闇黒日記



俺は馬鹿だから反省しない

平成14年6月4日

煙草が有害なのは證明するまでもなく當り前の話です。しかし、喫煙者は、煙草の害を理詰めで執拗に説明されたり、不快感を目の前で表明されたりすると、機嫌を惡くするものです。


理窟を超えた嗜好の問題を、理窟で裁定する事は出來ない。

平成14年6月4日

マーク附けにかかはらず一般的な文章に構造の存在する事は自明であり、最小限のマーク附けであつても適切なものならば、その文書の構造を讀取る事は可能である。

その最小の限度は守れ、と私は主張したに過ぎない。ウェブで公開するHTML文書の見出しを記述する際の基準として、「ISO-HTML」を持出したに過ぎない。


近藤氏は「文書構造の明示」を提唱するが、私も「制作者は文書構造を意識すべし」と述べたのであつて、ただデータの中ではつきり構造を明示するか、仕樣書にデータの解釋を記載するかで意見が岐れただけだ。

そして私は、「文書構造のデータ中での明示」の理念は脇に置いて、現實の記法に關して疑問點を並べ立てたのだが、近藤氏はそれを單なるいちやもんか揚げ足取りとしか看做さず、默殺するか嘲笑するかしかしなかつた。そして、執拗に私が「言ひがかり」を附けるので、近藤氏は腹を立てた譯だ。もちろん、私は疑問點を指摘しただけなのだが、近藤氏にしてみれば餘りにも「正しい」事が自明の自説に疑問を呈する私は、許せなかつたのだらう。

「プログラムに高い負荷を掛けるデータは惡いデータである」と云ふ近藤氏の主張は、正論である。しかし、「プログラムに處理をさせなければ、一番プログラムは樂である」と云ふ論理は誰も否定出來ないし、「データがなければプログラムは處理をしない」のだから、「データなんぞ作らない方が良い」と云ふ結論は、論理的には自明であらう。もちろん、この論理は「トンデモ」である。なぜなら、データを處理しないプログラムは、存在する意味がないからである。と言ふか、プログラムにはデータを處理して貰はなければ困る。

プログラムはデータを處理すべきものであり、データを處理すればプログラムに負荷はかかるし、にもかかはらずプログラムの負荷を減らさうと言ふのだから、問題はディレンマに陷る。そして、この手の二律背反を抱へた問題は、一つの論理によつて完全に裁斷出來ない相對的な問題である。それを恰も絶對的に善惡を決定出來る問題であるかのやうに看做したところに、近藤氏の誤はある。


同じ文章を、近藤氏の提唱する記法でマーク附けした場合と、私の考へる記法でマーク附けした場合、前者の記法によるデータと後者の記法によるデータとでは、前者の方が明かにサイズが大きくなる。

近藤氏の提唱する記法では、パーサにかかる負荷は小さいが、ネットワークにかかる負荷は大きいデータが生成される。省略しなければデータサイズが増えるのは當り前の話だ。もちろん、ブロードバンド時代にテキストファイルのデータサイズごときが大した問題とならう筈はないし、送信時にデータを壓縮すればネットワークへの負荷は小さくなる(その代り、データ壓縮・伸張の爲のプログラム的な負荷の問題が生ずる)。


それにしても「フラットな構造つて何」と言つてとぼける邊、「明示されてゐない事は理解しない主義」の人逹つて、本當に嫌らしいですね。文脈を讀め。

平成14年6月4日

既に「付き合いいいねぇ」と呆れられたりしてたり。私も時間の無駄でしかないので、もう終了。

近藤氏は眞面目に私と話をする氣がないのださうだ。時間の無駄も何も、近藤氏の文章自體が屑であり、リソースの無駄使ひだ。


近藤氏は、某アレクセイ氏論爭で「支援」をして呉れて、今囘裏切つて呉れたのだが、どうやらHTMLの事で或ところまでは話が合さうだからと云ふ理由で「仲間意識」でも覺えて、擁護をして呉れただけだつたやうだ。で、私がXHTMLではなくISO-HTMLを使つてゐる、その擁護をしてゐる、と云ふ事で、氏はあきれたらしい。

私の目から見れば、近藤氏の説明は穴だらけである。氏は、HTMLに關する知識はあれども理解は淺い。或は、氏の用語法は時々、明かにをかしい。わざと間違つた言ひ方をしてゐるのではないかとすら、感じられた。だつて、「要素」と云ふ言ひ方が、明かに「タグ」の單なる言換へである事があつたのだから。近藤氏の所説は、私にはとほほ氏レヴェルのものにしか見えなかつた。

ついでに申し上げておくと、XHTML 1.1準據の文書としては、近藤さんのHack Or Die 2002/ 6 - Ancient libraryが目の前にあるので、參照するのに便利なので參照しますが、divでpの群をグループ化してゐるこの文書ですら、headの中はmeta/link/titleの羅列であります――と云ふ指摘は餘り意味がないやうな氣もしますが、少くとも、まともな文書はフラットではありえない @ 闇黒日記 2002/ 6/ 3と云ふh3要素と、それに引續く本來の姿と言はれてもと云ふ引用から始まる一聯の段落群とは、單に並んでゐるに過ぎません。

head 要素の中には文書のメタ情報や連結情報などのプロパティが入っていますから、それが head 要素によってグループ化されているだけでしょう。

divのマーク附け原理とheadのマーク附け原理とを、近藤氏は混同してゐる。

まあ、適當にこちらの言つた事を混ぜつ返してゐるだけの、氣のない囘答だから、論理も糞も無いんでせうがね。


正字正かなの事等どうでも良いと思つてゐる、少くとも自分は正字正かなを使ふ氣がない近藤氏が、「正字正かな論爭」に首を突つ込んできた時點で、怪しいと見ておくべきだつた。

