ちなみに、「闇黒日記」はおまけです。言葉 言葉 言葉のおまけです。
PC Tipsも、櫻花さん番外地も、言葉 言葉 言葉のおまけです。
一應整理しておくと。
それだけの事を俺は言つてゐるに過ぎません。
言葉は變らない方が通じ易い。
個々人が銘々勝手に、獨自の言葉遣ひをしたら、言葉の受容者は考へないでも良い事を考へなければならなくなる(絶望書店氏が要求してゐるのはそれだ)。それでは、必要な事、本當に大事な事を考へる餘裕がなくなる。絶望書店氏は、本當に大事な事から目を逸らさせる爲に、下らない事を頻りに言立てるのだ。
どうでも良いのですが、何で絶望書店氏は「しっぽ」にこだはるんでせうか。
と言ふか。
「しっぽを廻せ!」というのはぎりぎりのところでとにかく足掻けということでして、「しっぽを立てろ!」のように威勢がよくてカッコいい言葉ではございません。
高い処から脚をすべらせて落っこちたりしない方はあがく必要もありませんし、シッポを廻す必要もありません。かわしかたがうまい方々ではなく、いろいろ失敗して足掻いてみる方が築くのがウェブの本来の姿というものです。
それが、ウェブの本来の姿
、である根據は何なのでせうか。眞理でも何でもないものを恰も眞理であるかのやうに極附けられ、頭ごなしに説教されて、自分で考へろとか言はれても困るんですが。
説明して下さい。
相手が足掻いてゐようとゐまいと、面白い事を言つて呉れてゐれば、讀み手としては十分滿足だ。
そもそも「足掻き」にも上等と下等がある。「足掻けば」良いと云ふものではない。その邊、絶望書店氏はわかつてゐない。絶望書店氏の理窟では、どんな「足掻き」でも、讀者が「自分で考える」事で、どうとでも出來る事になつてしまふ。「ものは考へやう」で、駄文でも、讀者によつては名文に見えよう、と、さう云ふ事になつてしまふ。
それ程俺は文章に甘くない。積りだ。
絶望書店氏が「すべからく」の誤用を批判する事について、偉さうに説教してゐる。
ひさしぶりに「すべからく」にツッコミが入りました。闇黒日記(11月15日)。絶望書店が開店してからそろそろ5年になりますから「すべからく」の間違いを指摘する方はこれまでも何人もおられます。まず、その点に想い至らないのはまともに思考していない證左です。そういえば最近はこういう指摘もなくなりましたけど、自分みたいなのが先に何人もいるんだろうなと気づくんでしょう。すぐ下に10万単位のカウンターもございますし。
「すべからく」を「すべて」の意味で使うのは間違いと考える方は言葉に疎いということを自覚いたしましょう。そもそも言葉とは何かをよく考えてみることです。時代とともに変わるものとかそういった話ではなく言葉の本質です。
語源は時代の変化、あるいは情報伝達の歴史的地理的系譜を探るには重要な要素ですが、現代の言葉を語るために使うにはいろいろ注意も必要です。そもそも、語源なんて云い出せば現代の言葉の半分は間違いで半分は詳細不明になるはずです。ただ、それだから間違えて使ってもいいと云っているのではありません。もっと本質的な問題です。
言葉とは何なのか考えて考えて考え抜いてみましょう。呉智英みたいなのを持ち出して思考停止するのは感心しません。呑み屋での蘊蓄ならそれでいいですが、本気で言葉そのものについて興味があるのなら自分の頭でとことん追求してみましょう。しっぽを廻すとはそういうことです。
絶望書店にはもっと明確に間違えた言葉がいっぱいあるのに、こういう指摘をする方が全員「すべからく」を持ち出すのは、やはり知性に問題があるとしか想えません。自分の頭で考えていないということです。
