闇黒日記



戰時下

平成14年3月10日

平成14年3月10日


何がHTMLのcoreなのか。

平成14年3月10日

某コミュニティが100人の村だつたら……。

平成14年3月10日

「超くせ」の最終話直前の話を知つてゐる人間に、「シスプリ」なんざちやんちやらをかしくつて。モモコの親父さんの大和玉は最強。

平成14年3月10日

てへっ★


HTML 4.01 Strictで明示を「省略して良い」とされた要素がどうして「省略して良い」のかと言われていますが、単純に DTD で省略を許しているからです。これにより暗黙的な終了点の検出を行う処理が必要となり、XML では必要のない処理が発生することになります。

「どうしてさうなのか?」「さう決つてゐるからさうなのだ」では禅問答です。なぜさう決められてゐるのかを、私は問うてゐるのですが。

WWW 上の文書としては今後 XML ベースの方向性で進めていくことになっていますから、ISO/JIS-HTML の普及を薦めることは W3C 的に見たら妨害でしかありません。

XHTML支持の人は、世の中が全部、既にXMLベースで動いてゐて、HTML或はHTMLもどきの謎文書はもはやまつたく過去の遺物と化してゐる、と云ふ風な言ひ方をするのですが、某とほほ師のガイドは現在も相當のアクセス數を稼ぎ出してゐるのであり、XMLもSGMLもわからない、HTMLすらも理解しないまま「ほーむぺーじ」を作つてゐる制作者は今も世間の主流を占めてゐるのであります。

このやうな現状において、XHTML 1.1がW3Cの推奬の規格であるからと言はれても、昨日までtableやframeで「ウェブデザイン」をしてゐた人が今日から急にXHTML 1.1の完璧なソースとCascading Style Sheetsによる完璧なデザインに乘換へるかと言つたら、話はさうさう巧く行きません。殊に、一般的なウェブサイト制作代行會社は、「W3Cの方針の押し附けこそ、自社の商賣の營業妨碍である」とすら考へてゐるのであり、そもそもW3Cを知らないのであり、某コミュニティ關係者のやうにW3Cに對する信頼は持つてゐないのであります。

さう云ふ連中への説得手段として、ISOやJISの權威は戰略的に「使へる」のであり、それゆゑに私は「言葉 言葉 言葉」「PC Tips」を「ISO/IEC 15445:2000準據」として書換へたのであります。「W3Cべつたり」の某コミュニティ關係者を、W3Cから引き剥がさうと考へたのではありません。

そもそも、ISO/IEC 15445:2000はHTML 4.01のサブセットであり、ISO/IECは飽くまでW3Cの打出した原則にそつて仕樣を策定する方針をとつてゐるのですから、「ISO-HTML」支持と言つても、W3Cの掌中から拔出してゐる譯ではありません。

また、ISO/IEC 15445:2000は「古めかしい規格」ではありますが、世間一般の「HTML觀」はそれを通り越して更に古いのであります。ISO/IEC 15445:2000は、さう云ふ「舊弊なHTML觀」とW3CのXMLベースの新しいHTMLとを結ぶ「拔け道」として機能し得るのであり、機能させるべき仕樣なのであります。


なほ、「PC Tips」は所詮、「移行期間中」にのみ機能すべき刹那的なガイドであり、良く言つて「捨て石」です。「PC Tips」を疊める時期はいつ來るんでせうかねえ。

と言ふか、W3Cの活動を妨碍してゐると云ふのなら、「PC Tips」は即刻、疊みませうかね。


福田恆存は「私の讀者は、私よりも右に行つてしまふ」と述べたさうだ。

平成14年3月10日

引用されて氣附くtypo。

XHTMLをXTHMLと書いてゐやがつた俺(しかも2箇所)。直しておいてやつて下さいまし。

平成14年3月10日

もうあかん ┐(´¬`)┌  HTML 4.01 Strict で明示を「省略して良い」とされた要素がどうして「省略して良い」のかを、「 XHTML 派」の人は全く考察してゐないのではないかと言われても、それらの要素が何故 XHTML ( XML )で省略できなくなったのかを思い出して下さい、としか言いようがない。

手拔きパーサで處理出來るやうにXMLではタグの省略が意味もなく一律に禁止された。だから、XMLベースのXHTMLでは省略出來るものも出來なくなつた。それだけの事だ。


何を思ひ出せと言ふんだか。見當違ひも甚だしい。

平成14年3月10日

「知らせよう」は「知らせる」(下一段活用)の未然形「知らせ」に意志の助動詞「よう」が付いたものであるので、歴史的かなづかひでも「知らせよう」と書きます。が、特に初学者(私もそれに毛が生えた程度の者ですが)は「知らせやう」と誤りがちです。

意志を示すときに「やう」の形になるのは、「やる」「切る」などラ行四段(現代かなづかいでは五段)活用の動詞の未然形(「やら」「切ら」)に意志の助動詞「う」が付く場合だけです。

もつと簡単な、「よう」と「やう」の辨別法を書きます。後に「ない」を付けてみるのです。その侭で「ない」を取つて、「う」「よう」の内でしつくり来る方を付けたものが正解です。

「する」ならば「しない」→「しよう」ですし、「やる」ならば「やらない」→「やらう」です。

これに気が付いて、「凄い事を発見した」と思つたのですが、これくらゐの事なら既に誰かが書いてゐてもをかしくないですね。

意志を示すときに云々が、何かの間違ひかと存じますが。

推量・意志・當然・勸誘の助動詞「う・よう」が「やう」になる事はありません。


歴史的假名遣でも、一概に「知らせよう」である譯ではありません。

例へば、「知らせるにしても、知らせやうはあつただらう」の場合の「知らせやう」は、validです。この場合の「やう」は、形式名詞「樣」です。「樣」の字音假名遣が「やう」です。

字音假名遣が「やう」である形式名詞「樣」に接續する用言は、連體形となります(例:「言ひやう」)。

「ない」「う・よう」に接續する用言は未然形となります(例:「言はない」「言はう」。


四段活用以外の動詞、動詞型活用の助動詞の未然形に「よう」は附きます。動詞・形容詞の未然形に「う」は附きます。近世以降、「う」は四段・ナ變・ラ變動詞に附くやうになりました。

