闇黒日記

平成十五年十二月三十一日
録畫しておいた「わが青春のアルカディア」を今まで觀てゐた。例によつて徹夜。
キャプテンハーロック最高だぜ。正義がこの星海を治めてゐる事を信じて。以上。

平成十五年十二月三十日
謎の『謎の宇宙船強奪団』手製カヴァ
昔、穴八幡の古本市で拾つたもの。十圓だつた。
©ヨシユキ・M。

平成十五年十二月二十九日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20031229#p1
骨太さとかさう云ふ事が問題なのだらうか云々。
惡い事をする時は言ひ譯出來るやうなやり方をするのが利巧」と主張しておきながら良識派を自稱するのは如何なものか云々。
平成十五年十二月二十九日
ガンスリンガーガールについては、「觀る氣にならん」と言つておく。
平成十五年十二月二十九日
物語全體で何かのイデオロギーを宣傳してゐるとか、登場人物が説教臭い科白を吐くとか、さう云ふあにめやドラマばつかりだ。世間の人は教訓が好きで堪らないらしい。
だが、物語の面白さは「メッセージ性」にあるのではあるまい。
どうもその邊の事が勘違ひされて、科白が説明的になつたり、説教になつたり――逆に、科白を忌避し、「科白に依存しない演出」がなされたりするやうになつてゐるのではないか。
科白が行動のきつかけとなり、行動が科白を引出す科白劇こそが日本では必要であると福田恆存は主張してゐた。その種の御芝居は、現代の日本では殆ど見られない。てれびあにめにももちろん、皆無である。
平成十五年十二月二十九日
「何を言ふか」ではなく「如何に言ふか」によつて物語の面白さが決る、と云ふ事を、多くのあにめ制作者、ゲーム制作者、小説家、漫畫家(以下略)が勘違ひしてゐる。
キャラクタの設定、状況の設定、大道具・小道具の設定(以下略)は綿密に作られてゐるだが、肝腎のドラマが大變粗雜に作られてゐる、と云ふ作品が、あにめにもドラマにも小説にも極めて多い。
平成十五年十二月二十九日
現實離れした設定をリアルに見せる努力は、なされる。しかし、納得出來る科白を登場人物に吐かせる努力は、なぜか、なされない。
偉さうな事を言ふ登場人物の科白が紋切型だとがつかりする。しかし、さう云ふ科白が矢鱈多いのである。
文字通りの「表」の意味に加へて、物語の中でのみ存在し得、視聽者や讀者にだけ全てが理解可能な「裏」の意味を持つが、キャラクタ自身は表面的な意味しか意識しない、と云ふ科白を多く含む科白劇こそが良い科白劇である。科白におけるダブルミーニングの效能は、日本の制作者には全然理解されてゐない。
平成十五年十二月二十九日
おね2で、神城麻郁が「今が大事なんだ」と言ふが、詰らない科白である。
一方、最終話で宮藤深衣奈が轉がり込んだ四道家で、四道兄妹が、「自分の家だと思つて」とか「妹が出來た嬉しい」とか言ひ捲るが、これらの科白が深衣奈にとつては獨特の意味を持つ。その意味を四道兄妹は理解しないで言つてゐるが、視聽者はとても良く理解して、それから深衣奈の心情を想起する。麻郁の科白に比べれば、四道兄妹の科白は良く出來た科白である。
平成十五年十二月二十九日
C&C神保町店でしか通用しないトッピング無料クーポン券がいつぱいあるのだけれどもどうしたものやら。有效期間は三十一日までなのですが。
平成十五年十二月二十九日
三年ぶりくらゐの新作を投入してゐたりするんだが、誰も氣附いてゐないだらうし、誰も期待してゐないだらうし。
平成十五年十二月二十九日
今朝見た夢に、装釘ハヤカワ金背でタイトル「マリみて」と云ふ變な本が出てきたのだけれども、何なのだらう。
平成十五年十二月二十九日
C&C神保町店でしか通用しないトッピング無料クーポン券は、取敢ず今年最後のゴミ収集に出した。

平成十五年十二月二十八日
めも。
コラム統計計算文法考
平成十五年十二月二十八日
めも。
PCユーザの為の 数学記号検討委員会
平成十五年十二月二十八日
「諧謔的な」「洒落た」「ユーモラスな」の違ひを述べよ。
俺には何うも良く分らん。
平成十五年十二月二十八日
何を言はれても反省しない惡人が、善人に悔悛せよと迫る。御人好しの善人は、惡人の言葉に動搖する。あにめでも良くある話だが、現實にも屡々ある話だ。
最後に善人が勝つ、勸善懲惡の御話しならば、それでも問題は無い。
現實には、そこで悔悛して沈默へと落込む「弱さ」をこそ、「善人」は警戒せねばなるまい。
……みたいな事を、變なシェフの趣味で主人公達が魔法のウェイトレス・オイスタールルその他の扮装をさせられるリアルバウトハイスクールのあにめを觀てゐて思つた。木村郁絵の微妙な演技が或意味とても面白い。
平成十五年十二月二十八日
どうでも良いんだが、上の文章のパターン、なんか某侍魂つぽいな。

平成十五年十二月二十七日
次の反省會は一月二日邊。場所は京王百貨店新宿店。落合ふ場所は古書市。
取敢ず各自、殺伐と本を漁り、殺伐と會計を濟ませたあと、お茶を飮みに行くなり、お酒を呑みに行くなり。云々。
平成十五年十二月二十七日
「自衛隊海外派遣」基礎知識[よくわかる政治]All About Japan(1/3)
自衛隊海外派遣 さわかぜも佐世保出航 3隻でインド洋へ(2002/02/13)
自衛隊海外派遣 写真特集(1)
自衛隊インド洋派遣 さらに半年延長(2002年5月18日(土)「しんぶん赤旗」)
【決議】インド洋に展開する自衛艦の即時撤退を求める決議(自由法曹団)
インド洋への自衛艦派遣再延長に反対する(談話)(社会民主党全国連合 幹事長 福島瑞穂)
自衛隊は速やかに撤退を/インド洋派遣延長で志位委員長(2002年11月14日(木)「しんぶん赤旗」)
今週のわからん(NHK週刊こどもニュース '02/12/7 放送)
自衛隊ニュース2003年6月1日(1):「きりしま」「はるさま」「ときわ」が帰国 <横須賀>テロ対策特措法 インド洋で9カ国に補給活動
公明党 デイリーニュース〜インド洋派遣の自衛隊 支援継続は不可欠/テロ阻止活動に大きく貢献 防衛庁長官/参院特委で荒木氏
国際的なテロリズムに対する自衛隊の活動の概要
反對されたり、憐れまれたりしながらも、何の不祥事も起さず、インド洋で自衞隊は活動中。

平成十五年十二月二十六日
あにめの一騎当千は結構面白かつたやうな氣がするけどなー。
結構非道い話だけれども、元ネタがもともと非道い話だし。なんてつたつて支(略)。
問題は、短過ぎる、つて事ではないかと。
平成十五年十二月二十六日
神保町古書會館の古本市。大した物ナシ。現代日本評論選の下村寅太郎・唐木順三篇と深瀬基寛・林達夫篇、クルティウス『読書日記』を購入。
平成十五年十二月二十六日
伊勢丹の古本市。本日より。
やはり大した物はナシ。吉井勇『歌集 天彦』(創元選書)河合榮治郎『自由主義の擁護』(白日書院)、鈴木信太郎『詩人ヴィヨン』(岩波書店)を購入。云々。
平成十五年十二月二十六日
「カムチャッカの若者はきりんの夢を見るか」云々。
平成十五年十二月二十六日
「残念」は名詞か
はてなダイアリー - 残念
広辞苑第三版を見ると、「残念」には品詞の明示が無い。凡例を見ると、名詞および連語には、原則として品詞の表示を省略した、とある。
岩波国語辞典第三版には、「残念」の品詞は「名詞」(名ナ/ノ)と出てゐる。この辭書では、或語を形容動詞と認める條件として、活用語尾が揃つてゐる事と共に、「――に」の形が(「なる」「する」だけでなく)動詞に対して副詞と同様の連用修飾の働きをすること、と云ふ條件を附けてゐる。わかり難い定義だが、「有能な男」とは言ふが「有能に」の形は一般に「なる」「する」以外の動詞で使はれる物ではないから「有能だ」を形容動詞と認めない、と説明してゐる(品詞概説)。「残念な事」とは言ふが、「残念に」と云ふ形で一般の動詞を修飾するのに使はれる事はないから、「残念」は名詞として扱ふ、と云ふ事らしい。微妙な話だが、さう云ふ事になつてゐるらしい。
「形容動詞」と云ふ品詞自體を認めない言語過程説では、「残念」は名詞に分類される筈。
平成十五年十二月二十六日
電磁波が體に良いか惡いかは知らない。ただ、録畫中のヴィデオの側で電磁波を出されると、ノイズが乘る。螢光燈のon/off。冷藏庫の開け閉め。云々。

平成十五年十二月二十五日
AB's HOMEPAGE
安倍さんの本が出る模樣。
移轉前のサイトがWelcome to Adobe GoLive 6なのは如何なものかと思ひますが。
くりすますのおはなし。http://homepage.mac.com/abworks/kuso.html#kuso07
平成十五年十二月二十五日
NORAD Santa Tracking
めじゃーになり過ぎて今更どこも紹介しないであらうイヴェントを紹介して意表をつく試み。
平成十五年十二月二十五日
「正しい物を求めること」と「誤っている物を否定すること」は似て異なることです。前者は創造で後者は破壊。
創造とか破壞とかレッテルを貼つても仕方がないのではないかと。
大切なのは喧嘩相手を選ぶことだと思います。アホと喧嘩してるとアホが感染りますよ。
これは同意。と云ふ事で、Tskkの中の人は放置と。(?)
マジレスすると、正しい物を求める事と、誤つてゐる物を拒絶する事とは同義。
「正しい物を求める事」と「正しい物と誤つてゐる物とを適當に求め適當に拒絶する事」とは根本的に違ふ。或は、「誤つてゐる物を拒絶する事」と「正しい物と誤つてゐる物とを適當に受容れ適當に拒絶する事」とは根本的に違ふ。
平成十五年十二月二十五日
あえて言えば適材適所で思考法を使い分けるのが最強と言えるでしょうか。
日本人は適材適所で思考法を使ひ分けてゐると言へるでせうか。適材適所と言へば聞えは良いが、「本當に適切であるか」をきちんと檢證しないまま、或場合には自分に都合良く「西歐式」の論理を利用し、別の場合にもこれまた自分に都合良く「日本的」な「論理」を利用する、と云ふのが、屡々行はれてゐるのが實態ではないでせうか。
平成十五年十二月二十五日

今の日本で言えば政治的な意志決定において民主主義が衆愚政治に陥って正常に機能しないのが問題でしょう。

その理由は建前上意志決定機関ということになっている個人個人が、あまりにも具体的な政治から遠いところにいるからです。

「遠い」「近い」と言ふけれども、便利な言葉だと思ひますが、譬喩でしかないので意味が曖昧で議論で持出すのは危險ではないですか。。
「私見では、日本では個人個人が餘りにも觀念的な政治に近い處にゐるから民主主義が巧く機能してゐないのではないかと思ふ」とも言へる訣で、結局のところナンセンスです。
まとめるとインプットとアウトプットの関係があまりに相関関係が少なすぎて、真面目に考えても答が出ないということです。との事ですが、政治がさうさう身近な處にあつてたまるか、と思ひます。これを解決するには現場と意志決定機関の距離を縮める必要があります。との御説ですが、さう云ふ「利」によつて解決をはかるのは如何なものかと思ひます。とりあえずは組織を硬直化させる外因を排除した上でより柔軟な体制にし、その上で進化の外圧を掛けるのが有効かと思います。との御説については、外圧ではなく内發的な動機の重要性を指摘して置けば良いかと思ひます。
と言ふか、この分野では比喩的思考法が有効かと思います。は駄目だらう。譬喩と言ふか類推と言ふか、さう云ふ説明は説得の手段としては有効かも知れないが、説得力があれば眞實である、と云ふ發想には反對。
平成十五年十二月二十五日
血が通つてゐない文章は理解し辛い。
が、いつの頃から血の通はない文章で哲學者が哲學するやうになつたのだらう。
平成十五年十二月二十五日
どうでもいいけど、「祈りを捧げる」という表現について、用例辞書では「奉げる」を挙げていたので調べたところ、手持ちの国語辞典では「ささげる」は「捧げる」しか候補になく、漢和辞典でも「奉」に「ささ(げる)」という読みは無かったので、「捧げる」を採用。「奉げる」という表現のほうが、感覚的にはしっくりきますけど。
いろいろつつこみやうがある氣がする。もちろん、この感覚を以てしてどうして正字正かなを非難出來るのかとかさう云ふ方向で。
平成十五年十二月二十五日
「ガンダムZZとキャプテンハーロック(TV)との共通點は何か?」
「主人公達が第三勢力と言ふか微妙な勢力」
「主人公達が身方に苛立つてゐる」
なんかヤッタランとマゾーンとがプラモ合戰やつてゐるし。
平成十五年十二月二十五日
水野貴明著『検索エンジンからのリンクがどんどん増える! ホームページアクセスアップ完全計画』の四十六ページに、なんか見覺えのある文字列が。
takaaki.info
平成十五年十二月二十五日
観念的になるのは現場から遠いからでしょう。考えても無駄なのに無理に考えるから自家中毒的な観念論にとらわれるのです。
疑問があるのだけれども、現状「現場に近い」ところにゐる政治家の方々は、政治的な意思決定を「正常」に行つてゐるのでせうか。
なんかそもそも「現場への遠近」の觀念そのものの認識が彼我で違つてゐるやうな氣がしないでもないので、Tskkの日記の中の人にはアレな疑問だと言はれるかも知れませんが。
平成十五年十二月二十五日
キン肉マン実写版ギャラリー
平成十五年十二月二十五日
宇宙戦艦ヤマト/新宇宙戦艦ヤマト
なんかいろいろつつこみどころがあるらしいが。
新宇宙戦艦ヤマト

平成十五年十二月二十四日
今夜は中原めいこ樣のファンキークリスマスでも聽かうかと。獨りで寂しくな。
平成十五年十二月二十四日
説明という行為は最後の手段
かと言つて、説明の要らない正字正かなとか、説明の要らない正しいHTMLとか、無理。
平成十五年十二月二十四日
クリスマスイベント……。
平成十五年十二月二十四日
シスプリネットの中の人はイタいみたいなので放置。特に二十三日分邊。
マジレスすると、自分の使用してゐるユーザエージェントを基準にしてどうするのですかとか、「珍字珍かな」つて何ですかとか、「おながいします」つて何ですかとか、樂しければそれで良いのですかとか、どうして人を敗北者に仕立てたがりますかとか。
平成十五年十二月二十四日
「正しいHTML」でサイトを作らうが、正しい假名遣で文章を書かうが、間違つた主張をする人はゐるのであり、表記さへ正しければそれで良い訣ではない。
實利を目的に「正しいHTML」なり正しい假名遣なりを擇ぶのではなく、論理的な一貫性を重視するから「正しいHTML」や正しい假名遣を擇ぶ、と云ふのが、一般に「正しいHTML」や正しい假名遣の行はれてゐない現状、必要な事だ。
「正しいHTML」の理想とか、正しい假名遣の理想とか、そのやうなものはない。單に現實的な物だけではなく、理想的な物にも價値を認める、と云ふ立場があつて、その結果、或はその立場を實現する爲に、理想により近いHTML文書の書き方なり日本語の文章の書き方なりを擇び取る、と云ふのが「正しい」態度だ。
もちろん、さう云ふ態度を選擇せず、さう云ふ立場を採らない事も自由で、現實的な樂しみだけを重視する主義もあり得る。が、さう云ふ「現實主義」は、決して徹底出來ないと云ふ問題があるし、自らが理想を持たない以上、「理想主義」を批判する事が本質的に不可能で、批判をしてもその實、單なる惡口を言ふ以上の事が出來ないといふ問題がある。
「良い」とか「正しい」とか言つた觀念を認めない限り、お前の言つてゐる事はをかしいとか、俺はお前の主張に納得できないとか言ふ事は不可能である。そして、「現實主義」を標榜しつゝ「快樂主義」の立場を取る人間が「理想主義」を批判し嘲笑するのは、實は自分達の否定する理想や正義の觀念を知らず識らず認めてゐるからである。別の言ひ方をすると、二つの立場から一方を擇ぶのに「その方が樂だから」と云ふ理由を附けて、恰も「正しい」「正義」「理想」と無關係であるやうな顔をする「快樂主義者」は、實は「樂であるのは正しい」「樂であるのは良い事である」と云ふ正義なり理想なりに基いてゐるのであり、ただ、表現で「正しい」「良い」と明言しないがゆゑに自分はそれらの觀念と無關係であると思ひ込んでゐるに過ぎない。
價値觀を持ち、二つの對立する事柄から一方を選擇する時、人は既に正義なり理想なりを實踐してゐる。
人間には「正しい事」「正しい物」を求める傾向がある。さう云ふ現實を認めるのが俺の立場で、「理想主義」と言つても實は現實主義である。逆に、「正しい事」「正しい物」と言つた理想を認めない「唯物主義」「現實主義」こそ、觀念的で非現實的な思想であると俺は思つてゐる。
平成十五年十二月二十四日
CSSでだらうがtableでだらうが枠なり線なりを附けたりデザインをやつたりしたければ何でやつたつて別に氣にしないが、聞かれてもゐない事を一生懸命辯解しても仕方がないのではないかと。
平成十五年十二月二十四日
萌え本続き
ライトノヴェルの水準はそれなりなのではないかとの事で、慥かにさう思ふので、同意。
その上で「売れないことには話にならねー」という命題をどうにかする対応が求められてて云々。結局のところ、世の中が不況である、と云ふのが「本が賣れない」最大の理由であるやうな氣もしないでもないですが。個人的には、「金が無くても本だけは買ふ」と云ふ人間を如何に増やすか、と云ふ方向に話を持つて行きたい氣分ですが、出版社の中の人にしてみれば「そんな悠長な事をやつてゐる暇はない」と云ふ事になるのではないですか。しかし、それを言ふから方向性が見えてこないのではないかと。
――やつぱり不景氣が惡いんではないですか。
平成十五年十二月二十四日
ライトノヴェルの世界と言つても、結局、角川・富士見・メディアワークスのグループがシェアをとつてゐて、それに比べれば、ソノラマやその他の出版社は既にマイナーレーベルと言へる。そして角川は本體が結構アレな状況であるし、マイナーレーベルはマイナーであるがゆゑにアレな状況である。さう云ふ譯で各社とも「賣れないと困る」のだけれども、自轉車操業を出版社はもう何十年も續けてきたのであり、實際のところ、潰れる方が「自然」とすら言へる。
自轉車操業状態を永年續けてきた事で、讀者のレヴェル低下、「本離れ」現象を招き、出版社の首をさらに締めつける、と云ふ惡循環に陷つてゐるやうに思はれる。
本を、かつての「インテリの讀む物」から、一般の人が樂しむ物――娯樂の一つに變化させた事が、例へば「角川商法」の角川書店が成長を遂げた理由である。そして、飽くまで知的な物として娯樂とは一線を劃すべく抵抗を續けた岩波書店が賣上を落してゐる事は否定出來ない。
「本を支持する讀者」「本に思ひ入れのある讀者」に頼つてゐれば實現出來なかつた大きな賣上を、「本は娯樂の一つとしか思つてゐない消費者」に本を買はせる事で、今、巨大な企業と化してゐる出版社は得たのだが、さう云ふ「本の消費者」は本よりも手輕な娯樂があればそちらに飛びついて、本に見向きもしなくなる。しかし、既に大きな企業となつた出版社は、以前と同じか、それ以上の「消費者」に、商品としての本を買つて貰はなければ、潰れてしまふ。
企業は、大きくなるのは或意味、簡單だが、小さくなるのはとても難しい。出版業は、そもそも博奕打ちみたいな職業で、何が當るか判らない物に金をつぎ込んで、たまに當てて儲けるが、大概外して損をする。だから、さうさう規模を大きくしても仕方のない業種なのだが、「角川商法」以來、何處の出版社も分を越えて大きくなり過ぎたと言ふ事が出來る。(尤も、どんな商賣でも分際はあり、それを恰も無いかのやうに言ふのは誤である筈だが、どの企業もアプリオリに成長しなければならないかのやうな風潮が日本にはある)
出版社も少しは潰れたら何うかと他人事のやうに言つてみたいのだが、さう言つたら私に反感を抱く人は多いのではないか。しかし、この「出帆社」と云ふ語を「銀行」と言換へると、(困る事が起きるのは承知で)同意する人も少くないのではないか。「彼等は今まで儲け過ぎである」と言ふと、儲けてゐない人は喜ぶだらう。怒るのは儲けた人である。そして、一度儲けた人は、永遠に儲け續けなければならないのが、日本の資本主義である。
敗戰後の一時期、雨後の筍のやうに出版社が出現し、昭和三十年代に入る以前に潰滅した。それで出版點數が減つたかと言へば減らなかつたのである。
今、出版社が潰れるのを出版人が恐れる理由は、自分の會社が潰れると困る、と云ふ理由であらう。それはさらりーまんの心理として妥當だが、出版人はもともとさらりーまんであつたのか、と云ふ疑問が殘る。
既に、本が「細く長く」賣れる時代は終つてゐる。出版社が繼續して存在しても、本は繼續して存在しない時代である。「定番」を除いて、殆どの本が初版賣切り、早期絶版となる時代である。讀者の論理としては、出版社が潰れても全然困らない。
個人的な意見だが、出版社は潰れても良いと思ふ。本は、賣れなければ賣れないだけの話だ。今は本が出過ぎるし、本が賣れ過ぎる。本は薄利多賣の商品である。が、それで良いのかと反省した方が良からう。本は、良い内容だから賣れるのではなく、娯樂だから賣れるのである。そして、今、娯樂だから本は賣れなくなつたのである。
平成十五年十二月二十四日
露骨にネガティヴな話なのだけれども、ポジティヴ思考の人がするやうな話をしても、戰時中の精神主義みたいにしかならないのは目に見えてゐるので、敢へて後ろ向きで反感を買ふやうな事を書いてみた。と言ふか、「売れないことには話にならねー」という命題そのものを疑つてみると云ふ事で。
――とか書いておかないと、最近は危ないので。書いても危ないのだが。
平成十五年十二月二十四日
へんなSPAMが屆いた。
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  ○●今後メールの配信を希望されない方は-
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   aki55552000@hotmail.com   までご一報ください。
      ※申し訳ございませんがメール配信用のアドレス
   aki55552000@hotmail.com   に受信拒否のメールを
   頂いても配信解除することができませんので悪しからずご了承ください。
だからあのですね。
平成十五年十二月二十四日
禅問答とか禅宗とかを攻撃してゐるのではなく、日本人の「論理」に對する認識なんて一休さんの「とんち」レヴェル(ちなみにここで言つてゐる一休さんは、所謂一休宗純ではなくあにめやまんがの一休さん)だと言つてゐるに過ぎないのだが、さつぱり話が通じない。
そもさんせっぱの禅問答も大概、詰らないものだつたりするのだけれども、禅の限界と言ふのは結局のところ、日本人の「論理」の限界に過ぎないのであつて、本質的に俺が批判したいのは日本人が「論理」を「その程度で良い」と思つてゐる根性である。

