それでふと閃いたのが、現代仮名遣いと言うのは、綴りの難易度を大幅に引き下げて識字率の向上を図る事を目的として開発(と言うのもアレだが)されたのではないか?とかいう誇大妄想だったり。
國語改革の當事者はさう主張してゐるんですが、昭和20年當時の日本の識字率は極めて高く、わざわざ表記を變更してまで識字率の向上をはかる意義は全くなかつたのでした。
御題目を信ずるのは勝手だが、現實も見ろと。現實を見ると、御題目の嘘は一發で分かる。
- 正字とか
- いや、政治の話。警戒とされる根據が良く判らないです。表記方法が政治とむすびついてゐるわけでもないでせうし。
根據なんてないんですよ。單に、正字正かなに惡い印象を與へられれば良いんです、あの人にとつては。
政治的な人間は、イメージ戰略しか使はない。要はデマゴーグであると云ふ事。
印象で物を語る人間は危險です。何かにレッテルを貼つて世の中から抹殺しようとする人間は、自由主義の敵です。
私は、政治的には自由主義の支持者だから、自由主義を守る爲に論理的な議論をすべきだと主張してゐる。ひたすら自由主義を崇め奉る事だけが自由主義者のすべき事ではない。
世間の人は「自由主義を守る爲に」と云ふ御題目の下、自由を否定するやうな言論を封殺しようとする。しかし、それは自由の自殺にほかならない。
「正字正かなは古めかしいものだ」→「古めかしい表記を使ふならば、古めかしい考へ方をしてゐるべきだ」→「古めかしい考へ方をするならば、古めかしい文體を用ゐるべきだ」と書くと、妙に論理的に見えてくるが、これらのテーゼはいづれも論理的に飛躍してゐるのであり、論理的に飛躍してゐるものを三段重ねにしても議論は論理的にならない。
「言葉の暴力」と云ふレッテルは、極めてインパクトが強く、戰略的に用ゐると自分が恰も被害者であるかのやうに裝へるし、相手が一方的に惡いかのやうな印象を與へる事が出來る、便利な言葉である。即ち、不用意に使ふと、「言葉の暴力」と云ふレッテルを貼らうとした人間自身が、言葉の暴力を働いてゐる事になる。
「言葉の暴力」と云ふ言ひ方は、譬喩以上の何ものでもないのであつて、意味が曖昧だから便利に使はれる。しかし、比喩に頼つたり、曖昧な言ひ方に頼つたりすると、根據のない誹謗をしてしまふ事になり兼ねない。そして、言葉の暴力とは、さう云ふ根據のない誹謗や罵倒の事を指すべき比喩である。
根據のない思ひ込みで相手を罵つて反撃された結果、「言葉の暴力を受けた」「私は言葉の暴力には屈しない」と叫ぶ人がゐる。
實際に、言葉の暴力を働いてゐるのは誰か。「私は言葉の暴力を受けた」と云ふ告白が常に正しいとは限らない。「私見」や「私の印象」は、所詮その人自身にとつて絶對的であるに過ぎない。
偏執的生理的不快感
、だけに思えます
、その失敗の結果であるならば
、遊びとしてはよいでしょう
――以上、正字正かなの文章について中田さんが述べた感想です。
正字正かな派の人間が、讀んで不快になるのを狙つたとしか言ひやうのない、人を見下した文言です。中田さんが、これらの文言を、無意識に用ゐたのならば、文章を書く人間として餘りに無自覺過ぎるとしか言ひやうがありません。意識的に用ゐたのならば、反撃されても當然でせう。いづれにしても、これらの文言を中田さんが用ゐた時點で、中田さんが正字正かな派との對話を既に避けようとしてゐる事は明白です。
中田さんは、自分の主張には根據がない事、自分の意見が間違つてゐるかも知れない事を、屡々強調してゐます。
大した理屈もなく、ただそう思ったからだ
、糾弾を叫ぶのは、およそ己の立脚点を崩壊させることにほかならない
、私的な部分に由来するものでありましょうから、世に広く正当と謳うべきものではないでしょう
、云々。
しかし、なぜかさう云ふ自覺があるにもかかはらず、中田さんは自分の「私見」なるものを執拗に述べ續けます。反論が来ると「私見ですから」と言ひつつ、執拗にその「私見」に基いて議論を續けようとします。
中田さんは自分の「私見」に、絶對の自身自信を持つてゐるとしか、考へられません。
かかる件について与えた不快について、謝罪します。
と、中田さんは述べてゐる。しかし、中田さんは一體この文句で、何を謝罪してゐるのかと、私は問ひたい。
たとえば、比喩として「糾弾」などという過激な語を使ったのが適切でなかったのだと思います。
糾弾と云ふ文言が比喩でなかった事は述べたし、中田さんも認めてゐる。
あるいは、書き捨てで言葉が足りなかった、もう少し言葉を選ぶべきであったとも思います。
あれこれ矛盾した物言いもありました。
「
どう云ふ事なのでせうか?」と問われれば、大した理屈もなく、ただそう思ったからだと答えるほかにありません。それを敢えて理屈に落すなら、前述の屁理屈めいた糾弾と称した信仰告白に書いてあるとおりのことです。いけないとも、やめろとも、取り下げろとも申し上げたつもりは毛頭ありません。ただ私は不快を感じ、そこから何かを思い、記した。ただそれだけのことです。怒りを買うような文であったのなら、求められれば謝罪しますが。
中田さんの謝罪は、謝罪の爲の謝罪に過ぎません。ポーズなのです。この中田さんの文章をみればわかります。中田さんは、自分の主義主張には、惡いところ、誤つたところは全く存在しない、と信じてゐます。ただ單に、誤解させただけに過ぎない、と、中田さんは思つてゐます
さうではないと、中田さんの考へ方、知識には根本的な問題があり、正字正かなと云ふものを中田さんが誤解してゐると、さう私は申してゐるのであり、江洲さんもおつしやつてゐるのです。
しかし、私どもの指摘を中田さんは「私見」を根據に排除し續けてゐる。だから私は中田さんの事を自己中心的
とか獨善的
とか言はざるを得ないのであります。
冷静でないまま重ねてしまった言葉にも多々、非があったでしょう。
非礼を重ねた上での謝罪など、信用できないかとは思いますが、それでも謝罪します。――ごめんなさい。
私が中田さんの「謝罪」を信用出來ないのは、中田さんの非礼
が原因ではありません。
端的に言ってしまえば、私が、江洲さんのそれとは、大きく異なる世界を見ているだけのことかもしれません。であるのならば、馬鹿げた文句をつけるんじゃない、この気違いがとでも、あるいはもっと酷い罵倒であっても、構わず思い、お言い下さい。私はそれに甘んじますし、それでも構わずそう思い、そう見続けるでしょうから。
中田さんは、かう言つてゐるんです。相手を気違い
呼ばはりするのは、相手の人格を否定する事です。中田さんは、さう云ふ風に自分の人格を否定して呉れても構わ
ないと、さう言つてゐます。にもかかはらず、中田さんは何故に私の文章ではなく、私の人格を誹謗されたのでしょうか。
と私に疑問を呈してゐます。
だから、中田さんの謝罪も何も信用出來ないんです。
文には作文としての評価や反論を返すのが適切な態度なのではないでしょうか。
と中田さんは私に質問してゐます。しかしですね、私の側からすれば、私の指摘を中田さんがはぐらかした態度こそ、その中田さんの所謂適切な態度
から外れてゐるとしか見えないんですね。
私の論理に基いた指摘を、中田さんは「揚げ足取り」と決め附け、態度の問題に轉換して、結局のところ無視してしまつてゐます。論理はユニヴァーサルだから、公共の場で議論をする時には必ず論理に據らなければなりません。しかし、中田さんは、ローカルルールに過ぎない「私見です」や「自由です」に逃げてしまつてゐる。そして、中田さんは、自分が逃げてゐるのに、逃げてゐるのは野嵜の方だ、と決め附けて、威張つてゐる。そして、威張り返つてゐるにもかかはらず、言葉の上では慇懃に振舞つてゐる。この、中田さんの本心と口先の乖離が、私には、それこそ不快極まるものなのであります。
Whiteさんの言う正字正仮名での思考というのは、態度も含めたそういう面を言ってるのではないかな、と思いました。
と言ふよりは、「おまへの態度は惡い」と言ふ爲に、その「おまへ」の文章で非常に目立つ正字正かなと云ふ屬性を殊更に惡く言立てて、「おまへ」の氣を惡くしようとしてゐるのではないかと推測。
中田氏にとつて、正字正かなはどうでも良い事なのであつて、文章を書いてゐる人間の態度だけが問題なのだ。
洒落です。矛盾の指摘でもありますが。
別に、日記なんだから、私の思つた事とかを書いてゐるだけなのにと思ふのですよ。日記なんだから自由に書ける環境が良いですよねー。
餘所から一々「おまえのかなづかいはうざい」とか不當な壓力を受ける謂はないですよねー。
別に、日記なんだから、私の思った事とかを書いているだけなのにと思うのですよ。日記なんだから自由に書ける環境が良いですよね―。
余所から一々「公共の場では客觀的な意見を述べるべきです」とか不当な圧力を受けるいわれはないですよねー。
ふむ。非常に難しい冗談を言ふと通じないと云ふ例の事態發生の模樣。
と言ふか、「公共の場では客觀的な意見を述べる」といふのは、餘りにも當り前の事なので、それを不当な圧力
だと主張するのはどうかしてゐると思ふ。かなづかいをうざい呼ばはりするのは不當ですがね。
根據のない事を言ふのが不當なのは當り前でせう? 根據を擧げてものを言ふのは當然でせう?
