闇黒日記

平成十五年七月三十日
まさかコボちゃんとねたがかぶるとは思つてゐなかつた。
平成十五年七月三十日
とくほまにあっくす
徳保氏は自分で自分は好い加減だと言つてゐるのだから以下略。「以下略」と私が言つてゐる時の意味は某紋切型辭典を參照の事。
ちなみに、野嵜はじょせいのみかたです。ちかんはゆるしません。
平成十五年七月三十日
新譯の『ファースト・レンズマン』を讀了(舊譯は讀んでなかつた)。結構面白く讀めた。正傳四册を讀んでゐるから面白いのであつて、これから讀み始めるのは或意味、不幸。
『サムライ・レンズマン』から讀み始めるのも、個人的にはおすすめしない。正傳のストーリーとキャラクタを、知つてゐるのとゐないのとで、外傳・番外篇の面白さは全然違ふ。
平成十五年七月三十日
DIGIMIX Studio
このクオリティでリメークされた最初のヤマトを觀たい。
※以下、サイトの紹介とは何の關係もない、一ヤマトファンの意見です。
新作ヤマトは要らない。松本氏と西崎氏は、二人とも、ファンが何を望んでゐるのかを全く考へてゐない。自分の都合でヤマトワールドを作つて、喜んでゐるだけだ。ファンがヤマトと云ふ作品の、何を愛してゐるのか、松本氏と西崎氏は、わかつてゐるのか。わかつてはゐまい。ファンはヤマトのテーマ等に興味はないのだ。
ヤマトの最初のTVシリーズ。あれが大量の基本的な科學上の間違ひを含みながら、にもかかはらず、SFとして大變に面白いものであつた事を、松本氏も西崎氏も、理解してゐなかったし、いまだに理解してゐない。
そもそも、太陽系の惑星は一列に並んでゐる譯ではないし、西暦2199年に直列する筈もないから、内側の惑星から外側の惑星へとヤマトは一つ一つ巡つて行かなくて良い。そもそも、惑星を巡らなければならない必然性は全くない。惑星の公轉面とは垂直の方向に航行しても全く問題はない。なのにヤマトは、月→火星→木星→土星→冥王星と、馬鹿正直に惑星巡りをしてゐる。ヤマトの航行の仕方は間違つてゐる。
火星に雪が降つてゐる。木星に浮遊大陸がある。タイタンのコスモナイト。冥王星に海がある。――全部、科學的・天文學的に、出たら目だ。
だが、これらの出たら目があつてヤマトなのである。「さらば」以降、これらの「出たら目」は「無かつた事」にされてしまひ、妙にリアル指向の作品になつてしまつたが、シリーズで一番面白いのは最初のTVシリーズである。これは絶對に讓れない。「永遠に」は、或意味とても面白いのだが、最初のTVシリーズに比べれば格段に落ちる。
最初のヤマトが持つてゐた、視聽者の期待を煽る異樣な「濃さ」――「熱さ」とは微妙に違ふ――を、「さらば」以降のヤマトは全く持つてゐない。そしてそれを、西崎氏が嘗つて作つた「新作」は當然のやうに持つてゐなかつたし、西崎氏が作らうとしてゐる新作にもないだらうし、松本氏が作りかけてゐる「大ヤマト」も持つてゐない。「大ヤマト」は、「さらば」や「永遠に」のやうに、變な方向に行つてしまつて、最早、ヤマトのパロディにしかなつてゐない。それもかなり醜惡なパロディだ。松本氏は、自分のデザインしたヤマトが完璧なデザインで、基本的に何も追加出來ないものである事に氣附いてゐない。ごてごてと餘計なもののくつ附いた「大ヤマト」は、醜惡を超えて滑稽ですらある。あれを松本氏は「恰好良い」と思つてゐるのだらうか。もし本氣でさう思つてゐるとしたら、松本氏のセンスはをかしい。「西崎氏への當てつけ」と考へれば納得出來てしまふのだが、そこまで松本氏は考へてゐないだらう。ただ、「上下のない宇宙空間を飛ぶ宇宙戰艦なのに、船の下部に兵装が無いのはをかしい」と云ふつつこみを氣にし過ぎて、合理的に考へた結果、あんな事になつてしまつたのだらう。だが、ヤマトのデザインは、デザイン的に考へるべきである。艦底に裝備された武裝としては、「完結編」のがある。あれこそが正しいヤマトの艦底の兵装だ。大きく艦底が開いて對ハイパー放射ミサイルビーム砲が迫り出してくる、あの亂暴な設定は、しかしヤマトのデザインと調和し、視聽者を納得させる説得力を持つてゐた。松本氏の「大ヤマト」の艦底の兵装は、説明が附けられてゐるが、それゆゑに醜怪である。
STATION T.T.B.
めも。
やつぱり最初のTVシリーズ、本格的にリメークして貰ひたい。
平成十五年七月三十日
せつかく書いたので、消さないでそのまま公開しておきます。熱く語らないで下さい>>俺。