以下略。


平成14年6月4日

改訂新かなが新かなよりも旧かなよりもすぐれたものになる可能性があるのなら、そちらの道を探るべきなのではないか。

可能性と言つたら、何だつて可能性だけはあるでせうが。

原理が出たら目な「現代仮名遣い」に加へ得る改良等、ありはしません。「現代仮名遣い」の問題は、その根本原理にあります。「現代仮名遣い」擁護派は、歴史的假名遣の枝葉末節を問題視しますが、そんなものは問題ではありません。

大筋で正しいか、大筋で間違つてゐるか、が問題なのであります。「現代仮名遣い」は、大筋で間違つてゐるから、駄目なのであります。


「あれか、これか」の問題で、一方を否定すれば、必然的に他方が肯定される。國語の表記の問題は、あれか、これかの問題であり、中庸を取つたり、良い所取りをしたり、と云ふ事は出來ない。

平成14年6月4日

平成14年6月4日

「私は煙草が嫌ひだが、あなたが煙草を吸ふ權利は命をかけても守る」。

平成14年6月4日

正字正かなを読解できるという"特定の讀者をターゲットに、極めて限定された條件下での話をするのは"問題があるのでしょうか。

私は正字正かなで書いてゐますが、正字正かなを讀解出來るのは「特定の讀者」ではありません。

BSDを現に使つてゐるユーザは相對的に狹い範圍に限定されますが、正字正かなの文章を讀める人間を限定するとしたら、「それほど頭の惡くない普通の日本人」とか「現代の日本語を讀める人間」とか、それなりに範圍は廣くなるのではないですか。

平成14年6月4日

長い長いHTMLの話。


見出し順序が出てくる順序を強制するようにしようとしたけど要素名が W3C Spec. との互換性が崩れるので、しょうがないから Pre-HTML を作ったわけで、Pre-HTML to HTML の過程の中で落とされてしまう明示的な文書構造が暗黙的になる段階で負けてると思うのは気のせいかな。

W3CがISO/IECに負けてゐるのです。

順序に意味があるリスト (orderd list/ol 要素) と順序に関係が無いリスト (unordered list/ul 要素) が例外的に構造を明示しているわけではありません。そう解釈しているとしたら、解釈が誤っているでしょう。

近藤さんの考へる「正しい解釋」は、どのやうなものですか。或は、近藤さんの言ふ「誤つた解釋」は、近藤さんの考へる「正しい解釋」に對する「誤つた解釋」であり、一般に妥當と認められるべき正しい解釋に對する誤つた解釋とは全く別ものなのではないですか。近藤さんは先日、特殊な状況における話を、しれつと一般論みたいに言つてゐましたから、今囘も疑つてみたいと思ひます。

現行の定義リストのマークアップは、一組の dt/dd 要素を一つの dl 要素に含めたら何の問題もありません。

假定の話をされても仕方がありません。大體、W3Cの勸告によれば、dl要素の中には複數のdt/dd要素を記述する事が出來ますし、dtとddを組にしなければならないと云ふ制約も課されてはゐません。

繰り返しになりますが、マークアップという行為はソフトウェア的に構造を明示するためのものです。暗示している段階で駄目です。

この近藤さんの發言は、W3CのHTML 3.2及び4.01をも否定する意見です。「XHTMLを使へ」と云ふ事なのだから、實際に近藤さんは否定してゐるのでせうが。

しかしながら、その否定されるべきHTML 4.01をベースにXHTML 1.0/1.1と云ふ仕樣は策定されてゐるのではないですか、と私は申してゐるのであります。


私の事を「フラットでリニアな構造」原理主義者であるかのやうに看做してゐる人がゐるんですが、近藤さんが「XHTML原理主義者」であるのと違つて、私は「ISO/IEC 15445:2000原理主義者」ではありません。

ただ、現状のXHTML 1.0/1.1は從來のSGMLベースの或はそれ以前のHTMLの仕樣を引きずつてをり、そのせゐで一貫しない所がある、理想的なマーク附けに近附けようとすれば「運用の妙」に頼らざるを得ない所がある、だから私は手放しでXHTMLを稱揚出來ない――それだけの話です。

無意味なdivで構造に對應した形で文章を區切る記法は、擬似的な文書の構造化であり、「文書の構造を明示する爲の完全な仕樣」が出現するまでの代用品であります。そもそもXHTML 1.0/1.1の仕樣書に、そのやうな記法は明記されてをりませんし、飽くまでXHTMLを利用する人間の解釋によつて成立してゐる記法である事を肝に銘じておくべきであります。

逆に、マーク附けの觀點から見れば暗示的な方法に依つてゐるとは言へ、ISO/IEC 15445:2000は仕樣書の段階で文書の構造を示す記法を明記してゐる(と言ふよりも、ソフトウェア的に強制的に文書の構造を抉り出す)のであり、擬似的ではない「完全な文書の構造化」は現状、HTML的にはISO/IEC 15445:2000でしか實現出來ないと言つて良いでせう。


私は、「マーク附けされる以前に既に要素は暗示的に存在してゐる」と主張してをりますし、その暗示的に存在する要素を明示する行爲がマーク附けであると解説してをります。しかし、マーク附けされてゐないからと言つてそこに要素は存在してゐてはならない等と、私は言はないやうにしてゐます。

それを言つたのは、例へば鳩丸のばけらさんで、と言ふのは例の「スタイルシート論爭」關係の文章でばけらさんが「とほほさんの文章はblockquoteの中に入つてゐるから引用ですか」ととぼけた事を指すのですが、私はさう云ふとぼけ方をするばけらさんの方が間違つてゐる、と思つてゐます。「マーク附けがあつて要素が出來る」と云ふ發想がなければ、「blockquoteだからその文章は引用だ」と云ふ判斷は出來ません。

