頭の惡い事を自覺してゐない馬鹿も困り者だが、「頭の惡い事は良い事だ」と信じていかにも頭の惡さうな事を威張つてやらかす確信犯は始末におへない。
パクリサイトはパクリサイトであると見拔ける人でないと、難しいものがあるでせうね。
InfoWebのユーザが當方のメールアドレスを勝手にエロメールマガジンに登録してゐる事實が發覺。例の「信託協会」の「榎本昌一」氏である事は確定的。
『キホーテ神父』(グレアム・グリーン著)讀了。10年も「積讀」してゐた代物。
正義は相手に押附けるものですから、「お前の正義を押しつけるな」と言はれても怯む必要はありません。相手に押附けられない正義は、正義ではありません。
ウェブでの「段組」の御話。
floatで擬似段組を實現する方法が現状、「CSS原理主義的」にはベスト(?)と言はれてゐるのですが、「Navigator 4.xでどうするんだ?」と云ふ例の批判もいまだに根強く殘つてゐます。
もし、さう云ふ批判を浴びたら、かう答へませう。「Navigator 4.xユーザを本氣でターゲットにしたいならば、multicolタグを併記しなさい」
案外Navigator 4.xも、平氣で「floatによる擬似段組」をレンダリングして呉れたりするんですが。
例へば新潮社版『私の國語教室』183ページにある文章を引用する際に、「『私の國語教室』182ページから引用」と記載するのは、引用の仕方として良いのか、惡いのか。
「日記鯖」の「段落アンカー」は、引用の對象となる文字列の直前に、_、■、☆その他の記號を含むアンカーを設置する事で實現されてゐる。そして、一般に、引用された文字列の出典を示すのに、その記號を含むアンカーの名前が用ゐられてゐる。
しかし、その名前は、引用の對象となつてゐる文字列の名前ではなく、文字列の直前に置かれた「記號を含むアンカーの名前」でしかない。だから、「段落アンカー」の名前を「出典」として記載する事は、本で言へば「文章の出てくる直前のページ」を「出典」として記載するやうなものである。
ついでに言ふと、「ウェブ日記」で「段落アンカー」の名前を利用する場合、その目的は屡々「單なる參照の爲」である。制作者が、實際に段落の文章を引用してゐない場合、獨自の觀點で要約したり、曲解したりしてゐる場合も、結構ある。この場合、「まあ大體ここら邊の記述を見てくれ」と云ふ意圖でしか「段落アンカー」は使はれてゐない。
今囘の議論で私は「HTML原理主義的に」と言つて、この立場を殊更強調し、「正しいHTML」の見地から考へてみるとどのやうな問題が出てくるか、を、飽くまで議論の爲に議論した積りでゐた。
殘念ながら「正しいHTMLはすつこんでろ」と云ふ意見も出てきてゐるやうで、ウェブでは「思想の自由」もないのかと或意味落膽したが、取敢ず話題にして貰つただけでもありがたい事なのかも知れない。
なぜか、みんさん(でいいんですか?)が、引用とリンクを全然別もの扱ひしてゐて、仰天した。私は「自分のリソースに妥當な名前を附ける」「他人のリソースの妥當な名前を參照する」と云ふ事について、或はURIについて、議論をしてゐた積りなのだが。
「日記鯖」における「段落アンカー」のURIは、飽くまで「_」なり「■」なりの記號(を含むアンカー要素)のURIであり、それに引續いて出現する文字列のURIではない、と私は言つただけ。
現状ではテーブルレイアウトもある意味やむおえないところもある。
慎吾さんは、「やむ」+「おえない」で「やむおえない」だと思つていらつしやるのではないでせうか。
「已むを得ない」。
「段落アンカー」は、「段落」と稱しつつ、實は段落に含まれる無意味な記號をのみ指示してゐるものでしかない。
「段落アンカー」の名前を終着點としてリンクを張るのは、一見「その段落」へリンクを張つてゐる事であるやうでゐて、實は段落に含まれる無意味な記號へリンクを張つてゐる事でしかない。
某女史と喫茶店で、Webは商賣にならないねー、不況だねー、といつた話をした。
思想や信條で人を差別する「南京大虐殺あつた派」や、「自由を否定する言論」の自由を認めない「自由民主主義者」に遭遇した事がある。
左翼であるとか、自由を標榜してゐるとかいつた事は、その人が言論統制狂でない事、獨裁的でない事を意味しない。
看板は屡々、人を欺く爲のものである。
明日邊から本格的に戰爭状態に陷る豫定。
雷が鳴つて豪雨。一轉、晴れ上がつて素晴らしい虹が出たと思つたら、燕の雛が巣立つてすいすい飛交つてゐる。
田中宇氏つて、右なんですか???
