闇黒日記

平成十五年六月十日

両方の観点にそれぞれ価値があり,さらにみんさんの意見はみんさんの立場からすれば十分論理的に正しいにも関わらず,野嵜さんはその観点を理解する努力をしているようには見えない.別の言い方をすると,価値観の多様性を認めていないように見える.

いかにも公正であるかのやうな顔をして、一方的に私を誹謗してゐるKoyasu氏。根據ナシに「見える」「見える」と言つてゐるが、斷定でないから誹謗ではないらしい。ふざけるな。何樣の積りだ。
みん氏の主張のどこに價値と論理があるのか。どこにもない。「誰某の立場からすれば論理的で正しい」――その立場が正しくないのだから、みん氏の主張に價値はない。
平成十五年六月十日

以上のことから,野嵜さんは価値観の多様性を考慮できないほど想像力に欠け,かつ,自らの誤りを認めることができない自分勝手で傲慢な人間ではないかと思われる.

斷定ではなく、思われる、と言つてゐるから中傷ではない、とでもKoyasuは言ふ積りだらう。しかし、それだからこそ、Koyasuは卑怯者なのである。
私は何一つ間違つた事を言つてゐない。間違つた事を言つてゐないのに間違ひを認めろと言はれても、認められる譯がない。
他人の間違つた主張を「多樣な價値觀」などと暢氣な事を言つて認める事も出來る譯がない。
平成十五年六月十日

他人に『ちゃんと読んでよ』とか言っときながら,自分が誤読したら『誤読されるように書いた方が悪い』だって.自分が誤読されるのは自分の文章の書き方が悪いという可能性は考えないのかね.良くこんなにも自己中心的な考え方が出来るものだ.

誤讀されないやうに書いた文章を「誤讀」したみん氏は、わざと曲解したのだ、と私は指摘した。しかし、Koyasuは、何樣の積りなのだらう。一體いかなる權利があつて、他人の人格を論評するのだ。
平成十五年六月十日
それから、Koyasuが、「自分の過ち」を認めて見せるのは、その「過ち」を認めても自分の主張が何も傷つかず、私に對する嫌みになるからである。
過ちを認めて殊勝にするのならともかく、「お前も反省しろ」と居丈高に説教する奴が、本氣で陳謝などしてゐる譯がない。
平成十五年六月十日

あ,それから「というように読める」なら問題無いと書いたのは,「というように読めた」というのが事実だからですよ.断定なら事実と異なるけど,そう受け取れたというのは事実です.事実とそうでないことの区別がつかないのですか?

というように読める、と言へば事實みたいに聞えるが、事實である譯がない。というように読める、と云ふ申告について、その人物が本當に読めてしまつたのかどうかは判定不能だ。わざと「深讀みした」と云ふ事と、自然に「讀めた」と云ふ事とを、どうやつて区別するのか。しやうがない。
自己申告しか出來ない主觀的なものを、事實と云ふ事は出來ない。事實は客觀的なものだ。
Koyasuの事実なる言ひ方は、下らない言葉遊びでしかない。Koyasuこそ、事実とそうでないことの区別をつけられてゐない。
平成十五年六月十日
Koyasuが、一生懸命レトリックを使つて、言質をとられないやうにしつつ、嫌みを言つてゐるのを見れば、「というように読める」が問題である事は自明。
文章のレトリックで、ごまかすやうな眞似をするのが、コミュニケーションだとは思はない。
平成十五年六月十日

僕は確かに「論理」よりも「コミュニケーションがとれること」の方が大事だと思っています.それも出来るだけ気持良くコミュニケーションがとれることが重要だとね.

そのためには,相手への思いやりだとかそういうものが必要だということ.そもそも議論は対等な立場でのコミュニケーションでないと成立しないから,片方が相手を見下していたりすると,それだけでまともな議論にはなりません.

私を見下して、偉さうに説教したり、嫌みを言つたりしてゐるKoyasu氏が、良く言つたものだ。
Koyasu氏、慇懃無禮と云ふ言葉を知らないのだらう。
そもそも、何がテーマの議論なのかを完全に忘れて、ただ、私の言葉遣ひを頻りに咎め立てして喜んでゐるKoyasuは、揚げ足取りが目的なのだとしか考へられない。
平成十五年六月十日
Koyasuが、八日分および九日分の私の文章を無視してゐるのは誰の目にも明か。
みん氏の「ウェブ日記は議論に向かないメディア」と云ふ主張が、口から出任せの出たら目である事は、最早明かなのだが、それをKoyasuは認めたくないから、私の言葉尻を捉へて、揚げ足を取つてゐるのだらう。
平成十五年六月十日
言つてはなんだが、私はKoyasuに對してもみん氏に對しても、見下した言葉遣ひはしなかつた。
先にこちらを見下した言ひ方をしたのは、みん氏であり、Koyasuであつた。これは事實である。
みん氏もKoyasuも、「コミュニケーション」を旗幟に掲げる癖、自分はコミュニケーションのタブーを積極的に侵してゐる。
私は、コミュニケーションに於る最低限の思ひ遣りは見せてゐた。人格攻撃は、私は全くしてゐない。論理、論理と言ふのは、相手の人格を尊重するからだ。論理は人格と獨立だから、論理上の間違ひを指摘しても相手の人格を批判する事にはならない。
平成十五年六月十日
ついでだから言つておくが、みん氏が、内心を勝手に讀まれて腹が立つた、と云ふ風な事を言つたが、嘘である。私がみん氏の主張を、假に間違つて要約したのなら、それはただ、誤讀しただけで、みん氏の内心を讀んで等ゐない。わざと自分に都合良く曲解して要約したのなら、なほさら、みん氏の内心を讀んでゐないと言へる。
みん氏が内心云々と言つたのは、何らかの意圖があつたに違ひない。
平成十五年六月十日
一言で言ふと、「もつと氣を遣へ」と言つてゐる當人が一番無神經だと云ふ事。
平成十五年六月十日
みん氏に質問。
みん氏の「議論」の定義は何か。
みん氏の「情報」の定義は何か。
平成十五年六月十日
みん氏の考へる「議論」の目的は、「何が正しいのかはさておき、取敢ずコンセンサスを得る事」ではないか。私は「自己の正當性を主張し合ひ、物事の正邪を探らうとする事」だと思つてゐる。
みん氏は、「情報は、基本的に相手を理解するのに有益である」だと思つてゐるのではないか。私は、「情報は、必ずしも相手を理解するのには役立たない」と思つてゐる。
平成十五年六月十日
まとめのやうなもの。
2003-06-09 @ [DDT's Room:Web Site Watch]
平成十五年六月十日
一應書いておくけれども、ぷんぷん怒つてゐるやうな文章を、げらげら笑ひながら書いてゐる事だつてあるのだからな。にこやかに、相手をたしなめ、諭すやうな文章を書いてゐる筆者が、モニタの向うでどんな表情を浮かべてゐるのかなんて、わかつたものではない。
逆に言へば、表情がわかる事も、議論をすすめるのに常に有利であるとは限らない。面と向ひ合つて、口頭で議論してゐる際に、うつかりふぅ等と溜め息を吐いて見せたりすれば、怒つた相手にぶん毆られる、と云ふ落ちになる事だつてあり得る。
文章の場合、感情を論理の背後に隱して、議論を進める事だつて出來るのだ。そして、それが文章による議論のメリットだ。
だが、これは、文章を書く人間が注意して、文章の表現を氣をつける、と云ふ事によつてしか實現出來ないメリットだ。相互參照の方法だの何だのと色々言つたところで、文章の書き方までシステムで面倒を見る事等到底出來やしない譯で、時間の無駄なのである。すぐ「むつとした」だの何だのと感情的な事を書いてゐては、議論にならない。
もつとも、口頭での議論でも、一々主觀的な感想を言つてゐては、まともな議論にはならないのであつて、どつちみち、客觀的な事柄を大事にする態度が議論では必要である。
平成十五年六月十日
みん氏の場合、口頭の議論におけるメリットだけがメリットであるかのやうに思ひ込んで、それが文章にはないからと言つて「ウェブ日記」と云ふ文章ベースのメディアにおける議論を否定してゐるやうに、私には見える見えるのだ。見えるのだから仕方がない。……、と、かう書けば良いのだらう? ざま見やがれ。
平成十五年六月十日
しかし、どうせまたKoyasu氏は、この邊の文章、全部無視して、しつこく同じ非難を繰返すのだらうなーと思ふと以下略。
もちろん、みん氏も無視するんだらうなと。
平成十五年六月十日
相手を見下さないやうな書き方をする。
ブレインストーミング的にアイデアを澤山言つてみる。
議論に適した「ウェブ日記」の形を摸索する。
……「闇黒日記」がこれらの事を何一つしてゐないとでも?
平成十五年六月十日
と言ふか、でも,ここで退くとこっちが悪者にされちゃうんだな…、と云ふ文句に、Koyasuの本音が表はれてゐる。
Koyasuは「私(野嵜)が自分(Koyasu)を惡者に仕立てようとしてゐる」と言つてゐる。とんでもない濡れ衣だ。
私には、Koyasuを惡者に仕立てる意圖はない。私は昨日までの文章で、Koyasuの人格を一度として裁いた事はない。何度も繰返すが、私はただ、理窟で話をしてゐるだけだ。
だが、Koyasuは私(野嵜)を惡人に仕立てたいのだ。Koyasuの文章が、Koyasuの惡意を證明してゐる。私は、Koyasuの内心など讀んでゐないが、Koyasuが自白してゐるので、わかるのである。こっちが悪者にされちゃう、と云ふ文章が、Koyasuの惡意を、おのづから證明してゐるのである。そして、Koyasuが、散々私の人格を誹謗してゐる一聯の文章が、Koyasuの意圖が私(野嵜)を惡人に仕立て上げる事である事の傍證である。
Koyasuは、私を惡者に仕立てる目的で、惡口を言つてゐるのだ。
平成十五年六月十日

