FaTMaN樣。
なんか「荒し」で困つていらつしやるみたいですが、RemoteHostを見て投稿元を判斷する事は出來ないのでせうか。
それから、正字正かなを使ひ「言葉 言葉 言葉」にリンクを張る「荒し」に荒らされてゐる掲示板のURIを教へて下さいましたら、野嵜本人が「降臨」いたしますけれども、如何なものでせうか。
- このページはIE*で動作確認しています。
だから?
とツッコんでみたくなる理由の一つには、今時IEで表示が崩れるページを作ったとしたら、それはよっぽど挑発的なコンセプトがあると思ってしまうこと、二つにはほかのブラウザはどうしてくれるんだ?と吐き捨てたくなること。
Internet Explorerでは當方の意圖通りに整形されないKSmiracle Web Directoryには、よっぽど挑発的なコンセプトがある
らしい。
ISO-HTMLを中心としたバナーコレクションを當方の意圖通りに整形して呉れるウェブブラウザは現在、この世に存在しない。ざま見やがれ。
面白いアイデアだ。
リンクを張るのはとっても簡単だ。こっちで
<A href="
…と書き出して相手方に報告するだけで完了。
報告しなくても、リンクは成立します。また、a要素だけがリンクを示す要素であると云ふ譯でもありません。例へば、link要素と云ふものも、HTMLの規格にはしつかり存在してゐます。
リンクは繼續された状態です。「リンクを完了する」とは、リンクの状態が完了する事を言ふのであり、即ち「リンクが切れる」と云ふ事を意味する筈です。「リンクの完了」を報告するとは、「リンクを切りました」と報告する事になるのではないですか。何だか嫌みたらしい報告ですが、さう云ふ報告をするのがマナーだとしたら、ウェブとは何と嫌なメディアだらう。
- 仏教では、すべての人は仏の子であり、仏になるための教え。
- キリスト教では、キリストを受け入れた人だけ神の子であり、キリストにも神にもなるための教えではない。
訂正させて頂きます。
- 仏教では、すべての人は仏の子であり、人間釈迦のようになるための教え。
- キリスト教では、すべての人は神の子であり、人間キリストのようになるための教え。
同じや〜...。
キリスト教で、神の子はイエス・キリストただ一人です。いかなる人間も、キリストのやうにはなれません。
まずは自分の姓名判断をしてみよう。
入力は常用漢字で。当たってました?
入力の段階でいきなり挫折。當るも當らぬもない。
『東京セブンローズ』の文庫版が出てゐた(新潮文庫)。
「文春文庫」なのです。といふか、親本も
新潮社ではなく、文藝春秋なのではないですか > 野嵜様。
ウェブの記事を書く際には新潮社の本だと思ひ込んでゐた模樣。自宅の書庫を確認すると「文藝春秋刊單行本の棚」に竝んでゐました。オフラインの私は正常だつたらしい。指摘されなければ多分一生氣附かなかつたところです。どうもありがたうございます。
- 變換スクリプトの正體
御指摘通り僞丸谷ベースです。さういふ用途のプログラムとかあればよかつたのですが、見つからなかつたもので。まあ私には今週末までしか意味のないものなので、だうでも良いです。
「現代仮名遣い」の内閣告示がそつくりそのままさういふ用途のプログラム
の仕樣書だつたりするんですが、今更需要はないでせうねえ。
「どう」は飽くまで「どう」であり、「だう」なる假名遣ではありません。江洲さん、「あ〜る」に毒されてゐます。
「パソコン批評」2002年6月號の連載「千年期電脳コラム 『バグのたわごと』」で冨安大輔さんが「IBMホームページビルダー」を批判してゐる。「ホームページビルダー」が、讀込んだHTML文書の記述を訂正する際、headとbodyの中身を全部消して呉れる、と云ふので冨安氏は批判をしてゐるのだが……。
