例の不審船騷ぎ。
自衞隊が海上保安廳に通報した、と云ふのがをかしいのですが、あんまり指摘されてゐないみたい。
自衛隊が法律の縛りで自力ではほとんど何もできないのは常識といってもいいものかと思ってましたけれど。
自衛隊が法律の縛りで自力ではほとんど何もできない
、と云ふのがをかしいのですが、さう云ふ異常な事を、ただの常識
としか認識出來ない事は、さらにをかしいと思ひます。
クリスマスシーズンにはリンク集のメンテナンスが出來ない。titleまで變つてゐたりするし。
他の人はどうだか知らんが、僕は border ギリギリまで内容があると読むのに疲れるので、敢えて padding を入れているのだ。同じ理由で、ウィンドウ枠に対する padding として margin を使っている。そして、他の人もそう感じるに違いないと信じているから、そういうデフォルトスタイルにしております。理由もなくやってるわけではありません。
だーかーらー。(とか言つてみる)
理由
のあるのは結構だが、それが正しいかどうかは話が別。少くとも、全ての人がキャンバスの内側に空白のある表示を望んでゐる譯ではない、と云ふのは事實。
古いコンテンツを残すべきなのは、古いコンテンツが(自分あるいは閲覧者に)もたらす利益が新しいコンテンツのそれより大きい場合だ。僕は、旧 Tips を削除したことにより「閲覧者を無駄に曖昧な情報に惑わさなくなった」と考えております。デメリットがメリットを上回っておったのですよ。それに気付かせてくれたいつぞやの方には、心底感謝しております。
だーかーらー。(……)
某方面(假)で、Piroさんのtipsが削除されたのを惜しむ聲が擧がつてゐるんですがー。
いつぞやの方
は全くもつて迷惑な御節介野郎だが、なぜそのいつぞやの方
の意見だけをPiroさんは重視しますか。
あなたの價値は、あなた自身が判斷出來るものではない。
本日の買物。『サムライ・レンズマン』(古橋秀之著)。
『魔女でもステディ』がデュアル文庫から復刊されてゐて、驚いた。
或る有名な暗闇日記
とか言はれてゐるし。
暗黒日記
とか書かれてゐるし。
下の方の記事に對する反應。
いろいろ情報を提供して下さつてゐます。
現状、アップデートする度に「何か」のデフォルトゴーストを消してる俺つて。
古いコンテンツを消すべからざる事。
W3Cの仕様書に定義されているから・・・ではなく、それぞれ一人一人が、自分の考えで、スタイルシートを使う、使わないを考え、自分のホームページを作成して欲しいと思います。(・・・ってなことを書くと、また怒られそうだな^^;)
「と」師の有名なこの「結論」は、やつぱり良くないよな。笑ひ。
不振の親会社による制約を離れることで、今後の出店拡大につながりそうだ。
景氣の惡いのは親會社の方だけらしい。
CSS關係者に37の質問は載つてゐないみたい。
情報リテラシーとかで、Word で A4 一枚のお知らせとか作らせるの、やめた方がええんとちゃう? アウトライン表示、見出しスタイル、スタイル機能、見出しマップ、図表番号とか、レポートや論文のための Word の使い方を教えた方がええんとちゃう。
全くもつて同感。
叮嚀に説明してゐるのは良いのだけれど。
<div class="center">
このclassは不可。
それから、どうしてimgを生divの直下にぶちこむかね。
「正しい日本語を使いましょう」な老人が「そんな日本語は無い」とかほざいたとき ja-JP に無くても ja-2ch では基本語彙なんだよとゴルァしませう。
ja-2ch
の基本語彙
は、日本語として正しくない全ての似而非日本語の事であるらしい。
それにしても、この似而非妖精の「○○な××」と云ふ決めつけ論法は、どこかで見たやうな氣がするな。