「マーク附けによつて要素の存在が決定される」とする、ばけらさんの論法――その論法と近藤さんの論法は全く同一の原理に基いてゐるのですが――は、「blockquoteに入つてゐる文章は引用と看做して良いのですか」等と云ふ疑問を生ぜしめる餘地がありません。

近藤さんは、ソフトウェア的に構造を明示する、と言つてゐます。もちろん、ソフトウェアには人間のやうな「曖昧」な判斷の能力がありませんから、blockquoteに入つてゐる文章は即引用と判斷されますし、blockquoteとqに入つてゐない文字列は引用ではないと判斷されます。

が、さう云ふソフトウェアの判斷と、人間の判斷とは違ひます。人間は、文章を讀んで、意味の上から適切なマーク附けを想像出來るのであり、それゆゑ、目で見て、不適切なマーク附けが不適切である事を理解出來るのであります。

近藤さんにレッテルを貼つて「XHTML原理主義」と申しましたが、實は近藤さんは「マーク附け原理主義」なのであつて、マーク附けが絶對だからXHTMLのマーク附けを近藤さんは指示支持するのであります。

当初各項目毎に見出しが無かったため、たまに付けたい時に title 属性で付けていましたが、各項目毎に見出しを付けるようにしよう、正しく見出しとしてマークアップしよう、と思ったためマークアップの仕方を変更しました。

屬性で「見出し」を示す記法の方が、見出しと項目をただ並べる記法よりも、「構造主義的」であるやうに思はれますが。

實際に見易いとか見難いとか言つた話とは別に、近藤さんが記法を變更したのは、思想的な後退であるやうに思はれました。

head 要素の中には文書のメタ情報や連結情報などのプロパティが入っていますから、それが head 要素によってグループ化されているだけでしょう。

それを言ふなら、h1からh2、p、その他の要素群は、body要素を明示する事でグループ化されますが。と言ふか、head 要素によってグループ化される、つて何ですか。「要素によつてグループ化される」と云ふ言ひ方には、違和感を覺えます。

まともな文書というのは、一部の文章を言っているわけではなく、一つのファイル、もしくは一連のファイルから成り立ちます。そのツリー構成の一部だけを取り上げてフラットでしょ、というのは、#PCDATA 部分の数文字を取り上げてツリー構造を構成していないじゃないか、と言っているのと一緒。

ならば、pやら見出しやらをdivで括つて「文書の構造を明示した」と威張つてみても意味はないんではないですか。

文書構造的に同グループに属する要素が同列に存在するのは当たり前の話です。

当たり前と思ふ方が間違つてゐます。

でも、訂正する必要は無いですね。2002 年 6 月 3 日 まともな文書はフラットではありえないで書いた通り、パーサの仕事は XML アプリケーションに比べ、SGML アプリケーションでは増大します。

明示する事がマークアップの本来の目的である以上、暗黙的なマークアップを許容する必要などは無いわけですから 6 月 3 日に書いた通りの文書に反応していただければ十分です。

マーク附けの目的は、明示する事ではなくて、相手(のプログラム)にわかるやうにする事ではないですか。近藤さんの話では、手段が目的にすりかはつてゐます。

わかりやすくする方が良いに決つてゐる――それあさうです。しかし、だからと言つて、少しでもわかりやすくない記法は絶對に許されない、とするのは、或意味「行き過ぎ」です。最低限、わかる記法ならば、非難される言はれはない、と私は思ひます。譯がわからない記法は、譯がわからないから非難されるべきです。わかるのに、わざと「わからない」と言ふのは、とぼけてゐるだけであり、それこそ嫌みです。

HTML 4.01で「省略可能」とされてゐる記述は、省略しても補完が可能だから省略可能なのであります。そして、HTML 4.01レヴェルのHTML文書は、XML文書ではありませんから、XMLの制約は全く適用されないし、XMLの觀點から非難されるのは不當です。


特定のデータ形式に沿っていれば良いデータという事はありません。

誕生日に、常に問い合わせをした日付が帰ってくるようなデータは良いデータとは言えるわけが無いですから。

良い文書というのは、その文書の内容自体で判断されるべきです。

データは日附を返しません。何らかの條件とデータとに從つて結果を出すとしたら、それはプログラムの仕事です。近藤さんの説明は、わざとわかつてとぼけてゐるのではないかとしか思へないのですが、間違つてゐます。

しかし、良いデータというのは、HTML に置いては、文書がもっている情報を適切に明示しているものを指します。 これは紛れも無い事実です。

その適切の判斷基準が、近藤さんの場合、はつきりしません。近藤さんの一聯の記述を讀むと、XMLか否か、が適切か否かの岐れ目になつてゐるやうにしか思はれません。

しかし、繰り返しになりますが、ISO-HTML の場合には見出し順序を強制するために暗黙的な論理構造が発生します。この点において、Pre-HTML でない ISO-HTML には致命的な欠点が存在する事となります。

Pre-HTML であれば、この問題点は解消しますから、何の問題もないかと思いますが。

というのが今までに言っている事。ISO-HTML は Pre-HTML で無くなった段階でマークアップ言語としては失敗していると思われます。なにせ、UA に特別な負担を強いなければならない構造になっているのですから。暗黙的な div[1-6] の検出をソフトウェア側で対処しなければならない時点で駄目。