例によつて、自分では何一つ説明もせず、「考えましょう」で話を終はらせて、相手を馬鹿にすると云ふ「論法」。相手を馬鹿にして見せる事に、何か意味があると思つてゐるらしい。
「文脈を讀め」とでも言ひたいのだらうが、讀者に甘えるな。手を拔くな。筆者が手を拔いた文章を書いておいて、讀者が誤讀したなら、讀者が惡いのではなく、筆者が惡いに決つてゐる。ここで「誤讀した讀者」を筆者が嗤ふなら、筆者は惡質だ。
そして、絶望書店氏は、この惡質な筆者である。
「blog」だの「ウェブ日記」だのと言つたジャンル談議はどうでも良い。そんなものは閑人のする事だ。
問題は、その文章がいかなるジャンルに屬するかではない、その文章が良いか惡いかだ。そして、言葉遣ひが正しいか正しくないかは、その文章の善し惡しを決める重要なポイントだ。てにをはもなつてゐない人間の文章は駄目な文章に決つてゐるし、「自分だけの用語」を説明もなしに使つて好い氣になつてゐる人間の文章も駄目な文章に決つてゐる。誤用を誤用と知りつつ、「誤用と言ふ方が馬鹿だ」と開き直る人間の文章が最低の文章である事は論を俟たない。
「自分の頭で考えろ」だ? ふざけるな。あんたの頭が日本語を作つたんぢやあるまい。あんただつて、他人の作つた言語で物を考へてゐるんだ。
ちなみに、「反抗は奴隷の自由」とニーチェは言つた。言葉の決りに逆らつて威張つてゐる奴は例外ナシに馬鹿。
と言ふか、俺がblog云々に何の興味もない、と云ふ事に、この絶望書店氏は氣附いてゐない。頭を使つてゐないからだ。blog關係で言及されたから俺がblogについて語つてゐると絶望書店氏は機械的に判斷したのだらう。馬鹿は所詮馬鹿。
なんだかまたいろいろと。どうもありがたうございます。
JISに決めて貰ふのもどうかと。
文部科學省よりは増しかも知れませんが。
おまえさん、面倒だから名前変えろ、なんて他人から言われたらどうするね。
餘談ですが、ZDNetのHTML文書のソース、非道いですね。
Opera 7でUser modeにすると使へる「Disable tables」が面白い。「Show structural elements」を併用すると、もつと面白い。
<p><hr>
と云ふソースの時、hr要素の前でp要素を閉ぢて呉れない。バグだ。
私が本を買ふので、家族が迷惑してゐます。
私の部屋は二階の南西、西日のよく當るところにあります。北の隣に「元納戸」がありますが、現在は書庫(本棚8本)です。自室にも本棚が三本(+x)あります。自室にあつた洋服箪笥を兩親の寢室に移動したので、狹いと文句を言はれました。
床も何だか傾き加減です。
これは本を集める人にとつては深刻ではないですか。
しかし、頑張つてしまつて良いものかどうか非常に不安。床が拔けるとか柱が折れるとか、物理的に困つた事になるので。
『第二段階レンズマン』讀了。
「スカイラーク」シリーズも新譯で出ないですかね。それから、創元はハヤカワに代つて「キャプテン・フューチャー」を出しませんかね。
TABLEを使った、画像を使わないホームページ テンプレート(^^;
絶望書店の絶望書店日記!! 2002年11月!!の14日邊に書かれた文章が物議を醸してゐる模樣。
我らの求めしものはただただ書物なり。その書物を計るが、数や重量であるを赦しておいてよいものか?断じて云う。否!否!否!人を悩ます煩わしき送料算術、ここにすべからく雲散霧消す!まさしく書物と読書人の尊厳は奮闘死守されたり!
このサイトに著作権などという軟弱なる護符は一切存せぬ!当方が徴せしあらゆる文章、画像の無断転載、盗用、すべからく無制限に自由である!!
