闇黒日記



戰時下

平成14年4月20日

でまあちまちまとsc恆存「私の國語教室」(文春文庫)を読んだりしてるわけだけど、この人にとっては「表音文字」ってのは音声表記であって音韻(音素)表記ではないという扱いらしいんですけどマジですか。文春文庫版P41に、

以上で、金田一博士の言ひたいことは大體わかつたと思います。つまり、『現代かなづかい』の原則は、同一音聲を同一文字で表記することにはなく、同一音韻を同一文字で表記することにある、言ひかへれば、表音主義ではなくて、音韻準據だということです。これは『表音主義を原則とする』といふ廣田氏の言葉と明らかに矛盾します。

とか書いてるんだけど。

 で、その廣田氏は、

現代かなづかいは、一音一字、一字一音の表音主義を原則とはするが、かなを発音符号として物理的な音声をそのまま写すものではなく、どこまでも正書法として、ことばをかなで書き表すための決まりである。

と書いていて(同書p34に引用)、これだけ見ると廣田氏にとって表音文字の表記対象が音声であるかのようにも見えるんだけど、一方で

現代仮名づかいは、より所を現代の発音に求め、だいたい現代の標準的発音(厳密にいえば音韻)をかなで書き表わす場合の準則である。

とはっきり書いてある(p18に引用)わけで、廣田氏にとっても「表音主義」の表記対象が音韻(音素)であることが分かる。何がどう矛盾してるんだろ?

これだけ見るとの羂です。菅井氏は、肝腎の部分を引用せず、これだけ詰り文脈から切り取られて選び取られた部分部分を見るから、福田さんの文章を正しく理解出來てゐません。


p.18で福田氏のした引用は、以下の通り。

現代仮名づかいは、より所を現代の発音に求め、だいたい現代の標準的発音(厳密にいえば音韻)をかなで書き表わす場合の準則である。その根本方針ないし原則は、表音主義である。同じ発音はいつも同じかなで書き表わし、また、一つのかなはいつも同じ読み方をする、ことばをかえていえば、一音一字、一字一音を原則としている。

菅井氏の引用した部分は、福田氏が引用した廣田氏の文章の一部に過ぎません。そして、この菅井氏が、故意にか過失でかは知りませんが省略した部分が、あとから效いてきます。

廣田氏の所謂準則ないし原則について、福田氏はなほ徹底的な考察を要しますがと書きます。p.18にある廣田氏の文章は、福田氏が一音一字、一字一音の表音主義といふ原則がそのまま適用できぬ例外をまづ説明する爲の呼び水です。

その例外とは何か、を福田氏は説明します。歴史的假名遣で異る表記をする一部の語は、「現代かなづかい」でも異る表記をするやうになつてゐますが、その一部の語がその例外です。福田氏はこの例外の存在が「現代かなづかい」の弱點である事を述べ、廣田氏の、さいわいに実際問題としては、この種のことばは次に掲げるように少ないので、それを機械的に覚えておけばいい、と云ふ辯明を引用します。實はこの廣田氏の言ひ方がごまかしの一つなのですが、福田氏はこの廣田氏の言ひ方を引用して、伏線を張つてゐる譯です。

福田氏は、次の節でいよいよ徹底的な考察をはじめるのですが、そこでかう書いてゐます。

本章一の冒頭に廣田氏の言葉を引用して、「現代かなづかい」の原則が表音主義にあることを明らかにしました。表音主義とは一音一字にして一字一音といふことであります。それが可能ならば、これほど簡便容易なことはない。

ここだけ讀めば、福田氏は、「現代かなづかい」の原則は單純に表音主義であると言つてゐる事になりさうです。もちろん、さう云ふ單純な割切り方を、福田氏はしてゐません。

しかし、一の細則で見たとほり、「現代かなづかい」は決してこの原則をそのまま適用したものではありません。そこで廣田氏は次のやうに但書をほどこしてをります。

このように、現代かなづかいは、一音一字、一字一音の表音主義を原則とはするが、かなを発音符号として物理的な音声をそのまま写すものではなく、どこまでも正書法として、ことばをかなで書き表すためのきまりである。したがって、表音主義の立場から見て、そこにはいくつかの例外を認めざるを得ない。それは、これまでの書記習慣と妥協して、旧かなづかいの一部が残存している点である。