誤読なんて読み手と書き手の双方の責任に決まってる.どっちがより悪いなんて客観的に決められるわけがないのに.

ならば、當然、Koyasuは自分にも責任があると認める譯だ。だが、同じやうに責任があるのなら、どうしてKoyasuは、私の人格を散々貶すのか。勿論、Koyasuが「自分(Koyasu)には全く責任がない」と信じてゐるからだ。自己中心的なのはどつちだらう。
本氣で「自分にも責任がある」と思ふのなら、もつと謙虚になれ。僞善者め。

ウェブ日記は議論に向かないメディアだとは思うのですが、 お互いにインスピレーションを得るには良いメディアな気がします。

Kei氏の「議論」は未定義。

ディベート,つまり相手をやり込めるために議論する場合,ウェブ日記は発言の改変が可能である上,議事録の一覧性に乏しい,結論をまとめる人が通常は不在であるなどの理由により,最後まで議論が続かずにフレームとなってしまい,収束してしまう場合が多いと思う.

しかし,単にブレインストーミングのために議論する場合,公開の場で行われているために多人数の参加が期待でき,かつ,自分のペースで発言ができるウェブ日記は結構適したメディアであると言えないだろうか.

Koyasuの「議論」は相手をやり込めるためにされるもの。

私の意見、と書かねばならないことは馬鹿馬鹿しいのですが、私の意見を云はせてもらへば、モデレーターがゐなければ議論ができないといふのはそもそも議論が何なのかを判つてゐない人間の放言でしかありません。

江洲氏は、Koyasuの「議論」の觀念はをかしい、と指摘。

『議論になるかならないか』は個人によるものという結論でかまわないと思いますが、『議論に向いてるメディアかどうか』はそれとは別に考察してみる価値があるのではないかと思います。

みん氏、別の話を持出し、話題を轉換しようとする。

まづ大事なことは、議論は結論をまとめる爲にするものではないといふことの確認です。

江洲氏、話を一度、戻す。戻した上で、一應、みん氏の持出した話題についてコメント。

うーん、江洲さんの言ってることを乱暴に要約すると、「文章をもって修飾できるので『身ぶり手ぶり』など議論に不要。そもそもそれは感情であって論理ではなかろう」ということでしょうか。

同じ内容をIRCで議論した場合とWEB日記で議論した場合です。
IRCでの場合、私が入力した文章一文一文に不明な点、疑問点があれば、その場で「この意味は何?そうじゃ ないんじゃないの?」と聞くことができます。その質問によって私はどこが疑問点でどこが伝わらなかったのか、自分の表現が適切でなかったか、それとも自 分自身がわかっていなかったかがわかります。
ではWEB日記ではどうでしょうか? 私は思いついたことをすべて書いてます、こう考えているのではないかという憶測をまじえて書いてます。江洲さん からなんらかのアクションがあるかどうかもわからないまま書いてます。どこが自分の意図通りに伝わっていないか も正確にわからず、自分の主張だけ書いてます。こんなものはただの憶測と自己主張の羅列です。
みん氏、「ウェブ日記」は議論において相對的に使ひづらいものだ、と主張してゐるにもかかはらず、例では「ウェブ日記」が議論において絶對的に駄目であるかのやうに言ふ。主張では「部分否定」である筈なのに、例では「全否定」になつてゐる。ただし、條件は「議論において」。

私は「WEB日記は議論に向かないメディア、ではない」と云つてゐるのに、二方とも「WEB日記は他のメディアに比べて議論に向かないメディア、である」といふ事實から「WEB日記は議論に向かないメディアである」と反論しようとしてゐるのです。

江洲氏は、みん氏の文章を讀んで、全體としてみん氏が「ウェブ日記」は(議論において)「使へない」と主張してゐる=「『ウェブ日記』を全否定してゐる」と見た。

「単に論点がずれているだけ」であると江洲氏は言つてゐるだけだ。慥かに、「メディアとしてウェブ日記が議論に向」いてゐるかゐないかは、せいぜい相對的にしか決定出來ない。しかし、みん氏とKoyasu氏とが「可能性はあるけど駄目」と言ひ、江洲氏が「可能性はある」と言ふ、その二つの主張の間には、無限の懸隔がある。江洲氏は事實の確認をしてゐる。みん氏とKoyasu氏とは價値判斷をしてゐる。

ぶつちやけた言ひ方をすれば、みん氏とKoyasu氏とは、「ウェブ日記」を切つて捨ててゐるのである。「ウェブ日記」 は、可能性があるかも知れないが、他のメディアに比べると駄目だ、だから捨てろ、と主張してゐるのである。

江洲氏は、「ウェブ日記」において「議論が可能である」と云ふ事實を認める。同時に、「議論が出來ない場合もある」と 云ふ事實も認める。そして、これらの事實を認めた上で、何とかしよう、と言つてゐる。

みん氏とKoyasu氏とが「可能性はあるけど駄目」と言ひ、で、私はその「可能性」が「議論を出來る可能性」の意味であるのが自明だから「議論を出來る」を省略し、そこで省略したから次の段落でも當然のやうに省略したところ、みん氏とKoyasuとが「誤讀だ」と騷ぎ始めた。
肝腎なのは、「江洲氏は事實の確認をしてゐる。みん氏とKoyasu氏とは價値判斷をしてゐる。」と云ふ部分で、これが私の結論なのだが、みん氏もKoyasuも、私の主張の本質的な部分は(故意にかうつかりかは知らないが)無視して、瑣末な言葉尻を捉へて、揚げ足取りをして喜んでゐる。
平成十五年六月十日

昨日のこの文章において,野嵜さんが『議論には論理だけが必要であり,それ以外のものは必要ない』と主張しているかのような文面になってしまい,それにより野嵜さんの名誉を傷付けることになってしまったことを深く陳謝致します.

この文章、とは。

議論を成立させるために必要なのは論理だけなのか?自分の考えを論理的に記述できれば,それだけで議論が成立するのか?

僕は違うと思う.もちろん論理的に考える能力は重要だし,それがなければ議論できないというのは確かだ.しかし,議論というのはコミュニケーションの中で行なわれるものである以上,相手が何を言っているのかを正確に理解できる能力がなければ成立しない.特に議論に参加する双方がそれぞれ違う立場にいる場合,バックグラウンドとなる知識が異なるわけだから,その立場の違いを認識していないと正確に相手の言っていることを理解することは不可能だ.それには論理的思考だけでは不十分で,相手の立場に立って考える想像力とかそういうものが必要になってくる.

