闇黒日記



戰時下

平成14年4月25日

HTML には 3 種類あるってことを知っていますか?

HTML 3.2、HTML 4.01、ISO/IEC 15445:2000が現行の3種類のHTMLですがそれが何か。

平成14年4月25日

平成14年4月25日

なぜ疑はなければならないのですか? 日本では日本語が使はれてゐるのであつて、「どうして日本では日本語が使はれてゐるのか?」等と疑ふ方が異常です。

人間が論理的思考を行うには、必然と思われるものすら疑ってみることが必要だからです。これを異常と感じるのは、あなたの主観です。

論理的に考へれば、日本人が日本語を使ふ事を疑ふ理由がありません。疑ふ理由が全く存在しないにもかかはらず疑つて見せるのは、論理以外の、恐くはイデオロギーに基いた意圖があるからです。

しかし、イデオロギーから獨立したものの見方に基いて、物事の正邪を判斷するのは、イデオロギー的ではない。

判断の基準として言語学を用いること自体はイデオロギー的ではありませんが、正邪の判断をすることはイデオロギー的です。

White中田氏によると、判斷は全てイデオロギー的なのださうである。根據が何であるかは關係ないのださうである。

しかし、それではイデオロギーとは何なのでせうね。イデオロギーが存在しなくともイデオロギー的になり得るとは、目茶苦茶な「理窟」です。

こんな杜撰な頭腦の持主だからこそ、中田氏は「現代仮名遣い」とは全く關係のない「言葉」を「現代仮名遣い風味な言葉」などと稱する事が出來るのでせうね。


繰り返しになりますが、社会科学的な文脈や、明確な意図の強くない人間の行動を対象に使われるときなどに、「人工」という語の指す領域が若干狭まり、「自然」という語の指す領域が若干広くなると思います。

これほど多數の誤讀を誘發し得る「羂」が仕掛けられてゐる上に、内容のない文章も、珍しい。

若干とはどう云ふ事ですか。具體的に、領域がどのやうに廣がつたり、狹まつたりするんですか。廣がるとは、どの方面に廣がるのですか。狹まるとは、どんな意味が缺落して、どの意味がコアの意味として殘るのですか。

思いますの根據はあるんですか。中田さんの文章には、whenの説明はあれど、whyの説明がありません。社会科学的な文脈や、明確な意図の強くない人間の行動を対象に使われるときなどは結構ですが、そのやうな時に領域が變動する理由は何ですか。

まづ間違ひなく、中田さんはこれらの疑問に答へません。中田さんは、考へなければならない理由を考へるのが嫌ひで、その代りに、状況に應じて發生する可能性の高い現象がどんなものであるのかをただ單に祖述するのが好きな人ですから。そんな中田さんに、必然と云ふ觀念はありません。

つまるところ、私が言いたいのは「(お互いの)誤読・誤解・完全に正確ではない記述が原因だったのではないか」ということです。私の起こした問題の方が多分であるかとは思いますが。

White中田氏の勝手讀みが騷動を惹起こした原因であり、誤読・誤解・完全に正確ではない記述が原因ではありません。或は、中田氏がもつと論理的に話をしようとして、「美意識」だの「私見」だの「思います」だのを濫發し(、しかもその薄弱な根據をもとに斷定を下し捲つたりし)なければ良かつたのです。

「私にはそう読めました」と言ひながら、飽くまでその「自分が読んでしまった事」を「絶對の事實」として自分の議論の根據に据ゑる中田氏は、自分が誤讀してゐる可能性を全く認識してゐません。そんな中田氏が「互ひに誤讀してゐる可能性を反省しませんか」と言ふのは、相手にだけ反省させようと云ふ意圖が隱されてゐるのであります。


と言ふか、中田氏は「私見」とか「思います」とかいつた言葉の意味を知らないのではないだらうか。でなければ、「私見」とか、個人的な感想を根據に、あれほど偉さうに他人の意見を誤と斷定は出來なかつただらう。或は、「時と場合により」が、中田氏の文章には多過ぎ。

