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先日、ピアソン・エデュケーションから出た『XHTML技術大全』を買つたのだが、3800圓損した。
「歴史諸君!」と「わしズム」を見た。もちろん買はなかつた。
保守系の雜誌は要らない。革新系の雜誌も要らない。
「月刊User Agent」なんて雜誌、どこか出さないかね。ブラウザやサーチエンジンの情報と、HTML+CSSの記事しか載つてゐない、やたらと濃い雜誌。
うちではHP DeskJet 505Jが現役です。購入した當時はYHPでした。
本日の買物。
他に電撃文庫1册。
「時枝誠記はソシュールを誤讀した」と云ふ服部四郎の指摘で時枝の『國語學原論』は古書店で値がつかなくなつた
、と谷沢永一が嬉しさうに書いてゐるので、服部の本を買つて來た。
ちなみに、今になつて俺は『日本語はどういう言語か』(三浦つとむ著・講談社學術文庫)を讀んでゐるのだが、言語過程説そのものは「誤讀だ」の一言で抹殺されて良いものではないと思ふ。
少くとも、「言語過程説」の創始者である時枝博士には、限界があつて當然だと思ふ。創始者の限界を、學説全體の限界と決め附けて葬り去らうとする根性の方がよろしくない。
そもそも、「langueとlangageの取違へ」は、「ソシュール學派」の言語學者が現在でも平然とやらかしてゐる「誤」である事を、我々は忘れてはならない。寧ろ、「ソシュール學派」の側こそ、その手の誤を我々が冒し易い事を「惡用」してゐる。彼らは確信犯的に、言語學が一般的な意味での言語の學問であるかのやうに言ひなしてゐる。ソシュール言語學は飽くまでlangueと云ふ「記號の學問」でしかないのであつて、その記號と一般的な意味の言語とは全く異る。この「誤解」を生ぜしめたのは、小林英夫である。
もし時枝博士の「誤解」を非難したければ、その「誤解」を生ぜしめるやう仕組んだ小林の飜譯を非難すべきであるし、そもそも「言語學」と云ふ看板そのものを非難しなければならない。
所謂言語學における音や文字は、飽くまで研究對象としての記號としての音であり文字である譯で、常識的な意味で言ふ音や文字とは異る。暴論を吐けば、所謂言語學に基く音や文字の定義は、常識的な意味での言語に於る音や文字とは別物であり、所謂言語學の理論に基いて現實の音や文字を制限したり修正したりしようとするのは異常である。記號學の爲の存在であるlangueに基いて現實の言語をいぢらうとするのは、教條的マルクス主義に基いて歴史を記述するやうなもので、誤である。
蚊が飛んでる。
闇黒日記を真似つこしたりして、正かなづかひで書くのは、現代かなづかひに慣れた者にとつては、難しいのです。時々悩むのです。「願う」なのか「願ふ」なのか、「書いて」なのか「書ひて」なのか。私、悩んだ時の簡単な解決法は、Googleで、「願う 野嵜」とか「願ふ 野嵜」を検索してゐるのです。で、野嵜氏本人が書いてゐる方を選ぶと。時々出てこない単語がありますが(生ひ茂るとか)、概ね何とかなつてゐます。かなり適当な気もします。によ。
なるほどとは思ひますがー。
某ラウンジより。
とほほさんの亂暴な意見を讀める。
今日が昭和の大帝の御誕生日だつたのだと云ふ事。
- 笹本祐一「ARIEL」(18)
「繼續は力なり」と言ふけれども、良く續くよな。初期の讀者でいまだに追つかけてゐる人はどの位ゐるのだらうか。
日附の書き間違ひを修正。既に「28日附」として引用されてゐるにもかかはらず。
餘談だが,漱石と言へば『吾輩は猫である』、鴎外と言へば「舞姫」、と教へる國語教育は異常。殊に鴎外の場合、美文調の習作を子供に讀ませるのは、「鴎外アレルギー」を齎す結果にしかならないので、やめるべきだ。