元のソースがどのやうなものだつたのかが記載されてゐないので、いつどのやうな條件で發生するバグなのかが全く不明。これでは何の役にも立たない。
IBMのソフトウェア製品は、昔から獨特の癖を持つてゐて、融通がきかない。それはさうなんだが。
肩凝りに良く效く安上がりな治療法はありませんかねえ。
青空文庫がXHTML 1.1に準據する方針を決めた、と云ふのでそらもよう 2002年5月7日、歡迎の聲が幾つか。
しかし、現實に作られた文書(例へば宮本百合子 一本の花)は、「形式的にXHTML 1.1準據」に過ぎないもので、甚だ好ましくないマーク附けがなされてゐる。理由は明白。
HTML 版の作り方に関しては、メーリングリストで検討が始まった。
この際、W3C の勧告にあわせることと、コンピューターによる自動生成が目標として設定された。
HTML 版のあり方に関する検討は、鈴木厚司さん、内田明さん、もりみつじゅんじさんをはじめとする、リストの仲間によって進められた。
この自動生成プログラム
、改行を取敢ず<br />に置換し、全體をdivで括る、と云ふ好い加減な代物なのである。當然見出しであるべき「一」「二」「三」……を見出しにせず、見出しにすべきものとも思はれない作者名をh2にする、と云ふどうしやうもない仕樣。
定義リストにすべき「書誌情報」も、brとdiv、そして全角の空白で整形されてゐる。
嗤ふべし、文末には以下のやうなソースの文言が書加へられてゐる。(「タブ文字」はコメントアウト)
●表記について<br /> <ul> <li>このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。</li> </ul>
もうね、馬鹿か、阿呆かと以下略。
これまで、もっぱら手作業でエキスパンドブックを作り、エディターで HTML ファイルを書いてきた私の目には、テキスト版を瞬時に仕立て直す大野さんと LUNA CAT さんのプログラムの手並みが、まるで魔法に見えた。
筆者はひよつとして、エディタで「改行」を「<br>改行」に置換する方法すら知らなかつたのだらうか。で、一々文末に<br>を書加へてゐたのではなからうか。でなければ、この程度の自動生成プログラム
を魔法
とまで言つて稱揚する事は出來ない筈である。
青空文庫がXHTML 1.1の規則に基いてマーク附けをするやうになつたと言つても、そのマーク附けは所詮、見た目に基いたマーク附けに過ぎず、制作者は相變らずHTMLに關してど素人のままなのだから、そんな青空文庫は賞讃するに値しない。
野嵜は青空文庫を應援してゐません。
いちごは正字正かなをまったりと応援しましゅ。
いちごタンハアハア。
C&R研究所編『HTML + CSS Handbook』を立讀み。豫想通り、駄目なガイド本だつた。買つてはいけない。
CSS命令
つて何ですか?
音楽研究所の制作者が、執筆者の一人らしい。2002-04-02 @ [音楽研究所 日記]
ホームページにBGMをつける方法やMIDIサイトの運営について、紹介します。
だつて。「BGM」と稱した「音樂の押附け」は、やめて呉れ。
『東京セブンローズ』の文庫版が出てゐた(新潮文庫)。
中公文庫から、大野晋氏の本が出てゐる。
最近WindowsXPが、OS/2ちっくな落ち方をする。
『えんいー3』に行つて正體をばらしたら俺、暗殺されただらうな。きつと。
といふ次第で、即日廢棄しようかと思つたのですが、既に新かな版にリンクしてゐるアンテナが多いので一週間ほど期間をおく豫定です。それでも「新かなでないと嫌」といふ方は、現在變換に使用してゐるsedスクリプトmaruya2k.sed.gzを置いておきますので自前で變換して讀んでください。よろしくお願いします。
それはひよつとして「僞丸谷」ベースですか?
