闇黒日記



年末進行

平成13年12月31日

「誰かが決めたから正しい」と云ふ「理論」を日本人は好み、「正しいイデアが存在する筈だ」と云ふ「理論」を西歐人は好む。

そして、江戸時代末、日本は西歐に負け、西歐の流儀を採入れる事に決めたのである。


100年以上が經つたにもかかはらず、日本人の精神は依然、日本人である。これは喜ぶべき事か、悲しむべき事か。


異常な事だが、これが現實である。

平成13年12月31日

物凄く長いですよ。途中で話が最初に戻つてゐますし。


良い<傍点>部分</傍点>があるから、ではないのです。文章とフォントとの相互依存するさまが良いのです。

してゐないぢやん。

と言ふか、<傍点>つて、何ですか。なぜemとかstrongにしないのですか。


A_PROMPTの文章を平板に読んだらつまらないし、野嵜さんの文章や懐かしの中学国語教科書にA_PROMPT調のフォント装飾を施してもつまらないだろう。単体ではつまらないものどうしが、しかし一緒になると楽しくて面白いと、僕は思っているのです。

伊藤さん、それは相互依存と違ひますよ。A_PROMPTは、日本語の文章が駄目なんです。A_PROMPTの「面白さ」は、フォントの變化と云ふ「HTMLによる演出」に全面的に依存してゐるんです。そして、日本語の文章が駄目であるのは、單にマイナスにしか働いてゐないのです。

 落語の台詞をそのまま文章化したらおかしな日本語になるでしょう。落語を演じるのは、喋る文章の日本語が駄目だから口調や身振りや手振りを交えて価値を付与するため、ではありません。

なりません。青空文庫に、三遊亭圓朝の落語が入つてゐます。參照して下さい。

 外箱の図案的効果に凝るのと、背綴じやにかわづけの強度が弱いのとには、必然的な関係があるのですか? ないと思います。

その兩者に必然的な關係が無い事が、何か意味を持つのでせうか。壽岳文章は單に、必須の要件である背綴じやにかわづけの強度を等閑視して、外箱の図案的効果に凝る出版界の現状はをかしい、と言つてゐるに過ぎません。

伊藤さんは、問題にする必要のない事を問題にして、問題だ、と言つてゐるのです。

 <傍点>ほんとうに</傍点>全体が有機的に結合し……どれを欠いても成立しえぬ作品、というのは、まず存在しないと思います。それは特定のスクリーンで特定の音響機器で特定の時刻に特定の人種性別の観客に……向かって上映されてこそ成立する映画、みたいなもので、極限を取ると「ある一人の人物にとって、その人の人生」とかになってしまいます。

 ハムレットはかなり多くの要素が相互依存した傑作なのでしょうが、さしものシェイクスピア氏も演出を後世に残すことはできなかった、だからそこに互換性がある、ということだと思います。

さう云ふ話ではないのですが。

どうも、伊藤さんは、作品自體の有機的な統一性と、作品を表現する爲のメソッドの統合の問題とを、ごつちやにしてゐるやうです。

 SFXよりも純愛物語としてタイタニックには価値があるのではないのですか? つまり純愛物語というストーリーには、派手な演出に依存しない、独立した、再利用性と互換性のある価値があるのでは?

「タイタニック」には、SFXへの「互換性」が低い、と云ふ事ではないですか。

詰り、SFXと云ふメソッドを表現の手段として取り込んだ映畫は、逆にそれ以外のメソッドを排除してゐる、と云ふ事になりませんか。

 ん? 再利用性と互換性という言葉の語義が違いますね。僕は、たとえばタイタニックのストーリー要素がSFX要素から切り離されて、他の作品で使われたとしても成り立つとして、そのことを再利用性・互換性と呼びました。

ちよつと待つて貰ひたいのですが。

 全体が有機的に結合し、一体となり、組織が過不足なく装備され何一つ切り捨ても追加もできぬ、それぞれの要素がお互いに大きく依存しあっていてどれを欠いても成立しえぬ作品。それはいいものです。それは再利用性と互換性を欠きます。一方、ストーリー単体に非常な魅力があって、SFXやカメラワークや音響演出などは他のものでも代替可能な作品などというものもあって、それはそれでいいものです。これは、再利用性と互換性をもちます。

この場合の再利用性と互換性語義は、一體何なのですか。

伊藤さんの再利用性と互換性と云ふ用語には、いろいろな語義があるやうに思はれます。


伊藤さんの文章は、讀めるのですが、意味がさつぱりわかりません。言語明瞭意味不明、と云ふ奴です。

と言ふのは、伊藤さんの用語が、同一の用語であつても複數の概念に對應する事があつたり、單一の概念が複數の用語で呼ばれる事があつたりするからです。私が「プラス」と云ふ用語を用ゐる際、わざわざ括弧で日本語の意味を附けましたが、伊藤さんはその括弧の中の意味を明示しないで、用語を曖昧なまま用ゐて、聯想、聯想で話をしようとする。困るんですよ。用語の意味と用法には、一貫性を持たせていただきたいものです。

剩へ、こちらで伊藤さんの用語の意味を、前後の文脈から推測すると、違います。とやられるのだから、堪らない。


と言ふか、伊藤さんは、「目標とする理想」と「展開してゐる理論」とが、一致してゐない事に、氣附いてゐません。文章とフォントとの相互依存が伊藤さんの「目標とする理想」ですが、伊藤さんが稱揚してゐるA_PROMPTの「展開してゐる理論」は、「フォントへの前面依存」でしかありません。ただ、伊藤さんの文章とフォントとの相互依存と云ふ言ひ方が不正確であるがゆゑに、話が曖昧になり、伊藤さんは自分に都合良く、話をねぢ曲げる事が出來る。

文章とフォントとの相互依存とは、一體何なのですか。「文章がフォントに依存し、フォントが文章に依存する」と云ふ事だ、とでも言ひますか。ではお尋ねしますが、「文章がフォントに依存する」とは何ですか。

「文章と云ふメソッドが、フォントと云ふメソッドの上に構築される」と云ふ意味ならば、それあ「文章がフォントに依存する」と云ふ言ひ方は成立ちますよ。しかし、伊藤さんは、さう云ふ意味で言つてゐる譯ではないでせう。

