俺は、「進歩的」だとか「革新的」だとかが何となく好き、と云ふ人間が嫌ひで嫌ひで仕方がない。馬鹿ぢやないかと思ふ。
世の中は變つて行くものだ。世界は、自然に移り變つて行くものだ。ならば、人が世界を變へようとする事は、「流れに棹さす」事でしかないだらう。
渾沌へと移行するのが自然の決りならば、人間の文化――秩序の維持は、自然に對する人間の根本的で最大の抵抗だと思ふのだ。革新的な、進歩的な人間は、さう云ふ抵抗の出來ない、弱い人間だとしか、私には思へない。
「××なのが自然だ」と云ふ「主張」は、主張でも何でもない。只の逃げだ。或は、趨勢を本質と勘違ひしてゐるだけの事だ。
最近は、近寄るとセンサで人を感知して、勝手に點る玄關燈なんてものが附いてゐる家が建つやうになつた。近所にもさう云ふ家があつて、歸宅する時、その家の前を通る度に、一々赤の他人である俺如きの爲に點つて呉れて、鬱陶しい事この上ない。
しかし、近寄ると勝手に複寫を始めて、白紙を排出するコピー機なんてものは、初めて見た。職場のおんぼろコピー機くん、調子が惡くてどうしやうもない。
ただいまにゃごろう村の山田大佐氏と盛んに言爭ひを演じてゐる徳保氏 @ 初級Webデザインアドバイス。
「備忘録」の過去ログを讀んで見たら、山田氏あての文章とは別に、私に對する非難もあるのに氣附いた。
賢く、さらに暇のある閲覽者ならば、當方の文章と徳保氏の文章とを一々比較檢討して呉れようが、今の時代、さう云ふ閲覽者は少いし、さう云ふ閲覽者の少い事を良い事に徳保氏が情報操作をしようとしてゐる風にも見受けられるので、コメントをしておかうかと思ふ。
そうなのです。私はダブルスタンダードや一貫性のなさを相当程度許容する人間なので、野嵜さんの主張には頷きつつも、正字正かなを勉強しようとも使おうとも思いません。で、それはそれでいいんじゃないかと考えていたりします。
理屈からいえば並立しえないものを、現実問題として並立させてしまうというやり方を、私は受け入れるということです。そして、それはそう悪いことではないと思います。「正しいこと」に徹底してこだわる必要を感じないんですよ。
初級Webデザインアドバイスは、Opera 7で閲覽すると、ホイールマウスの廻轉でも、カーソルキー押下でも、スクロール出來ないんですがー。あと、「Back」ボタンを押したり、BackSpaceを推したりしても、勝手にリロードして呉れて、前のリソースに戻れないんですがー(http://www2.loops.jp/~hkt/→http://www2.loops.jp/~hkt/design/index.htmlに勝手にリダイレクトされる。リダイレクトうざい)。
現実問題と言ひたければ、その前にリソースの作り方を何とかして下さい。いや、徳保さんはダブルスタンダードな人間だから、「どうでも良いや」とお思ひになるかも知れませんがー。それに、私も滅多に初級Webデザインアドバイスは見ないので、どうでも良いと言へばどうでも良いのですが。
以上の文脈がある事を、徳保氏は故意にかうつかりにかは知らないが、省いてしまつてゐる。そして、その「文脈を省く」と云ふ事が、現實問題として「情報操作」となるのだから、徳保氏には注意して貰ひたい譯だ。
世間一般の人の反應。
Webデザイン関係者は「ブラウザが統一された方が良い」と考へてゐるらしい。それはそうでしょう。野嵜さんのように、Opera7ではおたくのサイトのCSSはうまく解釈できない、どうにかしろ、みたいなことをいう方が絶えないのですから。CSSを切ればいいのに、たったそれだけのことさえ面倒くさがる人が多いのですから。野嵜さんでさえ私があくまでも推奨スタイルシートしか提供していない事実をあえて無視する。ましてや一般の方は……。
標準仕様がいかに便利か。それは、仕様にしたがってさえいれば、生じた不具合はすべて自分以外の誰かさんの責任に帰することができるからです。だから私は、野嵜さんが当サイトの推奨スタイルシートに文句をつけるのはお門違いだとくり返し申し上げています。仕様に準拠すべきといいながら、ユーザエージェントの不具合にも対応せよ、というのは馬鹿げていますよ。そんなことだから仕様がUAの実装に屈服するのです。世間の認識がいつまでも変わらないのです。
私が徳保さんに根據のない因縁を一方的につけてゐるかのやうに、徳保さんは書いてしまつてゐる。徳保氏と私の兩方の文章の熱心な讀者で、その讀者が賢明であるならば、文脈を「腦内補完」して讀めるだらうが、さうではない讀者は、この徳保氏の文章を讀むと、私野嵜が徳保氏に嫌がらせをしてゐるかのやうに思ふだらう。
ダブルスタンダードや一貫性のなさを相当程度許容する人間
を自稱する徳保さんが、仕様に準拠すべきといいながら、ユーザエージェントの不具合にも対応せよ、というのは馬鹿げていますよ
、と言ふ。
これも奇妙な事だと思ふ。
野嵜さんは、正しいと確信していることがあるなら、当然、すぐさまその通りにすべきとお考えなのかもしれません。けれども私はもっと不徹底にやっていきたいと思っていて、それは正しくないものを
許すというよりは、消極的ながらもダメなものを認めるのもありだろう、という立場なのだ、ということです。この立場を「正義の拒絶」と表現されるのは抵抗感があるので、こうしていろいろ書いてみたわけですが、その辺り、伝わりましたでしょうか。
