分けられます。だから、理窟で政治を道徳へと讀替へる、と云ふのは間違つてゐます。その「讀替」を生じさせるものは、理窟ではなく、恣意です。
「コミュニストはマキャベリストである」が仮に真だったとして、そこから「マキャベリストはコミュニストである」は導けない。ワンパターンですが、論理性とはこういうものなのです。
さう云ふ比喩を持出して説明する高橋氏の意圖は何ですか? 私は「全てのマキャベリストは常にコミュニストである」とは主張してゐません。
貴方の結論であるところの、僕がコミュニストである、ということには、別にそれほど反発する必要は無いのですが、その際に使われている貴方の論法にいろいろ疑問点があるということです。
と言ふか、そもそも「コミュニスト」の意味を、「共産党員」の意味に限定して高橋氏は理解してゐませんか? そして「俺は日本共産党に籍を置いてゐないよ」と高橋氏は主張してゐるのではないですか? 別に日本共産党の黨員であるか否かでその人がコミュニストかさうでないかを決められたものではないと思ひますが。そして、人の大體の傾向として、私は「コミュニスト」と言つてゐるに過ぎません。大體、それを言ふなら、高橋氏が私の事を「反動」とか「ファシスト」とか極附ける論法こそ、問題だらけではないですか。「野嵜が高橋氏をコミュニストと極附ける論法はをかしい」と言ふ前に、高橋氏は「高橋氏が野嵜をファシストと極附けた論法がそもそもをかしかつた」事を反省すべきです。實際のところ、私は「高橋氏が俺をファシストと極附けるのなら、それと同じ論法で高橋氏をコミュニストと極附ける事も出來るぞ」と言つてゐるのですから、高橋氏が、私(野嵜)の論法を否定するのは、自分(高橋氏自身)の論法を否定する事に他なりません。そして、それが私の狙ひです。
かう云ふ皮肉り方は、私がいつもやつてゐる事ですが、皮肉られた方は大概、自分の事を棚に上げて私の「をかしな論法」を嘲笑します。例のアレ氏がその代表。
平成十六年二月九日
ニュースとかドラマとかバラエティとかの一般的なTV番組つて、本當に面白くないですね。

平成十六年二月八日
philosophical : blog は議論に向かない
めブログ●虚勢と知ったかぶりワールド: ネットに議論の応酬なんかいらない
it1127の日記 : ■今日の気になること02J31
以下略。
「ブログ」なるシステムの側面からしか議論されてゐない。議論をする人間の主體性が等閑にされてゐる印象。
……と書くと、「何うして野嵜は『ブログ』の仕組みに興味を持ちませんか。偏つてゐます」のやうなつつこみがバンバン入る羂。「ブログ」や「掲示板」があつて、それで勝手に議論が生ずるのか。議論をしようと思つて人が「ブログ」や「掲示板」に書込むのか。
「議論が起る」と「議論をする」は違ふのだと云ふ事。
平成十六年二月八日
Sticky
もうすぐお父さんになる龍成さんのD-Point PICK UP -417000 ウェブログと密告社会の蜜月より。
平成十六年二月八日
某所の某さんも近日中にまたおめでたとの情報げっと。
平成十六年二月八日
……いや、そうでもないか/趣味のWebデザイン
だからやつぱり日本人は「目に見えるもの」しか氣にしないから云々。
某コミュンが歐米の人々よりも尖鋭的なのは、やつぱり後進國特有の現象なのであつて云々。
平成十六年二月八日
またプリキュア録畫失敗。東芝RDとVictor S-VHSのデッキ二臺の録畫體制で失敗するのだから、來週は三臺體制をとる。と云ふ事で、三臺目の録畫マシンにIOデータのヴィデオキャプチャユニットを購入して來た。
で、部屋にアンテナ線を引かうとしてゐたら、軒下に一匹、ばつたを發見。
越冬中のばつた その一
越冬中のばつた その二
嚴密に言ふと、家族がメイン録畫マシンのRDくんの元電源を切斷、アンテナのラインを共有するバックアップ機のS-VHSくんがなぜか煽りを食つて映像が砂嵐状態に。おはなしは確認出來さうだけれども、呪はれてゐると言ふか何と言ふか。
RDくんとS-VHSくんとでJ-COM經由のラインを共有してゐたのをやめて、今後はバックアップ機及び三臺目をTEPCOのラインに切替へる事に。

平成十六年二月七日
ワレズ日記: content 内での改行
平成十六年二月七日
闇黒日記の最新更新箇所を見つける - 徒書
日附が變つて、項目が少くなつてゐて、動作確認出來ない羂。
平成十六年二月七日
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平成十六年二月七日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040207#p2
禅のどのやうなところが論理的であり、それが十分、西歐の論理學と對抗出來るレヴェルに逹してゐる事を説明して貰ひたいな。
中世の人々の生き方に、キリスト教は、どの程度まで根をおろしてゐたのか、或は、彼等は、キリスト教と無縁の生活をしてゐたのか、その邊の事を高橋氏がどう考へてゐるか、きちんと説明して貰ひたいな。
キリスト教と、非キリスト教的な思想と、どちらが西歐の傳統の中心にあるのか、それはどのやうな理由であるか、を、きちんと説明して貰ひたいな。
まさか『我と汝』を讀んでゐないなんて事はないよね?
と言ふか、私がいつ宗教なり信仰なりを切つて捨てたのだらう。俺よりも高橋氏の方が餘程「宗教は要らない」と主張してゐるやうに見えるのだが。
平成十六年二月七日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040207#p4
麻郁の科白が、表面的な意味以外、別の意味を持たないものである事。その直接の意味が淺薄皮相なものである事。
四道兄妹の科白が、直截的な意味と、それとは別の、深衣奈にのみ感じられる獨特の意味とを持ち、二重性を持つ事。
平成十六年二月七日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040207#p5
何を目標にしているの? と言はれても、小林秀雄氏福田恆存氏松原正氏T.S.エリオットD.H.ロレンス、と言つた名前はもう擧げた筈だが。
平成十六年二月七日
# Kuroneko 『野嵜氏は、論理的一貫性へ非常にこだわってるらしいのに、曖昧な概念をほったらかして恣意的に論を進めてるあたりは、ちょっと呆れますね。「日本人のキリスト教徒」を否定する前に、まずは「日本人」とやらを論理的に定義して見せてくれと言いたくなる。前提の検証の無い論理なんて一体何の意味があるんだ。』
既に何度も説明してゐるので、改めて述べるまでもないのですが。日本人は「神道の信者」であると。
かう云ふ鉤括弧附きの説明しかしないから全然解らないのだらうし、だから<おっちょこちょいだの曖昧だのと非難されるのだらうけれども、クリアでない事は言つてゐないし、穴のある理窟も述べてゐない。
日本人の文化は「人の上に人を戴く文化」で、西歐の文化は「人の上に神を戴く文化」だと云ふ松原氏の見解に俺は同意してゐる。松原正先生 講義ノート1998年度 早稻田大學第一文學部「イギリス小説」講義(松原正先生)から
言換へれば、日本人は人とか實利とかさう云ふ目に見えるもの、現實的なものをしか信用しない。理窟も、相手を凹ませるとか、政治的に自分の立場を有理にするとか、さう云ふ目的からしか意味を理解しない。
それに對して、西歐人は、目に見えない神とか、理窟そのもの、イデアの類の價値を、現實的なものの價値と同樣、或はそれ以上に認める。
で、かう云ふ西歐と日本との對比、と云ふ立場からする議論は、高橋氏の危惧するやうな反動的政治偏向へと屡々直結するのだけれども、さう云ふ政治的なものの重視は結局實利的なもの、目に見えるものの重視であり、日本人的な發想に基くから生ずる。俺は、「日本人は、西歐的な『目に見えないもの』を重視する考へ方も學ぶべきだ」と云ふ事を訴へる立場から、ものを言つてゐる積りであり、政治的な利益しか考へない反動主義には同調する積りもない。
ただ、西歐的な機械文明や、「武器」としても使へる西歐の論理、思想、イデオロギーの類が、明治以來、日本に入り込み、日本の傳統的な道具、發想、思想を壓倒した事、物質的、精神的に西歐のものが日本のものを壓倒した事を、事實として夫れ自體は認める。日本が鎖國を止めて開國したのは、結局、西歐の物理的な力に負けたからだ。そして明治の日本人は、和魂洋才と言つて、精神的な側面では、日本の傳統的なものを維持しようとした。けれども、精神的なものもやつぱり西歐的な思想なりイデオロギーなりに壓倒されてしまつた。それもまた事實だと俺は認める。だから、「日本人は日本人の持たない西歐のものを研究しなければならない」と俺は考へるのであつて、やはり鉤括弧附きの言葉で説明すれば、「後進國」の人間は「先進國」の事を知らうとしなければならない、と云ふ事になる。
と同時に、俺は、西歐の思想や宗教の價値と、日本の思想や宗教の價値とは、絶對的な見地から對等であると判斷する。
基本的な立場から言へば、日本人は、西歐の文物に力で壓倒されたから、自分を壓倒したものを學ぶべきだ、と云ふ事になる。その一方で、純粹に、自分を打ち負かした西歐の文物を、自分とは違ふ興味深いものとして學びたい、と云ふ事もある。
大體、自分と似てゐるものなんて、わかつてしまふのだから、面白い訣がない。自分の知らないもの、理解し難いものこそ、興味の對象となる筈だ。西歐を、日本と似たものと見ても、別に何も面白い事はないだらう。彼奴も俺も似たやうなものだ、と云ふのでは、精々親愛の上が湧くだけで、それはそれで結構だが、馴れ合ひは困る。西歐の未知の領域を――自分の持たない西歐の文物を――知りたいと思ひ、自分よりも優れてゐる點があれば、参考にするなり眞似するなりして自分の向上もはかる。それの何がをかしいのだらう。
平成十六年二月七日
日附が變つたが七日の話。例によつて柵。
高田馬場BIG BOXの古本市で、ボヘンスキー『哲學思想への道』(ヘルデル文庫)を購入。

さて我々は、これらの専門家が、数学と論理学の領域では異なった体系があって、ある命題は一つの体系では真であるが、他の体系では偽でありうる、と言っていることが事実であると認めることにしましょう。その場合直ちに、何が我々をしてこれらの体系のうちのあるものを選ばせ、他のものを選ばせないのかという問いが生じます。それはやはり純粋の任意ではありません。物理学者は――たとえばアインシュタイン(Einstein)は、特定の幾何学を、それが彼にとって面白いからという理由で選んだのではありません。彼はそれに対する重大な根拠を持っていたのです。どのような根拠でしょうか? ここに、哲学的に大きな意義のある答えが浮び上がります。云々。

……と云ふ、例の議論に關聯して、とても興味深い檢討がなされてゐる。
今夜は酒が入つてゐるので、詳しい報告はそのうち。

平成十六年二月六日
精神レベルの話にこだわったり、反動主義化を大喜びするよりはマシ。
だからどうしてマシとか、根據のない思ひ込みで話を進めるかなー? 説明しろと言つてゐるのに説明しないんだからな、この男は。
これで共産主義者だと呼びたいなら呼べばいいんじゃないの?とかほざいてゐるけど、高橋氏の言ふ「これ」なんてものを理由に高橋氏を「共産主義者」と呼んでゐるんぢやないんだから。反論にもなつてゐない。
と言ふか、レッテルなんて貼つてゐなんだけれどもな。ちやんと證據を出して言つてゐるんだからな。レッテル貼りつて言ふのは、根據のない極附けの事を言ふんだよ。自分が他人にレッテルを貼るやうな人間だから、高橋氏は俺の事「すぐにレッテル貼りをする人間」に仕立てて、「お互ひ樣」と云ふ事にしたいんだらうがな。
と言ふか、「レッテルを貼る事はどうでも良い」のなら、何うして高橋氏は俺に色々なレッテルを貼らうとしてゐるの? 意味がない事をどうして一生懸命やるの?