「自由」にこだはる人はすぐに「自由」に引寄せて自分の言動を正當化しがちですが、「自由」は自分だけを正當化する根據になりません。精々パロディ的に自分と他人の雙方を相對化するのにしか使へません。
意見の否定を人格の否定とは思いません。ところで、私を評してものと思われる
馬鹿野郎、僞善者、自己中心的、獨善的、等は人格攻撃ではないのですね。また、客観的に見て、私はそのような人間なのですね。了解しました。
論理的に間違つた事を言ふ人を馬鹿と呼ぶのも、僞善的な行爲をする人を僞善者と呼ぶのも、自分の意見は根據が無くても眞實で、相手の意見は根據があつても「揚げ足取り」だと言ふ人を自己中心的或は獨善的だと批評するのも、全部根據あつての事ならば「言論の自由」と云ふ原則が許す筈ですが。
「言論の自由」は、根據のない感想で相手を決め附ける人のせゐで、死にます。客觀的な批評で、言論の自由は死にません。
私では、野嵜さんとまともに対話することは無理なようです。残念ですが、これ以上の対話の試みは諦めます。お手数をおかけしました。
えー、中田さんは、「対話」が成立しないのは中田さんに責任があるとお考へなのでせうか。それとも野嵜に責任があるとお考へなのでせうか。もつとはつきり言つて下さい。中田さんの文章は、玉蟲色のものなので、私には全然理解出來ないのです。
私の事を無視して話を進めようとしても、さうは問屋が卸さない。
「貴方の印象を理論附けてそれらしくみせたもの」であることは御指摘の通りです。一連の意見表明において、私は一貫してそのようなつもりで文章を書いています。「私は〜思う・考える」を多用し、それが私見に過ぎないことを常に示しているつもりです。
何が私見に過ぎない
でせうね。私見に過ぎないのなら、偉さうな事は言へない筈です。
確かに表記と思考は違うものです。文体と思考も違うものです。
ただ私は、それらの間には強い関係があるだろうと、主張しているのです。強い関係があるために、強い相関、強い影響があるだろうと、主張しているのです。その前提の上で、私はこう考える、と主張しているのです。
この捉え方が恣意的であることは否定しません。それが見方・考え方というものですから。
主張するのは勝手だが、根據が全然ないと、私は批判してゐるに過ぎません。その批判を、中田さんは「揚げ足取り」と決め附けて、反論もせずに逃げました。
見方・考え方
は結構だが、その見方や考へ方の根據となる論理が、中田さんには存在しない。或は、その論理が間違つてゐる。
現代仮名遣いのみの特権的自由など、ないと思います。現代仮名遣いであろうと、正仮名遣いであろうと、同様に逸脱は認められるでしょう。
ただ、現代仮名遣いのほうが、逸脱があったときの違和感が少なかろう、とは思います(あいまいさ、論理性・妥当性のなさと引き換えの部分ではあるのかもしれませんが)。なお、これがあくまで私の印象論であることを、念のため強調しておきます。
私の印象論
がどうしたと云ふのでせうか。單なる反論封じの爲に「私は思いました」「私見です」と云ふのは止めて下さい。或は、これらの中田さんの言葉こそが、中田さんが對話を拒絶してゐる證據です。「私」の意見を一方的に垂れ流し、相手の意見を單に拒絶する――それは對話と呼べません。
現代仮名遣いのほうが、逸脱があったときの違和感が少なかろう
、なる意見ですが、そもそも「現代仮名遣い」には原則がないので、無原則の出たら目なものとは、確かに「親和性」が高い、と言へます。しかし、それのどこが良いのでせうか。出たら目は、良くないものです。
私は、原則を大事にしたいから、正字正かなを大事なものだと考へてゐます。そして、正字正かなの原則を認めた上でならば、或程度までの妥協が可能である、と考へてゐるのであります。
個性を否定する気はありません。そう読める文を書いたことについては、謝罪します。私が発端となった件ですが、これ以上互いを悪し様に言うような論戦に使われねばならないのでは、言葉が可哀想だと思います。
「謝罪してしまへば、自分は完全に免罪される。そして、謝罪された相手は、一方的に惡くなる」とでも、中田さんは思つてゐるのではないかと感じました。飽くまで私の印象ですが、個人の印象は絶對に正しいと中田さんは主張してゐるのでせうから、私の印象を中田さんは否定出來ない筈ですね。もし、個人の印象は正しくないかも知れない、と云ふ事を中田さんが認めるとしたら、中田さんは私の指摘した中田さんの考へ違ひを反省する必要があります。
その上で、お願いします。格調高い文体も、厳然なルールの遵守も、求めるつもりはありません。ただ、読むだけで気持ちよい、胸のすくような正字正仮名の文を書くよう努めていただけないか、と。これは正字正仮名で書かれた文であるからこれほどよい文なのだと、そう思わせる文のことを心に留め置いて頂けないか、と。
さう云ふ「道義的」な事を要求されても困りますね。要は、無害な事だけ言つてゐて呉れ、と、さう中田さんは要求してゐる譯です。無害ならば放つておいてやつてもよろしいと、少しでも波風を立てようとするならばまた「私見です」「これは私の印象です」と言つて正字正かな派の惡口を言ふぞと、中田さんはさう仄めかしてゐるのです。
言葉が綺麗なだけでは駄目だ、と私は思ひますね。人みな言葉を飾つて言ふ。そもそも、文體と假名遣ひとは關係ないです。「正字正かなであるがゆゑに良い文章なのだ」と思はせる文章は、ありません。中田さんは、文體の問題を、假名遣の問題にすり替へてゐます。
と言ふよりも、中田さんにとつて大事なのは「印象」である、と云ふ事なんでせうね。困つた事です。
加えて、理解が足りないとはいえ正字正仮名の文にいくばくかの想いを抱いているからこそ、一連の論戦の発端となる発言に至ったということをお分かり頂ければ、なお幸いに思います。
そのいくばくかの想い
とは、善意によるものなのか、惡意によるものなのか、私には判斷がしづらいのですが。どうも惡意に偏つてゐるやうな氣がしないでもないのですが、これは飽くまで、私の印象です。
話をその発端
に戻すんですが。
正字正仮名を思考の基調言語にした上で、なお「んー」とか思ってるのなら、この指摘はまったくもって的外れ、単なる私の誤読です。
でも、そうでなく、ねじれ状態の産物であるなら、「正字正仮名で引き写し」は遊び以上にならないんじゃないの、と。現代仮名的な日本語で思考してるなら、現代仮名的な日本語で引き写すのが「正しい」んじゃないの、と。私はそのように思います。
現代仮名的な日本語
とは、一體全體どのやうな代物なのかが、私には全く理解が出來ない。現代仮名的な日本語
の原理・原則とは、一體全體どのやうなものなのか。
「現代仮名遣い」とはそもそもどのやうな原理で出來てゐるのか、と云ふ事を、「現代かなづかい」擁護派、「アンチ正字正かな」の人は、いづれも考察した事がありません。もし、一度でも考察した事があるのならば、「現代仮名遣い」を擁護する爲にヒステリックに、或は感情的に、正字正かなの文章を非難する事など出來ません。
「アンチ正字正かな」の人が、正字正かなの文章をヒステリックに罵つたり、自分の個人的な考へや印象で正字正かなの「あるべき姿」を定義したりしてゐるのは、その人が感情的に正字正かなに反撥してゐるだけで、理性で反對してゐる譯ではない事の、歴然たる證據です。
そして、その手の人は、つつかれると、「これは飽くまで私見なのですから」とか言つて逃げたり、「それは誤解です」と相手に責任轉嫁したり、そつと自分の意見を變更して知らん顏をしたりするのですが、良くない事です。或意味、さう云ふ態度は現代仮名的
と呼べるかも知れません。
おまけ。
一応指摘点全部に答えるようなものも書きましたが、それより先にこの前提を理解していただきたいので、そちらは(まだ)公開しません。これ以上、私などと対話する気があるのであれば、以上の2点に返答をお願いします。
こちらはその以上の2点
なるものに囘答したのだが、中田さんは一応指摘点全部に答えるようなもの
を公開する氣は無いやうだ。最初から無かつたのではないかと云ふ印象を私は持ちましたが、これは飽くまで私見ですから、中田さんは反論しないで下さい。そして、中田さんはこの私の意見に反論する事が出來ませんから、中田さんにとつて私野嵜のこの「私見」は絶對に正しいのです。飽くまで中田さんにとつて、と云ふ限定された話ですが。わらひ。
自分の美意識やら感覺やらに基いて意見を言ふ人に限つて、自分の美意識や感覺に誤謬のある可能性を疑はうと云ふ氣が起らないらしい。
例の「メディア3法」に反對してゐる人は、自分がどうして「メディア3法」に反對しなければならないのか、その理由を知らない。だから、その理由を問はれると、ショックを受けて、ヒステリックに相手を罵り始める。
みんな「信者」なのである。根據なしにイデオロギーだの自分だのを信ずる事は、殆ど「宗教」である。
「私はかう感じたからXを否定する」と言ふのは結構だが、さう云ふ獨斷的な餘りに獨斷的な意見を「言論の自由」と言つて絶對化し、反論を全て「言葉の暴力」呼ばはりして退けようとするのは、むしろ言論の自由を否定する事にほかならない。
言論の自由とは、「言論の自由を楯にとつて自分の意見を絶對化する」爲にあるのではない。「意見を言ふのも自由だが、その意見を批判するのも自由」と云ふのが眞の言論の自由だ。
「言論の自由」には「言論の自由を否定する自由」が當然含まれる。「言論の自由を否定する意見」を「言論の自由を擁護したい人」が絶對的に否定するのはをかしい。
その邊りの事を勘違ひして、「言論の自由」を擁護した積りになつてゐる莫迦には、永遠に死亡してゐて貰ひたい。
非道い言はれやうだが、私の指摘に何一つ答へてゐないところを見ると、中田さんは當方とのコミュニケーションを一方的に拒絶してゐるやうです。私は、文章として理解されることを期待して、いくつかの文章を書きました。それらは、一通り全体を読んだ上で、全体を通じて受け止めていただきたく思って書いたものです。