絶望書店主人氏は、すべからくと云ふ語を誤用してゐる。あと、絶望書店の文章、なんか文體が波江さんつぽい。
「ハイパーダイアリー」にしても「blog」にしても――或は、「テキストサイト」「ニュースサイト」にしても――新奇な語を發明して、それを流行らせようとする根性が氣に入らない。流行語を作つてはしやぐ事は、或面幼稚であり、或面オヤヂ的である。
これらの流行語の「正確な語義」はどうでも良い。所詮流行語に、「正確な語義」は存在しない。流行語に必要なのは感じの良い(或は、惡い)語感だけだからだ。
流行れば勝ちなのか。
それから、「愛書家」には、なぜか惡趣味なものを好む人がゐる(日夏耿之介もさう)。「ゴシック趣味」と言へば何となく良いやうに聞えるが、俺は嫌ひだ。「R.O.D」のオープニングも、どうもその邊の「勘違ひ」をしてゐるやうに思はれる。「取敢ずサド」「取敢ず澁澤龍彦」を擧げる「愛書家」がゐるけれども、やめて貰ひたい。
どうでも良いのだけれども、絶望書店主人氏、うちは讀んでゐないんでせうねえ。
それから、「闇黒日記」つて、ジャンルは何なんですかね。個人的には、サイトの「おまけ」の積りなのだけれども、さう言ふと「おまけ」と云ふ語が界隈で獨り歩きし始めるんで、困つたものです。
Opera 6は、實は結構優秀なNews Readerだつたりする。
なぜか今、“差別用語”と呼ばないでが注目されてゐる模樣。
「そこまで言うのでしたら、まず貴方から前線へ出てください。」には、「お前が死ね」という意味よりも、「戦争をすることによって人死にが出ることを忘れているのではなかろうか、そのことを実感として持っているのだろうか」という疑問の意味を込めたつもりです。人間を前線に送るという決定を行う政治的指導者は、そのことを忘れがちだと私は思っています。
そのことを忘れがち
なのは、戰爭の實感を持たない現代の日本人だけであつて、戰爭をやつてゐる國の政治指導者は良く知つてゐます。アメリカのブッシュ元大統領(親父の方)は、灣岸戰爭で派兵を決斷する際、教會に行つたさうです。國民をして死ぬかも知れない戰場に送り、敵國の人間を殺させしめる命令を出すのですから、ブッシュ元大統領が苦惱しなかつた筈がありません。
そして、さう云ふ苦惱をしないで濟んでゐるのが、我が日本國の政治指導者なのであります。いざとなつたら、日本の政治指導者は、どんな決斷でも平氣でしてしまふでせう。それでは困るのです。
ちなみに、「爭ひは何も生み出さない」という類の言葉が私は嫌いです。 何故なら正しくないからです。争いは少なくとも技術の進歩を生みました。我々現代人はその恩恵を大きく被っています。私が戦争を嫌うのは、それによって失われる労力(時間やコスト、人生と言い換えても良い)を勿体無いと思うからです。
私は、かう云ふ觀念的な事を言つてしまふから、戰爭の實感を持たない今の日本人は駄目だと思ふのです。今の日本人は、全て損得勘定で動きます。損得勘定しか出來ない日本人は、損得勘定をして「割に合ふ」と考へた事は、どんな非道い事でもやらかすでせう。平和を愛してゐるのではないのです、現代の日本人は、平和である方が得だから平和を選んでゐるに過ぎないのです。
福田恆存氏は、あの大東亞戰爭を評して「帝國主義戰爭だつた」と言ひ、だから駄目だつたのだと結論を下してゐます。帝國主義戰爭しか知らない日本人は、帝國主義戰爭で負けて、帝國主義戰爭は引き合はない、と考へて、それで帝國主義戰爭をしなくなつただけです。元がとれて御釣りの來る事が確實な帝國主義戰爭を出來るとなつたら、今の日本人は、するでせう。それでは困るのです。
仮に、「ある予想される損失に対して、戦争することによって損失の総和が小さくなる」という状況が発生するならば、戦争もあり得る選択肢なんでしょう。そのような状況は想像もつきませんが。
菊村氏のコスト
とか損失
とかいつた用語は、人生と言い換えても良い
などと言つてゐるやうに、純粋に經濟學的な意味のそれではないのですが、純粋に形而上學的な意味のそれであるとも言へません。菊村氏にはやはり「命あつての物種」と云ふ日本人的な餘りに日本人的な「價値觀」――「現實主義」しかないのであつて、命よりも重要な價値の觀念はないのであります。
だが、キリスト教やイスラム教を信ずる異邦人は、命よりも大事な價値を信じてゐるのであり、その邊りの事を理解しようとしない限り、渠等が戰爭を止めない理由も日本人は理解出來ません。
そして、命よりも大事な價値が理由である戰爭を知つてゐるからこそ、アメリカ人は昨年9月11日のイスラム原理主義者によるテロを「新しい戰爭」と呼んでゐるのではないですか。
