アニメもゲームも小説も映画もドラマも本質の部分は一緒だと気付いてる奴はホント少ないな。なるスレが一番上に表示されて驚いた。
野嵜さんの「萌え」の定義、と云ふ事にされてるし。
擬声語の表現と仮名遣いが別の問題ならば、その切り分けの原理は何でしょう?については、正かなづかひ早分りの一番最後の邊で述べてゐますが。
「世界観」「キャラクター性」というのは、ラノベ(のさらに一部かもしれない)の特徴なのであって、文芸一般に適用出来るものではないかと。
先日、有名な「百ます計算」については批判的な意見もある、との記事を読みました。結局、「百ます計算」で応用力を身につけられるかどうかは、本人の資質に依る部分が大きいわけで。「伝聞」によって手に入れた「論理」という名の刃物を、他人を傷つける凶器にしか使えないキチガイにはがっかりです。
あるきまった理論的前提を立てて、それに合致するような事実だけをやたら並べたてるという方法は実は本当の学問的方法ではない。
ついに珍字珍かなとの戦いに勝利したノザキマン。しかし珍字珍かなは明日も日本を狙う。偉大なる妄想と自己弁護を駆使して、戦え! 正字の味方、ノザキマン!!
壊れたラジオを粉砕する趣味はとうに止めたので、そろそろ終わります。等と勝利宣言をしてゐるが、さう云ふ宣言は俺の言つた事を一つでもまともに否定してからするやうに。一見示唆的で、もつともらしい、或は「それっぽい」事を言つて、それで勝つた氣になるな。
「本来の文学的見方」こそが観念であり云々の段落は、最初全然意味がわからなかつた。どうやら「
父権制度なるものが、「本来の文学的見方」なるものを含む過去の全ての觀念を生んできたのだ」と云ふ「フェミニズムの論理」を言つてゐるらしいと何とか呑み込めた。
父権制度なるものも、矢張りフェミニズムではアプリオリに存在するものであつて、そこが出發點となり到着點となる。フェミニズムの立場をとる限り、
父権制度は「ある」ものであり、言はばキリスト教の「原罪」と同じものである。と言ふより、フェミニズムは宗教同然であつて、論理を超越してゐる。
父権制度は、全ての人間の觀念の原因であり、同時に全ての觀念が
父権制度の存在證明となる。これは明かに自家撞着なのだが、信仰の根元であるがゆゑにフェミニズムは
父権制度と云ふ己の自家撞着を批判的に見る事が出來ない。そして、フェミニズムが宗教であるがゆゑに、「信者」でない人間にとつてフェミニズムの
父権制度なる觀念は既存の觀念に對する痛打として感じられない。それを痛打と感ずる爲には、フェミニズムの信仰を受容れなければならない。
父権制度は、所詮、自分以外のものに責任を認めさせようと云ふさもしい料簡に基づいたものに過ぎない。一方、キリスト教の原罪意識は、自分自身に責任を認めると云ふものである。キリスト教は、教會と云ふ地上に於る神の代行者によつて政治的な力を屡々發揮するが、にもかかはらず、政治的なイデオロギーと看做し得ない。その理由は、他者の存在を前提としないドグマにある。原罪を意識するのに、他人なり社會なりの存在は不要である。フェミニズムは、自己を棚上げして他者を非難するものであり、よつて社會の存在を絶對に必要とする以上、宗教的ドグマを抱へ込みながら飽くまで政治的なイデオロギーと看做されるのは、避けられない事である。
父権制度なるものを見て、「ふーん」と言つてゐて良いのと同じだ。
まあ、自分のしていることは棚に上げて、他人に同じことをされると怒り出す、というのは自己中の定番ですけどね。
さて、ヴァカが正字正かなを使うと確実に正字正かなの評判が下がるので、推進派には「正字正かな」遣いの模範となるような行動を心がけていただきたいところです。
どうでもいいけど、と云ふ發言は嘘で、明かに「とぼけてゐる」のだし、何も意義がないのなら、ただの氣狂ひだ。
ついにアレを叩く人が出てきたか、と期待したものの、「伝聞」の人ばかりでがっかり。まあ、まともに叩けるほど優秀な人は、こんなところに来ないと思いますが。
- 大前提
- すべての犬は動物である (A=C)
- 小前提
- すべての人間は動物である (B=C)
- 結論
- すべての犬は人間である (A=B)
明らかに結論部は偽である。三段論法が形式上成立しているにも関わらず、そして、「真」なる二つの前提から導いたにも関わらず、結論部は「偽」である。「すべての」を消してもやはり「偽」となる。
単純な三段論法を用いても、「真」なる前提から「真」なる結論は導き出せないのである。
野嵜さんの「三段論法」は「三段論法による論證」であり、私の「三段論法」は「三段論法といふ論理式」である。
古典的な論理學における三段論法の妥當性も、それによる論證の結論も、同樣に否定出來ない。と言つてゐて、「それ」と云ふ指示語が「三段論法」を指示してゐる事から、「三段論法と云ふ古典的な論理學による論證方法」について「近代的な論理學では屡々否定可能である」けれども、さう云ふ專門的な話はして呉れるな、私は今「古典的な論理學」のレヴェルで話をしてゐるのだから、と讀取れる筈だと思つたのですが、讀取れないものでせうか。
アナロジー以前の問題として、
個人個人で異る價値觀と對置される「ユニヴァーサルな論理」と云ふ事を言ふ爲に、「ユニヴァーサルな論理」としての「數學」と云ふものを言ふ修辭で「數學的歸納法」と言つただけであつて、「數學的歸納法」は「背理法」でも何でも良かつた。なのに、なぜかさう云ふ「文脈に基く文章の解釋」でなく、「個々の用語の是非の問題」に話が行つてしまつてゐる。學校で習ふのは、「算數」から「數學」に名前が變るし、よみかきそろばんのレヴェルから飛躍したレヴェルの話に移行するけれども、全體として「數」の世界を扱ふ事には變らないし、取敢ずさう云ふ「數學」の世界の話は、世界の何處へ行つても同じやうに通用する話だ。「1+1=2」も「數學的歸納法」も、日本では通用するがアメリカでは通用しない、等と云ふ事はない。だから數學はユニヴァーサルなものであり、論理はユニヴァーサルだと言ふのである。
個人個人で異る價値觀ではない「個人を超えたレヴェルで存在する價値觀」として示す、と云ふレトリックとして飛躍はない筈であり、ならば問題は無い筈だ。
「語り得ぬものに関してはー、沈黙せねばならないのですよー」
俺は論理で傷ついたりしません。
純文学の横っ面に蹴りを入れた、「何が少女の純粋性だ」という今の水準からすると「頭の悪い」、しかし明らかに見落とされていた、新しさのあったツッコミを、
横っ面に蹴りを入れるとか、
頭の悪いとか、
見落とされていたとか、どうもその邊の事が解らない。「本來の文學的な物の見方から言つて、『讀取つてはならない物』『讀取れない物』を『讀取る』事が、なぜ
純文学の横っ面に蹴りを入れる事になるのか。
何か書きたいことがあるのならば、それを率直に書けばいいと思いますよ。
複数のWebの
WebはWeではないかと。別に拘りませんが。
引きこもり宣言の受けがよかったのか、今度は妄想ヲタ宣言ですよ。
經驗から導き出されたのではない能力の存在を認めてゐる。妄想が何う斯うと言つた話ではない。シスプリの馬鹿は、解つたやうな口を利くな。
途中から中途半端に18禁にしちゃったしね。
小林(秀雄)氏の批評は決して單なる印象批評ではない。氏は確かに直觀或いは直覺を重んずる。人は概してこの直觀と云ふ字面に惑はされて、瞬間的な印象で直ぐに判ることだと誤解し、特殊な天才にのみ可能な、一般には當てにならないものと受止めてゐるやうだ。しかし直觀とは必ずしも直ぐに判ることではない。勿論さう云ふ場合もないことはないが、正しくは直かに判ると云ふ意味である。理知的な論證や物的な證據のみに囚はれず、寧ろ感覺的な印象の深化に時間をかけることによつて、直かに判る判り方がある。
三段論法については、近代的な論理學では屡々否定可能である、と
古典的な論理學における三段論法は、近代的な論理學によつて否定されてゐるとは、イコールでない。
深く突込んで論じないで構はないと思ひます。
「道徳」と「倫理」の問題系を野嵜さんは解しないのですね。
問題意識なんてものを共有したくないけど。「俺と同じイデオロギーを持つてゐない奴とは話をしない」と言はれても。
人類において一度でも「単なる自己正当化の理論」であることを超えた政治理論があったでしょうか。
そこの問題意識が共有できないのであれば、議論が不可能でしょう。のコメントを投下。
俺としては、論理学の話をする上で、「数学的帰納法」や「1+1=2」はえらく専門的な例だと思います。
「数学的帰納法」や「1+1=2」を專門的な
実数論のレヴェルで論ずるのは文脈を讀み違へてゐると思ひますが。
面白ければイデオロギーも可。
「政治とは異る道徳の領域」を俺のような世界観の持ち主に理解させようと思ったら、野嵜氏のアプローチでは難しいと思う。
今度は妄想ヲタ宣言ですよ、等と言つて端から理解を拒絶するやうな人の仲間には、わからないでせうねえ。
そこの問題意識が共有できないのであれば、議論が不可能でしょう。と言ふ高橋氏が、俺に「問題意識」を「共有」させる適切な戰略をとつてゐるかと言へばとつてゐないのが事實であつて、ならば話は「御互ひ樣」と云ふ事にしかならない。
その言い方では、西欧人のように科学や自由主義思想を生み出したければこの考え方を受け入れろ、という単に政治的な提案としてしか届かない。
論理が批判する政治と論理が属する政治はメタレベルが違う。両者は別物だがよく似ている。と言う辺りが落とし所になりません?
