リファレンス部分である3,4,5章について。「〜だろう」から「〜である」を導いている部分が目につく。もしかしたら事実なのかもしれないが、根拠が明確になっていない以上、懐疑的にならざるを得ない。特に5章はボロボロ。
「〜だろう」から「〜である」を導いている部分
、を誤讀してゐた。千熊屋氏は、「福田氏が推測を根據に斷定的な結論を下してゐる」と批判してゐるのだ。私は、福田氏がどうやつて「〜だろう」から「〜である」と云ふ語を導き出してゐるのかと不思議に思つたのだが、不思議に思つた時點で誤讀である事を考へてみるべきだ。
で、『私の國語教室』第5章に久々に當つて見たのだが、千熊屋氏の言ふほど、福田氏は根據ナシに推測を逞しくはしてゐない。ただ、根據を積重ねて、結果として斷定的に言へる筈の事を、「素人」を自覺してゐる福田氏は控へ目に推測として述べてゐるに過ぎなかつた。そこに附け込んで、「言語學の玄人」と云ふ意識を持つ人が居丈高に「素人」の控へ目な態度を非難するのは、如何なものか。
福田氏が『私の國語教室』で非難してゐるのは、言語學の專門家が音韻だの何だのと專門用語を振りかざしながら的外れな議論をしつつ、言語學とは全く無關係に國語の表記を決定した事である。
音韻だの音素だのといつた言語學の用語は、音聲言語の研究には役に立つだらう。しかし、音聲言語の研究に役に立つに過ぎない要素が、どうして表記の原則となり得るのだらうか。「文字言語は常に音聲言語に從屬する」と云ふ法則は存在しない。逆に、日本語では「文字言語が音聲言語を支配する」事例が多數見られる。もちろん、話し言葉の側から書き言葉にフィードバックもある。しかし、日本語に於ては、文字言語が主で、音聲言語は從の關係にある。だから、文字言語の規則は、必ずしも音聲言語の原理に基かなければならない譯ではない。表記は、文字言語の規則に基いて決定されるべきである。そして、例外的に、音に基いて決定される部分があつても良い。しかし、音を原則にして、例外的に文字言語の原則を援用する「假名遣」なんて代物を作つてはならない。
福田氏の著作には、音韻論やら何やらの裏附けがない、と批判する「言語學通」は、寧ろ自分の知つてゐる「言語學」が萬能ではない事を反省すべきである。
はつきり言つて、ソシュール言語學は、間違つてゐる。
テキストを使用する場合には、HTMLファイル内で下記記述を行ってください。
<a href="http://www.utu-net.com/home.html" alt="utu-net.com"> utu-net </a>
aにalt屬性?
画像を使用する場合には、HTMLファイル内で下記記述を行ってください。
……
<a href ="http://www.utu-net.com/home.html">
<img src="http://www.utu-net.com/img_com/utu_b1.gif" width="88" height="31" border="0"></a>
畫像にalt屬性が無い?
ひきこもりと無氣力とは全然違ふ。ひきこもりは積極的に引籠つてゐるのだが、無氣力な人間は引籠る積極性すら持たないから、なんとなく仕事をしてゐたり學校に行つてゐたりする。だから、意外な事に、ひきこもりの方が無氣力人間よりも仕事をきちんと出來たりする。無氣力人間は仕事をしても中途半端である。
バージョン6.02では修正済み,日本語版は5月中にリリース予定
、との事。もちろん、俺はヴァージョンアップ濟みだ。メニュー等が英語のままだが、6.02正式版は、(一應)日本語の假名と漢字を通す(WindowsXPで確認濟み)。
たく氏、Operaよ、お前もか...
