「言葉 言葉 言葉」「PC Tips」「創元選書コレクション」では、imgをul-liにぶち込んだり、dl-dtにぶち込んで解説をddに書いたりしてゐるんですが、これも變なマーク附けですか。
江洲さんとこ經由。
脅迫的な文章と、論理的な文章とでは、どちらが事實を反映してゐるか。
「無知による恐怖」に依存する「反對派」は逝つて良し。逝つてゐますが。
諸君、私は原子炉が好きだ、だつて。素晴らしい。
EiFYE原発/車両運転記録簿も讀みませう。
ブラウザ振分けなんて下らない「技術」が、便利なものとして扱はれるのは、ブラウザの多樣性が失はれてゐるからである。
ブラウザが三つか四つかしかない(と考へられてゐる)から、振分けは可能だと思はれるのである。ブラウザが10も20もあつたら、面倒臭くて、誰もブラウザ振分けなんぞ、やらうと思ふまい。
一般的なWindowsユーザに、Internet Explorer、Mozilla、そしてOperaしかブラウザの選擇肢のない現状は異常。
例へば、「とっぷぺーじはOperaで見て下さい」「下層のリソースはMozillaで見て下さい」と指定したら何うだらう。
KSmiracleがさう云ふ状態だつたりする。わらひ。
Navigator 4.xでも、利用する事は出來ます。それでいいぢやん。
俺は、divと云ふ「意味」のないブロック要素で取敢ずcodeを括るよりも、codeを一つの項目と解釋してリストとして表現する方がベターだ、と思ふ。
或は、「codeをdivで括る」のは、「文法的」な發想であり、「意味」に基いた發想ではない、と俺は思ふ。
と言ふか、div要素は、del/insと同樣、開始タグと終了タグを削つても、HTML文書の殘つた記述が「正しい」状態であるやうに記述すべきだ、と俺は思つてゐる。divは、既に最低限の構造の明示がなされた状態でプラスXとして用ゐられるべきであり、構造自體を記述するのには用ゐない方が良い、と思ふのだ。
あれれ、某PC Tipsの中から、codeを取敢ずpで括つた文書が出てきたよ。
大聲を出したり、大きな音をたてたりするのが好きな奴は、例外ナシに馬鹿。
object なりインラインフレームなりで埋め込むのも方法の一つとしてアリなんじゃあないですかね
ソースコードをオブジェクトと見なすのは、解釋だから、アリ
だと思ふ。
code としてマーク付けするのはまず確実として、後はそれをどういうブロック要素と見なすか。僕は今のところ、面倒であるのと、広くソースコードの例示に使われていることから、 pre で済ませている。でも論理的ではない。
class="ソースコード"
といった誰の目にも明らかな class 名を与えて、 div (何らかのブロック)あるいは p ( HTML における基本のブロック)とするのが、僕には最短ルートだと思える。わざわざリスト扱いにして遠回りする必要性は薄いと思うが、どうだろうか。
別に怒つちやゐませんが。
パラグラフでないものをパラグラフと言張るのは不適當だし、ブロック要素だからと言つて取敢ずdivにぶちこむのは手拔き以外の何物でもないし、だからと言つてdivにclassを指定してもdivはdivだし、假にclassを指定する事によつてdivに意味が追加されるとしても(そんな事はあり得ないが)divのclass名にソースコード
を用ゐるのならcode要素とダブつて「馬から落ちて落馬する」状態になるから、Piroさんの7日の意見は私には間違つてゐると思はれる。
そもそも、誰の目にも明らかな class 名
も、全く無意味なclass名も、仕樣に適つてゐる限り、パーサは全く同等にしか扱はない。無印のdivや別のclass/idの附けられたdivと、或クラス名のdivとは、何らかの意味で區別がなされてゐる、とパーサは解釋するだらうが、意味の違ひが具體的にどのやうなものなのかまでパーサは關知すまい。
class屬性附きのdivも、パーサにとつては單に「ちよつと變つてはゐるが本質的には同じdiv」である。「classやidによるHTMLの擴張」と云ふ概念は、捨てた方が良い。もしそのやうな形でHTMLが擴張可能だつたならば、XHTMLが作られた意味はなくなる。
あのー氏の6日の文章が改竄されてる。
<pre><code>ホゲホゲ</code></pre>