平成十五年十二月二十三日
エースファイブコミックス版タイムボカン第一卷
構成・こなかまさる。作畫・福田良子。
1976年10月15日發行。オハヨー出版。エースファイブコミックスS(AVS-16)。
表紙は普通の感じだけれども、中は妙に素人つぽい繪なので結構アレ。
初期のタイムボカン自體が薄味である上、子供向けに「わかりやすく」アレンジされてゐる事もあつて、全體に淡々としてゐるといつた印象。はつきり言つて、粗筋をなぞつただけ。と言ふか、オリジナルとは異る變な方向にひねてゐるので、今一つ面白く感じられない。
結局一卷しか出なかつた模樣。
平成十五年十二月二十三日
闇黒日記平成十五年三月四日『平和にあらず剣なり』の訳者名が植野ではなく上野になっていることに気付きました。と云ふつつこみをメールで頂戴しました。その通りです。過去のログは基本的に直さない事にしてゐるのでここで訂正しておくと云ふ事で。
何と言ふか、過去の文章まで御讀み下さいました上に間違ひまで發見して下さいまして、非常に恐縮いたします。
あの膨大かつアレな過去ログを、讀んで呉れる人がゐるんですねえ。
平成十五年十二月二十三日
小人さんから小人さんへの置き手紙(2003-12-23)
所謂「謎マークアップ」とか「カオスマークアップ」とかを非難するのに、「互換性がない」「既に規格があるのに無視するのは如何なものか」といつた非難の仕方をするのは、餘り意味がない。
その種の批判は、單に「價値觀の相違」と云ふだけの理由で排斥されるからだ。
ただ、どれだけ價値觀の相違があらうとも、批判出來る事がある。それは、その價値觀が、體系として一貫したものであるかどうか、と云ふ事だ。
「あなたの言つてゐるAと云ふ主張は、私の主張してゐる非Aと云ふ主張と對立する。だからあなたは間違つてゐる」と云ふ非難の仕方をし、「私の非Aの主張がどれ程正しいか」を主張しても、それ自體、「Aなる主張」を直截的に否定したものと相手が認めない事がある。
ただ、「あなたは或場所でXと言つてゐるが、別の場所で非Xと主張してゐる。この兩者は矛盾してゐる」と指摘する事は可能であるし、それが的確な指摘であれば、相手は反論出來ない。もちろん相手は、それらが互ひに無關係なXとYであると言ふかも知れないが、Xと非Xの關係である事を證明出來れば、相手の主張が體系的でない事も證明出來た事になる。その時點で、相手が言ふ「自分の價値觀」は崩潰する。
ただ言へるのは、そのXと非Xの對立が、その相手の主張の根本的な部分に關るかどうかだ。非常に瑣末な部分での、或は、單に勘違ひやミスで冒したに過ぎない矛盾は、問題にならないし、問題にしても仕方がない。讀點を、或部分で「、」と書き、或部分で「,」と書いてゐる、だからお前は矛盾してゐる、等と言つても、句讀點の問題等で論爭をしてゐるのでない限り、どうでも良い話である。また、或部分でXと非Xの矛盾が生じてゐても、その一方を相手が「間違ひだつた」と認め、なほかつその訂正によつて相手の價値觀が全體として維持される場合、その矛盾の指摘は相手にとつて致命傷とならない。
W3C の規格に合っていなくてもご自分の DTD に適合しているならそれもいいでしょう。――そこから、そのご自分の DTDがW3CのDTDと異つたり、互換性が無かつたりする事を指摘しても意味はない。さうではなくて、ご自分の DTDなる一貫した體系が成立しない事を指摘する必要があるのだ。今の場合、ヘミング氏のHTML解説が、全體として一貫性を缺いてゐる事を、ヘミング氏がご自分の DTDなるものを成立させ得ない事を立證出來れば、ヘミング氏がしてゐる説明は全體としてナンセンスである事を立證した事になる。
そして、飽くまで論理的矛盾を衝く事が重要であつて、ヘミング氏の人格を批判する事は避けなければならない。ヘミング氏の解説に論理な整合性のない事、それによつて、ヘミング氏の解説では的確な判斷を下せない事例があり、それが深刻な問題となる事を指摘する、と云ふ批判をしなければならない。
さらに言ふと、そこまでやつて、ヘミング氏を何一つ反論出來ない状況にまで追込んだとしても、ヘミング氏が納得しない、と云ふ可能性はある。
平成十五年十二月二十三日
http://www.page.sannet.ne.jp/hirasho/diary/diary0312.html#23
売り方のことは良く知らないが、 売る人間がモノのことをよく知っていなければならないという 当たり前の条件が実際に満たされてさえいれば、後は些細な問題ではなかろうか。
「作る人」と「賣る人」とが分裂してしまつてゐる現代的な商工業のあり方が根本的に問題を孕んでゐるのだが、その問題が果して本當に現代固有の物かと言ふとさうでもない訣だし、そもそも「作り手」と「賣手」とが完全に一致する事は、人間一人に出來る事には限界があると云ふ常識によつて否定される。
作つてゐる人間は「良い」と思つてゐるが、營業の人間が必ずしも「良い」と言切れない状況でゲームを賣りに行かなければならない、と云ふ状況を經驗した事があるが、だからと言つて賣りに行かない、と云ふ選擇肢を選べるかと言へばさうでもない。
結局のところ、作り手は、個性なり個人的な嗜好なり自分にとつてだけ意味のある面白さなりを採入れたとしても、同時に、出來る限り多くの人が樂しめるやう、普遍的な面白さをも作品に持たせる努力が必要だらう。
普遍的な面白さ等は存在しないと言つて、「自分の世界」に閉ぢ籠つて、それで同じやうな「自分の世界」を持つた人間にのみ受容れて貰はうとする事は、そのやうな「世界」が或程度の普遍性を持つてゐるのならば商賣にはならうし、その種の「世界」を共有してゐる人間同士で商賣をやつてゐるのなら誰も氣にしないのだらうから問題は無い筈だが、或程度以上の規模の企業でそれは不可能だし、小規模の事業所であつても屡々實現困難である。
シェイクスピアの御芝居は、王侯貴族相手の御芝居だつたが、庶民も樂しめたさうである。そして、現代人も樂しんで觀る事が出來るのである。全ての作り手にシェイクスピアになれ等とは言へないが、シェイクスピアの御芝居に學ぶところはあるだらうし、シェイクスピアの御芝居の持つてゐた普遍性を理解するのはしないよりは良い事だらう。
平成十五年十二月二十三日
http://d.hatena.ne.jp/Tskk/20031222#p2
それは驚きと感動があるからこそ禅宗みたいな宗教が成立したんでせうが。
日本人が持ち得たのは精々禅問答程度の「論理」であり、その「論理」は西歐人の論理にとても敵ひつこないと云ふのが問題だと思ひます。或は、日本人における人が人に語る言葉の正しさというのはそういうものなのでせうが、それは説得による相對化が可能な正しさに過ぎません。そして、その程度の正しさを多くの人が絶對化してしまふ現状に、私は抗議してゐるだけです。

平成十五年十二月二十二日
http://www6.vc-net.ne.jp/~ainosato/scsp0008.txt
Google經由で發見したり。
平成十五年十二月二十二日
電波…とどいた? 2003年12月19日の電波状況電波…とどいた? 2003年12月21日の電波状況で、ライトノベルの売り上げの話
この手の「物を賣る」事の議論となると、なんかすぐ「評判」に話が行くけれども、結局、賣りたい物が「人が買ひたい思ふ物」なのかどうか、今の場合、本が面白いかどうか、が問題であつて、宣傳の仕方だの何だのは瑣末な問題だと思はれるが、何うだらう。
某誌(NAVIの夏頃の號の竿頭言)で「まづいラーメン屋」の喩へ話が書かれてゐて、或ラーメン屋のラーメンが非常にまづかつた、その爲に客がさつぱり入らない、そこでラーメン屋の親爺が店の前にのぼりを立て、早い時刻に「スープがなくなつたので閉店」と貼り紙を出して店を閉めて、恰も大人氣であるかのやうに見せかけた、けれどもまづいラーメンはまづいので入つた客がリピータとして附きはしなかつた、結局店は潰れた、と、「宣傳だけでは駄目」と云ふ議論が展開されてゐたのだけれども、ライトノヴェルの世界では、最う「まづいラーメン屋」の域を脱した「うまいラーメン屋」が人を集められなくて困つてゐる、と云ふ状況になつてゐるのだらうか。
平成十五年十二月二十二日
現代のコンテンツビジネスは、薄利多賣が基本の商賣で、逆に言へば、本來賣れて良いだけの量以上に賣れなければ儲からない商賣になつてしまつてゐる。或程度賣れれば良い、と云ふ意識でやつてゐれば商賣は長持ちする筈なのだが、それでは成立たないやうな「構造」を今の多くの業界が自ら進んで作りつゝあるやうに思はれる。既に幾つかの業界でその種の商賣の仕方は破綻してゐるのだが――例へば「マルチメディア」とか「CD-ROM」とか言はれた業界は破綻したし、自動車産業も或意味、一度それを經驗し、破綻すれすれまで行つて、その反省に基いて立直りつゝある――成長期にある(と自ら思つてゐる)業界の人間は、先人の通つて來た道を見て自らを顧みる事をしない。
ブランドイメージの向上にしても宣傳の效率にしても、結局のところ、商品の質を高めるのが一番有效なのだと言へる。殘念ながら、出版業とかウェブ産業とかは、それが簡單には出來ない産業であり、しかもその事を自覺してゐる産業である。それゆゑに、一番肝腎な議論を囘避してしまふ傾向があるのだが、昨今の「宣傳論」は、餘りに「營業寄り」の發想に偏つてゐるやうに思はれる。
要は、やっぱ、基本は、鼻の利く編集+広報、ただし会社に所属しているというより読者代表的な人、を探して、かかえて、さらに作家発掘させろってことになるんですかねぇ。と云ふ事なのだが、どんな本が良い本なのか、と云ふ事の意識がより廣い範圍で的確に認識されるやうになれば、良質の作家も増えるのではないかと思はれる。「ネタ」とか「ターゲットの嗜好・趣味に合せたテーマ」とかにしか注目しない傾向が今の「讀書界」にあるやうに思はれるが、もちろんその邊のヴァラエティを否定しないけれども、ヴァラエティのある具體的なテーマの根柢に物語の本來の意義が存在してゐる事の「信仰」が必要だと思ふのだ。讀者に媚びるだけの本が生産されても仕方がない。どんなテーマであれ、普遍的な或物が根柢に無ければ、その本は讀者の心を掴まない。
平成十五年十二月二十二日
人名が説明も脚注も無しに出てくるのは、そのくらい知ってろということなのか。
脚注も無しに植木等とか。
平成十五年十二月二十二日
野嵜氏の読み方は、不自然ではなく、今この状況であの作品を読む上ではむしろ非常に妥当な読み方なのかもしれない、と言う風に、前向きな結論を得ることが出来たわけですな。
パロディではなくオマージュ、風刺・批判ではなく、尊敬・賛辞として先行作品をもじった作品を消費するやり方は、特に90年代以降に前面化した現象であり、その意味で氏の読み方のほうが現代的だ
敗北宣言を高橋はしてゐるけれども、俺(野嵜)は普遍性こそが重要だと言つてゐるのだから、その俺が所詮現代的でしかないと言ふのだから、高橋は「負けと見せかけて實は自分(高橋)が勝ち」と言つてゐるのである。
平成十五年十二月二十二日
悪の悲壮感という話からは外れている。そこは善玉悪玉関係なく共感できるところです。
こちらが悪の悲壮感という話等全然してをらず、飽くまで善玉悪玉関係なく共感できるところの重要性の話をしてゐる、と云ふ事を、最後まで理解して貰へなかつたのは俺の「負け」だらう。ここは最後までとぼけ通されてしまつた訣だから。
平成十五年十二月二十二日
 野嵜氏からのお返事、「正字正かな」についてもっと熱く語っていただけるものと期待していたのですが、まあいろいろと勉強になりました。ありがとうございます。
何と言ふか、期待と云ふ名の「釣り」には釣られなかつた訣だ。
tableがどうのかうのつて、table border="1" summary="枠囲い"のsummaryの屬性値があんまりだとかそもそもそんな目的でtableを使ふなとかつつこめ、と云ふ話だつたのかな。と言ふか、テーブル - ばけらの HTMLリファレンスとか鳩丸ご意見番 - TABLE でレイアウト調整は?とかW3C Home Page Table-less Layout: HOWTO and FAQとかのリソースは、tableの事を知るのに如何でせうか。
平成十五年十二月二十二日
「このはしわたるべからず」と書かれてゐたから「端」ではなく「眞ん中」を渡つたと一休さん。
そこで意地惡をした將軍様が「いや、俺は端ではなく橋の積りで書いたのだ、そもそも、「橋の眞ん中」と言つても橋だらうが端だらうが『はし』なのだから『このはしわたるべからず』の規定に反してゐる。よつてお前は有罪」と自信を持つて言つたら、一休さんは默るしかなかつただらう。
「頓智」と「理窟」とは別物である。頓智は「説得力がある」やうに見えるだけである。
だから、俺は坊主の禅問答を信用しない。
平成十五年十二月二十二日
社会党(現社民党)の「おたかさん」はタイムボカンの「おたけさん」の捩りですか。

