- (1) HTMLファイル (47KB)
- (見るだけ。印刷はできない。/表示は部分的にずれるところがある。)
- (ii)印刷の方法
- 原則として、印刷はできないが、次のいずれかの方法で、印刷することもできる。
- Internet Explorer で、メニューの「ファイル」→「印刷」を実行する。
- 手持ちのワープロソフトで、HTML形式のファイルを、そのワープロソフトの形式に、変換する。そのあと、印刷する。
恋も魔法もワープを使え!のま〜りんちゃん制作委員会 (C) 2001.もよろしく。OS/2、今のハードウェアでも動く筈なのだけれども、フロッピーディスク數十枚のFixPakを入れないと駄目らしいから以下略。
俺に言わせれば、貴方の回答は見事に全体主義的なのですが、そこに違和感を抱けない鈍感な人がこれから少しづつ増えていくのかもしれない。
ようするに、退廃芸術展そのものの善悪については考えるつもりがない。
こんなこと言ってる人が言ってる意見なんだよ、眉に唾つけて聞いたほうがいいよ、ということを(貴方にではなく)世間の人に訴えておけば、とりあえず俺のやることはもうないかな。
不真面目といわれることそれ自体は、僕はまったく何も困らないので、そこで話が食い違っているんじゃないかと……。とか言ふやうな人間だから。かう云ふ人間とはまともに議論出來る訣がない。
今ある法規制には、とりあえずあるんだから従わなきゃいけないだろうと思っています。
穏健な現状維持等とほざいてゐる奴は所詮、能天氣な極樂蜻蛉である。
真面目さや純粋さそのものには価値なんか無い ということを暴露したのが80年代だったと俺は思うのだけど。
野嵜氏の意見を僕は上手く読みとれていないのだけど、云々。
真面目さや純粋さそのものには価値なんか無い、と言ふのは、目に見えないものには價値が無いと云ふ事だ。(不眞面目さや不純さに價値を見出すのは、單なるアンチで、論ずる價値も無い)目に見えない物の価値を認めず、目に見えるものの價値だけを認める――これは即ち、人間自身が「目に見えるもの」の位置に降りて來る事を意味する。人間の「物化」である。この時、道徳は存在せず、正邪も存在しない。そこでの議論は、善惡なり、正邪なりの決定を意圖したものではあり得ず、單なる自己の都合を押通せるか否かの交渉になる。
最上級見出しはh1要素でなければらならい(原文のママ)と云ふテーゼは絶對であり、アプリオリに眞實なのだが。
絶対数字という矛盾の項だけは、混亂の原因がよく解る。見出しレヴェルと、カテゴリ分類とを混同してゐる。
HTML4.01にはレベル1から6までしか用意されていない為、便宜上、その中に収めなければならない。とあるが、實際上、六段階を遣ひ分ける必要のある場合はまづない。例へば、昔のはともかく、最近のWordでは、標準の畫面で指定出來る見出しのレヴェルは「1〜3」だつたりする訣で、Wordの作成者も見出しレヴェルはその程度で十分と判斷してゐるのだらう。もちろん、「見出し4」以上も、Wordには存在するが、ツールバー上のスタイルセレクトプルダウンメニューでは隠されてゐる。ただし、文書の構造を階層的に表現するアウトラインモードでは、レヴェルの變更で自動的に見出し4以上(以下?)のレヴェルも設定される。
今日學校にて伺ひしに御手飼の三毛あまた子を産み候よし勝れて容貌よき赤猫は御相續と仰せられたれば夫れは願ひも申上げまじ悉く白うて尾と頭とに少し黒き處ある男猫の候とや私寵愛の玉をば隣の犬に噛まれしより以來あれに似かよひたる白きものあらばと望み居りしに候まゝ御話し承りしより其猫のこと忘れがたう赤の他は他處へも御遣はし相成るべきやう仰せられしを嬉しくおしつけながら其猫が頂戴ねがひに出し候かならずかならず大事がり夜るも布團の上に寐かし申すべく旨き物たべさせて光澤よき毛色を御目にかくるやう致すべく候前に申したる隣の犬は早くに行がた分らず成りて此頃は心安きに御座候まゝ何とぞ御ゆるし下され度御結納のしるし計粗末の鰹節一袋親猫たべ料にと進じ參らせ候御願ひまで かしこ
ある種の宗教論争になりえますので、相手のお里に従っておくのが無難、 という感じですね。等とのんびり傍觀して好い加減なコメントを書いてゐる人もゐるが、これはこれで無責任だと言へよう。
セマンティックWebとは、内容に関する情報(メタデータ)をウェブページに持たせることでコンピュータがその内容を理解できるようにし、情報を自動的に処理させる技術。――と云ふ説明。全然違ふと思ふけれども。一度廣まつた誤りは容易に訂正されない、と云ふ事? 廣めてゐるのは例の某氏(誰)?
