遲くなりましたが、いつもどうもありがたうございます。
きみが「乘り遲れてしまつた」と言つたから、2月20日も「闇黒記念日」。いつもどうもです。
「あずまんが大王」が来月最終回
、との事。
「トンデモHTML」マニアには堪らない「フォント弄り」。Wordで生成。これ最兇。しかし、HTMLファイターから攻撃を喰らふと云ふ危險も伴ふ、諸刃の劒。
素人にはお薦め出來ない。
まあお前らど素人は、と××のWWW入門でも讀んでなさいつてこつた。
ここのHTML文書、
つて何だ、とか、<META HTTP-EQUIV="Content-type" CONTENT="text/html; charset=x-euc-jp">
は見出しの積りか、とか、<FONT SIZE="5">「暗幕」日記</FONT><BR>
なんて「尻p」は下品だからやめろ、とか、...</FONT><P><HR ...>
は冗談だらう、とか、「原理主義」的にはつつこみどころ滿載なのだが、CGIの出來が惡いんだらうね。<P><HR NOSHADE SIZE="1" BGCOLOR="#303030"></P>
『エンピツ』を、畫像表示を切つたOperaで閲覽すると、面白い。画
とか画像イメージ
とかいつた無意味な文字列が亂舞してゐる。
DIV! DIV! DIV!
見出しも何にもない。
輕量サイトコンペ。
本日の買物。
ところどころに首を傾げたくなる記述もあるが、マーク附け言語の由來からユーザビリティまで叮嚀に解説してゐるので、參考書として有益。
「意見に反論するためには、考え方・思想そのものの否定が必要」これがそもそも間違っていますね。
ちよつと待て、おい。
Infoperience - Columnが興味深い。
Microsoftだけが問題なのではない。
-moz-プロパティを使はれたくなければ、さつさともじらから-moz-對應機能を拔けば良いと思ふ。
もじらがXULでUIを記述してゐるから問題が起る。もじらがOS標準の方法でUIを生成して呉れれば、一般のユーザは幸せである。もじらが標準に從つてゐないのが惡いのである。
さう言へば、もじら組トップページ・リライトコンペ!(嘘) @3:22 PM [ねこめしにっき]なんて話もありました。
で、最近、mozillaZine(mozillaZine -Japanese Translation-)にSite Suggestions (mozillazine.orgへの提案)なる投稿があつたりする。連中は我々に半年遲れてゐるのである。
と言ふか、俺は既にOperaに乘換へたので、Mozillaなんて知らん。
手書きHPドウメイの人の記事。
小汚いソースを書いてゐるのだけれども、弓月氏にとつて大事なのは「ブラウザで一見綺麗に整形される事」であるらしい。
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-SanJose/6462/cap-htm/html-1.htmlは、titleの解説が缺けてゐるので駄目な記事だが、文書自體にもtitleが記述されてをらず、その點、言行は一致してゐるのであつて、或意味好感の持てる記事だと言へなくもないやうな氣がしないでもない。
「『××が言つてゐる事だから信用出來ない』と云ふ意見には贊成出來ません」と云ふ意見を述べるのは、「私は××を××であるがゆゑに支持してゐます」と云ふ事の消極的な表明に過ぎない。
本日の買物。
買物@BOOK OFF。
再検討の結果明かになったのは、いわゆる事実――絶対的事実というものは存在しないということです。真の事実とは主観のことなのだ。主觀的事実こそ本当の事実である。客観的事実などというものは、仮にあったとしても無意味な存在であります。
そして主観的事実を選ぶ目を支えるもの、問題意識を支えるものの根底は、やはり記者の広い意味でのイデオロギーであり、世界観ではないでしょうか。
ジャーナリストは、支配される側に立つ主観的事実をえぐり出すこと、極論すれば、ほとんどそれのみが本来の仕事だといえるかもしれません。
なるほど、事件の眞相と言ふべきものは全て「藪の中」にあるし、世界觀に基いて人は物事を判斷するし、「X的意味といふ點から見た選擇の過程」を經たルポルタージュは主觀的なものである。御都合主義的に對象を選擇するならば、ルポルタージュは嘘臭くなり、説得力を失ふだらう。
ならば、ルポルタージュ執筆者が主觀に基いてルポルタージュを書くならば、そのルポルタージュ執筆者の主觀なるものが、まづ吟味の對象とならねばなるまい、と私は考へる。
