闇黒日記



戰時下

平成14年2月10日

平成14年2月10日

http://www.inpaku.go.jp/は終つたがインパクは終らない。

平成14年2月10日

似たものPC雜誌。


日経クリックのサイトかと思つてhttp://click.nikkeibp.co.jp/にアクセスしてみたが。

許可されていない
認証に失敗しました.

許可されていないと云ふエラーメッセージはどうよ。

平成14年2月10日

WXG for Linux/BSD。2月末で公開終了との事なので、WXGerはバンバン落し捲る事。

平成14年2月10日

平和も一つの正義に過ぎない。

平成14年2月10日

企劃はどうでも良いが、HTML文書の作りは最低。


http://www.naver.co.jp/keywordshop/のディレクトリ内容が丸見えなのはどうかと思ふ。

平成14年2月10日

060turbo再生産。

平成14年2月10日

平成14年2月10日

平成14年2月10日

平成14年2月10日

ZDNet Broadband:東電が第一種通信事業許可を取得――ISP込みで月額1万円以下へ

平成14年2月10日

平成14年2月10日

<li>をdotを打つ爲だけに使つてゐる馬鹿。


定義リスト(dl-dt/dd)を知らない馬鹿。

平成14年2月10日

インドメタシンは筋肉に良くないらしい。→バンテリンの塗りすぎに注意!(インドメタシン配合の消炎鎮痛剤、外用薬によるNSAIDsの副作用に注意)

平成14年2月9日

宗教と哲學の違ひを説明する際に、マルティン・ブーバーは宗教について、以下のやうに述べてゐる。

本質的にいつて、宗教とはわれわれが神としつかり結合する行爲である。しかし、しつかり結合するといつても、その相手はわれわれが神について勝手に考へ出した象徴映像ではない、ましてわれわれがつくり出した神への信仰でもない。その相手は、まさに存在したまふ生ける神である。存在したまふ神としつかり結合すること――それが眞の宗教といふことなのである。

宗教者にとつて、信仰の對象は、客觀的に見る事の出來る觀念であつてはならない、とブーバーは言ふ。近代人は宗教における神を單なる觀念と看做してゐるが、神を客觀的に見るのは哲學的な態度でこそあれ宗教的な態度ではない。

ここで「客觀的」と言つたが、神を客觀的に見る事の出來る對象であるとするのは、ブーバーの用語によれば「われ-それ」の關係である。宗教では、生ける神との對話が重要なのであり、信仰者は神と「われ-なんぢ」の關係を結ばなければならない。

そもそも祈りとは、そのもつともゆたかな意味において「人間の言葉をもつて神に語りかける」といふことでなければならない。祈りとは「神よ、なんぢが現實に在すことをあきらかに示したまへ』と願ふことである。われわれが祈りのうちでそのほかにどんなことを願はうとも、祈りの窮極的な意味は神の存在が對話のうちにあきらかにされることを願ふことにほかならない。

だから、純粹な祈りをとなへる唯一の前提條件はまづ、なんの氣がねも遠慮もなく、ごく自然な氣持で、しかし全身全霊をかたむけてひたむきに神のいます方に向ふこと、それから現實にわれと向かひ合つて存在したまふ神を迎へ入れること――この二つのことさへすればそれでよいのである。……。

信仰者は、一歩引いてしまつて神を眺めるのではなく、神にひたすら向ふ事が重要なのだとブーバーは言ふ。

しかし、今日のやうに内省的な主觀がすべてを支配してゐる時代には、祈りをささげるものの精神の集中がおこなはれがたいばかりでなく、かれらの自然な態度までそこなはれてしまふ。その原因はまさに、いま現に神に祈つてゐる人間の意識に――あるいは意識の過剩に――ある。自分は祈つてゐる――祈つてゐる、自分は祈つてゐる、といふ意識の過剩に……。しかも現代人はこの意識の過剩に打ち克つことができない、とあきらめてしまつてゐるかのやうである。