ならば、「消極的に『Operaにも對應すべきだ』と云ふ意見も認める」べきだと思ふのだが。そして、OperaでもInternet Explorerでも(ついでにMozilla Classicでも)それなりに整形されるやうにする、と云ふ「現実的」な對應をする努力も必要だと思ふのだが。
徳保氏の主張を眺めると、どうも徳保氏自身の言動、或は、徳保氏自身の怠惰を正當化するだけの目的で、徳保氏は論理を運用してゐるやうに見える。
「今のところ、正字正かなを使ふ積りはないが、そのうち使ふ氣になるかも知れません」と云ふ態度は、現時點に於いては正字正かなを拒絶してゐる事にほかならない。徳保氏は「將來の可能性さへ示しておけば拒絶してゐる事にはならない」と思つてゐるらしいが。
outsider reflexのTipsを転載しました。有用な情報は転載した方が世のため人のためになるはず。私自身も出先で読めるようになりますし(そういうことです)。ただし、配布されているデータがリンク切れの嵐。ちょっと正式公開するには手直しが多々必要そう。というわけで、私にとって重要なファイルのみちゃんと手直しして、あらためて転載記事一覧からリンクしなおします。配布されているファイルの単純な転載は、この備忘録からだけ辿れるようにしておきます。
「徳保氏は自分に都合の良いやうに理論やリソースを使つてゐる」と徳保氏が見られても、仕方のない事だと思ふ。徳保氏、「壓縮ファイルを解凍する手間を惜しむ自分の怠惰を糊塗する爲に、世のため人のため
等と言つてゐる」と批判されても、當然だと思ふ。
徳保氏、こんな事を書いてゐる。
内容の転載・改変等を行う際、当サイトの名称、URI、管理人の名前等、一切書添えないでください。またご利用の報告も無用です。なぜなら私は転載に加えて改変まで認めています。権利とともに責任も放棄したいわけです。
こんな事を言ふ人が、自分の意見を主張したり、他人を批判したりするのである。困つた事だと思ふ。「責任を抛棄したい」のならば、責任を問はれるやうな事は一切口にしたり文章にしたりしてはならない。もし一言でも、責任を取らなければならないやうな事を口にしたり文章で公表したりしようと思ふのならば、こんな事を自分のウェブサイトに書いておいたりしてはならない。
閲覽者が一々「この文章で徳保氏は責任を取らうと思つてゐる」「この文章について徳保氏は責任を取る氣がない」と的確に判斷すべきである、と徳保氏は思つてゐるのかも知れないが、サイトの「ご利用上の注意」に一概に上のやうな「宣言」を書きながら、一々の文章について閲覽者に判斷を強ひるのは、矛盾してゐる。
或は、どの文章が責任を取る氣のない文章で、どの文章が責任を取る積りの文章かを明記しないまま、全體として「責任を抛棄したい」と宣言をしつつ、「とっぷぺーじ」の「備忘録」で責任を取るべき自己の主張を書きつらねてゐるのだから、徳保氏は「自分は他人から批判される事を豫め囘避しておきながら、自分は他人を批判しようとしてゐる」と思はれても反論出來ない筈だ。
「言葉 言葉 言葉」「PC Tips」で、記事(署名記事)の投稿も受附けようかと思案中。
以下略。
苛める積りで追求したのではなかつた。
前日に電池を入換へた腕時計が止つて慌てた。
買物 @ 松屋淺草。
見てゐますか。
このところ、明けの明星が東の空に浮んでゐます。ただし明け方。
私は早起きです。宵つ張りですが。よつて、慢性的に寢不足。
好い加減、野嵜猫子
は、勘辨して下さい。
仮名が表モーラ文字ならば、一対一対応して表せるのか、というところでこの前の文章につながります。 新仮名遣いではモーラと仮名をかなりの程度まで一対一対応できて、 なかなかよくできているじゃないか、という結論。 ただし、結論については勝手にそう思っているだけなので、 実際に未知単語の誤読や幼児の仮名表記などを調べてみたら 全然一対一対応してないかもしれません。
モーラなる概念が案外怪しいものである事も屡々指摘されるが。
「反応」「というのは」「必然性」「検証」「経路」「認知心理学だろう」「言うとおり」「脳」「音声」「文法」「方法」「検討」「一対一対応」「特徴」「表モーラ文字」「子音」「要素」「一定」「耳の方」「情報」「拗音」「音声認識上」「妙」「事情」に關して、これらの語の「現代仮名遣い」における表記が何を反映してゐるのか、を良く考へてみると良いと思ふ。音など全く反映してゐない事は明かだ。日本人は「反応」を「ハ」「ン」「ノ」「ウ」とは發音しない。
表記が音と一對一對應でなければならない、と云ふ決りは無い。表記から音が想起出來れば、それで十分だ。
フランス語では、表記から發音を想起出來る。しかし、發音を聞けば必ず表記を思ひ出せるかと言ふと、さうでもない。
それにしてもとほほ先生、ISO/IEC 15445:2000の存在は無視ですか。さうですか。
(誰)とか(謎)とか(何処)とかいつた表現から受ける印象についても熟考すべきだと思ふ。と言ふか、そんな「表現」はやめろ。
無駄にファイルのサイズを増やすだけの「表現」は要らない。書かなくて良い事は書かない方が良い。
壽岳文章譯のダンテ『神曲』が集英社文庫に入つた。壽岳文章は馬鹿だが、その譯文は讀める。
ジイドとチェホフと岸田國士を今年はきちんと讀みたいと思つてゐる。
のだけれども、餘りに眠いので今夜はリタイア。
『日本語の真実』(三浦朱門著)なる本が出てゐたが、買はなかつた。
正誤表入り。結構澤山間違ひを含んでゐる模樣。大野晋の「晋」に附されたルビが「まこと」だつたりする。
