良識派を自稱するのは如何なものか云々。
「きりしま」「はるさま」「ときわ」が帰国 <横須賀>テロ対策特措法 インド洋で9カ国に補給活動
「残念」は名詞か
名詞および連語には、原則として品詞の表示を省略した、とある。
名ナ/ノ)と出てゐる。この辭書では、或語を形容動詞と認める條件として、活用語尾が揃つてゐる事と共に、
「――に」の形が(「なる」「する」だけでなく)動詞に対して副詞と同様の連用修飾の働きをすること、と云ふ條件を附けてゐる。わかり難い定義だが、「有能な男」とは言ふが「有能に」の形は一般に「なる」「する」以外の動詞で使はれる物ではないから「有能だ」を形容動詞と認めない、と説明してゐる(品詞概説)。「残念な事」とは言ふが、「残念に」と云ふ形で一般の動詞を修飾するのに使はれる事はないから、「残念」は名詞として扱ふ、と云ふ事らしい。微妙な話だが、さう云ふ事になつてゐるらしい。
「正しい物を求めること」と「誤っている物を否定すること」は似て異なることです。前者は創造で後者は破壊。
大切なのは喧嘩相手を選ぶことだと思います。アホと喧嘩してるとアホが感染りますよ。
あえて言えば適材適所で思考法を使い分けるのが最強と言えるでしょうか。
今の日本で言えば政治的な意志決定において民主主義が衆愚政治に陥って正常に機能しないのが問題でしょう。
その理由は建前上意志決定機関ということになっている個人個人が、あまりにも具体的な政治から遠いところにいるからです。
まとめるとインプットとアウトプットの関係があまりに相関関係が少なすぎて、真面目に考えても答が出ないということです。との事ですが、政治がさうさう身近な處にあつてたまるか、と思ひます。
これを解決するには現場と意志決定機関の距離を縮める必要があります。との御説ですが、さう云ふ「利」によつて解決をはかるのは如何なものかと思ひます。
とりあえずは組織を硬直化させる外因を排除した上でより柔軟な体制にし、その上で進化の外圧を掛けるのが有効かと思います。との御説については、
外圧ではなく内發的な動機の重要性を指摘して置けば良いかと思ひます。
この分野では比喩的思考法が有効かと思います。は駄目だらう。譬喩と言ふか類推と言ふか、さう云ふ説明は説得の手段としては
有効かも知れないが、説得力があれば眞實である、と云ふ發想には反對。
どうでもいいけど、「祈りを捧げる」という表現について、用例辞書では「奉げる」を挙げていたので調べたところ、手持ちの国語辞典では「ささげる」は「捧げる」しか候補になく、漢和辞典でも「奉」に「ささ(げる)」という読みは無かったので、「捧げる」を採用。「奉げる」という表現のほうが、感覚的にはしっくりきますけど。
感覚を以てしてどうして正字正かなを非難出來るのかとかさう云ふ方向で。
観念的になるのは現場から遠いからでしょう。考えても無駄なのに無理に考えるから自家中毒的な観念論にとらわれるのです。
その上で「売れないことには話にならねー」という命題をどうにかする対応が求められてて云々。結局のところ、世の中が不況である、と云ふのが「本が賣れない」最大の理由であるやうな氣もしないでもないですが。個人的には、「金が無くても本だけは買ふ」と云ふ人間を如何に増やすか、と云ふ方向に話を持つて行きたい氣分ですが、出版社の中の人にしてみれば「そんな悠長な事をやつてゐる暇はない」と云ふ事になるのではないですか。しかし、それを言ふから
方向性が見えてこないのではないかと。
「売れないことには話にならねー」という命題そのものを疑つてみると云ふ事で。
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闇黒日記平成十五年三月四日『平和にあらず剣なり』の訳者名が植野ではなく上野になっていることに気付きました。と云ふつつこみをメールで頂戴しました。その通りです。過去のログは基本的に直さない事にしてゐるのでここで訂正しておくと云ふ事で。
W3C の規格に合っていなくてもご自分の DTD に適合しているならそれもいいでしょう。――そこから、その
ご自分の DTDがW3CのDTDと異つたり、互換性が無かつたりする事を指摘しても意味はない。さうではなくて、
ご自分の DTDなる一貫した體系が成立しない事を指摘する必要があるのだ。今の場合、ヘミング氏のHTML解説が、全體として一貫性を缺いてゐる事を、ヘミング氏が
ご自分の DTDなるものを成立させ得ない事を立證出來れば、ヘミング氏がしてゐる説明は全體としてナンセンスである事を立證した事になる。
売り方のことは良く知らないが、 売る人間がモノのことをよく知っていなければならないという 当たり前の条件が実際に満たされてさえいれば、後は些細な問題ではなかろうか。
驚きと感動があるからこそ禅宗みたいな宗教が成立したんでせうが。
人が人に語る言葉の正しさというのはそういうものなのでせうが、それは説得による相對化が可能な正しさに過ぎません。そして、その程度の正しさを多くの人が絶對化してしまふ現状に、私は抗議してゐるだけです。
ライトノベルの売り上げの話。