ですが、野嵜さんはそれに対し、部分部分について微細な指摘をした上で、それを統合せずに、私への返答として記述されました。私はもう少しまとまった形として返答があることを期待していました。
これでは、あまりに対話の前提が違いすぎるとほとほと困り果てました。
何かを意圖するのは勝手ですが、その意圖が全然文章に表はれてゐないのでは、讀者は誤解して當然ではないですか。
全体を通じて受け止めていただきた
い、と中田さんはおつしやるが、中田さんの文章は部分部分
が相互に矛盾しあつてゐるので、全體を統合する事など出來ないのです。中田さんは、無理を讀み手に押し附けてゐるんです。或は「以心傳心」を中田さんは期待してゐるんでせうが、それあ無茶です。
今度こそ間違いなく比喩として申し上げます。
私は野嵜さんの返答に、「作文の課題を提出したら書き取りの課題として評価された」ような感覚を憶えました。
確かに、「書き取り」のレベルで問題の多い文であるのでしょう。そのあたりは、微細に御指摘下さった野嵜さんの方がわかっておられるかもしれません。ですが、私は「作文の課題」として、先の文章を書いたつもりです。作文には作文としての評価や反論を返すのが適切な態度なのではないでしょうか。。
「作文を書け」と云ふ課題が出てゐた時に、作文を書いて提出して、それが「書き取りの課題」として採點されたのならば、それあ不當な評價と言ふものでせう。
しかしですね、「書き取りの課題」としか見えない代物を作つておいて、「これは實は作文の課題なのだ」と主張し、「どうして勝手に書き取りの課題にしたんだ」と怒るのは、どうかと思ひますよ。
それから、比喩は結構ですが、「作文の課題」とは何の喩へで、「書き取りの課題」とは何の喩へなのですか。中田さん自身、御自分の「比喩」の意味がわかつてゐないのではないですか。
それから、私は野嵜さんの文章を誹謗することはあっても、野嵜さん個人の人格を誹謗しようとしたつもりはありません。結果としてそうなった部分はあるかもしれませんが。
ですが、野嵜さんは明らかに私個人の人格を誹謗されています。誹謗を受けた以上、そこにはいわれがあるとは思いますが、何故に私の文章ではなく、私の人格を誹謗されたのでしょうか。
「人は自分を否定すべき文句で以つて他人を罵る」と、私は常々申してゐるのですが、中田さんのこの文句は、まさにそれですね。
無闇な正字正仮名に向かい、阿呆か馬鹿かと糾弾を連ねてやろうなどと、思うわけである。
これは、他人の人格を誹謗したものではないと。
私には、野嵜さんが、文のあげ足だけ取って、文章を読もうとしていないように思えます。正直、意思の疎通ができるとは思いません。対話する気があるのなら、私の文をこねくりまわすのではなく、私の文章を読んでください。そんな気など毛頭なく、持論の株を上げるための叩き台が欲しいだけなら、どうぞ勝手に愉悦に浸ってください。
とんでもない非礼だとは解していますが、少なくとも、野嵜さんよりの私に対する反応の文章には、そう思わせるだけの何かがあると忠言させていただきます。これが私の誤読であるのなら、よいのですが。
これは、誰がどう見ても、私野嵜の人格を否定した文章ではないかと。
比喩でも何でもなく、中田さんは馬鹿
だの阿呆
だのと言つて糾弾
したのですから、同じやうな事を言返されるのは最初から覺悟の上だつたのではないですか。
中田さんが攻撃してきたから、私は反撃したに過ぎません。
「〜と思ひました」「〜と感じました」と中田さんは言つて、私の文章を決めつけてゐます。中田さんは、御自分の主觀で以つて私の文章を決めつけてゐます。私は、出來る限り客觀的に根據を擧げて中田さんの感想が不當である事を證明しようとしただけです。
それあ、中田さんの主觀を私は否定してゐますよ。しかし、それは當然の事ではないですか。ウェブは公共の場であり、公共の場では客觀的な意見を述べるべきです。それなのに、中田さんは、自分の主觀に基いて正字正かなに關する意見を述べたのです。その主觀的な意見に客觀的な反論が出た。そこで「作文の課題を書き取りの課題として評價された」と主張しても、駄目ですよ。客觀的な意見を述べるべき場で主觀的な事を言出した中田さんが最初に間違つてゐたんですから。
作文には作文としての評価や反論を返すのが適切な態度なのではないでしょうか。
と云ふ疑問には、「客觀的な意見を述べるべき場で、中田さんは主觀的な事を言つた。だから中田さんの態度がそもそも不適切だつた」と御答へします。
何故に私の文章ではなく、私の人格を誹謗されたのでしょうか。
と云ふ疑問には、「そもそも中田さんの方こそ私野嵜やその他の正字正かな派の人間の人格を否定してゐた」「中田さんは主觀的な事を言つてゐたが、客觀的な事を言ふべき場では客觀的に否定されて當り前」「主觀的な意見を否定されれば人格を否定された樣に感ずるのは自然だが、最初に主觀的な意見を言つた時點で中田さんが間違つてゐる」と御答へします。
「人格を否定するな」と云ふ中田さんの主張は、「主觀的な意見を否定するな」と云ふ主張にほかならないのですが、主観的な自分の意見を根據拔きで絶對化し、客觀的な反論を封殺するものですから、私は認めません。
素面で自分を「兄ちゃん」とか「兄ちゃま」とか呼ぶ奴は例外ナシに馬鹿。
別に、日記なんだから、私の思つた事とかを書いてゐるだけなのにと思ふのですよ。日記なんだから自由に書ける環境が良いですよねー。
餘所から一々「おまえのかなづかいはうざい」とか不當な壓力を受ける謂はないですよねー。
沈默の暴力と云ふのもあるんだよな。ダイ・インとかハンガーストライキとか、どうしてその手の思想の持主は横着な戰略を使ひますか。
JIS X 4156:2000(HTML)の收録された日本工業規格のハンドブックは、本屋で買へます。例へば書泉グランデ。
高いのがネック。
國語改革は行はれてしまつたのだし、新字新かなにどれほど問題があらうとももはや後戻りは出來ないし、今更昔の表記に逆戻りする事は成功しさうにもない、だから新字新かなでやつていくしかない、と云ふ意見がある。
しかし、世の中の趨勢がさうだから、と言つて、半世紀前、日本人は負ける戰爭に一氣に突進んで見事に負けたのではないですか。
缺點が多い、論理的に間違つてゐる、とわかつてゐるにもかかはらず、「後戻りは出來ない」「時計の針を逆にまはさうとするのは愚かな事だ」と言つて、無理矢理改革を突進めれば、ろくでもない結末に至るのは必然ではないですか。
全部ローマ字とか、全部カナモジとかより、今の表記の方が増しだらう、完全に表音的にならなかつた事に感謝して、今の表記に我慢しろ、と云ふ意見もある。
一度徹底的に表音的な表記を採用して、表音的な表記がどれほど不合理であるかを日本人は身に染みて理解した方が良かつたと私は思つてゐる。今の中途半端に妥協した表記に、私は感謝する氣など毛頭ない。
そして、中途半端でどうとでも解釋出來るやうになつてゐるから、今の漢字と假名遣ひは「受容れられてゐる」と云ふ事を、強調しておきたい。「日本国憲法」と一緒で、「現代仮名遣い」「常用漢字」は妥協の産物であり、論理的に一貫しないがゆゑに、贊成派・反對派は自分逹に都合良く、或は都合の惡いやうに解釋出來る。
しかし、さう云ふ妥協の産物は、良いものとも惡いものとも決定されないまま放置される事になる。そして、妥協の産物は所詮妥協の産物でしかないのであつて、最善のものではないし、最善でないならば惡いものである、少くとも何らかの害を齎すものである。
黒白ははつきり決定すべきである。さもないと、永遠に鬪爭が續く事になる。
「この程度ですんで良かつた」は、災害に遭つた人間の言ふ文句である。
不快なら読まなければいいというのはそうだと思いますけど(一つの芸風なわけですし\ 妄想行はうざいから気持ち悪いから消せとか言われたら、きっと同じように返したと思う )、Whiteさんの言う正字正仮名調の思考というのはあると思います。
私事ですけど、妄想を思いつくままに書き連ねている時、その思考は決して正字正仮名調ではありません。もちろんそれは私が正字正仮名がわかってないというのもありますが。
たとえば、妄想中、みんが『んー・・・』といいわけをひねる時は表音的に『んー・・・』である以上に態度と思考が『んー・・・』と上を向いている雰囲気を伴っています。
正字正仮名であれば、そこはむしろ『うむ・・・』とかになるのではないでしょうか。つまり態度と思考に重みがあり、非常に真剣に下を向いて考えてる様子なのだと思います。それでは正字正仮名でも『んー・・・』といえばいいかと言うと、そういうものでもないと思います。なぜならそれは正字正仮名と合わないから。
正字正仮名を使う者がもし上を向いて考える様子であれば、せめて『ふむ・・・』ぐらいになるのでしょうか。
同様に『だ、だけどさ・・・』とかありますが、それが正字正仮名的に何が該当するのか等は文化面も含めてよくわかりませんし、きっと合うものはないと思います。それが偏見だと言われればそこまでですが。Whiteさんの言う正字正仮名での思考というのは、態度も含めたそういう面を言ってるのではないかな、と思いました。
・・・と書いたところで、Whiteさんがきれいな文章でまとめちゃってるし(^^;。
江洲さんが、それは思考でなく文體です。
と反論していらつしやつて、それで話は御終ひなのだけれども。
「現代仮名遣い」が表音的なんー
なる概念を表現可能だとしても、正字正かなが妥協してんー
なる概念を表現して惡いと云ふ決りは全然ありません。と言ふか、正字正仮名調
の定義は、どこの誰がいつどこでどのやうなものとして決定したのでせうか。
根據なしの妄想を垂れ流すのは勝手ですが、批判される可能性も一應考慮しておいて下さい。
最近この類の説明でかなり疲れてゐるんだけど、文體や人格が變はつたわけではないのは讀めば判りさうなんだけど。それとも實際は、字面ばかり追ひかけてゐてちやんと讀む人がほとんどゐなかつたということだらうか?