- 赦免
- これは裁く人の下す宣告である。誰も自分に赦免を宣することはできない。そこで人はみな自分を斷罪し、さうすることによつて自らよしとしてゐる。それは次のやうに言ふ怠け者に似てゐる。《私はなんの役にも立たない。私には何もできない。私は何にもなれないだらう》、と。斷罪は悔いることを不可能にする。赦免は悔悟を考へに入れてゐる。悔悟とは、悔いることを承認することである。だから赦免は思ひ上つた自己斷罪の反對である。赦免とは自らを信ずることを禁止することである。
法解釈学の中でいろんな学説はあるけど、それが公式な解釈を生むための学問であるという認識は、共有されてる。
文学の場合、構造主義や実存主義やフェミニズムな人たちが展開してる文学理論はそれぞれ別の体系であって、ひとつの解釈学の上で「公式な解釈」の座を争っている、というわけではないと思うのですが。
体系が相互に獨立してゐるかと言へば全然さうではないのであつて、文學が人間の生き方に根差したものである以上、全ての
体系は人間性に照らして互ひに自己の正當性を主張し合つてゐるものと見て良いでせう。
俺の今回使ってる「道徳」というのは、共同体による外的な規範のことで、個人の内的確信に基づく「倫理」と対照的な概念です。
共同体による外的な規範のことを「徳目」と呼んでゐるから良いとしても、
個人の内的確信なんてものは「存在しない」と思ふから否定する。
俺の読むこの作品のテーマは、「道徳の無効化したところで倫理に目覚める青年の決断」なわけですが、そこで描かれる「背徳的行為」というのは、たとえば不倫とか、アナルセックスとか、(男、女ともに)同性愛とかなわけですよ。
個人の内的確信に目覺める青年の決斷」と云ふのは、訣がわからない。もつとも、訣がわからないのは、どうせ大江の責任に決つてゐるから高橋氏を責めない。
ここが、最初に読んだときに首をかしげたところで、この程度のことを背徳性として描いてるのは、当時の性道徳がそうだったのか、大江が個人的にそう思ってただけなのか、既に無効な道徳をネタのつもりで出したのか、どれだろうと。
個人の内的確信なんてものの存在を認めるから、「わけのわからないもの」を「わけのわからないもの」と率直に言ふ事が出來ないのではないか。
つまり、「反論できない論理には黙って従え」ですね。それが何を帰結しようとも。
- 理屈で権力がひっくり返るわけはない。市民階級が実力をつけて力づくで旧勢力を倒したのが近代です。
- 彼らは新しい支配の正当化の理論を生んだけど、それ以前の権力が自己正当化の理論を持たなかったわけではない。
以前の権力が持つてゐた
自己正当化の理論を打破る新理論を提示する理論鬪爭によつて、
市民階級が昔よりも正當な地位を得て來た事も事實である。
新しい支配の正当化の理論と化したマルクス主義のやうな理論もあつたけれども、
それ以前の権力が持つてゐた單なる
自己正当化の理論を克服する爲に、支配被支配の關係を本質的に否定し、キリスト教社會における「神の前の平等」と云ふ暗黙の諒解に基いた「人格の對等」を大前提とした自由主義が存在する、と俺は信じてゐる。
体制と云ふ觀念は意識した事もないとおつしやる割に、高橋氏、何の抵抗も覺えず、
階級とか
支配とか言ふんですね。隨分親しい觀念であるやうだ。高橋氏がマルクス主義の影響を受けてゐる事は、明かに看て取れますよ。まあ、態度からばればれなんですけどね。
数学的帰納法の正しさは自然数の公理系と形式論理学によって保証されています。つまり、それで扱う範囲でしか通用しません。
フェミニズム批評をトンデモ扱いですか。
父権制度のメカニズムなるものに眼を向けてしまふのは、明かにトンデモでせう。
父権制度のメカニズムなるものに眼を向けて、それで何が起こるかと言へば、「文學作品の政治的彈劾」です。有名なフェミニズム批評家のやつてゐる事と言つたら、文學作品から常に
父権制度のメカニズムのみを見出し、その作品の作者を彈劾する事だけです。彼等は、
ディケンズの『骨董屋』に登場する女性たちを、天使的な少女ネルとそれ以外の者に分類して、道徳的な<純粋さ>を云々する、と云ふ事をしません。そのやうな「讀み」を否定し、
父権制度のメカニズムを彈劾する鬪爭の手段・戰術として文學作品を利用する、と云ふのが彼等フェミニズム批評家の常です。馬鹿馬鹿しいといつて良いではないですか。それを馬鹿馬鹿しいと思はないのは、單にフェミニズムと云ふ政治的イデオロギーに同調してゐるからに過ぎません。まさに、「あなた自身のイデオロギーを投影し」て、フェミニズムを「絶對に正しい」と思ひ込んでしまつてゐるだけなのです。
表記を根拠付ける原理も何も無いと思ひますが。擬聲語や擬態語について、Tskk氏は「表記の問題がある」と言つてゐますが、表記以前の問題でせう。なぜ日本語で犬の鳴き聲が「ワンワン」なのか、その假名遣の根據は何か、等と聞かれても、「知りません」としか答へやうがない。と言ふか、「クスクス」「ワンワン」の假名遣、と云ふのがをかしい。「表記の決り」としての假名遣は、「決り」が必要なところで必要になるものに過ぎない。
笑い声の表記法と、假名遣ひとは、何の關係も無い。次元が異る話である。それを「表記」の一語で結び附けるのは、ただの聯想ゲームに過ぎない。
表音主義の極北からみれば現代仮名遣いも歴史的仮名遣いも五十歩百歩、と云ふ發想が、何處から出てきたのか、全くわからない。歴史的假名遣は表音主義でないのだから、そんな比較をするのがナンセンスなのだ。
人類の明日を支配するものは何か? アメリカン・デモクラシーか、ソヴェト・コミュニズムか、或いは、所謂第三勢力の中立主義か?
わが思想界もこの分野に分れて論爭をくり返す。それは餘りにも觀念的な論爭ではなかろうか。
私たちは先ず正しい歴史の見方から學ばねばならない。その正しい批判の目を以て、この嚴しい現實を見極めねばならない。そして歴史を動かすものは人間であつて、觀念ではないことを知らなければならない。
……。
児ポ法改悪反対者が当然に政党政治を意識しているというイメージがあるのなら、それは思い込みだよ、と言いたかっただけです。
頼まれもしないのに、
55年体制を持出した理由として
児ポ法改悪反対者が当然に政党政治を意識しているというイメージを
持ち出してゐます。云々。
いちおうは公式な解釈を提示するためにあるところの法解釈学と、色々あることが前提の文学理論とでは、違う方を向いてるんじゃないかと。
本気で道徳として通用したのかと云ふ疑問に對しては、「日本でキリスト教が普及した事はない」から「キリスト教的ではない」と云ふ答がすぐに出る。
全てを矛盾無く理解すべきだという信念を持つ人にすれば、矛盾はただそれだけで許せないものだろうが、そうではない人にすれば、突きつけて意味のあるムジュンと、どうでもいいようなムジュンとは別で、それは非論理的な文脈から判断される。
突きつけて意味のあるムジュンと、どうでもいいようなムジュンとがある事を、
全てを矛盾無く理解すべきだという信念を持つ人は何時いかなる場合にも「知らない」のだらうか。矛盾を氣にしない人が、
突きつけて意味のあるムジュンと、どうでもいいようなムジュンとを何時いかなる場合にも的確に區別出來るものだらうか。
非論理的な文脈から下した判斷が、果して判斷として誰もが受容れ得る妥當な判斷であると言へるだらうか。
内的には無矛盾な世界認識が複数あり、しかしそれらが互いには矛盾している、ということはありうると思う。矛盾が残る世界認識同士ならなおさらだ。そういう価値観のほうが今の流行だと思うんで俺はそっちに付くことにする。
付く行動ではなく、消極的に「流される」ものだと思ふが如何。
矛盾が残る世界認識であつた共産主義を批判しなかつたが爲に一世紀に亙つて世界の思想の進歩が停滞した、と云ふ事實がある。
論理より美のほうが俺は好きだぜ。
新しい風を吹き込むきっかけになる可能性もまったくないとはいえないのだから、ありだとは思ふが、既に存在し確立されてゐる學問について知らない人間がそのやうな變な可能性にばかり興味を持つのはナンセンスだと思ふ。だから俺は、正統的な學問により興味を持つ。そもそも、「正しい」と認められてゐる價値觀について、その存在理由なり論理なりを知つてゐるからこそ、「正しくない」とされる價値觀が、本當に正しくないのか、或は正しい可能性があるのかないのか、を判斷出來ると云ふものだらう。無智の状態で、「怪しげ」な本に接すれば、その本の著者の語氣に欺され、その思想に取込まれてしまふ危險がある。そして、樂しく「トンデモ本」なり何なりを讀んでゐる時點で、讀者は既に前提條件としての「既存の正しいとされる價値觀」の存在を受容れ、身につけてゐると言へる。「知的ゲーム」を「知的ゲーム」として樂しむには、知性が事前に存在してゐる事が必要である。
俺が現代的な価値観を追うのは、それが哲学的に面白いからではありません。単に、市場的にそういう人間の価値観に合わせたほうが得策だと思っているからです。テーマの哲学性に面白さを求めてるわけではないからです。そういうのは同人誌ででもやればいい。
真理のうちには恣意的ではないものがあるとして、どの真理が恣意的でどの真理が恣意的でないかを経験的事実から論理的に証明することが可能でしょうか?
反論できないなら黙って従え、というのも、かなりたちの悪い支配構造だと思うのですが。
金持ちや力持ちが支配するのはいけないのに、頭のいい奴の支配は正当化されるんですか?