単体ではつまらないものどうしが、しかし一緒になると楽しく面白いと、僕は思っているのです。

ここで、伊藤さんの言ひたい事をより正確に表現するならば、「A_PROMPT(そして所謂「フォント弄り系」のサイト)が樂しく面白い事は、日本語の文章の面白さと、フォントの變化による面白さの、相乘效果によるものだ」と云ふ事になる筈です。日本語と云ふメソッド、フォントと云ふメソッド――メソッドなるものが問題である、と伊藤さんは信じてゐますが、さうではない、問題はメソッドの持つ面白さである筈です。

メソッドに問題を還元する唯物論では、お話にならない。今は、面白さ樂しさ、といつた價値の問題が議論の中心なのであり、必然的に話はイデア論になる。そこを伊藤さんは勘違ひしてゐる。

面白さの觀點から判斷して、A_PROMPTの「日本語」は面白くない――これは伊藤さん自身が認めてゐる事です。詰り、「A_PROMPTの面白さ」=「A_PROMPTの駄目な文章」+「フォントの變化による效果」であり、「A_PROMPTの面白さ」=「文章の面白さ」+「フォントの變化による效果」ではない。「フォントの變化による效果」は、A_PROMPTでは、「駄目な日本語」を糊塗する爲にしか役に立つてゐない。「日本語の面白さ」と「「フォントの變化による效果」が相乘效果をあげてゐる譯ではない。にもかかはらず、伊藤さんは「日本語+HTML」と言つてゐる。

だから、伊藤さんの主張は間違つてゐる、と私は言つてゐるのです。


話がややこしくなつてゐるのは、伊藤さんにとつて、「日本語の面白さ」と「「フォントの變化による效果」が相乘效果をあげてゐるかどうかは、實は全然問題ではないからです。

「全體が有機的に結合され、相乘效果をあげてゐる」――さう云ふ作品は存在しないから、伊藤さんの眼中にはない。しかし實は、伊藤さんの眼中にないのは、イデアそのものであります。理論や理想は、伊藤さんの考慮外にある。

伊藤さんの注目するのは、既に「面白いもの」として成立した、結果としての作品だけです。伊藤さんにとつて、理論や理念は、「面白い」と言張るのに必要な、辻褄合はせの爲のものに過ぎません。

A_PROMPTは伊藤さんにとつてアプリオリに(或は、好惡による判斷で、絶對的に)「面白いもの」と規定されてゐます。そして、「なぜ面白いのか」を説明する爲に、伊藤さんは「日本語+HTML」と云ふ要素を必然的な根據として提示したに過ぎません。そして、そこに伊藤さんの「理論」の穴がある。

伊藤さんの言葉を借りれば、「『日本語+HTML』と、サイトの面白さとには、必然性があるのですか? ないと思ひます」と云ふ事です。


どうも、伊藤さんは、「スタージョンの法則による誤謬」のもう一つの誤を冒してゐるやうに私には思はれます。

物事の90%は屑である。装釘の図案的効果にひきつけられた本の90%はクズだが、それが図案的効果に凝ったせいだとは言えない。だからと言つて、ここから直接、装釘の図案的効果良いものである、とは言へませんね。にもかかはらず、伊藤さんはそれで、装釘の図案的効果を辯護した積りになつてゐます。

外箱の図案的効果に凝るのと、背綴じやにかわづけの強度が弱いのとには、必然的な関係 があるのですか? ないと思います。

理窟の上で、伊藤氏のこの反論は、何ものをも辯護してゐない、と云ふ事は理解出來るかと存じます。

そもそも、必然的な関係の「ない」事は、壽岳氏も私も必然的な関係が「あるべきだ」と言つてゐないのですから、指摘する必要もありませんし、さうであるからといつて伊藤氏の主張を支持し、私の主張に缺陷のある事を證明するものでもありません。

逆に、本にとつて重要な背綴じやにかわづけの強度とは必然的な関係のない外箱の図案的効果に凝る事を、壽岳氏は批判してゐるのだし、私もさう云ふ壽岳氏の意見に賛成してゐるのですから、伊藤氏の批判は批判になつてゐないのです。


 <傍点>ほんとうに</傍点>全体が有機的に結合し……どれを欠いても成立しえぬ作品、というのは、まず存在しないと思います。それは特定のスクリーンで特定の音響機器で特定の時刻に特定の人種性別の観客に……向かって上映されてこそ成立する映画、みたいなもので、極限を取ると「ある一人の人物にとって、その人の人生」とかになってしまいます。

なりません。全体が有機的に結合し、統合された傑作は、イデア的な存在であり、さう云ふ具體的な存在ではありません。逆に、ある一人の人物にとって、その人の人生は、必ずしも一貫したものではなく、それゆゑ人は藝術を求めるものであります。

それにしても、伊藤さんの推測する「野嵜の所謂理想的な藝術作品」と、私の考へる理想的な藝術作品とには、甚だしい懸隔があります。伊藤さんは、個人的な、個別的な作品こそが「野嵜の言ふ理想的な藝術作品」だらうと考へるのですが、私は逆に、普遍的な作品こそが理想の藝術作品だと考へてゐる。そして、伊藤さんは、さう云ふ判斷に基いて、私の主張をとにかく否定しようとしてゐる。

しかし、全体が有機的に結合し……どれを欠いても成立しえぬ作品必ず個人的で個別的なものになる、と云ふ必然性は、どこから伊藤さんの頭の中に入り込んだのでせうか。

 SFXよりも純愛物語としてタイタニックには価値があるのではないのですか? つまり純愛物語というストーリーには、派手な演出に依存しない、独立した、再利用性と互換性のある価値があるのでは?