平成14年3月10日

HTML 4.01 Strictで明示を「省略して良い」とされた要素がどうして「省略して良い」のかを、「XHTML派」の人は全く考察してゐないのではないか。

すみけんさんのnowは、XHTML派の人にとつては、許し難い文書である筈だ。しかし、すみけんさんは「わかつてゐる」のである。


神崎さんは例の「HTMLの骨組み」を『ユニバーサルHTML/XHTML』の17ページで堂々と示してゐるが、やつぱり「わかつてゐない」のではないか、と思ふ。

しかし、『ユニバーサルHTML/XHTML』つて、そんなに良い本ですか。或は、神崎さんの文章は、そんなに良いものですか。

すみけんさんの『スタイルシートWebデザイン』やヤコブ・ニールセンの『ウェブ・ユーザビリティ』ほどにも、『ユニバーサルHTML/XHTML』は良く出來てゐるとは思はれないですね。或は、岡蔵龍一(大藤幹)さんの『詳解HTML & スタイルシート辞典』ほどにも實用的ではないですね。

取敢ず、『ユニバーサルHTML/XHTML』は、「ノリントン」「ノリントン」と言つてゐる「はじめに」がうざつたいし、カヴァがオライリーのぱちもん臭くてアレな感じです。


神崎さんは以前、「インライン要素であるobjectの中にブロックレヴェル要素をぶち込むのは矛盾だ」と云ふ風な事を述べたさうだが、これこそ思考が硬直してゐる證據ではないか。

objectをかませば、pの中にblockquoteやul-li、dl-dt-ddをぶち込む事は全く問題なく出來る。これはHTMLのDTDを見れば自明だ。にもかかはらず、「段落の中にリストを入れられない」とか「文章の中に引用文を入れられない」とか不平を並べる人が何人もゐる。神崎さんは彼らといつしよに不平を並べたりはしないが、最初から諦めてしまつてゐるだけで、HTMLに對する認識は連中と大差ない。


既にHTMLの仕樣が許してゐる事を、「仕樣書が許すのは矛盾だ」と言つて否定しひつつ、その「矛盾」した行爲を望んでしまふ――一體何なのだらう。私に理解出來ない事が、世の中には多過ぎる。

平成14年3月10日

XHTMLは、それに基いて作られた文書で要素は明示出來るけれども、仕樣自體は「お察し下さい」の部分が多い、と思つた。

平成14年3月10日

2002-03-09@24:24 @ [bubble hour]で、

それはそうですが、勧められれば移行したくなるというのが人情なのでは? だからこそ、勧める根拠を明白にして欲しいと思うわけで。それと、初心者に「よくよく考えろ」と言うのは、子供に善悪の判断をしろと言うのと同じです。

シニアが、ビギナー自身には直接理解できないレベルの指導を行う場合には、「よくよく考えた上で僕はこう思うから、とりあえずこれを使っておけ」「子供には解らないかも知れないが、大人の判断ではこれは善なのだ」というのが基本です。そして、僕と野嵜さんではその「よくよく考えた上での判断」「大人の判断」の部分が異なっているというのが論点であるはずです。

僕が「非推奨」とする理由は述べたので、それについての批判頂きたいし、また、野嵜さんが「推奨」とする理由についての反論も述べたので、それについての批判頂きたいのですが。

両者の述べた意味もなくのうち、本当に無意味なのはどちらか、というのは、それによって決定されるべきものなのでは。

と言はれてゐるのですけれども。


「Pre-HTML」のdiv1〜div6と云ふ概念、或は、非XHTML的な「ISO-HTML」の「階層構造」の觀念が、必然的にaddressを排除してゐる、と私は説明してゐます。

「Pre-HTML」が苦肉の策であるのは、HTML 4.01のDTDでもvalidとなるやうに仕樣を定めなければならない、と云ふ制約下でISO/IEC 15445:2000が策定されたから生じたものです。しかし、ややこしい話になつてゐますが、取敢ずISO/IEC 15445:2000のでは矛盾はありません。

HTML 4.01としてはinvalidになつても構はない、と云ふ事で作られた「新しいHTML」であるXHTMLと、ISO/IEC 15445:2000は本質的に性格が異ります。ISO/IEC 15445:2000は從來のHTMLの公約數的な、或は集大成的な仕樣であります。

HTMLの持つ制約下で、どこまで文書の構造を表現出來るか、と云ふ限界に挑戰した仕樣であり、進化の袋小路に入り込んでゐると言へば慥かにさうですが、ISO/IEC 15445:2000は或意味、藝術品ですよ。全體的には硬直し切つてゐるかも知れませんが、部分的にはXHTMLを超えてゐます。

記述の形式と云ふ面ではXHTMLに劣るにしても、内容に基いて要素が定義されてゐると云ふ點ではXHTMLよりも優れてゐます。


石川さんの、僕が「非推奨」とする理由は、飽くまで即ち石川さんの信ずるところの觀念に基いた「理由」、詰り、「XMLは正しい」と云ふ個人の信念に基く「理由」なのですが、石川さんはその「理由」の部分を見ろとおつしやいます。しかし、その「理由」の基いてゐる信念の部分で既に石川さんは「問題は決着濟み」と思つていらつしやるので、「理由」の部分で爭ふのは全く意味がありません。問題は、XHTMLか、非XHTMLか、と云ふ事なのであります。

そして、「ISO-HTML」がXHTMLでないがゆゑに苦心惨憺して理論を構築してゐるのですが、「XHTML派」の人にはその苦心が全く無意味であるとしか思へない。「飽くまでHTMLの範圍内で」と云ふISO/IEC 15445:2000の原則を「XHTML派」の人は無視して、その原則を越えたXHTMLの――XMLの原則でISO/IEC 15445:2000を斬る。

さうなると、石川さん、神崎さんの「ISO-HTML批判」は、「どうして貴樣はXHTMLを信じないんだ」と云ふ「信者」の主張である、と評すしかない、と云ふ事になります。