平成十五年十二月二十一日
例によつて長いよと豫め警告。あとからする警告なんてもの、ありはしないのだが。
平成十五年十二月二十一日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20031220#p10
非常に卑しい根性と云ふ言ひ方が、高橋は氣に入らなかつたらしい。でも、實際に卑しい卑しいとミンミンにも言はれ續けてゐるのだし。しかし、ここで覺えた反感の所爲で高橋は以後の私の文章を全て誤讀した。高橋は少し冷靜になつた方が良いと思ふ。それこそオタスケマン辺りでそういう主張をするのであれば、イッパツマンほどにはこだわりは無いので、文句もないのだが。と言つてゐる邊、高橋が感情的な反感に基いて私を非難してゐる事は明かである。そして、さう云ふ感情的な人間の周りに、やはり感情的に私を罵る人間がたかりはじめてゐる。# cjm 『ノズラーは相手にしないほうがいいですよ。不快になるだけです。』――類は友を呼ぶ。閑話休題。
今あえてこれを主張したいのであれば、どうしてそんな不自然な読み方をしたいのかという動機の詮索を抜きにするならば、逆転の発想としては面白いかもしれないが(正直、俺にしてみれば大好きな作品を汚されてるようで、その解釈は嫌いだけどね)、しかし批評としてオーソドックスに考えるなら、その「割に合わない努力」は単に善玉悪玉のコードを踏襲しているだけである、とするのが普通だろう。
彼等の情熱単に善玉悪玉のコードを踏襲しているだけである、とする方が、餘程不自然な解釋であるやうに思はれますがねえ。或は、それは、解釋でしかないやうに思はれますがねえ。
それから、「コード」つて何ですか。
彼らは自らの正義を叫んでなどいない。彼らの悪玉っぷりはお約束の上で目一杯はめを外して不真面目にやっているのであり、悲壮感などはない、と俺は言ってるわけです。彼らの悲哀はサラリーマン的な部分にこそある。
サラリーマンであるからと言つて、常に不眞面目である訣ではない、眞面目な時もあれば不眞面目な時もある、そして、それゆゑに、眞面目になつた時の眞面目さは視聽者の心を打つたのだ、と言つてゐる。三惡が、最初から最後まで一貫して不眞面目であつたかのやうに高橋は言つてゐるが、そのやうな事實はない。
「コード」とか「お約束」とかの域を超えた情熱を三惡は持つてゐた。或は、三惡は、「サラリーマン的」と云ふ作品の「コード」を超えて、或は、「サラリーマン的」である事を徹底する事によつて「サラリーマン的」であると云ふ制約・限界をたまに乘越えてゐたからこそ、彼等の情熱を視聽者は支持したのだと言へる。單に彼等がサラリーマン的な言動しかしてゐなかつたのであれば、視聽者の支持は得られなかつた筈である。
そして、彼等の情熱が常に空囘りしてゐたからこそ、サラリーマンの悲哀も生じてくる。彼等が惰性的にサラリーマンをやつてゐたのであれば、悲哀も何も生じやうがない。彼らの悲哀はサラリーマン的な部分にこそある。と高橋は言ふが、正確には、彼らの悲哀はサラリーマンを超えようとして超えられない部分にこそある。彼らの悲哀はサラリーマンに徹しようとして撤し切れない部分にこそある。と言ふべきだ。或は、三惡は、サラリーマン的であつても、サラリーマンではない。或は、サラリーマンであるけれども、現實のサラリーマンとは違ふ、「お話の中のサラリーマン」である。本物よりも本物らしい、と言つて良いと思ふのだが、高橋はさう言はれても理解出來ないだらう。「Xである」と「いかにもXらしい」とを、高橋は區別しないからである。X
平成十五年十二月二十一日
と言ふか、高橋は、「ただ給料やボーナスが欲しいだけ」と、「ただ給料やボーナスが欲しいだけ」のために頑張るとを區別出來なかつたらしい。
前者が卑しい事は誰の目にも明かでせう。だから私はさう言つたに過ぎません。そして、私が後者を或意味肯定してゐる事は、誰の目にも明かだらうと思つたのですが、高橋には明かでなかつたやうです。そして、高橋は、「ただ給料やボーナスが欲しいだけ」のために頑張る事を私が卑しいと評したと勘違ひしたのです。
何と言ふか、全ては私との「對立構造」を意識し過ぎた高橋の誤讀の所爲なのですが、とにかく高橋に反感を抱かせてしまふ私にも非があるのでせうね。その點は謝つておきませう。
平成十五年十二月二十一日
# NaokiTakahashi 『あるいは、イッパツマンに対するライバル心とか、仲間と一緒に勝ちたいのだとか、そういう感情は芽生えていたかもしれない。というか芽生えていたでしょう。奴らはなかなかの人情家ですから。サラリーマンを金だけが目当ての仕事ロボだといいたいわけではないのです。しかし、それは「正義」でも「悪」でもないわなあと。もっと私的なもので。』
だーかーらー。さう云ふ私的なものを、私がいつ「正義」だとか「惡」だとか言ひましたか。言つてゐないぢやないですか。明かに高橋はとぼけてゐますね。さう云ふ私的なものを正確に表現する、と云ふ時の「正確さ」――その「正しさ」こそが、「正義」なるものの「正しさ」よりも大事である、と私は言つてゐるのです。だから、私の言つてゐる事と、高橋の言つてゐる事は、同じなのです。それなのに高橋が私に反感を抱くと云ふのは、私には理解し難い事です。
平成十五年十二月二十一日
反転衝動に基づく駄文。單なる「衝動」による文章もどきが、文章としてまともである訣がないから、反應するまでもないのだが。ただ言へるのは、つつこみどころが多過ぎる文章を書いて平然としてゐる人間は異常だ、と云ふ事だ。シスプリの中の人は、その「平然としてゐる人間」である。
野嵜氏がこれまでに誤りを指摘してきたエセ「正字正かな」派の者たちは、野嵜氏や「正字正かな」派の方々を「珍字珍かな」に引き込むための工作員ですが何か?――馬鹿馬鹿しい。
 私は、「現代かなづかい」の上で「歴史的かなづかい」を使おうとするから、間違いが発生するのだと思います。――「現代かなづかい」の上で「歴史的かなづかい」を使ふ、と云ふのがどう云ふ事なのか、さつぱりわからない。本人も分らないで書いてゐるに決つてゐる。
まあ、行きすぎた謙遜でイヤミを言う人間にろくな奴がいないことはこれまでの経験上、わかり切った話ですが、ここは笑うところ。――誰が行きすぎた謙遜をしてゐるかと言へば、當然シスプリの中の人の方だ。
野嵜氏は、他人が共産主義者なら、理想の實現の爲に、どれほどの犠牲を拂ふ事も厭はない、と云ふ態度を取るべきだ。」と言っているから、その受け売りで共産主義者なら、理想の實現の爲に、どれほどの犠牲を拂ふ事も厭はない、と云ふ態度を取るべきだ。」と言っているそうです。――他人がの強調は原文のママ。私が何か惡い事を言つたのだらうか。そもそも、「他人が言つてゐる」と云ふだけの理由で私が受け売りをしてゐるとどうして言切れるのだらうか。その他人の言つてゐる事には、何一つ理窟がないとでも言ふのだらうか。その理窟を知つた上で反論しろと言つてゐるのだ。
革命には犠牲が附き物でないとシスプリの中の人が考へる理由は何ですか。」共産主義とは革命でせうか?――マルクスでもレーニンでも讀めば分る。と言ふか、とぼけるのも好い加減にして呉れよ。
私は、「正字正かな」の信念をお持ちの野嵜氏を見下す予定はありません。何の信念も持たない高橋氏なら別ですが。見下されたと思うのは、野嵜氏の劣等感ではありませんか?(微苦笑)――(微苦笑)と書いてゐる時點で、シスプリの中の人が俺を見下してゐる事實が明かになつてゐる。或は、俺に劣等感がある事を、シスプリの中の人は立證出來るのか。出來ないから、質問の形をとつてゐるのではないか。しかし、この種の質問は、惡質なレッテル貼り以外の何物でもない。なぜ惡質かと言へば、劣等感の有る無し等、誰も(自分ですらも)確實な事は言へないからだ。「絶對俺には劣等感はない」等と言ふのは常に虚僞である。「お前には劣等感があるのではないか」と云ふ質問をするのは、常に、否定の囘答を豫め封じたものであり、全肯定であれ部分肯定であれ、とにかく相手に肯定させる事を目的としたものであり、結局「お前は自分に劣等感がある事を認めざるを得ないんだよ」と極附けて、「俺が言つたんぢやない、お前自身が認めた事實なんだよ」と言つて、相手に責任をなすりつけるものである。これほど卑怯な「批判」の仕方はあつたものではない。そして、その卑怯である所以を悟らないで、平然とこの手の「質問」をして見せるのは、嫌がらせを嫌がらせと思はないどうしやうもない人間に決つてゐる。はつきり言つて、關り合ひになりたくない類の人間である。しかし、そのやうな人間が増えてしまつては困るから、さうならないやうに俺は色々言つてゐる訣である。が、肝腎の相手に俺の意圖は滅多に傳はらない。さうすると、その「相手」が俺を馬鹿にして喜ぶのである。
この日記を日本語の文章と思って書いているのだとしたら、野嵜氏はどうかしていると思います。――ではあんたの書いてゐる「日記」は、何語の文章なのか。誰が見ても日本語の文章である。再び言ふが、とぼけるな。或は、自分で自分の文章がまともな日本語でない自覺してゐる、と言ふのならば、改善する努力くらゐしたら何うか、と「忠告」したい。そして、その種の改善の努力こそが必要である、と俺は言つてゐるだけだ。それを馬鹿にするシスプリの中の人は、改善の努力などする訣がない。しかし、それで良いのかと俺は言つてゐるのである。シスプリの中の人には通じないだらうが、それ以外のこの文章の讀者の中には、通ずる人がゐるかも知れないので、言つてゐる。ゐないかも知れないが、その邊は俺も十分承知してゐるので、だからうちのサイトのtitleは「言葉 言葉 言葉」である。
 野嵜氏は<table>タグについてご存じないようなので、こちらをご紹介します。――それがどうした。紹介してどうする積りだ。とほほを紹介してどうする。既にとほほのWWW入門が駄目な代物である事は、うちのサイトで書いてゐる。きちんと理由を書いた上で、だ。もちろん、理由を書いたか書かないかなど、シスプリの中の人にとつては「どうでも良い」事に決つてゐる。彼は、ただ單に、世間で一般的であるものに逆らふ人間を馬鹿にしたいのである。世間で一般的であるのに逆らふのは、彼にしてみれば「劣等感の表明」に他ならないのである。それに對して微苦笑して見せるのは、世間で一般的であるものに逆らつた人間の所爲なのである。シスプリの中の人は、徹底して無責任である。そして、無責任である事に何の後ろめたさも感じない。
野嵜氏は、理屈にあわない、ただの悪口を返して、どうしたいのだろう。語れる理想も何もないのに、ただ「新字新かな」の揚げ足をとったり、足を引っ張ったりしたいと言うのなら、それこそ人間としてどうしようもないとしか言いようがないのだが。――私の言つてゐる事が理窟に合はないと言ふのなら、どこが理窟に合はないのか、指摘したら良からう。私の言つてゐる事が理想でないと云ふのなら、なぜ理想でないのか、説明したら良からう。「新字新かな」に對する私の批判が「揚げ足取り」であり「足を引つ張る」だけのものでしかないと言ふのなら、どこがどう「揚げ足取り」であるか、具體的に指摘したら良からう。或は、私は理想を語つてゐる。うちのサイトをシスプリの中の人は讀んでゐないのか。さうだらう。
平成十五年十二月二十一日
ただ、反転衝動に基づく駄文を書いて、私を不快にし、私に反感を抱いてゐる人間を喜ばせても、何の意味もなからう。それなのに、なぜシスプリの中の人はさう云ふ眞似をするのか。
と言ふか、シスプリの中の人は、自分が根據のない誹謗をしてゐる事に氣附いてゐないのか。俺は、時に言ひ過ぎる事はあつても、基本的に非難する時は非難する對象に非難される理由がある事を述べてゐる。
平成十五年十二月二十一日
馬鹿を相手にすると文章が無駄に長くなつて、讀者にとつては迷惑な事だらうと思ふ。馬鹿に代つて御詫びを申し上げる。
しかし、こちらだつて無駄に長いだけの文章を書かされて、迷惑してゐるのである。
當方は、誰の挑戰でも受けるが、少しはまともな人間に的確な批判をされてみたいものだ。的外れで皮相的な非難ばかりを相手にするのは飽きた。
好い加減、馬鹿から學ぶ事もなくなつた。
平成十五年十二月二十一日
と言ふか、これだけ長いと、シスプリの中の人は、讀まないだらう。讀まないで「馬鹿が勝手に騒いでゐる」と思ふだけだらう。
彼等は、單純明快でわかりやすい「レッテル」しか、理解出來ないのだ。
平成十五年十二月二十一日
また豪快に日附を間違へてゐるし。修正。
平成十五年十二月二十一日
俺は植木等を知らないらしい。
ハングマンのエンディングでも植木等の歌が使用されてゐたとか、變な知識は持つてゐるんだけれども。と言ふか、「4」まで植木等、レギュラーで出てゐたし。植木等が出て來なくなつてからハングマンのコメディ色はますます強まつてゐる云々。
平成十五年十二月二十一日
ハングマン→必殺→Nステの金曜チェック。なつかしい。
平成十五年十二月二十一日
フィリピンのマルコス政權崩潰の報道は、ニュースステーションで見た。この邊の話の流れと全然關係ないけれども、思ひ出したので書いておく。なつかしい。
平成十五年十二月二十一日
ちなみに、植木等、あの「無責任男」シリーズ、本當はやりたくなかつたんだつて。
平成十五年十二月二十一日
ここで「心理的」に俺の「懷古趣味」の由來を書いておくと。
「小説奇想天外」の第十一號で大森望氏が、1980年代SFの個人的總括をやつてゐて、そこで、ちやんとSFの歴史を勉強しようと思へば、サンリオSF文庫をどこかから掘り出し、文庫化されてゐないハヤカワSFシリーズを見附け、S・Fマガジンを集めなければならない、と云ふ風な事を書いてゐた。それで、その後、サンリオと金背・銀背を古本屋で集めて結局七、八割がた集めたのだが、「私的なこと」をきつかけにSF趣味から撤退した。が、SFから一般的な本に興味が移つて、それで古本屋で古本を集め捲るのだが、90年代中頃に、當方の「守備範圍」の古本屋が軒竝閉店して、「過去との斷絶」を味ははされる事になつた訣だ。
福田恆存の本を讀むやうになり、保田與重郎、小林秀雄を集め、漱石、鴎外、そして緑雨に親しむやうになれば、その邊の人は皆、俺の同時代人である。大學を出るかでないかの頃に保元・平治物語を讀んだが、さすがにその邊にあると「同時代」ではないが、明治以降の文學者は、俺にとつては同時代人である。
俺は「生きてゐる人」と「死んだ人」とを區別しない。昔の本を開けば、正字正かなは當り前のやうに使はれてゐるのであり、だからと言つてその本が「死んだ本」だと俺は思はない。
「奇想天外」の文章で「今、新しいSFが面白くないと文句を言ふ前に、すべき事があるのではないか」と大森氏が書いてゐる。絶版になつた多くのSFの中にだつて再評價すべきものが幾つもあると大森氏は言つてゐて、恐らくSFのSFとしての面白さなり本質なりを大森氏は大いに意識して、その邊のものの再評價の必要性をも含めて言つてゐた筈だが、SFに話は限らない、過去に追ひやられてしまつたものでも、本質的な面白さなり良さなりを持つものはあり、さう云ふものは時代が變つても、いつまでも面白いし良いものである。さう云ふ意味で、古い物の中にある良いものの再評價を俺は主張してゐるのであり、ただ單に「古いものは良いものである」等と云ふ事を言つてゐるのではない。
正字正かなで書いてゐた昔の人は全て偉かつたとか論理的であつたとか、さう云ふ事も言つてゐない。昔は正字正かなが當り前だつたので、馬鹿でも○○でも正字正かなで書いてゐた。だから俺が正字正かなを理想的な表記と言ふのは、偉い人が使つてゐたからとかさう云ふ理由ではない。當り前の人が當り前に使つてゐた事は一つの理由である。しかし、彼等は時々、或は屡々、間違つた書き方をした。だから俺は、昔の人が書いた通りに、間違ひも含んだ表記を「歴史的假名遣」として墨守せよなどとは言はない。しかし、昔の人が「かくあるべき表記」として抱いてゐた理想を、今の人も持つべきだと言ふだけである。具體的にどのやうな表記が理想的かと聞かれても、確定的な規則なり完全な體系なりを示す事は出來ない。しかし、その理想的な表記には「現代仮名遣」よりは或程度完成された規則による歴史的假名遣の方が近いだらうと、さう考へるしさう主張してゐる。それに對して、歴史的假名遣を使つてゐた昔の人だつて間違ひをやらかしただらう、等と言はれても困る。俺は、歴史的假名遣の規則を厳密に守る事を主張してゐるのではないからだ。ただ、理想的な歴史的假名遣が何處かにある事を認めよと――窮極的には、理想と云ふものがこの世にあるべき事を認めよと、さう主張してゐるに過ぎない。それなのに、俺の言つてゐる事が理想と無關係であると極め附ける人間が出て來るのである。さう云ふ人間こそ理想を持つてゐるのかと問詰めたいが、所詮シスプリヲタに理想のある訣がない。
平成十五年十二月二十一日
長い長い長い。けれども今月はこのファイルで最後まで行く。
平成十五年十二月二十一日
# NaokiTakahashi 『(私信)読んでるのだろうから一応解説。「タイムレコーダーがちゃんと押せば」は元ネタのほうの歌詞なのです。植木イズム「どうにか格好がつくものさ」から時代を隔てての「(爆発後)フニャーっとめげてる場合じゃない」への変化が面白いのですな。タイムレコーダーの意味合いが変わっている。 まあ、些細なつっこみなのでお気になさらず。』
それ、知つてるけど忘れてた。
と言ふか、植木等は高橋にとつて「我が物」に入るのかね。
平成十五年十二月二十一日
サラリーマンものと云ふイッパツマンのコンセプトを、高橋は「タイムボカンシリーズの中における特異な個性」と見て、俺は「イッパツマンの基調」と見てゐる訣で、觀點のレヴェルが違ふのだが、單にレヴェルが違ふだけで結局同じ事を言つてゐるに過ぎない。
また、あの作品の「建前」としてのパターンなりスタイルなりの認識を退けて、わざわざ「本音」だけを捉へようとする高橋のやり方は飛躍にしか思へないのだが、さう云ふ點で彼我に断絶があると言へばある。が、高橋のやうな感情的な部分にのみ著目して事實を見ない方法は、レッテル貼りとか偏見とかに陷りがちだから、俺は肯定出來ない。
俺はその時代の子供として、当時の文脈であれを見て、当時の文脈で解毒剤としてそれを受け取った。と高橋は言つてゐるが、それは飽くまで「受取り方」の問題であり、高橋が如何に自分が時代に密着してゐたかを強調しても、結局それが高橋の主觀を通した物の見方、高橋の感受性に依存した物の見方に過ぎない事をこの文章が曝露してゐる。
平成十五年十二月二十一日
と言ふか、当時はを連發し、自分の時代なる物に執着する事によつて、高橋は普遍性を失つてゐるやうに俺には思はれる。
「コード」とか何だとか、「ポストモダン」やら何やらの隱語を用ゐるのが、現代的な批評なのだかどうだか良く知らないが、もつと普通の言葉を使つて語るべきだ。
その邊の事は以前、渡邊さんの文章について書いた時に述べた。
何と言ふか、自分の言葉で語れとか個性とか言ふ人に限つて、その手の「身内の言葉」を用ゐたがる傾向があるやうな氣がしないでもないのだが。
http://d.hatena.ne.jp/Tskk/20031220
「かっこいい」とか「ださい」とか「物語」とか、その邊のスローガンもまた、現代の批評では一般に用ゐられる用語だが、スローガンで物を考へてはいけないと思ふのだ。
平成十五年十二月二十一日
「シェイクスピアを笑いの観点から解釈する」とか、その種の「切り口」を標榜した現代風の批評に、俺はどうしても馴染めない。「出來レース」にしか見えないからだ。
平成十五年十二月二十一日
と言ふか、SDロボットアニメつて何ですか。
平成十五年十二月二十一日
俺が90年代の人なのか何うかは知らないけれども、俺のアニメを見る時の基軸はトラスタの作品にあつたので、或意味、さうなのかも知れない。まほたいOVAから、BOY、lain、ルミナス、ミト、NieA_7、そしてまほたいTVまでの一聯の流れが斷絶した時點で、俺はあにめに對する關心をかなり無くしてゐる。
ロボットアニメにしても、宮崎アニメにしても、俺にしてみれば「あつちの世界」なのであつて、「同時代」であるといつた「くくり」で俺は物事を見られない。
平成十五年十二月二十一日
だから、あにめで熱く語るなよ>>俺。
ちなみに、greater thanの記號を文字參照にしろと言ふのは、飽くまで引用符で括られた屬性値中に現はれた場合の話で、一般論として「文字參照にすべし」と云ふ事にはなつてゐません。
http://www.w3.org/TR/html4/charset.html#h-5.3.2
平成十五年十二月二十一日
高橋は「タイムボカンは子供番組である」と云ふ事を忘れてゐる。
平成十五年十二月二十一日
戦国無双 - / ファミ通.com
『戦国無双』信長の妹が登場!
妹……。
平成十五年十二月二十一日
CNET Japan - 輸入盤を「非合法化」する著作権法改正
CD一枚三千圓と云ふのが、原價數十圓の圓盤に附けられる値段として「高い」と見るのが普通だらうけれども、その圓盤が數百本しか賣れない事も結構ある、と云ふ事を考へる必要もあるだらう。
CDのコストの大部分は録音や宣伝などにかかる固定費であり、空ディスクの価格は1枚数十円にすぎない。逆輸入しても2000円で売れるなら、それが正常な価格であり、これは市場経済では当たり前の価格競争である。
果して本當に正常な価格なのかどうかは、必ずしも斷定的には言へない。實際のところ、數十萬本、數百萬本賣れるCDも、數百本、數千本しか賣れないCDも、録音や宣伝などにかかる固定費は大して變らない。賣れてゐないCDは、三千圓でも安過ぎて元が取れない可能性もある。
さうなると、横並びで、賣れつ子のCDも賣れないCDも、何でもかんでも三千圓、と云ふ誰が決めたか知らないがとにかく一緒の値段が附けられてゐる、と云ふ事こそ問題だと言へよう。そして、賣れないCDに五千圓とか一萬圓とかさう云ふ値段が附けられてゐても、我慢して買ふ、と云ふ「買ふ側」の意識が出て來なければ、妥當な價格も存在しない事になる。
その一方で、澤山賣れるものはそれだけの價値がある、賣れない物にはそれなりの價値しかない、と考へると、賣れるCDに高い値が附けられ、賣れないCDが安く賣られる、と云ふのも、それはそれなりに筋の通つた價格體系であると言へる。

平成十五年十二月二十日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20031220#p3
誠実というのは心の問題なので、客観的には実現不可能な大嘘を言ってる場合でも、人はその時々ではすっかり本気なのだ。
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20031220#p4
結果が良いか惡いかはどうでも良い。それで「正義」とか「惡」とかのレッテルが貼られるか貼られないかもどうでも良い。當り前の話だ。
逆転王のすがすがしく声張り上げた皮相で悲壮な正義は、建前の表現、相対的であり人には理解されがたい真実も、貫けば不思議に(あるいは倒錯的に)かっこいいという野嵜イズムの表現かもしれない。等と高橋は言つてゐるが、「高橋理論」の暴走には困つたものだ。
彼らはまずなにより生き残ってお金をきっちり稼いで出世したいのであり、その節操の無さ、いい加減さは、思想を貫けない性格的問題に起因するのではない。そもそも目的が違うのだ。彼らは会社の掲げる正義だの悪だのとは無関係の個人的なもののために生きているのだ。逆転王は、ロボットだから、あるいは会社がつぶれても、手足が吹っ飛んでも、それこそ機能停止するまであの歌の通りに建前の正義のために戦いつづけるかもしれないが、三バカにとって悪だのなんだのは「会社の建前」なのであり、彼らの拠って立つ基盤ではない。命あっての物種だし、金がもらえなければやるわけがない。つまり嘘である。
ただ「給料やボーナスを欲しいだけ」でやつてゐる事が視聽者にびんびん傳はつて來るやうな作品だつたら、クリーン惡トリオが支持された筈もないと思ふのだが。
三人は、サラリーマンとして會社の爲に盡すと云ふ建前の下、煽てられればすぐつけあがり、酒を飮んで二日醉ひになつて出撃し、目先の儲けに目が眩んで失敗する。その一方で、イッパツマンを倒したい、と云ふ目的が、單に會社の爲と云ふだけの目的を超えて、名實ともにタイムボカンシリーズのヒーロー・ヒロインになりたい、と云ふ目的にすりかはる、そして、その爲に、コスイネンは二週間も無斷缺勤して山籠りに入つたりするのである。しかし、それでも三人は、時に好い加減であり、時に本氣になつたりするだけである。彼等は「勸善懲惡」と云ふシリーズの「建前」に基づいて、シリーズを通して負け續け、會長に騙されてゐた事も明かになり、結局、「落伍者」となるが、それでも視聽者は彼等を支持するのである。彼等は、負ける事によつて視聽者の期待に應へ、我々の心に永遠に生き續ける。これは、かなり飛躍がある事を言ふが、マクベスと云ふ悲劇に――或は悲劇に――通ずるところがある。そして、悲劇の悲劇としての意義は福田恆存が何度も述べてゐるし、その悲劇が近代になつて消滅した事についてはスタイナーが『悲劇の死』で檢討を加へてゐる。そして、タイムボカンも、結局悲劇ではない。例へば、オタスケマンのラストで、畫面を良く見ると、三惡が生還してゐる事がわかる。
それまでのシリーズとイタダキマンとはスタッフが多少異る。イタダキマンの御釋迦樣ねたは「まづい」と言つて、小山高生氏が製作から拔けてゐる。そのせゐで氛圍氣が違ふ所があるのかも知れないけれども、氛圍氣が盛上るまでに打切られた、と見る事も可能だらう。タイムボカンシリーズの各作品は、どれもスタートして暫くはテンションが低い。大概、最初は「建前」に從つて「善惡」が戰ふのだが、そのうち惡玉トリオの方がどんどん善玉の事を憎らしく思つて來ていつの間にか當初の目的を忘れて善玉を倒す事、そして、やられた後にぼやいたり御仕置きされたり人間やめますコーナを作る事に拘り始めて、それで話が面白い事になつていく、と云ふのがパターン。ドクロベーなんか、三惡の成功とともに失敗を期待するやうになつたりするし。
あと、「罪を憎んで人を憎まず」と言放つた大巨神が三惡に「扁平足」と罵られて大激怒する、と云ふ御決りの展開がヤットデタマンにあつたけれども、大巨神の「人情味」も良い味を出してゐた筈。今一つヤットデタマンの設定は滑りぎみで失敗ぎみだつたやうな氣がするけれども。たてかべさんの科白は少いし。
ギャグと言ふかパロディ作品としてはオタスケマンが非常に秀逸な出來で、シリアスな内容を盛込んだイッパツマンよりは「タイムボカンらしい」とも言へる。イッパツマンが、タイムボカンシリーズの進化の極致である、と云ふのは或意味當つてゐるのだけれども、進化の極致は袋小路であると云ふ例のテーゼを立證してしまつた作品とも言へ、あの先には進みやうが無かつたと言ふ事もできよう。イタダキマンは、原點囘歸を目指したとも言はれるのだが、「シリーズの進化」と云ふ觀點から見れば當然、限界と言ふよりは「反動」と評すべきであつて、タイムボカンシリーズは「一つの時代」が終つた時に「時代に殉じた」と言ふ事は出來る。そして、或時代のものは、時代が終れば「時代に殉じる」べきなのであつて、いつまでも續いて貰つても困るのであり、或日復活されても困るのである。怪盗きらめきマンは、かつてのタイムボカンファンからは決して支持されてゐないし、「今の時代」の視聽者からも支持されたとは言ひ難い。
しかし、ならば、タイムボカンの全てが時代に殉じて死んだのかと言へばさうでもないのであつて、タイムボカンで示された或種の魅力の本質的な部分は、今人氣のある作品で、別の形を取つて再現されてゐるのであつて、その本質的な部分が何かを良く檢討しなければ、アニメ批評としては失格だらう。
例へば小麦ちゃんは、或意味、タイムボカンの正當な後繼者であつたと言へよう。小麦ちゃんマジカルての第一話は、時代の流れ(ただし物凄く局地的)を的確に捉へたから、ウェブの一部で御祭になつたのであるが、同時に、第三話が受けなかつたのを見れば、單に「時代の流れ」を掴んだか掴まなかつたかのレヴェルで議論する事の無意味である事は明かである。
いや、別に私はアニヲタではないのですが。
平成十五年十二月二十日
 「新字新かな」派に一掃された今となっては、「正字正かな」派など、我々「珍字珍かな」という巨大な軍勢の一部に過ぎないわけですが、まあがんばってください。
正字正かなは、相對的に「珍しい」ものに見えるにしても、正しい事と珍しい事とはイコールでないから、論理的に「珍字珍かな」とはイコールにならない。だから一部に過ぎないとシスプリの中の人は言つてゐるのだが、過ぎないと言ふのは明かに見下した言ひ方であり、まあがんばってくださいと言ふのは明かに他人事としての言ひ方である。
ところで、世間には「正字正かな」を気取りながら「正字正かな」まがいの乱れた日本語を使う輩がいて、野嵜氏もしばしば誤りを指摘されるわけですが、これは「正字正かな」の言語規則が非常に複雑怪奇なもので、とても一般大衆には使いこなせない難解な代物であるからと考えられます。この件に関してはどのように思われますか?
乱れた日本語誤りを指摘できるのは、正字正かなの規則が明かなものだからではないですか。そして、非常に複雑怪奇なものこそ「正しい」と考へる人が、難しく考へてしまつて、それで非常に複雑怪奇な書き方をしてしまふのではないですか。或は、「現代仮名遣」「常用漢字」の規則が複雑怪奇でないと、シスプリの中の人が考へる理由は何ですか。説明して貰ひたいものです。
そもそも、「現代仮名遣」「常用漢字」を完全に守つた文章を、新聞と教科書以外に、私は見た事がありません。そして、昨今は新聞も、「現代仮名遣」と「常用漢字」を守らない事があるやうです。
と言ふか、みなさまの馬鹿にしていらつしやるこの馬鹿で阿呆の私野嵜が、大體正確に歴史的假名遣を使つてゐるのを見れば、どんな馬鹿でも正しく歴史的假名遣は使へる、と云ふ事は自明ではないですか。
平成十五年十二月二十日