やっぱ、基本は、鼻の利く編集+広報、ただし会社に所属しているというより読者代表的な人、を探して、かかえて、さらに作家発掘させろってことになるんですかねぇ。と云ふ事なのだが、どんな本が良い本なのか、と云ふ事の意識がより廣い範圍で的確に認識されるやうになれば、良質の作家も増えるのではないかと思はれる。「ネタ」とか「ターゲットの嗜好・趣味に合せたテーマ」とかにしか注目しない傾向が今の「讀書界」にあるやうに思はれるが、もちろんその邊のヴァラエティを否定しないけれども、ヴァラエティのある具體的なテーマの根柢に物語の本來の意義が存在してゐる事の「信仰」が必要だと思ふのだ。讀者に媚びるだけの本が生産されても仕方がない。どんなテーマであれ、普遍的な或物が根柢に無ければ、その本は讀者の心を掴まない。
人名が説明も脚注も無しに出てくるのは、そのくらい知ってろということなのか。
野嵜氏の読み方は、不自然ではなく、今この状況であの作品を読む上ではむしろ非常に妥当な読み方なのかもしれない、と言う風に、前向きな結論を得ることが出来たわけですな。
パロディではなくオマージュ、風刺・批判ではなく、尊敬・賛辞として先行作品をもじった作品を消費するやり方は、特に90年代以降に前面化した現象であり、その意味で氏の読み方のほうが現代的だ。
敗北宣言を高橋はしてゐるけれども、俺(野嵜)は普遍性こそが重要だと言つてゐるのだから、その俺が所詮
現代的でしかないと言ふのだから、高橋は「負けと見せかけて實は自分(高橋)が勝ち」と言つてゐるのである。
悪の悲壮感という話からは外れている。そこは善玉悪玉関係なく共感できるところです。
悪の悲壮感という話等全然してをらず、飽くまで
善玉悪玉関係なく共感できるところの重要性の話をしてゐる、と云ふ事を、最後まで理解して貰へなかつたのは俺の「負け」だらう。ここは最後までとぼけ通されてしまつた訣だから。
野嵜氏からのお返事、「正字正かな」についてもっと熱く語っていただけるものと期待していたのですが、まあいろいろと勉強になりました。ありがとうございます。
期待と云ふ名の「釣り」には釣られなかつた訣だ。
table border="1" summary="枠囲い"
のsummaryの屬性値があんまりだとかそもそもそんな目的でtableを使ふなとかつつこめ、と云ふ話だつたのかな。と言ふか、テーブル - ばけらの HTMLリファレンスとか鳩丸ご意見番 - TABLE でレイアウト調整は?とかW3C Home Page Table-less Layout: HOWTO and FAQとかのリソースは、tableの事を知るのに如何でせうか。非常に卑しい根性と云ふ言ひ方が、高橋は氣に入らなかつたらしい。でも、實際に卑しい卑しいとミンミンにも言はれ續けてゐるのだし。しかし、ここで覺えた反感の所爲で高橋は以後の私の文章を全て誤讀した。高橋は少し冷靜になつた方が良いと思ふ。
それこそオタスケマン辺りでそういう主張をするのであれば、イッパツマンほどにはこだわりは無いので、文句もないのだが。と言つてゐる邊、高橋が感情的な反感に基いて私を非難してゐる事は明かである。そして、さう云ふ感情的な人間の周りに、やはり感情的に私を罵る人間がたかりはじめてゐる。
# cjm 『ノズラーは相手にしないほうがいいですよ。不快になるだけです。』――類は友を呼ぶ。閑話休題。
今あえてこれを主張したいのであれば、どうしてそんな不自然な読み方をしたいのかという動機の詮索を抜きにするならば、逆転の発想としては面白いかもしれないが(正直、俺にしてみれば大好きな作品を汚されてるようで、その解釈は嫌いだけどね)、しかし批評としてオーソドックスに考えるなら、その「割に合わない努力」は単に善玉悪玉のコードを踏襲しているだけである、とするのが普通だろう。
彼等の情熱は
単に善玉悪玉のコードを踏襲しているだけである、とする方が、餘程不自然な解釋であるやうに思はれますがねえ。或は、それは、解釋でしかないやうに思はれますがねえ。
彼らは自らの正義を叫んでなどいない。彼らの悪玉っぷりはお約束の上で目一杯はめを外して不真面目にやっているのであり、悲壮感などはない、と俺は言ってるわけです。彼らの悲哀はサラリーマン的な部分にこそある。
サラリーマンの悲哀も生じてくる。彼等が惰性的にサラリーマンをやつてゐたのであれば、悲哀も何も生じやうがない。
彼らの悲哀はサラリーマン的な部分にこそある。と高橋は言ふが、正確には、
彼らの悲哀はサラリーマンを超えようとして超えられない部分にこそある。、
彼らの悲哀はサラリーマンに徹しようとして撤し切れない部分にこそある。と言ふべきだ。或は、三惡は、サラリーマン的であつても、サラリーマンではない。或は、サラリーマンであるけれども、現實のサラリーマンとは違ふ、「お話の中のサラリーマン」である。本物よりも本物らしい、と言つて良いと思ふのだが、高橋はさう言はれても理解出來ないだらう。「Xである」と「いかにもXらしい」とを、高橋は區別しないからである。X
「ただ給料やボーナスが欲しいだけ」と、
「ただ給料やボーナスが欲しいだけ」のために頑張るとを區別出來なかつたらしい。
「ただ給料やボーナスが欲しいだけ」のために頑張る事を私が
卑しいと評したと勘違ひしたのです。
# NaokiTakahashi 『あるいは、イッパツマンに対するライバル心とか、仲間と一緒に勝ちたいのだとか、そういう感情は芽生えていたかもしれない。というか芽生えていたでしょう。奴らはなかなかの人情家ですから。サラリーマンを金だけが目当ての仕事ロボだといいたいわけではないのです。しかし、それは「正義」でも「悪」でもないわなあと。もっと私的なもので。』
私的なものを、私がいつ「正義」だとか「惡」だとか言ひましたか。言つてゐないぢやないですか。明かに高橋はとぼけてゐますね。さう云ふ