「パーサに負擔を強ひる事は致命的な缺陷である」と近藤さんは述べてゐます(パーサに負擔を強ひる事が致命的な缺陷ではないとしたら、「ISO-HTMLがパーサに負擔を強ひる事は致命的な缺陷だ」と云ふ結論が出ない)。しかしながら、「プログラムに負擔を掛けないデータ構造を持つたデータ」は、この世に存在しないのであつて、精々「プログラムに掛ける負荷がより少いデータ構造を持つたデータ」が存在するだけであります。XMLパーサであつても、XML文書をパースする際に、CPU負荷がゼロになる譯ではありません。

「SGMLの文書の中でもSGMLの許容する範圍内で省略のある文書」に比べて「XML文書」は、パーサがより簡單に處理を進められるだけなのであつて、その差は相對的なものでしかありません。

急に現實の話に戻りますが、現状のInternet ExplorerやNavigator等が苦勞してゐるのは、エラーのあるHTML文書もそれなりに整形しなければならない(と、開發者が自己に制約を課してゐる)からであり、間違ひだらけのHTML文書を處理せずに放置するならばパーサとしてはそれなりに簡素なものとなるでせう。そして、現行のブラウザがエラー訂正をせずに間違ひだらけのHTML文書をそれなりに扱つてゐるのは、間違ひだらけのHTML文書が世間に大量に存在するからであります。

そして、その手の文書の間違ひを何とかする事と、SGML/HTML的に許される省略のされた記述を含む文書の省略を補完する事とは、嚴密に區別しなければなりません。近藤さんは最近の文書で、この區別をしてゐません。

近藤さんの考へは「プログラムに負擔を掛けるやうなデータを作るのは正しくない事である」と云ふ事です。しかしながら私は、データはプログラムの爲にある譯ではないと考へるのであり、プログラムにデータの構造を示す爲のマーク附けは必要だが、プログラムの爲にデータの構造を隅から隅まで明示してやらなければならない譯ではないと考へるのであり、それはデータベースや專用のツールを用ゐて生成しなければならないデータとは異るHTML文書では特に言へるのではないかと考へるのであります。

CDは最初からエラー訂正が考慮されてをります。近藤さんの考へ方を突詰めていけば、CDのエラー訂正機構と云ふ發想は忌むべきものとなるでせう。エラーよりは程度の良い「補完可能な省略」は、殊に曖昧な人間の手によつて生成されるHTML文書では、あつても良いものではないですか。


W3C HTML に加えて ISO/JIS HTML に別途対応する必要があるかと言うと、ISO-HTML の仕様に沿って、暗黙的な論理構造をわざわざ解釈する位なら、すっぱり切り捨てて XHTML 1.1/XHTML Basic に対応したほうが楽な事は確か。

別に現行の「ISO/IEC 15445:2000非對應」のブラウザでも、一應問題なく「ISO-HTML」準據の文書は閲覽可能ですし、讀む方もあんまり困りはしないんですが。それと同じ事は、特にXHTMLの爲に作られた譯でもないブラウザが、XHTML 1.0/1.1/Basic準據の文書を、まあ問題なく表示して呉れる事にも言へると思ひますが。

繰り返しになりますが、野嵜さんの言うフラットな構造ってなんですか。

階層的に文書構造を表すようには設計されていない(@ [The Web KANZAKI])邊を見ていただければ……。

平成14年6月4日

昨日、ジョージ・オーウェルの『氣の向くままに』をダブらせてしまつたので、引取つて呉れる親切な方を募集。但し、先着一名。

平成14年6月4日

俺はT.S.エリオットを讀んでゐないらしい。

平成14年6月3日

警察が嫌ひな人間は、秘密警察が好きであるらしい。

平成14年6月3日

倫理の觀念を持たない人間が「企業倫理」と言ひ、暴言の限りを盡す人間が他人の發言を誹謗中傷だと決め附ける。

まつたくもつて、世の中は面白い。

平成14年6月3日

パロディにすれば何でも相手をやり込められる譯ではない。

さう云ふ状況下で、取敢ず相手の文句をもじつても、揚げ足取り以外のなにものにもならない。


前後關係とオリジナルの文章の意圖とを的確に讀取らず、嫌みを文字通りに受取つて非難したり、發言をパロディ化したりしても、批判としては的外れな代物にしかならない。状況にマッチしてゐるからパロディは面白いのだし、文字通りの意味を微妙にずらしてゐるから嫌みは效くのである。

平成14年6月3日

だから、俺です。正かなで書いてゐるのを見れば……。

平成14年6月3日

HTML原理主義の立場から言ふと、imgはその存在自體が否定されるべきだ。imgある限り、私はXHTMLを認めない

平成14年6月3日

"XHTML ホスト文書型は text/xml や application/xml でサーブするより application/xhtml+xml でサーブする方が好ましい" とのことなので、その意味では XHTML モジュールを(ホストとして)利用している文書類も、XML と見なすよりは XHTML と見なす方が適切であると思われます。

mime typeがapplication/xhtml+xmlならば、XHTML文書と看做さにやならんのでせうが。


W3Cの文書で、「XHTMLとは何か」をずばり一言で説明してゐるものつて、あるんですか。

なんか、W3Cの仕樣書つて、解釋を幾らでも出來るやうな氣がして、非常に曖昧であるやうな氣がするんですが。

平成14年6月3日

子供が蟻の行列を踏んづけ捲つても、「虐殺」とは呼ばれませんし、子供は「虐殺者」と呼ばれません。子供はinnocentな存在ですし、蟻はpersonalityを持つてゐません。

「感情で動く動物」である日本人が、支那人を人だと思つてゐない状態で、その支那人を殺戮したとしても、單なる殺戮行爲であり、「虐殺」と呼ぶに値しません。

價値觀に基かない殺戮は、虐殺と呼んでも仕方がありません。非難しても仕方がありません。


大體、感情で動く日本人は、強い精神力を持ちませんから、澤山の人間を一時に殺戮するなどと云ふ眞似は出來やしません。一人や二人なら無理をして殺す事は出來るでせうけれども、何十人、何百人の人間を殺し捲らうとしても、氣持ちが惡くなつて出來ないでせう。