重要な事は、やはり価値と云ふ概念に對する認識が、伊藤さんと私とでは異つてゐる、と云ふ事でせう。「或語が何を指すか」ではなく、「いかなる事をもつて價値となすか」の部分で、伊藤さんと私の間には、埋められない溝があるやうに思はれます。

ここで、伊藤さんが極めて唯物的であるやうに、私には思はれるのであります。この「唯物的」とは、共産主義的とか、左翼的とか、さう云つた意味ではありません。物質主義的とも、にてゐるやうで、違ひます。

日本人特有の「理念と云ふ概念自體の缺如」を、伊藤さんは日本人らしく備へてゐるのであります。或は、西歐的なイデアリズムの訓練を、伊藤さんは全く受けてゐない。伊藤さんは、目に見え、手で觸る事の出來るものしか信じないと云ふ點で、日本人なのであります。だから、理窟と云ふ、目に見えないものを、伊藤さんは信じない。

そして、一方の私は、やはり日本人だから、本氣で信じてゐない理窟で伊藤さんを説得しようとして、失敗してゐる譯です。

ただ、信じてゐるかゐないかに關らず、論理はユニヴァーサルだから、議論をするならば理窟を用ゐるしかない。言歸正傳。

「タイタニック」が純愛物語として価値がある、それはさうです。しかし、なぜ價値があるのか、と云ふところで、伊藤さんと私とでは、全く意見が喰ひ違ひます。伊藤さんは、再利用性と互換性で、その価値を説明します。しかし私は、單に「面白さ」と云ふ事でその價値を説明します。

結局のところ、伊藤さんがメソッドにこだはり、表現の手段にこだはるのに對して、私は飽くまでコンテンツが大事だ、と主張してゐるのであります。


だらだら書連ねてまゐりましたが、私の言ひたい事は、「ウェブサイトはコンテンツが大事」と云ふ當り前の話なのであります。「正しいHTML」を書く意義で、この邊りの事は既に私は述べてをります。

「ウェブサイトでは中身が大事」と云ふ、既に「定説」と化したやうな意見があります。この意見が既に世間では認められた眞實である、と考へるならば、「大事な中身は豫め用意されてゐる筈である」と云ふ推測が成立ちます。

「フォント弄り系」は、肝腎な中身が空疎で、表現の手段(メソッド)によつて「面白い」印象を閲覽者に與へるに過ぎないものです。極めて皮相的で淺薄なものです。

中身が充實してゐるならば、表現の手段は簡素である必要があります。これは、伊藤氏も認めざるを得ないのではないかと思ひます。

野嵜さんの文章や懐かしの中学国語教科書にA_PROMPT調のフォント装飾を施してもつまらないだろうとは、野嵜の文章は教科書と同樣、もともと詰らない文章である、と伊藤さんは言ひたいのでせうが、別に具體的に私の文章の善し惡しを言ふ事もあるまい。ただ、より良い文章を書かうとする人は、「フォント弄り系」の安直なメソッドを採用すべきではないし、人は須らく良い文章を書くべきであるから、結果として「フォント弄り系」は否定されなければならないのであります。

逆に、素人全盛の現代において、素人らしさを助長する「フォント弄り系」のメソッドが受ける必然性は、たしかにありますが、必然性があるからと言つて、それに從はなければならないと云ふ必然性はありません。もつとも、必然性と言ふから話がややこしくなるのであり、今、精密な議論をするならば、個々の必然性と云ふ用語には註釋を附す必要があるでせう。

平成13年12月31日

ところが、これを旧仮名遣いで「違ふ」と書くとき、連用形は「違ひ」であり、一方で、形容詞の終止・連体形はそれぞれ「白し・白き」であるから、ここには混同誤用の余地が無い。

その通りだ、と思つたが。

もっとも、中世以後には、「白い・高い」などの音便形も普通に使用され、それをまた「白ひ・高ひ」などのように誤って書いた例がいくらもあるから、そうなると、ここに「違ひ」との共通根が現れてきて、結局、この誤用はいつかは発生するべく用意されていた必然であることがわかる。いやいや、そんなふうに、あれこれと誤用にもとづく「新語」を生み出しながら、日本語は表現を豊かにしてきたともいえるのである。この推論がもしチガかったら御免を被ります、へい。

と續けてゐるので、がつかりした。


なぜ、「誤用」=「豐かな表現」と云ふ發想をするのだらう。渾沌こそが豐かなものであり、秩序は貧しいものである、と云ふ考へ方をするのは、一體何なのだらう。

林望先生も、やつぱり秩序がお嫌ひなのだ。


と言ふか。

どうも小言幸兵衛のようで恐縮であるが、これも老人力のひとつとお見許し願うとして、ここにまた、なんとしても耳に逆うというか、違和感が甚だしいというか、思わず「そんな言い方があってたまるか」と叱り付けたくなる表現がある。

叱りつけたければ叱りつければよろしいのであつて、何もこの誤用はいつかは発生するべく用意されていた必然であると言ひ、あれこれと誤用にもとづく「新語」を生み出しながら、日本語は表現を豊かにしてきたともいえると言ふ事はない。

かう云ふ、若い人に阿る老人がゐるから、困るのである。

平成13年12月31日

平成13年12月31日

中村保男氏の連載。


三省堂 ぶっくれっと」は、2001年3月發行の第153號で休刊となるさうだ。

平成13年12月31日

また、asahi.comの趣旨に合わない場合や、朝日新聞社の事業や信用を害する恐れがある場合は、リンク自体をお断りすることがあります。

「日本國の信用を落す恐れのある新聞は、發刊をお斷りする事があります」と、日本國政府が言つたら、朝日新聞はいきり立つのではないか。一方で、「中華人民共和國の信用を落す恐れのある新聞は、發刊をお斷りする事があります」と中華人民共和國政府が言つたら、朝日新聞は喜んで從ふのではないか。

平成13年12月31日

「好き嫌ひで判斷するな」と、どこぞで批判されさうな氣がする。私は、好惡で物事を判斷してゐないのであつて、寧ろ「素人臭い」ものを好む世間の風調に反對してゐるのだが。

一般的な事を言はないと「一般的でない」と批判されるのだから、世間と言ふものは面白い。私は普遍的な事には興味があるけれども、一般的なる事には全然興味が無い。


伊藤さんとは關係ありませんよ、この項。

平成13年12月31日

例の「フォント弄り系」論爭のつづき。


伊藤氏が圖を描いて説明して下さつたので、ありがたく拜借しよう。用語も、不正確だが、伊藤氏のものを流用する。

この圖及び伊藤氏の説明で、伊藤氏は「日本語とHTMLによる相乘效果」=「フォント弄り系のメリット」を主張してゐるのだと私は考へた。それならば賛成だ、と私は述べた積りである。

ところが、實は伊藤氏の考へ方は、さうではなかつた。

僕は先日28日に挙げたフォント弄り系サイトA_PROMPTが面白いし、そのHTML文書がフォントに大きく依存していて、フォントを平板にしたら面白くなくなると思っています。つまりここで現に、メソッドが巧みに使われていると思っています。