菅井氏は再び、福田氏が引用した廣田氏の文章の一部だけを引用します。そして、文脈から考へれば、重要なのは、表音主義の立場から見て、そこにはいくつかの例外を認めざるを得ない、と云ふ廣田氏の發言です。

ここで福田氏が廣田氏の文章を引用したのは、「誤解を招くやうに廣田氏が書いてゐる」、廣田氏の文章にはごまかしがある、と言ふ爲です。その證據に、p.41で福田氏は廣田氏のいかにも官僚らしい用心ぶかさ、と廣田氏の文章を評してゐます。

これだけ見ると廣田氏にとって表音文字の表記対象が音声であるかのようにも見える、と菅井氏は言つてゐます。それあさうです。菅井氏は、自分にはこれだけではない、もつと廣い目でものを見る事が出來るよと、さう言つて福田氏を馬鹿にしてゐるのですが、福田氏はわざと廣田氏の文章の一部分だけを見て、馬鹿になつて見せてゐるのですから、菅井氏の非難は的外れです。

福田氏は、p.34の廣田氏の文章を評して、かう述べてゐます。

が、これほどあいまいで、意味をなさぬ文句も珍しい。なぜなら、そこには明らかなごまかしがあるからです。

そして、「現代かなづかい」を制定した人々、それを支持する人々の、「現代かなづかい」を擁護する文章に、ごまかしのある事を、福田氏は説明していきます。そして、そのごまかしとは何かを説明する爲に、「現代かなづかい」が無原則である事を福田氏は證明しようとします。その爲に、福田氏は、わざと「現代かなづかい」の原則が表音主義であると假定します。もちろん、さう云ふ假定はすぐに行き詰まるから、「現代かなづかい」の原則は表音主義ではありません。にもかかはらず、「現代かなづかい」の支持者・擁護者は表音主義をスローガンに使つてゐる――その例として、廣田氏の文章を福田さんは引用してゐるのであります。

『私の國語教室』のテキストの流れに戻ります。

一體、表音主義とは何か。いや、その前に表音文字とは何か。解りきつたことのやうですが、その意味が曖昧であるために、「現代かなづかい」にたいする誤解が生じてゐるので、いちわうだめを押しておく必要がありませう。

福田氏は、表音文字と表意文字の違ひを説明し、續いて、表音文字を使用する事と表音主義とは必ずしもイコールではない事を説明します。ただ、表音主義を實現する爲にはどうしても表音文字によらなければならない、と述べます。しかし、さう云ふ表音主義の原則から見ると、「現代かなづかい」は決して表音主義とは言へません。ここで、「現代かなづかい」の原則が表音主義でない事は證明されてゐます。

しかし、「現代かなづかい」が表音主義ではない事は、國語改革を實行した人々のミスではなく、まさに狙ひそのものなのだと、福田さんは指摘します。金田一氏は、「現代かなづかい」は飽くまで音韻準據である、と述べてゐる、と云ふ事で、p.38からp.40にかけて金田一氏の文章を福田氏は引用してゐます。福田さんは、「現代かなづかい」の原則も論據も決して表音主義にはない、と國語改革の推進派が主張してゐる事を示し、「現代かなづかい」の原則が表音主義でない事が國語改革を推進した人々の意圖である事を證明してゐます。

そして、「現代かなづかい」の原則を改革推進派が音韻主義と言つてゐる事を、福田さんは示してゐます。しかし、その音韻なるものがあいまいであるのを改革推進派の人間が惡用してゐると、福田さんは述べてゐるのであります。もつとはつきり言ふと、國語改革派の所謂音韻ごまかしにほかならない、と福田氏は述べてゐるのであります。


そのごまかしは、依然、現在にも尾を引いてゐます。現在では、音韻と云ふ概念自體が更に「深化」してゐるので、「現代かなづかい」擁護派のごまかしの質も惡化してゐます。

 てゆか語の語彙情報(この場合「その語は何と言うか」という情報)として実効的な価値をもつのが表層の音声でなく基底の音素である以上、普通表意文字に対して表音文字っていったら何も言わなくても表記対象は音素(音素列)になるものだと思うんだけどなぁ。

 この辺の誤解とか、音声と音素をはっきり分けないで話をしているところとかがその後にずーっと尾を引いており、結果として文章の信頼性を大幅に下げてしまっているのがもったいない。まあ時代を考えるとあまり目くじら立てるのはかわいそうかという気もするけど、それでもやっぱちょっとなー。1990〜2000年代の人間としては。