私的なものを正確に表現する、と云ふ時の「正確さ」――その「正しさ」こそが、「正義」なるものの「正しさ」よりも大事である、と私は言つてゐるのです。だから、私の言つてゐる事と、高橋の言つてゐる事は、同じなのです。それなのに高橋が私に反感を抱くと云ふのは、私には理解し難い事です。
反転衝動に基づく駄文。單なる「衝動」による文章もどきが、文章としてまともである訣がないから、反應するまでもないのだが。ただ言へるのは、つつこみどころが多過ぎる文章を書いて平然としてゐる人間は異常だ、と云ふ事だ。シスプリの中の人は、その「平然としてゐる人間」である。
野嵜氏がこれまでに誤りを指摘してきたエセ「正字正かな」派の者たちは、野嵜氏や「正字正かな」派の方々を「珍字珍かな」に引き込むための工作員ですが何か?――馬鹿馬鹿しい。
私は、「現代かなづかい」の上で「歴史的かなづかい」を使おうとするから、間違いが発生するのだと思います。――
「現代かなづかい」の上で「歴史的かなづかい」を使ふ、と云ふのがどう云ふ事なのか、さつぱりわからない。本人も分らないで書いてゐるに決つてゐる。
まあ、行きすぎた謙遜でイヤミを言う人間にろくな奴がいないことはこれまでの経験上、わかり切った話ですが、ここは笑うところ。――誰が
行きすぎた謙遜をしてゐるかと言へば、當然シスプリの中の人の方だ。
野嵜氏は、他人が「――共産主義者なら、理想の實現の爲に、どれほどの犠牲を拂ふ事も厭はない、と云ふ態度を取るべきだ。」と言っているから、その受け売りで「共産主義者なら、理想の實現の爲に、どれほどの犠牲を拂ふ事も厭はない、と云ふ態度を取るべきだ。」と言っているそうです。
他人がの強調は原文のママ。私が何か惡い事を言つたのだらうか。そもそも、「他人が言つてゐる」と云ふだけの理由で私が
受け売りをしてゐるとどうして言切れるのだらうか。その
他人の言つてゐる事には、何一つ理窟がないとでも言ふのだらうか。その理窟を知つた上で反論しろと言つてゐるのだ。
「――マルクスでもレーニンでも讀めば分る。と言ふか、とぼけるのも好い加減にして呉れよ。革命には犠牲が附き物でないとシスプリの中の人が考へる理由は何ですか。」共産主義とは革命でせうか?
私は、「正字正かな」の信念をお持ちの野嵜氏を見下す予定はありません。何の信念も持たない高橋氏なら別ですが。見下されたと思うのは、野嵜氏の劣等感ではありませんか?(微苦笑)――
(微苦笑)と書いてゐる時點で、シスプリの中の人が俺を見下してゐる事實が明かになつてゐる。或は、俺に劣等感がある事を、シスプリの中の人は立證出來るのか。出來ないから、質問の形をとつてゐるのではないか。しかし、この種の質問は、惡質なレッテル貼り以外の何物でもない。なぜ惡質かと言へば、劣等感の有る無し等、誰も(自分ですらも)確實な事は言へないからだ。「絶對俺には劣等感はない」等と言ふのは常に虚僞である。「お前には劣等感があるのではないか」と云ふ質問をするのは、常に、否定の囘答を豫め封じたものであり、全肯定であれ部分肯定であれ、とにかく相手に肯定させる事を目的としたものであり、結局「お前は自分に劣等感がある事を認めざるを得ないんだよ」と極附けて、「俺が言つたんぢやない、お前自身が認めた事實なんだよ」と言つて、相手に責任をなすりつけるものである。これほど卑怯な「批判」の仕方はあつたものではない。そして、その卑怯である所以を悟らないで、平然とこの手の「質問」をして見せるのは、嫌がらせを嫌がらせと思はないどうしやうもない人間に決つてゐる。はつきり言つて、關り合ひになりたくない類の人間である。しかし、そのやうな人間が増えてしまつては困るから、さうならないやうに俺は色々言つてゐる訣である。が、肝腎の相手に俺の意圖は滅多に傳はらない。さうすると、その「相手」が俺を馬鹿にして喜ぶのである。
この日記を日本語の文章と思って書いているのだとしたら、野嵜氏はどうかしていると思います。――ではあんたの書いてゐる「日記」は、何語の文章なのか。誰が見ても日本語の文章である。再び言ふが、とぼけるな。或は、自分で自分の文章がまともな日本語でないと自覺してゐる、と言ふのならば、改善する努力くらゐしたら何うか、と「忠告」したい。そして、その種の改善の努力こそが必要である、と俺は言つてゐるだけだ。それを馬鹿にするシスプリの中の人は、改善の努力などする訣がない。しかし、それで良いのかと俺は言つてゐるのである。シスプリの中の人には通じないだらうが、それ以外のこの文章の讀者の中には、通ずる人がゐるかも知れないので、言つてゐる。ゐないかも知れないが、その邊は俺も十分承知してゐるので、だからうちのサイトのtitleは「言葉 言葉 言葉」である。
野嵜氏は<table>タグについてご存じないようなので、こちらをご紹介します。――それがどうした。紹介してどうする積りだ。とほほを紹介してどうする。既にとほほのWWW入門が駄目な代物である事は、うちのサイトで書いてゐる。きちんと理由を書いた上で、だ。もちろん、理由を書いたか書かないかなど、シスプリの中の人にとつては「どうでも良い」事に決つてゐる。彼は、ただ單に、世間で一般的であるものに逆らふ人間を馬鹿にしたいのである。世間で一般的であるのに逆らふのは、彼にしてみれば「劣等感の表明」に他ならないのである。それに對して微苦笑して見せるのは、世間で一般的であるものに逆らつた人間の所爲なのである。シスプリの中の人は、徹底して無責任である。そして、無責任である事に何の後ろめたさも感じない。