date1128
を記述してゐないので、見に行く人は適當にその邊の事を斟酌して良きに計らつて下さい。謎。セマンティックWebのコンセプトは、少なくともその起源においては「Webサイトの属性を、ただのHTMLではなくコンピュータが扱いやすい形で提供するための仕組みを考えよう」というものである。
Facilities to put machine-understandable data on the Web are becoming a high priority for many communities.とあるのを反映した記述であるらしい。しかし、W3Cの「Introduction」の文章は、
The Web can reach its full potential only if it becomes a place where data can be shared and processed by automated tools as well as by people.と續く。「人間が出來るのと同樣に、自動化ツールでもデータの共有と加工を出來るやうにする」事とW3Cの文章にはある。
実はBlogの流行によって使われるようになってきたRSS (RDF Site Summary)は、このセマンティックWebのコンセプトに因っている。と江島氏は言ふ。なるほど、ここまでは承認出來る。
しかし、果たしてメタデータの共通化、すなわちセマンティクス(意味)の標準化など可能なのだろうか?と書く。が、これは承認出來ない。
For the Web to scale, tomorrow's programs must be able to share and process data even when these programs have been designed totally independently.詰り「別々のプログラムであつてもデータを共有し、加工出來る事」がセマンティックウェブの條件であると言つてゐる。W3Cは、しつこく「データの共有と加工」と繰返してゐる。江島氏は「コンピュータがデータを扱ふ」と表現してゐるが、W3Cは「コンピュータのプログラムがデータを共有し加工出來る」と言つてゐる。プログラムは意味を理解しない。それで良いとW3Cは主張してゐる。
さて、こうしたメタデータをあらゆるWebパブリッシャーの間で共通化することで、膨大なWeb空間を串刺しにして検索できるようにしてやろうというのがTim Berners-Leeの野望である。と云ふ表現が間違ひである理由は、讀者にはもう御分りだらう。共通化されるべきは「メタデータ」ではなく「メタデータの形式」である。
しかし、果たしてメタデータの共通化、すなわちセマンティクス(意味)の標準化など可能なのだろうか?と云ふ疑問は、疑問以前の部分で間違つてゐる。誰も「意味の標準化」をしろ等と言つてゐない。「メタデータの形式」を、「共通化」ではなく、「共有可能」「加工可能」にする事である。
そして、コミュニティ内部の活性とエントロピーが高い場合、意味は受け手によってバラエティに富んだ解釈がなされる。
裏を返せば、解釈が一意に定まるような意味体系で満たされており、厳格に標準化され自動化されたコミュニティは、すでに人間性を失っている。と江島氏は述べるが、セマンティックウェブはそんなものを目指してゐない。W3Cは――と言ふより、ティム・バーナーズ・リーは――ただ、「多樣な意味を含むデータを相互に利用可能にせよ」と主張してゐるに過ぎない。
Tim Berners-Leeの目指す世界は、不変の価値を持つコンテンツ(=リソース)に一意に識別子を与えて検索もできてみんなハッピーということらしいが、そもそも個人または少数によって生み出される雑多なコンテンツをリソースであるとみなすスタンスがバランスが悪いと言わざるを得ない。リソースとは本来、「常識」のように時間をかけて醸成され洗練されたものである。(という前提をここでは置く。そう定義しなければ話が進まないからだ)