平成十五年七月二十九日
變り映えのない日々を送りつゝ、敢て變つた事があつたかのやうに書くのは、無理がある。
平成十五年七月二十九日
長篇小説や戯曲を紹介するのは割と易しい事だ。荒筋を書いて、登場人物を紹介し、その心情についてちよつと考察しておけば、大體の場合、それで濟んでしまふ。
難しいのは論文集の紹介だ。個々の論文の荒筋を書いても仕方がないし、登場人物は存在しない。取敢ず、全編通して一貫してゐる――或は、してゐない――筆者の主張を抽出し、一つの論理として再構築し、批判を加へる方法はある。が、それをやるなら、全ての著作を通して考察しなければ、不徹底である。
同じ事が、隨想集・隨筆集についても言へる。批評家、随筆家は、同じやうな傾向の著作を何册も出すもので、それらを個別に紹介するのはとても厄介な事である。
一番手つ取り早い評論集の紹介のやり方は、馬鹿だの阿呆だのと罵る事で、手つ取り早いが故にウェブでも何處でも割と一般に行はれてゐる。しかし、良いと思つて紹介しようとしてゐる評論集にそのやり方は通用しない。
平成十五年七月二十九日
結局『ヴェルレエヌ研究』を買つて來た。
本日もやつぱり大失敗。萬札をもう一枚、財布に入れておくべきだつた。鈴木信太郎『ヴィヨン雜考』を買ひ損ねた。ほかに何册も買ひ損ねた。
川崎さいか屋の古本市、規模の割に良い本が多かつたやうな印象。割と高い本が多かつたやうな氣もするが、どれも相場より高いとは言へない値段だつた。
取敢ず、萬札をもつと持つて行くべき古本市だつたと。まあ、京王とか伊勢丹とかの古本市をあとに控へ、今の時點でそんなに御金を使つてゐたら破産するかも知れない譯で。
平成十五年七月二十九日
ウェブサイトを見てゐると、本を買ふ側が「○○デパートの古本市に參加して來ました」と書いてゐたりする。古本市に參加するのは古本屋ではないか、と思ふのだが。
「參加した」などと抽象的な言ひ方をせず、「見に行つた」「買ひに行つた」とか、「出展した」とか言つた方が、ずつと解り易い。と思ふ。
平成十五年七月二十九日
めも。
純粋造本 −江川書房と野田書房−
第一書房
装幀家としての青山二郎 @ [ひょうたん島独立国]
青山二郎 @ [ひょうたん島独立国]

平成十五年七月二十八日
Google 検索: 掲示板荒し
一位ですかむう。
平成十五年七月二十八日
川崎さいか屋の古本市に行くのに大失敗。萬札を財布に入れ忘れた。
辰野隆『ボオドレエル研究序説』、齋藤磯雄『ボオドレエル研究』、鈴木信太郎『文學遁走』を購入したが、堀口大學『ヴェルレエヌ研究』を買へなかつた。

平成十五年七月二十七日
反體制派に「勝てば官軍」式の發想は似つかはしくない。
平成十五年七月二十七日
體制側の人間も、反體制の人間も、自分を批判しない點では似たやうなものである。
平成十五年七月二十七日
論戰で勝つか負けるかは全く無意味である。論戰の勝敗と、主張の正邪とは、因果關係がない。
ただ勝つ爲に論戰を行ふ人がゐる。論爭は、何が正しくて何が正しくないのかを明かにする爲に行はれるべきものであり、勝つ事によつて自己顯示欲を滿足させる爲に行はれるべきではない。
他人を貶めて快を貪る人間は最低である。
平成十五年七月二十七日
詐欺師は微笑みながら近寄つて來る。だが、どれほど善意に見せかけようとしても、腹黒い人間の惡意は隱し切れないものだ。
平成十五年七月二十七日
ただ惡意を剥き出しにすれば良いと云ふ譯ではない。その種の「正直」は、誰にも賞讃されない。
平成十五年七月二十七日
論爭は、雙方の論者が一定以上の常識と、一定以上の判斷力とを持つてゐないと、成立たない。
自分の主張が論理的に間違つてゐる事を理解出來て、自分が負けた事を素直に認められる人は、論理的に正しい事を言つてゐる人と、頭の程度において差がない。
何が正しくて何が正しくないかを理解出來た人間は、論爭で負けたとしても卑下する必要はない。況して、論戰で負ける事はそれ自體、恥入る必要のない事だ。
平成十五年七月二十七日
論戰で、理窟の通つてゐない事を喚き立て、相手を威嚇して、勝つた氣になる人間は、そもそも愧ぢる能力を持つてゐない。
耻ぢない人間よりは、耻入る人間の方が、まだしも好ましい。
耻入る機會を囘避する爲の努力しかしない人間とは近寄りになりたくないものだ。
平成十五年七月二十七日
餘談だが、詐欺はそれ自體、惡くない。惡いのは、詐欺が露見する事だ。欺された人間は、最後まで欺され續ければ、幸福である。不幸になるのは、自分が欺されてゐたと氣附いたからである。
詐欺師の奬めを書いてゐるのではないが、人間ならば、結果として自分が他人を欺してゐた事に、或は誰かが進んで自分に欺されてゐた事に、氣附いてしまふ事もあるだらう。そこで正直になつても、互ひに幸福になれるとは限らない。さう云ふ時は、最後まで巧く相手を欺し續ける努力も必要だ、と云ふ事。
キリストを、史上最大の詐欺師と呼ぶ人もゐるが、あれほど巧みに「他人を欺した」存在はない。今に至るまで、キリストの「詐欺」は、本當に詐欺だつたと完全には斷定出來ない。
平成十五年七月二十七日
カトリックの教會では、聖人を認定する際、「惡魔の辯護人」が登場する。その聖人候補者が聖人でない事を主張する「惡魔の辯護人」を、聖人を聖人と認めようとする教會の側の人間は、論破しなければならない事になつてゐるさうである。
平成十五年七月二十七日
おもてで土鳩がどーどどっどどーと啼いてゐる。土鳩とは良く言つたものですね。
平成十五年七月二十七日
「お前の言ってる事は絶対に正しいのか?」などと言はれれば誰だつてたぢろぐが、相手をたぢろがせる爲に提示された質問なのだから土臺、深い考察があつて提出された疑問ではない。何もたぢろぐ必要はない。「現在の議論に於いて相對的に正しい」事を言ふだけで十分だ。
ただし、一聯の自己の主張に於て矛盾のないやうに論理を構築する事は忘れないやうに。その場限りの理窟を言ふのは勝手だが、その場だけ相手を凹ませても意味がない。
何も、量子力學の世界から相對理論の世界までをウェブ日記や掲示板の片言隻句で全て語れる譯がない。自づから論理の一貫してゐれば良い領域も決つて來る。常識的な範圍で、互ひに矛盾しない程度の發言をしてゐれば良いのだ。
逆に、常識外れなまでに、嚴密かつ廣範圍に亙る完璧な意見なるものを求めるやうな人間も、そこまで要求する自分の態度が正當かどうかを一度、反省すべきである。

