tnstyle.cssのファイルサイズは3793byteですがそれが何か。
主な原因は普段通る道では肉まんが売ってないのですよ。
それあまあ、肉まんが道で何かを賣つたりはしないのも當然かと思ひますけど。
今朝は京王新線・都營新宿線新宿驛が停電。
「発言者」で西部邁氏が小林よしのり氏に尻尾を振つてゐた。
「ポチ保守」と言ふ西部氏自身が小林氏のポチになつてゐる。
「PIANO」を觀た。個人的にはとても面白く感じた。他の人が何う感じるかは知らない。個人的には今期ベスト。
「キディグレイド」を觀た。世間では「後藤圭二版ダーティペア」とか言はれてゐるけれども、キャラの雰圍氣はナジカ電撃作戰つぽい。ぱんつばつかだし。エクレール孃の言動がどうも上滑り氣味で寒い。リュミエール孃がきちんとつつこんで呉れれば良いのだが、無理みたい。
たかがミステリの事なんかで熱くならなくても良いと思ひますが。
「ネタ」は、「たね」をひつくり返した隱語です。印象の良くないのはそのせゐです。「ネタバレ」と言つてゐますが、要は「種明かし」の事です。
國名の覺え方。
バルト三国は、おおまかにポーランドの北東/フィンランドの南東と認識しておけば良いでしょう。北から順にエストニア・ラトビア・リトアニア。つなげてエラリー・クイーンと覚えます。
フィンランド、エストニア、ラトビア、リトアニア――頭の文字を繋げて「フェラーリ」と覺えるのも「あり」でせう。
匿名の人(うちの掲示板を荒した人物)の投稿に、平野敬氏がこんな囘答をしてゐる。
「甲はこう言っている。これはおかしい。おかしいことを甲はなぜ言うか。それは甲の本当の目的は○○だからである。○○を陰で達成しようとするために、甲は敢えておかしなことをおかしいと知りつつ主張するのである」といった論法が得意な方だとお見受けしましたので、それをちょっとパロディに入れてみただけなのですが、あまり野嵜さんのお気には召さなかったようです。
野嵜はその手の論法を得意としてゐる、と、平野さんはどうして御思ひになつたのでせうか。私が一番嫌つてゐて、常に非難してゐる論法がそれなのですが。
大體それ、論法でも何でもないです。
いつでも私は妥當と思はれる根據を擧げて自分の主張の論證をしてゐる積りです。にもかかはらず、その根據とか論證とかは無視して「とにかく野嵜の結論はをかしい」と極附ける人が多いので困ります。その手の人が常に持出す「論法」が、平野氏の言つてゐるものです。しかし、この手の論法を平氣で使ふ人つて、世間には多いみたいですねえ。
人の氏素性を洗つて、この人がこんな事を主張するのにはこんな動機があつたのだ、と言つても、その主張の正邪には關係がありません。大體それ、夢判斷と一緒で、説明として「もつともらしい」だけです。
作家の自作解説が屡々當てにならないのも、それが理由です。他人の解説でも、その手の主觀的な解説は當てになりません。或主張や発言の理由を知りたければ、ただその人の論理展開を、複數の作品を通して、叮嚀に追つていくしかありません。
まあ、「もつともらしい」と云ふ事と「説得力がある」と云ふ事とを混同してゐる人は、世間には多いですからねえ。死ね。
新刊書店に入つても、讀む氣になる本が一册も見つからない。近く、本屋は滅びます。
雨で古本市が中止になつて憂鬱だ。死にたい。
「自分の頭で考えろ」と「思考停止するな」と云ふ文句をセットで使ふ人がゐるけれども、自分だけで考へた事をもとに突つ走ると大體變な方向に行つてしまふので、注意が必要だ。
もちろんこの誤が生ずるのは、「自分の頭で考えるためには、他人の意見を全て排除しなければならない」と云ふテーゼが誤つてゐるからだが、「自分の頭で考えろ」も「思考停止するな」も一面的なテーゼなのであり、反省してみる必要がある。
誰かの考へを知つた時、それが正しいと認めざるを得ない時は、それに從ふ勇氣も必要だ。意地を張つて、自分に拘る必要はない。
問題は、自分を抛棄してまで從はざるを得ないくらゐ正しい人間が、さうさう世間にゐる譯ではない、と云ふ事だ。新興宗教の信者や、自己啓發本の著者に心醉してゐる人は、もう少し信奉する誰かさんの事を、疑つてみて良いだらう。
土臺、人間は神樣ではないのであつて、正しい事も言へば、間違つた事も言ふ。だから、全面的に反對したり、全面的に贊同したりする事は出來ない。そこで要請されるのが、批評的な態度だ。その人の言つてゐる事で、贊成出來る事と、出來ない事とを、きちんと區別し、判斷する事――それだけが必要な事だ。
