両方の観点にそれぞれ価値があり,さらにみんさんの意見はみんさんの立場からすれば十分論理的に正しいにも関わらず,野嵜さんはその観点を理解する努力をしているようには見えない.別の言い方をすると,価値観の多様性を認めていないように見える.
以上のことから,野嵜さんは価値観の多様性を考慮できないほど想像力に欠け,かつ,自らの誤りを認めることができない自分勝手で傲慢な人間ではないかと思われる.
思われる、と言つてゐるから中傷ではない、とでもKoyasuは言ふ積りだらう。しかし、それだからこそ、Koyasuは卑怯者なのである。
他人に『ちゃんと読んでよ』とか言っときながら,自分が誤読したら『誤読されるように書いた方が悪い』だって.自分が誤読されるのは自分の文章の書き方が悪いという可能性は考えないのかね.良くこんなにも自己中心的な考え方が出来るものだ.
陳謝などしてゐる譯がない。
あ,それから「というように読める」なら問題無いと書いたのは,「というように読めた」というのが事実だからですよ.断定なら事実と異なるけど,そう受け取れたというのは事実です.事実とそうでないことの区別がつかないのですか?
というように読める、と言へば事實みたいに聞えるが、事實である譯がない。
というように読める、と云ふ申告について、その人物が本當に
読めてしまつたのかどうかは判定不能だ。わざと「深讀みした」と云ふ事と、自然に「讀めた」と云ふ事とを、どうやつて
区別するのか。しやうがない。
事実なる言ひ方は、下らない言葉遊びでしかない。Koyasuこそ、
事実とそうでないことの区別をつけられてゐない。
「というように読める」が問題である事は自明。
僕は確かに「論理」よりも「コミュニケーションがとれること」の方が大事だと思っています.それも出来るだけ気持良くコミュニケーションがとれることが重要だとね.
そのためには,相手への思いやりだとかそういうものが必要だということ.そもそも議論は対等な立場でのコミュニケーションでないと成立しないから,片方が相手を見下していたりすると,それだけでまともな議論にはなりません.
内心を勝手に讀まれて腹が立つた、と云ふ風な事を言つたが、嘘である。私がみん氏の主張を、假に間違つて要約したのなら、それはただ、誤讀しただけで、みん氏の内心を讀んで等ゐない。わざと自分に都合良く曲解して要約したのなら、なほさら、みん氏の内心を讀んでゐないと言へる。
内心云々と言つたのは、何らかの意圖があつたに違ひない。
ふぅ等と溜め息を吐いて見せたりすれば、怒つた相手にぶん毆られる、と云ふ落ちになる事だつてあり得る。
でも,ここで退くとこっちが悪者にされちゃうんだな…、と云ふ文句に、Koyasuの本音が表はれてゐる。
内心など讀んでゐないが、Koyasuが自白してゐるので、わかるのである。
こっちが悪者にされちゃう、と云ふ文章が、Koyasuの惡意を、おのづから證明してゐるのである。そして、Koyasuが、散々私の人格を誹謗してゐる一聯の文章が、Koyasuの意圖が私(野嵜)を惡人に仕立て上げる事である事の傍證である。
誤読なんて読み手と書き手の双方の責任に決まってる.どっちがより悪いなんて客観的に決められるわけがないのに.
ウェブ日記は議論に向かないメディアだとは思うのですが、 お互いにインスピレーションを得るには良いメディアな気がします。
ディベート,つまり相手をやり込めるために議論する場合,ウェブ日記は発言の改変が可能である上,議事録の一覧性に乏しい,結論をまとめる人が通常は不在であるなどの理由により,最後まで議論が続かずにフレームとなってしまい,収束してしまう場合が多いと思う.
しかし,単にブレインストーミングのために議論する場合,公開の場で行われているために多人数の参加が期待でき,かつ,自分のペースで発言ができるウェブ日記は結構適したメディアであると言えないだろうか.
