闇黒日記

平成十六年一月三十一日
ふと思ひ立つて、隨分前に修理から返つて來てゐたVictorのS-VHSヴィデオデッキくんを再設置。微妙に千九百七十年代テイストの「オタスケマン」とか、千九百八十年代テイスト溢れる「ドリームハンター麗夢II」とかを鑑賞してみたり。VHSのカセットに觸るのも久し振りの事だつたり。
綾小路探偵事務所
「麗夢」の18禁ヴァージョンを觀た事があるけれども、黒歴史にされてゐるやうだ。
平成十六年一月三十一日
昨日も神田古書會館の古本市で古本を買つた。
福原麟太郎六冊。中村勝範『戦闘的民主主義』。平泉澄『菊池勤王史』。佐々木惣一『天皇の國家的象徴性』。『悲劇は始まっている』(高木書房)。大槻文彦『廣日本文典』。どれも特に切實に欲しいと思つて買つた本ではない。
平成十六年一月三十一日
虹裏を見に行つたら、アニメもゲームも小説も映画もドラマも本質の部分は一緒だと気付いてる奴はホント少ないな。なるスレが一番上に表示されて驚いた。
ちなみに俺はスレあきではないです。
平成十六年一月三十一日
今見返したら俺、歌は一つしか公開してゐないのな。
平成十六年一月三十一日
http://www5a.biglobe.ne.jp/~whinwm/diary/2004/01.html#Fri30a
野嵜さんの「萌え」の定義、と云ふ事にされてるし。
平成十六年一月三十一日
http://d.hatena.ne.jp/Tskk/20040127#p6
擬声語の表現と仮名遣いが別の問題ならば、その切り分けの原理は何でしょう? については、正かなづかひ早分りの一番最後の邊で述べてゐますが。
平成十六年一月三十一日
「世界観」「キャラクター性」というのは、ラノベ(のさらに一部かもしれない)の特徴なのであって、文芸一般に適用出来るものではないかと。
それはまあさうなんですけれども、某電撃の一次審査の採點表でその邊の彩點が求められてゐたりするもので。
現代的な「消費される文學」としての評價と言ふ事で。
一往、「消費社會としての現代における文學のあり方」と云ふ「建前」と、俺の信ずる「文學の本質」とは、區別してゐる積り。
俺の「死ぬ男」について、自分で自作を説明しても仕方がないのだけれども、「商品」としては「なつてゐない」と思つてゐるから。
あと、メールで感想を頂戴したのだけれども、さう云ふのつて隨分久し振り。どうもありがたうございます。
平成十六年一月三十一日
高橋氏の小説なんだけれども。 冬コミコピー本告知! 仕掛けとか意圖とかはわかつたのだけれども。それで何が面白いのかと。
小説にしても評論にしてもウェブの日記にしても掲示板の投稿記事にしても、筆者が仕掛けや言ひ訣で完璧に「理論武裝」するのは許される。けれども、その「武装」によつて守られるものが何なのか、が問題ではないのかと。
「武装=保身」とは限らないのであつて、時として他者を辯護する爲の文章があるのだけれども、それだけに保身の爲の「理論武装」は憎まれるものなのではないかと。
高橋氏の場合、小説の本體が「十八歳の新人賞應募者の文章」の域を出ないものであつた訣で、リアルなんだらうけれども、純エンタテインメントの小説を求める讀者が、わざとであらうと、わざとでなからうと、「下手な小説」を讀みたがる事はない筈。否、小説の讀者ならば、小説が純エンタテインメントであらうと、純文學であらうと、まづは「巧さ」を期待するものだ。
高橋氏の仕掛けが、小説の稚拙を隠蔽する方向に働いてゐなかつたか。「働いてゐない」と見るより、「働いてゐた」と見る方が、より説得力を持つ見方となるのなら、その仕掛けは失敗だつたと言つて良いだらう。俺は失敗だと思ふ。少くとも、解釋の可能性として、その種の方向への途を作つてしまつたのは拙い事だと思ふ。
高橋氏は「純文學」を好きなのだらうと思ふのだが、その「純文學」を好きだと云ふ事と、「面白い」事が好きだと云ふ事とが、どうも齟齬を來してゐるやうに思はれてならない。
平成十六年一月三十一日
んー。
クリスティもクイーンも讀んでゐないのに、ヴァン・ダインは初期のを、←ここは嗤ふところ、二、三作、讀んでゐるなー。内容は忘れた。
えーと。嗤はなくても良いですよ?
海外ミステリでは、ペリー・メイスンを二作ほど讀んだ記憶あり。
平成十六年一月三十一日
シスプリの中の人が、「改変コピペ」だの何だので、露骨過ぎる惡口を言出してゐる。いよいよ精神的餘裕が無くなつて來たらしい。
皮肉屋を氣取る者が皮肉の假面を自ら剥取つて見せた假面の下の素顏は、果して如何なるものであるか。
それと、引用ではない「改変コピペ」をblockquote要素としてマーク附けしてゐるが、不正であるので、改善したら何うか。
自分が論理的に完全に敗北してゐて、すぐに尻尾を卷いて逃げ出す間拔けだと宣言しながら、そこから新たな「伝聞」の人が増殖する事を危惧してゐるかのやうに言つて、自分を棚上げしつゝ、他人への攻撃に話を摩り替へてしまふ某氏は、シスプリに續き、ななみとこのみに萌え萌えみたいだ。
先日、有名な「百ます計算」については批判的な意見もある、との記事を読みました。結局、「百ます計算」で応用力を身につけられるかどうかは、本人の資質に依る部分が大きいわけで。「伝聞」によって手に入れた「論理」という名の刃物を、他人を傷つける凶器にしか使えないキチガイにはがっかりです。
本當に、シスプリの中の人にはがつかりです。
平成十六年一月三十一日
あるきまった理論的前提を立てて、それに合致するような事実だけをやたら並べたてるという方法は実は本当の学問的方法ではない。
平成十六年一月三十一日
フェミニズムの效能を説くのは結構だが、それがフェミニストに政治的に利用される事と同義で無いとは言へないだらう。

平成十六年一月三十日
Dead Writers Society
高田保の著作権が切れてゐる。齋藤茂吉、伊東靜雄、堀辰雄、藤村作も。
來年は岸田國士、竹友藻風の著作権が切れる。
平成十六年一月三十日
もしかして、渋谷東急東横大古本市は既に終つてしまつてゐるのでは……!
最近、古本市に拘りがなくなつてきて……御財布が輕いせゐもあるけれども。天から御金が降つて來ませんかね。來ません。
平成十六年一月三十日
ライトノヴェルのレーベルが片つ端から角川の傘下に……。
平成十六年一月三十日
ついに珍字珍かなとの戦いに勝利したノザキマン。しかし珍字珍かなは明日も日本を狙う。偉大なる妄想と自己弁護を駆使して、戦え! 正字の味方、ノザキマン!!
こいつは氣狂ひか?
妄想オタは、腦内妹に萌えるだけではなく、腦内ヴァカを「粉砕」して、それを現實と混同する能力まで身につけてゐるらしい。壊れたラジオを粉砕する趣味はとうに止めたので、そろそろ終わります。等と勝利宣言をしてゐるが、さう云ふ宣言は俺の言つた事を一つでもまともに否定してからするやうに。一見示唆的で、もつともらしい、或は「それっぽい」事を言つて、それで勝つた氣になるな。
茶化して相手が反應すれば面白がる、と云ふのが正當な批評であると思つてゐるのなら、それは間違ひだ。單に面白がつてゐるだけだと云ふのなら、それも間違ひだ。
平成十六年一月三十日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040130#p1
ライトノヴェルだらうがシェイクスピアだらうがアニメのおねティだらうがイタダキマンだらうが、人が創つて人が樂しむものならば、楽しませ方も樂しみ方も基本的に同じだらう。
「本来の文学的見方」こそが観念であり云々の段落は、最初全然意味がわからなかつた。どうやら「父権制度なるものが、「本来の文学的見方」なるものを含む過去の全ての觀念を生んできたのだ」と云ふ「フェミニズムの論理」を言つてゐるらしいと何とか呑み込めた。
「正字正かなこそが観念であり珍の生み出したそれ自体ひとつの珍字珍かななんじゃないのか」と言ふくらゐに意味のない説明でしかないと思ふ。ここでは「珍」はアプリオリに「珍」であつて存在證明も反證も不可能なものである。そんなものを根據に「なんじゃないのか」と言つたところで、言ひがかりにも皮肉にもなりはしない。
父権制度なるものも、矢張りフェミニズムではアプリオリに存在するものであつて、そこが出發點となり到着點となる。フェミニズムの立場をとる限り、父権制度は「ある」ものであり、言はばキリスト教の「原罪」と同じものである。と言ふより、フェミニズムは宗教同然であつて、論理を超越してゐる。父権制度は、全ての人間の觀念の原因であり、同時に全ての觀念が父権制度の存在證明となる。これは明かに自家撞着なのだが、信仰の根元であるがゆゑにフェミニズムは父権制度と云ふ己の自家撞着を批判的に見る事が出來ない。そして、フェミニズムが宗教であるがゆゑに、「信者」でない人間にとつてフェミニズムの父権制度なる觀念は既存の觀念に對する痛打として感じられない。それを痛打と感ずる爲には、フェミニズムの信仰を受容れなければならない。
以下は餘談。フェミニズムの自家撞着が甚だ皮相なものでしかないのに對し、キリスト教の自家撞着が非常に巧く仕組まれてゐる。フェミニズムの父権制度は、所詮、自分以外のものに責任を認めさせようと云ふさもしい料簡に基づいたものに過ぎない。一方、キリスト教の原罪意識は、自分自身に責任を認めると云ふものである。キリスト教は、教會と云ふ地上に於る神の代行者によつて政治的な力を屡々發揮するが、にもかかはらず、政治的なイデオロギーと看做し得ない。その理由は、他者の存在を前提としないドグマにある。原罪を意識するのに、他人なり社會なりの存在は不要である。フェミニズムは、自己を棚上げして他者を非難するものであり、よつて社會の存在を絶對に必要とする以上、宗教的ドグマを抱へ込みながら飽くまで政治的なイデオロギーと看做されるのは、避けられない事である。
平成十六年一月三十日
現代では記號化されたものでないと消費されないとかいつた事をベンヤミンが述べたさうで、それは記號化された「女性」(婦人の言換へではなく、「女の所有する性質」、所謂「屬性」の意)にハァハァする「萌え」を論ずる際には必ず言及される事だらう。ただ、記號論で立止まつてしまふと、人が、記號やら何やらを通して、記號以上の何かを感得し得る、と云ふ事の不思議さを忘れてしまふ事になる。
と言ふより、人が、「わかる」と云ふ事の不思議さを忘れてしまつたが爲に、「わかる」事の堕落を生じ、記號化された「理解」、「わかれば良い」と云ふ「現實主義」、「萌え」と云ふ名の構造主義的「讀み」を採用するに到つたのではないか。
さうなると、「わかる」對象の「わかり方」がどれほど提示されても、それは何かに對する痛打にはならないと言ふ事が出來る。結局、「わかつてしまふ」のだつたら、そこに衝撃は生じない。
單なる「裏返し」で、「不可知論」に陷つても仕方がない。記號化された「わかる」が「わかりたい」と云ふ欲求に對して「わかる方法」を示す事で當座の渇きを癒す役目をするに過ぎないのに對して、「不可知論」は「あの葡萄は酸つぱかつたのだ」と言つた狐のやうに「わかる」事を貶めて自分を慰めてゐるに過ぎないからである。
人が何かを「わかる」事の不思議を認める事こそ、現代人にとつて眞に衝撃的な事だと思ふのだ。
數學的な現代の論理學にしても、古典的、或は傳統的な論理學にしても、「わかる」方法に過ぎない。ただ、「わかる」努力をする事で、結局「わかる」事の本質が、論理なり説明なり説得力なり辯論術なりではなく、努力のやうな個人の精神に關する事である事が感得される筈である。
同時に、「わかる」爲の方法を幾ら工夫しても「わからない」事があるとするならば、「あるかどうかわからないもの」に對する疑ひとともに、「無いとは言切れないもの」に對する確信もまた生じて良い。もちろん、安易に「無いとは言切れないからUFOは實在する」と言切つてしまつたら「トンデモ」である。「わかる」爲に「疑ふ」ならば、「わからない」ものは結局「わからない」のであつて、そこで何かを「わかつてしまふ」のは簡單に出來る事ではない。しかし、論理を突詰めれば行詰るのであつて、「神なんてゐる筈がない」と安易に言切る事もまた「トンデモ」の別の形であると認めざるを得なくなる。かのアインシュタインも、最後には神の存在を否定し切れなくなつた。
キリスト教のGodは、日本人にとつては、疑ひ切れないも何もなくて、そもそも自分で思ひ附いたものでないのだから最初から「存在を意識しないもの」でしかないし、存在を意識出來ないのなら存在しないも同然である。ただ、西歐人から聞きかじつて知つたものであつて、ならば他人の觀念であつて、西欧人が自分で生み出して自分で勝手に挌鬪してゐるだけのものだとして、他人事のやうに見ておいても當然のものだ。フェミニズムの父権制度なるものを見て、「ふーん」と言つてゐて良いのと同じだ。
ただ、そんな訣のわからないものを戴いてゐた西歐の連中の理念や主義や理論に振囘されてゐる事を日本人は意識すべきだし、不思議に思つても良い筈だ。
平成十六年一月三十日
と言ふか、「ポルノが好き」も何も、大概の人は助平なのであつて、ポルノは所詮「助平の手段」でしかありません。その邊のところから話をしたら何うかと思ひますが。
自分は「眼鏡っ娘萌え」だだの「首輪萌え」だだのと言つて、自分で自分を精神分析に掛けてみるのと一緒で、「ポルノ」なる媒體への志向(嗜好に非ず)をいかに説明したところで、「合理化」であつて、自分で自分を納得させる事にしかなりません。もつとも、今の時代、誰もが無意識に自分の「死に至る病」を悟つてゐるやうで、その爲に自分で自分を治療しようと躍起になつてゐるやうな氣もしますが。
ただ、さう云ふのは、かつて「私小説」の作家逹が一生懸命やつてゐた事と同じではないかと思ふのですが。

平成十六年一月二十九日
惡質な人はどうして慇懃無禮な態度をとりますか。或は、「忠告する」と云ふ一見「親切」な振りをして人を見下す、と云ふ嫌らしい態度をとりますか。
平成十六年一月二十九日
俺の言つてゐる事は、シスプリの中の人にとつては不快でない事であるらしい。だから讀んでゐるのだらう。不快でないなら、非難する理由がないだらうけれども、多分、。
野嵜が嫌な事をしてゐるのに、シスプリの中の人に嫌な目に遭はされて、何うして怒りますか」とシスプリの中の人は言つてゐるのだが、俺は他人をただ嫌な目に遭はせるだけの爲に物を言つてゐるのではない。シスプリの中の人は、俺に嫌がらせをするだけの爲に嫌がらせをしてゐる。俺のしてゐる事と、シスプリの中の人のしてゐる事は、違ふ。そして、俺のしてゐるのとは違ふ事をしてゐるにもかかはらず、「同じこと」と言つてとぼけてゐるのだから、シスプリの中の人は惡質である。
平成十六年一月二十九日
まあ、自分のしていることは棚に上げて、他人に同じことをされると怒り出す、というのは自己中の定番ですけどね。
シスプリの中の人は、自分は怒らないで見下してゐるだけだから「自己中」でない、とでも主張したいのかな?
人を怒らせるだけの茶々入れをしながら、自分は當事者でないかのやうに裝つて高見の見物を決め込むのは、「煽り」とか「釣り」とか言ふらしい。
平成十六年一月二十九日
さて、ヴァカが正字正かなを使うと確実に正字正かなの評判が下がるので、推進派には「正字正かな」遣いの模範となるような行動を心がけていただきたいところです。
俺の事を「ヴァカ」であるかのやうに見せかけたがつてゐるらしいが、どうして匿名で物を言ふ人間は、さう云ふ中傷を平氣で行ふのだらう。
匿名の人間が中傷ばかりしてゐると、確實に匿名による發言の評價が下がる。云々。
と言ふか、匿名の癖に「素顔のままで」ですか、さうですか。
平成十六年一月二十九日
と言ふか、どうでも良いなら、言はなければ良いのに。
言ふ事に何か意義があると認めてゐるのならば、どうでもいいけど、と云ふ發言は嘘で、明かに「とぼけてゐる」のだし、何も意義がないのなら、ただの氣狂ひだ。
平成十六年一月二十九日
ついにアレを叩く人が出てきたか、と期待したものの、「伝聞」の人ばかりでがっかり。まあ、まともに叩けるほど優秀な人は、こんなところに来ないと思いますが。
優秀な人が來ないサイトの制作者が優秀であり、他人を優秀でないと極附ける權利を持つ事の道理を説明して貰ひたい。
あと、定義される語でないにもかかはらずdfn要素の中身にするのは如何なものかと。カーソルを「?」にしたいとか、その程度の理由でdfnにしてゐるんだと思ひますが、Internet Explorerでの擧動を基準に考へるのは云々。
と言ふか、この文章、シスプリの中の人は、傳聞拔き、妄想だけで文章を書いてますの宣言をしてゐるのかな?
と言ふか、嬉しさうに「がっかり」とか言ふなよ。
平成十六年一月二十九日
ぐぐつてゐて見附けたのだけれども。
哲学の脇道
大前提
すべての犬は動物である (A=C)
小前提
すべての人間は動物である (B=C)
結論
すべての犬は人間である (A=B)

明らかに結論部は偽である。三段論法が形式上成立しているにも関わらず、そして、「真」なる二つの前提から導いたにも関わらず、結論部は「偽」である。「すべての」を消してもやはり「偽」となる。

単純な三段論法を用いても、「真」なる前提から「真」なる結論は導き出せないのである。

これ、三段論法が成立してゐません。
大前提
すべての動物は人間に含まれる (B∈C)
小前提
すべての犬は動物に含まれる (A∈B)
結論
すべての犬は人間に含まれる (A∈C)
これなら、推論のやり方としては「正しい」事になる。けれども、大前提が大間違ひなので、結論は正しくない。
平成十六年一月二十九日
http://esu.oresama.org/200401c.html#20040128_s7
野嵜さんの「三段論法」は「三段論法による論證」であり、私の「三段論法」は「三段論法といふ論理式」である。
直前で、古典的な論理學における三段論法の妥當性も、それによる論證の結論も、同樣に否定出來ない。と言つてゐて、「それ」と云ふ指示語が「三段論法」を指示してゐる事から、「三段論法と云ふ古典的な論理學による論證方法」について「近代的な論理學では屡々否定可能である」けれども、さう云ふ專門的な話はして呉れるな、私は今「古典的な論理學」のレヴェルで話をしてゐるのだから、と讀取れる筈だと思つたのですが、讀取れないものでせうか。
平成十六年一月二十九日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040129#p2
いや、電撃の一次審査の審査基準だし。
平成十六年一月二十九日
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401c.html#p040128b
1.大前提
白兵戦は、「日本刀を振るっての人斬りのみで百人斬りを行う事」が不可能な戦闘である。
2.小前提
野田少尉のした戦闘は、白兵戦である。
3.結論
野田少尉のした戦闘は、「日本刀を振るっての人斬りのみで百人斬りを行う事」が不可能な戦闘である。
平成十六年一月二十九日
と言ふか、アナロジー以前の問題として、個人個人で異る價値觀と對置される「ユニヴァーサルな論理」と云ふ事を言ふ爲に、「ユニヴァーサルな論理」としての「數學」と云ふものを言ふ修辭で「數學的歸納法」と言つただけであつて、「數學的歸納法」は「背理法」でも何でも良かつた。なのに、なぜかさう云ふ「文脈に基く文章の解釋」でなく、「個々の用語の是非の問題」に話が行つてしまつてゐる。學校で習ふのは、「算數」から「數學」に名前が變るし、よみかきそろばんのレヴェルから飛躍したレヴェルの話に移行するけれども、全體として「數」の世界を扱ふ事には變らないし、取敢ずさう云ふ「數學」の世界の話は、世界の何處へ行つても同じやうに通用する話だ。「1+1=2」も「數學的歸納法」も、日本では通用するがアメリカでは通用しない、等と云ふ事はない。だから數學はユニヴァーサルなものであり、論理はユニヴァーサルだと言ふのである。
また、俺は、「1+1=2」から「數學的歸納法」と云ふ考へ方が引出せる、と言つたのではなくて、單に、小學校の一年生で「1+1=2」を習ひ始めて「數學的歸納法」なり何なりの證明が出て來る數學を學ぶが、さう云ふ數學と云ふジャンルにおける證明の存在を誰も否定出來ない、と述べただけである。
「1+1=2」と「數學的歸納法」との間に、數學的な見地からすれば飛躍がある事は認める。しかし、數學と云ふジャンルにおける論證を、個人個人で異る價値觀ではない「個人を超えたレヴェルで存在する價値觀」として示す、と云ふレトリックとして飛躍はない筈であり、ならば問題は無い筈だ。
「數學の議論をしてゐる時に、數學的な觀點から飛躍と判斷される事を安易に通過して話を進めてゐる」と言ふのなら問題だらうが、今は數學の問題を論じてゐるのではないし、だから「論理」と言ふのにわざわざアリストテレスだの古典的だのと言つて、數學的な現代の論理學の話を「しない」と宣言して置いたのだ。
それなのに、「數學に興味がある」と云ふ理由で俺の文章の中の用語を數學の側面から一々檢證して「をかしい」と言つて俺の言つてゐる事が全體として破綻してゐるかのやうに極附けるなんて、みんなひどいよ。
平成十六年一月二十九日
http://flurry.hp.infoseek.co.jp/200401.html#28_4
「語り得ぬものに関してはー、沈黙せねばならないのですよー」
小林秀雄流に俺は俺の言ひ方で語つてゐるのだが、どうもみんな、「語の一般的な意味」に基いて理解しようとしてしまつてゐるらしい。
平成十六年一月二十九日
俺は論理で傷ついたりしません。
敢へて文脈を無視してコメントすると、人は論理で傷つかないから、論理に基いて話をしませうよと。
純文学の横っ面に蹴りを入れた、「何が少女の純粋性だ」という今の水準からすると「頭の悪い」、しかし明らかに見落とされていた、新しさのあったツッコミを、
横っ面に蹴りを入れるとか、頭の悪いとか、見落とされていたとか、どうもその邊の事が解らない。「本來の文學的な物の見方から言つて、『讀取つてはならない物』『讀取れない物』を『讀取る』事が、なぜ純文学の横っ面に蹴りを入れる事になるのか。
そもそも、自分の知つてゐる觀念を批評對象に投影して、鏡のやうに映し出された「自分のもの」としての觀念を「相手のもの」として「讀取る」と云ふのが、どうして「批評」になるのか。
精神分析を創始し、夢判斷を「科學的」に提唱したフロイドは、「新しい」思想家だつたのだけれども、やはりフロイドの出現したのには時代背景があつたのであり、フロイドも現代と云ふ時代の制約を受けてゐる。フェミニズムにしてもさうだ。「今」と云ふ時代において、フェミニズムが何らかの效能を持つにしても、やはり「現代の思想」としてフェミニズムは現代と云ふ時代の制約下にある。そして、さう云ふ時代の制約を考へないで、ただ「新しい」と言つて或方法論なり思想なりを稱揚するのは、單に「流行に乘る」と云ふだけの話であつて、矢張り時代の制約から逃れられないと云ふ事になるのではなからうか。
平成十六年一月二十九日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040129#p7
「こんなものに萌えられるか」と云ふものに萌えたければ虹裏に行くに若くはないかと。
しろはた創作コーナーの、「夏ヘノ扉」とか「電波少女」とかSFFとかは如何。
平成十六年一月二十九日
http://esu.oresama.org/200401c.html#20040129_s8
江洲さんに突込まれると、こちらが惡い事をしたやうな氣がして不安で不安で。
平成十六年一月二十九日
繰返しを多くしたり例を出したりして懇切叮嚀に説明しようとすると話の本筋を離れて議論が始まる、餘計な突込みを受けないやうに文章を切詰めると誤解を招く、で、どのやうに書けば良いのか途方に暮れたり暮れなかつたり。
あと、今月分の「闇黒日記」は、「闇黒日記」史上最大のファイルサイズと化してゐるのだけれども、どうしたものやら。今月、殘り二日だし。
平成十六年一月二十九日
何か書きたいことがあるのならば、それを率直に書けばいいと思いますよ。
「新宿速行ライン」でぐぐっても、京王關係のサイトが引掛からない。
平成十六年一月二十九日
http://altba.com/yuu/blog/archives/000450.html
「Blog」は獨りで書く物に非ず、よつて、IではなくてWeであつてよろしい事。
あーなるほど。まあ、拘りませんが。
複数のWebWebWeではないかと。別に拘りませんが。
と云ふ訣で、どうもです。

平成十六年一月二十八日
話をしてゐる横でわあわあ訣のわからない事を喚かれたら煩いから默れと言ふだけだ。
平成十六年一月二十八日
遊びで石を投げつけられるのは迷惑だ。
遊びで人を間拔けに見せかける風説を流されるのは迷惑だ。
遊ぶな。
平成十六年一月二十八日
なぜ俺がとぼけてゐるんだ。
平成十六年一月二十八日
俺を「野嵜くん」等と見下したやうに呼ぶな。
平成十六年一月二十八日
引きこもり宣言の受けがよかったのか、今度は妄想ヲタ宣言ですよ。
俺は「引きこもり宣言」も「妄想ヲタ宣言」もしてゐない。もつとも、シスプリの中の人は、シスプリが何う斯うと云ふ事こそが現實なのだらうから、話がそもそも顛倒してゐるのだらうが。
論理も何も最終的に「人間が何かを解る」と云ふ事を何一つ説明してゐない。その「解る」と云ふ事を信用出來るのならば、その人は既に經驗から導き出されたのではない能力の存在を認めてゐる。妄想が何う斯うと言つた話ではない。シスプリの馬鹿は、解つたやうな口を利くな。
平成十六年一月二十八日
途中から中途半端に18禁にしちゃったしね。
否、途中までが「18禁」もどきで、落ちは「社會派的」だつた。
キャラクターが「立つてゐない」とか。「世界觀」が「ない」とか。
平成十六年一月二十八日
俺は、オカルト的なものを信じないし、隠謀史觀も信じない。「妄想オタ宣言」もしない。オカルトも隠謀史觀も妄想も、俺にとつては怪しげであるだけで信ずるに足らないものでしかない。
サンタクロースの實在も信じない。靴下の中にプレゼントが入つてゐても奇蹟だとは信じない。だが、そんな事より何より、今履いてゐる靴下の中に自分の足が入つてゐる事の方が奇蹟的な事ではないかと、俺が言つても説得力が無いと言ふのならばG.K.チェスタトンが言つてゐる。
「自分がこの世にゐる」と云ふ事がそもそも不思議な事でないかとチェスタトンは言つてゐる。自分をこの世に存在せしめたGodの話をチェスタトンはしてゐて、俺はクリスチャンでないからGodなるものを信じないが、自分を存在せしめた偶然なり何なりは人智の外のものであると認める。
そして、人間が言葉なり何なりで思想を互ひに傳達し、互ひに解る事が出來るのも、やはり人智の外の事であると認めるのだが、それを變に曲解して妄想オタの宣言だの何だのと言ふ奴は、「人間が何かを解る」と云ふ事をどのやうに考へてゐるのだらうか。何も考へてゐないに違ひない。
平成十六年一月二十八日
三省堂本店で大島一彦先生の『寄道』(旺史社)を買つて來た。

小林(秀雄)氏の批評は決して單なる印象批評ではない。氏は確かに直觀或いは直覺を重んずる。人は概してこの直觀と云ふ字面に惑はされて、瞬間的な印象で直ぐに判ることだと誤解し、特殊な天才にのみ可能な、一般には當てにならないものと受止めてゐるやうだ。しかし直觀とは必ずしも直ぐに判ることではない。勿論さう云ふ場合もないことはないが、正しくは直かに判ると云ふ意味である。理知的な論證や物的な證據のみに囚はれず、寧ろ感覺的な印象の深化に時間をかけることによつて、直かに判る判り方がある。