、だつて。
セキュリティ問題や情報公開の問題も重大なのかも知らんが、とりあへずOSを卷込んで落ちるのだけは何とかして下さい>>Opera社。
もじら組のウェブサイト制作者が馬鹿なのは、tableで全部レイアウトするか、tableを一切使はずにレイアウトするか、どちらかにすれば良いのに、わざわざdivをfloatさせて實現する「擬似段組」とtableによる「擬似段組」とを混在させてゐるのを見れば自明。
ちなみに俺は、Opera原理主義者です。でも、金拂つてない。
音と云ふ觀點から見て不備が多いとする『私の國語教室』否定論は、根本的に間違つてゐる。音は言語を構成する一要素に過ぎない。だから、音のみに基いて言語を規定しようとするのは逆コースである。
意味論は心理學・論理學・言語學の各領域をも包含する。言語は最低でもこの意味論に基いて考察されねばなるまい。そして、『私の國語教室』にしろ、言語過程説にしろ、音聲言語或はラングに基く「一般言語學」の領域を遙かに越え、現代的な意味論の領域にも入り込んで言語を考察してゐると云ふ點で評價されねばなるまい。
語の意味には、基本的な意味と、文脈上の意味とがある。
ISO/IEC 15445:2000はあと10年は戰へる。かどうかは不明。
本書を読む際に最低限留意しておくべき事項。知らないとミスリーディングする。
- 昭和30年代前半に書かれた本である。奥付の「2002年3月10日第1刷」に騙されてはいけない。←そんな馬鹿いねーよ
- 当時の国語改革の路線の大勢は漢字全廃、表音文字化であり、当用漢字表は漢字を廃止するまでの経過措置だった。
- 漢字かな混じりに方針転換したのは昭和40年以降。経過措置の遺物は常用漢字表と名を変えて今も残る。
つまり、本書の批判対象となっている「現代かなづかい」は、暗黙のうちに漢字の混じらないものとして扱われていることがあり、漢字混じりが前提の現在とは事情が若干異なっている。この差は小さいようでいて、よく読むと至るところであらわれている。
「ミスリーディング」つて何ですか。
かう云ふ「時代が変ったから、『私の國語教室』は古い」式の否定論は、「冷戦構造が崩壊したから、戦争はもはや起きる筈がない」式の論法が無意味なのと一緒で、全く無意味だ。本書の批判対象となっている「現代かなづかい」は、暗黙のうちに漢字の混じらないものとして扱われている
、と云ふのは、大嘘である。「××と云ふ時代だつた」と云ふ言ひ方による説明は、イメージに基いた勝手な推論に過ぎない。具體的に、福田氏がさう云ふ前提に基いて議論を進めてゐる、と云ふ具體的な證據を、千熊屋氏は擧げる事が出來るだらうか。千熊屋氏に出來る事は、「そうでないという証拠を見せてみろ」と云ふ「反論」だけである。
實際のところ、國語改革を強行した當時の國語審議會は、將來、漢字を全廢する意圖を持つた連中が實權を握つてゐた。しかし、彼らはさう云ふ本音を一般から匿さうとしてゐたし、それを福田氏は『私の國語教室』でしつかり指摘してゐる。また、實施された「現代仮名遣い」「当用漢字」が、漢字全廢派と漢字擁護派の妥協の産物で、實施直後から『私の國語教室』が執筆された時點までに、宙ぶらりんな恰好で既に「定着」してゐた事も、福田氏は指摘してゐる。だから、福田氏は「漢字全廢」と云ふ前提に全面的に依據してかなづかひの議論をしてゐる譯ではない。中公文庫版の後書がその證據である。福田氏は、漢字全廢等あり得ない、と言つてゐる。福田氏は、千熊屋氏のやうに、一面的で皮相的なものの見方をしてゐない。多くの觀點から國語改革の實態を見ようとしてゐる。
千熊屋氏の文章こそ、意圖的にかうつかりしてかは知らないが、讀者の誤解を招くやうな代物である。批判は結構だが、原文から離れて、獨斷に基いて原文の意圖を勝手に決め附けるのは良くない。
不満点。新かなの不合理を論じるのではなく、旧かなの合理を読みたかった。この本を読んでも「新かなは無理があるよねー」とはなっても、「やっぱ旧かなだよねー」とはならんもの。本書の成立背景を考えればそんな論を展開するはずがないのは当然ではあるけど。