相手をやり込めるためにされるもの。
私の意見、と書かねばならないことは馬鹿馬鹿しいのですが、私の意見を云はせてもらへば、モデレーターがゐなければ議論ができないといふのはそもそも議論が何なのかを判つてゐない人間の放言でしかありません。
『議論になるかならないか』は個人によるものという結論でかまわないと思いますが、『議論に向いてるメディアかどうか』はそれとは別に考察してみる価値があるのではないかと思います。
まづ大事なことは、議論は結論をまとめる爲にするものではないといふことの確認です。
うーん、江洲さんの言ってることを乱暴に要約すると、「文章をもって修飾できるので『身ぶり手ぶり』など議論に不要。そもそもそれは感情であって論理ではなかろう」ということでしょうか。
同じ内容をIRCで議論した場合とWEB日記で議論した場合です。
IRCでの場合、私が入力した文章一文一文に不明な点、疑問点があれば、その場で「この意味は何?そうじゃ ないんじゃないの?」と聞くことができます。その質問によって私はどこが疑問点でどこが伝わらなかったのか、自分の表現が適切でなかったか、それとも自 分自身がわかっていなかったかがわかります。
ではWEB日記ではどうでしょうか? 私は思いついたことをすべて書いてます、こう考えているのではないかという憶測をまじえて書いてます。江洲さん からなんらかのアクションがあるかどうかもわからないまま書いてます。どこが自分の意図通りに伝わっていないか も正確にわからず、自分の主張だけ書いてます。こんなものはただの憶測と自己主張の羅列です。
私は「WEB日記は議論に向かないメディア、ではない」と云つてゐるのに、二方とも「WEB日記は他のメディアに比べて議論に向かないメディア、である」といふ事實から「WEB日記は議論に向かないメディアである」と反論しようとしてゐるのです。
「単に論点がずれているだけ」であると江洲氏は言つてゐるだけだ。慥かに、「メディアとしてウェブ日記が議論に向」いてゐるかゐないかは、せいぜい相對的にしか決定出來ない。しかし、みん氏とKoyasu氏とが「可能性はあるけど駄目」と言ひ、江洲氏が「可能性はある」と言ふ、その二つの主張の間には、無限の懸隔がある。江洲氏は事實の確認をしてゐる。みん氏とKoyasu氏とは價値判斷をしてゐる。
ぶつちやけた言ひ方をすれば、みん氏とKoyasu氏とは、「ウェブ日記」を切つて捨ててゐるのである。「ウェブ日記」 は、可能性があるかも知れないが、他のメディアに比べると駄目だ、だから捨てろ、と主張してゐるのである。
江洲氏は、「ウェブ日記」において「議論が可能である」と云ふ事實を認める。同時に、「議論が出來ない場合もある」と 云ふ事實も認める。そして、これらの事實を認めた上で、何とかしよう、と言つてゐる。
みん氏とKoyasu氏とが「可能性はあるけど駄目」と言ひ、で、私はその「可能性」が「議論を出來る可能性」の意味であるのが自明だから「議論を出來る」を省略し、そこで省略したから次の段落でも當然のやうに省略したところ、みん氏とKoyasuとが「誤讀だ」と騷ぎ始めた。
昨日のこの文章において,野嵜さんが『議論には論理だけが必要であり,それ以外のものは必要ない』と主張しているかのような文面になってしまい,それにより野嵜さんの名誉を傷付けることになってしまったことを深く陳謝致します.
この文章、とは。
議論を成立させるために必要なのは論理だけなのか?自分の考えを論理的に記述できれば,それだけで議論が成立するのか?
僕は違うと思う.もちろん論理的に考える能力は重要だし,それがなければ議論できないというのは確かだ.しかし,議論というのはコミュニケーションの中で行なわれるものである以上,相手が何を言っているのかを正確に理解できる能力がなければ成立しない.特に議論に参加する双方がそれぞれ違う立場にいる場合,バックグラウンドとなる知識が異なるわけだから,その立場の違いを認識していないと正確に相手の言っていることを理解することは不可能だ.それには論理的思考だけでは不十分で,相手の立場に立って考える想像力とかそういうものが必要になってくる.