「そんな事はない、俺なら出來る」と斷言するあなたは、危險です。近寄らないで下さい。

平成14年6月3日

今の日本に一發核ミサイルが撃ちこまれれば、有事法制なんて即刻、國會を通ります。

議論は、するだけ無駄です。或は、殆どの日本人にとつて、議論とは、ごねてごねてごね捲つて自分の好きな事を押通す爲のデモンストレーションでしかありません。

理窟で日本人は動きません。日本人は、感情で動く動物です。


だから、自分の感情が受附けない相手に、日本人の多くは平氣で嫌がらせや裏工作、掲示板荒しをします。「どんな理由であれ自分の感情を害した相手に對しては、いかなる手段を取つてでも感情を害する爲の行動を起して良い」と日本人の多くが信じてゐます。

それは間違つてゐる、と言はれても、感情が受附けないから、日本人の殆どは、納得しません。

平成14年6月3日

目の前にある ISO HTML 適合文書ということでは、おそらく野嵜さんの HTML 文書を見るのが一番速いのでしょうけど、マークアップを見た限りでは全くフラットには見えません。

野嵜さんの言うフラットとは、文書ツリー的に同じレベルに要素が並んでいる == フラットである、という解釈なのでしょうか。それにしても、リスト項目と文書は同レベルに存在しない (リスト項目 li は ul/ol の下に入っている) 訳で、かつ先頭にいきなりメインコンテンツのリンクが div 要素として挿入されていて、やはりこれは文書ツリーのレベルとしてもフラットには見えません。

W3CのHTML 4.01に基いて話をしますと。

「舊世代」のHTMLは、基本的に要素を並べるやうな構造となつてをり、平行してリスト關係の要素等で階層構造を明示するやうな形になつてをります。問題は、この手の「相反する」二つのマーク附け原理が、從來のHTMLでは平行して存在してゐた事です。

この問題に關しては、XHTML 2以降で何らかの改良が行はれるものと思はれますが……現行のXHTML 1.0、1.1、Basicは、基本的にHTML 4.01をベースにしてゐる爲、この二つの原理に基くと云ふHTMLの論理的な「弱點」を引繼いでゐます。

形式的にXMLに準據してゐるのが現行のXHTMLなのであり、理念と云ふ觀點から見ればXHTML 1.1ですら完璧とは言ひ難いのが現状であります。

ついでに申し上げておくと、XHTML 1.1準據の文書としては、近藤さんのHack Or Die 2002/ 6 - Ancient libraryが目の前にあるので、參照するのに便利なので參照しますが、divでpの群をグループ化してゐるこの文書ですら、headの中はmeta/link/titleの羅列であります――と云ふ指摘は餘り意味がないやうな氣もしますが、少くとも、まともな文書はフラットではありえない @ 闇黒日記 2002/ 6/ 3と云ふh3要素と、それに引續く本來の姿と言はれてもと云ふ引用から始まる一聯の段落群とは、單に並んでゐるに過ぎません。

そして、以前近藤さんは、div id="diary_20010630a" class="leaf"のやうな形で「一つの記事」を記述してゐまして、それは「フラットでないHTML」と云ふ近藤さんの持説から考へれば筋が通つてゐたのですが(一方、h2とdivは平行して記述されてゐたので、不徹底の憾みはあつた)、2002年1月以降、divとh3とを平行に記述するやう、近藤さんは形式を變へてゐます。


必死に修復させて解釈すると云ふ言ひ方に、それこそ意圖的な惡意を覺えるそうです。

近藤さんは3月に、以下のやうに書いてをられます。

複雑な HTML をまともに解釈できない手抜きパーサや適切な HTML を出力できない手抜きオーサリングツールによって生成された腐った HTML を必死に修復させて解釈するよりも、XML ベースでソフトウェア的に完全に一定のルールで出力させることで、HTML を何らかの形で処理する場合に、あらゆるソフトで容易になるという大きな利点を考えないのはどうかと思われます。

この文章を見れば、「DTDから見て妥當でない贋のHTML文書」(所謂「謎文書」)について近藤さんが書いてゐる事は、自明であります。

私は、その手の「謎文書」と、例へばすみけんさんが「いまいま」で採用してゐるやうな「省略可能とDTDで定義されてゐる記述を省略してゐる妥當なHTML文書」、そして「省略ナシの妥當なHTML文書」とを近藤さんが一緒くたにしてゐる、と指摘してゐるのであります。

3月に書かれた近藤さんの文章を見れば、必死に修復させて解釈する對象は、「謎文書」である事が自明です。今、近藤さんは、かう書いてゐます。

当然、開始タグのみで終了タグが省略された場合にも適切に解釈する必要があります。これらを適切に修正する処理が必要となります。これが必死に修復して解釈する処理です。こうした文書は HTML Spec. を満たした適切な文書と呼ぶ事に問題はありません。野嵜さんはこの点を考慮されていますか。

同じ必死に修復させて解釈するの對象が、3月の文章におけるものと、今の文章におけるものとではすりかはつてゐます。

もちろん、近藤さんの觀點から見れば、問題は、省略があるか、ないかと云ふ「あれか、これか」の選擇なのであつて、「謎文書」も「妥當なHTML文書」も、XHTML文書ではない、と云ふ點で全く同レヴェルの存在だ、と云ふ事になるのでせう。

