闇黒日記

告知 「福田恆存を語る」会のお知らせ
『福田恆存を語る――沒後十年に向けて』
第一部 講演
講師
土屋道雄
谷田貝常夫
中村保男
第二部 朗讀「人間・この劇的なるもの」他
朗讀者
劇團昴 俳優 小山武宏
第三部 シンポジアム
パネリスト
中村保男
谷田貝常夫
土屋道雄
司會
佐藤松男
由紀草一
日時
平成15年11月18日(火)
開演
6:20 ※開場は30分前
料金
受講料 2000円
チケット御豫約・御問合せ
現代文化會議事務局 03-5261-2753(午後7:00〜午後10:00)
受講御希望の方は必ず事前に御電話で御豫約下さい

平成十五年十一月九日
ウェブログ@ことのは [weblog@kotonoha]: デザイナーがウェブの文字サイズを小さく固定したがる理由
blog of the Yeah! by Myblog japanなるものにノミネートされてゐるウェブログ@ことのは [weblog@kotonoha]から。
ウェブログ@ことのは [weblog@kotonoha]: お引っ越し〜も興味深い。手元のパソコンでページを作成してからFTPでアップロードするというのは手間がかかるが、バックアップは手元にあるというメリットがある。とあるけれども、うちがはてなだとか何だとかに移行しないで執拗に今の形態を保守してゐるのはそれが理由だ。
平成十五年十一月九日
選擧の日ですね。
このサイトを見てゐる人で、たかが選擧に行つたくらゐで神樣か御釋迦樣かになつたみたいに偉さうな顏をする人がゐたら、ちよつと嫌ひになつてしまふかも知れません。
平成十五年十一月九日

だがよ、この村はお可笑しな村でな。物を識つてたかつて誰れも云ふことを聞きはしねえのよ。どんな馬鹿でも錢さへ持つてゐりや、人が云ふことを聞いてくれるんだよ。だから俺は知慧を殖すより、錢を殖すことにしたんだよ。

平成十五年十一月九日
選擧つて義務なんですか?
政治に参加する義務を果たしてから政治に参加する権利を行使すべきと云ふ主張は、一體何が根據になつてゐるのですか。法律とか憲法とかに、そのやうな規定があるのですか。
私は、合理的な意見には從ひますけれども、何の根據もない通念や迷信の類には從ひません。
現在の日本では、選擧で棄權する事は正當な權利です。正當な權利を行使する事を根據なしに非難されても困ります。
別に「選擧では棄權すべきでない」と云ふ主張をするのは勝手です。が、さう云ふ主張をする人は、棄權する人間を嘲笑するよりも、もつとほかにすべき事があるのではないですか。別に私は違法行爲をして等ゐないのですし、大體、違法でも何でもない事を恰も惡い事であるかのやうに言ふ人の方こそ、法律や立法者の事を輕んじてゐるのではないですか。

平成十五年十一月八日
京王線橋本驛の改札口のところにある「発車案内」に「故障」と紙が貼られてゐたので覗き込んだら、Windowsの畫面が映つてゐました。なんとか.dllがロードできないだか何だかのエラーが出てました。
あれ、電光掲示板ではなかつたんですねー。ただの液晶畫面に「それつぽい」デザインのされたWindowsアプリケーションを寫してゐたんですねー。
ちなみにプラットフォームの案内表示器は、Windowsアプリではない模樣。
平成十五年十一月八日
意図・動機ではなく、主張が法的に正しいかどうかが問題なのではないでしょうか。
公明党云々の喩へを御讀みいただけたのでせうか。或は、私が何に反對してゐると言つたか、Takahashiさんはわかつていらつしやらないのですか。
争点を法律の問題にしぼらないことにはどうにもならないからです。
それは、動機を匿すのが目的でせう?
平成十五年十一月八日
貴方はなぜ曖昧な態度を取る必要があるのですか?
私は曖昧な態度をとつてゐません。「もつと詳しく説明して呉れ」と言つてゐるだけです。それが「曖昧」だなどと非難されては困ります。こちらは、わからんからわからんと言つてゐるだけです。「逆切れ」はよして下さい。
平成十五年十一月八日
一切否定するつもりはありませんが?
何をあなたはしたいのですか?
否定する積りがないのなら、何を向きになつて反論してゐるのですか。
平成十五年十一月八日
僕は、道徳的にいかに間違ってようが、いかに倒錯的快楽に満ちていようが、それだけで表現を規制されるべきではないという主張を持っています。
ならば、その理由を書けば良いのではないですか? どうしてしないでも良い「揚げ足取り」をしますか?
平成十五年十一月八日
Takahashi氏は、もうちよつといろいろエロ漫畫を讀んだ方が良いのではないかと。エロ漫畫には(以下略)。
平成十五年十一月八日
http://www.miyadai.com/texts/014.php
宮台がどうかしましたか?
平成十五年十一月八日
書きたいからですよ。読みたいからでもある。
意味不明ですね。後述。
平成十五年十一月八日
道徳的に正しいことしかやっちゃいけないのですか?
やりたければ何でも勝手にすれば良いと私は書きましたが。違法だらうが何だらうが、本當にやりたい事ならやればよろしい。道徳と法律とは區別すべきだと云ふ點では、Takahashi氏も私も意見は一致してゐる筈ですが。
平成十五年十一月八日
性的な問題と結婚の問題は連続しているし、結婚制度の問題と社会的問題は連続してますね。
セックスと結婚とは連續してゐますが、セックス即結婚ではありませんね。
結婚制度の問題と社會的問題とが連續してゐると云ふのは、何が何やらさつぱりわかりませんが。
連續してゐる事は單なる事實であり、繋がつてゐるものを區別する事は判斷です。
恣意的に切り分ける見方のほうがおかしい。
などとTakahashi氏は言ひますが、普通の人間は、物事を區別するもので、意圖的に(或は、自分に都合良く)何でもかんでも「連續」させて見せる方がどうかしてゐます。
まあ、世間では、風が吹く事と、桶屋が儲かる事との間にすら、連續を見出す人がゐるやうですが。
平成十五年十一月八日
僕は「児童ポルノ法改悪反対に反対」に反対するのではなく(いや、反対はするけれど)、「児童ポルノ法改悪反対に反対」する貴方の言説を批判しているのです。
私の言説を批判したいのか、主張が法的に正しいかどうかを議論したいのか、どつちなのですか。はつきりして下さい。片つ端から適當に揚げ足をとつても仕方がないのではないですか。
大體、批判にもなつてゐない揚げ足取りをしておいて、批判だ批判だと言張るのはどうか(してゐる)と思ひます。批判なら批判らしく、筋の通つた批判をして貰ひたいものです。Takahashi氏は、ただ難癖をつけるだけで、私の論理の流れを斷ち切る本質的な批判を何一つしてゐません。
平成十五年十一月八日
で、それとエロ漫画がどう違うのか、と問うているのですが。同じだといっているのです。
ミステリの作家は殺人を推奬してゐない、大體は犯人が捕まる「勸善懲惡」だ、と言つてゐる。エロ漫畫は、レイプだの何だのを推奬してゐないとTakahashiさんは誓つて言へますか。
同時に、ミステリの事を私は不健全な文藝ジャンルであると評してゐますが、その理由は既に述べました。
もともと日本のミステリは乱歩以来エログロの世界と密接に関係している。勧善懲悪でないいかがわしいミステリは規制されるべきなのですか?
文脈を讀めば判る筈だが。讀者に殺人を推奬するやうな「ミステリ」なるものがあつたら、發禁處分を喰らつても當然だ。その程度の事しか私は言つてゐない。
と言ふか、Takahashiさんは、エロ漫畫とミステリの何が同じだと言つてゐるのですか。ただ、「同じやうに退嬰的な事を扱つてゐる」と云ふだけで「同じ」と言張つてゐるのではないですか。ならば、「犯罪」に關係してゐるから、警察と泥棒は「同じ」ですか。行爲者の態度が違へば、同じやうなものを扱つてゐても「同じ」とは單純に言へません。その邊、Takahashi氏は非常に單純な事を言つてゐます。
平成十五年十一月八日
法的に許される表現の中にも、道徳的にいかがわしいものはいっぱいあるでしょうに。
さう云ふ表現はとても魅力的で、何うあつても守らなければならないと。はあ。
もちろん非合法でも魅力的ですよ。法に沿ってるかどうかは魅力を語る上ではどうでもいいことです。
ここが私とTakahashiさんとの見解の異るところですね。
法と云ふ「枠」がありますね。この「枠」を「はみ出す」事は、「はみ出さない」事よりも、Takahashiさん、あなたの説では、「より魅力的」であるのではないですか。
私も、退嬰的な趣味の人にとつて、違法である事は合法である事よりも「より魅力的」になると、認めますよ。なぜなら、法の制約と云ふ抵抗があるからです。そして、違法である事による抵抗感を覺える事と退嬰的な魅力との間に「板挟み」になつて葛藤する事の方が、合法的で抵抗を覺える必要のない或種の「魅力」に安易に觸れられる事よりも、より道徳的であると言ひたい訣です。
平成十五年十一月八日
「大概」に入らないものを描きたい人はどうすりゃいいんですか。
そんな變態は放つておけば良いのではないかとすら思ひますが、描きたければ描いてとつつかまれば良いでせう。
どこまでがOKでどこまでがNGか明確でないのも困る。
だからと言つて、恣意的に範圍を擴張するのはもつと困る。
エロ漫画では時々逮捕者も出ていますので、「あってなきが如きもの」というのは楽観的過ぎます。
あの手のエロ漫畫を描く人間が逮捕されるのは、當り前の社會だと思ひます。いやらしい繪が大手を譜つて罷り通る社會は、不健全です。
D.H.ロレンスはエロスを人間の本性と結び附け、有機的な思想體系を作り上げました。『チャタレイ夫人の戀人』を書いたロレンスは、『默示録論』を書いたロレンスでもあります。ただ「書きたいから」「讀みたいから」と言つたレヴェルの發想は、ロレンスは持つてゐませんでした。ロレンスのエロスに關する觀念は、もつと切實なものでした。今の「エロ絵師」に、ロレンスのやうなちやんとした人間觀、世界觀がありますか。ありません。ならば逮捕されて發禁處分をくらつても、何の問題もありません。
ロレンスの『アメリカ文學論』にあるE.A.ポー批判は、非道徳的な「藝術」に對する本質的な批判です。一讀をおすすめします。
平成十五年十一月八日
正しくなってねえよ、というのが反対派の意見なのですから、
ならば「より正しい」代替案の一つも出したら何うかと。「反対派」の主張は曖昧だと何度言へば(略)。
もつとも、「反対派」であるTakahashi氏は、單に規制を全てなくせとしか言つてゐない訣で。改正も改惡もない、とにかく自分たちのやつてゐる事は完全に放任しろと、どんなに非道い繪であつても規制するなと、さう言つてゐる訣で。Takahashi氏にしてみれば、「正しい改正」は、法の完全な廢止以外の何ものでもない訣で。どこまでがOKでどこまでがNGか明確でないのも困る。と言ふけれども、要は「全部OK」にしろとTakahashi氏は言つてゐる訣で。
それは蟲が良過ぎるだらう。
平成十五年十一月八日
語るに落ちたと言ふか何と言ふか。
書きたいからですよ。読みたいからでもある。
道徳的に正しいことしかやっちゃいけないのですか?
結局のところ「言論の自由」なのだ。結局、私の言つた通りなのだ。
權利權利と言へば事足りるのであれば、矛盾だらけの惡口でも單なる揚げ足取りでも言ひ放題ですね。
平成十五年十一月八日
大體、或法律が人權を侵害する法律であるのならば、違憲だから、それで訴へられても最高裁で確實に勝てます。
平成十五年十一月八日
なんか、私及び江洲さんを相手に日記で論爭をしてゐて、「長くなつたから」と言つて自分の文章を日記から別の文書に移動した例が、以前にもありましたね。
反論3 @ [ ■ Takahashi's Web -diary- ■ ]
平成十五年十一月八日
普段からその手の事を書いてばつかりゐるから正常な感覺を失ふんだらうなとか嫌みを言つてみたり。
■ Takahashi's Web -Profile- ■
平成十五年十一月八日
風俗關係の人間が最近は大きな顔をしてTVに出てゐたりするけれども、やつぱり「裏」の世界の人間は「表」に出てきてはいけないと思ふ。
その邊の區別は、人間社會なら、大事な事だらう。光強ければ影もまた濃し。光も影もはつきりしない「黄昏」の社會は、斷じて好ましいものではない。
「裏」の世界の「常識」を「表」の世界に持込んで、世の中を變へてやらう等と考へるのはもつてのほかだ。思ひ上りも良いところだ。
「表」の世界が消滅したら、「裏」の世界の常識は單なる世界の常識となり、魅力を喪ふ。區別はあつた方が良いのだ。違ふ世界のものだからこそ、自分とは縁のないものだからこそ、魅力を感ずる、と云ふものが、この世には存在する。それが御馴染みのものとなつたら、魅力は激減する、と云ふものがあるのである。
平成十五年十一月八日
つづき。
平成十五年十一月八日
貴方の意図や動機ではなく、そのために貴方が何を言ったかを問題にしているのです。貴方が何に反対していようが、とりあえず関係ない。
私こそ、先にあなたの意圖や動機を問題にしてゐるのです。そしてあなたが「法的問題」とばかり言つてゐる事を疑つてゐるのです。
平成十五年十一月八日
少なくとも、僕は隠してませんよ。過激で反道徳的なポルノを書きたいし読みたいのです。それを法律の言葉で言おうとすれば、「表現の自由」を使うことになる。
ならば、私が最初に指摘し、あなたが引用から削除した文言が正しかつた事が證明されるだけだ。
とにかく「言論の自由」を冒すから「反対」と云ふ、甚だ觀念的な「反対」が多いやうに見受けられる。
平成十五年十一月八日
僕にとっては、貴方がどうでもいい些細な揚げ足だと思っているところは、もし法律議論のつもりで言っているのなら看過出来ないのですが。
法律議論なるものは、あなたがしたいだけの事でせう。高橋さんに都合良く私の主張を歪めるのは、やめていただきたけますか。
平成十五年十一月八日
ですから、エロ漫画(の少なくとも一部)が反道徳的であることには異論ありませんよ。
ですから、ミステリ(の少なくとも一部)が反道徳的であることには異論ありませんよ。
平成十五年十一月八日