平成十六年一月二十八日
我樂多市の最終日。坂口安吾とか福永武彦とかを買つた。

平成十六年一月二十七日
帰宅したら四十一通メールが屆いてゐてびつくりしたが、またどこかのウイルスくんが俺を騙つてメールをばら撒いたらしい。讀者諸氏にはウイルスチェックを御願ひしたい。
平成十六年一月二十七日
_ あ、しもた 2004-01-27 @ [おさんぽさんぽ]
Operaでは、プラグインの有效・無效を切換へられます。取敢ず[F12]。
平成十六年一月二十七日
こんなところでMeタソに……。
内容については言及を避けます。これで18禁ですか。さうですか。
平成十六年一月二十七日
と言ふか、講評を長々と書いたのだけれども、仕事で讀んでゐるのではない、と云ふ事に氣附いたので削除。
平成十六年一月二十七日
某同人誌の某さんからは原稿の依頼が來ない。と云ふ事は、今囘も書かないでよろしい、と云ふ事の模様。まあ、俺、同人ぢやないし。
平成十六年一月二十七日
http://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/7/expqrf/expqrf.html
http://t-t-japan.com/bbs/kyview.cgi?k=a&dir=tohoho&pg=7&id=ndaqrf&id2=expqrfの「三段論法」は、三段論法になつてゐない。
俺の知る全ての「南京大虐殺はあつた派」が、これと同じ不正な推論の結論として「南京大虐殺はあつた」と述べてゐる。そして、彼等は、自分の推論が不正である事を自覺してゐない。
以下が正しい推論。
1.大前提
白兵戦において日本刀を振るっての人斬りのみで百人斬りを行うのは不可能である。
2.小前提
野田少尉は白兵戦を戦った。
3.結論
野田少尉が百人斬りを行なうのは不可能である。
と言ふか、或記事で記者が不可能な事を「可能」と書いてゐれば、その時點でその報道が虚報である事は明か。物理的に不可能な事も、報道されたのならば「あつた」事になるのである、と主張するのは、何う考へても異常。
平成十六年一月二十七日
「被告のアリバイがある」「被害者が存在しない」にもかかはらず、「自白がある」と云ふだけの理由で被告が有罪にされる事は、現代の裁判では無い筈である。あつたら困る。
その手の裁判は、戰前の日本の體制を非難する人々によると、戰前、良く行はれたさうである。
平成十六年一月二十七日
http://esu.oresama.org/200401c.html#20040126_s9
三段論法については、近代的な論理學では屡々否定可能である、と古典的な論理學における三段論法は、近代的な論理學によつて否定されてゐるとは、イコールでない。
三段論法の問題について、物凄く簡單で皮相的に觸れておきます。有名な「人は死すべき存在である。ソクラテスは人である。ソクラテスは死すべき存在である」と云ふ三段論法の典型的推論があります。三段論法は、これで話を濟ませてしまふのですが、「人」と「死すべき存在」の關係、「ソクラテス」と「人」との關係を三段論法で證明し始めると、永遠に證明し續けなければならなくなる、と云ふ問題が出てきます。この邊を突つくのが近代的と言ふか現代的な論理學です。一往、識者からその邊の指摘を受ける事もあり得ると云ふ事で、論じないけれども、言及だけしておく、と云ふ事にしておきました。
俺が何も知らないで三段論法三段論法と言つてゐる訣ではないのだと、三段論法が萬能だと言つてゐる訣ではないのだと、ただ、或程度まで三段論法は有效だと言つてゐるのだと。
平成十六年一月二十七日
三段論法と全然違ふ「論證」として、辨證法なんてものもあります。これは最う、論理學と言ふよりは精神論の世界に屬すると言つた方が良いものですので、深く突込んで論じないで構はないと思ひます。
平成十六年一月二十七日
夕方、神保町でバイク事故があつた。バイクが軽トラックに追突した模樣。食事前だつたのでしげしげと眺めたりはしなかつたが、ちらと見ただけでもバイク搭乘者は血だらけの樣子だつた。救急隊は來てゐた。
本人にとつては大ごとであり、その邊を歩いてゐた人にも氣になる「事件」だが、恐らく新聞やTVで報道される事はない。「報道」とはさう云ふものである。
平成十六年一月二十七日
何が「せめて」?
「自然数論は無矛盾でない」事と、「数学的帰納法」の話と、文脈上、どんな因果關係が?
「ギャグセンスは素晴らしい」とか「蛇足」とか「ひねりが欲しかった」とか「引きこもり宣言」とか「妄想ヲタ宣言」とか、レッテル貼りは説明にも證明にもなりませんが? 中傷とか名誉毀損とか侮辱とかにはなります。
と言ふか、素顔のままでの中の人は、解つて物を言つてゐるんですかねえ。物事を皮相的にしか把握出來ない人間には、默つて貰ひたいものです。
あと、「改変コピペ」なるものをしたければ勝手にすれば良いのですが、何がそんなに樂しいのですか? こちらが中の人を「バカ」として認識してゐる所爲かも知れませんが。
と言ふか、この手の人は、パロディ化されたり、皮肉られたり、そもそも言及されたりすると、變な快感を覺えるらしく、それを明言する。
自分が論理的に完全に武装してゐて、敵はすぐに尻尾を出す間拔けだと思ひ込んでゐる中の人は、まるで惡性氏みたいだ。
と言ふか、「改変コピペ」をして、茶化して、をかしがつて、それが相手に對して何か意味を持つと思つてゐる人間は、自分が茶化されても全然何とも思はない。何なのだらう。
一言でアレの人なり、中の人なりを批判するとすれば、やはり例によつて「とぼけるな」と云ふ事になるのだが、とぼけるのが好きで好きでたまらない人は存在するのである。
平成十六年一月二十七日
「道徳」と「倫理」の問題系を野嵜さんは解しないのですね。
いや、問題意識なんてものを共有したくないけど。「俺と同じイデオロギーを持つてゐない奴とは話をしない」と言はれても。
人類において一度でも「単なる自己正当化の理論」であることを超えた政治理論があったでしょうか。
ここでそこの問題意識が共有できないのであれば、議論が不可能でしょう。のコメントを投下。
俺としては、論理学の話をする上で、「数学的帰納法」や「1+1=2」はえらく専門的な例だと思います。
三段論法の話を古典論理學のレヴェルで持出してゐるのだから、「数学的帰納法」や「1+1=2」を專門的な実数論のレヴェルで論ずるのは文脈を讀み違へてゐると思ひますが。
面白ければイデオロギーも可。
イデオロギーは面白くないから不可。
平成十六年一月二十七日
「政治とは異る道徳の領域」を俺のような世界観の持ち主に理解させようと思ったら、野嵜氏のアプローチでは難しいと思う。
今度は妄想ヲタ宣言ですよ、等と言つて端から理解を拒絶するやうな人の仲間には、わからないでせうねえ。
もつとも、そこの問題意識が共有できないのであれば、議論が不可能でしょう。と言ふ高橋氏が、俺に「問題意識」を「共有」させる適切な戰略をとつてゐるかと言へばとつてゐないのが事實であつて、ならば話は「御互ひ樣」と云ふ事にしかならない。
その言い方では、西欧人のように科学や自由主義思想を生み出したければこの考え方を受け入れろ、という単に政治的な提案としてしか届かない。
既に、西歐の生み出した科學や思想を、日本人は受容れてしまつてゐるのであつて、再發明する必要はないし、今更しても遲い。ただ、どのやうな經緯で西歐の科學なり思想なりが生れ、發展してきたか、を理解しなければ、日本人がそれらを巧く扱へはしないだらうと、さう言つてゐる訣だ。そして、科學や思想を巧く扱ふ目的は政治的なものであるかも知れないが、扱ふ主體は個人である。
個人の問題として、西歐の文化や文明と巧く附合つて行くのに、文化・文明の根柢にあるものの理解が必要だらうと言つてゐる訣だ。
實際のところ、素顔のままでの中の人のやうに、西歐的な思考なり思想なりを全然理解してゐない日本人は澤山ゐるのであつて、彼等が適應異常を起してゐる事は否定しやうがない。知識はあつても、その知識が「樂しく生きる」と云ふ刹那的で虚無的な生き方にしか繋がらない。そして、「樂しく生きる」と云ふ生き方に疑問を覺える事が出來ない。キルケゴールが「自分が絶望の状態にゐる事を知らないでゐる絶望」と呼んでゐる状態である。もちろん、「知つてゐる」からといつて「死に至る病」から脱出出來るともキルケゴールは言つてゐないのだが、どちらにしてもその「絶望」なり「死に至る病」なりは個人に屬するものであり道徳に屬するものであつて政治に屬するものではない。
平成十六年一月二十七日
と言ふか、政治的・戰略的と云ふ觀點で他人の意見を捉へるのならば、その意見が自分に對して何う斯うと云ふのは全く問題とならず、第三者にとつて何うであるか、を問題にすべきである。そして、そこで第三者なり不特定多數なりではなく、自分を根據に相手の主張の説得力を否定してしまつた時點で、個人と個人の意見の對決と云ふ觀念で以つて高橋氏が議論を行つてゐる事は明かであり、即ち議論の政治性を自分でも認めてゐない事は明かである。
平成十六年一月二十七日
論理が批判する政治と論理が属する政治はメタレベルが違う。両者は別物だがよく似ている。と言う辺りが落とし所になりません?
「論理」と呼んでゐるものが、俺と高橋氏とで違ふ、と云ふ事なら、ありさう。
平成十六年一月二十七日
高橋氏にしても素顔の某氏にしても、俺が相手を説得させる爲に必死になつてゐるとでも言ひたいやうだが、俺にしてみれば自分を納得させるのに必死なのだと言ひたい。
素顔の假面を被つた某氏は、自分の信じてゐる事を疑つた事がないから落著いて他人を茶化してゐるのだらうけれども、自分で自分を茶化す事の出來ない人間に物事を本當に笑ひのめす事など出來ないと俺は思つてゐるから、俺は某氏の言つてゐる事を面白いと思はない。
平成十六年一月二十七日
十八歳で新人賞受賞、と云ふのはざら。電撃ゲーム小説大賞では二囘あつた。
平成十六年一月二十七日
シェイクスピアの「じやじや馬ならし」を現代風にアレンジしてエロ小説化したら、とてもエロい小説になると思ふ。
平成十六年一月二十七日
高橋氏の「道徳觀」がどんなものかは、なんとなく解つたやうな氣がする。
多分俺より高橋氏の方がストイックだ。根が眞面目なのだと思ふ。
平成十六年一月二十七日
この項、詰らない事を言つてゐたので削除。

平成十六年一月二十六日
赦免
これは裁く人の下す宣告である。誰も自分に赦免を宣することはできない。そこで人はみな自分を斷罪し、さうすることによつて自らよしとしてゐる。それは次のやうに言ふ怠け者に似てゐる。《私はなんの役にも立たない。私には何もできない。私は何にもなれないだらう》、と。斷罪は悔いることを不可能にする。赦免は悔悟を考へに入れてゐる。悔悟とは、悔いることを承認することである。だから赦免は思ひ上つた自己斷罪の反對である。赦免とは自らを信ずることを禁止することである。
平成十六年一月二十六日
何度言つたら解つて呉れるのかなあ。
俺は、或政治イデオロギーを否定して別のイデオロギーを押附ける爲に鬪つてゐるのではないのだと。
ただ、政治とは異る道徳の領域が「ある」と言つてゐるだけだと。
キリストは、「神のもの」と「カイザルのもの」とを分けたけれども、それによつてローマの皇帝と鬪爭しようとした訣ではない事。
「神のもの」である道徳の領域と、「カイザルのもの」である政治の領域とを分かつキリスト教の傳統が西歐にある事、その傳統から西歐の倫理觀のみならず論理主義、科學精神、自由主義、ユートピア思想、一方、アンチキリスト、科學的社會主義、共産主義、が生じたのである事。
日本人は、西歐人と傳統を共有しないが、西歐の文物を採入れたからには西歐の傳統を理解しなければならない事。
日本人の感傷的な思考方法が、西歐人の論理的な思考方法に比べて甚だ脆弱である事。
「政治とは違ふ領域の價値觀がある事をお前らは忘れてゐる」と指摘したら、「うるせえ、お前こそ政治的に自己批判しろ」と言返されただけで、哀しくなつてしまひました。
平成十六年一月二十六日
法解釈学の中でいろんな学説はあるけど、それが公式な解釈を生むための学問であるという認識は、共有されてる。
それを言ふなら、文學でも哲學でも、文章の正しい解釋を行ふ爲の研究がなされてゐると思ひますが。
裁判官は判決を下すのが仕事だから、解釋の中から取敢ず一つの解釋を選擇しますし、それで司法における法律の解釋は一往確定しますけれども、司法における解釋法學における解釋とは違ふのではないですか。もちろん、世の中には「判決に基いて法學者の側が態度を變へるのは當り前だ」と思つてゐる法學者・研究者もゐますけれども、裁判官によつて解釋が變る事はあり得るのだし、その度に法學の側が解釋を變へてゐては仕方がありません。節操なしですから。やはり、法學の學説と、司法の判斷とは、別物と扱つた方が良いでせう。
文学の場合、構造主義や実存主義やフェミニズムな人たちが展開してる文学理論はそれぞれ別の体系であって、ひとつの解釈学の上で「公式な解釈」の座を争っている、というわけではないと思うのですが。
それぞれの体系が相互に獨立してゐるかと言へば全然さうではないのであつて、文學が人間の生き方に根差したものである以上、全ての体系は人間性に照らして互ひに自己の正當性を主張し合つてゐるものと見て良いでせう。
ただ、法律の世界と違つて、取敢ず絶對的に效力を持つ判斷を下す裁判官のやうな立場の人が、文學の世界には存在しないだけです。基本的に、文學の或作品について、辯護する批評家も複數ゐれば、非難する批評家も複數ゐて、その擁護と非難とを見比べて自分の内部で判決を下す讀者も複數ゐる。そして、その「内部の判決」は、裁判の判決のやうには社會的に效力を持たない。それだけの話です。
平成十六年一月二十六日
俺の今回使ってる「道徳」というのは、共同体による外的な規範のことで、個人の内的確信に基づく「倫理」と対照的な概念です。
俺は共同体による外的な規範のことを「徳目」と呼んでゐるから良いとしても、個人の内的確信なんてものは「存在しない」と思ふから否定する。
俺の読むこの作品のテーマは、「道徳の無効化したところで倫理に目覚める青年の決断」なわけですが、そこで描かれる「背徳的行為」というのは、たとえば不倫とか、アナルセックスとか、(男、女ともに)同性愛とかなわけですよ。
「徳目が社會的に效能を失つてゐる時代」までは解るけれども、「個人の内的確信に目覺める青年の決斷」と云ふのは、訣がわからない。もつとも、訣がわからないのは、どうせ大江の責任に決つてゐるから高橋氏を責めない。
ここが、最初に読んだときに首をかしげたところで、この程度のことを背徳性として描いてるのは、当時の性道徳がそうだったのか、大江が個人的にそう思ってただけなのか、既に無効な道徳をネタのつもりで出したのか、どれだろうと。
單に「大江の道徳觀はいんちき」と俺なら結論を下す處。高橋氏は、わけのわからない個人の内的確信なんてものの存在を認めるから、「わけのわからないもの」を「わけのわからないもの」と率直に言ふ事が出來ないのではないか。
平成十六年一月二十六日
つまり、「反論できない論理には黙って従え」ですね。それが何を帰結しようとも。
變な結論が出されてゐる時には、もちろん、論理的にその主張を疑つて良い訣ですよ。ただ、同時に、その自分の「變だ」と云ふ感覺そのものの據つて來る理論自體、他者から批判される可能性がある。
  • 理屈で権力がひっくり返るわけはない。市民階級が実力をつけて力づくで旧勢力を倒したのが近代です。
  • 彼らは新しい支配の正当化の理論を生んだけど、それ以前の権力が自己正当化の理論を持たなかったわけではない。
俺は、政治の領域とは異る道徳の世界の話をしてゐるのだから、理窟で以つて權力に政治鬪爭を挑め、とアジつてゐる訣ではない。政治鬪爭の手段として、「論理」を「有效だから使へ」と主張してゐる訣ではない。
政治に於て、論理主義が有效である訣でない事は、マキャベリを讀んでゐれば解る。
ただ、西歐の政治闘争では、單なる力づくの鬪爭が行はれた訣ではなく、鬪爭の正當性を裏附ける理論の構築が常に伴つてゐた事は事實だ。そして、その爲に、革命の理論は市民の血肉と化し、力づくの反革命の行はれた後の反動勢力による反動的な政治を、急進的であれ漸進的であれ、變化させたのだと言へる。
また、以前の権力が持つてゐた自己正当化の理論を打破る新理論を提示する理論鬪爭によつて、市民階級が昔よりも正當な地位を得て來た事も事實である。
もちろん、單なる新しい支配の正当化の理論と化したマルクス主義のやうな理論もあつたけれども、それ以前の権力が持つてゐた單なる自己正当化の理論を克服する爲に、支配被支配の關係を本質的に否定し、キリスト教社會における「神の前の平等」と云ふ暗黙の諒解に基いた「人格の對等」を大前提とした自由主義が存在する、と俺は信じてゐる。
と言ふか、体制と云ふ觀念は意識した事もないとおつしやる割に、高橋氏、何の抵抗も覺えず、階級とか支配とか言ふんですね。隨分親しい觀念であるやうだ。高橋氏がマルクス主義の影響を受けてゐる事は、明かに看て取れますよ。まあ、態度からばればれなんですけどね。
平成十六年一月二十六日
数学的帰納法の正しさは自然数の公理系と形式論理学によって保証されています。つまり、それで扱う範囲でしか通用しません。
なんか、俺の言つてゐる事を必死で「通用しない」と極附けたがつてゐるけれども、或前提の下、或條件があれば、或結論が必ず出る、と云ふ論理の正當性は明かだと思ひます。そして、世の中、それで十分です。文句を言ひたければ、前提なり、條件なりに文句を言へば良いのであつて、過程としての論理自體には何の罪もない。
平成十六年一月二十六日
フェミニズム批評をトンデモ扱いですか。
高橋氏のした引用が、フェミニズム批評の「トンデモ」たる所以を見事に説明してゐると思ひますが。
父権制度のメカニズムなるものに眼を向けてしまふのは、明かにトンデモでせう。
一往、フェミニズム批評にも、相對的な價値はあると言へば言へるでせう。文學作品の社會學的な分析に、フェミニズム的な視點を援用するのならば、それなりに意味はあるでせう。しかし、フェミニズム批評家が父権制度のメカニズムなるものに眼を向けて、それで何が起こるかと言へば、「文學作品の政治的彈劾」です。有名なフェミニズム批評家のやつてゐる事と言つたら、文學作品から常に父権制度のメカニズムのみを見出し、その作品の作者を彈劾する事だけです。彼等は、ディケンズの『骨董屋』に登場する女性たちを、天使的な少女ネルとそれ以外の者に分類して、道徳的な<純粋さ>を云々する、と云ふ事をしません。そのやうな「讀み」を否定し、父権制度のメカニズムを彈劾する鬪爭の手段・戰術として文學作品を利用する、と云ふのが彼等フェミニズム批評家の常です。馬鹿馬鹿しいといつて良いではないですか。それを馬鹿馬鹿しいと思はないのは、單にフェミニズムと云ふ政治的イデオロギーに同調してゐるからに過ぎません。まさに、「あなた自身のイデオロギーを投影し」て、フェミニズムを「絶對に正しい」と思ひ込んでしまつてゐるだけなのです。
或は、フェミニズムを信じない政治的立場の人間から見れば、フェミニズム批評は「トンデモ」以外の何物でもありません。しかし、俺は今、自分が單なるアンチフェミニストであると宣言してゐるのではありません。ただ、そのやうな政治的イデオロギーの違ひ程度で相對化される方法論など、馬鹿馬鹿しいものだ、と述べてゐるに過ぎません。政治鬪爭の爲の解釋學等、下らないものだ、と言つてゐるに過ぎません。
マルクス主義と一緒です、一方的な價値觀を持出して、對象をそれで解釋して見せる、そして「解釋出來た、だから眞實だ」と言つて威張る、それがフェミニズム批評のパターンです。「明治天皇は暗殺されてゐた」なる結論を最初に提示し、「子供の頃の明治天皇と、大人になつた明治天皇は、まるで別人みたいですね、なぜなら本當に別人だつたからなのです」等と解釋して見せ、「やつぱり明治天皇は暗殺されてゐたのです」とやるのは、明かに「トンデモ」です。フェミニズム批評も、その種の「トンデモ」と同じ「論法」を使つてゐます。問題は、それで論者が大概、滿足してしまつてゐる事。
平成十六年一月二十六日
共産主義が「全ての理論は歴史的條件なり環境なりに制約される」と云ふテーゼを持つてゐたにもかかはらず「共産主義自身をそのテーゼに基いて批判する事が無かつた」と云ふ指摘を、林健太郎氏の文章で見た。
フェミニズム批評にも、フェミニズム的視點からする相對化・批判が必要だと思ふ。それにフェミニズムは、果して耐へられるか。無理だと思ふ。
と言ふか、父權を批判する割に、「女性の權利は際限なく擴大して良い」と考へてゐるのがフェミニスト。
平成十六年一月二十六日
支配・被支配の關係とか言ふのは結構だが、支配者と被支配者との二者を綜合・アウフヘーベンして、何らかの存在を生み出さうとは考へないのか。とか。良くわからないけれども、辨證法辨證法と言つたあの頃、意外と辨證法はまともに使はれてゐなかつたやうな氣がしますね。もつとも、マルクシズム全盛の時代に生きてゐないので、良く知りませんが。(臺なし)
平成十六年一月二十六日
http://d.hatena.ne.jp/Tskk/20040125#p2
人間は政治的な動物であるらしいし、論理は人間的なものだから、必然的に論理に政治性が認められる。
別にそのくらゐの事は自覺してゐる積り。
ただ、世間では政治性ばつかりが自覺されてゐて、論理の效能が全然自覺されないと云ふのは如何なものかと。
平成十六年一月二十六日
http://d.hatena.ne.jp/jouno/20040117#1074352324
ニーチェも良いけれども、キルケゴールとか、ヘーゲルとか、マルクスとかの觀點も、知つておく必要があると思ふ。と言ふか、彼等の物の見方を單に受容れるのではなくて、飽くまで批判的に檢討する事が必要だと思ふのだ。
平成十六年一月二十六日
『反近代の思想』について
筑摩書房から昔出てゐた『反近代の思想』は、「ポストモダン」とは丸きり別の方面から近代を克服しようとした思想家や文學者を扱ひ、その文章を集め、解説した、恐らく「ポストモダン」が支配的となつてゐる現代においては異樣と見られるであらう本だが、俺としては「ポストモダン」よりも「反近代の思想」の方を採りたい。但し、「反近代の思想」なる體系的な思想は存在しない。
ベルグソンが、「思想と動くもの」(「形而上學入門」)で説明してゐるのだが、空間を移動してゐるボールみたいなものがあつて、それを外から見て分析する相對的な方法と、その運動するボールに自分も「なる」事によつて内的に「知る」絶對的な方法とが、學問にはあつて、後者の絶對的な學問が形而上學である。而して前者の相對的な學問が、近代で隆盛を極めるやうになつた。
形而上學は現代において甚だ不人氣で、前者の相對的な分析學・解釋學の末裔である「ポストモダン」が流行してゐる。結局のところ、「近代以後」である「ポストモダン」は、單に近代の學問の末裔なのであつて、近代を否定もしなければ克服もしてゐない。ただ、近代的な方法を受繼ぎ、尖鋭化させただけである。が、進化の果ては常に部分的尖鋭化であり、袋小路である。
平成十六年一月二十六日
http://d.hatena.ne.jp/Tskk/20040124#p1
「クスクス」笑ふ音を寫すのに、表記を根拠付ける原理も何も無いと思ひますが。擬聲語や擬態語について、Tskk氏は「表記の問題がある」と言つてゐますが、表記以前の問題でせう。なぜ日本語で犬の鳴き聲が「ワンワン」なのか、その假名遣の根據は何か、等と聞かれても、「知りません」としか答へやうがない。と言ふか、「クスクス」「ワンワン」の假名遣、と云ふのがをかしい。「表記の決り」としての假名遣は、「決り」が必要なところで必要になるものに過ぎない。笑い声の表記法と、假名遣ひとは、何の關係も無い。次元が異る話である。それを「表記」の一語で結び附けるのは、ただの聯想ゲームに過ぎない。
と言ふか、表音主義の極北からみれば現代仮名遣いも歴史的仮名遣いも五十歩百歩、と云ふ發想が、何處から出てきたのか、全くわからない。歴史的假名遣は表音主義でないのだから、そんな比較をするのがナンセンスなのだ。
平成十六年一月二十六日
http://d.hatena.ne.jp/Tskk/20040124#p2の指摘に關しては、既に當方では四、五年前に指摘濟み。
「IMEプロジェクト」等とスローガンを掲げて騒いだ事があるのだが、俺がプログラミングを覺えようともしないので、全然お話にならない状況。
一往こずゑの部屋で、JavaのIME「こずゑ」が開發されてゐるが、もう長い事、羽織さんからの音沙汰がないので、状況がわからない。
ちなみに、俺の腦内アルゴリズムと辭書は完璧なので、實際のプログラミングは誰かとても優秀な人がやつて呉れて、俺はただのアイデア提供と、ちまちま辭書作りしかしないで可、參考文獻は全て經費で落ちる、參考になるかならないかわからない文献も經費で落ちる、文献を置くところはばつちり提供して貰へる、晝まで寢てゐて良し、と云ふ條件で終身雇用して呉れる御大盡が何處かにゐないかな。ゐないよ。
あと、松茸に乘る契沖が、完全に「正字正かなの論理」で實用的に動作する唯一のIMEなのだけれども、松茸とATOK等のIMEとでは、世代が違ひ、比較にならない。俺は「WXG+殆ど獨自の辭書」で正字正かな入力をしてゐるけれども、WXG自體が決して正字正かなを入力するやうにプログラミングされてゐないので、これの變換效率なり何なりを判斷しようとしても無理。
平成十六年一月二十六日
と言ふか、「表音主義を原則とし、表意主義の特例を組込む、と云ふ『現代仮名遣』の『原理』は破綻してゐる」「表意主義を原則とし、表音主義の例外を認める、と云ふ歴史的假名遣の原理は破綻がない」と、俺は言つてゐるだけなのだけれども。その程度で「現代仮名遣」の破綻は言盡くしてゐると思ふのだけれども。なぜ「もっと徹底的」にやらなければならないのだらう。既に十分過ぎる程、徹底的に批判してゐるのに。
平成十六年一月二十六日
あと、五百圓振込んだので、郵送よろしくと云ふ事で>>高橋氏。
高橋氏の住所がわかつたら、福田恆存の本とか、どんどん送り附けてみようかな。
平成十六年一月二十六日
古書會館の我樂多市。福原麟太郎の本を二册。一時間文庫を三册。教養文庫を一册。
平成十六年一月二十六日

人類の明日を支配するものは何か? アメリカン・デモクラシーか、ソヴェト・コミュニズムか、或いは、所謂第三勢力の中立主義か?

わが思想界もこの分野に分れて論爭をくり返す。それは餘りにも觀念的な論爭ではなかろうか。

私たちは先ず正しい歴史の見方から學ばねばならない。その正しい批判の目を以て、この嚴しい現實を見極めねばならない。そして歴史を動かすものは人間であつて、觀念ではないことを知らなければならない。

……。

『明日への歴史』は、新潮文庫版で讀んだのだけれども、一時間文庫版も取敢ず確保。
平成十六年一月二十六日
一時間文庫、ほかの二册は、竹山道雄『古都遍歴―奈良―』と吉田健一『東西文學論』。『古都偏歴』の冒頭で竹山氏、法隆寺の樣式について語り、中門の眞ん中の柱について樣々な解釋を採上げて論じてゐる。『東西文學論』の冒頭で吉田氏、文學は先づ讀めるものでなければ駄目だと言ひ、日本文學が外國文學に依存してゐる事を指摘してゐる。

平成十六年一月二十五日
http://d.hatena.ne.jp/mutronix/20040125#1075011543
「俺の立場」には立籠れない、と云ふ事。
平成十六年一月二十五日
児ポ法改悪反対者が当然に政党政治を意識しているというイメージがあるのなら、それは思い込みだよ、と言いたかっただけです。
高橋氏は頼まれもしないのに55年体制を持出した理由として児ポ法改悪反対者が当然に政党政治を意識しているというイメージ持ち出してゐます。云々。
個人的には、高橋氏が「政党政治」の意識なるものを持出した理由に興味があります。私は「政党政治」なるものに興味がありませんから。
あと、なぜ小林よしのり?
平成十六年一月二十五日
いちおうは公式な解釈を提示するためにあるところの法解釈学と、色々あることが前提の文学理論とでは、違う方を向いてるんじゃないかと。
法律學者は、法律を解釋する方法を色々と摸索してゐるのではないかと。そして、その中から一つの解釋を採用して、判決を下す仕事をしてゐるのは、裁判官ではないかと。
「個人的な体験」云々。
俺は、「守るべきものとして絶對的に規定されてゐる徳目」と「徳目に對する個人の思想・信條・態度としての道徳」とを區別してゐるけれども。
「(高橋氏の用語としての)道徳」は、時と場合によつて、俺の言ふ「徳目」と「道徳」との兩方に當る。「(高橋氏の用語としての)道徳」は、定義が不確定で、意味がより曖昧である。
「個人的な体験」における、「(俺の用語での)徳目」「(他か橋氏の用語の一側面としての)道徳」が、「キリスト教的道徳」に限定されて議論されなければならない理由は何か。なほ、「キリスト教的道徳」なるものが本気で道徳として通用したのかと云ふ疑問に對しては、「日本でキリスト教が普及した事はない」から「キリスト教的ではない」と云ふ答がすぐに出る。
平成十六年一月二十五日
全てを矛盾無く理解すべきだという信念を持つ人にすれば、矛盾はただそれだけで許せないものだろうが、そうではない人にすれば、突きつけて意味のあるムジュンと、どうでもいいようなムジュンとは別で、それは非論理的な文脈から判断される。
突きつけて意味のあるムジュンと、どうでもいいようなムジュンとがある事を、全てを矛盾無く理解すべきだという信念を持つ人は何時いかなる場合にも「知らない」のだらうか。矛盾を氣にしない人が、突きつけて意味のあるムジュンと、どうでもいいようなムジュンとを何時いかなる場合にも的確に區別出來るものだらうか。非論理的な文脈から下した判斷が、果して判斷として誰もが受容れ得る妥當な判斷であると言へるだらうか。
内的には無矛盾な世界認識が複数あり、しかしそれらが互いには矛盾している、ということはありうると思う。矛盾が残る世界認識同士ならなおさらだ。そういう価値観のほうが今の流行だと思うんで俺はそっちに付くことにする。
それは、積極的に付く行動ではなく、消極的に「流される」ものだと思ふが如何。
實際のところ、矛盾が残る世界認識であつた共産主義を批判しなかつたが爲に一世紀に亙つて世界の思想の進歩が停滞した、と云ふ事實がある。
論理より美のほうが俺は好きだぜ。
俺も美は「好き」だが、論理は「受容れざるを得ない」ものだと思つてゐる。
美は人それぞれであり、堅牢な基盤を持たない。美を信じた芥川が、プロレタリア文學の側から「生活」の立場から攻撃されて自信を失ひ、遂に自殺に追込まれた事がある。(松原正『文學と政治主義』參照の事)
缺陷のある論理が脆弱である事は論を俟たない。しかし、脆弱な論理は、缺點を指摘される事で、より堅牢でより正しい論理に進歩する事が可能である。
論理自體から人は相對的に獨立した存在である。個人個人で異る價値觀の存在する事を主張する人にも、1+1=2から出發する數學の世界に數學的歸納法と云ふ證明の方法のあるのを否定する事は出來ないし、それに基づく證明の結論を否定する事は出來ない。古典的な論理學における三段論法の妥當性も、それによる論證の結論も、同樣に否定出來ない。(三段論法については、近代的な論理學では屡々否定可能であるが、茲では深く突込んで論じない)
Google 検索: 数学的帰納法
Google 検索: 三段論法
「破壞的な讀み」に俺は餘り興味が無い。俺は、「トンデモ本」も、學問の世界に新しい風を吹き込むきっかけになる可能性もまったくないとはいえないのだから、ありだとは思ふが、既に存在し確立されてゐる學問について知らない人間がそのやうな變な可能性にばかり興味を持つのはナンセンスだと思ふ。だから俺は、正統的な學問により興味を持つ。そもそも、「正しい」と認められてゐる價値觀について、その存在理由なり論理なりを知つてゐるからこそ、「正しくない」とされる價値觀が、本當に正しくないのか、或は正しい可能性があるのかないのか、を判斷出來ると云ふものだらう。無智の状態で、「怪しげ」な本に接すれば、その本の著者の語氣に欺され、その思想に取込まれてしまふ危險がある。そして、樂しく「トンデモ本」なり何なりを讀んでゐる時點で、讀者は既に前提條件としての「既存の正しいとされる價値觀」の存在を受容れ、身につけてゐると言へる。「知的ゲーム」を「知的ゲーム」として樂しむには、知性が事前に存在してゐる事が必要である。
俺は、その種の「知的ゲーム」を樂しむのに、自分が十分、知識なり何なりを持つてゐるとは思はないから、「正しいとされる既存の價値觀」を學ぶ事にまづ熱心になりたいと思ふ。
平成十六年一月二十五日
俺が現代的な価値観を追うのは、それが哲学的に面白いからではありません。単に、市場的にそういう人間の価値観に合わせたほうが得策だと思っているからです。テーマの哲学性に面白さを求めてるわけではないからです。そういうのは同人誌ででもやればいい。
損か得かで自分の立場を決めるのは、それはそれで個人の立場として、認め得る。が、それを他人に押附けるのは如何なものか。「自分はさう云ふ立場を取る」と言つて、その立場に閉籠るのは、「あり」ではある。が、他人との交渉の場でその立場に立籠るのは、(單なる戰術としても)果して有效なものか。
真理のうちには恣意的ではないものがあるとして、どの真理が恣意的でどの真理が恣意的でないかを経験的事実から論理的に証明することが可能でしょうか?
「可能でない」と斷定的に結論を下せない以上、「可能性を信ずる」事は必要でせう。
反論できないなら黙って従え、というのも、かなりたちの悪い支配構造だと思うのですが。
金持ちや力持ちが支配するのはいけないのに、頭のいい奴の支配は正当化されるんですか?
既に述べた通り、論理自體と、論理を用ゐる人間とは、相對的に獨立なのであつて、頭のいい奴=「正しい論理」である訣でない事は明かです。そもそも、頭のいい奴もまた人間であり、人間は全て「時として誤る存在」である以上、頭のいい奴も時として誤ります。だから、私は頭のいい奴によつて世の中を支配せよ、等と主張してはゐません。ただ、「人による支配とは異る、世の中を動かす原理としての論理の存在を認めよ」と言つてゐるに過ぎません。
人間が決めた「正義」は、「今の流行」であり、即、「人が人を支配する手段」でしかありません。人以外の物理法則なり何なりに、人間は抵抗出來ません。人間は、人間以上の存在を認めるべきであり、論理はその人間を超えた存在の一つです。
或は、金持ちや力持ちの支配に抵抗するのに、「人間の實力による支配力」とは異る「論理自體の支配力」を用ゐようと云ふのが、近代に提唱された新しい價値觀ではないですか。そもそも、非論理的で政治的な支配に抵抗するのに、論理と倫理と云ふ「新しい原理」を提唱したのはイエス・キリストで、西歐の論理主義には二千年の傳統があります。
平成十六年一月二十五日
別に「枠」を附けても意味がないと思ふので省略。「枠」なんて飾りです。偉い人には。云々。
自称「非論理的」な方々は、複雑な論理で構成された人間たちを理解するのが困難だからといって、「論理的なのは無意味」だのと中傷して現実逃避するのは控えめにしてほしいと思う今日このごろ。「ヴァカには見えない論理」をまとった王様を見て、「王様は裸だ!」と勝ち誇ったように叫んでも、まわりの人にクスクスと笑われるだけですから。
平成十六年一月二十五日
河合榮治郎『自由主義の擁護』角川文庫97
社會思想としての自由主義と、哲學としての理想主義とは、混同されてはならないが、密接な關係を持つ事。自然法の哲學、功利主義の哲學ではなく、理想主義の哲學を根柢に持たなければ、現代の自由主義が成立たない事。理想主義とは、先天的(アプリオリー)の即ち經驗から導き出されたのではない能力の存在を主張することを特色とする哲學である。國家主義では、國家が最高の價値と看做されるが、看做すのは個人である。マルクス主義では、ただ現象を分析するだけで足るとする建前を標榜し、價値や理想の存在を否定する唯物主義が主張されるが、現實の生活に於て何をとり何を捨てるかと云ふ選擇をなす時、「ない」と定義されるにもかかはらず依然として個人の價値觀に基いて選擇をしてゐる。理想主義では、個人が價値觀を持つ事を前提に、個人が自己の人格を成長させる事を人生の目的と認め、個々人の獨自の人格を認め、同時に個々人に獨自の人格を涵養する努力をなす責任を要求する。河合榮治郎「現代における自由主義」