文明開化が内発的か外発的かがそんなに問題なの? 重要に決つてゐるだらうが。
そもそも、公正さをウリにした覚えは無いのだけど。詰り、高橋氏は公正な人間ではないと。そんな人間とまともに話を出來るかよ。
なんで「欧米」とは言わずに「西欧」なの?
なんで歐米と言はなければならないの? アメリカも西歐の仲間だよ?
と言ふか、西歐の文化とか文明とか云つた話をしてゐるんだから。國の話なんてしてゐないよ。
平成十六年二月六日
と言ふか、何で説得性説得性つて言ふかな? 説得力なら詐欺師だつて持つてゐるよ?
平成十六年二月六日
西歐の個人主義つて言ふのは、「絶對者であるGodと直接對峙する個人」と云ふ背景があつて成立してゐて、そこから自由主義も民主主義も、逆説的に共産主義も出てゐるの。その邊の事はマルティン・ブーバーの『我と汝』で確か論じられてゐた筈。
日本人の「集團への歸屬意識」とは、全體主義とは全然關係なくて、行動原理が「世間體」とか「世間の目」とかである、つて事。きだみのるの『にっぽん部落』なんかで描かれてゐる、良く「ムラ社会」とか言はれてゐる閉鎖的で自己中心的な考へ方の事。
平成十六年二月六日
高橋氏はひよつとして、俺が「キリスト教を信じましょう」と叫んでゐるとでも思つたのか???? 俺は「日本人がキリスト教徒になるのは無理だ」と言つてゐるんだが。だから「キリスト教徒になれない日本人が、キリスト教に由來する自由主義なり民主主義なり科學なり技術なりを、キリスト教精神の理解拔きで扱ふのは無理があるんだ」と言つてゐるんだが。
何と言ふか、逆に、高橋氏の方こそ、「キリスト教なんてもう、完璧に理解しちゃったんだよ。だから日本人にはもう、キリスト教なんて要らないんだよ」と主張してゐるやうに見えてしまつて、この野郎、嘘吐きやがれ、と。お前がキリスト教の何を分つてゐるんだよと。もちろん、俺だつてキリスト教に關する知識は高橋氏と五十歩百歩で對して差はないだらうが、俺は高橋氏と違つて、「キリスト教の事は良く解らない」と自覺してゐる。
平成十六年二月六日
高橋氏は、キリスト教の事を良く理解してゐて、その上で「日本人はキリスト教を理解しないで良い」と考へてゐるの? もしさうなら、キリスト教について簡單に教へて貰ひたいんだけどさ。もしさうでないのなら以下略。
平成十六年二月六日
あと、日本人が既に民主主義なり何なりを適切に扱へるやうになつてゐると言ひたいのなら、どうしてそんな民主的な日本人が「児童ポルノ法」なんてものをを作らうとして、それに高橋氏逹が反對運動をしなければならなかつたりするの? 高橋氏逹は、本當に民主主義を適切に運用出來るやうになつてゐるの?
平成十六年二月六日
高橋氏の言ふ「説得性」とか「説得力」とかつて、どう云ふ意味なの? 「面白い」つて事? 何が面白いの? それがどう「説得力」と結び附くの?
高橋氏の考へる「政治性」「説得」「面白い」といつた事の關聯性を體系的に説明して貰へるかな?
何と言ふか、今のところ、高橋氏のものの考へ方つて、理窟は「支離滅裂」、狙ひは「自己中心的」、と云ふ風にしか見えないんだけれども。
何と言ふか「それの何が惡いの?」とか、DQNが開き直つたやうな答しか返つてこないんぢやないかつて氣もするんだけれど。公正さをウリにした覚えは無いとか言つて、自分が公正でないとはつきり言つちやつてゐるしさ。と言ふか、「俺は公正でない」と言つた時點で、高橋氏の主張の説得力はゼロになつてゐたりするんだけれどもな。
平成十六年二月六日
DVDが何を賣つてゐようと知つた事ではないんだけれども、おね2買ひましたか。さうですか。
最近になつてやつとおねティ通して觀た。中盤までアレな展開で長い事投げてゐたんだけれども、我慢して最後まで觀たら終盤の展開で評價が隨分變つた。途中までは本當にアレな印象だつたんだけれども、終盤、かなり印象が良くなつた。あれなら「ちやんと御話になつてゐる」。
おね2の方が、構成とか、科白とかは、凝つてゐるぞ。ただ、まいく君の説教に實がないのと、クオリティの高さと反比例して(?)繪の枚數が少いのと、そもそも話がアレであるのとは氣になるが。
平成十六年二月六日
アメリカの何があの傲慢なグローバリズムを生んだのか
アメリカ人は、自分逹が自由と民主主義の宣教師であり、それらを全世界に布教しなければならないと考へてゐる。だから日本人に彼等の態度は傲慢に見える。
アメリカ人の國民精神を追求し始めたら、狂信的な情熱に――結局のところ、キリスト教の精神に行着かざるを得ない。それなのに敢へてキリスト教の影響を考察の對象から外し、ひたすら社會とか經濟とかの物質的な側面からのみ考察しようとしてみても、ろくな成果が擧がらない事は目に見えてゐる。
アメリカ人に限らず、西歐文明に屬する國の連中は、無理矢理自分逹の思想を押附ける性向があつて、そのせゐで日本人は外發的な鎖國と外發的な開國を餘儀なくしたのだが、だからこそ日本人も西歐人の物の考へ方を知つて、連中に對抗して行かなければ生延びる事も出來ない筈だが、日本人は御人好しだから、何となくやつてゐれば何となく生きていけるんだらうと考へる。しかし、ぼーっとしてゐる間に、押附けがましい西歐の連中のやり方に日本人は確實に負ける。と言ふか、今だつて、「輸出が多過ぎる」と言はれて車の輸出を自主規制したり、「イラクに自衛隊を送れ」と言はれて送つたりしてゐる訣で、結局日本に對して西歐(此所ではアメリカ)の連中は壓倒的な優位に立つてゐる。なのに、何となく日本人は自分逹が西歐の連中と對等か、それ以上の立場になつてゐると、信じてしまつてゐる。
夜郎自大では困る。
平成十六年二月六日
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2004/02/post_11.html
「森鴎外」に突込むんなら、「國語」「學ぶ」「圖鑑」「讀めなく」にも突込めよとか。「教科書」の「教」も、本當は左上が「十」ではなくて「メ」だとかさ。
漢字の字體の話と、漢語で漢字とかなとを交ぜ書きする話とをごつちやにしてゐる時點で如何なものかと。
平成十六年二月六日
谷澤永一が本の讀み方だか選び方だかの本を出してゐて、中で昔にやつた渡部昇一との對談開高健、向井敏との鼎談(「書斎のポ・ト・フ」)の篠沢秀夫「篠沢フランス文学講義」についてのところを何ページも引用した擧句、その時言つてゐた事は正しかつた、とか自慢してゐるのだけれども、良くないよ。
あと、やつつけ仕事には「やつつけ」のロゴを貼つておく事。
平成十六年二月六日
そろそろスタイルシートで - 使用上の諸注意
雄さんがh1要素と認識してゐるW3J.orgなる文字列は、果して見出しであると言つて良いものだらうか。
平成十六年二月六日
腰が痛いよ。死ぬ。
平成十六年二月六日
「新品マックG5をウィンドウズマシンに改造」レポート掲載で大騒動
ここで本當にG5をAT互換機に改造する奴が出て來たら神だな。
またサーヴァ用の筐體を貰つたので、來週か再來週には手駒が一つ増える筈。ドライヴを澤山詰込める模樣。
平成十六年二月六日
World Wide Web Consortium
XML 1.1 and Namespaces in XML 1.1 Are W3C Recommendations
XML Infoset Second Edition Is a W3C Recommendation
XML 1.0 Third Edition Is a W3C Recommendation
いづれも2004-02-04。
平成十六年二月六日
今時誰かをアカ扱いすればそれで何かやりこめた気になれるってのも。いつの感覚だ。
いやはや。自分が先に人の事を反動呼ばはりして置いて。と言ふか、高橋氏は、自分の共産主義的思想こそ「古い」と云ふ事を自覺したら何うか。
じゃあ、世の中で公正な人とだけ話してればいいんじゃないですか?