國語國字問題について全く觸れてゐないので、本書は私の興味の對象外。日本語についてのみ知りたい人も、大學生向けに澤山概説書が出てゐるのだから、さう云ふ本を買へば良い。
本書を強ひて買はなければならない理由は見つからない。せいぜい、三浦朱門ファン向け、といつた處。
「国民の休日」に過ぎない「成人の日」に式典をやつて、來賓が「新成人」にありがたい話なんぞ、自信をもつて出來る譯がない。
元々旗日であり祝日であつたものを、一々意義を變更して休日に貶めたのは「戰後」の「民主主義」である。ならば、今の成人式で「新成人」が見せる醜態は、當然「戰後」の「民主主義」が間違つてゐた證據だ。
ところが、一部に、原因を深く考へず、目に見える「成人式」を攻撃して喜ぶ人がゐる。皮相的で表面的な批判を偉さうにするのは、馬鹿のやる事だと思ふ。
戰前の祝日が國家的な儀式に基いて定められたものである事は事實だが、戰後の休む爲の休日を「國家的」と言張る人がゐるのだから、世の中は面白い。「勤労感謝の日」だの「海の日」だの「敬老の日」だのの、どこが「國家的儀式のための休日」なのだらうか。まあ、さう云ふ人は、天文學的な根據に基いて定められた壮大なスケールの休日である(←ここは笑ふところです)「春分の日」も「秋分の日」も知らないのだらうが。
と言ふか、どうして夏至も冬至も休みでないのに春分と秋分が休みなのかは、「戰後」しか知らない、と言ふか、戰後の價値觀しか受容れようとしない偏狹な精神の持主には、理解出來まい。
無知な人が、自分の無知を根據に何かを批判する。良くない事だ。
由來とか、經緯とかもきちんと調べた上で、現状を冷靜に判斷する態度こそ、批判的な態度と言へるのではないか。見下したやうな言ひ方をするのが批判であるのではない筈だ。言ひ方はどうであれ、誰にも反論出來ない、つつこみどころのない根據を用意して、その上で物を言ふのが、批判のあるべき姿だらう。
その文章が「獨り言」かどうかを判斷するのは、本人ではないのではないか。
たまには思つてゐる事を全部吐出してみるのも良い事だと思ふ。
ただし、書き手は讀み手を裏切つてはいけない。書き手と讀み手の信頼關係があつて、はじめて出來る事なのだから。讀み手を信頼出來ないのなら、何も言ふべきではない。
Optimoz @ [サル並日記(2003-01-14)]→mozdev.org - optimoz: gestures/screenshots
小物の戯言 (ページ 1) : 何か。の略歴の2003-01-13T22:00:00+09:00でもつつこまれてる。
草思社から小山常実著『「日本国憲法」無効論』と云ふ本が出てゐたので購入してきた。一應、資料として。
「日本語の秩序を破壞しようとする言動に反對します」とでも書いておかうかと。
例の「義」氏が今年も荒し活動を開始。憂鬱な日々が始まります。
この手の掲示板荒しは極刑に處せられるべきだ。
括弧で括られてゐた「チルダ」を「マチルダ」と誤讀した。
浮かれてゐると、後ろからばつさりやられる罠。
やつと13日に。
はてなあんてな君における「闇黒日記」の更新内容が、何だか○○○○じみてゐて、面白い事になつてゐた。
まだ12日だ。日附の修正。
1日戻る。哀しい。
その手のサイトを一生懸命探しても見つからなかつた上野驛構内の圖が、Googleだと一發で出てくるんですよ。サイトナヴィゲーションなんて、或意味、要らないと思つた。檢索エンジンで必要な情報がひつかかるやうなサイト作りをした方が、利用者は増えるのではないですか。
だとすると、個々の文書に含まれる情報の量を増やし、その質を上げる事と、檢索エンジンが利用し易くなるやうな文書の的確なマーク附けが、サイト制作者のすべき事だ、と云ふ事になる。
内容の充實と形式の整備と云ふ兩輪が揃つて、サイトの運營は巧くいくのではないか。
リンクするとかしないとかが問題なのではなく、一々いちやもんを附ける種にするかしないか、いちやもんを附けられた時に受けて立つか立たないかが問題なのだ。
Opera 7 beta2は、iframeのあるサイトを行つたり來たりするのが苦手なやうだ。
ウェブ日記の頭の邊に、「××に反対しています」とだけ、ちらつと「宣言」を書く奴は、スパマーと一緒だと思ふ。
そんなもの、ウェブ廣告と一緒で、閲覽者にとつてはただの邪魔ものに過ぎない。良いと思つてゐるのは本人だけ。
無駄口ではなく、きちんとした内容の文章であるならば、長文である事を後ろめたく感ずる事はないと思ふ。
下手に短い文章を書いて、あとでしまつたと思つた。
そういや皆さん CSS 書く時ってどういう流れで作業されてますか?
一時期以降、@NetHome初期版の*.CSSを書換へる事しかやつてゐません。
KSmiracleを作つた時は、ちやんと設計圖を描いた。dnozに改裝した時は行當りばつたり。
dnozのh1のすぐ後に續くメニューのスタイルが隣接セレクタで指定されてゐるのは、うつかりclass指定するのを忘れたから。
ニュースの批評とか誰かとの論爭とかをする氣が全然起らないので、字音假名遣と上代特殊假名遣に關する記事を默々と増補。手持ちの本を引つ掻き囘して、關係のある事柄を拔出しては繋ぎ合せて行く、と云ふ、レポート作成の方法としては必ずしもよろしくないやり方。
「ジーク字音」とか書いたら誰か反應して呉れるのでせうか。餘りにも今更の駄洒落。
Opera 7 beta2の不具合。
- AppleのSafari、ブラウザ市場に与える影響は?