平成十六年一月二十四日
サーバー『現代イソップ』東京万有社版
こんな畫像を貼つたところで、大手サイトからリンクされたり、物凄い數の閲覽者に大受けしたりする筈もなく。空しいと言へば空しいのだが、極少數でも需要があると信じつゝ。
平成十六年一月二十四日
編集部だより 岩波文庫編集部
お気づきでしょうが,岩波文庫の小口(背を除いた三方)のうち二方はカットされて滑らかですが,天だけはアンカットです(むしろこの方が製本所さんにとっては大変),フランス装風の洒落た雰囲気を出すためということなのですが,いかがでしょうか。
天がアンカットだと埃が溜るので本にとつてはよろしくないと言つたのは誰だつたか。
平成十六年一月二十四日
祭が終つたので寢ます。
平成十六年一月二十四日
萌えHTML Wiki - Front Page
代表はえめるねっとわ〜くすの中の人。
http://da.pekori.to/faerie/nikki/?date=20040124#p01より。

平成十六年一月二十三日
「ありうる」「ありうる」と言へば、中立の立場になるのか?
日本人は、意識しなくても感性に依存した表現の方を論理的な説得よりも「優先」するものだから、意識して論理的であらうとしないと論理的にならない。
「55年体制」を「『俺の時代』に含めるべきとは言へないもの」だと高橋氏は考へてゐる。しかし、「べき」論が介入した時點で、高橋氏は「である」から離れてしまつてゐる。
ごまかしの技術としての「レトリック」を肯定すべき理由を、まづ伺ひたい。もし「レトリックによつて『巧く欺された、面白い』と感じられるのならば良いではないか」と高橋氏が主張するのならば、その種のレトリックが何時いかなる場合にも「面白い」ものでなければならない。しかし、その種のレトリックは、面白くない事もある。その「面白くないレトリック」は、果して「惡いレトリック」ではないのか。そして、その種の「惡いレトリック」を高橋氏は肯定出來るのか。
「児童ポルノ法反対」の理由として「言論の自由」を持出すのは明かに抽象的だ。文學の話をするのに大江の個別の作品を論ずるのは明かに具體的だ。「何かの技術」と云ふ想像の話よりも「ロボトミー」と云ふ既存の技術の方が具體的である事は論を俟たない。
で、メールは明日にでも。
平成十六年一月二十三日
高橋氏には短歌を褒められてゐる。
例の波江氏に據れば、短歌は「いろは同工歌(字数歌)」ほどの價値もないらしいが。(謎)
歌も句も意識して拵へようとするとろくでもない物しか出來ないのだけれども、便所で「ケツを拭いて 水を流す 息白し」(俳句)とか突然思ひ附いたところで別に傑作になる訣でもなし。fankee_jr吟。
平成十六年一月二十三日
http://www8.plala.or.jp/cgi-bin/wforum/wforum.cgi/Kusimitama/bbs?no=6528&reno=no&oya=6528&mode=msg_view
平成十六年一月二十三日
http://d.hatena.ne.jp/theoria/20040122#1074774412
いや、わかつてはゐるのだけれども。
OperaはSDI/MDIの二者擇一。
平成十六年一月二十三日
http://www.geocities.co.jp/PowderRoom/3555/store/trap_log.txt
傳説の迷トピ……。
平成十六年一月二十三日
虹裏のサムネイルが未だに表示されないままなので寢ます。
平成十六年一月二十三日
JavaScript:document.body.innerHTML=document.body.innerHTML.split('61.197.151.251').join('img.2chan.net');focus();をブックマークに登録したら虹裏のサムネイルを割と簡單に見られるやうになつたので寢られない。
平成十六年一月二十三日
歴史的仮名遣ひについて
平成十六年一月二十三日
http://d.hatena.ne.jp/yms-zun/20040123#1074851319
改革をなかつたことにできるか
「あつた」事を「なかつたこと」にする事は出來ない。
ちなみに俺は、「昔を今になすよしもがな」と言つてゐるのではなく、ただ、「既成事實だから、と云ふ理由で『正しい』と言張るのではなく、間違ひは間違ひと認めれば良い」とだけ言つてゐる。「『当用漢字・常用漢字』『現代かなづかい・現代仮名遣い』は誤だつた」と認めよと言つてゐる。「今を昔に戻すのは無理だ」と思つてゐるが、「だから今は正しいのだ」と言つてしまふ事は良くない、と言つてゐる。昔に戻せないにしても、今やつてゐる事は間違ひである、と認める事は可能である。それなのに、世間の人はなぜ認めないのか。「誤を認める」事と「誤を正す」事とを性急に結び附けるからである。「誤を正さないと、誤を認めた事にならない」と思つてゐるからである。しかし、だからと言つて「誤を正せないから、今やつてゐる事は『正しい』事にしてしまはう」と考へるのはをかしい。
平成十六年一月二十三日
基本原則が「表音主義」で、特例として「表意主義」を容認する、と云ふのが今の「仮名遣い」だが、さう云ふ原理が體系として一貫したものとなるかと言へばなる訣がない。だが、基本原則を「表意主義」と認めつゝ、面倒な部分は「表音的」にする、と云ふ「改革」は「あり」だと思つてゐる。
時枝誠記氏も福田恆存氏もそのやうな「改革」は「しても良い」と考へてゐた。
さう云ふ主張ですら、世間の人は受容れようとして呉れないのだが、不思議で不思議で仕方がない。そこまでして「現代仮名遣い」を守りたいのだらうか。さうでもないらしいのだが、なぜか「現代仮名遣」に反對する人間の意見に世間の人は反對したくなるらしいのである。
平成十六年一月二十三日
例によつて神保町の古書會館の古書展で本を買つて來た。今日明日の賣殘りを來週の月・火・水曜日に「我樂多市」と稱して二割引きで賣るとの事なので、今日は買ふのを控へようかと思つたが、ジェイムズ・サーバー作・画『現代イソップ』(福田恆存譯・東京万有社)とベルヂャエフ『奴隷と自由』(新教出版社)を購入。千圓で百圓のサーヴィス券を一枚貰へるところでぴつたり千圓の買物をしたので、實質一割引。

彼は自ら記した「わたくしの哲學的世界觀」(Ma conception philosophique du monde)のなかで次のように自己の立場を規定していた。

「わたくしの哲學的思索の中心には、人間の問題が見出される。わたくしの哲學がすべて本質的に人間學的であるのは、この理由によるのである。人間の問題を提出することは、同時に自由の、創造的作業の、人格の、精神の、歴史の問題を提出することになる。わたくしが主として宗教哲學、歴史哲學、社會哲學、ならびに倫理學を論ずるのは、この理由によるのである」。

ベルヂャエフの哲學は實存主義の類型に屬するが、それは同時に精神の哲學、人格の哲學であり、その根本的な性格は、精神と自然、自由と決定、主體と客體化、人格と一般者、神の王國とカイザルの王國との、二元論である、その世界觀の出發點は存在に封する自由の優位であり、ここにこの哲學の極めて動的な性格が決定される。人間の自由は神によつてさえ決定されえない。人間が自由であるということは、人間が精神であり、人格であるということ、すなわち人間は自然に隷屬する制限された存在であると共に、神に肖せて造られた一つの神格であるということに由來する。人格としての人間は常に全體であり、小宇宙であつて、存在と存在の意味は人間的實存の主體を通してのみ示される。この觀點によれば、たとえば社會は人格の社會的側面であり、人格の内部には社會によつて條件づけられない精神的な原理がある。「宇宙の内容を結合し、個物的な形態における可能的宇宙たりうるものは、ひとり人格である」と言い、「人格は宇宙の一部ではなく、宇宙が人格の一部であり、宇宙は人格の質である」というとき、ベルヂャエフの精神哲學、人格主義の哲學の核心が示される。

主體としての人格に對比するとき、社會、國家、國民、家族、文明、教會、歴史のような、客體世界に屬する集團的現實は至高の價値ではない。こうした集團的現實を至高の價値と誤解するとき、人間は容易に奴隷となる。人格は外在化し、客體化し、能動性を失う。この状況はまさに人格の本質に矛盾し、人間のあらゆる虚僞の幻想を生み出す源泉であつて、ベルヂャエフは本書の全體を通じ、いろいろに變貌し、且つ極めて洗錬された形態をとつて人間を待ち伏せているこの隷屬の性格を把えて分析し、その魅力の理由と結果とを徹底的に暴露するのである。この意味において彼の哲學はまことに自由の哲學であり、解放の哲學であつて、精神の貴族性を擁護する戰鬪の哲學、まばゆいばかりに白熱した生命の哲學、復活の哲學である。

ベルジャーエフと言へば『ドストエフスキーの世界觀』が有名で、昔讀んだけれども、一讀をおすすめする。
平成十六年一月二十三日
http://jouno.s11.xrea.com:8080/blog/index.php?p=478
平成十六年一月二十三日
俺宛ての文章でない事は承知の上で横槍。
論理的な主張をした場合は、それが論理による他者の支配に置き換わるだけなんじゃないでしょうか。
その場合、他者を支配するものは、「論理」ではなくて、「主張」ではないでせうか。
論理は他者を抑圧するシステムでもありえます。
正しくない論理が他者を抑壓するのであり、正しい論理に從ふのは自然な事です。
ひとは論理によらずとも反省できます。例えば俺は、俺の主張のせいで苦しんでる人や悲しんでいる人を見せられたり、そうなる可能性を納得させられれば(それは非論理的な方法でも構わない)、反省します。
納得させられた時點で、論理によつてゐる事は明かです。
また、「苦しんでる人や悲しんでいる人を見た→可哀想だと思つた→自分の意見を撤囘するなり何なりする事によつて、彼等は苦しんだり悲しんだりしないやうになるかも知れない→自分の意見を撤囘するなり何なりしようと思ふ」と云ふ一聯の思考の流れは、理性と感情との相克を經たものであり、明かに論理的に結論を下してゐます。
何かが「本当に正しい」かどうかは、政治的に非論理的にしか定まらないものだと思うのです。
「政治的に正義とされる事」と「眞實」とは違ひます。私は、「政治的に正義とされる事」よりも「眞實」の方が大事だと主張してゐるに過ぎません。
平成十六年一月二十三日
意識して論理的になったら何か面白いことがあるんですか?
意識的である事と論理的である事とは同義です。無意識の状態で何が面白いのですか。
55年体制を「俺の時代」に含めても別に問題はないのですが。
それはこちらも既に認めてゐますが。55年体制は私が單に「高橋氏が『俺の時代』に含めてゐないだらうな」と推測したものの中の一つに過ぎませんし、實際にはその「一つ」に55年体制が含まれてゐるにしても、他のXが含まれてゐない可能性は非常に高いと思つてゐますし、さう云ふXがあるならば高橋氏の「俺の時代」は「ありのままの時代」ではなく「自分に都合良く選擇された時代の一部分」に過ぎないと云ふ事になります。そして高橋氏は、その邊の疑問點について、何ら釋明をしてゐません。
法律のように具体的な条文に基づけず具体的な解釈学も成立していない文学作品論のほうが、よほど抽象的だと思うんだけど。
文学作品論具体的な解釈学も成立していないと高橋氏が言切れるのは何故ですか。文藝作品の解釋の方法については、單なるテクスト解釋のレヴェルから樣々の立場からする解釋論まで存在してゐます。
單なる解釋の話ではないにしても、例へばギリシャ時代にはアリストテレスの「詩學」が存在したし、イギリスにはシェイクスピア學が存在する。芝居の世界だけを見ても、多數の戲曲論、役者論が存在し、それらは全て、「より良い御芝居のあり方」に關する議論であつて、「より良い御芝居」を演ずるには脚本をより良く解釋しなければならないから「より良い御芝居のあり方」に關する議論は「芝居の解釋の方法論」でもある。T.S.エリオットには詩論があるし、その影響下にニュークリティシズムは出現した。アンチキリストと云ふ道徳的な立場からは、D.H.ロレンスによつて『アメリカ文學論』が書かれてゐるし、實存主義の立場ではベルジャーエフ等の文學論がある。キリスト教的・保守的な立場からは、チェスタトンが評傳や論文を書いてゐる。コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』も立派な文學論だ。そして、文學論に統一された方法論が存在しないと云ふ批判には、法律の議論でも決して統一された方法論がある訣ではなく、樣々な立場からする法律論が存在すると反論したい。日本では、恣意的な讀み方がアプリオリに「正しい方法」として受容れられてをり、そのせゐで解釋學が一般に受容れられてゐない、と云ふのが事實かと。例へば森銑三の西鶴研究は「具体的な文章に基づいた解釋學」と呼んで良いものだと思ふ。
あと、福田恆存の『西歐作家論』は一度讀んで呉れと。
文學と呼んでも文藝と呼んでも同じだがとにかく文藝的な文章の讀み方にも樣式があり、「情緒的な印象批評」ばかりがなされてゐる訣ではありません。(印象批評と言ふものにも嚴密な話をすればきちんとした方法論があるのだが、此所では「所謂印象批評」の事。惡口で使はれる「印象批評」の事)
また、「詩的な批評」もあつて、保田與重郎のものがそれだが、詩には詩の讀み方があつて、單に「訣がわからない」と云ふものでもありません。保田の場合、本當に訣のわからないものがあつたりするので厄介ですが。
僕は何を描くかよりどう描くかに重点をおいて歌を評価します。つまり技巧です。
この點は同意。
平成十六年一月二十三日
高橋直樹-直木賞候補作家-114TN
おおすごいひとだつたのか。違。
平成十六年一月二十三日
http://d.hatena.ne.jp/Tskk/20040123
隙を見せると攻撃的な非難をして來る人が、世の中にはゐるのですよ。
「つつこみどころ」を用意しておくと、「つつこみどころを用意する」と云ふところだけ眞似する人が出て來るのですよ。
そもそも、「つつこみどころだらけ」の生き方は氣樂な生き方であり、「隙のない」生き方に比べて人氣が出ないのは當り前の話です。それでも、「氣樂に生きさへすればそれで良いのか?」と云ふ問ひかけは必要なのであり、だから「隙のない生き方」「論理的に穴のない主張」のすすめは、不人氣であつても、と言ふよりは、不人氣であるからこそ、必要だ、と言へるのですよ。
平成十六年一月二十三日
どうして馬鹿の頭といふものは、こちらが提案する解決策をことごとく打ち破るほどに壊れてゐるのだらう。云々。

平成十六年一月二十二日
NHK、夕方六時五十三分からの天氣豫報。關東ローカルのコーナで、縣毎の「警報・注意報」の一覽が表示されるのだが、いつの頃からか、どんな警報・注意報が出てゐるのかが畫面上に明示されなくなつてゐる。(「警報の出てゐる都縣が赤」「注意報の出てゐる都縣が黄色」のみ)昔は○○縣××注意報云々と出たのに。
今の表示は「何に注意すれば良いのか」「何に警戒しなければならないのか」がわからないので大變困るのだが、NHKは「良い」と思つてやつてゐるのだらうか。
平成十六年一月二十二日
「眞實がなかなかわからない」からといつて安易に「眞實は存在しない」と極附けてしまふのは何うかと思ふ。
「眞實は人の數だけある」なんて言ふ人に限つて「眞實は存在すると思ふ」と云ふ俺の意見の存在を許さなかつたりするので、俺はその手の相對主義はいんちきだと思つてゐる。
平成十六年一月二十二日
「言葉は論理的に正しくない方が良い」と眞面目に主張する氣のない人が「言葉は論理的に正しい必要があるのか」等と疑問を呈するのは何うかと思ふ。と言ふか、なぜ疑問文? 確信があるのならば斷定せよ。斷定出來ない事は言ふべきでない。
「お前の言つてゐる『正しい事』は、本當に正しい事なのか? そもそも『正しい』事などあると思つてゐるのか?」といつた類の非難をする人にも申し上げたい。「お前は自分の言つてゐる事を正しいと信じてゐるらしいが、××と云ふ理由で正しくないと俺は信ずる」と批判したら何うか。單に「自己批判」を迫るだけならば馬鹿にでも出來る事だ。そのやうな横着な眞似はしないでいただきたい。
「『正しい事』等この世に存在しない」と信じてゐる人は、他人の言つてゐる事が正しいか正しくないか等に氣をとられる筈がない。他人の言つてゐる事を「間違ひだ」と思つた時、すでにあなたは「正しい」事は「ある」と認めてしまつてゐる。そこで「『正しい事』等この世に存在しない」と言つて他人を非難し始めるのは止めて、まづは自分の態度をこそ反省すべきだ。
平成十六年一月二十二日
http://d.hatena.ne.jp/yms-zun/20040122#1074764317
http://www.pureweb.jp/~aoyagi/diary/diary200401.shtml#20040122
平成十六年一月二十二日
人體實驗を本人の承諾を得ないまま行ひ、本人から苦情が出なかつたので「あの人體實驗は良い事だつたのである」と主張する、と云ふのが果して「正しい」事か否か。その人體實驗が人間の知性を減衰させるもので、實驗された人が「實驗をされた」と云ふ意識を持つ事すら出來ず、苦情を言はうとも思はない状態にさせられてゐる、としたら何うか。知性が減衰させられた結果、その人間が幸福感を覺えるやうになつてゐるとしたら何うか。
やはり俺は、「人體實驗そのものは惡である」と考へるし、「人體實驗は糺彈されるべきである」と主張する。
平成十六年一月二十二日
政治において論理性より強度が意味を持つというのは別にナチズム・ファシズムに限った話ではなく、どの政治体制でもそうだと思うけど。
「そうだ」を「そうであるべきだ」と勘違ひしてゐませんか?
そもそも55年体制って、意識してないといけないものなんですか、それこそ「古臭い政治性」じゃないの? と俺も皮肉で返したわけですが、互いに皮肉さえも通じない価値観の食い違いは、どうしたものか。
55年体制だけを意識しろと言つた訣ではないのだが? 高橋氏が「俺の時代」と言ふ時、「時代」全體ではなく自分に都合の良い「時代の一側面」しか意識してゐない事を皮肉つたのだけれども、相變らず通じてゐないやうだ。「古臭い政治性」つて、何が新しくて何が古いかなんて、それこそ相對的なものではないか?
レトリックや文学的技巧の話。もちろん俺はごまかしの技術としてのそれも真正面から文学的に肯定してるんです(もちろんごまかしじゃないレトリックや文学的技巧も肯定しますよ)。
文学的に肯定してるんです、と云ふレトリックが惡きレトリックである事に氣附いてゐないやうですね。
論理的一貫性にこだわるために55年体制やロボトミーや大江健三郎作品について論じるのは、児ポ法について考える上でかなり不毛だと思いますが。
あなたは「例示」と云ふ言葉を知りませんか? と言ふか、「児童ポルノ法反対論者」の抽象論を批判した俺が具體的な事例について論ずるのは當り前の態度だと思ひますが?
コピー本を買っていただけるのでしょうか、ありがとうございます、住所をいただければ郵便か宅急便かで一冊送ります。
あっと、一応確認ですが、これは、18禁のエロ小説ですので、お買い求めになる場合はその点ご理解の上でおねがいします。
精神年齡はともかく(謎)、肉體的には一往十八歳以上なので、法的には問題ないかと。メールを送りますのでよろしく(謎)御願ひします。
平成十六年一月二十二日
専守防衛なら非政治的と言える可能性がありますが、(他者への)批判という時点で政治性を帯びてしまいますね。
批判がなぜ政治的なのか、全くわからない。ソクラテスは、他人の言ふ事を批判したが、全く政治的でなかった。批判が全て政治的なものである訣ではない事は自明だ。
それから「プロテクト」と云ふ用語は、坪内祐三氏の何かの文章からの引用。多分誰も氣附かなかつたと思ふ。確か福田恆存論か何か。
ちなみに私は「他者をコントロールする手段」が政治だと思いますが、野嵜さんの言うところの政治とは何ですか?
「人間の集團である共同體を、集團として維持しようとする事」。
平成十六年一月二十二日
http://d.hatena.ne.jp/Tskk/20040122#p2
「論理は、非論理的なコミュニケーションによって増殖してきた」と云ふ結論は認められません。「全てのコミュニケーションは完全に非論理的である」と云ふ前提條件がない限り、そのやうな結論は出ません。
「人間は、部分的に論理的であり、部分的に非論理的である」「コミュニケーションは、論理的に行はれる部分もあれば、非論理的に行はれる部分もある」と云ふのが事實です。
だから、現在までに、論理については「認める人」もゐれば「認めない人」もゐる、と云ふ事しか言へません。
しかし、「通じるか、通じないか」のレヴェルで論理の事を話しても、何の意味もありません。結局のところ、その議論は辯論術の議論であり、所謂ソフィストの議論です。そのソフィストを否定する立場からソクラテスが出現し、ソクラテスの弟子としてイデア論のプラトンが出現し、そのまた弟子として論理學のアリストテレスが出現した事を考へれば、ソフィスト的な辯論述に拘る議論は「ソクラテス以後」の精神を否定した一方的な議論であると言へます。
えーと、「所謂ソフィスト」と言つてゐるので、その邊の「嚴密」なつつこみは不要。一々註釋を附けると餘計につつこみが入るので附けない方が良いかも知れないのだが、附けなければ附けないで何處かの人から「無智」呼ばはりされ兼ねない。
平成十六年一月二十二日
と言ふか、論理についていろいろ厄介な問題がある事は、例へばG.H.フォン・ヴリグト『論理分析哲学』にも書かれてゐるし、割と常識になつてゐると思ふ。
一方、非論理的とされる感情についても、フロイト以來、「論理主義者」のメスが入つてゐる事は、指摘して置く必要があるだらう。好き嫌ひについても、非論理的であるとされる割に、多くの論者が「なぜ好きか」「なぜ嫌ひか」を説明してゐるもので、心理的な必然性と云ふ方面から見れば、論理性を見出せる事は割とある。
平成十六年一月二十二日
そもそも、「人間はなぜ『わかる』のか」と云ふ事自體、はつきりしてゐない。言葉について、ソシュールは記號としての側面しか見なかつたが、無視したところで「なぜ記號の組合せから意味がわかるのか」と云ふ問題は殘るのであつて、そこで意味論が存在する意義が生ずる。
そして、現状、そこに飛躍がある事は認めざるを得ないのであつて、にもかかはらず「コミュニケーションは可能である」のならば、我々は言葉を超論理的に信じなければならないし、言葉の意味も超論理的に信じなければならない。
もちろん、相互理解と云ふ事を全面的に信用するのは出來ない事であつて、だから屡々理解の喰違ひが生ずるのだが、「或程度は信用出來る」と云ふ事くらゐは認めておかなければ、文字通り話にならない。
さう云ふコミュニケートの環境がある事を認めた上で、やはり言葉はより正確に使はなければなるまいと思ふのだ。
混沌の中に(假初めのものであれ)秩序を構築しようと言ふのが人間である。ならば、出たら目の中から恣意的に選擇した音を組合せてそれなりの秩序を作り上げた言語は、努力で以つてそれなりの秩序を維持しなければならない筈である。定まる事のない事實から意味を抽象して體系を作り上げたのが論理であるならば、意識して論理の體系は維持しなければならない筈である。
平成十六年一月二十二日
「タブブラウザ」つて何ですか。MDIと違ふんですか。
「ナビゲートロック」つて常識的な單語なのかよ。見た事も聞いた事もなかつたけれども。
Google 検索: ナビゲートロック
と言ふか、中身がInternet Explorerと同じMicrosoftのHTMLレンダリングエンジンの「タブブラウザ」なんて使つて何うするんだ。

