道徳的に何も惡い事をしてゐない人を、政治的な理由で嘲笑するのはをかしい。
ルイ16世は、ギロチンに掛けられた時、國民よ、私は罪なくして死ぬのだ!
と叫んださうである。
しかし、「天皇」「天皇制」「象徴」と言つた語の意味を知らなかつたり、それらの語と實態とがどれだけ乖離してゐるかを考へなかつたり、「日本国憲法」の條文と所謂「憲法の精神」との違ひを意識してゐなかつたりする一方、「役に立つ、立たない」と云ふ觀點で「天皇制反對」と主張するのは、どうか(してゐる)と思ふ。「何だか良くわからないけれども、何となく天皇制は良くない氣がする」では、殆ど迷信だと思ふ。
「僕の考へる理想の實現に邪魔だから、天皇は必要ない」と云ふ主張も、その「理想」なるものが妥當であるのかどうか、を反省しないで言つてゐるものならば、寧ろカルトに近い。
俺はただ、天皇を辯護してゐるだけだ。攻撃する側の態度が非道いものだから、防衞する側の俺も態度を硬化させてゐるに過ぎない。
平素ふざけた態度で權威を愚弄する人間に限つて、非難されると一々眞劍に怒つたり悲しさうな顔をしたりする。態度を見れば分かるので、さう云ふ人間は理性的ではなく感情的なのである。
「日常生活」が絶對――と云ふのは哀しい。
京王線から臙脂帯の車輌がどんどん消えて,ほとんどの車輌がチェリーピンク(京王レッド)と紺色(京王ブルー)の帯になりました.
自分は3ヶ月もたったのに新色の帯の6000系に違和感を感じつづけていたりするのですが,電車に思い入れがない人なんかはあまりこういうことは感じないのでしょうね.
白地に臙脂の帶は、5000系にしか似合はないと思ふ。6000系と云ふ電車は、美しくない。
俺、6000系つて嫌ひで嫌ひで。普段から京王を利用してゐる人間にとつて、6000系は餘り嬉しくない存在。
現状、都營新宿線乘り入れには、無線の關係でVVVF制御の車輌が使へないのださうで、6000系が使はれ續けるのは仕方のない事らしいんですが、都は早いとこ、何とかして下さい。
取敢ず、車内を綺麗にして貰ひたいのです。8000系以降の新車に比べると、6000系の中は見劣りがします。乘り心地もあんまり。
同じ6000系新塗色車でも、扉の脇とかの塗り方の微妙に違ふものがあつたりする。
文字通り
つて、便利な言葉ですねえ。
理解しないで、ただ用語があるとか仕樣書が存在するとかいつた理由でそれを信ずるならば、それは迷信と同じである。
と言ふか、「歴史の連續」が斷たれてゐる、と云ふ事の異常に氣附かない時點で、お話にならない。
戰前・戰中と、戰後との連續が斷たれてゐる事は、異常。それを「既成事實」と云ふ事にしてしまつて、話を進めるのは異常を異常と思はないのだから、處置なし。
天皇は、國旗や國歌と違つて、人間である、と私は認識してゐる。ならば、天皇が象徴なる抽象的なものである譯がない。
こんな説明は、非常に嫌なのだが、唯物論者にはコストの話しか通用しないからする。
天皇は、日本の存在だから、西歐的な概念である君主とは完全には一致しない。西歐のpoliticsと日本の「まつりごと」とは違ふ。西歐の君主と言へば、國を力で支配し、統治する存在だが、歴史を見ても、天皇が支配者であつた時期は短期間でしかない。しかし、天皇は日本的なまつりごとの執行者である、神道における最大のシャーマンである。だから、天皇は日本でもつとも尊い人である、と云ふのが日本人の常識だつた。
開國した時、君主として天皇を扱ふ體制が作られた。なぜかと言へば、西歐的な君主の概念にぴつたり當嵌る存在が當時の日本に無かつたからだ。西歐的な統治者は、明治初年の日本に存在しない。だから、日本の精神的な統率者である天皇を「統治者」の「代用品」としての立場に据ゑた。
對内的な理由だけでなく、對外的な理由もあつて、天皇が君主として扱はれてゐる側面もある。だから、他國の人が天皇を君主と看做してゐるのならば、それは正しい認識だ。その認識を、殊更否定しようと日本人がする必要はない。それは、國益に反する事だ。
事実誤認
も糞も無い、外國人に「天皇は君主だ」と認識されてゐるなら、それが事實だ。
「代用品」は要らない、とか云ふ説が出てきさうですけれども、今の日本人は日本的な精神を全然失つてゐないし、西歐的な精神を全然身につけてゐません。將來も、日本人は西歐人になれつこありません。だから、日本人は「代用品」で我慢するしかないのであります。
それが嫌だからと言つて、一氣に革命を起さうとしても無理です。起せば、確實に失敗します。「後進國」であつたロシアで、西歐を越えようとして、革命が起きましたけれども、ソヴィエト聯邦は結局失敗しましたね。
觀念の話を延々しても、書いてゐる人間の人格とか性格とかの方が問題或は話題になるのであつて、所詮日本は事功論ではなく人功論の社會なのであります。
ならば、日本人は權威となる人間を必要とする、と云ふ事は自明でありませう。そして、その權威としての人間は、天皇以外にはあり得ません。權威になるやうな人間では、權威であると云ふ事にはならないからです。
しかし、その爲には、「開かれた皇室」と云ふ考へ方は有害であり、當然、「天皇を馬鹿にする事で敬愛の念を示す」と云ふ考へ方も有害であります。
まあ、良くわからない時には取敢ず邪推してみる、と云ふ風調がある限り、今の日本ではなにをやつたつて駄目に決つてゐますが。