頭のいい奴=「正しい論理」である訣でない事は明かです。そもそも、
頭のいい奴もまた人間であり、人間は全て「時として誤る存在」である以上、
頭のいい奴も時として誤ります。だから、私は
頭のいい奴によつて世の中を支配せよ、等と主張してはゐません。ただ、「人による支配とは異る、世の中を動かす原理としての論理の存在を認めよ」と言つてゐるに過ぎません。
金持ちや力持ちの支配に抵抗するのに、「人間の實力による支配力」とは異る「論理自體の支配力」を用ゐようと云ふのが、近代に提唱された新しい價値觀ではないですか。そもそも、非論理的で政治的な支配に抵抗するのに、論理と倫理と云ふ「新しい原理」を提唱したのはイエス・キリストで、西歐の論理主義には二千年の傳統があります。
理想主義とは、先天的(アプリオリー)の即ち經驗から導き出されたのではない能力の存在を主張することを特色とする哲學である。國家主義では、國家が最高の價値と看做されるが、看做すのは個人である。マルクス主義では、ただ現象を分析するだけで足るとする建前を標榜し、價値や理想の存在を否定する唯物主義が主張されるが、現實の生活に於て何をとり何を捨てるかと云ふ選擇をなす時、「ない」と定義されるにもかかはらず依然として個人の價値觀に基いて選擇をしてゐる。理想主義では、個人が價値觀を持つ事を前提に、個人が自己の人格を成長させる事を人生の目的と認め、個々人の獨自の人格を認め、同時に個々人に獨自の人格を涵養する努力をなす責任を要求する。河合榮治郎「現代における自由主義」
お気づきでしょうが,岩波文庫の小口(背を除いた三方)のうち二方はカットされて滑らかですが,天だけはアンカットです(むしろこの方が製本所さんにとっては大変),フランス装風の洒落た雰囲気を出すためということなのですが,いかがでしょうか。
ごまかしの技術としての「レトリック」を肯定すべき理由を、まづ伺ひたい。もし「レトリックによつて『巧く欺された、面白い』と感じられるのならば良いではないか」と高橋氏が主張するのならば、その種のレトリックが何時いかなる場合にも「面白い」ものでなければならない。しかし、その種のレトリックは、面白くない事もある。その「面白くないレトリック」は、果して「惡いレトリック」ではないのか。そして、その種の「惡いレトリック」を高橋氏は肯定出來るのか。
改革をなかつたことにできるか。
彼は自ら記した「わたくしの哲學的世界觀」(Ma conception philosophique du monde)のなかで次のように自己の立場を規定していた。
「わたくしの哲學的思索の中心には、人間の問題が見出される。わたくしの哲學がすべて本質的に人間學的であるのは、この理由によるのである。人間の問題を提出することは、同時に自由の、創造的作業の、人格の、精神の、歴史の問題を提出することになる。わたくしが主として宗教哲學、歴史哲學、社會哲學、ならびに倫理學を論ずるのは、この理由によるのである」。
ベルヂャエフの哲學は實存主義の類型に屬するが、それは同時に精神の哲學、人格の哲學であり、その根本的な性格は、精神と自然、自由と決定、主體と客體化、人格と一般者、神の王國とカイザルの王國との、二元論である、その世界觀の出發點は存在に封する自由の優位であり、ここにこの哲學の極めて動的な性格が決定される。人間の自由は神によつてさえ決定されえない。人間が自由であるということは、人間が精神であり、人格であるということ、すなわち人間は自然に隷屬する制限された存在であると共に、神に肖せて造られた一つの神格であるということに由來する。人格としての人間は常に全體であり、小宇宙であつて、存在と存在の意味は人間的實存の主體を通してのみ示される。この觀點によれば、たとえば社會は人格の社會的側面であり、人格の内部には社會によつて條件づけられない精神的な原理がある。「宇宙の内容を結合し、個物的な形態における可能的宇宙たりうるものは、ひとり人格である」と言い、「人格は宇宙の一部ではなく、宇宙が人格の一部であり、宇宙は人格の質である」というとき、ベルヂャエフの精神哲學、人格主義の哲學の核心が示される。
主體としての人格に對比するとき、社會、國家、國民、家族、文明、教會、歴史のような、客體世界に屬する集團的現實は至高の價値ではない。こうした集團的現實を至高の價値と誤解するとき、人間は容易に奴隷となる。人格は外在化し、客體化し、能動性を失う。この状況はまさに人格の本質に矛盾し、人間のあらゆる虚僞の幻想を生み出す源泉であつて、ベルヂャエフは本書の全體を通じ、いろいろに變貌し、且つ極めて洗錬された形態をとつて人間を待ち伏せているこの隷屬の性格を把えて分析し、その魅力の理由と結果とを徹底的に暴露するのである。この意味において彼の哲學はまことに自由の哲學であり、解放の哲學であつて、精神の貴族性を擁護する戰鬪の哲學、まばゆいばかりに白熱した生命の哲學、復活の哲學である。
論理的な主張をした場合は、それが論理による他者の支配に置き換わるだけなんじゃないでしょうか。
論理は他者を抑圧するシステムでもありえます。
ひとは論理によらずとも反省できます。例えば俺は、俺の主張のせいで苦しんでる人や悲しんでいる人を見せられたり、そうなる可能性を納得させられれば(それは非論理的な方法でも構わない)、反省します。
納得させられた時點で、論理によつてゐる事は明かです。
苦しんでる人や悲しんでいる人を見た→可哀想だと思つた→自分の意見を撤囘するなり何なりする事によつて、彼等は苦しんだり悲しんだりしないやうになるかも知れない→自分の意見を撤囘するなり何なりしようと思ふ」と云ふ一聯の思考の流れは、理性と感情との相克を經たものであり、明かに論理的に結論を下してゐます。
何かが「本当に正しい」かどうかは、政治的に非論理的にしか定まらないものだと思うのです。
意識して論理的になったら何か面白いことがあるんですか?
55年体制を「俺の時代」に含めても別に問題はないのですが。
55年体制は私が單に「高橋氏が『俺の時代』に含めてゐないだらうな」と推測したものの中の一つに過ぎませんし、實際にはその「一つ」に
55年体制が含まれてゐるにしても、他のXが含まれてゐない可能性は非常に高いと思つてゐますし、さう云ふXがあるならば高橋氏の「俺の時代」は「ありのままの時代」ではなく「自分に都合良く選擇された時代の一部分」に過ぎないと云ふ事になります。そして高橋氏は、その邊の疑問點について、何ら釋明をしてゐません。
法律のように具体的な条文に基づけず具体的な解釈学も成立していない文学作品論のほうが、よほど抽象的だと思うんだけど。
文学作品論で
具体的な解釈学も成立していないと高橋氏が言切れるのは何故ですか。文藝作品の解釋の方法については、單なるテクスト解釋のレヴェルから樣々の立場からする解釋論まで存在してゐます。
僕は何を描くかよりどう描くかに重点をおいて歌を評価します。つまり技巧です。
政治において論理性より強度が意味を持つというのは別にナチズム・ファシズムに限った話ではなく、どの政治体制でもそうだと思うけど。
そもそも55年体制って、意識してないといけないものなんですか、それこそ「古臭い政治性」じゃないの? と俺も皮肉で返したわけですが、互いに皮肉さえも通じない価値観の食い違いは、どうしたものか。
55年体制だけを意識しろと言つた訣ではないのだが? 高橋氏が「俺の時代」と言ふ時、「時代」全體ではなく自分に都合の良い「時代の一側面」しか意識してゐない事を皮肉つたのだけれども、相變らず通じてゐないやうだ。「古臭い政治性」つて、何が新しくて何が古いかなんて、それこそ相對的なものではないか?
レトリックや文学的技巧の話。もちろん俺はごまかしの技術としてのそれも真正面から文学的に肯定してるんです(もちろんごまかしじゃないレトリックや文学的技巧も肯定しますよ)。
文学的に肯定してるんです、と云ふレトリックが惡きレトリックである事に氣附いてゐないやうですね。
論理的一貫性にこだわるために55年体制やロボトミーや大江健三郎作品について論じるのは、児ポ法について考える上でかなり不毛だと思いますが。
コピー本を買っていただけるのでしょうか、ありがとうございます、住所をいただければ郵便か宅急便かで一冊送ります。
あっと、一応確認ですが、これは、18禁のエロ小説ですので、お買い求めになる場合はその点ご理解の上でおねがいします。
専守防衛なら非政治的と言える可能性がありますが、(他者への)批判という時点で政治性を帯びてしまいますね。
ちなみに私は「他者をコントロールする手段」が政治だと思いますが、野嵜さんの言うところの政治とは何ですか?
「論理は、非論理的なコミュニケーションによって増殖してきた」と云ふ結論は認められません。「全てのコミュニケーションは完全に非論理的である」と云ふ前提條件がない限り、そのやうな結論は出ません。
戦後の国語改革についてのまとめ。
ある男の展開した文学・道徳観が、エロゲのみならず大江・司馬作品やミステリ自体を否定するという帰結を見たとします。
帰結なんかしてゐないよ?
帰結したと言へるんだ?
意図というのは事前的には決まっていなくて書いているうちにだんだん固まっていくものだったり云々と云ふ事がどうしてわかるのだらうか。
一貫した意図を読み取らなければならない、と云ふ話はない。
分かってると思いますが、「55年体制」などという単語を頼まれもしないのに持ち出す貴方への皮肉ですよ?<体制を意識したことが無い
例えば俺の書いたものを「俺の意図」より面白く読む人も存在する。
俺の意図よりも「讀者の讀み」を優先すると言ひながら、私が高橋氏の文章を讀んで
「55年体制」などという単語を持出したのを否定してゐる。高橋氏は、自分の文章に限つては
作者の意図があり、しかもそれは尊重されるべきである、と考へてゐたのだが、その一方で、
俺の意図とその読みとどちらに価値を置くかと問われれば、俺でさえより面白い読みのほうを取るよ。と宣言する。
つまり元の議論が埋もれて分からなくなるくらいの無意味で長い論理的泥仕合に持ち込むことこそが彼の有効な「作為的な扇動」のテクニックですよと。
「55年体制」などという単語を意識した事もなからう、高橋氏の「俺の時代」に
「55年体制」などという単語は存在しないのだらう、と皮肉つたのに、
分かってると思いますが、「55年体制」などという単語を頼まれもしないのに持ち出す貴方への皮肉ですよ?と素で返してしまふ高橋氏は何うかしてゐると思ふ。
体制を意識したことが無い事を皮肉つたのに、自分は
体制を意識したことが無いんだよ、それもわからないのか?、と高橋氏は言返したのだが、どうして高橋氏は相手の意圖を讀めないのだらうか。
最近のJ−POPだけがそうなんじゃなく、そもそも日本語が主語なしでもイケる言語だということなんじゃないだろうか。
野嵜氏の拘る論理も私には他者殲滅型模倣子という政治的なものの一種に見えます。
ノイズが多い環境でノイズに弱い表現技術を使うのが間違いでしょう。論理的に緻密な文章にはそのような欠点がしばしば見られると思います。
論理的に緻密な文章ではなく、人間の側の問題だと思ふが如何。
そもそも相手を攻撃すること自体が相手の反撃や抵抗を引き起こすために意見の伝達には不向きかと思いますけれど、とりあえずそれは棚上げしておきます。
「哲学する」ということが「よく生きる」ということの同義語であったことを、長い間人々は忘れていた。多くの場合、「哲学」は観念や理論のおばけとなり、「よく生きる知恵」はそこからすべり落ちた。アランは、哲学が倫理的、道徳的な学説をめざすことを、まことにきっぱりと断言する。その意味は、欲望、野心、おそれ、悔恨などを規制するための善と悲とに関する正しい評価こそ、まさに主題であるということである。こうして、この本では、「感覚による認識」「秩序立った経験」「推理による認識」「行為」「情念」「道徳」「儀式」の七部にわたって、さまざまな問題がとりあげられる。アランのこの「哲学概論」は、あくまで市民に向かって開かれたものである。アランはこう書いている――「この本が職業哲学者の批判の対象となって、とやかく言われるとなれば、そう思っただけで、書いたときのわたしの生き生きとしたよろこびはだいなしになるだろう。」
「ケータイ」と呼ばれますが、日本語をダメにするカタカナ表記なので、以下「携帯」と表現、とあつた。
国際法などの近代以降我々が整えた世界平和のための制度が、つまりはこの「世界平和」そのものが、彼らにとっては我々の支配構造を安定化させるための抑圧的な装置に過ぎないのだとしたら、いいか悪いかの問題ではなく現実問題として、それを踏み破ってこちらに打撃を与えようという連中はこれからも現れるだろう。
そもそも「体制」という概念を意識したことが無いんですよ。と言つてゐる割に、
制度とか
支配構造とかいつた概念は意識し捲りである模樣。
いいか悪いかの問題ではなく現実問題として、とか、
ともかく、変わっちまうもんはしょうがない。、とか、さう云ふ考へ方は個人的に大嫌ひで、まだしも平和主義者の方が好感が持てる。
世界の50%の富を5%の先進国民が独占しているというこの不公平を、我々がその5%に所属して生を謳歌しながら善良であろうとすることの矛盾を、どう受け止めればいいのか。
現実を認めることとそれを肯定することは違う、
いいか悪いかの問題ではなく現実問題として、等と言つて、自分の文章が價値判斷とは無關係であるかのやうな顔をする。高橋氏の建前と、高橋氏の文章とは、明かに矛盾してゐる。しかし、高橋氏はただ、自分は「どうでもいいつじつま合わせ」はしない、と言つて、自分の文章の矛盾を指摘する批判を一蹴する。それでは「どうでもよくはないつじつま合わせ」なんてないと高橋氏は主張するのかと言ふと、さうでもないらしい。
ブログでどうでもいいつじつまあわせに付き合うことが社会の為になりますか?
