闇黒日記



彼岸

平成14年3月25日

PC説教講座
PC Tipsと同樣、HTML關係の記事がある。

平成14年3月25日

平成14年3月25日

なぜか「正字正かなは互換性が低い」と云ふデマが飛交つてゐるみたいだ。「現代仮名遣い(現代かなづかい)」と「当用漢字(常用漢字)」の方が「互換性」の低い事は、この二つの表記法が戰後にしか通用してゐない事實を見れば自明。


「現代仮名遣い」も「常用漢字」も、それらを支へる一貫した理論は存在しない。


正字正かなを「旧字旧仮名気持ち悪い」と罵る人も屡々ゐるが、得意げな顔をして何が「気持ち悪い」だ。おまへは本當に正字正かなを知つてゐるのかと問ひたい、問詰めたい。小一時間問詰めたい。

おまへ、「旧字旧仮名」つて言ひたいだけなんぢやないかと。

正字正かな專門サイトの制作者である俺から言はせて貰へば、國語問題通の間で評判が高いのは福田恆存の『私の國語教室』。これだね。

文春文庫から發賣中だ。


しかし、正字正かなに轉向すると、何も知らない連中に嘲笑されると云ふ危險も伴ふ、諸刃の劒。

まあおまへらど素人は、2ちゃんねらー用語でも使つてなさいつてこつた。

平成14年3月25日

ソースは、http://cgi.html.ne.jp/~keisuke/darce.html というところ。
ソース元のサイトが中坊で、相手は明らかに年上と思われる。

「ガキが売る喧嘩」なる見出し(?)が附いてゐる。

でかいた喧嘩の顛末。

結局相手方の方のサイトが閉鎖してしまった。

このことに対する、中坊側のコメントは非常に身勝手なモノだと感じる。

個人的には、正しいHTML+CSSの普及を訴える前に、自分の人間としてのあり方をよく考えろと言いたい。そして、Webで文書を公開することの重さをよく考えて頂きたい。

訪問者に優しいWebサイト作りにしては、口調が惡くありませんでせうか。


おまけ。

http://www.mars.dti.ne.jp/~fuming/ を XHTML1.0 Transitional としてチェックしました。
45個のエラーがありました。このHTMLは -78点です。タグが 20種類 93組使われています。文字コードは Shift JIS のようです。

平成14年3月25日

祖國防衞 〜七三一のホームページ〜
「「闇黒日記」について」なる見出しですが、addressの文書構造上のレヴェルがをかしくなるので、對症療法的に入れたものです。

その「對症療法」ですが、どう考へても間違つてゐるので、そのうち何とかします。

平成14年3月25日

infoseekがリニューアルして隨分經つのに、インフォシーク エンタテインメント→お笑いサイト→パロディー→インフォシーク?(舊インフォシーク エンタテインメント→ユーモア→パロディー→インフォシーク?)に掲載されてゐるパロディサイト及びKSmiracle Web Directory 特記事項に記載したパロディサイトが、どこも追從してゐない。

平成14年3月25日

やみくも屋
妙に親近感を覺えるので、應援してあげて下さい。

ゴーストコミュニケーションにおいて永遠と反応し続ける問題を修正。

例によつて「延々と」の誤用。えいえんはあるよ……參照の事。

平成14年3月25日

おかし日記
なんか何時までたってもサーバの調子が元に戻らないのでどうせ引っ越しもある事だし、新しく借りる事にします。 先日言っていた「さくらね」で行きそう、と言うかそれしか知らない(笑)との事。

根性は無いんですが、アクセス後、Operaを暫くほつたらかしておいたら表示されたんで、讀めました。

平成14年3月25日

衆議院議員 辻元清美 (社会民主党)
何も新しい情報は出てゐない。

原よう子さんも、鈴木宗男氏を散々叩いたホッと一言で、何も言つてゐません。

平成14年3月25日

自分の国を誇るとは、国体そのものではなく精神(スピリット)を誇ることだ、それが愛国心だ、と信じている。

文脈を無視してつつこみを入れるけれども、その考へ方は「危ない」ですよ。

愛國心と誇りとは無關係であるべきです。どんなに自分の國が惡い國であらうとも、自分の生れた國は自分の生れた國であるがゆゑに愛する――それが愛國心です。誇る必要は全然ない。


そこで「自國の誇り」に行つてしまふと、國粹主義者になります。


私は、日本國なんざ潰れたつてちつとも構はないと思つてゐる。


「反日的日本人」と云ふレッテルを貼られてゐる連中も、日本を愛してゐるであらうし、ただ「愛し方」が「保守派」と違ふだけに過ぎない。


しかし、そもそも、「國を愛する」事が人間に可能であるのかどうかを、我々は疑つた方が良い。人間が愛せるのは、身近な人間だけである。自分の生まれ育つた土地は愛好出來るが、道徳的な意味で愛せはしない。人間が愛せるのは個人のみである。集團を、或は社會を愛する事は出來ない。國を愛する事も出來はしない。


それから、日本人に精神があるのかどうかも或意味疑問。大和魂とは天狗の類か、と夏目漱石が言つてゐるやうに、「和魂洋才」の「和魂」、詰り日本人の精神と云ふ奴は、どうも存在しないらしいのである。


しろはたのモー先生によれば、日本人にあるのは大和玉だけらしい(ただし男のみ)。

平成14年3月24日

「このサイトは内容が面白い。正しいHTMLで書かれていればもっといいのに」のような指摘と、対象サイトからのそれに関する反論、のような構図は良く見られるものであるが、反論は結局意味を為さないことが多く、そんなことをしている暇があるのだったら、正しいHTMLに直してしまうか、完全に黙殺して面白いコンテンツの更新を続けた方が良いのではないかと思うことがある。

平成14年3月24日

+++血濡れの看護婦同盟+++ =赤十字遥=
遥の一次配布元黒子屋本舗は、Internet Explorerで閲覽するとアレですが。

平成14年3月24日

普段、Sleipnirを使っていて、滅多にInternetExplorerは立ち上げないのですが、さっき立ち上げたら愕然としました。

なんと、小林カツ代エクスプローラに!!

うちのは秋子さんエクスプローラになつてゐますが。


今こそ双葉さんを使つてあげようキャンペーン實施中。


ネタかと思つてゐたんですがマジ臭いんで。

何が原因なんでしょう? 本当に怖いのです。

何かと関係が?