古林さんは、

しかし、石川さんといい、Piro氏といい、なぜ「XHTML信者」は高圧的なんでしょうかね。

と非難なさつてゐて、信者は大概高壓的なものであつて、それほど的外れな非難でもありません。これに對して、Piroさんが、

相手を信者と呼んで罵るようでは、大人げないですよ。

と批判してをられますが、「信者である」事よりも「信者と呼ぶ」事の方が批判されるべき事でせうか。もちろん、論つても仕方がないと言ふか、効果がないと言ふか、聞く耳持たない相手に何を言つても無駄と言ふか、「信者なんて相手にするな」と云ふ意味の忠告ならば、Piroさんの指摘は「ごもつとも」なのですが、單に「信者」と云ふ言葉尻を捉へただけならば、逆にPiroさんの指摘の方こそ罵倒です。


餘談ですが、3月の記事なのに、titleなどの記述が「2月」のままですよ>石川さん。


と言ふか、古林さんのサイトは、とにかく問答無用で「レナ」と言はれても何の事やらさつぱりわからんので、或意味問題です。

平成14年3月10日

「『私の國語教室』復刻直前スペシャル」終了となつて、私は悲しい。


「工事中」と「終了」は、閲覽者をがつかりさせると云ふ點で、似てゐる。

平成14年3月10日

Opera 6の話。

日本語版にしてから毎日5,6回は最低でも落ちる

うちでもOperaくん、WindowsXPを卷込んで落ちて呉れました。ブラウザに撃墜されるOSなんて以下略。


暫く前まで、「Opera日本語版」を英語表示で使つてゐました。現在、「日本語版」に英語のベータ版をかぶせて、日本語表示で使つてゐます。わけわかめです。

平成14年3月10日

野嵜さんのように影響力の強い人が ISO-HTML を推奨してしまうと、意味もなく ISO-HTML に移行してしまう人も出てくる。恐らく誰も推奨しなければ誰も使わない HTML であったと思うのだが、こうなってしまうと誰かが否定的な意見を述べない限り ISO-HTML を使おうとする人が後を絶たなくなる。

意味もなく移行してしまうのが惡いのではないかと。よくよく考へた上で移行する人だつてゐるんではないでせうかと。


神崎さんのやうに影響力の強い人がISO-HTMLを非難してしまふと、意味もなくISO-HTMLを憎んでしまふ人も出てくる。誰かが推奬しなければ消えてしまつたであらう可哀想なHTMLを、私は判官贔屓で應援したのですが、かうなつてしまふと、誰かが肯定的な意見を述べない限り、ISO-HTMLを使はうとする人は跡を絶つてしまふ。

とか言つてみるテスト。

平成14年3月10日

意見。異見。

平成14年3月9日

両親は共産党員ですが、何か?

Piro氏が共産黨について語つてゐる。


私は日本共産党及び「正統派」の共産主義者から排斥され捲つた在野のマルクス主義者こと三浦つとむの讀者ですが、それが何か。

私はソ聯の全體主義を批判した社會主義者ジョージ・オーウェルの讀者ですが、それが何か。


と言ふか、イデオロギー自體には何の罪もありません。あるのはイデオロギーを信ずる人間の側の問題であります。

そして私は、人間は救ひやうがない、と思つてゐる。


グレアム・グリーンの『ヒューマン・ファクター』讀了。

平成14年3月9日

他人にとってゴミでしかないコンテンツでも公開できるのが WWW であるのだから。

それあまあ、ウェブで何をしようが自由ですが、自由はそれ自體、無價値であると云ふ事に氣附いて下さい。或は、岩井氏は、他人にとってゴミでしかないコンテンツとさらりと言つて、價値判斷を囘避してゐます。


問題の本質は、價値判斷をするかしないか、にある。そして、人間は人間である限り、價値判斷をする。價値判斷をする事の是非は問ひ得ない。價値判斷は人間にとつて、アプリオリにするものである。

人間は價値判斷をするものであると云ふ事を認めるならば、價値は或人間にとつて支配的である、と云ふ事も認めなければならない。そして、持つべき價値は人それぞれだが、その個人的な價値觀に基いて人が正當に物事の價値を判斷するかどうか、そして、その人が「飽くまで自分は個人的な價値觀に基いて價値を判斷してゐるに過ぎない」と云ふ事を自覺してゐるかどうか、が問題なのである。

個人的な價値觀のぶつけ合ひでは仕方がないし、だからと言つて、全ての個人的な價値觀を否定するのは殆ど「諦め」と同義である。ただ、個人的に信ずる事をして他人の信ずる事と對峙せしめ、兩者の長所と短所を公正に決定し、互ひに自己の誤は矯め、善きは伸ばせばよいのである。

僞の相對主義者は、他人の主張をばつかり、相對化する。本物の相對主義者ならば、他人の主張に基いて、自己の主張を相對化するのに努めるべきである。しかし、さう云ふ事は、「相對主義」を名乘らない多くの人が、自然にやつてゐる事だらう。

閑話休題。


ISO-HTML の思想は知らないのですが、創意工夫せざるを得ないのならば選択したマークアップ言語に問題があるということではないでしょうか。その言語だと力不足っていう意味で。

それを言出したら、HTML 4.01 Transitionalでさへも力不足だと思つてゐる連中はいつぱいゐますね。


まあ、僕は HTML 4.0 系(謎)は Paragraph 内に List が取れないからダメだなぁ、と思いつつ代替手段を思いつかないから HTML 4.0 系を使ってたりしますけど。

objectをかませば、pの中にul-liはぶちこめますが。


「HTML Xの仕樣で、aを實現するxと云ふ手段は用意されてゐる」「しかし、xを俺は好まない」「HTML Xの仕樣では、aを實現する手段が用意されてゐない」「HTML Xは駄目だ」と云ふ變な論法が、HTML關係の議論では平然と使はれるのだが、何なのだらう?