びみょーな言い回しですが、それは「宮台だからとるにあたらない」といっているのか、「この記述がどう絡んでくるのか分からない」というのか、どっちですか?

先に挙げた宮台氏の記事は、児童ポルノ法案改悪反対の根拠を綺麗にまとめてあると思うのですが。これ以上うまくは俺には書けないなあ。

あなたの日記へのつつこみに「小林秀雄」云々と云ふ揶揄があつたので、眞似しただけですが。レトリックとして御理解いただけなかつたのは、非常に殘念です。一往私も、自分の日記の讀者の爲に、詰らない文章の合間に少しでも樂しめるやうな文言を紛れ込ませる努力をしてゐるのです。
宮台の記事は、ただ纏まつてゐるだけで、あなたやその他の「反対派」の方々から突出して論理的に仕立てられてゐる譯でもなく、すぐれて説得力を持つものでもありません。むしろ、私の日記の主張以上に、つつこみどころ満載です。
どちらかと言へば、そんな駄目な宮台の主張のどこを高橋さんが評價するのか、興味があります。
平成十五年十一月八日
それで、ただ反道徳的だというだけで法的な規制をかけるべきではない、と僕は思っているわけです。ここが貴方と食い違っている。人には反道徳的な生き方をする権利もある。
「反道徳的」に生きたければ勝手にすれば良いが、それは社會の秩序なり公共の福祉なりに牴觸しないのですか。牴觸する可能性があるのならば、政府は法的に規制しなければならないと考へて當然ではないですか。政府には社會の秩序を守る仕事がある。
平成十五年十一月八日
もちろん、法的に正しいかを議論しているのですよ。
あなたは以前、斯う書きました。

前から思っていたのですが、彼はちょっと揚げ足がとりやすすぎるんです。

むしろとってほしげに足を投げ出しているので、一回くらいはとってみようかと。

とられたら論理として成り立たなくなる類の揚げ足は、誰かがとってあげないと。

もちろん、理窟の上では「法律議論の揚げ足取り」ともとれます。しかし、あなたも文章を書いて飯を食つてゐる人間でせう。ならば、このやうな文章が、客觀的に批判をしたいと云ふ意圖だけを表明したものでない事、あなたが私を嘲笑してゐる事の表明でもある事は、認めざるを得ないでせう。
もし法律的な側面だけを純粋に論じたいとあなたが思つてゐたのならば、このやうな揶揄するやうな表現をあなたは採らなかつたはずです。なのに、あなたは「法律議論」をしたいだけだと言張ります。そんなの、言ひ譯にしか見えませんよ。だからあなたの動機や意圖を私は問題にするのです。
今まで、反體制派や「反道徳」的な人の文章をいろいろ見て來ましたが、どれも動機や意圖が怪しいとしか思はれないやうなものばかりでしたし、手段はそれ以上に怪しいものばかりでしたので、言ひ譯されても信じない事にしてゐるのです。
平成十五年十一月八日
野嵜さんの道徳観や政治思想に関しては、間違いなく大嫌いな部類には入りますが、勝手にどうぞ、としか思いませんので、それを「論理の流れ」「筋」だと言いたいのであれば、そこに文句をつける積もりはそもそもありません。
私は、高橋さんの道徳観や政治思想が大嫌ひですが、そこに論理の流れも筋もない事に文句を附けてゐるのです。その上で、高橋さんが「法律議論」の場面だけで論理の流れなり筋なりを附けて見せても、そんなもの信用出來るかと。公明党が、創価学会の爲の政党であるのならば、御立派なマニフェストなり公約なりを掲げても信用出來ないのと一緒です。
平成十五年十一月八日
大家の作品だと、云々。
あなたが私にその邊の講釋をする意味はありません。私の下した結論が正しい事には變りがありませんから。
ミステリの講釋をする際の調子を見る限り、高橋氏が純粋に「法律議論」だの客觀的な野嵜批判だのをする積りがない事は明かです。
平成十五年十一月八日

さて、どの辺からが野嵜さんの考える法的に妥当な規制対象なんですか?

