Browser Central - Main Page at Netscapeからリンクを張られてゐるDevEdgeの記事。
DevEdgeのWhat's Newは、たまにチェックする必要がありさうだ。
えすえふ・いず・わんだふるの幾つかの文書が、ブラウザで見ると文字化けするんですが。
どうして權利と義務とを混同出來るのだらう。
『現代神道研究集成十 神道と日本文化』を2箇月くらゐ某圖書館から借り續けてゐるのだが(きちんと貸出期間の更新はしてゐます)、誰か迷惑してゐる人はゐますか。
まだ120ページしか讀んでゐない。
KSmiracle Web Directoryをリニューアル。
どう考へてもまともではないHTML文書のせゐで、良い感じに*.cssを記述出來ない。
Internet Explorer殺す。
Mozilla Browserも殺す。
KSmiracleはOperaによる閲覽を推奬します。
と言ふか、これだけの規模のリンク集を、全部手打ちで作つてゐる事自體が異常。
『闇の左手』の昔の表紙はちょっと怖いぜ。子供は泣くね。なぜかロシア人風のおっさんの顔がどアップなんだけどさ。ロシア風てのはわからなくもないが何故オヤジか。ま,SFショック画像ですな。
ハヤカワSFシリーズの『闇の左手』は、上を向いてゐる人を顎の方から描いた謎の繪。抽象畫ばかりだつた銀背も、末期はリアル志向になつてゐるんですが、『闇の左手』はその中でも異色で、何だか氣持ち惡い。
『天のろくろ』(ただし新裝版)が慥か、初めて買つたサンリオSF文庫にして、初めて讀んだル・グインです。ディックを分かり易くしたやうな内容です。二番目に買つたサンリオは、『バケツ一杯の空気』(フリッツ・ライバー著)。
サンリオ版『ロカノンの世界』『辺境の惑星』『幻影の都市』のカヴァは全部、竹宮恵子のイラストです(シリーズらしい統一感は全然ありません)。『天のろくろ』新裝版も竹宮畫です。
私室SFページでル・グイン作品が紹介されてゐます。
銀の知識人たち(サンリオSF文庫の部屋)で、カヴァ畫像を見られます。『銀の知識人たち』は終に出なかつたな。
人間は逆立ちしたつて神樣になれはしない――ならば、人間が努力する事は、本質的に無駄な事ではないか。
しかし、私は努力を絶對的に無意味なものだとは認めない。時と場合によりけりだが、努力には意味があると信じてゐる。その點、私の考へ方は非論理的だ。
で、声優板に行くと、彼女のスレッドがあって、なんか、
金田朋子は在日!とか書いてあるんです。そこでまたブチギレですよ。名前に「金」が含まれているだけで韓国人決定かよ、おめでてーな。というか、金田朋子スレは、在日ネタとオナニーネタが殆どで終末な感じがした。鉞を担いでいるほうの金太郎だって、名前に「金」が含まれているが、これについてはどうか。金田一耕助はどうか。
金田一京助はどうか。金田一春彦(以下略)。
ねずみ講のSPAMが一々合法を主張するのと、匿名掲示板の運營者やその擁護者が「表現の自由」と言ふのとは、良く似てゐる。
猛者達逃避4秒前がXHTML Primary準據になつてゐる。
ハイニッシュユニヴァース・シリーズ最初の3作は、サンリオSF文庫版も割合樂に入手可能だつたりする。他のサンリオSF文庫の作品と比較しての話ですが。但し、『ロカノンの世界』の譯者が違ふ。
その手の古本屋では、ハヤカワ版よりもサンリオ版の方が見附け易いかも。
Web上には實名による發言者が何人かゐて、匿名掲示板ではその發言者に對する眞面目な議論が繰廣げられている場合も例外的にある事もあるが、多くの場合、根據のない誹謗や中傷、根も葉もない下劣な噂が多數、飛交つてゐる。それらの風説に對し、實名の發言者が匿名の發言者に反論した場合、匿名の發言者は、相手を怒らせて失言を引出さうとし、一度實名の發言者が失言すれば、いつまででも執拗にその一言をとりあげて、實名の發言者を嘲笑し續ける。結果として、實名の發言者は精神的に參つてしまひ、負ける。或は、負ける可能性が高い。
これは恐ろしいことではないのか。
「内部告發」と云ふ名の密告を守る爲に、大量の嘘と大量の惡口は保護されなければならないのだらうか。ゼロに近い可能性を守る爲に、確實に生ずる人權侵害は見過ごされるべきなのだらうか。
掲示板しかコンテンツのないサイトを運營する事自體、サイト運營者として失格である。
匿名でなければ一切の權利を(事實上)剥奪される「メディア」に、存在する意味はあるのだらうか。
嘘を吐かなければ、匿名掲示板を利用する事は難しい。匿名掲示板で本當の事を言ふのは危險である。
2ちゃんねるの重大な缺點。匿名での書込みは安全に出來るのに、實名での書込みは危險極まりない。
2ちゃんねるの重大な缺點。匿名での書込みは自由に出來るのに、匿名での削除は全く出來ない。
平氣で「ごめんなさひ」「悲しひ」と書ける人は(以下略)。
屡々「冷戰」を「東西對立」「共産主義對自由主義」にしてしまふワンパターンの説明がなされるが、本質は違ふ。
寧ろ、「革命の輸出」と稱した共産主義國の侵掠に對して、自由主義國が行つた「自衞戰爭」と見る方が妥當だらう。
かつてガイアナはイギリス領ギニア、スリナムはオランダ領ギニアだった。フランス領ギニアは今も昔もフランスの領土。大航海時代〜植民地主義の時代にこれらの国が陣取り合戦をして、最後には今の地図にあるように獲物は3分割された。歴史的な過去のことだから、い まさらどうこう言っても仕方ない。
珍しく(?)、妖精現実氏がまともな事を言つてゐる。
ところで素朴な疑問なのですが、ひとつの大きな画像をスライスしてテーブルであたかも1枚の絵のように見せる場合、画像のaltには何を記述すればいいんでしょうか。
...alt=""...