伊藤氏は、HTMLによる「擴張部分」(圖の中で、赤く塗られてゐる部分、「HTML+日本語」から「日本語」を差引いた「HTMLによる『演出』」の部分)にのみ、着目してゐる。どうやら伊藤氏は、「HTMLが日本語の表現を擴張した全體」と「HTMLによる擴張部分」とを混同してゐるらしいのである。

A_PROMPTの「面白さ」は、「HTMLが日本語の表現を擴張した全體」の面白さではなく、「HTMLによる擴張部分」の面白さに過ぎない。

そして、伊藤氏は「HTMLによる擴張部分」のメリットを強調してA_PROMPTの「全體」を評價する。しかし私は、A_PROMPTの「日本語」の部分が駄目である事を、單にマイナス點としてしか評價しない。「プラス思考」と「マイナス思考」、或は「プラス志向」と「マイナス志向」の差である。


伊藤氏と私とで、話が噛合はないのも當然である。伊藤氏は「良い部分があるからフォント弄り系は良い」と主張するのだし、私は「駄目な部分があるからフォント弄り系は駄目だ」と主張してゐる。

ここに、例のキーワード、可能性が、伊藤氏の主張に入り込む必然性がある。伊藤氏は、HTMLによる「演出」がプラスに働いてゐる「フォント弄り系サイト」があるから、HTMLによる「演出」にプラスの效能が生ずる事はあり得る、と述べてゐる。

「プラス」と云ふ文言による聯想ゲームと、「可能性」と云ふ主張のマージンの擴張(?)によつて、伊藤氏は「自己の主張には説得力がある」と思つてゐる。だが、説得力がある主張と、論理的な主張とは異る。

HTMLの「演出」プラスに働く事と、HTMLの「演出」プラスの效能がある事との間に、言葉の上の聯關以上の論理的因果關係は存在しない。

そして、HTMLの「演出」がプラスに働く可能性よりも、マイナスに働く可能性の方が、遙かに高い。


さらに、HTMLの「演出」がプラス(有效)に働く場合、プラス(追加)される側の日本語の文章が必ず良いものである、と云ふ保證はない。寧ろ、話は逆なのであつて、HTMLの「演出」が「プラス(有效)」に見えるのは、プラス(追加)される側の日本語の文章が拙い場合に限られるのである。(ここで、同じ「プラス」と云ふ語を用ゐて説明したが、その「プラス」と云ふ語は同じ意味ではないから、括弧で日本語の意味を示した)

一流の文學者の文章を、「フォント弄り系」の流儀で表現した場合、常に「演出ナシ」の方が良い表現となつてゐる筈である。「フォント弄り系」のメソッドは、「既に價値のある日本語の文章にHTMLによる『演出』でさらに價値を賦與する」と云ふものではなく、「マイナスの價値しか持たない日本語の文章にHTMLによる『演出』で價値を賦與してゐる」と云ふものだ。


實を言ふと、伊藤氏の圖は甚だ不正確で、伊藤氏の主張に都合良く描かれてゐる。

PC Tipsで述べた事だが、HTMLの要素は、文章をマーク附けする事によつて生ずるのではなく、マーク附けされる以前の文章に既に潛在的に存在してゐる。だから、「日本語の文章を、HTMLで擴張する」と云ふ發想自體が間違つてゐる。

「HTMLによる『演出』」は空集合であり、「日本語」と「HTML+日本語」の領域は一致する筈である。

或意味、「フォント弄り系」の流儀が適用されるべき文章には、フォントを大きくしたり小さくしたりして「演出」をされる必然性がある。その必然性は、間違ひなく「元の文章が日本語として駄目である」事に由來するものである。


トーキー映画の90%はクズだが、それが音声のせいだとは言えない。装釘の図案的効果にひきつけられた本の90%はクズだが、それが図案的効果に凝ったせいだとは言えない。

壽岳氏は、全ての装釘の図案的効果にひきつけられた本が屑だ、と言つてゐる。壽岳氏は、工藝的、審美的な觀點から表紙や見返しの、さらには御苦労にもカバーや外箱の、図案的効果を否定してゐる。「全體の中の90%は屑」と云ふスタージョンの法則は經驗則的、統計學的なジョークであり、壽岳氏の絶對的な意見とは關係がない。


全体が有機的に結合し、一体となり、組織が過不足なく装備され何一つ切り捨ても追加もできぬ、それぞれの要素がお互いに大きく依存しあっていてどれを欠いても成立しえぬ作品。それはいいものです。それは再利用性と互換性を欠きます。一方、ストーリー単体に非常な魅力があって、SFXやカメラワークや音響演出などは他のものでも代替可能な作品などというものもあって、それはそれでいいものです。これは、再利用性と互換性をもちます。

全体が有機的に結合し、一体となり、組織が過不足なく装備され何一つ切り捨ても追加もできぬ、それぞれの要素がお互いに大きく依存しあっていてどれを欠いても成立しえぬ作品は傑作なのであつて、その一例は「ハムレット」だが、「ハムレット」をどのやうに演出するかで演出家は數世紀の間、惱み續けてゐる。そして、「ハムレット」の價値は永遠である。

一方、SFXやカメラワークや音響演出などは他のものでも代替可能な作品などというものは、長持ちしない。

永遠の價値を持つ傑作である「ハムレット」のやうな作品は、伊藤氏の不正確な用語を再び借りるが、やはり再利用性と互換性をもつ。しかし、殘念ながら「スター・ウォーズ」は「ハムレット」ほど長持ちはしないだらう。

また、「スター・ウォーズ」は、確かにマルチメディア展開が可能ではあるが、それを再利用性と互換性をもつと稱するのは、不適當だらう。

私は、随分前から、メディアミックスは可能かと言つてゐる。SFXやカメラワークや音響演出などは他のものでも代替可能な作品などというものが、果して良い作品なのかどうか、私は疑問を持つてゐる。

小説を原作として映画になり、あるいはラジオドラマや漫画やゲームにもなって成功したりします。

しかし、さう云ふ作品が數世紀の長きに亙り、眞面目な批評や眞劍な議論の對象となる事はあるだらうか。「スター・ウォーズ」や「ゴジラ」すらも所詮は「子供騙し」に過ぎない、と私は思つてゐる。