平成十六年一月二十一日
佐世保の同人誌即売会「あるばれすと」
なぜのあとあやの?
俺に同人誌を作れとでも?
Diary - Notes(2004-01-20)
平成十六年一月二十一日
戦後の国語改革についてのまとめ。
http://d.hatena.ne.jp/jmaki/20040115
平成十六年一月二十一日
同じ原理や公理を信じてゐるにもかかはらず、互ひの立場の違ひを強調し、結果として自分の主張の正當性を維持し、保身をはかる爲に、俺とお前の信ずる原理や公理は異るのだ! と言張るのは如何なものか。
マルクス主義で實際的な問題が起きたのは「論理的矛盾を放置した」からである。
人心を掌握しなければならない爲政者にとつて論理的正當性を絶對視する立場は必ずしも有效でない。それはマキャベリを讀めばわかる。しかし、科學者や藝術家にとつて、知的誠實は必ずしも有效でないと言ふ訣ではない。
「面白いか詰らないかで全てが決る」と云ふ「1980年代的發想」は危險だと思ふので、俺はその立場に立たない。
或問題について、突詰めて議論して、論理的に正當な結論が得られたら、その議論は大變有益なものだつたと言へる。
言説としての有效性は、知的誠實にかかつてゐるのであつて、表面的な面白さに據るのではない。表面的な面白さで言説の有效性が決る事を[是」とするならば、ドイツ國民の熱狂的な支持を得たヒットラーの演説は言説として有效であり、全面的に肯定されなければならない。しかし、ヒットラーの演説の類を俺は支持しない。だから、單なる面白さしか持たず、感情へ訴へかけるだけの淺薄な言説を俺は支持しない。
相對主義者は、なぜか自分を相對化しない。
「通俗性を疑へ」の類の言ひ方の通俗性は、なぜか疑はれる事が無い。
「疑へ」「疑へ」と言ふ人が「なぜ疑はなければならないか」を説明しないのはなぜか。
疑つても疑ひ切れずに信じた人を、「疑へ」「疑へ」と言つた人が許さないのはなぜか。「疑へ」と命じつゝ、自分は疑つてゐないからではないか。
平成十六年一月二十一日
正直言つて、戲れ言よりも、眞實の方が面白い。
平成十六年一月二十一日
と言ふか、10部殘つてゐる同人誌、五百圓で買つても良いが如何。
買つても讀むか何うかは知らないが。
平成十六年一月二十一日
ある男の展開した文学・道徳観が、エロゲのみならず大江・司馬作品やミステリ自体を否定するという帰結を見たとします。
おいおい。別に帰結なんかしてゐないよ?
何處を何う讀めば、あれがさう云ふ結論に帰結したと言へるんだ?
論理的正當性を重視しない男の論理は目茶苦茶だ。
かう云ふ男が小説やシナリオを書いても、筋が一貫してゐないんぢやないか?
平成十六年一月二十一日
物語に於て、作者の當初の意圖が途中で變る事は良くある事だ。だが、どうして「意圖が途中で變つた」とわかるのだらうか。そもそも、何時いかなる場合にも、作者の意圖が判らないものであるのならば、意図というのは事前的には決まっていなくて書いているうちにだんだん固まっていくものだったり云々と云ふ事がどうしてわかるのだらうか。
意圖が一貫してゐるか何うかも、讀取る事によつて判明する事だ。そもそも、一貫した意図を読み取らなければならない、と云ふ話はない。
讀者は、個々の文章の意味を讀取る。そして、個々の文章の意味を繋ぎ合せて一つの物語の存在を認識する。その時、全體としての物語の構成要素として、個々の文章が適切に出現してゐるか何うか、は判定可能である。
もちろん、個々の文章の認識と、全體としての物語の認識とは、「鷄と卵」の關係にあつて、どちらが絶對的な根據となる、と云ふ訣でもないから、或文章の讀み方が物語全體の印象を變化させたり、物語全體の印象から或文章に「裏」の意味を讀取れたりする場合もある。しかし、それでも或種の妥當な「讀み」は「ある」と信ずる。
平成十六年一月二十一日
最早、新しい解釋のしやうがないとされるシェイクスピア學では、既に「これは敢へて誤讀してみたものだが」と云ふ書き方の論文が登場してゐると云ふ。
しかし、だからと言つてドーヴァ・ウィルスンの校訂したニュー・シェイクスピアが詰らなくなつた訣でもないし、「ジュリアス・シーザー」を政治劇と呼んだ松原正氏の評論が刺戟的でなくなつた訣でもない。
平成十六年一月二十一日
そもそも、「作者が『これが意圖だ』と思つた事」と、「作品に表はれた作者の意圖」とは、必ずしも一致しない。
作者の定義した「作品の意圖」と、作品から讀取れる作者の意圖とは、別物となり得る。
作者が「これは傑作なのである!」と力強く宣言したとしても、その作品は必ずしも傑作である訣ではない。
マルクスの意圖した共産主義と、共産主義國家ソヴィエト聯邦の實態とが異つてゐた事は、歴史的に明かである。
平成十六年一月二十一日
分かってると思いますが、「55年体制」などという単語を頼まれもしないのに持ち出す貴方への皮肉ですよ?<体制を意識したことが無い
例えば俺の書いたものを「俺の意図」より面白く読む人も存在する。
高橋氏は、俺の意図よりも「讀者の讀み」を優先すると言ひながら、私が高橋氏の文章を讀んで「55年体制」などという単語を持出したのを否定してゐる。高橋氏は、自分の文章に限つては作者の意図があり、しかもそれは尊重されるべきである、と考へてゐたのだが、その一方で、俺の意図とその読みとどちらに価値を置くかと問われれば、俺でさえより面白い読みのほうを取るよ。と宣言する。
意識的になされた宣言からではなく、無意識的な言動から、「作者の意圖」を推測する方法は、「あり」だと思ふが如何。
平成十六年一月二十一日
論理的に議論をするならば、本筋を離れないで、きちんと結論に逹せられる筈。論理的に話を繋げられないから、本筋から遠く離れて永遠に續けられるだらう逐語的な詰らないレスの應答に陷る。
そして、論理的に議論を出來ない人間に限つて、自分がやつてゐる非論理的な議論について「これが論理的な議論なんですね、論理的な議論つて嫌なものですね」等と感想を述べ、擧句、「あなたの言ふ論理的な議論には有效性を見出せない」等と斷定的に結論を下してしまつたりする。
高橋氏が私の發言に附けた「レス」が、悉く非論理的で、結果として本筋を離れた議論が延々と續いてしまつてゐるのを見れば、論理性を輕視するのが不毛である事は明かだと思ふが、同じ議論を根據に高橋氏は「論理性を重視するのは不毛だ」と言ふ。明かに高橋氏が間違つてゐる。
平成十六年一月二十一日
http://d.hatena.ne.jp/bmp/の2004年1月20〜21日の邊。
平成十六年一月二十一日
つまり元の議論が埋もれて分からなくなるくらいの無意味で長い論理的泥仕合に持ち込むことこそが彼の有効な「作為的な扇動」のテクニックですよと。
人は自らを否定すべき文句で以つて他人を罵る。
戰略的で煽動的なのは明かに高橋氏ではないか。
平成十六年一月二十一日
と言ふか、高橋氏は「55年体制」などという単語を意識した事もなからう、高橋氏の「俺の時代」に「55年体制」などという単語は存在しないのだらう、と皮肉つたのに、分かってると思いますが、「55年体制」などという単語を頼まれもしないのに持ち出す貴方への皮肉ですよ?と素で返してしまふ高橋氏は何うかしてゐると思ふ。
体制を意識したことが無い事を皮肉つたのに、自分は体制を意識したことが無いんだよ、それもわからないのか?、と高橋氏は言返したのだが、どうして高橋氏は相手の意圖を讀めないのだらうか。
と言ふか、高橋氏は、自分に相手の文章の意圖を讀取る能力が無いから、他人も自分の文章の意圖を讀取れない、と思つてゐるのではないか。その割に、野嵜が高橋氏の文章の意圖を正しく讀取つてゐない、と言つて高橋氏は非難してゐるらしいのだが、目茶苦茶だ。
平成十六年一月二十一日
論理は私の創作物ではありませんよ。
平成十六年一月二十一日
「レトリック」とか「文学的技巧」とかを、高橋氏は惡い意味でしか理解出來てゐないやうだ。
高橋氏の目は、偏見で曇つてゐる。
平成十六年一月二十一日
最近のJ−POPだけがそうなんじゃなく、そもそも日本語が主語なしでもイケる言語だということなんじゃないだろうか。
高橋氏は、國語學なり日本語學なり言語學なりの成果に少し觸れてみたら何うか。
「日本語に主語はない」と云ふのは、可なり昔から言はれてゐた話なのだが。
どうして高橋氏はそんな事も知らないのだらうか。
高橋氏はひよつとして「ものを知らない人」なのではないか。
平成十六年一月二十一日
で、ここでhttp://d.hatena.ne.jp/Tskk/20040119#p2のつつこみですよ。
この場合の「主語述語の對應」云々は、もちろん嚴密な話をすれば「てにをは」の問題と云ふ事になる訣だが、ここは用語の嚴密性に拘つてゐない話。
平成十六年一月二十一日
野嵜氏の拘る論理も私には他者殲滅型模倣子という政治的なものの一種に見えます。
これに對しては、「大衆の感情に訴へかける」「煽動する」と言つた政治的・戰略的な態度へのプロテクトとしての非政治的な態度の存在の強調であり、政治の相対性への批判であると言ひたい。
誰かの主張が論理的に誤つてゐる事を指摘するのは、その主張が通つてしまつて害をなすのを防ぐ役割があり、積極的な意義はなくとも、消極的な意義はあると言へます。飛躍的な進歩は望めなくとも、退歩しない事で着實な進歩に繋がる、とも言へます。
また、論理的な批判に對しては、やはり論理的な批判が有效です。感情的な意見は誤を受容れない依怙地な意見になりがちですが、論理的に議論しようとする態度を取るならば論理的な誤の指摘には謙虚にならざるを得ません。
平成十六年一月二十一日
論理的な意見の表明に、感情的な非難を浴びせるのには大反對。科學的な地動説に、感情的な天動説の立場から非難を浴びせるやうなものだ。
しかし、高橋氏もTskk氏も、その種の非難を容認する、それどころか積極的に肯定する、と云ふ考へらしい。
平成十六年一月二十一日
ノイズが多い環境でノイズに弱い表現技術を使うのが間違いでしょう。論理的に緻密な文章にはそのような欠点がしばしば見られると思います。
論理的に緻密な文章ではなく、人間の側の問題だと思ふが如何。
そもそも相手を攻撃すること自体が相手の反撃や抵抗を引き起こすために意見の伝達には不向きかと思いますけれど、とりあえずそれは棚上げしておきます。
それを言つたら、最初に攻撃してきたのは高橋氏だつたりする。
平成十六年一月二十一日
今日買つて來た本から。

「哲学する」ということが「よく生きる」ということの同義語であったことを、長い間人々は忘れていた。多くの場合、「哲学」は観念や理論のおばけとなり、「よく生きる知恵」はそこからすべり落ちた。アランは、哲学が倫理的、道徳的な学説をめざすことを、まことにきっぱりと断言する。その意味は、欲望、野心、おそれ、悔恨などを規制するための善と悲とに関する正しい評価こそ、まさに主題であるということである。こうして、この本では、「感覚による認識」「秩序立った経験」「推理による認識」「行為」「情念」「道徳」「儀式」の七部にわたって、さまざまな問題がとりあげられる。アランのこの「哲学概論」は、あくまで市民に向かって開かれたものである。アランはこう書いている――「この本が職業哲学者の批判の対象となって、とやかく言われるとなれば、そう思っただけで、書いたときのわたしの生き生きとしたよろこびはだいなしになるだろう。」


平成十六年一月二十日
誰か又吉イエスを默らせろ。
街宣車うるさい。
平成十六年一月二十日
『人間いかに生くべきか』
鈴木大拙・武田泰淳・H.デュモリン・福田恆存・古田紹欽・堀田善衛・E.O.ライシャワー。對談集。
平成十六年一月二十日
田村書店店頭のジャンクコーナに福田恆存著作集(舊版)が何册か出てゐた。

平成十六年一月十九日
そろそろ「反省會」の季節かな?
「新年會」等と言ふものでは斷じてない。
平成十六年一月十九日
神奈川中央交通バスのアナウンス。「携帶電話の御使用は、他の御客樣の御迷惑となりますので、電源を御切り下さいますやう御願ひします」。主語述語の對應が變。
平成十六年一月十九日
鉄道ジャーナル三月號卷末の「こちらジャーナル編集室」。新幹線の運轉士が乗務中に携帯電話で話をしてゐた事についての記事。「携帯電話」と云ふ語の後、括弧で註が附されてゐて、「ケータイ」と呼ばれますが、日本語をダメにするカタカナ表記なので、以下「携帯」と表現、とあつた。
「ダメ」「カタカナ」が何故片假名なのかは不明。
同じ欄で、国立国語研究所の「理解しにくい外來語の言い換え」に觸れてゐる。

平成十六年一月十八日
児童ポルノ規制法案を考える
かなり以前の文章だけれども。笑へる。

平成十六年一月十七日
国際法などの近代以降我々が整えた世界平和のための制度が、つまりはこの「世界平和」そのものが、彼らにとっては我々の支配構造を安定化させるための抑圧的な装置に過ぎないのだとしたら、いいか悪いかの問題ではなく現実問題として、それを踏み破ってこちらに打撃を与えようという連中はこれからも現れるだろう。
そもそも「体制」という概念を意識したことが無いんですよ。と言つてゐる割に、制度とか支配構造とかいつた概念は意識し捲りである模樣。
いいか悪いかの問題ではなく現実問題として、とか、ともかく、変わっちまうもんはしょうがない。、とか、さう云ふ考へ方は個人的に大嫌ひで、まだしも平和主義者の方が好感が持てる。
平成十六年一月十七日
世界の50%の富を5%の先進国民が独占しているというこの不公平を、我々がその5%に所属して生を謳歌しながら善良であろうとすることの矛盾を、どう受け止めればいいのか。
高橋氏は、しれつと價値判斷に關する言葉を使ひながら、現実を認めることとそれを肯定することは違ういいか悪いかの問題ではなく現実問題として、等と言つて、自分の文章が價値判斷とは無關係であるかのやうな顔をする。高橋氏の建前と、高橋氏の文章とは、明かに矛盾してゐる。しかし、高橋氏はただ、自分は「どうでもいいつじつま合わせ」はしない、と言つて、自分の文章の矛盾を指摘する批判を一蹴する。それでは「どうでもよくはないつじつま合わせ」なんてないと高橋氏は主張するのかと言ふと、さうでもないらしい。
平成十六年一月十七日
ブログでどうでもいいつじつまあわせに付き合うことが社会の為になりますか?
高橋氏の發言には、矛盾點も多いが、曖昧な點も多い。
社会の為になるとは、一體全體、どのやうな事ですか。
「ためになる」のならば、利益になるなり有利になるなり役に立つなりする訣であり、良い事である訣だが、高橋氏はいいほうに変わることもあれば悪いほうに変わることもあるだろうし、変わってよかったこともあれば変わらなかったほうが良かったこともあるでしょう変わっちまうもんはしょうがないのであつて、良い惡いはどうでもよい、と思つてゐる筈である。にもかかはらず、高橋氏は社会の為と言ふ。
そして、さう云ふ高橋氏の文章の矛盾を指摘すると、高橋氏はブログでどうでもいいつじつまあわせに付き合うことが社会の為になりますか?と輕くいなして自分の話を平然と續ける。
しかしおききしますが、高橋氏の話は、社会の為になりますか? 高橋氏のエロゲは、社会の為になりますか? そんなのはどうでもいい話ですか。
平成十六年一月十七日
「あり得る」と言ひたいだけにしては、高橋氏の文章には「いい」とか「悪い」とかいつた話が良く出て來る。それで高橋氏の宣言を信用しろと?
まあ、高橋氏自身、宣言なんて下らない、と思つてゐるらしいですが。だから高橋氏は勝利宣言してもらって構わないと言つたんでせう?
平成十六年一月十七日
そもそも俺は「児童ポルノ法」の類を制定したがつてゐる人間がゐる、それはあり得る事だ、そして俺はその良し惡しを言はない、と書いたのであり、それに高橋氏が絡んできたのである。
そして、高橋氏はかう述べた。
法に関しては別問題なんですよ。プログラムが論理で動くものであるのと同様、法も論理で動くものですから、つじつまあわせは大事です。実際に俺たちの表現活動に影響し得るから気にしてるわけで。
結局のところ高橋氏が法律のつじつまあわせをするのは、俺たちの表現活動に影響し得るからに過ぎず、ほかの發言も合はせて考へれば、單に「俺のもの」を守りたいだけであり、法律のつじつまあわせなんてものは高橋氏にとつては單に戰術に過ぎない。
平成十六年一月十七日
高橋氏は、矛盾、論理、一貫性と連呼してますが、論理性の追求なんてのは、ようするにつじつまあわせに過ぎず、ありていにいうとくだらないと思ってるんで、ほどほどに切り上げていいですか?と述べてゐる。俺は、法律のつじつまあわせなんてのはようするにつじつまあわせに過ぎず、ありていにいうとくだらないと思ってると言つただけである。それを高橋氏は許せず、俺が法律議論をしようとしないのを、恰も絶對的な惡事を働いてゐるかのやうに極附け、非難した。
誰がどう見ても、高橋氏は、自分の意見は絶對的な眞實であると思ひ込んでゐる。にもかかはらず、高橋氏は、飽くまで法律議論の領域のみで論理的でありさへすれば良いと自分は主張してゐる、と言張る。自分が、法律議論の範疇からはみ出した場所で論理的である事を主張してゐるにもかかはらず。
はつきり言へば、法律議論における論理性を主張するには、法律議論の一段上のレヴェルの論理性も認めなければならないし、その一段上のレヴェルの論理性を認めるならば、一般的な論理性をも認めなければならない。にもかかはらず高橋氏は、法律議論における論理性のみを認め、それ以外の全ての論理性を「どうでもいい」と看做し、自分の發言の非論理性を「是認」してゐる。
高橋氏は、自分が既に認めてゐるものを「認めない」と言つてゐるのである。もちろん、さう云ふ眞似を高橋氏はする人間である。http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040103#p1用法に違いがあるということは分かりました、と言ひながら、高橋氏は彼の用語法自体を俺は容認したくないのだから、と言つた。
平成十六年一月十七日
「他人の言葉の意圖なんて、本當にはわからないんだよ。だから俺は誤讀の自由を認めたいね」――なるほど。「あんたの言葉は○○○○と云ふ意味だと俺は解釋したよ。それは誤讀かも知れないが、さう俺は解釋したのだから仕方がない」――なるほど。「あんたは○○○○と言つてゐる。それは許し難い事だ。あんたは惡人だ」――ちよつと待て。
この「ちよつと待て」で待てない人間が多過ぎる。そもそも誤讀前提で文章を讀む事に何の意味があるのかわからないが、誤讀であるかも知れないにも拘らず相手の意見を駄目だの間違つてゐるだのと極附けたり、相手の人格を否定したりするのは何を考へてゐるのだらうと思ふ。
良い方へ誤讀するのなら、公益性のある曲解なら、或は、相手からは完全に獨立した自分の意見として誤讀なり曲解なりを提示するのならば、それはそれで社會の爲になるだらう。しかし、その誤讀や曲解を根據に相手を責めるのは、社會のためにも何の爲にもなるまい。ただ理論の流布にかこつけた茶々に過ぎなくなる。
平成十六年一月十七日
「吾輩は猫である」と言はれても、さやうでございますかとしか答へやうがない。
しかし、「法律は論理である」と言はれた時、「法律が論理であるか否か」を判斷するのは、法律の外部の理性の仕事である。
ちなみに、「我思ふ、ゆゑに我あり」と云ふ「論理」は、結構面倒臭い論證が背景にあるのだが、ぢやあ證明してみろよ、と言はれても、デカルトの著作に直接當つて呉れとしか答へやうがない。そこで、「お前が證明出來ないのなら、一般的な證明として間違つてゐる」と極附ける輩が出て來るからウェブは困る。大體出て來る理由が「お前の説明には説得力がない」である。デカルトを讀めと言つても、相手は聞いてゐないのである。
平成十六年一月十七日
そもそも、目や耳は人前で晒しても問題ないのに、性器を人前で晒すと問題になる、と云ふのは、合理的に説明出來ない事だ。
大概の人はそこで世間の常識なり社會的通念なりを持出すし、それで十分納得してしまふ。その上で、猥褻物の概念を擴張したり縮小したりしてゐる。
しかし、そこで「をかしいものはをかしい」と言出したのがD.H.ロレンスで、だから『チャタレイ夫人』その他のロレンスの著作は猥褻物ではなく藝術作品となつてゐる。
そこで「藝術なんてものは下らない」等と言出して、「社會的通念」その他の色々な用語で表現されるものに從ふ「現實主義的」な態度をとつても、猥褻物の概念を擴大しては規制を強化したり、規制を他人ではなく自分でやりたいと言つてみたり、と、不毛な鬪爭を繰返すだけである。
だから、その種の政治主義に拘る奴は馬鹿だ、政治とは異る藝術の領域の存在も認めておくべきだ、と言つてゐるのだが、政治主義的な人間は何を言はれてもわからない。
そして、さう云ふ人間に限つて、自分の言つてゐる事が偏つた意見であり不公正な主張である事に氣附けず、いかにも自分は客觀的な人間であるかのやうに振舞ふ。それでゐて、さう云ふ人間に限つて、俺は客觀性なんてものは信じないよ、等と曰ふのである。目茶苦茶である。
平成十六年一月十七日
形式主義者は形式を不自由なものと觀じ、自由主義者は形式を自由なものと觀ずる。
平成十六年一月十七日
http://www.denpa.org/~go/denpa/200401/from11.html#17_1
2ch のライトノベル板の評価と実売とはかけはなれてる。2ちゃんねらーの面白がり方は世間の常識から懸離れてゐるので云々。駄目で電波な作品ほど祭にされがち。
或本が個人サイトで採上げられてゐても、賣行きの大勢には殆ど影響しないのではないですか。或サイトで採上げられて、サイトの閲覽者が買つて、十册とか百册とか賣れたとしても、部數は萬單位である訣で、相對的に目たない、と云ふ事はあり得ます。數千册數萬册賣上を伸ばさないと、普通は話題にならないのではないですか。
餘談ですが、ちくま文庫で出た清澤冽の『暗黒日記』が、うちの所爲で馬鹿賣れしたとはききません。一個人のサイトに出來る事には限界があります。と言ふか、そもそも俺自身、ちくま文庫版『暗黒日記』は買つてゐない。
平成十六年一月十七日
「私にとつて」とか「俺にとつて」とか言へば、有效な批判になるのですか?
「俺にとつて司馬遼太郎は駄目な小説家以外の何物でもない」とか。
「俺にとつてミステリは無意味な文藝ジャンル以外の何物でもない」とか。
「俺にとつてエロゲはこの世の害惡以外の何物でもない」とか。
かう言はれて全然凹まない人間に限つて、旧字体や旧漢字は、私にとっては無意味なハードル以外のなにものでもありません等と言つたりする。
平成十六年一月十七日
ウィンドウの最大化・最小化・終了のボタンが壞れる現象の對處法はWindows關係のFAQでもつともめじゃーなもの。
「アイコンやタイトルバーのボタンが壊れる」という方へ (#sic) @ [やっつけ質問]で詳細な説明を讀める。
平成十六年一月十七日
Factorial(100000) by JavaScript
Factorial Demo
Opera 7.23での實行結果。10000!だと動いた。
20000!でも動いた。
出て來た數字が合つてゐるのか如何かは知らない。
平成十六年一月十七日
「萌えたん」買つた奴が勝ち組になつたとかならないとか。
平成十六年一月十七日
分かってると思いますが、「55年体制」などという単語を頼まれもしないのに持ち出す貴方への皮肉ですよ?<体制を意識したことが無い そういう意味での体制なんか今気にしてなんになるの。
あきれたものだ。ではあんたの言ふ「俺の時代」とは、一體何を意味するの?本音を御言ひなさいよ。いつの時代でも構はないんでせう? 時代ではなくて、「俺にとつて都合の良いもの」だけが大事なのだと。
「政策で政党を選ぶ時代」と言うのが最近のスローガンのようですが、いいか悪いかは別にして、そういうご時世に政党シンパのレベルで物を語る古い政治性を皮肉ってるわけです。
はあ? 俺がわざわざ「体制」なる語を持出した事がそもそも皮肉なのに、あんたは氣附いてゐますか?
平成十六年一月十七日
野嵜さんの児ポ法に関する振る舞いは思いっきり「政治的」(というより「政略的」かな?)なんですよ。それも古いタイプの。
全然わかつてゐないんだよ高橋氏。あんたのやうな政治的な人間に、政治的でない視點の重要さを説いただけだよ。それを「政治的」と思つてしまふのは、高橋氏自身が政治的な人間だからに過ぎないからだよ。
高橋氏が政治的な人間である事は、道徳性なんてしったこっちゃないし単に戦術に過ぎませんよ<法律のつじつま合わせ、と云ふ發言が證明してゐる。
平成十六年一月十七日
「法律を無視して人を弾圧するのはよくない」というのも、「人を殺してはいけない」というのと同じように、悪く言えば単に利用しやすいお題目です。
良くわかつてゐるぢやないか。ならば、「二次元の裸體表現は惡い」と云ふ「御題目」を利用するのだつて、可能性として「あり」だ。そして、高橋氏は、自分が「御題目」に「御題目」で對抗してゐるだけである事を自覺すべきである。その種の政治鬪爭が不毛である事を、俺は言つてゐるだけだ。
俺は「御題目は所詮御題目に過ぎない」、「是非はともかく、所謂『児童ポルノ法』の類を制定したがつてゐる人がゐるのは事實」と言つただけだ。そこに「政治性」を見出したのは高橋氏だ。そして高橋氏は、自分が勝手に見出した「政治性」を根據に、俺の言つてゐる事を勘繰つてゐるだけだ。
平成十六年一月十七日
そのお題目を受け入れるかどうかは非論理的な信念の問題です。例えば世間一般にも聞く耳を持つ人はいるでしょうし、法律家はもっとマジメに聞いてくれるでしょう。野嵜さんは受け入れないんでしょう。ただそれだけのことで、これくらいは前提だと思ってたんだけど、そうではなかったようですね。
ならば、お題目を受け入れるかどうかはそれ自體、賞賛したり非難したりする理由にならない。當り前の話だ。
だが、高橋氏のお題目を受け入れないからと言つて、貴方が周囲から見て十分アレな人だなあと分かったと高橋氏が書くのはをかしい。高橋氏はなぜ俺がアレな人であると分かったかを説明出來ない。高橋氏は、俺の意見は高橋氏の意見と違ふ、と云ふ事しか説明出來ない。それなのに高橋氏は俺を非難する。目茶苦茶である。
法律家が法律の話を菊としたら、それは法律家がたまたま法律を專門としてゐる人間だからに過ぎない。彼等はただ、法律の話をされたら法律的な觀點で批判するだけだ。なるほど、それはそれで正しいと認めよう。しかし、法律家でない人間が、法律の話であると宣言されたからと言つて「法律議論」をしなければならない、と云ふ事にはならない。「道徳家」ならば、法律の話もまた道徳的に見るのが自然、と云ふ事になる。文學者ならば、もちろん文學的な見方をして良いに決つてゐる。
ところが高橋氏は、そこで「いや、良くない、俺が法律の話と言つたら法律の話をしなければならないのだ」と喚き出した。
高橋氏は、自分がまともな事を言つてゐると思つてゐる。しかし、その根據は薄弱である。
平成十六年一月十七日
貴方の「ちょっと待て」が通用するかどうかは、貴方の言葉の強度に掛かっているのであり、貴方の言葉の論理性には掛かっていないのだ、ということをまず受け入れたほうがいいかと。
高橋氏の思想はナチの思想みたいですね。
ヒトラーは『我が鬪爭』で、宣伝はすべて大衆的であるべきであり,その知的水準は,宣伝が目ざすべきものの中で最低級のものがわかる程度に調整すべきである。と述べたとの事ですが、高橋氏のやつてゐる事はナチスのやつてゐる事と變りませんね。俺は、さう云ふファシズムに反對してゐるから、主張の論理的一貫性を重視してゐるんですがね。
そしてそれがもっぱら大衆の感情をいっそう考慮すればするほど、効果はますます的確になる。――高橋氏は理性でなく、感情に訴へる戰術を取り過ぎ。ナチスに反對してゐるやうな顔をしつゝ、高橋氏はナチズムを實踐してゐる。だから俺は高橋氏の主張を批判せずにはゐられない。
平成十六年一月十七日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040117#p2
一人や二人のお客さんのお眼鏡にかなわなかっただけでいちいち凹んでたら、作家なんてやれませんよ(それでも、鋭い批判にはたまに凹むけどね)。
かう云ふ、直前の發言を直後ですぐ否定する、と云ふ幼稚な「レトリック」を愛用してゐるやうでは、論理性なんてものは理解出來る訣がないよ。こんな文章を書いて「良い」と思つてゐるんだから、高橋氏の感性は相當鈍い。
貧乏人を踏みにじることを前提に、時々テロられるし運が悪ければ死ぬということと引き換えに得た裕福さ、まさしく弱肉強食で運次第の世界観が支配する状況で、人々に社会制度への信頼や遵法意識が育つだろうか。もちろんこれはただの杞憂で、案外大丈夫なものなのかもしれないけど。
ここでもその御得意の「レトリック」が使はれてゐて、濫用としか評しやうがない。
それはともかく。貧乏人裕福な人間との間に對立構造を見出し、資本主義を弱肉強食で運次第の世界観と斷ずる高橋氏の態度が、共産主義的な古臭いものである事を、高橋氏は自覺してゐないのだらうし、認めようともしないのだらうな。そして、高橋氏の「目的が戰術を聖化する」態度もまた、明かに共産主義的なものである。「道徳なんてどうでも良い」と言ひ、俺の政治主義に反對する態度を「政治的」と極附ける高橋氏の態度も、「ブルジョアを利する行爲は全て政治的に敵である」と看做した共産主義の態度と一致するものである。
平成十六年一月十七日
司馬文学と大江文学(に限った話でもなさそうだが)を否定しミステリを無意味だと断じた上で、持ち出す積極的価値がせいぜい旧かなと正しいHTML程度という「論理」に、世間の意見を異にする人々に自分の生活実感を捨ててついてこさせるだけの有効性が、果たしてありますかねえ。
ああいう物言いでミステリを全否定するような人に、普通にミステリを楽しんでいるであろう世間の人がついていくとも思えないんで、云々。
「そんな言ひ方に説得力はない」と高橋氏が言つてゐるのは當つてゐますけれども、だから旧字体や旧漢字は、私にとっては無意味なハードル以外のなにものでもありませんと云ふ非難には説得力がない、と云ふ反論になるんでせうが。
と言ふか、高橋氏はなんで持ち出す積極的価値が等と言出すのだらう。この人、話の流れを全然讀めてゐない。適當につつこめさうな處があれば取敢ずつつこむ、と云ふ高橋氏のやり方が批判として有效なものか否か、高橋氏は反省したら何うか。もちろん、高橋氏は、自分のやり方は、自分自身では「正しい」と信じてゐるし、それを受容れない人間は「アレな人間」であると思つてゐるだけである。
何と言ふか、「好い加減であると云ふ點で一貫してゐる」人間は、相手にし辛い。
と言ふか、いや、「社会の為」を持ち出したのは俺じゃないからなあ。コメント欄まで目を通していただいてるのはありがたいですが、そのひとつ上の発言を見てくださいな。彼の言葉を受けて切りかえしているだけですよ。と曰ふ高橋氏が、どうして彼の言葉を受けて切りかえしているだけの私の事を非難するのかなあ。不思議だなあ。「アレ」なのは私ではないのですよ。
まあ、高橋氏は意地でも私の事を「アレな人」に仕立てなければ、政治的に困るんでせうが。と言ふか、俺のあんな「釣り」に釣られるなよ。イタ過ぎる。
平成十六年一月十七日
……人々に社会制度への信頼や遵法意識が育つだろうか。
これがそもそも、俺と高橋氏とがすれ違ふ最大の理由。
俺は、社会制度への信頼や遵法意識なんて所詮政治的なものだ、と言つてゐるのだから。「同じ政治的なものに拘るのならば進歩はない、政治とは異る視點のある事も學ぶべきだ」と俺は言つてゐるのであり、政治的な態度やその變化に拘る高橋氏の主張とは次元が異る。
平成十六年一月十七日
と言ふか、論理性を馬鹿にする高橋氏は、ナチを非難しつゝナチのやつた事と同じ事をやらかしてしまふ悲劇に陷つてゐるのだが、自分の發言の一貫性を大事にしてゐれば、その悲劇は避けられたと思ふよ。
平成十六年一月十七日
「Aは、Xのやうなものだ」と云ふ皮肉は、一般的に通じないものなのかな? 一般性を備へる高橋氏には通じなかつたやうだが。
をかしな事を言つた人のをかしな發言を混ぜつ返して皮肉ると、そのをかしな人ではなく自分が非難の對象となる、と云ふのは、明かにをかしいのだが。
もつとも、をかしな事をした本人が、自分に向けられた皮肉を根據に、堂々と皮肉つた人間の人間性を否定して、大々的に宣傳する、と云ふ異常事態がウェブでは往々にして發生するのだが、世間的にそのやうな事が常識であるとは認めたくないもの。
と言ふか、部分を取出して見ればをかしく見える事も、文脈を追つて議論の全體から判斷すれば全くをかしくない、と云ふ事はあるのであつて、それなのに文脈を無視して「をかしな事を言ふアレな人間だ」だの何だのと非難するのは、「木を見て森を見ず」の喩へが見事に當嵌る異常な「非難」である。

平成十六年一月十六日
例によつて神田古書會館の古書展で購入したもの。
早川清『編集後記 悲劇喜劇 1966-1993』

西澤(揚太郎)は名編集者としての手腕の持主でもある。前記の第一次「劇文学」では、蓮見大作と、第一号に真船豊の「鼬」を、第二号に水木洋子の「クレオパトラ美容室」第三号に田口竹男の「京都三条通り」第四号に岩名ゆきのもの(作品名失念)第五号に今村紳一郎の「エミグラント」と次々に新人の問題作を紹介した。第一次「劇文学」は第五号を以てか、あるいはあと一、二号でつぶれてしまったが、その功績は今になお、大いに讃えられていいはずである。更らに第二次「劇文学」の第二号だったと思うが「別荘地帯」という秀作が載せられて同人たちの目を見はらせた。発表後のことだから、同人の一人であることと、作者名は知ってのことだが、どんな人物であるか、僕は異状な興味をもって西澤に質した。帝大(東京)の学生だという。若くみられるのがいやで同人たちに匿していたが、当時僕もある私大に籍を置いていた。だからたいして齢も違わないわけだが、福田恆存というその学生には並々ならぬ力量を感じ、脅威のようなものを受けた記憶も残っている。

