PHP のメーリングリスト に入ってみたら思いの外メールが大量に送りつけられてきて、OUTLOOK の受信トレイがメーリングリストのメールで埋まってしまいました。普段メールを出したりもらったりしないので。自分で加入したのに、ほとんど迷惑メール状態で困ってます。つか、OUTLOOK を使っているのがマズいのではないか、という気がしますが。
自分で參加しておいてほとんど迷惑メール状態
と言ふのはメーリングリストの關係者に失禮では無いかとか、OUTLOOK を使っているのがマズいのではないか、という気が
するのならばさつさと乘換へれば良いのではないかとか思つた。暗いと不平を言ふよりも以下略。
Outlook/Outlook Expressのメール振分け機能は結構良く出來てゐると思ふけど。電八よりはずつと使ひ易い筈。でも俺は電八派。
元の話とは全然關係ないけれども、titleに★とか◆とか●とか(以下略)を含めると云ふ惡習は何とか出來ないものか。
最早元の話とは何の關係もないけれども、電信八号 文系的教養を身につけやう(笑)
つて何ですか。
ユーザが自分自身のスタイルシートを設定できるというオタクっぽい機能を使へる。
Internet Explorerでは、「最小」「小」「中」「大」「最大」の5段階に文字のサイズを切換へられる。現状、それぞれのサイズを、システムが勝手に決めてゐるが、ユーザの側で再指定出來るやうにして貰ひたい。
「小さい文字」即「恰好良い」と考へるデザイナは無能。「文字のサイズが何うであれ、恰好良く見える」デザインを考へる努力をしないデザイナが、有能である筈はない。
餘談だが、「餘白を空ければ良い」と信じてゐるデザイナも無能。たとへ畫面が文字で埋つてゐようとも、そこに餘裕を感じさせるデザインを考へるのがデザイナの仕事だらう。
と言ふか、文字を恰も邪魔者であるかのやうに扱ふデザイナは嫌ひだ。
思慮の浅い単純な人間
の「ネタ」に眞面目に反應するのもアレだが。
馬鹿騒ぎに巻き込まれて
「は? 何が面白いのかしら?」的な顔をして見せられるだけ、英国の王室はまともに機能しているということなのかもしれません。陛下がお可哀想だ。
馬鹿騒ぎに巻き込まれ
る事自體、英國王室がまともに機能してゐない證據であり、 J 天皇制
なるものに変質した
のであれば、日本の皇室もまともに機能してゐない事になる。
もつとも、「天皇制」なるものは存在しないから、浅田彰の「「J 回帰」の行方」なる文章は無意味。天皇は存在するが、「天皇制」なるものは存在しない。
昨日の日記 の記述を若干訂正。
- × 陛下がお可哀想だ。
- ○ 陛下がお可哀想だ(藁
けんたろ氏の、(藁
、と云ふ表現の意味が全く理解出來ない。取敢ず馬鹿にしてゐる事を示してゐるらしいのだが、けんたろ氏が何を或は誰を馬鹿にしてゐるのか、がさつぱりわからないのだ。
正氣の國民ならば、自國の元首を馬鹿にする事は出來ないから、けんたろ氏が天皇(「陛下」は天皇に附ける敬稱)を馬鹿にしてゐる筈がない、と私は思ふのだが、さうなるとけんたろ氏が馬鹿にしてゐるのは、一體全體、何(或は、誰)なのだらうか。
Internet Explorer に対する期待
。
だが、だが……頼むから、ページ保存機能をもう少しまともにして欲しい。標準では
Web ページ、完全になっていると思うが、これだと確かに画像やスタイルシートなども保存されて便利だ。しかし、スタイルシート内から参照している画像は保存されないし、さらに大きな問題として、ファイルを激しく書き換えるのだ。
柳田國男に『桃太郎の誕生』と云ふ本があります。
「私は君の意見に反對だ、だが、君が意見を述べる自由は命にかへても守る」と云ふのが言論の自由だと思つてゐたんですが、「君が意見を述べるのは自由だ、だが私は君の意見が氣に入らないから君が意見を述べるのを出來る限り妨碍する」と云ふのが日本の「言論の自由」であるやうですね。
今更としか言ひやうがない話題だけれども。