渡邊さん @ EXPLORE MONOGAMYの小説の缺陷は、非道く觀念的な事だ。「テーマとして觀念を扱つてゐる」と云ふ事ではない。ただ單に、描寫が具體的でなく、觀念的だ、と云ふ事。讀み始めても、イメージがさつぱり浮かばない小説が多い。
WATERMELONは、第41回群像新人文学賞2次予選通過作品
との事。最初の幾つかの段落で描かれる情景は、表現が面白く、讀めば獨特のイメージが腦裏に浮かぶ。
区画整理から漏れた、混み入った住宅街の錯綜した路地の行き止まりに桃子は住んでいた。近所に法華経の集会所があるらしく、土曜日の夜や日曜日などになると一日中でもどこからかナンミョーホーレンゲーキョーナンミョーホーレンゲーキョーナンミョーホーレンゲーキョーと合唱が聞こえてくることがあった。
新興住宅地ではなく、生活感のある街のイメージを、うまく表現してゐる。評價されたゆゑんだらう。話の途中を端折る癖が渡邊さんにはあつて、どうしても觀念的な説明が増えるのだが、全篇通して叮嚀な描寫がされてゐたらもつと高く評價されただらうと思ふ。
劇の觀客は最初に何を見るのかと言ふと、ステージの上のセットを見るのであつて、それで觀客は或程度の状況を把握する。だから、俳優はいきなり御芝居を始めたりはしない。いきなりメッセージを觀客にぶつける戲曲は、拙い戲曲だ。
残酷な月の書出しは、状況の説明に陷つてゐる。渡邊さんはこの小説を氣に入つてゐるさうだが、私は評價しない。或状況に對する作者の感想は、必要ない。場面を描く時、渡邊さんはその意義を説明してしまふ。小説では、或文章の意圖を説明しない方が良い事も多い。
文章が長く長く續いていく癖は、別にそれ自體、惡い譯ではない。が、同じ事を繰返し説明する癖は、感心しない。昼休みには屋上でお茶をは、シチュエーションは面白さうなのだが、作者によつて個々の文章の意圖が明かにされ過ぎてゐる。
真夏で、気温は三十三度だった。もともと恭久は暑気に弱いところがあり発熱も手伝って学校から家への帰り道の途中のバス停留所のベンチにへたりこんでしまった。頭がぼうっとして、もう一歩も動きたくないと思う。たちのぼるアスファルトの熱がスニーカーのゴム底にからまりつき、踵からふくらはぎにかけて甘いような痛みと痺れをともなって沈殿している。
描寫が詳し過ぎる。氣温が33度である事を、恭久は知らなかつただらう。ならば、説明する事はない。
私ならかう書く。
小説の最初の一段落は完全にカット。おたふく風邪かどうかなんて、書く事はない。續けて。
スニーカーのゴム底に、アスファルトが絡まりついてくるやうに感じられる、暑い夏の日の出來事だつた。
熱があつて早退した恭久は、バス停のベンチにへたりこんでしまつてゐた。
そして、すぐに白昼夢
の内容を書いてしまふ。私なら、恭久の感想は拔きで、映像的な描寫だけで濟ませるけれども、渡邊さんの意圖を考へれば、恭久の感想も必要だらう。しかしそれならば、描寫と感想とは、交互に書くべきだ。前の段落で描寫を、次の段落で感想を書く、と云ふ風にしてしまつたら、效果が薄れる。
そして、この白昼夢
はプロローグとして分離してしまふ。恭久の、夢と、現實との間に、連續のある事を、渡邊さんは表現したいのだらうが、小説の表現として兩者は分斷してしまつた方が良いと思ふ。私なら多分、そこも描寫から始めるだらう。改めて讀者には、シチュエーションを納得させる必要があるからだ。
あと、渡邊さんは、小説の最初の文章で「狙ひ過ぎ」です。
例によつて長いでーす。まあ、短ければ良いと云ふものでもないですからねえ。
「僕の言ふ馬鹿にするとは敬愛すると云ふ事だ」と主張するPiro氏。「氣狂ひ」と言はれて眞に受けた御仁が良く言ふと思ふ。
呆れた。「天皇を肴にして馬鹿騒ぎ」することで「天皇を馬鹿にする」ことについて、それが敬愛の一表現形態であるならそれは容認して良いものだと僕は考えており、そういう意味で「天皇を馬鹿にする」(字面通りに受け取らないでほしい。「ある人は自分の敬愛の仕方で表現するが、人によっては『馬鹿にしている』ように見える」という意味だ。)自由が我々にはある。また、僕は自由を根拠に(批判するという行為自体の正当性を「言論の自由」を根拠に主張する、という意味ではなく、理論の根拠として。僕は憲法序文の精神は「自由(と平和)」の精神だと読み取った。憲法序文の精神に従ってということは、僕にとっては、「自由」に従って、という意味だ。そして憲法は、「人類普遍の真理」に基づき憲法自身を批判することを認めている。僕は「自由」を「人類普遍の真理」の一つだと考えているので、それに基づき憲法の矛盾を批判している。)、天皇を唯一の元首とする制度と理論を批判する。と、僕は述べているのに、野嵜氏の要約は
天皇を馬鹿にする自由があるから馬鹿にするのだですよ(本当に真意が伝わっていなかったのなら残念であり悲しくもあり自分の文章下手をただただ反省する所存ですが)。
以下の箇條書きの文章を全部讀むのが面倒な人は、最後の一項目だけ讀めば大丈夫です。
敬愛の一表現形態であるなら、とPiro氏は言ひますが、それが果して本當に
敬愛の一表現形態であるかどうかを判定する基準は何ですか。どう考へてもおちよくつてゐるやうにしか見えない言動をとつてゐる人が、「これは敬愛の一表現なのですよ、ギコハハハ」とか言つたとして、それを眞に受けろと、さうPiro氏は主張するのですか。大體、態度を見れば分かりますよ、その人が眞面目かどうかくらゐ。