もし,そういう想像力に欠けた人が議論をすればどうなるのか.結果は当然フレームになる.相手の言ってることを理解せずに自分の言いたいことだけを言っているだけなら,それは議論として成立しない.

その上,相手の立場を想像できない人の言葉はしばしば相手を傷つけるものであり,そこから個人攻撃合戦に発展する.

とは言え,ウェブ上の短い文章から相手の立場を想像するのは難しい.だから,「相手はなぜそういう考え方をするのか」を常に考え,分からなければ相手に質問するといったことをしなければならない.

というわけなので,僕が中傷と書いたものを「悪口」と短絡的に考えて一蹴するのではなく,なぜそう言うのかを考えて,わからなければ訊くぐらいのことはして下さい>野嵜さん

もちろん、Koyasuにとつて、陳謝するのは、自分の主張に全く關係が無いからである。どつちみち、Koyasuは、「コミュニケーション」が大事、と、解り切つた事を一方的に喚き散らして、私がその「解り切つた事」を全然解つてゐないかのやうに見せかけるのが目的だから、陳謝したあとも居丈高で寧ろ前よりも遙かに傲慢な態度の文章を書き綴る。

僕は確かに「論理」よりも「コミュニケーションがとれること」の方が大事だと思っています.それも出来るだけ気持良くコミュニケーションがとれることが重要だとね.

そのためには,相手への思いやりだとかそういうものが必要だということ.そもそも議論は対等な立場でのコミュニケーションでないと成立しないから,片方が相手を見下していたりすると,それだけでまともな議論にはなりません.

これはコミュニケーション全般について言えることであり,特に議論に限った話ではありませんがね.

そもそも,「論理的でさえあれば理解できる」というのは幻想です.昨日も書いたように論理のバックグラウンドとなるもの(論点とか)が違えば,両方の意見が論理的であってもそのバックグラウンドの違いを理解できなければ,相手の言い分を理解することは難しいです.

現実に,僕とえすさんが最初に議論したときは,その点で全く理解し合えていなかったじゃないですか.野嵜さんにとってえすさんの意見は十分に論理的であったにもかかわらず,バックグラウンドの違う僕にはそれが十分に理解できていなかったというのがあります.バックグラウンドの違いを野嵜さんに指摘されて初めて理解できたのです.

一度、陳謝しておきながら、相變らず私が論理的でさえあれば理解できると主張してゐるかのやうに見せかけようとしてゐるし。Koyasu氏が惡質極まる人物である事は、誰の目にも明かだ。
私は、論理的でさえあれば理解できる、等と主張してゐない。Koyasuは何度デマを流せば氣が濟むんだ。

具体的に言うと,野嵜さんが『(メディアによらず)人が正しく議論するためには』というような観点に立ち,みんさんが『ウェブ日記というメディアで,人が議論するときの問題点(とその対策)』というような観点での議論であるにもかかわらず,野嵜さんは自分の観点からしかみんさんの意見を判断せずにみんさんの批判をしている.両方の観点にそれぞれ価値があり,さらにみんさんの意見はみんさんの立場からすれば十分論理的に正しいにも関わらず,野嵜さんはその観点を理解する努力をしているようには見えない.別の言い方をすると,価値観の多様性を認めていないように見える.

意地でも、彼我の観点が違ふから、両方の観点にそれぞれ価値がある、と云ふ事にしたいらしいが、それこそKoyasu氏の獨斷的な餘りに獨斷的な観点だらう。
私は、みん氏の観点が間違つてゐる、と言つてゐる。ところが、みん氏もKoyasu氏も、自分の観点が「違ふ」と云ふだけで「正しい」ものだと、根據ナシに言張つてゐる。
私がどれだけ委曲を盡して、みん氏が擧げた『直接会って』『電話で』『IRCで』『電子メールで』『WEB掲示板で』『WEB日記で』と云ふ議論の手法を「議論における」有效性の評價がそもそも無意味である所以を説いても――メディアにもメディア特有の事情があり、一長一短があるから、或メディアを評價する際の観点で他のメディアを批判するのが無意味である事を説いても――Koyasu氏は全く氣にしない。Koyasu氏は、かう言つて、私の批判を無視する自分の態度を正當化する。

僕がここで,野嵜さんの言っていることのレベルが野嵜さんが僕らを批判したことのレベルと変わらないということを(婉曲的にではあるが)指摘しているにもかかわらず,その点を認めずに適当に理屈をこねている.自分が間違ったことを言わない人間だとでも思っているのだろうか.

野嵜さんの言っていることのレベルが野嵜さんが僕らを批判したことのレベルと変わらないとは、全く意味の通らない文章で、ただ惡口である事だけがわかる文章だが、適当に理屈をこねているが結論であるKoyasuこそが適当に理屈をこねている事は既に鏤々説明した。
自分が間違ったことを言わない人間だとでも思っているのだろうか、もナンセンス。私が自分が間違ったことを言わない人間だとでも思ってゐるから「自分は間違つた事を言つてゐない」と主張してゐるとでも思つてゐるのか。Koyasu氏、何度中傷を繰返せば氣が濟むのだらう。

以上のことから,野嵜さんは価値観の多様性を考慮できないほど想像力に欠け,かつ,自らの誤りを認めることができない自分勝手で傲慢な人間ではないかと思われる.

以上のことが、全て根據のない偏見に基いた中傷である事は自明。中傷を根據にした結論が、完全な誹謗中傷である事も自明。
そして、そのやうな誹謗中傷を結果としてしてゐるKoyasuが最初にして見せた陳謝が、陳謝でも何でもないものである事は明か。Koyasuが、陳謝すべき行きすぎた表現を、「2003-06-09」の文章の中で何度繰返してゐるか。
人を馬鹿にするのも大概にして貰ひたい。
平成十五年六月十日
陳謝さへすれば、相手の人格を根據ナシに貶めても許される世界つて、「素晴らしい」ですね。
一度、相手を惡人と極附ければ、それを前提に相手の言ふ事を全部無視して馬鹿にし續けても良い世界つて、「素晴らしい」ですね。
「氣持ちの良いコミュニケーションをとらう」「相手への思ひ遣りが大事」などとスローガンを叫んでおけば、相手の言ふ事を頭から駄目だと極附け、嫌みたらしい言ひ方をして相手を不快にさせようとしても良い世界つて、「素晴らしい」ですね。
平成十五年六月十日
議論なのだから、自分の言つてゐる事は正しい、と云ふ前提で、自分の主張がなぜ正當であるかの所以を述べるのは當り前の話だ。
それを「自己中心的」と極附けるのは、自分の主張に正當性のない事を自覺してゐるからだらう。
状況から見て、Koyasuが確信犯である事は間違ひない。Koyasuは、ただ論戰で勝つ事しか目的としてゐないし、その爲に手段を選ばないのは良い事だと思つてゐる。私はさう見た。見たのだから仕方がない。
平成十五年六月十日
外野で不毛一言述べて切つて捨ててゐる馬鹿がゐたが、さう云ふやり方をする事こそ、寧ろ不毛。ただの惡口を述べるのが、不毛でない事であると、どうして言へるのか。

そー反応するのは やめとけって^^;>1/2

んな自己中かつ誤読出来る文に構ったって時間の無駄です…

そんなただの惡口が、不毛でないとでも? 自分だけは高みから人を見下しておいて。その態度こそ「自己中心的」と言ふべきものだらう。
人を見下すなと主張してゐるKoyasuが、明かに人を見下した言ひ方をしてゐるゆい氏を非難しないのも異常。
「コミュニケーション」だの何だのを旗幟としてゐる連中の「コミュニケーション」の實態を見れば、連中、本氣で「コミュニケーション」など信じてゐない事は明か。Koyasuをはじめ、連中は、ただ、他人を見下したいだけなのである。

平成十五年六月九日
新潮社 第十六回三島由紀夫賞 受賞作品発表
どこに三島と接點があるのかさつぱりわからない選考委員(筒井康隆/宮本輝/高樹のぶ子/福田和也/島田雅彦)。宮本氏だけが怒つてゐる。宮本氏の感覺は正しい。
何と言ふか、最近の「文学賞」の受賞作を見てゐると、デカイオーですら通用しさうな氣になつてくる。
平成十五年六月九日
僕が中傷だと書いたのは全くの事実ではないことを誤認して事実であるように書いて,それに対するフォローが何もない状態であることを指しています.
すごいな……指しています、ですか。單なる「事實誤認」なら、中傷になりませんが、この人の頭の中ではなるらしいです。
ぶつちやけた言ひ方をすれば云々の私の發言をこの人、正しく理解してゐないし。「議論をする際には」と云ふ條件がある事くらゐ、わかつて貰ひたいものだ。このさうすれば、私のぶつちやけた言ひ方をすれば云々の文章が正しい事は明かだ。それを「正しくない」と言張る事こそ、Koyasu氏の定義によれば中傷だらう。
平成十五年六月九日

ここで思いっきり「苦手」と「不可能」の混同をしています.