「定義リスト」に關しては皆、割合柔軟に解釋をするやうだが、なぜ箇条書きリストや連番リストに關してはやたらと嚴密に解釋しようとするのだらうか。
リストだからと言つて、複數の項目を擧げなければならないと云ふ法はない。逆に、一つの項目しか擧げないにしても、それが項目であるのならば、リストとして扱ふのは當然の話だ。
Piro氏が最短ルート
とか遠回り
とか云ふ表現を用ゐてゐる。しかし、最短の表現方法は、テキスト文書にマーク附けなどしない事だ。テキストにマーク附けをする事自體、自然言語をコンピュータのプログラムに認識させる爲の迂遠な手段でしかない。
マーク附けの方法は、單に構造化の觀點からなされても不十分だし、迂遠かさうでないかの觀點からなされても不十分だ。形式主義的な考へ方は駄目だ、と云ふ事だ。マーク附けは、本質的に、内容に基づいてなされなければならない。
いちごうらない
が長い事[an error occurred while processing this directive]
のままなのが氣になる。
Sorry. Dacafe photograph requires Microsoft Internet Explorer 4 / Netscape 6 or later.と言はれて追返された。人を馬鹿にしてゐる。
現代の歴史教育は良くないものだ。右寄りであれ、左寄りであれ。
空中からみたナイルは砂漠のなかのただ一本の緑の帯である。ここに人間も動物も水と食物を求めて集ってきて、長期間にわたる共同生活の結果、牧畜が生まれた。また初期の農耕はひとたび収穫すると、土地の生産性が失われ、新しい土地に移らなければならなかったが、大河のほとりでは毎年の定期氾濫によって運ばれてくる肥沃な土壌が、毎年同じ場所で種子をまくことを可能としたために、定住の最大の契機となった。さらに狭いナイル渓谷においては、交通はただ一つのナイルに頼る以外になかったので、上流から下流までのエジプトを一つに結びつける大きな役割を果した。
この文章に、危險なレトリックが入り込んでゐる事は、案外認識されない。
當時の人間は、この歴史に書かれた理窟など、意識してはゐなかつた。しかし、讀者はこの文章が、理路整然と書かれてゐるだけに、なるほどと思つてしまふ。
強調しておくが、私はこの文章の筆者の解釋が嘘だとか間違つてゐるとか言ひたいのではない。ただ、解釋即事實であるかのやうに見せかけるレトリックが、この文章で使はれてゐる事だけを指摘してゐる。
そして、文章を通して、人は、事實よりもレトリックの方を、好んで學ぶものだ。結果として、自分の解釋を事實に見せかけるレトリックを、多くの日本人が、屡々無意識に使つてしまつてゐる。
「トンデモ」のオカルト歴史書も、まともな歴史書も、全く同一のレトリックを使つて、「歴史的事實」を説明してゐる。今の歴史教育で學んだ人間は、このレトリックを使はれると、或事實が正しいものなのかどうなのかを屡々判斷出來なくなる。
佐高信がいかに駄目であるかを證明する爲に、『タレント文化人100人斬り』(現代教養文庫)を買つて來た。かう云ふ本の買ひ方は、よろしくないさうだが。
山本夏彦氏を罵つて、佐高は言ふ。
「五十歩百歩」という言葉がある。私はこの言葉の大切さを認めつつも、「五十歩」と「百歩」の違いを追いたい。それが批評というものだと思うが、横丁の隠居の山本には、そんなエネルギーは残っていないらしく、面倒臭くなると、すぐに、「五十歩百歩だ」と切り捨てる。
批評とは、「五十歩百歩」の「五十歩」と「百歩」の違ひを追ひかけるものである、と云ふ定義は、佐高の個人的な餘りに個人的な定義だが、その一般的ではない個人的な定義を根據に山本氏を佐高は批判する。そもそも「五十歩百歩」と云ふ言ひ方は、大差のない事――と言ふよりは、本質的に同一の事――を、殊更違ふものであるかのやうに言做すのを嗤つたもので、佐高の「批評」とはそんなに馬鹿馬鹿しいものなのかと思ふが、そんな馬鹿馬鹿しい事に佐高は精力を傾けるのださうである。
と言ふよりは、佐高は、自分のエネルギー
を誇つてゐるのである。
佐高は本書で、「タレント文化人」の人格を片つ端から誹謗してゐる。しかし、上の記述を見れば、佐高自身の人格が陋劣である事は明かだ。佐高のする人格攻撃は、根據のないもの、言ひがかりとしか言へないやうなものが結構あり、幾らでも反論可能である。しかし、佐高自身は、自分の人格を否定されても反論出來ない。自分の人格が陋劣である事を、佐高は自分の文章で自ら證明してゐるからである。