逆切れ。
自分が公正でない態度をとるのなら、他人が自分に公正でない態度をとつても非難出來ない、と云ふ事を、判つてゐるのだらうか。
或は、例のアレ氏と同樣、他人に公正な態度をとれと要求して相手の言動を束縛しつゝ、自分は公正を缺く態度をとつて相手を目茶苦茶に罵倒し捲る、と云ふ事が、戰略的に優位に立つ事であり、論爭における勝利の要件である、と、高橋氏は思つてゐるのだらうか。
論理性だけならカルト宗教だって持ってますよ。
その通りですよ。それが何か。
現にいる日本人キリスト教徒の信仰を否定するわけですか?
その通りですよ。それが何か。
真の民主主義を体得し、近代社会に適応異常を起こさないようにするために、みんなでキリスト教徒になろう! ……というのであれば、分かりやすく筋が通ってるのだが、そうではないのか。
別に分り易い話が正しいとは限りませんからね。分り易さと説得力ならカルト宗教だつて持つてゐますよ。
日本人にはキリスト教も民主主義もどうせ無理なんだよと。それで、だからどうしろ、とおっしゃりたいので? 日本人に適応異常を起こさない、よりよい政治体制として、どのようなものを想定してるんで?
キリスト教も民主主義も上滑りの理解しか出來ないが、日本人はそれでやつて行くしかないと。
アメリカだって反動的な法案はいろいろ通ってるしね。そこは欧米がどうとか日本がどうとかいう問題ではない。
相對化、相對化、相對化。
知識人の中にも、一般大衆にも、キリスト教を相対化できる人はいるでしょう。
キリスト教社會では、キリスト教の相對化が常にキリスト教的なものになる、と云ふ逆説的な現象が存在する。
一番極端な「アンチキリスト」形である共産主義なんか、人類の救濟と云ふメシア思想や、地上の樂園の思想を含む等、キリスト教を否定しつゝキリスト教的な思想となつてしまつてゐる。
二十世紀後半に出現した西歐の思想は、多くが共産主義の亞流であり、どれ一つとしてキリスト教的な枠組みを乘越えてゐない。
平成十六年二月六日
規約主義的な論理学は、戦中〜戦後にかけてアメリカで急速に発展した、20世紀後半を決定付けた、とても実り多い思想なんだけど。
「デカルト的」の域は結局どれも越えられなかつた、と言つて良いのでは?
パスカルに據ればデカルトは神を不要にしたかつたのださうだ。で、神を否定する爲に、近代の科學も思想も發展の努力を續けたのだけれども、それが結局は「失敗」に終つてゐる、と云ふのが現状だつたりする。神を否定するのではなく、神の介在する筈の部分を單に蔑ろにして、「規約」の出發點となる部分の信頼性なり妥當性なりを考へないで、ただ、その「アプリオリに正しい出發點」を前提にした體系を強化する努力だけが續けられたのだから。
そして、さう云ふ思想を突詰めて行けば、例へばアインシュタインなんかは神の存在を信ぜざるを得ないと云ふ境地にまで至るやうになつたりするのだが、最後まで神を無視して神との對決を避けるやうな手合が大體、二十世紀後半に主流となつてゐたりする。だからその手の思想は底が淺いと言ひたいのだが、信じてしまつてゐる人間には何が「淺い」のだかはわからんのだらう。
ただ俺は、クリスチャンでもないし、現代思想の信者でもない、「第三者」の立場から感想を述べてゐるのであつて。云々。
平成十六年二月六日
現代思想の底の淺さを悟つてしまふと、T.S.エリオットとかD.H.ロレンスとか、福田恆存とか小林秀雄とか、さう言つた人々の方が、ずつと「よくわかる」事を言つてゐるし、ずつと厄介な部分にまで斬り込んで行つてゐるので、思想としてよつぽど全うだ、と云ふ考へになつてしまふ。
平成十六年二月六日
やたら論敵をコミュニスト呼ばわりしたがる上にことさら歴史における物理条件を軽視して情熱や精神性・信仰上の条件ばかり強調したがるものの考え方は反共的でしょう。別に今さら反共的だからといってどうとも思わないけれど。
高橋氏には論的の發言の意圖が判つてしまふらしい。
まあ、高橋氏は、俺(野嵜)の立場ではなく自分(高橋氏)自身の立場で考へて、俺(野嵜)の發言の意圖を勝手に極附けてゐる事を自覺してやつてゐるのでせうがね。
本氣で高橋氏が自分の考へは「正しい」と信じてこんな発言をしてゐるのなら、高橋氏の言つてゐる事は矛盾してゐる事になる。高橋氏は、自分は公正を缺く人間だから、どんなに矛盾した事を言つても構はないのだ、と思つてゐる可能性もあるが、それでは高橋氏の言論は、説得力を缺く、と云ふ事になり、戰略的に不利になるだけである。
と言ふか、高橋氏は最初に「野嵜はファシストだ」と言つたのであつて、こちらはそれに應じてゐるに過ぎない。そして、レッテル貼りと云ふ高橋氏の大好きな戰術は、「レッテルを貼り返される」と云ふ方法で簡單に相對化されるのだが、高橋氏のやうな人種は、自分が相對化される事を全然豫想出來ないし、理解も出來ないから、前に自分がした事を完全に忘れて、自分のした行爲を平然と罵るのである。
それでお互い様説を唱へるのだから、好い氣なものだ。
……ひよつとして、高橋氏は、「最初にやつた」「相手のやつた事を後で相對化した」の「最初に」も「後で」も「考慮する必要はない」と思つてゐるのかな? 時間とか順序とかの觀念くらゐ、持つてゐると思ふのだけれども、先に自分がやつた事をあとで他人にやり返されると非難するのだから、もしかしたら、「先にやるのは正しい」「後でやるのは眞似であり間違ひである」等と云ふ、顛倒した考へ方をしてゐるのかな??? 「先に手を出した方が勝ち」? それなら、俺の文章に最初にいちやもんを附けた高橋氏がそもそも負けてゐる、と云ふ事になるが。
俺は別に勝ち負けには拘らないけれども、高橋氏は物凄く拘つてゐるやうですから。
平成十六年二月六日
あるひとが「プディングには塩が不可欠だ」と言ったところで、「プディングの調味には塩を砂糖より多く用いるべきだ」と言っていることにはなりません。たとえ、塩の重要性をどれほど強い語調で述べたとしても。
# Kuroneko 『「唯一の決定要因なんて無い」のところ、ものすごい同意なんですが、プディングの例えは、ちょっとフェアじゃないような。「歴史」と「プディング」では、あまりに自明性が異なります。「プディングには塩が不可欠だ」をプディングを一度も食ったことの無い人間に言ったらどうなるか。(つまらんツッコミですが)』
「讀み手/聞き手がどのやうに理解するか」の話にすり替へられてゐる。

平成十六年二月五日
『和字正濫抄と假名遣問題』は、假名遣の表音化推進論者の急先鋒だつた保科孝一の著作。假名遣を表音化すべきだと云ふ保科の主張は、「現代仮名遣」支持者の主張とほぼ同じ。音韻の音がpからf、そしてhへと體系的に移行したは行の音變化の話と、語によつて便宜的に音が變化したに過ぎない音便の話とをごつちやにしてゐるとか、おなじみの突込みどころがある。また、幾つか既に古びてしまつてゐる見解があるものの、案外まともな假名遣の歴史の解説ではある。後日、大々的にぱくつて某國語國字問題の解説に利用させて貰ふ積り。
平成十六年二月五日
「總論」には世間の人と同じやうに「贊成」と言ひながら、具體的な事例について意見を求められると自分の都合に反するからと言つて「反對」「反對」と叫ぶ――と云ふのは、日本的な集團への歸屬意識と西歐的な個人主義との不整合であつて、日本人の西歐への適應異常であると俺は思ふのだが、思はない人の方が多いらしい。
平成十六年二月五日
論理と論理的な精神とは相對的に獨立してゐるから、非論理的な精神の所有者でも論理を弄ぶ事が出來る。けれども、論理的な精神を持つてゐないと、用ゐるべき場所で適切に論理的思考をすべきだ、と考へる事が出來ない。
原則と、個人の好みとについて。原則は論理的に定められるべきものである一方、個人の好みは非論理的なものである。しかし、世の中の趨勢と云ふ論理とは全然關係のないものを根據に原則を定め、個人の好みを正當化する爲に論理を利用する、と云ふ、まるで逆の事を日本人は平氣でする。これは、日本人が論理的な精神を血肉化してゐないから生ずる現象だと言へる。明かに、西歐の文化に對する適應異常である。
平成十六年二月五日
「言論の自由」「フェミニズム」「人權」「民主主義」「自由」(以下略)といつた概念に、戰略的な利用價値以上のものを見出さない。個人の主張が、結局のところ「個人的な欲望を充足させたい」と云ふ宣言にしかならない。と云ふのは、明かに西歐に對する適應異常である。
平成十六年二月五日
全てを捨てて相手の文脈に取り込まれる以外には理解さえ不可能な文脈というのがあるのでは。相手の文脈に取り込まれてしまっては、批判さえ出来ない。
「文脈」と「主張」とは全く異るものなのだが、高橋氏は同一のものと看做してゐるやうだ。
何か變な意味で「文脈」と云ふ語を用ゐる思想の派閥があるらしいのだが、困つたものだと思ふ。
或語が筆者にとつて良い意味で使はれてゐるか惡い意味で使はれてゐるかを、讀み手は文章の流れの中で前後關係を参考に判斷出來る筈だ。