ここの文章にだけ執拗に絡むのは、どう云ふ譯なのだらう。
しかも、私は混同してゐない。だから捨てろ、がKoyasu氏には氣に入らなかつたのかも知れないが、きついというか厳しい書き方であるだけだ。
Koyasu氏もみん氏も「不可能とは言つてゐない」――なるほど、それは事實だが、それだけでしかない。二人とも、「議論に向いていない」からと言つて、「ウェブ日記」で議論を成立させる努力を各個人がする可能性を、まるで無いかのやうに極附けて話をしてゐる。ひたすら「メディア」の話をしようとして、個人の努力を無視してゐる事實が、私や江洲さんをして、「Koyasu氏もみん氏もウェブ日記で議論は不可能と主張してゐる」と言はしめた理由だ。
平成十五年六月九日
論理だけなのか?と云ふ言ひ方も異常。

議論を成立させるために必要なのは論理だけなのか?自分の考えを論理的に記述できれば,それだけで議論が成立するのか?

僕は違うと思う.もちろん論理的に考える能力は重要だし,それがなければ議論できないというのは確かだ.しかし,議論というのはコミュニケーションの中で行なわれるものである以上,相手が何を言っているのかを正確に理解できる能力がなければ成立しない.特に議論に参加する双方がそれぞれ違う立場にいる場合,バックグラウンドとなる知識が異なるわけだから,その立場の違いを認識していないと正確に相手の言っていることを理解することは不可能だ.それには論理的思考だけでは不十分で,相手の立場に立って考える想像力とかそういうものが必要になってくる.

もちろん論理的に考える能力は重要だし,それがなければ議論できない――ならば、「論理的に考へる事が大前提」と云ふ事は、明かではないか。他に何があらうと、私と江洲さんの「論理的に考へる事は大事」と云ふ主張は正しい事になる。だから、あとのKoyasu氏の文句は、全て私と江洲さんに對する惡口だ。斷定してゐないだけに惡質な惡口だと言へる。
Koyasu氏は論理だけなのか?――詰り「論理だけでは十分でない」と言つてゐる。しかし、Koyasu氏は、さう云ふ言ひ方をする事で、「野嵜と江洲さんは『論理だけが必要で、あとのものはない方が良い』と主張してゐる」かのやうに見せかけてしまつてゐる、と云ふ事を、意識してゐない。はつきり言ひさへしなければ、どんなに怪しげな言ひ方をしても良い、とでも、Koyasu氏は思つてゐるのではないか。「言質さへとられなければ良い」のではない。
平成十五年六月九日
「その通りですね」ではなくて「それはさうですが、それだけでは十分ではありません」と言つてしまふ根性が許し難い。
平成十五年六月九日

ウェブ上に文章を公開するということは,その文章が論理的な意見であれ単なる感想であれ,それによって誰かを傷つける可能性があるわけで,明確に誰かが傷ついているということが分かったなら,それに対して相応の責任のとり方があるはずです.

傷つくか、傷つかないか、だけを重視すれば、それで良いのですか。
或は、Koyasu氏は今、論理よりも大事な事がある、と言つてゐる。詰り、先程、もちろん論理的に考える能力は重要だし,それがなければ議論できないというのは確かだ.と、私や江洲さんに讓歩したかのやうな言ひ方をしたけれども、Koyasu氏の本音は、「論理は大事でない」「論理よりも大事なものがある」と云ふ事だ。
平成十五年六月九日
そもそも、きちんと論理的に書かれた文章ならば、理解し易い筈だ。
理解されないのは、論理的に書かれてゐない文章だからだ。
論理的でない文章を書いておいて、「どうして理解しないんだ」と怒るのは、逆切れだ。
平成十五年六月九日
コミュニケーションが大事と曰ふ人には、コミュニケーションが何うの斯うのと偉さうに説教する權利があるらしい。何が「わからなければ訊け」だ。ふざけるな。
平成十五年六月九日

もし,語尾が断定ではなく「というように私には読める」という風になっていたら僕は中傷だとは言わなかったです.

私なら、語尾が「というように私には読める」となつてゐて、その読めると言つた内容が誤讀であり、しかもその誤讀を根據に相手を非難してゐたら、それこそ「中傷」だと思ふ。
と言ふか、もしさうやつて氣が濟むのなら、他人樣の文章を讀む時は、ユーザスタイルシートで段落の末尾なり何なりに「というように私には読める」と云ふ文字列を生成するやうにしたら何うか。
言葉尻を一々捉へて揚げ足を取られては、かなはない。
平成十五年六月九日
個人攻撃だらうが何だらうが、「ブレインストーミングが絶對に正しい」と主張する人は認めなければならない。もし、許されない事があると認めるならば、その瞬間にその人は、「ブレインストーミングでは駄目だ」「ルールを守つて議論をする必要がある」と云ふ事を既に認めてゐる事になる。
平成十五年六月九日
「ウェブ日記」の問題は、システムの問題だけなのか?
「ウェブ日記」のシステムだけを進化させればそれで良いのか。
平成十五年六月九日
この調子だと、十日にファイル分割だな……。
平成十五年六月九日
フリーソフトウェアライセンス診断 @ [Matzにっき(2003-06-08)]
めも。
平成十五年六月九日
みん氏、相變らず自分が勘違ひしながら、私(野嵜)が勘違ひしてゐると極附けて威張つてゐる。何が、ふぅ、だ、と思つた。かう云ふ、人を見下した樣な、感じの惡い言ひ方を平氣でしておいて、威張つてゐられるみん氏の料簡を疑ふ。ふざけるな。
「ウェブ日記」は、可能性があるかも知れないが、他のメディアに比べると駄目だ、だから捨てろ、と主張してゐるのである。
「議論の際には」と云ふ條件がある事くらゐ、文脈から讀め。いついかなる場合にも「ウェブ日記は駄目」とみん氏が主張してゐるとは、私は書いてゐない。みん氏こそ、思いこみで私の主張を自分に都合良く歪曲して罵るのを、やめて貰ひたい。
みん氏、一部分切り出してきてもそれは論旨とはほど遠く、それまでの流れを理解しないことには論旨をつかむことは難しい、などと言つてゐるが、自分こそ、わざと私の文章の一部分を切出して、文脈をもとに判斷せず、自分勝手な解釋で意味を歪曲して、讀者を誤解させようとしてゐるではないか。ふざけるな。
みん氏、それにしても、被害妄想が過ぎるのではないですか。
大體、内心を勝手に極附けるな、などと威張つて言ふのはをかしい。誰も内心など讀んでゐない。みん氏の文章の論理から全て江洲さんは判斷してゐる。もし、江洲さんの讀み方が「間違つてゐる」としたら、責任は、間違つて讀まれるやうに書いたみん氏の方にある。自分が駄目な文章を書いておいて、「どうして變な風に讀むんだ」と怒るのは、逆切れだ。
平成十五年六月九日
普段から妄想を書いてゐる人間を相手に、まともな議論をしようとするのは、無理なのではないか。
平成十五年六月九日
みん氏、私の文章をまともに讀んでゐないやうだし……こちらの指摘を全部、スルーしてゐる。
と言ふか、被害者づらすれば良いと言ふものでもないだらうに。内心がどうのと、男の言ふ臺詞ではない。

平成十五年六月八日

ここで問題になるのがMozillaの位置づけです。 Mozillaは一般使用ではなく開発者向けのものですから、バージョン間で互換性がとれていなくても良いと考えることができます。 Nightlyを追いかけている身からすれば迷惑ではあるのですが、それほど強い不満はありません (Milestoneに関しては意見の分かれるところだと思いますが)。