行為自体の正当性は知りません。例へば、DTD的にValidであるからといつて、そのHTML文書が完うな構造化文書であるとは限りません。「言論の自由」だと言ふのは結構ですが、それが合法だからといつて、全うな言論であるとは言へません。他人をゆゑ無く馬鹿にしてゐる言論が、全うな言論である筈がありません。
敬愛の一表現形態は、どう考へても度が過ぎたものです。共産主義かぶれのヒッピーが、そもそも民主主義の國の元首に、敬愛の念を抱く筈がありませんしねえ。さう云ふ連中が「天皇を馬鹿にしているように見える」態度を取つたら、本心で天皇を馬鹿にしてゐるのに決つてゐます。
しかも、野嵜氏が天皇が「統治者」すなわち「統べ治める者」であるかどうかについて「治める」の部分を無視していることを受けての
統者ではあっても統治者ではないというフレーズを字面の面からだけ非難していたり、「自虐は批判封じであり卑怯だ」と言っておきながら「煽りは煽りなのだから真面目に批判するな」と言ったり、この近況報告において自分の勘違いを認めてそのことを書き記したら感想文は、議論では要らないと言ったり、など、など。これだもの。失望しました。
失望して見せる惡質なPiro氏。
元首に相応しい人格であれば誰もが元首になれなければおかしいです、と考へるのですか。なぜ人格をそんなに重視するのですか。一體何處に、或人の人格の善し惡しを判定する權利を持つた存在があるのですか。もし或人に、誰かの人格の善し惡しを判定する能力があるとするならば、それこそその或人こそ、社會の指導者としてふさはしいと思はれますが。或は、人間に他人の人格の善し惡しを斷定的に判定する能力が無い事を認めるならば、それがあるかのやうに主張する事こそ欺瞞的行爲であると言はざるを得ません。
天皇が元首ではないのならば、天皇があたかも元首であるかのように扱う欺瞞的行為に対して批判を述べるのは当然でしょう、とPiro氏は言つてゐますが、「ならば」と假定で話を進められても困ります。話を繋ぐ時は、確實な根據を提示して貰ひたい――「天皇を元首として扱ふのは欺瞞的である」と言ひたいのなら、事前に「天皇は元首でない」と云ふ確實な根據を見せて貰ひたいのであります。Piro氏は「こんな説もある」とか、「知らなかつた」とか、そんな事ばかり言つてゐますね。なんか、某チャンバラ掲示板から引用すると云ふ、愚かしい行爲もしてゐますし(閑話休題)。私は一應、政府は天皇が元首であると考へてゐる事の證據を提示しました。まあ、憲法自體、「元首」「君主」の語すら含んでゐないと云ふ重大な缺陷を持つ譯で、政府の見解も解釋でしかないんでせうが。
一般的な解釈を疑はないのは、思考停止で良くない事だと思ひまーす。
と言ふか、「自虐は批判封じであり卑怯だ」と言っておきながら「煽りは煽りなのだから真面目に批判するな」と言ったり、
つて、何ですか。さう云ふ要約の仕方こそ、惡質極まると思ひますね。Piro氏は本當に惡質です。確信犯ですね。
どうしても戦おうとしないひきょう者には、おれが疫病神にしか見えぬかもしれぬ。だが自由とは血と涙を流し、己自身犠牲にして戦ったすえに、獲得できるものなんだっ
差別意識があるからこそ、或語が差別用語に見えると云ふ羂。
氣狂ひと云ふ言葉が不適切なら(別に天皇の問題と全然關係がないので、戰略的に有利であるならば)謝罪しますけれども、取敢ず「小兒病」に讀み替へて下さいとでも言つたら濟む問題ですか。或は、「正氣の人間は」を「大人は」に、「氣狂ひ」を「子供」に讀み替へて下さいと言つたら、濟む問題ですか。
天皇をゆゑなく誹謗するのは當り前と考へる癖に、自分が「ゆゑなく」氣狂ひと極め附けられると激昂する人多數。
さう云ふ人に限つて、「正氣の人」「氣狂ひ」云々の「煽り」を眞に受けるのだから以下略。
昨非が今是となり、昨是が今非となる、と云ふ事の不條理を理解出來ない人多數。
「議論しない方が勝ち」と考へるのなら、理窟を言つたり、HTMLの仕樣がどうとか、ウェブ標準がどうとか(以下略)言つたりしないで下さい。
追記:統者ではあっても ←そんな言葉あるのか?
存在しない言葉を作つて、ごまかすのは止して下さい。
支那語方面にはあり得るんでせうが、日本で使はれる熟語として統者
なる語は存在しません。
議論の爲に獨自の語を用ゐるのは結構ですが、獨自の語を用ゐるのならば、豫め定義して下さい。
と言ふか、言葉をでつち上げればいいだらうと考へる邊、Piro氏は惡質。
そもそも、嘲笑と批判との區別をPiro氏がつけてゐない邊が以下略。
講談社學術文庫の『論理分析哲學』を、やつと讀破したので、普段から諄い言囘しが益々諄くなつてゐます。
取敢ず『論理分析哲學』は必讀と云ふ事で。まあ、Piro氏もねずみ氏も、讀みやしないでせうが。
ところで僕は、今まで「天皇制」という言葉の意味を、天皇を立てる制度のことと捉えていましたが、世間では、天皇を君主とする君主制のことを言うのですね。
えーと、それ、何を根據に言つてゐますか。
それから、天皇を立てる制度
がPiro氏の言ふ天皇制
だとしても、天皇を立てる
つて何ですか。意味がさつぱりわからないので、説明していただきたいのですが。立てられた天皇とは、一體全體、どのやうな存在なのですか。そもそも、Piroさんは天皇をどう定義しますか、いや、Piroさんは天皇を定義しますか?