共産主義者なら、理想の實現の爲に、どれほどの犠牲を拂ふ事も厭はない、と云ふ態度を取るべきだ。何故でせうか? 共産主義とは犠牲を厭はない事でせうか?

カール・マルクスの本でも讀んだら何うですか。レーニン、スターリンの本でも讀んだら何うですか。小泉信三の共産主義批判を讀んだら何うですか。河合榮治郎のマルクシズムとは何かを讀んだら何うですか。シドニー・フックのマルクスとマルクス主義者たちを讀んだら何うですか。福田恆存の日本共産黨禮讚を讀んだら何うですか。松原正氏の著作を讀んだら何うですか。森鴎外の津下四郎左衞門を讀んだら何うですか。
革命には犠牲が附き物でないとシスプリの中の人が考へる理由は何ですか。
9・11テロの時、テロリストは正義の爲に多數のアメリカ人とそれ以外の人間を殺しました。正義とは恐ろしいものです。しかし、シスプリの中の人は、自分の信念と異る信念を抱いてゐる私を見下して、對等の人間と見てゐません。シスプリの中の人は、自分の正義の爲に他人を自分と對等の人間と見ません。ならば、シスプリの中の人も、9・11テロのテロリストも、自分の正義の爲には人を人と見ない、と云ふ點で、變りがないのです。そして、さう云ふ正義を、全ての人間が持つてゐます。その現實を私は認めますし、全ての人が認めるべきなのです。認めようが認めまいが、自分と對立する價値觀を持つた人間を、人は「自分と同じ人間」と看做さない事が極めて多いのであり、ならば、豫めその現實を認める事によつてのみ、自分の傲慢を何とかする契機が生れると言へます。そして、さう云ふ傲慢さを自覺しても猶、信ずる物があるとしたら、それが理想であると私は思ひます。その理想を實現する爲には、己の「傲慢」――そして、人を人と看做さない傲慢――をも承知で、反對者を排除する強さ、強引さは、論理の必然として認めざるを得ないものとなります。池田大作氏も宮本顕治氏も、その邊の事は考へて、百も承知で巨大な組織を率ゐてゐたのであり、率ゐてゐるのだと私は考へます。だから私は、彼等を政治家として否定しない。
平成十五年十二月二十日

三悪に関しては、「同じヒラ社員として苦労をわかち合った」つもりが「実は社長一族が内部調査に来ただけ」のようなもので、単なる揶揄か、せいぜい風刺でしょう。

これを日本語の文章と思つて書いてゐるのだとしたら、シスプリの中の人はどうかしてゐると思ひます。
平成十五年十二月二十日
と言ふか、table border="1" summary="枠囲い" title="闇黒日記 平成十五年十二月十五日/野嵜健秀 一部改変"つて何だらう。この人は、何をしてゐるのだらう。
シスプリの中の人は、理窟に合はない、ただの惡口を言つて、どうしたいのだらう。理想も何もないのに、ただ他人の揚げ足をとつたり、足を引つ張つたりしたいと言ふのなら、それこそ人間としてどうしやうもないとしか言ひやうがないのだが。
平成十五年十二月二十日
「現状を維持出來さへすれば良い」と云ふのは、奴隷の思想である、と言つたらどうか。
多分、多くの人が「釣れる」だけの事だらう。この文章だけを捉へて、野嵜は何うの斯うの、と極附ける文章が氾濫するだけの事である。
平成十五年十二月二十日

 「圧潰の夜にとつぜん現われたBWは、なんと! 15年前の過去からタイムスリップしてきたわたしの恋人、お兄ちゃんだったの!」というわけで、ココの誕生日。

まあ、「お兄ちゃん」だの何だのと言つてゐる人間にろくな奴がゐない事は、これまでの經驗上、分り切つた話なのだが。ここはわらふところ。
平成十五年十二月二十日
ぼいんに勝つたらしい。
はてなのキーワード問題。はてなの中の「日記」を讀んでゐる閲覽者が、「日記」の中で自動的にアンカーにされてゐる語句の意味を知らうとしてジャンプする事が、どれだけの頻度で起きてゐるのか、少しだけ興味がある。
私は、文書の制作者が自律的にリンクを張つてゐるサイトへは行つてみたい氣になる。文書の制作者とは別に、システム的に張られてしまつてゐるリンク先へは、餘り行つて見る氣にならない。
世間の人は、私と同じやうな考へ方をして、實際にはてなの中の「日記」を讀む時、システマティックに生成されたキーワードへのリンクを無視してゐるのか、それとも、私と違つて積極的に利用してゐるのか。
ウェブにある多くの「辭書」だの「定義集」だのは、「作る」人間は面白がつて作つてゐる。けれども、どれだけの讀者がゐるのか、そもそもどのやうな讀者が想定されてゐるのかは、かなり疑はしい。
平成十五年十二月二十日
ishinao.net/mylog - 個人サイトの分類と定義
サイト制作者が讀者層を想定しても、現實の讀者層と常に一致する訣ではない、とつつこめるが、つつこみはつつこみとしてさておき、サイト制作者がどのやうに讀者層を想定し得るかを列擧する事自體は可能であるし妥當な行爲である。
世の中の割と多くの人が、そのつつこみの方を事實として優先し勝ちで、「あり得る事」「可能性」を呈示されると「あり得る事」「可能性」としてありのままに認める事もしない。
それでは議論にならないのだが、「つつこみ」の方こそが事實である、とさう言ふ人は言張るので困る。
例へば、アメリカのイラク攻撃はアプリオリにテロであるとか、タイムボカンの三惡はアプリオリにサラリーマンであるとか、「児童ポルノ法」はアプリオリに惡いとか言つてゐる人は、勘違ひをしてゐるのである。アメリカがイラク攻撃を「テロ國家・惡の樞軸に對する新しい戰爭」と言つてゐる事實、タイムボカンが「勸善懲惡のアニメとして放送局には賣込まれてゐる」と云ふ事實、「『児童ポルノ』は惡いと思つてゐる人がゐる」と云ふ事實は、彼等にしてみれば「どうでも良い」事でしかない。しかし、その邊の事實が「存在しない」ならば、「批判者」は何も批判してゐない事になる。「つつこむ」ならば「つつこみの對象」が存在しなければならない。そして、その對象は、豫め「あるもの」として看做されてゐなければならない。もし、對象が「無いもの」であるならば、「つつこみ」は不可能である。
批判の爲には分析が必要である。その分析の必要性を、私は言つてゐるのだが、言葉が通じない人には通じないらしい。通じるであらう人は、そもそも言はれる必要がない。
平成十五年十二月二十日
Opera 7.50 Preview1(Build 3494)を入れたら、さとみかんのレンダリングの重さが割と氣にならない程度になつた。いやまあ、まだ割と氣になりますが。
メニュー構成がかなり變化してゐる。ほかにも色々變化してゐる模樣。
平成十五年十二月二十日
イッパツマンの三バカのサラリーマン性は、シリーズものとして要請される善玉悪玉の対決というコードの中でいかにサラリーマンものとして逸脱するかに苦心した成果だというのが、全体を見通した場合の素直な読み方だと思うんだけど。
「コード」等と言ふ人間を俺は信用しないが、俺の言つてゐる事とこの高橋の言葉とは對立してゐないと思ふのだが。
と言ふか、正義や悪のために真剣になる登場人物たちを評論したいなら、と言つてゐる時點で、高橋がこちらの言つてゐる事を全然理解出來てゐない事は明かだが。三惡は眞面目な時も不眞面目な時もあるが、それだけに眞面目な時の眞面目さは信用出來る、と俺は言つてゐるのだが。高橋は、Aと云ふ人物について、完全に善である、とか、完全にサラリーマンである、と云ふ風にしか理解したがらない。人間はさう云ふものではない、と俺は言つてゐるのだが、高橋は單純明快な理解しかしたくないらしい。
シリーズではイッパツマンが初めて、かつ唯一、企業間戦争という要素を取り入れたのだ。それはこの作品の特色でありコンセプトであって、シリーズのお約束ではありえない。と高橋は言つてゐるが、俺がいつ「タイムボカンシリーズのコンセプトは企業間戦争である」等と言ひましたか。一生懸命否定して見せる事で、高橋は存在しないものを存在させようとしてしまつてゐる。そして、それが高橋の常套手段なのだ。
たとえばゼンダマンあたりまでは、正義の博士とその孫なり友達なりが悪の泥棒たちと戦う、という構図になっていた。正義や悪のために真剣になる登場人物たちを評論したいなら、そっちのほうがよほどいい題材のはず。それは高橋にとつて都合の良い「正義」なり「惡」なりの觀念だ。
俺は、高橋の考へる「正義」とは違ふ「正しい」の觀念を提示しようとしてゐる。
いつも高橋は、自分の觀念に相手を引きずり込まうとして、相手の言つてゐる事をねぢ曲げてしまふ。例の「児童ポルノ法」の時からさうだ。と言ふより、さう云ふ高橋の議論の性質を明かにするのがこちらの目的であり、高橋は相變らず高橋流の政治的な議論の仕方を續けてゐる事が、この「タイムボカン論爭」においても明かにされつゝあると言つて良い。
平成十五年十二月二十日
「悲愴感溢れる正義」なるものを私は「どうでも良い」と言つてゐる。それなのに高橋は「悲愴感溢れる正義を論じたいのなら」云々と言つてゐる。誰が見ても、をかしな話ではないか。
平成十五年十二月二十日
日附を間違へ捲つてゐたので訂正してみたり。
平成十五年十二月二十日
Opera 7.50で、邪魔なHotlistが起動時に必ず出て來るやうになつてしまつたのだが、どうしたら出て來ないやうに出來るのだらうか。Opera 7.50 Preview1は、メニュー構成が大幅に變更されてゐて、異常に使ひ辛くなつてゐる。カスタマイズの仕方が全然わからない。
平成十五年十二月二十日
何かどうにもならんのでOpera 7.50 Preview1は捨て。
レンダリングエンジンを改善するのならばともかく、パネルとかメニューとか、そんなどうでも良い部分ばかり弄り囘すのは、如何なものかと思ふのだが。需要があるのだらうか。7.50は、Preferenceのメニュー上の位置がFileメニュー配下からToolsメニュー配下に變更となつてゐて、操作上の互換性が無くなつてゐる。最う駄目ぽ。
平成十五年十二月二十日
誰も氣附いてゐなかつたやうだが、&を&amp;に直し忘れてゐたところが一箇所あつたので、訂正。
平成十五年十二月二十日
或結果から、單一の原因を抽き出すのは、屡々間違ひである。
本をダブらせたからと言つて、その人がその本を格別好きである、と言ふ事は、必ずしも出來ない。別にその本に興味を持つてをらず、どうでも良いと思つてゐるがゆゑに、既に買つた事を忘れてブックオフで同じ本を買込んでしまつた、と云ふ場合もあるからである。
その一方で、氣に入つた本を何度でも買込む、と云ふ事は、大いにあり得る事である。
さう云ふ人が「また××をダブらせた」と書いた時、「ならばお前は××が好きで好きでたまらないんだな」と極附けるのは、屡々間違ひである。
平成十五年十二月二十日
タイムボカンの所謂「悲愴な正義」を引きずつてゐる作品の典型があかほりのサクラ大戦なのだが、どうでも良いとしか言ひやうがないしなー。サクラ大戦のTVシリーズが最後のトラスタ作品である事しか俺にとつては意味がないし。

平成十五年十二月十九日
素顔のままで

 悪玉=中東の方々、善玉=ユダヤ米英、と考えると、いろいろと以下略。ところで、タイムボカンシリーズの三悪は、爆死することもなければ処刑やクビにもなりませんが、そのあたりが「人間臭さ」なのでしょうか。あるいは、『ヤマト』で死んだ人が生きていたり、そっくりさんで埋め合わせたりするのと同様、「永遠の生命」とか?

どうしてそのあたりだと思つたのか、とても興味があります。
何と言ふか、人を見下すけれども、言つてゐる事はとてもお馬鹿、と云ふ人には、困つたものです。repure@sis-pri.netの中の人は、何かまだ言ひますか。
http://www.sis-pri.net/repure/diary200312.html#ad20031212
非常に一貫した理窟のやうに見えるが、書いた本人が何も解つてゐないから、語の定義を良く考へてみると、矛盾だらけでつつこみどころがあり過ぎる文章である。
新字新かな派とは「新しいかなづかいを信じる」人のことだ、と多くの人が思っている。そういう新字新かな派も、確かにいる。しかし、「かなづかいをより新しいものにしようと努力する」というのが、新字新かな派の持つべき思想であると私は考える。
しかし、「現代仮名遣」は、戦後五十年の間、規範として殆ど全く變化してゐないし、そもそも「現代仮名遣い」を意識して「現代仮名遣」を書いてゐる日本人は、一般には殆どゐない。
きた言葉は変化するはずである。しかし、「歴史的かなづかい」は、五十年以上も前から何の変化もしていない。すなわち、「死んだ表記」である。「歴史的に定着している」と「支持者」は言うが、定着していないうえに死んでしまっているのである。
生きた言葉は變化するものだが、言葉として殺されて變化しないのは當然である。だから、歴史的假名遣が變化してゐないとしたら、それは當然の事であつて、非難される理由にならない。もし歴史的假名遣が彈壓されなかつたら、歴史的假名遣は生きた言葉として確實に變化してゐたであらう
「歴史的かなづかい」を、より良いかなづかいに変えようという努力を、過去の五十年の間、誰もしていない。もちろん、「歴史的かなづかい」に、「より良い方向の変化」などあり得ない。本質的に「歴史的かなづかい」は、「補遺」「訂正」の方向にのみ変化し得る表記である。「より良い変化」は、「歴史的かなづかい」にはあり得ない。「補遺」「訂正」な方向でなく、「より良い方向」への変化を望むならば、「歴史的かなづかい」という固定的な規範は単に破棄しなければならない。
正しい假名遣を使はうと考へて歴史的假名遣を使つてゐる人間は、より正しい言葉遣ひを常に追求してゐる。
また、言葉の變化は常に放恣の方向に向ふべきだと云ふ主張は間違ひである。放恣の方向への動きがあるとしたら、それを補正する動きがあつて然るべきである。さう云ふ相克が、「現代仮名遣」にはない。そして、さう云ふ相克を經て、歴史的假名遣は過去、千年以上に亙つて變化してきた。過去の假名遣の歴史を見れば、發音の變化と記憶の劣化に伴ふ「亂れ」の方向への動きと、それに對する「補遺」「訂正」の方向への動きが、兩方ともあつた事がわかる。或は、望むのは「より良い方向」だが、現實の變化は「惡い方向」であるかも知れない。しかし、その對立する兩者の折合を何とか附けさせる努力は必要である。
そもそも、表音的な「方向」だろうと、表意的な「方向」だろうと、動いてしまったら、「歴史的かなづかい」は「歴史的かなづかい」でなくなる。「歴史的かなづかい」は永遠に不変でなければならない代物である。「歴史的かなづかい」支持者にとって、改善は「されては困る」ことである。だから誰も「歴史的かなづかい」を疑わないし、疑おうともしない。
そんな事はない。これは完全な勘違ひである。表音的な「方向」だろうと、表意的な「方向」だろうと、それが「方向」に過ぎず、原則として語は語の意味に基いて表記すべきである、と云ふ觀念が根柢にある限り、歴史的假名遣は歴史的假名遣である。「現代仮名遣」は、表意的な「方向」へ動いてゐるのではなく、「表音主義」を原則とし、そこに「表意主義」を例外として紛れ込ませてゐるから、をかしい。
歴史的かなづかい信仰」は迷信である。「歴史的かなづかい」は、現代の最大の禁忌である。「歴史的かなづかい」を、(合理化ではなく)合理主義の立場から批判することを、「歴史的かなづかい信者」は喜ばない。彼らは、批判者を人間と認めない。彼らにとって、「歴史的かなづかい」を信じない人間は人間ではない。だから、彼らは批判者を常に人格的に攻撃する。「歴史的かなづかい」批判者を、彼らが論理的に批判することは絶対にない。一見、論理的に見える言い方をしていても、彼らは「確信」を論理より優先しているのだから、いざとなったら常に「俺」の立場に立てこもる。「我思うゆえに我あり」――「我」「俺」ほど明々白々な「確信」はない。が、そこに立てこもったら終わりだ、ということに彼らは気づかない。あるいは、終わるのは良いことだと彼らは思っている。そこまで話が行くころ、彼らは議論が面倒くさくて仕方のないことに感じられている。云々。
ここの文言を、パロディの筆者、repure@sis-pri.netの中の人は、變更してゐない。「略字略かな派」のパロディ作者は、鸚鵡返しに同じ事を言ひ返す事しか出來なかつた。それは出來ないだらう。この攻撃が、「略字略かな派」の一番痛い處、否定出來ない眞實を衝いた致命的な「略字略かな派」批判だからである。
このrepure@sis-pri.netの中の人が、いったいどんな理想をお持ちなのやら(微苦笑)等と書いて、正字正かな派を見下す態度をとつてゐる事は、火を見るよりも明らかな事實である。
讀者諸氏には、さう云ふ事實を突合はせて、正字正かな派と「略字略かな派」とのどちらが本當の事を言つてゐさうか、判斷していただきたい。自分が「現代仮名遣」を使つてゐるから、と言つた理由で、政治的に、或は何の檢證もなしに、「略字略かな派」支持にまはる、等と言つた事は、やめていただきたい。
平成十五年十二月十九日
ひよつとして、シスプリの中の人の文章は、「釣り」なのかな? 俺は「かかつた」のかな?
どう見ても、上のパロディの文章、痛いやうにしか讀めないので、わざと痛いパロディを作つて「略字略かな派」を皮肉つてゐるのかと。
平成十五年十二月十九日
と言ふか、この手の「虱潰し法」つて、うざつたいだけで、讀む氣になるものではないから、讀者にとつては良い迷惑。
平成十五年十二月十九日
「いたづらに」論爭。
http://kz24.cool.ne.jp/ange/out/d121103.html#18-1-7
http://www.lomelette.org/~yamagu/Info/200312info.html#info20031218-4
世の中には、或言葉や或語法について、新しいか古いかを判斷出來る、特權階級か何かの人がゐるらしい。
私ならやっぱり意味にあわせて使い分けたい。と云ふ意識を持つ事は、私は良い事だと思ふのだが、世の中には「どうでも良い事だ」と思ふ人も結構ゐるのだらうなと。
平成十五年十二月十九日
何か、俺は共産党嫌ひで共産主義の理想を理解しない人間であると極附けられてゐるやうなのだけれども、俺の大好きな福田恆存は「日本共産黨禮讚」を書いたし、松原正氏は共産主義の掲げる理想を肯定してゐるのだから、俺が共産主義嫌ひでない事は明かではないか。ただ、「消費税引上げ反對」等と猫撫で聲を出して主婦にアピールしようとしてゐるのが情けないと、さう云ふ事を考へてゐるに過ぎない。御人好しの共産主義者等、好きになれるか。共産主義者なら、理想の實現の爲に、どれほどの犠牲を拂ふ事も厭はない、と云ふ態度を取るべきだ。日本共産党の黨員の中で、今でも「いざとなれば革命をやつてやる」と考へてゐる、氣概のある奴が何人ゐるだらう。共産党の政治に反對してゐる人間を憐れんで見せるやうな腑拔けの人間しか、今の共産主義支持者にはゐないのだし。
一方で、千人萬人の命を救ふ爲、業突く張りの金貸しの老婆を殺して金を奪ふのは良い事だ、と考へ、實行して、擧句、後悔する事になつたラスコーリニコフの姿を描いたドストエフスキーは、正しい文學者だつたと俺は思つてゐる。
平成十五年十二月十九日
アニメで言ふと、それまでの勸善懲惡をテーゼとしたアニメを「我々のすべき事は憎み合ふ事ではなく、愛し合ふ事だつた」と言つて否定して見せたのは、ヤマトだつたんですが。
その後、何でしたつけ、我々地球人だけでなく、ガミラスの人にも幸福になる權利があつた筈だとか何だとか、古代が言つてゐましたね。勝利か、糞でも喰らへ。
あのシーンは、全くもつて、餘計でしたねえ。
さう言へば、福田恆存に、勸善懲惡を否定し、人情を描くべきだと言つた坪内逍遙を論じた文章がありましたつけ。福田の悲劇論も合はせて讀むと、勸善懲惡と云ふ單純明快な觀念とはまた異る、我々の感情に基いた複雜な善惡の表現がある事に氣附かされます。
平成十五年十二月十九日
或意味、時代は變つたのである。かつては、綺麗事を言つてゐた不誠實な人間こそが批判すべき對象だつた。今は、殊更背徳的な事を言つて見せる不誠實な人間を批判すべき時である。しかし、實は、時代によつて、何も變つてはゐないのである。いつの時代であつても、「不誠實な人間は批判されるべきである」と云ふ事は、全く變らないからである。
平成十五年十二月十九日
あー。「とぼけるな」つて言ひ方もありましたね。
平成十五年十二月十九日
と言ふか、「不正字不正かな」が「定着」したのは、あんたらの功績でも何でもないだらうに、それを威張つて見せるなよと。
平成十五年十二月十九日
さとみかんが妙に重いけれども、氣のせゐでせうか?
多くの人が利用するサーヴィスは、高機能であるよりも、寧ろ輕快に動作する事の方が重要ではないか、と思ふのですがー。
ちなみに當方Opera。JavaScriptをoffにしても遲い。
平成十五年十二月十九日
G.F.F.ディープストライカーが売ってないかと仕事終わってから荒川沖のトイザらスまで行ってみた。
G.F.F.ディープストライカーが何を賣つてゐるんですか?
平成十五年十二月十九日
「タイムレコーダガッチャンガッチャン押せば」が正解だとか。
時代のニーズに合はなくなつたから終了したのではなく、放映時間が移動になつて視聽率が落ちて終了したのだとか。
マンネリはそもそもタイムボカンの頃からで、ヤッターマンでパターンが既に完成してゐたとか。
パロディ、つまり文脈の読み替えの極北としてあるものを、元ネタの文脈で読んじゃうのはどうかなあ。つて、それをやつてゐるのは高橋自身だとか。
平成十五年十二月十九日
神保町古書會館の古書展。以下、例によつて買つたものリスト。
佐久間鼎『現代日本語の表現と語法』厚生閣
清澤冽『日本外交史 下卷』東洋經濟新報社
有坂秀世『國語音韻史の研究』明世堂
橋本進吉『國語音韻史』岩波書店
山本健吉『きりしたん事始』藝術社
『日本外交史』の上卷、どこかで賣られてゐないかなー。
平成十五年十二月十九日
ヤッターマンやイッパツマンの「正義」の側のやつてゐる事がアプリオリに正義なのかとか、惡玉トリオのやつてゐる事がアプリオリに「惡事」なのかとか、そんな事はどうでも良い、惡玉トリオは「惡事」とされてゐる事であつても時に好い加減に時に眞面目にやつてゐるが、その邊の表現は嘘ではなく眞實である、と私は言つてゐるのだが、高橋らは何を勘違ひしてゐるのだらう。
「建前」としての「正義」とか「惡」とかが相對的なものに過ぎない事は指摘してゐるのであり、百も承知なのである。私が何も解つてゐないかのやうに言ふのは止めて貰ひたい。もちろん、高橋は政治的な理由で私を馬鹿に見せかけたいのだらうが。
平成十五年十二月十九日
逆転イッパツマンに出て來るのは宅配の會社ではなくてリース會社だとか。

