posted Wednesdayと云ふ記述を拔かして譯してゐる。
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は認識しないみたいです。それはさうでせう。松原先生の大阪講演會の日程が決まりました。 第15囘KFF大阪講演 日時ー平成15年5月25日(日曜日) 午後1時30分〜3時30分 場所ー大阪市中央卸賣市場業務管理等16階大ホール 演題ー政治・好色・花鳥風月 講師ー早稲田大學名譽教授ー松原正先生 參加費ー2000圓
あなたにはこのファイルにアクセスする権限がない。なる言ひ方をするのも、あんまりだと思ふ。と言ふか、そこに「ファイル」があるのかどうか。小一時間以下略。
ファイルが見つからない原因として、
ファイル名・アドレスの推測という謎の手段と言つてゐるが、どこが
謎なのか、さつぱりわからない。餘りにも當り前の事を「謎」と言つてとぼける傾向が、一部の人にあるけれども、私には理解出來ない。或は、何でも「謎」「謎」と言ふ人がゐて、以下略。
凄い作品を見たときやなんかの首筋にゾクゾク来る感覚は、ホント、どう言い表せばいいのだろう。
言質は比較的新しい語で、明治のころは「ことばじち(言葉質)」と言うのが普通だった。それが大正ごろから「言質」と書いてゲンチと読むようになった。「質」には、もともと「チ」という音があるが、質をチと読む語は非常に少なく、一般人にはなじみがなかった。それなのに、言質をわざわざゲンチと読むようになったのは、当時の教養人の仕業と推測される。
横方向のスクロールバーは出現してゐない。
や、一応知識としては、「鳥肌が立つ」という表現は恐怖や嫌悪などネガティブな感情が生じた時に使うのが正しいとされているらしいということは知っていますが、それはなんと言うか「耳にたこができる」「足が棒になる」みたいな慣用句・言い回しとして「鳥肌が立つ」を解釈されてみたいで、ものすごく違和感があるのです。
だってある人が「鳥肌が立つ」と述べる場合というのは、実際に鳥肌が立ったからこそそう述べるんではないでしょうか。ただ言葉通りに、ありのままの事実として! ……と、自分は今まで思っていたのですが、違うのでしょうか。
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まずは、教育でしょう。とにかく他人の財産や生命、並びに社会生活及び社会そのものを脅かすことの重大性をきちんと教え込むことでしょうか。 ある程度の効果を上げることは出来そうですが、完全抑止は無理そうです。
道徳教育は残念ながら凶悪犯罪の抑止には役に立ちませんな。宗教もあまり役に立たない。道徳教育の厳しかった時代の凶悪犯罪の発生件数は、道徳もクソもなくない、神が死んだ現在よりも高いですからねえ。
葉公語孔子曰。吾黨有直躬者。其父攘羊。而子證之。孔子曰。吾黨之直者異於是。父爲子隱。子爲父隱。直在其中矣。
葉公が孔子に話した。私の領内に正直で名を取つた者があつて、その父が羊を盜んだ時に、子がその事實を證言しました。孔子曰く、私の町内の正直者はそれとは全く違ひます。子に惡い點があれば父が匿してやり、父に惡い點があれば子が匿してやります。それが自然の性質に正直に從つた行爲と言ふべきではありませんか。
というわけで、凶悪犯罪の主な原因である貧困をなくすための教育ですが、高度の教育を受けたからといって犯罪に無関係とは限らない。確かに凶悪犯罪とはほとんど絡まなくなるが、ホワイトカラー犯罪(横領・背任・詐欺・脱税・汚職など)は金持ちでもエリートでもするから。 汚職議員のイメージは鈴木宗男や田中角栄みたいな「たたき上げ、成り上がり」のイメージがあるが、加藤紘一の例もあるようにエリートでも無関係ではない。貧困がなくなったからといって犯罪がなくなるわけでもない。