ではないかと。
セルのpaddingを大きめにとつたユーザスタイルシートで對抗。
高校の傳説。
生物の授業中、鳩が窓から飛込んできて、壁にごつつんこして目をまはしたさうな。すると、生物の先生、その鳩を拾ひ上げて、生物實驗室に持つて行つたさうな。
D.H.ロレンスの「エロ」には思想があつた。
だからと言つて、エロ一般に思想がある譯ではない。大概は、ない。
今更Windows 3.0とかNewオーロラエースとか、中古ソフト屋に賣れるかなー。
2ちゃんねる、地裁で敗訴。
ひろゆきらは、情報の公共性、公益目的、真実性が不明な段階では、他人の権利を侵害する違法情報かどうかも分からない。発言の真偽が分からないので、管理人に削除義務はない
、と主張してゐた。
代理人の中島章智辯護士は、何の証拠も持ち合わせていない掲示板の開設者が真実性を証明することは不可能。これでは社会問題の告発など真実性を証明できない投稿は全部削除せねばならず、表現の自由が大きく制約されてしまう
、とコメントしたさうだ。
表現の自由とは、「眞實性を證明出來ない事を主張する自由」であるらしい。要は、「デマを流すのは自由だ」と云ふ事だが、いかにも2ちゃんねらー的な主張で、素晴らしい。
と言ふか、「我こそは表現の自由の守護者なり」と言はん許りの2ちゃんねる側の態度は、いかにも傲慢だ。下らないものに理由を附けて、まるで立派なものであるかのやうに言ふのは、感心しない。2ちゃんねるの發言は全て無價値であり、保護するに値しない。
密告を奬勵するやうな主義は、嫌なものである。
キリスト教徒と非キリスト教徒との間には無限の(絶對の、と言つても良い)隔りがあるのだが、なべて相對主義の日本人にはそれがなかなか理解出來たものではない。
だから、互ひに相容れない筈のカトリックとプロテスタントが共同で聖書を飜譯するのだ。日本のクリスチャンは、神道の信者がGodも信じてゐるだけである。
「ヨハネの默示録」は、日本のクリスチャンには人氣がないのではないか。キリスト教が、愛の宗教であるばかりでなく、復讐の宗教である事を認めないのは、日本のクリスチャンである。
いつも私の文章を讀んで呉れてゐる讀者ですら當方の意圖を理解してゐない、と氣附かされる度に、「説明はするだけ無駄」と云ふ實感が強まる。
Cascading Style Sheetsの使用に就いて・その他は、常連さんにも讀まれてゐないらしい。
たまに、當方の意圖を汲取つて呉れる讀者がゐると、やつぱり「説明はするだけ無駄」と云ふ實感が強まる。山本夏彦さんは「電光のやうに傳はる」とおつしやつてゐる。
tDiaryの記法は、HTMLの記法よりも難しいものであるみたいだ。
masanoidさんが何か色々言っているので、
とねずみ(6月6日をもって改名)さんが書いてゐる。そこでhttp://www.netabbs.com/を見に行つたのだが、masanoidさんの發言を見附けられず。
通勤時にゆつくり讀んでゐた『動物農場』を、三日で讀了。
やはりジョージ・オーウェルの作品は、小説としての出來は今一つだ。だが、色々と考へさせられる點がある。
革命の理念は崇高である。しかし、その實行者は所詮、神樣ではない。當り前の話だが。
三日坊主++の部屋が閉鎖されてゐるけれども、誰か、掲示板に大量の下劣なアスキーアートを書込むとか當てこすりや直截的な中傷・脅迫の記事を書込むとかの嫌がらせをしたり、人のメールアドレスをアダルトサイトのメールマガジンに登録し捲つたり、2ちゃんねるに荒し依頼スレッドを立てたり(以下略)したんですかね。
俺は、餘所のサイトの記事を批判するが、基本的に知識の誤、解釋の間違ひだけを指摘するやうにしてゐる。筆者の執筆態度が不眞面目である事は非難しても、筆者の意圖は非難しないやうにしてゐる。例へば、「ほーむぺーじ入門」の筆者が皆、善意に基づいて記事を書いてゐる事を、私は疑はない。
他人の意圖だの動機だのを勘繰るのは、下衆の根性だと思ふ。第一、人間の意圖だの動機だのは、本人であれ他人であれ、容易に判斷出來るものではない。あやふやな根據を元に、斷定的に他人の意圖や動機を極めつけるのは、單なる誹謗である。
本人の釋明だつて當てになるものではない。でなければ、今のやうな裁判所が出來る以前、下手人に自白を強要してゐた時代のやり方は正しかつた事になる。「お前、××と言つてるぢやないか」と言へば、常に相手を凹ませられる譯ではない。相手の文章、發言を綜合的に檢討して、それでやつと推測的に批評出來る程度である。
もちろん、論爭の際の文言を解釋する方法は別だ。言爭ひの場面で出て來る文句に、わざわざ發言者の善意を見出す事はしない。