平成十五年十二月十八日
「タイムボカン」即「髑髏」とか、「タイムボカン」即「お仕置き」とか、そんな安直なイメージで「ラムネ&40」を作つたあかほりと、「ラピュタ」よりは「タイムボカン」と言はれた方が増しと言つて「ナディア」にグランディス一家を登場させた庵野とでは、庵野の方がタイムボカンの事を「解つてゐた」と言へる。
何故タイムボカンが面白かつたのかと言へば、ギャグの愉快さが重大な要因だつた一方で、俗惡な表現と幼稚なストーリーにも拘らず三惡が異樣に人間臭くリアルであつた爲である。
或は、ヤッターマンなりイッパツマンなりが標榜する「正義」の魅力よりも、三惡が屡々一面の眞理を衝いてゐた事の魅力が、タイムボカンを我々が受容れた理由である。
眞理は、善玉の標榜する所謂「正義」とはイコールでない。一方、惡玉トリオの人間臭さは、慥かに一面の眞理である。しかしながら、例へばクリーン惡トリオは、單に卑屈なだけのサラリーマンではなく、明かにねぢまがつた根性に基いてゐるにしてもとにかく必死になつてイッパツマンに勝たうとする眞劍さ、そして、それを貫徹出來ない根性の弱さとを、兼備へてゐる。三惡は、決して單純明快な、分り易いキャラクターとして、タイムボカンシリーズで動いてゐない。善玉もタイムボカンでは、割と繪に描いたやうな善人として描かれてゐないのだが、惡玉トリオも繪に描いたやうな惡人ではない。そして、にもかかはらず、タイムボカンで、善玉は善玉であり、惡玉は惡玉である。そして、タイムボカンの表現は、一面、非常に正しい。
さう云ふ意味での正しさを我々は追求すべきであると私は主張してゐる。善玉の「正義」を單に信じろ等と言つてゐる訣ではない。
イッパツマンのクリーン惡トリオは、出世したかつたり、ボーナスを貰ひたかつたり、會長に褒めて貰ひたかつたり、と、非常に卑しい根性に基いてイッパツマンと戰ふ。のだが、彼等が打倒イッパツマンの爲に燃やす情熱は、どう考へても金錢的・物質的には割に合はない努力に直結してゐる。そして、彼等の情熱は、そもそも間違つてゐるのだし、結局のところ、最終囘で完全に無駄になる。しかし、それでも彼等三惡のした事を、我々は決して單に馬鹿にはしない。彼等が、悲愴感を漂はせながら「惡」と云ふ自らの正義を叫ぶ恰好惡さを、我々は笑ひ飛ばさなかつた。或は、笑ひながらも、他人事として嗤ひはしなかつた。
平成十五年十二月十八日
と言ふか、ヤマトに續いてタイムボカンで熱く語らないで下さい>>俺。
平成十五年十二月十八日
三惡が善玉を倒さうとしたのは執念で、ボヤッキーは恰好をつけて煽てられては自惚れるが、それでも彼等が最後まで筋を通さうとした事には變りがない。しよつちゆう襤褸を出したが、それでも彼等は善玉打倒に邁進した。それが結局報いられなくても、渠等が不幸な目に遭ふのが話の落ちと決つてゐても、三惡は何だかんだで「惡」を貫いたのであり、時々見せた本氣は本氣だつたのである。
我々は絶對に彼等三惡を輕蔑しはしない。
我々は惡玉トリオを常に應援した。しかし、同時に、惡玉トリオが善玉に負けるのを我々は(ただの一度の例外を除いて)樂しみにしてゐた。「惡は負けねばならない」と云ふ「正義」を、彼等惡玉トリオは貫かねばならなかつたからである。クリーン惡トリオが、ひよんな事から勝利して、じきにシリーズが打切られたのは、偶然もあるが、或意味、必然的だつたと言へる。
平成十五年十二月十八日
「あの時代」の三大「お笑ひ番組」と言へば、「八時だヨ! 全員集合」「ひょうきん族」そして「タイムボカン」だつた。
――と斷言して良いのかな。
個人的に、タケちやんマンはどうでも良い、ドリフはそれなりに愛着がある、といつた程度の感想しか持たないのだが、タイムボカンだけは(リアルタイムでは全然觀てゐないのだけれども、そして未だに全部は觀てゐないのだけれども)その俗惡ぶりと駄目さ加減を承知の上で愛しないではゐられない。
平成十五年十二月十八日
やつぱり「我らの時代」の思ひ出のものであつても、「永遠の生命」を持つてゐない限り「思ひ出」に成り得ないのである。
その「永遠の生命」を追ひ求める事は、果していけない事なのだらうか。
平成十五年十二月十八日
ここで會つたがこんにちは。
――つて、聲優さんのアドリブだつたのだとか。
平成十五年十二月十八日
ひょうきん族はまさしく80年代番組で、実らない無駄な努力を笑い飛ばす毒のある反教育的俗悪番組として評判になり、長くファンに愛され、後のバラエティ番組の基礎となったわけだ。
「ひょうきん族」が愛されたかと言ふと、それは違ふだらうと思ふ。どぎついギャグが「うけた」事は事實だし、それが時代の空気に合つてゐた事も事實だが、ドリフターズほど「ひょうきん族」の出演者が愛されたとは言へない。珍奇なものを持囃す輕薄さと、「我々のもの」として愛する事とは違ふ。
明石家さんまは、今でもお笑ひ藝人として頑張つてゐる。一方、ビートたけしは、藝人の過去を引きずつてゐる一方で、映畫監督に轉身し、「保守派の論客」になりすましてしまつた。たけしの方が、時代の空気を正しく読んでゐるやうに私には思はれる。と同時に、私はたけしの「言論」に贊同しないのである。
平成十五年十二月十八日
アニメの正義について語るなら、その解毒剤としてのタイムボカンではなく、もう少し古い作りの、暑苦しくも血なまぐさい、熱血と友情と自爆攻撃自己犠牲の勧善懲悪スーパーロボット物にも言及しなくてはなるまい。悲壮感とはああいうのを言うのだ。
その種の「悲愴感溢れる正義」に高橋は注目する。しかし、私は、タイムボカンの三惡で表現された人間味の表現を、正確な表現であるとして指摘した。そして、さう云ふ表現の「正しさ」の重要性を指摘した。その點、高橋は、私の意見と變らない筈である。
だが、全く同じ意見を持つてゐる筈の高橋は、「悲愴感溢れる正義」に拘る。さう云ふ「正義」とは違ふ「正しさ」について私は言つてゐるので、「悲愴感溢れる正義」に私が言及する必要は全くないのだが、私がさう云ふ「正義」にのみ興味を持つてゐるのでなければ、高橋は困るのである。
しかし、高橋の勝手な都合のせゐで、私が自分の思想をねじ曲げなければならないとしたら、私は高橋に「思想の自由を冒された」事になる。どうして高橋はさう云ふ眞似をしますか、と尋ねたいが、間違ひなく高橋は、自分の主張を正しく見せかける爲に私の文章を正しく讀んでゐないだけなのである。或は、高橋には、「悲愴な正義」なる觀念を、私に押し附けないでいただきたいと「御願ひ」したい。それは高橋が抱いてゐる個人的なイメージであつて、私が共有すべき一般的なイメージである訣ではない。
平成十五年十二月十八日
と言ふか、「私の言ふ『正しい』とは『悲愴な正義』ではないんだよ、と言つたら、「お前の言ふ『正しい』は『悲愴な正義』の事でなければならないんだよ」と極附けられてしまひました。日本語の文章を書いても、同じ日本人にすら通じない、と云ふのは、哀しい事です。
まあ、高橋は、私が「法律に拘る必要はない」と書いたら、「法律には拘る必要があるんだ、拘らないお前は惡人だ」と極附けるやうな人ですから。云々。
平成十五年十二月十八日
高橋には、「政治的に支持する」「面白をかしい事を言つてゐる藝人を持囃す」「身近に思はれる人間を愛する」と云ふ事を、區別する能力があるのだらうか。
平成十五年十二月十八日
Latest > Flakes of Ideas > カトキ立ちは何故好まれる? 〜カトキ立ちの最適角〜 - outsider reflexがシャア専用とかカトゆー家とかで紹介されてゐる。
平成十五年十二月十八日
リビング+:ゲームのせいで日常的に「ゲーム脳」になるとはいえない
「君には忠、親には孝」と言つてゐた時代に、皆が皆、忠義者や孝行息子だつた訣でもないと云ふのと同じ。
平成十五年十二月十八日
リビング+:@NetHomeの廣瀬社長が退社へ
日本アイ・ビー・エム出身だつたさうだが、アイ・ビー・エムと言つてもいろいろゐるから。DOS/Vを出すのに猛反對した人とか。三井氏とか羽鳥氏とかが@NetHomeに來て呉れたら、いろいろ良くなるんだらうが。
平成十五年十二月十八日
よりにもよって「タイムボカンシリーズ」の、それも「イッパツマン」を選ぶのか、ということで。
もちろんそこに形式としての「正義」と「悪」はある。それがないとタイムボカンシリーズの形式は成立しないからだ。
あの作品の中では、既に、正義や悪をやることはネタになってしまっている。そこには真面目さがない。
全然こちらの言つてゐる事を理解してゐない。
形式としての「正義」と「悪」の「正義」と、私の言つてゐる「正しい」とは違ふ、と何度言へば分るのかなあ。
宅配は正義の人助けだし営業妨害は悪事だが、彼らは「正義」や「悪」の原理に従ってそれをやっているのでは無い。←これがポイントなんて言つてゐるけれども、三惡が「惡事」を、時にきちんと、時に好い加減にやつてゐる事は「表現として正しい」し、その時にきちんと、時に好い加減に「惡事」をやつて最後までやり通してゐるのは「正しい」、そしてその「正しさ」こそがポイントなのだ、と私は言つてゐるのだけれども、高橋は観念としての「正義」や「悪」に私が拘つてゐるかのやうに見せかけたいらしい。高橋は、どう云ふ意圖でそんな事をしてゐるのだらうか。
かう云ふ示唆的な言ひ方をする高橋には何か「政治的」な意圖があると、私は睨んでゐるが。
平成十五年十二月十八日
Wiki - ご長寿ブログを探せ
うちは1998年11月13日スタートだから、まだ「若輩者」だ。
どうでも良いが、wikiの中の人、ぢやなくてwikiの中のコンテンツにリンクを張ると、URLが汚らしくて何となく嫌な氣がするのだが、googleの檢索結果にリンクを張る時に同じやうに汚らしいURLであつても氣にならないのはどう云ふ訣だらう。個人的な感情の問題に過ぎないので、「マジレス」不要。
平成十五年十二月十八日
more が moe に見えてしまう、ダメな今日この頃。
私はmoreを「漏れ」と讀んでしまふくらゐ駄目な状況ですが、來週、とても偉い方の御蔭で一日おやすみをいただけるやうです。ありがたやありがたや。
平成十五年十二月十八日
ちなみに私はアニヲタでは以下略。
タイムボカンはアニヲタ限定のものではないと思つてゐましたが?
平成十五年十二月十八日
某Amazonで、『夏目漱石』が上卷・中卷ともに在庫切れになつてゐる。
平成十五年十二月十八日
■ [言葉]立位置 @ [はてなダイアリー - 大和但馬屋日記]
平成十五年十二月十八日
はてなダイアリー - 以下略