ですが、一般用途向けのNetscape7.xとなると話は別です。 Netscape7.xがでる際にはMozilla1.0.1からMozilla1.4へprofileをコンバートできるべきでしょう。 つまり、仕様変更に対して追加プログラムでそれを感じさせないことが重要だと思うのです。

「Mozilla Browserは、開發者向けだから、機能強化の爲に、仕樣の變更はあつても良い」「Netscapeは、コンシューマ向けだから、こちらでは互換性を維持する必要がある」と云ふ話。それは確かにその通りだと思ふ。
だが、それならば、「Mozilla Browserでシェアを取りに行く必要はない」「Mozillaのシェアの話をするのはナンセンス」と云ふ事になる。
平成十五年六月八日
Mousemixer: BLOGといえばガイアックス(これ基本)
「おまけ」を商標として登録申請してみようかなー。
……と思つたら、明治製菓が既に登録濟みであるのを發見(登録2564860)。
どうしよう。
商標檢索は、 商標検索 の「3)商標出願・登録情報 」から。
平成十五年六月八日
「反米」の「平和主義者」の方々の中で、サダム・フセインの死を心から悼んだ人はゐたのでせうか。
平成十五年六月八日
近代になつて觀念論がドイツで發逹したのは、ドイツが後進國だつたからだ。
イギリスでは、人權にしても民主主義にしても、實際に行はれた政治の中で意識され、實踐の中で思想として發逹した。しかし、封建制度がいつまでも生延びてゐたドイツでは、思想はイギリス等からの輸入品で、それを現實の政治の中で試行錯誤しながら發逹させる事が出來なかつた。ドイツの思想家逹は頭の中で觀念をいぢくり囘す事しか出來なかつた。
觀念的になると云ふ事は、必然的に、思想の先鋭化に繋がる。カントからヘーゲルを經て、マルクスに至り、ドイツ生れの觀念論は、急進イデオロギーへと轉化した。マルクシズムは、科學的社會主義と自稱してゐるが、階級鬪爭の觀念は觀念以上のものではない。
後進國生れの觀念論だからこそ、マルクシズムは後進國のロシアで成功を收め、當歐やその他の後進國でも勢力を持つた。が、既に後進國の段階を脱したイギリスやフランス、全くの後進國ではなかつたドイツでは、プロレタリア革命は起らなかつた。また、革命以後、後進國の域を脱したロシアでも、觀念論的マルクシズムは效力を失つた。
林健太郎の幾つかの著作を參考に。
平成十五年六月八日
河合榮治郎『自由主義の歴史と理論』を讀みかけ。
平成十五年六月八日
「そんな事言ってません」とか「論点がずれているだけです」とか、擧句には「野嵜は中傷している」とか、お定まりの惡口が出てきて、今囘の「議論」も末期の段階に達した模樣。
何と言ふか、そんなに本氣になつて怒るやうな事ですかねえ。
平成十五年六月八日

議論の手法として、『直接会って』『電話で』『IRCで』『電子メールで』『WEB掲示板で』『WEB日記で』とこのぐらいあげておきます。

私は上で書いた順に議論に向いている手法だと思ってます。つまりあげた中ではWEB日記はもっとも議論に向いてないメディアだと私は考えています。

その理由は単純に情報の欠落度が高いからです。

この程度の「理由」が理由になると言ふのですからねえ。その程度の「理窟」が通るのなら、WEB日記はもっとも議論に向いてないメディアだと私は考えています。と云ふみん氏の發言が「ウェブ日記を捨てろ」と主張してゐるやうに読める部分だ、と私が言つても通ると思ふのですが、みん氏、絶對に認めないでせうねえ。
餘りにも馬鹿馬鹿しい話なので書く事もないかと思ひますが、一應書いておきます。必要な情報さへ的確に傳はれば、議論は成立するものです。必要の無い情報はノイズです。表情やジェスチュアは、説得に必要なものに過ぎず、物事の是非を決定する根據になりません。議論の目的は、ただ相手を説得する事ではなく、物事の是非を決定する事です。もちろん、「物事の是非は相對的だ」と云ふ説のある事は承知してゐます。しかし、論理はユニヴァーサルです。論理的に檢討して、是非を決定出來るものは、論理的に檢討して是非を決定すれば良いだけです。檢討した擧句、これは是非を確實に決定する事は出來ない、と解れば、そこではじめて、「この問題の是非は決定出來ない」と結論を出せばよろしい。端から「相對的」で諦めるのは、ナンセンスです。
平成十五年六月八日
と言ふか、みん氏、私が「議論をするには」と云ふ條件下で「駄目」とか「捨てろ」とか言つてゐる事に、氣附いてゐない。文脈を考へてよ……。
平成十五年六月八日

もしあなたが少しでもウェブ日記について真剣に考えているというなら、少しは分析してみたらどうでしょうか?あなた自身が言うように、なぜ『實際のところ、ウェブで成立つてゐる議論は甚だ少い』のかを。

『人』の問題にするならそれでもいいですが、もし『議論する能力があれば議論が成立する』というのなら、議論する能力とは何か(そして議論にならないのはその能力のせいのみと言えるのか)を分析すべきでしょう。

「ウェブ日記」の方が人間よりも大事である筈がないので、眞劍に考へるならば、メディアよりも人間の事を考へますね。當り前の話です。
みん氏こそ、自分が作つてゐるからと言つて、「日記システム」を過大評價するのを反省した方が良いと思ひます。
議論に必要なのは、基本的に論理的にものを考へる能力です。議論にならないのは、論者が論理以外のものを重視するからに過ぎません。論理以外の「煽り」があつて、それで話が拗れて、議論の當事者が怒り狂ったりサイトを閉鎖したりしたからと言つて、その論者の主張が即、間違ひだとは決定出來ません。逆に、叮嚀な言葉を使つて、慇懃な態度をとり、禮儀正しい姿勢を見せてゐるからと言つて、その論者の意見が正しいとも限りません。指摘のタイミングも關係ありません。ギャラリーの中にも冷靜に議論の内容を見て、どつちが正しいかを判斷出來る人がゐるものです。もしゐなくても、論理的に正しい意見は論理的に正しいままです。議論が巧くいかなくても、論理的に正しい事が正しくない事にいつの間にか變化してゐたりはしません。
議論を通して、當事者が、正しい結論を出せれば結構ですが、出せなかつたとしても、正しい結論は存在するのであり、それは当事者以外の人には解るかも知れないし、解らないかも知れない。ただ、一應、論者は、自分が「正しい」と信ずる根據を提示し、相手の「誤」と思はれる發言を指摘する事で、まだ明かでない物事の是非を明かにする手がかりを得る事は出來る筈です。
何と言ふか、物事の是非を檢討する「議論」と、コンセンサスを得るのを目的とした「話し合ひ」とを、混同してゐるやうな氣がしますね。
平成十五年六月八日

えと,まず「ウェブ日記」が議論に向いているかを考察・議論することは,みんさんがこの辺で言っているように「ウェブ日記」というメディアの可能性を探る上で十分に意味のあることだと思います.究極的には議論が成立するかどうかを担っているのは書き手である人によると思いますが,一連の議論はそれに対する助けとなるシステムの開発に役立てることが出来るはずです.

メディアの可能性以前に、メディアの使ひ手の可能性を論ずべきだと思ひます。「議論に向かないメディア」+「きちんと議論出來る人間」の組合せならば議論は成立するが、「議論に向いたメディア」+「議論を出來ない人間」では議論が成立しない、と云ふ事は、誰の目にも明かな事だと思ひます。

それと,『日本人は議論が苦手』云々は全くのナンセンスです.あなたはそう言うことで日本人とは議論ができないと言うつもりですか?だとするとそれは以前にあなたが僕に対して『ウェブ日記で議論が出来る可能性を否定している』と言ったことと同じことを's/ウェブ日記で/日本人と/g'で言い直すことが出来ます.