そういう話はいろんなところであるわけで,たとえばSFといえば『夏への扉』,と教えるSF入門は焼却処分にせよ,などとわたしは常日頃から思っているわけです。『夏への扉』が面白い話であることは確かだけど,「SFは過去の遺物」という先入観を与えかねない。まあそれはそれで一つの見識として受け入れるとしても,もっと困るのは,あのセンチメンタリズムです。ああいうものが好きだという気持はよくわかるが,それは心の中にそっとしまっておくべきもの。あんまりおおっぴらにするもんじゃありません。すこし恥じらうくらいがちょうどいい。節度ってもんです。ましてそんなものがSFの代表だなどと……。おっと例えの話が長くなってしまった。
かと言つて、「SFを讀まうと思ふんだが、何がいいかね」ときいてきたミステリヲタにうつかり『ザップ・ガン』なんぞを奬めると、一生恨まれたりするから、世の中と云ふものは難しい。どうしたもんでせうね。
やつぱり、「本は讀むな」と言ふのが一番無難のやうな氣が。
「推奬ブラウザ」を指定したくても、HTML文書とCSSによるスタイルを現行の全てのブラウザが制作者の意圖通りに整形して呉れない場合、どうしたら良いのだらうか。
「見るな」と言つてゐる譯ではないんです。
近著『文章読本さん江』で戦後の国語改良論争を読み解いた文芸評論家の斎藤美奈子さん(45)も「戦前の皇国民化教育の二大柱は国史と国語。文語ブームは、昨夏の歴史教科書論争が国語に及びつつあることを示している」と指摘する。
戰後の民主化教育の二大柱が歴史と日本語であつた事を、いみじくもこの發言が證明してゐる。
戰前の右傾が、戰後は左傾に代つただけ。日本人は何も變つてゐない。日本人は近いうちに、過ちを必ず繰返す。
それでは困るから、政治主義的な判斷はもうやめろと私は言つてゐる。
こんな感じ?
Microsoftのおまけシリーズ。
本日の買物。
@ブックセンターいとう東中野本店。
なつかしいプレハブの舊店舖の取り壞し作業が行はれてゐた。
@BOOK OFF堀之内店。
Wind Report - 2002年4月下旬より、イデオロギーと判断の話。人間の脳というハードウェアの枷なども思い出したり。かくも我らの思考とは不自由なのか。
思考も何も、この世に自由なんて存在しません。この宇宙における全ての事象は、物理法則と偶然に支配されてゐます。
同居人と会話。1+1=2を(公理でなく)定理にしちまうあたり、数学ってのは実に徹底してイカれた学問だなあ、とか。まったくすばらしい偏執ぶり。体系そのものを否定しかねないような証明までしてやがるしな。
イカれた学問だなあ
と云ふのは同意するが、そのイカれた学問
が現實に役に立つてゐるのだから、個人の感想なんてものは實に無意味なものだ。
それから、体系そのものを否定しかねないような証明
とは、具體的にどのやうな證明なのでせうか。興味があるのですが、中田さんは教へて下さらないでせうかねえ。中田氏は、かう書く事で數學が内部に矛盾を孕んでゐるかのやうに見せかけてゐて、間違ひなくその證明は數學の體系を否定してゐない筈ですが、中田氏の指摘は具體的な指摘でないので私には反論が出來ません。中田氏の嫌らしいイメージ戰術には困つたものです。
「真偽」と「正邪」は別の言葉で、私はこれらを区別して使っている。推論Aが偽であることと推論Aが邪であることは独立した事柄で、相関の有無はまた別の話。
別の觀點から見れば、同じ事も違ふ言葉で表現される。私は、論理學で「眞僞」と言ふ事を、「一般常識レヴェル」で「正邪」と言つてゐるだけだ。
そもそも真偽を求めるなどというのは日本語という言語の背景思想に反しているようにも思うのだけれど、真偽を求める文化に触れた以上、きっと必要な変化なのだろう。
日本語と云ふ言語が本質的に非論理的なものだと私は思はないが、眞なるものと僞なるものとを嚴密に分かつ傳統が日本に存在しないのは事實だ。そして、さう云ふ日本の傳統は良くない傳統だと私は思ふ。