まあ、世間の人は、文章の内容を理解しようとしませんから。どんな語句が使はれてゐるか、と云ふ、スクリプトなみの判斷能力しか持たない人しか、世間にはゐませんから。
色色話題になつてゐるみたいです。ざっと見まわすと現代仮名遣い派が多い気がしないでもない。まあ私は正(略)は使わないし。だって「あぅーっ」って書けないし。あぅーっ…って…。
別に「書いてはならない」と云ふ決りはどこにも存在しないんですけど。
自己規制しておいて、「どうして出來ないんだ」と文句を言つちやいけません。
正字正
加奈仮名。アチシは別に違和感ないんだけど、日記見てると、みんな違和感あるのかなぁ?。読みやすいと感じるときもあるんだけど、アチシがおかしいのかな?(自分で書きやすいとは思わないから使わんけど)。
文字のピクセル数に対して漢字の画数が多いのでその点でちょととまどう、というのはある(^^;。けどそれだけ。
かう云ふ意見は、穩當なものだから、文句の附けやうがありません。私は正かなづかひが正しいものだから、全ての日本人が使ふべきだと信じてゐますが、慣れてゐない等の理由ですぐには使へないと言ふ人に、無理にでも使へとは命令しません。
ところで、「加奈づかひ」つてどうですか。謎。
この件で思ってたんだけど。
「読み辛い」と思う人ってそう思うんだったら、どうして素直に「読まない」という選択をしないんだろ?。
と言ふか、読み辛い
と思ふのは個人の自由なので、私は規制しようとは全然思はないし、読み辛い
と思つた人が讀まうとするか、讀まうとしなくなるかも、私は氣にしない。
ただ、読み辛い
と云ふ感想を、一々正字正かなで書いてゐる人間に讀ませて、正字正かなで書いてゐる人間を不快にしてやらうとする態度は、どうかしてゐると思ふ。それこそ、「マナー」の問題ではないかと。
てにをはが狂つてゐてとても理解出來ないやうな文章を書いてゐる相手にならば、読み辛い
と文句を言つても良いかとは思ひます(理解されない可能性は極めて高いと思ふけれども)。しかしですね、取敢ず文章の形式は整つてゐて、讀めば一應の理解は出來る文章を、読み辛い
から駄目だと決めつけて、罵倒や嘲笑をするのは止めて呉れと、一部の讀者の方々には御願ひしたい。
流穂さんのやうに、正字正かな派の「言論の自由」を認めつつ、自分も「言論の自由」を行使して「現代仮名遣い」で書くよとおつしやるのならば、それあこちらだつて、文句を附ける事は出來ません。
しかし、一般的だからとか良くわからんけれども俺にとつては見慣れたものだからとか言つて、「現代仮名遣い」とは異る正かな表記を單に否定する人がゐるのでして、さう云ふのはやめて呉れと、私は申し上げたいのであります。
「読めない漢字」が多いのは野嵜さんも言はれる通り、此方の表記が悪いのではなく、国語改革を行つた人達が悪いのです。此れは蛇足ですが、臺湾では今も繁体字を使つてゐますから、知つてて損は無い筈です。
蛇足の蛇足ですが、「言葉 言葉 言葉」に臺灣からアクセスして呉れた人がゐます。
どうして臺灣からのアクセスに氣附いたのかといふと、臺灣ドメインからウイルスメールが屆いたからだ。
13日の買物。
定本限定版 並製五百册の内本書は其第九三三册
ほかに「室内」四月號と某ネットランナー。
かなってのは仮名なわけで、正かなってのはおかしな言葉だねぇ、ちゃんと真名ってのもあるのに、とか言ってみたり。いうまでもなく真名=漢字のこと。つまりかななんぞ使わないのが日本語の正書法なわけなんですな。ヘリクツですが。
これも、現代の多くの日本人が勘違ひしてゐる事なのですが、日本語は固有の表記を持ちません。漢字が外來のものであるのは自明ですが、かなだつて漢字から生れたもので、日本人の發明ではないと言ふ事が出來ます。
はつきり言つて、日本に日本固有の文化などありません。日本の文化は全て外來の文化です。日本人の誇り得る日本だけのものと言つたら、富士山しかありません。そして、富士山を築いたのは日本人ではないから、日本人が自らの行爲の結果として誇り得る日本人獨自のものなど存在しない、とすら言へます。
ただ、漢文を訓讀し、訓點から日本語固有の「辭」の存在を自覺し、一方でかなを作り、かなづかひと云ふ日本語獨特の表記の規則を見出し、日本語の文法を確立した――と云ふ日本人の歴史、或は傳統だけは、日本人だけのものです。そして、日本人の傳統は、誇る必要はないけれども、日本人は自分だけのものとして、大事に守つて行かうとしなければなりません。
日本人にとつて、我々だけの文化、我々だけの傳統は、もはや日本語しか殘つてゐません。今、周りを見廻してみても、日本人は、日本の傳統的なものを何一つ持つてゐません。よろしいですか、あなたが今見てゐるコンピュータの畫面上に、日本の傳統的なものが存在しますか。あるのは僅かに、漢字と假名だけではないですか。そして、その漢字と假名は、我々の御先祖樣が使つてゐた漢字と假名ではありません。
我々現代の日本人は、殆ど根なし草なのです。僅に殘つた日本人の根つこが、日本語なのですが、それも日本人は切捨てようとしてゐるのです。
まああれだ、私の個人的事情からすれば、 正字正かなは読みにくい(というか読めない)から、 もし可能ならやめてもらいたいところではあるんだ。
この手の「正字正かな批判」でもつともオーソドックスな非難方法が登場してゐる。私の個人的事情からすれば
、と云ふ奴だ。國語の問題は個人を超えた共同體の問題だから、てめへの事情なんか知つたこつちやねえ、と云ふ反論で方のつく話なのだが、そもそも、この手の私の個人的事情
がどうして出來したのかを、どうして私の個人的事情
と大威張りで曰ふ人々は考へようとしないのだらうか。
俺の個人的事情からすれば、「現代仮名遣い」は論理的に一貫しない氣持ちの惡い代物だから、日本人は全員使ふな、と言ひたい位だ。
ただそれは、多分に読み手の事情というやつだからのう。 私が正字正かなを読めない無学を恥じるべきなのかもしれない (といいつつ恥じるつもりは毛頭ないけど)。 もちろん、表記なんて所詮単なるコミュニケーションの手段でしかないから、 もしそれで読者が極端に減るようなら考えたほうがいいかもしれんけどね。 ただ、たとえそうだっとしても、 そこでどうするかは書き手の自由ということだと思う。
表記なんて所詮単なるコミュニケーションの手段でしかない
と云ふ言ひ方にもひつかかる(コミュニケーションの手段なのだから、表記は論理的に一貫性のあるものであるべきだ)が、しお兄ちゃん氏(この「ハンドル」は極めて不快だ)の書き手の自由
と云ふ言ひ方が非常に氣になる。
中田氏の「正しい」も、しお兄ちゃん氏の「自由」も、所詮は私の個人的事情
に過ぎないのではないか。要は、「俺の勝手」「おまへの勝手」を、正義とか自由とか、さう云ふ御立派さうな言ひ方に言換へてゐるに過ぎないのではないか、と云ふ事だ。「御立派さう」と言ふよりは、より安易な言ひ方をしてゐるに過ぎないのではないか、と私は疑ふ。
で、所詮それだけのことでしかないことに、 なんで変な純正論が持ち出されてくるのかのう。 例の「私の國語教室」という本は、 あれはあれで私は帯に嫌悪感を感じて読む気もしないんだが (もし、それが単なる帯のつけ方の問題で、 中身はそんなことはなかったとしても、帯は本の一部である以上、 トータルな「本」としての問題)、 他人がどう正字正かなを使うか、という他人の自由に対して、「正字正かなはこう使うべきだ」なんて純正論をもちだすのも、 それと同じような嫌悪感を感じるのう。
この邊り、言ひがかりとしか言ひやうがない。少くとも、嫌悪感
なんてものを持出す時點で、しお兄ちゃん(本當に氣持ち惡い「ハンドル」だねえ、以下「しお」)氏こそが純正
な自分にこだはつてゐる事は自明なのだが。
そもそも、言葉遣ひに自由は存在しないので、國語の問題に他人の自由
などと言出す事が不可能だ。各個人が自由に言葉を使ひ始めたら、コミュニケーションは成立しなくなる。言葉は本質的に不自由なもので、それぞれの人間が一定の規則に制約された概念を持ち、その概念を制約された媒體を通してやりとりする事で、コミュニケーションは成立する。コミュニケーションの手段である限り、表記に自由はない。
ところで、どういう経緯で現代仮名遣いが現代日本の文書の正書法になったか、 という事情を知ってる人はどれくらいいるのかのう。 一歩間違うと、全部ひらがなとか全部カタカナとか、 それどころか全部ローマ字表記になってたかもしれんところだったんだけども、 結局今の形に落ち着いたんだね。まあ、そういう経緯がいいかどうかは わかんないんだけども、個人的には、結果として出てきた表記は実用性という観点で非常に合理的だと思ってるんだけどなぁ。 一方で、(たぶんそんなことはないとは思うけど) 今さら正字正かなに戻ろうとする政治的な力が強くなってきたとしたら、ある種の警戒をしたほうがいいと思う。
しお氏は本當にどういう経緯で現代仮名遣いが現代日本の文書の正書法になったか
を知つてゐるのだらうか。斷言するが、しお氏は知らないで言つてゐる。
今の形
は、將來全部ひらがなとか全部カタカナとか、 それどころか全部ローマ字表記に
する足がかりとして、表音主義者が戰略的に採用したものに過ぎない。
當初は飽くまで暫定的な表記法だつたから、漢字は「当用漢字」だし、かなづかひは「現代かなづかい」と云ふ名前だつた。改革の當事者にしてみれば、漢字は「当用」のものだから、將來は改訂する積り(當然、廢止する予定)だつた。かなづかひは、「現代」のものに合はせて、どんどん變更する積りだつた。
今、戰略的
と言つたけれども、「表意主義者」からの反論を封ずる爲に表音主義者がとつた戰略は大當りして、しお氏を見事に洗腦し、その他の大勢の日本人を「現代かなづかい」支持者にした。実用性という観点で非常に合理的
