闇黒日記



開店休業

平成13年11月20日

僕は、他人のHTMLのソースを再利用している例を見たことがありません。

*.cssファイルを再利用してゐる例はあります。


文書の構造と見榮えを分離するのは不可能である、と主張する人には、既に書籍で兩者が分離されてゐる事實を見て貰ひたい。

原稿用紙のフォーマットは、20字×10行或は20行に固定されてゐるが、その爲に表現が制約されてゐると感ずる物書きはゐない。そして、原稿を印刷して本にするのは印刷所である。印刷所は、大日本印刷とか、図書印刷とか、精興社とか、理想社とか、澤山あるし、それぞれ活字やその組み方に癖がある。Aと云ふ作家の書いた原稿は、印刷所によつて異る形で印刷されるけれども、依然としてAの作家の作品である。

活字の組み方で面白い表現を作り出し、高い評價を受けた作家として有名なのがかのアルフレッド・ベスターである事は、SF者には知られた事實である。當時、かかる「文書の構造と見榮えの融合」を安易に模倣した作家が澤山出現したけれども、さう云ふ手合ひはすぐに世間から飽きられて消え去つた、と云ふ事實も、知られた事實である。

平成13年11月20日

先日『古事記は僞書か』(鳥越憲三郎著)を讀み終へたのだが、引續いて『現代神道研究集成第一卷 古典研究編』を讀み始めたら、辛くて辛くて。

平成13年11月20日

昨日の流星群、朝の3時では遲かつたらしい。

平成13年11月20日

平成13年11月19日

本日の買物。

「南京事件」の探究 その実像を求めて
<教養>は死んだか 日本人の古典・道徳・宗教
ホームページにオフィスを作る

平成13年11月19日

「月曜評論」平成13年11月號到着。松原正氏の連載「保守とは何か」がストップ(一時休載)。例の「けつねうろん」の駄文を平然と載せる「月曜評論」に聊か愛想が盡きたとの由。


一方で、『戰爭は無くならない』の新版が近く、刊行の運びとなる模樣。「保守とは何か」休載は、その爲でもあるさうである。

平成13年11月19日

獅子座の流星群。3時20分前後に20分間ほど、空を眺めてみた。

雲が多くて、隙間から星がわづかに顔を覗かせるやうな状況。それでも、3つ、流れたのを目撃。

「流星雨」とはいかなかつたけれども、まあ、こんなものだらう。

平成13年11月19日

「9月11日の実行犯や支援者たちは戦争犯罪を犯したのであり、米国憲法の庇護(ひご)を受けるには値しない」逮捕した相手が実際に実行犯や支援者たちであるかどうか?の認定も“軍事裁判”でやるんすか。どの範囲が「支援者」なのかも独り決め? って、もうそれやってるかジャイアン(わら。from 米司法長官「テロ実行犯は憲法の庇護受けない」 ... 庇護もへったくれも、すでに死んでいる。だからこそ、でたらめなことができる。

ふーん。

で、妖精現実氏は、「A級戰犯」つて存在を、認めるの、認めないの? 「東京裁判」なるものを認めるの、認めないの?

でたらめなことにほかならない「東京裁判」で「A級戰犯」とされて處刑された人々を祀つた靖國神社に、總理大臣が「公式參拜」するのを、認めるの、認めないの?


妖精現実氏は、絶對に囘答しないよ。囘答出來ないから。

平成13年11月18日

たまたま見かけたのだが。

 この社説は、明らかに、東大教授の藤岡信勝氏ら自由主義史観研究会や他の同類の人々を批判したものである。最近、こうした「あの戦争は日本の自衛戦争だった」などという反動的な歴史観を流布しようとする人々が増えてきたが、それに対する批判としては出色のものといえよう。

あの戦争は日本の自衛戦争だったと云ふ反動的な歴史観を流布しようとする人々が増えてきたのは最近の事である、と筆者が主張する根據は何か。もちろん、そんな根據は全く存在しない。