これも言ひがかり。
福田氏は、「旧かな」は絶對的に合理的であり、「新かな」は絶對的に不合理である、とは言つてゐない。比較して、「新かな」に比べれば「旧かな」の方がまだ合理的である、と言つてゐるに過ぎない。そして、より不合理な「新かな」ではなく、より合理的な「旧かな」を基に合理的な國語の表記を考へていくべきだ、と主張してゐるに過ぎない。
リファレンス部分である3,4,5章について。「〜だろう」から「〜である」を導いている部分が目につく。もしかしたら事実なのかもしれないが、根拠が明確になっていない以上、懐疑的にならざるを得ない。特に5章はボロボロ。
5章はボロボロ
、と云ふ千熊屋氏の決め附けは、根拠が明確になっていない以上、懐疑的にならざるを得ない
。
ところで、本書とまったく無関係なんだけど、1字1音とかいう言葉が頻繁に出てきたんで誰か教えてください。かなが今の字体に統一されたのは明治中期だったような記憶があるんだけど、統一前、異なる字体の同音のかなは使いわけがされてたんでしょーか。つまり、うなぎ屋の看板は「な」ではなく「な」と異なる字体のかなで書かれているけど、鰻の場合はかならず活字が存在しない方の「な」を使い、また別の語では現在使われている方の「な」をかならず使うといったルールがあったんでしょーか、それとも可換だったんでしょーか。カナでも「子」に似た字体の「ネ」があるよね。仮に非可換だったとするとき、正かな派の人はどう対処しているんでしょーか。
印刷所の都合で、明治中期以降の印刷物でも、變體假名が混用されてゐる場合がある。
上代假名遣を見ればわかる通り(と言ふのはかなり無茶な言ひ方だが)、同音のかなは互換。鰻の場合はかならず活字が存在しない方の「な」を使い、また別の語では現在使われている方の「な」をかならず使う
、と云ふ規則は存在せず、場合によつてはその逆もあり得たし、それ以外の變體假名を用ゐた事もあり得る。
しかし、そもそも明治以前の江戸時代には、かなづかひが相當に混亂してゐたので、規則も糞も無い。
うむ 。 漢字制限論は古くは福沢諭吉くらいにまでさかのぼるのだけど、 それがいきおいづいたのは終戦直後、馬鹿げたことに 「戦争に負けたのは字が複雑だったからだ」 という謎の理屈が後押ししたのよねぇ。 志賀直哉が「日本語はやめてフランス語を公用語にしよう」 などとのたまわったのは有名な話だし、 国審は漢字廃止を国策として進めようとしてたからのう。 しかも 1980 年代までは、そういう意見も根強く残ってた。 さすがに今では漢字廃止なんて極端な考え方はほとんどないけど、 漢字制限に関してはそれなりに実践されてると思う。 少なくとも(標準的国語力を持つ日本人を自認する)私は、 旧字体というものは全く読めないしな。
結局、実用上の観点からは、もはや元には戻らんと思うし、 正かなづかいといわれてるものが完全無欠に美しいわけでもないから、 戻したところでどうせ中途半端なのは変わらない。 言葉というものが人間の使うものである以上、 完全無欠なものなんて使いものにならんしな。 まあ、いま漢字廃止論を唱えてもジョークでしかないのと同様に、 いまさらアンチ漢字廃止論を持ち出してもジョークでしかないということやね。
これも實は大嘘。漢字制限論は明治の頃からある。
明治以來、多くの漢字制限論が出たものの、敗戰までは歴史的な連續を維持しようと云ふ勢力が力を持つてゐたから何とかなつてゐたが、敗戰で歴史を斷絶させようとする勢力に對する齒止めが效かなくなつた。
「当用漢字表」は大東亞戰爭中、軍が強行しようとした漢字表に由來する。この軍による漢字制限の意圖は「アジア諸民族に日本語を教へ込み、皇民化するのを容易にする爲」であつた。この軍の國語政策に荷擔したのが、後に「当用漢字」その他の戰後の國語改革を強行したカナモジ主義者のマツサカタダノリ氏である。(軍國主義も利用した表音主義者マツサカタダノリ)