「苦手」と「不可能」は違ひます。苦手は、克服すれば良いだけですから、可能性があります。
平成十五年六月八日
實際のところ、可能性と言つたら何でもあるので、そもそも「可能性」を議論のテーマとするのが不適切です。
平成十五年六月八日
かう言へば誰も否定出來ないと思ひますが――「ウェブ日記」が「議論に向いてゐないメディア」であるにしても、「議論に向いてゐるメディア」との程度の差は相對的なものに過ぎません。「ウェブ日記」での議論は不可能ではありません。もちろん、「不可能でない」と云ふ事は、「常に可能である」と云ふ事を意味しません。しかし、「ウェブ日記」における議論の困難は、努力によつて克服出來るものです。
平成十五年六月八日
と言ふか、「議論とは何か」と云ふ事を、誰も考へてゐないだらう? みんな勝手な定義と思ひ込み・先入見に基いて喋つてゐる。「荒し」とか「中傷」とかいつた用語も、勝手に定義されてゐるやうに思はれる。
平成十五年六月八日
一應、今囘の議論に關係してゐる「ウェブ日記」を適當にりすとあっぷ。
適宜覚書
- [Alchemic Day's] - Digest Diary
彼女はにっこり笑ってこう言った「キミはよっぽど仕事をしたくないのかな?っていうかむしろ、この場でクビにしてほしいとか?」
りとる・ろまんす - 最新版
天衣無縫な日々
Diary:Digest
査察報告書
平成十五年六月八日
「大筋で正しいが、細かいところで間違ひを含む」のと「個々の觀察は正しいのに、全體としての結論が間違つてゐる」のとでは、どつちが増しか。「全ての觀察が正しく、適切な結論を出してゐる」「とにかく何でもかんでも的外れで、結論も電波」と言ふのなら話は簡單だが、世の中さうさう簡單には片附かない譯で、議論でもそんなに簡單に結論が出る事はない。が、結論を出す努力はするべきだ。
平成十五年六月八日
某氏の期待に應へてみた積りですが、……。
これ讀む人、ゐるの?
平成十五年六月八日
毎日、冒頭に長々と妄想の文章が置かれ、その後に私事だとか主張だとかのめもが書かれてゐても、下まで讀まないよ。
各段落ごとに「段落アンカー」があつても、複數の段落をいつぺんに引用する際には使へないよ。
自分が議論に適しない形で「ウェブ日記」を書いてゐるから、「ウェブ日記は議論に向かない」と主張してしまふのではないかと。
平成十五年六月八日
日本人は、どうも「形から入る」癖があるやうで、制度とか仕組とかの議論は盛んにするが、その「中」にあるべき人間の教育とか訓練とかそもそも意識とか言つたものについての議論は一向起さうとしない。
せつかく作つた立派なシステムが、運用する人間の問題でさつぱり活用されてゐない、と云ふ事態は、日本では珍しくない。
税金で作られた施設が遊休化してゐるのに文句を言ふ人は少くない。が、文句を言ふ側の國民なり市民なりもまた、税金を使ふ側と大して變らない意識しか持つてゐない場合も少くないのである。
平成十五年六月八日
どうでも良いが、「發言の責任を問ふべきでない」と言ふ人が「お前の發言は誹謗中傷だ」と言つて他人の發言の責任を問はうとするのは、どう云ふ事なのだらう。
「何を言つても良い、それがブレインストーミング」と主張してゐるのでないとしたら、その人は結局「議論」の必要を認めてゐるのではないか。
平成十五年六月八日
『直接会って』『電話で』『IRCで』『電子メールで』『WEB掲示板で』『WEB日記で』
情報の欠落度をみん氏は理由に擧げてゐるけれども、その後の説明を讀むと、「クローズドな場では議論が可能」「オープンな場では議論が不可能」と云ふ事になつてゐるやうに見える。
根本的に「議論とは何か」の觀念が、みん氏と、私や江洲さんとでは、違つてゐるやうに思はれる。
みん氏は、「オープンの場で議論はしたくない」と思つてゐるのではないか。
と言ふか、そもそも情報の欠落が生ずる事を良く認識した上で、それゆゑに注意深く、論理に依據して行ふものが議論である筈だ。「情報が缺落するから駄目(駄目と表現して惡ければ「難しい」)」と言ふのは、ナンセンスだ。表情とか、身振り手振りとか、さう云ふ主觀的なやり方で、相手を説得しようとする事が議論である譯がない。出發點からみん氏は勘違ひしてゐる。
平成十五年六月八日

そういう観点でWEB日記というメディアを見た場合に、

  • リアルタイム性がない(更新が仮にリアルタイムでもそれをPULLする人が更新時点でロードするわけではない)
  • 議論するという意志表示もない
  • そもそも場の強制力がない(結論を出すために拘束できるわけでもない)
  • 不特定多数の参加(前提とする知識ベースが違い、合わせることができない)

議論するには向かない要素がてんこもりです。

これらは、議論に向かない要素なのではなく、「樂しいコミュニケーション」に向かない要素だ。「樂しいコミュニケーション」は自然に行はれる必要があるが、コミュニケーションに向いてゐようがゐまいが行はれなければならないのが議論だ。議論を「自然に出來るもの」と思ふ方が間違つてゐる。
平成十五年六月八日
うーん、江洲さんの言ってることを乱暴に要約すると、「文章をもって修飾できるので『身ぶり手ぶり』など議論に不要。そもそもそれは感情であって論理ではなかろう」ということでしょうか。
この乱暴要約が、かなりの程度、先入見に支配されたものである事は明かです。江洲氏は、會話の身振りのやうなモノが、文章にも修辭として存在してをります。と書いていらつしやいますが、みん氏の文章を讀んだ上での事實の確認です。それを、みん氏は、自分が「身振り手振り」なども必要と云ふ價値觀を持つてゐるから、その先入見で以つて江洲氏の「事實の確認」を「價値觀」と見誤つたのです。
平成十五年六月八日
SF文庫列伝・創元推理文庫――厚木淳インタビュー――
いまさらながら。合掌。
平成十五年六月八日
住めば都のコスモス荘 すっとこ大戦ドッコイダー
当サイトはwazilla1.3に最適化してあります。

平成十五年六月七日
「ウェブ日記」同士の「コミュニケーション」は、ギャラリーの存在する事を意識して行はれるものであり、多分にショー的な要素を含むから、純粋なコミュニケーションではあり得ない。
平成十五年六月七日
「つつこみどころ」もない文章では、つつこみやうもない譯で。
内容のある文章なら、「贊成」とでも「反對」とでも言へるのだけれども。
内容のない文章には、「内容がないよう」以下略。
平成十五年六月七日
「ウェブ日記」(或はそれ以外のメディア)が議論に向いてゐるかゐないか、と云ふ議論は、全く無意味だ。そもそも、日本人が議論を苦手としてゐる事實を、みんな忘れてゐる。
「自分の意見の正當性を主張する」と云ふ事を、日本人はなぜか出來ない(良い事と認めない、面倒臭がる、或は、巧く出來ない)から、メディアが幾ら變つても、日本人同士の間で議論の成立する可能性は大變小さい。
平成十五年六月七日
或主張を批判するには、「その主張が正しいと假定して推論を進めると、矛盾が生ずる事を指摘する」「その主張が、問題を滿足に解決するかどうかを檢討する」と云ふ方法がある。
が、その第一の批判をパロディの形で實行すると、物凄い反撥を喰らふ。
平成十五年六月七日
2003年5月31日に、このサイトの管理者のたかゆきお兄ちゃまの誕生日にかこつけて オフをやろうという企画。
よく読むと、自称していない。%や@以降を一緒にしてはいけません。.netがたまに落ちてることもあります。あ、萌え集積所のほうは@がなかったか。まぁ、それは『そこまでを1つのハンドル』としてとらえてくれ。敬称のたぐいではもはやないです。
もしかして、某M氏とごっちゃにしてるのかなー。あの人は別だからー。
まぁ、そういう事情もあるので、 C-MOONで使ってるハンドルと関連づけて書くのはやめて欲しい。
支離滅裂と言ふか、御都合主義と言ふか。「俺が○○と決めたから○○なのだ」式の「理窟」は、理窟ではありません。
しかし、この書き込みを私(管理人・アレクセイ)が削除したことからもお分かりいただけますとおり、この匿名氏の書き込みは、明らかに当掲示板「アレクセイの花園」及び私個人に対し、悪意をもってなされたものであり、この匿名氏は、野嵜氏や木村氏本人ではないにしろ、その周辺人物であるとの疑いは未だ消えたわけではありません。と言つた某アレクセイ沖泰光氏がゐましたねー。
取敢ず、職場にばれると困る「ウェブ日記」は書かない方がよろしいのではないか、と御忠告申し上げたい。
平成十五年六月七日
続・ぐぐる 2003-06-07 @ [読冊日記]
上の記事とは全然關係ありませんが、本日の講演會でGoogleを「Windowsの機能」と説明された時にはどうしようかと思ひました。あと、「CPUのメーカーのPentium」にもつつこみを入れようかと。

