ノマド・ワークスが去年の11月に新星出版社から出した「ホームページ入門」を見た。駄目駄目。
ムラジローとか言ふ人の「HPをつくる」とか言ふ本を見たが、やつぱり駄目駄目だつた。
IDGから出てゐるキャッチコピーが「ストレス解消」だか何だか良く覺えてゐないけれどもそんなほーむぺーじ入門も見たが、へろへろで却つてストレスがたまりさうな代物だつた。
「トンデモホームページ入門:書籍篇」を作りたいのだが、駄目な本に金を拂ふのが嫌なので、實現出來ない。
松本零士も立派なヒゲメガネですな。
あと、怪人アッカーマンとか。
アンドロイド美少女なんて、吾妻ひでおがぶち殺し捲つてゐます。
成人式で新成人に暴れられた地方自治體は、教育委員會の委員を入れかへたらどうか。
電車の中で讀むものが無くなるのを恐れて文庫本を4册鞄につつこんで行つたのに、また買つてゐるし。
スタイルシートのネタ用と云ふ邊が或意味終つてゐる。
[Windows]キー逝つて良し。109キーボードは敵だ。
デスクトップPC用のキーボードに[Fn]キーを附けるNEC殺す。と言ふか、どうしてNECは「つるぺたキーボード」を作るんだらう。氣持ち惡い。
WindowsXPを10分ほどほつたらかしておいたら、ブルースクリーンに落ちて呉れたのだが、一體何だつたのだらう。win32k.sysが死んだとか言つてゐるが。
ハウスメーカが潰れ始めた。
傳説の「超」のつくサイトを復活してみるテスト。
http://No_Z.tripod.co.jp/でもアクセス出來るかも知れませんが、URLとして不正です。こんなIDの取れるTripodは××××。
再公開後、3時間でカウンタが100囘つてゐて、非常に鬱なんですが。
body
とか言つたりするのは好き者。
@aural media
なプロパティで指定するのは声優ヲタ。
謎。
今朝、本の重みで家が傾くと云ふ悪夢を見てうなされた。
分析するまでもないですな。
犬のおいしさ知って W杯前に普及団体を結成へ、だそうです。
補身湯…?…実はルルピカは興味津々なのですが、怖いので食べに行く決心が付きません。
狂犬病は大丈夫なんですかね。
狂牛病と狂犬病は、全然違ひます。
レナ姫樣の君によると(2002-01-14)、オランダでは既にギルダーは使へず、ユーロに移行してゐるさうな。
CSS關係のサイトに良くある「注意書」――「××では見る事が出來ません」「○○での閲覽を推奬します」。
この手の記述は、意味がないのです。その「見る事が出來ない××」のユーザは、そもそも「注意書」を讀めないのです。
ところが、「注意書」と云ふ看板を「ブラウザ情報」に改めると、たちどころに「ウェブ講座」の立派なコンテンツになつてしまふのだから便利な話。
餘りに頭に來たので「ホモの癖に」と本音を書込んだら、數分後にあつさり消された。わらひ。
田中幸一は1月8日頃、山本握微氏の所屬する劇團のサイトの掲示板を荒したらしい。
1917年にロシア革命によりソ連という共産国家が建国されて以来、その乱暴なやり方も、自らを正当化する弁明と強弁も、全く変っていない。相手が強い者であるときは力の行使を"弱者の論理"で拘束し、相手が弱い場合にはためらうことなく力を揮い、自身を正当だと論ずる。
田中幸一の戰術も全く同じ。
議論専用掲示板 ARUGMENT にはかう書かれてゐる。
議論専用の掲示板です。冷静かつスマートに、忌憚の無いご意見をお願いいたします。
なぜ、忌憚の無いご意見
の前に冷静かつスマートに
と云ふ限定が附いてゐるのかと云ふと、本當に忌憚の無いご意見
が書込まれた時、「冷靜でもスマートでもない」と言つて追出す意圖が田中にはあるからである。