平成14年3月9日

TNN店長の「書肆言葉言葉言葉」に『私の國語教室』を登録したのだが、紹介文が長過ぎて彈かれたのでなく泣く削つた。もつたいないので、元の文章をここに記しておく。


戰後、國語の表記は「變更」された。多くの人にとつて、新字新かなは、今では「あたりまえ」のものとなつてゐる。だが、ちよつと待つてほしい。

「あたらしい表記はつかいやすい」、だから「表記が変更されたのはあたりまえだ」と、誰もが自然に思つてゐる。しかし、昭和20年以前、正漢字正假名遣はそれこそ「當り前」に使はれてゐた。今、正漢字正假名遣が「不便」だと感じられるのは、新字新かなが常用されてゐるからである。

そもそも、表記の變更は、言語生活の根本をひつくり返す大變な事件だつた筈である。なのに、その「大變な事件」を、多くの日本人があつさり受容れてしまつた。正字正かなから新字新かなへの移行は、「餘りにも自然」であつた。ここで我々は疑ひを抱くべきである――國語表記の「餘りにも自然な移行」は、仕組まれたものではなかつたか、と。

本書は、國語表記の「變更」が、急進的・實驗的で、それゆゑに甚だ非科學的な一部の言語學者によつて惹起こされたものである事、その結果として出現した「あたらしい表記」が矛盾だらけの代物である事を詳細に述べたものである。

殘念ながら、本書は今時の讀者の購讀意欲をそそらない「反動的」な書物であり、恐くはさつぱり賣れないであらう書物である。この正かなづかひによる、恐くは「讀み難い」紹介文をここまで讀んで下さつた方には、何かの縁だと思つて、本書をぜひ購入していただきたい。出來れば、2册、3册、と複數購入して、知人・友人の方々に配つていただきたい。

國語の問題は、日本人の生き方の問題であり、歴史認識問題やその他の政治問題・經濟問題などよりも、ずつと重要な問題である。

いつも讀んでゐる週刊誌を1册買はなければ、晝飯を一囘拔けば、本書は買へてしまふ。ちやんと元は取れる。損はしない。ここまで御讀みになつた方には、何とぞ本書を購入して下さるやう、伏して御願ひ申し上げる。

平成14年3月9日

北村さんが、以下のやうなul-liのマーク附けはよろしくないのではないか、と指摘して下さつてゐますが。要素のリスト 投稿者:北村 投稿日: 3月 8日(金)03時20分25秒 @ 言葉 言葉 言葉 掲示板

疑ひはじめれば、HTMLの仕樣からは「怪しい點」が幾らでも出てきます。どこで折合を附けるかが問題なのであります。


そして、「StrictなHTML」も、決して核心的な要素にのみ使用を制限されてゐる譯ではありません。その點、XHTMLも「ISO-HTML」も、似たやうなものです。現行のHTMLの規格は、多かれ少なかれ、「現實的」です。

平成14年3月9日

例へば、以下のやうなマーク附けは、XHTMLのDTD的には全く問題のないものである。

もちろん、「XHTML派」の人も、このやうな「構造化」は好ましくない、と主張する。しかし、DTD的に問題のない記述を、どうして批判出來るのだらうか。

XHTMLと云ふ仕樣には、「暗示的な制約」が多過ぎるやうに思はれる。

平成14年3月9日

自然なマーク付けが ISO-HTML では意味もなく不適合になってしまう、と云ふ主張自體、をかしいと私には思はれる。意味もなくと石川さんは決め附けるが、それは石川さんにとつて、或は「XHTML信者」にとつて、「意味がない」に過ぎないと云ふ事だ。

「body直下にaddressを置けない」「見出しをdivに含められない」と云ふのが、XHTMLを支持する人々には不滿であるやうだが、XHTML的な解釋で「變」であつても、ISO/IEC 15445:2000的には變でも何でもない、とは言へる。


ちなみに、「不適切なマーク附けが、XHTMLでは適合になつてしまふ」と云ふ事は、「ISO-HTML派」のXHTMLに對する大きな不滿である。

平成14年3月9日

XHTMLとISO/IEC 15445:2000は、方向性が全く異るのであつて、一方の思想に基いて他方を非難するのは間違ひである。

そもそも、全く同じ目的の全く同じ性質の規格ならば、二つは要らないのである。


「さうではない、ISO-HTMLの定める制約には不合理な點があるのだ」と「アンチISO-HTML派」の人は反論するだらうが、その「不合理」は飽くまで「XHTMLの觀點から見れば不合理」と云ふ事なのには注意をしておくべきだらう。「ISO-HTML」の觀點から見れば、文書の構造化を要素の入れ子構造で明示しなければならない(必ずしもさう云ふ風に決つてゐるのではないのだが)「XHTMLの思想」こそ異樣なものである。


しかし、見出しをh1から書き始めなくても問題ナシと看做すXHTMLの仕樣は、やつぱり變だ。XHTMLに準據してゐると宣言しつつ、見出しがh2-h4-h3-h5といつた順番で附けられてゐる文書を、或は、見出しのない文書を、ウェブでは屡々見る。XHTMLと云ふ「ルーズ」な規格の「弊害」と言へるだらう。

平成14年3月9日

私は、XHTML 1.0以降、中身のない要素をマークアップする場合も終了タグを記述する事が必須となり、マークアップに於る矛盾を解消しました。と書いてゐる。XHTMLは、概念的には説明し易く、理解もし易いマーク附け言語である、と私は思つてゐる。

ただ、どつちにしろ、WAIだのCascading Style Sheetsだのがからんでくると、ややこしい話になつて、素人にはわかりづらい事この上ないと云ふ事になる。

さらに、ブラウザの實裝の問題は、Netscape Navigator 4.xと云ふ「トンデモ派」にとつて實に都合の良いプログラムが存在してゐたけれども、現在でもInternet ExplorerやOpera、はたまたMozillaで依然存在する問題である。「この世には存在しない理想的なブラウザ」を純粹にターゲットにするのではない一般の制作者には、現實のブラウザのバグ或は實裝の不備に關する知識と對處法こそがHTMLやCSSの重要課題だとしか考へられない。さう云ふ制作者にとつては、XHTMLも「ISO-HTML」も、單に厄介な代物としか考へられない。

現實のプログラムに拘り過ぎるのは良くないと私は常々主張して來たが、觀念的な仕樣に拘り過ぎるのもやはりよろしくなからう。


しかしだ、そもそも「文章の書き方」なんて、どんなに説明されても理解出來ない人種はゐるのだ。さう云ふ連中に、XHTMLもISO-HTMLも理解出來る筈がないし、StrictなHTMLもTransitionalなHTMLも區別出來る譯がない。

