W3C Working Draft 27 June 2003。良く讀むととても面白い讀み物なのだけれども、將來、「勸告」になるのだらうか。
人は、自分を否定すべき文句でもつて、他人を罵る。「ヨーロッパ=キリスト教=契約社会」なんて単純な構図でヨーロッパ文化を語るのは、それこそ滑稽です。日本の情報を何でもかんでも武士道や禅と関連付けて語ろうとする馬鹿な海外メディアを全く笑えません。
単純な構図でヨーロッパ文化を語る事は、少しも滑稽ではない。寧ろ、平野氏の方が滑稽だ。平野氏は、ヨーロッパ文化と日本の文化の違ひを意識せず、日本人的な視點でしかヨーロッパを見ない。平野氏こそ
単純な構図に陷つてゐるのだ。人は自らを否定すべき文句で以つて他人を罵るのである。
日本の情報を何でもかんでも武士道や禅と関連付けて語ろうとする馬鹿な海外メディアとは、平野氏、何處の事を指して言つてゐるのだらうか。ワシントン・ポストとかインディペンデンスとかがそのやうな報道を常にしてゐるだらうか。海外メディアも案外、日本の事は冷靜に見てゐるものだ。
単純な図式と言ふ平野氏が、そもそも
単純な図式以上にヨーロッパを理解してゐるのか、私は疑問に思ふ。
アカデミックな見地からと言つてゐるのを見れば、平野氏、觀念的で圖式的な理解から脱してゐないやうに思はれるが。
自分の知つてゐる觀念の事を、私は「自分の文化にある觀念」の意味で言つてゐるのに、平野氏は「外國の文化に關する上滑りの知識」の意味で捉へてゐる。
6/24(火)レッツゴーハワイURIの
レッツゴーハワイは問題ないと思ふのですが、
URIなる文字列を見出しに入れるのは問題があるのではないかと思ふのです。
6/25(水)脳内前提URI、
6/24(火)レッツゴーハワイURI、
6/23(月)いい天気だね!ご飯食べた?ってオジサンURI、
6/22(日)はやりもの、すたりものURI、
6/21(土)帰れるのかしらURI、
6/20(金)接続環境不調 URI、
6/18(水)混ぜるな危険URI、
6/16(月)半端URI、と見出しを並べてみると、
URIなる文字列が執拗に繰返されてゐるのがわかります。
書き手が書いた文章が論理的であることを客観的に示す指標、等とは言出さないものと思ひますが。
江洲さん自身の言葉で「当然」「当り前」「自明」とされている項目を明らかにしてほしかった、と言つてゐるけれども、みん氏自身の主張の中にこそ、
「当然」「当り前」「自明」とされている事が多いのではないかと思ふ。
よく考へてから考へやう、と書いていらつしやいますが、意志・勸誘の助動詞「よう」は、飽くまで「よう」であつて「やう」ではないので、「考へよう」が正しい表記です。
「リアルタイム性があるのとないのとではどっちが議論しやすいか?」――この問ひに對する私の答はNoだ。
相手が何を理解していて、何を理解していないか、それを理解するためにリアルタイム性は手助けになるかと言へば、ならない時の方が多いやうに思はれる。「晩飯をどうしようか?」といつた程度の「議論」ならば、
リアルタイム性は有效だらうが、内容が難しくなればなるほど、
リアルタイム性は、議論を混亂させるだけであるやうに思はれる。
議論で大きな結論に至るまでの小さなコンセンサスと定義してゐるが、そんな定義は非常識だ。情報と言へば、
それを通して何らかの知識が得られるようなものである。informationと言へば、
(something which gives knowledge in the form of factsである。
相手が何を理解しているか(そして理解していないか)を互いに理解し、そしてより適切に伝えるための情報。と言つてゐる。しかし、みん氏は、人がどのやうにして何を
理解するものと考へてゐるのか。みん氏の
理解とは、そもそも何を意味する言葉なのか。みん氏の
コンセンサス、みん氏の
大きな結論とは――そもそも、みん氏の「議論」とは、一體何を意味するのか。