平成十六年一月十六日
神保町で雪だるままつり。
平成十六年一月十六日
「人間を動物の次元に貶めるのは良い」「負けても考えを改めない」「ダブルスタンダードは悪くない」「御都合主義は悪くない」「全ての人間にとってつじつま合わせは別に大事でない」と言ふ人とは附合ひたくない。
自分にとつて都合の惡い事を言つてゐる人間を「どうでもいいつじつまあわせをしている」と極附けて馬鹿にし、自分の誤を隠蔽しようとするのは如何なものかと。
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040114#p2
田中美知太郎氏が「人間を動物の次元に貶めるのは良くない」と書いてゐるのだが。
あとのも、既に文中で證明を書いてゐるのだが。とぼけるのが好きな奴だな。
平成十六年一月十六日
そもそも、高橋氏が最初にたとえば脳に何か埋め込んで云々と書いたのだと云ふ事。ロボトミー云々で俺を非難する前に、自分が言つた事がをかしい事を高橋氏は自覺し反省すべきだ。
と言ふか、俺はわざわざ安樂死と云ふ治療法とは本質的・絶對的に異るものを持出して論じてゐるのだから、治療法としての「良し惡し」を論じるのは全くの見當外れ。
所謂「児童ポルノ法」にしても、人間の感情への對處法にしても、俺が絶對的の見地から相對的な議論を「相對的だ」と評してゐるのだが、高橋氏にはその絶對の見地なるものが全く理解出來ない。それでは駄目なのだが、何が駄目なのか、高橋氏には理解出來ない。
相對的の世界では、高橋氏の正義も俺の正義も、どちらも相對的に「正しい」状態で存在し、結果として兩者の議論は決着がつかない。この事は、今までの儀論を見てきた全ての讀者が理解する事である。そして、決着の著かない議論は不毛な議論である。しかし、その不毛な議論を高橋氏は不毛であると認識出來ない。そればかりか、正義の相對的である事を高橋氏は全く理解してをらず、相手の言つてゐる事をすぐに間違ひと極附け、自分の言つてゐる事を絶對的に正しいかのやうに見せかけたがる。支離滅裂である。そして、支離滅裂であつて何が惡いか、御都合主義の何が惡いか、所詮ウェブの日記で「どうでもいいつじつま合わせ」をしてゐるに過ぎない癖に、と言ふ割に、自分は一生懸命自分の正義を絶對的な正義に見せかけようとしてゐる。
高橋氏の異常な處は、「正義なんてどうでも良い」「正義は本當に正しいのか」と言ひながら、自分の正義に拘る事である。

平成十六年一月十五日
萌える大甲子園
なんかSPA!が偏向報道をしてゐる模樣。
平成十六年一月十五日
iraq-exam
詳細見られないし。ローカルのファイルを參照してゐる。
アンケートは勝手にやれば良いが、何か色々個人情報を集めようとしてゐるのがにんともかんとも。
平成十六年一月十五日
自分の「ウェブ日記」に何だつて「くだらな」等の名前を附けてゐるのでせう云々。
自分の文章を何だつて駄文等と自分で評價して見せるのでせう云々。
自分のハンドルを何だつて屁理屈云々。

平成十六年一月十四日
なるたる オフィシャルホームページ
「骸なる星の珠たる子」略して「なるたる」には負ける。
TBSでもうすぐ始まるから、關東近邊在住の暇な人はどうぞ。第一話は大人しいが、それ以降は結構非道い話なので要注意。
平成十六年一月十四日
もつと端的に言ふと、高橋氏の言ふ俺の青春時代の日本なんて存在しない。
存在すると言ふのなら、具體的にどう云ふ物なのか、説明して下さい。
俺は今、現代を追いかけているのです、と言ふが、高橋氏の追ひかけてゐる現代とは、具體的に以下略。
「時代」と云ふ言葉は便利ですねー。「時代」「時代」と皆が言ふ。それでゐて、「時代」なるものを見た者がゐない。「時代」とは天狗の類か。呵々。
平成十六年一月十四日
変人窟がむすー記念館にリンクを貼つたら、むすー記念館が見られなくなつて非難轟々。
と言ふか、iswebのサーヴァが落ちてゐるやうなのだが、因果關係は不明。
平成十六年一月十四日
ついでに言ふと、なぜかhome.ne.jpも重い。殺す。
平成十六年一月十四日
韓國人の陰謀説。
平成十六年一月十四日
晝。神保町の十字屋で御葬式をやつてゐた。
平成十六年一月十四日
もえたん、三省堂本店でも微妙に平積み。
げらげらでもにやにやでもとにかく笑ひながら讀んでゐる奴は受驗、失敗すると思ふ。原因はもえたん以外。

平成十六年一月十三日
「人間を動物の次元に貶める」方向で頑張ります。
それは良くない事だと言つてゐるのにねえ。
高橋は、自分の負けを認めるのならば、素直に自分の考へを改めたら何うか? 「馬鹿は勝手に勝利宣言してろギコハハハ」みたいな嘲笑的な態度をとつて嫌がらせをするのは止めて。
平成十六年一月十三日
少なくとも、ロボトミーはそれとは違いますよ?
同じ。違いますよ?等と言つたところで同じものは同じなのだから仕方がない。
(補足)ロボトミーの非合理性について。スコップもショベルもあるのになんでわざわざ手で穴をほるの?
意味が全然わからない。スコップで掘らうがショベルで掘らうが手で掘らうが、穴は出來るのだから。酒だらうが麻薬だらうがロボトミーだらうが、高橋氏の言ふ人々から哀しみや怒りを消し去ってしまう事は出來る。
高橋氏は、人々から哀しみや怒りを消し去ってしまうと云ふ目的はどうでも良くて、とにかく脳に何か埋め込みたいだけであると言ひたいのですか??? 高橋氏の言ふ技術とは、脳に何か埋め込む技術の事で、人々から哀しみや怒りを消し去ってしまう技術ではないと???
文化や宗教の発展によって人間性のあり方は変わってきただろうと思うのですが。と高橋氏は言ひました。その変わってきた人間性のあり方とは、腦に埋め込む何かの事ですか。高橋氏にとつて、人間性のあり方哀しみや怒りと無關係のものであると云ふ事ですか。
平成十六年一月十三日
端的に言ひますけれども、人間性のあり方を持出したり非合理性を持出したりしてゐる時點で、高橋氏の主張がダブルスタンダードである事は明かなんですよ。
平成十六年一月十三日
法に関しては別問題なんですよ。
ダブルスタンダードは御都合主義なのですよ。
高橋氏は御都合主義的なのですよ。
どうして御都合主義は良い事だと思ひ込めるんだらうなあ。
平成十六年一月十三日
貴方にとって「つじつま合わせ」や「帳尻合わせ」はあらゆるシーンで有意味なんでしょう?
俺だけでなくて、全ての人間にとつて大事なのであり、高橋氏は人間なのだから、高橋氏にとつても自分の主張の辻褄を合せ、帳尻を合せる事は大事なの。あなた、三段論法つて知つてゐます?
平成十六年一月十三日
素顔のままで
Operaのユーザーモード(テーブル無效状態)で閲覽したところ
テキストブラウザのエミュレートモードの畫像も要りますか?
平成十六年一月十三日
近所のごみすてばから本の束を拾つて來たのだが、中からWindows(For Distribution only with a new PC)のファーストステップガイドが出て來た。當然、Procuct IDもくつ附いてゐる。これは、以前のWindowsのライセンス保有者がライセンスを放棄したものと看做して良いのか。
既にWindowsのライセンスが稼働中のPCの臺數を上囘つてゐるので、要らないと言へば要らないのだけれども。
平成十六年一月十三日
WordやExcelのProduct IDまで裏表紙にメモされてるし。
Windows、Office製品とも、CD-ROMナシ。
平成十六年一月十三日
文字入力環境を、ThinkCentreから無名戦士二號君に移動したのだが、相變らず入力を取りこぼして呉れる。俺の入力速度にキーボードが追從出來なくなつてゐると云ふ事のやうだ。マグネットコーティングが必要。
どうでも良いと言へばどうでも良いのだが、徳川機關長にしてもモスク・ハン博士にしても、自分の扱つてゐるものをちやんと理論的に説明出來ないのは問題でないか。アニメだから良いのか。

平成十六年一月十二日
ガンスリンガーガールを嫌つてゐる人と最終兵器彼女を嫌つてゐる人とはかぶつてゐる説。
ガンスリンガーガール略してガンガル。
平成十六年一月十二日
重大で回避できない副作用を持つ治療法を否定するのに、倫理観なんかいらないでしょう。単なる合理的な判断です。
合理的は良いけれども、どんなしてゐるんですかね。
重大で回避できない副作用について、「良くない」と云ふ價値判斷を下してゐるのだから、高橋氏が倫理観に基いて判斷してゐる事は自明です。
平成十六年一月十二日
架空の技術の話と高橋氏は言つてゐるけれども、架空でなくて現實にさう云ふ技術が存在してゐるんですよ。
平成十六年一月十二日
「保守派」とは変化を否認する人のことではないでしょう。
でも、現に高橋氏は変化を否認してゐるのだから仕方がない。
平成十六年一月十二日
俺は別に今の自民党政権に対しても否定的ではないですが、なんでそんな風に思ったのでしょうか。
高橋氏が大反對してゐる「児童ポルノ法」を作つてゐるのは今の自民党政権ではなかつたのでせうか。
もしかすると、高橋氏は「児童ポルノ法」が成立する事は悪夢だなあと思ふけれども、そうなる可能性は認めるしか無いし、もしそうなったらその現状もまた認めるしかないと思つてゐて、それで今の自民党政権是認すると言ふのでせうか。
平成十六年一月十二日
そもそも俺には「究極の地点までつきつめて考え」る指向がありません。矛盾、論理、一貫性と連呼してますが、論理性の追求なんてのは、ようするにつじつまあわせに過ぎず、ありていにいうとくだらないと思ってるんで、ほどほどに切り上げていいですか?
全ての論理性の追求つじつまあわせに過ぎないし、くだらない、と高橋氏は主張してゐるのですか。
論理的な一貫性を追求するのは、人間ならば當り前の事です。それを下らないと言ふのは、人間を人間として認めない事だと言へます。人間を人間以外の動物から區分かつのは、人間が論理性と一貫性を追求し、動物がそれをしない、と云ふ點です。高橋氏は、人間を動物の次元にまで貶しめたいと言つてゐるのであり、非難に價します。
或は、自分の主張のつじつまあわせもせず、支離滅裂な事を言ひながら、自分への反對意見を「くだらない」と極附け、反對者を見下す態度は、誰がどう見ても立派な態度とは言へない。にもかかはらず、自分の意見を守りたいと言ふのは、蟲が良過ぎる。
平成十六年一月十二日
大體、論理性の追求なんてのは、ようするにつじつまあわせに過ぎず、ありていにいうとくだらないのならば、「児童ポルノ法」關係の事を「法的に辻褄が合はない」とか言つて非難しても、説得力が無いだらう。
高橋氏は、論理なんてものは「どうでも良い」と言ふ。しかし、そんな事を言ふのならば、高橋氏は、意見を述べたり、他人を評價したり、法律に反對したりしない事だ。他人から見られない處で自己の快樂を追求してゐれば良い。自己の意見を他人にアピールしたければ意見に反論不可能な論理的一貫性を持たせなければならない。つつこみどころがありすぎる意見を述べておいて、その「穴」に「つつこみ」を入れる事を嘲笑し、無理にその出たら目な意見を押通さうとするのは、思想の押附けである。
そして、論理性を重視しない限り、自己の意見の論理的誤を反省する、と云ふ事も出來ない。高橋氏のやうに、論理性を無視した、主張の押附け合ひを「議論」と呼ぶのなら、そんな「議論」はする必要がない。
互ひに相手の意見の論理的不備を指摘し、自己の意見の論理的缺陷を補強する事で、意見をより良いものに修正して行く、と云ふのでなければ、議論の存在意義はない。
そして、高橋氏は、さう云ふ議論を端から拒絶してゐる。
平成十六年一月十二日
たとえばその道徳性の無さにである場合、この作品ははっきりと「背徳性」を謳ってあるので、そういうものとして読むべきかと。
「背徳性」を謳ってゐるにもかかはらず、結末で突然倫理観が登場してくるのが納得できない、と云ふ話。
平成十六年一月十二日
そもそも價値觀の話をしてゐる時點で、論理の有效性は既に承認濟と看做される。物事の良し惡しを云々してゐる時點で、論理性の追求なんてのは、ようするにつじつまあわせに過ぎず、ありていにいうとくだらないと思ふ權利はない。
勝利宣言してもらって構わないと高橋氏は言放つが、議論で敗北したら、自己の主張が間違つてゐる事は承認しなければならないのであり、間違つた自己の主張は捨去らねばならない。しかし、高橋氏は、自己の意見を變へる積りが全くない。ならば、勝利とか敗北とかを高橋氏は「是認」してゐない。勝利宣言してもらって構わない、と高橋氏が言ふのは、議論における勝利や敗北は所詮宣言に過ぎない、と言つてゐるのに等しい。詰り、高橋氏は、議論に勝利や敗北はない、と言つてゐる。しかし、それは結局、「議論はナンセンスである」と言つてゐるに等しい。高橋氏は、議論を無意味だと言つてゐる。
私は高橋氏の議論否定論を是認出來ない。
高橋氏は、私に無意味な勝利宣言を出させる事で、自分の間違つた意見を守らうとし、保身を圖らうとしてゐる。さう云ふ狡い態度は、是認する訣にはいかない。
平成十六年一月十二日
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平成十六年一月十一日
俺の出した例を指してロボトミー是認論だと野嵜さんは言いましたが、と高橋氏は言つてゐるが、俺は「高橋氏がロボトミーを是認しない」事を「をかしい」と言つてゐる。そして、その理由が高潔な倫理観の問題でなく、單に論理上の問題である事を、高橋氏は理解出來ない。高橋氏は、論理的に矛盾があるか何うかの問題を議論出來ない。高橋氏は、互ひに矛盾する二つの發言を、それぞれに高潔な倫理観に基く理由を附けて正當化し、矛盾してゐる事自體に何ら違和感を覺えない。
と言ふか、修復可能か不可能か、とかいつた理由に基いて良し惡しを判定する事を、高橋氏は絶對的な高潔な倫理観だと思つてゐる。しかし、人間の經驗は全て取返しのつかないものだから、取返しがつくかつかないかは大して意味のある問題ではないと俺は思つてゐる。と言ふか、酒にしろ煙草にしろ麻薬にしろ、取返しはつかないものだ。それに、俺は取返しのつけられる訣もない「安樂死」の問題にも言及してゐる。
實は、高橋氏は、矛盾のみならず、物事を究極の地點までつきつめて考へる事もまた苦手である。
平成十六年一月十一日
俺の青春時代の日本を肯定するということと、それが変わりうるし既に変わってしまっているということを認めることとは、矛盾しないのです。
しかし、現に高橋氏は、それが現在失われつつあることを、もちろんどうにかできるもんならしたいしそのためにやれることがあるならやりたいですが、と書き、のみならず、「當時一般的だつた價値觀」に反する主義主張を否定してゐるのだから、高橋氏の認めると云ふ宣言とは裏腹に、實際に高橋氏は變る事を否認してゐるのです。そもそも高橋氏は以前、自分は保守派だと述べました。
高橋氏の「宣言」の文章は矛盾しないにしても、高橋氏の實際の言動は明かに矛盾してゐるのです。
文藝批評では、作者の宣言よりも、作者が作品で書いてゐる具體的な事柄を基に、作品の善し惡しなり、作者の論理なりを判斷します。作者がどれ程自分に都合良く、自分の作品を解釋し、説明してゐても、その解釋や説明と、實際の作品とが乖離してゐる場合、作者の解釋・説明はその作品の妥當な解釋・説明ではないと判斷されます。作品に書かれてゐる内容をありのままに見て良し惡しの判定を下すのが、正しい文藝批評の立場です。
たしかに、世間には、作者の説明の辻褄が合つてゐるのを無視して、自分解釋で作者に都合の惡い理由をでつち上げる似而非批評家もゐます。しかし、その種の似而非批評家は、言つてゐる事がをかしいので、冷静かつ客觀的に文章を讀めば、矛盾を指摘出來ますし、そもそも自分の矛盾を隠蔽する爲に他人を惡人にでつち上げてゐる場合も少くありません。自分が自作自演で他人を罵つてゐるのに、それを皮肉られると皮肉つた人間を「掲示板荒し」と中傷し、宣傳し捲る自稱批評家のサイト管理者もゐたりします。閑話休題。
平成十六年一月十一日
ちなみに、俺はあの頃の自民党政権に対して特に否定的ではないのですが、どうして俺が肯定しないと思ったんですか?
良く考へれば「の自民党政權」に對して否定的であるのみである筈なので、その邊の記述は無視して下さい。
平成十六年一月十一日
あえて「立看板みたい」に書いてこそのリアル、というのがあるんですよ。
元々一面的な「立て看板」みたいな奴もいて、そいつは立て看板として書くことこそがリアルなのだと。
「あり得るリアル」に文句は言はない、と俺は何度も言つてゐるのだけれども。「リアルでない薄つぺらなキャラクターはリアルでない」から駄目だと言つてゐるだけで。誤解だとは分かりましたが、一応書きます。と言つてゐるから、解つてゐるのかなー。高橋氏には前に嘘を吐かれたから。彼の「了解しました」「分かりました」は、今一つ信用出來ない。

平成十六年一月十日
application/xhtml+xml @ [Weblog(2004/01) - Web Studio]
はてなアンテナの中にもUser Agentはゐましたねー。どうもです。
平成十六年一月十日
文章の読み方の講義をしていただけるのはありがたいのですが、それで、野嵜氏の思考のどの部分が西洋近代を超えうると主張なさっているのですか?
西洋近代を超えうると、誰が主張してゐるんですか。
キリスト教は2千年と少し前には存在しませんでしたよ?云々。
だーかーらー。人間を取卷く環境が變つただけだ、と書いたでせうが。
野嵜さんは、人間描写についてのみリアリズムを求めてそれを「人間らしさ」と呼び習わしているのか、それとも文学全般にリアリズムを求めているから人間描写についてもそうであるべきだと言っているのか、どちらですか?
リアリズムと云ふ意味を、恐らく高橋氏は物凄く限定的に捉へてゐるのだと思ふが。變な誤解をして呉れないのなら書くけれども、高橋氏は誤解してゐるのだから、何を説明してもさらに非道い誤解をするだけだらう。
SFにだつてリアリズムはありますよ。それを高橋氏はわかつてゐますか? わかつてゐるならば、非道い誤解はしないでせうから説明しますが。
人物の描寫だけリアリスティックで、小道具なり舞臺の設定なりはリアリスティックでない、と云ふ文藝作品はあり得ません。SFでもファンタジイでも、舞臺となる世界はきちんと設定され、「あり得る」と云ふ感じを讀者に與へるものです。また、さう云ふ世界では、その世界の特異性に基いた思想なり宗教なりが設定され得る。それらを登場人物が信じてゐる事も描き得る。その上で、その世界觀の中で違和感のないやうに登場人物が思考し、行動する事を描くのは可能です。その行動なり思考なりは、我々のものと異つてゐたとしても、作品の世界の中でリアルであるならばリアリズムです。そして、その種のSFやファンタジイは、作品の中でシステムとして全體が有機的に結合し、自然であるにもかかはらず、我々の世界とは何處かが異るから「面白い」、と云ふ事になる。それでも、その世界の中の人間が、我々の人間と根本的に異る思考をしてゐるのなら、我々は彼等を同じ人間として理解する事は不可能で、當然、「感情移入」なるものも出來ないが、さう云ふ小説が商業的に成功するか何うかは不明。もちろん、SFの歴史上、その種のとてつもなく異樣な世界は描かれた事はある。
ではその逆。野嵜さんにとって、作家の評価は則作品の評価ですか?
作品の評價は個別に可能。複數の作品があれば、それぞれ評價する事は可能。その個別の評價の集積から、作家の全體としての評價をする事も可能。結果として大江は駄目と言つてゐる。
ウェブの「日記」のスペースで大江の全ての作品について一々檢討する事は不可能だから、してゐないだけだ。詳しくは『文學と政治主義』に當られたい。と言ふか、すぐ高橋氏は大江健三郎の話で言わんとしてる事はそういうことでしょう。等と言ふ。どうしてそういうことだと高橋氏は「わかつた」のだらう。
大江健三郎が道義にもとる酷い奴だ(ととりあえず仮定して)ということと、その大江健三郎の作品の評価と、何か関係があるのか、ということです。
關係があるに決つてゐるだらうと。どうして關係がないのだらう。人間として書いてはいけない事を書いたらいけないに決つてゐる。
大江健三郎以外の、たとえば子供のいない人がまったく同じ作品を書いたらどうなりますか。同じ作品なのに評価が上がるのですか。云々は、ナンセンス。どつちみち、全ての人間に子供が出來る可能性はあるのだし、片端の子供が出來る可能性はあるのだから、全ての人間に大江のやうな小説を書く事は許されないと言ふ事が出來る。
最も基本的な感情である喜怒哀楽でさえ作り変えることは可能だといっているだけです。
高橋氏は、文化や宗教の発展によって人間性のあり方は変わってきただろうと思うのですが。未来の話をするならば、たとえば脳に何か埋め込んで人々から哀しみや怒りを消し去ってしまう時代もくるかもしれません。と書いた。高橋氏は、人間性のあり方が過去に変わってきた事を高橋氏は是認してゐる。そして、過去に是認された事ならば未來にも是認される、と云ふのが高橋氏の主張でなければ茲はをかしい。そして、哀しみや怒りを消し去ってしまう方法として、ロボトミーが既に存在する。ならば、高橋氏は、論理の流れから言つて、その種の技術をも是認せざるを得ない。もちろん、是認なんかしてない宣言する事は自由だが、それでは高橋氏の主張の中で「ロボトミー否認」と云ふ主張が浮上がつてしまふ。高橋氏の全體的な主張と、「ロボトミー否認」と云ふ主張とは、整合しない。
「ロボトミー否認」と云ふ主張が高橋氏の主張の本質だと言ふのなら、人間性のあり方は変わってきただろうと云ふ事を「是認」する高橋氏の態度は何なのだ、と云ふ話だ。高潔な倫理観の表れ云々の問題ではなく――もつとも、高橋氏がロボトミーを「否認」する理由は高潔な倫理観に基いてゐるやうだが――高橋氏の主義主張が一貫してゐない、と云ふ點で俺は高橋氏の主張に疑問を抱いてゐる、と云ふ事だ。
平成十六年一月十日
高橋氏は、總論として「人間性のあり方は変って良い」と言ひつゝ、具體的・個別的な事例について「人間性にもとるから許せない」と極附ける。
端的に言へば、高橋氏はダブルスタンダードである。
平成十六年一月十日
だから、近代的自我が嘘臭くないのと同程度には嘘臭くないと言っているのですが。<一面的人物描写
全ての一面的人物描写嘘臭くないと高橋氏は主張してゐる。しかし、或種の一面的人物描写は嘘臭い。その種の嘘臭さは指彈して良いだらう。どうしてその種の明かに嘘臭い一面的人物描写をも、高橋氏は擁護しなければならないのだらう。
つーか、まず根本的におかしいのが、文学が「現代の風俗を無批判に肯定し」てはいけないという思い込みです。全ての文学は現代風俗に対して批判的であるべきなんですか? いや、そういう文学があっていいとは思うけど。
高橋氏は、「或種の文学は現代の風俗を無批判に肯定して良い」と主張してゐる。しかし、ならば「或種の文学は現代風俗に対して批判的であつて良い」に決つてゐる。
もつとも、高橋氏の主張には無理がある。作家が、「現代の風俗を無批判に肯定」するのならば、その「現代の風俗」に批判的な事を排除しようとするのは當り前だ。しかし、その結果として、「現代の風俗」が「過去の風俗」となる事をその作家が望まない事になる。それ自體はもちろん思想の自由に屬するのだらうから文句は言はない。しかし、その作家が「人間性のあり方は変って良い」と言つたとする。その瞬間、その作家はダブルスタンダードの主張をしてゐるとして批判される理由が生ずる。「人間性のあり方は変化する」のならば、風俗も當然變化する。「人間性のあり方は変って良い」のならば、風俗も變化して良い。にもかかはらず、その作家は「現代の風俗」以外の風俗を否定してしまつてゐる。
主張の論理的不整合は、本人の保身の爲と云ふ以外の理由を持たない場合、非難の對象となつて良い。
平成十六年一月十日
めも。
Index of HTML 4.0 Character Entity References
平成十六年一月十日
田中美知太郎『哲學的人生論』の最初の章は「人間的なもの」についての解説で、一聯の議論に關係して參考になるものだが、高橋氏は先づ讀まうとしないだらう。
人間性は、低きに求める事も、高きに求める事も可能であり、兩方とも必要だと田中氏は述べる。しかし、低い方向の人間性を追求すれば、窮極的には人間性の否定に繋がる。他人の過失を許し、愛すると云ふ低い方向の人間性の發露も、それが單なる共犯者意識に基くものならば、寧ろ人間性と言ふよりも惡魔性の發露と言ふべきであらう。一方、高い方向の人間性を追求するのは、大衆から遊離した貴族的趣味になり兼ねないと批判する事も可能である。これについては、大衆への教育や啓蒙の不備をこそ批判すべきであり、ヒューマニズムを批判するのは筋違ひであらう。人間性を信ずるとは、人間が人間である事を信ずる事であり、愛する事である。だから低い方向への人間性に拘泥して人間性否定に向ふのは間違つてをり、寧ろ高い方向への人間性を認め、信ずる事こそ、人間性を信ずる事の本質であり、人間を信ずると言ふ事になる。
また、ヴァレリイらが言ふ西歐のヒューマニズム(高橋氏の想定するヒューマニズムとは異るもの。田中氏はヒューマニズムの語義がいろいろある事についても檢討を加へてゐる)は、教養――生き方としてのヒューマニズムであり、當然、傳統を背景としたヒューマニズムである。日本には、ヒューマニズム的な傳統は存在しない。だから日本でのヒューマニズムは空しいものとならざるを得ない。しかし、ヒューマニズム的な西歐の價値觀が世界を蓋ひつゝある現状、ヒューマニズムの傳統が無いと言つても、知識として日本人はヒューマニズムの事を知つておかなければならない。
さう田中氏は述べてゐる。
『哲學的人生論』は、昔の河出文庫に收録されてゐる。現在、どの版元から出てゐるかは知らない。全集には多分、入つてゐる。
平成十六年一月十日
何かがありうるという想定/あるという認識と、肯定することとは別です。
ロボトミーがダメだという理由も、もしかしたら僕と貴方で少し違いがあるかもしれない。
念を押しておきますが、僕はそれをいいとも悪いとも言ってません。あり得ると言っているだけです。
ダメなんだかいいとも悪いとも言ってないんだか、はつきりして下さい。
と言ふか、さう云ふ高橋氏の立場からは、「變化は良い」「變化は惡い」のどちらの主張も出て來てはならない、と云ふ事、わかりますか?
平成十六年一月十日
と言ふか、貴方は俺をロボトミー是認論者だ、と批判した。と云ふ反論がをかしい。俺は、高橋氏が必然的にロボトミーを肯定せざるを得ないのに、肯定しないから、論理的に一貫してゐないとして批判してゐるに過ぎない。
ちなみに俺は、酒や麻薬を持出してロボトミーと平行して論じてゐるのだから、ロボトミー全否定論者ではない。そして、ロボトミーを是認しないと言ふ高橋氏が酒や麻薬を否定しない事は自明で、高橋氏の論理に一貫性が無い事はここでさらに明かになる。
ロボトミーではないが、哀しみから狂気へと逃込む事について、既に過去の作家は何度も採上げてゐる事實は指摘しておいて良いだらう。例へばモーパッサンが「狂女」と云ふちと陰慘なはなしを書いてゐる。さらに言ふならば、病氣の苦しみから逃れる爲の安樂死の問題も絡んで來よう。安樂死については森鴎外の「高瀬舟」と云ふ短篇小説が非常に有名。高橋氏は森鴎外と言ふと保守反動の軍國主義者と思つてゐるかも知れないが、その鴎外は安樂死を全面的に否定などしてゐないのである。「高瀬舟」では、どちらかと言ふと、安樂死に肯定的である。
平成十六年一月十日
だから、近代的自我が嘘臭くないのと同程度には嘘臭くないと言っているのですが。<一面的人物描写と云ふ文章を引いて、俺は全ての一面的人物描写嘘臭くないと高橋氏は主張してゐる。と書いたのだが、それに對して高橋氏がなんか変だな、どこからそんな認識になったのだろう、と思って読み直してみたのですが、と言つて、俺の文章を讀み直してゐる。何なのだらう。高橋氏は高橋氏自身の文章を讀み直さなければならない筈だが。
今、引用した文章で、高橋氏は、「一面的人物描写は近代的自我が嘘臭くないのと同程度には嘘臭くない」と主張してゐる。ここで高橋氏は、一切の條件を設けず、「一面的人物描写は」と言つてゐるのだから、「一面的人物描写」は「全ての一面的人物描写」と云ふ事になる。それだけの話だ。
平成十六年一月十日
もしかして、この「人間らしからざる」は、「善意の塊や正義の塊や特定の政治的イデオロギーの塊や惡意の塊や美の塊」が「人間らしからざる」ものだ、という意味ではなく、「善意の塊や正義の塊や特定の政治的イデオロギーの塊や惡意の塊や美の塊」の中に、人間らしいものと人間らしくないものがあって、そのうちの人間らしくないもののほうはダメだ、という意味なのですか?
さうです。
と言ふか、何度も言つてゐる積りですが?
しかし、人間らしいそういう描写と人間らしくないそういう描写は果たして客観的に判別できるものなのだろうか、という問題は残ります。多分、人によって感じ方は違います。
人によつて感じ方が異り得る部分は異つて良い筈で、異つてゐてはならない部分で「異つてゐるだけだ」と作家が主張してゐたら、それは單なる保身の爲の言ひ譯で、批判されて良い事だ。
平成十六年一月十日
現在の風俗を肯定することと、それが変わりうる/変わることを認めないということとは違う。ともかく、変わっちまうもんはしょうがない。俺は俺の生きた青春時代の日本を肯定します。それが現在失われつつあることを、もちろんどうにかできるもんならしたいしそのためにやれることがあるならやりたいですが、「人間性のあり方は変わる」。だから、風俗も変わる。これは仕方が無い。
そして高橋氏は、やっぱり「否認」の話になってますねえ。と述べる。これは、現在の風俗を肯定することと、それが変わりうる/変わることを認めないということとは違う、と云ふ自分の主張が間違つてゐる事を、高橋氏が認めた、と云ふ事なのだらうか。
と言ふか、俺の生きた青春時代の日本を肯定し、變化を否認する高橋氏が、現実を認めることとそれを肯定することは違う、と云ふ見出しを附けるのは如何なものか。高橋氏の「肯定・否定」と「是認・否認」とは、一致し、兩者が違うと云ふ主張を高橋氏は自分で裏切つてゐる。この邊の支離滅裂である事を高橋氏が支離滅裂と自覺してゐない事が、彼我の「すれ違い」の根本的の原因。
高橋氏は「A」と「非A」と云ふ矛盾する主張を同時にしてゐる。そして、「非A」と高橋氏が主張してゐる事を俺が指摘すると、高橋氏は、「いや、俺はAと主張してゐる」と言返す。だから話がすれ違ふのである。そして、高橋氏は「A」と「非A」の關係が矛盾の關係にある事を全く理解してゐない。その上、自分は「A」だけを信じてをり、「非A」は信じてゐないと思ひ込み、相手が「非A」の主張をすると猛然と非難するのである。
ちなみに、俺はこの邊の議論で、主語を「高橋氏」と書かず、「作家」と書いてゐる。
平成十六年一月十日
そもそも、高橋氏の肯定したい俺の生きた青春時代の日本とは、一體全體どのやうなものなのか。「55年體制」崩潰以前の自民党政權を肯定したいと、高橋氏は言はない筈。
結局のところ、高橋氏の肯定したいものは、當時の日本全體ではなく、當時の日本の中でも高橋氏が肯定出來る一部分に過ぎない。ならば、俺は俺の生きた青春時代の日本を肯定します。等とは言へない筈だが、高橋氏は「言へる」と思つてゐる。それが高橋氏の主張が支離滅裂である原因。