何でもかんでも一般論にしなければ話が出來ないと云ふ病理。
『ウェブ・ユーザビリティ』つて、讀まれてゐないんですね。
「間違ひだと承知で間違ひを冒す」のは「正しい」と言ふ病理。
「イヤなら読まなければいい」とか言はれても、その文章が自分にとつて嫌なのものなのかどうかは讀んでみなければ判らない筈。
現在、「言葉 言葉 言葉」ファミリの各サイトは、五月雨的改裝中です。
俺は携帯・PHSの類を持たない教の未公認信者。
はつきり言つて、適当に選んだ
、と云ふのが、一番の問題ではないかと。
あぁぁ、選ぶ前にデモ機を触らしてもらうべきだった……
ブラウザと一緒で、携帶電話も選ぶのは自分の責任ではないかと。
段落の冒頭を拾ひ讀みするのですが、段落冒頭の上下の間隔が狹ければ狹いほど、好都合であると云ふ譯です。
ちなみに、畫面はZDNN:Windows XPに“これまでで最悪”のセキュリティホールを使用。
なぜ「改裝」と稱して、サイトを「一──改装作業中なのにうっかりミラーリングしてしまったので仕方なく「準備中」ページを作った、というのなら僕はやったことあります。次時閉鎖」する必要があるのだらうか
私は、五月雨的に文書を書直していきますので、「ただいまサイトの改裝中」と言はなければならない事態に、かつて一度も陷つた事がありません。
テスト版のスタイルシートをサーヴァにぶち込んで、オンラインでデバッグするのは止めなさい>自分。
coolとfoolは、一文字しか違はない。
「闇黒日記」が「おまけ」だ、と云ふ「公式發表」を信じて呉れてゐる人が多いけれども、そんなに素直に信じられても困る。「公式發表」は決して嘘ではないけれども、長い事サイトを運用してきて、「闇黒日記」も自然と或役割を受持つやうになつてゐる。「公式發表」は、變質してゐる。
「言葉 言葉 言葉」ファミリは、言葉 言葉 言葉、PC Tips、KSmiracle Web Directoryの三本柱があつて、それにこの「闇黒日記」が附隨してゐる、と云ふ事になつてゐる。
「闇黒日記」は、「日記」の名稱に反して、所謂「ニュースサイト」のやうな内容も持つてゐる。成立の過程で、「讀書記録」や「批評」とともに、「ニュース」もまた統合したからだ。
現在「闇黒日記」は、メインコンテンツをはるかに凌ぐアクセス數を叩き出してゐる。J-COMが勝手に取つてゐるアクセス記録によれば、一日あたり1500viewsほどの數字を擧げてゐる。さう云つた状況もあつて、「闇黒日記」は「言葉 言葉 言葉」ファミリの廣告塔の役割も持つやうになつてゐる。
餘所のサイトのURIを紹介する事が多いが、自前の記事のURIも時々私は「闇黒日記」で紹介してゐる。自分のところばかりを宣傳しても、誰にも讀んで貰へないから、他人樣のところを積極的に紹介してゐる、と云ふ事になる。がむしやらに自分の宣傳をするより、話の流れを作つてその結果として自分のコンテンツにも人が來るやうにする、と云ふやり方を私はとつてゐる。實際のところ、全ての話の流れを操作して、閲覽者を全員、自分のサイトのコンテンツに誘導する、と云ふ事はしてゐない。そんな事は無理だし、むしろ外部のサイトに人を誘導する事で、先方のサイトとこことの有機的な聯關を作れれば良いと思つてゐる。その結果として、先方からこちらへ、と云ふ人の流れも生み出す事が出來る。
何でも内部でまかなつてしまはうとするより、外部と連携した方が效率は良い。「自助努力」をした上で、「互助努力」もすべきである。「情けは人のためならず」で、他人の爲になるやう努力をするが、その結果がめぐりめぐつて、自分に返つて來る事は一應期待するのである。