社会の為になるとは、一體全體、どのやうな事ですか。
いいほうに変わることもあれば悪いほうに変わることもあるだろうし、変わってよかったこともあれば変わらなかったほうが良かったこともあるでしょうが
変わっちまうもんはしょうがないのであつて、良い惡いはどうでもよい、と思つてゐる筈である。にもかかはらず、高橋氏は
社会の為と言ふ。
ブログでどうでもいいつじつまあわせに付き合うことが社会の為になりますか?と輕くいなして自分の話を平然と續ける。
社会の為になりますか?高橋氏のエロゲは、
社会の為になりますか?そんなのは
どうでもいい話ですか。
勝利宣言してもらって構わないと言つたんでせう?
法に関しては別問題なんですよ。プログラムが論理で動くものであるのと同様、法も論理で動くものですから、つじつまあわせは大事です。実際に俺たちの表現活動に影響し得るから気にしてるわけで。
つじつまあわせをするのは、俺たちの表現活動に影響し得るからに過ぎず、ほかの發言も合はせて考へれば、單に「俺のもの」を守りたいだけであり、法律の
つじつまあわせなんてものは高橋氏にとつては單に戰術に過ぎない。
矛盾、論理、一貫性と連呼してますが、論理性の追求なんてのは、ようするにつじつまあわせに過ぎず、ありていにいうとくだらないと思ってるんで、ほどほどに切り上げていいですか?と述べてゐる。俺は、法律の
つじつまあわせなんてのは
ようするにつじつまあわせに過ぎず、ありていにいうとくだらないと思ってると言つただけである。それを高橋氏は許せず、俺が
法律議論をしようとしないのを、恰も絶對的な惡事を働いてゐるかのやうに極附け、非難した。
法律議論の領域のみで論理的でありさへすれば良いと自分は主張してゐる、と言張る。自分が、
法律議論の範疇からはみ出した場所で論理的である事を主張してゐるにもかかはらず。
法律議論における論理性を主張するには、
法律議論の一段上のレヴェルの論理性も認めなければならないし、その一段上のレヴェルの論理性を認めるならば、一般的な論理性をも認めなければならない。にもかかはらず高橋氏は、
法律議論における論理性のみを認め、それ以外の全ての論理性を「どうでもいい」と看做し、自分の發言の非論理性を「是認」してゐる。
用法に違いがあるということは分かりました、と言ひながら、高橋氏は
彼の用語法自体を俺は容認したくないのだから、と言つた。
理論の流布にかこつけた
茶々に過ぎなくなる。
2ch のライトノベル板の評価と実売とはかけはなれてる。2ちゃんねらーの面白がり方は世間の常識から懸離れてゐるので云々。駄目で電波な作品ほど祭にされがち。
旧字体や旧漢字は、私にとっては無意味なハードル以外のなにものでもありません等と言つたりする。
分かってると思いますが、「55年体制」などという単語を頼まれもしないのに持ち出す貴方への皮肉ですよ?<体制を意識したことが無い そういう意味での体制なんか今気にしてなんになるの。
「政策で政党を選ぶ時代」と言うのが最近のスローガンのようですが、いいか悪いかは別にして、そういうご時世に政党シンパのレベルで物を語る古い政治性を皮肉ってるわけです。
野嵜さんの児ポ法に関する振る舞いは思いっきり「政治的」(というより「政略的」かな?)なんですよ。それも古いタイプの。
道徳性なんてしったこっちゃないし、
単に戦術に過ぎませんよ<法律のつじつま合わせ、と云ふ發言が證明してゐる。
「法律を無視して人を弾圧するのはよくない」というのも、「人を殺してはいけない」というのと同じように、悪く言えば単に利用しやすいお題目です。
そのお題目を受け入れるかどうかは非論理的な信念の問題です。例えば世間一般にも聞く耳を持つ人はいるでしょうし、法律家はもっとマジメに聞いてくれるでしょう。野嵜さんは受け入れないんでしょう。ただそれだけのことで、これくらいは前提だと思ってたんだけど、そうではなかったようですね。
お題目を受け入れるかどうかはそれ自體、賞賛したり非難したりする理由にならない。當り前の話だ。
お題目を受け入れないからと言つて、
貴方が周囲から見て十分アレな人だなあと分かったと高橋氏が書くのはをかしい。高橋氏はなぜ俺が
アレな人であると
分かったかを説明出來ない。高橋氏は、俺の意見は高橋氏の意見と違ふ、と云ふ事しか説明出來ない。それなのに高橋氏は俺を非難する。目茶苦茶である。
貴方の「ちょっと待て」が通用するかどうかは、貴方の言葉の強度に掛かっているのであり、貴方の言葉の論理性には掛かっていないのだ、ということをまず受け入れたほうがいいかと。
宣伝はすべて大衆的であるべきであり,その知的水準は,宣伝が目ざすべきものの中で最低級のものがわかる程度に調整すべきである。と述べたとの事ですが、高橋氏のやつてゐる事はナチスのやつてゐる事と變りませんね。俺は、さう云ふファシズムに反對してゐるから、主張の論理的一貫性を重視してゐるんですがね。
そしてそれがもっぱら大衆の感情をいっそう考慮すればするほど、効果はますます的確になる。――高橋氏は理性でなく、感情に訴へる戰術を取り過ぎ。ナチスに反對してゐるやうな顔をしつゝ、高橋氏はナチズムを實踐してゐる。だから俺は高橋氏の主張を批判せずにはゐられない。
一人や二人のお客さんのお眼鏡にかなわなかっただけでいちいち凹んでたら、作家なんてやれませんよ(それでも、鋭い批判にはたまに凹むけどね)。
貧乏人を踏みにじることを前提に、時々テロられるし運が悪ければ死ぬということと引き換えに得た裕福さ、まさしく弱肉強食で運次第の世界観が支配する状況で、人々に社会制度への信頼や遵法意識が育つだろうか。もちろんこれはただの杞憂で、案外大丈夫なものなのかもしれないけど。
貧乏人と
裕福な人間との間に對立構造を見出し、資本主義を
弱肉強食で運次第の世界観と斷ずる高橋氏の態度が、共産主義的な古臭いものである事を、高橋氏は自覺してゐないのだらうし、認めようともしないのだらうな。そして、高橋氏の「目的が戰術を聖化する」態度もまた、明かに共産主義的なものである。「道徳なんてどうでも良い」と言ひ、俺の政治主義に反對する態度を「政治的」と極附ける高橋氏の態度も、「ブルジョアを利する行爲は全て政治的に敵である」と看做した共産主義の態度と一致するものである。
司馬文学と大江文学(に限った話でもなさそうだが)を否定しミステリを無意味だと断じた上で、持ち出す積極的価値がせいぜい旧かなと正しいHTML程度という「論理」に、世間の意見を異にする人々に自分の生活実感を捨ててついてこさせるだけの有効性が、果たしてありますかねえ。
ああいう物言いでミステリを全否定するような人に、普通にミステリを楽しんでいるであろう世間の人がついていくとも思えないんで、云々。
旧字体や旧漢字は、私にとっては無意味なハードル以外のなにものでもありませんと云ふ非難には説得力がない、と云ふ反論になるんでせうが。
持ち出す積極的価値が等と言出すのだらう。この人、話の流れを全然讀めてゐない。適當につつこめさうな處があれば取敢ずつつこむ、と云ふ高橋氏のやり方が批判として有效なものか否か、高橋氏は反省したら何うか。もちろん、高橋氏は、自分のやり方は、自分自身では「正しい」と信じてゐるし、それを受容れない人間は「アレな人間」であると思つてゐるだけである。
いや、「社会の為」を持ち出したのは俺じゃないからなあ。コメント欄まで目を通していただいてるのはありがたいですが、そのひとつ上の発言を見てくださいな。彼の言葉を受けて切りかえしているだけですよ。と曰ふ高橋氏が、どうして
彼の言葉を受けて切りかえしているだけの私の事を非難するのかなあ。不思議だなあ。「アレ」なのは私ではないのですよ。
人々に社会制度への信頼や遵法意識が育つだろうか。
社会制度への信頼や遵法意識なんて所詮政治的なものだ、と言つてゐるのだから。「同じ政治的なものに拘るのならば進歩はない、政治とは異る視點のある事も學ぶべきだ」と俺は言つてゐるのであり、政治的な態度やその變化に拘る高橋氏の主張とは次元が異る。
西澤(揚太郎)は名編集者としての手腕の持主でもある。前記の第一次「劇文学」では、蓮見大作と、第一号に真船豊の「鼬」を、第二号に水木洋子の「クレオパトラ美容室」第三号に田口竹男の「京都三条通り」第四号に岩名ゆきのもの(作品名失念)第五号に今村紳一郎の「エミグラント」と次々に新人の問題作を紹介した。第一次「劇文学」は第五号を以てか、あるいはあと一、二号でつぶれてしまったが、その功績は今になお、大いに讃えられていいはずである。更らに第二次「劇文学」の第二号だったと思うが「別荘地帯」という秀作が載せられて同人たちの目を見はらせた。発表後のことだから、同人の一人であることと、作者名は知ってのことだが、どんな人物であるか、僕は異状な興味をもって西澤に質した。帝大(東京)の学生だという。若くみられるのがいやで同人たちに匿していたが、当時僕もある私大に籍を置いていた。だからたいして齢も違わないわけだが、福田恆存というその学生には並々ならぬ力量を感じ、脅威のようなものを受けた記憶も残っている。
「人間を動物の次元に貶めるのは良くない」と書いてゐるのだが。
たとえば脳に何か埋め込んで云々と書いたのだと云ふ事。ロボトミー云々で俺を非難する前に、自分が言つた事がをかしい事を高橋氏は自覺し反省すべきだ。
治療法とは本質的・絶對的に異るものを持出して論じてゐるのだから、
治療法としての「良し惡し」を論じるのは全くの見當外れ。
俺の青春時代の日本なんて存在しない。
俺は今、現代を追いかけているのです、と言ふが、高橋氏の追ひかけてゐる
現代とは、具體的に以下略。
「人間を動物の次元に貶める」方向で頑張ります。
少なくとも、ロボトミーはそれとは違いますよ?