平成十五年六月六日
「HTMLメールを受信するのは危險だから、送信しないで下さい」と云ふ主張は、何となく因果關係がをかしい氣がする。PC TipsのColumunで昔、HTMLメール批判を書いたけれども。
世間的に、因果關係は「それつぽい」ならばOK、みたいな諒解があるらしいのだけれども、本當にそれで良いのだらうか。
平成十五年六月六日
取敢ず、「別のハンドルだから別人なのですよ(笑)」とか「野嵜サマは」「野嵜センセイは」とか書いて喜ぶタイプの人間は議論を出來ない、と。
餘裕かまして尊大ぶつてゐる人に限つて、痛いところを突かれるといつまでも恨み續ける羂。妙にねちねちと嫌みつたらしいやり方で相手を攻撃しつつ、自分は手を汚してゐないかのやうな顔をする。
あと、決つて相手を「荒し」と極附けるし。
平成十五年六月六日
いまさら謎ぱ〜機を欲しくなつたり。できればDOSベースの。
平成十五年六月六日
「あなただけの『楽しい』を押附けないで下さい」とか。
平成十五年六月六日
2003-03-17 @ [なんか]
議論とか世間話とかに關する考察。
平成十五年六月六日
井筒俊彦『イスラーム文化 その根柢にあるもの』(岩波文庫)讀了。
イスラム世界では聖俗が一致し、キリスト教のやうに「神のもの」と「カイザルのもの」とを嚴密に區別しない。イスラムが近代を受容れるのに四苦八苦してゐるのはそのせゐである。と云ふ指摘。
ただ、イスラムでは、俗世間と言ふものが無くて、全部が「聖の領域」に入つてしまふ。日本では逆に「聖の領域」が存在せず、世間は即、俗世間である。

平成十五年六月五日
ZDNN:どうなる、MSのブラウザ計画?
ZDNN:Netscapeが生き延びていてくれたら……
ZDNN:未来のブラウザは“ただのブラウザ”になる?
ZDNN:IEに挑む“ゲリラブラウザ”たち
携帶電話が、獨自の世界を作らず、ウェブの世界に開かれたものだつたら、今のやうな閉塞した状況は生れなかつた――少くとも、今よりは増しな状況であつた――のではないかと個人的には思つてゐる。
平成十五年六月五日
Mozillaは、仕樣變更を繰返し過ぎ。ヴァージョンアップの度にユーザプロファイルを作り直さなければならない(かも知れない)と言ふのでは、ユーザも安心してMozillaを使へない。
Mozillaは、HTMLの解析能力と云ふ點で今でも拔群ではあるのだらうが、プログラム自體の洗練度と云ふ點ではいつまで經つてもInternet Explorerに追附けてゐない。
平成十五年六月五日
個人的な意見だが、ヴェンダは、欲張つてクロスプラットフォームなどと言はず、潔くWindowsに最適化したブラウザを作つても良いのではないかと思ふ。
短期的に見ても、中長期的に見ても、需要が少くて割に合はないのかも知れないが、チャレンジャーな開發者が出てきても良いと思ふ。チャレンジして殘念ながら玉碎したLiteのやうな前例が既にあるけれども。
平成十五年六月五日
えーと。キーワード「正しいHTML」でGoogle檢索して見附けたのですが。
平成十五年六月五日
しろはた〜 セカイ系1位の人だよ 彼は3位だ
「DVDレコーダー徹底活用テクニック」發賣。と云ふ事で、買つて來た。
本田節全開と言ふか全壞と言ふかすげえ。
平成十五年六月五日
CNET Japan - マイクロソフトは、いったいブラウザーをどうするつもり?
マイクロソフトの中の人、適當な事を言つたら一々反應されて、困つてゐるのでは。
平成十五年六月五日

それを、某正字正仮名のエラい(not偉い)ひと、とのやりとりで実感。

「陰口を叩いて、一人で滿足する」と云ふ使ひ方が「ウェブ日記」の「正しい使ひ方」だとは思ひませんが

具体的にどのへんでいつやったか示していただければ非常にうれしい。以上。

とぼけるのが好きなお兄ちゃんだなーと。
と言ふか、やつぱり例のアレからテクニックを「學んだ」のではないかと。たかゆき兄ちゃまがいまだに私を恨んでゐるのは、私の指摘が圖星だつたのではないかと。違ふのかも知れませんが
「被害者づらしてサイトを閉鎖して見せる」と云ふ非常に高等なテクニックを御使ひになつた方ですからねえ、このお兄ちゃん。
平成十五年六月五日
で、そろそろもう一人の正字正かな嫌ひのお兄ちゃんが、偉さうなコメントをつけて見せるのではないかと。
平成十五年六月五日
言ひたい放題、相手を中傷した擧句、「取敢ず謝罪」と云ふテクニックも流行つてゐる模樣。
平成十五年六月五日
中傷されてゐないのに「中傷した」と極附けて相手を惡者に仕立てるといふテクニック以下略。
平成十五年六月五日
と言ふか、議論の際、他人の言葉に惡意を見出す人間は、そもそも自分が善人だと思つてゐるから困りものだ。さう云ふ善人が往生するのなら、惡人こそ往生するだらう。と、親鸞上人に倣つて言ふ。

平成十五年六月四日

ただ,上でも述べたように僕はウェブ日記がコミュニケーションツールであり,議論のためのツールではないと考えているので,議論だけをしたいのであればもっと別のツール,例えば掲示板とかを使えば良いとは思いますけどね.

でも,コミュニケーションの一端としての議論なら往々にして起りうるし,そういうのは別にどんどんやっていけば良いと思います.

Koyasu氏の意見。

整理してみる。

ここまでは同意。

これには同意出來ない。

コミュニケーションの場では、議論もブレインストーミングも、同一の感覺(ブレインストーミングの感覺)でやれば良い、と、Koyasu氏が言つてゐるのだとしたら、江洲氏も私も、反對だ。議論の際とブレインストーミングの際とでは、きちんと感覺を切替へるべきだからだ。
ただ、Koyasu氏は、最初に、そのコミュニケーションツールを使う上で「議論に向かないから」といってコミュニケーションを避けたり,「論理的でないから議論にならない」といってその先の可能性を切って捨てるような態度はもったいないと思っている、と言つて、條件をつけてゐる。このKoyasu氏の示した條件は、地雷のやうなもので、一般論をあらかじめ封じてゐるのである。
そういうことを一言も書いていないにも関わらず,僕がそういったように受け取られかねない書き方をされるのは心外です.とKoyasu氏が書くのは、ここに理由がある。
Koyasu氏は、飽くまで「ウェブ日記でコミュニケーションをとらないよりもとつた方が良いのならば」と云ふ條件下に於る「コミュニケーション」について論じてゐるに過ぎない、と言ふ譯である。Koyasu氏の主張と江洲氏と私の主張との論點がずれてゐる最大の理由はここにある。
ただ、この條件が、Koyasu氏の頭の中では、ただの條件ではなく絶對的な結論となつてしまつてゐるのが問題である。
私は、Koyasu氏の考へ方を「『ウェブ日記』と云ふメディアでは、コミュニケーションをとれる。」と要約してみた。けれども、Koyasu氏は、さう云ふ「事實の確認」をしてゐるのでなく、「『ウェブ日記』と云ふメディアでは、コミュニケーションをとるべきである。」と云ふ價値觀を既に信じてゐるのである。そして、事實と價値觀との區別をKoyasu氏はしてゐないから、話が非常に曖昧になつてゐるのである。
平成十五年六月四日
Koyasu氏は、「ウェブ日記」は「ブレインストーミングに向いている」と言つてゐる。向いているのが事實かどうかは知らない。ただ、向いているからと言つて、だから「ブレインストーミングしかしてはならない」と云ふ結論は出せない。
ブレインストーミングが出來るからと言つて、議論が出來ない譯ではないし、それはKoyasu氏も認めてゐる。だが、Koyasu氏は、ブレインストーミング的な感覺が「ウェブ日記」を書く時に常に持つてゐて良い感覺である、と主張してゐるやうに讀める。もしさうでないとしたら申し譯ない話だが、Koyasu氏の文章は「ブレインストーミング的感覺に基く『ウェブ日記』の勸め」にしか讀めないのだから、仕方がない。
平成十五年六月四日
事實の問題として、「ウェブ日記」では議論も出來てしまふのだから、その議論の際にはそれなりの態度を取るのが必要だらうと、私も江洲氏も言つてゐるに過ぎない。そこで「ブレインストーミング的感覺の勸め」を説いても仕方がない。ブレインストーミングと議論とは、(取敢ず今の文脈では)異るものなのだ。ブレインストーミングの際にはブレインストーミングを、議論の際には議論をせよと、それだけの事を江洲氏も私も言つてゐるだけだ。
平成十五年六月四日
もっとも,言論を封殺しようという輩は言論によらず絶対的権力を用いて封殺してくるという点に注意.それに対しては言論がしばしば無力であったりする.と云ふ意見は、Yahoo!掲示板で、私の反對者が私を叩いた理由。
それでも言論に據らなければならないのが自由主義者だと思ふのだが、とにかく「自由」の面子さへ守れればそれで良いと考へるのが現實主義的な「自由主義者」であるらしい。
平成十五年六月四日
以下は前節までとは無關係のめも。
書評もどき:インターネット活用法
Diary: 1996/10/23
平成十五年六月四日
前節とは微妙に關係のあるめも。
[I'm a loser.] - Main