平成14年4月25日

「風味」に「な」を附けて「風味な」と言ふ事自體、異常。


「主(あるじ)な」も、日本語として正しくないのです。

平成14年4月25日

こういう検索でくるのがあまりに多いんで(-"-)。「ねんねしろや(゚Д゚)ゴルァ」ちうことで403逝きにしてあげました。

さう云ふキーワードによる檢索にひつかかるやうな文章を書く方も書く方だと思ひますが。

平成14年4月25日

「言語は全部人間が作ったんだからすべての言語が人工言語だ」 という倒錯を思い出した。

眞劍に考へるべき問題を、遊びで叩くのは止めて貰ひたいが。

「人間だつて自然の存在だ」と云ふ倒錯もあるねえ。


嚴密に定義しないで「自然」だの「人工」だのと言ふから、譯がわからなくなる。


学問ですな 。 というか、この手のは計算工学の知識と実践知識の狭間でプログラマがパズルを 解いてやらないといけないたぐいの話。いいプログラマは学問としての 知識と、プログラミングの実践のバランスがよく取れてるもんだが、 三流プログラマは力業でなんでも解決しようとするので 変なものができる(でも、世の中の 90% の仕事はこれで片づくんだが)。 一方で、学者さんは美しさを追求するからいつまでたっても 物が完成しなかったりして。自戒自戒。

他人事みたいに言つておいて、何が自戒自戒だ。ふざけてゐる。俺は、ふざけた人間が嫌ひだ。

平成14年4月25日

あれれ、「私見ですが」をとると、斷定的な結論しか殘らないよ。

平成14年4月25日

土台となるシステムがあるにせよ、統合された形で機能するならそれもシステムでしょう。

統合されてゐないならば、當然システムではありませんね。

そもそも、日本人がなぜ日本語を使ふのか、と云ふ疑問を呈する事自體が異常。日本人が日本語を使ふのは當り前の事だ。

なぜその「當り前」を疑わないのですか? そこにこそ論理の破綻が含まれる可能性は考慮しましたか? 必然と思われるものすら疑ってみることは、論理的思考に必要な態度ではないですか?

なぜ疑はなければならないのですか? 日本では日本語が使はれてゐるのであつて、「どうして日本では日本語が使はれてゐるのか?」等と疑ふ方が異常です。

或人間が或場所に生れるのには、理由なんてありません。

中田氏の、「現代仮名遣い風味なことば」とは「日本語の書き言葉のうち、現代仮名遣いに比較的強く従っている言葉(いくらかの言語的逸脱や仮名遣いからの逸脱を含んでいることもある)。」です。と云ふ主張は、所詮「『現代仮名遣い風味なことば』は、『現代仮名遣い』に從つてゐる事もあれば、從つてゐない事もある」と云ふ主張である、と云ふ主張である、と私は指摘したに過ぎない。

その読解からは、「比較的強く」「いくらかの」という句の意味が欠落しているように思います。これらの語の含有は定義としては不適切だという指摘は正当と思いますが、これらの語の示す割合的な意味がこの定義には必要であるとも思います。

話が逆です。中田氏こそ「比較的強く」「いくらかの」という句の意味を缺落させてゐるのであつて、私の言ひ方の方が「比較的強く」「いくらかの」という句の意味を正しく反映させた言ひ方です。

中田氏に尋ねたいが、あなたは、論理的であらうとして論理的になり切れなかつた文章を書いた筆者を、見下すのか、愛ほしく思ふのか。どつちなのか。

場合によります。見下すときも、愛おしく思うときもあるでしょう。両立するときもあるでしょう。これらは、私の中では両立する思考・感情ですので。

困つた人ですね、中田氏は。中田氏は、かう言つたのです。

その、非論理的でありながらどこか論理的であろうとし、でも結果はやっぱり非論理・非合理なところにこそ私は愛おしさを感じる。その秩序を孕んだ混沌を愛したいと思う。――というように、やたらと飛躍を求めるのです。きっと私は、そういう人間。