終日雨で冷え冷え。文藝館に困った問題が起きていた。マークアップした方法で原稿を再現すると、例えば、私の小説が各段落ごとに一行開きで出てくるのだ。創作の場合、どこかで一行開きを作ることはよくあり、だが、何処でどう開けるかはかなり苦心して決める。一行開きも「表現」なのだ。それが、機械的に一律に段落ごとに一行開きされては、作品そのものが電子メールのようなことになってしまう。読みやすいからという問題意識を全面否定はしないが、創作は作者のもので、作者に断わりなく機械的に一律にそれをやるなど、非常識な暴挙であり、機械的な操作を作品よりも優先してしまった本末転倒そのもの。こういう事になっているとは、機械の組み立てというか、HTML言語がどうでこうだか理解仕切れないが、目の前の作者に断わり無くそれをやっていたのが、文学に無縁の業者ではなかったので、わたしの驚愕は大きかった。私の作品は、直ちに私の方法で原稿を作り直し、差し替えることになる。これが、他の著者・作者の原稿にも及んでいるとなると、由々しい事態になる。
底本に従った「原作の同一性保持」は著作人格権の基盤であり、いかなる再現にも可及的誠実に守られねばならない。むろん、正字が略字にされた底本もあるし、現代仮名遣いに変えられた底本もある。社会的慣行であり、研究者用のテキストではないから、それは、此処では深く問わない。機械環境の制約でオドリ記号も用いられない以上、「いろいろ」と直したり、ルビも「侃々諤々(かんかんがくがく)」という風に新聞方式を使わねばならなかったりすることは、有る。(ルビはふれるのだけれど、その為に行間がバラツクという版面の見苦しさが、今の機械環境では出てしまう。)
だが、一行開きなどは、忠実に原作に従える簡単なしかも大切な「表現」なのである。どうして、段落ごとに機械的に一行開くなどという設定を気儘にもちこんだものか、理解に苦しむ。
えーと。つつこみどころがあり過ぎて、どこからつつこんだら良いのかわかりませんが、取敢ず、面白い主張と困つた主張とを強調してみました。
2001-10-22 @ [ほら貝:サロン]で加藤弘一さんも困つていらつしやいますが、秦さんに納得していただけるやうに説明する自信は私にもございません。
HTML言語がどうでこうだか理解仕切れないが
、と端から理解を拒否するやうな姿勢をとつていらつしやる方に、HTMLの理念だの何だのを説いても、時間の無駄ですから。
と言ふか、秦氏は、最初にイメヂに基いて對象の價値を極めつけ、非難する一方、辯護やら何やらは全部拒絶する、聞入れない、と云ふ態度を常にとつてゐるやうに思はれます。かう云ふ人が日本ペンクラブにゐるのは、嫌な事だなあ。日本ペンクラブは言論の自由の敵です。
餘談ですが、日本ペンクラブ:電子文藝館よりも一年早く、「言葉 言葉 言葉」では「鱧の皮」の電子テキストを公開してをります。それにしてもこの小説、「一行空き」かどうかで、内容が全然變つてしまふやうな代物ではないですね。見ばえ云々よりも大事なものが文章にはあると私は思ひますよ。
これを戦争挑発と言わずして何と言おう。今年に入って、特に6月、7月以降露骨になった米によるイラク包囲網作りは、明らかに一線を越えている。当然イラク側でも防衛体制を必死に構築しつつある。イラク国民も身構えている。TVニュースではイラク国営テレビが少年兵2000名を軍事訓練へ送り出す光景を報道したことが伝えられた。フセイン大統領がバース党のクーデタ34周年記念の演説で対米勝利を誓ったと報じられた。米側の挑発で否が応でも急速に戦争ムードが高まっている。全てブッシュの戦争準備が引き起こした深刻な事態である。本当に許し難い行為だ。
えーと、この文章の筆者、平和通信の吉田正弘さんと云ふ人、ABCD包圍網は日本に對する挑發行爲であり、ハル・ノートは事實上の宣戰布告であつた、と主張する右翼の人々と同じ理窟を言つてゐるんですが、左翼なんですか。
政治の世界は良くわかりません。
どちらかと言えば永くリスクを背負う若い人(大学生等)が積極的に立ち上がらなければならないのに、幼児化、政治離れした大半の若者は、ヤワで、念頭に何もありません。これがどうしようもない日本の現実です。
この人、政治運動家ではなくて作家なのださうだ。
文學では、政治の解決出來ない問題を扱はうとしなければならないのだが、政治主義に淫した日本の作家は、平氣で他人を政治主義に引きずり込まうとする。