そもそも犯人に対して道徳的批判が為されるミステリなんて、ひどく少ないように思うのですが。

何度とぼければ氣が濟むのですか。
讀者に殺人を推奬するやうな「ミステリ」なるものがあつたら、發禁處分を喰らつても當然だ。その程度の事しか私は言つてゐない。
と私は書いてゐるでせう。あなたはその文章を引用しないが、どうして引用しないのですか。さて、どの辺から云々と、しなくても良い非難をするのに、都合が惡いからではないですか。
高橋さん、あなたはただ、私を馬鹿に見せかけたいのでせう。それなのにあなたは「法律議論」「法律議論」と言張つてゐる。それは不誠實だ、と私は批判してゐるのです。が、その邊の批判を受けても全然反省しないのが、反體制派や「反道徳」派に一般に見られる事で、やはり根本的にその手の連中はをかしいのです。
平成十五年十一月八日

僕の場合、法律はあまり関係ないですね。違法だというだけでは、単に違法だということに過ぎないので。

もちろんたいていの法律は道徳や社会正義に沿っているので、犯罪行為が背徳的な魅力を持っていることは多いですが。

僕の場合、とおつしやいますが、では、あなた以外の場合、世間一般ではどうなのですか。世間一般の全ての人が、あなたと同じやうに感じると、あなたは斷言出來ますか。もし、さうではない、あなたと同じやうに感じない人がゐる可能性もある、と言ふのなら、あなた以外の全ての日本人も對象とする法律の制定には、非常に重要なファクターとして考慮するに値する、と云ふ事になるのではないですか。
「法律議論」だけをしたいのならば、僕の場合に逃げ込むのは、やめてください。
平成十五年十一月八日

あの手のエロ漫畫を描く人間が逮捕されるのは、當り前の社會だと思ひます。

つまり、ここにだけ真剣に反対です。

私の言つた通りです。
「法律議論」云々と言ふ高橋氏の言ひ譯が、言ひ譯に過ぎない所以です。
平成十五年十一月八日
あとはまあ、もう個人の思想の話になっちゃうので、俺はそういうのは大嫌いですが、どうぞ野嵜さんは己が信じる健全な文化と芸術と社会を追求してください。
追求すれば當然、「法律に據る規制も容認する」と云ふ結論が出るのですが、どうしてさう云ふ結論を私が下すのを、高橋氏は批判するのですか。
自由と言ふ割に、高橋氏や、反體制派、「反道徳」派の人は、法律によつて規制する事に「自由」を認めないんですね。自分だけが自由であれば良い、と考へてゐるやうにしか見えません。高橋氏に御訊きしますが、高橋氏のやうに全ての人が「自由奔放」に生きようとした場合、社會は存續可能ですか。もし不可能だとしたら、或は、不可能となる可能性があるとしたら(變な言ひ方ですねー)、政府が社會の存續の爲に或種の「自由」を規制しようとするのは、「必要悪」かも知れませんが、とにかく必要なのではないですか。どんなに非難されようが、社會なり國家なりを維持し續ける事のみが政府のすべき最低の仕事で、それ以上の仕事をするのは餘裕がある時だけです。憲法が人權の尊重を謳はうが、いざとなれば憲法は紙切れとなり得ます。行着く所まで行着けば、國家の目的から考へて、國家は人權の尊重よりも國全體の維持を優先すべきだと判斷するものではないですか。
高橋氏やその他の「反道徳」派の人々、反體制派の人々は、自分逹の都合を優先してゐますが、國家の側にも都合がある、と云ふ事を私は無視する積りはありません。
平成十五年十一月八日
私の結論。
どんなに規制されようが讓れない理想――それだけにしか價値はありませんし、さう云ふ事に關する議論しか私は眞劍にしたいと思ひません。エロ表現等、どうでも良い事です。人はSEXのみで生きるにあらず。
平成十五年十一月八日
あと、良くわかつて、今後の反省としたい事。
比喩を使つて説明すると、大概そこでごねられる。
平成十五年十一月八日
日本人が外國で下品なパフォーマンスを良くやらかして、怒られてゐますが、怒られて當然です。
平成十五年十一月八日
小松英雄『いろはうた』(中公新書)がとんでもない惡書。

仮名づかいを制定する真の目的は、表記を社会的に固定するところにある。したがって、大切なのは、一語一語の綴りを確定することである。定家仮名遣いは、その目的を、かなり理想に近いところまで実現していた。したがって、契沖による復古的な仮名づかいの提唱は、事態に混乱を招く破壊的な雑音でしかありえなかった。

「はじめに」で小松は、かう書いてゐる。

国語政策の質を高めるためには、まず、それを受け入れるがわの意識を高めなければならない。おかみから与えられたものをなんとか消化しようと、ただ懸命に努力したり、その与えられたものを与えるために、おかみにいっそう詳しい指示を要求したりという姿勢を改めて、それがどうあるべきかについての意見を、ひとりひとりが持つように心がけたいものである。国語政策においても、衆愚政治は拒否されなければならない。

この二つの文章は、明かに矛盾してゐる。
小松は、規範としての表記を、理論的に改善しようとするのは良い事だと考へてゐるのか、一度決つた規範を改變しようとするのは許されないと考へてゐるのか。どうやら、現実的な理由から、小松は規範をどうかうしようと考へる事はそれ自體、許し難いものだと信じてゐるらしい。だから小松は、定家假名遣の後に出現した復古假名遣を、口を極めて罵つてゐる。
定家假名遣を支持したのと同じ理由で、小松は戰後の国語改革を支持してゐる。戰後の国語政策について考へる際、「批判的精神」を持つやう小松は讀者にすすめてゐる。しかし、本書の末尾の邊を讀むと、小松は国語改革が不十分であると云ふ理由で不滿を覺えてゐるのであり、論理的な批判は許せないと信じてゐる事がわかる。ならば、おかみがどうのかうのと云ふ「はじめに」の小松の言葉は嘘なのである。
平成十五年十一月八日
http://www2.osk.3web.ne.jp/~naokikun/diary19.htm
なんか物別れにして勝ち負けは決めないやうにしたいらしい。
平成十五年十一月八日
なぜエロいもん書けなくなったら困る等と云ふ發想が出て來るのか全然わからない。書きたければ勝手に書いて、とつ捕まれば良いだらうと言つた筈だ。
エロいもん書けなくなったら困る、と言ふのは勝手だが、なぜそこから主張をどう通すかというきわめて実際的具体的な目的のための戦術として法律を何う斯うしようと云ふ發想が出てくるのか全然わからない。既に述べた通り、「法律なんていざとなつたら紙切れ」だと私は述べてゐるのであり、それなのにどうしてわざわざ反對などするのか、そんな事をするのは無意味ではないか、と私は言つてゐる。それに對して、高橋氏は全然答へようとしない。
端的に言へば、なぜそんなに法律の有效性を信じられるのかと。なぜそんなに法律なるものを恐れるのかと。法律はそんなに偉いのかと。さう私は言つてゐる。
その邊の考察も反省も「反対派」にはない。それで良いのかと私は言つてゐる。
平成十五年十一月八日
既存の道徳を踏み越えたところにも描くべき真実、人間の可能性はある。それを追求するのも芸術や文学の役目です。
「エロ絵」は藝術ではない。エロゲも藝術ではない。藝術でも何でもないものを藝術の仲間にする理由はない。
藝術でも何でもないものなのだから、規制されても全然問題は無い。
また、既存の道徳を踏越えなければ、描くべき眞實や人間の可能性は描けない、などと云ふ事はない。シェイクスピアは、既存の道徳の範圍内で戯曲を書いたが、描くべき眞實も人間の可能性もきちんと捉へてゐる。
平成十五年十一月八日
ポルノ規制が本当に社会の秩序を強化することに繋がるのか?
「絶對に繋がらない」と云ふ證據は出せますか。ただ疑問を呈するだけでは何にもならない。大體、ポルノを規制しない事で、現在以上に社會の秩序が保たれる、と云ふ保證は何處にありますか。
繋がったとして、社会の秩序を強化するために表現の自由を制限することは許されるのか?
「許されない」「許されない」と連呼して、それで話が通る事は、果して良い事か。
憲法によれば、公共の福祉は、時として個人の人權に優先する事になつてゐます。
許されたとして、児童ポルノ法案の保護法益とは食い違っていないか?
食ひ違つたところで、結果として世の爲人の爲になるのならば良いのではないか。
そもそも私は鉤括弧附きで「児童ポルノ法改悪反対」と書いてゐる。具體的に児童ポルノ法について論じてゐる訣ではなく、その手の法案やら何やらに反對してゐる連中の傾向について論じてゐる。
平成十五年十一月八日
乱歩はアウト、正史も微妙、新本格もアウトが多いと思う。ハードボイルドもダメだし、ピカレスクロマンの類は全部ダメ。スパイ物もダメ。やくざ映画とかもダメかな。
いづれも作者は 讀者に殺人を推奬等してゐないと思ふが。「こつちの世界」とは違ふ「あつちの世界」の事として、いづれの作者も意識して書いてゐる筈だが。
そもそも、具體的に個々の作品に當つて論じないで、ハードボイルドだのピカレスクロマンだのと云ふジャンルで括つて論ずる事自體が抽象的だ。
亂歩の作品は、檢閲制度のあつた戰前、何度も色々な處分を受けてゐる。主にエロ描寫の部分で、伏せ字にされた事が何度もある。
平成十五年十一月八日
俺のどのような態度のことをさして俺のようにと言ってるのか分かりませんが、普通に可能なんじゃないですか?
私は不可能だと思ひます。と言ふか、じゃないですか等と質問されても困る。
平成十五年十一月八日
というか、たかがエロ漫画に国家の存亡が掛かってるとはちょっと思えないなあ。
たかがエロ漫画等と言へるのなら、別に規制されたつて構はないだらうに、と、さう言つてゐるだけなのだが。
そのたかがエロ漫画を高橋氏竝びにその手の「反対派」諸氏はなぜ「守らなければならない」と主張するのか。私は「必然性のない事をなぜ執拗に主張するのか」と疑問を呈した。それに對して高橋氏からは結局、納得の出來る説明を受ける事が出來なかつた。
それだけの話だ。
平成十五年十一月八日
「退廃芸術展」の評価
あれが批判されるのは、排斥された芸術が実際には優れていたからなのか、それとも、どんな退廃的作品であれ、退廃的であるという理由で国家権力がそれを排斥するようなことをしてはいけない、というところまで踏み込むものなのか、どちらで解釈するのが一般的なのだろうか。
文章が何だか變で、意味がよく理解出來ない。
主語が何で、それに接續する述語は何か。
「それとも」で並置されてゐるのは何と何か。
「どちら」の指示する語はどれか。
「〜なのか」と云ふ疑問文が解釈である筈はない。解釋は、「〜は〜である(だらう)」と云ふ言ひ方でしかあり得ない。
あれが批判されるのは、排斥された芸術が実際には優れていたからなのか――「退廃芸術と呼ばれたものは、実際には優れていたから排斥されたのである」と云ふ「解釈」は正しい解釋ではない。「優れてゐないと判斷されたから排斥される」事はあり得るが、「優れてゐるものだから排斥される」と云ふ事はあり得ない。排斥するには理由が必要だが、その理由は事實ではなく價値判斷による筈である。その邊の事を好い加減に考へるのは、知的怠惰である。
平成十五年十一月八日
ポルノ表現はそれ自体でもう美であり芸術なんだから、他に何もいらないんだよ。いや、あってもいいけどさ。
たしかに改めて言うまでもない事で、そもそもどつちでも良いのならば言はなければならないと云ふ必然性はない。
大體、ポルノは美でもなければ藝術でもない。當り前の話だ。エロはエロだ。ポルノ作品に藝術的な價値がある場合、それがポルノだから藝術である訣ではない。ポルノ的ならざる部分に藝術的な價値があるから、それがポルノであつても藝術的な價値があるとされるに過ぎない。ポルノはそれ自體、藝術的價値はゼロである。
平成十五年十一月八日
一往書いておくけれども、私は今囘、高橋氏を呼び捨てにしてゐません。
平成十五年十一月八日
法律如きで騷ぐなと。日本では、法律なんぞより、「世論」の方が恐い。輿論ではなくて「世論」、と書いておく。感情的な判斷が世の中を支配した時の方が、獨裁者による強權的な支配の行はれた時よりもよつぽど厄介だ。
「児童ポルノ法改悪反対」派の人も、反體制派も、「反道徳的」な人も、たかだか法律如きしか非難せず、「世論」には決して抗しない。だから私は「生ぬるい」と言つてゐる。
内閣が「尊重されるべきだ」と言つてゐるにもかかはらず、世間から尊重されてゐないものだつてあるんだからさ。