それにしても解せないのは、結局、実用上の観点からは、もはや元には戻らんと思うし、 正かなづかいといわれてるものが完全無欠に美しいわけでもないから、 戻したところでどうせ中途半端なのは変わらない。
と云ふしお氏の意見である。実用上の観点
が途中で「論理の観点」にすりかはつてゐる。
漢字制限の意圖が、戰前は「皇民化」で、戰後は「民主化」であり、即ち時代によつて矛盾する原理に基いてゐるのを見れば、「漢字を廢止する」と云ふ目的が最初にアプリオリにあつて、意圖は後づけである事は明かである。同じやうに、実用上の観点
と「論理の観点」を混同してまで漢字制限を正當化しようとするのは、漢字制限を守ると云ふ目的が最初にあつて、漢字制限がドグマと化してゐる、と云ふ事を意味してゐる。
それから、しお氏の言葉で許せないのは、言葉というものが人間の使うものである以上、 完全無欠なものなんて使いものにならんしな
、と云ふ一文である。人間が言葉によつて生きてゐる以上、言葉がより完全に近づかない限り、人間も増しにはならないのであるが、しお氏は人間がより増しな存在になるのを――即ち、人間が向上する事を――否定してゐる。「人間の向上」等と言ふと新興宗教だの電波だのと言はれるかも知れないが、人間ならば誰だつて、子供から大人に成長するやうに、向上していくものであるから、私は常識を語つてゐるに過ぎない。寧ろ、しお氏が非常識に荷擔してゐるのである。
それに、まあ、いま漢字廃止論を唱えてもジョークでしかないのと同様に、 いまさらアンチ漢字廃止論を持ち出してもジョークでしかないということやね。
と、しお氏は、餘裕ぶつこいた高踏的な言ひ方をしてゐるが、例によつて「愚論をでつち上げてそれを論破し、優越感に浸る」式の議論をしてゐるのである。
しかし、しお氏、前半の文章のテーマが漢字制限であり、後半の文章のテーマが正かなづかひであるのだが、自分の連續した二つの文章でテーマが分裂してゐる事に、どうして氣附かないのだらうか。しお氏は文章に――言葉に――自覺的でないのである。だから、他人事のやうに國語問題を語れるのである。そして、それはしお氏に限らない。
日本人はもつと日本語を用ゐる事に自覺的になつて良いと思ふ。無自覺に使へるやうに、と云ふ愚民政策を、どうして今の日本人は平氣で受容れられるのだらうか。「盜聽法」だの「メディア三法」だのよりも、現代の國語政策の方が、よつぽど恐ろしいものなのだが。前者は目に見えるが、後者は目に見えない洗腦だからである。
「スポーツの祭典は國威発揚の手段である、今囘のワールドカップもまた國威発揚が目的である、國權強化と國威発揚を目的とするワールドカップ開催に反對する」とか言つて、どこかの左翼がデモをやらないですかね。
右翼の鐵扇會が2002サッカーW杯・「日韓」「韓日」呼称交換運動なる運動を行つてゐて、ワールドカップを應援してゐる邊、左翼が反對運動をするのも強ち的外れではないやうな氣がするのだが。
あと、
<p >
と、タグの中に謎の空白文字があるのも面白いです。それはTDSの仕様かと。
TDSつて駄目ですねー。
divの中にblockquoteがあつて、そのblockquoteの中身がpなのは良いのですが、blockquoteの直後に生の文字列が來て、divが終つてゐる、と云ふのは、HTML 4.0としてValidでも、何だか氣持ちが惡いのですがー。と言ふか、今更「HTML 4.0 Transitional」もないと思ひますがー。まあ、惡いのはFastwaveの方々なんでせうがー。
昔 困ります、ファインマンさん を読んで知ったこと。
我思う、ゆえに我ありの文の結論は、「したがって神は実在する」だ。恋人のアーリーンがファインマンに意味を相談し、ファインマンは「論理がなってない、でたらめだよ」と切り捨てた。
パスカルも、「デカルトは神を必要としてゐない」と怒つたさうです。