サイトのコンテンツこそ、見て貰ひたいものなのであつて、「闇黒日記」を見て貰ひたいのではない。その意味で「闇黒日記はおまけ」と云ふ言ひ方は否定する必要はない。そもそも「おまけ」は「餘計な附隨物」を意味するものではない。
ほかにも、檢索エンジンだの各地のリンク集だのに登録して廻るのが嫌だからKSmiracle Web Directoryを作つたのだ、とか、PC Tipsの「正しいHTML」は閲覽者を「正しい日本語」に誘導する布石だとか、いろいろと「言葉 言葉 言葉」作成の意圖或はコンセプトは存在する。さう云ふ部分まで、閲覧者の方々にはノウハウを盜んでいただきたいものだと思つてゐる。
今、相當クリティカルな部分まで「内情」をばらしておいたが、「意圖がミエミエ」になつたからと言つて閲覽者が全くゐなくなるほど「闇黒日記」も「言葉 言葉 言葉」も柔ではなからう。また、「餘所のサイトを利用してゐる」と云ふ言ひ方を私がしてゐるやうに思はれるかも知れないが、敬意とか親愛とかいつた感情拔きで人と人とが繋がる事はあり得ない筈だし、損得勘定だけでやつて行けるほど世の中は甘くない筈である。上の言ひ方は、理論に偏したものだと受けとつて下さい。
あるいは、読み手の利益にだけ着目して考えてみることもできます。僕は、文章が面白くて文法がズタボロなウェブページをよく読みます。そのページの作者に、
「HTMLやCSSを勉強して、もっと文法の正しいHTML文書を書いたほうがいいですよ」
と言おうとは思いません。それよりも、
「かじってみるとHTMLの文法も面白いです。だけど、そんな手間暇の間に、あなた、その調子の文章をもっと書いてください。続きを読みたいのです」
と言うでしょう。文章による読み手への利益が、文法による読み手への利益を上回る。もっともこれは、僕がiCabやOpera6を使っていないからそう見積もるのかもしれませんが。
「正しいHTML+CSS」を使ふならば、效率良くテキストをHTML化して公開出來る筈。
何だか變な苦勞をして「ほーむぺーじ」を公開してゐる人に、私が「正しいHTML+CSS」をすすめるのは、「オーサリングに餘計な手間をかけないで、その分、良いコンテンツを提供して貰ひたい」と思つてゐるからだ。
さう云ふ私の意圖が全然傳はらず、既存のコンテンツを削除してサイトには日記しか殘さない、と云ふ人がこの界隈に多いのは、極めて遺憾。
某方面の方々が「正しいHTML+CSS」を尊重して呉れるのは結構だが、「正しいHTML+CSS」のメリットを全然生かして呉れないのは結構ではない。困つた事だ。
伊藤悠さんの意見は、理論的には間違つてゐるのだが、理論的に正しい側が、理論的に間違つてゐる伊藤氏に反論出來ないやうなサイトを作つてゐる現状に、問題がある。
いけてない。
ちつともいけてないよ。
最終更新日97年5月24日
と云ふ代物なので、小一時間問詰めたりするのも可哀想なのではありますが。
まあ、JavaScriptスタイルシートについてなる文書があつて、歴史的な意義はない譯ではないんですが。
HTML文書の書き方が綺麗。
サンプルの日記CGIの吐くHTML文書はあれなものになつてゐますが。
III.視覚障害者のための読書支援機器・情報検索支援機器の導入については要參照。
申し訳御座いませんが、只今、当ホームページは全面改装中にあります。もうしばらくお待ちくださいませ、、、、、。
と云ふメッセージを見た。よく見るメッセージだが、意味不明だ。
既存のリソースを公開したまま、ローカル環境で文書の書直しをして、出來上がつたら古いリソースに上書きする、と云ふ事が、なぜ出來ないのだらうか。
なぜ「改裝」と稱して、サイトを「一次時閉鎖」する必要があるのだらうか。
世の中には、私の理解出來ない事が多過ぎる。
自慢ではないが、「言葉 言葉 言葉」が「改裝の爲」と稱して休止・閉鎖した事は一度もない。