菅井氏は音声と音素をはっきり分けないで話をしていると言つてゐますが、これは金田一氏が福田氏を嘲笑した文句そつくりです。金田一氏に對しては、福田氏はかう指摘してゐます。

まづ解せないのは、金田一博士自身、普通は「表音文字」「發音符號」と言ふところを、「音韻文字」「音韻符號」と書いてゐる事です。

菅井氏は、音声と音素をはっきり分けないで話をしているのが福田氏であると言つてゐるのですが、實際にはさうではない、音韻論の大家である金田一京助博士が「現代かなづかい」の話をする際、音聲と音韻をはっきり分けないで話をしているのであります。菅井氏は、福田氏を非難したければ、金田一氏も非難しなければなりません。

しかし、福田氏が本當に無知であるがゆゑに音声と音素をはっきり分けないで話をしているのかどうかは、疑はしい。寧ろ、福田氏は、わかつてゐるのであります。わかつた上で、その邊りの議論が無駄である事を理解し、それゆゑ議論をしないでゐるだけです。

菅井氏は、語の語彙情報(この場合「その語は何と言うか」という情報)として実効的な価値をもつのが表層の音声でなく基底の音素であると述べます。しかし、これが「現代かなづかい」と云ふ或程度「表音的」な表記に慣れた現代人にしか生じ得ない發想であるとしたらどうでせうか。實際、菅井氏の發想には、英語のスペリングと云ふ具體的な反證が存在します。

支那の「方言」や、アイヌ語のやうに、表記を持たない言語は、確かに語の語彙情報として、音韻や音素に據らざるを得ません。しかし、一旦表記を持つてしまつた言語は、語の語彙情報として、音のみならず表記にも據るやうになります。

某2ちゃんねる方面に「既出」を「がいしゅつ」と讀んでゐた厨房氏がゐたさうで、ソシュールの所謂「恣意的性質」の絶好の證明と言へるでせうが、誤讀を誤讀と認識し、正しい語を推定出來るからには、音聲以前に概念が語を決定するのに重大な役割を果してゐると言へるでせう。また、生まれついての聾唖者にも言語の觀念が理解し得る事から考へても、言語に於て音聲は(當然、音韻や音素も)必ずしも必要が無いと言へるでせう。

音聲が言語の發生過程に重大な要素として存在した事は事實でせうが、進化の過程で言語は音聲を必ずしも必要とはしなくなりました。發音記號は確かに音素を記述する爲のものでせうが、發音記號と全く異る存在として進化した表音文字は、もはや音素を記述する爲のものではあり得ません。


表記の問題に言語に於ける音の問題は出る幕がない、と福田さんは主張してゐるのであつて、それなのに執拗に言語に於ける音と云ふややこしい概念の議論をはじめて、いかにも福田さんが「わかつてゐない」かのやうな印象を與へようとするのは、惡質な揚げ足取りです。

その惡質な揚げ足取りをするやう日本人を誘導したのは、かつての國語改革を實行した連中であり、菅井氏はその被害に遭つた一人です。


と言ふか、菅井氏は、發音符號と表音文字とを混同してゐませんか。それ以前に、「廣田氏にとつての表音文字」及び「金田一博士の音韻」と、「福田氏の考へる表音文字の觀念」とを、菅井氏は混同してゐませんか。菅井さんの文章を良く讀むと、前者の誤を、菅井氏はそつと後者の誤に見せかけてゐます。

平成14年4月20日

疲れると、文章が荒れる。

平成14年4月20日

平成14年4月20日

平成14年4月20日

Mozilla 1.0 Release Candidate 1が18日に出て來たが、RC2、RC3……と半年くらゐ續いたら面白い。

平成14年4月20日

ふむ、面白いですね。 字面の綺麗さについては、縦書きに草書体、飾り文字と追求し出すと切りがないし、 人によって感覚が全く違うでしょう。文法と論理については「私の國語教室」に 触れられている内容が正しいとすれば正字正かなの方がいいでしょうが、 あれを鵜呑みにはできないと思います。正かなは発展の過程で書きやすい方に 変化してきただろうと考えられますが、その「書きやすい文法」をきっちりとした 論理的な構造に組み立てることができるとは言えませんから。