野嵜氏は、理屈にあわない、ただの悪口を返して、どうしたいのだろう。語れる理想も何もないのに、ただ「新字新かな」の揚げ足をとったり、足を引っ張ったりしたいと言うのなら、それこそ人間としてどうしようもないとしか言いようがないのだが。――私の言つてゐる事が理窟に合はないと言ふのなら、どこが理窟に合はないのか、指摘したら良からう。私の言つてゐる事が理想でないと云ふのなら、なぜ理想でないのか、説明したら良からう。「新字新かな」に對する私の批判が「揚げ足取り」であり「足を引つ張る」だけのものでしかないと言ふのなら、どこがどう「揚げ足取り」であるか、具體的に指摘したら良からう。或は、私は理想を語つてゐる。うちのサイトをシスプリの中の人は讀んでゐないのか。さうだらう。
反転衝動に基づく駄文を書いて、私を不快にし、私に反感を抱いてゐる人間を喜ばせても、何の意味もなからう。それなのに、なぜシスプリの中の人はさう云ふ眞似をするのか。
# NaokiTakahashi 『(私信)読んでるのだろうから一応解説。「タイムレコーダーがちゃんと押せば」は元ネタのほうの歌詞なのです。植木イズム「どうにか格好がつくものさ」から時代を隔てての「(爆発後)フニャーっとめげてる場合じゃない」への変化が面白いのですな。タイムレコーダーの意味合いが変わっている。 まあ、些細なつっこみなのでお気になさらず。』
断絶があると言へばある。が、高橋のやうな感情的な部分にのみ著目して事實を見ない方法は、レッテル貼りとか偏見とかに陷りがちだから、俺は肯定出來ない。
俺はその時代の子供として、当時の文脈であれを見て、当時の文脈で解毒剤としてそれを受け取った。と高橋は言つてゐるが、それは飽くまで「受取り方」の問題であり、高橋が如何に自分が時代に密着してゐたかを強調しても、結局それが高橋の主觀を通した物の見方、高橋の感受性に依存した物の見方に過ぎない事をこの文章が曝露してゐる。
当時はを連發し、自分の時代なる物に執着する事によつて、高橋は普遍性を失つてゐるやうに俺には思はれる。
SDロボットアニメつて何ですか。
90年代の人なのか何うかは知らないけれども、俺のアニメを見る時の基軸はトラスタの作品にあつたので、或意味、さうなのかも知れない。まほたいOVAから、BOY、lain、ルミナス、ミト、NieA_7、そしてまほたいTVまでの一聯の流れが斷絶した時點で、俺はあにめに對する關心をかなり無くしてゐる。
『戦国無双』信長の妹が登場!
CDのコストの大部分は録音や宣伝などにかかる固定費であり、空ディスクの価格は1枚数十円にすぎない。逆輸入しても2000円で売れるなら、それが正常な価格であり、これは市場経済では当たり前の価格競争である。
正常な価格なのかどうかは、必ずしも斷定的には言へない。實際のところ、數十萬本、數百萬本賣れるCDも、數百本、數千本しか賣れないCDも、
録音や宣伝などにかかる固定費は大して變らない。賣れてゐないCDは、三千圓でも安過ぎて元が取れない可能性もある。
逆転王のすがすがしく声張り上げた皮相で悲壮な正義は、建前の表現、相対的であり人には理解されがたい真実も、貫けば不思議に(あるいは倒錯的に)かっこいいという野嵜イズムの表現かもしれない。等と高橋は言つてゐるが、「高橋理論」の暴走には困つたものだ。
彼らはまずなにより生き残ってお金をきっちり稼いで出世したいのであり、その節操の無さ、いい加減さは、思想を貫けない性格的問題に起因するのではない。そもそも目的が違うのだ。彼らは会社の掲げる正義だの悪だのとは無関係の個人的なもののために生きているのだ。逆転王は、ロボットだから、あるいは会社がつぶれても、手足が吹っ飛んでも、それこそ機能停止するまであの歌の通りに建前の正義のために戦いつづけるかもしれないが、三バカにとって悪だのなんだのは「会社の建前」なのであり、彼らの拠って立つ基盤ではない。命あっての物種だし、金がもらえなければやるわけがない。つまり嘘である。
限界と言ふよりは「反動」と評すべきであつて、タイムボカンシリーズは「一つの時代」が終つた時に「時代に殉じた」と言ふ事は出來る。そして、或時代のものは、時代が終れば「時代に殉じる」べきなのであつて、いつまでも續いて貰つても困るのであり、或日復活されても困るのである。怪盗きらめきマンは、かつてのタイムボカンファンからは決して支持されてゐないし、「今の時代」の視聽者からも支持されたとは言ひ難い。
「新字新かな」派に一掃された今となっては、「正字正かな」派など、我々「珍字珍かな」という巨大な軍勢の一部に過ぎないわけですが、まあがんばってください。
一部に過ぎないとシスプリの中の人は言つてゐるのだが、
過ぎないと言ふのは明かに見下した言ひ方であり、
まあがんばってくださいと言ふのは明かに他人事としての言ひ方である。
ところで、世間には「正字正かな」を気取りながら「正字正かな」まがいの乱れた日本語を使う輩がいて、野嵜氏もしばしば誤りを指摘されるわけですが、これは「正字正かな」の言語規則が非常に複雑怪奇なもので、とても一般大衆には使いこなせない難解な代物であるからと考えられます。この件に関してはどのように思われますか?