平成十五年七月二十六日
Google 検索: らしひ
「現代仮名遣」を使つてゐる人には必ずしも腹は立たないけれども、わざと間違つた假名遣を使つてゐる人には腹が立つ。
平成十五年七月二十六日
かつて岩波書店のオピニオン雜誌「世界」に連載された「韓国からの通信」の筆者「T・K生」の正體は池明観氏であると、asahi.comが報じてゐる。
「韓国からの通信」には、根も葉もないデマや嘘の類が大變多かつた。そして、惡質なレトリックが極めて多かつた。
松原正氏がかつて、反韓派知識人に問ふ(松原正著『道義不在の時代』)で、T・K生の文章を論じた事がある。
平成十五年七月二十六日

昨日というより今朝の3時頃日記を更新した後、今週の『アソボット戦記五九』を見た。オーロラ編の3話目。一部ではかなりクソミソに貶されているようだが、オレは結構このアニメは楽しみにしている。主人公の五九のキャラに山口勝平の声がえらく合っているように思われ。ようじょ三人も良かった。

ようじょ云々はともかく、山口勝平を巧く使つてゐるのが良い、と云ふのは、非常に説得力のある意見のやうに感じられる。
取敢ず、「思われ」「しますた」はやめて貰ひたい。
あにめのキャプチャ畫像に關する議論はどうでも良い。
平成十五年七月二十六日
春秋社/トップページ
いつの間にかスタイルシートベースの作りになつてる。
HTML的には微妙に惜しい感じ。

平成十五年七月二十五日
營團地下鐵半藏門線→東急田園都市線。營團の新しい車輌に乘つた。加速は良いのだが、運轉士がすぐに力行をやめる。
平成十五年七月二十五日
トリトンにもイデオンにもブレンパワードにも言及してゐない譯だし。
「闇黒日記」のスペースで、全てを語れと言はれても無理。
富野喜幸(現 由悠季) 総監督・原作 作品
平成十五年七月二十五日
事実がありさえすればいいんです。こいつはここでこう書いた、それだけ。
伝えたい中身とか伝わりやすいとかそーゆーのは二の次でいいの。
「事実」と「中身」とを區別してゐるが、私は區別しない。當り前だ。
この場合、「こばもすさんという第三者」は「僕」と「こばもすさん」のやりとりを見て「僕」の情報のうち「僕の態度」という情報を採用してウザいと判断した、という流れ。
「僕の××」と云ふ極めて相對的な視點に基いて命名された概念は、一般的な「 ××」なる概念とは異る。だから、「情報」と「僕の情報」とは異るし、「態度」と「僕の態度」とは異る。そして、「僕の情報」なり「僕の態度」なりを基準に全てを裁斷しようとするのは、それ自體、個人的な感情の押附けである。

平成十五年七月二十四日
そんなに「私」の事を知つて貰ひたいのか、そんなに讀者が「私」の事を知りたいと思つてゐるのか――私が「ウェブ日記」にもblogにも反感を抱く理由。
自分の事など書かない方が良いし、知られない方が良い。「私」は匿すべきだ。
平成十五年七月二十四日
胃が痛い。
平成十五年七月二十四日
小田急3000形に乘つた。加速は割と良い感じなのだが、急行の癖にすぐ力行をやめるのが氣に入らない。それと、驛では客の乘り降りもないのにのんびりとまつてゐるし。
京王の電車は、驛の直近まですつ飛ばすし、驛に著いたら即座に發車する。
平成十五年七月二十四日
ISO/IEC 15445/2000 Girl!
ISO/IEC 15445/2000 Girl!
FOAF Girl!
Anyways I think she suits ISO/IEC better than FOAF! And the ISO/IEC icons on the t-shirt worked out quite well given my lack of graphics knowhow...