その際、根據は必要なのだけれども、自分にも他人にも絶對的な眞理がアプリオリに頭の中に宿つたりはしないから、經驗とか知識とかから、過去の人間の考へた正しい事を引張り出してきて檢討し、自分なりの正義を構築しておかなければならない。その正義も、絶えず修正しなければならない。
自分を全面的に信頼してゐる人も、誰かを全面的に信頼してゐる人も、當人は幸せだ。或意味、羨ましい限りである。人は、思考停止しなければ、行動出來ない事もある。議論だけの爲に思考を捏ねくり囘し始める人は、鬱陶しい。
その邊の事を、人はたまに反省しておくのが良いだらう。自分だけが良ければそれで良いと言ふものではない。他人の思考パターンを想像しておくのは、良い假想體驗だ。
週末、kotobaseekをKSmiracle Web Directoryとして完全に書換へる豫定。なんか某所からもいつの間にか縁を切られてゐるしな。
ところで私は茲數日、柳田國男を讀んでゐる。今、『山の人生』を讀んでゐるところだ。
小林秀雄は、「何を讀めば良いのか」と問はれて「トルストイ全集を讀め」と答へたさうだ。トルストイでなくても良い、作家の全集を讀みたまへ、と。
小林の顏には、あんたはそこまで一人の作家に附合へるかね、と云ふ皮肉な笑みが浮かんでゐた。一人の作家を理解する努力を徹底出來る讀者の少い事を、小林は良く知つてゐた。
小林秀雄のドストエフスキー研究は、はつきり言つて無駄だつたが、だからと言つて讀まないでも良いと云ふものでもない。
だからと言つて、ドストエフスキーの「作家の日記」を讀む價値は無いと云ふ事ではない。
ドストエフスキーは女教師の手引きで少女をレイプしたさうだが、『罪と罰』や『カラマゾフの兄弟』は依然傑作である。
作家の傳記は、作家の作品の註釋に必ずしもなるものではない。
他人の註釋だからと言つて、當てになると云ふものでもない。
作家の自己註釋くらゐ當てにならないものはない。
茲何日かはあちこちの掲示板に文章を書いてゐるので、讀みたい方は探して下さい。
弓を引く時は、いつぱいに引いてはいけない。それでは、矢が何處へ飛んで行くかわからない。力を確實に制御出來る限界ぎりぎりの瞬間に、矢を放つべき頃合がある。それを「彀」と言ふ。
現代人は、何も考へないか、考へ過ぎか、のどちらかである。
でつかい螳螂が網戸の外にしがみついてゐる。ぎよつとした。
「闇黒日記のCSS」として餘りにも有名になつた某*.cssファイルだが、セレクタの出現順がどう考へてもをかしかつたので修正。bodyのあとに*と云ふセレクタが出現したら、bodyの指定は*のそれに上書きされる譯で、無意味だ。少くとも、marginの指定が無意味になつてゐた。
何でこんな書き方をしたのか、今となつては不明。それから、どうしてどこからも突つ込みがなかったのかも不明。
ネタバレしただけで讀む意味の消滅するミステリは、literatureではなくentertainmentに過ぎない。全てのミステリは、本氣で議論するに値しない。暇な時に讀んで、讀み終つたら「面白かつた」とだけ言つてゐれば良いものだ。詰らなかつたら默つて捨てれば良い。感想を書く方が間違つてゐる。
『信長 あるいは戴冠せるアンドロギュヌス』なる小説が1999年に新潮社の日本ファンタジーノベル大賞を受賞してゐた事實に今頃氣附いて、某コンテンツを抹殺したのは或意味正解だつたと。
學園祭のフォークダンスの時は金勘定してゐたよ。俺に金勘定させたクラスメートは異常。
『妖精作戦』は笹本祐一氏の小説なのです。こんな事、覺えておいてもあんまり役には立ちさうにない知識ですが。
すみませんすみませんすみません。
AV機器つて、もつと簡單にならないものですかねー。CSとヴィデオの組合せの所爲で、タイマー録畫の設定が混亂氣味。
HDD搭載ヴィデオデッキは高いは、DVD方面は規格が亂立してゐるは、八方塞がり。
デジタルBSも多分、失敗に終るでせう。アナログ地上波もデジタルに移行しないで貰ひたいものです。
TVKが突然深夜にプリンセスチュチュの再放送を開始。第1話を久しぶりに觀たのだけれども、凄いね。
最新の第8話も、なんか凄い事になつてる。このまま最後まで行つて呉れれば嬉しい。
何でジョークつて殺伐としてゐるんでせうかねえ。俺に言へた事ではないのかも知れませんが。