Mozillaは自分にしてみればクソですが、世の中には樂しんで使つてゐる方が大勢ゐます。といつたとき、考へやうによつては、自分は他人に比して單に損をしてゐるだけ、とも感じられる。Mozillaが面白いのかさうでないのかは置いておくとして、ハックしても全然樂しくない、だからすぐ止めてしまふ、といふのと、樂しいと感じて延々とブラウズしてゐるのとでは、一體どちらが得をしてゐるのか。
分かりやすい例としてMozillaを出しましたが別にMozillaに限つた話ではなく。
valueclickの廣告を貼り附けてゐるサイトは敵です。
實際のところ、宇宙のはじまりを見た人はゐないので、宇宙は巨大な爆発によって始まった
、と云ふ説が眞か僞かは、誰も確實な事を言へない。ただ單に、「さうだつた可能性が高い」と云ふだけの話である。
間違いだらけの宇宙論が定常宇宙論の「勝利」を宣言してゐるけれども、雰圍氣が何となくトンデモ臭い。ホイル卿もその手の「變な科學」が好きだつたしねえ。
言つておくけれども、一應現在は、ビッグバン宇宙論が定説。ただ、それでもわからない事は殘つてゐると云ふ事。
T.M.Nの神樣に、「少なくとも感想への反論なんかは誰も読みたかねぇから糞」
と言はれた。欝墮氏腦。
二六時中、監視され續けてゐたら、人は氣が狂ふだらう。
二六時中、人を監視して、人の氣を狂はせるのは正しい事だ、と思つてゐる人も世間にはゐるらしいが。
イデオロギーに染まるのは良い事だ、と思つてゐる人が世の中にはゐるらしい。
事實と戰術の區別が出來ない人もゐるらしい。
とぼけるのは止し給へ。
ってなところが朝の発言の真意。ライブの騒動はどうでもよくって、お詫びに関するごたごたがダサかったなぁ、ということ。フジテレビのように「内容のある発言は一切しない」というのは一種の解決法だと思います。
ウェブでのトラブル處理を評する時には、「ダサい」つて言ふものなんですねえ。
「あいつが構つて欲しがつてゐたから、俺は構つてやつただけだ」と云ふ臺詞は、「苛めつ子」が必ず言ふ臺詞である。どう云ふ時に言ふ臺詞かと言へば當然、問題が起きた時に言ふ臺詞である。どう云ふ理由で言ふ臺詞かと言へば當然、責任逃れの爲に言ふ臺詞である。
恩着せがましい言ひ譯をしてゐても、嫌がらせは嫌がらせ。
なんか、俺のアドレスを使つて某所のメーリングリストに投稿しようとして、はじかれたらしいエラーが、こつちに來てゐる。
俺の名前で變な投稿があつても、俺は知らんです>各方面。
言葉は變化する、と言つても、昨日まで馬と呼んでゐたものを今日からは鹿と呼ぶ、等と云ふ「變化」はないのである。
政治家は賄賂を貰つても良いんです。 だつて、物品を授受して頼み事をするのは、みんなやつてる譯ですし。從つて、政治家が賄賂を貰つてはいけない、と云ふ認識は、以前の認識が變質してゐるのです。
いや、あくまでも例であつて、實際に全ての人がさう云ふ事をしてゐる、と言つてゐる譯ではありませんが。
もし假に、本當にそれが變質でないのだとしたら、それは一體何が原因なのでせうかね。 政治家の例に關しては、そもそも100年も前から政黨政治といふ方法そのものの構造上の問題として政治腐敗といふものが指摘されてゐたわけですが、さて。
きだみのるが『氣違ひ部落周游紀行』で書いてゐる。
さて Do ut des 我與ふ故に汝も寄こせ、これは萬國を通ずる義理の基本命題である。この邊でも「手土産がなければ物を頼みには行けたものぢやあねえ」のである。
賄賂は、「後ろめたい」ものであつても、道徳的に絶對的な惡事であると、日本人は考へる事が出來ない。そもそも、日本人に道徳の絶對的な基準は存在しない。
D.H.ロレンスの小説のやうな思想の本質に根差した「性描寫」について議論するのなら結構だが、たかがエロゲやエロアニメごときで大論爭をおつぱじめるのは馬鹿馬鹿しいとしか言ひやうがない。