乱れた日本語の
誤りを指摘できるのは、正字正かなの規則が明かなものだからではないですか。そして、
非常に複雑怪奇なものこそ「正しい」と考へる人が、難しく考へてしまつて、それで
非常に複雑怪奇な書き方をしてしまふのではないですか。或は、「現代仮名遣」「常用漢字」の規則が
複雑怪奇でないと、シスプリの中の人が考へる理由は何ですか。説明して貰ひたいものです。
共産主義者なら、理想の實現の爲に、どれほどの犠牲を拂ふ事も厭はない、と云ふ態度を取るべきだ。何故でせうか? 共産主義とは犠牲を厭はない事でせうか?
三悪に関しては、「同じヒラ社員として苦労をわかち合った」つもりが「実は社長一族が内部調査に来ただけ」のようなもので、単なる揶揄か、せいぜい風刺でしょう。
table border="1" summary="枠囲い" title="闇黒日記 平成十五年十二月十五日/野嵜健秀 一部改変"つて何だらう。この人は、何をしてゐるのだらう。
「圧潰の夜にとつぜん現われたBWは、なんと! 15年前の過去からタイムスリップしてきたわたしの恋人、お兄ちゃんだったの!」というわけで、ココの誕生日。
イッパツマンの三バカのサラリーマン性は、シリーズものとして要請される善玉悪玉の対決というコードの中でいかにサラリーマンものとして逸脱するかに苦心した成果だというのが、全体を見通した場合の素直な読み方だと思うんだけど。
正義や悪のために真剣になる登場人物たちを評論したいなら、と言つてゐる時點で、高橋がこちらの言つてゐる事を全然理解出來てゐない事は明かだが。三惡は眞面目な時も不眞面目な時もあるが、それだけに眞面目な時の眞面目さは信用出來る、と俺は言つてゐるのだが。高橋は、Aと云ふ人物について、完全に善である、とか、完全にサラリーマンである、と云ふ風にしか理解したがらない。人間はさう云ふものではない、と俺は言つてゐるのだが、高橋は單純明快な理解しかしたくないらしい。
シリーズではイッパツマンが初めて、かつ唯一、企業間戦争という要素を取り入れたのだ。それはこの作品の特色でありコンセプトであって、シリーズのお約束ではありえない。と高橋は言つてゐるが、俺がいつ「タイムボカンシリーズのコンセプトは
企業間戦争である」等と言ひましたか。一生懸命否定して見せる事で、高橋は存在しないものを存在させようとしてしまつてゐる。そして、それが高橋の常套手段なのだ。
たとえばゼンダマンあたりまでは、正義の博士とその孫なり友達なりが悪の泥棒たちと戦う、という構図になっていた。正義や悪のために真剣になる登場人物たちを評論したいなら、そっちのほうがよほどいい題材のはず。それは高橋にとつて都合の良い「正義」なり「惡」なりの觀念だ。
悪玉=中東の方々、善玉=ユダヤ米英、と考えると、いろいろと以下略。ところで、タイムボカンシリーズの三悪は、爆死することもなければ処刑やクビにもなりませんが、そのあたりが「
人間臭さ」なのでしょうか。あるいは、『ヤマト』で死んだ人が生きていたり、そっくりさんで埋め合わせたりするのと同様、「永遠の生命」とか?