右翼のA氏が「日本はかつて戰爭をしたのだ。今の日本人は戰爭も出來ない腑拔けだ」と言つた時(例ですよ、例)、そのA氏は「戰爭」と云ふ語を良いイメージで捉へてゐるのであり、平和主義者のB氏が、自分が平和主義者であるからといつてA氏の「戰爭」と云ふ語を惡いイメージで捉へて理解する事は許されない。ただ、B氏にも、「A氏は戰爭を良いイメージで捉へ、良いものとしての戰爭をやらない現代人は腑拔けであると云ふ論理を展開してゐる。だが、戰爭は惡いものであると自分は考へる。その理由は○○である。だから、戰爭は良いものだと云ふ前提で話をしてゐるA氏の發言は間違つてゐると自分は考へる」と述べる事は許される。何も、A氏の用語を理解する爲にA氏と同じ思想をB氏が持つ必要はない。ここでA氏が、「アプリオリに戰爭は良い」と言出したら話にならないけれども、「B氏は○○と云ふ理由で戰爭を惡いものだと言つてゐる。しかし、その理由には××と云ふ問題がある。自分は△△と云ふ理由で戰爭は良いものだと思つてゐる」と説明を入れて相手の批判をすれば、話になる。
俺としては、相手の磐石でどうあっても覆す気の無いだろう部分を弄るのは諦めて(そこは俺もそうだし)、細かいところをちくちくやってるつもりなんだけど。
先に「相手」を持出すこの部分がレトリックなのであつて、高橋氏の本心では「俺」が最優先事項なのである。そして、このレトリックが惡きレトリックである所以は、「俺は自分の磐石でどうあっても覆す気の無い部分を弄られたくないから、俺も相手の磐石でどうあっても覆す気の無い部分を弄らない」と云ふ言ひ方をすると印象が全然變る事を見れば明かである。
實際のところ、相手(詰り俺・野嵜)の細かいところをちくちくやって、それで相手(野嵜)の磐石でどうあっても覆す気の無いだろう部分を完全否定するやうな眞似を高橋氏はしてゐるのだが、それに高橋氏は氣附いてゐない。そして、一方の高橋氏は、相手(俺)がしてゐる事を細かいところをちくちくやってゐるだけの事だと極附けつゝ、自分の磐石でどうあっても覆す気の無いだろう部分は絶對に讓らない積りでゐる。
對等を裝ひつゝ、自分だけに有利な結果となるやうな戰術を、高橋氏は取つてゐる。かう云ふ態度は、公正な態度とは決して言へない。
公正である事を重視するか輕視するかは、その人が議論で何をしたがつてゐるかを示す。口先だけ「俺は公正な議論をしてゐる」と言つても仕方がないのであつて、態度で公正さを示してゐなければならない事は言ふまでもない。が、世の中には自己申告を眞に受ける人が多いし、それも他人ではなく自分が眞に受けるのだから困りものである。
平成十六年二月五日
あと、相手の文脈をわざとなぞつて、相手の意圖とは正反對の結論を出して、相手を怒らせ捲つたのがソクラテス。
平成十六年二月五日
いや、物質レベルでも西洋に追いついてないとか言ってたじゃないですか。
零戰の話はしなかつたつけかな……?
平成十六年二月五日
人の情熱や意思は、政治・経済・社会的条件が整って初めて有効になると言ってるわけですよ。坂本竜馬はすばらしく個性的で情熱的な人物だけど、彼が江戸幕府が磐石の時代に生まれていたらたいしたことは出来なかったでしょう。
「政治・経済・社会的条件は、人の情熱や意思があって初めて有効になると言ってるわけですよ」とも言へる訣で。
たいしたこともせず歴史にも名を残さず死んでいった竜馬はおそらく何人もいたのではないかと。と高橋氏は述べる。名前の殘つてゐる人の力だけで歴史が動いて來た、と考へるならば、高橋氏の意見は正しい。
しかし、名前の殘らなかつた大勢の人がゐて初めて歴史が成立つてゐるのだから、高橋氏の意見は正しくない。
どうも、「歴史」と云ふ語の捉へ方まで、彼我に相違があるらしい。
と言ふか、偉人ロマンなんて俺は言つてゐない訣で、それを高橋氏がわざわざ言出したのは、高橋氏にとつてその方が面白いからなのだらうけれども、單に間違つてゐるのだから仕方がない。と言ふか、俺が想定してゐない偉人ロマンなんて觀念を持出す邊、却つて高橋氏の方がロマンティックである事を曝露してゐるやうなものなのだが。
平成十六年二月五日
漱石のそれらのテクストのどこに日本人の適応異常を見つけることが出来るのですか?
まあ、政治臭い、と云ふ御定まりの感想しか持てないやうな人に、漱石の問題意識なんて解りはしないんでせうけれども。
これから日本の開化に移るのですが、はたして一般的の開化がそんなものであるならば、日本の開化も開化の一種だからそれでよかろうぢやないかでこの講演は済んでしまふ訳であります。がそこに一種特別な事情があつて、日本の開化はさういかない。それで現代の日本の開化は前に述べた一般の開化とどこが違ふかと云ふのが問題です。もし一言にしてこの問題を決しようとするならば私はかう断じたい、西洋の開化(すなわち一般の開化)は内発的であつて、日本の現代の開化は外発的である。以下の「講演の本題」が重要なのだけれども、高橋氏はこの問題は既に解決濟みだと考へてゐるらしい。
と言ふか、そもそも高橋氏の用ゐる「政治」「政治臭い」「政治的」と云ふ語は、どのやうな意味なのだらうか。どうも高橋氏は、全ての關係を支配被支配の關係として把握しようとしてゐる節があつて、「他者を支配しようとしてゐる」と解釋出來る事は何でもかんでも「政治的」と表現してゐるやうに見える。もしそれが事實ならば、高橋氏の發想はマルクス主義的である、と言つて良いだらう。
物質レベルの話に拘つたり、反動的な国になりつつあるなあ。やだやだ。と言つたりするのを見れば、高橋氏の立場はばればれのやうな氣もするけれども。
平成十六年二月五日
めも。
Safari 1.2 (v125) ですよ (2004/02/05 - 05:30) @ [ねこめしにっき(2004年2月前半)]
平成十六年二月五日
「ウォッチャー」の権利など守る必要はない。儀礼的無関心2 : ウェブログ@ことのは
http://d.hatena.ne.jp/TRiCKFiSH/20040130#p1
目立たずにネットで情報発信したいと宣言したなら、目立つ情報を発信しない事が「礼儀」なのではないかと。
そもそも「見られる頻度をコントロールしたい」と云ふ發想そのものが「礼儀知らず」なのではないかと。
何と言ふか、「素人が參入してくる事」も事實ならば、「ウオッチャーがウオッチする事」も事實なのだけれども。
「知識のない人間の甘い現實認識」よりも、「知識のない人間が參入して來る現實を認識しない現實認識の甘さ」なるものを非難すべきものと考へるのは、それこそ「認識が甘い」やうにしか思はれないのだけれども。
あと、ノイズが多い事と、意見が多樣である事とは全然違ふのだけれども。
AさんとCさんが共存共栄するための技術的アイデアのやうな、飽くまで技術的な話では割とまともな檢討を出來るのに、禮儀とかマナーとかいつた話になるとをかしな意見しか出せない、と云ふのは、やはり、日本人の「西歐」への適應異常を示すものであると思ふ。此處で其處に話が繋がりますか。

平成十六年二月四日
本日の買物。
保科孝一『和字正濫抄と假名遣問題』
平成十六年二月四日
クロデスにおける「ゴールキーパー問題」
「ラ○ーガ○プ○」でぐぐつてみたが、解決方法は見附からなかつた。と言ふか、なぜかPDFの文書しか引掛からない。
平成十六年二月四日
HTML文書の構造を基にキーワードやら何やらを判斷する「檢索エンジン」は、文章の内容を理解する訣ではないから、取敢ず文章の形をしてゐて、取敢ずHTMLの形をしてゐるものなら、理窟も何もない人格攻撃やレッテル貼りだらけの中傷文書であつても、平然と檢索結果の上位に表示したりする。證明。「野嵜健秀」でぐぐる。
平成十六年二月四日
で、西洋に本当に追いつくためには何百年か掛けて彼らの抑圧的な精神文化を追体験する必要があるということですか?
誰も追体験しろとは言つてゐないし、しろと言つたつて誰も出來ないでせう。そもそも、追いつけとも言つてゐない訣で。
西洋の相対的な優位と言うのが、多分その言い方だと「健全な民主主義」や「物質的な豊かさ」を指すんでしょうけど、それほどのもんですかね。
物質的な豊かさなんて言つてゐないし、健全な民主主義にしても一例に過ぎない。
俺は、別に追いつけなくてもいいからこの気楽な日本のほうがいいな。
で、そんな気楽な日本に、「児童ポルノ法」が出來さうになつたりならなかつたりしてゐる訣ですが。
思想が生まれるのにも、政治・経済・社会の変化は大きく影響しているということですよ。それを無視して安易な偉人伝風に何でも情熱に帰着しようとするのは、羹に懲りて膾を吹くというか、共産主義を忌諱しすぎて反共ロマン主義に陥ってますよ。
誰も政治・経済・社会を無視しろとは言つてゐない訣で。寧ろ、人の意思なり情熱なりを積極的に無視してゐるのは高橋氏である訣で。
近代化に役に立つかどうかで哲学に点数をつけるのはどうかと思います。
點數なんて誰も附けてゐない訣で。ただ、現實問題として日本の哲學が日本に近代を齎さなかつたと言つてゐるだけで。そもそも、近代なるものを俺は「望ましいもの」と考へてもゐない訣で。
平成十六年二月四日
日本人が起こしている適応異常とは、例えば何ですか?