俗つぽい言ひ方をすれば「自意識過剩」が現代人の宿痾であり、自分を意識する爲に却つて自分としての行爲をなし得なくなつてゐる、と云ふ事である。

平成14年2月9日

今月の特集「ユーザビリティを極める」でインタヴューされてゐる株式会社インタービジョン・レーザーフィッシュをOperaで見に行つたら、本サイトをご覧頂くには以下の環境が必要です云々と云ふ文書に飛ばされた。

かう云ふサイトを作る企業がユーザビリティ最前線のキーカンパニーと呼ばれるのは妥當な事か。


http://www.intervision-razorfish.co.jp/(及びそれ以下)のHTML文書は、ユーザビリティと云ふ觀點ではどうだか知らないが、アクセシビリティと云ふ觀點から見れば甚だ問題のあるものだと言へる。

平成14年2月9日

宗教を毛嫌ひする日本人が多いのは異常。動物に宗教はない。宗教を信ずるのは人間だけである。宗教を否定するのは、人間と動物の境界を一つ、突崩す事である。

實際のところ、何も信ずるもののない人間は、存在しない。


既に書いた通り、正義は相對的なものである譯で、絶対的なものではありません。しかしながら、相對的であるからと言つて、人間は正義に基いて他人を激しく罵倒したり、殺したりしないと云ふものではありません。

逆にお尋ねしますが、あなたは私を激しく罵倒をしてはゐませんでせうか。あなたは何を根據に激しく罵倒をなさつてゐるのでせうか。あなたは、あなたの正義に基いて、激しく罵倒してゐるのではありませんか。

或は、あなたは何も正義を信じてゐないのでせうか。さうしたら、正義に基いた罵倒は許されないが、正義に基かない罵倒は許される、と云ふ事になるのでせうか。


以上、昔の「闇黒日記」より。

平成14年2月8日

文藝誌「すばる」に、中島敦の書簡(新發見)が掲載されてゐる。南洋諸島から子供に宛てて送られた繪葉書と、子供の爲に書かれた短いお話。

平成14年2月8日

宗教が或文明における生き方の樣式であるならば、全ての人間は宗教的である。

平成14年2月8日

一太郎のモードの多さにぶち切れる。

「行と行の間」「行の眞ん中」、「全角」「半角」、「通常」「括弧」「斜線」、(以下略)、でモードが異なり、それぞれを一貫した罫線として扱へない。

罫線行と通常行とは一緒に操作出來ない。通常行の書式設定と、罫線行の書式設定とは別。云々。

その操作は出來ません、とか平氣でぬかすのが、また嫌らしい。

「スタイル」を「ページの印字に關する設定」の意味で使つてゐる。

「インデント」だとさ。殺す。

書式の設定方法で、「ブロック要素」と「インライン要素」を區別してゐない。或段落に書式を設定したい時でも、わざわざ段落全體を選擇してから、ツールバーの書式を選ばなければならない。出たら目極まる。

一太郎みたいに支離滅裂な「ワープロ」がある限り、「ワープロは難しい」と云ふ印象は改まらないだらう。


なんか新ヴァージョンが出て、WindowsXP並に飾りたてて「人に優しい」とかほざいてゐるが、もともと一貫性を持たないプログラムだから一太郎は難しかつたのであり、そこを改善しないで見た目だけを弄つても駄目に決つてゐる。

いまだに一太郎信者は生殘つてゐて、Windows以上に腐れたJustSystemの糞プログラムを觸つて、再び「やっぱり一太郎は最高」とか「Wordに勝つた」とか叫ぶのだらうが、「日本人が作つたワープロ」だからといつて「日本人にとつて最良のワープロ」である譯ではない。いつまでもJustSystemのキャッチコピーに欺されてゐてはいけない。一太郎は買つてはいけない。