それからどんな悪い変化にもいくばくかの良い変化がついて回るもので、 誰でも容易に文章が書けるという幻想もその例に漏れないと思います。

『私の國語教室』の内容は正しいし、それを認めるならば、人は絶對に正字正かなに「轉向」しなければなりません。福田さんは、「理念と云ふ事を認めるか、認めないか」の選擇を讀者に迫つてゐるのであつて、理念と云ふ事を認めるならば、讀者は正字正かなも認めなければならないのであります。鵜呑みも糞もありません。


正かなは、発展の過程で書きやすい方に 変化してきたものではありません。假名遣ひは、變化しません。また、言語の論理的な構造を明かにしたものが文法です。現在ある文法は萬能ではありませんが、だからと言つて文法と云ふ概念自體が無效であるとは言へません。現實的な文法と、文法の理念は別です。文法の理念を認めるがゆゑに、文法に基いた表記の規則である假名遣ひを認める――と云ふのが、私の立場です。

それから、「現代仮名遣い」は、歴史的假名遣の変化ではありません。「現代仮名遣い」は、歴史的假名遣の本質的な部分を保存してゐません。本質的な部分を保存しない變容は、變化として認められるものではありません。


語彙や概念は、時代とともに新しいものが生れ、古びたものが消滅する。だからと言つて、異る時代の日本語は、同じ日本語でないとは言へない。なぜなら、日本語の、と言ふよりは、言語の本質は、語彙や概念ではないからだ。言語の本質は、言語の構造であり、所謂文法である。

「てふてふ」と書いた「蝶々」を今、「ちょうちょう」と書く。昔は切れ目なしに連綿と綴つた文章を、今は句讀點を入れて書く。昔は無かつたアラビア數字を用ゐる。太陰暦ではなく太陽暦を用ゐる。縱書きばかりでなく横書きも用ゐる。これらは、唯單に時代が變ると當然出現する、枝葉末節の變化でしかない。だから、問題ない。

しかし、問題のある變容と云ふものは、確かに存在する。日本語は膠着語と呼ばれるし、膠着語と云ふ性質は日本語の本質的な性質だ。だが、「現代かなづかい」はその膠着語と云ふ日本語の性質――と言ふよりは本質――を否定する。だから「現代かなづかい」は間違つてゐる。


膠着語は、語の文法的機能を、語根と接辭との結合連續によつて示す言語の事を指す。その語尾變化は、屈折語のやうに密接でなく、語根内の變化を伴はないとされる。

その語根と語尾のうち、語根は概念そのものを示し、接辭は概念に對する表現者の判斷を示す。(時枝誠記の「言語過程説」を參照の事)語根は概念だから時代とともに變化する。一方の接辭も、變化する。しかし、兩者の變化は、同じ變化ではない。概念の變化と、概念に對する判斷を表現する方法の變化とは、全く異る。そして、概念の變化は、言語の變化とは見られないが、概念に對する判斷を表現する方法は言語自體の變化と見られる。

詰り、接辭が日本語の本質である。

(ここから、私見が入り込んでゐます)日本語において、語根は用言の語幹と體言であり、接辭は用言の活用語尾と助詞・助動詞である。(時枝の分類による「詞」「辭」とは異るが、野嵜の私見による)

「現代仮名遣い」は、語根の表記も定めてをり、それにも問題はあるが、或程度は目を瞑る事もできる。しかし、同時に、接辭の表記も「現代仮名遣い」は定めてをり、その定め方が出たら目極まる。

「現代仮名遣い」では「は」「へ」「を」と云ふ助詞にのみ「意味に基いた表記」を認めてゐる。しかし、助詞にのみ「意味に基いた表記」を認め、助動詞、及び用言の活用語尾に「意味に基いた表記」を認めないのは、一貫性が無い。概念に對する表現者の判斷を示す語及び語の部分は、常に「意味に基いた表記」を認めなければならない筈だ。「は」「へ」「を」の3語にだけ「語意識」の存在を認めるのは異常である。


概念を示す語及び語の部分には、表音的な表記も認めて良い。だが、接辭或は概念に對する表現者の判断を示す語(これは同時に、文章の構造を明示する爲の語でもある)は、常に語意識に基いた表記でなければならない。

だから、接辭だけは最低限、假名遣ひを認めなければならないし、假名遣に從はなければならない。

「語根は表音的、接辭は表意的」と云ふ表記を、今、假にTransitionalな假名遣と呼ばう。そして、「語根も接辭も全て表意的」と云ふ嚴密な表記を、Strictな假名遣と呼ばう。いづれもValidな假名遣である。それに對して、「現代仮名遣い」は「トンデモな假名遣」と呼ぶ事が出來るであらう。こちらはInvalidな假名遣である。