<dl> <dt>【またんご】</dt><dd>恐いぞ。キノコだぞ。</dd> <dt>【かいじゅう】</dt><dd>でかいぞ。</dd> <dt>【おばけ】</dt><dd>やっぱり恐いぞ。</dd> </dl>
私案。
dl
{
display:block;
}
dt,dd
{
display:inline;
}
dd:after
{
content: "\A"
}
わかつてゐる人なのだらうけれども。
HTML とスタイルシート、HTML に関する考察を見る限り、わかつてゐる人なのだけれども、「とっぷぺーじ」のdiv濫用はちよつと。
これは明かにわかつてゐない。
これも何となくわかつてゐない。
わかつてゐるやうで、わかつてゐないみたい。
もっとも簡単なHTML文書例を示します。
<!DOCTYPE HTML PUBLIC "-//W3C//DTD HTML 4.0//EN"> <HTML> <HEAD> <TITLE>もっとも簡単なページ</TITLE> <META http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"> </HEAD> <BODY> <P>これがもっとも基本的なページの例でです </BODY> </HTML>
添削。
<title>もっとも簡単なHTML文書</title>
<p>これがもっとも基本的なHTML文書の例です。
控へ目な調子で批判をしてみるテスト。
左右のマージンには、物理的な視線の移動量と心理的な圧迫感を共に減らすという目的が あるのですよ。
横方向への物理的な視線の移動量
が減る分、縱方向への物理的な視線の移動量
は増大します。横スクロールは嫌がられるが、縱方向のスクロールは餘り嫌がられない、とは、確かに良く言はれます。もちろん、その限りに於て、左右のマージン
は閲覽者に迷惑をかけない、と言ふ事は出來ます。
しかし、一方で、飛ばし讀みをする閲覽者は、段落の冒頭を見て概要を把握します。この時、左右のマージン
によつて文章の幅が狹められてゐる場合、或段落の冒頭と、次の段落の冒頭の間が開きます。飛ばし讀みをしてゐる閲覽者は、「餘分」なテキストをそこに見る事になります。飛ばし讀みをしたい閲覽者にとつて、この「餘分なテキスト」が邪魔である事もあり(得)ます。
全ての閲覽者がブラウザをフルスクリーンで使用してゐる譯ではありません。あらかじめ、ブラウザのウィンドウを自分にとつて都合の良い幅にしてゐる閲覽者は多いでせう。さう云ふ閲覽者にとつて、制作者による左右のマージン
の附けられた文書は、必要以上に幅が狹い、と云ふ事になります。
左右のマージン
がある事によつて、閲覽者の心理的な圧迫感
が減る事は、あるかも知れません。しかし同時に、閲覽者の見る事の出來る情報量も減る、と云ふ事も、制作者は考慮しておく必要があります。閲覽者が情報を求めてゐるのなら、心理的な圧迫感
を減らす爲、と云ふ制作者の「親切」は、さう云ふ類の閲覽者にとつては「餘計な御世話」ともなり兼ねません。
餘談ですが、背景の色が暗いと、ユーザは屡々心理的な圧迫感
を覺える、と云ふ話を何処かできいたやうな記憶があります。その爲、MacintoshやWindowsのやうなGUIのシステムは、目に惡い事を承知で、ウィンドウの背景を白くしてゐるとか云ふ話です。或は、DOSのコマンドプロンプトが嫌はれる所以です。
しかし、適当に選んだ三菱の J-D04 という機械(105円で買った)、ユーザビリティ的に最悪だ。メニューの展開も項目の移動も文字の入力も何もかも、全ての動作がトロすぎる。あと、待ち受け画面に、時計をでっかく表示する物がない。アナログっぽく表示する物はあったが、こっちはこっちで装飾の方に面積使いすぎてて時刻部分がちっこいし。日付や飾りなんてちっこくていいんだよ、一番よく参照するのは時刻なんだからそっちを優先しろっつーの。一体何考えてんだ、コレの設計者は。あぁぁ、選ぶ前にデモ機を触らしてもらうべきだった……