しかしながら、恣意的な記述のなされた文書と、SGML等による一定の制約に從つて記述されたHTML文書との間に、一線を劃する事の方が、非XMLとXMLとの間に線を引く事よりも、取敢ずは優先すべきだと、私は思ふのであります。

それから、しつこく申し上げますが、XHTML準據だからその文書は良いデータである、と決め附ける譯にはいきません。見出しであるべき文字列をtableで裝飾し、Navigator系のブラウザで適當なレンダリングのなされるやうに全體をやはりtableでレイアウトしてゐるやうな、CSS的に見ればレガシーな種類の文書でも、HTML 4.01 Transitionalとして正當とされる事はありますし、XHTML 1.0 Transitionalとしてもやはり正當とされる事はあり得ます。

HTMLの問題は、單にXMLか、さうでないか、で決定的に判斷されるべきではなく、マーク附けの原理の觀點からまづ、判斷されるべきであります。


視覺系のUser Agentは、XHTML文書にしろHTML文書にしろ、取敢ず文書を頭から讀込んで、最後まで全部讀み通します。HTML文書がリニアな構造である所以です。現行のNavigatorもInternet Explorerも、HTML文書を扱ふ場合、頭から順にタグの記述を見て單純にキャンバスに並べてゐるやうです。例外は、推測ですが、Operaで、こいつはXML文書を眞面目にパースしてゐるやうです。所謂「日本語」非對應の時代に「日本語」のXML文書を喰はせたら、解釋出來ないとエラーを出して呉れたんで、さう推測するんですが。


なお、XHTML 1.1 や XHTML Basic では、モジュールによる要素拡張は仕様の範囲内です。従って、モジュール導入により変更された場合でも、依然として XHTML 文書として成り立ちえます。それも XHTML の利点ですから。

XHTML 1.0とXHTML Basicとは、Modularization of XHTMLに基いてゐます。「XHTMLの擴張」の原則も、Modularization of XHTMLに基きます。「XHTMLの擴張」と「XHTML」とは異り、「XHTMLの擴張」は一般にXMLによる言語と稱すべきかと思ひます。


敢へて言ふなら、私は仕樣第一主義。但し、データの作成に都合が良ければ。パーサやら現實のユーザエージェントやらは知りません。仕樣があつて公開されてゐるんだから、パーサやらユーザエージェントやらはそれに從へば良い。

ISO-HTMLがいかに駄目な仕樣かを力説されても、仕樣としてあるものは仕方がない。XMLの觀點から見て、どれ程「面妖」な制約が附いてゐようとも、その制約下でデータを作成して何が惡いんですか。ISO/IEC 15445:2000の制約に挑戰する(と言ふよりは、その制約下で出來るオーサリングの限界に挑戰する)のは、パズルみたいで面白い。

それだけです。


Mozillaの件に關しては、何と言ふか、想定している読者層と言つてゐる時點で話にならねえなと思ひました。

對象を限定したければ勝手にすればよろしいのですが、全世界に公開したリソースで、あらゆる種類の讀者に語つてゐるかのやうな調子で、實は特定の讀者をターゲットに、極めて限定された條件下での話をするのは、よろしくないのではないですか。

と言ふか、今の近藤さんは、一般論と特殊の領域の話とを、自由自在に行つたり來たりしてゐるやうな氣がする。

平成14年6月3日

ところで、どんなに穴を塞いでもまだどこかに空いてそうな、中の挙動がどんなに安全と言われても信じる事が出来ないような、そんなソフトを薦めるって方が変だと思いますが。

奬めるモナにも奬めるも何も、世間一般のPCユーザはInternet Explorerを「御仕着せ」のものとして使つてゐるんではないですか。Internet Explorer なんて存在しない環境は、世間一般では普通ではありませんし、大概のユーザは何の不滿も自覺しないでゐるものです。


近藤さんは、事實と理念を餘り區別してゐない。

平成14年6月3日

近藤さんが久々に反應して呉れてゐるが。

例によつて、述べ済みですを繰返すだけだ。

近藤さんは「原理主義者」だか「信者」だかであるらしい。


Pre-HTML が本来の ISO-HTML の姿だから、そこから見たら ISO-HTML は完全に文書ツリーを構成する作りで、フラットにはなり得ないのですけど、その辺りについてはどう理解されているのかが興味深いところです。

本來の姿と言はれても、それは事實の話ではなく、イデアの話になるのではないかと。あなたの目の前に存在するISO-HTML準據の文章は、事實として「フラット」な構造になつてゐるのではないですか。


HTML の仕様では拡張性が無いが XHTML では拡張性があるため、要素に論理的な意味を割り付けて拡張する事が出来る優位点、開いたら閉じるというだけで、書いてある通りに理解するだけの XML ベースである XHTML と、暗黙的な文書構造を想定した上で記述する必要がある ISO-HTML ではより XHTML の方が、データを作成する上でも理解しやすい……

當方の「マーク附け説」とは全く異る「データ作成」の概念を、近藤さんは念頭に置いて説明をしようとしてゐるやうに思はれる。

さらに言ふならば、擴張性に對する價値判斷が、私と近藤氏では根本的に對立してゐる。

複雑な HTML をまともに解釈できない手抜きパーサや適切な HTML を出力できない手抜きオーサリングツールによって生成された腐った HTML を必死に修復させて解釈するよりも、XML ベースでソフトウェア的に完全に一定のルールで出力させることで、HTML を何らかの形で処理する場合に、あらゆるソフトで容易になるという大きな利点を考えないのはどうかと思われます。

近藤氏が述べ済みと言つてリンクを張つてゐるこの文章だが、必死に修復させて解釈すると云ふ言ひ方に、それこそ意圖的な惡意を覺える。確かにInternet ExplorerやNavigator、Mozillaは所謂「謎文書」を整形する際、さう云ふ解釋をしてゐるのだらうが、近藤氏はここで「謎文書」と「HTML文書」とを混同してゐる。