平成十五年七月二十三日
Google 検索: an error occurred while processing this directive
Google 検索: You don't have permission to access / on this server.
平成十五年七月二十三日
めも。
ネットジャーナル「Q」

平成十五年七月二十二日
Mozilla Firebird
This site (formerly known as "Mozilla Firebird Help") is now the official Mozilla Firebird site.との事。

平成十五年七月二十一日
ITPro ニュース:AOLがNetscapeの歴史に事実上の幕,200万ドルの「手切れ金」でMozillaを解放
平成十五年七月二十一日
今の若いガンダムファンは、ザブングルもダンバインもエルガイムも知らないまま、富野論を書いたりする。私もその邊の富野あにめは餘り觀てゐないので、深く突つ込んで論じはしませんが。
キッズステーションでまたエルガイムをやつてる。どう考へても「明るいガンダム」ZZはエルガイムの直系の子孫だし、この邊の作品こそが富野あにめのメインストリームなのではないかと思ふ。ブレンパワードにしても∀にしても、原點はエルガイム邊にありさうな氣がする。
富野氏のあにめは、割とリニアに發展してゐるので、ガンダムだけ取り出して論ずると、結構、取りこぼしが出る。Zのカミーユの行動とダバ・マイロードのそれとも、比較すると面白い事になる筈。

平成十五年七月二十日
『涼宮ハルヒの憂鬱』の感想文をめぐつて、谷川流の文體とか構成とか論理とかの議論そつちのけで感想文作者の文體や構成や論理の議論が大々的に行はれてゐるやうですが、『学校を出よう!』の第二卷が八月に出るさうですよ。私は一應買ふ豫定。
平成十五年七月二十日
Google 検索: ぽつかれ
接頭語「お」を「ぽ」と言ふのは何處の方言なんですか?

平成十五年七月十九日
本日の買物。
松屋の古本市にて。
『森銑三著作集 第四卷』中央公論社
『與謝野晶子詩歌集』創元選書223 ※確認してゐないけれども多分ダブり
D.H.ロレンス『エトルリア遺跡』不死鳥社
スタンダール全集『アルマンス』河出書房
東方學術教會編『中國史學入門』平安文庫
ほかに教養文庫。
神保町にて。
服部四郎『一言語學者の隨想』汲古選書1
西谷啓治『宗教とは何か 宗教論集1』創文社
O.S.ウオーコップ『ものの考え方 合理性への逸脱』講談社学術文庫
メルヴィル『南海物語(TYPEE)』早川書房
平成十五年七月十九日
影鷹で、「縦書きHTML文書」のかくして假名遣は守られたを閲覽してみた。
TategakiKakushite.png
やはり、「縦書きHTML文書」は作るべきでない。
平成十五年七月十九日
山寺の和尚さんてるてるぼうずも。
TategakiTeruteru.png

平成十五年七月十八日
小沼丹『黒いハンカチ』(創元推理文庫)を購入。
太い赤縁のロイド眼鏡をかけると名探偵に變身する女教師ニシ・アズマを主人公とする連作短篇。
とにかくニシ・アズマ先生が素晴らしい。萌える。
表記は、遺族の意嚮により新字新かなに變更されてゐる。どう見ても正假名遣の方がふさはしい作品なので改惡。

平成十五年七月十六日
舊日本軍は、アメリカやイギリスを憎めとか、アジア全體で一つの經濟共同體を作らうとか主張したけれども、自由とか民主主義とかに匹敵する魅力的な理想を示せなかつたから、必然的に敗北したのだと思ふ。
日本軍は、自分逹が戰術的な勝利を得てゐるかのやうに「大本營發表」で宣傳したが、事實として戰略的に完敗した。だから「大本營發表」と言へば信用ならないものと言ふ事になるのだが、假に、日本がアメリカに軍事的に勝利してゐて「大本營發表」が事實を傳へてゐたとしても、理念的に日本の軍國主義がアメリカの民主主義よりも「正しい」ものであつたと言ふ證據にはならない。
どつちみち、利益を求める爲だけの戰爭で勝つたところで、その國の掲げる大義名分が正しい事は證明された譯ではない。「勝てば官軍」と言ふが、明治維新の時、幕府軍に勝つた官軍が掲げてゐた大義名分「尊王攘夷」のうち、「攘夷」はすぐに撤囘されたのである。
理念が眞實であるかどうかと、戰術的な勝敗とは、全く無關係である。宣傳戰で、無意味な事を宣傳して、戰術的に勝つたところで、意味はない。

平成十五年七月十五日
電車で居眠りしてゐたら喉がきりきり痛むやうに。
平成十五年七月十五日
正字正かな作家・若合春侑さんのデビュー作『腦病院へまゐります』(文春文庫)を買つて來た。何度見てもカヴァの寫眞は怪しげ。
平成十五年七月十五日
のあ∩あやの
更新しないのかな?
公式ののあとあやのイラストを描かうと苦心した結果のラフを家族に見られて鬱。
平成十五年七月十五日
「裸の王樣」は、子供に「王樣は裸だ」と指摘されて、恥入つたさうである。