と云ふスローガンは、まさに國語改革を實行した表音主義者のスローガンで、今「現代かなづかい」を支持してゐる人はそのスローガンを鵜呑みにしてゐるだけである。
國語の問題は言語の問題であり政治の問題ではないから、政治的な觀點である実用性という観点
を重視するのは誤であり、言語學的な觀點である論理的な一貫性と云ふ觀點を重視するのが正當な態度である。國語改革の當事者は戰略的に、言語學から政治へ論點をすりかへたのだが、今も正字正かなを批判する日本人はその戰略を守り續けてゐる。
しかしですね、実用性という観点で非常に合理的
の「合理的」とは、一體全體どう云ふ意味ですか。合理は物事の理窟に合つてゐること
と云ふ意味だけれども、実用性という観点で
物事の理窟に合つてゐるとはどう云ふ事ですか。そもそも、実用性という観点
とは、どう云ふ事ですか。
餘談だが、辭書によると、合理化には二つ意味があつて、一つは工程や事務處理過程にある不合理を除き、能率的にすること
と云ふ意味だが、もう一つは辯解・正當化のための理由づけをすること
と云ふ意味だ。新字新かなの「合理」には、どうも辯解とか正當化とかの意味合ひが感じられる。閑話休題。
百歩讓つて新字新かなが実用性という観点で非常に合理的
であるとしても、言語學的に合理的であるとは言へますか。言へませんよ。五段動詞つて何ですか。「言わない」と「言おう」が、どうして同じ未然形になるんですか。「現代かなづかい」支持者は正かなづかひを非難しますが、非難する對象の正かなづかひの原理に「現代かなづかい」は依存してゐるんですよ。
「現代かなづかい」の支持者の人は、「現代かなづかい」の内閣告示を良く讀んで下さい。「現代かなづかい」は飽くまで歴史的假名遣の文章を書換へる際の基準を定義してゐるに過ぎません。「現代かなづかい」支持者は、歴史的假名遣(正かな)は既に過去のものだと信じてゐますが、歴史的假名遣(正かな)は今でも生きてゐるんです。
私には、野嵜さんが、文のあげ足だけ取って、文章を読もうとしていないように思えます。正直、意思の疎通ができるとは思いません。対話する気があるのなら、私の文をこねくりまわすのではなく、私の文章を読んでください。そんな気など毛頭なく、持論の株を上げるための叩き台が欲しいだけなら、どうぞ勝手に愉悦に浸ってください。
とんでもない非礼だとは解していますが、少なくとも、野嵜さんよりの私に対する反応の文章には、そう思わせるだけの何かがあると忠言させていただきます。これが私の誤読であるのなら、よいのですが。
非道い言はれやうだが、私の指摘に何一つ答へてゐないところを見ると、中田さんは當方とのコミュニケーションを一方的に拒絶してゐるやうです。
てめへの方で對話しようともしないで、何が「野嵜は對話する氣がない」だ馬鹿野郎。何を偉さうに忠言
だ。僞善者め。
今回の私の発言が契機となった無用な論争についての、極めてぶっちゃけた感想。結局のところ「お前、一人だけ明後日に向かってるってばさ」と言われればそれまで。もう立脚点とか視点とかまったく違う。私がしてるのは実際のところ脳の話で、みなさまがしてるのは日本語の表記の話。論点噛み合うはずもなし。――とか書くのはフザケすぎ、でしょうか。でも正直な感想です。
全くもつてふざけてゐやがる。正直などではない、單に中田氏は自己中心的で獨善的であるだけだ。何が私がしてるのは
だ。私、私、私。少しは他人の考へを理解しようとしやがれ。
最後に。かかる件について与えた不快について、謝罪します。たとえば、比喩として「糾弾」などという過激な語を使ったのが適切でなかったのだと思います。あるいは、書き捨てで言葉が足りなかった、もう少し言葉を選ぶべきであったとも思います。あれこれ矛盾した物言いもありました。冷静でないまま重ねてしまった言葉にも多々、非があったでしょう。非礼を重ねた上での謝罪など、信用できないかとは思いますが、それでも謝罪します。――ごめんなさい。
「謝罪する奴が一番惡い」と云ふ格言を作りたくなつた。
無闇な正字正仮名に向かい、阿呆か馬鹿かと糾弾を連ねてやろうなどと、思うわけである。
これのどこが比喩
なのか。中田氏は、比喩
と云ふ言葉の意味を理解してゐるのか。中田氏は、常に獨特の用語で話をするから、一般的な意味を教へて差上げるが、糾弾とは罪状を問ひただし非難すること
である。比喩とは、物事の説明に他の物事を借りて表現すること
である。思つた事が比喩
なのではない。思つた事だらうが何だらうが、中田さんの糾弾
と云ふ言ひ方は比喩
ではない。
中田氏は小説を書いてゐるのださうだが、言葉を全然知らないのだから、本當に困つたものだと思ふ。言葉を愛してゐると宣言したければ、言葉の意味を理解して、正しい使ひ方をしようとしてゐなければならない。
實際のところ、中田氏と當方との間で論點が噛合はなかつたのは、「正しい」と云ふ事について、雙方が全く異る考へ方をしてゐたからだ。この「論爭」(中田氏が囘答を避けて逃げ捲つたから、論爭ではない。野嵜が中田氏の發言を糺彈したのである)で、中田氏は「自分が正しいと思つてゐる事が、その人間にとつて正しいと云ふ事だ」と考へてゐる。私は「論理的に筋が通つてゐる事が正しい事だ」と考へてゐる。
繰り返しになりますが、この不快はあくまで私自身の美意識に依拠する問題です。いけないとは言っていないし、やめろとも言っていません。あるいは単に私が「現代的口語的思考の正字正仮名による引き写し」に慣れていないだけかもしれません。
「
どう云ふ事なのでせうか?」と問われれば、大した理屈もなく、ただそう思ったからだと答えるほかにありません。それを敢えて理屈に落すなら、前述の屁理屈めいた糾弾と称した信仰告白に書いてあるとおりのことです。いけないとも、やめろとも、取り下げろとも申し上げたつもりは毛頭ありません。ただ私は不快を感じ、そこから何かを思い、記した。ただそれだけのことです。怒りを買うような文であったのなら、求められれば謝罪しますが。
「さつき言つた糺彈とは、實は信仰告白の事なのである」と云ふ説明で、私が納得出來ると中田さんは本氣で思つていらつしやるのでせうか。糺彈と信仰告白は全然別の概念です。中田さんは全然異る概念を同一視するのが得意であるみたいですが、私の頭は中田さんのそれ程鷹揚には出來てゐません。異る概念を同一視しろ、と言はれても、出來ません。
怒りを買うような文であったのなら、求められれば謝罪しますが
、と云ふ文章も、變です。これは、「怒りを買ふやうな文でないのだから、求められても謝罪しません」と云ふ意味ではないですか。もし「謝罪する氣がない」のなら、「恰も自分には謝罪する氣があるかのやうに相手を誤解させる文言」は書かないで下さい。
半ば自省的に、余談。
私は現代仮名遣い的な文語でもって文を書いておりますが、これが現代仮名遣いそのものであるとは思っていません。これは私の言葉、私の文語であって、私が伝えるのによしと思うことが唯一絶対の原則だと思っています。
半ば自省的
と云ふ事は、本當には自省も何もしてゐない、と云ふ事になりますね。
中田さんは、自分は現代仮名遣い的な文語でもって文を書いております
、と書いてゐます。しかし、現代仮名遣い的な文語
つて何ですか。中田さんの文章の文體は、誰が見ても言文一致の口語體です。
もしよろしければ、中田さんの「文語」「口語」の定義を御聞かせ願へませんか。それ以外にも、中田さん特有の用語がありましたら、説明してやつていただけませんか。中田さんの用語は、一般的な用語とは異つてゐるので、私は誤解してゐるかも知れません。
例へば、正字正仮名の文は、正字正仮名の文として思考され、書き下されるべきと思うのです。
と云ふ中田さんの發言も、中田さん特有の用語法で、我々の想像したのとは全く別の意味を持つのかも知れません。正字正仮名の文
に、中田さんは獨特の定義をなさつていらつしやるのかも知れません。もし中田さんが、最初から意圖的に獨自の用語でものを言つていらつしやつたのだとわかつたら、こちらが謝罪する氣になるかも知れません。
私は文字を単なる表記法だとは割り切れません。私は少なからず文字で考え、文字で感じているのです。そして私の中にある文字が、極めて現代仮名遣い的であるのなら、それはまず現代仮名遣い的な文で引き写されねばならないと、思うのです。
私が「私は」と思うときは私は「Watasi Wa」ではなく「私 + は」と思っていると、思うのです。であれば、それを引き写すのに、「私わ」はまったく適切でない。それは、「私は」と引き写されねばならない。見苦しかろうがなんだろうが、私はそのように思い、故にそう書くのです。
「私は」と思うときは
「私 + は」と思
ふ、とは、一體全體、どう云ふ意味なのでせうか。もつと詳しく説明していただけませんか。
私も「私は〜する」と云ふ概念を思ひ浮べる時は「私は〜する」と云ふ概念を思ひ浮べますが、それでは説明になつてゐませんよ、同語反復ですから。「私わ」
ではなく「私は」
でなければならない必然性を、理窟で説明して下さい。美意識と云ふ絶對の領域に逃込まれたら、こちらは判斷の自由を奪はれる譯で、何も反論出來なくなるではないですか。
なに? お前の言っていることそのものが見苦しい? まったくもってそう思います。そう思いながら、それでもこんな見苦しいものを書かずにおれない心持ちなのですから。
さつぱり譯がわからないんですが。見苦しいものを書かずにおれない心持ち
がどうしたと云ふのでせうか。と言ふより、見苦しいもの
を平氣で書いてしまふ美意識を、私は疑ふのですが。
見苦しいもの
が見苦しいもの
であるのには、何らかの理由があるものです。そして、普通の美意識は見苦しいもの
を避けるものであり、見苦しいもの
を書かないやうに見苦しい
理由を解明して反省する事を人に迫るものです。
少なくとも私は、そのようなもの(=正字正仮名的思考)があることを確信しています。