平成十六年一月九日
「マルクスは何を意図したか」よりも「マルクスがどう読まれ後の歴史にどう影響したか」や「今マルクスをこう読むことが後にどう影響を与えるか」のほうがよほど重要だ。
その影響なるものを理解するのは、高橋氏にとつて、どのやうな方法によつて可能なのだらうか。
その影響なるものは、やはり文献なり資料なりに依つて知る必要がある筈だが、その資料はどのやうに讀まれるべきなのだらうか。
平成十六年一月九日
「イメージやニュアンス」とか言い出すのは半分ハズレです。私はわざわざ「意味」では無くて「機能」と書きました。
違和感機能なのだらうか。
「感じ」なのだから、イメージやニュアンスの類に決つてゐる。
主要な文意は維持したまま副次的な情報を加えるだけですから「頼つた表現」ではありません。カタカナ表現の意味が伝わらなくてもなお、言葉の意味という本体は残るのです。
伝わらなくても良いのならば、副次的な情報の爲にわざわざ普通でない表現を用ゐる必要はないのではないか。
カタカナ表現のプリミティブな意味は、強調ないし異化作用というシンプルなものです。しかも副次的なものですから深く考えたりもしません。言葉の意味という重要な手がかりもあります。その結果、連想ゲームの範囲は比較的狭いと思われます。
シンプルとTskk氏は主張するが、強調ないし異化作用であるにしても、どのやうな理由で強調するのか、どのやうに異化するのかがわからないのでは、讀者は多樣な意圖を推測可能であるから、シンプルとは言ひ難い。「機能としてシンプル」とTskk氏は主張するが、具體的な意圖は複雜である。
平成十六年一月九日
論理的必然という点ではSGMLでも構わないかも知れませんが、実用性という点ではXMLの方が優れているでしょう。
実用性の話はしてゐない。
ですから、「たまたま〜に過ぎない」と言うのはある意味で正しいのですが、それで済ませてしまえるほど軽くもないと思います。
重いとか輕いとか云ふ話はしてゐない。正しいなら正しいと云ふだけの話だ。
なほ、XMLパーサは多數存在するが、RSSがそれらの複數のパーサによつて利用されてゐる實態があるとは、寡聞にして知らない。RSSのテキストが、RSSリーダによつてパースされる事はあつても、それ以外のXMLツールで何らかの處理をされ、スタイルシート等を利用したデータの變形によつて別のアプリケーションで利用される、等と言つた實態がある、とは聞かない。
XHTMLの文書も、ウェブブラウザ以外のXMLパーサによつて盛んに利用されてゐるとは言へない。また、ウェブブラウザにも、XHTMLによつてマーク附けされた文書は、SGML的、或は單なるレイアウト指示言語的(?)にしか解釋されてゐない事は、事實だと思はれる。Internet ExplorerがXHTMLの文書をXMLとして解釋してゐるとは思はれない。エラーのあるXHTMLの文書も平氣でレンダリングするのを見れば、Internet ExplorerがXHTML文書を嚴密にXML文書として扱つてゐる訣でない事は明か。檢索エンジンのクローラ・ロボットの類についても、XHTMLの文書をXMLとしてパースし、他のHTMLや謎の文書とは異る處理をしてゐる、とは聞かない。GoogleのロボットがHTML文書の構造を參考にして文書を解釋する事はSEOの世界で常識だが、GoogleのプログラムがXHTML文書に出會つた時、XMLパーサに頭を切替へてゐるか何うかは不明。どなたか詳細を希望。
平成十六年一月九日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040109#p1
俺は、芸術的価値判断とは無関係であるという原則を押さえた上でなら、「政治的正しさ」に基づく批判には社会との軋轢を減らすために意味があると思うし、時に賛同も出来る。
理窟には贊同出來る。
ただ、その種の政治的な批判は長持ちしない。
昭和の始めの頃、プロレタリアの作家が政治的な批判を隨分やつたもので、それは當時、それなりに政治的な意味はあつただらうが、現在ではナンセンスである。
現代において、現代的なイデオロギーに基いて、藝術作品の政治性を云々するのは、現代の人間に對しては何らかの壓力になるかも知れないが、未來永劫、意義を持つものである訣ではない。ならば無意味である。
平成十六年一月九日
人間は、科學とか技術とかはこの數千年の間に相當進歩させたけれども、メンタリティの面では全く進歩してゐない。進歩しないからである。だから、新しい人間性等と云ふものは存在しない。人間性は時代によつて變らない。
喜怒哀樂は、數千年前にあつたし、紀元前後にもあつたし、百年前にもあつたし、今もあるし、恐らく未來にもあるだらう。
平成十六年一月九日
作者が共産主義者で、登場人物に共産主義者を登場させる事は許される。その共産主義者が教條主義的なマルクス主義を説く事も許される。そのマルキストの登場人物が模範的なマルクス主義者として振舞ふ事も許される。周圍の非マルキストがその人物に感化されて、立派なマルキストとなる事も許される。その人物に反對する、繪に描いたやうな惡いブルジョアを登場させる事も許される。そのブルジョアが、正しいマルキストの登場人物に打倒されるのを描く事も許される。マルキストの登場人物の繪に描いたやうなマルキストとしての行動によつて、世の中が繪に描いたやうな封建社會から繪に描いたやうな地上の樂園に變る事を描くのも許される。
ただ、民主主義の世の中では、「御都合主義」と批判されるだけの話だ。
平成十六年一月九日
平和主義者の作家が、平和主義者の登場人物を登場させる事も許される。その人物が、地球の裏側で戰爭が起き、人が死んでゐるからと言つて、心から悲しんで涙を流す樣子を描く事も許される。デモ行進をする樣子を描くのも許される。戰爭をやつてゐる國の指導者が、平和主義者らの行動に心を動かされ、戰爭をやめるのを描いたつて結構だ。物語の末尾で、地球から全ての兵器が無くなりました、めでたしめでたし、とやつたつて、言論の自由があるからには「不許可」等と言はれる筋合ひではない。
ただ、「嘘臭い」と批判されるだけの話だ。
平成十六年一月九日
登場人物に子供が生れた。子供は片端だつた。登場人物は、こんな子供は殺してしまひたい、と思ふ。だが、話の御終ひで、唐突に、いや、やつぱり育てて行かなければならない、と囘心する。
言論の自由が保證された此日本國で、このやうな小説を出版する事は、法的には合法である。政治的にも何う斯う言へたものではない。
ただ、作家が實際に、片端の子供を持つてゐたとしたら何うだらう。片端の子供を殺してやりたいと、心の中で思ふ事が、子育てで辛い事があれば思ふ事もあるだらうし、仕方がない。しかし、小説にして出版するのは何うだらう。
子供がその小説を讀んだら、何う思ひますか。親が自分を殺さうと思つてゐた、と云ふ事を、知りたがる子供がゐますか。「片端である」事がその理由だと言はれた子供には、立場がありますか。作家には、道義的に書いてはならない事がある。
そして、その書いてはならない事を書きながら(「個人的な体験」)、善人面をして、ノーベル賞を貰つたのが大江健三郎である
詳細は松原正著『文學と政治主義』を參照の事。同書第一章は、かつてSF界で絶讃された『治療塔惑星』の非道さを徹底的に批判したものだから、SFファンは讀むと良い。
なほ、大江がSFの事を何にも解つてゐない事は、『治療塔惑星』と『幼年期の終わり』とを讀み比べると分る。大江の小説の人間は、人間以上に「進化」した「新人類」を「理解」出來てしまつてゐる。A.C.クラークは、「新人類」を現在の人類は理解出來ないと書いてゐる。そして、SFは、その「理解出來ない」事を書くからSFになるのであつて、「理解出來てしまつた對象」を書いてもSFではない。もつとも、この邊のSF的な發想は、日本人には訣がわからないものであるらしく、「戦国魔神ゴーショーグン」の結末も餘り感心出來たものではない。ビムラーは、訣がわからないものだつたからSF的だつたが、その「效能」は日本人ならばとても良く解るものだつた。そして、首藤氏はゴーショーグンの「過ち」を超くせでも繰返したのであつて、あれも感心出來た作品ではない。俺は超くせを優れた作品として認めてゐない。斷じて認めてゐない。
平成十六年一月九日
神保町の古書會館で古書展。
室生犀星『作家の手記』(養徳叢書)が二册出てゐた。安くて状態の良い方を確保。別に讀みたくもないのだけれども、養徳叢書搜索隊の一員として。
平成十六年一月九日
議論においたって、相手にすべきは相手のテクストに書かれていることであり、相手の意図ではないでしょう。だいたい他人の心なんかわかりませんよ。テレパシストじゃないんだから。
相手のテクストに書かれていることを的確に讀取れと云ふだけの話だが。さうすれば、相手の意圖も、相手の心も、或程度までは、分る時は分る。テレパシーを受信して理解しろなんて誰も言つてゐない。文章を讀んで理解しろと言つてゐるだけだ。
ひよつとして、高橋氏は「他人の文章は絶對に理解出來ない」と主張してゐるのか??? その割に相手にすべきは相手のテクストに書かれていることでありと書いてゐるのは解せない。相手のテクストに書かれていること相手にすべきなのだらう。高橋氏は、書かれていることだよ書かれていること、と言張るかも知れないが、それでは何もわからない。
平成十六年一月九日
彼が強調する価値観は、キリスト教、個人主義、道徳と、これはもう綺麗に西洋近代思想に収まってるように思うのですが。彼のそういう思想から来る「人間らしさ」が近代ヒューマニズムを越える何かであるとはどうも思えないのですがね。
一往言つておくと、高橋氏は根本的に文章の讀み方が解つてゐない。用語の意味を推測する方法が、根本的に間違つてゐる。
小學校や中學校の國語の授業でやらなかつたのだらうか、文章のここの言葉はどの語句の言換へか、といつた問題を。
大學入試でも「文章のこの語句の意味は何か」と云ふ質問が出題されるが、高橋氏はその解き方を教はつた事がないのだらうか。
國語のみならず、英語でも同じやうな問題が屡々出題される。良くあるのが、itやthat等の代名詞の指示する語を指摘する問題だ。英文の場合、直前の代名詞を追ひかけて行けば、元の語句に辿り着く。
この種の問題がなぜ出題されるかと言へば、文章の論旨を把握する能力、文章の論理がどのやうに展開されてゐるかを理解する能力を見る爲に、だ。そして、この種の文章讀解は、技術的な訓練によつて誰でも完全に行へるものである。だからかう云ふ問題は大學の入試に使はれるのである。
英文と同樣、國語の讀解の問題も、語句の言換へを順に辿つて行けば、文章の論理の展開は掴める。大學入試の場合、論理に變な飛躍があつたり、途中で精神分裂症的に話が飛んだりする文章は、出題に使はれないから、受驗生は安心して良い。
受驗生でない人も、文章を讀む際には、この基本的な文章讀解の方法を用ゐる事が出來る。そして、正しいやり方で讀解を試みるならば、正しく書かれた文章は常に正しく理解出來る。逆に、正しい讀解の方法を試みても、論理的に話が繋がつてをらず、まともな讀解が不可能な文章は、そもそも文章がをかしいのである。
實際のところ、文章を讀める人は、その邊の技術は基本的に持つてゐるものであつて、それゆゑ「トンデモ本」の文章は「トンデモ」であるとわかるのである。もちろん、「トンデモ本」の内容を「トンデモ」とわからない人も世の中には少からずゐて、それで「トンデモ本」の出版社は商賣出來るのだが、さう云ふ人でないにもかかはらず、「筆者の意圖は讀者には理解出來ないものだ」と眞顏で主張する人が存在する、と云ふのは、どうも解せない。ではあんたは何を理解してゐるのかねと尋ねたい。
平成十六年一月九日
マルクスはもう死んでます。知りえない「筆者の意図」というものを相手にするよりは、テクストがかつて意味したこと/これから意味するだろうことを相手にするほうが本道じゃないかな。
はぁ? マルクスが生きてゐたら、マルクスの意圖は知り得るが、マルクスが死んでゐたら最うその意圖は絶對に知り得ない、と云ふのですか? 面白い事を言ふ人ですね。マルクスは、澤山著作を殘してゐるのですよ。その著作をきちんと讀めば、マルクスの意圖は、解るに決つてゐるぢやないですか。
文化や宗教の発展によって人間性のあり方は変わってきただろうと思うのですが。
文化も宗教も、進化してゐません。何が進化したと言ふのですか。
つまり、リアリズムに基づく「御都合主義」「嘘臭さ」批判なのですか?
だから、「人間らしい」と何度も言つたでせう。リアリズムですよ。現實を現實のまま、認識し、表現しろと、それだけの事を言つてゐるんですよ。
作家の評価と作品の評価は区別すべきでは?
作品の評價は即、作家の評價ですよ。當り前の話ぢやないですか。作品の評價を通してでなくて、作家をどうやつて評價するんですか。
平成十六年一月九日
テクストに書かれていること以外の「意図」を読み取れるほどには俺は彼を知らないし。
相手の人格なり普段の行動パターンなり趣味なり(以下略)を知らなければ文章を理解する事は出來ない、と云ふのはをかしい。文章は文章自體を根據に理解するのが當然だ。文章の「意圖」を深讀みするのに、筆者の人格なり何なりを利用するのは、「逆照射」であると松原氏は『文學と政治主義』で述べてゐる。
と言ふか、高橋氏ははつきり書いてゐる。テクストに書かれていること以外の「意図」と。そんな物は讀取らなくて良い。餘りにも當り前の事だ。讀者は基本的に、文章に書かれてゐる意圖をまづ的確に讀取る必要がある。もしテクストに書かれていること以外の「意図」を讀取りたいのならば、その前に「テクストにかかれてゐる意圖」を正確に讀取つて置く事だ。その後でテクストに書かれていること以外の「意図」とそれとを比較するのは、自由にすれば良いし、そこで初めて的確な批判が出來ると言ふものだ。「文章に書かれてゐる事とは關係のないものを持出して相手を責める」のが「正しい批判のあり方である」と言ふのならば、「文章なんてものはそもそも要らない」と云ふ事になる。そして、批判は顏見知り同士でしか出來ない事になる。
そんな馬鹿な話があるか。
平成十六年一月九日
一往書いておくと、小林秀雄も、突詰めて考へてみれば、文章の眞意は相手を個人的に知つてゐなければ判らない事がある、と晩年、述べてゐる。
しかし小林は、さう云ふ方面からの理解に頼つてゐない。
平成十六年一月九日
と言ふか。
未来の話をするならば、たとえば脳に何か埋め込んで人々から哀しみや怒りを消し去ってしまう時代もくるかもしれません。
こんな事を書くやうでは高橋氏は駄目だなと思つた。
高橋氏のは「ロボトミー是認」論ですよ。
高橋氏の言ふやうな、哀しみや怒りを消し去ってしまうロボトミーの技術は、既に存在する。
平成十六年一月九日
哀しみとか憂さとかを忘れる方法としては、酒とか麻薬とか云つた方法も昔から知られてゐる。
そもそも、哀しみとか怒りとか云つた感情が存在する、と云ふ事は、過去も現在も全く變らない。その感情なるものをどうにか制御したいものである、とは、昔も今も、人間が考へる事である。人間のありやうは、昔も今も變らない。單に、人間を取卷く環境が變つただけだ。
平成十六年一月九日
 「セマンティックWeb」などという寝言を大真面目に切り出された時点でギャグだと気づいて。
ギャグであるならば、寝言でもなければ大真面目に切り出したものでもないに決つてゐるが、馬鹿は平氣で矛盾した事を言ふのである。
平成十六年一月九日
自ら「引きこもり宣言」をした上で、それを実践により示している野嵜氏に関しては
だぁーかぁーらぁー、氏の二日の記述は、単なる生活描写か読者に与えたヒントであって、それが「引きこもり宣言」ではない。
?(微笑)
平成十六年一月九日
あと、ウィトゲンシュタインを引用するのは勝手だけれども、引用ならばtableではなくてblockquoteにした方が「正しい」のではないかなーと。
平成十六年一月九日
養徳叢書不完全リストを微妙に修正。
平成十六年一月九日
昨日の古書展では他に、クリストファ・ドーソン『政治の彼方に』とか渡辺公平『信濃の旅』とか。どちらも教養文庫。
『信濃の旅』の惹句によると、信濃路は東日本のオアシスなのだとか。この本は、別に信州が何うの斯うのと云ふ例の件とは關係ナシに買つた。

平成十六年一月八日
例へば、レイプは犯罪です! ストーカーは愛です! と主張する登場人物を描く事は可能であり、夫れ自體は許される。しかし、日本國ではストーカーもまた犯罪である、と云ふ事を、作者はきちんと意識して、登場人物の言動を見てゐなければならない。何を書いても良いけれども、書き方によつては批判を受けるのも當然だ、とは、かう云ふ事。
よみ孃をストーカーする天津飯氏の發言を、としあきは本氣で信じてしまつてゐてはいけないのである。信じてしまつてはネタにならないし、他のとしあきからつつこまれまくる。何の話だ。
平成十六年一月八日
キャプテンハーロックをアルカディア號元乘組員が信頼してゐるのは結構だが、三十秒間騷ぎを起せばキャプテンなら何とかして呉れるだらうとヤッタランが考へるのは、何う考へても異常。外の状況が全然わからないのに、キャプテンが來てゐると分るのは變だし、キャプテンが來るのは巨大な敵が現はれたからに相違ないと考へるのは電波を受信してゐるとしか思はれない。
そもそも、監獄惑星でプラモデルを作らせて貰へる事自體、變だ。そのプラモデルに仕掛けを組込むのなんてのも、「監視下で出來る譯がない」と考へるのが常識的な判斷だらう。
ヤッタランの「賭け」は、ハーロックがやつてきて「大當り」となつて、それでめでたしめでたしとなるのだけれども、もう御都合主義的としか言ひやうがありません。
ヤッタラン副長にしてもキャプテンハーロックにしても、色々弱點は設定されてゐるが、本質的な處で人間のレヴェルを超えてゐる。さう云ふ處は「をかしい」と言つて良いと思ふ。
平成十六年一月八日
現状にはその現状が成立した歴史的必然性があるわけですが、それを「間違つてゐる」「をかしい」と考える、あるいは言うのはなぜでしょうか?
現状が成立したのが「歴史的必然」によつてゐるからです。「論理的必然」によつてゐないからです。
平成十六年一月八日
RSSは――と言ふより、サイトの要約を記述するデータを記述する爲の言語は――、別にXMLで作られねばならなかつた訣ではなく、SGMLで書かれてゐても構はなかつた。たまたま新しいマーク附け言語を作る時期に、マーク附け言語を作成する言語としてXMLと云ふ規格があつた。だからRSSはXMLアプリケーションとして作られたに過ぎない。プログラム間におけるデータの互換の爲にXMLである事が必要だつたからRSSがXMLアプリケーションとなつた、と云ふ訣ではない。
平成十六年一月八日
俺はマルクス主義の信者ではないし、マルクス主義が現實に失敗したと思つてゐるし、マルクス主義用語は大嫌ひだが、だからと言つてマルクスの著作を讀む際に、自己流の用語の定義に基いた「勝手讀み」をしようとは思はない。マルクスが用語を何う定義してゐるかを讀取り、マルクスの定義した用語の意味に基いてマルクスを理解しようと努力するだらう。
マルクスが、思想を押附ける爲に戰術的に用語を押附けてゐると、俺は思はない。マルクスはただ、自分の思想を語るのに必要だから、自分の用語を工夫して作り出したに過ぎない。
平成十六年一月八日
「ポケット戦艦」なら、「ポケットに入るやうな(實際には入らない、當り前、から、譬喩である)小さい戦艦」だと分るから、さう言つて良い。「コンピューターおばあちゃん」や「エレクトリックおばあちゃん」なら、ジョークだから、訣がわからなくても問題ない。
しかし、ポータブル神様となると、單に何が何やらわからないだけだ。限定用法を敍述用法に變換すると、「神様はポータブルである」と云ふ事になるのだが、神様が可搬式であるとはどう云ふ事か。「ポータブルレコーダ」は可搬式の(音聲)記録装置で、訣がわかるが、「ポータブル神様」は訣がわからない。「何となく分かるだろ、分かれ」と言はれても、言葉としてをかしいのだから分る訣がない。
用語を自分流に定義して使ふのは自由である。ただ、その定義が他人に理解可能な形でなされてゐるならば、である。「ポータブル神様」の類は、本人しかわからないから不可である。なぜわからないかと言へば、非論理的だからである。
或は、「神様」は、觀念だから、ポータブルと云ふ形容句とは結び附かない。それを無理に結び附けてわかつたやうな氣になるのは、イメージに基いた聯想ゲームの開始を意味し、論理的な檢討の放棄を意味する。
平成十六年一月八日
カタカナを混在させる表現は、仮にその意味が伝わらなくとも文意の主要部分は伝わるし、その違和感に違和感以上の機能を持たせられるなら、表現力を増す好ましい「日本語の乱れ」だと思うのですが、いかがでしょうか?
その種のイメージやニュアンスに頼つた表現が、表現力を増すものであるとは思はないし、寧ろ言葉の言葉自體としての表現力を殺ぐ好ましからざる日本語の亂れだと思ふ。
意味に基いて語を嚴密に限定的に用ゐる方が、語のイメージを漠然と擴大するよりも、言葉と云ふものをより效果的に用ゐる事になる筈。
イメージで漠然と言ふのは、同じ考へを持つた人間同士で馴れ合ふのには便利だが、違ふ考へを持つた人間同士で相互に理解し合はうとするのには大變不便だ。
イメージを推測する爲に必要な想像力は個々人が固有で獨自なものを勝手に持つてゐるべきものだ。ニュアンスで語れ、イメージで語れ、と云ふ主張は、本來個性的であるべき想像力を劃一的なものとすべきだ、と云ふ主張にほかならない。それが極論だとしても、イメージに基いた議論は、假定や前提から恣意的な結論を引出す事が容易に可能であり、相手の意圖を掴むのすら屡々困難である。
一方、論理はユニヴァーサルである。論理に基いて推測するならば、方法さへ間違へなければ、可なり多くの場合、原意に接近可能である。惡きレトリックによつて恣意的な結論を導く事も可能だが、惡きレトリックは惡きレトリックなのであつて、論理とは別の觀念が介入したものである。論理のみに據るならば、假定・前提と結果は必然的な關係で結ばれ得る。
平成十六年一月八日
もちろん、詩のやうな藝術では、ニュアンスなりイメージなりを利用して思想を傳達する。しかし、その場合でも、語自體のイメージを曖昧にする事は嚴禁である。
良い詩でも良い散文でも、語が的確に用ゐられ、描寫が的確になされる事によつて、初めてイメージは的確に傳はる。用ゐられる語自體が曖昧だと、イメージも曖昧になる。へつぽこ詩人ほど、自分の詩を讀者に樣々なイメージで受取つて貰ひたがる。しかし、良い詩人は、讀者に明確なイメージを傳へるものだ。
T.S.エリオットが「散文と詩の境界線」で、イメージについて、或は、良い文章について、論じてゐて、とても參考になる。一讀を御薦めしたいが、多分商業レヴェルで邦譯が出てゐない。誤譯だらけで讀めたものでない飜譯なら、十年くらゐ前のBOOKLET(WMC發行)に俺が譯して載せたけれども、あの譯では訣がわからないし、讀まれても恥づかしいので、讀まないで良いです。そもそも數十部しか出てゐない代物なので、闇黒日記の讀者に所有者はゐないだらうし、ゐても名乘り出ないで下さい。
平成十六年一月八日
神保町の中野書店に吾妻ひでおの『妖精の森』(虎馬書房)が入荷してゐたよ。一萬圓也。

平成十六年一月七日
白川静「孔子伝」なんて、感想を書いても喜ばれないだらう。
個人的には興味があるけれども。
ちなみに當方は、呉智英『論語の讀み方現代人の論語』(文藝春秋)を讀んでゐる處。『孔子傳』は、呉氏に據れば、周囲の友人たちに奨めても、感動するどころか、読み通すことさえできない読書好きたちばかりであったが、呉氏自身は浅学であるにもかかわらず、半分ほどは理解でき、強い感動を覚えたと云ふ。私はそんなに難しい本だと思はないで讀んだのだけれども、世間的には難しいんですかね。
ちなみに、宮崎市定の現代語譯論語は述而篇の途中までしか讀んでゐないし、吉川幸次郎の論語は、朝日文庫で上卷と中卷しか手に入れてゐない。中島敦の「弟子」は、何囘か讀返したけれども、何囘讀んでも――思ひ返すだけでも――感動する。
平成十六年一月七日
「キャラクターデザイナー」の第二號を買つた。二ページしか讀む積りが無いのだけれども。
平成十六年一月七日
『坊つちやん』のテキストが出て來た時は二千字超/分で讀めたけれども、知らない文章が出て來た時は八百字/分になつた。
コバルトのあんまり内容のない奴だと、多分もつと速くなるだらうし、哲學書の特に譯の惡いのなんかを讀んだら確實に遲くなる筈。
一分で何字讀めるかなんて事は本質的にどうでも良くて、書かれてゐる事をどれだけちやんと理解出來るかが問題。
それにしても、『坊つちやん』は、冒頭の部分だけ讀んでも目頭が熱くなる。
平成十六年一月七日
なぜなら、一貫した人間らしさなどというものは存在しないから。
そんなものを描けとは誰も言つてゐないが……。
何と言ふか、高橋と言ふ人は、妄想を逞しくして、對象に存在しないものを勝手にでつち上げる事が批評だと思つてゐる節がある。批評とは、正しいものを正しいと言ひ、正しくないものを正しくないと言ふ事なのだが。「馬鹿には見えない著物」を「著てゐる」と言張る王樣に、それでも「あんたは裸だ」と本當の事を言ふのが批評だ。
平成十六年一月七日
あと、「もしXならYである」と云ふ話をきいた時、Xなる條件がある事を忘れて、論者は「いついかなる時もYである」と主張してゐる、と理解するのは間違つてゐる。
「書いてはならない」は、普通は禁止だと思うが。 「作者はさう云ふ人間を肯定的に書いてはならない。」どんなものを肯定的に書いてもいい。そして、どんなものであれ批判はされて当然である。たとえ書いていいものであったとしても。 何が言いたいんだ?
誰が何處でどんなものを肯定的に書いてもいいと言つたんだ?
題材と書き方とを、俺は嚴密に區別してゐる。その上で、題材は何を選んでも良い、書き方はどんな書き方をしても良いと云ふ訣ではない、と俺は言つた。
平成十六年一月七日
彼のほうぼうへの茶々入れの目的って、茶々そのものにではなく、それにかこつけた彼の思想をバックボーンとした理論の流布にあるわけでしょう。用語法を押し付けるなんてのは思想を広める上で一番有効な手段なわけで、乗りたくなければ完全無視するしかなかったのかもしれませんな。
俺のしてゐる事を「思想の流布」「思想の押附け」と極附ける高橋は、自分こそ「思想を他人に押附けたい」と願つてゐる事を告白してゐるやうなものである。そもそも、用語法の押附けも糞も無いのであつて、自分の考へ方を語るのに自分の語彙を用ゐるのは當り前の話だらう。
彼の用語法自体を俺は容認したくないのだから。
しかし、俺の用語がそんなに特殊なものであるとは思はない。「人間らしい」を「ヒューマニズム的な」とか「日本国憲法で示された基本的人權の思想に則つた」だとか、さう云ふ風に解釋する事こそ特殊だらう。
例へば、「『ファインディング・ニモ』で魚が話をするのは、魚らしくないからをかしい」と言つた時、誰も「魚らしい」と云ふ概念に疑問を抱かない。なのに、「大岡が『俘虜記』で主人公は『美』を理由に敵兵を撃つまいとしたと書いてゐるのは、人間らしくないからをかしい」と言つても、高橋は言うに事欠いて云々と嘲笑し始める。
用語法とか思想とか、さう云ふ事ではなくて、そもそも文脈に即して物事を理解する、と云ふ事が、高橋は出來ないのだらうと思ふ。
ようするに一昔前なら人間扱いされなかったような人格のあり方が許容されるようになってきてるから、そういう人たちのための作品がいるんだということなのかなあと。
別に價値觀なり世界觀なりが現代になつて過去から變化してゐるとして、それを前提に小説なり何なりを作るのは全然問題ない。ただ、異常な状況下にあるからと言つて、あり得ない事を理由に登場人物が或行動を取つたと平氣で書くのは許されない。人間が考へ得る事を登場人物が考へる事は許される。人間が考へた上で爲すであらう事を登場人物が考へ、爲すのは許される。いづれも「人間らしい」事だ。それを俺は咎め立てしない。當り前の話だ。
俺は、人間がその状況で絶對に考へない事を登場人物が「考へてゐる」と書く事は許されない、人間がその状況で考へる事も實行する事もあり得ない事を登場人物が「考へ、實行する」のは許されない、と言つてゐる。
要は「嘘を書くな」と言つてゐるだけの話だ。
高橋は「嘘」か「本當」かは決められたものではない、と主張するのだが、物語には文脈と言ふものがあるので、或状況下で登場人物の考へ得る事も取り得る行爲も常に限定される。その限定された範圍内で登場人物が考へ、行動するのは、人間らしい事である。その範圍を勝手に破壞して、登場人物を作者にとつて都合良く勝手に動かすのは、登場人物を操り人形として扱つてゐるのであり、人間扱ひしてゐない事である。
作者は、登場人物を自分の操り人形としてしまつてはならないのであつて、自分とは獨立した人間として扱はなければならない。俺はさう云ふ事を言つてゐる。