平成十五年十一月七日
備忘録031101-30/趣味のWebデザインの11月5日の邊
なんかまだあのスタイルシート(「言葉 言葉 言葉」スタイルシートギャラリー:ALLNET最終版)によるレンダリング結果が「見やすいスタイル」の例として紹介されてゐる。好い加減、もつと良いスタイルが出現しても良いと思ふのだけれども。
と言ふか、あれのCSSの記述は今一つ駄目なので、誰か、書直して、當方に送りつけて下さいませんか。
平成十五年十一月七日
フォントサイズの絶對指定は、ユーザCSSなしではウザイ場合があり得るので、反則だと思つた。
平成十五年十一月七日
恣意的な引用、または誤讀、または擧げ足取り 2003-11-07 @ [ ひとりごちる 2003年11月(上旬) ]經由で、http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20031105#p2。これによれば、「児童ポルノ法改悪反対」の人は一般に、「児童ポルノ法」に反對なのは飽くまで法的な問題があるからだ、と主張してゐるらしい。
もし「一般」ではなく、NaokiTakahashi氏だけが「法的な問題」を理由に同法に反對してゐるのだとしたら、「私の文章は一般に對する批判としては有效である」「一般的には正しい」そして「NaokiTakahashi氏の主張に對する批判としてのみ正しくない」と云ふ事になつてしまふ。しかし、NaokiTakahashi氏は「一般的に野嵜の意見は間違ひである」として私(野嵜)を批判してゐる筈で(さうでなければ、反論する意味がない)、ならば「『法的な問題』のみを『児童ポルノ法改悪反対』派の人は問題にしてゐる」とNaokiTakahashi氏は主張してゐるのである。が、それは事實として正しいか。當然ながら、正しくない。「法的な問題があるから批判する」と云ふのなら、「児童ポルノ法」の改定には、冷静かつ客觀的に批判すれば良いだけの話であつて、第三者をして感情的な反感を持たせしめるやうな説明の仕方をしたり煽り文句を使つたりする必要はない。そもそも、怒る必要がない。が、實際に「児童ポルノ法改悪反対」を唱へる人々の各文章は、大概、必要以上に感情的だ。みな、切迫した状況であるかのやうに言つて、讀者の危機感を煽り立てる。しかし、それこそが「児童ポルノ法改悪反対」派の意圖を自ら暴露してゐるのだ。
當方に對するNaokiTakahashi氏の批判は、批判になつてゐない部分がかなり多い。道徳倫理のことを言っているのか、社会正義のことを言っているのか、法的なことを言っているのか、あいまいです。とTakahashi氏は批判するが、なぜ當方が批判されなければならないのか、全くわからない。あいまいな主張をしてゐるのは「児童ポルノ法改悪反対」派の方で、だからその邊をきちんと説明して呉れと、こちらが「要求」してゐるのである。曖昧なのはTakahashiさん、あなた達の方なのであつて、私が質問でその邊の事を曖昧に書いてゐるとしても、その原因は飽くまであなた達の側にあるのだ、と云ふ事を忘れて貰つては困る。
殺人が倒錯的快楽として描かれているミステリも多いと思いますが。なる指摘は「エロを倒錯的快楽として描いてゐる『絵師』も多い」と云ふ主張を補強する材料にしかならない。これではTakahashiさん、「児童ポルノ法改悪反対」派の擁護になりません。却つて「児童ポルノ法改悪反対」派の立場を惡くしてしまひます。何と言ふか、譬喩に引つ掛かつて、議論の本筋を忘れた非難に走るのは、拙いです。
非難されてもいいということと表現を規制されてもいいということとは別ですし、レイプについて倫理的に追求すべきではないなどと主張しているエロ漫画家は、そんなにいないと思うのですが。にしても、もうちょっといろいろミステリを読んだほうがいいのではないかと。ミステリには社会派も新本格派もメタミステリもアンチミステリもあるし、ハウダニット、ホワイダニットものもあるわけで。ミステリ等の語句を適當に置換へれば、Takahashi氏に對する批判として通用してしまふでせう。

閲覽者をしてその手の行爲に對する抵抗感を覺える事を失はしめるやうな繪に關しては、法によつて公開を制限するのも當然だらう。大雜把な言ひ方をすれば、「個人の自由」よりも「公共の福祉」を優先するのが、爲政者にとつては當然の事だからである。

その主張自体に反対ですが、それを認めたとしても、問題があります。

それを認めない場合の反対の理由をこそ、私は知りたい。そこにTakahashi氏やその他の「児童ポルノ法改悪反対」派の人々の本心――そして、その主張の根本的な缺陷――が匿されてゐると思ふからだ。
エロ絵師は、自分のやってることを道徳的に正しいと思ってる人ばかりではありませんよ。そういう人もいるけれども。――「道徳的」に「正しくない」と思ひながら、なぜ「エロ絵師」は「エロ絵」を描くのですか。
それから、上半身と下半身とが結合してゐたからどうだと言ふのだ。「小林秀雄が生きているとしたら」みたいな人だからどうだと言ふのだ。批判にも何もならないジョークを氣のきいた批判であるかのやうに思ひ込んで、得意げに書く奴は果てしなくみつともない。上半身と下半身が結合してゐても、兩者の機能なり役割なりを、人間は區別するものだ。その人間として當り前の事を、「児童ポルノ法改悪反対」派の人間は屡々出來ないのだ。彼等がする區別は、自己を正當化する詭辯の爲の區別でしかない――いや、そもそも彼等は、自己を正當化しようともしないのである。所詮、彼等のする事は「お前だつて間違つてゐるだらう」と云ふ「相對化」に過ぎない。しかし、相手の間違ひを幾ら言立てたところで、自分のしてゐる間違ひは間違ひのままだ。
最後に書いておくが、私は「児童ポルノ法改正に贊成」なのではなく、「児童ポルノ法改悪反対に反対」するのである。
平成十五年十一月七日
どんなマニフェストを作らうが、創価学会の政黨である事を認めないからと言つて、公明党の事を「信用ならない」と判斷するのは、妥當か否か。もしそれは「妥當だ」と言ふのなら、「法的に問題があるから反対であるに過ぎない」と主張はしてゐても、本心を匿してゐるから「児童ポルノ法改悪反対」派は「信用ならない」と判断する事もまた、妥當な事と言へるだらう。「児童ポルノ法改悪反対」派の動機を、私は疑つてゐる。
「道徳的に正しい」とは思つてゐないのに「エロ絵」を描いてゐる「エロ絵師」達が、心から「法的に問題のある改定は良くない」と思つて「児童ポルノ法」の改定に反對してゐるとは、とても思へない。少くとも、そんな「論理」で私は説得されない。
平成十五年十一月七日
「言葉 言葉 言葉」ALLNET最終版スタイル・微調整版
早速まきさんが作つて下さいました。どうもありがたうございます。
オリジナル版はtableまはりがいんちきな作りだつたのですが、その邊、徹底的に修正されてゐます。
平成十五年十一月七日
有害でいかがわしいものをいっぱい書きたいし読みたいのだ。そして、それは道徳的に良くはないが、法的には許されるべきだと思っているのだ。
それは蟲が良過ぎると思ふ。「道徳的」にいかがはしいものは、法律で規制されて當然だ。
ちなみに私は、この種の「道徳的」と云ふ表現は、鉤括弧附きでしか使はない。道徳と本質的に無關係のものだからだ。と言ふか、鉤括弧附きで書いてゐる言葉は、全て「所謂○○」の意味なのであつて、既に私が疑つてかかつてゐる言ひ方である事は、あらかじめ承知しておいていただきたい。
善惡に關る道徳と、正邪に關る正義と、合法違法に關る法律とは、全て次元の異るものである。
秩序を維持する爲に、政治家が「いかがはしいもの」を取締らうと考へるのは當然の事だ。ただ、「いかがはしいもの」を公表する事と、「いかがはしいもの」を考へる事とは別だ。思想はそれ自體、取締れるものではない、と云ふのは、かの憲兵の間でさへ、常識だつた。ただ、「思想を表明した成果物」だけが、取締り可能だ。
その邊、混同が甚だしい。
平成十五年十一月七日
Takahashi氏は、私がミステリの事を不健全な文藝ジャンルである、と書いてゐる事を無視してゐる。それが私の結論なのだが。そして、そこから先で私とTakahashi氏との間の評價が分かれてゐる。Takahashi氏は、私の言つてゐる事を否定しようとするのだが、それでは私の結論である「ミステリは不健全な文藝ジャンルである」も否定する事になつてしまふ。しかし、ミステリの魅力として犯罪行為の妖しいやら何やらを擧げてゐるTakahashi氏が、「ミステリは不健全な文藝ジャンルである」と云ふ私の言ひ方を否定しなければならない理由はない。
Takahashi氏は、とられたら論理として成り立たなくなる類の揚げ足は、誰かがとってあげないとと書いてゐる。しかし、Takahashi氏の揚げ足取りによつて、私の論理は論理として成立たなくなりはしない。却つて私の主張を補強してゐるだけである。Takahashi氏の「揚げ足取り」を讀んで、「ミステリは不健全な文藝ジャンルだ」と云ふ私の結論が「崩潰した」と思ふ讀者は一人もゐない。
平成十五年十一月七日