もし,そういう想像力に欠けた人が議論をすればどうなるのか.結果は当然フレームになる.相手の言ってることを理解せずに自分の言いたいことだけを言っているだけなら,それは議論として成立しない.
その上,相手の立場を想像できない人の言葉はしばしば相手を傷つけるものであり,そこから個人攻撃合戦に発展する.
とは言え,ウェブ上の短い文章から相手の立場を想像するのは難しい.だから,「相手はなぜそういう考え方をするのか」を常に考え,分からなければ相手に質問するといったことをしなければならない.
というわけなので,僕が中傷と書いたものを「悪口」と短絡的に考えて一蹴するのではなく,なぜそう言うのかを考えて,わからなければ訊くぐらいのことはして下さい>野嵜さん
陳謝するのは、自分の主張に全く關係が無いからである。どつちみち、Koyasuは、「コミュニケーション」が大事、と、解り切つた事を一方的に喚き散らして、私がその「解り切つた事」を全然解つてゐないかのやうに見せかけるのが目的だから、
陳謝したあとも居丈高で寧ろ前よりも遙かに傲慢な態度の文章を書き綴る。
僕は確かに「論理」よりも「コミュニケーションがとれること」の方が大事だと思っています.それも出来るだけ気持良くコミュニケーションがとれることが重要だとね.
そのためには,相手への思いやりだとかそういうものが必要だということ.そもそも議論は対等な立場でのコミュニケーションでないと成立しないから,片方が相手を見下していたりすると,それだけでまともな議論にはなりません.
これはコミュニケーション全般について言えることであり,特に議論に限った話ではありませんがね.
そもそも,「論理的でさえあれば理解できる」というのは幻想です.昨日も書いたように論理のバックグラウンドとなるもの(論点とか)が違えば,両方の意見が論理的であってもそのバックグラウンドの違いを理解できなければ,相手の言い分を理解することは難しいです.
現実に,僕とえすさんが最初に議論したときは,その点で全く理解し合えていなかったじゃないですか.野嵜さんにとってえすさんの意見は十分に論理的であったにもかかわらず,バックグラウンドの違う僕にはそれが十分に理解できていなかったというのがあります.バックグラウンドの違いを野嵜さんに指摘されて初めて理解できたのです.
陳謝しておきながら、相變らず私が
論理的でさえあれば理解できると主張してゐるかのやうに見せかけようとしてゐるし。Koyasu氏が惡質極まる人物である事は、誰の目にも明かだ。
論理的でさえあれば理解できる、等と主張してゐない。Koyasuは何度デマを流せば氣が濟むんだ。
具体的に言うと,野嵜さんが『(メディアによらず)人が正しく議論するためには』というような観点に立ち,みんさんが『ウェブ日記というメディアで,人が議論するときの問題点(とその対策)』というような観点での議論であるにもかかわらず,野嵜さんは自分の観点からしかみんさんの意見を判断せずにみんさんの批判をしている.両方の観点にそれぞれ価値があり,さらにみんさんの意見はみんさんの立場からすれば十分論理的に正しいにも関わらず,野嵜さんはその観点を理解する努力をしているようには見えない.別の言い方をすると,価値観の多様性を認めていないように見える.