Piroさんの考へでは、「天皇は天皇である」と云ふ事になつてゐて、「天皇は君主である」とか「天皇は元首である」とか言つた事にはなつてゐないやうです。
「天皇は天皇である」と云ふ言ひ方は、トートロジーです。論理學的に、トートロジーは決して間違つてはゐませんし、或意味「それ以上乃至それ以下の事は言へない」のですけれども、議論をする上でトートロジーに逃げ込まれてしまつては、理解のしやうがなくなるのです。
「××を知りませんでした、恥づかしい事です」とか云ふ感想文は、議論では要らない。邪魔なだけだ。謝るのは馬鹿でも出來る。謝罪する餘裕があつたら、少しは説明をする誠意を見せて貰ひたい。
あと、制度が問題なら、制度を非難すれば良いと思つた。「天皇制」に問題があるのならば、「天皇制」を攻撃すれば良いのであつて、天皇の責任を問ふのは筋違ひ。
例によつて、長いですよー。
それにしてもPiro氏、共産主義者の宣傳する天皇制
と云ふ觀念はでつち上げでない、と云ふ證據を、どうして示さうとしないのでせうか。
こんな文章を見附けた。
一応、テレビのニュースキャスターは、天皇のことをちゃんと天皇陛下と呼び、その行動や言動に対して適切な敬語でもって表現しようと試みているようである。我々が持っている憲法には、ちゃんと天皇が日本の象徴であると書かれてあり、つまり天皇が日本の君主なのだから、これに反することは憲法違反と言えなくもない。
つまり、天皇について述べるときは、客観的に研究などの対象とするのでない限り、日本の君主としての扱いをしなければならない。だから、天皇を敬いたくない人々は、天皇について何か述べることを避けているのではないか。
云々。
阿川弘之の事はともかく、私のような若い人間は、もはや天皇に対して直接的な魅力は感じない
、等の感覺的なところも含めて、或程度、納得出來る。
でも、この人、某帝國電網省にリンクを張つてゐるな。もう、馬鹿か、阿呆かと以下略。
そもそも、天皇は人である。人はゆゑなくして嘲笑されるべきではない。
Piro氏は、天皇が人間であると云ふ事實を、すつかり忘れてしまつてゐる。ねずみ氏も同樣である。
Piro氏もねずみ氏も、非人間的で抽象的な話しかしない。理想主義は結構だが、觀念主義に陷つて貰つては困る。觀念の絶對化と、絶對化された觀念を現實社會に安易に適用しようとする試みは、困る。
他人を嘲笑する事は、いついかなる時にでも禁止される事とは言へない。怠惰などの自己の責任で馬鹿な事を言つたりやらかしたりしてゐる人は、嘲笑されて然るべきである。
しかし、天皇が天皇であるのは、世襲の「せゐ」だから、當人には全く責任がない。「天皇は天皇であるがゆゑに嘲笑されて然るべきである」と言ふのは、天皇の責任ではない事を理由に天皇を嘲笑する事である。當人の責任ではない事を以てその人を嘲笑するのは、斷じて許されない事だ。それは誹謗である。
天皇を馬鹿にするPiro氏は、天皇を馬鹿にする自由があるから馬鹿にするのだと言ふが、自由があるから馬鹿にすると云ふのは、理由なく馬鹿にするのだと云ふ事にほかならない。
その癖、元首を馬鹿にするのは正氣の人間のする事ではないと言はれて、Piro氏は立腹するのである。身勝手にも程がある。
Piro氏が、とても嬉しさうに、こんな事を言つてゐる。
君主は世襲による国の統治者です。天皇は日本国の統治者ではないので、君主ではないです。少なくとも、
天皇は君主だから元首に決つてゐるという野嵜氏の見解は、前提が間違っていますね。
天皇は日本の統治者ですから、君主です。日本は立憲君主制の民主主義國です。天皇が日本の君主であり元首であるのは常識です。
良い資料がすぐに見つからなかつたのだけれども、檢索をかけてみたら国語審議会総会
の報告書にある文章が見附かつた。皇室敬語
に關する議論の中で、こんなくだりがある。
ちょうど今の字体の問題で,読売書体,朝日書体,あるいは印刷局書体等々,いろんな書体が出てきたように,放送あるいは新聞等で,「天皇陛下が行った」というふうに書いてあるところがあるし,「天皇陛下が行かれた」と書いてあるところもある。「皇太子殿下が国体に行った」と書いてあって,同じ新聞の別のページに「ダイアナ妃は何々された」と書いてあるわけである。つまり日本の皇室のみならず,外国の君主,元首というような人々に対して,我々はどのような敬意を表するべきなのか,あるいは表さないでおくべきなのか。
「天皇は日本の君主であり元首である」と云ふのが政府の見解ではないですか。事實の確認と云ふ點で、理窟を附けて見てもはじまりません。
どの國の外交官も、日本の君主は天皇であり、當然天皇は日本の元首だと思つてゐますよ。世界最後のEmperorに拜謁する時、多くの外國人が非道く緊張するさうです。
串田孫一先生が『受難の花』所收の「僕の天使」なる短文で或意味凄い事を書いてゐるので、紹介しておきます。
僕は秋になると小学校の運動会を見るのがすきだが、今は学芸会だ。運動会のように、ずかずか入って行くわけにはいかないけれど、鈴木か田中か伊藤ぐらいの父兄の親類になればいいのだ。
(中略)けれども僕は、五、六年の女の子が踊っているのを見ると涙が出てくる。和服を着ると、大人ではないが、もう子供でもない。体をしならせる方の踊でも、脚をにょきにょき出す方のでも、それはどっちでも同じなのだが、一体僕は何を考えて涙ぐむのだろうか。僕にもしも女の子がいたら、めちゃくちゃにかわいがって、駄目にしてしまいそうな気がするけれど、だれに遠慮をすることもなく、このくらいの歳のお嬢さんを膝の上にのせてみたい。それは現在、どう考えても望みにくいことなので、それで僕には天使のように見える。