昭和28年に刊行された『太平洋戰爭原因論』を見ればわかる通り、日本政府の見解は始めから「大東亞戰爭は自衞戰爭である」と云ふものであり、かかる主張は最近になつて突然出てきたものではない。


太平洋戰爭原因論』で研究者は、「自衞」と言へば許されるだらうと考へたかつての日本政府を批判してゐる。そして、なぜ日本が「自衞」「自衞」と言つたかと言ふと、アメリカが「自衞」と言つてゐたからそれを眞似したのである、と述べてゐる。「自衞」と云ふ言葉だけ眞似しても駄目だつたのだ、と云ふ事である。

もちろん、日本人は表面的にしかものを見る事が出來ないから、「自衞」と云ふ言ひ方を抛棄した戰後は、「自由」とか「民主主義」とか「平和」とか言ふやうになつたのである。それでは駄目なのである。

平成13年11月18日

Working Draftのままで終つてゐる規格。愉快な事は愉快な規格なのだが、W3Cの方針からは明らかに外れてゐる。

平成13年11月18日

新しいスタイルが恰好良い。

平成13年11月18日

キッズステーションで放映した「少女革命ウテナ」の映畫版を見たのだが。

一々説明を入れないで呉れ給へ。餘計な説明は不要。

もつと潔いシュールレアリズムでよろしいのではないかと。

シュールレアリズムと云ふ手法をとらうとしたいのなら、制作者はもつと徹底すべきであつた。


と言ふか、TVシリーズ以上にわかり易いお話で、唖然。TVシリーズを見てゐなければ譯のわからない部分もあるけれども、メッセージは寧ろ率直で、ストレートである。私はそれが不滿だ。ストーリーと設定が極端なまでに複雜である一方、言ひたい事は露骨で、しかも單純極まりない。どうしてかう云ふアニメを制作者は作りたがるのだらう。

「その方が受けるから制作者は仕方なくさうしてゐるに過ぎない」と考へたいし、それが事實であるならばまだ救ひはあるのだが、實は制作者は本氣で視聽者にメッセージを送りつけたがつてさうしてゐるのである。これは困つた事だと思ふ。

言はば、アニメでプロパガンダを一生懸命やつてゐる譯で、それを「藝術」と取違へるファンも馬鹿だが、さう云ふ馬鹿なファンが制作者になるのだから、惡循環は斷切られさうにもない。


夏目漱石は、はじめ『吾輩は猫である』や『坊つちやん』のやうなわかり易い小説を書いたが、最後に優れて現代的な小説である『明暗』を殘した。森鴎外は、はじめ(極初期の美文調の習作は無視すべきである)「かのやうに」や「普請中」のやうな、テーマが明瞭でわかり易い小説を書いたが、晩年、歴史小説で自己の主張を作品の背後に出來るだけ隱すやうに努めた。

なぜそこから、日本の藝術家は出發しないのか、と云ふ疑問を呈したいが、藝術家が自己を隱さうとし始めるのは、成熟しなければ出來ない事であり、一方、現代の日本には、藝術家が成熟するのを待つ観賞者が存在しないのである。


個性を發揮しなければ個性は存在しない、と云ふ通念が存在する現代の日本で、抑壓されてゐるにもかかはらず表に出て來てしまふ個性が眞の個性である、と主張しても、抑壓と云ふ言葉尻を捉へられて、非難されるだけである。

ブレイクスルーだの革命だのを必死になつて描かうとし、そこから先(或は前)をひたすら無視しようとしてゐるのが日本の藝術家である。それは寧ろ現實逃避なのではないか、と私が批判しても、藝術作品の訴へるメッセージは「現實から逃げるな」であるから、藝術家は氣にしないだらう。

何しろ、革命と云ふものは、熱狂的であり、藝術の題材に用ゐると、鑑賞者の感情に簡單に訴へる事が出來る。藝術家にとつて、非常に便利な題材なのである。怠惰な日本の藝術家が、かかる便利な題材を手放す筈はない。