有害でいかがわしいものをいっぱい書きたいし読みたいのだ。そして、それは道徳的に良くはないが、法的には許されるべきだと思っているのだ。

どこかの誰かが「良い」と決めた枠から少しでもはみ出すものは書けない社会に君たちは住みたいか?

いや、多かれ少なかれ我々の社会はそういうものなんだけど、それでも少しでも自由でいたいじゃないか。

既に述べた通り、それは蟲の良過ぎる主張であり、甘えた發想である。
何より、少しでも自由でいられる状況下では、有害でいかがわしいものも別に有害ともいかがはしいとも思へない筈である。それは當り前のものにしか感じられない筈である。
また、どこかの誰かが「良い」と決めた枠から少しでもはみ出すものは書けない社会、とTakahashi氏は言ふ。一方で、Takahashi氏は、有害でいかがわしいものを、どこかの誰かが「良い」と決めた枠からはみ出させるやうな法の改定には反對してゐる。これは明かに矛盾である。どこかの誰かが「良い」と決めた枠から少しでもはみ出してはじめてそれはTakahashi氏にとつて「魅力的」なものとなる筈である。
Takahashi氏は、どこかの誰かが「良い」と決めた枠から少しでもはみ出すものの魅力を語りつゝ、その「魅力的」なものを合法的の枠内に留め、何とか「はみ出させまい」とする。
ここでTakahashi氏は、恐らく私の事を「道徳と法律とを混同してゐる」と「揚げ足を取る」だらう。しかし、それを言ふなら、既にTakahashi氏が「道徳と法律とを混同してゐる」のである。どこかの誰かが「良い」と決めた枠から少しでもはみ出すものは書けない社会に君たちは住みたいか?とTakahashi氏は書いてゐる。この文章が矛盾を含んでゐる事に、Takahashi氏は氣附いてゐないが、どうして氣附かないのか、私は不思議に思ふ。非合法な文章も「書く」事は出來る。ただ、取締られるだけである。が、「書ける」事と、「書いたら取締られる」事とは區別すべきだらう。
そもそも取締られるやうなものでなければ、どこかの誰かが「良い」と決めた枠からはみ出すものとして「魅力的」にはならないのではないか。合法的だが道徳的に非難されるべきものをTakahashi氏は「魅力的」と稱するのであるが、それのどこが魅力的なのか、私には全然理解できない。さう云ふ生ぬるいものに魅力を感じて滿足する、と云ふのが、退廢的な風を裝ふ割に優等生的な日本人である。
平成十五年十一月七日
俺は「良い」エロゲ(純愛ゲーとか、心温まるもののことかな?)ばっか作っていたくは無いのだ。と云ふTakahashi氏の意見が、「日本人的な生ぬるさ」或は「僞善的」な風潮に毒されたTakahashi氏の精神構造を象徴的に示してゐる。
心温まるもののことが「良い」と云ふ事の定義である、とTakahashi氏は考へてゐる。「児童ポルノ規制法」の提唱者の考へる事をTakahashi氏は推測して言つてゐる。もちろん、提唱者の側も生ぬるいが、その程度の事に反撥するTakahashi氏も生ぬるい。

「児童ポルノ法」が制定されたからと言つて、大概のポルノ畫像には適用されないのではないですか。

日本では、「法律に據る規制」など、所詮、あつてなきが如きものです。そして、それを良くわかつてゐるから、「児童ポルノ法改悪反対」派の人々も、本氣で反對してゐないのです。みんな不眞面目なのです。

私がわざわざ要約を書いておいたのに、Takahashi氏は無視してゐる。私は既に「反對するには及ばない」と言つてゐるのだ。私はTakahashi氏に反感を持たれる理由を理解出來ない。
平成十五年十一月七日
讀み辛い文章だと思ふ人も多いでせうが、書く方も書き辛い文章なのだらうなーと推測していただければ幸ひ。
平成十五年十一月七日
先日の原發が何うたらと言ふ文章に關して。
原發に反對するにしても、ぢやあ原發を廢止したら全て解決するのか、とか、原發を廢止したあとの代替案を提示してゐない、とか、その手の「わかり易い」「良くあるパターンの」批判をした方が良かつたですか。
原發を廢止しても、火力發電所で代替しようとすれば化石燃料を使ふので地球の温暖化に繋がるとか、推力發電所で大對象とすればダムを澤山作らなければならないからやつぱり自然破壞に繋がるし、地域の住民の住環境を奪ふ事にもなる。
ただ危機感を煽つて煽つて煽りまくれば良いと云ふものでもない、と云ふ事は、さう云ふ通俗的な説明の方がわかり易いのか。
しかし、それで納得されても別にこちらとしては嬉しくも何ともない。

平成十五年十一月六日
HTMLのかゆいところ。[HTML・XML]All About Japan
全然駄目。ちやんと全ての記事で「満足度・低」と送信しておきました。
【 www.ichikoro.com 】 happy realize gate
勝部麻季人氏の主宰するサイト。全然駄目。body要素のtopmarginなる屬性の屬性値、"を一つ書落として括り損ねてゐるし。
ガイド記事一覧 - [HTML・XML]All About Japan
本當に非道いよ。HTML入門[HTML・XML]All About Japanには、平氣ではじめてのWebドキュメントづくりHTMLの概要(とほほのWWW入門)とを一緒に紹介してゐるし。神崎氏の解説はともかく、内田氏のまともな入門記事をちやんと讀んでゐたら、とほほなんぞレヴェルが低過ぎて紹介する氣になどなれる筈がないのだが。勝部氏、ハイパーリンクに挑戦しよう![HTML・XML]All About Japan第一号で紹介するのにもっとも適したサイトと言えば、やはりココでしょう。などと言つてとほほを紹介してゐる。
XMLの基礎知識[HTML・XML]All About Japan(1/2)を見ると、XMLに關してはあのろくでもないHTML文書で作られたたのしいXMLに全面的に依據してゐるやうだし。そもそも、「たのしいXML」つて、そんなにわかり易いか? HTMLに關する知識を讀者が持つてゐる事を大前提としてゐる時點で、既に「敷居が高い」と言へると思ふが。それに、HTMLとXMLの「優劣」を比較してゐるのも、個人的には良くないと思つてゐる。HTMLとXMLは、單に用途が違ふだけだ。
と言ふか、勝部氏のXML文書、要素の中身がなくて、必要な情報は全部、屬性の價に書込んでゐるんだが、ちよつとどうかと思ふ。
あと、XMLの入門としては、川俣晶氏の最短のXML入門とメタ言語も紹介しておいて良いだらう。
【Webプログラミング - academic.003】Web基礎知識「プロトコルのお話」 ブラウザが陰で何やってるか知ってますか?他を見ると、「プログラムの汎用性」については良くわかつてゐる人であるらしいのだが。「HTML文書の汎用性」と云ふ事は、全然意識してゐないらしい。
テキストを彩るタグ達[HTML・XML]All About Japanを見ると、好評連載中の「かんたんHTML入門」でご紹介している内容は、本来のHTMLの考え方から行くと、あまり好ましくありません。最初のうちは「楽しさ」を覚えていただきたいからなのですが、ある程度理解できてきたら「正確」な考え方もぜひマスターしてくださいね!などと書いてゐる。正しい内容であつても、樂しく教へる事は可能である筈だし、初心者をターゲットにものを教へようとする人間には正しい内容を樂しく學べるやう、教へ方を工夫する努力が必要なのだが、なぜかその種の努力をしないで安易なやり方に流れるいんちきなガイドが餘りにも多い。
それにしても勝部氏、日本語としてをかしい表現を屡々使ふのだが、AllAboutJapanのスタッフは誰もそれを指摘しないのだらうか。
平成十五年十一月六日
白紙投票するくらゐなら、潔く投票に行かない方が増しだ。假に選擧に行く事が良い事であるとしても、白紙投票をして自己滿足するのよりも、選擧に行かないで忸怩たる思ひをしてゐる方が、人間として餘程好ましい。自己滿足してゐる人間くらゐ、嫌な人間はない。
そもそも、選擧に行くのはそんなに良い事なのか。選擧に行かないとどうして世の中に文句を言ふ資格がなくなるのか。普通選擧法が施行される以前は、世の中を批判する資格のない人間が世の中を批判してゐたのか。民主主義の世の中になつて、せつかく選擧で自分の意見を表明出來るやうになつたのに、その權利を行使しないのは馬鹿である、と云ふ事か。しかし、せつかく貰つた権利だから行使すべきであると云ふのは、けち臭い根性ではないか。大體、選擧で投票出來るのは、高々一票なのである。そんなもので世の中を變へられると思つたら大間違ひだし、變へたところで變るのは所詮、政治の領域だけである。結果として何かの法案が廢案になつたり成立したりしたところで、日本人の精神が根本的に改善されるかと言つたら、そんな事はあり得ない。そして、世の中で本當に問題なのは、法律なり何なりではなくて、人間の精神である。法律を變へて刑罰を重くしたところで犯罪者はゐなくならない。政治のなし得る事には限界がある。政治にはどうしやうもない事の方が實は社會を動かしてゐるものなのであつて、それは當然、選擧ではどうしやうもない。
別に、他人が選擧に行く事を止めはしない。ただ、選擧等、行つても行かなくても、世の中は大して變りはしない、と言つてゐるだけだ。國が、民主主義を採用しようが共産主義を採用しようが、それだけで國民が善人になつたり惡人になつたりする訣ではない。住み易いか住み難いかは變るだらうが、民主主義社會でうまくやつてゐる人間は共産主義の世の中になつても巧く渡つて行くだらうし、民主主義社會で匿名による中傷を行つて喜んでゐる連中は共産主義社會では密告を行つて更なる喜びを得るだらう。社會體制の違ひは相對的な差異でしかない。ならば、同じ社會體制の中での變化等、問題にならないのである。
平成十五年十一月六日
取敢ず誤字を訂正。眠いせゐか此處數日飛ばし過ぎ。そのうち更新がとまつたら、野嵜は死んだものと御考へ下さいまし。
平成十五年十一月六日
YOMIURI ON-LINE
原則として新聞社のサイトの記事にリンクは張らない事にしてゐるのだけれども(すぐデッドリンクになるから)。
YOMIURI ON-LINE / 芸能・文化 :大人並みに漢字が読める…小学教育で文化審議会が提案
漢字をちやんと使つた教科書を低學年のうちからあてがふべしとか、國語の授業を増やすべしとかいつたとてもまともな提言を含む報告書案を、文化審議会の国語分科会が作つた模樣。
平成十五年十一月六日
キャナルを泣かせちや駄目ぢやない(挨拶)。
決して絵を描いてるところを見ないでください…。でないと… (2003-11-06T04:57:00+09:00) @ [ねこめしにっき(2003年11月上旬)]
メカを描いてる時は自分もメカになると云ふネタが『優&魅衣』にありましたねー。古。
平成十五年十一月六日
X51.ORG: ノアの箱舟を露研究団が現地調査 潜水艦説も浮上
最近はノア氏にとても親近感を覺える。
平成十五年十一月六日
Google 検索: のへ
こんなキーワードで順位が一番になつても、アクセス數が増えたりはしないんだらうな。
平成十五年十一月六日
探し物。
手鏡が机の上から消えたので探したら、鞄の中から出てきた。