広島・長崎両市長の決然としたアメリカ国政府の独善に対する抗議を含んだ平和宣言は、目の覚めるこころよさであった。国民はみな私的には思い口にしてきたことであるけれど。それに対する小泉総理の、市長の個人的な意見でしょ、それは自由ですよという感想には、呆れる以外にない。彼はそうして身をまもっているだけだ、共感をうっかり表明すれば次にはアメリカに対し同じ事を言わねばならない日本の総理大臣だが、彼はそのまえに「アメリカの家来・家人」であることに栄誉すら感じてブッシュにひしと寄り添いたがっているのだから。一刻も早い退陣を望んでいる。実現の望みはうすいが、超党派で土井たか子内閣をつくってもらいたい。他に無いから困ってしまう。菅直人はどうするの か。
小林よしのり氏が先日來、「ポチ保守」(嫌な言ひ方だねえ)とか言つて「親米派」を非難してゐる。秦恒平氏は、どう見ても左翼だが、似たやうな理由に基いて似たやうな態度で「親米派」を非難してゐる。「親米派」を非難するその口調を見る限り、彼等が「アメリカに反撥する事」に、何か誇りのやうな感情を抱いてゐる事は明かである。或は、彼等の口吻には、「親米派」に對する侮蔑が露骨に表れてゐる。嫌だなあと思ふ。
政治的にアメリカべつたりであらうがなからうが、その人間が道徳的に善人であるか惡人であるかには關係がない。
右翼である事も、左翼である事も、それ自體、政治的な態度である。同樣に、親米的である事も、反米的である事も、政治的な態度である。政治的な態度によつて、その人間が道徳的な善人であるか、惡人であるかは、決定されない。
アメリカが現在の世界の支配者である以上、アメリカに對して反抗的な態度を取るのは愚かしい事であるに決つてゐる。だから、小林氏にしろ秦氏にしろ、私はその反米的な意見に賛成しない。しかし、そもそも、親米だ、反米だ、に血眼になる論者がゐて、その論者に贊成だ、反對だ、と言つて騷ぐギャラリーが澤山出て來る事がをかしいのである。
平和だの戰爭だのと言つた抽象的な議論に躍起になつたり、靖國參拜だの「南京大虐殺」だので派手なパフォーマンスを見せ附けようとする日本人の政治主義――この政治主義を日本人は如何にして克服すれば良いか、と云ふ事こそ、議論に價する眞に重要な問題なのだが、政治主義から脱却する道を示すべき文學者が悉く「政治の方が文學よりも大事である」と信じてゐるのだから、日本と云ふ國は救はれない。
裏の木に鵯が巣をかけた。雛の鳴き聲が聞える。うるさいです。
雨が凄いけれども連中、大丈夫かね。
例の猫どもが、何だか哀れつぽい聲で鳴いてゐる。取敢ず、庭の盆栽をひつくり返さないで呉れればありがたい。
ニール・セダカとか中原めいことかしか聽かないからねえ、俺。
しかし、どうして今の日本人は、皇室を卑近な存在にしたがるかね。他人を何とかして自分と同レヴェルかそれ以下の存在に引きずり下ろさうと考へる精神を疑ふ。
真柴ひろみに『奈津子』と云ふ作品がある。
もちろん、「あつた派」が反論する譯はありません。彼らにとつては、「テレビで放送された事實」が重要なのであつて、彼らの所謂「事實」が本當に事實であるかどうかは知つた事ではないのです。日本の論爭では、ギャラリーに與へる印象が大事なのです。理窟が通つてゐなくても全然問題ないのです。死ね。
ちなみに俺は、XHTML反對派。
住基ネットを任意ネットと誤讀。
疲れてゐる。
Alpha 11.6.3リリース。
これやると延々と文章が続くので一言で言うと、「靖国参拝しようがしまいが、既存政権を打倒することが生きがいの人間にとってはカードが1つ減るか減らないか話」ということであろうか。
マージンの設定されてゐる段落の文字數を「段落屬性」でまともに設定出來ない一太郎殺す。と言ふか、「字間」「行間」つて何ですか。CSSとかWordのスタイルシートとかに馴れてゐる人間にとつて、一太郎の獨特の概念は違和感あり過ぎ。
一太郎では「x字×y行」等と云ふ無意味な指定を最初にしてゐなければ、文書を作成出來ないが、これほど馬鹿な話はない。ワードプロセッサは、プログラム的に文字數を勘定出來る筈であり、勘定の爲の便宜に過ぎない「x字×y行」なる整形をユーザに強要するのは全く無意味。
「x字×y行」で書きたければ原稿用紙に書け。