御影さくらのメニューから「設定」を呼んで、「その他」タブの「キャプションいじり」のチェックを外して下さい。

materia 535邊りの「古い」版には、このチェックを外しても、なぜかInternet Explorerのキャプションだけ「いぢられたまま」になる不具合があります。539では修正されてゐるみたいです。


平成14年3月24日

CSS Editor for tDiary
tDiary用と銘打つてゐるが。

平成14年3月24日

「100の質問系の質問の提示者と囘答者に一つの質問」。「その手の質問は何問であるのが妥當だと思ひますか」。


37考へるのにも苦勞したんですがー。

平成14年3月24日

道義不在の時代
更新。

豚の戰爭の猪川さんに校正して頂きました。データの修正は野嵜が行つてゐますが、直し方が變かも知れません。ミスがあつたら野嵜の責任です。

平成14年3月24日

字体弄りの変遷
ぱつと見ただけでは譯がわからないし、良く見ても譯がわからないのだけれども、要は、譯のわからない事を日本人は一生懸命やつてきた、と云ふ事である。

「弄つても譯がわからない事になるのだから、漢字なんて駄目だ」と思ふ人が澤山ゐさうなのだが、惡いのは最初に適當な弄り方をした馬鹿なので要注意。

「字體弄り」が本質的に非論理的なものなので、まとめても譯がわからないのは仕方のない事なのです。ペトロニウスさんのせゐぢやありません。弄つてゐる連中が惡いのです。

平成14年3月24日

新しいKSmiracle Web Directoryをユーザースタイルシートを適応させて見るとメールからこんびにまでの間のアンカーをactive、もしくはhoverさせるたびにしたのブロック群がどんどんしたに離れていくという謎な現象が。まあIE6のバグだろう。

本當だ。面白いのでこのままにしておかう。


と言ふか、Internet Explorerでは當方の意圖通りに整形されません。苦笑。

平成14年3月23日

さくらみかげ
御影さくらデヴュー。

平成14年3月23日

A
?
B
´`;

噫無情。

平成14年3月23日

My Life as a Dog
2002-03-22の記事で、正しいHTMLファイルとCSSファイルとチュートリアルをセットにしたものを、フリー素材として公開するのが骨子と云ふ提案が出されてゐる。

スタイルシートギャラリーは中途半端かな。

平成14年3月23日

正字正かなの入力 @ 風がそよぐ場所
「略字正字打鍵位置對照表」が公開された。

平成14年3月23日

本家に追從してkotobaseekをリニューアルしたら、ISO/IEC 15445:2000準據になつてしまひました。わらひ。


途中で似せる氣をなくしたので、餘り似てゐません。

平成14年3月23日

\

平成14年3月22日

KSmiracle Web DirectoryのコンテンツのHTML文書をHTMLクイックチェッカでチェックしたら大量にミスが見つかつて欝。


HTMLクイックチェッカでもAHLでもW3CのValidatorでもひつかからないKSmiracle Web Directoryのミスを、1年以上放置してゐた事實發覺。氣附かない俺も俺だが、何で誰も指摘して呉れなかつたのだらう。2002-03-22T10:45:00+09:00現在、まだそのままにしてますんで、探してみて下さい。

平成14年3月22日

ホームページ講座は管理人がHTMLを理解できていないとご指摘を受けたので止めました。

「ez-HTMLは管理人がHTMLを理解できていないとご指摘を受けたので止めました」と言ふ積りはないらしい。


誤は直せば良いのです。私は「やめろ」と言つてゐません。

平成14年3月22日

僕がかつて犬だった頃の話
鞄の中身は、何だつたんでせうね。

平成14年3月22日

風のごとく、地のごとく
有益な情報を「正しい」HTML文書で公開してゐる例。

平成14年3月22日

ジョージ・オーウェル
自由とは、人の聞きたがらないことを言ふ權利である。

平成14年3月22日

金融用語辞典 銀行(4)破たんした銀行
幸福銀行は現在、関西さわやか銀行になつてゐるのださうだ。そのうち「ときめき銀行」になつたりして。

山形しあわせ銀行なんて銀行もある。

平成14年3月22日

HyperEditによるホームページ作成入門
HTMLの事を何も知らないで「HTMLエディタ」を作るのだから、まつたくもつて無知は強いとしか言ひやうがない。

屑みたいなプログラムに金を拂つてしまふ駄目なユーザが澤山ゐるから、この手のプログラムがなくならない譯だが。


その駄目ユーザのサイトで。

Thank you for coming. Sorry,these pages have Japanese only.なる凄い記述を見附けてしまつた。

平成14年3月22日

サエキさんインタビュ〜!
1999年ガンプラ王銀賞受賞作「1/100ジュアッグ」

平成14年3月22日

ISO/IEC JTC1/WG4 N1944: Instructions to ISO-HTML Editors
Roger Price氏による記事。
ISO/IEC JTC1/WG4 N1966: Announcement of ISO/IEC 15445 availability in HTML

Your editors have also developed an ISO-HTML User's Guide. Please note that this is not an ISO/IEC document.

平成14年3月22日

CSSコミュニティがもし100人の村だつたら。


某方面が 100 人の村だったら……

その村には、45 人の HTML4.01 ユーザと、40 人の XHTML ユーザが居ます。残りは、ISO-HTML を使っています。

嘘だー! そんなに「ISO-HTML派」はゐないよー!!

平成14年3月22日

ぴんくすとらいぷじゃないねこめしにっきなんて・・・闇黒日記デーなんてイヤイヤ

ガ━━(゜Д゜;)━━ン!

平成14年3月22日

インターネットエクスプローラーのURL入れるところに、 日本語で「やぎの目」って入れるとやぎの目が出てくることを発見。 へんなフレームついてるけど。

Internet Explorerのアドレス欄に日本語で「闇黒日記」つて入れると以下略。

平成14年3月21日

結城さん酒井さんきたさんが「告白」。

公式見解では「あんこくにつき」なのですが、どつちでも結構です。


と言ふか、どつちが良いですか――と、例によつて某方面(謎)に質問を投げてみる。

平成14年3月21日

キッズステーションが執拗に「SAMURAI GIRL リアルバウトハイスクール」を再放送するので、つい(重要)見てしまつたのですが、非常に叮嚀に作られてゐて、よろしいです。

ただ、何の話なのか、さつぱりわからんのですが。


あにめ版は原作その他を完全に無視してるらしい。

平成14年3月21日

ez-HTMLつてどうなんですか。何か、某とほほ師の「WWW入門」と連動するらしいんですが。


http://www.w-frontier.com/ を HTML4.01 Transitional としてチェックしました。
200個のエラーがありました。このHTMLは -66点です。タグが 26種類 290組使われています。文字コードは Shift JIS のようです。

駄目かも。


*.cssを編緝出來ない。ez-HTMLは「スタイルシート非對應」と言つて良いだらう。


以下、追記(2002-03-22)。私の氣附いた拙い「仕樣」。

この手の「タグ插入型」の「HTMLエディタ」は全て、「定型文を插入する機能」を持つたエディタの機能限定版に過ぎない。ez-HTMLはその插入する「定型文」をカスタマイズ出來るから、「機能限定版」であるにしても救ひはある譯だが、その「定型文」である「タグ」はどこにでも[插入」出來るので、HTML文書を適切に編緝するのには役に立たない。

「とほほ」を參考にしてゐる時點で、制作者の方がHTMLを知らない事は明かである。HTMLを知らない人が作つた「HTMLエディタ」なので、ez-HTMLが「HTMLエディタ」としては缺陷品以外の何物でもない事は明かである。