そして、さう云ふ連中には物事を正確に判斷する能力が確實に缺落してゐる。問題は、判斷する權限を自分は持つてゐる、と彼らが屡々信じてゐる事だ。現實に、その權限を持つてしまつてゐる連中がたまにゐるので始末におへない。さういつた連中に對抗するには、HTMLのより良い書き方だけが必要なのではない。良い書き方をするのは大前提だが、その上で、ちやんとした内容を持つ文書を公開しなければならないのである。

となると、餘りマーク附けに拘り過ぎて、サイトのコンテンツが貧弱極まる、と云ふ事になつてしまつてゐてはいけない譯だ。適當なところで、マーク附けは妥協しておいて良い。もちろん、文書の構造化を徹底したい人は徹底すればよろしいのであつて、さう云ふ人にまでISO/IEC 15445:2000を押し附けようと云ふ氣は私にはない。

ただ、プリミティヴなHTML文書で自己の主張を表明しようと思ふ人に、一つの指標としてISO/IEC 15445:2000と云ふ規格がある事を示すのは、全く意味のない事ではない、と私は思ふのだ。

平成14年3月9日

要素の出現順で以て文書の構造を決定出來ないとするのならば、ol-liもdl-dt-ddも「異常な要素」だと言はざるを得まい。

平成14年3月9日

變に議論が白熱してゐるので告白しておくが、私はISO-HTMLが良いと言つてゐるのではない。ISO-HTMLは仕樣に刈り込みを入れる餘裕がまだまだ澤山殘つてゐると私は思つてゐる。

HTML 4.01 Transitionalは極めて制約の緩い規格であり、XHTML 1.0 Transitionalも似たやうなものである。HTML 4.01 Strict/XHTML 1.0 Strict/XHTML 1.1はTransitionalに比べれば「嚴格」だが、それでも、私の目には、制約はあつてなきがごとし、と云ふ風に見える。嚴格と云ふ點ではISO/IEC 15445:2000が一番嚴格だ。そして、ISO/IEC 15445:2000が現行のHTMLの仕樣では一番嚴格で制約がきつい事は事實である。

ISO/IEC 15445:2000の制約がきついのは、互換性の高い文書を作らざるを得なくなるやうに設計されてゐるからだ。ISO/IEC 15445:2000の仕樣に「不合理」な點が多々見られるのは、現在のHTMLの仕樣やユーザエージェントの實裝に基いて制約が決められてゐるからだ。

もちろん、このISO/IEC 15445:2000に適合してゐるにもかかはらず全く譯がわからない、と云ふ文書を作る事も可能ではある。しかし、そこまでDTDは面倒を見切れない。だから、肝腎なのは制作者の意識と云ふ事になる。そして、制作者の意識は、主觀的にしか判斷出來ない。

とは言へ、制作者が或程度意識してHTML文書を作成すれば、必ず適合となるやうにHTMLの仕樣は決められてゐる。もちろん、HTMLの仕樣に適合してゐるからと言つて必ずしもその文書の制作者が意識的であるとは決められはしない。一方で、HTMLの仕樣に適合してゐない場合、その文書の制作者の意識は一應、疑はれて良い、と云ふ事にはなる。ただし、制作者の不注意は、Validatorには判斷が出來ないものである。要は、HTMLの仕樣と、HTML文書の品質とは、その意味では相對的な關係しかない。それでも、相對的な判斷基準は判斷の目安にはなる。目安を過信してはいけない、と云ふだけの事だ。

そして、今囘の「ISO-HTML論爭」で我々は、この目安の一つである「ISO-HTML」が果して妥當かを爭つてゐる。しかし、そこに陷穽が存在しないか――と、私は思ふ。

「アンチISO-HTML」的な主張をしてゐる人に共通するのは、HTMLの仕樣は制作者の眞の必要に基いて決定されてゐなければならない、と云ふ信念を持つ事である。「アンチISO-HTML」派の人の主張には「意味もない制約」と云ふ文言が必ずある。それは、所謂「トンデモなホームページ入門」の制作者がW3Cの仕樣を非難して言ふ決り文句と同じなのだが、「アンチISO-HTML」派の人には、課すべき制約と課すべからざる「制約」とがはつきり區別出來るのである。しかし、所謂「トンデモ派」が見ばえに關する制約一切を非難するのと、「アンチISO-HTML派」が文書構造を明示するのに關する制約一切を非難するのとは、私にはただ掲げる旗が違ふだけで、HTMLを「豐か」にしたいと云ふ點では變らないやうに見える。

私はHTMLが簡素である事を希望するのであつて、HTMLが文書の構造を示す役割を十全になす事を希望する者ではない。私は、HTMLがシンプルであればあるほど良いと思つてゐる。ここで、話は最初に戻る。

Transitional、Strict、「ISO-HTML」では順に、明示出來る要素の數が減る。しかし、私にしてみれば、「ISO-HTML」でさへも、單純とは言へない仕樣なのだ。私はシンプルなHTML文書を作つてゐるが、その同じHTML文書を「Transitional準據」と言つたり「Strict準據」と言つたりする事が出來る。そして、單に要素の數と並び順だけから判斷して、「言葉 言葉 言葉」關係のサイトの文書は「ISO-HTML準據」である、と言へるだけである。そして、「ISO-HTML準據」である事に私は滿足してゐない。私は「ISO-HTML」よりもさらに制約のきつい或種の形式に適合するやうに、HTML文書を作つてゐる。その形式を表現する最適なDTDは策定されてゐないから、もつとも制約のきつい「ISO-HTML」を、たまたま明示すべき最狹のDTDとして「言葉 言葉 言葉」のHTML文書の文書型宣言で私は指示してゐるに過ぎない。

平成14年3月8日

畫像表示をオフにしたOperaで見ると……。

平成14年3月8日

普通の HTML なら、普通にマーク付けしていけば大抵は DTD に適合する。僕(恐らく神崎さんも)が問題にしているのは「自然なマーク付けが ISO-HTML では意味もなく不適合になってしまう」ということなのである。特に、見出しを含む章や節を div としてマーク付けできないというのは、マーク付け言語として余りにも不自然であり、その意味では DTD 自体が不思議マークアップを推奨しているようなものである。