謝罪は、時として、相手を不快にする。「責任を囘避する爲」と云ふ目的が見え見えの謝罪は特に。
何でも謝罪して見せれば良いと云ふものではない。
わかり切つた事をことさらにわからない
と言張るのは以下略。
わからないものに対してわからないということは、わたしには自分自身以上に大切なことですから。
わからない事をわからないと言ふのは結構ですが、わかる努力くらゐはしても良いのではないかと。自分の氣に入らない事實を拒否する爲に言ふ「わからない」は、無知の知
でも何でもないのではないかと。
女が男に言ふ「あなたの事が理解出來ない」は、拒絶の文句である。
何をいまさら私は叩いてゐるんでせうか。
- 外務省の嘘つき
内部告発らしきものが出ましたね。 阿南大使が「亡命者は追い出せ」と言ったらしいです。 ……「面倒に巻き込まれるのはヤだから」っていう理由が情けないですが。 (アサヒコムの記事へリンク追加)
どうせいうなら、「我々は法にもとづいて行動している。違法行為である亡命は認められない」くらいのことを言えば、まだよかったんでしょうが。
亡命は違法行為
なんですか。さうなんですか。
我々は法にもとづいて行動している。違法行為である亡命は認められない
、と言ふのは、どうしてまだよかった
、と云ふ事になるのでせうか。そんな比較をして、何か意味があるんですか。
好い加減、「何か」もないのではないかと思つたり思はなかつたり。そもそも、「何かの日記」と言ふ必然性が全然ない譯ですしー。
それから、Valid Japanese!
なる「宣言」も、なんだかアレな感じ。
をかしくも何ともないものを殊更に「をかしい」「をかしい」と言張るのが、「言論の自由」と云ふ事なのだらうか。
をかしいと思ふのは勝手だが――と言ふか、何を思ふかは勝手だが――、その思つた事をただ垂れ流し、他人に無條件で受容れて貰はうとするのは、どうか(してゐる)と思ふ。
「言論の自由」は、無根據の主張を他人に押附ける事を個人に許すものではなからう。ただ、根據を擧げて、他人を説得する事だけが許されてゐるだけだらう。
「思想の自由」は、かの惡名高き特高でさへ否定出來なかつた。
何かを主張する動機は感情である。主張を受容れる理由も屡々感情である。しかし、私的な感情のみに基く主張は、批評とは看做されない。
一方、或個人の感情や名譽を傷つけるやうなものであつても、公益性が認められるならば、その文章は批評である。
ただ單に、冷靜な風を裝つたり、客觀的な事實を擧げてゐるからといつて、その主張に公益性がある、と判斷される譯ではない。
いや、仕事貰へたりするんで、必死で一太郎の使ひ方を勉強しても損は無いと言へば無いんですが。
「escでメニューが出る」「Wordとは全然違ふ」「よくもこんな古めかしいワープロソフトが現役でゐられるものだ」程度の知識と認識しか持たないのに、一太郎8によるデータ作成の仕事を請負つたりした俺も俺ですが。
例へば、「なぜ沖繩は日本と中国の間に存在しなければならないのか」などと、疑つてみても仕方がない。
世の中には、呈さざるを得ない疑問と、呈しても意味のない疑問とが存在する。無闇矢鱈と疑へば良いと云ふものではない。
先日、都營地下鐵で「週刊少年チャンピオン」を讀んでゐる人を見かけた。
主觀的とか客觀的とか云ふ事に神經質になる人がゐる。しかし、或意見が主觀的な意見であるか、客觀的な意見であるか、を決定するのに、意外な事にその人は、無頓着であつた。その人は、意見を表明する際のレトリックによつて、その意見が主觀的か、客觀的かを決定してゐたのである。
以下の二つの意見は、「現在の日本の社會では、略字略かなを用ゐるのが當り前である」と云ふ通念に依據してゐるので、全く同一の意見である。
しかし、レトリックを根據に意見の性質を決定しようとする「イメージ論者」は、1.は「主観的な意見」で、2.は「客観的な意見」である、としか判定出來ない。
Sue's Opera Indexは、おぺらー必見。