タブブラウザで一気にバシバシ開いたあと読むのでアンテナにおいて新規ウィンドウはとても便利です(私見)。
私はOperaを使つてゐますが。
新たにウィンドウを開く時はコンテキストメニューでOpen in new windowを選びますが。
「開かせられる」と云ふ受動的な閲覽よりも、「開く」と云ふ能動的な閲覽の仕方をしたい(のは私だけでせうか)。
でもバックグラウンドで開けなかったり、タブブラウザを利用していない場合は新規ウィンドウは不便ですが。だから出先で自分のろーかるアンテナ。は不便極まりないので使わない(←……)。
……。
Googleの檢索結果を見る限り、「何か」はもう、一般名詞ではないらしい。
25日の買物より。
『私の國語教室』新潮社版單行本初版が帶附きで賣られてゐたので購入。歸宅して確認すると、「線引き・書込みあり」だつた。
ほかに、新潮社版福田恆存著作集(舊)第一卷も購入。
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で、新しいウィンドウを開くあんてなは不便です(私見)。本日の勉強會より。
本年5月15日附けの読売新聞「編集手帳」に、基地という"影"の部分をほぼ一手に引き受けたのが沖縄である。いま現在も在日米軍基地の75%はこの地にある。
と書かれてゐる。同日の同紙一面記事「沖縄きょう復帰30年」には、沖縄県内の米軍基地は復帰後も日米安保条約に基づいて引き続き維持され、現在も国内の米軍専用施設の75%が集中している。
とある。
ここで氣をつけて貰ひたいのだが、在日米軍基地
と国内の米軍専用施設
とは、全くの別物である。實は、沖繩に75%
あるのは、国内の米軍専用施設
であり、在日米軍基地
ではない。この国内の米軍専用施設の75%
と云ふ言ひ方が、大變に欺瞞的な言ひ方である事に注意されたい。
國内に、軍關係の飛行場は五箇所ある。
このうち、最初の4箇所は、自衞隊が使用し、一部、米軍が共用してゐる。が、いくら米軍が共用してゐようとも、共用である限り、その飛行場は国内の米軍専用施設
としてカウントされない。国内の米軍専用施設
である飛行場は嘉手納だけ――詰り、国内の米軍専用施設
である飛行場の100%は沖繩にある、と言へる。
国内の米軍専用施設の75%
の75%
と云ふ數字は、昨今獨り歩きして、在日米軍基地の75%
なる誤つた言ひ方を生んでゐる。
「沖縄にある在日米軍基地は、日本にある在日米軍基地の25%である」と云ふのが正解である。
沖繩は基地の縣である。それは、事實である。が、さう云ふ事實を強調する餘り、その事實を相對化するやうな事實を隱蔽しようとする政治勢力やマスメディアも存在する。注意が必要だ。
ちなみに、大田昌秀氏は、著書で兩者を嚴密に區別してゐる。苦笑。
沖繩では、一番良い就職先が縣廳、その次が在日米軍基地ださうである。そして、沖繩は、いまだに血縁關係が重視されるので、就職にもコネが絶大な力を發揮するのださうである。
また、在日米軍基地に就職したい人の爲の「豫備校」が沖繩には存在してゐるさうである。
讀谷補助飛行場は、既に使用されてゐない施設だが、いまも地主には土地の使用料が支拂はれてゐる。それ以外の土地――例へばレーダー施設などでも、地主が勝手に入り込み、レーダーの周邊を耕作してゐるさうである。施設が使へれば良い、と割切つて、米軍も文句を言はないさうである。
一方、地主逹は、貸した土地が使はれてゐないのを良い事に、基地の中を畑にして耕作してゐるさうである。が、後ろめたいのか、Aの貸した土地をBが耕作し、Bの貸した土地をAが耕作する……と云ふ風な形を取り、「他人に貸した土地を自分で耕してゐる」と云ふ批判をかはさうとしてゐるさうである。
2001年現在。
自衞隊の施設のわづか0.6%しか沖繩にはない。