平成十六年一月六日
http://d.hatena.ne.jp/Tskk/20040105#p3
科学がキリスト教から産まれたとか、その辺りの偏執っぽさとか一応id:Tskk:20040103#p1で既に語ってるんですけれど。
解つてゐるのなら、とぼけるのはやめて下さい。解つてゐたのなら、Tskk氏はなぜポータブル神様なんて解つてゐない言ひ方をしましたか。
と言ふか、日本語ぢやないだらうポータブル神様なんて言葉。俺は限定的に形容句を用ゐて概念を提示する事を好まない。
あのー、「サイボーグフェミニズム」の意味分かってます?少なくともググって見ました?日本的な連帯を語ったんじゃないんだけれどなぁ…
前の項目と話が繋がつてゐるとは思はなかつたから氣にしなかったけれども、繋がつてゐたらしい。
「サイボーグフェミニズム」について今、ちよつとぐぐつてみたら、野阿梓の文章がひつかかつた(サイボーグ・フェミニズム評)。「のあ」と名乘るのならもつと増しな事を書け云々。閑話休題。
別に「サイボーグフェミニズム」が解つてゐようがゐまいが、Tskk氏の「連帯」は、やつぱり日本人的な物と言つて良いと思ふよ。
Tskk氏は、でも、1人では力も弱いし心細いから連帯しなきゃいけない。と言つてゐる。連帯しなきゃいけないと言つてゐる時點で、Tskk氏が西歐の個人主義と無縁である事は明か。Tskk氏は、既に個人主義は乘越えたと思つてゐるのかも知れないけれども、やつぱり一度も經驗してゐないから心細いから連帯と云ふ發想になるのだと思ふ。
サルトルが『嘔吐』で「現實の世界には、必然的な事など何一つ存在しない」と言つてゐて、現代の病理は全てそれを意識してしまつた事にあるのだけれども、近代の個人主義を經驗した西歐人は連帯なんて生ぬるいとしか思はないだらう。現代思想にしても出自は西歐で、現地では明かに現代思想は實存主義を經て出現した思想である。實存主義は個人主義を經て出現した思想である。個人主義はキリスト教から出現した思想である。裏返して言へば、ニーチェが神を殺し、マルクスが神の國に代つて人による永遠樂土を夢見、T.S.エリオットが神の不在證明を行つて逆説的に神の存在を示し、ベケットがゴドー=Godの來訪をただ待受ける人々の姿を描いたけれども、西歐人にとつて、Godなる理念は單に歸依するだけの對象に非ずして、鬪爭すべき敵ですらあり、ポータブル等と言つて濟ませられる存在ではない。Tskk氏は、その邊の事は知つてゐるだらうが、やつぱり解つてゐないと思ふ。そして、Godの事が解らない事をも意識出來ない日本人にとつて、「耐へなければならない孤獨」は存在せず、昔ながらの傷を舐め合ふ道化芝居で安心出來てしまふのである。
と言ふか、Tskk氏、……異性愛性規範からみて二重に倒錯した欲求なんて、どうやって人間性に回収できるものやら…、なんて言つてゐて、俺の「人間らしい」を高橋と全く同じやうに誤解してゐるんだけれども。
平成十六年一月六日
セマンティックWeb關係の話だけれども、Tskk氏はセマンティックWebの理念を妙に高いもののやうに勝手に看做してしまつてゐて、それを貶めて喜んでゐるに過ぎないやうに思ふ。俺は、既に説明したやうに、地味な使はれ方がセマンティックWebの本質だと言つてゐるし、以前は精々その程度の事しかセマンティックWebは意味しなかつたし、俺もその程度の事しか實現しないだらうと思つてゐるし、それで十分だと思つてゐる。
セマンティックWeb構想には例えばフリーソフトウェア運動のようなナイーブさ、あるいはロマン主義を感じるのですが、この勘はハズれてますか?
ハズれてゐるも何も、その種のナイーブさ、あるいはロマン主義に基いた宣傳を俺は苦々しく思つてゐると既に俺ははつきり書いてゐる。餘談だが、Tskk氏はどうして「外れて」と書かないで「ハズれて」と片假名で書いてゐるのだらう。片假名で書く事に何か意味があるのだらうか。日本語としてまともでないとしか言ひやうがないのだが。閑話休題。
と言うことで、XMLの本来の実用例などを見たければIT技術者になれば嫌と言うほど見られるんじゃないでしょうか?
誰が「実用例を見たい」と言つたのだらう。「自分解釋」で暴走した擧句、相手がついて來ないと言つてせせら笑ふ式の「批評」を、Tskk氏もしてゐるやうに思はれる。
Tskk氏は、目立つという以前に、組織内部のデータ交換は外から見えないし、見えたら困るでしょう?等と、俺を諭すやうな言ひ方をしてゐるが、分り切つた話を偉さうにして、どうする積りなのだらう。勘違ひも甚だしい。
と言ふか、やつぱりTskk氏もセマンティックでないと云ふ事がわかつてしまつた訣で、ここで「淋しい」と嫌みを言ふのは紋切型。
平成十六年一月六日
と言ふかさ、また「義」が松法螺正等と云ふ訴へられたら確實に負ける中傷的なハンドルで惡口を書込んだらしいが、その「義」も含めて、俺が何者かを執拗に追求して、それで俺を凹ませようとする奴は、頭がをかしいのではないかと思ふ。俺の論理が論理として一貫し、破綻のないものであつたら、論理は獨り歩きするのであつて、俺がいかに駄目な人間であるかを指摘した處で意味は全くない。逆に言へば、俺の身分なり門地なりを理由に俺を非難する人間は、自分こそ身分なり門地なりで非難を受けてもそれを否定出來ない事になる。それでも良いのかと言はれれば良くないに決つてゐるし、だから「義」は匿名で人の惡口を言つて廻る。
別に俺が二六時中虹裏を眺めてゐるとしあきであつたところで、論理的な主張が論理的に間違つた主張になる訣ではない。王樣が「俺は馬鹿には見えない服を着てゐるんだ」と屁理屈を捏ねたところで、「王樣は裸だ」と云ふ子供の正しい指摘は飽くまで正しい。身分があつたり何かしたりする偉い奴が常に正しい事を言ふ訣ではなし、かと言つて馬鹿が言ふ事が皆正しいと云ふ訣でもなし。正しい事が正しいのであつて、それだけの話である。
「『正しい』と言つて間違つたものを押附けて來る奴もゐるよな」と言つて、それで「正しい」と云ふ觀念を否定した積りになる馬鹿もゐるが、「間違つたものを押附けてくる」と言つた時點でその人間が「正しい」と云ふ觀念を肯定してゐる事は自明。押附けられたものが間違つてゐるのならば、間違つてゐる事を證明すれば良いだけの話で、それを「正しいも間違ひも相對的」と言ふのならば、結局自分の主張の押附け合ひで十分と云ふ話に成り兼ねない。もちろん、だから「正しい」と云ふ事を否定する人間は、戰術的に相手をやつつけようとしたり、風説を流したり、惡口を言つたりして相手を默らせようとしたりするのである。
だが、その種の詐欺師がゐるからと言つて、民主主義や自由主義の理念を否定出來たものだらうか。
平成十六年一月六日
何と言ふか、俺が「セマンティックWeb」と言出した理由はそつちのけ、と言ふのは淋しいねえ。
語彙が違つても、自分流の用語で言換へて、正しく理解して貰ひたい、と言つた積りなのだけれども。RSSのやうなものがセマンティックWebの範疇に入れられて語られる現在の風調は、本當に困つたものだ。RSSが惡いとは言ふのではないが、RSSとセマンティックWebとを結び附けて話をするのは、やめて貰ひたいものだ。その程度の「技術」と、理念とを短絡的に結び附けるのは、間違つてゐると言ひたい。
平成十六年一月六日
古事記に據れば、この世で陸と海が分かたれた時の描寫は明かに性行爲を聯想させるものだし、いざなぎといざなみはしつこく性交してゐるし、昔から日本人は下ネタが好きだつたのだと云ふ事が良く解る。
萬葉集には戀の部があつて、昔から日本の男は女に萌えるものだつた事が良く解る。
源氏物語の宇治十帖には、女が自殺しようとして仕損なふ話が出て來るけれども、原因は男が駄目人間ばつかりだつた事で、今も昔も變はりないと云ふ事はとても良く解る。
聖書には、一から十まで出鱈目ばつかりの創成神話もあるし、ほかにも變な記述は澤山あるが、なぜ人間が智慧を持つたかと言へば惡魔に唆されて智慧の實を喰つたからだとか、神に命じられると信仰篤い父親は平氣で息子を生贄に差出しただとか、度外れて無茶苦茶な事が大量に書かれてゐる。そして、今に至るまで、それらの記述は論爭の種となり得るのである。
彼我の差を思ひ知らされる。

平成十六年一月五日
およそ人がそういう意味では使わないであろう単語を勝手に独自の用法で使っておいて、「これは俺の使い方だから理解できないのはお前の責任だ」とやるのが作法なのですかねえ。
勝手に使つてゐないだらうが。説明しただらうが。高橋がその俺の説明を無視して、勝手に高橋の用法で解釋したんだらうが。そして、高橋は了解です。と書いただらうが。
自分で了解して、後で平氣で勝手になどと言出す高橋は何うかしてゐる。高橋は、自分が了解ですと書いた事を忘れたのか?
平成十六年一月五日
日本人に限らず、キリスト教国の人間にとっても、もはや「道徳」と「人間らしさ」と「美」がひとつに結びついていた時代なんてとうに終わっているんですよ。14世紀に生まれていればルネサンスの先駆者だったのでしょうけれどね。
道徳と美とは違ふと俺は言つてゐるのだが、そんな俺に高橋は何を言ひたいんだ?
平成十六年一月五日
貴方の「人間らしさ」の独自定義からは、人間のそういう性質が見落とされている。それではせいぜい19世紀までの水準に過ぎない、ということを言っているのですよ。
1866年に發表されたドストエフスキー『白痴』におけるムイシュキンは、純粹無垢で善意の塊だが、ドストエフスキーは「繪に描いたやうな善人の美しい物語」を書いたか。書いてゐない。だから『白痴』は正しい物語である。
俺の非難してゐるのは、「繪に描いたやうな善人の美しい物語」の事で、さう言ふ嘘を平氣で書く藝術家は惡い藝術家であり、その主の嘘で塗り込められた作品は非人間的で道徳的に惡い作品であると言つてゐる。
そして、その種の惡い作品は、二十世紀になつてから減つたかと言へば減つてゐない。
平成十六年一月五日
人間は、そして人間の生み出すものは、非人間性を含んでいる。どのような非人間的行為であれ、行為というのは人がやるものなのであり、それが危険視されるのは本当に行われうるからであり、つまりそれは人間の所業、人間の可能性なのだ。人とは思えない化け物のような、それでも人間としかいいようのない人間が、遠い海の向こうはもちろん僕たちの住むこの町にもたくさん住んでいるのだ。それを認識せざるを得ない時代になっている。たとえば飯を食うように人を殺す悪魔のような人間はありうるし、いたことがあるし、今もすぐそばにいるかもしれない。それを「描いてはならない」ってのはどういうことよ。
飯を食うように人を殺す悪魔のような人間は、藝術作品の素材としてはあり得る。しかし、作者はさう云ふ人間を肯定的に書いてはならない。書きたい奴は何を書いても結構だが、書き方によつて、良い作品にも惡い作品にもなる。そして、書いてはならない書き方をした作者は、批判されて當然である。
「殺したいから殺す惡魔のやうな人間もゐる」とか「人を殺す事に快感を覺える殺人鬼もゐる」とか、それはそれで「あり得る」のであり、「あり得る」事である限り、小説として書いたり、その他の方法で表現したりする事は可能であるし、許される。それを無闇に禁止しろと、俺は言はないし、今までにも言つた事が無い。
平成十六年一月五日
戰場で、攻撃をかけた時、穿きかけのズボンを引きずり上げながら逃げて行く敵兵を見て、相手を一人の生きた人間としか思へなくて自分は撃てなかつたとジョージ・オーウェルは書いてゐて、これは如何にも人間らしい理由だから我々は納得出來る。『カタロニア讃歌』
一方、同じやうに、戰場で、アメリカ人の若い兵士が餘りに美しい顔をしてゐたので、自分は撃てなかつた云々と大岡昇平は書いてゐて、これは如何にも非人間的で嘘臭い理由だから我々は納得出來ない。「俘虜記」
しつこいやうだが松原正氏の『文學と政治主義』を讀めば、「人間らしい」云々と云ふ俺の「用語」が、ヒューマニズム的なイデオロギーとは無關係の、文字通りの意味のものである事がわかるだらう。
平成十六年一月五日
ドストエフスキーの『罪と罰』のやうな「意味のある殺人」の方が、「殺したいから殺す」式の殺人よりも、個人的には餘程興味深い。ラスコーリニコフは、大勢の病人を救ふ爲に醫者になりたい、その爲には金が要る、だから金貸しの老婆を殺して金を奪つても數千人數萬人の病人を救へば罪は帳消しになるとして殺人を犯した。ドストエフスキーは、修身齊家ではない、治國平天下の爲の殺人を『罪と罰』で描いた。そして、治國平天下の爲――政治的な目的の爲――と稱しても、殺人は道徳的に許されるものではないとして否定した。
それがどうしたと高橋は言ふだらうが、先の9.11テロの實行犯は、「イスラムの爲」「信仰の爲」等と稱して「惡いアメリカ人」を大量に殺したのであり、「自分の信ずる正義の爲に惡人を殺す事も可とする」事をテーマとした『罪と罰』は現代でも意味を失つたとは言へない。『罪と罰』の提起した「意味のある殺人」の問題は、殺人にのみ問題の範圍を限定するものではない。「惡い人間は殺しても構はない」と云ふラスコーリニコフの思想の問題は、「間違つた事を言つてゐる人間は罵倒しても構はない」と云ふ思想の問題とも關聯する。
平成十六年一月五日
ちなみに、高橋のところには、飯を食ふやうに他人を中傷する例の掲示板荒し「義」が書込んでゐる。
平成十六年一月五日
野嵜氏は今の日本に『個人』はいないと言うけれど『個人』は存在します。見えないだけ。見てもらえないからロンリーソルジャーとして『個人』に成らざるを得ない。でも、1人では力も弱いし心細いから連帯しなきゃいけない。みんなどこかが違うんだから『個人』のままで連帯しなきゃいけない。
連帯しなきゃならないのなら、個人ではなからう。物理的に存在する人間一人一人の事をTskk氏は言つてゐるやうだが、さうではなくて、近代の西歐で確立された個人主義的な個人の事を俺は言つてゐる。さう云ふ個人主義は日本には存在しない。その證據がTskk氏の文章である。
何と言ふか、こちらも語彙の違ひを解つてゐないやうだ。
平成十六年一月五日
何と言ふか、セマンティックWebの概念は、高橋やTskk氏には理解出來ないんだらうなーと思つた。
平成十六年一月五日
「人間のありのまま」のうちにイデオロギーの化け物や悪意の塊のような人のあり方があることを氏は認めないようで、そこは結構致命的な違いなんじゃないかと思うですが。
高橋が、イデオロギーの化け物や悪意の塊のような人に、どのやうな意味で關心を持つてゐるのか、少しだけ興味がある。
と言ふか、俺は、イデオロギーを信じ込んでゐる人間も、惡意の塊である人間も、「ゐる」と言つてゐるが。書きたければ書けば良いと言つてゐるが。
もしかして、俺がその種の人間を「良い人間」として高く評價しないと言つて高橋は怒つてゐるのか??? 惡い人間は惡い人間だと言ふのが當り前だらう。
平成十六年一月五日
敗戰直後に「それまでの價値觀は全部、間違ひだつた」と言ひ、(中略)、千九百八十年代にも「それまでの價値觀は全部、間違ひだつた」と言つて、日本人は過去の價値觀を否定するのに躍起になつて來たのだけれども、結局のところそれらの否定こそが間違ひだつたと言ふのは判り切つた事で、それを俺は指摘し續けてゐるのだけれども、過去の價値觀を否定するのが至上命令となつてしまつてゐる人がゐて、一度否定された價値觀は、それが正しくとも「復活させてはならない」と言張るから困る。
平成十六年一月五日
「人間のありのまま」のうちにイデオロギーの化け物や悪意の塊のような人のあり方があることを氏は認めないようで、そこは結構致命的な違いなんじゃないかと思うですが。
そして、全ての藝術家は、人間を人間らしく描かなければならないし、人間を人間らしからざる善意の塊や正義の塊や特定の政治的イデオロギーの塊や惡意の塊や美の塊として描いてはならない。と俺は書いてゐる。
高橋は、故意にかうつかりかは知らないが、人間らしからざると云ふ條件を讀み落としてゐる。
平成十六年一月五日
餘談。はつきり言つてどうでも良い話。善意の塊はゼンダマンからの「引用」。多分、誰も氣附いてゐないと思ふ。話の本筋とは全然關係の無い「引用」だから、ゼンダマンとの關係で意味を讀取つて貰つても困るが、一往俺は意識して書いてゐたので。云々。
平成十六年一月五日
人間らしからざる善意の塊とか惡意の塊とか言ふのは、漫畫的・記號的な云々と言つても良いのであつて、そんな奴ゐる訣ないとつつこみ可能な人物を、作者が書いて平然としてゐるのはをかしいと俺は言つてゐる。
そして、エロゲにはその手の薄つぺらな人物がうようよしてゐる。
所詮「面白ければそれで良し」――本當は「拔ければ(何)良し」――とするエロゲに、まともな藝術作品が存在し得る筈がない。面白ければ藝術と言ふのなら、虹裏の方が餘程藝術的だ。
平成十六年一月五日
「書いてはならない」は、普通は禁止だと思うが。 「作者はさう云ふ人間を肯定的に書いてはならない。」どんなものを肯定的に書いてもいい。そして、どんなものであれ批判はされて当然である。たとえ書いていいものであったとしても。 何が言いたいんだ?
飯を食うように人を殺す悪魔のような人間は、藝術作品の素材としてはあり得る。しかし、作者はさう云ふ人間を肯定的に書いてはならない。書きたい奴は何を書いても結構だが、書き方によつて、良い作品にも惡い作品にもなる。そして、書いてはならない書き方をした作者は、批判されて當然である。
この文章の意味が讀取れないと言ふ高橋は、讀解力に問題があるとしか言ひやうが無い。
「素材」と「書き方」とを、俺は區別して書いてゐるのだが、高橋にはその邊の區別が全くわからないらしい。高橋は、「素材」によつて藝術作品の善惡が決る、と考へてゐて、だから淺薄な主張しか出來ないのだが、實際のところ、藝術作品の善惡は「書き方」(表現の仕方)によつて決る。俺はさう言つてゐる。
こんな簡單な事なのに、どうして高橋は理解出來ないのだらう。頭を使つて文章を讀んでゐないからだ。入試現代文の参考書でもお読みになってはどうですか、とつつこまれてゐるけれども、全くもつてその通りで、高橋にはちやんとした參考書で「文章の讀み方」を勉強し直す事をおすすめする。
平成十六年一月五日
ジョージ・スタイナーが、自分は狂氣よりも正氣である事の方に興味がある、と言つてゐるが、同感である。
平成十六年一月五日
以前買つて長い間讀みかけのままだつた林健太郎『歴史と体験』(文藝春秋)を讀んでゐる最中。
林氏は、もと共産主義の支持者で、今でも共産主義は歴史的に意義があつたと思つてゐるが、共産主義の理論に基いて歴史を解釋して見せる共産主義者の學者が多い中で、理論に適合するやうに事實を枉げて解釋するのでなく、飽くまでありのままに歴史を見て常識的に解釋する、と云ふ立場をとつてゐる歴史學者。
林氏は、「共産主義者」であつた過去の自分について、辯解する事もなく、隱し立てしようとする事もなく、一定の評價を與へて現在の自身と折り合ひを附けてゐる。かつての著作の文章を見れば共産主義者であつたのが間違ひない處なのに、その邊の事については何も言はず、しかし今もつて全く考へを改めてゐない事も明かであるが、にもかかはらず平然と保守派の親玉に納まつてゐる猪木正道や、全共鬪時代の事を言はれると怒り出す西部邁に比べると、林氏は信用出來る。
恐らく、保守派に屬する歴史學者の中でも、最もイデオロギー寄りでないのが林氏で、だから同じ保守派から「歴史認識」について批判を浴びる事があつて、例へば、以前、中村粲氏の批判を受けて、論爭をやつてゐる。中村氏は、とても人の良い人物だと思ふが、個人的に、歴史家として優れてゐるのは林氏の方だと思ふ。中村氏の『大東亞戰爭への道』は、大部の著作で、左派が思つてゐるやうに偏向したものでもないのだが、歴史書と言ふよりは保守派の論文と呼ぶべきものだらう。
中公新書に入つてゐる林氏の『ワイマル共和国』は、副題に「ヒトラーを出現させたもの」と附いてゐるが、第一次大戰敗戰後からナチスが政權を取るまでの社會情勢の變動について、政治家や政治運動家の活動・行動を紹介しながら、批評を加へたもので、理論で事實を裁斷するのでなく、事實を論理的に説明すると云ふ甚だ厄介な作業が叮嚀になされてゐて、結果として、ヒトラーが臺頭する事となつた歴史の流れが納得出來るやうに説明されるやうになつてゐる。
林氏は純粹に、事實についてはありのままに説明する努力を行つてゐて、それに對して批評を加へる、と云ふやり方を取つてゐる。豫め自分の價値觀に基いて説明段階での「事實」を歪める事は、共産主義全盛の時代の歴史學者には澤山ゐたし、今でも割とゐるやうに思はれるし、そもそも歴史學が専門でない政治運動家は今でも平氣でやつてゐる。さう云ふやり方に納得出來なかつたのが林氏で、その事は『歴史と体験』の後半に收録された「移りゆくものの影」に書かれてゐる。
『歴史と体験』は、後半の文章が林氏の體驗に基いて書かれた隨筆で、東大紛爭の記録は興味深いし、そちらから讀むのも惡いとは思はない。しかし、豫め、前半に收録されてゐる歴史に關する論文を叮嚀に讀込んで、林氏の歴史に接する態度を理解しようとしておくと、後半の文章を讀む時、自分の判斷を檢證するのに役立てられるかも知れない。
ちなみに私は最初に、林氏が初めて自分の名前で出版した『獨逸近世史』の專門的な論文を、門外漢なので何が何やらさつぱりわからないまま取敢ず讀んだのだけれども、さう云ふものも、讀まないよりは讀んだ方が、作者の態度なり何なりを理解する上で役に立つやうです。
平成十六年一月五日
http://d.hatena.ne.jp/Tskk/20040105#p1
で、私は近代西欧知の個人なんてポータブル神様と共通プロトコルを装備した一部の人間でしかないと思います。
ポータブル神様と云ふ言ひ方がそもそも日本人的な餘りに日本人的な言ひ方で、全然解つてゐない。八百萬の神樣とGodは本質的に違ふのであつて、その本質的な違ひを認識しなければ、西歐の個人主義は理解出來ない。もちろん、八百萬の神樣しかゐない日本に住む日本人がGodの本質を理解するのは到底無理で、俺も完全には理解出來てゐないし、だから俺も個人主義的な個人たり得てゐない。その一方で、日本人が現在住んでゐる日本國は西歐の文明を受容れた日本國で、西歐の文明は西歐のGodを信ずるキリスト教とが作つた文明で、それゆゑ西歐の文明の中に否應なく住まざるを得ない日本人はキリスト教的な文明の下に住む事を餘儀なくされてゐる。自動車が走るのも、飛行機が飛ぶのも、エアコンが一生懸命部屋の空氣を入換へて呉れるのも、全部西歐文明の御蔭であり、西歐文明は西歐の科學の産物であり、西歐の科學は科學精神によつて成立したものであり、科學精神はキリスト教の異常と言つても構はないほどに偏執的な理窟つぽさによつて出現した精神である。日本人は、西歐文明を利用する以上、西歐文明の成立ちを一往知つておく必要があるし、ならばキリスト教を知つておく必要がある。そして、キリスト教を理解するとは、キリスト教の歴史を知る事であり、歴史を知るとは事實の羅列を諳記するのではなく存在した事實と事實の關聯を理解し一聯の流れとして感得する事である。そして、その結果としてでなければ、西歐文明と日本人が折り合ひを附ける事もかなはないと俺は信じる。Tskk氏は、日本人が日本の傳統の中で日本人だけでやつて行けば良いと思つてゐるから日本人の至上命令である「和を以て尊しとなす」の實現のみを意圖して連帯云々と言つてゐるが、さうやつて日本人の理解出來る日本人的な思想の中に逃込んでゐても、結局の處日本人は西歐文明の下で生きざるを得ない。全ての日本人が西歐文明の恩恵の下で暮してゐる以上、全ての日本人に個人主義の問題は關はつて來る。にもかかはらず、日本人的な餘りに日本人的な「連帯」なる概念に拘る事は、間違つてゐる。日本人は一度、個人主義を經驗する必要がある。既に西歐は個人主義の段階を通り越してゐるが、だからと言つて日本人が個人主義の段階を囘避して次の段階に一足飛びに飛附くのは拙速である。
平成十六年一月五日
世間的に、セマンティックWebと言ふとRSS、RSSと言ふと要約、と云ふ事になつてしまつてゐるが、困つた事だと思ふ。
HTMLやXMLの制定の經緯から考へて、データ交換の可能性を高める事がセマンティックWebの本質である筈で、それがXMLの一應用に過ぎないRSSに限定的に使用される用語と化してしまつてゐる現状は間違つてゐると言つて良い。そして、その種の間違ひをW3Cが率先して廣めてゐるやうに思はれる。
語彙の異るデータベース(廣義での)間でデータを容易にやりとり出來るやうに定められたのがXMLである筈だが、特定のアプリケーションでのみ使用されるデータの記述言語及びデータとしてしかXMLが使用されてゐない現状は、どう考へてもをかしい。
例へば、處方箋を出して薬の調合等を手配するのをオンラインでやるのに、Aと云ふ病院のサイトがaと云ふ形式のXMLのデータを持つてゐて、スタイルシートを介してBと云ふ藥局サイトにbと云ふ形式に變換されたデータを送りつける、と云ふ事でaとbが別の語彙に基いて作られたデータであつても問題なくやりとりが出來る、と云ふ風な説明が、一昔前のXMLの入門書だの參考書だのには載つてゐた筈だし、今でも載つてゐると思ふのだが、その手の地味な使はれ方が忘れられてRSSのやうな「はやりもの」でしかも本質的でない使はれ方がとかく脚光を浴びると言ふのには、個人的に良い氣がしない。
もつとも、その手の業務的な使はれ方は實際のところ、かなりなされてゐる筈で、理想は或程度實用化されてゐる筈なのだけれども、目立つものの陰に匿されてしまつて、そのせゐでセマンティックWebの理想は素晴らしいと思います。でも、それはハッカーのロマン、情報共産主義に基づく理想ではないでしょうか?そして、現実には情報資本主義の食い物にされるのではないでしょうか?等と極附けられる事になつてしまつてゐるのではないか。
平成十六年一月五日
と言ふか、「情報共産主義」とか「情報資本主義」とか、抽象的で何となく「それつぽい」けれども、實際にはナンセンスな言葉を用ゐるのは如何なものかと。ポータブル神様と共通プロトコルを装備した一部の人間なんて言ひ方も、わかるやうで、實は全然わからない言ひ方だし。理解できるものしか理解しないなんて、その方がよほど連帯的でしょう。と言はれても、もうこれは日本語なのかと疑ふ事しか。
日本語で喋ろうよ。
平成十六年一月五日
CNET Japan - T・バーナーズ・リーに爵位授与
それまで、ハイパーテキストは文書をマークアップするのに使われていたが、他のコンピュータにある文書にリンクを張るという考えは含まれていなかった。ハイパーテキストを、同じマシンの中だけでなくネットワーク上のマシン間で利用出來るやうにする、と云ふのがリー氏のオリジナルなアイデアだつたと。
平成十六年一月五日
鏡を見たら目の周りに隅が。左足は昨夜からつりぎみ。
正月休み明け早々……。