見出しを含む「章」や「節」を div 要素として明示するのは、Strict 的に推奨されるべきマーク付けであると思う。このようなマーク付けを批判する人もいて、そういう人はどうも div = スタイルという偏見を持っているようだが、それこそむしろ「構造と見栄えの分離」を曲解したものである。div は「ブロック要素のまとまり」を示すものである。「h2 から次の h2 まで」という、子供にもわかるような論理的な範囲の存在を理解できないのだろうか。

私は、「文書の構造を明示しなければならない」とまでは思ひませんが。自然言語による文章でも、自然に構造は發生してゐますが、ツリー状に文書の構造を明示する事は稀です。アウトラインプロセッサよりもベタなテキストエディタを使ふ人が多いのを見れば、自明です。もちろん、テキストエディタでベタにテキストを打込んでいくよりは、アウトラインプロセッサで構造を把握しつつ文書を練る方が、わかり易い文章は容易に書けます。


見出しを含む「章」や「節」を div 要素として明示するのは、Strict 的に推奨されるべきマーク付けである、は、言過ぎのやうな氣がします。

HTML文書だらうが何だらうが、大事なのは内容であります。内容に基いた要素の明示がなされてゐるのが重要なのであつて、必要最低限のマーク附けがなされてゐれば、HTML的には問題ないと言つて良いと私は思ひます。

マーク附けは手段なのであり、目的としてしまつてはいけません。どうも最近、マーク附けにばかり一生懸命になつて、肝腎のサイトのコンテンツが殆どない、と云ふ例が多く見られるので、私は「マーク附けを極力減らす」事を推奬する目的で「戰略的」にISO/IEC 15445:2000を推奨してゐるのであります。


と言ふか、昔、水無月ばけらさんが「ISO-HTMLでサイトは作れない」と云ふ風な發言をなさつたので、「そんな事はない」と云ふ實例を示さうと思つたのが、「言葉 言葉 言葉」を「ISO-HTML」化したきつかけです。

「こんな條件ぢや何も出來ねえだらう」と言はれれば、艱難辛苦を乘越えて「どうだ出來ちやつたぜギコハハハ」と言つて見返してやるのが漢だ。嫌な漢だね。


「ほしがりません」と言つて何でも我慢してしまふ日本人に、制約のきつ過ぎる「ISO-HTML」は受けると思つたんですがねえ。どうしてウェブで日本人は贅澤を言ひたがりますか。

平成14年3月7日

Wordの「セクション」が文書の構造化の爲に用ゐられるのは稀。實際のところ、Wordは、セクションに區切られてゐない文書でも、見出しレヴェルを見て文書の構造を把握する。


もつとも、アウトラインモードで段落のレヴェルを上げ下げして、構造を「變」にいぢくる事も可能。


HTMLは元來、データ交換の爲の中間言語として開發されたものであり、ティム・バーナーズ・リーはワープロ文書の最小限の構造を記述出來れば良いと考へてゐたらしい節がある。

平成14年3月7日

『私の國語教室』(福田恆存著・文春文庫)がめでたく發賣され、書店に並んでゐる。解説は市川浩さん(日本語變換ソフト「契沖」作成者)。

全集第四卷所收の「覺書」も併録されてゐる。


「闇黒日記」の讀者は全員、『私の國語教室』を買ふ事。義務。

平成14年3月7日

私は丸谷才一の小説を一つも讀んだ事がないのだけれども、丸谷氏の小説を松原先生が批判していらつしやいますからね。松原正先生に「駄目」と言はれてゐる小説を、私が讀む筈ありません。


ちなみに、昔、三島由紀夫について初心者・元気だぞ氏と論爭をした事がある(「鐵扇會」掲示板關係の過去ログ參照の事)けれども、やつぱり私は三島を全然讀んでゐない。

『豐饒の海』第四卷の主人公が「本多透」なのを(と言ふか、後半さうなる)、私は一昨日まで知らなかつた。橋本治が三島論(新潮社刊)で書いてゐるのを見て知つた。

平成14年3月6日

馬鹿みたいに長くなつたので、讀む氣も起らない讀者の方が多いだらうから、手短に。

「ISO-HTMLを利用する」式の發想は、DTDを單なる道具と看做す發想であり、DTDはウェブでのコミュニケートプロセスそのものであると看做す「ウェブ過程説」の發想と根本的に對立する。

平成14年3月6日

神崎さんのISO-HTMLでの見出し、address要素などについてが改訂されて、一部で不評。


以前,件のコメントの直前に書かれていた文章は,この辺りがクリアにならないと、ISO-HTMLの利用はお薦めしにくいです。というものだった。この文言が,以下のものに替わっている。

ISO-HTMLは、確かにHTML4のサブセットにはなっています。しかしDIV要素内に見出しを書けないという点も合わせ、HTML4では合理的で正しい(しかも広く用いられる)記述がISO-HTMLでは妥当な表記となりません。特別な必要がない限り、ISO-HTMLの利用はお薦めしません。

しかも,随所にISO-HTMLの利用を推奨するものではありませんという趣旨の文言が付け加わっているし。これはどういうことだろう。


久々に、心の底から腹が立った。ここまで腹の立つ経験は、 弥月氏らによる中傷とサイト締め出し以来である。原因は「ISO-HTMLでの見出し、address要素などについて」。なぜここまでiso-htmlを貶す言い方をするのだろう。はっきり言って、私には全く理解できない。


私見だが、ISO/IEC 15445:2000が「變」なのは、HTML 4.01が變だからである。

しかしその後、ISO-HTMLはHTML4の完全なサブセットとするという方針()となったため、新しい要素型を導入することはできず、このアイデアは破棄されます。その代わりに次に述べる"Almost ISO-HTML"という方法が採用され、正式な仕様としては上記のコメントがH1〜H6について記述されることになりました。コメントとはいえ、"normative requirements"ですから、従わなければなりません(cf.9.3 Comments in the DTD)。

HTML 4.01では、h?もpもaddressも、ほかの要素の中身になつてゐないのならば、body直下にぶら下がつてゐる點で全て「平等」である。HTML 4.01のDTD上によれば、HTMLの文書はさう云ふ風にしか看做せないものにしかならないやうになつてゐる。