もちろん、自分の氣に入つた意見は、忌憚の無いご意見をお願いいたします
と書かれてゐる掲示板に書込まれた意見だから忌憚の無いご意見
なのであり、それで以つて自分の發言の權威附けをはからうと田中は考へてゐるのである。
見下げ果てた根性である。
もとの文書にある記述の誤をInternet Explorerが變に解釋してゐる。
Internet Explorerではサイトのリストの背景が淡いクリーム色に表現されるが、Operaでは色がつかない。Operaの擧動の方が正しい。もとの文書でtableの背景色を指定するのに使はれてゐる
なる記述は不正。Internet Explorerが氣をきかせて色をつけて呉れる爲、#fffffff
テキトーにHTMLを書きながらプレビューしてファイルを作っていく
制作者は自分のミスに氣附かない。
と言ふか、Operaで整形結果を參照しながら、*.CSSを記述して、Internet Explorerで最終確認をしたら、全然違ふ見榮えなので、仰天した。
どう云ふ風な見榮えが本當の「制作者の意圖する整形結果」なのかがわからないのでは困るのです。
變なマークアップが困るのは、書き手の記述と書き手の意圖との間に、必然的な因果關係が全く存在し得ないにもかかはらず、書き手が或特定の整形結果を期待してしまふ事であります。
「眞實」「正しさ」よりも「説得力」を重んずる、ニューアカ残党似非アカデミズム
の典型的な例。
某ア○ク○イさまが、某書店で、某作家の文庫の平積みを全部買っていったのを目撃したとか、アホなネタしか思いつかないんで(苦笑)。
しかも↑は、ネタじゃないし(爆)。
こういういい加減な話を書くのはやめてくれよ。そういうのは「掲示板荒らし」のお二人で間に合ってるから(笑)。
第一、あの二人が書くことは説得力がないからいいけど、君の書いてることは「もしかして」と思わすネタだから困るんだ。……私は断じて全部買ったりはしない。選んで、きれいなのを残らず買っていくことはあったとしてもだ。
説得力がない
、と言つて嘲るのが、この手の連中のパターン。
しかし、一番説得力のないのは自分自身であると云ふ事に、アレクセイ田中幸一は氣附いてゐない。
だから馬鹿なのである。
「女にモノは 書けない」というのと「女を売り物にしている」というのの両方があなたたちの批判対象ではあっ たはずなのに。
「自分の主張を裏切る事を平氣でやらかす」「相手を叩く爲なら、自分の矛盾は氣にしない」と云ふのが、彼らの「強み」である。論戰で勝つのには極めて役に立つ「強み」である。
ちなみに私は今、論戰と云ふ言葉と、論爭と云ふ言葉を遣ひ分けてゐる。
馬鹿を揄ふと馬鹿を見る、と云ふ話。休まない馬鹿は休まないから、馬鹿馬鹿しい事を本氣でする氣のないまともな人間は必ず負ける。
ニューアカだかアカデミーだか知らないがとにかく「アカ」の連中は、論爭を通して眞實を探る事よりも、論戰で相手をやつつける事で自分の主張を眞理と見せかける事に價値を見出す。彼らの戰術は、ありとあらゆる手段で以つて敵を攻めたて、敵の氣力を殺ぐ事である。反對勢力の言論を彈壓し、多くの人の目に見えないやうにする事で、自分逹の主張を通さうと云ふのである。
「正しくない事を言つてゐる人間が論爭で不利になる事はある」と云ふのは眞實であつても、「論戰で負けた人間の言ふ事は常に正しくない」と云ふのは眞實ではない。にもかかはらず、論戰で勝つ事だけに血眼になる論者が世の中には極めて多い。
彼らは「眞實を知りたい」のではない。既に彼らは「眞理を知つてゐる」。「自分だけの眞理」を、彼らは他人に押附けたいのだ。そして、「己の押附けは眞理に基いてゐるから絶對に正しい」と考へる一方、「他人が自分に押附ける事は絶對に間違つてゐるから許されない」と彼らは主張する。