平成十五年七月十四日
Google 検索: 激しく嫌い
かう云ふ變な言ひ方は感心しない。でも、檢索すると、333件も引つ掛かつた。
Google 検索: 激しく嫌
こちらだと1040件。
gooの「国語辞典」ではヒットせず。さすがに一般化はしてゐないやうだ。
平成十五年七月十四日
BIGBOXの古本市でいろいろと。
今囘は、講談社現代新書とか岩波新書とか中公新書とかが大量に出てゐるので、興味のある人は見に行くとよろし。
唐木順三編『シンポジウム思想の饗宴』とか、和辻哲郎・高坂正顕・森有正・西谷啓治・唐木順三『共同討議ドストエフスキーの哲學』とか、その他いろいろ購入。

平成十五年七月十二日
BIG BOXの古本市で、安本美典氏の著作(大野晋批判を含む)等を購入。

平成十五年七月十一日
FoaF作成・編緝用のプログラムは出てゐないのかな?
FoaFは、テキストエディタで作るものではあるまい。作つてはいけないと云ふ決りもないが。
個人がローカル環境で使用する友人データベースは、FoaFとは無關係のものであつても構はない筈。ネットワーク上の隣人と情報を共有する爲のデータとして公開されるのがFoaFである筈。
平成十五年七月十一日
あにめが始まるので、何年も本棚で眠つてゐた阿智太郎『住めば都のコスモス荘』(電撃文庫)を通讀してみたり。
阿智氏、デビュー以來、一つのエピソードがどんどん短くなつてゐるのだけれども、ちやんと嚴密に構成された長い御話をまた讀みたいと。
『僕血』シリーズみたいに、一册で一つのエピソードを、じつくり描いて貰ひたいと。デビュー作の構成は完璧だつた。
平成十五年七月十一日
Google 検索: しいると思います
多くは誤。「している」の「て」がなぜか拔けてゐる。
「少しいると思います」は正しい。

平成十五年七月十日
『涼宮ハルヒの憂鬱』讀了。
變な美少女キャラは案外簡單に作れるものだ。ただ、最初のテンションをどこまで維持出來るかが問題。
平成十五年七月十日
多賀一史『写真集日本海軍艦艇ハンドブック』(PHP文庫)を讀んでみたり。
多賀氏の文章は、そこはかとなく「てにをは」が變だ。
平成十五年七月十日
物語の讀過ぎで現實と虚構の區別がつかなくなつて、實在しない女の子に萌え捲つたり自分が物語の登場人物になつた積りになつたりしたドン・キホーテはヲタの御先祖樣。
あゝまで電波な妄想にとち狂つたドン・キホーテを創造したセルヴァンテスは神。

平成十五年七月九日
ごみ捨て場から平泉澄『物語日本史』(講談社学術文庫)を保護してきたり。例によつてダブり状態。時事通信社版も以前、古本市で間違つて保護してきた事がある。
谷川流『学校を出よう!』(電撃文庫)を讀了。笹本祐一『妖精作戦PART III カーニバルナイト』をそこはかとなく想起しつゝ『涼宮ハルヒの憂鬱』(角川スニーカー文庫)を讀み始めたが、こちらも何かそんな感じ。
井筒俊彦『意識と本質』(岩波文庫)を讀まうとしたのですが、一ページ目で挫折しました。情けない。
平成十五年七月九日
Google 検索: アミニズム
Google 検索: アニミズム
平成十五年七月九日
エンタープライズ:Internet Explorer 6が「c:\aux」でフリーズするバグ
うちのInternet Explorer 6(SP1、Q328970以下略のパッチを當てた奴。on WindowsXP Professional SP1)、c:\prnでも落ちたよ。c:\lpt1c:\com1c:\com2でも落ちた。
c:\nulでは、なぜかc:\からnulをダウンロードしようとしてダイアログを開いて呉れる。
平成十五年七月九日
と学会公式HP
HTML文書の記法は「トンデモ」。あと、メンバー專用のコンテンツは、iswebの規約上、問題あり、の筈。

平成十五年七月八日
サイト紹介。
Netscape Users' Forum (FNSCAPE)

平成十五年七月七日
サイト紹介。
七夕なので天文サイトを。
HP2!
今月の星空
今年の「正しい七夕」は八月四日。

平成十五年七月六日
影鷹 : ホーム
スクリーンショット:影鷹で「言葉 言葉 言葉」を閲覽したところ
CSSもちやんと解釋してゐる。

平成十五年七月五日
サイト紹介。
私的Windows概論
なにもかもなつかしい。
平成十五年七月五日
初心者のためのホームページ作り/Web for beginner ホームページ作成支援
DTD ISO-HTML仕様/初心者のためのホームページ作りがISO/IEC 15445:2000としてinvalid。h1をdivの中に置いてゐるから。

平成十五年七月四日
サイト紹介。
さようなら「五島プラネタリウム」&「東急文化会館」
平成十五年七月四日
真千絵さんが病氣です。
Google 検索: 帯状疱疹
おだいじに。