新字新かな→正字正かな變換には(そこそこ)使へるけれども、逆にはさつぱり使へない僞丸谷。窃に「問題」は認識濟みだつたんですが、正字正かな→新字新かな變換が使はれるとは豫想外だつたもので。
高島俊男さんの本を立續けに買つてをります。高島さんが書かれた物にはひらがなが多いなとは思つてゐたのですが、そのことについて、『漢字と日本人』第四章の中で明確に述べられてゐました。
「あて字はなるべくさける」といふのは、和語にはなるべく漢字をもちゐぬやうにする、といふことである。漢字はなるべく使はぬやうにすべきであるが、それは、漢字を制限したり、字音語をかながきしたりすることであつてはならぬのである。
自分で書いた文章を讀みかへしてみると、なんでもかんでも漢字で書いてゐる。でも、正かなに「轉向」する前は、もつとひらがなを多くもちゐて書いてゐた。まあ、「轉向」前は言葉といふものをあまり意識して書いてゐなかつたせゐもあるのですが。特に正字を使ふやうになつてから漢字を多くもちゐる傾向が強くなつてゐます。私も「漢字崇拜」をしてゐるのではないかと考へさせられました。
といふことで、ひらがなを多くもちゐて書くことにいたします。と、いつても、高島さんの書きかたをそのままなぞらうといふのではありませんが。
和語を漢字で書くのを、高島氏が「あて字」と決め附けるのは異常。
『漢字と日本人』は、日本に國語問題と云ふ問題がある事を知らしめた點では功績大だが、「ひらがな教」の信者を増やしてゐる點では惡書だ。特に後者の害惡は、目に餘る。「漢字崇拜」は良くないと高島氏は言ふが、漢語と漢字とを高島氏は混同してゐるのではないか。
昔々、津田左右吉と云ふ人がゐました。歴史學の大家です。津田先生は戰前、軍部に睨まれて散々迫害されました。その爲左翼は戰後、津田先生が皇國史觀を憎んでゐるのではないか、と推測しました。
「世界」の編集長・吉野源三郎は、天皇制批判を書いて貰はうと思ひ、津田先生に原稿を依頼しました。すると、津田先生は皇室支持の文章を書いてしまひました。歴史學の大家である津田先生の原稿を沒にする譯にはいきません。吉野編集長は仕方なく津田先生の文章を掲載しましたが、「世界」の卷末で苦しい言ひ譯をしなければなりませんでした。
この津田先生、今の高島先生と同樣に、和語や固有名詞では漢字を使ふべきでない、と考へました。だから署名も一時期、「つださうきち」でした。同じ發想で、小説家・政治家の中野重治も、「なかのしげはる」と名乘りました。ただし中野は戰後、「現代かなづかい」で書いてゐます。
一方、津田先生は、「現代かなづかい」に批判的で、歴史的假名遣を支持してゐました。今の高島先生も、實は正かな派です。中公文庫版『国語改革を批判する』の解説を、高島先生は正かなで書いてゐます。「正かな派だが、漢字は嫌ひ」と云ふ人は、昔も今も少くありません。困つたものです。
漢字で表記する方が意味は明確になるから、和語だからと言つて無闇に平假名で書くのはよろしくありません。私は寧ろ、觀念を客觀的に表現する詞においては積極的に漢字表記を用ゐるべきだ、と思ひます。逆に、觀念に對する判斷を示す辭は、まあ大體の場合、假名で表記される事になります。
膠着語である日本語では、詞と辭が交互に出現します。詞に漢字が出現し、辭に假名が出現することで、所謂漢字假名交じりの文章が成立します。無闇に平假名を使ふ書き方は、この漢字假名交じりと云ふ日本語の表記の特色を殺すものです。
高島先生は、文書の構造を考慮せず、もつぱら語の出自のみによつて、用ゐる文字を決定してゐます。表音主義者のものの見方が偏つてゐるやうに、高島先生のものの見方も極めて偏つてゐると言へます。
野嵜は高島先生を應援してゐません。
引用されて知る己の文章の誤字脱字。
そりゃベースボール(「ベエスボオル」か)と呼んでいたんだろう、と考える人がいるかもしれないが、これは思慮が浅い。
なぜベエスボオル
なのだらう。不思議だ。明治や大正の人間が無闇に長音をアイウエオと表記した譯ではない。
それが證據に、手許にある『政体原論』を見ると、君主政体
にモナーキー
と云ふルビが振られてゐたり、アリストクラシー
とかデモクラシー
とか書かれてゐる――と書きたいのだが、『政体原論』がいつ頃の代物なのかさつぱりわからない。和紙に筆で書かれた「ノート」で、和綴ぢになつてゐるのだが、どこにも日附らしきものが記されてゐない。執筆者も不明。なぜか最初のページに冨樫
と云ふ判が押されてゐる。全文漢字に片假名で書かれてゐたり、アリシトートル
とかグリーキ
とかロヤリテー
とか言つた獨特の表記だつたりするので、結構古い時代のものなのではないかと思ふのだが、何なのだらう。
以前、日本書房の店頭で投賣りされてゐたので、取敢ず買つて來たものなのだが、かう云ふものは一體どうすれば良いのでせうか(どうにも)。
outsider reflexのPiroさんには、「繪日記」を書(描?)いて貰ひたいものだ。
最近は、Computer PlanetのPIROさんがゐるから、油斷出來ない。