これは、HTMLがもともとフラットな構造の文書形式として考案されたがゆゑの「制限」だ。

「HTMLはデータベース用の言語ではないから、divによる過度の構造化は寧ろ望ましくない」と云ふ意見も以前は見られたくらゐで、文書の節・構造を明示すべきだ、と云ふ意見は極最近になつて生じてきたものである。

ISO/IEC 15445:2000は、「フラットな構造」を大前提にしたHTML 4.01をベースとして「構造化」の概念を導入したものである。ISO/IEC 15445:2000は、明示的には「フラットな構造」を維持したまま暗示的に「構造化文書」を表現する、と云ふ甚だ矛盾した仕樣を採用してゐる。批判されても仕方のない「穴だらけ」の仕樣である事は、間違ひない。


ただ言へるのは、ISO/IEC 15445:2000にしろHTML 4.01にしろ、そのDTDは文書を作成する制作者が利用するものではない、と云ふ事だ。

※この文書は、見出しの順序の重要性を示すためにISO-HTMLの技術的背景を紹介していますが、ISO-HTMLの利用を推奨するものではありません。

ISO-HTMLは、確かにHTML4のサブセットにはなっています。しかしDIV要素内に見出しを書けないという点も合わせ、HTML4では合理的で正しい(しかも広く用いられる)記述がISO-HTMLでは妥当な表記となりません。特別な必要がない限り、ISO-HTMLの利用はお薦めしません。

ISO/IEC 15445:2000では、説明の爲に「Pre-HTML」なる概念が導入されてゐる。しかし、この「Pre-HTML」は飽くまで説明の爲の説明であつて、實際に制作者がこの「Pre-HTML」に示されてゐる作業を行ふ必要はない。「ISO-HTML準據」かどうかをチェックするプログラムは、現實に制作者が「Pre-HTML」の段階からHTML文書を作つたかどうかまではチェックしない――單に、さう云ふ過程を經てゐるならば當然出來るであらうと豫想される或形式にその文書がなつてゐるかどうかだけをチェックする。

一方、HTML 4.01は、ユーザエージェントの仕樣書として公開されてゐるものである。HTML 4.01の仕樣書には、ユーザエージェントはいかにHTML文書を解釋すべきか、と云ふ事が書かれてゐる。

はつきり言ふと、W3Cの勸告したHTML 4.01は、「HTML文書の或記述を、ユーザエージェントはかう解釋せよ」と云ふ指示であり、「ウェブサイト制作者はHTML文書をこのやうに書かなければならない」と指示したものではない。ただ、「W3Cの勸告に從つたユーザエージェントで最適のレンダリングが行はれるのを期待するならば、それなりの形式で文章が書かれてゐなければならない」「ユーザエージェントがW3Cの勸告に從つてHTML文書を解釋するのならば、よりうまく解釋されるやうにHTML文書を書いておくのが良い」と云ふだけの話である。


さうは言つてもHTMLの仕樣は、ただ「ユーザエージェントの側だけが有利な内容」とはなつてゐない。寧ろ、自然言語の擴張のやうな形で制作者が文書を記述出來るやうに策定されてゐる。「制作者にとつてわかり易い形で文書を作れる」やうに考へられてゐる。

一方で、制作者は、必ずしもW3Cの仕樣書を守る義務はない。W3Cの仕樣書に基いて擧動の決められてゐるユーザエージェントでうまく解釋されなくても構はないと云ふのであれば、制作者は自分の好きな形式で文書を作成し、インターネットに公開して良い。ウェブは基本的に「自由な世界」である。

ただし、さう云ふ「自由な世界」で、或特定の形式に從つて文書を記述してゐる制作者は、その特定の形式に從つてゐると云ふ行爲を宣言する必要がある。ただ、「適當に解釋して呉れ」と言ひながら、或特定の形式で解釋されるのを期待するだけでは、望みはかなはない(事がある)。もちろん、何を言つても變に解釋される可能性はある。ただ、それでも自分の意圖を明示してゐれば、誤解・曲解に反論出來る。

HTML文書の冒頭に記述すべきだと言はれるDOCTYPE宣言は、「ここで示したDTDに從つて解釋して呉れ」と云ふ意味の記述であつて、「制作者はこの文書を、そこに示されたDTDに基いて解釋して貰ひたいと思つてゐる」と云ふ事を示す記述である。

だから、DTDさへ用意すれば、制作者はどのやうな謎文書を公開しても構はない。いや、極端な事を言へば、誤解を恐れないならば、或はどんな曲解をされても良いのであれば、制作者はDTDも用意する必要はないし、そもそも、何の形式にも從つてゐない文書を公開して構はない。


DTDは規範に過ぎない。「HTML文書を書く際には、内容が大事である」と言はれるが、その内容を正確に傳へるための「符牒」がDTDである。

思想の傳達者は、自己の認識を言語規範に基いて言語に置換へる。その言語を、思想の受容者は、似たやうな言語規範に基いて自己の認識に再變換する。これが、言語によるコミュニケートである。

ウェブ制作者は、DTDに基いて文書をマーク附けし、HTML文書に變換する。ユーザエージェントは、DTDに基いて、閲覽者が理解出來るやうにHTML文書を整形する。

ここで重要なのは、思想の傳達者は言語規範を利用してゐると云ふ感覺を持たない、と云ふ事だ。人間の言語規範は、個人個人の感性に基くもので、全く一致するものは一つも存在しない。にもかかはらず、人間の言語は、かなりの確率で相互に通ずる。

しかし、コンピュータは融通がきかない。開發者の手腕によつて、ソフトウェアが融通をきかせる事は屡々あるが、ソフトウェアの融通性は、開發者のプログラムした範圍でしかきかない。その一方で、豫め決められた手續に從つてゐて、その手續がどのやうなものであるかがわかつてゐるならば、ソフトウェアは正確に動作する。DOCTYPE宣言は、その「手續」の指定にほかならない。

ただ、「ソフトウェアの正確な動作」と簡單に言ふが、その「正確さ」はユーザの都合で決る。全く同じ形式の文書でも、異る仕方で解釋されれば、結果的に全く異る意味を持つ事になる。