優しいことなんか言ってくれなくともよい。髮がほこり臭いような、こげ臭いようなにおいがしてもかまわない。ともかく今この膝の上にいたら、僕は自分でも想像しにくいほどにこにこしてしまいそうなのだが。
この項には、先生自筆の女の子のイラストがあります。本書にイラストは、ほかに微塵子の描かれたものがあるだけです。
串田先生、危ないです。ちゆは串田先生を応援しています。
本日の買物 @ 東急澁谷。
ねずみさんにしてもPiroさんにしても、實力があつたり、努力をしたりした人を、人は尊敬すべきである、と云ふテーゼを是認してゐるやうに私には思はれる。
なるほど、それはそれで結構な事だが、私には實力のみ、努力のみを基準に人の優劣を附ける事――「人が結果として權威となる事」の絶對化に對する危惧がある。
だから、努力とか才能とかにかかはらず與へられる權威を、努力とか才能とかによつて與へられる權威と同時に認めておく方が安全だらうと思ふのだ。
ねずみさんは、私はアインシュタインもボーアもソクラテスもヘーゲルもケインズも尊敬してますが、
と述べてゐます。アインシュタインやソクラテスは謙虚な人間だつたから良いのですが、しかし、さう云ふ結果的に権威になっ
て、他人から尊敬されて、再び結果的に
指導者としてまつりあげられた人が、必ず謙虚な人間である、と云ふ保證はありません。
重要な事は、飽くまでこれら二つの權威を竝立させておく事にあります。そのどちらか一方を重視して、もう一方を輕視する、と云ふのは、危險であらう、と私は申し上げてゐるのであります。その二つの權威に屬する人々が、互ひに互ひを尊重し合ふ事によつて、突出した權威保持者である獨裁者が出現するのを防ぐべきだ、と私は主張するのであります。
天皇は君主ではなく元首でした。いや、元首かどうかは
学者の間でも議論の分かれるところだそうですが、ここでは野嵜氏の見解に則って、元首であると仮定しまして。元首というのは、要するに国の代表ですね。代表がいなければ困るという極めてシンプルな道理、それは理解できます。失礼しました。
以下、長くなるんですけれども、Piro氏の「天皇を馬鹿にするのが是である事の主張」が、「日本国憲法」に據りつつ、同時に「日本国憲法」に據つてゐない、と云ふ甚だ混亂したものである事をはつきりさせておくために、三段落を引用します。
対して、日本は一応は民主国家です。日本の皇室には、伝統は残っていますが、彼の国の王家のような権力はないです。天皇は国を代表する権限を与えられた(その代わりに参政権などの諸々の権利を奪われた)一人の国民に過ぎないというのが、戦後の象徴天皇の立場です。
日本が民主国家であるならば、本来は、元首に相応しい人格であれば誰もが元首になれなければおかしいです。言い替えれば、国民には元首を選ぶ権利があるはずです。しかし憲法は、元首の役割を天皇家に限定していて、しかも世襲ということで(皇室典範)、主権者の意志で元首を選出したりリコールしたりということを一切許しません。いわゆる天皇制の否定は、つまりは、国民主権を謳いながらこのような矛盾を含んでいるという現行憲法への批判に行き着くのです。
おわかりでしょうか。少なくとも僕にとって、天皇を否定するというのは、元首を、国家の元首という概念を否定するといったことではなく、元首を天皇家に限定するのはおかしい(天皇家以外の人間も元首になれなければおかしい)という考えを表明し、現行憲法を、現行のいわゆる天皇制を、それを個人の既得権益のために擁護することを(真に国民のためにと考えていわゆる天皇制を擁護している人がいるのかどうか、僕は知らない。)、批判することなのです。 (いや、まあ、世の中には国家の元首という概念を否定する人もいるかもしれませんし、そもそも集団を作り代表を立てるという概念自体を否定する人もいるかもしれませんが。あるいは自分がイチバン、と考える人もいるでしょうが。そしてそのことの良し悪しを語るつもりは僕にはないですが。)s現行の憲法は民主的でないと批判し改善を求める権利が、私達にはあります。
Piroさんの言ふ「日本は民主國家である」の論據は、明かに「日本国憲法」にあります。ところがPiroさんは、その「日本国憲法」は「民主的でない」と述べていらつしやいます。この邊りの「矛盾」は、「日本国憲法の精神」と「日本国憲法の内實」との矛盾をそのまま反映してゐる――要は「日本国憲法」の解釋と條文とが矛盾してゐるのを反映してゐるのであります。
「日本国憲法」は、玉蟲色の憲法で、解釋次第で、右派にも左派にも利用され得る憲法です。ただ、解釋と條文との間には、當然のやうに乖離が存在し、その爲、右派も左派も自らの據つて立つ論據として「日本国憲法」は不十分である、と言ひます。しかし、「完全な憲法」に改正しようとは、右派も左派も言出しません。改正によつて、敵方に有利な形に憲法が變化する危險があるので、その危險をどちらも冒したくないのであります。閑話休題。
Piroさんは、「民主主義」と云ふ「憲法の精神」に據れば、世襲と云ふ身分、門地
に依據した地位である天皇と云ふ存在は認められない。と言つてゐます。しかし、天皇の存在を「日本国憲法」は第一條で認めてゐるから、その「憲法の精神」に憲法自體が反してゐると言へる、と指摘してゐます。「日本国憲法」には矛盾がある、とPiroさんは指摘するのであります。だが、Piroさんは、「日本国憲法」を非難せずにはゐられないけれども、「日本国憲法」の精神には依據せざるを得ない。それが矛盾だと私は申し上げたい。