Piroさんの不滿を要約すると、以下のやうな事になるのではないでせうか。
畫像やJavaScriptのせゐでブラウザによる表示が遲くなつたり、兩脇にマージンがあつてテキストの見える範圍が狹かつたりするoutsider reflexを制作してゐるPiroさんの言ふ臺詞とは思へませんが。
そこはかとなく、左右のマージン
についての辯明と、携帶電話の畫面に對する批判との間に、矛盾のあるやうな氣が。
野嵜さんはわかっていませんね。このサイトのスタイル指定はユーザー側で任意に無効にできます。しかし J-D04 のこれらの問題は、ユーザーにはどうしようもないのですよ。
左右のマージンが「唯一最良の回答」とは言いませんが、「より良い回答の一つ」であるのは事実です。私はそれを選択肢の一つとして、あるいは「推奨の初期設定」として採用しているに過ぎません。
なら、Purple'(Default)をデフォルトから外せ。デフォルトでCSSはoff。閲覽者にCSSを使ふか使はないか、最初に選擇させよ。
さう云ふ主張をしたいなら、CSSを任意に無効にでき
る、と云ふのでは駄目だ。「CSSは任意に有效に出來るが、デフォルトでは無效」と云ふ事にしなければ、をかしい。
Piro氏の主張は、「MIDIのBGM」を強制的に流してゐるウェブサイトの制作者が「ユーザ側で任意に無効にできます」と主張するのと同じ。
と言ふか、俺は「左右のマージン
は迷惑だ、やめろ」と言つてゐる。「そんな初期設定は迷惑だから推奬するな」と言つてゐる。
なんか間違ひだらけなんですけど。公式サイトのコンテンツで。
「荒し」に怒つてゐる「れいんちゃん」。
自分の保身のタメにあやまってくるような人は最低だと思いました。
謝るやうな「荒し」は、まだ増しです。
私は、「日本人には良心と云ふ概念が存在しない」と思つてゐる。日本人が惡い事をしない爲の重要なファクターは「世間體」である。
「匿名」は、日本人が「惡事」をなさない齒止めをとつぱらつてしまふものだから、よろしくない。
2ちゃんねるは、ネット民主主義
ではなく「ネット衆愚政」と呼ぶべきだ。
ひろゆきがまた警察に呼ばれたさうだ。
掲示板の運營者は全員、鑑札を取得するやうに法律を改正すべきだ。笑ひ。
讀賣新聞によれば、蓑蟲が絶滅寸前なのださうだ。
自分の最上の状態を保つた文學者と對象との間にいや應なしに生じる溌剌とした關係を文學の中心に据ゑる事をせず、例へばアーノルドのやうに
詩は根柢において人生の批評であると唱へるのはいかにも不適切であるとエリオットは考へてゐる。エリオットは、試作において知性の鍛錬や言葉を用ゐる際の正確さへの情熱が不可缺の要素である事を承知してゐる。けれども知性や正確さへの情熱が意味を持つのは漠然とした人生の批評においてではない。詩人と對象との間に生じた生き生きとした關係そのものを正確に表現しようと苦鬪する時にそれははじめて意味を持つのである。
「ブラウザでは、文章の左右にマージンの空いてゐた方が讀み易い」と云ふ説があるけれども、正しいか。俺は、「さう云ふマージンは畫面を無駄に占有してゐる」と思ふ。
はつきり言つて、ブラウザの左右兩端にまでびつしり文字を詰込んで呉れた方が、おれにとつてはありがたい。特に長文。
飛ばし讀みをし易いからだ。
一つの段落が無闇矢鱈と長い場合、俺は間違ひなく飛ばし讀みをする。
ウェブの特性だが、閲覽者は公開されてゐる文章を隅から隅まで舐めるやうに讀むと云ふ事が餘りない。「暇潰し」が目的でない閲覽者は特にさうである。檢索エンジン經由の閲覽者は、欲しい情報めがけて突進する。