最う何年も行つてゐない秋葉原では迷ふだらうと思つて新宿に行つたら、道に迷つた。
メールのサルベージ作業をする。
どうも、某所で拾つた「XdiVのインストーラ」を稱する怪しげなプログラムを實行したのが惡かつたらしい。XdiVは怪しくないのだけれども、拾つたのが以下略。
のあたんノートン先生を買ふ積りだつたのだが、ファイナルデータ2.0を購入。
本日の誤。「プリンセスチュチュチュ」。笑ふしかない。
「プリンセスチュチュチュ」第13話のクライマックスシーン、『The チェリープロジェクト』のそれと良く似てゐた。
バレエをモチフにしたアニメに臺詞劇を期待する方が間違つてゐるのだが、見事に外された。チュチュ=あひるは愛を語れ、光の粒になつて消えろ、と本氣で願つてゐたのだが、それやつたら續篇作れないし。そもそも、それまでの展開から考へて、いきなり悲劇に持つて行ける筈がない。
〆切があと一週間先だつたら、何か書いてゐたかも知れない。
WebLog略してblogが大ブレークしてゐるさうですが、まあ、可いんぢやないですか。キャッチフレーズとかネーミングとかで大體、世間は動いてゐるものです。
かつて、幻の個人サイト「World Wide Wotaku」で大森英司氏(よく間違へられるけれども、大森望氏とは別人)が「ウェブで日記をつける事またはその日記」を「ハイパーダイアリー」と呼んで喧傳した事がある。その邊の事情は大森英司氏が須藤玲司名義で書いた『インターネットほめぱげ探検BOOK』(エーアイ出版)なる今見ると結構痛い本になつて取敢ず記録が殘つてゐる。最近あちこちのニュース系のサイトで言はれてゐるblogのイデアは、まあ大體、1996年に出たこの本で書かれてゐたりする。ウェブの歴史を書きたい人は、この本に一應、敬意を表して、言及しておくと吉。
ちなみにこの本、全然賣れなかつたみたいですが、今見ると或意味すごく面白い。
大森望氏の文章。
最近繰返し、一般的な文體で書かれてゐる事は、既に90年代中頃にはヲタ的文體で書かれてゐたのである。
歴史は繰返す、だんだん濃度を薄めながら。そして、濃くない方が普及するものらしい。
全然關係ないんだが、檢索してて見附けて、個人的に面白かつたので、めも。
フリーのファイル復元ソフトつて、無いんですかね。と言ふか、ディレクトリを復元できて、その中のサブディレクトリも復元できる奴。
Googleで「ファイル復元ソフト」をキーワードに檢索をかけると、「市販のファイル復元ソフトを使うと削除したはずのファイルの多くが復元できてしまいます」「市販されているファイル復元ソフトを使えば、たとえフォーマットしたとしても簡単にファイルを復元できてしまいます」の類しかひつかからない。
MS-DOSの時代には、undelete一發だつたんですがねえ。
復元つて、削除されたファイルのコピーを作つて復元するツールなんですが、C:\Program Files\をC:\に「コピー」して復元し、そこでできたC:\Program Files\の中に、削除されたサブディレクトリを復元するつて、可能なんですかねえ。
と言ふか、これ以外、ファイル復元ツールつて、無いんですかね。
正字正かなの惡口を言ふ人には非禮な人が目立ちますねえ。
あれれ、いつの間にかc:\Program Filesが消えてるよ。
最近のメールが悉く消滅。何か私、惡い事をしましたか。
国連安保理で對イラク決議が採擇され、イギリスのブレア首相がイラクに警告を發したさうだ。イギリスがアメリカの方針を支持するのは、同じ西歐文明の同胞であると云ふ事もあるし、何よりイラクなんかよりもアメリカの方が怒らせれば恐いと知つてゐるからなのだが、小林よしのり信者は早速「アメリカのイヌ」の合唱を始めるのでせうねえ。
道路関係4公団民営化推進委員会がその手の公團を分割民營化する事を檢討してゐるさうだ。日本人は民營化の際に分割するのが好きな人種であるらしい。
なぜか、地域ごとに分割すると「競爭原理が働く」と考へる人もゐるらしい。JRは分割されたが、JR北海道とJR四國が競爭をして乘客を奪ひ合つてゐると云ふ話は聞かない。當り前だ。
全ての公團を統合して一つにすれば、スケールメリットが發揮されるやうになるのではないか、とか、經費削減になるのではないか、とか、さう言つた考へ方は出來ないらしい。
国鉄を分割したのは、国労や動労のやうな勞働組合の活動を分斷して、弱體化をはかる目的があつたのではないかと思ふのだが、今囘の道路關係の公團にも強力な勞働組合があつて、その弱體化が急務なのだらうか。