それから、重大な問題をPiroさんは通り過ごしてゐます。天皇と云ふ地位は、「日本国憲法」が制定される前からあつたものです。「日本国憲法」に基いて天皇を裁く「權利」はありません。Piroさん流の言ひ方をすれば、天皇には既得権益
があるのであります。法には不可遡及の原則があります。
また、Piroさんは天皇制
と言つてゐますが、そんなものは何處にも存在しません。天皇は存在しますが、共産黨が言つてゐるやうな惡質な制度としての天皇制
は、存在しません。共産黨の言ふやうな天皇制
は、でつちあげであり、共産黨は風説を流してゐます。Piroさんは、共産主義者だから、共産黨のデマを信じるのでせうが。そして、天皇制
がデマでありでつちあげであるならば、それを支持する人間を假想して批判を加へるのは全く無意味であります。そして、その批判されるべき存在であると現實の或人間及び集團を極め附けるならば、それこそ誹謗であり中傷である、と言へます。
Piroさんは、なぜ存在しない天皇制
を恰も存在するかのやうに言ひ、それを支持する惡質な人間であると敵對者を極め附けるのでせうか。
Piroさんが現在の日本の民主主義を「民主的でない」と極め附ける根據が、共産黨の宣傳する、惡意に基いた天皇制
と云ふ風説であるならば、それは根據として根本から間違つてゐると言へます。そして、さう云ふデマを流す事によつて現在の民主制を破壞しようとするならば、Piroさんの行爲は單に反社會的活動であると云ふ事になります。
この邊り、どう考へても卑怯極まる言ひ方だと思ふ。
野嵜氏は、新しい元首は歴史が浅いために苛烈な弾圧を行うとし、歴史の長い
天皇を元首と認め、尊重しておくのが、一番無難としています。しかし、それはいかにも保守の考え方です。新しい元首に独裁を許すほど、私達は愚かではないです。……と強気に言い切ってしまいたいのだけれど、今の世の中の惨状を見ていると、そう言い切ることは難しい。小泉首相の支持率とか。しかし希望を捨てるわけにはいかない。諦めることをこそ忌むべきだと、皆川マンガのキャラクター達も言っているではないか。苦笑。そして閑話休題。
苦笑するのは自由ですが、自分の主張が薄弱である事を承知で、言ひつぱなしのやうな形で相手の主張を嘲笑するのは不愉快です。「俺は既に自分の主張が薄弱である事をはつきり書いてゐるのだから、俺のした非難はイタい非難である。だから一々つつこむのは間違ひだ」と言ふのは、單なる反論封じであり、反論を封ずる事自體が卑怯であるから、Piroさんのこの邊りの「自虐的」な言ひ方は卑怯なのであります。
僕は自由の名の下に(そこまで大仰なものか? 苦笑。)、天皇を馬鹿にします。それでも野嵜氏は、僕を
氣狂ひと評するのでしょうか。
もちろんです。
天皇は、愚弄されても決して反論しません。反論しない人間を面白がつて嬲るのは、まともな人間には絶對に出來ない事です。
見方を變へれば、それは單なる苛めであります。
苛めは、少數の人間を多數の人間が取圍んで嬲る事ですが、慥かに或意味、「民主主義的」ではありますねえ。嫌な「民主主義」です。
ねずみさんは「尊敬出來ると自分が思つた人だけ尊敬する」と云ふスタンスなのださうですが、それは「優秀だと思はれる人物は結果的に權威となる」と云ふ「能力主義」であり、その行き着く先は「權威となつた人物は優秀だからさうなつたのである」と説明する「共産黨の指導者」ではないですか。
農場主を追出し、全ての動物は平等である、と云ふスローガンを掲げたにもかかはらず、いつの間にか「我々は優秀だから、諸君の爲に、良いものを食べたり、肉體労働をしなかつたりするのだ」と言つて豚がほかの動物の支配者となる『動物農場』と云ふ寓話的小説を、ジョージ・オーウェルが書いてゐます。
自国の元首を敬うのは常識であって疑う余地はない。日本人は天皇を敬って当然である…。これは一種の思考停止といえませんかね。
良く考へてねずみさんが天皇反對の立場をとつていらつしやるとは思へないんですが。どちらかと言ふと、ねずみさんの立場は「世間一般の人は天皇を尊敬しないから自分も尊敬しない」と云ふものではないかと。それこそ思考停止ではないですかねえ。
それに権威云々と自分の権利だけを主張すると言うのも別物です。ていうか強引すぎ。権威主義者であると同時に傲慢な自己中心的な人間と言うのもいます。
さう云ふ「惡いXもゐるからXは惡い」式の論理はやめて貰へませんか。大體、日本と云ふ國は元來、相對主義の國で、目上には諂ふが目下には威張るタイプの人間は出てくるものです。が、だからこそ、どんな場合にも「倫理の儀表」となる存在が必要なのではないですか。その爲に、天皇の存在が必要なのではないですか。
このHTMLは 100点ですと言はれる羂。
卑下とか自虐とかは、しをらしいやうで、實は一番狡いのだ、と福田恆存も言つてゐますね。
別に天皇制が悪いと言っているわけではなくて、 「自国の元首を馬鹿にする=基地害」という論理がよく分からないといっているだけですが。
「天皇制」と云ふ言葉を使つてゐる時點でねずみさんが私の文章を全然讀んで下さつてゐない事は明かですけれども、それはともかく。
自國の元首に敬意を拂ふのは常識であり、論理も糞もありません。論理がよく分からない