中田さんが確信するのは結構ですが、中田さんのおつしやる正字正仮名的思考
なるものがどう云ふもので、それが存在すると中田さんの確信出來る根據がいかなるものであるのかが、私にはさつぱりわからないのですよ。
私が私の裡より来たる無銘の音楽をこの喉で奏でるとき、私の思考は音楽に支配されます。私が空気の一粒までをも見通したいと視覚に意識を向けるとき、私の思考は視覚に支配されます。同様に、私がいくつかの文語(*1)を使い分けるとき、私の思考はその表記に支配されます。口語のとき、プログラムを書くとき、どれもほんの少しずつですが、確かに思考が違うと思います。あるいは、魔法を使おうと願ったとき、などもそうでしょうか。
自己陶酔に浸つていただいても、私には何の事やらちんぷんかんぷんなのですが。
中田さんの文語と云ふ用語の定義がなされてゐますね。書き言葉、の意。
すると當然、中田さんは口語を「話し言葉」の意味で用ゐてゐる事になりますが。
ただ、極めて現代口語的な言い回しを、文字に落すばかりか正字正仮名でやられると、これはもう見苦しいとしか思えないのだ。所詮は、私個人の美意識に依る想念でしかないのだが。
「話し言葉を正字正かなで書くな」と、中田さんはさうおつしやつてゐる譯ですな。
しかしですね、中田さんのおつしやる「口語」「文語」の意味が、私には依然として皆目見當がつかないですよ。
なに? お前の言っていることそのものが見苦しい? まったくもってそう思います。そう思いながら、それでもこんな見苦しいものを書かずにおれない心持ちなのですから。
これが、現代仮名遣い的な文語でもって文を書いて
いらつしやる中田さんの文章なのですよ。私にはこの中田さんの文章が、「話し言葉」の意味の「口語」による文章だとしか思はれないのですよ。
これはどう云ふ事なのかと。
まあ、己の立脚点
が崩壊
しても、中田さんは全然氣にしないのでせうが。
思考を変えるのではありません。思考が変わってしまうのです。絵を描くための認識・思考と、文字を紡ぐための認識・思考は自ずと差異を持つ。であるがために思考は自ずと変わってしまうと。
それは特殊な思考などでは断じてない。それは自ずと発し、自ずと至る思考でしょう。読者など一切関係なく、書き手の裡で変化は起こってしまうものでしょう。
ここまで讀んで、やつと腑に落ちました。
中田さんは、「表記が變ると思考方法も變る」とおつしやつてゐるんです。これで、中田さんの發想が理解出來ましたよ。中田さんは、「表記を變へる」と言はないんです。「思考方法を變へる」と言はないんです。「表記を變へて思考方法を變へる」と言はないんです。
たかが表記と割り切れない私は、確かに偏執的だと思います。ですが私は、そこに偏執してしまうような思考の枠組を持ち合わせているつもりです。
徳保さんが以前、「正しいHTML」は發想の變革を要求すると言つていらつしやつたのですが、正字正かなも發想の變革を要求するんです。偏執してしまうような思考の枠組
なんてものがあるならば、當然、中田さんは正字正かなを受容れられはしませんや。
私の結論として、繰り返します。私は、表記をただ表記と割り切ることができません。思考は少なからず表記に支配されると思っています。しかし、表記の変更を単純に表記の問題として捉えているなら、それはあまりに無自覚な行為ではないかと問いかけたいと思うのです。
私にしてみれば、思考と表記は相對的に結合してゐるので、表記を變へれば思考は或程度變はるものだし、同時に、表記を變へたところで思考は或程度しか變らないものです。
中田さんの自覚的
とは、どうも「神經症的」の意であるやうに、私には思はれます。
既に述べた通り、「現代仮名遣い」か、正字正かなか、と云ふ問題は、無秩序で良いと考へるか、秩序を認めるか、と云ふ態度の問題なのであつて、この場合、無秩序とは秩序に對して無自覺である事であります。
實際のところ、「現代仮名遣い」は原則の存在しない出たら目なものであり、「現代仮名遣い」を支持しないのは思考におけるアナーキズムであるとすら言へます。そして、人間の文化は、無秩序・渾沌の世界に秩序を構築する試みにほかなりません。文化に自覺的であるならば人は無秩序に向ふ事はあり得ないのであり、文化に無自覺であるから無秩序を人は容認してしまふ。
狹い自分の思考方法に「自覺的」である事よりも、人間の文化とは何かを自覺的に考へる事の方が、私はより重要だと考へます。そして、前者の、自分の思考方法を自覺的に守らうとする事は、單なる自己正當化です。後者の、文化を自覺的に守らうとする事は、近視眼的に見れば自己の否定でありますが、一方で、自己の立脚する文化を擁護する事で自己を含めた共同體全體の肯定に繋がります。
閑馬永空氏は不死身の重さに耐へきれなかつたらしい。
呉智英と云ふ文章もある。俺は呉智英さんの漫畫評論を認めない。
■青少年環境法案は見送り 与党、世論の反発懸念ふぅ、とりあえずこの件については一件落着。あとは森山か…。マスコミの皆様はあることないこと適当にでっちあげて反抗勢力な方々を失脚させていく方向でお願いしたい。適当にどこどこからなになにを貰った!これは公職選挙法違反ではないのか!とか書けば誰だって当たるだろ。とか言ったらなんか本気で怒られそうなのでやっぱやめておきます。フィクションフィクション。
「メディア3法」に反對してゐる連中は、「言論の自由」はどうでも良いのであつて、要は「エロいことが好き」なだけなのである。
普通の生徒は、學校で腹の立つことといへば先生とか校則とか言ふんだらうけど……私達にとつてはその普通の生徒つてのが腹の立つモトだつたのよ。
例の「メディア3法」で政治家やら政府やら何やらが「言論の自由」を侵害すると腹を立ててゐる人もゐるが、「言葉 言葉 言葉」の言論の自由を侵害して呉れてゐるのは、政治家や政府ではなく、主に世間一般の人々である。理由は假名遣ひ。
私は、假名遣ひを理由に言論を彈壓しようとする世間一般の連中こそ、糺彈すべき對象だと考へてゐる。
正字正かなで書いて何が惡いんだ。正字正かなで書く自由を認めない日本人の住む日本に、言論の自由など最初からありはしない。
そいえば「正字正かな」派の人たちの中には現代仮名づかいに対して「表音主義が原則のはずなのに『うちへ』とか『ぼくは』とか『わたしを』とか矛盾してるじゃないか! 『うちえ』と書け! 『ぼくわ』と書け! 『わたしお』と書け!」と極端に走ったことを言ってくれる人がいるらしいけど、五十歩百歩の百歩の方が「奴も五十歩逃げてるじゃないか!」と主張してるようにしか見えないんだよなぁ。いずれにしても百歩逃げてるという事実は消えないわけで。
當方への當てこすりであるやうに思はれる。
菅井氏は、例によつてようにしか見えない
と言つてゐる。これは獨斷と言はざるを得ない。そして、菅井氏は、その獨斷に基いて相手の考へを勝手に決めつけ、愚論をでつち上げ、否定してゐる。
五十歩百歩とは、違ひはあることはあるが、本質的には同じことだといふ意
だが、正字正かなと「現代仮名遣い」が本質的には同じ
だと菅井氏は思つてゐるのだらうか。
さらに言ふと、五十歩百歩の由來には、「五十歩逃げた兵士が百歩逃げた兵士を嘲笑つた」と云ふ謂があるが、だから「五十歩百歩」の關係にあるその一方の側は逃げてゐる、と云ふ事にはならない。
ついでに言へば、よしんば「正字正かな派が逃げてゐる」と言ふしても、「現代仮名遣い」派も「同じやうに逃げてゐる」事を、菅井氏もまた認めなければならない。「俺達も御前達も五十歩百歩だ」と言ふのは、罵倒の文句にならない。正字正かな派を罵倒した積りで、菅井氏は自分達、「現代仮名遣い」支持派の足許を突崩してしまつてゐる。
正かなづかひは、文法の規則或は語に基いて表記する。「現代仮名遣い」は、「話す通り」に書くのを「原則」とする一方で、一部の語を表記する規則に「文法の規則或は語に基く」と云ふ別の原則を導入してゐる。兩者の違ひを、「現代仮名遣い」派は「程度の差」と見る。
しかし、文法の原則を認めて例外を許容すると云ふ正かなづかひと、無原則であるにもかかはらず説明と便宜の爲に文法を利用する「現代仮名遣い」とには、本質的な違ひがある。
私が極端
な事を言つてゐる、と言ふ「現代仮名遣い」派は、「現代仮名遣い」が表音主義と云ふ極端
を避けてゐるから良いものである、と考へてゐる。しかし、「現代仮名遣い」は、極端
を避けてゐるから、論理的に一貫せず、言語學的に見たら出たら目で、だから認められない、と、正かな派は言つてゐる。
「現代仮名遣い」派は、理論的な一貫性を輕視してゐる。だから、表音主義に徹する事を極端
と言ふ。しかし、理論的な一貫性を認める事こそが重要なのであり、言ひかへれば、原則と云ふものを認める態度が重要なのである。「現代仮名遣い」は、理論や原則を輕視する事を利用者に銘ずる。だから「現代仮名遣い」はよろしくないものなのである。
でも読めない字があるのはちょっとなー。情報交換の断絶という意味では戦後の国語改革をした人たちと結局同罪なんだよな。
戦後の国語改革をした人たち
が惡いので、こちらは全く惡くありません。戦後の国語改革をした人たち
に文句を言つて下さい。
洗腦された人は、洗腦して呉れた人を尊敬し、洗腦を解かうとする人を侮蔑する。洗腦を解かうとする試みは「迷惑だ」と感ずる。
パスワード付きサイトからのリンクは禁止とします。どうしてもリンクしたい場合は、パスも教えて下さい――って教えるわけないよな。これは制限付きページと制限無しページでは、対等じゃないから厭だなーというわけでございます。
別にパスワード附きサイトがリンクを貼つて呉れても構はないと思ひますが。パスワード附きサイトよりもパスワードによるアクセス制限をかけてゐないこちらの方が、ずつと有利ですから。(制限なしのサイトの方が、どう考へたつてアクセスされる可能性が高い)
