俺は別に、變な事を言つてゐる積りはないのだが。例へば、「戰爭は惡」と云ふ考へ方は、絶對の眞實ではない――と、さう言つてゐるだけだ。
そんな當り前の事も當り前と感じられないのだから、平和主義者は異常である――と云ふ言ひ方が氣に入らないのなら、謝ります。嘘はついてゐないけれども、言ひ方はやくざつぽいかも知れません。ええ、言ひ方だけなら、幾らでも謝りますとも。その代り、理窟は引つ込めません。
時代が移ると變化する價値觀は、絶對的なものではない。そのやうな價値觀を信奉するのは勝手だが、相對的な價値觀を根據に、他人の主張を裁斷して威張るのは感心しない。
「戰爭は惡」にしろ「現代仮名遣」にしろ、所詮現代にしか通用しない概念なのであつて、永遠の眞理ではない。一方、「戰爭は無くならない」も歴史的假名遣も、永遠の眞實である。だから俺は、後者を支持する。それだけの話。
「身内」ですら「大變な事になつてゐる」式の示唆で人の間違ひを揶揄するだけなのだから、2ちゃんねらーが具體的な根據を擧げて間違ひを檢證して見せないのも當然だね。
日本語(歴史的かなづかい)では書かないでください。読めません(ごめんなさい)。
なる記述を見かけた。だから當方の批判を「誹謗中傷」だと思つたのか、と納得した。本當に讀めなかつたのね。わらひ。
「戰爭をすべきである」「戰爭をすれば良い」ではなくて、「戰爭をしても良い」と云ふのが俺の考へなのだが、世間では「戰爭に反對しない」人間は全員「戰爭好き」に括られるべきものであるらしい。
さう云ふ粗雜な考へ方をするのは、やめて貰ひたい。
世間の人は、名詞や動詞に出現する語句には敏感に反應する。俺は、助詞や助動詞の使ひ方を非道く氣にする。
「人は自らを否定すべき文句で以つて他人を罵る」=「オマエモナー」なる等式に氣附いて欝。
うちのPCに入つてゐるブラウザ。
Lynx、w3m、Ice Browser、HotJava、WebTV Viewer、Lite、Just Viewは試した事がある。馬鹿だね。
書泉が、『2002 Summer Sale!!』で7月19日から8月31日までの期間中、書籍の購入者にサーヴィス券を配る事にしたところ、流対協が「再販制度破りだ、ただちに中止せよ」と「申し入れ」を行つたさうである。新文化 2002-07-16/2002-07-18
こんな記事が出てゐる。
「再販制度」に關する資料。
個人的には、「再販制度」維持に大反對。
書籍流通の問題を、流対協は政治鬪爭の手段として使つてゐる。
しかし、特定のイデオロギーに基いた鬪爭の手段とされてゐる爲に、書籍流通は殆ど死にかかつてゐる。實際のところ、書籍の出版・流通・小賣の問題は、イデオロギー鬪爭の手段としての書籍や、「文化」としての書籍と云ふ月竝な觀點ばかりから考へてゐてはならない筈である。
例へば、税制上の問題、「金融機關」としての取次の問題が、極めて屡々見過ごされてゐる。
さらに問題がある。今も昔も、「出版はビジネスだ」と考へてゐる出版社と、「出版は文化だ」と考へてゐる出版社とが、同じ「戰場」で戰つてゐる。そればかりか、同じ出版社が、時と場合によつて、出版をビジネスと捉へたり、文化と捉へたりしてゐる。
その爲に、流対協が、書籍流通の問題と政治闘争とをごつちやにして、非常に一貫しない主張をしても、文句を言はれない。だが、そのせゐで、「ビジネスとしての出版」も「文化としての出版」も、本氣で守るべきものとは誰にも看做されない。
「文化としての出版」を保護しようとすると、結果として「ビジネスとしての出版」が守られてしまひ、「ビジネス」は「文化」よりも強いから、結果として文化的な出版物は市場から消えていつてゐる。「再販制度」が維持されてゐる現在の書籍流通の世界では、さう云ふ變な事が現實に起きてゐる。
だが、かかる現實を見ない連中が、「再販制度さへ維持すれば、出版文化は守られる」と考へてゐるから、出版文化は間もなく崩潰するだらう。
と言ふよりは、現在の「再販制度維持派」はただ單に、政治家が「再販制度」を廢止しようとしてゐるからと言つて、「野黨精神」に基いて、それに反對してゐるだけである。流対協の、左翼的な餘りにも左翼的な主張を見れば、「再販制度維持」の主張が反體制運動にほかならない事は明かである。「出版文化」は、體制打倒――革命――の爲に利用されてゐるのである。
雨量・雷観測情報が改惡されて、異樣なまでに使ひづらくなつてゐる。
☆結果☆ 萌え年齢 :23.4378640776699才 <まあ、ありうることです。 注:仕事が忙しくて会えないケースも多いかと思います。 萌え度 :32.9005436520627% <一応、…ですね。 ただし、ちょっと低めです TPI萌え年齢 :24.2332237312366才 <新種の萌え評価基準です(非常に試験的です)。 --------------------------------------------------------------------------------------- 標準偏差(MSE) :4.11146126540197才 <つまり、ストライクゾーンの幅は、経験も含め、(ガウス分布ではないようですので) 約6.57833802464315才程。(DATAのエントロピーとも関連してます。) ただし、ここに誤差と言う逃げ道は殆どありません☆。これはエラーバー(誤差範囲)の計算ではありません。 あくまで解釈は萌える「ゾーン」です。萌える幅を見積もったモノです。 そこは、「萌え年齢」の方が絶対的であります。「萌え年齢」が極大萌え値という判定ですので。 --------------------------------------------------------------------------------------- イケナイ度 :16.1726706186351% <一応、よぼうかのうな領域です。 とは言っても、良いです ロマン度 :30.1852630217595% <一応、ボーダーをオーバーしてないですね ただし、ちょっと低めです。持ってる気持ちを拡張しましょう。 非現実度 :3.34145492516533% <一応、…ですね。 ただし、超低いです。完璧に近いです。でも、逃避できない苦しみはないですか? ---------------------------------------------------------------------------------------
リアリティの無い存在に興味は持てない。それだけの事だ。
The way to love anything is to realize that it might be lost.