「子供騙し」を「子供騙し」と承知で樂しむのは結構である。しかし、「子供騙し」を樂しむ自分を正當化する爲に、「子供騙し」の爲のメソッドをさも御立派なものであるかのやうに言ふのはよろしくない。

どうも、伊藤氏はさう云ふよろしくない事をしようとしてゐるやうに、私には思はれる。


結局のところ、伊藤氏が飽くまで「價値」以外の「可能性」とか「再利用性」とか「互換性」とか言つたものを重視し、私が「可能性」とか「再利用性」とか「互換性」とか言つたもの以外の價値そのものに興味がある、と云ふところに、彼我の絶對的な差があると言へるでせう。

或は、「フォント弄りをしたつて良いぢやないか」と伊藤氏が言つてゐるやうに、私には思はれる。


僕は先日28日に挙げたフォント弄り系サイトA_PROMPTが面白いし、そのHTML文書がフォントに大きく依存していて、フォントを平板にしたら面白くなくなると思っています。つまりここで現に、メソッドが巧みに使われていると思っています。

しつこいやうだが繰返し言つておくと、フォントを平板にしたら面白くなくなるやうなサイトは詰らない、と私は思ふ。そして、フォントを弄つて面白く見せかけてゐる「文章」に、早晩人は飽きるものだ。或は、「フォント弄り系」のサイトの「面白さ」は、長持ちしない。


俺は「侍魂」が詰らなくて詰らなくて堪らない。「さとみかん」その他のアンテナが「侍魂」の更新を報告して呉れるけれども、滅多に見に行かない。「ちゆ12歳」も、好い加減、アンテナから外して欲しいくらゐだ。

平成13年12月30日

平成13年12月30日

平成13年12月30日

5分ででつち上げた「正字正かなバナー」が、あんなに(どんなだ)評判になるとは思つてゐなかつた。

平成13年12月30日

それにしても伊藤さん、27日の分には正しく闇黒日記と書いてゐるのに、どうして28日の分には闇雲日記と書いてしまつたのだらう。

と言ふか、ファイルが途中で途切れてゐる。

平成13年12月30日

問題は、可能性の問題ではなく、形式に對する價値判斷の問題なのであります。

平成13年12月30日

 構造と見栄えの分離がどうのこうのという話題ですが、好きなネタなので一筆。

 文書の構造と見栄えを分離するのが不可能、ではなくて、分離が不可能な文書を書くことができる、と言うべきですな。

 道具は人間の能力を拡張していくわけでして、新しい道具ができたり、道具が改良されたりすると、人間の能力も拡張されます。表現手段も道具の一種で、それが改良されると、人間の表現できることも拡張されます。表現可能空間が広がるといってもいい。

 日本語が表現できていたことを、HTMLが拡張した。フォントをいじったりしている人々は、その拡張された空間、(HTML+日本語)でしか表現できない空間bの一部を埋めているわけです。で、そこが埋まりきってしまったら、彼らは、僅かなマスターピースを残して、飽きられ、忘れ去られるでしょう。それは表現手段の改良とともに繰り返されてきた現象です。映画ならトーキーやカラーです。

 無声映画の監督は、「トーキーは姑息だ。カッティングや演技演出が下手でも、声が出れば感情表現ができるんだからな」とぼやいたかもしれませんが、それは間抜けです。音声をも取り込んで、音声、カメラワーク、演技、演出、云々の総体としての映画制作の競争が、また始まるにすぎないのです。こうしたぼやきは特撮とCGとか、歌とレコードとか、さまざまな分野のさまざまな場面で起きる、ありふれた現象です。

「構造」と「見榮え」と言つてゐますが、三浦つとむの用語に從へば、「言語表現」と「非言語表現」となります。言語表現とは超感性的な概念が言語規範の働きにより感性的な概念の媒介をへて表現されるものである、と云ふ事になります。一方、この言語表現と相對的に獨立した非言語表現が存在し、言語表現と結び附いて一つの具體的な表現が成立します。

……音声や文字の種類とその感性的な具体的なかたちとの間も相対的に独立していて、ブリューブラックのインクで走り書きした原稿の文字を黒いインクの活字体で複製しようと、赤や青のネオンサインで複製しようと、そんなことは自由である。この感性的な具体的なかたちの面は、言語表現ではなくて、概念にむすびついている感性的な手がかりの模写という、言語とは別な表現の系列に属しているからである。そしてこのことは、この言語表現とは相対的に独立した感性的な具体的な表現の系列を、非言語表現として意識的に活用する可能性をわれわれに与えているし、現に大いに活用されている。

詞と云ふ言語表現とメロディと云ふ非言語表現の結合が歌唱であり、文字・文章と云ふ言語表現と繪畫的な非言語表現が結合したものが書です。

言語による表現について、一應上のやうな考へ方のある事を認める必要はあるでせう。


問題はそこから先です。

なるほど、言語表現とは相対的に独立した感性的な具体的な表現の系列を、非言語表現として意識的に活用する可能性は、慥かにあります。そこで、表現手段も道具の一種で、それが改良されると、人間の表現できることも拡張されます。表現可能空間が広がるといってもいい、と云ふ事になる譯です。

が、可能性は飽くまで可能性なのであり、それ自體に價値はありません。

換言せば、擴張された表現が從來よりも良い表現となつてゐる事は、可能性によつて保證されてゐません。トーキーの出現により無聲映畫は命脈を絶たれましたが、しかし、トーキーの映畫は全て、無聲映畫よりも優れてゐるかと云ふと、さうでもありません。結局のところ、映畫の善し惡しは、メソッドではなく人間の才能等によつて決定されざるを得ません。

SFXの技術が映畫の表現に可能性を與へたのは事實ですが、SFXを利用した全ての映畫が面白いかと云へば、さうでもない譯です。富野由悠季監督が「タイタニック」を襃めて、SFXよりも戀愛物語と云ふお話の方を觀客は喜んでゐる、と述べてゐます。

「表現の可能性を擴げる」と言へば良い事のやうに思はれますが、プラスの方向のみならず、マイナスの方向にも可能性は廣がるものです。そして、藝術に於て、プラスの可能性よりも、マイナスの可能性が大多數の作品に具體的で致命的な缺陷を生ぜしめるものです。