話が進まないのは當り前である。江島氏がティム・バーナーズ・リーによる「リソース」の定義を誤解してゐるからである。ティム・バーナーズ・リーはリソースを
不変の価値を持つコンテンツ等と定義してゐない。ただ、「不變の場所にあるコンテンツ」ならば便利だと言つてゐるに過ぎない。ティム・バーナーズ・リーは、コンテンツの意味する處のものについて、制約を加へようとしてゐない。
しかしリソースとイベントの極端な分離はコンテンツの質(コンテンツの最終消費者である人間にとっての受容性)を下げてしまうし、一方でリソース自体も生き物であるから、イベントとしてのコンテンツも時とともに古くなる。以下の江島氏の發想は、「とほほ」的と表現するのが適切だらうと思はれる。「とほほ」とは例のとほほさんである。
だからこそコンピュータによる検索が大事なのだ、と思ってしまう人は、たぶんここまでの論点をうまく消化できていないと思うので、一度「超整理法」(野口悠紀雄著)あたりをじっくり読んでみて欲しい。とあるが、野口氏がとほほのWWW入門の「信者」である事は示唆的である。
「諸惡の根源たる彼等を次囘の選擧で落選させやう」
リニューアル途中経過を報告中。
猫SFと言つたら「ドラえもん」が一番有名ではないかと。猫型ロボットだけれども。
しかし、ソフトベンダがこのままWebブラウザに依存し切っていていいのかという問題はある。WebアプリケーションのクライアントソフトとしてWebブラウザを使うことは、アプリケーションの一部を他社に委ねるということ。マイクロソフトが将来、Internet Explorerの仕様を大きく変更した場合、エンドユーザーがビジネス・アプリケーションを利用できなくリスクがある。
Webアプリケーションの操作を分かりやすくし生産性を挙げるため、Webブラウザでなく、より豊かな表現力や機能を持つ「リッチ・クライアント」の利用を模索する動きもある。代表的なのは、Macromedia Flashを使ったWebアプリケーション。Flashをクライアントとして利用することで、Webアプリケーションのインターフェイスが充実し、ユーザーの使い勝手が向上。生産性がアップし、アプリケーションの操作ミスが減少するというのがメリットのようだ。
アプリケーションの一部を他社に委ねるということに變りはないやうな氣が。
歴史学、言語学、人類学、美学など、多くの分野で価値がある訣だし。
「こんにちわ」、「こんばんわ」は現在では正式に使用が認められた日本語です。NHKのニュースで取り上げていましたよ。誤りと言われたのは昔の話です。
昔はウサギのことを1羽2羽と数えましたが最近は1頭2頭と数えます。
<!-- あ(文字ばけ対策) -->
なる愉快な記述を發見。日本に生活する多くの人の感ずることは、如何にもこの國の生活が窮屈で息づまるやうな苦しさを覺えしめることである。他人の小さな事が一々多くの人の話題となり、批評となり非難となり、人を自分の思ふ鑄型にはめなければ承知しないといふ傾向が、各自の心に根深く巣食つてゐる。人は政府当局を目して、官僚的であるとか劃一的であるとか云つて非難するが、人を一定の型にいれようといふ欲求は、實は國民自身の方に遺憾なく備はつてゐるのである。この事は國民の大きな弱點を物語つてゐないであらうか。人は容貌が異るやうに、思想が違ひ趣味が違ひ性格が違ふのである。又違はなければならないのである。もしそれが異つてゐないならば、それ丈その人逹は、人としての十分の成長を欠いてゐるのである。われわれの内、自分の思想や性格を獨自に發展させて來たものには、必ずこのことを痛切に感得するであらう。人を一定の鑄型にいれようとする國民、すべての人に個性を尊重しようといふ念の乏しい國民は、結局は自分に獨自の個性のない國民であり、それは人としての十分の自覺のない國民である。