違いますよ?等と言つたところで同じものは同じなのだから仕方がない。
(補足)ロボトミーの非合理性について。スコップもショベルもあるのになんでわざわざ手で穴をほるの?
人々から哀しみや怒りを消し去ってしまう事は出來る。
人々から哀しみや怒りを消し去ってしまうと云ふ目的はどうでも良くて、とにかく
脳に何か埋め込みたいだけであると言ひたいのですか??? 高橋氏の言ふ
技術とは、
脳に何か埋め込む技術の事で、
人々から哀しみや怒りを消し去ってしまう技術ではないと???
文化や宗教の発展によって人間性のあり方は変わってきただろうと思うのですが。と高橋氏は言ひました。その
変わってきた
人間性のあり方とは、腦に埋め込む何かの事ですか。高橋氏にとつて、
人間性のあり方は
哀しみや怒りと無關係のものであると云ふ事ですか。
人間性のあり方を持出したり
非合理性を持出したりしてゐる時點で、高橋氏の主張がダブルスタンダードである事は明かなんですよ。
法に関しては別問題なんですよ。
貴方にとって「つじつま合わせ」や「帳尻合わせ」はあらゆるシーンで有意味なんでしょう?
重大で回避できない副作用を持つ治療法を否定するのに、倫理観なんかいらないでしょう。単なる合理的な判断です。
合理的は良いけれども、どんな
理に
合してゐるんですかね。
重大で回避できない副作用について、「良くない」と云ふ價値判斷を下してゐるのだから、高橋氏が
倫理観に基いて判斷してゐる事は自明です。
架空の技術の話と高橋氏は言つてゐるけれども、架空でなくて現實にさう云ふ技術が存在してゐるんですよ。
「保守派」とは変化を否認する人のことではないでしょう。
変化を否認してゐるのだから仕方がない。
俺は別に今の自民党政権に対しても否定的ではないですが、なんでそんな風に思ったのでしょうか。
今の自民党政権ではなかつたのでせうか。
悪夢だなあと思ふけれども、
そうなる可能性は認めるしか無いし、もしそうなったらその現状もまた認めるしかないと思つてゐて、それで
今の自民党政権を
是認すると言ふのでせうか。
そもそも俺には「究極の地点までつきつめて考え」る指向がありません。矛盾、論理、一貫性と連呼してますが、論理性の追求なんてのは、ようするにつじつまあわせに過ぎず、ありていにいうとくだらないと思ってるんで、ほどほどに切り上げていいですか?
論理性の追求は
つじつまあわせに過ぎないし、
くだらない、と高橋氏は主張してゐるのですか。
つじつまあわせもせず、支離滅裂な事を言ひながら、自分への反對意見を「くだらない」と極附け、反對者を見下す態度は、誰がどう見ても立派な態度とは言へない。にもかかはらず、自分の意見を守りたいと言ふのは、蟲が良過ぎる。
論理性の追求なんてのは、ようするにつじつまあわせに過ぎず、ありていにいうとくだらないのならば、「児童ポルノ法」關係の事を「法的に辻褄が合はない」とか言つて非難しても、説得力が無いだらう。
たとえばその道徳性の無さにである場合、この作品ははっきりと「背徳性」を謳ってあるので、そういうものとして読むべきかと。
「背徳性」を謳ってゐるにもかかはらず、結末で突然
倫理観が登場してくるのが
納得できない、と云ふ話。
論理性の追求なんてのは、ようするにつじつまあわせに過ぎず、ありていにいうとくだらないと思ふ權利はない。
勝利宣言してもらって構わないと高橋氏は言放つが、議論で敗北したら、自己の主張が間違つてゐる事は承認しなければならないのであり、間違つた自己の主張は捨去らねばならない。しかし、高橋氏は、自己の意見を變へる積りが全くない。ならば、勝利とか敗北とかを高橋氏は「是認」してゐない。
勝利宣言してもらって構わない、と高橋氏が言ふのは、議論における勝利や敗北は所詮
宣言に過ぎない、と言つてゐるのに等しい。詰り、高橋氏は、議論に勝利や敗北はない、と言つてゐる。しかし、それは結局、「議論はナンセンスである」と言つてゐるに等しい。高橋氏は、議論を無意味だと言つてゐる。
勝利宣言を出させる事で、自分の間違つた意見を守らうとし、保身を圖らうとしてゐる。さう云ふ狡い態度は、是認する訣にはいかない。
俺の出した例を指してロボトミー是認論だと野嵜さんは言いましたが、と高橋氏は言つてゐるが、俺は「高橋氏がロボトミーを是認しない」事を「をかしい」と言つてゐる。そして、その理由が
高潔な倫理観の問題でなく、單に論理上の問題である事を、高橋氏は理解出來ない。高橋氏は、論理的に矛盾があるか何うかの問題を議論出來ない。高橋氏は、互ひに矛盾する二つの發言を、それぞれに
高潔な倫理観に基く理由を附けて正當化し、矛盾してゐる事自體に何ら違和感を覺えない。
高潔な倫理観だと思つてゐる。しかし、人間の經驗は全て取返しのつかないものだから、取返しがつくかつかないかは大して意味のある問題ではないと俺は思つてゐる。と言ふか、酒にしろ煙草にしろ麻薬にしろ、取返しはつかないものだ。それに、俺は取返しのつけられる訣もない「安樂死」の問題にも言及してゐる。
俺の青春時代の日本を肯定するということと、それが変わりうるし既に変わってしまっているということを認めることとは、矛盾しないのです。
それが現在失われつつあることを、もちろんどうにかできるもんならしたいしそのためにやれることがあるならやりたいですが、と書き、のみならず、「當時一般的だつた價値觀」に反する主義主張を否定してゐるのだから、高橋氏の
認めると云ふ宣言とは裏腹に、實際に高橋氏は變る事を
否認してゐるのです。そもそも高橋氏は以前、自分は保守派だと述べました。
ちなみに、俺はあの頃の自民党政権に対して特に否定的ではないのですが、どうして俺が肯定しないと思ったんですか?
あえて「立看板みたい」に書いてこそのリアル、というのがあるんですよ。
元々一面的な「立て看板」みたいな奴もいて、そいつは立て看板として書くことこそがリアルなのだと。
リアル」に文句は言はない、と俺は何度も言つてゐるのだけれども。「リアルでない薄つぺらなキャラクターはリアルでない」から駄目だと言つてゐるだけで。
誤解だとは分かりましたが、一応書きます。と言つてゐるから、解つてゐるのかなー。高橋氏には前に嘘を吐かれたから。彼の「了解しました」「分かりました」は、今一つ信用出來ない。
文章の読み方の講義をしていただけるのはありがたいのですが、それで、野嵜氏の思考のどの部分が西洋近代を超えうると主張なさっているのですか?
西洋近代を超えうると、誰が主張してゐるんですか。
キリスト教は2千年と少し前には存在しませんでしたよ?云々。
人間を取卷く環境が變つただけだ、と書いたでせうが。
野嵜さんは、人間描写についてのみリアリズムを求めてそれを「人間らしさ」と呼び習わしているのか、それとも文学全般にリアリズムを求めているから人間描写についてもそうであるべきだと言っているのか、どちらですか?
ではその逆。野嵜さんにとって、作家の評価は則作品の評価ですか?