観点が違ふから、
両方の観点にそれぞれ価値がある、と云ふ事にしたいらしいが、それこそKoyasu氏の獨斷的な餘りに獨斷的な
観点だらう。
観点が間違つてゐる、と言つてゐる。ところが、みん氏もKoyasu氏も、自分の
観点が「違ふ」と云ふだけで「正しい」ものだと、根據ナシに言張つてゐる。
『直接会って』『電話で』『IRCで』『電子メールで』『WEB掲示板で』『WEB日記で』と云ふ
議論の手法を「議論における」有效性の評價がそもそも無意味である所以を説いても――メディアにもメディア特有の事情があり、一長一短があるから、或メディアを評價する際の
観点で他のメディアを批判するのが無意味である事を説いても――Koyasu氏は全く氣にしない。Koyasu氏は、かう言つて、私の批判を無視する自分の態度を正當化する。
僕がここで,野嵜さんの言っていることのレベルが野嵜さんが僕らを批判したことのレベルと変わらないということを(婉曲的にではあるが)指摘しているにもかかわらず,その点を認めずに適当に理屈をこねている.自分が間違ったことを言わない人間だとでも思っているのだろうか.
野嵜さんの言っていることのレベルが野嵜さんが僕らを批判したことのレベルと変わらないとは、全く意味の通らない文章で、ただ惡口である事だけがわかる文章だが、
適当に理屈をこねているが結論であるKoyasuこそが
適当に理屈をこねている事は既に鏤々説明した。
自分が間違ったことを言わない人間だとでも思っているのだろうか、もナンセンス。私が
自分が間違ったことを言わない人間だとでも思ってゐるから「自分は間違つた事を言つてゐない」と主張してゐるとでも思つてゐるのか。Koyasu氏、何度中傷を繰返せば氣が濟むのだらう。
以上のことから,野嵜さんは価値観の多様性を考慮できないほど想像力に欠け,かつ,自らの誤りを認めることができない自分勝手で傲慢な人間ではないかと思われる.
以上のことが、全て根據のない偏見に基いた中傷である事は自明。中傷を根據にした結論が、完全な誹謗中傷である事も自明。
陳謝が、陳謝でも何でもないものである事は明か。Koyasuが、
陳謝すべき
行きすぎた表現を、「2003-06-09」の文章の中で何度繰返してゐるか。
不毛と一言述べて切つて捨ててゐる馬鹿がゐたが、さう云ふやり方をする事こそ、寧ろ不毛。ただの惡口を述べるのが、不毛でない事であると、どうして言へるのか。
そー反応するのは やめとけって^^;>1/2
んな自己中かつ誤読出来る文に構ったって時間の無駄です…
僕が中傷だと書いたのは全くの事実ではないことを誤認して事実であるように書いて,それに対するフォローが何もない状態であることを指しています.
指しています、ですか。單なる「事實誤認」なら、中傷になりませんが、この人の頭の中ではなるらしいです。
ぶつちやけた言ひ方をすれば云々の私の發言をこの人、正しく理解してゐないし。「議論をする際には」と云ふ條件がある事くらゐ、わかつて貰ひたいものだ。このさうすれば、私の
ぶつちやけた言ひ方をすれば云々の文章が正しい事は明かだ。それを「正しくない」と言張る事こそ、Koyasu氏の定義によれば
中傷だらう。
ここで思いっきり「苦手」と「不可能」の混同をしています.
ここの文章にだけ執拗に絡むのは、どう云ふ譯なのだらう。
だから捨てろ、がKoyasu氏には氣に入らなかつたのかも知れないが、
きついというか厳しい書き方であるだけだ。
論理だけなのか?と云ふ言ひ方も異常。
議論を成立させるために必要なのは論理だけなのか?自分の考えを論理的に記述できれば,それだけで議論が成立するのか?
僕は違うと思う.もちろん論理的に考える能力は重要だし,それがなければ議論できないというのは確かだ.しかし,議論というのはコミュニケーションの中で行なわれるものである以上,相手が何を言っているのかを正確に理解できる能力がなければ成立しない.特に議論に参加する双方がそれぞれ違う立場にいる場合,バックグラウンドとなる知識が異なるわけだから,その立場の違いを認識していないと正確に相手の言っていることを理解することは不可能だ.それには論理的思考だけでは不十分で,相手の立場に立って考える想像力とかそういうものが必要になってくる.
