闇黒日記



戰時下

平成14年2月28日

批判というのは「正しい批判」であるのが「当然」のことであり、「誤った批判」であった時は批判者が「責任」をとるのは当たり前のことです。だから「誤った批判」であった場合の「責任の所在(発言主体の所在)」をあらかじめ明確にせずに、正しいかどうかも定かならぬ批判を公の場に曝すことは、発言の段階で既に「無責任」の誹りを免れえない行為なのです。

「ホランドは実験だから、私は責任をとらないよ」と云ふ風な事を、田中幸一氏は以前、述べました。

田中幸一氏の事例は、自分の事を棚に上げれば幾らでも他人を罵れると云ふ見本です。


と言ふか、田中幸一氏の論理は、ホランドの「木村氏批判」(實態は誹謗)は絶對的に正しいから責任を追求される事自體が間違つてゐる、と云ふ事なのかな?


ニーチェは氣が狂ひ始めた時『この人を見よ』を書いた。ニーチェの言ふ「この人」とはニーチェ自身を指す。「俺は絶對に正しい、俺を見習へ」と、ニーチェは曰つたのであるが、自分の言動が常に無謬であると信じ込むのは、紛れもなく狂氣の證據である。

自分の正義が無謬である事を大前提とする理論は、所謂共産主義が典型的な例であるが、狂氣の理論である。大體の場合、「無謬」と稱する自己の根據の無い思ひ込みに基いて現實を解釋し、「解釋が出來た」から「自分の無謬は證明された」と云ふ循環論法に陷る。


アレクセイ田中幸一氏の「理論」が、常に循環論法である事は、言ふまでもない。その循環論法も、破綻が無ければ或意味藝術的なのだが、殘念な事に、或は嗤ふべき事に、田中氏の場合、循環と破綻は共存してゐる。

循環論法を使ふ狂人は、前後の言動が屡々矛盾してゐる。一言で評すれば、「論理が破綻してゐる」のだが、「破綻した論理」と「自己完結した論理」が、なぜかこの手の人間の中では自然に共存するのである。要は、反省しなければ人間は幾らでも強くなれるのである。


論理の循環の中にまどろみつつも、全ての發言を一貫させる努力を眞摯に行ふならば、その人は藝術家である。藝術家は、自分の尾を咥へた蛇の如く、自己證明を行はん。

平成14年2月28日

>ホランドさんのメール爆弾みたいな反論文「汝、まず自身に問え」が公開されました。読みましたけど、う〜ん、わたし論文なんて普段読まないから素人的に腹は立ちますが、このぐらいなら生きてるうちに何度もあると思います。

長い論文を『メール爆弾』と形容するのは誹謗ですよ。他人に意見した段階で貴方は「見物の第三者」ではなく「当事者」となるのですから、まず自分の文章に気をつけて下さい。

メール爆弾みたいなと云ふ比喩をメール爆弾と云ふ直截的な言ひ方にすり替へる田中幸一氏。


さう言へば、「適当だ」と「適当に」を區別出來ない人も、どこかにゐましたねえ。

平成14年2月28日

たとえば木村さんのHPには私を批判する文章が載っていますが、私はそれを「削除せよ」なんて言ったことはありません。すべてを公開すれば「どちらが正しいか」「どちらが意図的な情報操作をやっているか」は明らかだと思っているからです。野嵜健秀・木村貴のご両名が私に対して(「ばんぺい」さんも認める)「掲示板荒らし」をしてまで「削除せよ」と繰り返し要求してくるのは、それが公開されてはマズイ文章だからに他なりません。つまり「そんな人たちが、すべてを進んで公開するわけなどない」ということですよ。

アレクセイ田中幸一氏は、私が「自分にとつて不都合だから」削除を要求してゐると思つてゐるらしい。すげえ勘違ひだ。

アレクセイ氏が私を誹謗してゐるから、誹謗の文言を削除し、謝罪しろと言つてゐるに過ぎない事が、アレクセイ田中幸一氏には理解出來ないらしい。


木村さんがご自分に不都合な書き込みを「露骨にならない形で隠蔽しよう」としているのは明らかなことです。

どこが明らかなのか。もちろん、田中氏は嘘を言つてゐるのである。田中氏は單に、「自分の敵對者は、自分の良くない發言を隱蔽しようとするものである」と云ふ自分のテーゼに、木村さんの事例を無理矢理適合させようとしてゐるに過ぎない。