、とねずみさんがおつしやるのは、當り前過ぎる事を殊更に言立ててゐるだけです。ムーアによれば、善の概念を他の概念から論理的に導出する事は出來ないのであり、なぜ目上の人に敬意を拂はなければならないのかは、論理によつては説明出來ません。しかしながら、目上の人に敬意を拂はなければならない、と云ふ常識を認めるならば、元首に敬意を拂はなければならないと云ふ結論は當然出てくるものです。
ただ言へるのは、目上の人に敬意を拂ふのは、自分以外の權威を認める事だ、と云ふ事です。自分以外のいかなる權威も認めないのは狂人のする事です。元首の權威を認め、元首に敬意を拂ふのは、常識的な態度であり、少くとも氣狂ひじみた態度ではありません。
また、「俺は元首の權威を認めない、なぜなら俺はGodの權威しか認めないからだ」と云ふ主張をするならば、その人は、元首の權威を認めないけれども、正氣であると言へます。その人は、自分を超えた存在を認めてゐるからです。宗教を信じてゐるのは、それ自體、人間として全うな事です。宗教關係者ならば、政治の權威を認めない事もあり得ます。その事自體は、狂氣の沙汰ではありません。
しかし今、元首の權威を認めない人は、元首以外のいかなる權威も認めないのではないですか。そして、自らの權利だけを主張するのではないですか。ならば、その人にとつての權威は自分自身であり、その人は狂人であると言つて良いのではないですか。
60年代のヒッピーは眞面目なクリスチャンでは、或はそもそもクリスチャンではありませんでしたし、今の日本人は無宗教を誇りに思つてゐます。さう云ふ人間が元首を馬鹿にするのは、單に自分が一番偉いと思つてゐるからであり、ならば狂氣の沙汰であると言はざるを得ません。
君主を必要としないシステムで現在動いている国が多数ある一方で、君主を必要とするシステムであっても現在動いている国もまた多数あるわけですから、もう、君主というのは地球人類にとってはあってもなくてもどうにでもなるものだ、としか言いようがないです。なければならないことはなく、あらねばならないこともない。後者の言葉の立場で語って
氣狂ひと誹謗されてしまうのでは、たまらないです。
Piroさんに申し上げたい事は、私は正氣の國民ならば、自國の元首を馬鹿にする事は出來ない
と言つたのであり、「君主」云々と言つたのではない、と云ふ事です。
元首は、君主國では君主であり、共和國では大統領です。元首のゐない國家は、ないのではないですか。
いわんやサイト更新おや。
「いはんや〜をや」ですねー。
嬉しさうだね>自分。
例によつて、話の中身を讀んで貰へず、話のテーマだけが話題になるやうな氣がして欝。「天皇を擁護してゐるから野嵜は反動」「反動だから野嵜は天皇を擁護するのだ」の無限ループ。
自分の國のトップを馬鹿にするのが當り前の事だと思つてゐる氣狂ひ多數。
「生物學」を持出す人あり。
一応、私の立場を明らかにしておこう。ぶっちゃけた話、特に生物学的に優れているわけでもないのに、血筋のため、お家のため、インブリードを繰り返した家系でしょ。遺伝情報的には面白いかもしれないけど、それを祭り上げる気にはならないな。競馬馬のインブリードの成功率を考えると、とてもとても。逆に可哀想だから保護していると言うのなら話はわかるが。
「生物學的に優秀か否か」と云ふ發想は、ナチスの思想を聯想しますねえ。
或は、かつての日本人には、「日本人は、支那人や朝鮮人よりも、人種的に優れてゐる」と云ふ間違つた思想をいだいてゐた人がゐました。戰爭に負けて、そのせゐで、日本人はやむなく「優生學的」な差別意識を捨てざるを得なくなつたのですが、今に至るまでその邊りの感情を無意識に抱いてゐる人がゐるやうです。私はさう云ふ差別に繋がる感情に反對なので、「生物學的な優劣」云々と云ふものの見方自體に反對します。
べつに、生物學的に優れてゐるから天皇は必要だ、等と、私は主張してゐませんし、まあ、大概の右翼は主張してゐないでせうが、どうして「天皇制」反對論者は、勝手に理由をでつち上げますか。
餘談ですが、近親婚は(嚴密に言ふと、古代の日本に見られる近親婚にも一定の制約があつたのだが)常に血筋のため、お家のため、
行はれるものではありません。そもそも、近親婚を見下し始めると、相當廣範圍の文化を敵にまはす事になり兼ねません。
それにしても、なぜすぐに憐れんで見せますか。
「良いX」と「惡いY」を比較して「Xの方が良い」と結論を下す人も。
この論理で行くと女王陛下をコケにしたビートルズの面々は正気ではなくなるし(マリファナを常用しているのでその時点で正気かどうかは分からないが)、大統領をコケにするアメリカのTV番組もやっぱり正気の沙汰ではないということですね。逆に自国の元首を馬鹿にしたら収監される北朝鮮やイラクはどうなんでしょうねえ。
どうでもいいが、真面目に働いて納税している反天皇中心ニッポン主義者と、「七生報国」なんて鉢巻きをして、街宣車から大音量で同期の桜を流しながらがなってる自称愛国者なら、絶対前者の方が正気だと思う。
まづ、をかしいとわかつてゐて、平氣でとぼける邊は惡質。藥物中毒のヒッピーがまともでないのは分かり切つた話です。
このいづれの説も、間違つてゐると、ねずみさんは理解出來ませんか。もしこの二つの説が間違ひであると理解出來るのであれば、ねずみさん御自身が提示した説も間違ひである事は理解出來るのではないかと思ひますが。
或は、ねずみさんは、御自身の論理を正しいものと信ずるのならば、「大虐殺を行ふやう命じたポル・ポトやスターリン、毛澤東を生んだ共産主義よりも、國家存亡の危機に聖斷を下して多くの國民を救つた昭和天皇を生んだ『天皇制』の方が良い」と云ふ「論理」も「正しい」と認めざるを得ないのではないですか。