その一方で、この題材を手放すと、日本の藝術家は私小説に走るのだが、それはそれで困つた事である。「革命」と「私小説」以外に、日本の藝術家は、「日常」をしか知らない。日本のアニメは全てこの三要素で説明可能であるが、それはアニメに限らないのである。

平成13年11月18日

ニセ明快・現代ダーリ語辞典。

自由主義
平和主義で押しつける樣。

平成13年11月18日

Opera 6ベータのtext-indentプロパティの取扱は、變ですな。

平成13年11月18日

「Aするな」と主張するのと、「Aする奴はBだ」(Bには否定や罵倒の語が入る)と主張するのは同じことです。「Aする奴はBだ」ということは、「Bだと言われたくなければAするな」ということでもありますから、Bに誰もが言われたくないであろう罵倒の言葉などが入れば、「Aするな」と言っているのと結局は同じことになります。

「報復するな」と主張するのと、「報復する奴はBだ」(Bには否定や罵倒の語が入る)と主張するのは、同じ事なんですね。

報復しないのが真の勇気 - 音楽家・坂本龍一。同感です。

困つた人だなあ。


もしかして、水無月さんは、

と考へてゐるのか。作家の人は、さすがに言葉の感覺が常人とは違ふ。


まあ、いじめるのも自由かもしれないけど、戦争反対と叫ぶのも自由だと思う。アメリカに自由は無いのか。

(以上、びいさんの 「日記。」 より )

墓場にもちょろっと書きましたが、戦争が行われるためには、戦争をするべきだという世論が必要です。で、アメリカはベトナム戦争以降、世論形成のための情報コントロールにかなり力を入れています。湾岸戦争のときなどは、本気でアメリカ側の情報しか流れず、後になって多くの人が「騙された」と気付いたような状況がありました。

ということで、これも「不朽の自由」作戦の一環なのではないかと。

「××するのも自由」だから「××」と云ふ主張がなければならない、と云ふのは、自由の濫用ですね。自由主義の國であつても、その國が民主主義の國であるならば、小數意見ではなく多數意見が通るのです。

アメリカは自由主義の國ですが、それ以上に民主主義の國である。それだけの話です。日本人みたいに無闇矢鱈と自由と云ふ觀念をありがたがつて現實の政治を忘れたりしないのがアメリカ人。

と言ふか、先に「戰爭をしたい」と云ふ意志があつて、アメリカが輿論の操作をした、と、ばけらさんはおつしやいたいのでせうか。私はさうとりましたが、もちろん、ばけらさんは「それは勝手な解釋だ」と言つて否定するに違ひありません。ですが、あの書き方では、さうとしか解釋出來ませんよ。

「戰爭をする爲に、アメリカは輿論操作をしてゐる」と云ふばけらさんの説には、全く根據がありません。少くとも、今囘のテロに際して、アメリカが豫め輿論操作をしてゐたとは、言へません。ばけらさんだつて、あのテロをアメリカは知つてゐて、にもかかはらずわざと手を拱いてゐた、とは主張しないでせう。アメリカは不意を突かれたのであり、ならば輿論を操作するなどと云ふ餘裕を見せる事は不可能です。

根據のないデマを垂れ流すのも「言論の自由」である、と主張するのは當然、言論の自由の濫用です。デマを流すのは許されません。ばけらさん、あなたは曖昧な言ひ方をして逃げ道を作りつつ、デマを流してゐるんですよ。


全ての戦争は「正義」であると断言しても良いと思います。

わざわざ「正義」を鉤括弧で括つてゐますが、意圖は何なのでせうねえ。恐くは「眞の正義」ではない、と言ひたいのでせうか。或は、ただの正義ではない、特殊な正義である、と言ひたいのでせうか。

正義は全て相對的なものであり、眞の正義も贋の正義もありません。戦争は「悪」ではないとばけらさんは書いてゐますが、當り前も當り前、戰爭は他の手段をもつてする政治の延長であり、道徳とは無關係のものであつて、善惡とは異る次元に屬します。鉤括弧で括るまでもなく、戰爭は相對的な正義に基いた人間の行動なのであり、しかしその正義はいついかなる場合にも相對的なものなのであり、戰爭の場合にのみ、贋物の正義が出現したりする譯ではありません。

