先月の勤務時間が247時間とか訳のわかんない数字が出る今日この頃なんですが(汁 ようやっと息抜きして行って来ました、幻水オンリー。
お疲れ樣です。
俺は昔、1月で300時間以上(推定)働いた事がある。しかし、會社に泊つた事はない。
大学の名前といえば、オレの勤めてる大学は東海大学という。なんで「東海」なのかは実はオレは知らない。
東海には「日本國」の意味があります。啄木に、東海の小島の磯の白砂に我泣きぬれて蟹とたはむる
、と云ふ歌がありまして、この「東海」が正にその意味。
「とうかい」で、あ〜るのエピソードを思ひ出した人はヲタ。
昨日の買物。「諸君!」12月號。今日の買物。『広辞苑の嘘』。
「Apple=日本共産黨」説。
以前にも書いたが、私は、現在の日本語の書き言葉といふものは、日本以外も含めた、世界各地で近代以降に生じた各種マスメディアの成立や、それに伴ふ日本語以外の言語も含めた、世界各地での書き言葉の變革の運動・潮流なども視野に入れて捉へ直すべきだと思ってゐる。
同意。早いところ、捉へ直した成果を公開していただき度いもの。
「正統表記」といふ物言ひには、かつてある一時代に標準的だった表記を單純に復活させ、「正統」なものと認めさせ、それによって、自らはそのやうな「正統表記」の權威として扱はれたいといふ助平心の存在が窺へる。
こちらには異論あり。少くとも俺は、ある一時代に標準的だった表記を單純に復活させ
ろ、とは言つてゐない。俺は國語の正しい系統の事を「正統表記」と呼んでゐるのであつて、ある一時代に標準的だった表記
をさう呼んでゐる譯ではない。T氏の發言には、「正統表記派」を一概に「右翼」と決めつける左翼風の横着な精神が窺はれる、とでも言はうか。
この手の誤解・曲解を招かないやうに、今後は「國語の正統」とでも言つた方が良いか。
しかし、表音主義者全盛の頃に「当用」のものと言つて作つた漢字表を、そつくりそのまま既成事實として受容れて「常用」の漢字表だと言つた国語審議会を、どうしてT氏は叩かないのか。「正統」と云ふ言ひ方に助平心
を見出すのなら、「常用」と云ふ言ひ方にまづ見出すべきだ。
保守・反動は常に革新の後に出現する。行き過ぎた革新を是正し、バランスをとる存在が保守の立場である。「正統表記」と云ふ言ひ方は、「常用漢字」と云ふ言ひ方に對抗する爲のスローガンである。「正統表記」を非難する前に、「常用漢字」を非難せよ。
T氏の發言に反論するのはこの位にして。
以下、既存の「正統表記派」のサイト及びサイト管理者にも苦言を呈しておく。T氏よりも既存のタイプの「正統表記派」の「ほーむぺーじ」制作者の方々に、俺は不滿を持つてゐる。不滿を持つてゐると言ふよりも、怒りを抱いてゐる、と言ふべきだらう。以下、「裏切り」と取られるのを承知で、既存の「正統表記はほーむぺーじ」批判を書く。「身方」だからと言つて問題點に目を瞑るのは、公正でない。
いつまでも「素人臭い手法」「素人臭い作り」の「ほーむぺーじ」を公開して平然としてゐる「正統表記派」の方々には、猛省を促したい。「古臭え」の一言でかたづけられたくなかつたら、「正統表記派」の「ほーむぺーじ」制作者は、改善しようとする努力をすべきである。多くの「正統表記派」には「向上心」が見られない。どうしやうもない駄目なデザインの「正統表記」の「ほーむぺーじ」を見る度に、俺は絶望的な氣分になる。
今、「二世代目」の「正統表記派」のサイトがぽつぽつと出現し、木村さんの地獄の箴言も含め、いづれも先鋭的な作りで、人目を十分引き得るやうになつてゐる。俺はこれらの新しいサイトに期待をかけるしかないと思つてゐる。既存の「ほーむぺーじ」は、かう云ふ言ひ方もなんだが、いづれ切捨てたいとすら思つてゐる。
しかし、その「二世代目」の「正統表記派」のサイトに、「言葉 言葉 言葉」を不要にするやうな、本格的なものが皆無である、と云ふ事實は、再び俺を絶望的にさせる。俺が「言葉 言葉 言葉」を潰さなければ、「正統表記派」は危機感を抱かないか。いざとなつたら俺は「言葉 言葉 言葉」の「自殺テロ」でも何でも敢行する用意がある。