かう言つた側から、中田氏は前言を撤囘するのです。話になりません。


或事を斷定的に言つたにもかかはらず、つつこまれるとすぐに「いや、さうではない」と中田氏は逃げる。卑怯極まりないのだが、中田氏に自分が卑怯者であると云ふ自覺は全くない。

と言ふより、両立させてはならない考へ方を、中田氏は平氣で両立させる。これは、ごまかしにほかならない。

「社会」の附かない言語學の立場から判定するならば、「現代仮名遣い」は間違つてゐる。

素人考えではありますが、言語学とはある表記則が間違っているかどうかを判定する性質のものでないと思います。本来的な言語学は「ある表規則Aが整然としていない」という言及をするものであり、あるいはなぜ整然としていないかを探求するものであると思います。

そして、言語学の立場からある表規則が間違いであると言及することは、(良くても)言語学をイデオロギーの正当化の道具として使っていることにあたるのではないでしょうか。

取敢ず、中田氏には、つつかれる度に、自分の考へをあつちにふらふら、こつちにふらふらさせて、ごまかさうとする癖を直すやう、努力して貰ひたいと思ふ。或は、一度斷定的な事を言つておきながら、つつかれると、正反對の事も自分は時々言ふ、などと言つて逃げるのは、やめて貰ひたい。


「時と場合による」と言ひたければ、斷定的で絶對的な意見を述べてはならない。


「言論の自由」は、いかなる意見にも發表する自由がある、と云ふ事だ。しかし、自分の述べた或意見は、後續する自分の意見の自由を奪ふ。當り前の話だ。中田氏は、さう云ふ當り前の事も、知らない。


私の文章に對する中田氏の「批判」は、揚げ足取りの域を脱しない。なぜなら、その「批判」は、相互に何の關係もなく、いきあたりばつたりだからだ。私の或意見について、或觀點から見ると「誤」だと中田氏は言ひ、別の私の意見について、また別の觀點から見ると「誤」だと中田氏は言ふ。そして、それらの中田氏の「觀點」は、私の一聯の主張とは全然關係のないものばかりである。

中田氏は、枝葉末節の部分で「論理的」であるかのやうに振舞ふ。しかし、根本的な部分で原則が缺落してゐるから、中田氏の意見には一貫性が無い。

或は、中田氏は、三行書くと、前に言つた自分の言葉を忘れる。そして、前の自分の言葉と矛盾した言葉を、平氣で吐く。私はさう云ふ、同一人物による發言の間に見られる矛盾を問題視し、指摘してゐる。私の批判を「揚げ足取り」だと思つて貰つては困る。


間違ひを認めて、考へを改めるのは結構だ。

しかし、間違ひと云ふ觀念を認めず、ひたすら相反する二つの意見を両立させようとするのは、ごまかしだ。そこには、價値觀が存在しない。

平成14年4月24日

ナンセンスなパロディは意味がない。


何でもパロディにすれば皮肉になるかと言ふと、さうでもないので要注意。

平成14年4月24日

Webブラウジングのやり方を素人さんに説明するのは難しい。「Webデザイナー」は、PCについて餘り詳しく知らない普通のをぢさんやをばさんに、Webの閲覽の仕方をレクチャしてみるとよろしい。何か、學ぶところがあるだらう。


「標準的」ならざるインタフェイスは、極めてわかりにくい。

平成14年4月23日

White中田氏が、一見論理的な反論をして見せてゐるが、根本的に非論理的な中田氏の意見が論理的である筈がない。中田氏は、誤讀と曲解を繰返してゐる。


いかにも脇の甘い言い方で、論戦するならツッコミ放題でたまらんのでしょうが。と云ふ嫌みを言ふ事で、中田氏はツッコミを躱した積りになつてゐるのだらうが、さうは問屋が卸さない。