図書カード:私の個人主義
図書カード:現代日本の開化
併せて松原正氏の『夏目漱石』を讀むがよろし。
普請中
併せて松原正氏の『文學と政治主義』を讀むがよろし。
平成十六年二月四日
なぜ人を殺してはいけないのか
図書カード:護持院原の敵討を見れば自明だが、殺人は必ずしも道徳的惡事ではない。
政治で決着がつかない國際問題を解決する爲に、國家同士で行はれる公然の殺し合ひとしての戰爭がある。殺人が常に犯罪であるとは限らない。
平成十六年二月四日
月曜評論連載「保守とは何か」
ウェブでは未公開だつた第八囘以降を含むtext版を公開してみる。
平成十六年二月四日
めも。
真・下等製作所
DUALMAGAZINE Z
PASSING

平成十六年二月三日
文学作品から父権制度を読む読み方は面白いですが、俺の言動からフェミニズムを読み取ろうとしてもつまらないと思いますよ。
面白いか詰らないかは人それぞれだから、高橋氏に俺の感性を否定する理由はありませんよ。とか。
蒸氣機關が生れたとか、コンピュータが生れたとか、そんな事で近代が終つたりはしませんよ。
理性に対し抑圧に抑圧を重ねたからこそその反動として近代のヨーロッパの発展はあった、だからキリスト教のおかげなのだ、とおっしゃりたいわけですね?
と言ふか、キリスト教が、反撥を生ぜしめると同時に、反撥の基本精神にもなつてゐる、と。だから、西歐の近代文明を理解するのにはキリスト教の理解が必須なのだ、と。
蒸氣機關やコンピュータと言つた物質的な物を、日本人は既に受容れてしまつてゐます。その一方で、自由主義や民主主義と言つた精神的な物も、やつぱり日本人は受容れてゐます。で、物質的な物は、とにかく見やう見まねで何とか形だけは取繕へます。アメリカやヨーロッパの戰鬪機と對等以上に戰へる零戰を、日本人は作りました。もちろん、さうは言つても、零戰は、防彈機能をカットする、と言つた手段で性能を引上げてゐたものですし、照準器をドイツから輸入した機體に附いてゐた物からコピーして使用するなど、必ずしも全ての技術を自國で賄へたものでもありませんでした。物質レヴェルでも、日本は西歐に追附けませんでしたし、今でも追附いてゐません。しかし西歐と日本との間の格差の問題は、精神的の領域に屬する事柄の方が重大です。日本人の運用してゐる自由主義や民主主義が、西歐諸國のそれと比べて、果して健全なものであるかと言へば、矢張り不健全な部分が多い、と言はざるを得ません。歐米諸國の國民に比べて、自由主義や民主主義が日本人に身についてゐるでせうか。高橋氏にしてみれば、日本人は十分以上に民主的なのかも知れませんが、私にはどうも今一つの感が否めません。
近代における信仰と理性の分離といふのは、單にヨーロッパ史の割とオーソドックスな解釋でしかないのでは? 日本でさうしか教へてゐないと云ふ事は無いと思ふのですけど。
近代に至る大きな要因に、教会の権力にかげりが見えたということがある。これもまた、政治的で経済的で社会的な現象です。
政治においても經濟においても、人間の意思とは全く無關係に現象が生ずる、と言ふのは、既に誤と解つてしまつた共産主義の理論でしかありません。
そもそも西洋の優位というのが、それほど絶対化出来るものなのかどうかは疑問です。せいぜいここ200年ほどの間のことではないですか。ここ50年なら日本も捨てたものではないのだし。
實際のところ、西歐が絶對的に優位であるとは、私も申しません。しかし、相對的に優位に立つてゐる事は事實だと思ひますし、それで十分だと思ひます。少くとも、「俺の時代」なる相對的な價値觀を信奉する高橋氏に否定する權利はないと思ひます。
あと、最近の半世紀で、日本が世界で優位に立つやうになつたとは、全然思ひません。國際社會で、日本の發言權は全然ないと思ひます。ただ、金だけはあると思ひますが、この世が金でのみ動いてゐるのでない事は明かだと思ひます。高橋氏は、世の中は全て金や物質的な力によつてのみ動くものである、と信じてゐるやうですが、それこそ「科學的社會主義」的な物の見方に過ぎないと思ひます。或は、さう言ふ人間の意思の力を完全に否定する必然論を信じてゐるのならば、革命による社會の改革はもとより、「趨勢」である社會の動きに何らかの抵抗を行ふ事自體が不可能となります。ところが、高橋氏は、意思に基いて、例の「児童ポルノ法」を潰さうとしてゐます。ならば、高橋氏は、口では人の意思、情熱と言つたものを否定しながら、行動は意思や情熱に從つてゐる、と云ふ事になる訣で、言動不一致と云ふ事になります。
ところで、哲学性という意味なら仏教も相当なもんです。キリスト教をそこまで持ち上げた上で禅宗を非論理的と切って捨てるのは、仏教哲学を学んだ上で言っているのですか?
高橋氏の言ふ仏教哲学が何を指すのか、わかりません。支那の禅宗とインドのもともとの佛教とで既に異る「哲學」です。と言ふか、もともとの佛教からして「拈華微笑」なんて話が出て來るくらゐです。快や苦からの解脱、一切の執着から逃れる事が目的の宗教ですから、論理の徹底なんてものは二の次です。唐木順三が書いてゐる禅の問答は、感性的で、詩的なものです。それゆゑに「反近代」の立場から唐木は禅の思想を注目するに至つたのですが。
と言ふか、「捨てる事も捨てる」と言つて、では踊りませう、と云ふ方向に進んだ一遍上人が偉いお坊さんなのですよ。と言ふか、道元の禅では「不立文字」と言ふくらゐで、論理的も糞もないでせう。
一往言つておきますが『正法眼藏』のやうな書物のある事は知つてゐます。他にも、禅宗の人がいろいろ言つてゐる事も知つてゐます。が、それらの論理が結局、日本の近代化には何一つ役立つてゐない、と云ふ事は、驚くべき事ではないですか。そして、西歐の文明と文化の流入に伴つて、日本人の馴れた生き方とは異る生き方を日本人は強ひられてゐて、それを西歐の文明も文化も如何する事も出來ない。それは當り前で、「加害者」が「加害者」としての力を發揮し續けてゐる限り、「被害者」の側には心の休まる暇がありませんし、「被害者」が「被害者意識」を覺えてゐないのならば「加害者」はそもそも何の力も發揮してゐない事になつてしまひます。「西歐」が、日本人の生き方を根本的に改變し、それによつて日本人が適應異常を起してゐる事は否定出來ません。日本人は、未だに西歐人にはなつてゐません。さう云ふ日本人の適應異常を、西歐の文明なり文化なりが「治癒」させる事は出來ません。だから禅なり何なりがクローズアップされる訣です。そして、それだけで、日本人の適應異常現象が解消される訣ではありません。禅にしても何にしても、日本の傳統的なものは「西歐」の力に對抗し得ないのであつて、それゆゑに日本人は日本の傳統的な生き方を捨てて西歐の流儀に從つたのです。
平成十六年二月三日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040203#p2
火藥も活版印刷も羅針盤も東洋で生れたが、東洋ではなぜそれらが更なる發展を見なかつたのか。それらの發明を、どうして西歐人だけが使ひこなしたのか。
文化的に後進地域であつたヨーロッパで、なぜルネサンスが花開いたのか。なぜ宗教改革が起り、なぜ産業革命が起つたのか。それらは全て偶然の出來事だつたのか。もしさうならば、地上の他の全ての地域で、ルネサンスや宗教改革や産業革命が生ずる可能性があつたのか。可能性と言ふのならば、可能性にも高い低いがあるだらう。ヨーロッパで近代が出現したのは、可能性であるにしても、低い可能性の下で生じたのか、それとも高い可能性の下で生じたのか。また、可能性の高低の差は、どのやうにして生ずるのか。
キリスト教は、十分條件として存在したのでなく、必要條件として存在したのに過ぎなくとも、西歐に近代文明を出現させる條件の一つだつたとは言へるだらう。
あと、發明者が發明しようとする意思もあれば、後世の人が發明されたものを維持し、發展させようとする意思もある筈ですよ。社會の現象なり經濟の現象なりで説明するのは飛躍ではないかと。
平成十六年二月三日
眞理とか眞實と言ふと、觀念的な訣のわからないアプリオリのXなるものを想像する人がゐる、と言ふか、そんなもの想像出來ないよと言つてアプリオリに拒絶する人がゐるんですが、百萬年だか前に人間がこの世に出現し、(中略)、エジプトにピラミッドを建設し、ギリシアで哲學を生み、佛教やキリスト教やイスラム教や儒教を作り、科學文明を作り上げた、云々、と言つた歴史も、歴史として捉へると、眞實ですよ。
平成十六年二月三日
ヨーロッパ人の自意識とか意思とかの強さは、日本人には信じられんものですよ。
死んだら黄泉の國なる所に行くんだらうし、それは哀しい事だが、仕方がない事だと宣長が書いてゐますけれども、日本人には「仕方がない」と考へる習慣があります。佛教が説話として地獄とか天國とかを紹介しましたけれども、そんなものを心から信じて生きてゐる現代人がどれだけゐますか。もちろん、過去の日本人も、そんなものを本氣で信じたりはしなかつた。大體、天國は暇さうだなーとかいつた感想が平氣で出て來るんですから、天國の觀念も地獄の觀念も、大した效能はなかつたと言つてよろしいでせう。
一方で、ダンテが『神曲』で、死後の世界を書いて、惡人に對する神の處罰を執拗に描いてゐます。あれも、デカイオーと同じで、私的な怨恨の憂晴しが入り込んでゐると見る事が出來るのですが、それにしてもダンテはしつこく書いてゐます。私なんぞ、十三話の話書くのでさへ、最後まで氣力が續かなかつたんですが。連中の場合、とにかく因果應報でなければならないと信じてゐるらしいのでして、クリスチャンに於いては死後における復讐は絶對に「ある」ものですし、コミュニストに於いては現世における復讐は絶對に「なければならない」ものです。西歐における復讐の思想の系譜は、ヨハネの默示録を論じたD.H.ロレンスの本に、詳しく書かれてゐます。「目には目を」と言つた王樣の思想が今に至るまで傳統として引繼がれてゐるのが西歐の文化で、それゆゑ「右の頬を撲たれたら左の頬を差出せ」なる「愛の宗教」をイエス・キリストが創始する訣ですが、そのキリスト教の聖典、新約聖書の卷末に、ヨハネの默示録と言ふ「愛の宗教」らしからぬ復讐の書が紛れ込んでゐる、こんなにも復讐をしたいものなのかとロレンスがあきれて書いてゐます。

平成十六年二月二日
プリキュアの録畫、失敗してたよ……だれかたすけて(何。
ANIMAXで半月おくれとか一月おくれとかでも良いからやつて呉れとか。
平成十六年二月二日
ですから、俺の意見をフェミニズムとして読もうとする野嵜さんに特にどうとも感じないのですが、ただ単に、間違ってるのではないかなあと
文學作品から父権制度なるものを讀まうとするのは間違つてゐないのですか。さうですか。
と言ふか、俺は「高橋氏はフェミニストである」と言つてゐないのですが。「高橋氏は『自分はフェミニストでない』と言ひつゝ、フェミニズムを積極的に肯定して見せる」と言つてゐるのですが。
平成十六年二月二日
アランの教育論なんて今時、讀む奴ゐないんだらうな。
平成十六年二月二日
「自分の中に立籠る事」が「自由」なのかと云ふ事。
平成十六年二月二日
ARTIFACT −人工事実− | リンク上等!