世間の人は金曜日に「風の谷のナウシカ」を觀てゐたらしい。
俺はキッズステーションでやつてゐた「ハンドメイド メイ」のラスト3話を鑑賞。テレビをつけたらやつてゐたので觀ただけ。なんか許せない氣がして今まで全然觀なかつたのだが、實際に觀てみたら普通に「良い話」だつた。
と言ふか、私はドラえもんが嫌ひです。何を今更藤子不二雄。
古いよ。古臭い。
うちでは、スキャナでデータを取込む時、GIMPが大活躍。
たまにイメージングも。
XPに「イメージング」は無いんですな。結構良いツールなんですが。
或種のインライン要素は、全く明示しないでゐても大丈夫。
文字の側でやつてゐた事は、何でもかんでもHTMLの記述で置換へなければならない、と云ふ決りは無い。
ただ、同じ制作者による文書では、マーク附けのルールは統一しておいた方がよろしい。
右翼か左翼かと言ふのは、單にx軸上の話をしてゐるのに過ぎない。人を評價する場合には、知識とか眞面目さとかいつた色々な價値觀が、y軸z軸として存在してゐる事を、常に意識してゐなければならない。好き嫌ひも、さう云ふ一つの軸として存在しても良い。
しかし、ある軸が他の軸からは常に獨立してゐる事を、人は屡々忘れる。忘れてゐるのならまだ増しで、時として個々の價値觀を、故意に混同して、人の評價を決定しようとする人がゐる。
本日の買物 @ 小田急古本市。「古書の街」を名乘るなら、古本屋を常設して呉れ玉へ。
『終戰史録』は、重要な文献の集められた、極めて便利な資料。
「柳田國男先生著作集」は、昔の「讀書日記」で一度觸れた。詳細はそちらを參照の事。
高橋葉介の漫画文庫が売られてゐた。
カヴァ缺200圓。もちろん、買ひません。
私はサンコミックス版の「ヨウスケの奇妙な世界」を4册、既に持つてゐます。ついでに「真琴グッドバイ」も持つてゐたりしますがそれが何か。
「本の雜誌」で、木村晋介氏が世界貿易センタービルテロ事件に關して書いてゐる。2月號では、池澤夏樹氏が某誌で「テロは貧困から起る」と言つたのに噛みついてゐる。
テロを起すのは、貧困階級ではなく、中流以上の裕福な階級の出身者である、と木村氏は述べる。
木村氏は、私よりもずつと紳士だから、池澤氏に、お互ひ、還暦を過ぎたら、どちらの考へが正しかつたか、心ゆくまで語り合ひませう、と言つてゐる。
掲示板に大量の書込みをしたり、メーリングリストで發言をし捲つたりしなければ、ウェブ日記は簡單に續けられます。
ネタを仕入れる。
ウェブ日記ばかり書いてゐると、長い文章が書けなくなりまーす。小説は書けなくなりますし、漫畫も描けなくなりまーす。己の文才その他を惜む人は、ウェブ日記に手を出してはいけない。
「日本人は南京で哀れな中國人をx千人/x萬人虐殺した。反省しなければならない」が「自虐史觀」なのはわかる。しかし、「日本人は、南京で中國人を虐殺してゐない。日本人は、そんなに殘虐な國民ではない」が「自尊史觀」だと云ふのは全く理解出來ない。「言ひ譯史觀」とでも呼べば良いだらうに。
「日本人は天皇の名の下に、南京で××××な中國人を何千人、何萬人も虐殺したが、當然至極の事である。南京大虐殺を日本人は堂々と行つた、だから大日本帝國は偉大だつたのである! 大日本帝國萬歳!!! 天皇陛下萬歳!!!!」と言ふカミカゼアタッカー的に自爆氣味の論者には「自尊史觀」のレッテルを貼つて良いかも知れません。
下士官が部下を苛め、參謀本部が前線の事情を全然知らない軍隊に、組織的な虐殺なんて眞似が出來ますかねえ。支那に行つた日本軍では、せいぜい不良グループが面白半分に、現地の人間を苛めて「遊んだ」くらゐでせうねえ。