DOCTYPE宣言で指定するDTDが異るのは、その文書が或DTDとは別の特定のDTDに基いて解釋される事を制作者が期待してゐるからだ、と云ふ事になる。

その意味では、DOCTYPE宣言の記述が異ると擧動を變へる最近のブラウザの擧動は正しい。


一方で、自然言語の使用者は、自分の從つてゐる言語規範を、意識させられるまでは意識しない。當り前と言へば當り前の話だが、或日、意識して自分の喋つてゐる言語がいかなる言語なのかを反省した時、同じ言葉を喋つてゐても、異る言語として意識する事は可能である。

もちろん、日本語を英語だと言張れる、と言ひたいのではない。ただ、同じ言葉でも、「大阪辯」であると表現したり、「日本語」であると表現したり、「アルタイ語に屬する一言語」と表現したりできる、と言ひたいだけだ。

それは、ウェブで後悔する文書にも言へる事だ。

同じ文書であつても、ISO/IEC 15445:2000準據であり、HTML 4.01 Strict準據であり、HTML 4.01 Transitional準據である、と云ふ事はあり得る。


私の理論では、「自然言語による文書をマーク附けする事によつてHTML文書は生成される」事になつてゐる。

そのマーク附けのやり方によつて、たまたま或DTDに適合する形に文書がなる事がある、その時はDOCTYPE宣言でその文書が適合してゐるDTDを明示できる、と私は主張してゐる。ただ、適合しないDTDをあたかも適合するかのやうに宣言するのはよろしくないだけである。

そして、自然にマーク附けをすれば、生成されるHTML文書の宣言すべきDOCTYPE宣言は決つて來るだらう、と私は考へてゐる。


そもそも、「或DTDに從つてHTML文書を作る」と云ふのは、どうも「外國語を喋る」やうな感覺があつて、私は氣に入らない。

「普通の文書を普通にマーク附けしていくと、或種のDTDに自然に適合するやうになる」と云ふ、言はば「ネイティヴ」のHTML制作者の出現する事を、私は期待してゐる。ウェブサイトの制作者は今、やたらと苦勞して「HTML文書」を作つてゐる。しかし、自然にHTML文書を書けるやうになれば、制作者はもつと樂を出來るだらう。


そして、その「自然に書かかれたHTML文書」が宣言すべきDTDの選擇肢の一つとして、ISO/IEC 15445:2000のDTDはあり得る。生成されたHTML文書がISO/IEC 15445:2000に適合するならば、制作者はその文書でISO/IEC 15445:2000準據を宣言して構はない。

本質的に、「利用する」「利用しない」の問題ではないのである。

平成14年3月6日

だから、divは小文字なんだってば。私もしつこいが。

SYSTEM DARKCROW EXのソースでは、大文字のDIVが行列を作つてゐるんです。それの揶揄だから「DIV! DIV! DIV!」なのです。


スタイルファイル……いや、リソースはファイル化されているとは限りませんし。 CGI による動的生成とか。故に僕は、 html.css のような類のひとまとまりのスタイルシート(という規格)関係のリソースの呼称にはスタイルシートあるいはシートという言葉を使いたい。

とはいえ、大抵は「マークアップされたテキスト」+「スタイル情報」で文書は成り立っているはずであり、通常はスタイル情報はファイルという形で納まっているはず。突き詰めて考えれば、バイナリ形式の「スタイルファイル」や、スタイルファイルを生み出すためのスタイルファイルも考えられる。

あるいは、そのような一聯の(一塊の)スタイルリソースを現すものとして、スタイルパッケージという言葉を使ってみてはどうか。

「スタイル情報」で十分のやうな氣が。

平成14年3月6日

一應自己辯護しておくと、俺が追出された掲示板は、例へば、 などである。

アレクセイ田中幸一氏は、鐵扇會會長「初心者・元気だぞ」氏や竹下氏の仲間である。政治的な立場は違ふが、同じトンデモである。

と言ふか(「と言ふか」が多いね)、トンデモの人は皆、やたらと態度がでかいね。

平成14年3月6日

アレ氏に「野嵜健秀さん」呼ばはりされてゐて氣持ちが惡くて仕方がないのだが。

☆ 笹本之人さま

なかなか人間、言行一致というわけにはいかないみたいですねぇ...

もちろん、そうでしょうね。でも、それは努力してさえいれば、かなり許されることなんですよ。

アレ氏、自分は努力してゐるのだから、何をやつても許されるんだ、とでも言ひたいみたいですねえ。


もちろん、アレ氏が「努力」と言ふのは、「努力」が目に見えないものだからです。そして、アレ氏が、目に見えないもの、主觀的に判斷するしかないものを根據に持出すのは、自分に都合良く議論を展開するのが目的です。

アレ氏が「努力」を強調するのは、非難したい相手の言動に「努力をしてゐない」と云ふレッテルを貼るのが目的です。


どうでも良いのですが、アレ氏はいよいよ自分が「同性愛者」だと認めたやうです。しかし、「同性愛」つて、そんなに御立派なものかね。同性愛はナルシシズムだと、私は思つてゐる。まあ、どうでも良いのですが。


この掲示板のバックログはまだ未公開ですが、これが公開された暁には、「掲示板荒らし」という人種がいかなるもので、どういう手口を使うのか、それの良い見本展示場となることでしょう、充分に社会に貢献できる仕事になると確信しています。どうぞ、ご期待下さい。(笑)。

既に、田中幸一の大敗北の題で、過去ログは公開中。

田中幸一の大敗北では、掲示板の管理人が惡質――と言ふか、「天然」――だと、そいつはどんな發言をして投稿者に嫌がらせを行ふか、どんな馬鹿な發言をして閲覽者に嗤はれるか、の良い見本――と言ふか、惡い見本――を提供してゐる。

M女史の遺したもの悪意のない初心者が荒らしにならないために提供されてゐる記事だが、田中幸一の大敗北は「惡意のある掲示板管理人が投稿者を荒し呼ばはりする例」として、或意味、社会に貢献してゐるのではないかと思つてゐる。

と言ふか、アレ氏みたいな惡い掲示板管理者にはならないやうに。

「闇黒日記」について

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