まあ、日本人は、形式を變へるとなぜか精神まで變へる事が出來る民族なので、取敢ず枠組みを變へれば何とかなるのだらう。どつちみち、公團が儲かつてゐないからどうにかしようと云ふ動機でする改革なのだから、精神論をぶつてみてもはじまらない。默る事にする。
本日の買物 @ BIGBOX。
ほかに現代教養文庫多數。
酒呑んで終電逃がして、寒風吹き荒さぶ新宿驛で眠り込んで死にかけた擧句、ホームレスに介抱されたり金をたかられたり、財布を無くしたり以下略と云ふ事を、昔やらかした。
ストーカーは、自分が惡い事をしてゐると云ふ自覺を持たないので、どんなにきつぱり言はれても理解出來ません。と言ふか、相手が嫌がつてゐると、餘計につきまとつたり、嫌がらせをしたりするものなので、被害者の態度が何う斯うと云ふものではありません。
ペトロニウスさん、zak_kを知つてゐるでせうに。
この薄ら寒い夜に、縞々の蚊が飛んできたりするのだから、連中の生命力と吸血欲は侮れない。
mouseは二十日鼠で、歐米の家鼠。小さいのでcatがとります。(When the cat's away, the mice will play.)臆病者、小心者、といつたイメージもありますが、性質は善良と云ふ事で、非難の意は含まれません。好物はチーズ。
ratは、日本の家鼠で、西洋では川とかどぶとかに棲んでゐます。大きいのでdogがとります。ハーメルンの笛吹きが一掃したのがrat。卑劣漢、裏切者等、惡いイメージがあります。
ヤケ酒飮んで死にかけた事がある。昔は俺も若かつた。
原稿を送りました。何と言ふか、洒落になりません。
濟みません濟みません濟みま以下略。
腐卵絵板に山本夏彦翁への追悼文が投稿されてる。No.1972
本當に文章書けない。
例のあれの原稿も書けません。昔書いた小説で良いですか、と言つてみる。
メールできけよ>俺。メールの文章すら書けないのだから本格的スランプ状態。
いざ長い文章を書かうとすると書けない罠。ウェブ日記を書くのも善し惡し。
まだ〆切ではないから、と云ふ説も。――濟みません。
取敢ず公開出來るものから公開していく事に。
中學生の時、「學習記録」なるものを書かされてゐたのだが、今、見返すと、「その日あつた事」の欄に書いてゐた文章、「闇黒日記」のそれと、全然變らない。と言ふか、當時も今も、文章の書き方が全然變つてゐない。我ながら進歩が無い。
多分、今後も進歩しない。
高校の國語の授業で、「夢十夜」を習つた時、「こんな夢を見た」と云ふ書出しで短篇小説を書くやうに、と云ふ課題が出された。良く出來てゐたら學校の文集に載せる、との事だつた。
で、提出したら、先生に、「良く書けてゐるけれど、毒が強過ぎて、載せられないよ」と言はれた。
ノートが殘つてゐたらウェブで復刻する積りで三年探し續けてゐるのだが、いまだに見つからない。見つからない方が良いのかも知れない。
- 日書連、主要出版社にポイントサービス実施店への指導を要請
- 11月にも実施店について、主要出版社から当該書店の取次会社に対して、再販契約書に基づいた措置を講ずるよう求める。回答がなければ法的措置も辞さない構え。
- 筑摩書房・菊地明郎社長、ポイントサービスは再販契約違反と声明
- 競合店排除・新規参入店阻止につながる場合、読者から書店を奪う結果となる弊害も予想され、出版物の販売方法としては問題として、再販契約書および覚書書に沿った販売を求める。
一方。
- 11月3日から書店で愛読者キャンペーン
- 11月3日の「まんがの日」制定を記念して、同日から全国約1万書店でキャンペーンを実施する。コミックス(単行本)を一冊以上購入した人に、先着でもれなくオリジナルジグソーパズルがもらえる。パズルの裏面のハガキをめくって「当たり」が出たら、さらに、「図書カード」(500円)を10万人にもれなくプレゼント。パズルは200万枚を用意。なくなり次第終了する。
「ポイントサービス」は駄目だが「プレゼント」ならOKと云ふ「論理」。
日書連は「まんがの日」のキャンペーンを潰せ。でなければ、筋が通らない。
圖書カードを使へない書店も現實にあつたりするのだが、競合店排除・新規参入店阻止につながる
可能性があるのだから、圖書カードも廢止すべきではないか。取敢ず、筑摩書房の本は圖書カードで買へないやうにすべきだらう、筑摩が望んでゐないのだから。
ばるぼらアンテナさn、サイト一周年おめでとうございます!
一晩考へた文章のネタなんですけど、晝間考へたら何だか駄目駄目のやうな氣がして沒に。
酒が入ると冷靜になると云ふ邊は以下略。
平日の朝は眠からうが何だらうが取敢ず起きられるのに、休日の朝はすぐに起きられない。どうしてなのだらう?