ツッコミをかわしたつもりではなく、ツッコミどころであることを自ら指摘しているだけである。暗には「わかってて言ってるんだからここにツッコむのは野暮だと思うぞ」とほのめかしているのだが、これは所詮私が記述したときの主観であるし、ほのめかしはほのめかしに過ぎない。

だーかーらー。主観の話でせうが。

「現代仮名遣い」は書換への指針に過ぎないから、「現代仮名遣い」によつて文章を書く事自體が不可能である。文部省は、それつぽい「文法」をでつち上げて、「現代仮名遣いで文章を書ける」かのやうに言つてゐるが、その「文法」は破綻だらけで、文法と呼べるものではない。

「現代仮名遣い」が書き換えの指針であることと、「現代仮名遣い」によっては文章を書けないことについて。語「よつて」がどのような意味で用いられているかが明白でない。「用いて」の意味で使われているならこの部分の論旨は正しい。「依拠して」「従って」という意味であるなら、現代仮名使いによって文章を書くことは可能と思われる。

「現代仮名遣い」なる規範は存在し得ず、日本語による思考を「現代仮名遣い」と云ふフィルタを通して表記する事しか日本人は出來ない、と云ふ事なのだが、中田氏は「現代仮名遣い」が完全なシステムであるやうに思ひ込んでゐるから、私の文章を誤讀したのである。

文法の破綻の指摘、「現代仮名遣い」によって文章を書くことが不可能であることの証明にはならない。文法が破綻していても文章は書ける:「アルジャーノンに花束を」の冒頭部を見よ。

破綻も何も、「現代仮名遣い」はそれ自體として一貫したシステムではない。「現代仮名遣い」は「フィルタ」のやうなものであり、歴史的假名遣のシステムを必要とする。

現代仮名遣いの中に、歴史的仮名遣いの影響が潜在しているのは否定できまい。とはいえ、無限遠に存在する粒子の引力の影響がないとは言い切れない以上、少なくとも物理的事象においては世の中にまったく無関係なものは存在しない。そして、思考が脳という実体を用いて行われる以上は、人間の活動による産物はすべて物理的事象に関係する。

表記の問題と、物理の問題を混同してゐる。と言ふより、わざと混同して、中田氏はとぼけてゐるのである。この中田氏の文章は、實質的に無意味である。

「現代仮名遣い」が一義的には書き換えの指針であったとしても、それに基づいて文章が書かれば、そのうちに表記法として定着していく。そして現状では、定着していった結果の、(完全には合理的・原則的でない)記述の基準をも、拡大的に「現代仮名遣い」と呼んでいるのではないか。

前の文章の「風が吹けば桶屋が儲かる」式の理論を全面的に肯定する中田氏の主張は、この手の擴大解釋を肯定する爲の伏線であるやうに思はれる。と言ふか、中田氏の主張は、擴大解釋の積重ねである。

次に示すのは、「思考とは何であるのか」の定義についての、聞きかじりの不完全性定理に関する知識を交えた上での、素人考えである:思考によって思考とは何であるかを定義しようとしても、完全な定義は得られないのではないか。あるいは、定義できたとしても、それが正しいという確証は得られないのではないか。完全な証明が不可能である、という意味でならば、あらゆる表現は口からでまかせであると言えるのではないか。

それはそれで結構な話だが、さう云ふ曖昧な思考なるものを根據に、假名遣や表記について斷定的な意見を述べるのは止めて貰ひたい。そもそも、中田氏の文章には、私見を述べる際に要請される謙虚さがない。

更に言換へると、「現代仮名遣い」の文章は、本来の日本人の思考を歪めて表現するものである。中田氏は、その「歪められた表現」こそが「思考そのもの」であると思つてゐる。中田氏は、根本的に間違つてゐる。

言語と思考の関連については、言語哲学の成果などを参考できると思う。(残念なことに)不勉強であるので、私が根本的に間違っているかどうかの検証は、私にはできない。

ただ、私見でならこのように思う:それは、ウロボロスのようである。言語は思考を制約し、思考から言語が記述される。記述された言語がまた思考に影響し、そこからまた言葉が生まれる。