平成十五年七月三日
サイト紹介。
INTAP セマンティックWeb委員会
セマンティックWeb関連文献 翻訳資料
平成十五年七月三日
ZDNN:「Netscapeの消滅は確実」――アンドリーセン氏
ZDNN:アンドリーセン氏、“ブラウザの革新停滞”を痛烈批判
ZDNN:アンドリーセン氏、ブラウザの現状を痛烈批判
PCUPdate:Netscapeが7.1になり、タブブラウザ、ポップアップ広告抑止機能が追加
ZDNN:Netscapeが生き延びていてくれたら……
ZDNN:MSとAOLの和解は「業界を変える」か?
ZDNN:Netscapeはもう終わりなのか
これだけ見れば「もうNetscapeは御終ひ」「ウェブブラウザに未來はない」みたいな氛圍氣。
しかし、そもそも「ハイパーテキスト」自體が、最初に提唱されて以來、技術面を除いて、概念的には全く進化してゐないのである。インターネットにWWWを載せた事、WWWの世界にMosaicやNavigatorが登場した事は、實用化の面から見れば劃期的な事だつたが、最初に提唱されたハイパーテキストの理念を超えたものとはなつてゐない。
多くのゲームにしても、ハイパーカードにしても、はたまたWindowsのヘルプシステムにしても、全て廣義のハイパーテキストに含まれると私は思つてゐる。そして、ハイパーテキストは、「より樂しく」とか「より便利に」「より使ひ易く」とかいつた方向には發展してゐる。しかし、ハイパーテキストは、メディアの一つである限り、メディアとしての定義を超えた進化をする事はあり得ないのではないか。
スパムや廣告の遮斷機能を備へる事が、ブラウザの革新であるとは思はれない。CMのスキップ機能の附いたヴィデオデッキがヴィデオデッキの革新であつたと私は全く思はない。
ただ、東芝のRDスタイルに搭載された、ユーザが簡單に録畫した映像を編緝して保存出來る機能は、CMの削除を超えた、ユーザによる積極的な映像作品への關與の可能性を實現したものだ。RDスタイルは、從來の「録つて觀るだけ」しか出來なかつたヴィデオデッキを超えたと言つても良い。
となると、ハイパーテキストの進化においても、閲覽者による既存のウェブ文書への關與が重要な鍵となる筈だ、と言へるのではないか。
だが、それは、WWWを提唱したティム・バーナーズ・リーが最初に考へ、最初のブラウザで實現した事であるが、同時に、現實のウェブの進化において完全に無視された事である。
Amayaが、ブラウジングと同時に、閲覽者による直接の編緝を可能としてゐる事は、W3Cが依然、ブラウザの進化の一つの可能性として、このやうな文書の利用方法を考慮に入れてゐる事の證據である。が、MozillaにしてもInternet Explorerにしても、Safariにしても、Amayaのやうに編緝機能をブラウザ自身が持つ、と云ふ事は開發において全く考慮に入れられてゐない。
最初のブラウザWWWに比べて、Mosaicが「革新的だつた」と言ふ事は、或意味、本質的な誤を含んでゐるとさへ言へる。
平成十五年七月三日
一應書いておくと、「つつこみを入れられる日記」「相互につつこみ合へるBlog」「みんなで作れるWiki」の類は、「ブラウザ側、閲覽者側による文書そのものへの積極的な關與」とは似て非なる方向へのウェブの進化だと思ふ。
平成十五年七月三日
などと書いてゐるけれども、個人的にはこの種の「進化」は全然信じてゐないのであつて、テキストは所詮個人のものであり、「一個人から解放されたテキスト」が文藝の革新とか何かの革新になるとは全然思はない。
例へば、大昔にはいろいろな人が寄つてたかつてテキストを磨き上げて「オデュッセーア」のやうな立派な詩を作り上げた事があるけれども、共同作業によつて立派な藝術が生れるには、作業に參加する人間の人間性が決定的な要素となる。古代に於ては、詩を愛好する人間のネットワークがあつたにしても、極めて限定的で、當然、參加者も極めて限定された、自然、極めてハイレヴェルな集合となつてゐた筈だ。しかし、現代のインターネットに於ては、共同作業は屡々、ノイズを集める事にしかならない事が多い。ネットワーク外でのコーディング作業が發生するオープンソースのプログラム開發は別として、テキストベースの共同作業は、制約のないネットワーク環境ではものにならない可能性が高い。
平成十五年七月三日
今頃になつてガンダムエース八月號を買つて來た。
ANIMAXの放映で消されてゐる或言葉が、四十四ページ最下段左の駒に、はつきり印刷されてゐる。
平成十五年七月三日
サイト紹介。
風博士

平成十五年七月二日
サイト紹介。
Y Sugiyama
微ニ入ルソウル
微ニ入ルソウル〜倉庫
平成十五年七月二日
サイト紹介。
ほうりんじつうしん
平成十五年七月二日
サイト紹介。
ギリシャの箱(古典ギリシャ語)
硯箱
平成十五年七月二日
サイト紹介。
デジカメ写真集(300万画素クラス)
平成十五年七月二日
CNET Japan - Netscape 7.1が公開、ただし「一寸先は闇」

平成十五年七月一日

「日本=武士道/禅」なんて浅薄なステレオタイプを持ち出すのは一部の低レベルなメディアだけです。そして、「ヨーロッパ=キリスト教」という図式化はそれと同レベルだと申し上げているのです。おわかりですか?