「支那人を苛めて平氣な人間」のメンタリティと、「南京大虐殺を否定する論者を苛めて平氣な人間」のメンタリティとは、良く似てゐる。
「非國民!」と罵つた人間のメンタリティと、「戦争主義者!」と罵る人間のメンタリティが、極めて類似してゐるやうに。
「他人を平氣で見下す」と云ふところが、そつくりである。レッテルを貼つて、勝つた氣になるところが、そつくりである。他人の精神を認めない――そもそも精神と云ふものを認めない――ところが、そつくりである。
HTMLですが、そうですねえ、やっぱりこっちで適当にフォントいじるほうが歪んでていいかもしれませんね。投稿してる人はたまったもんぢゃないとは思いますが(^^;)
考へてみれば、しろはたこそ、最強の「フォント弄り系」サイトである譯で。
@NetHomeはproxy serverが腐つてゐる。
HTML文書の記述に修正を加へたい、と云ふ欲求を覺えた。
妙に複雜な記述になつてゐますが、定義リストで書けば良いんぢやないですか。
協会のとっぷぺーじ、オススメ小説サイト
の最終更新が「01/10/28」なのは痛いです。
……と、自分のサイトを棚に上げて言つてみるテスト。
連休なんて知らん。
今は戰時下なのだ。
苦笑。
みんなのあいどるNiAOUたんhoopsで假復活。
過去帳送りにした「2002年1月 Part.2」は、現體制に移行して以來、最小のサイズとなつた。
今は戰時下である。
NECは、どうして使ひ辛いキーボードを作るのだらう。妙に獨自な仕樣なので、下手に交換も出來ないし。
互換性が高い場合、氣に入らないパーツがくつ附いてゐても、いつでも好きなものに交換出來るから、安心。互換性が低い獨自規格を採用してゐる場合、氣に入らないパーツがくつ附いてゐても交換出來ないから不便。
年始に友達とその新婚の嫁さん(ルーマニア人)と飲んだのだけど、さすがにあの地方の女性だけあってベッピンだった。背も高いし英語もペラペラ(当り前か)。
なんでも彼女は大学院で材料学(理系)を学んでるらしく、頭のいいのを鼻にかけているような雰囲気。酒がまわってくると、やはり始まった。日本バッシングである。
- 日本人は全員ヴィトンを持っている
- 日本人には個性が無い
- 日本人は30歳になると結婚しろと言われる
- そしてすぐに子供を産めと言われる
- 日本の食品は化学調味料が多すぎる
- 日本人は外人が歩いてるだけですぐに注目する
- 日本は戦争で負けてから魂を無くしてしまった
- 日本人は家族のつながりが希薄である
海外ではドイツと日本をバカにするのが流行っているようで、ドイツ人は変態、日本人は没個性と言われているようだ。特にインテリぶった外人が鼻高々と上記のようなことを言うことが多い。多分、気の弱い日本人をそうやって凹ましてるんだろう。しかし、こんなこと言われて黙ってたら大和魂の名折れである。その知ったかぶった鼻をへし折るべく猛烈に反撃した。
ところで関係ないが、高橋氏のそのルーマニア人に対する反論も相当痛いな。日本の方がルーマニアより優れてるって、エイズの子供が孤児院でバタバタ死んでないだけで明らかだろうに。ついこないだまで独裁者マンセーだった連中に言われたかないわな。日本で今力を持ちつつあるナショナリズムは、他国 (主に韓国と中国だ) を見下すことによって成立してるもので、そのルーマニア人が持ってる人種偏見と質的には何も変わらない。ていうか景気の悪いときには質の悪いナショナリズムが高揚するものだ。まあ、ルーマニア人なんてのはヨーロッパでは最低民族扱いだから、黄色い猿ばっかりのところに出てきてほっとしてるんだろう。痛い奴がいるもんだと冷笑してればいい。連中ヴィトンが欲しくたって買えないんだからさ。