何と言ふか。餘所からリンクされたくない「儀礼的無関心対象サイト」は、他人の興味を引かない内容にする努力をする義務があるのではないか。とか。
平成十六年二月二日
http://d.hatena.ne.jp/topico/20040130#p4
……自分は西欧的な思考を理解しようとするけれど、彼らが適応異常を起こさないためには、西欧的な思考を理解するよりも、システムの振る舞いを理解してそれに適応する方がいいと思う。……
システムの振る舞いは理解する人が、その背景にある西欧的な思考を理解しないから、適應異常を起すのだと。
平成十六年二月二日
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401c.html#p040131a
數の大小の比較は、推論と違ふと思ひますが。
現代の論理學がどんどん數學に接近してゐる、と云ふのは、吉田夏彦『論理と哲学の世界』邊で説明されてゐた筈、と思つて探し始めたけれども、私が探すと見附からない。
早く寢ないと明日、起きられないので、寢ます。今、朝の四時四十四分。
平成十六年二月二日
寢る前に一箇所サイトを紹介。ぐぐつてて見附けた。
Лунное Общество
Palm Branch
「数理的形而上学」 < 雑稿 < Palm Branchなんて文章がある。眠いので讀んでない。
平成十六年二月二日
別に間違ってないと思いますけど?<文学作品から父権制度を読む
ならば、ですから、俺の意見をフェミニズムとして読もうとする野嵜さんに特にどうとも感じないのですが、ただ単に、間違ってるのではないかなあと。と言ふのは何うかと。
俺が高橋氏の發言からフェミニズムを讀み取るのが間違ひであるのに、高橋氏が文学作品から父権制度を讀み取るのは間違ひでない、と云ふのは、一體全體どう云ふ事なのかと。
平成十六年二月二日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040202#p2について。現代の論理學は集合論として數學と一致してゐるのですが。ただ、あの數の大小云々は、推論ではないでせう。少くとも、論理學的な物の言ひ方ではありません。
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040202#p3
さて、この世界解釈のどこが日本的ですか? と高橋氏はとぼけてゐますが、如何にも日本人らしい西歐解釋ではないですか。
高橋氏は、日本人として理解出來る範圍でのみ理解してゐますが、理解出來る範圍の物事のみ實在を認め、理解出來ない範圍の物事の實在は認めません。
しかし私は、自分に理解出來ない事を考へてゐる人間がゐる可能性を否定しません。西歐人が日本人の考へもしない事を平氣で考へるらしい事は、チェスタトン、エリオット、ドーソン、ベルジャーエフ、ドストエフスキー等の人々の文章を讀んでゐれば想像出來ます。
系の内的正しさは系自体が役に立つかどうかとは別問題なのです。と云ふ考へ方は、非常にありきたりの考へ方で、私には全く魅力が感じられません。實際のところ、論理自體は機械的な物でせう。しかし、それを扱ふのが人間である事を、私は聲を大にして言ひたい。意味はプログラマによる構成とユーザの解釈によって発生します。論理そのものの表現の中にはない。と高橋氏は言つてゐますが、正にその論理を運用する人間には精神があるのであつて、それを言つてゐる訣です。
論理は機械的な物です。それはさうでせう。ですが、その機械的な論理を機械的に實現する機械を、日本人は作り出せましたでせうか。否。コンピュータを生み出し得る文明を作つたのは、日本人ではなく、西歐人でした。ならば、彼我には何か、違ひがある筈です。それを、高橋氏をはじめ、多くの日本人が、論理の範圍、機械的の範圍の中で解釋し、納得してゐます。しかし、高橋氏がいみじくも述べたやうに、西歐人が論理を實際に扱ひ得るやうになつた契機は論理そのものの表現の中にはない。あるとしたら、明かに論理以外の範疇のものの中に、です。
それを、西歐の哲學者や文學者が「キリスト教だ」と指摘してゐるのです。
だから私は、論理の扱ひ方と同時に、今のやうに論理を扱ふ契機となつたキリスト教の精神をも、日本人は學ぶべきだと言つてゐるのです。
また、高橋氏は、傳統的な論理學はアリストテレス由來であり、結局のところキリスト教由來ではない、と指摘してゐます。しかし、由來する所がどこであるかは問題ではありません。ギリシアに論理學が出現した。それがアラブ圈にも廣まり、保存された。それを中世のヨーロッパ人が再發見し、アラビア語の文献を飜譯して知識を再移入した。そこでルネサンスが花開く訣ですが、そのルネサンスがきちんと近代に繋がり、現代に繋がつてゐる。それが大事だと言ふのです。
論理學自體は、ギリシアで生れたし、アラブにもあつた時代がある。にもかかはらず、論理學を推進めて近代に結び附けたのは西歐だけだつた。ギリシア人にもアラビア人にも、論理學を近代文明に昇華させる爲に必要な何かが無かつた。
西歐では、キリスト教が中世まで、非常に苛烈な觀念に對する「抑圧者」として存在してゐました。それがルネサンスと宗教改革と云ふ激烈な反撥を呼起したと言つて良いと思ひます。ギリシアの場合、自由人が觀念を捏ねくり囘すのは容易だつたやうで、ただ、ソクラテスのやうに煩い事を言ひ過ぎると政治的に抹殺される程度だつたやうです。オリンポスの神々は、適當な人逹でしたから、論理學に一々干渉するやうな眞似はしなかつたやうです。アラブの場合、イスラム教が支配的でしたが、それは政祭一致で、かなりセンスに依存した物だつたと言へます。論理學のややこしい議論を凹ませようとする程、コーランは觀念的ではなかつた。ところがキリスト教は、もともとキリストの言ふ事が皆、理窟であり、キリスト以前の舊約聖書もまた、「閉ぢた系」として無類の強さを誇る理窟つぽい代物だつた。それだけに、キリスト教の教會が觀念の世界で支配者として途轍もなく横暴かつ專横で、無茶苦茶な觀念を平氣で押附けてゐた。それで中世と言ふ表面的には停滯の極みと言つて良い時代が長い事續いた訣ですが、キリスト教の教會の押附ける觀念に對する怨念が溜りに溜まる。さう云ふ情念に押されて、科学的・客觀的な觀念がカトリック教會に復讐したのです。
キリスト教は、理窟で塗り固められた世界で類を見ない宗教です。「閉ぢた系」としては當時、完璧に近い論理體系であつた事は間違ひありません。それが理窟で觀念を壓迫してゐたのだから、觀念の世界の發達が停滞したのは當然です。それを打破する爲に西歐人がとつた手段は、結局のところ、キリスト教と附合ふうちに拔き難いほどに精神に巣食つた觀念論だつた訣ですが、キリスト教の構築した完璧に近い論理體系を突崩す爲に、キリスト教の大前提とは別の大前提に基いた別個の論理體系を作つてしまつた。それが近代科學文明であります。
このやうに考へない限り、西歐人が科學文明を作り上げた事、その近代文明が世界を覆つてしまつた事は説明がつかないと思ひます。
平成十六年二月二日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040202#p4
西歐の源流が、ヘブライズムとヘレニズムである事くらゐ、知つてゐます。
と言ふか、此所で典型的な日本人的論法が使はれてゐるんですよ。やがて信仰と理性は分離され、そのおかげで理性は自由を得て、近代が始まります。と高橋氏は言つてゐます。この言ひ方が如何にも日本人らしい言ひ方である事に、高橋氏は絶對氣附いてゐない。高橋氏は、分離され、と言つてゐます。高橋氏にしてみれば、信仰と理性は、誰かが分離したものではなく、分離されちやつたものなのです。理性は自由を得て、も同樣、理性は勝手に自由を得てしまつたのであつて、誰かが積極的に理性に自由を與へたのではないのです。
しかし、あなた任せの態度で、西歐人の論理學、科學、近代文明は成立し得たものでせうか。既に述べたやうに、キリスト教に對する「復讐心」と言つて良いやうな情念――或は怨念――がなければ、西歐に今のやうな西歐文明は生じなかつただらう、と思ふのです。それは言換へれば、怨念を生じさせるほどに憎まれるキリスト教がなかつたならば、今のやうな論理學も、論理を利用した科學も、科學に基いた近代文明も、生れなかつた、と云ふ事にほかなりません。
せつかく論理的にやりたいと高橋氏には申し出ていただいたのですが、問題は人の情念の問題なのです。
平成十六年二月二日
個人の道徳に屬する事ならば、「俺はかう思ふんだ」が通用すると思ふ。他人がどうであれ、自分獨りの中でしか解決の出來ない問題はあるものだ。
しかし、政治問題を議論したい場合、「俺はかう思ふ」に閉ぢ籠つてゐるのは、戰術的に拙い事だらう。「あんた一人だけ何とかなれば良いつてものぢやないんだよ」と非難されるだらうからである。政治の話では、「俺達はかうすべきだ」と言つて話をしなければ、所謂「説得力」を缺く、と云ふ事にならう。
平成十六年二月二日
http://d.hatena.ne.jp/Tskk/20040202
かう云ふ「批判」に對しては、「意味がわかりません」と應へるものなのかな?
