手元のパソコンでページを作成してからFTPでアップロードするというのは手間がかかるが、バックアップは手元にあるというメリットがある。とあるけれども、うちがはてなだとか何だとかに移行しないで執拗に今の形態を保守してゐるのはそれが理由だ。
だがよ、この村はお可笑しな村でな。物を識つてたかつて誰れも云ふことを聞きはしねえのよ。どんな馬鹿でも錢さへ持つてゐりや、人が云ふことを聞いてくれるんだよ。だから俺は知慧を殖すより、錢を殖すことにしたんだよ。
政治に参加する義務を果たしてから政治に参加する権利を行使すべきと云ふ主張は、一體何が根據になつてゐるのですか。法律とか憲法とかに、そのやうな規定があるのですか。
意図・動機ではなく、主張が法的に正しいかどうかが問題なのではないでしょうか。
争点を法律の問題にしぼらないことにはどうにもならないからです。
貴方はなぜ曖昧な態度を取る必要があるのですか?
一切否定するつもりはありませんが?
僕は、道徳的にいかに間違ってようが、いかに倒錯的快楽に満ちていようが、それだけで表現を規制されるべきではないという主張を持っています。
書きたいからですよ。読みたいからでもある。
道徳的に正しいことしかやっちゃいけないのですか?
性的な問題と結婚の問題は連続しているし、結婚制度の問題と社会的問題は連続してますね。
恣意的に切り分ける見方のほうがおかしい。
僕は「児童ポルノ法改悪反対に反対」に反対するのではなく(いや、反対はするけれど)、「児童ポルノ法改悪反対に反対」する貴方の言説を批判しているのです。
主張が法的に正しいかどうかを議論したいのか、どつちなのですか。はつきりして下さい。片つ端から適當に揚げ足をとつても仕方がないのではないですか。
で、それとエロ漫画がどう違うのか、と問うているのですが。同じだといっているのです。
不健全な文藝ジャンルであると評してゐますが、その理由は既に述べました。
もともと日本のミステリは乱歩以来エログロの世界と密接に関係している。勧善懲悪でないいかがわしいミステリは規制されるべきなのですか?
法的に許される表現の中にも、道徳的にいかがわしいものはいっぱいあるでしょうに。
もちろん非合法でも魅力的ですよ。法に沿ってるかどうかは魅力を語る上ではどうでもいいことです。
「大概」に入らないものを描きたい人はどうすりゃいいんですか。
どこまでがOKでどこまでがNGか明確でないのも困る。
エロ漫画では時々逮捕者も出ていますので、「あってなきが如きもの」というのは楽観的過ぎます。
正しくなってねえよ、というのが反対派の意見なのですから、
どこまでがOKでどこまでがNGか明確でないのも困る。と言ふけれども、要は「全部OK」にしろとTakahashi氏は言つてゐる訣で。
書きたいからですよ。読みたいからでもある。
道徳的に正しいことしかやっちゃいけないのですか?
貴方の意図や動機ではなく、そのために貴方が何を言ったかを問題にしているのです。貴方が何に反対していようが、とりあえず関係ない。
少なくとも、僕は隠してませんよ。過激で反道徳的なポルノを書きたいし読みたいのです。それを法律の言葉で言おうとすれば、「表現の自由」を使うことになる。
とにかく「言論の自由」を冒すから「反対」と云ふ、甚だ觀念的な「反対」が多いやうに見受けられる。
僕にとっては、貴方がどうでもいい些細な揚げ足だと思っているところは、もし法律議論のつもりで言っているのなら看過出来ないのですが。
法律議論なるものは、あなたがしたいだけの事でせう。高橋さんに都合良く私の主張を歪めるのは、やめていただきたけますか。
ですから、エロ漫画(の少なくとも一部)が反道徳的であることには異論ありませんよ。
びみょーな言い回しですが、それは「宮台だからとるにあたらない」といっているのか、「この記述がどう絡んでくるのか分からない」というのか、どっちですか?