もちろん論理的に考える能力は重要だし,それがなければ議論できない――ならば、「論理的に考へる事が大前提」と云ふ事は、明かではないか。他に何があらうと、私と江洲さんの「論理的に考へる事は大事」と云ふ主張は正しい事になる。だから、あとのKoyasu氏の文句は、全て私と江洲さんに對する惡口だ。斷定してゐないだけに惡質な惡口だと言へる。
論理だけなのか?――詰り「論理だけでは十分でない」と言つてゐる。しかし、Koyasu氏は、さう云ふ言ひ方をする事で、「野嵜と江洲さんは『論理だけが必要で、あとのものはない方が良い』と主張してゐる」かのやうに見せかけてしまつてゐる、と云ふ事を、意識してゐない。はつきり言ひさへしなければ、どんなに怪しげな言ひ方をしても良い、とでも、Koyasu氏は思つてゐるのではないか。「言質さへとられなければ良い」のではない。
ウェブ上に文章を公開するということは,その文章が論理的な意見であれ単なる感想であれ,それによって誰かを傷つける可能性があるわけで,明確に誰かが傷ついているということが分かったなら,それに対して相応の責任のとり方があるはずです.
もちろん論理的に考える能力は重要だし,それがなければ議論できないというのは確かだ.と、私や江洲さんに讓歩したかのやうな言ひ方をしたけれども、Koyasu氏の本音は、「論理は大事でない」「論理よりも大事なものがある」と云ふ事だ。
もし,語尾が断定ではなく「というように私には読める」という風になっていたら僕は中傷だとは言わなかったです.
読めると言つた内容が誤讀であり、しかもその誤讀を根據に相手を非難してゐたら、それこそ「中傷」だと思ふ。
ふぅ、だ、と思つた。かう云ふ、人を見下した樣な、感じの惡い言ひ方を平氣でしておいて、威張つてゐられるみん氏の料簡を疑ふ。ふざけるな。
「ウェブ日記」は、可能性があるかも知れないが、他のメディアに比べると駄目だ、だから捨てろ、と主張してゐるのである。
思いこみで私の主張を自分に都合良く歪曲して罵るのを、やめて貰ひたい。
一部分切り出してきてもそれは論旨とはほど遠く、それまでの流れを理解しないことには論旨をつかむことは難しい、などと言つてゐるが、自分こそ、わざと私の文章の一部分を切出して、文脈をもとに判斷せず、自分勝手な解釋で意味を歪曲して、讀者を誤解させようとしてゐるではないか。ふざけるな。
ここで問題になるのがMozillaの位置づけです。 Mozillaは一般使用ではなく開発者向けのものですから、バージョン間で互換性がとれていなくても良いと考えることができます。 Nightlyを追いかけている身からすれば迷惑ではあるのですが、それほど強い不満はありません (Milestoneに関しては意見の分かれるところだと思いますが)。
ですが、一般用途向けのNetscape7.xとなると話は別です。 Netscape7.xがでる際にはMozilla1.0.1からMozilla1.4へprofileをコンバートできるべきでしょう。 つまり、仕様変更に対して追加プログラムでそれを感じさせないことが重要だと思うのです。
議論の手法として、『直接会って』『電話で』『IRCで』『電子メールで』『WEB掲示板で』『WEB日記で』とこのぐらいあげておきます。
私は上で書いた順に議論に向いている手法だと思ってます。つまりあげた中ではWEB日記はもっとも議論に向いてないメディアだと私は考えています。
その理由は単純に情報の欠落度が高いからです。
WEB日記はもっとも議論に向いてないメディアだと私は考えています。と云ふみん氏の發言が
「ウェブ日記を捨てろ」と主張してゐるやうに
読める部分だ、と私が言つても通ると思ふのですが、みん氏、絶對に認めないでせうねえ。
もしあなたが少しでもウェブ日記について真剣に考えているというなら、少しは分析してみたらどうでしょうか?あなた自身が言うように、なぜ『實際のところ、ウェブで成立つてゐる議論は甚だ少い』のかを。
『人』の問題にするならそれでもいいですが、もし『議論する能力があれば議論が成立する』というのなら、議論する能力とは何か(そして議論にならないのはその能力のせいのみと言えるのか)を分析すべきでしょう。
えと,まず「ウェブ日記」が議論に向いているかを考察・議論することは,みんさんがこの辺で言っているように「ウェブ日記」というメディアの可能性を探る上で十分に意味のあることだと思います.究極的には議論が成立するかどうかを担っているのは書き手である人によると思いますが,一連の議論はそれに対する助けとなるシステムの開発に役立てることが出来るはずです.