平成十五年十一月五日
又吉イエス リンク集
昨日、晝飯を喰ひに表に出たら、街宣車が通つた。何か凄い調子で話をしてゐた。又吉イエスだつた。何とかして下さい。
平成十五年十一月五日
歸つて來たら、例によつてなめくぢ君の御出迎へを受けた。殺す。
平成十五年十一月五日
いやまあ、ヤマト3は既に新興宗教ネタを扱つてゐたりして、結構凄いんですが。
平成十五年十一月五日
ますぞえ要一公式サイト
舛添の文章等どうでも良いのだけれども、恐らく見出しの積りであらう「新着情報」と「ますぞえ要一新刊情報」の二つの文字列が、なぜか畫像で、しかも「典型的なCSS初心者風デザイン」つぽく表現されてゐる。何なのだらう。
平成十五年十一月五日
2003-11-05T01:41:00+09:00 @ [Maro's...memo?]
電車で寢たつて良いぢやないですか私は疲れてるんです泣。
平成十五年十一月五日
WXGの辭書に「人名」として登録されてゐるところを見ると、「天照大神」は人であるらしい。
WXGの辭書に「名詞」として登録されてゐるところを見ると、「アラー」は物であるらしい。
平成十五年十一月五日
私にとって一番読みやすい文字サイズは12pxで、1pxでもサイズが上下すると(ほんの少し)読みにくいのです。だから固定します。
「自分のサイト」の文章を「自分以外の人間が讀む」場合もある。と言ふか、自分以外の讀者こそが眞の讀者である。
あと、pxはdpi値に依存してゐるから「相對指定」と呼ばれるのですが、畫面表示は良いとして、プリントアウトする際にはどうなるんですか。px固定のスタイルシートが「screen固定」でなく一般の用途向けに適用されたHTML文書をプリントする際、プリンタのdpi値に依存した出力結果が生じる事はないのですか。1200dpiのプリンタで出力したら讀めなくなつたりしないのですか。
平成十五年十一月五日
徳保氏の備忘録より。
http://www.if-j.co.jp/web/yougo/data50/yougo-shi.html#012
へー。
平成十五年十一月五日
餘談ですが、「トリビアの泉」つて、一度も觀た事がありません。そもそも、最近はさつぱりTVを觀ないのです。
平成十五年十一月五日
CSSの仕樣書がptのやうな「絶對指定」を出來るやうに規定してゐるのは、サイト制作者が印刷用のスタイルシートを書けるやうに、と云ふ事ではないですか。或は、WordやAmiPro(古)のやうなワープロ文書を、或アプリケーションから別のアプリケーションに持つて行く際の中間文書としてHTML+CSSを利用出來るやうに、との配慮からではないですか。
と言ふか、Wordのスタイル指定をCSSに落せるやうになりませんかね。最新のOfficeでは何うなつてゐるんですかね。
OpenOfficeではスタイルシートを使へるんですかね。アウトラインモードはあるんですかね。アウトラインモードとスタイルシートを標準装備しないワープロソフトは要らないですね。
何かCSSとかの話からずれてしまひましたね。いちいち文末に「ね」を附けるとうるさいと言ふか偉さうですね。私は何の話をしてゐるのでせうか(いつもの事です)。
平成十五年十一月五日
世間の人と私とでは、あにめの樂しみ方が全然違ふらしい。
普通のヲタの方は「何とかと云ふキャラクタが萌える」とか「ストーリーが」どうのかうのとか、さう云ふ樂しみ方をするんですか。私の場合、例へば、プリンセスチュチュでは「この展開は小中千昭さんですか。(エンディングのテロップを見て)やつぱりさうですか。さうでせうねー」とか、Avengerでは「また愉快なテレ東規制對策をしてますね眞下監督」とか、一騎当千では「また勾玉ですか渡邊監督」とか「また主人公にうわぁぁぁと叫ばせますか渡邊監督」とか、さう云ふ樂しみ方をするんですが。
「また第三話で話が崩れてるよマッドハウス」とか「富野は相變らず富野だたるい」とか。嫌な視聽者だな。
嚴密に言ふともつといろいろ變にでぃーぷなつつこみを入れつゝげらげら笑ひながら觀てゐたりするんですが、いろいろ勘違ひしたつつこみを入れてゐる可能性が非常に高いので、具體的には書きません。
どうでも良いんですが、いい年をした大人が「萌え」「萌え」言ふのは、止めませうよ。と言ふか、本來の意味を外れて『萌え』といふ言葉を得意げに使ふ奴つて果てしなくみつともない。
平成十五年十一月五日
THE KGB FILES
なめくぢ君の天敵をあーとする。食事中の閲覽はおすすめしない。
平成十五年十一月五日
TBS「サンデーモーニング」で石原都知事の日韓併合発言を捏造報道
TBSがやつてしまつたらしいんですがどうでもいいです。
日本人の側が強い自信と強い軍隊を持つてゐたら、「うるさい」の一言で「反日的な韓國人」は默らせられます。
面倒なので中間の論證過程を全部省略して結論を申しますと、はつきり言つて日本は滅びれば良いと思ひます。
平成十五年十一月五日
第百六十八囘【 第一囘『奇魂』勉強會のお知らせ 】
岡崎久彦著『吉田茂とその時代〜敗戦とは〜』(PHP研究所、平成十四年八月刊行)なる本で勉強會をするらしいが、本當にどうでもいい本をやるんですね……漱石とか鴎外とかを一册讀んだ方が餘程勉強になると思ひますが。政治の事を勉強したければマキャベリでも讀んだら如何かと。
カール・マルクスの讀書會でもやらうかと思つてゐるんですが(今思ひ附いた)、參加したい人はゐますか。
平成十五年十一月五日
Leptonさんの『アホでマヌケなプログラミング』を買つて來た。
讀み方によつてはウェブサイト・HTML文書の作成にも役立つ事がいろいろ書かれてゐる。
平成十五年十一月五日
共産主義批判の本は、讀み方によつて、保守主義や社會主義、その他のいろいろな思想・宗教に對する批判の本になるのだが、世間の人は「共産主義をやつつける」と云ふ目的にしかその本は役に立たない、と思ふらしい。そして、その本が批判する事は、「共産主義だから惡い」のであつて「保守主義では惡くない」と思ふらしい。
いかなる場合にも間違つてゐる事は間違つてゐるのであつて、良い本はいかなる場合にも通用する事が書かれてゐる本である。共産主義批判の本の中にも良い本はあるのであり、さう云ふ本が批判する「共産主義の」誤は、共産主義者以外の全ての人間が冒す可能性のある誤である。ならば「自分もその誤に陷らないやうに氣を附けよう」と讀者は思ふべきなのであり、「自分は共産主義者ではないから關係ない」と思つて平然と共産主義者の冒した過ちを自分も冒すのは良くない事である。が、とかく讀者は結論に性急に飛附いて、過程を無視するものなのである。