それでも言葉を使おうとするものは、それを記述せずにはおれないのだ。無謀であろうとなんであろうと、彼らはただよりよく記述することに喜びを憶えるものなのだ。
それを記述せずにはおれない
のそれ
が何を指して言つてゐるのか全然わかりません。中田氏は、よりよく記述することに喜びを
覺えないタイプの人であるやうです。
私信。もうやらなくていいかと思ってます。ただ、関連がないと指摘したつもりはなかったです。起こったのは認識のずれから来る読みのずれ、かな? どっちが正しいかは、自分の不勉強を認識した上で、判断しません(できません)。
私信
なので、特にこの文章の前半は、意味が判然としません。しかし、實によろしくない言ひ方を、中田氏はしてゐます。
認識のずれ
、と云ふ言ひ方は、相手に非のある事を指摘した言ひ方で、自分のみならず、相手を咎める言ひ方です。相手の非を咎めるのは、相手の非が確實である時に限るべきで、自分が惡いのか、相手が惡いのかを決定出來ない時には、してはなりません。
「正かなづかひ初心者」は、「い」を片端から「ひ」と書いてしまふ誤を冒しがちです。
また「じ」「ぢ」、「ず」「づ」の遣ひ分けは、連語等で「し」「ち」「す」「つ」が濁る場合はわかりやすいのですが、さうでない場合(詰り、語の決りとして「じ」「ぢ」、「ず」「づ」と書かなければならない場合)には覺えておかなければなりません。
結城さん、正かなづかひに挑戰。
CSS1はbrのスタイルを再定義出來なかつたが、hrのスタイルも何だか怪しい方法でしか再定義出來ない。
ウルトラマン等は所詮子供騙しの娯樂作品ですから、設定が變なのを指摘しても仕方がないと思ひます。ヤマトだつて出たら目だし。
5月からカートゥーンネットワークで「宇宙戰艦ヤマト3」放映開始。
ちなみに、どんなに駄目でも、私はガンダムよりヤマトの方が好きだ。
「漱石・鴎外」に象徴されるようないかにも高級な文学でございますという風情の権威ある作品群は学校で無理槍にでも読まされないことには一生読まないかも知れないって人がほとんどだろうから,やっぱり載ってた方がいいといえばいいんだろうが,それはようするにそれだけの話なんであって,教科書に何が載ろうと載るまいと,実際そんなことはどうだっていいことなんじゃなかろーか。
教科書に駄文が載せられてゐたとしても、教師がまともなら良い授業が行はれる筈。反面教師として教科書を用ゐれば良い。「「トンデモ」な「ホームページ入門」を斬るコーナ」みたいに。
だから、「新しい歴史教科書」は無意味。
餘談だが、漱石と言へば『吾輩は猫である』、鴎外と言へば「舞姫」、と教へる國語教育は異常。殊に鴎外の場合、美文調の習作を子供に讀ませるのは、「鴎外アレルギー」を齎す結果にしかならないので、やめるべきだ。『青年』も、失敗作で面白くない。鴎外には、中期の短篇に、讀み易くて面白いものが幾つもある。後期の時代小説にも、幾つも良いものがある。とにかく、「舞姫」は駄目。漱石の『猫』は、面白い事は面白いのだが、小説としては完全に破綻してゐるので、教材には向かない。
HTMLリファレンス(@ とほほのWWW入門)が更新されてる。
私の解釈
がどんなものになるかは豫想出來たものではないので制限のしやうはないが、だからと言つて全ての私の解釈
を認めなければならないとしたら、誹謗も中傷もなくなる。だから、私の解釈
であつたとしても、その正當性、妥當性は檢證されなければならない。
然るに、正邪の判断
であるならばその檢證はイデオロギー的
であり、イデオロギー的
であるならばその判斷は相對的なものに過ぎない、と中田氏は主張する。
詰り、中田氏は私の解釈
に對する判斷は全て相對的なものに過ぎない、と主張してゐる事になる。
結果として、中田氏は私の解釈
が絶對的なものであり、疑ふべからざるものであると主張してゐる事になる。
そのやうな主張は、絶對に受容れられない。