私見は結構だが、根據の薄弱な私見を根據に、斷定的な結論を出すのは非論理的だと思ふ。

美意識とはなんであるか。ものの判断をするときの評価関数のことを指すのであれば、正字正かなを使うという選択は、美意識=評価関数に基づいている。なぜ英語でもフランス語でもエスペラント語でもなく日本語を使うのか。なぜローマ字表記でも当用漢字現代仮名遣いでもなく正字正かなを使うのか。「論理的に正しいから」は、評価関数のパラメータに過ぎない。

それは中田氏の私見です。そもそも、日本人がなぜ日本語を使ふのか、と云ふ疑問を呈する事自體が異常。日本人が日本語を使ふのは當り前の事だ。

實際のところ、話は全く逆で、日本語を使ふから、その人は日本人なのである。假名遣レヴェルではなく、言語レヴェルでならば、私は中田氏の主張に贊成する。言語は民族の思考樣式を決定する。

推測される誤読の指摘。

引用部1:「現代仮名遣い風味なことば」とは「日本語の書き言葉のうち、現代仮名遣いに比較的強く従っている言葉(いくらかの言語的逸脱や仮名遣いからの逸脱を含んでいることもある)。」です。この文は、「( X = A ) and ( X = ( B or notB ) )―(1)」という構造である

引用部2:と言ふか、中田さんは本氣で「Xの定義」として、「Xは、Aである事もあれば、Aでない事もある」と云ふ言ひ方が通用する、と思つてゐるのでせうか。(引用にあたり便宜のために強調マークアップを追加した):この文のうち強調部は、「 X = ( A or notA ) ー(2)」という構造である。

(1)は(2)とは異なる構造である。

しかし、闇黒日記平成14年4月17日付の記述には、記述者が引用部1を(2)の構造として捉えていると推察できるような記述がある。このことから、記述者が誤読をした可能性を指摘する。

この文は、「( X = A ) and ( X = ( B or notB ) )―(1)」という構造である、と云ふ中田氏の指摘は、的外れだ。「Xは、Aである事もあれば、Aでない事もある」が「文章の構造」を意味してゐると云ふのは、中田氏の誤解或は曲解である。

中田氏の、「現代仮名遣い風味なことば」とは「日本語の書き言葉のうち、現代仮名遣いに比較的強く従っている言葉(いくらかの言語的逸脱や仮名遣いからの逸脱を含んでいることもある)。」です。と云ふ主張は、所詮「『現代仮名遣い風味なことば』は、『現代仮名遣い』に從つてゐる事もあれば、從つてゐない事もある」と云ふ主張である、と云ふ主張である、と私は指摘したに過ぎない。

誤読の指摘。『「現代仮名遣い」で書かれた言葉に強く由来する思考』という句。思考が由来しているのは「言葉」であって「表記の規則(=現代仮名遣い)」ではない。

出たら目だ。中田氏は、「現代仮名遣い」で書かれた言葉が一體何に由來すると考へてゐるのだらうか。中田氏は、「現代仮名遣い」に由來した「現代仮名遣い風味な言葉」に由來する思考なるものを構想してゐた筈だ。論理的なごまかしを當然のものと考へる中田氏に、私のリニアな論理は異常な論理に見えるらしい。

私の感想。厳密な論理的考察というにはお粗末。ということはテーゼが真実であるかどうかを判断してるわけではないのだろう。感想を述べるのは自由だ。

人は、自らを否定すべき文句で以つて他人を罵る。


で、中田氏は私の指摘を厳密な論理的考察というにはお粗末と決め附けてゐるのだが、どうしてお粗末なる見下した言ひ方を中田氏はしてしまつたのだらうか。

私の言葉が不正確だからそうなのか、(無意識的に)不正確であろうと思っているのか、そのあたりはわからないのですが――しかしながら、自然状態の言葉というのは多分に不正確な、論理的でないものではないかと思います。人間が、不正確で論理的でない生き物だから。