それと,『日本人は議論が苦手』云々は全くのナンセンスです.あなたはそう言うことで日本人とは議論ができないと言うつもりですか?だとするとそれは以前にあなたが僕に対して『ウェブ日記で議論が出来る可能性を否定している』と言ったことと同じことを's/ウェブ日記で/日本人と/g'で言い直すことが出来ます.
『直接会って』『電話で』『IRCで』『電子メールで』『WEB掲示板で』『WEB日記で』
情報の欠落度をみん氏は理由に擧げてゐるけれども、その後の説明を讀むと、「クローズドな場では議論が可能」「オープンな場では議論が不可能」と云ふ事になつてゐるやうに見える。
情報の欠落が生ずる事を良く認識した上で、それゆゑに注意深く、論理に依據して行ふものが議論である筈だ。「情報が缺落するから駄目(駄目と表現して惡ければ「難しい」)」と言ふのは、ナンセンスだ。表情とか、身振り手振りとか、さう云ふ主觀的なやり方で、相手を説得しようとする事が議論である譯がない。出發點からみん氏は勘違ひしてゐる。
そういう観点でWEB日記というメディアを見た場合に、
- リアルタイム性がない(更新が仮にリアルタイムでもそれをPULLする人が更新時点でロードするわけではない)
- 議論するという意志表示もない
- そもそも場の強制力がない(結論を出すために拘束できるわけでもない)
- 不特定多数の参加(前提とする知識ベースが違い、合わせることができない)
議論するには向かない要素がてんこもりです。
うーん、江洲さんの言ってることを乱暴に要約すると、「文章をもって修飾できるので『身ぶり手ぶり』など議論に不要。そもそもそれは感情であって論理ではなかろう」ということでしょうか。
乱暴な
要約が、かなりの程度、先入見に支配されたものである事は明かです。江洲氏は、
會話の身振りのやうなモノが、文章にも修辭として存在してをります。と書いていらつしやいますが、みん氏の文章を讀んだ上での事實の確認です。それを、みん氏は、自分が「身振り手振り」なども必要と云ふ價値觀を持つてゐるから、その先入見で以つて江洲氏の「事實の確認」を「價値觀」と見誤つたのです。
当サイトはwazilla1.3に最適化してあります。
2003年5月31日に、このサイトの管理者のたかゆきお兄ちゃまの誕生日にかこつけて オフをやろうという企画。
よく読むと、自称していない。%や@以降を一緒にしてはいけません。.netがたまに落ちてることもあります。あ、萌え集積所のほうは@がなかったか。まぁ、それは『そこまでを1つのハンドル』としてとらえてくれ。敬称のたぐいではもはやないです。
もしかして、某M氏とごっちゃにしてるのかなー。あの人は別だからー。
まぁ、そういう事情もあるので、 C-MOONで使ってるハンドルと関連づけて書くのはやめて欲しい。
しかし、この書き込みを私(管理人・アレクセイ)が削除したことからもお分かりいただけますとおり、この匿名氏の書き込みは、明らかに当掲示板「アレクセイの花園」及び私個人に対し、悪意をもってなされたものであり、この匿名氏は、野嵜氏や木村氏本人ではないにしろ、その周辺人物であるとの疑いは未だ消えたわけではありません。と言つた某アレクセイ沖泰光氏がゐましたねー。
それを、某正字正仮名のエラい(not偉い)ひと、とのやりとりで実感。
具体的にどのへんでいつやったか示していただければ非常にうれしい。以上。
ただ,上でも述べたように僕はウェブ日記がコミュニケーションツールであり,議論のためのツールではないと考えているので,議論だけをしたいのであればもっと別のツール,例えば掲示板とかを使えば良いとは思いますけどね.