某氏の「改変コピペ」は「しっぺ返し戦略」とは解釋出來ない、と俺は書いたのだから。

平成十六年二月一日
そんな訣で、とても重くてアレだつた一月分は過去帖行き。
その邊の論爭關係でリンクを張りたい人はそつちへ。
平成十六年二月一日
シスプリの中の人は、私へのレスだけ妙に氣合が入つてゐますが、氣のせゐですか。私の事が憎くて憎くて仕方がないのでしたら、無理に御讀みいただかないでも。
平成十六年二月一日
と言ふか、俺の發言に過剩反應する人がゐる事が理解出來ない。俺が馬鹿で間拔けなら、政治的には放つておくのが一番良い事だらうと思ふのだが。
一々俺の評判を落すやうな事を言はないとならない理由でもあるんでせうかねえ、政治的に? 俺の「惡名」が高まるのは、寧ろ彼等にとつて困つた事になるのではないかと思ふのだが。famousだらうがinfamousだらうが、Googleの檢索エンジンは氣にしない。
ワイルドに據れば、一番惡いのは、惡口も言はれなくなる事ださうである。
平成十六年二月一日
In a flurry/晴雨両用日記 2004年1月

 「日本には××が存在しない」みたいな言い方を頻繁にしていると、「俺は日本人であることをやめられませんが何か?」みたいな開き直り的ナショナリズムを相手に起こさせるだけではないでしょうか。結果として自説を相手に理解させる機を逸しているように思えます。

 野嵜さんが言っていることって、別に西洋だの日本だのという言い方をしなくても書くことができるし、むしろそうすることに意義があると思うのですが。

戰術的にはさうなのでせうけれども、現實問題として日本に住んでゐて日本の風土に馴れてゐて日本人流の思考形式に染まり日本的な八百萬の神樣しか宗教を知らない日本人が餘所の國の事を簡單に理解出來るとは思はないし、事實俺は出來ないでゐるのだから、西歐と日本の違ひは何時までも言立て續ける積りですし、實際、西歐と日本とは根本的に違ふと思つてゐますからその邊の事を言はないのは嘘でせう。自分にとつて不利だらうと何だらうと、嘘は書けません。
「戰術的に不利」であつたとしても、不利なのは俺一人だけです。眞實自體は、政治的な計略や戰術によつて搖らぎません。或意見の價値は、意見の唱道者・支持者の評判によつて決るのではなく、意見自體の當否によつて決ります。
平成十六年二月一日
http://d.hatena.ne.jp/Tskk/20040131#p1
記號論としての「萌え」、構造主義的「讀み」としての「萌え」なるものを、俺が支持してゐない事は讀取れるだらうと思ふのだけれども。
ところで「萌える」の文語表現は「萌ゆ」だから、名詞化した「萌え」の歴史的仮名遣いも「萌え」ではなくて「萌ゑ」ではないでしょうか?
歴史的假名遣の規則では、或種の動詞が「や行」と「わ行」とに跨る活用をするものである、とは、何に基いた主張でせうか。「ゑ」は「わ行」に屬し「や行」に屬してゐません。
あと、「文語・口語」と「歴史的假名遣・現代仮名遣」とを混同してゐませんか。
ところで「好き」という形容動詞は「好く」という動詞が語源ですが、今では「好く」は死語です。
簡單に言葉を殺すのは如何なものかと思ひますが。
と言ふか、感動感動つてあなた、感動そのものが堕落なんですよ。
平成十六年二月一日
軍事施設だけが核攻撃の目標になるだなんて、認識が甘いですよ。
人が澤山住んでゐる街なら、それだけで攻撃目標になる。
空いてゐる土地があるなら、それだけで攻撃する理由になる。
と言ふか、理由なんて故事つければ幾らでも出來る。それが政治と云ふものではないですか。
そして、何處の國だつて假想敵國なのだから、ロシアもアメリカも支那も韓國も臺灣も、何處だつて日本を攻撃する可能性はある。
http://d.hatena.ne.jp/Tskk/20040201#p1
http://d.hatena.ne.jp/solar/20040130#1075510089
事件は風化しますし、諸制度は變化しますし、パラダイムはシフトしますけれども、それで人間の本性が變る訣ではない。
日本の社會が政治的に左傾化しようが右傾化しようが、日本人の行動原理が「世間の目」である事は變化しない。
批判にしても、日本人のそれは、時代によつて依據するイデオロギーが、尊王攘夷になつたり、マルクス主義になつたり、「ゴーマニズム」になつたりするだけで、昔も今も、政治的なイデオロギーと云ふ相對的な價値觀に基いて相手を「敵か、身方か」に分類し、「敵」なら「馬鹿」と極附け、見下して見せ、ほかの人にも見下す事を促す、と云ふものである事には變化が無い。フェミニズムにしても、「色眼鏡で物を見る」と云ふ方法論である事は、過去のマルクス主義や、その他の日本的な方法論と、全く變らない。眼鏡だから、見えるものの像が歪むだけで、ただ、歪み方が違ふだけなのである。
日本的な「批評」の目的は、自分の敵を、自分が見下すのみならず、周圍の人間にも見下させ、集團でやつつける事である。それによつて通される自分の意見の當否は、檢討される必要がない。眼鏡で歪んだ像の形が、あれの方が面白い、否、こつちの方が面白い、と言合ひ、數の多い方が少い方を、とにかく馬鹿にするのである。所詮、どつちも歪んだ像を根據に言ひ爭つてゐるので、目糞鼻糞と云ふ奴だが、それを面白がるのが日本人の古くからの性向で、それを「困つた事だ」と俺は言つてゐるのだが、さう言ふと「困るのは、お前が少數派だからだらう」「苛められるのが嫌なのだらう」と、さう云ふ見下したやうな憐れむやうな言葉が返つて來るだけである。
「今が面白ければ、それで良し」と云ふ態度は、決して現代の日本特有のものではない。「馬鹿騷ぎ」が好きだと云ふ日本人の國民性は、昔も今も變らない。そして、その種の「不變のもの」があるのに、それを見ないで、流行だとかパラダイムだとかの變化や轉換だけを見て、「變つた」「變つた」と言ふ人が非常に多い。「時代は變る」と人は言ふが、「時代によつて變らないもの」があつて、それが非常に厄介なのだ、と云ふ事を、人は悟らない。取つかへひつかへかけかへる色眼鏡が、樣々の歪んだ像を作り出したとしても、その向かうには正しい像が存在するかも知れない――ところがその「正しい像」の存在を主張しようものなら、自分の愛する歪んだ像と異なるものだから、敵の歪んだ像を貶すのと同じ調子で「正しい像」の主張も貶すのである。
もちろん、これこそ「正しい像」だ、と主張するのは簡單な事だから、皆が皆さう言ふし、少し氣の利いた奴、或は拗ね者は「正しい像」を主張する奴は全員怪しいと看做してしまふし、そもそもそんなものはない、あると主張する奴はをかしいと斷定的に言ふ。
だから、個別の問題で、個別の主張について、一々檢討が必要なのだが、その種の檢討をさぼる奴がゐて、にもかかはらず、そいつは自分の事を要領が良いと思つてゐたりする。或は、問題の本筋と離れた細かい部分にかかづらつて、ちよつとでも自分の信じてゐる「歪んだ像」と異るものを見附けると、それを極端に誇張し、「非道過ぎる歪みだ」と極附けて、主張を全體として否定してしまつたりする奴もゐる。結局のところ、「正しい像」を得る事は出來ないと、全ての人間は色眼鏡で物を見てゐるのだから觀測は不可能であると、さう云ふ奴は信じてゐて、現代の日本にはその種の人間が非常に多いのだが、自分の色眼鏡の存在に氣附かなかつた昔の日本人に比べて、進歩したとも思はれない。物を見る際、色眼鏡を通してゐる事に氣附かないのと、氣附いてゐても氣にしないのとで、何か變るかと言へば、變る訣がない。色眼鏡を外せない事を悟つてゐて、それでも想像力や理窟で以つて「腦内」ででもとにかく矯正しようとするのが近代的で意識的な態度だが、日本人はそれをやらうとしない。面倒臭いのではなくて、單に切實に自分の「色眼鏡」の存在を意識してゐないのである。それはさうだ。昔から掛けてきた「色眼鏡」の存在を、意識して排除しようとする訣がない。日本人にとつて、「色眼鏡」で物を見る事は、習慣である。どんな像を結ぶかが違ふだけで、「色眼鏡」を通して物を見る、と云ふ習慣は變らない。
それが問題なのだと言つてゐるのだが、問題だと思はない人は、俺の言つてゐる事を單に「をかしな事」と極附け、レッテルを貼つて、見下すだけで濟ませてしまふ。彼等は、アプリオリに、何でも「わかつてしまふ」のである。彼等のするのは、ただ、示唆のみである。詳細を希望されても、マジレスする事はない。それが「いき」なのである。「いき」とは嫌なものである。