なんて言はれた。
社会思想社のサイトに、ご愛顧への御礼
と云ふ文章が掲載されてゐる。
しかし、文庫創刊ラッシュによる競合の激化や、コンピュータゲーム機の登場による〈アドベンチャー・ゲームブック〉シリーズの陰りなどによって業績が下降し始め、89年の消費税導入による旧定価本の返品の影響により翌期の売上を大幅に減少させたことがその後に尾を引くこととなり、1997年からの出版不況のなかさらに厳しい運営を強いられるようになりました。
消費税が導入された時、本の定價表示を改めなければならない事になつたのだが、その爲、出版社は本のカヴァを刷り直したり、修正用のシールを作つたりしなければならなくなつた。
この定價表示の變更では、出版社が費用を負擔した。しかし、賣れない本の定價表示を變更しても仕方がないから、この時、多くの出版社が賣れない本を斷裁處分にしてゐる。角川文庫や新潮文庫は、以前から品切れ・絶版の本が多かつたが、大森望氏の言葉を借りれば「異常に物持ちの良い」早川書房や東京創元社の文庫本もこの時、大量に品切れが發生してゐる。
日本の出版の歴史は、或意味、この消費税導入時の「動亂」で斷絶された、と私は思つてゐる。
以下は、資料。
「大氣はものを考へない」「エラトステネスが地球を丸くしたのではない」云々。
と言ふか、「的を得る」は「誤變換」ではないやうに思はれますがね。
自覺的な詭辯家よりも、「天然」の詭辯家の方が、困り者だ。彼は、自分の責任を、自分以外の何かの責任に摩り替へるが、さう云ふ責任轉嫁をしてゐる事に自分では氣附かない。
意外な事だが、私の良く知つてゐる詭辯家には、以下のやうな特徴が見られる。
Yahoo! オークションが、ビッダーズからリンクを辿つて來た人のアクセスをはじいてゐたさうだ。
まあ、世間には、氣に入らないサイトからのアクセスを、いろいろと理由を附けて正當化するサイト運營者がゐますからねえ。
ホーソーンの『緋文字』を讀み終へた。
引續き、D.H.ロレンスの「ホーソーンと『緋文字』」(『アメリカ文學論』所收)を讀む。
アンチキリストのD.H.ロレンスが書いた論文は、恐らく日本人の想像を絶するものだ。
例へば、日本のクリスチャンは、グレアム・グリーンの『權力と榮光』を讀んで困惑するだらうし、『緋文字』を讀んでも困惑するだらうが、同時に、自分を或種のロマンティックな感情で、納得させ得るだらう。しかし、さうして納得した人は、ロレンスの論文を讀んで、再び困惑するだらう。
宗教と縁の無い多くの一般的な日本人は、そもそも何が問題なのか、理解しないだらう。罪と云ふものに「拘る」意味が、全くわからないからだ。ロレンスが、罪を自覺する罪深さを執拗に攻撃する理由を日本人が理解するのは、至難の業だ。少くとも、私は理窟の上でしか、理解出來ない。
或は、理窟の上で誤解する事しか出來ない。
と思つたけどやつぱり某方面でダメになつてる人らは經驗も思慮も淺いボケ共といふことで。
……。
家の手洗ひに、なめくぢ君出現。
「CSSによるウェブデザイン」と言ふと、決つて「CSSでtableレイアウトは代替出來るのか」と云ふ疑問が呈される。
そもそも所謂「tableレイアウト」からして疑はれるべきである、と云ふ事が、「ホームページデザイナー」「ウェブデザイナー」には理解されてゐないのである。
「格子の中のウェブデザイン」。
IISを入れると生成されるサンプルほーむぺーじの、HTMLの解説が凄いらしい。