これは、共産主義者がかつて愛好した「遊び」そつくりそのままの「議論」の仕方である。いかに歴史がマルクスの唯物史觀通りに「進歩」してきたか、を、共産主義者はまことしやかに「論證」したものである。もちろん、共産主義者は「解釋」を「事實」と取違へてゐたのであるが、田中幸一氏も同じ過ちを平然と繰返してゐる。


「削除を要求するのは、自分に都合が惡いからだ」と云ふ根據のないテーゼを、アレクセイ氏は本氣で信じてゐるのかね。

と言ふより、私が削除を要求してゐるのは、私の文章ではなくて、私を誹謗したアレクセイ田中幸一氏の文章なのだが。「削除」の一言で、アレクセイ氏は舞ひ上がつてしまつたらしい。アレクセイ田中幸一氏は、田中氏の文章が私(野嵜)の「都合」を惡くする爲のものである事を、詰り、田中氏の文章が私に對する惡意に基いて書かれてゐる事を、自分の掲示板で白状してしまつたのである。


私怨とか惡意とかにのみ基く文章は、いかに論理に依據してゐるかのやうに見せかけられてゐたとしても、批判とは呼べない。田中氏が「正字正仮名論争」と稱して公開してゐる一聯の「アレクセイ」「園主」名義の文章、ホランドと云ふ「別ハンドル」による「木村氏批判」は、いづれも全く論理に依つてをらず、批判とは呼べない文書である。そもそも、田中氏には、論理に依つて文章を書く、と云ふ發想がない。田中氏にとつて、論理は相手を罵倒する際の口實として利用すべきものでしかない。

正當だらうが不當だらうが、その文章が批判であるならば私はまともに對應する。だが、田中氏が自分のサイトで公開してゐる文章は、批判ではなく、中傷文書である。はつきり言ふと、田中氏のサイトは公益に反する代物である。田中氏に、管理者を名乘つて居丈高に他人を罵る權利はない。

平成14年2月28日

2002年2月2日・3日
「東雲&東風フォントの全貌」で古川さんにチラリとご紹介頂いていたクワクチヤウWatanabe明朝プロジェクトの挫折もしくは潜行についての小文を今ごろこのような形で紹介してみようと思い立ったのは、JIS漢字の性質やウェブページの性質について理解なさっていないように思われる“正字正かな関係者”が作成した「今昔文字鏡による正字と新字の対照表」を、JIS漢字の性質について理解なさっていないように思われる“正字正かな関係者”が労作と評されていたことに対する罵倒として機能することに気づいたから。明朝体活字における新字体字形と正字体字形の対照を行うとか「文字鏡書体における新字体字形と正字体字形の対象」ならばまだ話は理解できるけれども、どんなフォントでレンダリングされるか判らない文字符号(で示した字体)と「文字鏡書体」を比較して何になるというのか、小一時間(以下略)。

img要素のalt屬性の値に扱(新)とか扱(旧)とか記述すればそれで良いのかと言へばさうでもあるまいなどと思つたり思はなかつたり。


と言ふか、今昔文字鏡による正字と新字の對照表【ア行】は「テキストと畫像を比較してゐるものである」と見るのがウェブの常識なのですか。

ウェブで文字の話をするのは無理であるか無駄であるかするらしい。「言葉 言葉 言葉」を疊めと云ふ事ですか、内田さん?


