昨日というより今朝の3時頃日記を更新した後、今週の『アソボット戦記五九』を見た。オーロラ編の3話目。一部ではかなりクソミソに貶されているようだが、オレは結構このアニメは楽しみにしている。主人公の五九のキャラに山口勝平の声がえらく合っているように思われ。ようじょ三人も良かった。
事実がありさえすればいいんです。こいつはここでこう書いた、それだけ。
伝えたい中身とか伝わりやすいとかそーゆーのは二の次でいいの。
この場合、「こばもすさんという第三者」は「僕」と「こばもすさん」のやりとりを見て「僕」の情報のうち「僕の態度」という情報を採用してウザいと判断した、という流れ。
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「日本=武士道/禅」なんて浅薄なステレオタイプを持ち出すのは一部の低レベルなメディアだけです。そして、「ヨーロッパ=キリスト教」という図式化はそれと同レベルだと申し上げているのです。おわかりですか?
それと同レベルだ等と平野氏は言つてゐるが、レヴェルが違ふ。レヴェルの違ふものを、平野氏はなぜ、恰も同じものであるかのやうに極附けるのだらうか。武士道にしろ、禅にしろ、日本の文化の一側面に過ぎないし、海外の
低レベルなメディアの想定する「BUSHIDO」や「ZEN」とも全然違ふ。私は、「頭にちよんまげを載せたSAMURAIが、耻をかかされたらHARAKIRIをする」と云ふやうな「BUSHIDO」なる觀念と同レヴェルの、
低レベルな理解、或は誤解に基く「キリスト教」なる觀念を、想定して、話をしてはゐない。
日本の保守主義者にしてもそうですが、保守主義というのは常に「保守すべきものは何か=自らのアイデンティティは何か」という問いかけにさらされています。ヨーロッパに目を向けてみれば、たとえばヒトラーはゲルマン文化を真に守るべきものとし、ムッソリーニは古代ローマの復興を夢見ました。キリスト教に自らのアイデンティティを求める者も少なくありません。彼ら彼女らは、自分の信ずるものこそヨーロッパの本質 (essence) であり「本当のヨーロッパ」であると主張し、そこへの回帰を主張してきました。
ゲルマン文化、ケルト文化、古代ギリシア文化、古代ローマ文化、アラビア半島からの影響(キリスト教を含む)、アフリカ大陸からの影響、ユーラシア大陸の他の部分からの影響……そうしたありとあらゆる流れが渾然一体となって現在のヨーロッパ文化を作り上げてきたのです。そのうちどれが本質でどれが本質でないかなどと論じることは無意味です。どれ一つを抜かしても、「ヨーロッパ」はありえなかったのですから。あらゆる要因は essential です。もちろん、そうした諸々の要因の中で影響力の大小を論ずることはかまいませんが、影響力の比較的大きい一要因だけを取り出してそこから演繹的に全てを説明しようとすると必ず破綻をきたします。
全てを説明しようとなどしてゐない。もし本當に
全てを説明しようとするのならば、個人は個人以上の存在ではなくなる。
そうした諸々の要因の中で
影響力の比較的大きい一要因を、飽くまで傍證として採上げて、説明に使用しただけだ。演繹的ではなく、逆に、多くの傍證から歸納的に説明を附けてみようとしただけだ。
キリスト教に契約の要素があることは認めます。しかし、(前にも述べたとおり)契約はキリスト教の専売特許ではありません。ゲルマン文化にもケルト文化にも独自の法概念・契約概念はありました。古代ローマは、キリスト教国化するより800年も前に、本格的な市民法体系を作り上げています(紀元前450年頃、いわゆる十二表法。契約手続に必要な要式行為などについて規定している)。それらが全てが複雑精妙に混じり合って現在に至るヨーロッパの法文化を築き上げてきたのであって、それをキリスト教の面だけから見ようとする姿勢はあまりに短絡的だと言わざるを得ません。
契約はキリスト教の専売特許ではありません、等と言つてゐる時點で、平野氏が今囘の論爭の爭點を完全に忘れてゐる事は明かだ。
契約社會においては、契約を守るのが義務と考へられる。當然、「社會的な契約」である法を遵守するのは、守るべき義務にほかならない。ところで、ヨーロッパは、歴史的・宗教的に、契約社會なのである。さう云ふ社會で、法の觀念が發達したのだ、と云ふ事を、日本人は忘れがちだ。「法は弱者のためのもの」等と言ふ人は、特に法學專門の學生に多いが、いまさら「弱者と強者の階級鬪爭」的な見方に陷る事もなからう。
アカデミックな見地うんぬんは野嵜さんの読み違いかと。私は「アカデミックな見地からは価値論にコミットしない(というか、できない)」と述べたに過ぎません。価値情緒説、ご存知ですよね。
アカデミックな見地からは、と言つてゐるのだが、言つてゐるのに讀み違ひとは、どう云ふ事なのだらう。
価値情緒説がどうしたのですか。
そもそも正当/正統ではない俗語的表現を採り入れることが「小説」というジャンルの特性の一つでもあったことを忘れるべきではない、と云ふ意見には反對。會話文に俗語を書かなければならない事はあるけれども、作家は常に俗語に對して警戒心を持つてゐなければならない。