しかし、本多勝一はどうやら「本多自身の主觀は絶對的なものである」と考へてゐるらしく、「自分の主觀に基いてなされた選擇は常に正しい」と云ふ大前提で議論を進めてゐる。本多勝一の「説得力のある文章」が、寧ろ「押附けがましい文章」であるやうに見えるのは、本多が餘りにも屡々「アプリオリに自分の主觀は絶對の眞實である」と仄めかしてゐるせゐである。
ストレートに言ふならば、本多勝一の議論は常に獨り善がりのものなのである。
そして、獨り善がりの人間は屡々本多勝一に心醉する。
と言ふか、本多の用語法では、「客觀的な」と云ふ意味の從來の「事實」も、「主觀的な」と云ふ本多流の用語である「事實」も同じ「事實」と云ふ用語で以つて表現される。そして、「事實」は「客觀的な」と云ふ意味だと思つてゐる一般の讀者の前で、本多は屡々平然と、自己流の「事實」と一般的な「事實」との間を行つたり來たりする。
本多が「言論詐欺師」である所以である。或は、「説得力」を重視する本多は、言論界のセールスマンである。もちろん、本多の賣込みたいものは、本多の信ずる本多の主觀であり、即ち或特定のイデオロギーである。
「客觀的な事實は存在しない」と云ふのは、實は嘘なのであつて、「客觀的な意見は存在しない」と云ふのが眞實である。本多勝一は、「客觀的な事實は存在しない」と定義する事によつて、飛躍的に「意見は通れば勝ち」と云ふ結論に飛びついてゐる。
全く無色の記者の目には、いわゆる客観的事実(つまり無意味な事実)しかわからぬであろうし、その全風景を記録することが前述のように不可能である以上、もはや意味のある選択はできずに、ルポ自体が無意味になります。
本多は、ルポルタージュ執筆者が特定の主觀に基いて「主觀的な事實」を決定し、讀者に押し附ける事を推奬してゐる。
或は、本多にとつて重要なのは、ルポルタージュ執筆者の主觀だけである。ルポルタージュを讀む側の主觀を、本多は全く考へてゐない。ルポルタージュ執筆者・記者が選擇した「主觀的事實」を、讀者は再び自分の主觀に基いて選擇する、と云ふ事を、本多は全く考慮しない。
本多の論理は、本多流に言へば「執筆する側の論理」であつて、「執筆される側の論理」(一般的な言ひ方をすれば「讀者の論理」)ではない。閲覽者の都合を考へないウェブ制作者の論理と、讀者の主觀を認めない本多の論理とは、極めて良く似てゐる。
雪印食品解散。合掌。
雪印のキャラメルは森永のよりもおいしかつたのになー。
タブブラウザ推奨委員会の Mozilla の項に噛み附く麻衣さん。
私は、個人的には、「もじらなんて一般人には使へねえよ、ざま(以下略)」とか思つてゐたりしますが。
IEコンポーネント利用のタブブラウザは、HTML文書をInternet Explorerと完全に同一にしか整形しないので、私にとつては「全て同一のブラウザ」です。或は、DonutやFubのやうな一群のタブブラウザとInternet Explorerを、私は區別しません。
レンダリングエンジンを基準にブラウザを區別する私は、MozillaもNetscape 6もGaleonも、全く同一のブラウザだとしか考へません。
だつて、ブラウザつて、HTML文書の表示確認をする爲のものでせう?(ピュア)(違)(笑)(誤)
(謎)とか(誰)とか書いただけで自分の文章が面白くなつたと勘違ひしてゐる人は存在するやうですが。
「別に自分(誰)の文章(何)が面白い(謎)などとは思っていませんが(謎無)」とか反論(何)が來さう。
「フォント弄り系」の、視覺要素だらうが何だらうが、讀者を笑はせられるならば何をやつたつて良いぢやないか、と云ふ根性が氣に入らない。なぜ笑はせなければならないんだ。馬鹿野郎。
俺は誰かに笑ひを強要されたくないんだ。
<tt>MSゴシック</tt>
とか。
本日の買物。
『目標を〜』は、祭政一致の日本人的發想に基いた日本のクリスチャンによる著作。
クリスチャンの癖に、自然と共に生きる
などとぬかしてゐやがる。キリスト教は、神の爲に命を捨てる事を信者に屡々苛烈に要求すると云ふ點で、「葉隱」よりも過激である、と云ふ事に、筆者は氣附いてゐない
「愛国心」を論じては、愛することのできる国に
などと書いてゐる。例へば、「愛される親になれ」とは、親に向かつて言ふべき忠告の文句であつて、「愛する事の出來ない親だから、あんたは親ではない」等と子供が親に言ふ事は、いついかなる場合であつても惡である。親は親であるがゆゑに子には親を愛すべき義務がある。國だつてさうだらう。