平成十五年十二月十七日
現代の日本人は、多くの人に支持された暢氣さ、氣樂さ、快樂が欲しいだけで、確かさを保證する世間の風潮と云ふものの質は二の次にしてゐる。
實際のところ、十年後の事等、誰にも判らない。そして、それでも人は生きて行かねばならない。ならば、必要なのは、未知のものに直面しても動じない覺悟なのであり、未知のものを恐れて或特定の時代の價値觀に固執する事ではない。
高橋は、例によつて、自分の「今の時代への固執」と對比的に、「過去の時代への固執」に私が陷つてゐるかのやうに見せかけてゐる。これが「幼稚な二元論」に過ぎない事は、火を見るよりも明らかな事である。私は、「正假名遣は正しい」と言つてゐるのではなく、「正しい假名遣の原理を正假名遣と呼ばう」と言つてゐるに過ぎない。その「原理」と云ふ言葉を、高橋は固定的な規範だと極附けるが、さうではない。
高橋にしてみれば、正假名遣は自分の生きてもいない、我が物でもない時代の「正しさ」「理想」に過ぎない。しかし、さう云ふ固定的な「死んだ」規範を「正かな」と私は呼んでゐない。平安時代の文法をそつくりそのまま復活させよとか、鎌倉時代、江戸時代、明治時代の文法をそつくりそのまま復活させよとか、そんな事は言つてゐない。
ただ私は、平安時代から現代に至るまで一貫して存在した、目に見えない日本語に對する或種の觀念――文法が變り、語彙が變つても日本語が日本語と呼ばれる所以のもの――の存在を信ぜよと言つてゐるだけだ。單純でも明快でもなく、理解し辛いに決つてゐるものだが、それでも私は斷乎として主張する。日本人は、過去の日本人が「ある」と信じ、今でもやはり信じてゐる「眞の日本語」「正しい日本語」の觀念――それに表記を近附ける努力をす可きである。そして、その「正しい日本語」の觀念を、「現代仮名遣」は不十分にしか實現してゐない。「現代仮名遣」は、「正しくなくても單純明快な日本語」である。
歴史的假名遣は、大東亞戰爭敗戰直前まで、嚴密な學問的方法によつて訂正が繰返されてゐた。歴史的假名遣は、固定的で唯一の規範として存在した事は一度もなかつた。歴史的假名遣が「存在しなかつた」と屡々非難される所以である。しかし、それこそ、歴史的假名遣が生きて存在してゐた事實を證明するものである。
もし「現代かなづかい」「現代仮名遣」によつて、假名遣の進化が阻害されなければ、歴史的假名遣は時代とともに變化してゐた筈である。
同時に言へるのは、「單純明快」に近附ける事を目的にしながら、結局「現代仮名遣」が單純明快に徹し切れなかつた事である。「發音通り」と云ふ單純明快なスローガンとともに、「現代仮名遣」には助詞の「は」「へ」「を」その他の、歴史的假名遣に由來する「例外」が多數存在する。この「例外」の存在が、「現代仮名遣」のスローガン「發音通り」の實現の不可能である事を證明する。
「現代仮名遣」もまた、歴史的假名遣と同樣に、「意味に從ふ」と云ふ原則を、「發音通り」と云ふ原則とともに、持つてゐる。
そして、その「意味に從ふ」と云ふ、現代の表記でも日本人の殆どが無意識のうちに承認してゐる原則は、過去においても現在においても、日本語の表記の根本的で本質的な原則なのである。
私は、或時代の表記を絶對視して、それをそつくりそのまま用ゐよ、等とは言つてゐない。ただ、ほぼ全ての日本人が承認してゐる日本語表記の原則を、言はば民主主義の原則に則つて、きちんと採用せよと主張してゐるだけである。即ち、語は、語の意味に基いて、表記せよ、と云ふ事である。
そして、當然ながら、語の意味に基いて、或種のグループに屬する語は、表音的に表記する事も許容出來ると考へる。漢字の字音は、表音的に書く事も許容されるべきである。
一方、助詞の「は」「へ」「を」は、「は」「へ」「を」と書くべきである事は、ほぼ全ての日本人が既に承認してゐる事實である。これについて、私は何の異論も持たない。ただ、助詞の假名遣に加へて、助動詞と用言の活用語尾の假名遣も、語の意味に基いた假名遣にした方が、日本人の語意識に適合する、と思つてゐる。
私は、機械的に「正しい」と思ひ込んでゐるだけで、實は語意識に反してゐる表記である「現代仮名遣」に反對してゐる。生きた語意識にに忠實に從つた假名遣を用ゐた方が自然であり、人間性にも適つてゐる――さう云ふ假名遣を私は正假名遣と呼んでゐる。だから、この正假名遣は、過去の表記でもなく、現代の表記でもない。もちろん、未來にも存在しないかも知れない表記である。目標として掲げるべき理想である。そして、理想は現實と一致しないかも知れない。が、一致して何が問題か。理想を現實と一致させる努力は、いつの時代にも必要である。
平成十五年十二月十七日
みんなが正しい社会と、みんなが楽しい社会なら、俺は後者を望む。などと高橋は言つてゐるが、「正しい事が完全に實現してしまつた社會」などは存在しない。そもそも、何が正しいのかも判つてゐない。だが、人は皆、この世には存在しない「正しい事」「理想」「理念」を信じ、それを追求しなければならない。
或固定された單純明快なイデオロギーを「正しい事」と呼ぶのならば、高橋の幼稚な二元論は正しい。しかし、はつきりと判つてゐない正しい事を「ある」と信じ、それを追求する事は、全ての人間のすべき事だ。
もちろん「すべき事」は、現實には出來ないかも知れない事だ。そのくらゐの事は百も承知である。ただ、結果として間違ふかも知れないが、「正しい事」を追求し、自分なりの體系的な考へ方を構築する努力をする事は、何も努力しないまま堕落した生活を送るよりは餘程生甲斐の感じられる生き方にならう。
平成十五年十二月十七日
敵討ちは、江戸時代には「正しい」事だつた。しかし、今では、古臭いし、そもそも違法とされるやうになつた。さう云ふ、後に「誤」と「判つた」行爲である「敵討ち」をテーマに、鴎外は「護持院原の敵討」を書いた。
平成十五年十二月十七日
年賀状、早く書かないとなー。
平成十五年十二月十七日
のあたん先生ノートン先生のアンチウイルスをアンインストールしたら、キーボード入力がひつかかる現象が解消。
世の中そんなもの。
平成十五年十二月十七日
asahi.com : 社会/「トトロの里」で「メイ」の看板が行方不明に 大分
某小説の結末とは無關係だと信じたい。
平成十五年十二月十七日
めも。
マイクロソフトにセキュリティ修正プログラムの今後を聞く(前編)
マイクロソフトにセキュリティ修正プログラムの今後を聞く(中編)
平成十五年十二月十七日
News:Windows XP SP2で、IEのセキュリティはどう変わる?
そろそろInternet Explorerのレンダリングエンジンを拔本的に改善して貰ひたいが、無理のやうだ。
平成十五年十二月十七日
リビング+:「ゲームが人を暴力的にする」は支持されつつある
「君には忠、親には孝」と言つてゐた時代に忠義や孝行があつたのと同じ。
平成十五年十二月十七日
News:Microsoft、ソフトからカギ十字を削除
Microsoftは「ナチス」と云ふ文字列を見附けたら問答無用で削除するWindows用パッチでも出せば如何かと。
平成十五年十二月十七日
ZAKZAK:あなたなら清原年俸4億5千万どう使います?
神保町の近くのビルを買つて、毎日本と古本を買ひ續け、ビルを埋めつくし、寢るところを無くして、仕方なく屋上のロフトに寢ようと思ふけれども、ベッドの上にも本が侵蝕してきて云々。
平成十五年十二月十七日
RSSGate
Webブラウザ上で動くRSSリーダーです。
平成十五年十二月十七日
絵日記による学童疎開600日の記録
言ふまでもなく正字正かなの繪日記。
平成十五年十二月十七日
以上、某カトゆー家の劣化コピー。
平成十五年十二月十七日
左目が痛い。
平成十五年十二月十七日
何の成果もあげられない正しさを追い求めつづけて、最後に「あらら間違ってた」で終わる人生を、人は無駄と呼ぶのであり、上向きでみんなが具体的成功を指向していた少し前の時代なら、それは簡単に退けられたものだったろう。
その時代あらら間違ってたと云ふ事になつて、その時代我が物と思つて安心し切つてゐた人が不安になつて、今では「十年後に何うなつてゐるか判らない」と心配しなければならない事になつてゐるのだが、懐かしいとか言つてゐては駄目でせう。
どの辺からおかしくなったのかなあ。つてあんた、時代は變つたんですよ。おかしくなったんではないですよ。いやはや。
大體、エロい事が趣味だの、背徳性がどうだの、「退廃芸術」マンセーだの、と言ふのは、恥づかしい事だつた筈なんですがね。
と言ふか、いまだに他人をファッショ呼ばはりしたり、反權力を氣取つたりしてゐる事が恰好惡いのだと云ふ事に、この人は氣附かないんですかね。
平成十五年十二月十七日
壮感を漂わせながら正しさを叫ぶことのかっこ悪さを軽快に笑い飛ばせた――もう馬鹿か、阿呆かと。「正しさ」と言ふと「悲愴感」ですか。紋切型も良いところ。高橋も結局「オヤヂ」に過ぎない。「カッコイイ」「カッコワルイ」等と云ふ用語自體、最早手垢にまみれてしまつた過去の言葉である、と云ふ事に高橋は氣附いてゐない。
「正しい事を當り前の顔をして言ふ」――さう云ふ事を、高橋は想像する事すら出來ないらしい。しかし、それでもエロゲ作者は務まるらしいのである。
何と言ふか、「生甲斐」と云ふ言葉と、「生甲斐」の觀念とを、高橋が全然區別しないでゐるのは、如何かと思ふのだが。
平成十五年十二月十七日
と言ふか、高橋は、何でもイメージで考へようとし、そのイメージが偏見に基く歪んだイメージであるのは明かなのだが、その歪んだイメージをアプリオリに「正しい」と信じて手放さうとしないのである。
平成十五年十二月十七日
本氣か冗談かわからん事ばつかり言つてゐる奴は、信用されないしな……。
平成十五年十二月十七日
今時のエロゲは、變に病んだものが多いしな……。

平成十五年十二月十六日
小人さんから小人さんへの置き手紙(2003-12-16)
掲示板で「ユーザー」に對して偉さうな態度をとつてゐる「管理人」には、何を言つても通じない。
だからと言つて、本人の頭越しにその筋の人(誰)と話をすると、「泣きついた」だの何だのと言つて勝ち誇つたりするので、その手の「掲示板管理人」には困つたものです。
平成十五年十二月十六日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20031216#p1
本当は何にも固執せずに、その時々の現代性を軽やかに生きられるのが一番楽しいのだが、なかなかそうも出来ないなあ。
その時々の現代性に固執するのも、以下略。
正しい事がそんなに單純明快である訣がなからう。「正しい」=「單純明快」と勘違ひしてゐる人が矢鱈多いが、さう云ふいんちきな「正しさ」に欺されるな、と私は言つてゐるに過ぎない。
確かさなんかなくたって生きていける。無根拠な根無し草でいいじゃないか。ふわふわ漂うのも楽しいよ。そう証明できる生き方をしたいし、そう思えるような物を書きたい。
實に單純明快な考へ方だ。實に現代的な流行現象だ。彼等はかう云ふ、明快で安易に信じられるものであれば何だつて信じてしまふのだ。信じなくても、墮落するのは誰にでも簡單に出來る。
彼らって書いてるけど、これは俺も同じことで、反省が必要ではある。
實は、この考へ方こそが、現代の日本人特有の病弊である。「彼等」も「我」も、共に「反省が必要」なのだと言ふ人は多い。しかし、それは、即座に、「彼等」が「反省」しないのだから「我」も「反省」する必要なし、皆「反省」しないで、好い加減に濟ませよう、さうすれば「我」も「彼等」も皆、樂だ、そして皆、樂な事が好きである筈だ、と云ふ「堕落のススメ」に轉化する。
しかし、「反省」と云ふ言葉を使つておく事で、自分は既に堕落から免れたと、安易かつ單純に思ひ込む人が非常に多い。反省して見せる事と、實際に反省する事とは、全然違ふ。そもそも、本氣で反省した人間が、「俺は反省しましたよ」等と御氣樂に言つて廻る筈がない。人は、自省的になる時は、誰もが孤獨になるものだ。彼等だのと暢氣な事を言つてゐる奴は、本氣ではないのだ。
平成十五年十二月十六日
フリーダム展で現代教養文庫を二十五册買つた。

平成十五年十二月十五日
デカイオー完結。最う知らん。
平成十五年十二月十五日
良くない因習は改めるべきだ。
平成十五年十二月十五日
この小論集は、特に、體系など持たず、黨派から離れてゐる人々、從つて、疑はしいことを疑ひ、疑はしくないことは決して拒絶しないと云ふ自由をまだ持つてゐる人々に捧げられるものである。
非合理なもの、押附けられたものであつても、それを「自分のもの」と言張り、それに固執する態度は、私には「自由」な態度であるやうに見えない。
平成十五年十二月十五日
別に、ただ昔に返せ戻せと言つてゐる訣ではなくて、今のものには良いところも惡いところもあるが、その良いところを取り、惡いところは捨てよ、同樣に、昔のものの惡いところは無くなつたままにしておいて、良いところは掬ひ上げるべきだ、と言つてゐるに過ぎない。
盲目的な全肯定と全否定ではなく、合理的に判斷しながら、肯定すべきものは肯定し、否定すべきものは否定せよ、と言つてゐる。
ただ、自分の生れた時に存在したものは、糞味噌關係なしにとにかく全部受容れて、それ以外の全ての價値はとにかく感情的に拒絶する、と云ふ愚かしい態度は取るべきでない、と言つてゐる。
このやうな是是非非主義には、レッテル貼りを常套手段とし、全肯定か、全否定か、と云ふ幼稚な「二元論」しか理解出來ない人間は、反感を覺えるらしい。彼等は、「全否定すべきもの」をせいぜい「部分否定」しかせず、「全肯定すべきもの」を「部分的にしか肯定しない」人間を、敵と看做す。彼等は、「敵」が、「全否定すべきもの」を「全肯定」してゐるかのやうに、「全肯定すべきもの」を「全否定」してゐるかのやうに極め附け、レッテルを貼り、デマを流し、社會的に抹殺しようとする。その癖、現代と云ふ「自由主義社會」を「全肯定」してゐる自分は「自由主義者」である、等と、理窟にもならない理窟を言つて自己證明をした氣になる。
自稱「自由主義社會を全肯定する自由主義者」が、實際には現實を全肯定などしてゐない事は明かである。彼等は、現實社會の「自由主義に反するもの」を全否定してゐる。ならば、彼等は現實を部分否定してゐるに過ぎない。なのに彼等は自分が現實を全肯定してゐると嘘を言ふのである。
その嘘吐きの一人として、このところ私が非難してゐるのが、例の高橋である。
俺にとって日本とは、1975年に産まれ2003年現在28歳になるまでの人生をなんとか大目に見てくれたこの豊かで自由で寛容でちょっといい加減な国のことであって、俺が好きな日本とはこの28年の日本のことであり、俺にとっての保守主義とは、この28年の日本をなんとか維持していこうという考え方のことだ。
よくもまあこんな嘘をぬけぬけと言へたものだ。
この28年の日本の中でも、高橋の人生をなんとか大目に見てくれた豊かで自由で寛容でちょっといい加減な国の部分をのみ、高橋は保守したいと考へてゐるに過ぎない。高橋は、この28年の日本の全てを保守しよう等とは考へてゐない。高橋の保守したい28年の日本の中に、児童ポルノ法や東京都の何とか條令は含まれてゐない。飽くまで、高橋は、自分にとつて都合の良いものだけを、自分にとつて都合良くセレクトしてゐるに過ぎない。高橋は大嘘吐きの御都合主義者である。そして、他人の弱みにつけ込んで、「自分と同じやうに」墮落させようとするのだから、「惡魔」の仲間である。
平成十五年十二月十五日
高橋は、個人を越えた價値を全く理解出來ない。個人を越えた價値を理解出來ない生物は、人間ではない。
平成十五年十二月十五日
私は日本が嫌ひではない。どちらかと言へば好きな方だ。
だが、「或特定の時期の特定の文化」だけが好きだ、等と私は言はうと思はない。私は、日本國の歴史の中に自分が生きてゐる事を重視する。或は、日本の社會が、生きて、活動し、流動して行く中で、自分の營爲が位置づけられる事を欲する。
また、好きであるからと言つて、日本は何一つ改善する必要はない等とは思はない。と言ふより、そのやうな發想は、「神國日本」等と言ふ日本至上主義、國粹主義に道を開くものだから、私は否定する。
「特定の時期の特定の文化」を稱揚し、他を拒絶する態度は、上に述べた思想とは微妙に異る。しかし、微妙に重なる部分がある。ただ、ファッションや流行語に固執する態度は、決して「いき」な態度ではない。世の中の變化に應じて生き方を變へるのが「いき」であり、「いき」である爲には世の中の變化を認める必要がある。同時に、自然な變化にあらざる人爲的で強引な變更に從ふのを良しとしない態度は、また「いき」と言へるだらう。本當に「いき」を求める人ならば、人のレヴェルを超えた自然の攝理或は運命に從容として從ふのは當然の事であり、自然に逆らふ小賢しい人爲の押附けには徹底して反抗するのが當然の事である。
平成十五年十二月十五日
譬喩で語るのは危險であると承知で語る。
好きな子をホルマリン漬けにして取つておきたい、と云ふのが高橋の主張だ。
俺は、生きて動いてゐるから、その子を好きになるのである。その子が生きてゐる限り、價値觀を持ち、生き方を築き上げてゐる事、絶えず變化してゐる事は、自然である。その子が、既に洗腦されてゐるとしたら、洗腦を解いてやらうと思ふのも自然だらう。それでその子が全くの別人になつてしまふものでもなからう。飽くまで譬喩であり、譬喩が危険である事は承知で言ふのだが、洗腦された「その子」よりも、洗腦されない「その子」の方が遙かに魅力的である事は、現實にも屡々ある事だ。洗腦されて覺え込まされた事を繰返し口にする「その子」の言葉が、甚だ魅力を缺く事も、我々は經驗上、知つてゐる筈である。にもかかはらず、「その子」の洗腦を「良し」とするのは、自分も洗腦されてゐるからに過ぎない。
高橋の發想は不健全であり、到底受容れられない。そもそも、なぜ好きであるのか、と云ふ疑問を、高橋は抱いてゐない。
もつとも、「好きになれ」と命令されて好きになつて、必死になつて保守しようと考へてゐる高橋は、幸福である。大體、理由はともかく何かを「わかつてしまつてゐる」人間は、幸せなものである。現代と云ふ時代に新興宗教が繁盛する所以である。
平成十五年十二月十五日
俺は、過去から未來に一貫する時間の流れを肯定する。なぜなら、それこそが、自分の生きる時代を眞に肯定する事になるからだ。時間の流れから切離して、「自分の時代」だけを「肯定」するのは、結局のところ、自分(達)の存在を全ての時代から切離し、否定する事にほかならない。
結局のところ、目先の利益だけを追ひ求めるか、永遠の理想を追ひ求めるか、の違ひを言つてゐるに過ぎない。そして、目先の利益にしか興味を示さないのは動物である。
だが、目先の利益に目を奪はれ、「生きてゐる時代」の快樂に溺れる人間は、常に時代の變化に怯え、社會情勢の變動におののき、それどころか自分の求める快樂に充足する事も出來ず、いつまでも不安と滿たされぬ思ひに惱まされ續ける。
犯罪者であらうと、過激派であらうと、藝術家であらうと、或は結果として人生の敗殘者となつた人間であらうと、生き生きとした生を送つたと言へる人間はゐるのである。ぬるま湯に浸かつたやうな安穏とした生活を送る人間であつても、死んだも同然の生き方しか出來なかつたと悔やみながら死ぬ者は多いのである。そして、文學なり藝術なりは、人間に「生き生きと生きる覺悟」を決めさせ、「死んだやうな生」からの脱出路を提示するものでなければならない。
快適で安樂なだけの生活に、人間はいつまでも滿足してゐられるものではない。
平成十五年十二月十五日
思えばロート製薬提供の番組はクイズものが多かったのではなかっただらふか。
「だらふ」は間違ひ。「だらう」が正解。
ついで。

http://www.padmacolors.net/ を XHTML1.0 Transitional としてチェックしました。
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日本語も間違つてゐればHTMLも間違つてゐる。
平成十五年十二月十五日
年賀状は、いつまでに出せば元旦に屆くのかな。
Google 検索: 年賀状
平成十五年十二月十五日
ThinkCentreで、何か妙なウェイトがかかつて、キーボード入力がひつかかり捲る問題は、結局キーボードの交換で改善されず。
デバイスマネージャでキーボード(106/109キーボード)を削除→再起動→新しいデバイス組込み→再起動→101キーボードのドライヴァ組込み。
これで一往動作。
平成十五年十二月十五日
Google 検索: ファイティング ニモ
ファインディング・ニモを一番上に出して呉れるGoogleは、頭が良いのか、馬鹿なのか。
平成十五年十二月十五日
樂しいだけで虚しい人生よりも、理想を追ひ求める事で充實した人生を送る方を、俺は選ぶ。
時代が遷移して我が物だつた自分の生きる時代を喪ふ苦痛を味はふくらゐなら、最初から自分の生きる時代に固執などしなければ良いのだ。永遠に手に入らない理想を追ひ求める人は、快樂を喪ふ事を心配する必要がない。

平成十五年十二月十四日
フセインキター→通報しますた→タイーホ

平成十五年十二月十三日
ドラえも
知らんでも良いやうな氣もするが。
平成十五年十二月十三日
のあ
ねえねえ、正字正かな、つてどうかな?
あやの
どうかな、つて言はれても。
のあ
今、正字正かながトレンディなんでせう?
あやの
と言ふか、わたしたち、普通に正字正かなで對話してゐるよ。
平成十五年十二月十三日
なぜGoogleのキャッシュにリンクを張るんだ……。
平成十五年十二月十三日
のあ&あやのカレンダー……。
平成十五年十二月十三日
今日、驚くべきことにひとりの政治批評家も存在しないではないか、いや、それ以上に驚くべきことに、たとへそれが存在しても、その言説はひとりの實際政治をも左右しえないではないか。政治家は批評をおそれず、その存在を完全に默殺してゐる。
平成十五年十二月十三日
News:AOL、「Netscape」接続サービス試験提供開始
平成十五年十二月十三日
CD-ROMで起動するハードディスク不要の静穏Webブラウザ「DEEPON」
平成十五年十二月十三日
御歳暮を送つたり。
BOOK OFF轉じてHARD OFFに行つたり。
ジャンクのキーボードを購入。コンパックの106キーボード。日頃愛用してゐるキーボードと同型機。取替へてみたがちやんと動いた。今まで使つてゐた奴がどうも調子が變なので、今日買つて來たのをこのまま使ひ續けてみようかと。
平成十五年十二月十三日
ちなみに、もう一枚、コンパックのキーボードがあつたが、そちらは少し後の時期(推測)のもので、タッチが良くない。が、別の奴が、嬉しさうに買つて行つた。IBMの割と良い感じの106キーボードもあつたのだが。
平成十五年十二月十三日
Free Solaris Binary License Program
暇で暇で仕方のない時が來たら入れてみようかと。
平成十五年十二月十三日
AHA-1520Bなんて懷かしいボードも目撃した。
平成十五年十二月十三日
需要はないかと思つてゐたのだけれども、なんか要望があるみたいなので復活。
HTML文書を書く際の注意點
やたら煽つてゐる文章なので、個人的には如何かと思ふのだけれども。

平成十五年十二月十二日
今晩は。
平成十五年十二月十二日
例によつて神保町の古書會館の古本市に行きました。以下、買つたもの。
中河幹子『歌集 夕波』
堀口大學譯『ヴェルレエヌ詩集』
辰野隆『佛蘭西演劇私感』
福田恆存『坐り心地の惡い椅子』
『松村明教授古稀記念国語研究論集』
雜誌「人間」×二册
例によつて『坐り心地の惡い椅子』はプレゼント用。欲しい人は野嵜まで聯絡を。
平成十五年十二月十二日
會計のうしろに本が小山のやうに積上げられてゐて、その一番上に『幸福への手帖』と『劇場への招待』が載せられてゐた。それでちよつと注目してゐたのだけれども、丁度そこに買つた人が現はれて、會計の親爺に告げて曰く「御持ち歸り」すると。
子規全集とか重さうな本ばかり、四、五十册はあつたらうと思ふのだが、風呂敷で包んで持つて歸るのだと。實に漢らしい。