そのあたりだと思つたのか、とても興味があります。
新字新かな派とは「新しいかなづかいを信じる」人のことだ、と多くの人が思っている。そういう新字新かな派も、確かにいる。しかし、「かなづかいをより新しいものにしようと努力する」というのが、新字新かな派の持つべき思想であると私は考える。
きた言葉は変化するはずである。しかし、「歴史的かなづかい」は、五十年以上も前から何の変化もしていない。すなわち、「死んだ表記」である。「歴史的に定着している」と「支持者」は言うが、定着していないうえに死んでしまっているのである。
「歴史的かなづかい」を、より良いかなづかいに変えようという努力を、過去の五十年の間、誰もしていない。もちろん、「歴史的かなづかい」に、「より良い方向の変化」などあり得ない。本質的に「歴史的かなづかい」は、「補遺」「訂正」の方向にのみ変化し得る表記である。「より良い変化」は、「歴史的かなづかい」にはあり得ない。「補遺」「訂正」な方向でなく、「より良い方向」への変化を望むならば、「歴史的かなづかい」という固定的な規範は単に破棄しなければならない。
そもそも、表音的な「方向」だろうと、表意的な「方向」だろうと、動いてしまったら、「歴史的かなづかい」は「歴史的かなづかい」でなくなる。「歴史的かなづかい」は永遠に不変でなければならない代物である。「歴史的かなづかい」支持者にとって、改善は「されては困る」ことである。だから誰も「歴史的かなづかい」を疑わないし、疑おうともしない。
表音的な「方向」だろうと、表意的な「方向」だろうと、それが「方向」に過ぎず、原則として語は語の意味に基いて表記すべきである、と云ふ觀念が根柢にある限り、歴史的假名遣は歴史的假名遣である。「現代仮名遣」は、表意的な「方向」へ動いてゐるのではなく、「表音主義」を原則とし、そこに「表意主義」を例外として紛れ込ませてゐるから、をかしい。
歴史的かなづかい信仰」は迷信である。「歴史的かなづかい」は、現代の最大の禁忌である。「歴史的かなづかい」を、(合理化ではなく)合理主義の立場から批判することを、「歴史的かなづかい信者」は喜ばない。彼らは、批判者を人間と認めない。彼らにとって、「歴史的かなづかい」を信じない人間は人間ではない。だから、彼らは批判者を常に人格的に攻撃する。「歴史的かなづかい」批判者を、彼らが論理的に批判することは絶対にない。一見、論理的に見える言い方をしていても、彼らは「確信」を論理より優先しているのだから、いざとなったら常に「俺」の立場に立てこもる。「我思うゆえに我あり」――「我」「俺」ほど明々白々な「確信」はない。が、そこに立てこもったら終わりだ、ということに彼らは気づかない。あるいは、終わるのは良いことだと彼らは思っている。そこまで話が行くころ、彼らは議論が面倒くさくて仕方のないことに感じられている。云々。
いったいどんな理想をお持ちなのやら(微苦笑)等と書いて、正字正かな派を見下す態度をとつてゐる事は、火を見るよりも明らかな事實である。
私ならやっぱり意味にあわせて使い分けたい。と云ふ意識を持つ事は、私は良い事だと思ふのだが、世の中には「どうでも良い事だ」と思ふ人も結構ゐるのだらうなと。
G.F.F.ディープストライカーが売ってないかと仕事終わってから荒川沖のトイザらスまで行ってみた。
パロディ、つまり文脈の読み替えの極北としてあるものを、元ネタの文脈で読んじゃうのはどうかなあ。つて、それをやつてゐるのは高橋自身だとか。
ひょうきん族はまさしく80年代番組で、実らない無駄な努力を笑い飛ばす毒のある反教育的俗悪番組として評判になり、長くファンに愛され、後のバラエティ番組の基礎となったわけだ。
愛されたかと言ふと、それは違ふだらうと思ふ。どぎついギャグが「うけた」事は事實だし、それが
時代の空気に合つてゐた事も事實だが、ドリフターズほど「ひょうきん族」の出演者が
愛されたとは言へない。珍奇なものを持囃す輕薄さと、「我々のもの」として愛する事とは違ふ。
時代の空気を正しく読んでゐるやうに私には思はれる。と同時に、私はたけしの「言論」に贊同しないのである。
アニメの正義について語るなら、その解毒剤としてのタイムボカンではなく、もう少し古い作りの、暑苦しくも血なまぐさい、熱血と友情と自爆攻撃自己犠牲の勧善懲悪スーパーロボット物にも言及しなくてはなるまい。悲壮感とはああいうのを言うのだ。
よりにもよって「タイムボカンシリーズ」の、それも「イッパツマン」を選ぶのか、ということで。
もちろんそこに形式としての「正義」と「悪」はある。それがないとタイムボカンシリーズの形式は成立しないからだ。
あの作品の中では、既に、正義や悪をやることはネタになってしまっている。そこには真面目さがない。
形式としての「正義」と「悪」の「正義」と、私の言つてゐる「正しい」とは違ふ、と何度言へば分るのかなあ。
宅配は正義の人助けだし営業妨害は悪事だが、彼らは「正義」や「悪」の原理に従ってそれをやっているのでは無い。←これがポイントなんて言つてゐるけれども、三惡が「惡事」を、時にきちんと、時に好い加減にやつてゐる事は「表現として正しい」し、その時にきちんと、時に好い加減に「惡事」をやつて最後までやり通してゐるのは「正しい」、そしてその「正しさ」こそがポイントなのだ、と私は言つてゐるのだけれども、高橋は
観念としての「正義」や「悪」に私が拘つてゐるかのやうに見せかけたいらしい。高橋は、どう云ふ意圖でそんな事をしてゐるのだらうか。
more が moe に見えてしまう、ダメな今日この頃。
在庫切れになつてゐる。