厳密に論理的に思考するには、真偽いずれかであることの証明がない限りは、あらゆるものを疑わなくてはなりません。疑う理由がないことは、真偽いずれの証明にもなりません。
嚴密に論理的に思考するには、疑ふ意味のあるものと、疑ふ意味のないものとを、嚴密に區別して考へなければなりません。
「日本人はなぜ日本語を使ふのか」と云ふ「疑問」は、疑問ではありません。「日本人が使ふ言語が日本語である」と云ふ定義から考へれば、「日本人はなぜ日本語を使ふのか」と云ふ「疑問」を呈するのは、「日本人が使ふ言語が日本語である」と云ふ定義そのものを否定する行爲にほかならない。
「1+1=2」が數學に於ける公理である以上、數學の問題を解く際に「1+1=2」を疑問視して數學全體を否定する事が無意味である事くらゐ、中田氏も理解出來るでせう。或體系に於て「自明であるべき事」を敢て疑問視するのは、その體系そのものを否定する行爲にほかならないが、その體系の中で考へるべき時に體系そのものを否定するのは無意味極まりない事です。
「自明の事」を前提に推論し、理論を體系化するのが、西歐の學問です。そして、さう云ふ體系化された理論を、一般にイデオロギー的とは看做しません。或は、イデオロギーと、イデオロギー的な態度(推論過程をイデオロギーに基いてねぢ曲げる事)とは、嚴密に區別すべきです。
「判断をすること」ではなく「正邪の判断をすること」がイデオロギー的です。「正邪」という概念は、そもそも相対的にしか成立しえない、イデオロギー的なものであるでしょう。
「正邪」と云ふ語が曖昧に用ゐられてゐるので、中田氏はそれに乘じて、とぼけてゐます。推論過程の正邪と、規範の命ずる正邪とを、中田氏は混同し、後者を根據に前者を否定してゐます。
形式論理學には、三段論法と云ふ推論の方法が存在します。三段論法による推論も、正邪の判斷である限り、中田氏の定義では「イデオロギー的」と云ふ事になります。しかし、私は三段論法がイデオロギー的だとは全然思ひません。私は「推論に於るイデオロギー獨立」を主張してゐます。中田氏は恐らく、推論の大前提を選擇する方法に於る「イデオロギー依存」を氣にしてゐます。私はそれを全然氣にしません。
「推論の方法さへ間違つてゐなければ、その議論は論理的である」と私は考へます。多くの人の「理窟」は、その推論が間違つてゐます。私は常に、推論の過程に於る誤を批判するのであつて、推論の前提となるその人の價値觀を批判する事は避けてゐます――少くとも避けてゐる積りです。
私がある記述Aを読んだ結果の解釈を説明するには、私のことを話す以外にありません。そして、私の解釈が誤読であるかを決定的に判定できるのは、記述Aの記述者だけです。
説明の仕方――推論が正しいか、正しくないかは、第三者による判斷が可能です。中田さんは、價値觀に基いた獨斷的な結論を述べますし、説明を求められると間違つた推論をして見せます。だから私は中田さんの主張を批判するのであります。
(他人の)ちょっとしたいざこざを見る。あんまり正論を言うのも考えもの。論点のずれから更なるずれの原因となる。気付いて誠実な応答をしても、既に喧嘩で返すような有り様。
そのまま自分にもふりかかることばかり。人ののふり見て我がふり直せ、とはよく言ったもの。完璧ではないけれど、できうる限りで冷静に。いくらかの嘘もときには必要。もちろん、悪心ではなく誠実をもって。
反省は結構だが、結果だけが問題なのだ。「私は反省した」と言ひつつ、實質的に何も改善しないのは、反省しないよりも惡い――たちが惡いのである。
Amayaの6.0がリリースされてゐる(24日)。
相變らず、かなや漢字は表示されない。
ナツメ社から出たHTMLのリファレンス本によると、blockquoteはpの中にぶちこめるらしい。
HTMLの事を知らない人間にリファレンス本を書かせるナツメ社の編緝者は無能。