大江健三郎の話で言わんとしてる事はそういうことでしょう。等と言ふ。どうして
そういうことだと高橋氏は「わかつた」のだらう。
大江健三郎が道義にもとる酷い奴だ(ととりあえず仮定して)ということと、その大江健三郎の作品の評価と、何か関係があるのか、ということです。
大江健三郎以外の、たとえば子供のいない人がまったく同じ作品を書いたらどうなりますか。同じ作品なのに評価が上がるのですか。云々は、ナンセンス。どつちみち、全ての人間に子供が出來る可能性はあるのだし、片端の子供が出來る可能性はあるのだから、全ての人間に大江のやうな小説を書く事は許されないと言ふ事が出來る。
最も基本的な感情である喜怒哀楽でさえ作り変えることは可能だといっているだけです。
文化や宗教の発展によって人間性のあり方は変わってきただろうと思うのですが。未来の話をするならば、たとえば脳に何か埋め込んで人々から哀しみや怒りを消し去ってしまう時代もくるかもしれません。と書いた。高橋氏は、
人間性のあり方が過去に
変わってきた事を高橋氏は是認してゐる。そして、過去に是認された事ならば未來にも是認される、と云ふのが高橋氏の主張でなければ茲はをかしい。そして、
哀しみや怒りを消し去ってしまう方法として、ロボトミーが既に存在する。ならば、高橋氏は、論理の流れから言つて、その種の技術をも是認せざるを得ない。もちろん、
是認なんかしてないと宣言する事は自由だが、それでは高橋氏の主張の中で「ロボトミー否認」と云ふ主張が浮上がつてしまふ。高橋氏の全體的な主張と、「ロボトミー否認」と云ふ主張とは、整合しない。
人間性のあり方は変わってきただろうと云ふ事を「是認」する高橋氏の態度は何なのだ、と云ふ話だ。
高潔な倫理観の表れ云々の問題ではなく――もつとも、高橋氏がロボトミーを「否認」する理由は
高潔な倫理観に基いてゐるやうだが――高橋氏の主義主張が一貫してゐない、と云ふ點で俺は高橋氏の主張に疑問を抱いてゐる、と云ふ事だ。
だから、近代的自我が嘘臭くないのと同程度には嘘臭くないと言っているのですが。<一面的人物描写
一面的人物描写は
嘘臭くないと高橋氏は主張してゐる。しかし、或種の
一面的人物描写は嘘臭い。その種の嘘臭さは指彈して良いだらう。どうしてその種の明かに嘘臭い
一面的人物描写をも、高橋氏は擁護しなければならないのだらう。
つーか、まず根本的におかしいのが、文学が「現代の風俗を無批判に肯定し」てはいけないという思い込みです。全ての文学は現代風俗に対して批判的であるべきなんですか? いや、そういう文学があっていいとは思うけど。
何かがありうるという想定/あるという認識と、肯定することとは別です。
ロボトミーがダメだという理由も、もしかしたら僕と貴方で少し違いがあるかもしれない。
念を押しておきますが、僕はそれをいいとも悪いとも言ってません。あり得ると言っているだけです。
ダメなんだか
いいとも悪いとも言ってないんだか、はつきりして下さい。
貴方は俺をロボトミー是認論者だ、と批判した。と云ふ反論がをかしい。俺は、高橋氏が必然的にロボトミーを肯定せざるを得ないのに、肯定しないから、論理的に一貫してゐないとして批判してゐるに過ぎない。
ちと陰慘なはなしを書いてゐる。さらに言ふならば、病氣の苦しみから逃れる爲の安樂死の問題も絡んで來よう。安樂死については森鴎外の「高瀬舟」と云ふ短篇小説が非常に有名。高橋氏は森鴎外と言ふと保守反動の軍國主義者と思つてゐるかも知れないが、その鴎外は安樂死を全面的に否定などしてゐないのである。「高瀬舟」では、どちらかと言ふと、安樂死に肯定的である。
だから、近代的自我が嘘臭くないのと同程度には嘘臭くないと言っているのですが。<一面的人物描写と云ふ文章を引いて、俺は
全てのと書いたのだが、それに對して高橋氏が一面的人物描写は嘘臭くないと高橋氏は主張してゐる。
なんか変だな、どこからそんな認識になったのだろう、と思って読み直してみたのですが、と言つて、俺の文章を讀み直してゐる。何なのだらう。高橋氏は高橋氏自身の文章を讀み直さなければならない筈だが。
もしかして、この「人間らしからざる」は、「善意の塊や正義の塊や特定の政治的イデオロギーの塊や惡意の塊や美の塊」が「人間らしからざる」ものだ、という意味ではなく、「善意の塊や正義の塊や特定の政治的イデオロギーの塊や惡意の塊や美の塊」の中に、人間らしいものと人間らしくないものがあって、そのうちの人間らしくないもののほうはダメだ、という意味なのですか?
しかし、人間らしいそういう描写と人間らしくないそういう描写は果たして客観的に判別できるものなのだろうか、という問題は残ります。多分、人によって感じ方は違います。
現在の風俗を肯定することと、それが変わりうる/変わることを認めないということとは違う。ともかく、変わっちまうもんはしょうがない。俺は俺の生きた青春時代の日本を肯定します。それが現在失われつつあることを、もちろんどうにかできるもんならしたいしそのためにやれることがあるならやりたいですが、「人間性のあり方は変わる」。だから、風俗も変わる。これは仕方が無い。
やっぱり「否認」の話になってますねえ。と述べる。これは、
現在の風俗を肯定することと、それが変わりうる/変わることを認めないということとは違う、と云ふ自分の主張が間違つてゐる事を、高橋氏が認めた、と云ふ事なのだらうか。
俺の生きた青春時代の日本を肯定し、變化を
否認する高橋氏が、
現実を認めることとそれを肯定することは違う、と云ふ見出しを附けるのは如何なものか。高橋氏の「肯定・否定」と「是認・否認」とは、一致し、兩者が
違うと云ふ主張を高橋氏は自分で裏切つてゐる。この邊の支離滅裂である事を高橋氏が支離滅裂と自覺してゐない事が、彼我の「すれ違い」の根本的の原因。
俺の生きた青春時代の日本とは、一體全體どのやうなものなのか。「55年體制」崩潰以前の自民党政權を肯定したいと、高橋氏は言はない筈。
俺は俺の生きた青春時代の日本を肯定します。等とは言へない筈だが、高橋氏は「言へる」と思つてゐる。それが高橋氏の主張が支離滅裂である原因。
「マルクスは何を意図したか」よりも「マルクスがどう読まれ後の歴史にどう影響したか」や「今マルクスをこう読むことが後にどう影響を与えるか」のほうがよほど重要だ。
影響なるものを理解するのは、高橋氏にとつて、どのやうな方法によつて可能なのだらうか。
影響なるものは、やはり文献なり資料なりに依つて知る必要がある筈だが、その資料はどのやうに讀まれるべきなのだらうか。
「イメージやニュアンス」とか言い出すのは半分ハズレです。私はわざわざ「意味」では無くて「機能」と書きました。
違和感は
機能なのだらうか。
主要な文意は維持したまま副次的な情報を加えるだけですから「頼つた表現」ではありません。カタカナ表現の意味が伝わらなくてもなお、言葉の意味という本体は残るのです。
伝わらなくても良いのならば、
副次的な情報の爲にわざわざ普通でない表現を用ゐる必要はないのではないか。
カタカナ表現のプリミティブな意味は、強調ないし異化作用というシンプルなものです。しかも副次的なものですから深く考えたりもしません。言葉の意味という重要な手がかりもあります。その結果、連想ゲームの範囲は比較的狭いと思われます。
シンプルとTskk氏は主張するが、
強調ないし異化作用であるにしても、どのやうな理由で
強調するのか、どのやうに
異化するのかがわからないのでは、讀者は多樣な意圖を推測可能であるから、
シンプルとは言ひ難い。「機能としてシンプル」とTskk氏は主張するが、具體的な意圖は複雜である。
論理的必然という点ではSGMLでも構わないかも知れませんが、実用性という点ではXMLの方が優れているでしょう。
実用性の話はしてゐない。
ですから、「たまたま〜に過ぎない」と言うのはある意味で正しいのですが、それで済ませてしまえるほど軽くもないと思います。
俺は、芸術的価値判断とは無関係であるという原則を押さえた上でなら、「政治的正しさ」に基づく批判には社会との軋轢を減らすために意味があると思うし、時に賛同も出来る。
新しい人間性等と云ふものは存在しない。人間性は時代によつて變らない。
議論においたって、相手にすべきは相手のテクストに書かれていることであり、相手の意図ではないでしょう。だいたい他人の心なんかわかりませんよ。テレパシストじゃないんだから。
相手のテクストに書かれていることを的確に讀取れと云ふだけの話だが。さうすれば、相手の意圖も、相手の心も、或程度までは、分る時は分る。テレパシーを受信して理解しろなんて誰も言つてゐない。文章を讀んで理解しろと言つてゐるだけだ。
相手にすべきは相手のテクストに書かれていることでありと書いてゐるのは解せない。
相手のテクストに書かれていることの何を
相手にすべきなのだらう。高橋氏は、
書かれていることだよ
書かれていること、と言張るかも知れないが、それでは何もわからない。
彼が強調する価値観は、キリスト教、個人主義、道徳と、これはもう綺麗に西洋近代思想に収まってるように思うのですが。彼のそういう思想から来る「人間らしさ」が近代ヒューマニズムを越える何かであるとはどうも思えないのですがね。
マルクスはもう死んでます。知りえない「筆者の意図」というものを相手にするよりは、テクストがかつて意味したこと/これから意味するだろうことを相手にするほうが本道じゃないかな。
文化や宗教の発展によって人間性のあり方は変わってきただろうと思うのですが。
つまり、リアリズムに基づく「御都合主義」「嘘臭さ」批判なのですか?
作家の評価と作品の評価は区別すべきでは?
テクストに書かれていること以外の「意図」を読み取れるほどには俺は彼を知らないし。
テクストに書かれていること以外の「意図」と。そんな物は讀取らなくて良い。餘りにも當り前の事だ。讀者は基本的に、文章に書かれてゐる意圖をまづ的確に讀取る必要がある。もし
テクストに書かれていること以外の「意図」を讀取りたいのならば、その前に「テクストにかかれてゐる意圖」を正確に讀取つて置く事だ。その後で
テクストに書かれていること以外の「意図」とそれとを比較するのは、自由にすれば良いし、そこで初めて的確な批判が出來ると言ふものだ。「文章に書かれてゐる事とは關係のないものを持出して相手を責める」のが「正しい批判のあり方である」と言ふのならば、「文章なんてものはそもそも要らない」と云ふ事になる。そして、批判は顏見知り同士でしか出來ない事になる。
未来の話をするならば、たとえば脳に何か埋め込んで人々から哀しみや怒りを消し去ってしまう時代もくるかもしれません。
哀しみや怒りを消し去ってしまうロボトミーの技術は、既に存在する。
「セマンティックWeb」などという寝言を大真面目に切り出された時点でギャグだと気づいて。
ギャグであるならば、
寝言でもなければ
大真面目に切り出したものでもないに決つてゐるが、馬鹿は平氣で矛盾した事を言ふのである。
自ら「引きこもり宣言」をした上で、それを実践により示している野嵜氏に関しては
だぁーかぁーらぁー、氏の二日の記述は、単なる生活描写か読者に与えたヒントであって、それが「引きこもり宣言」ではない。
信濃路は東日本のオアシスなのだとか。この本は、別に信州が何うの斯うのと云ふ例の件とは關係ナシに買つた。
レイプは犯罪です! ストーカーは愛です!と主張する登場人物を描く事は可能であり、夫れ自體は許される。しかし、日本國ではストーカーもまた犯罪である、と云ふ事を、作者はきちんと意識して、登場人物の言動を見てゐなければならない。何を書いても良いけれども、書き方によつては批判を受けるのも當然だ、とは、かう云ふ事。
現状にはその現状が成立した歴史的必然性があるわけですが、それを「間違つてゐる」「をかしい」と考える、あるいは言うのはなぜでしょうか?
ポータブル神様となると、單に何が何やらわからないだけだ。限定用法を敍述用法に變換すると、「神様はポータブルである」と云ふ事になるのだが、神様が可搬式であるとはどう云ふ事か。「ポータブルレコーダ」は可搬式の(音聲)記録装置で、訣がわかるが、「ポータブル神様」は訣がわからない。「何となく分かるだろ、分かれ」と言はれても、言葉としてをかしいのだから分る訣がない。
カタカナを混在させる表現は、仮にその意味が伝わらなくとも文意の主要部分は伝わるし、その違和感に違和感以上の機能を持たせられるなら、表現力を増す好ましい「日本語の乱れ」だと思うのですが、いかがでしょうか?