一方で、暇のある、或は、どこかのサイトを氣に入つてじつくり讀まうとしてゐる閲覽者もゐる。しかし、さう云ふ閲覽者も、やはり上述の「マージン」を喜ばない。文章は、表示幅が狹くなると、段落の上下の高さが増える。
文章を讀んでゐる時、長い長い一つの段落にさしかかると、どこまで讀んだかがわからなくなる。
紙のメディアでは、ページの場所からどこいら邊まで讀んだかが直觀的にわかる。しかし、スクロールの發生するブラウザでは、好い加減にPageUp/PageDownすると、何處まで讀み進めたかがさつぱりわからなくなる事がある。紙メディア以上に、ウェブと云ふメディアでは、めりはりの效いた文章が必要である、と言はれる所以である。
短い段落を積重ねてゐる文章ならば良いのだが、長い段落を使つてゐる制作者の文章を讀む際には、文章の幅は出來る限り廣く、段落の高さが低くなるやうにしたいのである。
或は、制作者が文章の左右にマージンを附け、文章の幅を狹くすると、全文を讀むのに閲覽者はスクロールと云ふ作業をしなければならなくなる(事が多い)。制作者は、親切心から閲覽者に餘計な手間をかけさせてゐる事になる。
ヤコブ・ニールセンの『ウェブ・ユーザビリティ』第2章は、「コンテンツデザイン」と稱して、ウェブと云ふメディアの特性に合つた文章を書くべき事を説いてゐる。要參照。
それにしても、うちのサイトも徹底的に書き直さなければだめなのだが、年末、俺の「やる氣」は起きるかね。
ISO/IEC 15445:2000準據だし。
本日の買物。「鉄道ジャーナル」「ガンダムエース」。
今日は初雪が降つた。と言つて良いのかね。
コンピュータは手拔きの爲の道具である。
「いかにして巧く手を拔くか」を考へた時、レガシーな「ほーむぺーじ」の制作法は、餘りにも非能率的であるとしか俺には思はれない。
Microsoft Word 98 (MAC版,OS8.6)で,オートコレクトによる罫線が削除できなくなりました。
「*」を3つ以上入力し Enterキー を押すと,オートコレクトにより点線状の罫線に変換されます(デフォルトの場合)。んで,直後であれば Deleteキー を押せばオートコレクトを解除できるのですが,直後に別な作業をした場合,Deleteキー を押しても当然罫線は元のアスタリスクには戻りません。
じゃぁ,というわけで罫線のツールボックスから消しゴムツールを選択して,該当罫線を消そうと思ったのですが,うまくいきません。
その罫線
は段落の罫線
です。段落の罫線
および文字を囲む罫線
の設定には、[線種とページ罫線と網かけの設定] ダイアログ ボックス ([罫線] - [線種とページ罫線と網かけの設定]) [罫線] タブを使います。
Word98のヘルプにて、「罫線」で檢索をしてみると。
- 表形式の罫線
- [罫線] ツールバーの [罫線を引く] を使います。マウスを使って、ページ上の任意の位置に表を作成して罫線を引くことができます。
- 段落の罫線
- [線種とページ罫線と網かけの設定] ダイアログ ボックス ([罫線] - [線種とページ罫線と網かけの設定]) の [罫線] タブを使います。選択した段落に罫線を引くことができます。このコマンドを使って、表に罫線を引くこともできます。
- 文字を囲む罫線
- [線種とページ罫線と網かけの設定] ダイアログ ボックス ([罫線] - [線種とページ罫線と網かけの設定]) [罫線] タブを使います。コマンドを選択する前に、罫線で囲む文字列を選択しておきます
- 文字の下線
- [書式設定] ツールバーの [下線] を使います。選択した文字列に下線が引かれます。
- 描画オブジェクトの罫線