と言ふか、この手の「タグ插入型HTMLエディタ」は全て無價値だと俺は思つてゐる。


俺の知る限り、「正しいHTML文書」を作るのに役立つ「HTMLエディタ」は、HTMLクイックチェッカしかない。かう云ふ「HTMLエディタ」なら極めて有用だと思ふ。

殘念ながら、「HTMLクイックチェッカ」は「HTML4.0 Transitional」を基準にしたver.0.07からヴァージョンアップされてゐないので、XHTMLやISO-HTML準據の文書を修正するのに不便になつてしまつてゐる。それでも、全く無價値である譯ではない。


HTMLエディタ考
PC Tipsの記事。昔の文章で、やけに高壓的なところが熱い。

平成14年3月21日

私と鞠小路さんの間では、誤解や曲解が發生しました。この事は、表現が本質的に不自由である證據です。


「人は他人を理解出來るのか」と云ふ問題を、「表現は自由であつて良い」と主張する人は考へません。

平成14年3月21日

8頭身うにゅうはキモい。

平成14年3月21日

渡邊さんの「リンク集」を添削した例
鞠小路さんの所謂「制作者の意図」が、眞の制作者の意圖とは違つてゐた例。

平成14年3月21日

Operaのbuild 1061が3月19日に出てゐる。


Opera for Web designers
おぺらーとなる利點。

平成14年3月21日

「週刊少年マガジン」、増売のため創刊以来初のGW合併号とりやめ
講談社は「少年マガジン」のゴールデンウィーク前の合併号をとりやめ、通常通り、5月1日発売号を刊行。「8本連続!! 春の特大号」と銘打ち、プレゼント企画などで読者の取込みを図る。書店店頭で7億円の売上げ増を見込む。

賣れれば賣れるほど仕事がきつくなる羂。

平成14年3月21日

續き。


でも白状すると、軽率だなあと分かっていながら書いた部分もあって、その意味では確信犯である。詳しくないくせに一方的な論調で書いて、詳しい人やそのテーマについてきちんと考えてる人たちからの非難を浴びる。分かっているけれど、書いた。

確信犯を參照して下さい。

W3C が推奨する仕様が変わるたんびにソースを全部書き換えなきゃならないのかな。そんなことはないのだとしたら、どういった対処が望ましいのかな。

新しくHTML文書を作つた時、その時點で有效な文書型を宣言しておけば大丈夫です。古い文書を書換へる必要は、必ずしもありません。

まあ、HTML 2.0はobsoleteになつてゐますが。

一つの基準は、最大シェアのブラウザが比較的きちんと解釈する仕様、であるだろうか。こういう基準を考えつくあたりが、プラグマティックつうか実用性優先つうか、良くないんだろうな。XHTML でなければクソサイト、と言われる日も近いのだろうか。

既に私はさう言はれて非難されてゐますが。

不正な記述によるHTML文書が多くのブラウザで或表示になるとして、その表示制作者の意図通りであると、鞠小路さんはどうして決定出來るのでせうか。不正な既述のなされた文書と、或特定の表示とは、必然的に結び附きません。なんてのは、私の意図がまったく伝わってないことによる反応の典型です。私の文章がいい加減だから、こうなってしまいます。

よく、「このサイトはWinIE5.5とMacIE5.0で動作確認しています」などと書いてるサイトがありますよね。制作者の意図通りというのは、その程度の意味なのですが。不正な記述であっても、たまたま制作者が納得いく程度には表示されている、という状態を指していて、こういうサイトってめちゃめちゃ多いように思うんですけどね。

めちゃめちゃ多いと云ふ事は、ただの現象に過ぎません。

現象面で見れば、「不正な記述」のされた文書も、「正しく」書かれ、制作者のスタイルシートを呼出すやうになつてゐるHTML文書も、同じ結果が出ます。

しかし、「たまたまさうなつてゐる」と「さうしようとしてさうなつてゐる」とでは、全然違ふのであります。

また、たまたま制作者が納得いく程度には表示されている、と云ふ事は、結果の話であつて、結果を意圖する事とは全く關係がありません。鞠小路さんは、結果と意圖とを混同してゐます。「ひどいな」とコメントすべきでせうか。

それをありとあらゆるサイトに絨毯爆撃する意義それが一體何を指すのか全くわからない惡文です。

あれ?これは文脈から読めるんじゃ?わー。読めないのか。いかんな。「例えば」→「それから」っていう段落頭のつながりで「ユーザビリティやアクセシビリティの上で良くない、という指摘」であると素直に読んでいたのは、私がこの文章の作者だからです。自分の頭の中では繋がっていても、文章になったものを他人が見たときに伝わらない、というダメな文章です。でも、本当に『全くわからない』のかな。

ユーザビリティやアクセシビリティの上で良くない、という指摘ありとあらゆるサイトに絨毯爆撃するとは何ですか。「指摘を絨毯爆撃する」と云ふ日本語はありません。

鞠小路さんの論理を借りれば、「Navigator 4.xを認めない自由」だつてある。

うわ、これはひどいな。分かってるくせに。よくある手法です。訪問者の自由度をできるだけ確保する、という立場にありながらと直前に前提を明記しているのだから、これはわざと穿った読み方をしたのでしょう。

鞠小路さんの前提はこの場合、關係ありません。正しいHTML文書を書くべきだと云ふ立場から言へば「Navigator 4.xを認めない自由」だつてある、と云ふ意味の文章なのですから、鞠小路さんの誤讀です。ひどいなー。

私は全体を通して、制作者にもある程度自由があっていいじゃないかと言ってるのであって、Navigator 4.xを認めないサイトがあっていいと思っています。全くのすり替えだ。素なのかな。閲覧者の自由の確保をうるさく言う人が、閲覧者のブラウザを制限することの矛盾を言ってるのですよ。念のため説明したけど、わざとだったらひどいな。

だんだん鞠小路さん、激昂して來ました。すり替えと云ふ常套句が登場してゐます。

「正しいHTML文書」を推奬する人々は、ただ「駄目なHTML文書を公開するのはデメリットが多い」と言つてゐるのであつて、「駄目なHTML文書を書くのは制作者の勝手だ」と思つてゐるでせう。鞠小路さんが最初に、全くのすり替えをしてゐるのではないですか。人は自分を否定すべき文句で以つて他人を罵る。閑話休題。

「正しいHTML文書」を推奬する人々は、制作者の自由もさうだが、閲覧者の自由も大事だ、と言つてゐるのであつて、「不正なHTML文書でも良いではないか」と主張する人々が「制作者の自由」だけを重視するのとは違ひます。「制作者の自由」を主張する人々は、自分たちが閲覧者の自由を二義的なものと看做してゐるのを相手に投影して、「正しいHTML文書」を推奬する人々が「制作者の自由を認めず、閲覽者の自由だけを重視してゐる」かのやうに言ひますが、さうではありません。「制作者の自由」は一元論に基いてゐますが、「正しいHTML文書」は二元論に基いてゐます。