先に挙げた宮台氏の記事は、児童ポルノ法案改悪反対の根拠を綺麗にまとめてあると思うのですが。これ以上うまくは俺には書けないなあ。
それで、ただ反道徳的だというだけで法的な規制をかけるべきではない、と僕は思っているわけです。ここが貴方と食い違っている。人には反道徳的な生き方をする権利もある。
もちろん、法的に正しいかを議論しているのですよ。
前から思っていたのですが、彼はちょっと揚げ足がとりやすすぎるんです。
むしろとってほしげに足を投げ出しているので、一回くらいはとってみようかと。
とられたら論理として成り立たなくなる類の揚げ足は、誰かがとってあげないと。
野嵜さんの道徳観や政治思想に関しては、間違いなく大嫌いな部類には入りますが、勝手にどうぞ、としか思いませんので、それを「論理の流れ」「筋」だと言いたいのであれば、そこに文句をつける積もりはそもそもありません。
大家の作品だと、云々。
さて、どの辺からが野嵜さんの考える法的に妥当な規制対象なんですか?
そもそも犯人に対して道徳的批判が為されるミステリなんて、ひどく少ないように思うのですが。
讀者に殺人を推奬するやうな「ミステリ」なるものがあつたら、發禁處分を喰らつても當然だ。その程度の事しか私は言つてゐない。
さて、どの辺から云々と、しなくても良い非難をするのに、都合が惡いからではないですか。
僕の場合、法律はあまり関係ないですね。違法だというだけでは、単に違法だということに過ぎないので。
もちろんたいていの法律は道徳や社会正義に沿っているので、犯罪行為が背徳的な魅力を持っていることは多いですが。
僕の場合、とおつしやいますが、では、あなた以外の場合、世間一般ではどうなのですか。世間一般の全ての人が、あなたと同じやうに感じると、あなたは斷言出來ますか。もし、さうではない、あなたと同じやうに感じない人がゐる可能性もある、と言ふのなら、あなた以外の全ての日本人も對象とする法律の制定には、非常に重要なファクターとして考慮するに値する、と云ふ事になるのではないですか。
僕の場合に逃げ込むのは、やめてください。
あの手のエロ漫畫を描く人間が逮捕されるのは、當り前の社會だと思ひます。
つまり、ここにだけ真剣に反対です。
あとはまあ、もう個人の思想の話になっちゃうので、俺はそういうのは大嫌いですが、どうぞ野嵜さんは己が信じる健全な文化と芸術と社会を追求してください。
仮名づかいを制定する真の目的は、表記を社会的に固定するところにある。したがって、大切なのは、一語一語の綴りを確定することである。定家仮名遣いは、その目的を、かなり理想に近いところまで実現していた。したがって、契沖による復古的な仮名づかいの提唱は、事態に混乱を招く破壊的な雑音でしかありえなかった。
国語政策の質を高めるためには、まず、それを受け入れるがわの意識を高めなければならない。おかみから与えられたものをなんとか消化しようと、ただ懸命に努力したり、その与えられたものを与えるために、おかみにいっそう詳しい指示を要求したりという姿勢を改めて、それがどうあるべきかについての意見を、ひとりひとりが持つように心がけたいものである。国語政策においても、衆愚政治は拒否されなければならない。
現実的な理由から、小松は規範をどうかうしようと考へる事はそれ自體、許し難いものだと信じてゐるらしい。だから小松は、定家假名遣の後に出現した復古假名遣を、口を極めて罵つてゐる。
エロいもん書けなくなったら困る等と云ふ發想が出て來るのか全然わからない。書きたければ勝手に書いて、とつ捕まれば良いだらうと言つた筈だ。
エロいもん書けなくなったら困る、と言ふのは勝手だが、なぜそこから
主張をどう通すかというきわめて実際的具体的な目的のための戦術として法律を何う斯うしようと云ふ發想が出てくるのか全然わからない。既に述べた通り、「法律なんていざとなつたら紙切れ」だと私は述べてゐるのであり、それなのにどうしてわざわざ反對などするのか、そんな事をするのは無意味ではないか、と私は言つてゐる。それに對して、高橋氏は全然答へようとしない。
既存の道徳を踏み越えたところにも描くべき真実、人間の可能性はある。それを追求するのも芸術や文学の役目です。
ポルノ規制が本当に社会の秩序を強化することに繋がるのか?
繋がったとして、社会の秩序を強化するために表現の自由を制限することは許されるのか?
許されたとして、児童ポルノ法案の保護法益とは食い違っていないか?