DOCTYPE宣言を普通のタグと同樣のものと看做して、全部小文字で書くと、W3C HTML Validation Serviceがinvalid formal public identifier
云々と文句を言ふので要注意。
人間は、内容に基いてマーク附けの正邪を判斷すれば良いのであつて、マーク附けのみに基いて内容の意味を決定すべきではない。
とある日記のとあるフレーズで、爆笑させられたのち、考えさせられた。
その内容は、わたしのような人からみると噴飯ものなのだけど、それを書いたヒトは非常に大まじめに信仰、あるいは信頼しているようなのだ。しかもその直後で、そのフレーズに含まれる単語を似てはいるが違う意味で使っていて、一貫性の無さを見せ付けてはいるので、別にそれ以上こだわる必要はない。そういうふうに考えると、単に笑い飛ばすだけで十分かと思った。
しかし考え方次第で、実に怖い話であることに、気が付いた。わたしはこの問題に関して専攻したのでちゃんと知っているけれども、一般の人はそんなもの専攻したりはしないので、ちゃんと知らないのかも知れない。しかも間違っているフレーズの方が人口に膾炙するという命題もあるし。 ……やば。
なんのことかはメールくれたら教えるかも知れませんが、該当フレーズを書いたヒトにはおそらくunacceptable--受け入れがたいと思われ。
ふーん。
同じ人が、こんな事を言つてゐるのである。
了解しました。これならえすさんの考えていることがよくわかる結論です。
質問の意図ですか? 単純なことです。旧かなの件、Sense Off に対する評価の件、語義の件もそうですが、えすさんとわたしとで、あまりにも結論が違いすぎるので、ふしぎでしょうがないんですよ。嗜好ではなく志向あるいは思考の違いがあるとしか思えないので。
ま、興味本位ととられてもしょうがないですね。いろいろと失礼申し上げた点に関してはお詫び申し上げたいと思います。しかしこの点に関しては訂正はしません。わからないものに対してわからないということは、わたしには自分自身以上に大切なことですから。
保身のレトリック。
違いがあると云ふだけではなく、正しい・正しくないの問題があり、自分が正しく、相手は間違つてゐると斷言出來る。
違いがあるだけであり、正しい・正しくないは問題ではない。自分が絶對に間違つてゐる譯ではない。
日本國内に、米軍基地があるからどうだと云ふのだらう。
高度な數學の問題や、物理學の議論、法學や神學の議論は、一般の讀者にとつて難解なものであるが、だからと言つてその手のテーマを扱つたウェブサイトを、さう云ふテーマを扱つてゐると云ふ理由だけで「ユーザビリティが低い」と批判するのは、間違つてゐる。
單に、事實として文章が難解である事は、それ自體、非難の理由とならない。その手のテーマを扱ふサイトが批判されて良いのは、故意に簡單な問題を複雜に見せかけ、適切な説明を出來る問題をわざとわかり難く説明してゐる場合のみである。そのやうなサイトの制作者は、難しい問題を扱つて、難しい文章を書かざるを得ない時がある。
ナヴィゲーションの問題と、内容の意味の問題とは、嚴密に區別して考へなければならない。
新字新かな派が「正字正かなは気持悪い」と言ふのは、正字正かな派に「「現代仮名遣い』こそ氣持ちの惡いものだ」と反論する契機を與へる。そして、この手の感情に基いた罵り合ひは、常に水掛け論に至る。水掛け論に至るやうに議論を誘導しようとするのは、惡い事である。
最近の人は、「宿命」の觀念を持たないやうだ。
質問に関してですが、そういう疑問はもっていますよ。 自分自身が「日本人」であるかどうかに対する疑問と同様に。 それに、事実として、沖縄は太平洋戦争末期に「本土」に対する盾にされたわけです。帝国政府によって。
えすさんの議論を借りるなら、帝国政府は沖縄にたいして差別意識なり偏見意識なりを持っていた、と考えられるわけですが、その点についてはどう思われますか?