陰口を叩きたい奴には叩かせておけば良いし、陰で襃めて呉れる人がゐるなら、それはそれで良いのではないですか。
と言ふか、refererをチェックしてゐないから、どこからアクセスされてゐるのか、私は全然知りません。@NetHomeの「Web解析サーヴィス」、弱過ぎ。
「あんてな」經由のアクセスよりも、bookmarkに登録して直接來てゐる人の方が多いらしい、とは推測出來るんですが。或は、うちの「關聯サイト」經由。
私が不快を感じているのは、表記と思考の乖離にです。
表記と思考は相對的に獨立の關係にあるので、兩者の乖離を不快に思ふ事自體が尋常ではありません。そもそも、「現代仮名遣い」でも、表記と思考は一致しませんし、そもそも、「表記と思考の一致」と云ふ概念自體、怪しいものです。中田吉法さんは、どうして表記と思考が一致可能である、と考へる事が出來るのでせうか。そもそも、中田さんの考へる思考なるものは、一體全體、どのやうなものなのでせうか。
読み難いことが問題なのではない。言葉の底にあるはずの思考を無視して、表層だけもって「正字正仮名」と格好をつけるところに、私は不快を感じるのです。
正字正かな派が格好をつける
爲に正字正かなを用ゐてゐる、と中田さんが判斷した根據が、私にはさつぱりわかりません。或は、正字正かな派は言葉の底にあるはずの思考を無視して
ゐる、と中田さんが判斷した根據が、一體全體どう云ふものなのか、全くわかりません。
英語には英語の、日本語には日本語の、それぞれ根底となる思考があります。日本人である私は、日本語という言語に強く思考を拘束され、日本語に沿ったやり方で世界を見、聞き、感じ、知っています。
そして、文語と口語でも同じこと、現代かなと正字正仮名でも同じことだと、思うのです。正字正仮名で表記するなら、正字正仮名でものを考えるべきであると、思うのです。
すると、「現代仮名遣い」で文章を書いてゐる中田さんは、「現代仮名遣い」で考へる、と云ふ面白い事をしていらつしやる譯ですか。と言ふより、「かなづかいでものを考える」つて何ですか?
「英語で文章を書く爲には、既に英語で考へてゐなければならない」――なるほど、その通りです。しかし、「文語で書く爲には、文語で考へてゐなければならない」とは言へません。文語でものを書いてゐた昔の人は文語の文體でものを考へてゐた、と云ふ證據はどこにもありません。そもそも、文語は言文一致以前の文體です。
もちろん、「正字正かなで文章を書く爲には、既に正字正かなで考へてゐなければならない」とは言へません。そもそも、表記の原則である假名遣ひでものを考へる事は不可能です。
「英語と日本語」「文語と口語」「正字正かなと新字新かな」は、それぞれ全く異る概念です。language、style、orthographyは、全く異る概念だ、と云ふ事です。
しかしながら私には、その文面が単に現代かなで思われた文章を、機械的に変えているだけに思えます。その乖離に、私は不快を憶えるのです。
もし違うのであれば、謝罪します。正字正仮名で考えようとした、その失敗の結果であるならば、これは、いわれはあれども不当な非難でありましょうから。しかしいずれにせよ、私にはそのように読めるのです。そして、そのように読めてしまうことが、不快なのです。
「かなづかひで思ふ」事は、不可能です。「Cascading Style Sheetで文章をマーク附けする」と云ふ言ひ方をするのがをかしいやうに、「かなづかひで思ふ」と云ふ言ひ方はをかしなものです。
そのように読めてしまうことが、不快なのです
、と中田さんはおつしやいますが、そのやうに讀んでしまふ中田さんの方が間違つてゐるのです。
以上が、私の糾弾です。正字正仮名を使うならば、それに価うような思考より、言葉を紡いでいただきたいのです。
とはいえ、この糾弾は極めて私的な部分に由来するものでありましょうから、世に広く正当と謳うべきものではないでしょう。即ち、正当な糾弾ではないでしょう。ですが、私は言葉を愛しているからこそ、そのような言葉の使われ方には不快を感じるのです。
言葉を愛しているから
不當な糾弾
を行ふ、とは、どう云ふ事なんでせうか。私の理解出來ない變な事をする人がゐるから、世の中と云ふものは面白い。
中田さんは、「自分に都合の良い愚論をでつち上げて、それを叩いて勝つた氣になる」と云ふ、例の論法を用ゐてゐます。
と言ふか、俺にしてみれば、擬古文風の文體で書く一部の「正字正かな派」の方が不快だ。
餘計な御世話かも知れませんが、White's novels' pageのHTML文書があれなので何とかして下さい。
致命的なミス。
單なる記述ミスを除くと、比較的綺麗なHTML文書なので、殘念です。
個人的な意見ですが、bodyの直下にインライン要素やただの文字列を配置するのは、極めて不快でーす。
無闇な正字正仮名に向かい、阿呆か馬鹿かと糾弾を連ねてやろうなどと、思うわけである。
であるが、如何に無闇で阿呆であろうと、人が言葉をそのように使おうと思うのであればそれも正しい言葉となろう。にも関わらず糾弾を叫ぶのは、およそ己の立脚点を崩壊させることにほかならない。と気付いて止める。
ただ、極めて現代口語的な言い回しを、文字に落すばかりか正字正仮名でやられると、これはもう見苦しいとしか思えないのだ。所詮は、私個人の美意識に依る想念でしかないのだが。
極めて現代口語的な言い回しを、文字に落すばかりか正字正仮名でやられると、これはもう見苦しいとしか思えない
つて、どう云ふ事なのでせうか? 現代の日本語を表記するのに、どうして正字正かなを用ゐるのはいけない事なのでせうか? 日本語を表記する規則が假名遣ひなので、口語だらうが文語だらうが關係ない話なのですが。
それに、見苦しいと言つたら、表音主義を原則としてゐるのに、「私わ」とか「お前お」とか「そちらえ」とか書かないで良いとする「現代仮名遣い」の方が、餘程見苦しいと思ふのですが。
「現代かなづかい」では、「ぬかづく」を「ぬかずく」、「ひざまづく」を「ひざまずく」と書け、と云ふ事になつてゐた一方で、なぜか「もとづく」は「もとずく」と書かなくても良い事になつてゐた。理由は「言葉 言葉 言葉」の以下の記事に書いた。
画像を配信しないでください、という画像のキャプチャー: BS-i ってなに?日本のローカル放送局ですか?NHKが昔やってた「BS1」とかいうのが改称したの?「引用」は厳格にやらないとだめよん、と自分で言ってるそばから引用符でかこって「公正な慣習に合致すること」「報道、批評、研究などの目的から正確な範囲で行われること」なんて厳格でも正確でもない引用を繰り返してるのが笑える。てか法律がぐちゃぐちゃになりすぎて、利用者、利権者双方ともわけわかめ状態なのでは。ちなみに「正しい」教典によると「慣習」でなく「公正な慣行」、「正確な範囲」でなく「正当な範囲内」(において引用者の自由裁量で)。
けれど、そんな表面的な言葉の問題より、その「慣習」というか「慣行」について「法律や慣習やモラルといったさまざまなレベルで社会的な合意や結論に至っていないものも数多く」と認識しているところが敬意にあたいする。法は公正な慣行に照らして判断することを想定するが、そのような基準となるべき慣行がまだ定まっていない――インターネットという媒体ができて、まだ半世紀も経っていないのだから当然だ。ので、これこれなら絶対に良いとかこれこれは絶対にいけない、と言い切れない局面も多い。言い換えれば、論理的にややナンセンスな法律とも言える――「人類で初めて宇宙旅行に行く宇宙旅行者は宇宙旅行における先例に従わなければならない」というのと同じで、宇宙での「マナー」について地球上で旅行する場合の決まり事から常に類推、準用しようとすれば、ほとんど命にかかわる結果をまねくだろう。もちろん、利権者は自分の権利をなるべく多めに確保したいだろうし、利用者は一方においてはそのような拡大解釈の圧迫に対して自分に認めらるべき権利を確保しようとし、他方においては事をあらだてまいと「防衛的に萎縮」した態度をとるかもしれない。どちらにしても、無駄な形式的労力も多いのだが……。
- ――ミムナ・エレウェモス「この記事は勝手に転載して良い」より
「勝手に轉載して良い」と云ふ事で轉載されてゐる(であらう)記事を、と言つてゐるサイトから轉載してみるテスト。
『帝者』による統治と云ふ概念を否定し、いかなる統治者もせいぜい
『覇者』による統治しか出來るものではなく、それすらも否定すべきものである、と考へてゐる。
右翼の人も、多くの人が、天皇を崇め奉つてゐる割に自己顯示慾が強いので、困つたものです。
アホか。前後の流れを読め。私が学んだのは「話のすりかえ」ではない。
私が「学んだ」というのは、運動をやることに関してどれだけの実益と(精神的)消耗があるかのはなし(要は「運動の無駄とか云々」)であって、話をすり替えるテクニックではないということを明確にしておく。
だーかーらー。私がいつ、「あなたは東大駒場寮存続闘争(1993〜)
から話のすりかへを學びました」と言ひましたか? 話をすりかへるのはやめて下さい。苦笑。と言ふか、「後」を讀んだら、「あなたが何を學んだかは知らないが、連中は話のすりかへをやらかしてゐるので、あなたはその話のすりかへだけは學んで呉れるな」と申してゐるのがわかると思ふのですがー。
で、その肝腎の「後」を、望月さんがわざわざ引用しないのは、問題であります。意圖の正しく傳はる最低限度の引用を行はないで、中途半端な形で轉載を行ふのは、著作權法に反する可能性がありまーす。
と言ふか、ただの「揚げ足取り」を本氣の指摘と思ひ込むのが好きな人つて、多いですねえ。論爭で相手の隙を衝くのは、論爭の基本でせう。でなければあなた、そもそも「メディア3法」に反對なんて出來ないんぢやないですか?