表現力を増すものであるとは思はないし、寧ろ言葉の言葉自體としての表現力を殺ぐ好ましからざる日本語の亂れだと思ふ。
白川静「孔子伝」なんて、感想を書いても喜ばれないだらう。
周囲の友人たちに奨めても、感動するどころか、読み通すことさえできない読書好きたちばかりであったが、呉氏自身は
浅学であるにもかかわらず、半分ほどは理解でき、強い感動を覚えたと云ふ。私はそんなに難しい本だと思はないで讀んだのだけれども、世間的には難しいんですかね。
なぜなら、一貫した人間らしさなどというものは存在しないから。
「書いてはならない」は、普通は禁止だと思うが。 「作者はさう云ふ人間を肯定的に書いてはならない。」どんなものを肯定的に書いてもいい。そして、どんなものであれ批判はされて当然である。たとえ書いていいものであったとしても。 何が言いたいんだ?
どんなものを肯定的に書いてもいいと言つたんだ?
彼のほうぼうへの茶々入れの目的って、茶々そのものにではなく、それにかこつけた彼の思想をバックボーンとした理論の流布にあるわけでしょう。用語法を押し付けるなんてのは思想を広める上で一番有効な手段なわけで、乗りたくなければ完全無視するしかなかったのかもしれませんな。
彼の用語法自体を俺は容認したくないのだから。
言うに事欠いて云々と嘲笑し始める。
ようするに一昔前なら人間扱いされなかったような人格のあり方が許容されるようになってきてるから、そういう人たちのための作品がいるんだということなのかなあと。
科学がキリスト教から産まれたとか、その辺りの偏執っぽさとか一応id:Tskk:20040103#p1で既に語ってるんですけれど。
ポータブル神様なんて解つてゐない言ひ方をしましたか。
ポータブル神様なんて言葉。俺は限定的に形容句を用ゐて概念を提示する事を好まない。
あのー、「サイボーグフェミニズム」の意味分かってます?少なくともググって見ました?日本的な連帯を語ったんじゃないんだけれどなぁ…
でも、1人では力も弱いし心細いから連帯しなきゃいけない。と言つてゐる。
連帯しなきゃいけないと言つてゐる時點で、Tskk氏が西歐の個人主義と無縁である事は明か。Tskk氏は、既に個人主義は乘越えたと思つてゐるのかも知れないけれども、やつぱり一度も經驗してゐないから
心細いから連帯と云ふ發想になるのだと思ふ。
連帯なんて生ぬるいとしか思はないだらう。現代思想にしても出自は西歐で、現地では明かに現代思想は實存主義を經て出現した思想である。實存主義は個人主義を經て出現した思想である。個人主義はキリスト教から出現した思想である。裏返して言へば、ニーチェが神を殺し、マルクスが神の國に代つて人による永遠樂土を夢見、T.S.エリオットが神の不在證明を行つて逆説的に神の存在を示し、ベケットがゴドー=Godの來訪をただ待受ける人々の姿を描いたけれども、西歐人にとつて、Godなる理念は單に歸依するだけの對象に非ずして、鬪爭すべき敵ですらあり、
ポータブル等と言つて濟ませられる存在ではない。Tskk氏は、その邊の事は知つてゐるだらうが、やつぱり解つてゐないと思ふ。そして、Godの事が解らない事をも意識出來ない日本人にとつて、「耐へなければならない孤獨」は存在せず、昔ながらの
傷を舐め合ふ道化芝居で安心出來てしまふのである。
……異性愛性規範からみて二重に倒錯した欲求なんて、どうやって人間性に回収できるものやら…、なんて言つてゐて、俺の「人間らしい」を高橋と全く同じやうに誤解してゐるんだけれども。
地味な使はれ方がセマンティックWebの本質だと言つてゐるし、以前は精々その程度の事しかセマンティックWebは意味しなかつたし、俺もその程度の事しか實現しないだらうと思つてゐるし、それで十分だと思つてゐる。
セマンティックWeb構想には例えばフリーソフトウェア運動のようなナイーブさ、あるいはロマン主義を感じるのですが、この勘はハズれてますか?
ハズれてゐるも何も、その種の
ナイーブさ、あるいはロマン主義に基いた宣傳を俺は苦々しく思つてゐると既に俺ははつきり書いてゐる。餘談だが、Tskk氏はどうして「外れて」と書かないで「ハズれて」と片假名で書いてゐるのだらう。片假名で書く事に何か意味があるのだらうか。日本語としてまともでないとしか言ひやうがないのだが。閑話休題。
と言うことで、XMLの本来の実用例などを見たければIT技術者になれば嫌と言うほど見られるんじゃないでしょうか?
目立つという以前に、組織内部のデータ交換は外から見えないし、見えたら困るでしょう?等と、俺を諭すやうな言ひ方をしてゐるが、分り切つた話を偉さうにして、どうする積りなのだらう。勘違ひも甚だしい。
松法螺正等と云ふ訴へられたら確實に負ける中傷的なハンドルで惡口を書込んだらしいが、その「義」も含めて、俺が何者かを執拗に追求して、それで俺を凹ませようとする奴は、頭がをかしいのではないかと思ふ。俺の論理が論理として一貫し、破綻のないものであつたら、論理は獨り歩きするのであつて、俺がいかに駄目な人間であるかを指摘した處で意味は全くない。逆に言へば、俺の身分なり門地なりを理由に俺を非難する人間は、自分こそ身分なり門地なりで非難を受けてもそれを否定出來ない事になる。それでも良いのかと言はれれば良くないに決つてゐるし、だから「義」は匿名で人の惡口を言つて廻る。
詐欺師がゐるからと言つて、民主主義や自由主義の理念を否定出來たものだらうか。
およそ人がそういう意味では使わないであろう単語を勝手に独自の用法で使っておいて、「これは俺の使い方だから理解できないのはお前の責任だ」とやるのが作法なのですかねえ。
了解です。と書いただらうが。
了解して、後で平氣で
勝手になどと言出す高橋は何うかしてゐる。高橋は、自分が
了解ですと書いた事を忘れたのか?
日本人に限らず、キリスト教国の人間にとっても、もはや「道徳」と「人間らしさ」と「美」がひとつに結びついていた時代なんてとうに終わっているんですよ。14世紀に生まれていればルネサンスの先駆者だったのでしょうけれどね。
貴方の「人間らしさ」の独自定義からは、人間のそういう性質が見落とされている。それではせいぜい19世紀までの水準に過ぎない、ということを言っているのですよ。
人間は、そして人間の生み出すものは、非人間性を含んでいる。どのような非人間的行為であれ、行為というのは人がやるものなのであり、それが危険視されるのは本当に行われうるからであり、つまりそれは人間の所業、人間の可能性なのだ。人とは思えない化け物のような、それでも人間としかいいようのない人間が、遠い海の向こうはもちろん僕たちの住むこの町にもたくさん住んでいるのだ。それを認識せざるを得ない時代になっている。たとえば飯を食うように人を殺す悪魔のような人間はありうるし、いたことがあるし、今もすぐそばにいるかもしれない。それを「描いてはならない」ってのはどういうことよ。
飯を食うように人を殺す悪魔のような人間は、藝術作品の素材としてはあり得る。しかし、作者はさう云ふ人間を肯定的に書いてはならない。書きたい奴は何を書いても結構だが、書き方によつて、良い作品にも惡い作品にもなる。そして、書いてはならない書き方をした作者は、批判されて當然である。
野嵜氏は今の日本に『個人』はいないと言うけれど『個人』は存在します。見えないだけ。見てもらえないからロンリーソルジャーとして『個人』に成らざるを得ない。でも、1人では力も弱いし心細いから連帯しなきゃいけない。みんなどこかが違うんだから『個人』のままで連帯しなきゃいけない。
連帯しなきゃならないのなら、個人ではなからう。物理的に存在する人間一人一人の事をTskk氏は言つてゐるやうだが、さうではなくて、近代の西歐で確立された個人主義的な個人の事を俺は言つてゐる。さう云ふ個人主義は日本には存在しない。その證據がTskk氏の文章である。
「人間のありのまま」のうちにイデオロギーの化け物や悪意の塊のような人のあり方があることを氏は認めないようで、そこは結構致命的な違いなんじゃないかと思うですが。
イデオロギーの化け物や悪意の塊のような人に、どのやうな意味で關心を持つてゐるのか、少しだけ興味がある。
「人間のありのまま」のうちにイデオロギーの化け物や悪意の塊のような人のあり方があることを氏は認めないようで、そこは結構致命的な違いなんじゃないかと思うですが。
そして、全ての藝術家は、人間を人間らしく描かなければならないし、人間を人間らしからざる善意の塊や正義の塊や特定の政治的イデオロギーの塊や惡意の塊や美の塊として描いてはならない。と俺は書いてゐる。
人間らしからざると云ふ條件を讀み落としてゐる。
善意の塊はゼンダマンからの「引用」。多分、誰も氣附いてゐないと思ふ。話の本筋とは全然關係の無い「引用」だから、ゼンダマンとの關係で意味を讀取つて貰つても困るが、一往俺は意識して書いてゐたので。云々。
「書いてはならない」は、普通は禁止だと思うが。 「作者はさう云ふ人間を肯定的に書いてはならない。」どんなものを肯定的に書いてもいい。そして、どんなものであれ批判はされて当然である。たとえ書いていいものであったとしても。 何が言いたいんだ?