事実認定なるものに拘つてゐるが、議論において相手の言つてゐる事を斷定的に書くのは餘りにも當り前の事で、「〜と言つてゐるやうに思はれる」等とは一々書くものではない。議論において、相手の主張の要約が主觀的な解釋であるのは、自明の事だ。「○○氏は〜と言つてゐる」と書くのが當り前で、一々「○○氏は〜と言つてゐるやうに思はれる」などとは書かないし、書いてゐないからといつて一々文句を言はれる筋合ひではない。
これが怒った理由ですが、わかってもらえたでしょうか?と、みん氏は言ひ、その後、
(c)については私の誤解(実際には『瀬山みんは議論する際にはWEB日記を捨てろと言っている』)なので当り散らしてしまった点についてはもうしわけなく思っています。すいませんでした。と謝つてゐるが、謝る必要はないけれども、わかつたかわからないかの確認を一々取る必要もない。
したがって私は『話し合い=合意を得ることを目的とすること』と定義しての『議論=物事の是非を検討する』とは思いません。とみん氏は言つてゐるが(此所でみん氏が、
と判断します、
と解釈しましたと書いて、こちらの意圖を極附けてゐるのに非常に腹が立つたのだが。と云ふのは、判斷とか解釋とか言へばどんな極附けも許されるとみん氏が信じて、わざとこちらの書き方を惡意にとつてゐるのではないかと云ふ疑念を抱かざるを得なかつたからだが)、私は一般的な「議論」と云ふ語の意味が「物事の是非を検討する」であるとは言つてゐないのであつて、飽くまで「ここでは物事の是非を検討すると云ふ意味で議論と言ふ」と言つてゐるだけだ。「物事の是非を検討する」事に、みん氏は自分の氣に入つた名前を附ければ良いだけで、私が附けた名前に一々文句を言ふ事はない。ただ、互ひに用語が違ふ、と云ふだけの話だ。
併し如何に師承を同じくし、好尚を同じくし、また着想を共通にすると言っても、細部に至っては、人それぞれ個性があるから、意見を異にする点が出るのはむしろ当然である。こういう際には、両者が徹底的に討論を闘わせ、勝負をつけるべきだという説が、主として唯物史観の側から発せられるが、私は必ずしもそうとは思わない。いったい人文科学における研究の結論といっても、つきつめればそれは何れも仮説の範囲に止まり、実験で証明できないものである。その上、一般的に言って日本ではまだ討論のルールが確立していない。同じグループの間では討論といいながら、ふにゃけた狎れあいに終始し、それがいったん異民族との間となると、討論でもないのに、親の仇にあったかのように、異論を邪説ときめつけて退治しに来る。こういう実情を見ていると、別に議論を戦わせないでも、どこまでも自己に忠実に意見を述べあって相違点を明らかにしておけば、後は時間をかけて、後世の公平な審判に委ねるのがよいと思う。
「魔法少女」の資料ということで小麦を見てみたのだけれど、参考になったのかならなかったのか微妙な所だ……
年が若い女。年少の女子。をとめ。以外の何物でもないのであつて、樣式でも商品でもないから、私は絶對に「少女といふ樣式」のやうな言ひ方はしないが、渡邊氏もその邊の用語法が異樣である事は承知で、だから鉤括弧で括つてゐるのだらうと推測。
『いみじくも野嵜さんが指摘(平成十五年六月八日)してゐるやうに、「物事の是非を檢討する「議論」と、コンセンサスを得るのを目的とした「話し合ひ」とを、混同してゐるやうな氣が」するのです。』
江洲さんの主張も引用元と同じであると判断します。
「語句定義」と讀めるはうがをかしいと云へませう。と江洲さんがおつしやつてゐますが、その通りです。
辞書の定義とは異る意味で或語を使ふ時、私は鉤括弧で括つてゐます。ですから、この場合、各自が用語をどう定義してゐるか、を檢討しても仕方がありません。語の用法が彼我で違つてゐる事はどうでも良い事で、今の場合、飽くまで「物事の是非を重視するか、しないか」が爭點となるべきです。