同時に鞠絵あんてなからもはずしました。\ ついでにこの日記にアクセスするとき、 http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/ がHTTP_REFERERにあると Forbiddenするようにしました :-p
別に外したければ外して貰つて結構ですが、それをわざわざコメントの中で書くのはどう云ふ事なのでせうか。陰口であると思ひます。或は、「コメントだから批判禁止」と言つて好き放題書くのはどうかと思ひます。
それに私は別に政治主義に淫してません(淫していたといえばしていたかもしれないがそれは過去の話)。
まあ、これ以上に関しては「察してください」。 \ ===[ここから非コメント化禁止]=== まぁ、簡単にいうと、運動やることの無駄さだよ、無駄さ。 あんたが言ってる、ね。 私自身このことに関しては長く語りたくはないので。 ===[非コメント化禁止ここまで]===
運動が無駄か無駄でないかはどうでも良いのです。さう云ふ現象論ばつかりやつてゐるから駄目なんです。と言ふか、「無駄かどうかは關係なしに政治運動をやる事にこだはる」事は、政治主義に淫してゐる、決定的な證據だと言へませんかねえ。
ついでに言へば、何でも「お察し下さい」で濟ませられると思つたら、大間違ひです。例の「何か」の場合は、プラエセンス方面、「何か」方面の情報を、第三者は比較して檢證出來ました。
ふと、上記のことから思ったのですが、「わざわざ表立たせて引っぱり出すべきことじゃない」からこそやってるわけで。気を遣えよそれくらい、ってかんじです。
まぁあとよくあるパターンで メーリングリストとかで #ではじめてるところってコメント部分(というかあんまし反応して欲しくないところだから)、反応するといい顔されない、てのもありますね。
コメント扱いに関して明言しておいたほうが問題ないだろうということで。
コメント扱いになっている部分は、基本的にtemporaryだの、問題あって消すかもしれないであろう部分、あとはネタバレ含む場合などがあります。ですから以下のようにお願いします。
- コメント扱いの部分(<!-- 〜 -->)を非コメント化して引用し不特定多数に読めるようにすることを禁止します。 \ へたすりゃ著作権侵害(同一性保持権の侵害)になるかもしれません。
- コメント扱いの部分になんらかの反応をしたい場合は、コメント扱いでやるなり、それなりの「大人の対応」でよろしく。
- なお、コメント扱いの部分をどうしても引用なりしたいのであれば、事前でメールにて相談ください。
もう馬鹿か、阿呆かと以下略。
さう云ふ「道義」だの「マナー」だのを持出して他人の言動を封殺しようとするならば、「言論の自由」を守れだなどと云ふスローガンを用ゐるのは止めていただきたいものです。
他人に氣を遣へと言ふくらゐなら、例の「メディア3法」の意圖を汲みもせず、「言論の自由」なる御題目を稱へて揚げ足取り的な非難を繰返すのは止めるべきではないですか。
そもそも、コメントだらうが何だらうが、HTML文書の記述は全て、ウェブで公開されてゐるのであつて、ブラウザで表示されないからと言つてそれは隱されてゐるものだとは言へない。剩へ、そのコメントに各種の情報を埋め込んでゐる場合、そのコメントは閲覽者にとつて重要な情報となる。
或は、引用されたくなければ、最初から公開しなければよろしい。
それから、コメントの非コメント化と引用を非難しつつ、そのコメント内でこれ見よがしに「おまへのところからのアクセスははじく」と嫌みたらしく宣言するのは、どう云ふ事なのだらうか。言論封殺・反論封じと言はれても、反論出來ないのではないか。さう云ふ態度をとりつつ、「言論の自由」を旗印にするのは、矛盾ではないか。
さらに言ふならば、「メディア3法」關係の記事に反論するのならばともかく、「コメントの非コメント化」と云ふ「手法」を殊更に問題視して叩くのは、それこそ「話のすりかへ」ではないか。
と言ふか、氣を遣へ、と望月さんが命令する權原は、一體何ですか。或は、私に氣を遣つて貰はなければならないほど、東大駒場寮存続闘争(1993〜)
は望月さんにとつて「觸れられたくない處」だつたのでせうか。
まつたく、何を本氣になつて怒つてゐるんでせうね。たかが政治の問題ぢやないですか。政治の問題について本氣になつて(實は本氣でも何でもないのだが)怒るのが、「政治主義に淫する」と云ふ事です。\
それに、望月さんは私の事を日和見主義と決め附けるが、日和見主義の何が惡いのかを望月さんは指摘出來ないし、そもそも私が「日和見主義である」事を證明出來ないのではないですか。ならば、望月さんがレッテル貼りに逃げてゐる事は明かなのではないですか。
私は、「メディア3法」に贊成なのではないし、反對なのでもない。ただ、「メディア3法に反對」に反對してゐるだけだ。かう言ふのも何だが、私は物事を本質的に考へ過ぎるので、個々の法律と云ふ瑣末な問題よりも、法律の大もとである憲法の問題、ひいては憲法の問題を問題視しない日本人のメンタリティを問題視する。
俺の、政治主義と云ふ用語、道徳と云ふ用語は、松原正氏の用語なので、通念の「政治」「道徳」とは意味が異る。俺の言ふ道徳的は、一般の人が「徳目を墨守する事」の意味で「道徳的」と言つてゐるのとは違ふ。『文學と政治主義』電子テキストを參考にして貰ひたい。
俺は、「結果として徒勞に終るだらうから、その政治運動に携はるのは止めるべきだ」と言つてゐるのではない。「政治に先行するものの存在に氣附かないで、人間にとつて一番大事なものは政治だ、と思ひ込む事はよろしくない」と言つてゐる。
そして、「言論の自由」は所詮、政治に屬するものである。
激しく不愉快な思いをさせられたので、当分ここの日記の更新はしません。
気分を入れ替えようにも復旧できませんでした。
場合によってはこのまま閉鎖するかもしれません。そのときは、またどこかでまた会いましょう。さようなら。
「例によつて」の落ちがついた。
*.phpつて、ひよつとしてThe Internet Archive: Building an 'Internet Library'にも殘りませんか。CGI(等)で生成する日記につつこむと、これをやられるから困る。
まぁ、この法律は下手に適用すると(強行採決をもくろんでるあたり、そのにおいがただよってくるのですが・・・)思いっきり(これまで問題なかったものの出版物の)アングラ化を招くのは必至・確実でしょう。
こんな法律がなければ、アングラに屬する出版物が問題視されないほど、我が國の道徳は落込んでしまつたのでせうか。\問題は、規制する側にはなく、規制される側にあるやうに思ひます。
先日の「メディア3法」の件にコメント追加した件で、 闇黒日記(2002/04/10)より。
「闇黒日記」に、政治に關する建設的議論への提示はありません。政治運動に夢中になるのは馬鹿馬鹿しい事だ(からやめろ)と云ふのが私の立場です。
ご忠告ありがとうございます。・・・が、私にとって(残念ながら)それはご忠告じゃなくて余計なお世話になっちゃいます。過去の経験東大駒場寮存続闘争(1993〜) から、そのへんのことはすでに身を以て学んでるので。
東大駒場寮存続闘争
つて、左翼學生が、鬪爭據點を守る爲に、「棲家を追はれる」とか「自治」とか、全然關係ない御題目を稱へたあれから學んだんですか。
「話のすりかへ」は左翼の十八番ですが、そんなもの、學ばないで下さい。
と言ふか、私にとって(残念ながら)それはご忠告じゃなくて余計なお世話になっちゃ
ふ理由が、さつぱりわからない。
「政治主義に淫するな」と言はれれば、政治主義に淫してゐる人は、それあ嫌な氣分にはなるでせうが。
「バス駆除しないで 擁護メール殺到」。 組織票ねぇ。(中略)。
とはいえ、「生態系に溶け込む」とか「バス釣りは生きがい」などという意見は笑止。故意に持ち込まれた生物が在来の生態系を駆逐して定着してしまう事を「溶け込む」とは言わんでしょ。 「生きがい」だと言う人の気持ちもわからんではないが、その「生きがい」とやらのために犠牲になっているものの大きさを少し考えてみないといかんのじゃなかろうか。
故意に持込まれた「仮名遣い」が在來の假名遣ひを驅逐して定着してしまふ事もやはりよろしくない。「仮名遣い」の爲に犠牲となつたのは文化である。
・マウスの左ボタンを押しながら右ボタンを押し、右ボタン、左ボタンの順にはなす