ATOKのキー操作體系が異常なのでぶち切れる。

[↓]でなぜ確定なのか。開發者を問詰めたい。いまさらPC-98の操作性を引きずつてゐるんぢやねえよ。98キーボードのキーマップをそつくりそのままA01キーボードのそれに當てはめて、再現するな。なぜATOKのデフォルトのキー操作體系を、多くのユーザが平然と受容れてゐるのか、全く理解出來ない。世の中には、私の理解出來ない事が多過ぎる。

ATOKのデフォルトの操作方法で、まともな連文節變換は實現出來る筈がない。

カーソルキーへの機能割當てが、ATOKは出たら目。[↑]で前候補なら、[↓]は次候補に決つてゐるぢやないか。[↓]で勝手に確定するな。馬鹿。[→]は次文節、[←]は前文節に決つてゐるぢやないか。勝手に文節長を變へるな。迷惑だ。[無變換]でモードを變へるな。全くもつて迷惑だ。

IBM連文節變換(IBMMKK)並にATOKは使ひにくい。VJEマンセー。


Wordで構造化された文書を作らせて貰へないのでぶち切れる。

Wordを「ワープロ」として賣つてゐるMicrosoftの營業部は逝つて良し。Wordは本來、ワープロの概念を越えた構造化文書生成ツールにしてフォーマッタであつた。まあ、一太郎のせゐでWordは殺されたやうなものなのだから、憎むべきは一太郎なのだが。

Internet Explorer 3はまだしも増しな存在である。一太郎こそ、人類の負の遺産として最大級の代物であると言へよう。


素人はワープロで、Deleteキーを押して文字を消すと、レイアウトが崩れるので驚くらしい。

平成14年2月8日

岩舘野良猫さん @ 「酩酊亭ENTERTAINMENT」の小説は、全部が全部、小説の皮を被つた落語で、落ちの爲だけに書かれてゐる、と云ふ印象がある。

岩舘氏は、最後の一行で「實はかう云ふ事だつたんですよ」と説明してしまふ。それまでの描寫は全て落ちの效果を高める爲に――と言ふよりは、落ちが效果を持つ爲だけに存在する。ただ一つのアイデアを表現する爲に饒舌を以てする、と云ふのは氣に入らない。そのアイデアも感心しない。

「かう云ふ小説もあつて良いでせう」と云ふのが岩舘氏の言ひ分だらうが、「そんな小説、なくたつて良いでせう」としか私は評價したくない。


落語の落ちは大概、不合理なもので、咄の變な論理を登場人物が妙に納得してしまふのでをかしいのである。岩舘氏の落語風小説の落ちは、理に落ちてしまつてゐるやうな感じがする。讀む側が、「ああさうですか」と言ひたくなるやうなものばかりで、興醒めである。

平成14年2月8日

30数枚のメモ
'78年に執筆された富野(喜幸)氏による「ガンダム」原案のメモ。シリーズのキャッチコピーとして「…君は何に生命をかけられるか…」、作品のテーマとして「自由と義務」、演出テーマとして「…少年から青春を見上げる…」、映像として「修羅の連続」と記されている。

君は何に生命をかけられるか、と、君は生延びられるか、とでは、根本的に違ふのですが。

平成14年2月7日

本物の氣狂ひは氣狂ひと呼ばれても怒らないから、氣狂ひと云ふ語を使用禁止にする意味は本當はない。


詰り、似而非氣狂ひが日本には多過ぎるのである。本物の氣狂ひよりも惡質な、氣狂ひと云ふ語の意味がわかつてしまふ「常人」が、やたらと存在するのである。


「氣狂ひと言ふな」と言ふのは、氣狂ひと呼ばれたくないからだらう、と云ふ事。「氣狂ひと言ふな」と言ふ「良識派」は、實は「氣狂ひと呼ばれたくない」即ち氣狂ひを差別してゐる人間なのである、と云ふ事。