そして、戰爭の效果を色々論じた處で、所詮それは政治談義にしかなりません。或は、その人が善人であるか、惡人であるかは、その人の政治的な主張が正しいか正しくないかとは關係ありません。平和主義の立場を取つてゐる、と云ふ事は、その人が道徳的に善人である事を意味しません。

その人が善人である事は、眞摯であるかどうかによつてしか決定出來ません。眞劍であるならば、平和主義者であつても、その人は善人である、と言ひ得ます。しかし、ばけらさんが平和主義を眞劍に信奉してゐるかと言ふと、さうではないでせう。


そもそも私は、ばけら氏が餘りに政治的な口のきき方をしてゐるのが氣に入らない。もつとはつきり言ふと、ばけら氏が極めて非人間的に、今囘のテロ事件について論じてゐるのが氣に入らない。

ばけら氏に疑問を呈しておく。どうしてばけら氏は、アメリカ人の怒りを過小評價するのか。或は、一方的にアメリカ人だけが我慢しなければならない、と主張するのか。

「やられ損」でも、これ以上被害がなければ良いぢやないか、とばけら氏は言ひたいやうである。しかし、ばけら氏は、アメリカ人を見くびつてゐる。アメリカ人に、穩やかな人間はゐない譯ではないが、血の氣の多い人間はもつとずつと澤山ゐるのである。さう云ふアメリカ人の人格を、ばけら氏は否定してゐないか。


豫言しておくが、ばけら氏は絶對に囘答しない。ばけら氏には、自分の主張のどこが批判されねばならないのかが、理解出來ないからだ。ばけら氏は、自分は人命を尊重してゐるから、文句を言はれる筋合ひはない、と信じてゐる。

だが、私は、人はパンのみにて生くるにあらず、と云ふ大前提から、ばけら氏を批判してゐる。さう云ふ私の大前提は、日本人には理解し難いものであり、それゆゑ私の批判も徹底を缺くから、ばけら氏には通じる筈がない。


ばけら氏をはじめとする日本人の大多數は、正義と正義のぶつかり合ひである戰爭がエスカレートして、ひよつとすると世界が終つてしまふのではないか、と恐れてゐる。そして、それは良くない事だ、と信じてゐる。

だが、どうやらヨーロッパ人やアメリカ人は、己の正義を貫いて、結果として世界が滅んでしまつても構はないらしいのである。さう云ふ連中の文明を我々日本人は受容れてしまつたのだが、今を昔にかへす手段はないのである。

平成13年11月17日

あれれ。

情報仕入元
裏ニュース!

平成13年11月17日

ブロードバンドで線が太くなるのは結構だが、サーヴァがとろくてはどうしやうもない、と云ふ事を誰か指摘しろよ。

例へば、「高速インターネット」を謳ふJ-COMであつても、その提供するWWWサーヴァは、遲くて遲くてどうしやうもないから、巨大なムーヴィやら音聲ファイルやらを配信する爲には全然使へない。

畫像を無闇矢鱈と貼りつけるのを平氣で奬める「ほーむぺーじ入門」だの「ウェブデザイン入門」だののサイトの制作者は異常。

平成13年11月17日

個人の「ほーむぺーじ入門」を斬つたら「誹謗中傷してゐる」と決めつけられる。ならば、大きなサイトの「ほーむぺーじ入門」を斬れば良いかね。


個人サイト以上に、大手のサイトのウェブ制作に關する記事はレヴェルが低い。


HTMLってなに?
 HTMLはHyper Text Markup Languageの略語です。

囘答になつてゐない。


HTMLは,ハイパーテキスト記述言語と呼ばれ,Internet ExplorerやNetscapeなどのWebブラウザ上で,文字の大きさや色などを指定することができる言語なのです。