批判するのを認めない

出た。私はこんなこと一言も言ってない。もう飽きたとは言ったが。前半、冷静に客観的に反応してるのかと思ってたけど、違うのかも知れない。「闇黒日記」の読者は、私が「批判するのを認めない」人だという印象を受けますよ。間違いなく。むき出しの悪意なのかしら。

批判してもいい、いいけど、サイトを選んでやるべきでは、と言ってるのだ。それから、裏の意味は、ソースをこてんぱんに批判されて卑屈になってる人たちへのエールである。正しい文書を広めたい人たちがあらゆるサイトを同じ視点から批判することを、私は認めている。その批判はある文脈において正しいが、常に適正な批判であるかどうかは疑わしいと言ってるのだ。

前半、冷静に客観的に反応してるのかと思ってたけど、違うのかも知れない。と云ふ邊は、そつくりそのまま、鞠小路さんの反論にあてはまりますね。それはともかく。

批判してもいい、いいけど、サイトを選んでやるべきでは、と言ってるのだ。と云ふのが、鞠小路さんの反論の趣旨です。鞠小路さんはこの「制限附きの批判を認める事」が、自分は批判を認めてゐない譯ではないのだ、と云ふ主張の根據であると言つてゐます。

しかしながら、「制限附きの批判」の「制限」は、どのやうにして決定すれば良いのでせうか。もちろん、「サイトの趣旨を見て判斷しろ」と鞠小路さんは言つてゐるのですが、そもそも「サイトの趣旨」とは何なのでせうか。

鞠小路さんは精々、「サイトのテーマ」とかその邊りのレヴェルの事を「サイトの趣旨」と言つてゐるに過ぎません。しかし、「制作者がサイトを公開する事」を、「正しいHTML」を推奬する人々は考へてゐるのであります。テーマよりも「低レヴェル」の話――表現とは何か、と云ふ觀點で、鞠小路さんの所謂彼らはサイトを見て、批評してゐるのであります。

そして、「或テーマでの表現」は「表現一般」に完全に含まれます。だから、「それとこれとは話が別」と云ふ逃げ口上は通用しません。鞠小路さんは特殊の領域で反論してゐるのですが、その特殊の領域を含んだ一般の領域で「正しいHTML」を推奬する人々は議論をしてゐるのです。

正しくない文書がたまたま意図通り表示されてる云々については先述した通り。制作者はある環境において確認しており、気にする人は多様な環境で確認する。これは帰納的であって、本来は正しく演繹的にやるべきであるのはその通り。その通りだけれど、私はすべてのサイト制作者にそこまで要求するのは酷だと思う。

かどうかは關係ないのであります。ただ、「正しいHTML」を推奬する彼らは、原則の話をしてゐるだけです(その筈)。實際にその原則を守れるかどうかは二義的な事です。現實には制作者の能力やプログラムの機能の制約によつてうまい事出來ないかも知れないが、理想的には「かくあるべし」と云ふ仕樣がある、その理想的な仕樣に現實のリソースが近づくにはどうすれば良いのか、と云ふ事を「正しいHTML」を推奬する人々は考へてゐるのであります。「難しい事は考へるのを止しませうや」と、「正しいHTML」を推奬する人々は考へてゐないのであります。

ここのリンクページからリンクしている「IMAGE DIVE」などは、DOCTYPE宣言をしていない。メニューもフラッシュだ。「IMAGE DIVE はDOCTYPE宣言もしてないしメニューまでフラッシュだから、ダメなサイトだ」という批判があったら、私は妙な気分になる。その批判は間違った論拠によるものではないが、不適正なものに思える。その思いをつらつらと書いたのが一昨日の文章だ。

「正しいHTML」を推奬する人々が「正しくないHTML文書」で書かれた「良い内容のサイト」を批判する時には、「これが正しく書かれたHTML文書だつたらもつと良かつたのに」と言ふものです。

また、「もしXがYだつたら、Xは間違つてゐる」と言ふ「假定に基いた斷定」は、それこそ惡質なレトリックです。もちろん、鞠小路さんは「これは假定だ」と逃げるのですが、讀者は屡々「Xは間違つてゐる」と云ふ結論しか見ません。

私がどのレベルで自由・不自由と言ってるのかという話だが、フラッシュの不自由さはフラッシュを批判する人たちが指摘している意味での不自由さなので、説明不要に思う。

鞠小路さんは、曖昧な言ひ方に逃げました。

そもそも、「自由」と言へば何をするのだつて自由なのである。しかし、民主主義」に制約された「個人主義」と結び附いた「自由主義」における自由は有限の自由であり、無制限の「個人主義」と結び附いた「自由絶對主義」(これは野嵜の造語)における自由は無限の自由であるが、その邊りの區別も鞠小路さんは氣にしてゐない。鞠小路さんは、どのレヴェルで「自由」と言つてゐるのか。もし尋ねられても鞠小路さんは答へまい。

この豫言が適中しました。

それよりも問題なのはサイトの在り方として書いた「もっと、自由なものなんじゃないのか」の方だろう。

自由主義の國で、自由と言へば何をしようが法を犯さなければ自由です。しかし、「自由であれば良いのか」と云ふ疑問を私は持つてゐます。藝術作品は寧ろ、不自由でなければならないと私は思つてゐます。「自由」「自由」と言ふ人は本當に、自由ならば良い藝術作品が出來ると思つてゐるのでせうか。ただ「自由」と言ひたいだけなんぢやないか。小一時間問詰めたい。

もう一度言うが「ソースを叩かれて卑屈になってる人へのエール」をこめている。

そんな人がゐるんですかね。もしゐたとして、そんな人にエールを送る意味があるんですかね。

ここでの自由は、自分のサイトの表示を帰納的に判断するのみで満足する自由、いい加減なHTMLでサイトを作る自由だ。自由には責任が伴う。いい加減なHTMLでサイトを作ることによって生じる問題はサイト制作者が負うべき。その問題には、文書への批判も含まれる。だから批判したい者はすればいい。

責任をとりたければ、駄目なHTML文書を書き直さなければなりません。「開き直つて逆切れする自由」は、私は認めたくありませんね。

しかし、鞠小路さんは前に、批判してもいい、いいけど、サイトを選んでやるべきでは、と言ってるのだ、と書いてゐます。ここでも當然、いいけど、サイトを選んでやるべきでは、と云ふ文言が續きます。

要は、「制作者を批判する自由」は、制限つきの「自由」にほかならず、「制限附きの自由」と云ふ言ひ方は矛盾ですから、鞠小路さんの言つてゐる「自由」は結局、「不自由」の意味になります。

より正しい文書作成を心がけるのが望ましいのは言うまでもない。正しくないのがあってもいい、と言ってるだけだ。

この鞠小路さんの文章の意味は、以下の文章の意味とは正反對になります。

フラットでリニアな構造の自然言語に特有のレトリックです。自然言語では、語句が出現する順序で、意味が變ります。上の、二つの文章は、同じ意味になりません。

「正しくない文書を書く事」と「より正しい文書を書かうとする事」との、二つの事柄が述べられてゐる點、この二つの文章は違ひがありません。しかし、二つの事柄を對比し、そのどちらを支持するか、と云ふ價値觀の部分で、この二つの文章は全く異る意味になります。