「言葉 言葉 言葉」は、さう云ふ意味で「トンデモな假名遣」を否定し、「正しい假名遣」を推奬する。或は、「Validな假名遣」を推奬する。


「トンデモな假名遣」を斬ると云ふのだから、當然中身は見ない譯だ。わらひ。


White中田氏はイタいみたいなので放置。

平成14年4月20日

The record of my day-dream
drpl.cc

平成14年4月20日

と言ふか、「dtのスタイルとaのスタイルが良く似てゐて、紛らはしい」と言へば御終ひの處なのに、わざわざヤコブ・ニールセンの説を持出したのが間違ひ。

平成14年4月20日

こんなメールを受取つた。

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平成14年4月19日

混雑中です。少し経ってからリロードして下さい。

さとみかん經由でアクセスしたらエラー。

平成14年4月19日

ハヤカワSFシリーズ Jコレクション
H.P.Bではないの?

櫻花さんがハァハァする對象ハヤカワSFシリーズを開いたときの匂いは結構いけてますと言つてゐるハヤカワSFシリーズは、銀背や金背の事です。

平成14年4月18日

私の考えは『「現代仮名遣い風味なことば」に強く由来する思考を「正仮名遣い」で書くのは私の美意識に合わない』と言う方がより正確でしょうか。いかにも脇の甘い言い方で、論戦するならツッコミ放題でたまらんのでしょうが。

いかにも脇の甘い言い方で、論戦するならツッコミ放題でたまらんのでしょうが。と云ふ嫌みを言ふ事で、中田氏はツッコミを躱した積りになつてゐるのだらうが、さうは問屋が卸さない。そのツッコミに、的確に反論出來なければ、中田氏の意見は間違ひなのである。もちろん、中田氏は、獨斷的だから、他人の意見等きかないし、まともに答へないと云ふ戰術によつて、ツッコミを封殺する。


しかし、そもそも中田氏の「現代仮名遣い風味なことば」に強く由来する思考なるものが、極めて怪しいのだ。

「現代仮名遣い風味なことば」とは)「日本語の書き言葉のうち、現代仮名遣いに比較的強く従っている言葉(いくらかの言語的逸脱や仮名遣いからの逸脱を含んでいることもある)。」です。

中田氏、實に嬉しさうに定義できました、と言つてゐる。中田氏が馬鹿である證據である。馬鹿は、相手の揚げ足を取る際、決つて嬉しさうである。

もちろん、こんなものは定義でも何でもないから、定義できたからといって存在してる保証にはなりませんがも糞もない。


そもそも、中田氏が「現代仮名遣い」とは何かを知らないのだから、中田氏の定義が出たら目極まるのも當然である。

中田氏に教へてさしあげるが、「現代仮名遣い」は、顯在的であれ潛在的であれ、正かなづかひで書かれた文章を書換へる際の指針である。

中田氏は、「現代仮名遣い」によつて現代的な日本語の文章を書いてゐる積りだが、「現代仮名遣い」は書換への指針に過ぎないから、「現代仮名遣い」によつて文章を書く事自體が不可能である。文部省は、それつぽい「文法」をでつち上げて、「現代仮名遣いで文章を書ける」かのやうに言つてゐるが、その「文法」は破綻だらけで、文法と呼べるものではない。しかも、その「文法」の説明には、常に歴史的假名遣が援用される。歴史的假名遣は、潛在的に、現代の日本語の文章に生きてゐる。


表記と思考は一致してゐるべきだ、と云ふ中田氏の主張には一理ある。中田氏の勘違ひは、「現代仮名遣い」がその「表記」である、と考へた點にある。「現代仮名遣い」は「表記」ではない、飽くまでも「書換への指針」である。

中田氏の獨斷に反して、正かなづかひは日本語の本質的な原理に基く表記の規則であり、正かなづかひによる文章は日本人の思考を生の形で表現してゐると言へる。その正字正かなの文章を書換へる事によつて「現代仮名遣い」の文章は成立する。言換へれば、日本語による思考を「現代仮名遣い」と云ふフィルタを通して間接的に表記したのが「現代仮名遣いの文章」である。