ウェブの世界で、HTMLが表現の可能性を擴げた、と云ふ事は、或特定のブラウザに限定されるにしても、そのブラウザのシェアが高い現在、やはり或程度「事實」と言ふ事は可能です。ただ言へるのは、HTMLにおける「構造と見榮えの混淆」が、プラスの可能性の部分よりも、マイナスの可能性の部分でより重大な問題をウェブに齎してゐるのは事實である、と云ふ事です。

フォントをいじったりしている人々は、その拡張された空間、(HTML+日本語)でしか表現できない空間bの一部を埋めているのかどうかは、甚だ疑はしいと言はざるを得ない、と私は思ひます。優れた文章に優れた效果が附加されてゐるのならば結構ですが、現實の「フォント弄り系」の人の書く文章が日本語の文章として優れてゐるかどうかは疑問です。

アルフレッド・ベスターが「フォント弄り系」の元祖である、と云ふのは、既に述べた事です。ただ、非言語表現の「面白さ」「新鮮な印象」を差引いても、ベスターの小説はエンタテインメントとして樂しめる、と云ふ事に注意する必要があります。ベスターの模倣者には、ベスターほどの文才が無かつた。

實際のところ、「フォント弄り系」であらうが、さうでなからうが、讀者は文章の面白さにまづ目をつけます。視覺的な表現の面白さは二の次です。富野氏の話に戻れば、視覺的に派手な演出よりも、ストーリーそのものを、映畫の觀客は樂しむのであります。


メソッドの議論は、可能性が豐かであるかどうかと云ふレヴェルで、考へてはならないのであります。確かT.S.エリオットが言つてゐたと思ひますが、どれほど自由を與へられてゐても、詩人は詩を書く際、常に不自由を感ずるものです。言ひたい事をなかなか的確に言ひ表はせないもどかしさを、全うな詩人なら感ずるに違ひない、とエリオットは考へてゐた。メソッドを自由にすれば、人はものをより自由に言へる、と云ふ考へ方は、事實ではありません。

短歌と云ふ形式の成立過程にあつた柿本人麻呂が、形式が確立された以後の歌人よりも生き生きとした歌を詠んでゐる事、俳句と云ふ形式の成立過程にあつた松尾芭蕉が、形式が確立された以後の俳人よりも生き生きとした句を詠んでゐる事は、山本健吉が述べてゐます。


壽岳文章は、日本で出版される本の裝幀が、多くの場合、工芸的にろくでもないものだ、と嘆いてゐます。もちろん、非道からうが何だらうが、書物としての形態をしてゐればそれは書物です。時と場合により、「ろくでもない」裝幀の書物でも、價値を持ちはします。それでも、壽岳は書物の正しい伝統を守るべきだ、と主張しました。

「ウェブデザイン」を考へる上でも示唆的なので、壽岳の裝釘に關する意見を紹介しておきます。

印刷された紙葉を折帖にし、綴じあわせて表紙をつけ、書物としての形態を与える工芸的操作、すなわち製本の工程が装釘である。少し気どって、装幀と書いてみたところで、それ以外の意味が生まれてこないのは、装釘に相当するヨーロッパの書物語をしらべればすぐわかる。ところが今のわが国では、装の字におろかしくひきつけられるためか、たいていの出版者はもちろん、ひとかどのデザイナーで通用している連中までが、装釘の本質をとりちがえて、表紙や見返しの、さらには御苦労にもカバーや外箱の、図案的効果だとばかり思いこんでいる。だから、いつまでたっても工芸的にろくな本ができないのだ。

私はもう三十年近く、機会のあるたびに、口を酸っぱくしてこのことを言ってきたのだが、書物人の認識の改まった様子は一向にあらわれず、かんじんの背の綴じや、にかわづけは、すぐめりめりとくずれるくせに、表紙や見返しには、書物のイロハさえ知らぬ画家が、あらずもがなの絵をかき散らした本を、店頭におびただしく見かける。全くゆううつである。書物の正しい伝統の残るフランスでは、今でもなお、立派な紙に印刷された書物は、折帖のまま読者の手に渡って、家内工芸的な製本技術にゆだねられるという。わが国の出版者は、大いに心を改めて装釘の勉強をやり直す必要があろう。

かかる意見を、ぼやきだ、間抜けだ、と決めつけて排斥したければするがよろしいのですが、壽岳の主張にも理はあります。壽岳は、自由主義者としては二流ですが、本好きとしては確かに一流で、本の眞の價値はどうして決るかを考へてゐました。

例へば、壽岳は、題扉の用紙に本文と違ふ用紙が使はれる事を非難しました。これは、一般の常識とは異るのですが、ぼやきだの間抜けだのと決めつけるべきでせうか。

家屋が玄関から始まるように、書物は題扉から始まる。だから、題扉は本文と共通の紙に印刷され、いわば本文の一部としてとじられるのが、長い間の西洋のしきたりである。そうされてこそ、題扉は有機的に本文と離れずに結びつく。その良習を、アジアの先進国では日本だけが破って、本格的(と自負するらしい)書物ほど、題扉に斤数の多い特別な紙をあてがい、本文のとじからはずし、孤立をはかるのは一体どうした錯覚によるものか。私は多年その非を説いてきたが、いまだに耳傾ける出版者は少ない。

藝術の作品は、何かのてんこ盛りとなつてゐれば良いと云ふものではありません。重要なのは、全體が有機的に結合し、一體となつてゐる事です。組織が過不足なく裝備され、何一つ切捨てる事も、何かを追加する事も出來ない状態になつてゐる事が、完璧な藝術作品の要件の一つです。

蛇足と言ひますが、蛇に足は要りません。藝術作品において、或は表現された作品において、メソッドは、蛇足になつてはいけないのであつて、全體に有機的に結合される必要があります。


無聲映畫に音聲が追加された時、トーキーが成立した譯ですが、トーキーの完全な作品が成立しなければ、トーキーはただの「際物」に終つた筈です。映畫にとつて、音聲が蛇足ではなかった事、映畫の作品に有機的に組込まれ得るものであった事が、トーキーの出現する可能性を生ぜしめたに過ぎません。