文字コード關係の事に口うるさい連中は、どうして一々嫌みたらしいんだらうね。正字正かな關係者のリソースにつけるけちのつけ方が冷たい感じなのは、表記の事なんざどうでも良いと連中、思つてゐるからだらう。

もつとも、正字正かな關係者の多くがオヤヂで、技術方面の話から取敢ず逃げようとする傾向があるのも事實。


以下、江戸の仇を長崎で討つを地で行くテスト。

所謂「内田譯」のHTML 4.01仕樣書は、どうも譯がよろしくない。

「補完委員会」は、原文には存在しない次の制約を受けるなる語を「譯出」してしまつてゐる。内田さんは、文字コードやウェブの性質を良く御存じなんだらうが、飜譯の性質は全然御存じでないやうだ。


この邊りの俺の記事にはつきり表はれてゐるけれども、俺は文字コード關係の話は全然詳しくない。それは認めておく。

平成14年2月28日

噂のアレが出るらしい。

平成14年2月28日

2月28日 今日は何の日〜毎日が記念日〜によると、本日はバカヤローの日


私にとつては日々是バカヤローの日なのだ。これでいいのだ。


2月28日は二葉亭四迷、中河與一、山川惣治、S.スペンダー、菅井きん、兼高かおる、そして田原俊彦の生れた日。

オバQも「2月28日生れ」なんですか。


2月28日は辰野隆の亡くなつた日なんですねえ。千利休、天草四郎、ラマルティーヌ、へンリー・ジェイムズ、田中小実昌も2月28日に亡くなつてゐる。

辰野隆のお父さん、辰野金吾が設計した日本銀行本店の竣工したのは2月29日

で、慌ただしい事に(違)、3月1日に、辰野隆は出生するのである。


同じ3月1日に、小林秀雄と岡潔が亡くなつてゐる。

平成14年2月28日

なんだ、見出しをマークアップしておけばいいんじゃん。

それはさうと、<p align="right"><!--日記才人 start--><FORM...></FORM><form...></p></form><!--日記才人 end--></P>つてソースは異樣です。

平成14年2月28日

114001:toshi 2002/02/28(Thu) 16:03

表現の効果を強めるための「反語」…言葉は疑問の形にして、逆に強い肯定の意味を表わすこと、というような陳述で書かれている文までも、龍成さんは「質問だ」と述べておられるようです。反語は言葉とは逆の意味を表しているわけで、それをきちんと読みとれていないと文意を正しくつかむことは出来ません。

平成14年2月28日

東京堂書店の『同訓異字辞典』(中沢希男編)の「はかる」の項より。

全部「はかる」の訓みがあるんださうだ。


「秤」は「称」の俗字、と出てゐる。


「はかる」問題の總括。

平成14年2月28日

ユーザが普通に操作してゐるにもかかはらず「××はできません」といふ「エラーメッセージ」を平氣で出す一太郎と言ふかそんな一太郎を作つて平氣でゐるJustSystem逝つて良し。


その状況下で使用出來ない機能をコンテキストメニューに表示してはならない。そんな事をすると、ユーザが混亂するからだ。


もちろん、そんなメニューを作る事もプログラマやメーカの「自由」だ。しかし、批判だつて自由である。

平成14年2月28日

Operaがサーヴァ(http://www.opera.com/banners/ex/japan-html/云々)に接續出來なくて、バナーを表示しようとする度にエラーを報告して呉れる。

うざい。

平成14年2月28日

顏文字を使ふのは勝手だが、批判や非難をされても反論するな。


世の中には、「自由」と「反論不可」とを區別出來ない馬鹿が多過ぎる。

平成14年2月27日

いつの間にかinfoseekがリニューアルしてゐるが、現在戰時下なので、追從し切れない。


あなたは2002年2月1日に新しくなったインフォシークのトップページについてどのように思われますか?

一月の間、氣附いてゐなかつたよ。欝墮氏腦。

平成14年2月27日

「ビックカメラ」のbicつて、どう云ふ意味なんだらう。


わからない言葉があつたら、辭書を引きませう。

なんかビックカメラはフランス(及び英國・米國)の商標を使つてゐるみたいだ。良いのか?

平成14年2月27日

table要素の中にtable要素をぶち込めるHTMLの仕樣は、融通をきかせられるやうにしたんだらうが、何となく變だよな。

平成14年2月26日

閑馬氏が引用元を明示してゐる。


しかし、依然として「引用である事」を明示してゐない。


table! table! table!

平成14年2月26日

景氣の惡い話。

平成14年2月26日

俺の場合は、「iNTERNET magazine」1998年11月號のCSS 特集による刷り込み效果。

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