更に言換へると、「現代仮名遣い」の文章は、本来の日本人の思考を歪めて表現するものである。中田氏は、その「歪められた表現」こそが「思考そのもの」であると思つてゐる。中田氏は、根本的に間違つてゐる。


と言ふか、中田氏は、日本人の思考がどのやうなものであるのか、人間の思考とはどのやうなものか、そもそも思考とは何か、を定義出來るのだらうか。中田氏にそんな事は絶對出來ないし、出來たとしてもその「定義」とやらは「ほら、出來たでせう?」と言ふ爲の「口からでまかせ」でしかあるまい。


かう云ふ私の文章を、中田氏は「美しくない」と評價し、見下すのである。中田氏は、恐らく優越感に浸りたいだけなのである。

そして、かう云ふ私の「中田氏評」を、中田氏は「人格を誹謗している」だの何だのと決め附けるだらう。まあ、私が中田氏の人格を誹謗してゐるやうに讀める文章を書いてしまつた事に就いては、謝罪します。わらひ。


それにしても、中田氏は、「論理的に同じ意味」と云ふ事を理解出來ない人種であるらしいのだ。或は、論理的な思考を、そもそも出來ない人間であるらしいのだ。かう云ふ人間は、どうしたら良いのだらうか。


と言ふか、私は美意識なんぞに基いて正字正かなを使つてゐる譯ではないので、中田氏が美意識なるものを持ちだし、「言葉が泣きます」等と言つて「野嵜の惡口雜言」を罵るのは、的外れです。

平成14年4月17日

論理の破綻を指摘する不毛な文を書いてみたがあまりに不毛なので破棄して一点だけ。どこにもなかった文を引用するのはどうかと思います。

多分、うちの事を言つてゐるのだらうが、中田氏は例によつて仄めかすだけなので、はつきりとはわからない。


と言ふか、書いてもゐない反論文を、恰も書いたかのやうに見せかける中田氏の戰法は卑怯でーす。


中田氏は、自分の獨斷に基いて、野嵜や江洲さんの文章を誤讀し、曲解してゐる。

中田氏の文章には、中田氏の考へる前提に基いて私や江洲さんが理論を展開してゐない事を詰る文句がある。中田氏は、自分の獨斷以外の意見を認める氣が、最初からないのである。

平成14年4月17日

闇黒日記の平成14年4月16日付の記述できちんと定義出來るものならしてみるが良いと思ふと言われたので定義します。

「現代仮名遣い風味なことば」とは)「日本語の書き言葉のうち、現代仮名遣いに比較的強く従っている言葉(いくらかの言語的逸脱や仮名遣いからの逸脱を含んでいることもある)。」です。定義できました。定義できたからといって存在してる保証にはなりませんが、今書いているこの文は「現代仮名遣い風味なことば」に相当するのではないかにゃー、とか思います。

比較的強くとか、いくらかの言語的逸脱や仮名遣いからの逸脱を含んでいることもあるとか、さう云ふ曖昧な事を言つて貰つては困りますね。

と言ふか、中田さんは本氣で「Xの定義」として、「Xは、Aである事もあれば、Aでない事もある」と云ふ言ひ方が通用する、と思つてゐるのでせうか。

そもそも、定義とは、ある概念内容・語義や処理手続をはっきりと定めること。それを述べたもの。でして、中田さんの説明は定義になつてゐません。


しかしねあなた、書き言葉の規則である「現代仮名遣い」に從つて書かれてゐる筈の現代の日本語の書き言葉に比較的強く従っている言葉が「現代仮名遣い風味なことば」である、つて、同語反復以外の何物でもありませんよ。

或は、「現代仮名遣い」で書かれた言葉が「現代仮名遣い風味なことば」だ、と中田さんは言つてゐるに過ぎません。


中田さんは、「現代仮名遣い風味なことば」に強く由来する思考を「正仮名遣い」で書くのは私の美意識に合わない、と言ひました。中田さんの定義に基いて、このテーゼを書換へると、日本語の書き言葉のうち、現代仮名遣いに比較的強く従っている言葉(いくらかの言語的逸脱や仮名遣いからの逸脱を含んでいることもある)。に強く由来する思考を「正仮名遣い」で書くのは私の美意識に合わないと云ふ事になります。

この言ひ方は、「現代仮名遣い」で書かれた言葉に強く由来する思考を「正仮名遣い」で書くのは私の美意識に合わないに、即座に變換されます。


かうして、面白い事が明かになりました。中田さんは少し前に、「思考に基いて文章を書く」と言つてゐました。しかし、よく話を聞くと、中田さんは「表記の規則に基いて思考する」と言つてゐるのです。