自分の生きてもいない、我が物でもない時代の「正しさ」「理想」に過ぎない。しかし、さう云ふ固定的な「死んだ」規範を「正かな」と私は呼んでゐない。平安時代の文法をそつくりそのまま復活させよとか、鎌倉時代、江戸時代、明治時代の文法をそつくりそのまま復活させよとか、そんな事は言つてゐない。
みんなが正しい社会と、みんなが楽しい社会なら、俺は後者を望む。などと高橋は言つてゐるが、「正しい事が完全に實現してしまつた社會」などは存在しない。そもそも、何が正しいのかも判つてゐない。だが、人は皆、この世には存在しない「正しい事」「理想」「理念」を信じ、それを追求しなければならない。
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何の成果もあげられない正しさを追い求めつづけて、最後に「あらら間違ってた」で終わる人生を、人は無駄と呼ぶのであり、上向きでみんなが具体的成功を指向していた少し前の時代なら、それは簡単に退けられたものだったろう。
時代が
あらら間違ってたと云ふ事になつて、その
時代を
我が物と思つて安心し切つてゐた人が不安になつて、今では「十年後に何うなつてゐるか判らない」と心配しなければならない事になつてゐるのだが、
懐かしいとか言つてゐては駄目でせう。
どの辺からおかしくなったのかなあ。つてあんた、時代は變つたんですよ。
おかしくなったんではないですよ。いやはや。
壮感を漂わせながら正しさを叫ぶことのかっこ悪さを軽快に笑い飛ばせた――もう馬鹿か、阿呆かと。「正しさ」と言ふと「悲愴感」ですか。紋切型も良いところ。高橋も結局「オヤヂ」に過ぎない。「カッコイイ」「カッコワルイ」等と云ふ用語自體、最早手垢にまみれてしまつた過去の言葉である、と云ふ事に高橋は氣附いてゐない。
本当は何にも固執せずに、その時々の現代性を軽やかに生きられるのが一番楽しいのだが、なかなかそうも出来ないなあ。
その時々の現代性に固執するのも、以下略。
確かさなんかなくたって生きていける。無根拠な根無し草でいいじゃないか。ふわふわ漂うのも楽しいよ。そう証明できる生き方をしたいし、そう思えるような物を書きたい。
彼らって書いてるけど、これは俺も同じことで、反省が必要ではある。
この小論集は、特に、體系など持たず、黨派から離れてゐる人々、從つて、疑はしいことを疑ひ、疑はしくないことは決して拒絶しないと云ふ自由をまだ持つてゐる人々に捧げられるものである。
俺にとって日本とは、1975年に産まれ2003年現在28歳になるまでの人生をなんとか大目に見てくれたこの豊かで自由で寛容でちょっといい加減な国のことであって、俺が好きな日本とはこの28年の日本のことであり、俺にとっての保守主義とは、この28年の日本をなんとか維持していこうという考え方のことだ。
この28年の日本の中でも、高橋
の人生をなんとか大目に見てくれた
豊かで自由で寛容でちょっといい加減な国の部分をのみ、高橋は
保守したいと考へてゐるに過ぎない。高橋は、
この28年の日本の全てを
保守しよう等とは考へてゐない。高橋の
保守したい
28年の日本の中に、児童ポルノ法や東京都の何とか條令は含まれてゐない。飽くまで、高橋は、自分にとつて都合の良いものだけを、自分にとつて都合良くセレクトしてゐるに過ぎない。高橋は大嘘吐きの御都合主義者である。そして、他人の弱みにつけ込んで、「自分と同じやうに」墮落させようとするのだから、「惡魔」の仲間である。
保守しようと考へてゐる高橋は、幸福である。大體、理由はともかく何かを「わかつてしまつてゐる」人間は、幸せなものである。現代と云ふ時代に新興宗教が繁盛する所以である。
思えばロート製薬提供の番組はクイズものが多かったのではなかっただらふか。
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我が物だつた
自分の生きる時代を喪ふ苦痛を味はふくらゐなら、最初から
自分の生きる時代に固執などしなければ良いのだ。永遠に手に入らない理想を追ひ求める人は、快樂を喪ふ事を心配する必要がない。
今日、驚くべきことにひとりの政治批評家も存在しないではないか、いや、それ以上に驚くべきことに、たとへそれが存在しても、その言説はひとりの實際政治をも左右しえないではないか。政治家は批評をおそれず、その存在を完全に默殺してゐる。
トレッドウェル氏はLonghornを「Windows 95以来の大々的リリースになる」と語る。
また、Windowsのためのマークアップ言語「XAML」が紹介された。XAMLは「HTMLのように何を実現したいかという意図を記述する宣言型の言語だ」(トレッドウェル氏)といい、プログラマにとって記述しやすく、読みやすい言語であるという。さらにコードとコンテンツを分離できることから、開発者とデザイナーが独立して作業ができるようになるとした。
やっぱ親泣かせたくないからなあ。
逆に、遊びに行って女の子にお金を払わせるということは男女平等のこのご時世別に珍しくも無いだろうが、俺にはどうも良くないように思えてしまう。男が払って当然だという感覚があるのだ。
たとえば俺にとって売春は背徳的ではないので、そこに背徳感を見出すことは出来ないが、そんな俺の道徳観を認めない別の人にはそれは背徳的行為である。
A氏がA氏個人の道徳に背くことに背徳感を覚えることと、B氏の道徳をA氏が認めるか否かとは、無関係である。
背徳感とは、そういう個人的な物なのである。
俺はこんなにもバカで間違っている。そんな俺と真顔でやりあってるあいつも、だからバカで間違っている。簡単に信じるんじゃねえぞ、と。つまり、自爆必至のバカワールドに巻き込むのだ。
自爆して呉れる。
だって俺、バカだって思われても全然困らんもん。
そこが強みだ。と書いてしまつてゐるが、弱みを弱みと見せない爲の強がりである。