そもそも、「日本文化=武士道/禅」なる觀念が間違つてゐるのだから話にならない。まともな海外知識人ならば、「日本の文化=神道文化」と云ふ事をきちんと理解してゐる。そして、「日本文化=神道文化」と對照的に「西歐文化=キリスト教文化」と云ふ圖式を提示するのは當然の事だ。
「日本文化=武士道/禅」などと、わざと俗流解釋を持出して、それと「西歐文化=キリスト教文化」と云ふ圖式を對照して見せるのだから、平野氏は惡質。それと同レベルだ等と平野氏は言つてゐるが、レヴェルが違ふ。レヴェルの違ふものを、平野氏はなぜ、恰も同じものであるかのやうに極附けるのだらうか。武士道にしろ、禅にしろ、日本の文化の一側面に過ぎないし、海外の低レベルなメディアの想定する「BUSHIDO」や「ZEN」とも全然違ふ。私は、「頭にちよんまげを載せたSAMURAIが、耻をかかされたらHARAKIRIをする」と云ふやうな「BUSHIDO」なる觀念と同レヴェルの、低レベルな理解、或は誤解に基く「キリスト教」なる觀念を、想定して、話をしてはゐない。
ちなみに、「神道文化」と云ふ事を、平野氏は極めて淺薄なレヴェルでしか理解してゐないだらうから、まともな反論をしないだらう。神社に行く事が「神道文化」ではない。物事を曖昧にしか考へないとか、和を以て尊しとなすとか、思考樣式や行動樣式、生き方、人生觀、世界觀(以下略)等をも含めた日本の文化全體の事を指して「神道文化」と私は言つてゐる。平野氏の考へる「神道文化」の概念で私の考へる「神道文化」を規定しないで貰ひたいと希望する。
平成十五年七月一日

日本の保守主義者にしてもそうですが、保守主義というのは常に「保守すべきものは何か=自らのアイデンティティは何か」という問いかけにさらされています。ヨーロッパに目を向けてみれば、たとえばヒトラーはゲルマン文化を真に守るべきものとし、ムッソリーニは古代ローマの復興を夢見ました。キリスト教に自らのアイデンティティを求める者も少なくありません。彼ら彼女らは、自分の信ずるものこそヨーロッパの本質 (essence) であり「本当のヨーロッパ」であると主張し、そこへの回帰を主張してきました。

ナショナリズム(此所では國粹主義の意)と、傳統主義とを、平野氏は混同してゐる。平野氏は、右か、左か、と云ふ視點からしか、物事を見てゐないのではないか。
或は、ヒトラーやムッソリーニを持出して、保守主義の代表者であるかのやうに見せかけるのは、やめていただきたい。それとも、平野氏は、保守主義とはナチズムやファシズムであると信じてゐるのだらうか。その可能性は大いにあると、私は思つてゐるが、ここでは一應、さうではないのだらうと、好意的に解釋しておきたい。

ゲルマン文化、ケルト文化、古代ギリシア文化、古代ローマ文化、アラビア半島からの影響(キリスト教を含む)、アフリカ大陸からの影響、ユーラシア大陸の他の部分からの影響……そうしたありとあらゆる流れが渾然一体となって現在のヨーロッパ文化を作り上げてきたのです。そのうちどれが本質でどれが本質でないかなどと論じることは無意味です。どれ一つを抜かしても、「ヨーロッパ」はありえなかったのですから。あらゆる要因は essential です。もちろん、そうした諸々の要因の中で影響力の大小を論ずることはかまいませんが、影響力の比較的大きい一要因だけを取り出してそこから演繹的に全てを説明しようとすると必ず破綻をきたします。

全てを説明しようとなどしてゐない。もし本當に全てを説明しようとするのならば、個人は個人以上の存在ではなくなる。
そうした諸々の要因の中影響力の比較的大きい一要因を、飽くまで傍證として採上げて、説明に使用しただけだ。演繹的ではなく、逆に、多くの傍證から歸納的に説明を附けてみようとしただけだ。
私は、平野氏と同じ考へ方をしてゐない。或は、平野氏は、自分の考へ方を私にも押附けないでいただきたい。平野氏が合理主義に拘り、理念から演繹して現實を解釋してゐるのに對し、私は飽くまで經驗に基いて歸納的に理念を追求してゐるに過ぎない。

キリスト教に契約の要素があることは認めます。しかし、(前にも述べたとおり)契約はキリスト教の専売特許ではありません。ゲルマン文化にもケルト文化にも独自の法概念・契約概念はありました。古代ローマは、キリスト教国化するより800年も前に、本格的な市民法体系を作り上げています(紀元前450年頃、いわゆる十二表法。契約手続に必要な要式行為などについて規定している)。それらが全てが複雑精妙に混じり合って現在に至るヨーロッパの法文化を築き上げてきたのであって、それをキリスト教の面だけから見ようとする姿勢はあまりに短絡的だと言わざるを得ません。