平成十五年十一月四日
政治は、本質的にどうでも良い事だと思つてゐるが、愚かしいものだとは思つてゐない。今の政治も、非常に低級なものだと思つてゐるが、嘲笑して澄ましてゐれば良いやうなものだとは思つてゐない。
ただ嘲笑・愚弄するのは、何の批判にもならない。それは單に、自己滿足である。批判をしたければ眞面目にする事だ。眞面目に批判出來るやうな代物でない事が明かな相手は、無視するのが一番だ。
平成十五年十一月四日
政治は本當に大事なのかどうか、疑ふ事が出來ない。
政黨政治が本當に大事なのかどうか、疑ふ事が出來ないのも當り前。
民主主義は本當に正しいのかどうかも、もちろん疑へない。
多くの日本人にとつて、政治はアプリオリに重大事であり、民主主義はアプリオリに正義であり、政黨政治はアプリオリに必要なものである。
――「俺はさうではない」と言ふ人もゐるが、さう言ふ人の多くが大概、單に嘲笑的なだけである。
平成十五年十一月四日
「児童ポルノ法改悪反対」にしても、「全てのエロ画像は良いものである」と信じてゐるから「反対」なのか、「或種のエロ画像は良くないが或種のエロ画像は良いものだ」と信じてゐるから「反対」なのか、後者ならばどのやうなエロ画像は良くてどのやうなエロ画像は駄目なのか、さう云ふ事を全然はつきりさせようとしない。とにかく「言論の自由」を冒すから「反対」と云ふ、甚だ觀念的な「反対」が多いやうに見受けられる。
では「言論の自由」を冒す法は全て惡いのか、エロ画像が言論であるのならば誹謗中傷もまた言論であるが、それを取締る法もまた撤廢されるべきなのではないか――さう問はれると、「誹謗中傷は許されない、お前は誹謗中傷されたいのか」等と、とんでもない「反論」を始める。こちらは、誹謗中傷されたくないから「言論の自由」には制限を課せと言つてゐるのであつて、その制限を課すなと言つてゐるのは「児ポ法改悪反対」派である。
イラストで閲覽者の感性に訴へる事しかしない「絵師」には、論理的にものを考へる能力が根本的に缺けてゐるのではないか、と嫌みを言ひたくなる。「反対」なら「反対」で構はない。ただ、「反対」の爲の「反対」ではどうしやうもない、と言つてゐるだけだ。取敢ず「反對派」は、嘲笑したり泣叫んだり、感情的な反應を見せる前に、論理的に一貫した説明をする努力なり、より妥當な對案を作つて提示するなり、してみたら何うか。
そもそも「改悪反対」なる言ひ方が問題で、「改悪」と言はれれば「反対」するしかないと思ふのが世間の人の普通の反應だらう。しかし、この言ひ方は、なんの根拠も無しに相手を無条件に悪者にしたい相手が悪者である根拠を示すのがめんどくさい、もしくは根拠を示せない、と云ふ人が好んで使ふものではないか。はつきり言ふと、豫め反論を封殺する言ひ方であつて、論理的な批判や意見を表明する自由を認めた「言論の自由」を否定する言ひ方である。言論の自由を標榜しながら、「改悪反対」なる文句を使ふ輩は、言論の自由をそもそも信じてゐないのである。單に鬪爭の爲の道具としか見てゐないのである。
取敢ず、「改悪反対」等と云ふ文句を得意げに使ふ奴は果てしなくみつともない、と言つておかう。
平成十五年十一月四日
實際のところ、「可能性」だの何だのと、非道く曖昧な理由で「反対」してゐる人しかゐない訣で。
それから、わざと比較にならないものを比較對象として採上げてゐる例もある。「空想の存在」を処罰の対象とするのは、殺人事件を扱った小説の作者は殺人者だと言うのと同じ!等と言ふのは、明かに不當な比較だ。推理小説の作者が殺人を快樂として誰もがすべき行爲として推奬してゐるのでない事は、餘りにもわかり切つた話だが、世間のエロ画像の「絵師」はエロ的な行爲を推奬しない態度をとつてゐると言へるだらうか。
性犯罪を採上げて弾劾する週刊誌が屡々エロ寫眞を掲載してゐるのはどう考へてもをかしいが、なぜをかしいと考へるのかと言へば、その煽情的な寫眞が性犯罪を誘發する一因となり得るからである。「いや、俺はエロ寫眞を見ても絶對に性犯罪には走らない」と主張する人もゐるだらうし、「寧ろその手の寫眞は性犯罪の抑止力になる」と反論する人もゐるだらう。しかし、「性的な事を匿さないのは良い事だ」と云ふ風潮を作る事自體の是非は問はれて良いのではないか。そして、「性的な欲望を表明するのに抵抗感を覺えない人間が増えれば、當然ながら性的な欲望を發散させる行爲が増える」と云ふ事は、考へられても良いのではないか。
殺人事件を扱った小説が増えるのは苦々しい事で、ミステリが昨今流行するのは好ましくないと私は思つてゐる。ミステリならば大概、犯人が捕まる勸善懲惡のストーリーになつてゐるので、まだ「犯罪への抑止力」にはなるだらうと思ふのだが、それでも殺人事件を描いて殺人と云ふ事を倫理的に扱ふ事のない、本質的にフーダニットであつてパズル的な面白さのみを追求するミステリは、不健全な文藝ジャンルであり、もし殺人と云ふ事を倫理的に眞劍に追求すべき事ではないと作家が思つてゐるのならばその作家は非難されて良いと私は思つてゐる。だから、「エロ絵」にしても「絵師」がその手の行爲の是非について眞劍に考へた事もないのならば、當然非難されて良いと思つてゐる。
閲覽者をしてその手の行爲に對する抵抗感を覺える事を失はしめるやうな繪に關しては、法によつて公開を制限するのも當然だらう。大雜把な言ひ方をすれば、「個人の自由」よりも「公共の福祉」を優先するのが、爲政者にとつては當然の事だからである。
もちろん、「空想」と「現實」は區別されるべきだが、一般的な傾向として多くの人間が兩者を區別するものなのか――さう問はれた時、「児童ポルノ法改悪反対」派の人々は、客觀的なデータなり論拠なりを示した上で「區別するものである」と斷定的に述べる事が出來るだらうか。この邊、案外「改悪反対」派の人々の主張は曖昧であるやうに思はれる。
「児童ポルノ法改悪反対」派のサイトの書き方は、屡々、論理的でなく、感情に訴へるやうなもので、煽動的である。「取敢ず反対しろ」「反対しない奴は××××」と言つた雰圍氣を漂はせてゐるサイトも少くない。それで「改悪反対」派の人々は自己滿足してゐるのかも知れないし、或は實際、それで戰術的には有效なのかも知れない。しかし、いづれにせよ、この種の戰術は、民主的な論爭とは程遠いものであるやうに思はれる。何と言ふか、本當に民主主義なり言論の自由なりを守りたいと思つてゐるのではなくて、單に自分逹の行爲を正當化したい――いや、そもそも正當化も糞もなくて、「俺たちのやつてゐる事にいちやもんを附けてくる奴は許せない」と云ふだけの、感情的、或は反射的な行動でしかないのではないか。
とにかく、自分のやつてゐる行爲を反省する「絵師」は滅多にゐない、と云ふ事だけは、事實のやうである。多分、他人を樂しませてゐるのだから自分のしてゐる事は良い事なのだ、とアプリオリに信じてゐるのだらう。しかし、首から上のものに依存した知的な快樂と、臍の下のものに依存した性的な快樂とは、本質的に異るのである。
平成十五年十一月四日
それはまあどうでも良くて。最う朝の四時半です。早く寢ないと明日の晝間が辛いですよ、俺。馬鹿ですね。死ぬ。
平成十五年十一月四日
と言ふか。(謎)
昭和三十九年に出た『憲法調査会報告書の概要』を五十ページくらゐで抛り出して教養文庫の『徳川家康』を一氣讀み。
家康、今の政治家よりもはるかにまともな政治家ですねえ。今の政治家にも、家康竝に權謀術數をめぐらしたり、平氣で約束を反故にしたり、マキャベリスト的な非情な態度で政治をやつて貰ひたいものです。中途半端な理想だの理念だのは要りません。
もちろん、眞の理想を掲げて、その實現に邁進しようと言ふのなら、止めませんが、日本人の政治家に理想だの理念だのと言つた觀念を抱く事は出來ません。日本人は、理想とか理念とか云つた西洋風の概念を、表面的に知る事はともかく、血肉化し、體現しようと本氣で思ふ事はありません。政治家は政治家である前に日本人であり、日本人の限界から逃れる事は出來ません。そして、さう云ふ限界のある政治家を、一般の日本人が安易に馬鹿にする事も許されません。
平成十五年十一月四日
かのオウムにさへ、破壞活動防止法は適用されなかったんですよ。
そもそも、戰力の保持を禁止してゐるにもかかはらず、自衞隊は存在してゐるのです。
「児童ポルノ法」が制定されたからと言つて、大概のポルノ畫像には適用されないのではないですか。
日本では、「法律に據る規制」など、所詮、あつてなきが如きものです。そして、それを良くわかつてゐるから、「児童ポルノ法改悪反対」派の人々も、本氣で反對してゐないのです。みんな不眞面目なのです。
もし日本人にとつて本當に憂へるべき問題があるとしたら、それは現代の日本人が甚だ不眞面目であると云ふ事だけです。そして、昔の日本人も、決して皆が皆、眞面目であつた訣ではありません。だから、單に傳統を保守するだけの保守派では駄目なのです。
平成十五年十一月四日
眠くて歸りの電車で熟睡。終點に著いたのに熟睡繼續。
なんか隣の席のお姉さんも一緒に熟睡してゐて、折返し待ちのがらんとした電車の中で二人の男女が仲良く並んで寢てゐると云ふアレな状況が暫く生じてゐた模樣。
ちなみに私が起きた時もお姉さん、熟睡繼續中。面倒なのでほつたらかしにして電車を降りました。電車の乘り降りは自己責任で。
平成十五年十一月四日
土佐日記 - Tosa Blog
平成十五年十一月四日
のあ
「帰宅部」ってあるけど。
あやの
ん?
のあ
「帰宅しない部」つてどうかな。
あやの
どうかな、つて言はれても。いつたい、何するのよ。
のあ
……住民票、学校に移したり、とか。
あやの
かりあげクンぢやあるまいし。
のあ
なんで元ネタがかりあげクンだつてわかるのよ。
あやの
あんただつて読んでるぢやんか。