なほ、昭和天皇は、一般の國民に「死ね」と命じた事はありませんし、諸民族を虐殺せよと命じた事もありません。大東亞戰爭は、ただ單に、「天皇の名において」戰はれただけに過ぎません。大東亞戰爭の責任を昭和天皇や、皇室に負はせようと考へる人が矢鱈とゐるのですが、責任轉嫁も良いところです。
と言ふか、ねずみさんの意見は、理窟になつてゐません(當然、感情的なものです)。全ての反天皇中心ニッポン主義者
が真面目に働いて納税している
かと言ふと、そんな事は絶對ありません。、「七生報国」なんて鉢巻きをして、街宣車から大音量で同期の桜を流しながらがなってる自称愛国者
と、自然に國を愛してゐる人とは必ずしも一致しません。そもそも、右翼であつても「天皇は要らない」と主張する福田和也氏のやうな人もゐます。
それから、北朝鮮やイラクの場合、元首と言ふより支配者なのですが、國家元首の國を統率する根據が薄い爲、彼等は強權を發動してゐる、と解釋するのが妥當です。日本の場合、歴史的に天皇が長期に亙り、國家の統率者と認識されてきました。ですから、天皇を元首と認め、尊重しておくのが、一番無難です。もし今後、天皇を排したとして、新たに元首の地位を創設したとしませう。考へていただきたいのですが、その元首は、國を統率した期間も短く(と云ふ事は、歴史的に統率權が根據薄弱である)、また、イデオロギー的に對立する存在も同じ國内に多數抱へてゐます(と云ふ事は、地位が危ふい)。さうなると、その元首が、國家を統率する上で、どのやうな手段を取るかと言へば、一番手つ取り早いやり方が、強權を發動し、強制的に國民を自分の膝下に跪かせる事です。
國家が國民を統制するのは大概、その國家の歴史が淺い場合です。歴史の短い國家ほど、支配のやり方は苛烈になります。歴史の長い國家ほど、國民を支配するやり方は、緩やかになるものです。
明治維新で日本は國家體制を改め、新體制をとつた譯ですが、その爲天皇を中心とした君主制を採用せざるを得ず、結果として軍國主義を生んだと言へます。大東亞戰爭の敗戰を機に、日本人は、それまでの歴史を「ちやら」にして、新しい歴史を作り始めようとしたのですが、もし完全に天皇を中心とした國家體制を破壞してゐたら、今頃、日本は北朝鮮以上に凄まじい共産國家となつてゐたかも知れません。
最終的に失敗したとは言へ、明治以來の體制は、歴史ですから、「ちやら」にするよりは生かした方が良かつた。實際に、敗戰後、その體制を或程度引繼いだ爲、日本の國家は安定を維持し得た、と言へます。
「イタい發言だから反論しないで下さい」と言ふ「逃げ」。
僕の考えは、バカ騒ぎで天皇を貶めよというものではなく、天皇など貶めるまでもなくハナからどーでもいい存在(いや、まあ、実態はともかく、少なくとも憲法条文の上では国旗や国歌と大差ない(?)扱いになっているのだし、国民総出で敬語を使ったりするほどのものかあ? と思っているのですよ。)なのだからどうせイベントをするならみんながハッピーになれる方がいいじゃあないか、というだけのこと。そもそもがそういう前提だから。意図的な
ネタの発言ではなくて、ナチュラルにイタい発言なのだ、と考えて頂ければ幸いですね。
天皇がどーでもいい存在
と「なつてゐる」のかどうかは知りませんが、もしさうだとしても、どうして「それで良い」と考へられるのでせうか。日本人は「どうする」ではなくて「どうである」が好きなのださうですが、それでは困ります。
Piroさんを始め、天皇の事を眞面目に考へず、「天皇は惡い」と云ふ教へ込まれた觀念を疑ひもしないで信じてゐる人が日本には澤山ゐるけれども、良く考へて、天皇が無くなつたら困ると云ふ事を理解せざるを得ない状況に追込まれるのを避けてゐるのではないですか。それはどうも理性的ではないやうに思はれます。
みんながハッピーになれる方がいい
、とPiroさんは述べてゐます。このハッピー
と云ふ言葉が英語である事は示唆的であります。Piroさん自身にも、この邊りの感覺はしつくりこないものがあるのではないでせうか。だから、じゃあないか
、と云ふ頼りない文句が續いて出て來る譯です。
憲法の初つぱなに項目がある天皇と、憲法に記載の全くない國旗や國歌と、どこが大差ない扱い
なのか、全然わかりませんが、 もしさうであつたとしても、どうしてそれを根據に、国民総出で敬語を使ったりするほどのものかあ?
と言へるやうになるのでせうか。不思議です。
なぜ、天皇と云ふ權威を認めるべきではないのか――それが私には全くわからない事なのであります。反天皇中心ニッポン主義者
の方々は、天皇さへ無くせば、日本人はハッピーになると主張するのですが、天皇を無くす事と、日本人がハッピーになる事との間の因果關係が判然としない。そして、その「ハッピー」な状態とは一體全體どう云ふ状態なのか、さつぱりわからない。
世間で言はれてゐる「天皇制」なるものですが、もちろん私は反對です――もし、そんな體制が現實に存在する(した)としたら。しかし、その「天皇制」なるものの實態は、共産主義者や社會主義者が、天皇を攻撃する爲にでつち上げた、現實とはかけ離れた「嫌な物語」に過ぎません。
天皇の存在に反對する人、「天皇を尊敬したいならば尊敬したい奴だけで勝手にやつてゐろ」と掃き捨てるやうに言ふ人、それらの人々が、天皇とは一體どのやうな存在であるのか、どのやうな存在であるべきとされてゐるのか、と云ふ事を、本氣で考へた事がないらしい、と云ふのが、「天皇制反對」は胡散臭い「思想」であると私が考へざるを得ない理由であります。