本日の買物 @ 神田古書まつり。
『クルンバーの謎・コロスコ号の悲劇』は譯者あとがき附き。今囘の古書まつりは、駄本に群がる連中の事を馬鹿か阿呆かと罵倒してやらうかと思ひたくなるほどの非道いものだつたのだが、取敢ずこの本一册を入手出來たので默つておく。と言ふか、混んでゐるところに來るな小泉。歸れ。俺に落着いて古本を買はせろ。
隔月刊の「パソコン批評」と云ふPC雜誌があつて、12月號が出てゐる。それに「千年紀電脳コラム バグのたわごと」なるコラムが連載されてゐる。今囘のお題は「ネットスケープと秋の空」なるものだが、出たら目も良いところ。筆者は冨安大輔なる「Webデザイナー」らしいのだが、さすがにデザイナーを名乘るだけあつて、何を言ひたいのかわかりづらい奇々怪々な駄文を綴つてゐる。
見出しを拔出すと――「ブラウザのアップデートで、Webデザイナーはアップアップ」「望まれるサポートサービス」「永久に完成しない」。ブラウザのHTML文書の解釋が、Internet ExplorerやNavigator、Operaでまちまちである事、Netscapeがブラウザに關する情報を全く出してゐない事とに、筆者冨安氏は不滿を述べてゐる。しかし、前者は「ネットスケープ」の名を出して非難すべき事ではないし、後者はデマ乃至筆者の調査不足。まつたく、馬鹿ライターに附ける藥はないとしか言ひやうがない。
NetscapeはNetscape DevEdgeで情報をちやんと出してゐる。冨安氏が、これを全く知らないか、知つてゐて無視してゐるのか知らないか、そんな事を穿鑿しても仕方がない。しかし、ここまで書けば、Webページを自作している読者諸兄にはもうお分かりだろう。ネットスケープは、英語ですら、ユーザーサポートがないと言って良いほどなのだ。
、とか、いかに技術的に優れていようが、タダだろうが、サポートのない製品をユーザーがありがたがろう筈がない。
、と冨安氏の述べてゐるのは、完全に間違ひだ。
「パソコン批評」は、すべての事実の表現や厳正な批評は、中立、公正な立場でこそ可能です。これは業界廣告やメーカーの記事協力に依存するパソコン誌には難しいことです。
と編集方針で謳つてゐる。しかし、廣告を取らない貧乏雜誌の「パソコン批評」の記事は、質が大變に低く、信頼出來ないものにしかなつてゐない。それどころか、質の低い記事を中立、公正な立場
と稱する事で、却つてデマを平然と流す惡質なメディアに墮してしまつてゐる、と言つて良い。
「室内」が、廣告を取りつつ、平然とメーカー批判を載せてゐる事實を見れば、廣告を取らなければ中立、公正な立場
を維持出來る譯でもない、と云ふ事は明かだ。
「パソコン批評」は、實際に買つて讀んでみれば誰もが思ふだらうが、一般のPC雜誌ほどにも内容が豊富である譯ではないし、良い雜誌である譯でもない。寧ろ、傳聞に頼るライターの跳梁する、殆ど同人誌レヴェルと言つて良い、屑雜誌である。一般のPC雜誌が「ちょうちん記事」もあるかも知れないが、取敢ずメーカから直接得たそれなりに「正しい」内容の記事を載せてゐるのに對し、「パソコン批評」は根據のない記事が多過ぎる。そして、記事の正確さは、「パソコン批評」では、或意味、等閑視されてゐる。ただ「メーカ批判」になつてさへゐれば、「パソコン批評」でその記事は通用してしまふ。困つた事だと思ふ。
はつきり言ふ。冨安氏のやうな屑ライターに連載を持たせざるを得ない貧乏雜誌である「パソコン批評」は、有害無益な存在である。買つてはいけない。
この文章を書くだけの爲に俺は買つてしまひましたけど、普通の人は「パソコン批評」なんて買ふ事ないです。「ネットランナー」の方が、「使へる」情報が多いだけ、増しです。苦笑ひ。
ちなみに俺は、ネットスケープのファンでもなければネトランのファンでもない。
「ゲーム批評」の新さんの記事は良い記事ですよ。單に俺の興味が無いだけで。
何か書く積りはあるので、もう少し待つてやつて下さいまし。
聯絡がとれた模樣。よかつたです。