平成十五年十一月三日
「文化の日」なる何とも文化的ならざる御休みの日です。連休三日目です。今日で連休も御終ひです。詰らんですねー二年間くらゐ休暇があつても良いのですがねー御金が天から降つて來ませんかねー馬鹿を言ふのも好い加減にしておきませう。
十一月三日は、明治節と申しまして、明治天皇の御誕生日です。「文化の日」と明治節が同一の日時であるのは、「文化の日」禮讚主義者の方々に言はせれば偶然の一致であり、兩者は全く無關係なのださうです。詭辯とは便利なものですね。
詭辯と言へば、明治天皇替玉説なるものを自稱右翼の某氏が唱へてゐましたねー。彼も明治天皇の御蔭で休みとなつた今日、會社を休んでゐるんですかねー。と言ふか、不敬も良いところの癖に右翼を自稱する某氏は、ひよつとして神道を目の敵にしてゐる宗教の關係者かなんかなのですかねー。
平成十五年十一月三日
くるくるドライバー for Windows95 計画
Portrait Displays, Inc.Portrait Displays - Pivot Pro Product Overviewなるものを使へば、畫面を横倒しに出來ると云ふ話。Portrait Displays - Pivot Pro Product Trialで30日間試用できる無料版を貰へる。
マウスをrotateするプログラムやフォントを横倒しにできるプログラムを併用すれば「縱書き環境」がシステム的に實現する。
平成十五年十一月三日
ヤマトよ永遠には結構良く出來てゐると思ふ。全然駄目なTVシリーズの「2」と「3」に比べれば、格段に良く出來てゐると思ふ。
平成十五年十一月三日
どうしてそんなに選擧に行きたがるのですか。二十歳臺の人の投票率がとても低いさうですが、それが正常なのではないですか。
今一生懸命日本人を投票に行かせようとしてゐる連中は、敗戰直後に民主化教育を受けて「洗腦」された世代です。街中でのマナーも最低なら、そいつらの子供も躾のなつてゐない馬鹿ばつかりの、年長者として、親として、とても尊敬など出來ないやうな人間です。言つてみれば、無駄に齡をとつただけの阿呆集團です。
さう云ふ阿呆集團を生んだのが戰後の民主主義です。阿呆集團は、自分逹のどうしやうもない腐れ根性を守る爲に、民主主義を絶對化し、我々の世代にも押附けようとしてゐるのです。自らの體面を守る爲に、民主主義の擁護者である事を免罪符にしようとしてゐるのです。しかし、我々はさう云ふ腐れ民主主義信者どもに欺されてはなりません。彼等の言ひなりになつて、現在の體制を手放しで禮讚する愚か者に零落れる必要はないのです。
あなたが、苟も體制に隷屬したくない日本人であるならば、戰後の民主主義體制への事實上の信仰告白にほかならぬ投票に行つてはならないのです。
あなたは、自分の頭で考へ、自分で自分のしたい事は決める、眞の個人主義者たらんとするならば、戰後の民主主義に魂を賣つた連中の眞似をしてはなりません。
平成十五年十一月三日
現行憲法を私は正統の憲法と認めてゐないので、戰後の憲法に基いて行はれる選擧もまた選擧として適正なものではない、よつて行く必要を認めない、と主張する――この論理、取敢ず矛盾はない筈だ。
別に、民主主義も選擧も惡いものだとは言はない。ただ、今の日本の「民主主義」も「選擧」も、いんちきな代物である、と言つてゐるだけだ。
逆に、今の「民主主義」なり「選擧」なりを認める輩は、事實上、戰後の體制を「正しい」ものだと主張してゐる事になる。
ウェブで「選擧に行かない奴は非國民」の類の主張をしてゐる連中の中に、結構「時代遲れ」の社民黨を應援してゐる人物がゐる。しかし、さう云ふ一見「馬鹿」のやうな人物の方が、筋は通つてゐると言へる。ただ漠然と「投票に行くのは善い事だ」と考へてゐる輩よりは、さう云ふ連中の方が、まだ全うである。
程度に差はあれ、自民黨も民主黨も、同じやうに改憲を考へてゐる。自民支持者も民主支持者も、現在の憲法は駄目だと思つてゐる。「積極的」に現在の憲法に基く選擧を拒否してゐる人間も、當然現在の憲法は駄目だと思つてゐる。護憲派の社民黨や、その支持者は「投票率の低下は民主主義の危機だ」と騷いでゐる。しかし、投票率が上つても、増えるのは改憲派の票だけであり、現在の體制を否定する票だけである。投票率を上げたところで、今の日本の「民主主義體制」は否定されるだけである。
平成十五年十一月三日
が、どつちにしろ、政治なんてものは、俺のやうな下層プロレタリアートにとつて、どうでも良い事だ。もちろん、俺よりもまともな閲覽者の方々にとつても、政治は信じて良いものだとは言へない。政治は、もつと冷靜に、遠くから眺めておくべきものだ。どつぷり浸かる可きものではない。
平成十五年十一月三日
Care With Font Size - Quality Web Tips
平成十五年十一月三日
SALTY index
SALTY ホームページ講座 1以下の腐れ入門講座は、久々に斬りたくなつた。しかし、世の中にはこのやうな素人の記事を歡迎する素人もゐるのである。
……が、放つておいても勝手に消えてくれさうな氣も。
Thirty Items -index
SALTY と管理人ヘミング氏について
掲示板荒らしについて
荒し屬性のある掲示板管理者には、まつたくもつて困つた事です。
平成十五年十一月三日
黒須教授のUser Engineering Lecture:インタフェースの一貫性と知的所有権
例によつてtitleが全部同じの黒須教授シリーズより最新作。
話はちよつとずれるのだけれども。Netscape NavigatorやInternet Explorerのデフォルトスタイルの組合せで成立する「ホームページ」のデザインなるものは、意匠として認められるべきではないのではないか。
本質的に「ウェブデザイン」はデザインとして認知されてはならないのではないかと。
平成十五年十一月三日
債権回収詐欺メール(はがき)にご注意!!
うちにもばんばん來てる。
平成十五年十一月三日
和ジラつて、使つた事もないのだけれども。
そもそも今使つてゐるPC二臺には、どちらにもMozilla Browserなんて導入してゐないし。
Operaの方が今は旬でせう?
平成十五年十一月三日

新潮文庫には栞紐がついているのですが、これの使い方を知らない人がいたことを思い出しました。「読書を中断するときに、紐をはさんでおくと便利でしょ」と教えてあげたら、とても感謝されたのですが、中学時代の話ですよ、これ。で、その人いわく「なんで他の文庫も栞紐を用意しないんでしょうね?」

私の回答はもちろん、「だって、せっかく用意しても使い方を知らない人が多いわけで……」

栞紐は、手作業で附けるのださうです。だから、製本作業を全て機械化してゐる出版社の書籍では、省略・廢止されてゐるのださうです。

平成十五年十一月一日
ここを更新してゐない時は何處かに長文を書いたり、何處かを更新したりしてゐるのだからうんぬんかんぬん。
餘談だが、「うんぬんかんぬん」でぐぐる(謎)と、何と言ふか(何)アレ(謎)なリソース(何)が一番上(何處)に出て來る。
と言ふか、(謎)(何)(何處)うざい。
平成十五年十一月一日
一般道を時速百キロメートル超くらゐで疾走する路線バスに乘つた夢を見た。
道の左側に古本屋が見えたので、振返つた事を覺えてゐる。知らない本屋だつたので入つてみたかつた。
平成十五年十一月一日
Google 検索: 河野與一
平成十五年十一月一日
御利巧な奴は選擧に行つて、自分の力で日本を動かしたやうな氣になるが良い。俺は馬鹿だから選擧になど行かない。
平成十五年十一月一日
政治でどうにか出來る事にしか興味を持たないやうな人間は、ろくな人間ではない。
人間にとつて眞に重要な問題は、自分の力ではどうしやうもない事をどう受け止め、それにどう折合を附けていくか、と云ふ問題だ。
平成十五年十一月一日
『小林秀雄の思ひ出』30ページに、福田恆存の自筆原稿を買ひに現はれた若いが身なりのいい客こと松原正氏と郡司勝義氏が中目黒にあつた麥書房で出くはした時のエピソードが出てゐる。
平成十五年十一月一日
「ダサいホームページ」――「『とほほのWWW入門』にリンクを張つて『おすすめ』とか『使える』とか書いてゐる」とか。

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