トーキーであらうと、音聲が巧く用ゐられてゐない作品は、優れたものとは言へません。現在、餘りにも當り前の存在となつてゐる爲に、トーキー映畫を成立せしめる技巧は技巧とすら認識されてゐませんが、無聲映畫とは違ふトーキーを成立せしめる音聲の技巧は依然、トーキー映畫の價値を決定する重要な要件です。


しつこいやうですが、繰返します。メソッドは、あるだけでは無意味なのであつて、いかに巧みに使ひこなされるかが重要であります。

文章の構造と見栄え分離が不可能な文書もまた、作者がメソッドを巧みに使ひこなしてゐるかどうか、そもそも巧みに使ひこなし得るのかどうか、或は、良い文章なのかどうか、良い文章たり得るのかどうか、と言つた觀點から、考察されなければなりません。

單に「さう云ふ文章はあり得る」と可能性を言つただけでは、價値判斷が全く行はれてゐませんから、「あるべきなのか」と云ふ問には答へられません。「あってもいいじゃないか」――それはあつても結構ですが、存在するものを人間は認識するのであり、人間の認識には常に價値判斷が入り込みます。

私見では、文章の構造と見栄え分離が不可能な文書は、決して良い文書ではないのであり、良い文書たり得ないと考へます。再利用性、互換性、論理性、そしてウェブサイト全體の有機的な統合と云ふ面から考へて、構造と見栄え分離が不可能な文書は、價値が低いと言はざるを得ないのであります。

平成13年12月29日

自衞隊を餘計者扱ひしておいて、事件が起る度に「ほら、組織として全然なつてゐない」と言つて嘲笑するのは何なのだらうか。

自衞隊が「なつてゐない」としたら、自衞隊を支持しない國民に責任があるのではないか。


論理的即ち非人間的と云ふイメージで物を語る人は極めて多い。しかし、非論理的な人間が非人間的で冷酷な行動をとるのは、意外な事だが屡々事實である。

考へてみれば當り前の話で、論理と云ふ概念を持つのは人間だけである。


論理を信じない人間は、屡々迷信家である。近代以前、因果關係を理解しなかつたヨーロッパ人は、魔女裁判を行つた。

今でも、魔女裁判紛ひの事を平氣でする人は少くない。そして、さう云ふ人が自己の行爲を反省する事は滅多にない。

彼らは、自らの正義に、絶對的な根據のある事を「知つてゐる」からである。そして、客觀的な根據と、絶對的な根據とは、違ふものだ。


「進んだ科學は魔術にしか見えない」と云ふ事は、少くとも、非科學的な人間にとつては事實。

平成13年12月29日

言行不一致。


例の妖精現実氏。

だから,その人を憎むのではなく,かえってその人のためを思い,どうすれば互いに高めあえるのかを考えなさい。

その場合でも「あの人は精神的に劣っているから,この私が導いてやるのだ」といった思い上がった気持ちをいだいてはならない。

かえって優しさをもって相手に接しなさい。許せない相手を許しなさい。あなたの愛によっていくらかでも相手を向上させるためです。このようなきびしい愛によってこそ,あなた自身も高められるのです。自分を愛してくれる人を愛することなら,誰にでもできます。

と書いてゐるのに。

「正しい日本語を使いましょう」な老人が「そんな日本語は無い」とかほざいたとき ja-JP に無くても ja-2ch では基本語彙なんだよとゴルァしませう。イギリス英語とシンガポール英語みたいなもんですな。ケベックのカナダ人いわく「フランスのフランス語はフランスなまりがひどいね」。

平氣で氣に入らない人間を見下したやうな言ひ方をする。

妖精も人の子らしい。


「人は正しい事を言はうとしなければならない」と云ふ生き方の問題と、「人は常に正しい事を言つてゐなければならない」と云ふ事實の問題とを取違へるのが、さう云ふ淺薄な批判をする人間の通弊で、困つた事である。


「SFの現状を憂ふ前に、メディアミックスは可能かの下手糞な小説をどうにかしろ」と指摘する人がゐますけれども、さう云ふ人は當然、既に立派な小説を書いてゐるのでせうねえ。

人は屡々、自らを否定すべき文句で以て他人を罵る。

平成13年12月29日

假名遣くらゐ再現してほしかつた。

平成13年12月29日

扨、古書市の季節です。其れでけふは、『闇黒日記』情報により、伊勢丹へ行つて来た。

15時頃到着、3時間程滞在した。

『日本の言葉』の著者は、『広辞苑』の筆頭編者でもある。其の外にもう3冊程新村氏の著作を見附けたが、創元選書のカヴァーが無かつたりしたので、却下とする。中に幾つもの押し花がある処、前の所有者の性別が幾らか推定できさう。

私は、16時半頃到着。どこかですれ違つてゐたかも知れない。


箱入りの『南蠻更紗』がありましたね。

平成13年12月29日

伊勢丹古書展リヴェンジ。

コギト
昭和15年11月・第百一號
本の話
壽岳文章著・白鳳社
生生抄
上司小劍著・大東出版社
支那思想と日本
津田左右吉著・岩波新書赤版3
東京大学公開講座 言語
東京大学出版会
新憲法の基本原理
美濃部達吉著・國立書院
新憲法釋義
大審院部長梶田年著・法文社
參戰二十將星日露大戰を語る 陸軍篇
東京日日新聞社・大阪毎日新聞社
日本精神研究
大川周明著・明治書房
國語尊重の根本義
山田孝雄著・白水社
投書狂グレアム・グリーン
晶文社
中島敦全集(全3卷)
筑摩書房

3時間賣場をうろうろ。

平成13年12月29日

俺の場合、1998年10月にはじめてウェブサイトを公開した時點で既に、「そこそこ正しい」HTML文書とCSSによるデザインに依つてゐた。

一時期、一部のコンテンツを實驗的にFrontpageExpressを使つて作成した事がある。擧動が怪し過ぎて、半月で投出した。「侍魂」以上に派手な「テキスト系」の日記だつたのだが、「何で一々フォントのサイズを變へなければならないんだらう」「どうして一々色を指定しなければならないんだらう」と、疑問ばかりが續出したのを記憶してゐる。


と言ふか、「なぜ糞詰らない出來事を、わざわざ面白さうな雰圍氣に仕立て上げなければならないんだ」と考へ始めた瞬間に、「テキスト系の日記」の存在自體が厭はしくなつたと云ふ事實。