私は、「正しい事が出來ないならば、努力を抛棄しても良い」とは考へない。「出來なくても正しい事を志向し、努力すべきである」と考へます。その點で、鞠小路さんとは全く反對の立場です。ほかの「正しいHTML」を推奬する人々も、或程度、似たやうな考へを持つてゐるでせう――少くとも、「論理的に正しい事をするのが正しい」と、單純に考へてゐるでせう。

いつもの批判を持ち出す前に、そのサイトの趣旨を考えてからでもいいんじゃないかと言ってるのだ。趣旨を考えたうえでなら、より適切な批判になるのではないかと思うからだ。趣旨を無視して文書ばかり批判しているのを見かけるから「ソースばっか見て」と揶揄したくなるのだ。ソースを見る楽しみを否定しているのではない。

それあ、よろしくない批判をする人もゐるのでせうが、さう云ふ人ばつかりでもないのでして、一概に決め附けるやうな言ひ方をしてはいけないのであります。

だって、これだけの長文批判だったのに、一番重要な「サイトの趣旨を考えてから批判してはどうか」という部分には全く触れられていなかったのである。

そのサイトの趣旨ですが、「正しいHTML」を推奬する人々のしてゐる批判の趣旨を、鞠小路さんは全く顧慮してゐませんでした。「正しいHTML」を推奬する人々を、鞠小路さんは一概に彼らと呼び、一括りにして攻撃しました。

やはり、この手の問題を、抽象的な領域で論じても、話になりません。理窟を語れば、當然理窟で反論が返るだけです。言ひ逃れや逃げ口上の餘地を、抽象論は殘す。イデオロギー論爭や、觀念論が、議論にならず、フレームになる所以です。

鞠小路さんは、一般論として語るよりも、鞠小路さんがよろしくないと思つた批判をしてゐる文章をとりあげ、具體的にここが良くないと指摘した方が良かつたのではないでせうか。


名指しで人を叩く場合、是非が比較的はつきりするから、それほど問題にはなりません。逆に、名前を出さずに人を叩かうとすると、仄めかしや當てこすりに頼つてしまふから、却つて大問題(と言ふか、大騷動)になりがちです。

平成14年3月21日

早稲田大学第一文学部 英文科 講義要項 誤訳とは何か(及びT. S.エリオット研究)
岡田先生、誤譯を斬る。

平成14年3月21日

「自分の言葉」で語る人間には、ろくな奴がゐない。獨斷的な、餘りに獨斷的な。

平成14年3月21日

ダイヤモンド社版『道義不在の時代』が刊行されて、18日でまるまる20年が經つてゐたんですねえ。

電子テキストを公開したものの、評判がさつぱりなのでがつかり。「闇黒日記」の讀者は必ず『道義不在の時代』(松原正著) 電子テキストを讀む事。義務。

平成14年3月20日

『道義不在の時代』(松原正著) 電子テキスト
公開の許可を戴きました。MS-DOSテキスト形式で280KB近くあります。古典文學の村の複雜也樣に頂戴したデータを校正したものです。

平成14年3月20日

とりあえず全問 YES がこのテスト的「正解」らしい。いくつかの質問にはチャチャ入れしておこうかなっと。

ありみかさんに絡むんぢやなくて、元の「診断テスト」の質問者に絡むのだけれど。


英語の「Yes」「No」は、日本語の「はい」「いいえ」と全然意味が違ふ。答の内容が肯定文なら「Yes」で、否定文なら「No」になる。

さうすると、幾つかの質問には疑惑が生ずる。

無断でリンクをするのは、法的に問題はない

「無斷でリンクをするのは法的に問題がある」が正解つて事?

アクセスアップには宣伝掲示板が有効ではない

「アクセスアップには宣傳掲示板が有效である」が正解つて事?


日本語で發せられた「質問」の囘答形式が「Yes」「No」である場合、どう解釋したら良いのですかね。


そもそも、

今すぐリンクを付けている

つて、「質問」ではなくて、「項目」だし。


と言ふか、ホ-ムページ診断テストつて、どこのサイトのコンテンツなのですか。


この診断テストは、信用できない

さうですか。さうなのですか。

平成14年3月20日

どのヴァージョンのHTMLを使ふべきか、と云ふ議論
平成13年4月16日附「闇黒日記」からサルベージされた記事。

平成14年3月20日

理解させようとしない制作者の罪も重大だが、理解しようとしない閲覽者の罪も重大である。

各地の掲示板で見られるフレーム(不毛な論爭)は屡々、讀み手が理解する努力を怠つた結果である。フレームで、相手の主張を理解しない(しようとしない)投稿者は、餘人に理解し難い主張を繰返すものである。

平成14年3月20日

The Alert Box:Meaningless Backgrounds (Alertbox Sidebar)
Jakob Nielsen博士のAlertbox 「無意味な背景」のサンプルリソース。

平成14年3月20日

黒須教授のUser Engineering Lecture
「やっぱりキーボードは重要なインタフェース」(2002/2/25)。BkSpキーつて何ですか?

平成14年3月20日

もつとも簡單な「HTML文書」。

<title>テスト</title>
<pre>ここに本文を書きます。
preの中に書かれた文章は、改行も多くのブラウザでちやんと生かされます。
brなんて要らないのです。
偉い人にはそれがわからんのです。
ざま見やがれ<a href="http://tohoho.wakusei.ne.jp/www.htm">とほほ</a>め。</pre>

平成14年3月20日

「エピクテトスとモンテーニュに關するパスカルとサシとの對話」を讀め。

平成14年3月20日

「てにをは」がなつてゐない人は、好い加減な「論理」を振りかざすものです。以下の文章は「てにをは」から直したいのですが、「てにをは」が變だと論理がどこまで變になるものかを示すに留めます。


4.0strict+css こそがサイト作成のうえで唯一の正しい道であると主張なさる方々がいらっしゃる。彼らがどのようなサイトを嫌って、どういう点にどういうコメントをしているのかについて、私は食傷気味である。もう飽きた。

私も、非常によろしくない既述をしてゐるサイトを非難するのには飽きつつありますが、さう云ふサイトが全然減らないのです。

それから、以前は4.0strict+css こそがサイト作成のうえで唯一の正しい道であると主張なさる方々がいらつしやいましたが、現在はXHTMLがW3C推奬の仕樣ですし、そもそもHTML 4.0は4.01に上書きされましたので、HTML 4.0を推奬する人はゐなくなつてゐるやうです。

彼らは罵詈雑言や教示をまき散らし、啓蒙したり死ねと言ったりしているが、彼らが信じている正当性は、どこまで適正なのだろう。世界中の駄ソースサイトに文句を言いたい気持ちは良しとして、彼らの主張のすべてがあらゆるサイトにとって「適正」なものなのだろうか。