佐高の評論が無價値である所以である。
佐高の批評が高く評價される事自體、異常である。
企業を名指しで批判するのは、痛快であるだけで、別に偉い事でも何でもない。金儲けさへ考へなければ、企業を批判する事は可能である。いや、攻撃目標のライヴァル會社を抱込めば、或會社を批判しつつ金を儲ける事も可能である。そして、日本には佐高のやうな左翼を應援する左翼寄りの企業は幾らでもある。と言ふよりも、金儲けをしつつ、物を言はうだなんて、佐高の「批評」のやり方は蟲が良過ぎる。
そもそも、日本は戰後、左翼の國だから、どんなに左翼寄りの事を言つても、一般の國民から總すかんを喰ふ事はない。佐高は、體制を批判してゐるから自分は「反體制」の積りなのだが、左翼的な思想が一般的である日本國で政府や企業を批判するのは、その方が「體制寄り」の行爲である。
或は、左翼の佐高が右翼を批判しても、當り前の話で、全然面白みがない。
佐高は、自分があたかも危險な行爲を行つてゐる勇氣ある人物であるかのやうに宣傳してゐるが、寧ろ、安全地帶から當り前の事を言つてゐるだけの凡庸な人物でしかない。佐高は、輿論や國民に媚びてゐる。
「日の丸を見ると嫌な氣分になる人がゐるから、日の丸を國旗にするのには反對だ」と言ふ人もゐるが、「A氏を見ると嫌な氣分になるB氏がゐるから、A氏逝つて良し」と云ふ理窟になるだらうか。そんな事になつたら、人類は滅亡するしかない。
一見もつともらしい「理窟」も、同じ論理を他の事例に適用してみれば、即座に正しくない理窟である事がわかる。
正しくない理窟を言つてゐる人は、條件反射的に「それところれとは話が別」と云ふ文句に頼る。話が別なのは當り前で、そんな事を咎め立てする方がをかしい。「理窟」の正邪を判定する爲に、別の「話」を持出して、何が惡いのだらうか。
ただ言へるのは、議論を「理窟」から「話」に摩り替へるのは、その人が理窟に何の興味もないからだ、と云ふ事である。
アーノルド・トインビーの『歴史の研究』が欲しい。ただし完譯版。
一見「良い事」であつても、動機が不純ならば、それは道徳的に惡事である。
現代教養文庫を古本屋で捕獲して廻る。新刊書店に現代教養文庫はもう、ない。
『奇妙な論理』『奇妙な論理II』も確保。
部屋の床一面、現代教養文庫だらけだよ。馬鹿だね。
おまへはこんだけ本當に讀む氣があるのかと小一時間問詰められたら、返す言葉もない。
獨立した記事にしておいて良いのではないですか。
「撃墜される前のHTML」は、http://t-i.as.wakwak.ne.jp/~ti/gekitsui-html.htmlとして、獨立した記事になりました。某リンク集からリンクしときませう。titleがJul, 2002なのはアレですが。
七夕。
願ひ事をしてみるテストとか。
だからどうしたと言はれても。
興味のある人は、年を歴た鰐の話(山本夏彦訳 L・ショヴォ原作) 復刊リクエスト投票で投票すると良からう。復刊ドットコム 掲示板(年を歴た鰐の話)で投票者のコメントを讀める。
「讀みもしないで、或本が良い本か惡い本かを判斷出來る譯がない」と主張する人々は、恐らく、本屋に行く習慣がないのである。
本屋や古本屋の店員は、讀みもしない本を、大體は適切に、棚に並べる。
自分の事を酔っぱらったお兄ちゃん
等と呼んで平氣な顏をしてゐる奴に、ろくなのはゐない。
ブックセンターいとう東中野本店で、現代教養文庫を買占めて來た。ただし、佐高信關係の本は買はなかつた。當り前だ。
問合はせてもどうせ答へない癖に、なお、このエラーが数日に渡って出る場合は、お手数ですがこちらまで問い合わせ願います。
なんて書くな馬鹿。と言ふか、エラーぢやねえだらうが。嘘吐きめ。
「被害者」面して相手を「加害者」と極め附け、相手に嫌な思ひをさせる、と云ふ「戰術」は、どこで學んだんでせうね。そんな事、學ぶものではない、と忠告したのだが。
めも。
CSS1。
CSS2。
<div><code>ホゲホゲ</code></div>
私案。
<ul>
<li><code>ホゲホゲ</code></li>
</ul>