平成十六年二月一日
と言ふか、かう云ふ事を書いてゐるとまたファイルサイズがどんどんどんどん膨らんで行く訣で。
どうしたものですかね。
本人ですら讀返さないやうな文章が増えて行く訣ですからねー。先月の文章をちやんと讀んでゐる人が複數ゐたと云ふ事實には、かなり驚愕した。
俺は長い文章なんて嫌ひだ。
平成十六年二月一日
「共産党の××といふ主張は正しい」と言ふ人の狙ひは屡々、反對者の反對する理由を「共産党の主張だから」と云ふものに極附ける事である。例へば「野嵜氏は共産党が御嫌ひのやうですからね」と言ふ。それによつて、反對意見を封殺する一方、自分は「共産党の主張」を「正しい」とする理由を説明しないで濟ませてしまふ。
そして本人は、「自分は共産主義者である」と絶對に言はない。飽くまで第三者が公正な視點から判斷してゐるのだと云ふ振りをする。しかし、その判斷の根據を絶對に説明しない。ただ、「わからない奴は馬鹿だ」と言つて相手を見下すだけである。
或は、共産黨の意見を支持する自稱「俺は共産主義者ではない」人間の主張を良く注意して讀むと、「アプリオリに××は正しい」と云ふ感情論が屡々混入してゐる。その癖、彼は反對者の意見を感情論と極附け、大々的に宣傳する。
この手の人間に特徴的なのは、自分に向けられた批判を嘲笑しながら、直ぐに批判者に同じ批判を同じ論法でぶつける事である。そして、いつの間にか、自分がその批判や論法の本家本元であるかのやうな顔をして、批判者のしてゐる事を自分の物眞似であるかのやうに扱ひ始める。
しかし、議論の一聯の流れをちやんと讀める人ならばそいつのその邊のごまかしはわかる。にもかかはらず、そいつ自身は自分が完璧にごまかしをやつたものと思ひ込んでしまふ。そして、ごまかしをしてゐるのは批判者の方だと本氣で言出すのである。
平成十六年二月一日
「俺は別に共産主義者ではない」と言ふ人は、「共産党が過去、實際にやつてきた事」を理由に「共産党の主張は信用出來ない」と云ふ論法を常に嘲笑する。同じ人が、「誰某は、こんな事をやつてきたのだから、そいつの意見なんて聞いてはいけませんよ」等と平氣で言ふのは、解せない事だが、良くある事である。
平成十六年二月一日
「俺は共産主義者ではない」を「俺はフェミニストではない」「私は革マルを必ずしも支持はしませんが」「私は決して親米保守でも反米保守でもありません」私は「したい」「べき」の世界に生きているのではなく「である」「する」の世界に生きています。等と言換へても、話は變らない。
http://flurry.hp.infoseek.co.jp/200401.html#30_2
平成十六年二月一日
政治運動と、政治の研究とは、獨立して存在可能か。
現代に於いて廣く認められてゐるのは、「中立」を稱する研究者でも、常に政治的偏見の入つた研究成果しか出し得ないから、中立の立場の研究をしようとする事自體が無駄な努力である、と云ふ意見である。
そして、完全に開き直つて、或政治的立場に立つて政治を研究し、特定の政治運動を利するやうな「研究成果」を出す、と云ふ運動家的研究者も存在する。
だが、出て來る成果がバイアスのかかつたものであるか何うかは、檢討しなければ解らない筈である。それを最初から「バイアスがかかつてゐるに決つてゐる」として檢討しないのは如何なものか。そこで、再び政治的な見地からの檢討を行ふならば、水掛け論に陷るのが落ちであらう。そして、水掛け論になると、聲の大きさで結論が決るだけである。その結論が害のあるものであると云ふ豫言的な研究成果も、聲の大きさで正邪が決定されるならば、大きな聲の反對意見に押潰されるだけである。
水掛け論を避ける爲には、自分の政治的な偏向を意識しつゝ、それを警戒しながら愼重に事實なり意見なりを檢討するしかない。さう云ふ公正な態度で問題に當るのが必要なのだけれども、水掛け論で如何に大きな聲を出すか、と云ふ事だけに努力する人が一向に減らない。
平成十六年二月一日
俺が良く使ふのは、相手の理窟で以つて相手自身の主張を否定する、と云ふレトリックで、その場合、相手の理窟はそつくりそのまま利用しなければならない。
例のシスプリネットの人がやつてゐる「改変コピペ」は、ただ相手の言葉を眞似たもので、理窟はシスプリネットの人自身の理窟に基いてゐる。
珍字珍かな派とは「珍しいかなづかいを信じる」人のことだ、と多くの人が思っている。そういう珍字珍かな派も、確かにいる。しかし、「かなづかいをより珍しいものにしようと努力する」というのが、珍字珍かな派の持つべき思想であると私は考える。
ここで、シスプリの人は「新字新かな」派に一掃された今となっては、「正字正かな」派など、我々「珍字珍かな」という巨大な軍勢の一部に過ぎないわけですが、と書いてゐる。俺がそのやうな理窟を認めてゐない事は自明である。俺は、支持者の多寡ではなく、原理のシステムとしての一貫性を、價値判斷の原則とすべきだと言つてゐる。シスプリネットの中の人はこの「改変コピペ」で、「自分の信ずる個人的な價値觀」にのみ基いて俺を罵つてゐるだけであつて、俺の理窟を全く否定してゐないし、俺の主張の矛盾を衝いてもゐない。
シスプリ氏のすべき事は、「新字新かな」派に一掃された今となっては、「正字正かな」派など、我々「珍字珍かな」という巨大な軍勢の一部に過ぎないと云ふシスプリ氏の信ずる「理窟」を俺もまた認めなければならない必然性の説明であつたのだが、それをシスプリ氏は今に至るまで全くやつてゐない。俺の意見を否定するのに、シスプリ氏が「アプリオリに知つてゐるべき理窟」を持出し、その妥當性を説明しないでゐる時點で、シスプリ氏が「トンデモ」である可能性が出て來る。
平成十六年二月一日
「全ての天體は地球を中心に運動してゐる」と云ふ説に對して、「或種の天體は地球ではなく木星を中心に運動してゐる」と云ふ「反證」を示したのがガリレイである。觀測者のゐる地球を基準にするのではなく、地球をも他の天體と相對的な位置關係で捉へた方が天體の話は分り易くなる。だから、地動説は普及したのだが、地動説と言ふのは結局、觀測者が觀測結果を記述するのに天動説よりもシンプルに記述出來る方法を明かにしたものに過ぎない。
今でも地球儀によつては天球儀がおまけでくつ附いてくるし、天文年鑑には惑星の見かけの位置が載る。觀測の都合上、天動説的な記述が有效な範圍がある。
物體の相互の關係を記述するにも、觀測方法の問題で量子力學が必要となる極小の領域や、ニュートン力學で十分話が出來る領域、アインシュタインの説を持出さないと何うにもならない領域が存在する。
平成十六年二月一日
ARTIFACT −人工事実− | ネット教習所をシステムとして作る−儀礼的無関心について−
「ウォッチャー」の権利など守る必要はない。儀礼的無関心2 : ウェブログ@ことのは
「見る」「見られる」と云ふ行爲のレヴェルで話をしても何うにもならないのであつて、「なぜ見るのか」「なぜ見られたくないのか」を論じなければならないのだが、それを論ずるには「なぜ」の理由が餘りにアレ、と云ふ話。
平成十六年二月一日
aozora blog: 新仮名遣いと旧仮名遣い:どっちがわかりやすい?
特に国語、言語学、言葉を扱った文献を新仮名にしてしまう(そして漢字を無闇に開く)のは、問題なのではないだろうか。
平成十六年二月一日
この世に唯一の「正しい事」は存在しない、と云ふ主張は、あり得る。ただ、その結論が必然的に「個人の意見に『間違ひ』はない、ただ『違ふ』だけだ」と云ふものになるだけである。
そして、その必然的に出て來た結論を受容れるならば、「俺の意見をお前は『間違ひ』とする事は出來ない」だけでなく『お前の意見を俺は『間違ひ』とする事が出來ない」と云ふ結論も受容れなければならない。そして、この後の二つの意見を受容れられないのならば、前の「個人の意見に『間違ひ』はない、ただ『違ふ』だけだ」と云ふ意見も必然的に受容れられない事にしなければならない。
一方、「個人の意見に『間違ひ』はない、ただ『違ふ』だけだ」と言ふ人に、「俺の意見をお前は『間違ひ』とする事は出來ない」と言つて保身をはかりつゝ、ひたすら他人の意見を「間違ひだ」と言立てる癖がある事は否めない。

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