そして、近藤氏はこの「參照すべき」かつての發言の中で、XHTMLとXMLとを混同してゐる。モジュール化された最近のXHTMLだが、モジュールを適宜組合せたり、新しいモジュールを追加したりする事は、確かに出來る。しかし、それによつて生成される或種の文書仕樣は、決してXHTMLの仕樣ではない。それは飽くまでXMLの適用である。


今、ウェブのデータベースの世界では、XMLがとれんどだと云ふ話だが。

平成14年6月2日

平成14年6月2日

「禁煙法」が出來ても煙草はアングラに潛るだけだから意味はない――と言つてみるテスト。

平成14年6月2日

神樣におまえ覚えてろよ、ここのチャットごとおまえも殺してやる!!!!、2ちゃんねらーをなめんなよ!!と言はれた。

絶對この神樣、人格が宿つてる。

平成14年6月2日

平成14年6月2日

触らずしてアレが駄目、コレが駄目などと言える訳が無い。自分の手による十分な情報収集無く言っていても、それは単に偏見なだけだし。

私が Mozilla がダメと言っている理由は、こうした情報収集に基づくもの。もっとも、じゃあ代わりに何があるかといったら、機能的には最高だし、ユーザとして使うには Mozilla が一番いいというのも事実。

FreeBSD で使うには重過ぎるけど、Windows では十分すぎるほど軽快なので、速度的な不満は全くありません。

じゃあ、どの辺りが悪いのかと言うと、もうちょっと突っ込んだ設計思想を持って欲しかったとか、コーディング規約のきつさとか。

「プログラム的に駄目なら全部駄目」と斷言して欲しかつた。機能だのユーザの觀點だの――事実なる觀念だの――を持出して貰ひたくなかつた。事實と言つたら、殆どのユーザは御仕着せのInternet Explorerで十分の筈で、Mozillaを今更奬める理由は存在しなくなる。


「駄目なプログラムでも、ユーザの望む性能は持つてゐるから奬める」と云ふのは、世間的には常識的な行動なんでせうねえ。きつと。

平成14年6月2日

今度は「データベース屋」の發想としか思はれないそうで、随分と世間一般で言うデータベース屋という言葉の使い方と違うなぁ、と思ったり。

「データベース屋」の發想、と云ふ言葉にしか反應しない邊、館長も以下略。

平成14年6月2日

愛國心と言へば右翼の專賣特許みたいな事を言ふ人がゐる。清水幾太郎の『愛國心』でも讀むが良いと思ふ。

元々「愛國心」と云ふ概念はフランス革命出自で、左翼のイデオロギーだつた。王や貴族に忠誠を誓ふ王黨派に對抗して、「俺たちは國に忠誠を誓ふのだ」と革命派は主張したのである。

平成14年6月2日

私のことかな、いやーもう同情しているんですよ。なんかかわいそうで。
だって、これらのログ大事に保存して、なんかあったら、知らない人に
ばらまくもんね。もうお終いなんだよ。あのえらそうなホームページは
汚く、如何わしいレッテルが貼られ、20-30年も語り継がれるんだよ。
ちゃんと社会に出で働きなよ。
みんなも気をつけないと、こいつ第2のオウムになる可能性があるよ。
ひきこもらないでね。でもW杯があるから無理か。
 死して屍拾うものなし(隠密同心心得)ちょっと違うか。

こいつの言つてゐる事は嘘である。ウェブのサイトが20年も30年も語り繼がれる事はない。


ついでに言つておくと、今囘の騷動の中で、リソースをかき集めたり、總括をしたりした人はゐたが、「教祖」を守らうとした「信者」は一人もゐなかつた。


土臺、行動を起さうとする新興宗教の信者が、引きこもりと無氣力の違ひを語つたりはしない。


と言ふか、知らない人にばらまく、と言つてゐる時點で、自分が「知つてゐる人間」を説得出來ない事を、この馬鹿は認めてしまつてゐる。或は、この馬鹿は、「風説を流すぞ」と言つてゐるのである。

さう云ふ理不盡な誹謗に、こちらも理不盡な對抗手段を取つただけですがそれが何か。


「風説を流せば人はそれを眞に受ける」と信じてゐる時點で、この馬鹿が世間の人間を舐めてゐる事は自明。世間の人間は2ちゃんねらーほど馬鹿ではない。

平成14年6月2日

自分のことを「棚に上げて」人間の弱點を斬らねばならぬといふ確信に滿ちた覺悟の表明――それこそ當時の小林秀雄が文藝評論において志したことにほかならぬ。かれは他人の頭をはつてやにさがつてゐたのではない。他人の頭をはることによつて、それをなしうる自分のエネルギーに感動し信頼してゐたのである……。

平成14年6月2日

古い記事なので、「叩く」のもどうかと思はれるが。

Mozilla拡張のBLINK要素やIE拡張のMARQUEE要素なんかは、見栄えのための処理をHTML文書の中で行おうとした。すると、それに対応していないWWWブラウザは、HTML文書そのものを処理できなくなる。

ユーザエージェントは、未知の要素を無視するが、未知の要素がある爲にHTML文書そのものを扱へなくなる譯ではない。筈だ。

そもそも、HTMLは文書の見栄えを指定するためのものではない。では、なんのためのものなのか。

実は、文書の構成を明示するためのものなのだ。

近藤氏の説によれば、このすみ氏の主張も否定される事になる。なぜなら、すみ氏は「はじめに文書ありき」と考へてゐるが、近藤氏は「はじめに構成ありき」と考へてゐるからだ。