乱歩はアウト、正史も微妙、新本格もアウトが多いと思う。ハードボイルドもダメだし、ピカレスクロマンの類は全部ダメ。スパイ物もダメ。やくざ映画とかもダメかな。
讀者に殺人を推奬等してゐないと思ふが。「こつちの世界」とは違ふ「あつちの世界」の事として、いづれの作者も意識して書いてゐる筈だが。
俺のどのような態度のことをさして俺のようにと言ってるのか分かりませんが、普通に可能なんじゃないですか?
じゃないですか等と質問されても困る。
というか、たかがエロ漫画に国家の存亡が掛かってるとはちょっと思えないなあ。
たかがエロ漫画等と言へるのなら、別に規制されたつて構はないだらうに、と、さう言つてゐるだけなのだが。
たかがエロ漫画を高橋氏竝びにその手の「反対派」諸氏はなぜ「守らなければならない」と主張するのか。私は「必然性のない事をなぜ執拗に主張するのか」と疑問を呈した。それに對して高橋氏からは結局、納得の出來る説明を受ける事が出來なかつた。
あれが批判されるのは、排斥された芸術が実際には優れていたからなのか、それとも、どんな退廃的作品であれ、退廃的であるという理由で国家権力がそれを排斥するようなことをしてはいけない、というところまで踏み込むものなのか、どちらで解釈するのが一般的なのだろうか。
解釈である筈はない。解釋は、「〜は〜である(だらう)」と云ふ言ひ方でしかあり得ない。
あれが批判されるのは、排斥された芸術が実際には優れていたからなのか――「退廃芸術と呼ばれたものは、実際には優れていたから排斥されたのである」と云ふ「解釈」は正しい解釋ではない。「優れてゐないと判斷されたから排斥される」事はあり得るが、「優れてゐるものだから排斥される」と云ふ事はあり得ない。排斥するには理由が必要だが、その理由は事實ではなく價値判斷による筈である。その邊の事を好い加減に考へるのは、知的怠惰である。
ポルノ表現はそれ自体でもう美であり芸術なんだから、他に何もいらないんだよ。いや、あってもいいけどさ。
改めて言うまでもない事で、そもそもどつちでも良いのならば言はなければならないと云ふ必然性はない。
道徳倫理のことを言っているのか、社会正義のことを言っているのか、法的なことを言っているのか、あいまいです。とTakahashi氏は批判するが、なぜ當方が批判されなければならないのか、全くわからない。
あいまいな主張をしてゐるのは「児童ポルノ法改悪反対」派の方で、だからその邊をきちんと説明して呉れと、こちらが「要求」してゐるのである。曖昧なのはTakahashiさん、あなた達の方なのであつて、私が質問でその邊の事を曖昧に書いてゐるとしても、その原因は飽くまであなた達の側にあるのだ、と云ふ事を忘れて貰つては困る。
殺人が倒錯的快楽として描かれているミステリも多いと思いますが。なる指摘は「エロを倒錯的快楽として描いてゐる『絵師』も多い」と云ふ主張を補強する材料にしかならない。これではTakahashiさん、「児童ポルノ法改悪反対」派の擁護になりません。却つて「児童ポルノ法改悪反対」派の立場を惡くしてしまひます。何と言ふか、譬喩に引つ掛かつて、議論の本筋を忘れた非難に走るのは、拙いです。
非難されてもいいということと表現を規制されてもいいということとは別ですし、レイプについて倫理的に追求すべきではないなどと主張しているエロ漫画家は、そんなにいないと思うのですが。にしても、
もうちょっといろいろミステリを読んだほうがいいのではないかと。ミステリには社会派も新本格派もメタミステリもアンチミステリもあるし、ハウダニット、ホワイダニットものもあるわけで。の
ミステリ等の語句を適當に置換へれば、Takahashi氏に對する批判として通用してしまふでせう。
閲覽者をしてその手の行爲に對する抵抗感を覺える事を失はしめるやうな繪に關しては、法によつて公開を制限するのも當然だらう。大雜把な言ひ方をすれば、「個人の自由」よりも「公共の福祉」を優先するのが、爲政者にとつては當然の事だからである。
その主張自体に反対ですが、それを認めたとしても、問題があります。
それを認めない場合の