- [図形描画] ツールバーの [直線] を使います。ページ上の任意の位置に直線を描画することができます。
- ページを囲む罫線
- [線種とページ罫線と網かけの設定] ダイアログ ボックス ([罫線] - [線種とページ罫線と網かけの設定]) の [ページ罫線] タブを使います。
このほかに、「囲み文字」が實は「文字を囲む罫線」である、と云ふ羂も。
古くからのWordユーザである私は「あらかじめタブやコンマでデータを並べてから表に變換する」と云ふ方法で「罫線」を使つてゐたのだが、いつの間にか、「一太郎式」にマウスのドラッグで「枠」を作れるやうになつて、頭が混亂したもの。
どうやら、同じものらしい。
Wordの所謂「罫線」は、CSSで言ふところのborderに當嵌る。らしい。
……と言ふか、今の今まで、Wordの「罫線」は全然理解してゐなかつたよ。
「レイアウト枠」と「テキストボックス」、それに「オートシェイプ」の區別も附いてゐないし。こいつら、どれもborderを指定出來るし、中にテキストを記述出來るし。
Wordは、HTML以上に奧が深い。譯が解らんとも言へる。
それにしても、創作談義が盛り上がるのはいいが、掲示板の性質からもうちのHPの規模から考えてもこういう話は作家協会でやったほうが有意義なような気がするのであるが。何故そういうふうにはいかないのであろうなあ。
まさしく場所の問題
。「インターネット創作作家協会」は信用がないのである。
名前は立派だが誰が運營してゐるのかもわからない謎の「協会」の掲示板よりは、個人名の出てゐるサイトの掲示板の方が、閲覽者・投稿者は安心である。渡邊さんのところの掲示板が盛況を維持してゐるのは、自然な事である。
「協会」のスタッフは、自分のサイトを運營する片手間に「協会」の活動に參加してゐるに過ぎない。そして、「片手間の仕事」は、幾ら集らうと、「片手間の仕事」である。スタッフにとつて、「協会」の事は所詮、他人事である。或は、「会長」である岩舘氏をはじめとして、スタッフは全員、腰が引けてゐる。閲覽者は、さう云ふ事情を敏感に察知する。
「協会」の役割を渡邊さんのサイトが引繼ぐのが、本當だつたのである。「協会」が渡邊さんのサイトの役割を引繼ぐのは異常だつたのである。
或は、「協会」にはあるべき核がない。あるのは「協会規約」だけ。非人間的な、甚だ殺風景なサイトである。小説を書くやうな人間が、非人間的なサイトに魅力を感じないのは、至極當然の事である。
「協会」は、失敗を認めよ。
何とかスパイラルに陷つてゐる譯である。
出版社が談合をして、書籍の發行點數を現在の1%程度まで引下げれば、良い本が目立つやうにはならないし、さうするには今の出版社とその社員は數が多過ぎるから削減しなければならないのだが、今の出版業界にもつとも似つかはしくない言葉が構造改革である。出版界は、關係者がこぞつて「再販制度廢止絶對反對」と叫んでゐる保守的な業界だから、玉碎するまで皆が皆、自轉車操業を續ける事だらう。
「一太郎が駄目なのは日本の國語教育のせゐ」と云ふ反應。「言葉 言葉 言葉」の話は、大概そこに行着く。
小学校の作文の授業では、形式段落はこういうスタイルで書きますとか見出しはこういうスタイルで書きますといった事は習ったが、こういう情報単位を段落と言いますといったことは一切習わなかった気がする。
昨今、「作文教室」では「自由に書く」事がテーゼとなつてゐますからねえ。形式段落も見出しも知らない人は、案外多いやうな氣がする。
ちなみに、「文章の書き方を教へないで自由に書かせる」と云ふのは一般に「良い教育法だ」と思はれてゐるやうだが、無から何かを生み出す苦しみを子供に味ははせるのだから、非道い教育法である。
電車で寢過ごしてみるテスト。