エンタテインメントについて論爭をするのは、ただの暇潰しでしかない。
と言ふか、藝術は近代この方、低下し續けてゐるのであつて、たかがエロゲ如きに(制作者もユーザも)眞劍にならざるを得ない現状は必然的なのだが、嘆かはしい事でしかないのである。
「18禁」だのR指定だのと云つた「規制」は、日本では理念に基いて作られたものではないので、その意義を一生懸命檢討したところで無意味だと思ふ。憲法論議と一緒。
必然的に18禁になるのが「正しい」とする心情は判らなくもないですが、描寫があるから18禁になるのが「正しい」のですから、その「正論」は自己主張の押し付けに過ぎません。
「正しい」「正しい」と江洲さんがわざとおつしやつてゐますが、形式のみに基いた「正しい」と内容に基いた「正しい」とが區別されてゐない以上、話は常にすれ違ふのであつて、議論が自己主張の押し付け
合ひに終るのも當然であります。
と言ふか、論點が全く定まつてゐない以上、議論にもなつてゐないと思はれます。
仙人掌の花が咲いたのだけれども、蟲媒花として花粉を運ぶ媒介者に蝿を使ふらしく、嫌な臭ひを發して呉れる。
子供に向かつて迂闊に洒落や常談を飛ばすものではない。
自戒。
人は、他人の意見を讀む時、本論よりは餘計な一言に注目する。そちらの方が、つつこみ易いからだ。だが、餘計な一言を幾ら叩いても、議論の本筋を叩かない事には、相手の意見を否定した事にはならない。
相手が、全く別の所で、別の文脈で發言した事を、結び附けて、都合良く解釋する論法は、感心しない。
「フリーソフトはフリーソフトであるがゆゑに、非難されてはならない。フリーソフトを非難するのはフリーソフトの作者に失禮である」と云ふ説に、私は贊成しない。
フリーソフトであるOutlook ExpressやInternet Explorerがあれだけ非難されてゐるのに、どうしてそれ以外のフリーソフトはフリーソフトであるがゆゑに免責されなければならないのだらうか。
私は別に、變な事はしてゐない積りです。ただ單に、大企業や組織と、個人とを、區別しないだけです。ウェブでは基本的に全てのリソースが對等なのだから、私の態度もそれほど間違つちやゐないと思つてゐましたが。
物事の一側面を誇張して恰も全體であるかのやうに言ふ事と、物事の本質を指摘する事とは、全く異るのだが、兩者を區別出來ない人が極めて多い。
かう云ふ嫌がらせサイトを、企業がなぜ平氣で作れるのか、不思議。
2ちゃんねらーの思考原理は邪推。
匿名でデマを流すのが樂しくて堪らない人が、この世には存在するらしい。或意味、ヴォランティア精神の持主である。
「情報」を、それだけ切取つて持つて來て、それだけで教へようとするから、變な話になるのだ。苦勞するのは教師。
「グローカル」なる異樣な語を昨今、良く見かけるのだが、何ですかこれは。
こんな言葉を平氣で使へる奴は、馬鹿だと思ふ。
「バカが往く」ネタだけど、リンクしてもしょうがないので元ネタに張っておこう。もっともasahi.comの記事もいつまでもあるわけではないらしいが。
SFに出てくる乗り換え式の動く歩道っつーと、アシモフの「鋼鉄都市」じゃなかろうか。たしか。なにせ記憶があやふやである。速いのになると、風防がついているといった描写があったような、なかったような。
ハインラインの「走れ! 走路」(「道路を止めてはならない」「道路をとめるな」)が正解かと。
制服の女子高生が異世界に紛れ込むというパターンはエスカフローネ以来の王道か (嘘)。
吾妻ひでおに幾らでも。とか言つてみるテスト。
アニメの方だとねー。俺はアニメ、詳しくないからー。
「現代仮名遣い」「常用漢字」を「新しいかなづかい」「新しい漢字」だと思つてゐる人がゐる。面白い。
俺の知る限り、合理的な形で進化を遂げて來た日本語表記の最終形態(と云ふ事は即ち最新の形態)は、所謂歴史的假名遣であり正字體である。