反対の理由をこそ、私は知りたい。そこにTakahashi氏やその他の「児童ポルノ法改悪反対」派の人々の本心――そして、その主張の根本的な缺陷――が匿されてゐると思ふからだ。
エロ絵師は、自分のやってることを道徳的に正しいと思ってる人ばかりではありませんよ。そういう人もいるけれども。――「道徳的」に「正しくない」と思ひながら、なぜ「エロ絵師」は「エロ絵」を描くのですか。
「小林秀雄が生きているとしたら」みたいな人だからどうだと言ふのだ。批判にも何もならないジョークを氣のきいた批判であるかのやうに思ひ込んで、得意げに書く奴は果てしなくみつともない。上半身と下半身が結合してゐても、兩者の機能なり役割なりを、人間は區別するものだ。その人間として當り前の事を、「児童ポルノ法改悪反対」派の人間は屡々出來ないのだ。彼等がする區別は、自己を正當化する詭辯の爲の區別でしかない――いや、そもそも彼等は、自己を正當化しようともしないのである。所詮、彼等のする事は「お前だつて間違つてゐるだらう」と云ふ「相對化」に過ぎない。しかし、相手の間違ひを幾ら言立てたところで、自分のしてゐる間違ひは間違ひのままだ。
有害でいかがわしいものをいっぱい書きたいし読みたいのだ。そして、それは道徳的に良くはないが、法的には許されるべきだと思っているのだ。
不健全な文藝ジャンルである、と書いてゐる事を無視してゐる。それが私の結論なのだが。そして、そこから先で私とTakahashi氏との間の評價が分かれてゐる。Takahashi氏は、私の言つてゐる事を否定しようとするのだが、それでは私の結論である「ミステリは不健全な文藝ジャンルである」も否定する事になつてしまふ。しかし、ミステリの魅力として
犯罪行為の妖しいやら何やらを擧げてゐるTakahashi氏が、「ミステリは不健全な文藝ジャンルである」と云ふ私の言ひ方を否定しなければならない理由はない。
とられたら論理として成り立たなくなる類の揚げ足は、誰かがとってあげないとと書いてゐる。しかし、Takahashi氏の揚げ足取りによつて、私の論理は論理として成立たなくなりはしない。却つて私の主張を補強してゐるだけである。Takahashi氏の「揚げ足取り」を讀んで、「ミステリは不健全な文藝ジャンルだ」と云ふ私の結論が「崩潰した」と思ふ讀者は一人もゐない。
有害でいかがわしいものをいっぱい書きたいし読みたいのだ。そして、それは道徳的に良くはないが、法的には許されるべきだと思っているのだ。
どこかの誰かが「良い」と決めた枠から少しでもはみ出すものは書けない社会に君たちは住みたいか?
いや、多かれ少なかれ我々の社会はそういうものなんだけど、それでも少しでも自由でいたいじゃないか。
少しでも自由でいられる状況下では、
有害でいかがわしいものも別に有害ともいかがはしいとも思へない筈である。それは當り前のものにしか感じられない筈である。
どこかの誰かが「良い」と決めた枠から少しでもはみ出すものは書けない社会、とTakahashi氏は言ふ。一方で、Takahashi氏は、
有害でいかがわしいものを、
どこかの誰かが「良い」と決めた枠からはみ出させるやうな法の改定には反對してゐる。これは明かに矛盾である。
どこかの誰かが「良い」と決めた枠から少しでもはみ出してはじめてそれはTakahashi氏にとつて「魅力的」なものとなる筈である。
どこかの誰かが「良い」と決めた枠から少しでもはみ出すものの魅力を語りつゝ、その「魅力的」なものを合法的の枠内に留め、何とか「はみ出させまい」とする。
どこかの誰かが「良い」と決めた枠から少しでもはみ出すものは書けない社会に君たちは住みたいか?とTakahashi氏は書いてゐる。この文章が矛盾を含んでゐる事に、Takahashi氏は氣附いてゐないが、どうして氣附かないのか、私は不思議に思ふ。非合法な文章も「書く」事は出來る。ただ、取締られるだけである。が、「書ける」事と、「書いたら取締られる」事とは區別すべきだらう。
どこかの誰かが「良い」と決めた枠から
はみ出すものとして「魅力的」にはならないのではないか。合法的だが道徳的に非難されるべきものをTakahashi氏は「魅力的」と稱するのであるが、それのどこが魅力的なのか、私には全然理解できない。さう云ふ生ぬるいものに魅力を感じて滿足する、と云ふのが、退廢的な風を裝ふ割に優等生的な日本人である。