その、非論理的でありながらどこか論理的であろうとし、でも結果はやっぱり非論理・非合理なところにこそ私は愛おしさを感じる。その秩序を孕んだ混沌を愛したいと思う。――というように、やたらと飛躍を求めるのです。きっと私は、そういう人間。

たとえば私は、このぐちゃぐちゃ、頭の中に起こっている嵐、その嵐を起こしたきっかけを、とてもとても大切に思うのです。

中田氏は、私が厳密な論理的考察とは言へない考察をしてゐると一生懸命指摘し、結論としてお粗末と述べた。しかし、もし萬が一、中田氏の指摘が全て正しく、私の文章が徹底的に非論理的であつたとしても、その私の文章は、非論理的でありながらどこか論理的であろうとし、でも結果はやっぱり非論理・非合理であるものではないのか。そして、さう云ふものを、中田氏がお粗末と決め附けるのは、矛盾してゐるのではないか。

中田氏に尋ねたいが、あなたは、論理的であらうとして論理的になり切れなかつた文章を書いた筆者を、見下すのか、愛ほしく思ふのか。どつちなのか。


多分、中田氏は、複雜極まる「論理」を展開して、ごまかさうとするだらう。


言葉というものが、自然発生し、遺伝競争的な自然淘汰を受け、その結果として現状に至ったものならば、原則論とか本質論とかをするのがそもそも間違いなのではないか。

言語にしろ生物種にしろ恣意的な環境の押し付けで滅びるなら、所詮そこまでの種/言語であったというだけのこと、そんなもの淘汰の一部だ。

これについては、江洲さんが反論してゐる。

自然淘汰は言語には適應されないです。言語の生き死には社會的政治的要因が大きいのですが、そこには自由競爭も熱力學モデルも民主主義もありません。このあたりは社會言語學を參照すると良いかも。

環境の適應ですが、社會的政治的状況を環境とするのは構はないのですが、それは自然環境ではありません。だから自然淘汰を適應するのは妥當ぢやないです。

そもそも、環境だの自然だのと言ふのが間違つてゐます。言語は自然のものではなく、人工のものですから、自然の法則に從へば良いと云ふものではありません。言語は、價値觀で判斷すべきものです。そして、價値觀は美意識とは異る。

自然淘汰は言語には適應されない、とのことですが、二つ(以上)の言語(話者)の混在する環境で、社会的政治的要因等(=環境)により「新しい言語が発生する」「一方の言語が駆逐される」とかが起こるとき、その系の振る舞いは遺伝競争的な自然淘汰に似ているのでは、と思うのですが。

これは適用される/されないではなく、適用してみる/してみないの話かと思います。「するべきでない」とは言えるかもしれませんが。で、果たしてそう言えるかどうか判定するなら、たしかに社会言語学とかに当たるべきなのでしょう。

社会言語学なるものは――と言ふより、頭に「社会」の附く學問は全て、主觀を客觀と言換へて成立した怪しい「學問」で、多くの場合、イデオロギーの正當化にしか用ゐられない。

「社会」の附かない言語學の立場から判定するならば、「現代仮名遣い」は間違つてゐる。

平成14年4月23日

昔錫馬獣畏柔艦猿なるSubjectの電子メールを受信。

平成14年4月22日

Piro氏は鞄を新しくしたさうだが、私は5年前に退役させた鞄を今日、現役に復歸させた。

平成14年4月21日

『Opera』推進委員会
萌えOpera。

平成14年4月21日

平成14年4月21日

Opera Build 6.02.1087が公開されてゐます(beta)。この版では、所謂日本語サイトの整形をうまく出來ません。

レンダリングエンジンが變更されたみたいです。newsgroupの投稿によれば、次期ヴァージョン(Opera 7.0)ではどうやらCSS2、DOMが完全にサポートされる模樣。


私が常用してゐるのはBuild 1066。

平成14年4月21日

Latest diary - Notes
aの終了タグ缺落。そこだけは、うちの眞似をしてはいけません。

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