「取敢ずブロック要素はdiv」と云ふ發想は敵。
意外な回答。ならば、「リスト」を選んだ発想の根元というか意義を知りたかったり。というのもHTML 4.01の勧告文には、リストについて次に挙げるような説明文があるから。
HTMLは著者に対して、リスト情報を指定するための幾つかのメカニズムを提供する。どのリストも、1つ以上のリスト要素を含まねばならない。リストには、次の内容が含まれ得る。
- 順不同の情報。
- 序列のある情報。
- 定義。
上のリストに含まれる内容とコードの例示では、釣り合わない気がする。ただしリストにこだわるのであれば、タイトルを用意することで定義リスト(dl)としてマークアップする手が使えるかもしれない。とりあえず「とりあえずdivを避けるためだけのマークアップ」や「( ̄△ ̄;をカモネギにするためのネタ」でないことを祈るのみ<「世の中の出来事はすべてネタ」説ですか、あのーさん( ̄△ ̄;。
上のリストに含まれる内容とコードの例示では、釣り合わない気がする
、と言はれても、俺は「釣り合ふ氣がする」んですがー。
以下の二點が問題となるのだらうが、いづれも問題ではない。
最初の方は、「リスト情報」が具體的に定義されてゐない以上、主觀に基いて決定してよろしい筈。次の方は、W3Cの勸告を見れば、火を見るよりも明らか。
しかし、divを避ける爲にマーク附けを工夫するのが、そんなにいけない事なんですかね。
divは匿名ブロック要素なのであつて、と云ふ事は全く意味のない要素なのであつて、「意味論的ウェブ」の概念を信奉する人々が非常に好むのは解せないのだが、とにかく個人的にはHTMLの仕樣からさつさと追放して貰ひたいものの一つだ。こんな腐れた要素を使つて平氣でゐられる感性が、私には氣持ち惡くて堪らない。
class="tsukkomi"
のem要素をあのー氏がspanではなくemにしてゐるのは、氏の解釋であるが、個人的には納得出來た。codeをdivに單にぶち込むのには、何の解釋も介在しない。
と言ふか、別に無理にリストにしてゐる積りは全然ない。リストにするのが自然だと思つただけだ。
逆に、HTMLの仕樣で定められてゐるリストを殊更に避けて、無理矢理div+class/idで表現をしようとする事の方が、俺には不自然に思はれる。私見だが、「class屬性やid屬性の附けられたdivは、それらの無いdivと違つて、意味を持つやうになつてゐる」とは考へられない。
一應、ブロック要素のグルーピングにdivを使用する事は、制作者の解釋として、俺は許容する。が、それはやつても良い事=「おまけ」であつて、必須の事ではない。
生協の本棚で見かけた本。タイトルは忘れたけど、とほほの WWW 入門や侍魂や2ちゃんねるや絶対サポセン黙示録といった「ヒットした(している)個人サイト」の制作者へのインタビュー集みたいなやつ。
俺も見た。本の後半では、俺の全然知らないとこがとりあげられてゐた。
あと、とほほラウンジ閉鎖の原因についての記述は事実と多少異なるような気がしないでもなかった。
俺もさう思つた。
しかし、とほほ師は善人なので、意識して嘘はついてゐない筈。多分、無意識のうちに、事實を自分に都合良く歪めて認識してゐるんだらう。で、世間の連中は、「本人が言つてゐる事だから眞實」と思ひ込む譯だ。
と言ふか、「ヒットするサイト」はみんな、「頭の良くなささうなサイト」なんですねえ。嫌ですねえ。
2ちゃんねるは、いかにもひろゆきのサイトらしいサイトだ。2ちゃんねるの缺陷は、ひろゆきの缺陷である。
だから、ひろゆきは2ちゃんねるを、さも御立派なメディアであるかのやうに言ふのだ。2ちゃんねるは、ひろゆきの個人サイトである。
俺は、エロ本を見れば樂しむが、エロ本は惡いものだと平氣で言ふ。當り前の話だ。俺は、本能と理性を持つてゐる。本能と理性とが矛盾して、何がをかしい。
半年ぶりにアニメオタク復歸をはかつてゐる今日このごろ。
ANIMAXで「宇宙海賊キャプテンハーロック」(TVシリーズ)を觀た。何か、キャラクターが悉く電波なのでアレです。
現代教養文庫は、既に新刊書店から引揚げられてしまつた模樣。
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久々に見た不愉快なメッセージ。Operaで見てはいけないらしい。