俺は「良い」エロゲ(純愛ゲーとか、心温まるもののことかな?)ばっか作っていたくは無いのだ。と云ふTakahashi氏の意見が、「日本人的な生ぬるさ」或は「僞善的」な風潮に毒されたTakahashi氏の精神構造を象徴的に示してゐる。
心温まるもののことが「良い」と云ふ事の定義である、とTakahashi氏は考へてゐる。「児童ポルノ規制法」の提唱者の考へる事をTakahashi氏は推測して言つてゐる。もちろん、提唱者の側も生ぬるいが、その程度の事に反撥するTakahashi氏も生ぬるい。
「児童ポルノ法」が制定されたからと言つて、大概のポルノ畫像には適用されないのではないですか。
日本では、「法律に據る規制」など、所詮、あつてなきが如きものです。そして、それを良くわかつてゐるから、「児童ポルノ法改悪反対」派の人々も、本氣で反對してゐないのです。みんな不眞面目なのです。
"
を一つ書落として括り損ねてゐるし。第一号で紹介するのにもっとも適したサイトと言えば、やはりココでしょう。などと言つてとほほを紹介してゐる。
好評連載中の「かんたんHTML入門」でご紹介している内容は、本来のHTMLの考え方から行くと、あまり好ましくありません。最初のうちは「楽しさ」を覚えていただきたいからなのですが、ある程度理解できてきたら「正確」な考え方もぜひマスターしてくださいね!などと書いてゐる。正しい内容であつても、樂しく教へる事は可能である筈だし、初心者をターゲットにものを教へようとする人間には正しい内容を樂しく學べるやう、教へ方を工夫する努力が必要なのだが、なぜかその種の努力をしないで安易なやり方に流れるいんちきなガイドが餘りにも多い。
私にとって一番読みやすい文字サイズは12pxで、1pxでもサイズが上下すると(ほんの少し)読みにくいのです。だから固定します。
なんの根拠も無しに相手を無条件に悪者にしたい、
相手が悪者である根拠を示すのがめんどくさい、もしくは根拠を示せない、と云ふ人が好んで使ふものではないか。はつきり言ふと、豫め反論を封殺する言ひ方であつて、論理的な批判や意見を表明する自由を認めた「言論の自由」を否定する言ひ方である。言論の自由を標榜しながら、「改悪反対」なる文句を使ふ輩は、言論の自由をそもそも信じてゐないのである。單に鬪爭の爲の道具としか見てゐないのである。
「空想の存在」を処罰の対象とするのは、殺人事件を扱った小説の作者は殺人者だと言うのと同じ!等と言ふのは、明かに不當な比較だ。推理小説の作者が殺人を快樂として誰もがすべき行爲として推奬してゐるのでない事は、餘りにもわかり切つた話だが、世間のエロ画像の「絵師」はエロ的な行爲を推奬しない態度をとつてゐると言へるだらうか。
殺人事件を扱った小説が増えるのは苦々しい事で、ミステリが昨今流行するのは好ましくないと私は思つてゐる。ミステリならば大概、犯人が捕まる勸善懲惡のストーリーになつてゐるので、まだ「犯罪への抑止力」にはなるだらうと思ふのだが、それでも殺人事件を描いて殺人と云ふ事を倫理的に扱ふ事のない、本質的にフーダニットであつてパズル的な面白さのみを追求するミステリは、不健全な文藝ジャンルであり、もし殺人と云ふ事を倫理的に眞劍に追求すべき事ではないと作家が思つてゐるのならばその作家は非難されて良いと私は思つてゐる。だから、「エロ絵」にしても「絵師」がその手の行爲の是非について眞劍に考へた事もないのならば、當然非難されて良いと思つてゐる。
新潮文庫には栞紐がついているのですが、これの使い方を知らない人がいたことを思い出しました。「読書を中断するときに、紐をはさんでおくと便利でしょ」と教えてあげたら、とても感謝されたのですが、中学時代の話ですよ、これ。で、その人いわく「なんで他の文庫も栞紐を用意しないんでしょうね?」
私の回答はもちろん、「だって、せっかく用意しても使い方を知らない人が多いわけで……」
若いが身なりのいい客こと松原正氏と郡司勝義氏が中目黒にあつた麥書房で出くはした時のエピソードが出てゐる。