平成十五年十二月十一日
「反省會」終了。「俺は馬鹿だから反省しない」を皆で連發。
言及された本(一部)。
柳田國男『山の人生』
ツヴァイク『昨日の世界』
オーウェル『カタロニア讃歌』
ソポクレス『オイディプス王』『アンティゴネ』
平成十五年十二月十一日
ヒギョパム保管庫
平成十五年十二月十一日
とある所で表記について話されてゐるやうだが云々。
結局のところ、「正しい」と云ふ觀念を認めるか、認めないかで、見解が分かれる訣だ。「何時いかなる場合にも正しい、と云ふ事はあり得ないが、より正しい事を希求するのは人間にとつて當り前の事だ」と考へる人間と、「いついかなる場合にも正しいということはありえないから、正しかろうが間違っていようがどうでもいい。考えるのは時間のムダだ」と言ふ人間との間の溝は、永遠に埋らない。ただ、後者はその溝を「あつて良い溝」だと信じてゐる。そして、「永遠に埋らない」のを良い事に、「埋めてみろ」「埋められないのなら、お前らの負けだ」と極め附け、勝つた氣になる。實際には、「正しい」と云ふ事を認めないのならば、價値と云ふ事は當然認められない事になり、勝ち負けと云ふ事も存在し得ないのだが、彼等はどう云ふ訣か勝ち負けに拘る。言爭つて、勝つて、自分の立場を守らないではゐられない。そして、論理的に一貫してゐようがゐまいが、彼等は構はない。ただ、自分の現在の立場、状況を維持出來れば良いのである。しかし、その立場を突詰めて行くと、自分以外の存在と、自分との間に、斷絶の生ずる事は自明である。さうなると、言葉は必要なくなる。が、その時、人間の社會も文明も消滅し、歴史も失はれる。彼等の「思想」――目に見えるものしか信じないで良いと云ふ思想――現状を維持し、努力をしないで濟ませるのは樂であると云ふ思想――俺は怠け者だが、お前も怠け者になれ、と云ふ思想――は、甚だニヒリスティックな思想である。
平成十五年十二月十一日
正字正かな派とは「正しい假名遣を信じる」人の事だ、と多くの人が思つてゐる。さう云ふ正字正かな派も、慥かにゐる。しかし、「假名遣をより正しいものにしようと努力する」と云ふのが、正字正かな派の持つべき思想であると私は考へる。
生きた言葉は變化する筈である。しかし、「現代仮名遣」は、五十年以上も前から何の變化もしてゐない。即ち、「死んだ表記」である。「歴史的に定着してゐる」と「支持者」は言ふが、定着してゐるがゆゑに死んでしまつてゐるのである。
「現代仮名遣」を、より良い假名遣に變へようと云ふ努力を、過去の五十年の間、誰もしてゐない。もちろん、「現代仮名遣」に、「より良い方向の變化」等あり得ない。本質的に「現代仮名遣」は、「簡便」「簡易」の方向にのみ變化し得る表記である。「より良い變化」は、「現代仮名遣」にはあり得ない。「簡易」「簡便」な方向でなく、「より良い方向」への變化を望むならば、「現代仮名遣」と云ふ固定的な規範は單に破毀しなければならない。
そもそも、表音的な「方向」だらうと、表意的な「方向」だらうと、動いてしまつたら、「現代仮名遣」は「現代仮名遣」でなくなる。「現代仮名遣」は永遠に不變でなければならない代物である。「現代仮名遣」支持者にとつて、改善は「されては困る」事である。だから誰も「現代仮名遣」を疑はないし、疑はうともしない。
「現代仮名遣信仰」は迷信である。「現代仮名遣」は、現代の最大の禁忌である。「現代仮名遣」を、(合理化ではなく)合理主義の立場から批判する事を、「現代仮名遣信者」は喜ばない。彼等は、批判者を人間と認めない。彼等にとつて、「現代仮名遣」を信じない人間は人間ではない。だから、彼等は批判者を常に人格的に攻撃する。「現代仮名遣」批判者を、彼等が論理的に批判する事は絶對にない。一見、論理的に見える言ひ方をしてゐても、彼等は「現状」を論理より優先してゐるのだから、いざとなつたら常に「俺」の立場に立籠る。「我思ふゆゑに我あり」――「我」「俺」ほど明々白々な「現状」はない。が、そこに立籠つたら終りだ、と云ふ事に彼等は氣附かない。或は、終るのは良い事だと彼等は思つてゐる。そこまで話が行く頃、彼等は議論が面倒臭くて仕方のない事に感じられてゐる。
しかし、正字正かな派に先に議論を仕掛けたのが彼等であつたりすると、先に撤退を表明する彼等の「負け」は誰の目にも明かであるやうに私には思はれるのだが、彼等は自分逹が「負け」たとは思はない。彼等にしてみれば、「現状」世間が「現代仮名遣」を漫然と使つてゐる限り、議論で負けようが論破されようが關係ないのである。ならば議論なんて仕掛けなければ良いのだが、彼等は正字正かな派にちよつかいを出さずにはゐられない。正字正かな派が喚くのを見て、彼等は優越感を覺えたいらしいのである。

平成十五年十二月十日
と云ふ訣で本日夕方「反省會」をやりますので、參加希望者は會場まで直接御出で下さい。聯絡不要と言ふか、今からメールを貰つても「會」が始まるまでにチェック出來ません。
平成十五年十二月十日
あと、ins要素のスタイルがaのそれとかぶつてゐるのは氣附いてゐるのだけれども、直すのは明日か明後日の夜或はそれ以降に。今夜は勘辨して下さい。
平成十五年十二月十日
今までRDのHDDからDVD-RAMに録畫した番組をコピーしてゐたのだけれども。朝、起きられるかなー。エルガイム十七話、何度觀てもいんちきな脚本だなー。
だーかーらー。私はアニヲタではないのだと何度言つたら以下略。
平成十五年十二月十日
どうしてこの時間帶にウェブが重い?
増速した筈なのに。

平成十五年十二月九日
のあとあやのの哲學コントコーナでも作らうかなと。
のあ
哲學とは何ぞや。
あやの
何ぞやつて言はれても。いきなりどうしたのよ。
のあ
そもさん。
あやの
せっぱ。
のあ
切羽詰つてコピー誌ですか。
あやの
コピー誌なんて作らないわよ。どうしてわたしがコピー誌なんて作らなければならないの。
のあ
さう、自らに對する疑問――これが哲學。
あやの
哲學と關係ない! でもあんた、そんなにコピー誌作りたいの?
のあ
別に。
あやの
別に、つて、何でいきなりコピー誌?
のあ
そこは言葉の綾。
あやの
言葉の綾ぢやないでせう。と言ふか、あんたはいつだつて、さう云ふ示唆的な表現で自分の希望を述べるんだから。作るんなら急ぎなさい、今からならコミケ、まだ間に合ふでせう。
のあ
いいの。どうせ參加、申込んでないし。
あやの
ええかげんにしなさい。
何だこれ。
平成十五年十二月九日
aozora blog: 100円ショップの青空文庫
ダイソーでも良いから、うちとか御近所さん(謎)とかのISO/IEC 15445:2000關係の記事を本にして呉れないかな。無理。
平成十五年十二月九日
アニメ宝箱&BS冬休みアニメ特選
Internet Explorerで印刷出來ないのはうちだけ? 印刷プレヴューを實行すると、ページが無限に増える。
Opera 7.23で、印刷時の倍率を80%にすると、A4用紙二枚に收められる。
ちなみに私はアニヲタではありません。
平成十五年十二月九日
ANIMAX アニメ見るならアニマックス
Operaでアクセスすると、番組表の邊などでPHPが動いて呉れないのだが。IE6と稱してアクセスすると動くので、ユーザエージェントを見てゐる模樣。餘計な事を。
ANIMAXでは愉快なドラゴンボールをやるやうだ。
ちなみに私はアニヲタではありません。だからドラゴンボールの事も知らなくて當然だ。
平成十五年十二月九日
CNET Japan - 「Windows 95以来の大々的リリースに」:Longhorn、日本でもお披露目
トレッドウェル氏はLonghornを「Windows 95以来の大々的リリースになる」と語る。
安定するのは次のヴァージョンだな……。
また、Windowsのためのマークアップ言語「XAML」が紹介された。XAMLは「HTMLのように何を実現したいかという意図を記述する宣言型の言語だ」(トレッドウェル氏)といい、プログラマにとって記述しやすく、読みやすい言語であるという。さらにコードとコンテンツを分離できることから、開発者とデザイナーが独立して作業ができるようになるとした。
また獨自規格か……。
平成十五年十二月九日
「キティ颱風」讀了。後半、結構面白く讀んだ。
平成十五年十二月九日
NN SPACE- PE BuilderでWindowsXPブータブルCDROMを作ろう -N×N空間
PE -Explorer&IE-
PE Builder v3用アプリ組み込みプラグイン
Bart's PE Builderで作ったwindowsPEをカスタマイズしまくるHP。
[NEIME-I] NearPub ... 日本語化の別置き場
いつか暇で暇で如何しやうもなくなつた時に作つてみよう。
平成十五年十二月九日
やっぱ親泣かせたくないからなあ。
逆に、遊びに行って女の子にお金を払わせるということは男女平等のこのご時世別に珍しくも無いだろうが、俺にはどうも良くないように思えてしまう。男が払って当然だという感覚があるのだ。
隨分「封建的」な「道徳觀」を持つてゐる人だなあと思つた。
かの宮本顕治氏の「道徳觀」も、實は相當「封建的」なのであるさうだ。
平成十五年十二月九日
たとえば俺にとって売春は背徳的ではないので、そこに背徳感を見出すことは出来ないが、そんな俺の道徳観を認めない別の人にはそれは背徳的行為である。
日本人は、セックスも賣春も「惡い事」とは昔から思つてゐない。
平成十五年十二月九日
A氏がA氏個人の道徳に背くことに背徳感を覚えることと、B氏の道徳をA氏が認めるか否かとは、無関係である。
「A氏の道徳」とか「B氏の道徳」とか言つてゐるが、この「道徳」と云ふ語と「道徳観」と云ふ語とを高橋は區別してゐない。
日本人は、「道徳」に限らず、また高橋に限らず、觀念の嚴密な區別が苦手なのであつて、それゆゑ、本人は「論理的」に話を進めてゐるやうで實は論理的に飛躍し捲つてゐる、と云ふ事が日本では屡々ある。
背徳感とは、そういう個人的な物なのである。
まさに日本的な發想である。
日本には、一方的に價値觀を押附けてくる絶對者が存在しない。
平成十五年十二月九日
俺はこんなにもバカで間違っている。そんな俺と真顔でやりあってるあいつも、だからバカで間違っている。簡単に信じるんじゃねえぞ、と。つまり、自爆必至のバカワールドに巻き込むのだ。
これを「相手をバカである自分の位置に引きずり下ろす」と看做すのが高橋である。しかし、これは實は、「自分を相手と同じに見せかける」即ち自分を自分以上のものに見せかけるだけの事に過ぎない。
かう云ふバカを相手にする方法は一つである。自分がバカにならない事。さうすれば相手が勝手に自爆して呉れる。
だって俺、バカだって思われても全然困らんもん。
本當は、困るのである。高橋は、そこが強みだ。と書いてしまつてゐるが、弱みを弱みと見せない爲の強がりである。
もはや野暮なやり方、ただのありがちなやり方は、自分の独善性に自覚的な手合いにはもはや通じない、と高橋は書いてゐる。この手合いとは、當然、高橋の事である。この、自覚的である独善性は、高橋にとつて「本當の独善」とは異るものである。高橋は、「意識してする独善」は「独善に非ず」と思つてゐる。そして、それゆゑに「自覚的な独善」は「強み」である。「自覚的な独善」は、「無自覚の独善」とは違ふものである。しかし、「独善」を「自覚」する事で、即座に「無自覚の独善」と手を切る事が可能である訣ではない。そして、その「無自覚の独善」を曝露される事が、この「手合い」にとつては致命的な打撃となる。そして、「自覚的な独善」と稱する「手合い」は、自分が「無自覚の独善」と完全に手を切つてゐる事を證明しない。出來ないからである。なぜ出來ないかと言へば、言ふまでもなく手を切つてゐないからである。
平成十五年十二月九日
G.K.チェスタトンが御伽話の喩へで述べてゐる通り、徳目は屡々「理不盡な命令」である。「このお城の中で逆立ちしてはいけない」と云ふ妖精の命令は、「なぜ」と問う事の出來ない絶對的な命令である。日本人は、その種の絶對的な命令を絶對的と思はない。なぜなら、日本にその種の絶對的な命令は存在して來なかつたからである。キリスト教の世界における破門が、如何なる意味を持つてゐたかを、我々は正確には認識し難い。連中にしてみれば、神の國への道を永遠に閉ざされる事は、自己の存在を完全に否定されたも同然の事であつたらしい。
日本では、人の存在を否定するのに、村八分と云ふ陰濕な手段があるけれども、それはせいぜい「住み難くなる」だけの話である。それに、自分を否定する奴は同じ人間である。恨めば恨む事が出來るし、それはそれでそれなりの意味がある。キリスト教のGodを恨んでもGodは何の痛痒も感じない。
Godと云ふ絶對者が存在するキリスト教的な世界における背徳と、人間を縛るものが世間體しかない日本における「背徳」とでは、根本的に意義が異る。
キリスト教的な社會における背徳は、アンチキリストであり、眞劍勝負であり、それ自體道徳的である。ニーチェもボードレールも、神に反抗し、カトリック的道徳觀に抵抗したが、その結果殘したものは立派な藝術作品である。
日本における「背徳」は、所詮「背徳的な行爲」の實行を意味するに過ぎず、ただの快樂追求であり、道徳的な觀點から見ればせいぜい「墮落」である。が、日本には絶對的な道徳的價値が存在しないから、「墮落」も眞の精神的墮落ではない。エロゲは、世俗的な快樂に依存したものか、でなければ、精神病をテーマにした「同病相憐れむ」的なものであるか、のどちらかである。日本特有の浪花節的世界觀を一歩も脱してゐない。
平成十五年十二月九日
BoogiepopQuiz
ブギーさんの新刊、もう讀んでないからな……。

平成十五年十二月八日
十日の夕方に「反省會」と云ふ名の集りをやります。哲學的、文學的、CSS的、セマンティック・ウェブ的、健康的かつ御金のかからない、とてもすばらしいオフ會です、保證ナシかつ意味ナシ、一部は切實な事情により事實にしたい。謎。
參加したい人は、木村さんか野嵜まで、メールなり何なりで聯絡を下さい。場所は神保町。夕方六時半からよるおそく(希望者のみ)まで。

平成十五年十二月七日
キーボードのドライヴァ、106キーボード用のにしてゐたのを101キーのに戻したら、レスポンスがなんか異樣に早くなつた。
變換キーと無變換キーが效かなくなつたけど。
平成十五年十二月七日
で、106キーボードのドライヴァに戻したのだけれども……。
まともには動くけれども、遲い。IMEと言ふか言語の切替へ邊で變に引つ掛かつてゐるやうな印象もあるのだけれども。原因不明。
平成十五年十二月七日
馬鹿ばっか (2003年11月13日) @ [ALNECo.]
高橋を崇拝してゐるらしい人間。彼等は「自分逹には罪がない」「自分逹に對する反對者を中傷するのは良い事である」と信じてゐるらしい。
この手の獨善的な人間に「遵法性」だの何だのと言はれても。
自稱罪の無い二次コンが、「他人に迷惑をかけても法的に正當化出來れば何も問題は無い」と考へてゐないとは言はせない。彼等の「遵法的」とは、所詮、その程度のものである。そして彼等は、その邊の事を自覺してゐない。
だから「法律なんて紙切れ」と言つてゐるのだが、それを彼等は理解しようとしないのである。
平成十五年十二月七日
權力者による法的な統制も、反權力の側の作り出す風潮も、所詮、同じ穴の狢で、ただ取締る範圍が異るだけに過ぎない、と皮肉つたのだが、皮肉は馬鹿に通じないらしいのである。
白人が知的でなければないほど、黒人は彼には一層莫迦に見えるものだ。とジイドは言つた。
平成十五年十二月七日
春畫春本を賣りたければ勝手に賣れば良いが、少しは後ろめたさを覺えたら良からう。最近は、何をするにも、後ろめたさを感じない人間が増えてゐて困る。
法律に據る取締りは、春畫春本の類を扱はうとする人間に後ろめたさを覺えさせる效果があるから、有益である。
もちろん、何を言はれても何も感じない鈍感な人間は何處にでもゐる。しかし、さう云ふ奴は、捕まつても何も感じないだらう。何の問題もない。
平成十五年十二月七日
JavaScript:document.body.innerHTML=document.body.innerHTML.split('ー').join('━━━(゚∀゚)━━━');focus();
平成十五年十二月七日
“差別用語”と呼ばないでが、カトゆー家断絶で紹介されてゐる。
平成十五年十二月七日
「敵對者を憎惡し、嘲笑せよ」と云ふ全ての思想を、私は拒否する。
さう云ふ單純化された思想は、わかりやすく理路整然としていて説得力があるものだが、それゆゑに間違つてゐる。
平成十五年十二月七日
政治家の政治に對して、民衆がやはり政治的手段で對抗する事を、日本では文學者が平氣で言ふし、ウェブの「blogger」も言ふ。高橋も言ふ。そして、彼等はそれが當り前の事であると信じ込んでゐるし、實踐してゐるし、自分逹と同じやうに實踐しない人間は怠慢であると斷ずるし、怠慢であると斷じた人間を罵倒し、嘲笑する。が、結局のところ、彼等のしてゐるのは、政治家のしてゐる事と同じである。所詮政治である。ただ、「政治家のしてゐる政治」は「間違つてゐる」、「民衆の取る政治的手段」は「正しい」とレッテルを貼つてゐるだけである。しかし、所詮、政治的な正義は相對的な正義である。彼等はそれに氣附いてゐない。同じ政治と云ふ手段を取る事がナンセンスである事に、彼等は氣附いてゐない。
文學者の怠慢は、政治的責任を取らなかつた事ではなく、文學的責任を取らなかつた事であると福田恆存が「文學者の文學的責任」で書いてゐる。
政治家の「一面的な正義」に、民衆の側の「別の一面的な正義」を持出して對抗するのは、結局同じ事をやつてゐるのであつて、本質的に意味がない。政治の持つ有效性に限界のある事を指摘し、政治の關與し得ない別の領域の價値を示す事――政治的ならざる價値の存在を示して、政治そのものの相對化をはかる事が、例へば文學者がなすべき仕事である。
私は、さう云ふ事を言つた積りなのだが、高橋は「政治的な話をせよ」と私に要求し、私がそれに應じない事にすら「政治的意圖」を見出さうとした。高橋のフォロワーも私の意圖を理解しない。馬鹿は政治に拘るかう云つた連中の方である。政治はそれ自體、愚かしいものではないが、政治にしか興味を持たないのは愚かしい事である。
平成十五年十二月七日
例へば、池田大作氏を多くの人が非難し、嘲笑する(これも良く考へるとをかしな事だ)が、私はしない。池田氏は、多くの政治家と違つて本を澤山讀んでゐる。その點で、多くの批判者よりも池田氏の方が増しである。
池田氏は、恐らく批判者よりも、意識して行動を取つてゐる筈である。池田氏の價値觀が私の價値觀と反するものであるのは事實だが、池田氏の行動の仕方そのものを私は非難しようと思はない。
池田氏を非難する連中は、池田氏を貶めながら池田氏を批判する。貶めるやうな相手を本氣になつて非難するのはをかしな事だから、彼等も「嘲笑」と云ふ態度をとつて見せる。だが、「嘲笑」と云ふ低劣なやり方をしなければならない時點で、彼等は自分逹の戰術の誤に氣附くべきである。
彼等自身の人格の下劣さは非難されて當然である。そして、それこそが彼等の最大の「隙」である。しかし、驚くべき事に、自分逹の持つ致命的なこの「隙」に、彼等は氣附かない。ただ、それを指摘されると物凄い勢ひで怒り出す(或は、苦笑して見せる)。さう云ふ彼等の樣子を見る限り、無意識に自己の「隙」の致命的なる事を、彼等は悟つてゐるらしい。が、自覺する氣も、反省する氣もないらしい。正義は人を墮落させる。
平成十五年十二月七日
所詮、反權力は權力がなければやつてゐられないし、例の高橋やエロゲヲタのエロ趣味は「エロを惡しとする常識」がなければやつてゐられない。
單なるアンチには價値が無い。價値のないものに興味など持てるか。