- Appleの“IE離れ”は何を意味するか
- 無い、と。
- とりあえず、Webデザイン関係者は検証/考慮/対応すべきブラウザが一つ増えてしまったと言う点に非常にガックリ来ているでしょうが、マーケット的にはどうでもいい、と。
世間一般の人の反應。Webデザイン関係者
は「ブラウザが統一された方が良い」と考へてゐるらしい。
リンク張つてゐねえぞゴルァとか言はれないやうに一應リンク張つておく。
潔癖症と古本好きは兩立し得るか?
これは私への挑戰でせうか。
古本好きは潔癖症です。本の上にコーヒーカップを置いたり、御菓子を食べながら本を讀んだりする人を、許せません。
ちなみに、古本に汚れはありません。
學校では、本の正しい扱ひ方を教へるべきだ。
久しぶりにMozilla browserでウェブを廻つてみた。Opera 7 beta2 落ち過ぎ。
はてなあんてなの更新捕捉も早いが、某大手匿名掲示板の投稿者のチェックが入るのも早いですねー。早過ぎる。
誤は氣附き次第、修正してゐますので、勘辨して下さい。
某方面で話題のあなたの結婚適齢期を鑑定します!は、 Q6: 憧れの人との初デート。どこに行きたいですか?
の囘答の選擇肢に「古本屋・古本市」がないので囘答不能。
併し、何でこの手の「占ひ」とか「鑑定」とかの設問は、いちいち神經に觸る事ばかり訊いて來るのだらう。
遊びのCGIに腹を立てるのもアレだが、こんなの、やらなくて良いです。
と言ふか、何でこの界隈で今、この手の話題ばつかなんだ?
結婚適齡期は18歳ですと言はれた。
昨日の怪我は、右手人差指を1.5cmくらゐ切つたものなのだけれども、塞がり始めてゐる。淺かつた樣子。絆創膏ナシでも、もう大丈夫。
でも、ぴりぴり痛い。
3針縫つた左手の人差指の古傷が、茲數日、痛む。寒い所爲らしい。左手の人差指は、今でも、まつすぐ伸ばせない。
私は、古典も讀まないのに、古語辭典を10册も持つてゐる。
經緯は過去ログ參照の事。慥か書いた筈。
変人窟黒歴史篇・1998年。
年末の創の原因判明。作業衣(支給品)が安物で、金具が外れかけてゐて、衣服を整へる際に當つた指を傷つけてゐた。
本日はかなりざつくりと。
創の場合、「ざつくり」よりも「さつくり」の方がやばさう。
「神道」の文字の出た最も古い例は「日本書紀」用明記。
KOMEI ブラウザ、その後、有名ですな。
フロッピーディスク自體が色々な理由で讀めなくなるかも知れないから、昔、フロッピーディスクにとつておいたバックアップデータも、CD-Rなり何なりに改めてバックアップし直さないといけないと思ひつつ、殆ど出來てゐない。
DeskJet 505J附屬のDOS版はがき印刷ソフト「れいこのはがきやさん」の獨自仕樣住所録データなんぞ、バックアップをとつても仕方がないと言へば仕方がないのだが。インポート出來るアプリがない。
本日の買物 @ 京王新宿。
何だか言ひ譯の多い買ひ方。
そんな譯で。
「闇黒日記」の記事、以前はきちんと5日ごとに過去帳行きにしてゐたのを、面倒臭くなつていつの頃からか溜めるやうにしてしまつたのだが、今年も正月からこんな調子です。
取敢ず「三日坊主」よりは増しと云ふ事で。最う六日。
昨日なのだけれども。
年賀状が屆いたのですよ。嬉しかつたのですよ。
年末、紙で切つたとおぼしき右人差指の創は、今もみみず腫れのやうな痕が殘り、觸ると痛む。
その,買ひ漁つたなかの一冊。「辞書のウソ」(辻本浩三/朝日出版社)。国語教育者の立場から,広辞苑を始めとする国語辞典がいかに実情に合はず使へないものであるかを論ふ本である。なるほど面白さうなテーマだ,と思つて読み始めたのであるが‥‥
辞書が本来どうあるべきかを考へないまま,「辞書に書かれてゐることはすべて正しい」といふ幻想だけが一人歩きしてゐる。本書の著者とて,同じ幻想に囚はれてゐるからこそこのやうな本を書いてゐるのだ。
- 還元
(中略)
どの辞書も「元に戻す」という意味だと書いているが、それはこの単語の意味の一部に過ぎない。
(中略)
だが、評論文では「文化の問題を経済の問題に還元してはならない」「死を貨幣の対象に還元している」といった形で目にすることが多い。この場合、どう考えても経済や貨幣の方が「もと」であるとか「根本的」であるとは思えないし、何かに「戻している」わけでもない。辞書の執筆者たちはまさかこういった使い方が間違いだとでも言うのだろうか。
辞書は「還元」はただ何かに「置き換える」というイメージで幅広く使われるようになっていることを書き加えておくべきではないか。
呆れて物が言へない。辞書の執筆者がどうだか知らないが,オレは