「文字屬性」で文字サイズを變更しても、勝手に字間を變更して、一行當りの文字數を維持しようとして呉れる。狹いスペースに文字を押込まうとする度に一々字間を調整しなければならない。
行間も勝手に變へて呉れるのは、かうして説明すると一貫してゐるやうに思はれるかも知れませんが、變です。「字數」は變へないのに、「行數」はどうして變へるんですか。Wordだと、行數を固定する事が出來ますよ。
あと、一太郎の簡易作圖機能は異常なまでに低機能。直線を引いたり、圓を描いたりするのに、全部マウスで操作しなければならず、微調整の爲に數値を入力する事が一切出來ない。オブジェクト同士の配置を自動的に調整する事も出來ない。また、移動やコピーの際の「當り」の線が、オブジェクトそのものの位置とずれて表示されるのだが、一太郎のプログラマは何を考へてゐるのかね。
えーと、一太郎8を使つて(使はされて)ゐるんですが、9以降の一太郎では、基本的な機能が改善されてゐたりしますか? 機能によつて、キーボード乃至マウスのどちらか一方でなければ全く操作出來ない、といつた腐れた仕樣は改善されてゐますか? WYSIWYGとして餘りに中途半端と云ふ缺陷は何とかなつてゐるんですか? と言ふか、レンダリングエンジンがNavigator 4竝で、スクロールだの何だのが妙にばたばたしてゐると云ふ缺陷は、プログラム本體を書換へないでもどうにかなるもんなのですか? 操作しようとすると一々「その操作は出來ません、殘念でした(意譯)」みたいな殆ど嫌がらせのやうなメッセージを出すのは良くない事だと、プログラマは氣附いたんですか?
コンテキストに合はせてメニューを切換へたり、それが無理なら無理な機能を指示するメニューはdisableしたりするのは當り前の話だが、一太郎はその當り前の事が全く出來てゐない。
どう考へても、一太郎よりもWordの方が、一般に文書を作るのには便利だ。日本語の文書だからといつて、Wordよりも一太郎の方が作るのに便利と云ふ事はない。一太郎は、單に不便だ。
一方で、Wordに取込まれた一太郎風の機能は、不便極まる。
一太郎は惡いプログラムだから排斥しようキャンペーンですかこれは。
Operaにもポップアップウィンドウをrefuseする機能がある。
某所の「継続は力なり」を「繊維は力なり」と誤讀。
似てゐなくはないんだけど。
frameを使つたからといつて必ずしも使ひ勝手の惡いサイトに仕上がる譯ではないが、實際にどんな場合にも使ひ勝手の良いサイトをframeを使つて構築してゐる制作者は滅多にゐない。
本氣でframeを使ひこなしたサイトを作らうとすると、恐ろしく手間がかかるので、やめた方が良いです。少しでも手を拔くと、frameベースのサイトの使ひ勝手は低下します。
noframesの中身までもきちんとメンテナンスしてゐるフレームベースのサイトは、案外ないものです。
他人が作つた駄目ほーむぺーじを見てみることは、自分が駄目ほーむぺーじを作らないやうにする訓練としては惡くはないです。
ただまあ素材に騙されて駄目ほーむぺーじが駄目ほーむぺーじだと分からなかつたり、駄目だとは思ふけど何が惡いのか分からない、考へない、ああ駄目ほーむぺーじだ駄目ほーむぺーじだと言つて止めるだけ、といふ場合は、見ない方が増しですが。
そしてさう云ふ人らが次なる駄目ほーむぺーじを作つていくと。
昨日、靖國神社に參拜した政治家がゐる。賞讃して見せる人もゐるし、嘲笑して見せてゐる人もゐる。いづれも、何もわかつてゐない。右であれ左であれ、無知である。
8月15日に靖國を訪れるのは、中曽根首相(當時)が創始したパフォーマンスで、歴史的にも宗教的にも全然根據がない。この事は、文庫版『靖國』の後書で、坪内祐三氏が述べてゐる。
片山総務相(住基ネット)、武部農水相(牛肉)、平沼経済産業相(ボツワナエイズ暴言)、中谷防衛長官(情報漏洩、情報公開に纏わる省内スキャンダル)、塩川財務相(「わすれました」)、竹中経済財政担当相(アメリカに住所、国税を納めていない)。森本元首相(買春)、橋龍(デフレ)
これだけ偉い人物に弔ってもらって、靖国に眠る英霊もさぞかし喜んでいることでしょうな(嗤)。
お前は本當に英靈の事を思つてゐるのかと小一時間問詰めたい。取敢ず他人を嗤ひたいだけなら、靖國の事に觸れるべきではないと思ふ。