死ねと言ったりしているのは誰ですか。また、この文章は讀者に、「正しくないサイト」を批判してゐる人が全員死ねと言ったりしているかのやうな印象を與へるのですが、鞠小路さんの意圖なのでせうか。

また、彼らの主張のすべてがあらゆるサイトにとって「適正」なものである譯ではないとしたら、世界中の駄ソースサイトに文句を言いたい気持ち良しとする事は出來ないのではないですか。

例えば、文法的におかしい場合。文法的に間違ってるソースに対して、あれは間違いだと指摘する。これはどんなサイトに対しても適正な指摘であるように見える。だが実際にはそのサイトに訪れる人たちのブラウザの9割が、制作者の意図通りに表示してくれているのだとしたら。

表示制作者意図すると云ふ行爲自體が間違つてゐるのですから、鞠小路さんの主張は間違つてゐます。

不正な記述によるHTML文書が多くのブラウザで或表示になるとして、その表示制作者の意図通りであると、鞠小路さんはどうして決定出來るのでせうか。不正な既述のなされた文書と、或特定の表示とは、必然的に結び附きません。

そもそも、結果として同一であると云ふ事と、必然的に同一となると云ふ事とは、違ひます。

それから、ユーザビリティとかアクセシビリティ。サイトが客を選んでもいいように思う。公共性の高いサイトに対しては適正な指摘だと思うが、それをありとあらゆるサイトに絨毯爆撃する意義はなんだろう。やはり、啓蒙なのだろうか。

訪問者の自由度をできるだけ確保する、という立場にありながら、使用するブラウザについては NN4.x を認めなかったり。私はこの辺りにファシズム臭を感じる。

それをありとあらゆるサイトに絨毯爆撃する意義それが一體何を指すのか全くわからない惡文です。啓蒙なのだろうかの主語も不明です。文章の意味は、全くわかりません。ただ、「惡意がある」「何か、嫌みを言つてゐるらしい」と云ふ事だけがわかります。

それから、鞠小路さんの論理を借りれば、「Navigator 4.xを認めない自由」だつてあるでせうねえ。「自由」と言へば何だつて自由ですが、自由でない事を「ファシズム」呼ばはりして良いと云ふのなら、寧ろ、批判の自由を認めない鞠小路さんの文章にこそファシズム臭を感じるべきだと私は思ふのですが、或は、「正しくないHTML文書を制作する事」を批判するのを認めない鞠小路さんの文章にこそファシズム臭を感じるべきだと私は思ふのですが、いかがでせうか。

もっと、自由なものなんじゃないのか。文法的に間違ってたり、世界的な潮流に逆行してたりするサイトもなんとなく成立し、ぐちゃぐちゃに混在しているのがインターネットではないのか。公共性の高いサイトや、情報をメインコンテンツにしているサイトに対しては、彼らの指摘は適正なものであるように思う。しかし、彼らは目についたあらゆるサイトをやり玉にあげたがるのだ。例えばテキストサイトも、いくら文章が良くてもソースがダメだとクソサイトになるらしい。もちろん、きちんと表示されていてもだ。

彼らの「正しい主張」が最も腑に落ちないのは、その主張を「個人の作品としてのサイト」にまで向けているときである。全体のビジュアルデザインを含めたうえでの「作品」としてのサイトにも、彼らは唯一絶対正しいと信じる自分たちの主張を繰り返す。

例えば、フラッシュは彼らに嫌われている。訪問者の閲覧方法を限定するからだ。私自身、トップページに出るたんびにオープニングムービーを無理矢理見させられるサイトには「最初の1回だけにしてくれよ」と文句の一つも言いたくなる。

鞠小路さんの意見には、「或概念は惡い」式の主張が次々と飛び出す。「或概念をどうするのがどうである」式の論理はさつぱり登場しない。

「サイトのあり方」と云ふ問題について、鞠小路さんは全く檢討しない。ただ、「自由」と言つて、「サイトのあり方」を檢討させまいとだけする。「自由」と言ふ人が「自由な批判」を否定すると云ふファシズム的な主張を平氣でするのは變だが、どう云ふ譯か本人は自分の主張が變である事に氣附かない。「自分は自由を主張する自由主義者だ」と自分で定義してゐるからである。「自由」を盾にとる事は、その人が自由を守る側の人間である事の證明にはならない。

全体のビジュアルデザインを含めたうえでの「作品」としてのサイトと鞠小路さんは言ふ。しかし、或藝術作品は、藝術家の意圖が完全に反映されてゐる事によつて良い藝術作品だと言へるのである。「謎文書」と「表示」とは必然的に結び附かない。制作者の意圖が偶々意圖通りの結果を生じてゐるとしても、だからと言つてその「謎文書」は「正しい」と云ふ事にはならない。いや、單に意圖と結果が多くの場合に一致しさへすれば良いのだ、と鞠小路さんは主張したいのだらうが、作品の價値を隨分低いレヴェルで判斷するものだと評したい。

また、彼らは全てのフラッシュを嫌つてゐるのではなく、拙い使ひ方をFlash制作者がするのを非難してゐるだけである。鞠小路さんは、トップページに出るたんびにオープニングムービーを無理矢理見させられるサイトを非難するが、鞠小路さんが恰も全てのFlashを非難してゐるかのやうに言ふ彼らも鞠小路さんと同じやうな非難しかしてゐない。鞠小路さんは、彼らを否定する爲に、その彼らを否定し易い存在に「改變」してしまつてゐる。

一應、私のFlash論へのリンクを張つておく。

でも、ブロードバンドがこれだけ普及してきたら、その人たちを対象にしたサイト作りがあってもいい。ブロードバンドだからこそ楽しめるサイト。私は重たいサイトをそう位置づけることにした。私は楽しめない。残念。

重さよりも問題とされるのは、閲覧者側にとっての、フラッシュの不便さである。制作者の意図通りにしか閲覧できない。これはなんたることだ!なんとユーザビリティが低いのだ!許さん、断固糾弾する、フラッシュ反対!