もはや野暮なやり方、
ただのありがちなやり方は、
自分の独善性に自覚的な手合いにはもはや通じない、と高橋は書いてゐる。この
手合いとは、當然、高橋の事である。この、
自覚的である
独善性は、高橋にとつて「本當の独善」とは異るものである。高橋は、「意識してする独善」は「独善に非ず」と思つてゐる。そして、それゆゑに「自覚的な独善」は「強み」である。「自覚的な独善」は、「無自覚の独善」とは違ふものである。しかし、「独善」を「自覚」する事で、即座に「無自覚の独善」と手を切る事が可能である訣ではない。そして、その「無自覚の独善」を曝露される事が、この「手合い」にとつては致命的な打撃となる。そして、「自覚的な独善」と稱する「手合い」は、自分が「無自覚の独善」と完全に手を切つてゐる事を證明しない。出來ないからである。なぜ出來ないかと言へば、言ふまでもなく手を切つてゐないからである。
罪の無い二次コンが、「他人に迷惑をかけても法的に正當化出來れば何も問題は無い」と考へてゐないとは言はせない。彼等の「遵法的」とは、所詮、その程度のものである。そして彼等は、その邊の事を自覺してゐない。
白人が知的でなければないほど、黒人は彼には一層莫迦に見えるものだ。とジイドは言つた。
わかりやすく理路整然としていて説得力があるものだが、それゆゑに間違つてゐる。
ひっそりとネットで日記を書いていた人が、澤山のアクセスを受けた時、被害者づらするのはどうか(してゐる)と思ふのだ。
ひっそりやる積りで、極々詰らない内容の文章を書かうとしてゐる人間ならば、アクセス解析を提供しないサーヴィス提供者を選ぶのが筋ではないか。
ひっそりやりたいとは思つてをらず、注目を集めたいと願つてゐた筈である、と言つたら如何か。
尤めて之に效ふ、罪又重し。
他人の罪を非難しながら、自分が同じ惡事を犯す。その罪はいつそう重い。
プロのウェヴデザイン会社で、
シンプルでアクセスの取れるサイト作りをしてゐるらしい。
やたら文字が大きいものや小さいものがありますが、デザインが破壊されてしまうだけでなく、ユーザーにとっても見にくくストレスが溜まります。プロはCSSという技術を使ってどんな環境でもきれいに見えるよう文字サイズ等を統一します。なんて言つてゐる。
對米從屬下に於ける日本人の經濟的繁榮を維持するために(本當に維持できるかどうかは別にして)、アメリカが引き起こした侵略戰爭に自衞隊を參戰させるといふことです。と言つた同じ口で、
また自衞隊を出せば、日本國内でもテロが起こることは當然のこととして覺悟しておかなくてはなりません。と述べる。
大義も糞もない、高坂氏だつて所詮、「パン」の事しか、「生命の維持」の事しか、考へてゐないのである。
僕は野嵜氏を、WEB上で影響力のある政治的弁舌家として高く評価しています。その意味で、政治的な批判をしたいと思っていたのです。
明らかに興味の範囲が食い違っていたようで、申し訳なかったと思っています。
政治的弁舌家として高く評価されてしまひましたよ。
それは俺がパン以外の崇高な物にたいして真摯ではないということを意味しない。そりゃあ真面目にやってるつもりだ。すくなくともそうあろうとは思っている。なんて言つてゐるけれども、高橋が、好い加減で、「パンにしか興味がない」人間である事は明か。だから私は高橋を輕蔑してゐる。
人はパンのみにて生くるにあらずと言つて、
パンを食わないと死んでしまうとばかり言つてゐる高橋を非難したのだが、その高橋が
パンが食えるか食えないかの次元でしか興味をもてない相手にパン以外の、たとえば意味や真理の問題について話してもしかたないので、パンの次元で正しいことを言っていればそれでいいや、ということ。等とぬかすのは、どう云ふ事だ。盜人猛々しいにも程がある。
仮名遣いひとつでハァハァできる人、等と人を誹謗して平氣な人間だからな。高橋は、他人を中傷するのは當然だと思つてゐるからな。
不健全なエロゲやミステリ=「退廃芸術」です。それをまさしく不健全を理由に制限してもいいと言っているのが野嵜氏です。
不健全なエロゲやミステリ=「退廃芸術」と思つてゐるのは高橋自身だ。高橋は、「ナチスの退廃芸術展」の「退廃芸術」と、
不健全なエロゲやミステリ=「退廃芸術」とを、同じ「退廃芸術」なる語句を使つてゐるからと言つて、同列に看做してゐるが、「変態性欲」と「昆虫の変態」とを「変態」と云ふ語句を使つてゐるからと言つて結び附けるやうなもので、高橋のやつてゐる事は單なる聯想ゲームに過ぎない。それで高橋自身は十分論理的な積りなのだが、高橋の
不健全なエロゲやミステリ=「退廃芸術」なる聯想ゲームは
氛圍氣だけの非難以外の何物でも無い。
貴方が読みなさい。
- 表現の道徳性健全性への政治的介入
- 政治を法に優先する
- 道徳や秩序などの全体性を個人の自由に優先する
そんなリクツで人権を制限できるなら、憲法も自由もあったもんじゃない。
そもそも市民革命とは、封建的な国家体制の元では自由に経済活動できない市民が声をあげて始めたものです。
理想に燃える一人の政治家を民衆が法をないがしろにしてでも熱烈に支持することで成立するものです。
女の子に罵倒されたい高橋氏は、野嵜にではなくのあたんあやのたんに罵倒されてゐると妄想すれば少しは欲求不滿の解消になるのではないかと。
前にどこか(闇黒日記さんかな)で読んだ”日本とキリスト教国では罪と罰に対する考え方が違うから、刑務所の扱いも変えて考えなければならない”(大意)という話を思い出しました。
日本は所詮いいとこ取りと言うか”既存の状態に合わせて新しいものを取り込む”スタイルを取るので、あるもののみベタ輸入しようとするとやっぱり無理が出ると思うですよ。