こういった使い方が間違いだと言ふつもりだ。ああ,間違ひだともさ。還元といふ文字を見て「置き換へる」といふイメージを持たなくてはならないなどと,ふざけたことをこの著者は本気で主張してゐるのだ。
どう考へても經濟の方が「もと」でも「根元的」でもないから、文化の問題を経済の問題に還元してはならない
、と、その評論文の筆者は書いたのだらう、と思つた。死を貨幣の対象に還元している
、も、元の文の筆者には非難する意圖があつたのではないだらうか。文脈がわからないから斷定的な事は言へないが。
この時期になつて「闇黒日記」なんぞを讀んでゐる受驗生がゐるとは思へないし、ゐたらそいつは「投げてゐる」か餘程餘裕があるのだらうと思ふけれども、一應。
大學受驗における國語の讀解問題が、辭書に載つてゐるやうな語句の意味を解答者に要求する事は、それ程多くない。辻本浩三氏がその邊りの事を意識して『辞書のウソ』なる本を書いたのかどうかは知らないし、多くの日本の辭書が「使へない」ものである事も否定しないが、受驗生は氣にする必要がないし、氣にしても仕方がない。
國語の讀解問題で、「この語句は何を意味してゐるか」「この文章で筆者は何を言つてゐるのか」と云ふ設問があつたら、自分の知識に基いて判斷して、解答してはならない。その設問は、飽くまで「その文章における筆者の意圖」を尋ねてゐるのであつて、「その文章を讀んであなたが感じた事を書きなさい」と言つてゐる譯ではない。
どんな設問の場合でも、讀解の問題であるならば、必ず「答」は問題文の中に書かれてゐる。意味を問はれてゐる「語句」なり「文章」なりの「意味」とは、問題文の筆者がその文章の中で言換へてゐる「語句」なり「文章」なりの事を指す。解答者は、文中の「言換へ」を指摘しなければならない。
大學入試に限らず、國語の試驗問題では、解答者が形式的な思考の方法を身に着けてゐるかどうかだけが見られる。解答者の思考の内容は見られない(そんな事をするのは、思想檢閲に當る)。受驗生は、ただ「形式的に正しく文章を讀取る力」の有無だけが、大學入試で問はれると思つておいて良い。
ねこぽん氏の怪氣炎と、そのたのつつこみ。
古典文法なんて某御用国語学者(名前忘れた)のでっちあげだからね。
日本神道なんて吉田なにがしのでっち上げだし。
後段はともかく、前段が何言ってるのかさっぱり意味分からんのですが。
学校で教えている『古典』というブツですよ。あれの文法とか意味論とか。明治政府あたりが自分の都合のいいようにでっちあげ、ついでに古い文献を修正:pしてしまったのだよ、って話。正典偽典みたいな話で。ええ。
あれを至上のものとして無批判にあがめ奉るのはイヤだといいたいだけです。ええ。 ……そういう人がいるんですよ。少なからず。
まず、改竄したという話については、たとえば冷泉家時雨亭文庫に藤原定家の 筆写した多量の古典があります。写真に撮った複製本は比較的容易に手に入ります。 もし改竄されたなら、常識的には「現在、XXのページは紛失した」とされるでしょう。 (もちろん、「定家が間違って筆写した」部分はあるでしょうし、それは研究の対象になっているでしょう)
意味や文法が適当に決められた、という話については、たとえば井原西鶴の好色一代男が 源氏物語や伊勢物語に似せて作られたって話があったり、百人一首のカルタが 元禄時代以降、庶民の間でひろまったということで反論できます。 江戸時代の人々が意味も分からず和歌や物語を読んでいた、というなら 話は別ですが。
そもそも、昔は歴史書、思想書、それにまともな日記など、たいていのものが 漢文でかかれていたので、なんで明治政府が仮名で書かれた古典の解釈を でっちあげるのか理解に苦しむのですが。
ひとつだけ。 誰がやったんだか思い出せないんですよということで、申し訳ないですけど、いったん終了にさせてください。情報探してきます(いつになるかは不明ですが)。
政府が手を下したんじゃなかったです。これは私の間違い。明治時代のどっか帝大の偉い先生がやらかしたという話だった気が……うーん。
ねこぽん@4049氏、大丈夫か。
「古事記」に關しては、「古事記傳」で宣長が讀み方を「創始」した事實がありますけれども、宣長は江戸時代の人です。
自然言語には不規則変化がつきものです。しかも不規則変化するのはたいてい多用される単語。
// ほとんど使われない単語が不規則変化すると迷惑ですが :)
「体系的」って言われると実に嘘っぽいと思うんだよね。こういう例があるだけで。\
すけこまくん(永野のりこ)曰く。
「アッチの世界へ行っちゃうときって、本人にとってはけっこう論理的だったりするんだよね。あーやっぱりそうだったんだーって」
「……経験者?」
「はじめに文法ありき」だからでそ。なんかルールにのっとってないと死んでしまうみたいです。
破格って知ってる?