コメントしやうがねえな。
日本では、右も左も他人を見下すのが好きである、と云ふ事だけを指摘しておけば良いだらう。右も左も、論據が國粹主義か平和主義か、と云ふ違ひはあるが、結局のところ、「自分逹の主義に從はない人間は全て人間以下の存在であるから輕蔑して良い」と言ひたいだけである。
景氣の良い時には質の惡いラディカル、景氣の惡い時には質の惡いナショナリズムが流行る。それだけの事だ。
もつとも、景氣が惡くても、「戰爭だけが結論ではない」と言つて「平和だけが結論だ」と主張する馬鹿音樂家の本が賣れるのだから、日本は平和なのである。
未來に希望を持つのは結構だが、「未來に希望を持たない人間は人間ではない」と決めつけ、「希望は持たねばならない」と云ふテーゼを構築して反對者を彈壓しにかかるのは惡質である。
それにしても、「屁岩」と誤變換をしたWXGは、頭が良いのか惡いのか。
伊藤氏の可能性
なんてものがそもそも嘘つぱちなのであり、所謂「表現の可能性を擴げる」ものは全て「外道の表現方法」なのであり、「フォント弄り系」に未來はないのである。
1960年代にアルフレッド・ベスターと云ふSF作家が「フォント弄り」を極めた事、その模倣者は大量に現れたが一人も名前を殘してゐない事は、いまの「フォント弄り系」の隆盛に對しても示唆的である。
「フォント弄り系」のサイトが後世に名を殘す事は、絶對にない。その場限りの刹那的な樂しみの爲にのみ、「フォント弄り系」のサイトは存在し得るのみである。
言語表現はリニアな情報の「流れ」であり、非言語表現はノンリニアでフロートの状態にある「情報の塊」である。言語表現を人は逐語的に解釋するが、非言語表現を人は全體的な印象で把握する。兩者は、密接な存在であるが、區別して認識可能である。
「戰時下」なので、詳しくコメントしてゐる暇がないのだが。
これはおかしな日本語の文章です。
どこもをかしくありませんが。
たしかに、落語は寄席で聽いた方がよろしいのでせうが、元の日本語は「異常である」「正しくない」「變である」の意味での「をかしい」には該當しません。
語義がコロコロと変化してしまうような場合、観念に過ぎない可能性が高いです。その概念について現実との葛藤をしたことがないので、はっきりとした認識を持っておらず、単に議論への献花にしてしまう人に良く出くわします。
伊藤さんの用語は、一々信用なりません。「をかしい」の一語の意味ですら一意に特定出來ないと云ふのでは、話になりません。
と言ふか、「どこがどうだから、落語の文章はおかしな日本語の文章で
あると言へる」のかを、伊藤さんがきちんと説明して下さつてゐたならば、必然的に「をかしい」の語義
は決定されるのであります。
煙草の副流煙は健康に悪い。だから、近くで吸わないでほしい。これは成り立ちます。
外箱の図案的効果に凝ると背綴じやにかわづけの強度が弱くなる。だから、外箱の図案的効果に凝らないでほしい。これも前提が正しければ成り立ちます。ですが、前提は正しくありません。
それあ、「正しくない前提」を、伊藤さんが創造してゐるから、「正しくない」に決つてゐます。
おききしますがね、外箱の図案的効果に凝ると背綴じやにかわづけの強度が弱くなる
、と、一體誰が主張したのでせうか。誰も主張してゐませんね。誰も主張してゐないにもかかはらず、伊藤さんは、私や壽岳文章が主張してゐるやうに執拗に言つてゐます。それはなぜですか。
壽岳氏は、飽くまで背綴じやにかわづけの強度
を前提に話をしてゐます。「背綴じやにかわづけの強度
は考慮されるべきである。しかし、外箱の図案的効果に凝る