物事にはなべて理由がある。たいてい因果は巡ってくる。喧嘩腰には喧嘩腰。右の頬を殴っておいて右の頬を殴られないと思うな。もちろん俺にも一理はあるが、所詮は一理でしかありえない。相手の一理に耳を向けよ。言葉を読み聞きしているのは、己の目や耳ではない。心は決して中立でない。最初から歪んだ言葉も存在するが、己の心も言葉を歪める。なによりまず、己の心が読み聞きしているのだということを、決して忘れるべきではなかろう。
まったく、見聞きとは実に難しい。
言つてる事はもつともらしいけれども、實際の言動が以下略。
中田氏の場合、「相手の一理に耳を向けよ
、ゆゑに俺の一理をおまへは受容れなければならない。一方、俺はおまへの一理に耳は傾けるが、絶對に受容れない」と云ふ一方通行の話になる。
「まほろまてぃっく」は敵ですし、望月久代さんも敵です。
DOS/V magazine 2002年6月1日號の連載「Powerd by Vector 満願dotネット」(松田安正)にて、CSSエディタの小特集が組まれてゐる。
俺は興味ないんですけど。
「返還」とかくとまるで沖縄が日本の所有物だったようで、「復帰」とかくとまるで沖縄が日本の一部だったようで (それは明治以降だけだもの)と。じゃあ何にしましょうか。
返事もらったので。
歴史的にはそのとおりで(薩摩進出か侵略かは判断保留――そのときに屋久島などの割譲を受け、それいらい同島は鹿児島県)、それ以降、米軍占領下以外の時期においては、日本領土であったことは間違いないないです。(米軍占領に関しては、議論がややこしくなるのでやめます)
琉球語が日本語の分枝であり、沖繩が昔から日本の強い影響下にあつた事も或程度、考慮に入れておいた方が良いのではないかと思ひますが。
……しかしえすさんにはぜひひとつお聞きしたい。 沖縄戦という仕打をうけておきながら、そこまで日本に対する帰属意識が強い (たとえば「本土」という言い回しを使うことひとつにしても) のはなぜなのか、「本土」に生まれ育ち沖縄のことを何一つ教わらずに来た人間(猫かも)には、よく理解できないのです。なぜでしょう。
私は沖繩の人間ではないので想像するしかありませんが、少くとも沖繩の人にとつての「本土」が「中国」ではないからではないでせうか。
大體、國境の地域は、隣接する二つの國のどちらかに意識的に歸屬しなければならないものです。沖繩は、國家として自立出來ないから、隣接する「中国」と日本のどちらかに歸屬しなければなりませんでした。
江戸時代には、近代的な國民國家の觀念が無かつたので、支那の王朝に隷屬しつつ、日本の薩摩藩にも歸屬する「二重國籍」が可能でしたが、明治以來、日本は近代國家になつたので、琉球も自然、日本か、支那か、の二者擇一を迫られたのであります。
で、アメリカに占領されても、遠い海の向かうのアメリカに歸屬する意識が沖繩の人に生れよう筈もなく、明治以來、明確に自分たちの歸屬すべき國となつてゐた日本を、沖繩の人は「本土」と意識したのでせう。
沖繩の人にも、中には自分が沖繩の人間である、と云ふ強い意識を持つてゐる人はゐるのでせうが、どのみち沖繩は國家として自立出來ませんから、多くの沖繩縣民が、自分逹は日本人である、と考へるのも自然な事でせう。
面白い事に。
すなはち、この時期以降の沖縄人は日本人でもあるわけで、昨日の記事は差別意識が見て取られたとしてもしかたありません。わたしの意識にそれがあったかどうかとは関係なく。
江洲さんとのやりとりの中で井川さん、すなはち
と、正かなで書いてゐます。
あと、<p >
と、タグの中に謎の空白文字があるのも面白いです。
福田恆存のD.H.ロレンス論とか、ロレンスの『性・文學・檢閲』とかを讀んで貰へれば幸ひです。
濟し崩し的に『チャタレイ夫人の戀人』が「猥褻文書」でなくなる我が日本國では、何を言つても無駄なのでせうがね。