論理的なら誤解が少ない、ってのがすでにおかしい。だれも結局自分の理解したいようにしか理解しないのだから。
――そうでなかったらUFO騒ぎもNASA騒ぎも理解できまい。
ねこぽん氏、やつぱりをかしい。
ねこぽん氏は、何を根據に發言してゐるのだらうか。「論理的」がねこぽん氏は嫌ひであるみたいだが、ではねこぽん氏は何が好きなのだらうか。
ねこぽん氏は、ただのでたらめを推奬してゐるのではないらしいが、するとねこぽん氏自身、何か一貫した論理に基いて物を考へてゐる筈だ。すると、全ての論理をねこぽん氏は否定してゐるのでは無い筈だ。ならば、ねこぽん氏はこれらの發言で何を否定してゐるのか。
例によつてねこぽん氏の發言は「説明不足」なのであつて、どうしてさう云ふ必要な説明を拔かすのかと小一時間問詰めたくなる。
大體、UFO騒ぎ
なりNASA騒ぎ
なりで、「隠謀説」の論者の言つてゐる事がをかしい事を指摘するには、論理的な思考が必要である筈。論理が惡いのではなくて惡い論理が惡いと云ふだけの話だ。それなのに、一概に論理的である事を否定するかのやうな言ひ方をするねこぽん氏は、寧ろ「隠謀説」を利したいと思つてゐるのではないかとすら推測したくなる。
形式に内容を規定されるな。
形式が論理的であることと、内容が論理的であることにはなんの連関もないぞ。
「象が歩く」「花が咲いた」は内容的にも形式的にも正しい文章だ。「象が咲いた」「花が歩く」がをかしい文章なのは、形式的には正しくとも内容的には正しくないからだ。しかし、内容は正しいけれども形式的には正しくない文章の例は提示出來ない。
形式的に正しい文章でないと、それが内容的に正しいのかどうか、第三者が判斷する事すら出來ない。形式的に正しい事は、コミュニケーションにおいて、最低限必要な事だ。
そもそも、必要な説明をしないで斷定的な結論をいきなり下す人こそ信者である。さう云ふ信者に限つて、「誤解された」「曲解された」と喚くものだし、間違ひを指摘されてそれが論旨に關る重大なものであつても謝罪するだけで全然氣にしないし、謝罪したから自分は正しいのだと威張つて言ふ。
本當の信者は、自分の信仰がアプリオリに一般的な眞理であると信じてゐるから、他人を説得しようと努力しないし、その癖偉さうに説教して他人を見下すし、逆に説得しようと一生懸命説明する他人を狂信者と極附けて、自分は何ら反省しない。
困つた事である。
しかし、どうして無知な人に限つて、自分は極附けで話を進めながら、他人を平氣で見下せるんでせうねえ。神道關係の本を全く讀んでゐないねこぽん氏は、神道關係者に失禮な事を平氣で言つてゐるのだが、なぜさう云ふ失禮な態度を平氣で取れるのか、その神經を疑ふ。
「古事記」には僞書説があるし、「日本書紀」が異説も示しながら全體として當時の政權に都合良く既存の神話を書換へて保存してゐる事も知られてゐる。しかしながら、當時、既に氏族單位に先祖崇拜が存在した事は誰も否定出來ないし、それは神道に他ならないのだが、ねこぽん氏はさう云ふ誰にでも氣附けるべき事實に氣附けない。何か變な本から知識を得てゐるとしか考へられない。
日本史の授業では必ず、蘇我氏と物部氏が佛教を受容れるかどうかで爭つた事を習ふが、物部氏が「日本の神」の擁護を大義名分に掲げた事くらゐ、ねこぽん氏だつて知つてゐるだらう。それなのにねこぽん氏は日本神道なんて吉田なにがしのでっち上げ
と言ふ。知つてゐて知らない振りをするのが本當に上手だと思ふ。とぼけるな。
熟く神祇を禮ひ、周く山川を祠り、幽に乾坤に通はす。是を以て、陰陽開け和ひ、造化共に調へり、とある。
ねこぽん氏の吉田なにがし
とは、吉田兼倶の事かと思ふが、その吉田兼倶は室町末期に吉田神道を創始した人物である。吉田神道は卜部神道とも言つて、神・儒・佛を集合した神道の一派である。即ち、吉田神道以前に、既に神道は存在したのであり、これを見ても日本神道なんて吉田なにがしのでっち上げ
なるねこぽん氏の主張は根據のない極附けである事が明かである。
取敢ず、ねこぽん氏は、先にリサーチしてから、物を言ふべきだと思ふ。つつこまれて逃げ廻る醜態を見せるのは、やめてもらひたい。
■ んー、まあ論理的に話ができるというのは確かにメリットなんですが、文法というのは基本的に言語(=音声言語)の規則なので、正書法の「正しい」「正しくない」の根拠に音声言語表記としての正当性を求めたら、「正書法と音声は対応してなくてもいいんだ」というような説明は使えなくなります。そうなると歴史的仮名づかいと現代日本語の音韻体系との矛盾を解決するのはかえって大変になるんじゃないか、いっそのこと正書法と文法は切り離して考えてしまった方がまだ楽に話を進められるんじゃないか、と思った次第です。もちろん、どちらを選択するにしても、面白い説明が出るなら大いに興味があります。
このへんは、正書法で書かれた文を、音素のかたまりではなく文字のかたまりとして捉えたまま文法の話をしている人がいるのが問題になっているのかもしれません。
江洲さんは、「言語(=音声言語)」といふ前提が間違つてゐます
、と指摘してゐます。江洲さんは、しゅがい氏の言ふ正書法で書かれた文を、音素のかたまりではなく文字のかたまりとして捉えたまま文法の話をしている人
なのですが、それのどこが問題
なのかを、しゅがい氏は説明出來るのでせうか。
實際のところ、世間の人が思つてゐるのとは裏腹に、しゅがい氏の所謂歴史的仮名づかいと現代日本語の音韻体系との矛盾