世の中には、氣狂ひよりも、氣狂ひを自稱するただの變人の方が多いし、さう云ふ變人の方が氣狂ひよりも困りものである。氣狂ひは人間味を持つが、變人は大概人間的ではなく、變な思想に支配されてゐる。


氣狂ひを馬鹿にする目的で氣狂ひと呼ぶ人間がゐると、馬鹿にする目的を敏感に察知して氣狂ひは怒る。氣狂ひは、言葉に對して怒らない。氣狂ひのさう云ふ價値判斷は、まともな人間と全く同じである。或は、まともな人間よりもまともである。

平成14年2月7日

ねこーねこー。


私がどんな語で檢索したらひつかかつたのか、わかつた人がゐたら一億圓でも何でもあげます。

ヒントになつてゐないヒント。タイフードフェスティバルに行ってきたゲームむじなの穴(ロス取材記)が同時にひつかかりました。

平成14年2月7日

ギコ猫雪像をあぼーんせよ!

平成14年2月7日

人間は、宗教的動物である。

だ、そうです。誰が言ったか外国人の名前なので、覚えられませんでしたが...。

そして、生きているうちに宗教を持たなければ...、ただの動物...。だ、そうです。

ちなみに、あなたは、どんな動物ですか...。

私は日本人なので自然、「神道の信者」です。神社もお寺も教會もそれなりの「御利益」があると信じてをります。


○○ちゃん萌えとか、そういうのも一種の偶像崇拝であり、アイドルなんてのはまさにその端的な例で (idol = 偶像)。

本物の宗教に比べれば根據が薄弱なので、「アイドル崇拜」は新興宗教に似てゐるのです。だから、いしかわじゅんみたいに「アイドル崇拜」を革命に直結する漫畫家が出て來たりするのです。


同じ「宗教」と云ふ言葉が餘りにも多種多樣な異る概念を包括してしまふので、「宗教」に含まれる幾つかの優れた思想も「同じ宗教」と云ふ言ひ方で安易に相對化されてしまふ。相對化は結構だが、安易な相對化は困つた事だと思ふ。對象を自分の高みに引きずり下ろす爲の相對化はよろしくない。


イスラム教の方は全然知らないと言ってもいい程度にしか知らないので、マホメットにガブリエルを遣わされた神をアッラーと崇めているかはちょっとわからないのですが、一緒であるのであれば、イスラム教のアッラーとキリスト教の神は同一の存在と言うことになりますが、なぜそれで争いますか。

マホメットははじめのうち、キリスト教徒には好意を持つてゐたさうです。ところがキリスト教徒から異端と呼ばれ、受容れられなかつたので次第に敵對するやうになつたさうです。マホメット側から見れば、キリスト教徒が偏狹であつたのが、對立の原因と云ふ事になります。

一方、キリスト教徒にしてみれば、キリストを一人の豫言者に貶めてしまふマホメットを許せる道理もありません。キリスト教徒側から見れば、マホメットは異端である、と云ふ批判を繰返さざるを得ない。


「ヒトは宗教を持つ珍しい動物である」⇒「だからヒトは偉い。宗教を持たない者はヒト失格である」というパタンの論理をしばしば目にすることがありますが、独自性を以ってただちに優位性を演繹することはできません。例:「ヒトは同族殺しを好んで行なう珍しい動物である」⇒「だからヒトは偉い。殺人を行なわない者はヒト失格である」

独自性が即優位性である必要はないが、独自性にも必要な独自性と必要でない独自性がある筈だし、宗教は人間にとつて必要な独自性でせう。宗教は文化そのものであり、文化とは價値を認識する仕方の體系であります。

逆に言ふならば、價値判斷を行ふ際に、人は價値判斷の基準を持つてゐなければならないのであり、その價値判斷は常に文化に基く。ならば當然、價値判斷を行ふ際には價値判斷の基準としての宗教を持つてゐなければならないと云ふ事になる。一切の價値判斷を抛棄しない限り、全ての人間は宗教を持つてゐなければをかしい、と云ふ事です。