デザイナは背綴じやにかわづけの強度
を屡々考慮しない。だから、外箱の図案的効果に
だけが凝つてゐて、造本がお粗末な書物が屡々出現する」――どこに論理的な誤がありますか。
まあ、伊藤さんは「自分の誤解」に執着するでせうから、私の言つてゐる事を理解しようとしないのではないかと思ひますが。
だがかういふ反論は、相手の言ふことを、自分の理解しうる範圍で解釋して、假想的に愚論をでつち上げるといふ操作を經た上でなければ、飛び出すものではない。
ちなみに、伊藤氏の擧げた上の二つの例は、「面倒臭い」論理學的な檢討の必要な代物です。最初の副流煙
に關する「論理」は、どうやら「三段論法」ではなく、「推測」に屬するタイプの「論理」です。図案的効果
と背綴じやにかわづけの強度
との關係を述べた後者の「三段論法」的論理とは、形式論理學的に全然別種の形式の論理に屬します。
伊藤さんは、どうやら論理學を全然知らないのではないか、と私は推測します。もつとも、論理學を究めてゐて、話をややこしくする爲に、わざと問題を曖昧にしてゐる可能性も、なきにしもあらずですが。
色恋沙汰という部品は高性能で、多くの人間(10才位から上のほぼ誰でも)をひきつけます。ですから多くの作品がこれを利用するのです。再利用性と互換性が高い。いっぽうフクロネコは、哺乳類および生物一般での生活史戦略という知識とセットにしないと、さらにセットにしてさえもわずかな人間にしか、面白くありません。フクロネコを主題にした映画はその構成要素の多くをフクロネコの説明にまわさねばならず、再利用性と互換性を欠きます。フクロネコは、単体として性能の低い部品であり、膨大な補助部品と組み合わせてやっと楽しめるものになります。
變な「對比」を、伊藤さんは濫用し過ぎです。ここで伊藤さんは袋猫の解説をしたに過ぎません。
大體、色恋沙汰
と云ふ抽象的な概念と、フクロネコ
と云ふ具體的な動物を對照させても、意味がないです。伊藤さんは、「抽象的な概念の方が、具體的な事物よりも、抽象的だ」と言つてゐるだけです。
僕は表現手段に着目するのが好きです。
僕は、人間が道具を作り、道具が人間に影響を与え、そこでまた人間が道具を改良し……というフィードバックがぐるぐる螺旋をつくって可能性空間のなかを伸びていくさまが好きなのです、ってまた筆が暴走して、下手なポエムになってますが。
要は、伊藤さんはただ單に、可能性
と言ひたいだけなのではないですか。可能性
なんて今日び流行んねえんだよ。得意げな顔して、何が可能性
だ。お前は本當に可能性
を見切つたのか。小一時間問詰めたい。(こればつかし)
ティム・バーナーズ・リー氏がWWWをつくり、WWWから2chが生まれ、2chを読むためにかちゅーしゃがつくられ、とか、そういうやつです。
ティム・バーナーズ・リー氏がWWWを構想した最初には、現在のWWWのこのありさまは予想していなかったでしょう。この状況を予想するのはまず無理だったのではないかと思います。それはそれでいいことです。最初に見込んでいたとおりピタリの地点に着地するのは嬉しく、かつ、ちょっとつまらないことです。
末尾の文章が極めて嫌らしい。
日本語で、かう云ふ言ひ方をした時に、筆者は絶對に本気で嬉し
い等とは思つてゐない。筆者はつまらない
と思つてゐる。日本語の文章では、結論が後にくる。
ただ、論理展開と云ふ事を全く氣にしない「唯物論者」は、嬉し
いと言つた事實だけを異常なまでに強調して言ひ譯にする。そして、筆者の言ひたい事はつまらない
だ、と斷定する人間を電波呼ばはりする。
電波呼ばはりしない人も、道理を理解しない事には變りがないのであつて、どつちにしろ厄介である。
冷暖房ナシ。