というわけで、こういうホワイトカラー犯罪抑止にこそ道徳教育が効果があるのですが、残念ながら日本のエリート層は中間層から下に対して道徳教育に見せかけた愚民化教育を行い、自分たちの子弟にはエリート教育こそすれど、道徳教育などしません。
凶悪犯罪よりもホワイトカラー犯罪の方がある意味で社会の脅威なのですが(何しろ凶悪犯と違ってホワイトカラー犯罪をやる人は「普通の人」や「偉い人」ですから)、おバカマス・メディアは少年犯罪やらサイコパス犯罪の問題は深刻なふりをして取り上げるくせに、ホワイトカラー犯罪に対しては鈍感です。なぜなら、彼ら自身がホワイトカラー犯罪に手を染めていることもあるから。
汚職は國を滅ぼさないが、正義は國を滅ぼす、と言つてゐる。
手土産がなければ物を頼みには行けたものぢやねえ――と云ふ
贈答或は義理の原則が「氣違ひ部落」にある事を書いてゐる。
要するに、ヴィエトナム問題の禍根は近代國家として獨立し得る資格の無い國に獨立を與へ、民主主義と自由平等の觀念を強ひた事にあるのです。大東亞戰爭でアジア諸國を解放したといふ口實に縋り附いて、そこに敗戰日本の誇りを見出さうとしてゐる日本のナショナリストの心事は、けち臭いといふより甚だ無責任に思はれます。勿論、私は低開發國をそのままにしておけと言つてゐるのではない、「侵略の」ではなく「解放の」責任を取るべきだと言つてゐるのです。それを今日アメリカが一手に引受けてゐるのではないか。解放の責任はアメリカにもある、ですから、彼等はその責任を取らうと決意したのです。それがアメリカのナショナル・エゴイズムにも合致するからだなどと言ふ人を見ると、私はつくづく日本人もあさましくなつたものだと思ひます。一體どこの國が國家利益を犠牲にしてまで他國に奉仕するでせうか。
「地味」は「正字正かな」だと「じみ」だろうか「ぢみ」だろうか。
「買春」というのもときどき見る。先日も、サラリーマンが小学校六年生の女の子を「買春して逮捕された」という記事があった。その女の子は身長が百六十センチあって十七くらいに見えた、とある。でっかい六年生もあったものだ。小生とさしてかわらん。目方は多分小生よりあるんだろう。――実は小生、四十五キロをやっと維持しているのである。なかなか四十六キロにとどきませんです。
とどきませんです、なる言ひ方は正しくない、と言つて咎めるのは、それこそ正しくない事だらう。高島氏のこの言ひ方は、正しいのだ。
「地味」は「正字正かな」だと「じみ」だろうか「ぢみ」だろうか、 という疑問に対して、闇黒日記で「ぢみ」というご解答をいただいたので、 安心して「ぢみにやつていく」ことにします。(^_^)
質問・要求などに対する返答。返事。
問題を解いて答えを出すこと。そのこたえ。
ルールを守れない方はすみやかにご退場ください、といふ本を、MdNは出してゐました。
やはり使えぬ、
とりあえずは表示確認用としてのみにしようと思う、と斎藤忍氏。
ブラウザ画面上での画像の保存は
WEBデザイナンでは頻繁に行う作業であるらしい。原文のまま。
雅でも何でもない。一昔前の人間は、實用的な目的でも文語文を用ゐた。ただ、雅やかな内容を表現するのには口語文よりも文語文の方が適してゐると云ふだけの話である。
国内の新聞も「言葉、言葉、言葉」の素材としてうってつけこの名言を逃さなかった。
長崎で被爆した奥さんの居る観光タクシーの運転手が言ってました。
「みなさんも、みなさんの親戚なり家族なりが、一瞬にして焦げ、消え去ってしまうことを経験すれば、絶対に戦争しようなどと思わないはずです」と。
絶対はない。
絶対を「ある」と思ふのは、その人が何かを信じてゐるからである。