この主張が理解できない。その不自由さをすべてひっくるめた上での「作品」だろうと思うからだ。たとえば映画館で映画を観る場合、観客は不自由だ。ちょっとよそ見をして字幕を読み損なったり、セリフを聞き逃したりしても、巻き戻してはくれない。作品としてのサイトに「閲覧者の自由度が低い」と文句を言ってる人は、その辺のセンスがどうなってるのだろう。

そもそも、ちょっとよそ見をして字幕を読み損なったり、セリフを聞き逃したりしても、巻き戻してはくれない映畫など、藝術としては程度の低いもので、さう云ふ映畫を仲間と見做すのだから、Flash擁護派の鞠小路さんは映畫ファンと「同病相憐れむ」の關係に陷つてゐるとしか言ひやうがない。藝術における不自由とは、さう云ふ類の「不自由」とは別なのであつて、鞠小路さんにはその邊りの事が全然わかつてゐない。

もし鞠小路さんの上の主張が正しいのならば、ちょっとよそ見をして字幕を読み損なったり、セリフを聞き逃したりしても、巻き戻し出來るヴィデオは、映畫よりも上等のメディアだ、と云ふ事になる。そんな馬鹿な話はあるまい。鞠小路さんの主張も、そんな馬鹿なものではあるまい。

藝術の不自由である事は、本質的に、表現者が限定された方法でしか意圖を表現出來ず、その限定された方法でしか鑑賞者が表現を認識出來ない、と云ふ事に由來する。幾らメディアが發達しようと、人間の表現能力と認識能力は極めて「不自由」なのであつて、富野の所謂ニュータイプが世界を席捲しない限り、コミュニケーションは不自由である。さう云ふ絶對的な不自由の存在するコミュニケーションの領域で、「方法の自由」を主張するのは、全く意味がない。

私の言つてゐるのは、制作者がどんなに努力をしてわかり易い藝術作品を作つても、鑑賞者は制作者の意圖を完全に理解する事が絶對に出來ないと言ふ事だ。

だから、藝術家の側が、わざわざ理解され難い方法をとるのはよろしくない。藝術家は、ただ、自分の意圖が適切に鑑賞者に傳はるやう努力すれば良い。「傳はらない」と云ふ事實を利用して、傳へる努力をしないですまさうとするのは、藝術家失格である。

浅薄なレヴェルで理解し易いやうにしろと言つてゐるのではなく、出來る限り深いレヴェルまで理解出來るやうにしろと私は言つてゐる。

映画のような、観る側が不自由なサイトがあってもいいと思う。サイトの趣旨も対象とする客層も考慮せずに、十把一絡げに扱って「〜は…であるべきだ」と壊れたテープよろしく同じ主張をループさせるのは、ピカソやミロの作品に「正しい絵筆の使い方」を講釈するような無粋さを感じる。

映画のような、観る側が不自由なサイトと鞠小路さんは言ふのだが、「自由」も「不自由」も多義的な語であり、「自由」「不自由」と云ふ語の多義性を鞠小路さんは惡用してゐる。

そもそも、「自由」と言へば何をするのだつて自由なのである。しかし、民主主義」に制約された「個人主義」と結び附いた「自由主義」における自由は有限の自由であり、無制限の「個人主義」と結び附いた「自由絶對主義」(これは野嵜の造語)における自由は無限の自由であるが、その邊りの區別も鞠小路さんは氣にしてゐない。鞠小路さんは、どのレヴェルで「自由」と言つてゐるのか。もし尋ねられても鞠小路さんは答へまい。

私は、「無限の自由」を鞠小路さんが信奉し、「さうではない、自由には制限があるのだ」と主張する彼らを鞠小路さんは自分の信奉する「自由絶對主義」に基いて非難してゐるのではないかと推測する。

フラッシュだとソース見れないしな。

ソースばっか見てないで、あんたのブラウザで普通に表示されてるんだったら、コンテンツを楽しめばいいのにさ。いつもの文句を言う前に、そのサイトの趣旨ぐらい踏まえてもいいのにさ。4.0strict+css な人たちが言ってる事の多くは、ある文脈において正しい。問題は、それをどんなサイトに向かって言ってるかである。

鞠小路さんの言つてゐる事の多くは、鞠小路さんの「論理」の中でのみ「正しい」。が、その「論理」を超えた論理で、鞠小路さんの所謂彼らは「正しい」か「正しくないか」を議論してゐるのである。

「何も考へなければ何だつて樂しめる」と鞠小路さんは言つてゐるのであつて、彼らは「樂しめば良いと云ふものではない、考へろ」と言つてゐるのである。そして、享樂主義者とイデアリストとは相容れないものである。

と言ふか、HTML文書の書き方を見る樂しみを、どうして「自由」の名の下に鞠小路さんは擁護しないのだらうか。「謎文書」のあんたのブラウザにおける表示普通であるかどうか、或は、制作者の意圖したものであるかどうか、を、鞠小路さんは、或は、一般の閲覽者は、どうして判斷出來るのだらうか。サイトの制作者がそのサイトで「謎文書」を公開してゐる場合、そのサイトの趣旨を閲覽者はどのやうにして決定出來るのだらうか。

そのサイトのビジュアルデザインが必然的ではない偶然によつて成立してゐるデザインであるとしたら、閲覧者はそのサイトのビジュアルデザインがサイト制作者の意圖通りのものであるかどうかを知る事が出來ない。

繰返し書いておく。全体のビジュアルデザインを含めたうえでの「作品」としてのサイトの意圖を、閲覽者はどのやうに一意に決定すれば良いのだらうか。


人間工学の専門家として、普通なら、私は難しいものをやさしくすることに満足を感じるが、時には、もっと複雑な場合もあることを忘れてはならない。


ネタは日これ(2002-03-20)から。


「ちゃちゃ」から。

困りますかね? そんなにまでして読みたいですか。Flashで肝腎な部分を表現する方は、一部の閲覧者に内容が伝わらないことを 折込済みなわけでしょう。それはそれでいいだろうと思うのですが。

平成14年3月20日

ZDNN:AnchorDesk:IPv6は本当に必要とされているか
必要なんぢやないですか。よく知らんけど。

あれれ、19日の以下略。

平成14年3月18日

人間の住んでゐる世界に絶對的なものは存在しないのであり、人間は誤から免れ得ないものであり、社會制度は國家であれ警察であれ裁判であれ全て不完全である。

にもかかはらず、人間は秩序を欲するのであつて、全くの出たら目を望む事がない。だから不完全であつても人間は社會制度を維持しようとするのであり、社會制度を破壞しようとするのは寧ろ非人間的であると言へる。


誤判もあり得るから死刑は良くないと言ふ説があるし、死刑は犯罪の抑止力とはならないと云ふ主張も昨今大流行である。では、死刑を無くしたら、人間は一切の誤から免れるのかと言へば、そんな事はない。ある筈がない。どつちにしろ、人間が誤を冒す事には變りが無いのであり、死刑をやめようがやめまいが人間の本質は變らない。ならば、死刑存續論も廢止論も、本質的には無意味なのであつて、一生懸命議論するのも無駄と云ふ事になる。


死刑の是非について興味がないと言ふと、人の生き死ににかかはる事なのだぞと言つて非難する人もゐる。御前も冤罪で死刑になるかも知れないのだぞと脅される事すらある。だが、冤罪を着せられて死刑になるよりは、犯罪者の手にかかつて殺されたり、そもそも事故で死んだりする方が可能性は高いのであつて、にもかかはらず、まともな人間は毎日枕を高くして寢てゐる。

その日が來るまで人は高枕なのであり、死に直面するまで人は死について眞劍にはならない。或は、宗教的な危機に直面しない限り、人は死から目を逸らす處世術を心得てゐる。

また、自分の知らないどこか遠くの人間が冤罪で殺されようが、はたまた虐殺されようが、普通の人間は氣にしないのであつて、それを殊更眞劍な顔をして論じて見せるのは、僞善にほかならない。俺はこんなに人の事を思ひ遣つてゐるのだよと言つて威張つてゐるのである。