感想を述べるのは勝手だが、その感想が常に眞實であるとは限らない。そして、或テーゼが眞實であるかどうかを判斷する爲には、「何を言つても自由だらう?」と云ふ自由主義ではなく、嚴密な論理的考察を經る必要がある。


自由と必然とは對立する。そして、論理は常に必然的である事を求める。


と言ふか。

なお、「現代仮名遣い風味なことば」という表現は、「現代仮名使い」を味、「ことば」 を料理に見立てた言葉遊びの結果です。それとはまったく関係なく、「現代仮名遣 い」は料理でも食材でもないので風味などありません。

これだよ。


ふざけるな。

平成14年4月16日

間投詞の假名遣ひなんて、どうでも良いと思つてゐます。と言ふか、間投詞に假名遣ひがあるのかどうか、或意味疑問。

平成14年4月16日

平成14年4月16日

SSP
15日附けで開發終了宣言が出された。

一年前、あんなものの互換プログラムが作れると云ふ事實に驚いたものだ。SSPは、當時の「偽春菜」の仕樣がそれなりにきちんとしてゐた目に見える證據である。


1年半前、偽春菜とうにゅうの掛合ひ漫才はコンセプト的に斬新なものだつた。今や、そのコンセプト自體が既に陳腐化し、飽きられつつある。

平成14年4月16日

でもゆくゆくは、たとえば iCab や Opera が標準で持ってるような、見出しの間をジャンプする機能を、大多数の UA も持っていくようになるとおもう。いや、そうであるべきだと思ってます。

Wordのアウトラインモードのやうに、本文を折畳んで表示出來るブラウザがあると良いかも。HTMLエディタにも、さう云ふ物があつて良い。

平成14年4月16日

HTML文書なんて、制作者は好きなやうに書けば良いのですよ。自由ですよ。


その代り、駄目なHTML文書を公開して、批判されても、反論出來ないぞと。


表現の自由は認める。その代り、批評する自由も認めていただきたいものだ。


「俺は好きなやうに表現をする、けれどもおまへは批判してはならない」は認められない。當り前だ。

平成14年4月16日

「狐の書評」に、國語問題關係の本が採上げられてゐたのださうで。

たしかに名著。最近はインターネット上で、この本を「聖典」として「歴史的かなづかひ」を実践するサイトなどもいくつか出現しているようだ。ただ、それらがあまりおもしろくないのは、文章が「歴史的かなづかひ」にもたれかかっているのである。「歴史的かなづかひ」をはずすと、文章が倒れる。


ペンネームに「きつね」關係の文字を入れる匿名の人間に、ろくな奴はゐないと云ふ説。

ペンネームに「たぬき」關係の文字を入れる匿名の人間にも、馬鹿が多かつたりするが。


どうでも良いんですが、うちのサイトを見てゐるんなら見てゐるとはつきり言つて下さい>「狐」。『私の國語教室』を聖典と呼んだウェブサイトは「言葉 言葉 言葉」が元祖。

平成14年4月16日

胸のすくような正字正仮名の文を書けと命ずる「正字正かな派」の人間の文章がどうしやうもないほど腐れた文章であるのは、屡々ある事である。

平成14年4月16日

私の考えは『「現代仮名遣い風味なことば」に強く由来する思考を「正仮名遣い」で 書くのは私の美意識に合わない』と言う方がより正確でしょうか。いかにも脇の甘い 言い方で、論戦するならツッコミ放題でたまらんのでしょうが。

現代仮名遣い風味なことばつて、一體全體どのやうな代物なのかねえ。きちんと定義出來るものならしてみるが良いと思ふ。絶對無理だから。そして、定義出來ないのならば、そんなもの存在しないのである。存在しないものを、恰もあるかのやうに言ふのは、他人を欺く爲か、或は、自分で自分を欺いてゐるかの、どちらかである。


「あまりにもわかり切つてゐて説明する必要がない」と思つてゐるものは、一度疑つて見るべきだ。屡々、自明のものと思つてゐる事が、ちつとも自明でない事に氣附かされるだらう。

「現代仮名遣い」そのものに、風味など存在しない。

平成14年4月16日

「プライヴェートの時間が電車の中にしかない」と云ふのが一番困る。しかも1日3時間とか4時間とか。

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