そんな事は分かり切つてゐる。今更指摘されるまでもない。
しかし、そもそも、「キリスト教社會=契約社會」を否定しつつ、契約はキリスト教の専売特許ではありません、等と言つてゐる時點で、平野氏が今囘の論爭の爭點を完全に忘れてゐる事は明かだ。

契約社會においては、契約を守るのが義務と考へられる。當然、「社會的な契約」である法を遵守するのは、守るべき義務にほかならない。ところで、ヨーロッパは、歴史的・宗教的に、契約社會なのである。さう云ふ社會で、法の觀念が發達したのだ、と云ふ事を、日本人は忘れがちだ。「法は弱者のためのもの」等と言ふ人は、特に法學專門の學生に多いが、いまさら「弱者と強者の階級鬪爭」的な見方に陷る事もなからう。

平野氏の、私の個々の語句に對する非難は、却つて私の解釋の正當である事を肯定してゐる。
私は、キリスト教における契約の重要性を、ヨーロッパ社會が契約社會である事の傍證の一つとして、採上げたのであつて、さう云ふ圖式で全てを説明出來るなどと主張する積りは最初から無かつた。平野氏は、私を馬鹿に見せかけたいから、私がステレオタイプに陷つてゐる、と極附けたのである。
平成十五年七月一日

アカデミックな見地うんぬんは野嵜さんの読み違いかと。私は「アカデミックな見地からは価値論にコミットしない(というか、できない)」と述べたに過ぎません。価値情緒説、ご存知ですよね。

意味が全く解らない。
平野氏は、アカデミックな見地からは、と言つてゐるのだが、言つてゐるのに讀み違ひとは、どう云ふ事なのだらう。
それから、価値情緒説がどうしたのですか。
平成十五年七月一日
そもそも、この價値情緒説で否定されてゐるのは、價値そのものの眞僞であつて、例へば「自由」がどうして「正しい」のかは證明不可能である。が、「自由は正しい」と云ふ價値を信ずるならば、そこから先の考證は可能であり、平野氏自身、それを認めてゐる。私にしてみれば、その程度の論理性があれば充分だ。平野氏のやうに、價値に關する議論を徹底的に避けたい、と思ふ事こそ、異樣に思はれる。
そして、人間は事實のみで生くるに非ず、全ての人間が何らかの價値を信じてゐる、と云ふ事もまた事實なのであつて、さうなると價値相對主義はナンセンス以外の何ものでもない。どんな人間も、思考の樣式が絶對的に定められてゐるのであつて、それを無視した思考こそ、觀念的で圖式的な思考であると言つて良い。
人によつて物の見方は樣々だし、價値觀は樣々であり得る。しかし、人は文化の中に生れるものであり、文化は人の價値觀や物の見方を相對的に強く規定する。個人は慥かに個人だが、同時に或文化に屬する人間でもある。勿論、個人としての側面も否定出來ないが、全てが個人的であるとまで言切るのは、事實に反する間違つた觀察である。或程度まで、その人が何の文化に屬するかを考慮しても良い筈だ。
100%の必然性までも望む必要はない。或程度、高い確率で物事を言當ててゐれば良いと云ふ學問の範圍は存在する。自然科學と、人文科學は、違ふ。そして、法學にしても社會科學にしても、自然科學ではないのだから、どれほど論理的であつても、數學ほど論理的にはなれない。
平成十五年七月一日
宣長は、漢意を排斥して、「ありのまま」に物を見る事を主張した。平野氏の物の見方は、宣長の言ふ大和心に近い。一方、西歐の文化は、正義に拘る文化である。西歐人は、大義名分を重視するし、自分の信じた正義を實現する爲に努力する。
日本人は、目に見えない正義を氣にしない。西歐人は、目に見えない正義を氣にする。
平成十五年七月一日
保守主義と言ふが、何を保守するのかが問題であつて、「日本人の誇りを保守しよう」等とばかり言ふのでは話にならない。
しかし、「何でもかんでも革新すれば良い」と云ふ主張に對しては、「さうではない」「やはり守るべきものはある」と反論するのが保守的な態度であらう。
「改善すべき點ははつきり認識し、漸次、改善していく」と云ふやり方を認めるのは、當然の事で、保守主義と言つても、停滯主義は許されず、漸進主義を取るべきである。
ただ、「改善」の名の下に行はれる無闇矢鱈な破壞には、斷乎として反對しなければならない。それが果して眞の改善であるのか、寧ろ改惡ではないのか、と、常に懷疑的な態度で改革に臨むのが、保守的な態度と言ふべきものである。それは「全ての改革に改惡のレッテルを貼る事」ではない、と云ふ事は言ふまでもない事だらう。
平成十五年七月一日
文藝は俗語を正すべきものだと私は思つてゐるので、そもそも正当/正統ではない俗語的表現を採り入れることが「小説」というジャンルの特性の一つでもあったことを忘れるべきではない、と云ふ意見には反對。會話文に俗語を書かなければならない事はあるけれども、作家は常に俗語に對して警戒心を持つてゐなければならない。
平成十五年七月一日
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