は存在しません。正かな表記の文章と、音韻とは、一對一では對應しません。しかし、フランス語の表記だつて、現代フランス語の發音とは一對一で對應しないのでして、要は、世界のいかなる言語にも、表記と發音との間に一對一對應の存在する言語はないのであります。「現代仮名遣い」にすら、「は」「へ」「を」と云ふ餘りにも明かな例外のある事は、しゅがい氏も認めざるを得ない筈です。また、「〜しよう」とか「けいさん(計算)」とか言つた表記も、嚴密に言へば發音とはずれてゐます(それをごまかす爲に「音韻」なる概念が利用されたに過ぎない)。
フランス語の表記のやうに、音韻上の語形の體系に全體として對應してゐれば、表記の體系は體系として十分なのであります。さう云ふ觀點から見れば、「現代仮名遣い」は何としても説明のつかない矛盾だらけの「體系」でしかありません。
また、正書法
、正書法
、としゅがい氏は言つてゐますが、そもそもしゅがい氏は正書法
の意味を解つて言つていらつしやるのでせうか。しゅがい氏は、いっそのこと正書法と文法は切り離して考えてしまった方がまだ楽に話を進められるんじゃないか、と思った
、と書いてゐます。しかし、この發想が、國語國字改革を實施した當事者の發想そのものである、と云ふ事を、しゅがい氏は知らないと思ひます。
土岐善麿が、かう言つてゐます。
かなづかいに語意識という考えを加えてゆけば、現代かなづかいは表音的ではないではないかという形の非難なり批判に答えられる。語意識というものが加われば説明がつくだろう、という工合に私は考えたわけです。そこで正書法ということを言い出した。
そもそも、んー
、なる表記は、「現代仮名遣い」も認めてゐない「不正」な表記です。しゅがいさんは、御自身、既に「現代仮名遣い」を認めてゐないのですが、さうなると、「もつと表音的な表記を日本人は採用すべきである」と考へていらつしやるのではないでせうか。
どうも、「表音的な表記は、書くのが樂である」と、しゅがいさんは考へていらつしやるのではないかと推測するのですが、書く側が樂である記法と、讀む側が樂である記法とは、それこそ矛盾するのではないかと思ひます。
ちなみに20日の日記で「一部の旧仮名信仰の人間」と言ったのは、旧仮名の言語的正当性を声高に主張する人たちのことを指しており、ただ単に好みで旧字旧仮名を使っている人を指したつもりはありません(自分の出版物なんだから、自分の好きな言語で書けばいい)。まあ、これは説明不足であったかもしれません。誤解を招いてしまってすいません。
指しており
、と自分があとで宣言すれば「指した事になる」と、どう云ふ譯か「歴史的假名遣大嫌ひ」派の人は考へますね。非難されれば、「説明不足でした」と言つて逃げる。
取敢ず、「旧仮名の言語的不当性を声高に主張する」しゅがい氏には文句を言ひたいですね。「ただ単に好みで略字略仮名を使っている人」は、それこそ勝手にすれば良いと思つてゐます。
しかし、「ただ単に好みで略字略仮名を使っている人」が、この日本國に存在する筈がないのですが。好みと言ふのなら、自分から進んで獲得して行くから好みなのであり、「現代仮名遣い」は教育によつて「押附け」られるものだから、全ての日本人にとつて「現代仮名遣い」は「好みによつて選び取られたもの」ではありません。
「現代仮名遣は良いものである」と云ふ價値觀を刷り込まれた状態で、現代の日本人は「現代仮名遣い」と歴史的假名遣の評價をさせられてゐる、と云ふ事を、忘れてはならないと思ひます。
カヅサツ氏、先見の明があつたなと。
冬眠日記のほつまさんが、昨年末にサイトを縮小してゐる。永年右翼關係のサイトや掲示板へのガイドとして利用されてきた「憂國ナビ」がなくなつたと云ふ事。
規模を小さくすれば、サイトは、管理し易くなるのだらうか。
ウェブの文章で間投詞を使ふ、と云ふのが良くわからない。
新年會。樂しい時間をどうもありがたうございました。
内容はオフレコだけれども、取敢ず「全員、繪を勉強する」と云ふ結論が出た、と云ふ事で。
「らいむいろ戦奇譚」を觀たあと、無性に「宇宙戦艦ヤマト」を觀たくなつたので、鑑賞。どう考へてもアニメの「らいむいろ」は「ヤマト」をモチフにしてゐるだらう。あかほり。
「ヤマト」の初期は、つつこみどころがあり過ぎると言へばあり過ぎるのだけれども、それを無視すればどの話も面白い。時代を考へれば、凄いと認めざるを得ません。
つつこみどころと言へば、どうして一々惑星巡りをするの、とか、コスモナイトつて何、とか、徳川さんあんた波動エンジンの事何も理解してゐないで島大介に中途半端な説明をして威張つてんぢやねえよとか、そもそも波動エネルギーつて何よとか、どうして波動エンジンにフライホイールが附いてんだよとか、時間の波を飛越えるとどうして場所を移動できるんだよとか、作畫が時々異常に汚いとか、たまにやけに駄目な臺詞があるとか、用語がたまに變とか、まだ制服の設定が確定してゐなかつたんだらうとか、沖田艦長が訓辭をしてゐる場面の乘組員に怪しい顏つきの奴がいつぱいゐるとか、シュルツ司令とガンツ副司令の二人はもつと痩せるべきだとか、ガミラスとイスカンダルが二重惑星である事をはなから視聽者にばらしてしまふのは演出上拙かつたのではないかとか、ほじくり返せばもう幾らでも出て來る譯で、それでも最初の「ヤマト」は面白いです。幾ら富野が「ガンダム」で「ヤマト」を超えたと言つても、俺にとつては「最初のヤマト」は「最初のガンダム」よりも上。