それはヴェンダの獨自擴張によるもので、HTML 4.0以降の規格(特にStrict系)では否定されてゐる。

「本來はWWW上でデータ交換する際の共通フォーマットとして考案された文書形式」と云ふ説明をしてゐないので不可。もちろん、さう云ふ前提からは、文書の互換性の低くなるやうな記述の仕方を奬める事は出來なくなる。


スタイルシートってなに?
 現在ではHTML言語の一部として捉えられることの多いスタイルシート。しかし,Webブラウザのバージョンアップと共に拡張規格としてHTMLの規格バージョン4.0で登場したものです。

囘答になつてゐない。


スタイルシートを利用すると,文字の色や背景色をドット単位で指定できたり,別ファイルとして用意することでページ全体に利用して統一感を持たせることができます。具体的に例を挙げていきましょう。

だから、スタイルシートの概念をなぜ説明しないのか。知らないから、ごまかしてゐるのだらう。

「User Agentが文書を整形するプロセスがスタイルシートであり、整形の方法を具體的に記述する爲にCascading Style Sheets等の規格がある」と云ふ説明をしてゐないので不可。


「○○すれば××になります」式の、效能を説くだけの「ほーむぺーじ入門」は不許可。


まあ、ライターが所詮「ほーむぺーじ」を作つてゐる個人に過ぎないので、駄目な記事しか書けないのは當然。

平成13年11月17日

Windows及びアプリケーションの擧動が怪しい時。

  1. Scandisk
  2. テンポラリディレクトリの掃除
  3. RegClean
  4. RegCon @ Regist”o”ry

平成13年11月17日

キーボードの操作に關して、Operaはまじですげえ。

平成13年11月16日

Opera6.0 は、counterに対応しているらしい。。。

してゐますね。

情報の御提供、ありがたうございます。

平成13年11月16日

Opera 6.0ベータ。

link 要素感知や代替スタイルシート対応はまだ行われていないようですね。


野嵜はOperaを應援してゐます。


ただ、My style sheet はユーザスタイルシートであって代替スタイルシートではないです、違います。固有のスタイルを適用したいのではないのです。リソースで指定されている代替スタイルシートを指定したいだけなのです。

間違へました。すみません。

確かに、ユーザスタイルシートではない、代替スタイルシートの切替へ方法は、ないみたいですね。

平成13年11月16日

先日、うつかり「小一時間問詰めたい」と獨語したら、隣の席の奴が激しく反應して呉れて、焦つた。

どうでも良いが「小一時間問詰め隊」つて何? >WXG。結成しろつて事かね。

情報仕入元
200-11-16 @ [今日のなんでやねん]

平成13年11月16日

日本の植民地支配に、時枝誠記がどの位關はつてゐたかを論ずる人がゐる。臆測を甚だ逞しうした「論文」を集めた本が、左翼系の出版社から時々刊行される。

だが、「現代かなづかい」「当用漢字」を制定した戰後の国語審議会をリードした表音主義者らが戰前、國策に協力して、大東亞共榮圈の標準語として採用されるやうな日本語として、表音的な表記を推薦してゐた事實を、なぜかつつこんで批判してゐる例がない。マツサカタダノリの戰前の文獻を漁れば、さう云ふ事實のあつた事は容易に證明可能なのだが、さう云ふ「安直な方法」を、われらが左翼の諸氏はとりたがらないらしい。御苦勞な事である。

戰中、表音的な表記を採用するやう主張してゐたのは、陸軍である。その時の漢字制限と假名遣とを、戰後直後の國語改革で表音主義者はそつくりそのまま採用してゐる。


要は、日本語の表音化と云ふ目的の爲には、表音主義者は方法を選んでゐないと云ふ事。そして、自分逹が目的の爲に手段を選ばないのだから、敵對者も同じであらうと、彼らは信じ込んでゐるし、彼らのイデオロギーに親近感を覺える最近の左翼も信じ込んでゐる、と云ふ事。


自分の物差しで以て、相手の物差しをすげ替へようとする日本人は極めて多い。

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