平成十五年六月三日
めろんぱんからメールが屆いたり。何を購讀してゐたつけ?
平成十五年六月三日
大河直躬『日本の民家――その美しさと構造――』(教養文庫)のページが一枚、切取られてゐるのを發見したり。
平成十五年六月三日
誕生日冥土の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし
平成十五年六月三日
タブブラウザの意義と、 Mozilla の生き残る道 2003-06-03 @ [Latest topics]
Piro氏の悲観的な見方に贊成。
Microsoftのおえらいさんの發言に一々反應して、反MS派のチャンスだ何だと言出すのは、どうかと思ふ。
平成十五年六月三日
RD研究
めも。

平成十五年六月二日
大河直躬『日本の民家――その美しさと構造――』(教養文庫)を讀んでみたり。
荒川秀俊『台風――猛威への挑戦――』(教養文庫)を讀んでみたり。
平成十五年六月二日
RD-XS40で「番組を録畫→チャプタを打つ→プレイリストを作る→DVD-RAMに保存→HDDのオリジナルを消す」作業が樂しくて樂しくて飽きずにやつてゐるが、なかなか番組を鑑賞する時間がとれない。最近は、DVD-RAMを燒いて、HDDのオリジナルデータを消したあと、どれだけHDDの空き容量が増えたか、確認して喜んでゐる始末。
平成十五年六月二日
と言ふか、何年かぶりにFDDによるデータの移動なんてものを自宅でやつた。FDDは遲いし、容量が少い。當り前の話だが。
平成十五年六月二日
「メディア」から「議論未滿」へ
2003/05/29はどんな日?
〇 続々・ウェブ日記は議論に向かないメディア?
この人たちの間で議論が成立つてゐると言へるのかどうか、甚だ疑問。
理窟は幾らでも言へるけれども、事實を冷靜に見詰めて、的確に價値判斷する事は必要だ。實際のところ、ウェブで成立つてゐる議論は甚だ少い。
一つだけ言へる事は、「どんな意見を言つたつて良いぢやないか、ウェブの議論はブレインストーミングなのだから」と主張する人は、常に「ウェブの議論はブレインストーミングではない、何を言つても良いと云ふ譯ではない」と云ふ意見を壓殺しようとする事である。
「何を言つても自由」と主張する人が「自由を否定する自由」を認めないのはをかしな事なのだが、彼等はをかしいと思はないらしい。しかし、自分に都合の惡い事を問答無用で否定し、自分の意見を押附けようとする邊に、彼らの本音は自づから明かになつてゐるのである。
昔、「言論の自由とは、言論の自由を否定する言論の自由も認める事だ」とYahoo!掲示板で書いて、散々叩かれた事がある。「言論の自由を否定する言論」に言論で反駁し、飽くまで言論の力によつて「言論を否定する勢力」の跳梁跋扈を防ぐのが眞の言論の自由だと思ふのだが、多くの人にとつて、言論の自由は言論以外の絶對的な權威や權力で以て保護すべきものであるらしいのである。甚だ脆弱な言論しか持たない日本人には仕方のない發想なのかも知れないが、情けない話だと思ふ。
平成十五年六月二日

私は「WEB日記は議論に向かないメディア、ではない」と云つてゐるのに、二方とも「WEB日記は他のメディアに比べて議論に向かないメディア、である」といふ事實から「WEB日記は議論に向かないメディアである」と反論しようとしてゐるのです。では、それは反論になるのでせうか。答は勿論「否」です。私は「WEB日記が議論に必要な要件は十分滿たしてゐる」としてゐるのですから、そこを否定しないと。

単に論点がずれているだけであると江洲氏は言つてゐるだけだ。慥かに、メディアとしてウェブ日記が議論に向いてゐるかゐないかは、せいぜい相對的にしか決定出來ない。しかし、みん氏とKoyasu氏とが「可能性はあるけど駄目」と言ひ、江洲氏が「可能性はある」と言ふ、その二つの主張の間には、無限の懸隔がある。江洲氏は事實の確認をしてゐる。みん氏とKoyasu氏とは價値判斷をしてゐる。
ぶつちやけた言ひ方をすれば、みん氏とKoyasu氏とは、「ウェブ日記」を切つて捨ててゐるのである。「ウェブ日記」は、可能性があるかも知れないが、他のメディアに比べると駄目だ、だから捨てろ、と主張してゐるのである。
江洲氏は、「ウェブ日記」において「議論が可能である」と云ふ事實を認める。同時に、「議論が出來ない場合もある」と云ふ事實も認める。そして、これらの事實を認めた上で、何とかしよう、と言つてゐる。
この、どちらがそこから発想がどのように展開されていくかを楽しむ事の出來る議論の出發點であるかは、私は自明だと思ふ。
えーと、Koyasu氏は「非論理的だ」と一言で切ってしまうのは少し勿体ない気がしますと言つてゐるのだけれども、江洲氏は「ウェブ日記は議論に向かないと一言で切つてしまふのは少しもつたいない氣がします」と言つてゐる、と。で、どつちが今の議論のテーマに即した適切な意見かと言へば、後者に決つてゐる、と。
平成十五年六月二日
エアコンの謎。冷房よりも除濕の方が冷える。
平成十五年六月二日
CNET Japan - マイクロソフト、IEスタンドアローン版廃止へ
Internet Explorer 7はいつ出るんだ……。

平成十五年六月一日
高島俊男『三国志 きらめく群像』(ちくま文庫)を淡々と讀む。
高島氏、普通の文體で書けば良いのに、時々わざとくだけた文體で書く惡癖がある。本人は良いと思つてゐるのだらうけれども、正直言つてうざつたい。
分かり易くする爲にだらうけれども、日本人には馴染みのない概念(官職等)を、外來語に譯して説明する事がある。これも、非道い違和感を覺える事がある。
をつさん連中が鐵道會社のトップにゐるせゐか、最近の鐵道の列車名には、やたらと外來語が目立つ。高島氏も、さう云ふ連中と一緒で、外來語を使ふのは恰好良いとでも思つてゐるのではないか。と言ふか、「○○みたいなものである」ならまだ良いのだが、「○○みたいなものですな」と書かれると、反感と言ふか殆ど殺意を覺える。
平成十五年六月一日
一日一膳:10000ヴュー
一日一膳:本物のカウンタは下に
平成十五年六月一日
懸案の、昔のAptivaとRD-XS40とを接續する件。
直で繋ぐとPeer to peer接續扱ひになり、クロスケーブルが必要だと云ふ事。
Hubをかまして解決。
平成十五年六月一日
アクセス統計 (2003/May/30 03:00:00〜2003/May/31 02:59:59)
俺ニュース方面の讀者にはOperaユーザが殆どゐないやうだ。

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