平成十六年一月四日
人は時に道徳だの何だのとヌルい枠で規定できる程度の「人間らしさ」をはるかに超えたことをやる。いいことでも悪いことでも。
まあ、他人を意味もなく馬鹿にしたい年頃なんだらうな。
「道徳はぬるい」と云ふのが高橋の考へてゐる「道徳」にのみ當嵌ると云ふ事を、高橋はわかつてゐないんだらうな。
何と言ふか、他人の言つてゐる事を理解出來なくて、自分の頭の中に構築した如何にも弱つちい假裝敵をやつつけて、それで本物の相手もやつつけたやうな氣になつてゐる人間は哀れだな。
下らないのは高橋だ。何が、エロライターとして上へ行くことです、だ。エロライターに上も下もあるか。エロライターは底邊の人間なのだから、エロライターを辭めなければ上に行ける訣もないだらうが。そして、高橋にエロライターを辭める氣は毛頭ないのだから、高橋が上に行ける訣がなからうが。そもそも、相手の言つてゐる事を理解しようと思はない人間が、ライターとして大成する訣がないだらうが。
相手の言つてゐる事を素朴に見せかけて、自分を偉く見せようとする稚拙な戰術を平氣で使ふ高橋に、人間の可能性だの芸術だのと拔かす資格は無い。
云々。
平成十六年一月四日
と言ふか、エロライターの分際で向上心の事を言出す邊がいぢましい。
何か知らんが、エロ繪師だのエロライターだのに限つて、頻りに上へと行きたがる。何を勘違ひしてゐるんだか。
Google 検索: 精進します 自作絵
紋切型辭典行きかな……。
Links HTML CSSがひつかかつてる……まあいいか…………。
平成十六年一月四日
美鳥のLOVEダイアリー
微妙にCSSデザインつぽいのだが微妙にHTMLがアレ。
と言ふか、1314 V-STATION Web Siteのコンテンツは、どれも微妙。謎文書とHTML 4.01 Transitionalの文書とXHTML 1.0 Transitionalの文書とが混在。
平成十六年一月四日
前にも言ったけど、創作者としても評論/批評家としても、俺は野嵜さんを全く評価しないのです。いい大学出てるんだからやれば出来るだろうということは信じるけど、貴方やってないでしょう何も。
「俺はプロのエロゲライターだのだぞ」と威張り始めた。
高橋が、幾ら理窟を捏ねても、結局は權威主義者に過ぎない事は、最う明か。
貴方を閉じ込めている実にくだらない枠の中から出てくる表現よりは、まだエロゲのほうが面白いよ。せめて今のエロゲを越える水準の価値観を提示してから言って欲しいなあ。読むに足る作品書くなり評論やるなり。
高橋は、「表現」「ゲーム」「価値観」「作品」と云ふ、全然異るレヴェルの觀念を、恰も同一の水準に屬してゐるかのやうに看做してゐる。
持ち出す価値が、言うに事欠いて、「人間らしさ」だものなあ。
高橋は、言うに事欠いて、「旧字旧かな」だの「正しいHTML」だのと言つた文句を持ち出したけれども、俺の「人間らしさ」云々は昔から言つてゐる事に過ぎない。
高橋こそ、「エロゲは面白い」と言つてゐるけれども、どこがどう面白いのか、説明出來るのかねえ。所詮「俺は面白いと思つてゐる」と云ふだけの話ではないのかねえ。一般的にエロゲは面白いものであると云ふ事を證明出來なければ、高橋の主張は一般的な主張にならないよ。
もし高橋の主張が一般的な主張でないとしたら、高橋は高橋個人の評價に基いて俺を罵つてゐるに過ぎない事になる。しかしそれで高橋は、野嵜を一般に評價されない人間であるかのやうに見せかけられた、戰術的に勝利ををさめられた、と思つてゐるんだらうねえ。
平成十六年一月四日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040104#p2
槍や刀で殺されようが、原爆で殺されようが、殺された人間にとつては同じ事だ、殺されれば人生は終るのだから、と福田恆存が言つてゐる。世界大戰が起つたところで昔も今も變らない。そもそも俺はヒューマニズムなんて事は言つてゐないからヒューマニズムは敗北している等と言はれても全然困らない。
と言ふか、「人間らしさ」と云ふ俺の用語を、高橋は高橋の語彙で解釋する誤をまた冒して、勝手に突走つてゐる。エロゲライターであつても、ライターを名乘るのなら、相手の言つてゐる言葉の意味を文脈に沿つて理解する、と云ふ文章讀解の基本中の基本を忘れないで貰ひたいものだが、高橋にこの種の基本は身についてゐないらしい。
タイムボカンの話以來、俺は俺の「道徳」とか「人間らしさ」とか云ふ觀念について、鏤々説明したから、高橋が誤解するのは高橋の責任だ。
平成十六年一月四日
D.H.ロレンスの『性・文學・檢閲』や福田恆存のチャタレイ裁判關係の發言、松原正氏の『文學と政治主義』で、猥褻文書・猥褻圖畫と藝術との關係は俗流解釋とは異つたものである事が指摘されてゐるのだが、その邊りの事について俺が高橋に尋ねても、高橋は讀まうともしないだらうし、高橋の周邊の人間も讀まないだらうし、それでゐて俺の方には連中から色々と要求が突きつけられ、勝手な解釋に基いた惡口雜言が浴びせかけられる。
平成十六年一月四日
文章を落着いて理解しようとしないで、ひたすら相手の文章に即座の説得力だけを求める性急な議論の態度をとる人間が嫌で、俺は掲示板への書込みを辭めたのだけれども、「ウェブ日記」の世界でもさう云ふ態度をとる人間がゐて、俺は「日記」も辭めようかと考へてゐる。
平成十六年一月四日
と言ふか、義にしても高橋にしても、俺の文章の意味を理解しようと思つてゐないだらう。ただ單に、俺が「何かを言つてゐる」から、機械的に反應してゐるだけだらう。
人の意圖を考へないで、勝手な解釋をし、惡人だの馬鹿だの掲示板荒しだのと極附けて、自分の都合に合せて相手の文章を利用し、自己を偉く見せかけようとする連中に、俺の文章が利用されるだけならば、俺は文章なんて書かない。

平成十六年一月三日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040102#p2
(道徳的に)善いけど(美的に)良くない芸術は山ほどある。(道徳的に)悪いけど(美的に)良い芸術もたくさんある。
彼我で「道徳」と云ふ用語の意味が異つてゐる。
高橋
徳目で定められてゐる「正しい事」は「道徳的」であり、それに合致するのは「道徳的に善い事」である。
野嵜
徳目で定められてゐるのは「正しい事」であり正義にほかならない。正義に合致する行動を取るべき事を知りつゝ、それを實行しようとする(が、屡々完遂し得ない)、或は、實行しようとしない(けれども、實行すべきであつた事をしなかつたと云ふ事に對して忸怩たる思ひを懐いてゐる)事が「道徳的に善い事」である。
さう云ふ觀點に基けば、「徳目に反する事を『なすべき事』として實行し、それに何の感慨も覺えず、單に快樂に醉ひ癡れる」だけの作品は、縱令「美しさ」の表現を目的としてゐたとしても、道徳的には惡い作品であると斷定出來るし、「徳目に適つた事を『なすべき事』として實行するだけの作品もまた、「美しい」だけで道徳的に惡い作品である事があり得る。
當方の正義や道徳の用語法は、高橋氏には馴染みのないもので、或意味、それは高橋氏の責任ではない。このやうな用語法は、福田恆存や松原正氏の道徳觀や正義觀に基く用語法で、日本人に一般的な用語法ではない。日本人は、道徳的な「善い」と正義における「良い」とは、それなりに區別し得るが、そもそも「惡い」については、道徳的な「惡」も正義における「惡」も一緒くたであつて、區別が無い。
ただ、彼我の用語に違ひのある事を、高橋氏には認めていただきたいものである。もし高橋氏が、野嵜の用語によつて綴られた野嵜の文章を、高橋氏自身の用語の意味をそのまま適用して「解釋」し、或は、高橋氏の用語と違ふ用語を野嵜が用ゐてゐるからと言つて、野嵜の事を「間違つてゐる」と非難する誤を冒すならば、それは高橋氏自身の責任である。
平成十六年一月三日
二日はひきこもり状態。と言ふか、夕方まで寢てゐたので、新宿には行かず。もし萬が一、本日待構へてゐた人がゐたら申し譯ありません。
三日には行く豫定。
平成十六年一月三日
http://d.hatena.ne.jp/Tskk/20040102#p4
松原正氏の『文學と政治主義』を讀んで貰ふのが一番手取り早いのだけれども。
野嵜氏は平成十五年十二月七日の日記で政治的善悪と文学的善悪の違いを認識した上で文学的善悪を優先すべきと書いてます。
と言ふか、「善い」「良い」「惡い」「正しい」「正しくない」「美しい」「醜い」の用語が矢張り彼我で異つてゐるのではないかと。
政治に於ては相對的な正邪しかあり得ない。しかし、その正邪は飽くまで相對的な正義である。相對的な正義には限界がある。だから、或正義が全ての人間にとつて絶對的に「正しい」ものである訣がない。だからと言つて、政治に絶望する必要はない。政治は、有效な範圍では有效である。
ただ、政治が有效でない領域もある。政治的な價値判斷をすべき領域に對して、道徳的・文學的・宗教的な絶對的な善惡に基く價値判斷をすべき領域がある。その種の領域で政治が無效である事を、日本の文學者は指摘して來なかつたし、却つて政治で解決をはからうとして失敗して來た。
日本人は、政治と道徳とにけぢめをつけない國民で、高橋氏もTskk氏も政治と道徳とを區別しない。だからTskk氏は政治的善悪と文学的善悪と言つて、政治にも善惡があるかのやうに思ひ込んでゐる。
儒教では、修身齊家治國平天下と言つてゐるが、修身齊家と治國平天下との間に本質的な差を認めてゐないからさう言ふのである。そして、日本人は、「儒教道徳」――實際には儒教の擧げた徳目――を忘れながら、儒教的な修身齊家と治國平天下との連續を認める觀念を忘れてゐない。そして、そこが日本人的な道徳觀・政治觀と、キリスト教的な道徳觀・政治觀との根本的な違ひである。
キリスト教は、カイザーに屬する政治の領域と、Godに屬する道徳・信仰の領域とを峻別する。しかし、日本人はそれを理解出來ない。だから、政治と道徳とをキリスト教が峻別する理由を、歴史的經緯・當時の社會情勢に求め、それで納得してしまふ。だが、ローマの支配下にあった当時の状況ではユダヤ人であるキリスト達には政治へのアクセスが閉ざされていたからと言つて、二千年に亙つてキリスト教が政教分離なる原則に操を立てた理由を全て説明し切つた訣ではない。單に、由來を説明しても、それで全てを説明した事にはならない。しかし、日本人はその程度の説明で納得してしまふのである。實は納得などしてゐないのだが、理解出來ない事に説明が附けられたからそれは日本人にとつて「正しい説明」になつてしまふのである。しかし、説明出來たからその説明は眞實である、とは言へない。「明治天皇は暗殺されてゐた、と云ふ事で歴史を説明すると、出來るから、明治天皇は暗殺されてゐたのである」と云ふ主張が間違つてゐる事は論を俟たない。
政教分離の原則が、どのやうな理由で成立したとしても、理論として筋の通つたものであり、それゆゑ二千年の間、原則としてキリスト教を支へて來た――その事實が重要である。そして、實際のところ、「政祭一致」の日本人的な「論理」よりも、政教分離のキリスト教的な論理の方が、遙かに筋の通つたものとなつてゐる。そして、その「論理的に堅牢である」事が、キリスト教が二千年間、持ちこたへて來た理由である。
平成十六年一月三日
道徳と信仰もまた別物であって。
福田恆存の「一匹と九十九匹と」を參照の事。もちろん、道徳と信仰とは異る觀念だから異る用語で表現されるけれども、同列に論じて良い側面はある。道徳や信仰には、それぞれ命ずるところの徳目があり、それらは異るものである場合がある。そして、道徳は社會の爲と云ふ名目で存在するものであり、信仰は宗教の爲と云ふ名目で存在するものかも知れない。が、社會と對峙し、神と對峙する存在として、個人がある。その個人に關るものとして道徳なり信仰なりを見た時、兩者には共通する性格・性質がある。その性格なり性質なりこそが、道徳や宗教の本質である筈であり、政治からそれらを分かつものである筈である。
平成十六年一月三日
http://www8.big.or.jp/~vid/Diary/20040102.html#p08
http://d.hatena.ne.jp/wanderingdj/20040102#p4
「ネタ」だらうが何だらうが、結果として秩序が破壞される事に變りはない。
「俺は既に笑ひものにしてゐる」「それが出來ないお前逹は訴訟にしろよ」と言ふwanderingdj氏の主張は、それはそれで筋は通つてゐる。それなりに筋は通つてゐる。筋が通つてはゐる。
平成十六年一月三日
イスラム關係の入門書としては井筒俊彦のものが良いのではないかと。
平成十六年一月三日
ちなみにキリスト教と仏教で喧嘩するとキリスト教が『勝ち』ます。勝ち負けというルール自体がキリスト教のものだからです。でも、本当にそれでいいのか?
そもそも仏教喧嘩するか何うかと云ふ問題があるし、いいのかと言はれても、一體どの立場から見ていいのかと云ふ問題がある。
キリスト教と仏教喧嘩を審判するあんたが持つてゐるルールブックは何のルールブックなのか、と云ふ事。
そこで、この辺りがより上位の問題かと思うのですけれど、そもそもメタに走るのが良いことかどうかわかりません。と云ふ話なのだけれども、最後の良いこととは、一體何を基準にした良いことなのかと。
メタも糞もないのであつて、所詮人は自分の所屬する文明の價値觀から逃れられない、と云ふ事を自覺しておけば良いだらう。そして、色々な觀點から物事の善し惡しを判斷すれば良いだらう。
俺だつて、何でもかんでも西歐流にやれば良いとは言ひません。俺だつて日本人なので、日本人が比較的寛容である點は「良い」と思つてゐます。ただ、寛容が行き過ぎて、だらしない事になつてゐる事例が日本には多過ぎるので、その點で反省を促してゐるに過ぎません。
平成十六年一月三日
キリストの復活を認める事について、「人間は死すべきものである」と云ふ事に對する反證の存在を認める事だとメレシコフスキーは言つてゐた。キリストの復活を認めるならば、三段論法の教科書にも載つてゐる「人間は死すべきものである。ソクラテスは人間である。ソクラテスは死すべきものである」と云ふ理窟の、大前提を否定する事になる。結果として「ソクラテスは必ずしも死ぬ訣ではない」と云ふ結論になる。そして、「ソクラテス」は、別にソクラテスに限る必要は無い。
メレシコフスキー『平和にあらず劒なり』
平成十六年一月三日
アンチキリストのD.H.ロレンスも「死んだ男」で、死んで復活したキリストの話を書いてゐて、キリスト教的なキリスト像を徹底的に否定してゐるが、日本人には別に大した事でないやうに思はれるだらう。良く考へてみれば凄い事の筈だが、西歐人が受けた(る)であらう衝撃を日本人の俺は受けなかつた。
平成十六年一月三日
昨年、一部でブームだつたナウルの状況。
Nauru渡航に関する情報
平成十六年一月三日
(道徳的に)善いけど(美的に)良くない芸術は山ほどある。(道徳的に)悪いけど(美的に)良い芸術もたくさんある。
道徳的に善いけど美的には良くない芸術は山ほどある。道徳的に悪いけど美的に良い芸術もたくさんある。
何が何やら。
「美的に」と言つたら、「美しい」「醜い」と言ふべきだらう。
平成十六年一月三日
「美しい藝術」を追求した芥川龍之介は、プロレタリア文學の非難を受けて自分の立場に自信を失ひ、自殺した。「美」では「生活」とか「政治」とかに對抗し得ない。詳細は松原正氏の芥川論(『文學と政治主義』所收)を參照の事。
實際のところ、高橋氏は、「美的に良い芸術」と言ひつゝ、「美」よりも政治を優先し、政治主義の立場をとつてゐる。
それでは駄目だと俺は言つてゐる。
藝術で道徳を扱はない事に、高橋氏もその他の現代の日本の多くの藝術家やさうでない人々も固執してゐる。
それでは駄目だと俺は言つてゐる。
平成十六年一月三日

この情勢下、どの国もアメリカの意向を伺いながら、仕方なくしたがってみたり、たまに反発してみせて譲歩を引き出してみたり、なんとかやっている。どんな国だって(敵でさえも)圧倒的なアメリカの前には多かれ少なかれ従米的であらざるを得ず、よく心情的反米派の言う「自立した普通の国ニッポン」というのは、そもそも実現不可能であると俺は思う。その上で、つまり最終的にはアメリカ様に従わざるを得ないのが大前提として、どううまく立ち回れば日本はうまくやってけるのか、という話ですな。

アメリカに關する俺の政治的主張は、この高橋氏の政治的主張と大體同じだ。しかし、俺の道徳觀や藝術觀は、高橋氏の道徳觀や藝術觀と根本的に異る。そして、反米も親米も俺にしてみれば本質的に「どうでも良い」事でしかない。所詮、反米も親米も相對的な正義である。
平成十六年一月三日
なぜ現代の多くの日本人が政治とか「美」とかに固執するかと言ふと、「打倒すべき道徳」なるものが確かに存在すると彼等が信じてゐるからである。
松原氏は、私小説のやうな「告白文學」が既に現代の日本に存在しなくなつてゐる事を述べた(「藝術史上主義の敗北」)が、實際には「告白」は生延びてゐて、庵野秀明氏がエヴァを作つてゐるし、エロゲもエロCGも皆例外ナシに「私小説的」である。ただ「エロを告白する己の誠實」をキャッチコピーにせず、「賣り物はエロ」と言つてゐるだけで――もつともこれも結局は誠實を賣りにしてゐると言へる。そして、エヴァ關係の本で庵野氏は宮崎駿氏を評して「パンツを脱いでない」とか言つて、結局のところ「告白」を「誠實」と勘違ひする誤を誤と悟らないでゐるし、それは庵野氏以外の多くの日本人が同樣である。
日本の藝術には、誠實を賣りにするか、誠實なる觀念に抵抗する事を賣りにするか、しかないらしい。そして、後者もまた、所謂「誠實」に抵抗するのだから、「眞の誠實」なるものに操を立ててゐる事に變りはない。
そして、日本の「誠實」なる觀念は、その後ろ楯となる道徳の觀念が甚だ稀薄である爲に甚だ脆弱である。が、殆どの日本人が、日本的な道徳の觀念は因習的で極めて強力であり、現代人として抵抗する義務があると思ひ込んでゐる。實際には、抵抗するまでもなく、日本に道徳は存在しない。エロに對して高踏的な態度をとるのは武士の「高楊枝」の態度に過ぎないし、殺人をタブーとするのは所詮タブーに過ぎない。「盜むな」「火を出すな」と云ふ「掟」は、單に近所附合ひをする上で問題になるから定められた「掟」に過ぎない(きだみのるが指摘してゐる)。
大體日本で「道徳的」に禁じられたり義務として課されたりしてゐる事は、全て社會的に必要な事である。日本の「道徳」で、個人的なものは一つもない。全て「世の爲人の爲」である。言ひ方を變へれば、他人の爲になつたり、世間の目があつたりするから、或行爲は「すべきである」のであり、或行爲は「してはならない」のであるに過ぎない。「人として、すべきである」「人として、してはならない」と云ふ觀念は、日本には存在しない。繰返すが、日本では、全ての行動が、道徳的であれ政治的であれ、「社會性」を原理としてゐる。
その爲に、日本で道徳と政治とは連續的なものと認識される。
しかし、それゆゑ日本に個人の觀念は存在しないと言へる。日本では全ての人間が社會に歸屬してゐる。
平成十六年一月三日
僕はそういう風には固執してません。道徳を扱いたければ扱えばいいと思いますよ。誰も止めません。
しかし、その後に「だが俺は道徳を意地でも扱ひません」と云ふ主張が續く。高橋氏は藝術で道徳を扱はない事に固執してゐる。高橋氏自身は、絶對に藝術における道徳の價値を認めない積りでゐる。
平成十六年一月三日
ところで、野嵜さんにとっての絶対的正義とはなんでしょうか?
相變らず高橋氏は誤讀を續けてゐるけれども、そんなに私に「絶對的正義」を主張させたいのですか? あなたは「相對的な生義」しか認めない、と言つてゐますが、私は「正義は全て相對的なものである」と言つてゐますよ。「絶對的正義」なんてありません
アメリカの問題なんて、絶対性を持ち出さなくても普通に主張できるし、そちらのほうがたぶん異論を持つ相手には説得的なのに、前提として絶対性を持ち出して野嵜さんは語る。
何を勘違ひしてゐるのやら。
あなたは私の文章を讀んだのですか。
所詮、反米も親米も相對的な正義である。と私は書きました。どうしてあなたはこの文章を無視しますか。相對的な正義に基いてゐるから反米も親米も政治的な主張に過ぎず、「どうでも良い」事でしかない、と私は言つてゐるのです。反米でも親米でも勝手に言へば良いが、所詮相對的な正義に過ぎない。
旧字旧仮名ですか? HTMLの規格ですか?
どうしてさう云ふ疑問が出てきますか。人を揶揄つて何が面白いのですか。さう云ふ事を言はなければ人を批判出來ないのですか。高橋氏は所詮その程度の人間なのですね。これからはまた呼び捨てにしてやらう。
一々旧字旧仮名だのHTMLの規格だのと言ふ事はないだらうが。人を怒らせて喜ぶ高橋のやうな下劣な人格の人間に、文章を書く資格はない。
平成十六年一月三日
今の世の中にそれだけで受け入れてもらえるものではないと思うよというだけで。
日本人である高橋には、今の世の中が何でもかんでも基準となる。
まあもちろん、説教くさい芸術が好きな人だっているでしょうけれども。
用法に違いがあるということは分かりました。と云ふ高橋の言葉は嘘だつた。高橋は嘘吐きだ。
説教くさい芸術が「道徳的な藝術」だ等と、俺は言つてゐない。それを高橋は全く理解出來ない。
口先だけ「分かりました」と言つてその場をごまかして、高橋は相變らず自分の考へる「道徳的」の意味で俺の主張を「認識」し、勝手に誤解して、勝手にこちらを馬鹿と極附けてゐる。俺はもし高橋氏が、野嵜の用語によつて綴られた野嵜の文章を、高橋氏自身の用語の意味をそのまま適用して「解釋」し、或は、高橋氏の用語と違ふ用語を野嵜が用ゐてゐるからと言つて、野嵜の事を「間違つてゐる」と非難する誤を冒すならば、それは高橋氏自身の責任である。と言ひ、にもかかはらず高橋は野嵜の用語によつて綴られた野嵜の文章を、高橋氏自身の用語の意味をそのまま適用して「解釋」し、或は、高橋氏の用語と違ふ用語を野嵜が用ゐてゐるからと言つて、野嵜の事を「間違つてゐる」と非難する誤を冒してゐるのだから、高橋の馬鹿を俺が指摘しても、それは高橋自身の責任である。
平成十六年一月三日
そもそも、言ってる意味がよくわからない、と言つておきながら、つまりそれは、どんなことを言おうとしても絶対に外せない野嵜さんの思想の基底なのですね。と纏めて見せるのは何なのか。
わからないならわからない處を尋ねれば良いだけだが、わざわざ自分の誤解を元に相手の主張をねぢ曲げて、相手を馬鹿に見せかけようとするのは、何うかしてゐる。
平成十六年一月三日

この謎技術画像(FULL SCREEN と呼称しているようだ)を提供しているこの Panoramas.dk というサイト(以下略)

その謎技術画像QuickTime VR だと思う次第です…。

QuickTimeVRなんて前世紀の技術云々。
外來の「技術」なんかが日本で普及するかと。
平成十六年一月三日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040103#p3
とぼけるな。
人の「コア」なるものが何かを聞きたければ、先に自分の「コア」なるものを説明したら良からう。
人のやつてゐる事を無駄だと言切るのだから、高橋には無駄ではない事が何かあるんだらう。どうせ下らないものに決つてゐるが。高橋は相對的なものをしか信じないのだから、高橋の信ずる「無駄ではない事」も相對的なものに過ぎず、下らないものであるのは決り切つてゐる。
平成十六年一月三日
マラソンに向いてゐないとか、繪を描くのに向いてゐないとか、言ひたければ勝手に言へば良いが、それが何の意味があるかと言へば何の意味もない。人間ならば「俺は人間らしく生きるのに向いてゐない」等とは言へない。全ての人間は、人間らしく生きるのに向いてゐるから人間なのである。
「人間らしく生きる」事が「道徳的」と云ふ事であり、「人間を人間らしく描く」事が「道徳的な藝術」である。そして、全ての藝術家は、人間を人間らしく描かなければならないし、人間を人間らしからざる善意の塊や正義の塊や特定の政治的イデオロギーの塊や惡意の塊や美の塊として描いてはならない。

平成十六年一月一日
本棚を少し整理してゐる間に年が變つてゐた。
今年も、何だか良くない事しかなささうだけれども、いつもの事だから變に期待はしないでおかうと。
世間ではまた「おめでとう」「おめでとう」の紋切型の連發で、あんてなもその種の更新ばかりを拾つてゐる事だらう。御苦勞な事だ。
新年早々私は何を怒つてゐますか。
平成十六年一月一日
のあたんあやのたん@謹賀新年
平成十六年一月一日
クルティウスの『読書日記』に挾まつてゐたみすず書房の「新刊御通知」(1972年12月)で、當時行はれた書店のストライキの結果が報告されてゐたのを發見。出版社が一律に二・五%のマージンを上乗せするということで一応、解決しました。との事。
みすず書房の主張は以下の通り。流通マージンは、流通コストと見合わせて決めるのが実際的・合理的なのではないか。流通コストが多くかかるメーカーの場合はマージンを余計に出し、逆に流通コストが少くてすむメーカーはマージンが少くてもよいはずであります。
さう云ふ譯で、みすず書房は一律のマージン上乘せは解決ではなく弥縫策に過ぎないだらうと言つてゐる。
が、一九七二年以來、出版業界のマージンの問題は改善されてゐるのだらうか。
年初から不景氣な話題だが、二、三日放つておいたら忘れさうなねたなので、「新鮮なうち」に提出してあとはなげつぱなし。
平成十六年一月一日
昨年「保守派」を自稱する反體制派の「言論」(矢張り自稱)は非道いものでしたが、今年もうちはその手の「言論」を斬り捲る所存で云々。
平成十六年一月一日
保守をめぐるやりとり
年月の過去ログ
政治的保守主義と道徳的保守主義とを混同してゐる人間が日本には矢鱈と多い。傳統とか禮節とか財産とか自由や平和の觀念とかが同列に論じられてゐる。
それから、conservativeの飜譯語としての保守的と云ふ事と、日本の政治鬪爭におけるレッテルとしての保守派とも、日本では混同してゐる人間が非常に多い。
高橋の例(と言ふか、例の高橋)を見ても分る通り、現代の日本人の「保守したいもの」は訣がわからないのであつて、のみならず、「保守したいものがあるから保守主義」なる定義、右翼の別稱、自民党支持者の事、共産党支持者の反對者に貼りつけるレッテル、英國の保守派との自己同一視に基く自稱その他のありとある「保守派」が日本では通用してゐる。
さう云ふ状況下において、「保守派」と目されてゐる人間の中で、「親米」か「反米」か、なる鬪爭が生じて、「反米派」が「親米派」に貼りつけたレッテルが「ポチ保守」なのであつて、「ポチ保守」なる用語は所詮、惡口に過ぎない。とにかく反對者を罵る爲に作られた別稱だから、實態がある訣がない。あるとしたら、自稱「反米保守」と敵對してゐる「反對者」のグループ、と云ふ事くらゐにしかならないが、「反對者」自身は自分の事を「ポチ」なる別稱で呼ぶ氣など毛頭ないし、別に「反對」であるからと言つて「反對」の理由が全員同一である訣でもないから「反對者グループ」として纏まつてゐる訣でもない。
平成十六年一月一日
「政治と道徳とは異る次元のものである」と云ふ價値觀は、「政治と道徳は同レヴェルのものである」と云ふ價値觀と對立し、日本人は大概、後者を「正しい」と信じてゐる。日本人の殆どは、政治と道徳とを峻別しない。
だが、キリストが言つた通り、道徳と政治とは別のものであり、相違・對立する二つの價値觀のうち、政治と道徳とを同次元のものと看做すのは單に間違つた考へ方であるに過ぎない。
そして、カイザーのものはカイザーに返し、神のものは神に返すべしと云ふキリストの説を肯定する限り、現代の日本人にとつての結論は決つてゐる。「反米」は駄目で、「親米」でやつて行くしかない。
「反米派」がそれを認めないのは、彼等が道徳も政治も一緒くたに考へるからに過ぎない。そして、さう云ふ考へ方がそもそも間違つてゐるのだから、結論としての「反米」も間違つてゐるに決つてゐる。
平成十六年一月一日
加納氏が通さうとしてゐる「筋」は間違つてゐるし、最初から筋を通さうとしてゐない徳保氏の文章は讀むに値しない。
日本に守るべき傳統も正統なるものもあるかこん畜生。
平成十六年一月一日
例外的に存在したのは正假名遣。正假名遣を使はないで「正統」の思想を語る日本人を俺は信用しない。
平成十六年一月一日
典據を示したにもかかはらず、引用もせず云々と罵倒して呉れてゐる。よくもまあしゃあしゃあとこんなことが云えたものだ、と、紋切型の罵倒をしてゐるが、良く平氣で書けるものだ。
と言ふか、西部の主張がをかしい事に、加納氏は氣附いてゐないのだらうか。ゐないのだらう。
平成十六年一月一日
以下、先月の「柵」よりメモ。
平成十六年一月一日
「反米保守」の連中も「親米保守」の連中も、アメリカ人の行動原理について深く考察した事がない。
ハンチントンに據れば、「アメリカの戰爭は常に十字軍である」さうである。
アメリカの例外主義exceptionalismは、世界でも正に例外的な事例であるが、それが歴史上果して來た役割を我々は考慮する必要がある。
アメリカ人は、「アメリカの國益と國際社會の追求する利益とが一致するのは當然である」と信じてゐる。
アメリカでは、ナショナリズムとインターナショナリズムとが屡々一致する。
英國ブレア首相に據れば、「アメリカが手を引く事こそ恐れねばならない」さうである。
もつとも、このナショナリズムとインターナショナリズムとの一致は、アメリカのみならず、どの國にも見られる現象である。
「日本もまた例外主義の國である」とキッシンジャーは指摘したさうである。
ただし、日本の例外主義は誤つた例外主義である。日本人の例外主義は、日本國内でしか通用しない。
インターナショナルを擁しつゝ一國社會主義の立場をとつたソ聯。軍國主義下で大東亞共榮圈思想を唱へた日本。フランスにもイギリスにも、その種の思想が無かつた訣がない。
日本の場合、言ひ譯の爲の言ひ譯の域を出ず、そもそも一貫した戰略も何もない状況下で戰術的にいろいろ適當な事を言つた結果としてのナショナリズムとインターナショナリズムだつたに過ぎないが、餘所の國でもさうだつたと信ずる理由はない。
「アメリカの外交政策は、idealismとrealismの、或は、價値と實益の、どちらにも偏すべきではない」とキッシンジャーは主張してゐたさうである。
平成十六年一月一日
ジャン=フランソワ・ルヴェル著 薛善子譯『インチキな反米主義者、マヌケな親米主義者』(アスキー・コミュニケーションズ)より。
ある國が世界的使命感を得て、それを宣言すること自體は非難されるべきではない。非難されるべきは、その宣言をするのがフランスではなくアメリカだといふことだ。
日本の「反米保守」にも、「アメリカの癖に生意氣だ」みたいな偏見に基いてアメリカを罵倒し、「親米派」を愚弄してゐるところがある。
ちなみに、書籍之海 漂流記 2003年8月3日の記述によれば、譯者が「反米保守」だから、原題『インチキな反米主義者』を『インチキな反米主義者、マヌケな親米主義者』と勝手に變へたのださうである。
平成十六年一月一日
新年早々篠原美也子のCDを某所に發註したり。
平成十六年一月一日
芸術に良いも悪いもない。そういう価値基準を持ち込むのは、芸術に対する無理解の表れである。
芸術が美しいとか、なんとかと云って悦に入るくらい簡単なものはないが、そもそも芸術とは人が思うよりも美しくもなんでもないものだ、と言ったのも、小林秀雄であった。
加納氏は、善し惡しと美醜とを混同してゐる。
善し惡しと言つたら道徳的な善し惡しの事で、美醜とは關係がない。
それから、言つておくが、藝術作品は全て、道徳的な見地から善し惡しを判定されなければならない。藝術作品には、善い惡いがある。
ついでに言つておくが、江藤淳の『夏目漱石』は駄目な評論で、大岡昇平が批判してゐるし、松原正氏も批判してゐる。
平成十六年一月一日
めも。
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平成十六年一月一日
2003年12月22日(月) @ [読冊日記 2003年 12月下旬]
解説を讀む限りでは、とても面白さうだ。

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