既に50年もの間使はれてゐる「新字新かな」を、お前ら本氣で「新しい」と思つてゐるんですか。
實は、「新字新かな」も、「旧字旧かな」も、その體系が確定してから50年〜60年しか經つてゐない。どちらも同じ程度に「新しい」と言へるし、同じ程度に「古い」とも言へる。ただ、「新字新かな」は過去の表記との互換性がなく、「旧字旧かな」にはそれがある、と云ふだけの事だ。
俺は互換性原理主義者だから、過去との互換性のない「新字新かな」を完全否定する。そして、眞に重要な互換性は、同時代の互換性ではなく、前時代及び後世との互換性だ。
ちなみに俺は、1992年に、當時全盛だつたPC-9800シリーズを否定し、PC/AT互換機を購入した者だ。
養徳叢書の完全リストつて、どこかに轉がつてゐませんかねえ。
嘘吐きサーヴァは嫌ひ。遲いのにfastwaveを自稱するサーヴァとか。
HTMLのコーディングにかかはる層が薄いから、ウェブサイト制作全體のレヴェルが落ちるのである。
三省堂書店神田本店にはまだ現代教養文庫の棚が殘つてゐる。ただし、大分荒らされてゐる。
fragmentと云ふ用語に拘る人がゐるけれども、何をもつてfragmentと看做すかは制作者の解釋である。
古くても面白いものはやはり面白いのだけど、新しいものの方が多くの場合、面白い。私はさう信じてはゐる。しかし、例へば、「新しいガンダム」を「ガンダム」であるにもかかはらず「新しい」と言へる人がゐるのである。
あのスタッフが、「新しい」ものを作り得るとは全然思へない。そもそも、サンライズが本當に「新しい」ものを作つたのは、「ガンダム」だけだつたとすら言へる。
あの「イデオン」ですら、俺は「新しい」ものだとは思はなかつた。寧ろ、「イデオン」は、古色蒼然たるものだとしか感じられなかつた。
或意味、「センチメンタルジャーニー」は新鮮だつたな。(臺無し)
ヤコブ・ニールセン氏の解説記事は、Internet ExplorerやNavigatorを基準にしてゐるところがあつて、必ずしも全面的に信頼出來る譯ではないのだが。
fragmentとは、破片とか不完全な部分を言ふ。(Longman Active Stydy Dictionary:ただし、英文の定義をかなり意譯)
してみると、文中で言及出來る程度のソースコードの斷片をcode要素とすべきであり、完全なプログラムのコードはcode要素としない方が良い、と云ふ事になるだらう。
listとは、物の名前をならべて、覺書にしたり、整理したりしたものを言ふ。(Longman Active Stydy Dictionary:ただし、英文の定義をかなり意譯)
ならば、不完全なソースコードの斷片を、例に擧げたり、覺書として一文の外にメモしたりする場合には、ul-liの中にcode要素を記述しておいても良い譯だ。
想像して貰ひたいのだが、複數のソースコードの例を示す場合、あなたはどのやうな記法を用ゐるか。
私見では、以下のやうな記法を用ゐるのが妥當である。
<ul>
<li><code>...</code></li>
<li><code>...</code></li>
<li><code>...</code></li>
</ul>
しかし、文章を書いてゐるうちに、或件に關するソースコードの例が、一つしかない場合も出て來るだらう。あなたは、その時だけ、上の記法とは全く異る發想による記法を用ゐようとするだらうか。そんな事はない筈である。あなたは、以下のやうな記法を用ゐる筈である。
<ul>
<li><code>...</code></li>
</ul>
「複數のソースコードを列擧する」と云ふ發想が可能であるならば、「單一のソースコードを『列擧』する」と云ふ發想も可能である。
「一つのプログラムを、行ごとにliに區切れ」だなんて事を、俺は主張してないです。
上のul-li-aも、變なマーク附けかね。