だが、毎日顔を合せてゐる妻や兩親、子供、友人を、あなたは常に愛し續けてゐるだらうか。遠くの人間を愛して見せるのは極めて簡單なのであり、難しいのは近くの人間を愛する事である。

死刑に反對して見せるのは、簡單な事である。死刑存續を主張して見せるのも、簡單な事である。そもそも、人が人を裁くのは可能か、もし不可能であるのならば、歴史の中で人はなぜ人を裁き續けてきたのか、と云ふ難問を、死刑について論ずる人の殆どが素通りしてゐる。

平成14年3月17日

蜜子
あんな男、どうして好きになつたのよ?
まき
好きになつたから好きになつたのよ。

平成14年3月17日

マッカーサーは日本人を12歳だと評したが、西歐のクリスチャンにとつて日本人は子供以下の存在――率直に言へば「人間ではない存在」である筈である。絶對者の存在を氣にしないではゐられない連中にとつて、相對的な世界に住む異教徒である日本人が自分たちと同じ種類の人間であると考へられる筈がない。

しかし、連中も人間なので、自分たちと異る考へ方をする人間がゐるとは思ひもよらない。そこで我々が連中とは異るやり方をすると、すぐに「裏切り」だと思ひ込む。

もちろん、日本人もまた、連中の考へ方を理解しようとしてゐないので、連中の判斷こそが間違ひであると即斷する。


相對的の世界に住む日本人にとつて彼我の差は相對的な差にしか見えない。しかし、絶對的の世界に住む西歐人にとつて彼我の差は絶對的な差に見える筈である。


日本人は、西歐の流儀で生延びる道を、明治維新の際に選擇した筈である。しかし、今に至るまで日本人は西歐の流儀を理解出來てゐない。鴎外のいはゆる「普請中」は、1世紀以上經つた今でも繼續してゐる。にもかかはらず、日本が「普請中」である事を理解してゐない日本人は、依然大多數である。


アメリカは日本を、身方としては信用せず、敵としては侮つてゐる。日本はアメリカを、敵としては侮つてゐるが、身方としては心から信用してゐる。

平成14年3月17日

マーク附けが内容に基くのか、内容がマーク附けに基くのか。

平成14年3月17日

「現實がかうなのだから、お前の言つてゐる理念なんてものは無駄なんだよ」式の現實追隨主義。決め附けに基く「議論」(と言ふか、論者本人が議論だと思つてゐるだけ)なので、話にならない。


「W3Cは負けてゐる。不思議マークアップの勝ちだ」と述べるこの論者は、同じ文章で「不思議マークアップは滅びるべきだ」と述べる。現実と理想とをこの論者は區別してゐるらしい。

だが、自分のする區別と、他人のする區別とが、全く同一の區別であるにもかかはらず、自分の區別は正しい、他人のする區別は正しくない、とこの論者は考へてゐるらしい。

「トンデモ」な「ホームページ入門」を斬るコーナは、最近の野嵜氏の主張に真っ向から異を唱えています。したがって野嵜氏は、コーナを大幅に書き直すか、注釈を添えるか、廃棄するのが良心的というものであります。


そもそも、私の「とほほ師批判」は本質的な批判になつてゐないのであり、その點を衝けばもつと説得力のある「野嵜批判」は出來る筈なのだが、どう云ふ譯か私を批判する手合には、自分の信念(と言ふよりは、現實への「阿諛追從」)に基いた獨斷的な「斬り捨て」をするタイプの人が多い。


私の「トンデモほーむぺーじ入門」批判は、「W3Cの勸告に從つてゐない」と云ふ批判ではなく、「同じ解説記事の或部分と或部分の解説に齟齬がある」とか「論理的になつてゐない解説がある」とか云ふ批判である。或は、「お前、何にも考へてゐないんだらう?」と云ふ批判なのであつて、「こんな事を考へては駄目だ」と云ふ批判ではない。


どんなに「見た目」に基くマーク附けを多くの人が「自然に」するからと言つて、HTMLが文書の構造に基くマーク附けのなされる事を豫期して設計されてゐる事は變らない。

本來の原則に逆らふやり方が「自然に」なされてゐる現實があるにしても、本來の原則に從ふやり方の方が「自然な」やり方であると云ふ理窟は否定出來ない。


現象論を基に理念を否定する「論法」を「自然」な論法だと思ふのは、あなたが日本人だからである。日本人は、理念を理解しない。日本人は、何であれ現實の流れに盲從する國民である。


ここはどこだ。ウェブだ。ウェブはDTPの世界だらうか。さうではない筈だ。

平成14年3月17日

左翼を「サヨク」と書く事に意味があるのなら、小林善範を「小林よしのり」と書く事にも意味がある筈である。


もつとも、同じ人間が同じ事をするのに全く異る言ひ譯をするので、世の中と言ふものは面白い。

平成14年3月17日

自分の力で考へるのは結構だが、獨り善がりになつてはいけない。


人間は、自分以上の存在を持たないと、困惑して放縱になる。

平成14年3月17日

「なぜ正しいHTML文書を書かねばならないのか」と云ふ質問には、「ユーザエージェント等に正しく理解して貰ふ爲」と云ふ答が出てくる。しかし、この答に對してすぐに「なぜユーザエージェント等に正しく理解して貰はなければならないのか」と云ふ問題が出現しなければならない。もちろん「自分の言つてゐる事を、他人に理解して貰ひたいから」と云ふ答が出てくる筈だが、再び問題が提出される。「なぜ自分の言つてゐる事を他人に理解して貰ひたいのか」。

そして、「自分の言ひたい事を、他人は理解し得るのか」と云ふ窮極の問題が、この問題の群の背後に待ち構へてゐる。


さらに問ふ。人に「自分がどうしても言張らなければならない事」は存在するのか。

平成14年3月17日

「世界を平和にする」とか、「國を良くする」とかいつた事は、個人では出來ない。

しかし、正字正かなで書く事は、個人が決斷すれば出來る。


と云ふ松原先生の御話。

平成14年3月17日

La Estacion del Cielo>つれづれの記> 社会と国家>「正しい日本語」?

「方言と標準語」「日本語と外國語」と云ふ現象面で「杓子定規」である事と、人間は物事を「杓子定規」に認識し、「杓子定規」に表現する、と云ふ本質論とを、混同してゐる。前者を非難する事で、後者を否定する事は出來ない。


言語規範と云ふ「定規」に基いて、人間は物事を認識し、表現する。それ以外に、人間が概念的・抽象的に物事を認識し、表現する方法は存在しない。

事象を言語のデータに變換するのは、事象の抽象化である。その際に、情報のデジタル化が行はれてをり、情報の缺落が必然的に起きる。言換へると、言語による「情報のデジタル化」とは、不定の情報を樣式的に再構成する事であり、本質的に「杓子定規」なものである。

平成14年3月17日

あれれ、「16日分の記事」がないよ。

「闇黒日記」について

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