だから、いいかげん、語るのはやめて下さい>俺。俺もいい歳してヤマトが好きだなー。
ところで、「藍より青し」は面白いですねー。なにをいまさら。
年次の書換へや、ナヴィゲーション關係の記述の修正、マーク附けの訂正しかしてゐなくても、あんてなでは「更新」された事になる。
多分、三が日だけで1000文書くらゐ更新してる。一文書の修正で幾らの仕事だつたら、凄い金額が發生してゐる筈。
素敵な「お年玉」を貰ひました。
正月の古本市は、或意味駄目。
買物 @ 松屋銀座。
「国語教育のための国語講座」は西尾実と時枝誠記が監修。『表記法の理論と教育』には、國語改革の當事者にして理論的擁護者である広田栄太郎が執筆。時枝さん、監修つて何をしてゐたのですかあなたは。
「深瀬基寛集」は、二册揃だと一萬圓する(神保町の一誠堂)。松屋では、ばらの一卷のみで、千圓。ただし、古本屋の扱ひが亂暴だつたので、帶がぶち切られて棚に轉がつてゐた。どこかに第二卷が落ちてゐませんかねー。
買物 @ 京王新宿。
ほかに、教養文庫7册。
『ドイツ共産黨史』は、猪木正道氏が社會主義や共産主義に親近感を懷いてゐる事の證據物件として購入。
共産主義と社會民主主義との對決が、單に同一の目的――社會主義――を實現するための手段に關するものに過ぎないならば、兩者は話せばわかるはずであり、協調も妥協も可能であろう。ところが共産主義と社會民主主義との關係は、そんな皮相なものではなく、兩者の對立は今日では不倶戴天的ともいえるほど深刻になつている。(中略)社會主義の二つの陣營は、相互に對手を倒すことにエネルギーの大半を費して、結局保守反動勢力に漁夫の利を得しめているのではないか。
『神の死と人間』は、ラッピングされてゐたので中も見ないで買つたのだが、歸宅して見たら、カヴァ見返しに「福田恆存氏評」があつた。
ここには現代の知識人が好んで口にする危機感と、そこからの脱出といふ、いはば切迫した問題の一切が扱はれてゐる。技術文明と政治の優位による人間機械化と自己疎外、それにたいして精神の自由と權威を守りぬかうとする意思、さらにその底にひそむ愛と忠實と信頼、すべてが私たちにとつて「なじみ」のある問題である。あるひは「なじみ」のありすぎる問題である。どうやら人々はそれらになじみすぎて、「危機」といふ言葉にも「救ひ」といふ言葉にも、生きた精神の反應を示さなくなりはじめてゐる。いひかへれば、機械化に際する抵抗の姿勢や言葉がすでに機械的になりかかつてゐるのだ。(以下略)
ガブリエル・マルセルが、良い事を言つてゐる。
實際、羞恥は、今日ではすこぶる不評である。
松屋新宿銀座の古本市には、作家の生原稿も澤山出されてゐた。福永武彦の正字正かなの原稿は、「略字新かな」の印が押され、赤字で假名遣を訂正されてゐた。
かかる「言論統制」を疑問に思はないのだから、日本人は異常。「便利」ならば、原稿が原稿通りに印刷されない異常も、異常と感じないで良いらしい。
それどころか、「偉い作家でさへ假名遣の改變を受容れたのだから、作家でもない一般人は『現代仮名遣』に滿足しなければならない。日本語を奪はれなかつただけ、日本人は幸せなのだ、お前は幸せなのだ。不平を言ふな。俺は滿足してゐるんだぞ」と偉さうに説教する輩が出現するのだから、日本と云ふ國は滅びて良いと思ふ。
餘談だが、小説版櫻花さんにはモデルが實在する。何處の古本市にも出沒する古本オタクのをばちやんだ。今年は、彼女を松屋の古本市で目撃。グラサン姿だつた。何と言ふか、すげえとしか言ひやうがない。
ちなみに、ウェブ版櫻花さんには、モデルが存在しない。筈。
ブラウザのウィンドウを勝手にリサイズするやう、サイトの文書にJavaScriptを仕込む制作者は、良い事だと思つてやつてゐるのだらうか。閲覽者にとつては嫌がらせ以外の何ものでもないのだが。
「餘計な御節介をするのは大概、閲覽者にとつて迷惑な事である」と云ふ認識を、サイト制作者は持つべきだ。
「h1とtitleが一致するのは惡い事だ」と云ふ迷信は、何處で生まれたもので誰が布教してゐるのだらう。何の根據もない筈なのに、HTMLに詳しい筈の人でさへも、この迷信を信じてしまつてゐる。
もちろん私は、さう云ふ迷信など、信じない。
御正月の暇潰しに。
WordPadは、ひそかに表組に對應してゐる。Excelのセルをコピーして、WordPadに貼りつけてみると、ちやんと表の形で貼りつけられる。ただし、WordPad單體で表組の生成、編緝は不可能。
RichEdit自體が表組に對應してゐるらしい。
ちなみに、WordPadには箇条書きの生成・編緝機能がある(簡易的だが)。
CNET Japanが新しい内容にさつそく切換つてゐる。古いコンテンツは全削除。もつたいない。
サイトのレイアウトより、本棚の本の整理の方が切實な問題だ。今年は、本棚の奧の方に隠れた本をすつかり忘卻して、古本屋で最う一册買つて來る、と云ふやうな事をしないやう努力する積り。
ダブりを承知で買つたりする人間が何を言つても。
年が改まつたら、J-COMのサーヴァが重いよ。みんなひどいよ。
本棚――と言ふか、部屋――を整理してゐたら年が變つてしまひましたよ。幾らか足の踏み場が出來ましたよ。私は今頃、何をしてゐるのでせうか。
雜誌は始末におへない。
謹賀新年。賀正。あけましておめでたうございます。今年は本の年にする積りです。