もつとも、日本語の「くに」と云ふ言葉は意味が曖昧だし、日本人は言葉の意味を全然はつきりさせようとしないものだから、論者が「故郷」の意味と「惡逆非道の政府」の意味とを行つたり來たりして、國と云ふ語に惡のイメージを覆ひ被せてしまつても、多くの日本人は曖昧に納得して、取敢ず自分の國の惡口を言つてみたりする。反抗精神など、日本人には存在しない。
それにしても、人類愛を祖国愛に優先させること
と云ふ「大は小を兼ねる」式の發想を、どうして日本人は好むのだらう。祖國すらも愛せない人間が、人類全體を愛する事など出來る筈はない、と私は思ふのだが。
「人類愛」と云ふ言葉は、平和主義者が敵對する人間の人格を絶對的に否定する際、屡々用ゐる、切り札的な文句である。敵だらうが誰だらうが、「人類愛」を信奉する人間が他人の人格を否定するのはをかしいと思ふのだが、「人類愛」に狂つた人間の目には自分の冷酷な言動が至上の愛に滿ちたものに映るらしい。死ね。
ラッセルの『民主主義とは〜』は、單純明快な解説で、胡散臭さ爆發。著者名を「本多勝一」に書換へても通用しさうな内容である。
ラッセルは、幾つかの事實に嫌みつたらしい解釋をそつと添へて列擧し、全體として自由とか民主主義とかの姿を歪ませてしまふ。結果としてラッセルは、自分の頭の中だけに存在する歪み切つた「民主主義の理想」「自由の理想」を「全ての人が當り前に理想だと思ふべきもの」のやうに見せかけてしまつてゐる。ラッセルは一種の詐欺師だと思ふ。
大體、物事の相對化をする「相對主義者」は、現實の或種の物事Aが相對化されて價値を低下させた時、對比的に價値を上昇させる別の或種の物事非Aを、絶對的な觀點から信奉してゐる。その物事非Aを宣傳するのが、相對主義者の目的なのであり、さう考へないで眞面目に相對主義者の言ひ分を受取るのは馬鹿のする事である。或は、素直な人間は、相對主義者の信ずる非Aを、間接的に支持してしまふ。素直なのにも程があるべきだ。口の巧い相對主義者には氣をつけた方がよい。
と言ふか、以上二册は「トンデモ本」の積りで買つた。
「Web POWeR」は、アスキーが時々突發的に出す「〜POWER」と名附けられたムックの一册。「第2特集 W3Cベースの新ウェブデザインを目指す」には、某方面關係者にはおなじみの「テクニック」が滿載。テクニックは良いのだが、HTMLとは何か、CSSとは何か、と云ふ「理念」を執筆者がどうやらあまり理解してゐないらしく、全體的に散漫な印象。もつとも、アスキーのムックはどれも散漫な内容のものばつかりなのだが。
と言ふか、「SF原理主義」の高千穂遙先生、書いてゐるのはスペオペばつか。
『ダーティペア』つて、原作は貧乏臭くて慘めつたらしくて、さつぱりだつたやうな印象しかないんですが。おしやれで無意味にゴージャスな雰圍氣のTVシリーズは、缺陷が山ほどありますけれども、原作よりよつぽど衝撃的でありました。映畫版やFlash以降のダーティペアは、原作に忠實な貧乏臭い話で、TVシリーズよりも全然駄目です。ちなみに、映畫版には、ガイナックスが實は絡んでゐたりします。
「PDAでゲームをやつてゐたら、液晶のうしろで何かドットみたいなのが動いていたんだよ。液晶の裏を蟲が歩いてゐたんだよ。あとで見せてあげるね」と言はれたのだけれども、なんか忘れられてしまつたみたいで、見せて貰へなかつた。
窮理學研究所の脇坂さんにも參加していただきました。ありがたうございます。
「闇黒デー」續劇。御世話になります。例のブツの發送、いかがいたしませうか。
「兄上」にそれとなく購讀を勸めてみる、と云ふのは如何でせう。
ふぁんきーじゅにあの名前で月曜評論社は購讀を受附けて呉れるんでせうか。
と言ふか、「野嵜方ふぁんきーじゅにあ宛」に送られるのも何となくアレです。
- 読書は質、量どちらを優先? (研究や仕事のために読む本ではなく趣味として)
- あなたは本を手放しますか? 手放すとしたら、どういう仕方でそうしますか?
- あなたがある本を買うかどうかためらう場合、主な要因となるのはなんですか?
- 本にまつわる願い、望みがひとつ叶うとしたら、なにを求めますか?
- あなたが最近読了した、または今読んでいる本は? (初読・再読を問わず)
「お前まだまだ青いぜ」
ビッグブルーマンセー。
晝1時間夜1時間の立讀みを日課にしてゐるから暇と體力が無くなるのである。
たしか「鉄道ピクトリアル」誌で、驛名標のローマ字についての話題を見た。