キリスト教の神樣は、絶對無謬であると云ふ。これに對して、相對主義の人は「神の誤謬」を屡々提示する。しかし、絶對を信ずるクリスチャンは、「神の誤謬」と見えるのは、人間の側が誤つてゐるからだ、と考へざるを得ない。禅の公論や、新興宗教のセミナーは、人の全ての主張を徹底的に否定する、と言はれる。しかし、キリスト教のGodくらゐ、人のやる事なす事、全てを否定する存在はゐない。

さう云ふ存在が子供の頃から身近な存在となつてゐるキリスト教社會の人間が、人間的な餘りに人間的な八百萬の神々に守つて貰つてゐる相對的の世界の日本人よりも、理窟が上手で口が減らないのは當然である。

「口の減らない」キリスト教社會の人間が現在、世界の牛耳をとつてゐる。日本は、江戸時代には鎖國をしてゐたが、西歐の壓力で開國させられた。即ち、黒船の大砲に脅されて、日本は西歐の流儀を受容れざるを得なかつた、と云ふ事だ。

西歐のクリスチャンは、口が達者だから當然、理窟も達者であり、理論に長けてゐれば技術も發達させられる。理論を巧みに用ゐる西歐人が實力を持つやうになつたのは當然であり、實力を持つてゐるがゆゑに西歐人は自分の理窟と云ふ方法論を他人に押附けられる。現在、西歐が世界を覆ひつつあるのは、理窟と實力(はつきり言へば武力)と云ふ力が、西歐文明の兩輪として相補的に機能してゐるからである。

さう云ふ現代社會で、或は西歐文明の覆ひつつある世界で、日本人が生延びていく爲には、キリスト教を相對化し、嘲笑するばかりでは駄目なのであり、キリスト教の精神を皮相的で上滑りなものであつても理解する努力を續けていかなければならない。「相對主義」と云ふ鎖國精神に閉ぢ籠つてゐては駄目なのである。日本人の「相對主義」が通用するのは日本國内のみであり、同じ日本人にしか「相對主義者」は勝利できない。そして、同じ日本人に日本人が勝利しても、ちつとも偉くないのである。


動物は義憤に驅られないが、人間は正義の爲に殺人を犯す事もある。

「全ての殺人は常に惡である」と云ふ證明されてゐない大前提を根據に「正義の爲の殺人」を否定し、「惡である殺人を正當化するものだから正義は全て惡である」とする「論理」も、甚だ非論理的なものであると言はざるを得ない。もちろん、正しからざる行爲を正義の名の下に正當化する人及び集團の存在するのは事實である。しかし、さう云ふ人及び集團の行爲を「正しくない」と決定するものは一體何なのかを、「正義」を批判する人は良く考へてみる必要がある。

平成14年2月7日

ところで、私事で恐縮ですが、この度、結婚することになりました。

結納みたいなこととか、一通り済んで落ち着いてから、2月末くらいに皆さんに御報告のつ もりでした。

お相手は、漫画家の安野モヨコさんです。

スポーツ新聞では、何の取材もなく、相手の間違ったプロフィール等を勝手に書いてました。

迷惑な話です。とほほ。

しかしまさか、自分の結婚が記事になるとは思いませんでした。日本は平和だなぁと感じま す。

庵野さんと安野さんですか。

平成14年2月7日

平成14年2月7日

平成14年2月7日

ちっちゃなHTML corrector シュガー。

平成14年2月6日

とぼけたり、人を煙にまいたりするのが大好きな御仁が世間には多いのですけれども、私は、とぼけられるのや、煙にまかれるのやらが、大嫌ひでしてねえ。

平成14年2月6日

大ニュース! わらひ。


庵野監督について、詳しい事を知りたい方はしろはたを參照の事。

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