飯を食うように人を殺す悪魔のような人間は、藝術作品の素材としてはあり得る。しかし、作者はさう云ふ人間を肯定的に書いてはならない。書きたい奴は何を書いても結構だが、書き方によつて、良い作品にも惡い作品にもなる。そして、書いてはならない書き方をした作者は、批判されて當然である。
入試現代文の参考書でもお読みになってはどうですか、とつつこまれてゐるけれども、全くもつてその通りで、高橋にはちやんとした參考書で「文章の讀み方」を勉強し直す事をおすすめする。
で、私は近代西欧知の個人なんてポータブル神様と共通プロトコルを装備した一部の人間でしかないと思います。
ポータブル神様と云ふ言ひ方がそもそも日本人的な餘りに日本人的な言ひ方で、全然解つてゐない。八百萬の神樣とGodは本質的に違ふのであつて、その本質的な違ひを認識しなければ、西歐の個人主義は理解出來ない。もちろん、八百萬の神樣しかゐない日本に住む日本人がGodの本質を理解するのは到底無理で、俺も完全には理解出來てゐないし、だから俺も個人主義的な個人たり得てゐない。その一方で、日本人が現在住んでゐる日本國は西歐の文明を受容れた日本國で、西歐の文明は西歐のGodを信ずるキリスト教とが作つた文明で、それゆゑ西歐の文明の中に否應なく住まざるを得ない日本人はキリスト教的な文明の下に住む事を餘儀なくされてゐる。自動車が走るのも、飛行機が飛ぶのも、エアコンが一生懸命部屋の空氣を入換へて呉れるのも、全部西歐文明の御蔭であり、西歐文明は西歐の科學の産物であり、西歐の科學は科學精神によつて成立したものであり、科學精神はキリスト教の異常と言つても構はないほどに偏執的な理窟つぽさによつて出現した精神である。日本人は、西歐文明を利用する以上、西歐文明の成立ちを一往知つておく必要があるし、ならばキリスト教を知つておく必要がある。そして、キリスト教を理解するとは、キリスト教の歴史を知る事であり、歴史を知るとは事實の羅列を諳記するのではなく存在した事實と事實の關聯を理解し一聯の流れとして感得する事である。そして、その結果としてでなければ、西歐文明と日本人が折り合ひを附ける事もかなはないと俺は信じる。Tskk氏は、日本人が日本の傳統の中で日本人だけでやつて行けば良いと思つてゐるから日本人の至上命令である「和を以て尊しとなす」の實現のみを意圖して
連帯云々と言つてゐるが、さうやつて日本人の理解出來る日本人的な思想の中に逃込んでゐても、結局の處日本人は西歐文明の下で生きざるを得ない。全ての日本人が西歐文明の恩恵の下で暮してゐる以上、全ての日本人に個人主義の問題は關はつて來る。にもかかはらず、日本人的な餘りに日本人的な「連帯」なる概念に拘る事は、間違つてゐる。日本人は一度、個人主義を經驗する必要がある。既に西歐は個人主義の段階を通り越してゐるが、だからと言つて日本人が個人主義の段階を囘避して次の段階に一足飛びに飛附くのは拙速である。
セマンティックWebの理想は素晴らしいと思います。でも、それはハッカーのロマン、情報共産主義に基づく理想ではないでしょうか?そして、現実には情報資本主義の食い物にされるのではないでしょうか?等と極附けられる事になつてしまつてゐるのではないか。
ポータブル神様と共通プロトコルを装備した一部の人間なんて言ひ方も、わかるやうで、實は全然わからない言ひ方だし。
理解できるものしか理解しないなんて、その方がよほど連帯的でしょう。と言はれても、もうこれは日本語なのかと疑ふ事しか。
それまで、ハイパーテキストは文書をマークアップするのに使われていたが、他のコンピュータにある文書にリンクを張るという考えは含まれていなかった。ハイパーテキストを、同じマシンの中だけでなくネットワーク上のマシン間で利用出來るやうにする、と云ふのがリー氏のオリジナルなアイデアだつたと。
人は時に道徳だの何だのとヌルい枠で規定できる程度の「人間らしさ」をはるかに超えたことをやる。いいことでも悪いことでも。
エロライターとして上へ行くことです、だ。エロライターに上も下もあるか。エロライターは底邊の人間なのだから、エロライターを辭めなければ上に行ける訣もないだらうが。そして、高橋にエロライターを辭める氣は毛頭ないのだから、高橋が上に行ける訣がなからうが。そもそも、相手の言つてゐる事を理解しようと思はない人間が、ライターとして大成する訣がないだらうが。
素朴に見せかけて、自分を偉く見せようとする稚拙な戰術を平氣で使ふ高橋に、
人間の可能性だの
芸術だのと拔かす資格は無い。
前にも言ったけど、創作者としても評論/批評家としても、俺は野嵜さんを全く評価しないのです。いい大学出てるんだからやれば出来るだろうということは信じるけど、貴方やってないでしょう何も。
貴方を閉じ込めている実にくだらない枠の中から出てくる表現よりは、まだエロゲのほうが面白いよ。せめて今のエロゲを越える水準の価値観を提示してから言って欲しいなあ。読むに足る作品書くなり評論やるなり。
持ち出す価値が、言うに事欠いて、「人間らしさ」だものなあ。
言うに事欠いて、「旧字旧かな」だの「正しいHTML」だのと言つた文句を
持ち出したけれども、俺の「人間らしさ」云々は昔から言つてゐる事に過ぎない。
ヒューマニズムは敗北している等と言はれても全然困らない。
(道徳的に)善いけど(美的に)良くない芸術は山ほどある。(道徳的に)悪いけど(美的に)良い芸術もたくさんある。
野嵜氏は平成十五年十二月七日の日記で政治的善悪と文学的善悪の違いを認識した上で文学的善悪を優先すべきと書いてます。
政治的善悪と文学的善悪と言つて、政治にも善惡があるかのやうに思ひ込んでゐる。
ローマの支配下にあった当時の状況ではユダヤ人であるキリスト達には政治へのアクセスが閉ざされていたからと言つて、二千年に亙つてキリスト教が
政教分離なる原則に操を立てた理由を全て説明し切つた訣ではない。單に、由來を説明しても、それで全てを説明した事にはならない。しかし、日本人はその程度の説明で納得してしまふのである。實は納得などしてゐないのだが、理解出來ない事に説明が附けられたからそれは日本人にとつて「正しい説明」になつてしまふのである。しかし、説明出來たからその説明は眞實である、とは言へない。「明治天皇は暗殺されてゐた、と云ふ事で歴史を説明すると、出來るから、明治天皇は暗殺されてゐたのである」と云ふ主張が間違つてゐる事は論を俟たない。
道徳と信仰もまた別物であって。
ちなみにキリスト教と仏教で喧嘩するとキリスト教が『勝ち』ます。勝ち負けというルール自体がキリスト教のものだからです。でも、本当にそれでいいのか?
仏教が
喧嘩するか何うかと云ふ問題があるし、
いいのかと言はれても、一體どの立場から見て
いいのかと云ふ問題がある。
キリスト教と仏教の
喧嘩を審判するあんたが持つてゐるルールブックは何のルールブックなのか、と云ふ事。
この辺りがより上位の問題かと思うのですけれど、そもそもメタに走るのが良いことかどうかわかりません。と云ふ話なのだけれども、最後の
良いこととは、一體何を基準にした
良いことなのかと。
(道徳的に)善いけど(美的に)良くない芸術は山ほどある。(道徳的に)悪いけど(美的に)良い芸術もたくさんある。
道徳的に善いけど美的には良くない芸術は山ほどある。道徳的に悪いけど美的に良い芸術もたくさんある。
この情勢下、どの国もアメリカの意向を伺いながら、仕方なくしたがってみたり、たまに反発してみせて譲歩を引き出してみたり、なんとかやっている。どんな国だって(敵でさえも)圧倒的なアメリカの前には多かれ少なかれ従米的であらざるを得ず、よく心情的反米派の言う「自立した普通の国ニッポン」というのは、そもそも実現不可能であると俺は思う。その上で、つまり最終的にはアメリカ様に従わざるを得ないのが大前提として、どううまく立ち回れば日本はうまくやってけるのか、という話ですな。
僕はそういう風には固執してません。道徳を扱いたければ扱えばいいと思いますよ。誰も止めません。
ところで、野嵜さんにとっての絶対的正義とはなんでしょうか?
アメリカの問題なんて、絶対性を持ち出さなくても普通に主張できるし、そちらのほうがたぶん異論を持つ相手には説得的なのに、前提として絶対性を持ち出して野嵜さんは語る。
所詮、反米も親米も相對的な正義である。と私は書きました。どうしてあなたはこの文章を無視しますか。相對的な正義に基いてゐるから反米も親米も政治的な主張に過ぎず、「どうでも良い」事でしかない、と私は言つてゐるのです。反米でも親米でも勝手に言へば良いが、所詮相對的な正義に過ぎない。
旧字旧仮名ですか? HTMLの規格ですか?
旧字旧仮名だの
HTMLの規格だのと言ふ事はないだらうが。人を怒らせて喜ぶ高橋のやうな下劣な人格の人間に、文章を書く資格はない。
今の世の中にそれだけで受け入れてもらえるものではないと思うよというだけで。
今の世の中が何でもかんでも基準となる。
まあもちろん、説教くさい芸術が好きな人だっているでしょうけれども。
用法に違いがあるということは分かりました。と云ふ高橋の言葉は嘘だつた。高橋は嘘吐きだ。
説教くさい芸術が「道徳的な藝術」だ等と、俺は言つてゐない。それを高橋は全く理解出來ない。
もし高橋氏が、野嵜の用語によつて綴られた野嵜の文章を、高橋氏自身の用語の意味をそのまま適用して「解釋」し、或は、高橋氏の用語と違ふ用語を野嵜が用ゐてゐるからと言つて、野嵜の事を「間違つてゐる」と非難する誤を冒すならば、それは高橋氏自身の責任である。と言ひ、にもかかはらず高橋は
野嵜の用語によつて綴られた野嵜の文章を、高橋氏自身の用語の意味をそのまま適用して「解釋」し、或は、高橋氏の用語と違ふ用語を野嵜が用ゐてゐるからと言つて、野嵜の事を「間違つてゐる」と非難する誤を冒してゐるのだから、高橋の馬鹿を俺が指摘しても、それは高橋自身の責任である。
言ってる意味がよくわからない、と言つておきながら、
つまりそれは、どんなことを言おうとしても絶対に外せない野嵜さんの思想の基底なのですね。と纏めて見せるのは何なのか。
この謎技術画像(
FULL SCREENと呼称しているようだ)を提供しているこの Panoramas.dk というサイト(以下略)
- antipop より
その
謎技術画像は QuickTime VR だと思う次第です…。
出版社が一律に二・五%のマージンを上乗せするということで一応、解決しました。との事。
流通マージンは、流通コストと見合わせて決めるのが実際的・合理的なのではないか。
流通コストが多くかかるメーカーの場合はマージンを余計に出し、逆に流通コストが少くてすむメーカーはマージンが少くてもよいはずであります。
一律のマージン上乘せは
解決ではなく
弥縫策に過ぎないだらうと言つてゐる。
引用もせず云々と罵倒して呉れてゐる。
よくもまあしゃあしゃあとこんなことが云えたものだ、と、紋切型の罵倒をしてゐるが、良く平氣で書けるものだ。
ある國が世界的使命感を得て、それを宣言すること自體は非難されるべきではない。非難されるべきは、その宣言をするのがフランスではなくアメリカだといふことだ。
芸術に良いも悪いもない。そういう価値基準を持ち込むのは、芸術に対する無理解の表れである。
芸術が美しいとか、なんとかと云って悦に入るくらい簡単なものはないが、そもそも芸術とは人が思うよりも美しくもなんでもないものだ、と言ったのも、小林秀雄であった。