平成十五年十二月六日
Web LogがWe Blogと變化して、Weが落ちて「Blog」なる言葉が成立したのださうだが、「Web Log」を書く主體は複數のWeではなく單數のIである筈なのだから、「We Blog」なる言葉を作る事がそもそもをかしい。だから私は「Blog」なる用語を認めない。
平成十五年十二月六日
RELAX NG 私的解説メモ@レナ姫のWeb研究室
ISO/IEC 19757-2:2003 Information technology -- Document Schema Definition Language (DSDL) -- Part 2: Regular-grammar-based validation -- RELAX NG
DDFD 2003 Plan
JIS/RELAX NG
平成十五年十二月六日
そもそもアクセス數を氣にするのがをかしい。
ウェブでは全てのリソースが對等である筈。
問題は中身だ。
記事の内容を問題とせず、記事の評判だけで判斷しようとする處に、今のウェブのリンクに關するトラブルの原因はある。
平成十五年十二月六日
あと、アクセス集中に堪へられない脆弱なインフラも問題。
平成十五年十二月六日
論爭相手を貶める爲、記事にわざと認證をかけるお兄さんがゐましたつけねえ。
無斷でリンクされたからと言つてJavaScriptでアクセスをはじく人もゐますしねえ。
儀禮だのマナーだのと言ふ奴が、被害者ぶつて、相手を「加害者」呼ばはりしてわざと無禮な態度をとる事がある。わざとだらうが何だらうが、をかしな事であるのは明かだが、本人は「當り前」の積りでゐるから困る。
平成十五年十二月六日
ひっそりとネットで日記を書いていた人が、澤山のアクセスを受けた時、被害者づらするのはどうか(してゐる)と思ふのだ。
さう云ふ人が、どこから何件アクセスされたとか詳しく解析してゐると云ふのは、一體どう云ふ事なのだらう。
サーヴィス提供者がアクセスを勝手に解析して呉れてゐるのかも知れないが、もし本當にひっそりやる積りで、極々詰らない内容の文章を書かうとしてゐる人間ならば、アクセス解析を提供しないサーヴィス提供者を選ぶのが筋ではないか。
或は、大量のアクセスを呼んでしまふやうな、他人から注目されるやうな、面白い文章をその人が書いた事が惡いと言へよう。「惡い」と言つて惡ければ、さう云ふ文章を書いた時點で、その人はひっそりやりたいとは思つてをらず、注目を集めたいと願つてゐた筈である、と言つたら如何か。
平成十五年十二月六日
文章は自づから讀まれる事を欲する。
文章を書く人は、誰かに讀んで貰ひたいから、文章を書くものだ。
平成十五年十二月六日
「ネットでの儀礼的無関心」かコミュニケーション優先か : ウェブログ@ことのは [weblog@kotonoha]
アクセス過多はそれ自體、アクセスを拒否する理由にはならない、と云ふ主張。實際にアクセス過多でサイトを「潰された」人の主張だから、説得力がある。
平成十五年十二月六日
ちなみに私は、惡意によるリンクも否定しない。どれほど非道いコメント附きで「紹介」されてゐたとしても、リンク自體には何の問題も無いと思つてゐる。問題は「非道いコメント」の方だ。そして、閲覽者がどれほどの先入見を植ゑつけられてゐたとしても、こちらはそれをひつくり返すだけだ。私は誰の挑戰でも受ける。
寧ろ、無關心を裝はれ、無視される事の方が嫌な話だ。無視されるよりは噂になる方がまだ増しだとオスカー・ワイルドが言つてゐる。
平成十五年十二月六日
制作者が、ただ「ひっそりやりたい」と云ふだけの理由で閲覽者を選別する、と云ふのは、甚だ傲慢な事だ、と私は思ふ。
讀み手が書き手を選ぶべきであつて、書き手が讀み手を選ぶべきではない。書き手が讀み手を選別するやうになれば、窮極的には、「言論を提供する側」による「言論を享受する側」の統制に繋がる。
そして、その種の統制をし度がる人間が、確實にウェブには存在するのである。それも左翼の側に結構ゐるのだから、あきれる。もつとも、左翼は昔からクローズドな連中だが。だから左翼等、信用出來たものではない。その點では、右翼の方がまだ正直である。逆に、オープンな右翼と云ふのも論理的に矛盾してゐるが。
平成十五年十二月六日
Webに文章を公開する仕組の敷居が低くなつた一方で、文章を公開するリスクは低くなつてゐない。その邊の「啓蒙」がまづ必要である。
日本には、「形から入る」人間が多過ぎる。「公開出來るから公開する」と云ふのは、目的と手段とが顛倒してゐる。
何か言ひたい事があつて、それで文章を書く、と言ふのなら話は解る。しかし、文章を書く場がある、だから言ひたい事をでつち上げる、と云ふのはをかしい。しかし、今の「ほーむぺーじ」の世界では、その種の「逆轉現象」が推奬されてゐるやうに思はれる。
「書く事がないなら書かない」「目立ちたくなければ目立つやうな態度をとらない」と云ふのが、當り前の態度だらう。
今のウェブでは、「目立つやうな態度をとりながら、注目を浴びたら文句を附ける」と云ふ、「俺に眼を附けたな貴樣」と云ふやくざの恐喝にも似た態度をとる人が、餘りにも多い。
平成十五年十二月六日
「コメントアウトしておいた文章をわざわざ掘出して引用した」と言つて他人を非難するやうな御兄ちやんも世間にはゐる訣で。「儀禮」とか「マナー」とか言つても、要は「やめろ」と云ふ禁止の婉曲な表現に過ぎず、「やつた」人間を非難する爲に羂を仕掛けてゐるに過ぎないのである。
俺もしつこいな。
大體、コメントで相手を罵倒したり愚弄してゐたりしておいて、「反應するな」もないものだらう。コメントアウトを認證にしたところで、やつてゐる事が同じならば、「反應」されて當然である。
技術的な手段で以て自分を守る、と云ふのは、別にやりたければやつても良いが、技術的な手段を取るのは全て純粹に自分を守るための行爲である、と勝手に定義するのは感心しない。自己防衞の手段と言ひつゝ、防衞ラインの向かう側で相手を挑發するのは、殆ど北朝鮮のやり方と同じである。
自衞戰爭と侵掠戰爭との間に、私は差異を認めない。
平成十五年十二月六日
もつとも、政治の世界は「挑發してなんぼ」なのであり、blogの世界でもさうであるのならば、blog界は政治の世界なのである。
平成十五年十二月六日
他人の噂をして幸せである人は、自分が噂の對象になるとすぐ「不幸になつた」と言ふものである。
しかし、そこでわかるのは、その人が今まで噂をする時、どんな噂をしてゐたか、と云ふ事である。大概の場合、ろくな事を言つてゐなかつたのである。
平成十五年十二月六日
尤めて之に效ふ、罪又重し。
他人の罪を非難しながら、自分が同じ惡事を犯す。その罪はいつそう重い。
平成十五年十二月六日
本當に嫌がつてゐる訣でもないのに「嫌だ」と言つて相手に嫌がらせをするのもどうかと思ふ。
うちは馬鹿なサイトだからと言つて、つつこみを豫め封じておかうとして、それが出來ないと逆切れする制作者も、どうかしてゐると思ふ。
他人のする事に制限を加へようとするのは民主主義的とは言ひ難い。權力者がする統制よりも、作り出された風潮による「事實上の統制」の方が、餘程危險だ。
平成十五年十二月六日
単一のWindowsに異なるバージョンのIEをインストールする方法/趣味のWebデザインが大人氣の模樣。

平成十五年十二月五日
Opera 7.23日本語版が出た。早速入れてみたけれども。Build 3226になつてゐる。英語版はBuild 3227だから、日本語版はbuild numberが一つ戻つてゐる。
平成十五年十二月五日
この三年で失つたものか……。
平成十五年十二月五日
News:私の怒りに火を付けたMSソフトのTDN
「もうぶちきれですよ」云々。
平成十五年十二月五日
朝、急行ではなくて、その前の通勤快速に乘つた。讀書の時間が一時間減つた。代りに睡眠時間が増えた。
平成十五年十二月五日
ホームページ制作/アットマガジンズ
プロのウェヴデザイン会社で、シンプルでアクセスの取れるサイト作りをしてゐるらしい。
本當かどうかは知りませんが。
やたら文字が大きいものや小さいものがありますが、デザインが破壊されてしまうだけでなく、ユーザーにとっても見にくくストレスが溜まります。プロはCSSという技術を使ってどんな環境でもきれいに見えるよう文字サイズ等を統一します。なんて言つてゐる。
http://www.at-mag.co.jp/pro.htmlは、「畫像オフ」で見ると「見出し」つぽい畫像のalt屬性が無いので訣がわからないとか、タイトルが不適切とか、問題がかなりあるのだが。

平成十五年十二月四日
今年中にデカイオー、完結させられるかなー。別にどうでも良いのだけれども。
平成十五年十二月四日
新宿驛西口の古本市に行つて見た。
サンリオSF文庫やハヤカワの金背銀背がそこそこあつた。また、元々社のSFシリーズ揃があつた。高いので御薦めしない。
取敢ず教養文庫を買つた。
平成十五年十二月四日
橋本驛の啓文堂書店でWinnyのムックを立讀みしながら内容を手帖にメモする男を目撃。かう云ふ奴は逮捕されても良いと思つた。
平成十五年十二月四日
FAT File System Technology and Patent License
News:MSがライセンスする「ClearType」と「FAT」とは?
News:Microsoft、技術ライセンスでオープン路線推進
平成十五年十二月四日
「諸君!」で田久保忠衞氏と西部邁が對談。田久保氏が西部の「テロ」と云ふ用語の定義を迫ると、西部は何だかんだ言つて話を逸らしてしまふ。
西部ら「反米保守派」は、「正しい用語」と稱しつゝ、單なるレツテル貼りをしてゐるに過ぎないのである。
奇魂の高坂氏も同樣。高坂氏曰「アメリカは侵掠をしてゐる」――この「侵掠」と言ふ言葉は、レツテル貼りの爲のレッテルである。だが、高坂氏はそれに氣附かない。氣附かないから、尤もらしく御喋りをしてゐる割に、何が何だか判らない結論しか引出せない。
高坂氏の議論は、アメリカのイラク攻撃は、「侵掠」だから「大義」がないのか、「大義」がないから「侵掠」なのか、その邊の事がさつぱり判らない。レツテル貼りだから説明がつかないのである。
高坂氏、對米從屬下に於ける日本人の經濟的繁榮を維持するために(本當に維持できるかどうかは別にして)、アメリカが引き起こした侵略戰爭に自衞隊を參戰させるといふことです。と言つた同じ口で、また自衞隊を出せば、日本國内でもテロが起こることは當然のこととして覺悟しておかなくてはなりません。と述べる。大義も糞もない、高坂氏だつて所詮、「パン」の事しか、「生命の維持」の事しか、考へてゐないのである。

平成十五年十二月三日
「ぶん」→「ふみ」(文)、「せん」→「ぜに」(錢)のやうな、漢語由來の「やまとことば」も結構あるので、漢語は簡單には排斥出來ない。表音主義者には出來るかのやうに安易に言ふ人間も多いが。
掲示板に亂入して呉れた「表音主義者」氏は撤退した模樣。掲示板、途端に寂れる。
平成十五年十二月三日
「反省會」への參加を希望する人はゐますか。
平成十五年十二月三日
プリンプリンて、妙にディテールの表現に凝つてゐて、何かアレでしたねー。この間觀た時は、おまはりさんが花屋のをばさんに免許證だの車檢證明書だの何だのの呈示を要求してゐましたが、何處が子供向けの人形劇だ。凩が吹いてゐる場面で、飛んでゐる新聞紙を棒で操つて、わざわざボンボンだかオサゲだかの顏に貼り附かせたり。下らない事をやつてゐました。良く觀てるな俺。
テーマもアレでしたねえ……NHK……。
平成十五年十二月三日
Operaで「スクロールバーのスタイルを有効にする」設定、いつから出來るやうになつてゐたのだつけ。
平成十五年十二月三日
今日は「現代の英雄」を。福田さん、こんな話も書くんだ。

平成十五年十二月二日
「あなたの前世チェック」を見に行つたら、畫面の左上で手裏劍がぐるぐる囘るだけなのですが、何だつたのでせうか。
↑とぼけないで下さい。
平成十五年十二月二日
電車で『総統いまだ死せず』を讀んでゐたら、なつかしい「ばんざーい」の人に遭遇。讀書の邪魔なので何とかしたかつたが、この手の人にアレすると世間的にナニらしいので我慢して置いた。調布で下車して呉れたので助かつた。
平成十五年十二月二日
お名前のローマ字表記について
平成十五年十二月二日
Repose space
Impulsive Mission
カトゆー家断絶
CSSでイケてるデザインサイトリンク集2(サムネイル版 - standard_s)
平成十五年十二月二日
南丘さん……。
平成十五年十二月二日
松井やより著『女たちのアジア』なんか試驗の題材にするなよ……。
平成十五年十二月二日
ちなみに『本居宣長』は挫折。
平成十五年十二月二日
明日は新宿驛西口に行かねばッ。
平成十五年十二月二日
月が變つたとか年が變るとか、そんな事をきつかけに、一々後悔したり反省したりしても、仕方がなからう。生から死へと移る時ですら、その手の事をするのは無意味である。所詮、自分自身を自分で評價する事くらゐ、ナンセンスな事はない。
良くであれ惡くであれ、自分を評價出來ると思ふ事は、それ自體、思ひ上がつた行爲である。人間が、自分であれ他人であれ、人間を評價するのは、本質的に不可能である。人は誰でも、人の一面を捉へて、その點を評價してゐるだけである。
平成十五年十二月二日
昭和二十九年二月十日發行ラングドン・ウォーナァ著壽岳文章譯『不滅の日本藝術』(朝日新聞社刊)を買つた。正字正かな。壽岳氏の事だから、新聞社相手にごねたのだらう。買つただけで讀まない事になりさう。

平成十五年十二月一日
京王の黄金パターンに嵌る。
ダイヤ改定+雨=列車の遲延。
「億萬長者夫人」を、乘る時讀み始めて、降りる時丁度讀み終へた。
平成十五年十二月一日
めも。他意ナシ。
原発なき先進国イタリアの悩み
原発なき先進国イタリアの悩み(その2)
平成十五年十二月一日
欲望の充足はそれ自體、何の價値も無い。
そもそも、欲への對處は、抑へるのが正しいやり方だ。欲望を本物なり代替物なりによつて充足させるとか滿足させるとかするのは間違つたやり方だ。なぜなら、完全に滿足する事は決して無いからだ。
抑壓は惡いが、節制は良い事だ。
平成十五年十二月一日
惡い藝術は、充足感を與へるやうで、却つて現實に不滿を生じさせるものである。
良い藝術は、無闇な幻想を人に與へたりはしない。
平成十五年十二月一日

僕は野嵜氏を、WEB上で影響力のある政治的弁舌家として高く評価しています。その意味で、政治的な批判をしたいと思っていたのです。

明らかに興味の範囲が食い違っていたようで、申し訳なかったと思っています。

「政治家がして當然の事」を書いたら、政治的弁舌家として高く評価されてしまひましたよ。
立候補でもしてみようかな。苦笑。
それは俺がパン以外の崇高な物にたいして真摯ではないということを意味しない。そりゃあ真面目にやってるつもりだ。すくなくともそうあろうとは思っている。なんて言つてゐるけれども、高橋が、好い加減で、「パンにしか興味がない」人間である事は明か。だから私は高橋を輕蔑してゐる。
と言ふか、俺は人はパンのみにて生くるにあらずと言つて、パンを食わないと死んでしまうとばかり言つてゐる高橋を非難したのだが、その高橋がパンが食えるか食えないかの次元でしか興味をもてない相手にパン以外の、たとえば意味や真理の問題について話してもしかたないので、パンの次元で正しいことを言っていればそれでいいや、ということ。等とぬかすのは、どう云ふ事だ。盜人猛々しいにも程がある。
平成十五年十二月一日
まあ、高橋なんて、仮名遣いひとつでハァハァできる人、等と人を誹謗して平氣な人間だからな。高橋は、他人を中傷するのは當然だと思つてゐるからな。
不健全なエロゲやミステリ=「退廃芸術」です。それをまさしく不健全を理由に制限してもいいと言っているのが野嵜氏です。
勝手な事を言つてゐやがる。不健全なエロゲやミステリ=「退廃芸術」と思つてゐるのは高橋自身だ。高橋は、「ナチスの退廃芸術展」の「退廃芸術」と、不健全なエロゲやミステリ=「退廃芸術」とを、同じ「退廃芸術」なる語句を使つてゐるからと言つて、同列に看做してゐるが、「変態性欲」と「昆虫の変態」とを「変態」と云ふ語句を使つてゐるからと言つて結び附けるやうなもので、高橋のやつてゐる事は單なる聯想ゲームに過ぎない。それで高橋自身は十分論理的な積りなのだが、高橋の不健全なエロゲやミステリ=「退廃芸術」なる聯想ゲームは氛圍氣だけの非難以外の何物でも無い。
貴方が読みなさい。
どこかの「表音主義者」と同じやうな事を言つてゐる。偉さうな口の利き方をする男だ。
  • 表現の道徳性健全性への政治的介入
  • 政治を法に優先する
  • 道徳や秩序などの全体性を個人の自由に優先する
「政治家がして當然の事」と言つてゐるのに、「野嵜が主張してゐる事」に話を歪曲してゐやがる。
高橋はデマゴーグである。他人を政治的に陷れる爲には嘘を吐いても當然だと思つてゐる人間である。高橋は、レーニン主義・スターリン主義の陷つた政治主義の誤に陷つてゐる。
まあ、高橋は、「道徳」と「徳目」との區別を附けられない一般的な日本人であるので、仕方がない事だ。
そんなリクツで人権を制限できるなら、憲法も自由もあったもんじゃない。
違憲である自衞隊が政治的理由で存在してゐる日本でそんな事を言つても無意味だと皮肉つたのだが、皮肉を皮肉と理解出來なかつたらしい。
高橋氏は、俺の豫想したよりも遙かに「うぶ」な人間であつたやうだ。この手の純粹な人間が政治に嵌ると、全くもつて恐ろしい。
そもそも市民革命とは、封建的な国家体制の元では自由に経済活動できない市民が声をあげて始めたものです。
革命を經濟で解釋する邊、高橋には共産主義の臭ひがぷんぷんする。そして、共産主義者が「市民革命」と言つても、實は市民革命でも何でもない事は、かのレーニン逹が起したロシア革命を見れば自明だ。
理想に燃える一人の政治家を民衆が法をないがしろにしてでも熱烈に支持することで成立するものです。
高橋は、「ファシズム」の定義として述べてゐるが、「コミュニズム」の定義としても通用する。
人は屡々、他人を非難するのに、自らを否定すべき文句で以つてするのである。
平成十五年十二月一日
もう一度書いておく。私は飽くまで、「政治家がやつて當然の事」を書いただけであつて、政治的な主張とは距離を置いてゐる。しかし、政治的な主張に淫してゐる高橋には、私も高橋と同じ態度をとつてゐるとしか見えなかつた。だから、私の事を高橋はファシストだと極附けるのだが、實は、高橋がコミュニストなのである。
コミュニストは、反對者を常にファシストと極附ける。
そして、注意すべきなのは、ファシズムの惡い點を非難するコミュニストは、その非難が自分に全て當嵌る事に氣附かない。しかし、ファシズムもコミュニズムも、國家を奉り上げるか、國民を奉り上げるかにしか違ひはないのであつて、結局のところ政治的自由を否定する獨裁主義であり、道徳的自由を否定する政治主義である事に變りはない。
平成十五年十二月一日
一言述べて置くが、政治的自由と、道徳的自由とは、根本的に概念が異る。
政治的自由に限界がある事を自覺するのは、道徳的自由を悟る爲には必要な條件である。もちろん必要にして十分な條件と云ふ訣ではない。もつとも、兩者の關係は、論理的な關係ではない。
論理的な假名遣を用ゐれば常に論理的な思考が可能となる譯ではないが、論理的に考へようとすれば必然的に論理的な假名遣に行き著く。政治的自由に限界がある事を自覺すれば常に道徳的自由を認識出來るやうになる訣ではないが、道徳的自由を悟つた時には既に政治的自由に限界がある事は判つてしまつてゐる筈である。
政治的自由の擴大とは結局のところ權利の擴大を意味する。權利の擴大とは望む事を實現出來る可能性の擴大を意味する。が、欲望は滿足する事が無いから、權利の擴大に對する要請も止まる事はないし、政治的自由の擴大は何時までも續けられる。が、そのやうな事は土臺、不可能であつて、なぜなら人間が住む世界は決して無限でないからだ。
逆に、現實の世界が有限の世界であり相對的の世界である事を意識して、始めて無限とか絶對的とかいつたイデアの觀念を理解出來る。そして、觀念の世界における自由を理解する事は、道徳的自由に對する直觀へ至る道である。
平成十五年十二月一日
抽象的な話をしても分る訣がないのであつて、上の甚だ抽象的な文章を讀んで理解出來る讀者がゐたら大變な事だ。
福田恆存の『西歐作家論』やシェイクスピア悲劇の解説等は参考になるだらう。と言つて、高橋がさう云ふ文章を眞面目に讀むやうな人間でない事は判り切つてゐるので、飽くまで「闇黒日記」の讀者に對して「讀む事を希望する」と述べるに留めて置く。高橋には期待しない。どうせ讀んでも解らうとしない人間には解らんものだし。
平成十五年十二月一日
と言ふか、俺を非難したければ「ファシスト」呼ばはりしないで「潔癖症は辛いわよ」とでも書けば良かつたのだ。
平成十五年十二月一日
あと、物凄くどうでも良いのですが、女の子に罵倒されたい高橋氏は、野嵜にではなくのあたんあやのたんに罵倒されてゐると妄想すれば少しは欲求不滿の解消になるのではないかと。
論爭相手に萌えて萌えて萌え捲つて、ついでに伺かのゴースト作つて貰へると助かる。
平成十五年十二月一日
十一月は赤字みたいなのだけれども、これ以上儉約出來ないくらゐ儉約してゐるので儉約しやうがなくて困つた。本とDVD-RAMは儉約の對象外。
平成十五年十二月一日
前にどこか(闇黒日記さんかな)で読んだ”日本とキリスト教国では罪と罰に対する考え方が違うから、刑務所の扱いも変えて考えなければならない”(大意)という話を思い出しました。
刑務所の話はした記憶がないのだけれども、いかにも私の言ひさうな言葉に見えるので、これからはさう言ふやうにしよう。
日本は所詮いいとこ取りと言うか”既存の状態に合わせて新しいものを取り込む”スタイルを取るので、あるもののみベタ輸入しようとするとやっぱり無理が出ると思うですよ。
と言ふか、良いとこ取りでも無理は出るのです。
文化が違ふ國の制度なり何なりを採入れると、思考の原理、精神の構造、信念、信條、宗教(以下略)のやうな精神的な文化のレヴェルからして完全に違ふので、目に見えるレヴェルの文明的なものを採入れても、どうしても運用方法に違ひが出るし、巧く扱へない事も多くなる。「良いとこ取り」でも、自國の文化と他所の文化との繼接ぎにしかならないので、結局、まともには運用出來ない。
だから、目に見える部分だけをどうかうしても仕方がない。目に見えない部分での理解を、何とかするしかない。が、その部分で違ふから文化が違ふのであつて、文化が違ふ限り、餘所の國の思考方法なり精神なりは血肉化し得ない。だから所詮皮相上滑りの理解で涙を呑んでやつて行くしかない。と漱石が言つてゐました。
平成十五年十二月一日
と言ふかさ、「赤いバックパックを背負つた18歳以上の娘」と言へば通る國なんだから、遵法的も糞もないだらう。
平成十五年十二月一日
みしゅらん。謎。
http://picnic.to/~kashmir/img/siamesetwin.jpg

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2003年11月(その3)
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