所謂「テキスト系サイト」は文才の無い人間にも簡單に作れる、と云ふ事實に氣附いたら、テキストのサイズや色を樣々に變へて文章の雰圍氣を盛上げる(?)と云ふ姑息な眞似は出來なくなる。

平成13年12月28日

新宿伊勢丹の古書市に、夜の7時半に滑り込む。閉店時間を過ぎてゐるのに15分粘る。

寺田寅彦の追想
中谷宇吉郎著・甲文社
日本文學史
小西甚一著・弘文堂・アテネ新書

辛うじて2册確保。しかし、殆ど棚を見てまはれなかつた。


29日、リヴェンジ豫定。

平成13年12月28日

 ある文法の汚いHTML文書があるとして、

これらを是正するには、

こうした手間暇はかなりのものだと思うのですが如何。

私は「よろしくないHTML文書はさつさと消せ。公開し續けるのは罪だ」と申してをりません。

HTML文書の書き方が拙い事を耻ぢて、既存のサイトの中身を消してしまふ「PC Tips」の愛讀者の方が非常に澤山ゐます。そんな事をする必要はありません。ウェブサイトで一番重要なのはコンテンツであり、HTMLの記述方法はコンテンツをより良く生かす爲の手段に過ぎません。


私の場合、「正しいHTMLに從つて書く」と云ふ發想がありません。一番合理的な書き方を摸索していつたら、「HTMLの規格」に行當たつただけです。

「ここの文字はどれだけの大きさにして、何色にして、何字分スペースを入れて……」と一々考へる必要がありません。全て機械的に出來る、と云ふのが何よりよろしい。

「見榮え」を氣にする人は、デザインの爲に非論理的な思考/試行をしなければなりません。そして、非論理的に頭を使ふ事は、人間にとつて極めて苦痛です。人間の頭は、非論理的でなく、論理的に使はれる事を欲する。


DOCTYPE宣言も、書きたくなければ書かなければよろしいでせう。htmlもheadもbodyも、HTMLでは省略可能です。「正しいHTML」を批判する人々は、これらの「タグ」を毎囘毎囘馬鹿正直に書いてゐます。そんな事、或意味「餘計な手間」なのですが、知識がない人は「おまじなひ」をする手間を厭ひません。

知識は無知よりも合理的である。


指輪世界の日記ですが、實に奇々怪々なマークアップになつてゐまして、こんなものを「手で」記述してゐたら、確かに氣が變になるでせう。だから、「日記スクリプト」の類が流行するのではないですか。

私なんか、「日記スクリプト」に食はせる爲に必要な文書の記述方法を覺えるのが嫌で嫌で仕方がないので、「闇黒日記」をテキストエディタで作成してゐます。

それゆゑ、「闇黒日記」のソースは、異常なまでに讀み易いものとなつてゐます。「闇黒日記」や「言葉 言葉 言葉」「PC Tips」で公開してゐるHTML文書は殆ど全て、ソースを編緝する際、一見して理解出來るやうな状態になつてゐます。

この「闇黒日記」や「言葉 言葉 言葉」「PC Tips」のHTML文書が、「正しいHTML」が簡單なものである事の證據です。「正しいHTML」を批判する人には、私の記述したHTML文書を實際に見ていただきたいものです。その上で、「正しいHTML」のどこが難解なのか、を指摘していただきたいものです。


怠けるために十分な初期投資をしておく。たくさん怠けるつもりなら、うまいやり方だ。

結論は出てゐるのではないですか。

 いったん揃えるものを揃え、整えるものを整えれば、それ以後は楽々と正しい文書を作れるようになる。そうしておいてから正しい文書を大量生成すれば、初期投資を取り戻せる。それはそうですが、そこから出てくる結論は「正しい文法に従おう」ではなくて「たくさん書くなら、良い環境を揃えて書こう。そしたら、正しい文法に従うのも楽々さ」ではないでしょうか。

それはさうなのですが、經驗上、良い環境を追求していくと、正しい文法に行着くので、ストレートに正しい文法を知るべし、と言つてゐる譯です。或は、正しい文法が即ち良い環境なのであります。

ただし、私の場合。Piroさんその他の方々が同じ意見なのかどうかはわかりません。

平成13年12月28日

一太郎死亡。何も出來ない「Metro」なるウィンドウが出てくる。

平成13年12月27日

『サムライ・レンズマン』讀了。

昔の創元版「レンズマン」は全然面白く思はなかつたのだが、こちらの変なレンズマンは面白く讀めました。

詰らんとは言つてもオリジナルの「レンズマン」、『銀河パトロール隊』を通り越すと、2册目以降4册目までは一氣に讀んでゐたりするのですが。


「レンズマン」、SF的なガジェットの古めかしさはともかく、スプラッタ描寫が平然と出てきたり、麻薬をテーマに扱つてゐたり、風俗面では現代の小説であると言へます。しかし、80年代に「レンズマン」を書店で見た時は、とにかく「古めかしい」としか思へませんでした。

眞鍋博畫伯の繪の所爲です。

創元SF文庫から新譯が出るさうですが、カヴァのイラストは最新のものに變更していただきたいものです。


それにしても、最近どんどんSFがどん臭いものに成下がりつつあるやうな氣がする。特にコアなSFにその傾向が著しい。

1980年代、SFは現實に追越された。90年代、SFは現實を追ひかけるのをやめた。「SFは古びる」と云ふのは俺にとつてのカルチャーショックだつた。新世紀、SFは古臭いまま商業的な復活をはじめてゐる。多分失敗するよ。


ちなみに。

俺、ラファティつて嫌ひなんだ。


『かめくん』なんて、題名を見ただけで、讀む氣が失せるね。こんなのを讀むSFマニアは、本當のSF好きではないね。

平成13年12月26日

Learning ISO-HTMLなんてものを作つてみたりして。


非asciiの文字は通らないみたい。

平成13年12月26日

軍人が威張り散らし、文民の地位が低かつた戰前は異常だつたと言はれる。しかし、文民が威張つて、軍人の地位が低い戰後も、同じくらゐ異常。

「權力を握つた集團が威張り散らす」「時流に乘つかつた人間が恐ろしいまでに傲岸不遜になる」と云ふ日本人の性質は、戰前も戰後も變つてゐない。罵倒の文句が、「この非國民め」から「この軍國主義者め」に變つただけ。

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