もつとも、すみ氏の場合、文書が最初にあると考へてゐるにもかかはらず、構成の概念をベースにHTMLの解説をしてゐるから、話がこんがらがつてしまつてゐるのだが。特に『スタイルシートWebデザイン』。


注。Netscape社の名誉のために一言追加。

彼らがHTMLを理解していないのは事実だが、実は最初のWWW(もともとはソフトの名前だったのだよ)を作ったTim Berners-Lee(現W3Cディレクター)だって似たようなものだった。いや、HTMLを発案したのは彼なのだが、彼が発案した最初のHTMLはSGMLアプリケーションではなく、もっとデタラメなものであったらしい。例の「お尻P」は彼の勘案だ。

HTMLがれっきとしたSGMLアプリケーションになったのは、HTML2.0制定時、1995年12月だ。おや、win95よりも若いんだね。もちろん、MOSAICよりもHTML2.0のほうが若いんだ。したがって、MOSAICがお尻Pなのは致し方ないことだ。

でもね、Netscape社は、HTML2.0がRFCになったあともその思想を取り入れなかった。これは罪だよ。

この文章には、幾つかの論理的な飛躍がある。

「歴史的經緯」だけを根據にするならば、HTMLがSGMLに準據しなければならない事、XMLに準據しなければならない事は、いづれも「不自然な進化」と言はれて非難されねばならないし、否定されねばならない。筈だ。

平成14年6月2日

「フラットでリニアな構造」は神崎氏の文章から取つたスローガンだが、スローガンをスローガンとして受取つて貰へなかつたのは説明不足が原因で、當方の手落ち。

HTMLが「リニアな構造」と云ふのは、ただ單に「if...else...のやうな分岐が存在しないと云ふ意味で線的な構造だ」と云ふ事に過ぎないが、それに俺が氣附いてゐない譯でもない。

ISO/IEC 15445:2000が成立した歴史的經緯も全部承知してゐる。「ISO-HTML」が本質的に構造化を志向し、「フラットな構造」とは無縁である、と云ふ事くらゐ、俺は知つてゐる。でなければ、俺はaddress要素の配置問題に理窟を附けようとしなかつた筈だ。

問題は、ISO/IEC 15445:2000の側にあるのではなく、構造化についてきちんとした考へを提示しなかつたHTML 4.0の側にある。ISO/IECが「W3CのHTML 4.0の考へ方は自分逹の目指す方向と似てゐる」と考へたとしたら、それこそ理解し難い事だ。いづれにしても、ISO/IEC 15445:2000の成立過程は面妖なものだと言へる。それは事實だ。

が、俺は單に「ISO/IEC 15445:2000準據で十分、立派なウェブサイトは構築出來る」と主張しただけだ。「結果としてISO/IEC 15445:2000準據になる」と言ひ、その證明をしただけだ。それに對し、「ISO/IEC 15445:2000を推奬してゐる」と非難されたのだが、「的外れな非難」と言つて良いと思ふ。


當方は、「HTML文書はテキストにマーク附けする事で成立する」と云ふ大前提を根據にしてゐるから、データの話をしてゐる。當方を非難する所謂「XHTML派」は、「XHTMLの方がパーサは簡單になる」と主張する。それはパーサとかユーザエージェントとかのプログラムの話であつて、データの話ではない。

所謂「XHTML v.s. ISO-HTML」の對立は、「プログラム主體の論理 v.s. データ主體の論理」の對立なのであつて、話が噛合ふ筈がない。


「HTML文書はテキストにマーク附けする事で成立する」と云ふ大前提は、當方の假説だが、その假説自體が不當であるとするならば、當方の全てのHTMLに關する解説は不當であると云ふ事になる。

もちろん、さうなると、内田氏のはじめてのWebドキュメントづくりも「不當な解説だ」と云ふ事になるし、そもそも「マーク附け」の概念自體が怪しいものになる。


Ancient libraryの近藤氏の一聯の主張は、私には「データベース屋」の發想としか思はれない。しかし、HTMLがデータベースのデータを保存する爲のファイルフォーマットでない事は、それこそHTML/WWWの歴史的經緯ないし成立過程を見れば、明かだ。

平成14年6月2日

「PC Tips」も「言葉 言葉 言葉」も、その他の野嵜の書いた文章も、全部著作權は野嵜にありますが、勝手に複製して勝手に公開して結構です。パクリも結構です。改竄も勝手にして下さい。

で、閲覽者はどれが本物の野嵜で、どれが嘘の野嵜か、自由に判斷して下さい。野嵜を偶像化して呉れて結構ですし、犯罪者と極め附けて罵つて呉れても結構です。

もつとも多分、どれも「眞の野嵜」とは無關係。「眞實」は人間の數だけあるらしいから。


ひろゆきによれば、「嘘を嘘と見拔ける人」しかネットワークの情報は利用出來ないさうです。野嵜に關する嘘の情報をばら撒いてもらつて大いに結構ですが、まともなネットワーカは嘘を嘘と見拔けるんでせう、きつと。

良く知らんですが。

平成14年6月2日

「南京大虐殺は無かつたと言つてゐるのは極右」「従軍慰安婦は存在しないと言つてゐるのは極右」と言ふのなら、「南京大虐殺はあつたと言つてゐるのは極左」「従軍慰安婦は存在すると言つてゐるのは極左」と言ふだけの事だ。

單に、日本が左の國だから、極左が極左に見えないだけだ。今後、日本は右傾化するから、さうなつたら、左翼は全員、右翼に鞍替へするだらう。そして、元からの右翼は死ぬだけだ。


慰安婦は存在したが、「従軍慰安婦」なるものは存在した事がない。

平成14年6月2日

禊は濟んだと思ふので再開。

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