でも,コミュニケーションの一端としての議論なら往々にして起りうるし,そういうのは別にどんどんやっていけば良いと思います.
Koyasu氏の意見。
僕はウェブ日記はコミュニケーションツールだと思っています。
そのコミュニケーションツールを使う上で「議論に向かないから」といってコミュニケーションを避けたり,「論理的でないから議論にならない」といってその先の可能性を切って捨てるような態度はもったいないと思っている。
議論をやっている訳ではなくて「ブレインストーミング」をやってるんだという程度の感覚でコミュニケーションを取った方が気が楽になるんじゃないか。
コミュニケーションツールであり,議論のためのツールではないと考えている。
議論だけをしたいのであればもっと別のツール,例えば掲示板とかを使えば良いとは思います。
コミュニケーションの一端としての議論(「一端」は「一環」の誤か)を認める。
整理してみる。
ここまでは同意。
これには同意出來ない。
そのコミュニケーションツールを使う上で「議論に向かないから」といってコミュニケーションを避けたり,「論理的でないから議論にならない」といってその先の可能性を切って捨てるような態度はもったいないと思っている、と言つて、條件をつけてゐる。このKoyasu氏の示した條件は、地雷のやうなもので、一般論をあらかじめ封じてゐるのである。
そういうことを一言も書いていないにも関わらず,僕がそういったように受け取られかねない書き方をされるのは心外です.とKoyasu氏が書くのは、ここに理由がある。
「ブレインストーミングに向いている」と言つてゐる。
向いているのが事實かどうかは知らない。ただ、
向いているからと言つて、だから「ブレインストーミングしかしてはならない」と云ふ結論は出せない。
もっとも,言論を封殺しようという輩は言論によらず絶対的権力を用いて封殺してくるという点に注意.それに対しては言論がしばしば無力であったりする.と云ふ意見は、Yahoo!掲示板で、私の反對者が私を叩いた理由。
誕生日冥土の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし
悲観的な見方に贊成。
私は「WEB日記は議論に向かないメディア、ではない」と云つてゐるのに、二方とも「WEB日記は他のメディアに比べて議論に向かないメディア、である」といふ事實から「WEB日記は議論に向かないメディアである」と反論しようとしてゐるのです。では、それは反論になるのでせうか。答は勿論「否」です。私は「WEB日記が議論に必要な要件は十分滿たしてゐる」としてゐるのですから、そこを否定しないと。
単に論点がずれているだけであると江洲氏は言つてゐるだけだ。慥かに、
メディアとしてウェブ日記が議論に向いてゐるかゐないかは、せいぜい相對的にしか決定出來ない。しかし、みん氏とKoyasu氏とが「可能性はあるけど駄目」と言ひ、江洲氏が「可能性はある」と言ふ、その二つの主張の間には、無限の懸隔がある。江洲氏は事實の確認をしてゐる。みん氏とKoyasu氏とは價値判斷をしてゐる。
そこから発想がどのように展開されていくかを楽しむ事の出來る議論の出發點であるかは、私は自明だと思ふ。
「非論理的だ」と一言で切ってしまうのは少し勿体ない気がしますと言つてゐるのだけれども、江洲氏は「ウェブ日記は議論に向かないと一言で切つてしまふのは少しもつたいない氣がします」と言つてゐる、と。で、どつちが今の議論のテーマに即した適切な意見かと言へば、後者に決つてゐる、と。