ついでに言つておく。國語問題協議會はやる氣があるのか。なぜ、あんな駄目な「ほーむぺーじ」を平氣で公開してゐるのか。耻を知れ、と言ひたい。少しは勉強をしたら何うなのか。国語学会を見習ふべし。
ずばりお答へします。
HTMLは何がベストか - 2001年11月04日 @ [つきねこ日記]
新しくHTMLを教えることになった。若くて頭が溶けていて、もはや非の打ち所のないノウタリンの頃ならHTMLを教えればいいんだけど、今となっては悩んでしまう。最適なバージョンはいつか。XHTMLを教えた方がいいのか。どうなんだろう。
ISO/IEC 15445:2000(E) ISO-HTML。これで決り。
めくらって云っては行けないのかな。ATOK12では盲が変換できない。めくらにならない。
ATOKの辭書づくりには、あの紀田順一郎が關はつてゐますからねえ。
ATOK総合ページ:ATOKの作り方〜「入れ立てのお茶」のナゾ〜
まず、第一に、あきらかにしなければならないのは、言葉そのものが問題ではないということであろう。
言葉は、それを生み出す、現実社会と歴史によっており、わが国の文化の質とかかわっていよう。したがって、われわれは、言葉の追放やいいかえで、差別がなくなるなどという幻想は一切もってはならないのだ。
差別用語を用いていないからといって、「被差別部落の人間は、こわい人間ばかりだ」というふうに発言すれば、これは、まぎれもなしに、偏見にみちたいい方であり、差別的である。とすれば、下手な、いいなおし、禁句集をつくるより、放送関係者が、いかに正しく、部落問題を理解するか、心身障害者の苦悩をうけとめるか、ということになるのではないか。いいかえれば、マス・コミ関係者すべての、いわば、主体性が問われているというべきなのである。
ジイド曰く、白人が知的でなければないほど、黒人は彼には一層莫迦に見えるものだ
。
2001年11月1日 (木) - 皮肉について @ [結城浩の日記]
皮肉を言うのをやめよう。
タリバンが以前、バーミヤンの佛像をぶつ壞して、騷ぎになつたと云ふ事實は、最早誰からも忘れられてゐる。「タリバンは空爆されてかはいさうだ」の大合唱。世間樣かくありき。
掲示板でこのコメントの眞意を質されたので一應書いておきますが。上で提示したURIは、タリバンが以前、バーミヤンの佛像をぶつ壞して、騷ぎになつたと云ふ事實
を示したものです。
この記事の筆者、こんな事を書いてゐて、或意味豫言になつてゐる。
アメリカはどういった行動に出るんだろう?空爆でもするのかな?
Clean up your Web pages with HTML TIDY(邦譯)
Clean up your Web pages with HTML TIDYの日本語譯がありました。
全くもつてその通りです。
ふむ。
すげえ殘念なニュース。
こちらに移轉してます、と結城さんに教へていただきました。
ありがたうございます。
喜び勇んで攻撃しようと思つたら。
世の中に氾濫する間違ったHTMLにカツ!を入れるページ(^_^)。これを読んだ後にあなたのページをチェックしてみてください。しかし、今見直してみるとこの結構間違っていたりして...。いつの日か修正しようかと思いつつ、HTMLの難しさを実感する今日この頃(^_^;。
と云ふ事なので、叩くの、やめ。
俺は『銀河英雄傳説』第8卷の途中で讀むのを止めた。
ニーチェはルサンチマン的な手法によって二重の勝利を収める者達をも強く非難し、彼は同時代のキリスト教徒に対して単に「病気」であるだけでなく「恥知らず」であると言います。これはどういうことかと言うと、キリスト教的ルサンチマンというのは、反感や憎悪をそのまま愛と同情にひっくり返すことによって復讐を行う独特の装置であって、これによって憎むべき敵を「可哀そう」な人に転化するものです。だから、彼らの「愛」の本質は、実は「軽蔑」なのですが。
ふむ。
D.H.ロレンスの『默示録論』は要參照。
2日に借りてきた本@橋本圖書館。
『現代神道研究集成(9)』は返却。
2日の買物。
速い・安い・繋がる・多い(HP100MB・AP全国567都市)・無制限(メール容量)と5拍子揃ったプロバイダー Angel NetからSPAMが屆いたのだけれども、撃沈
してやるべきか。
SPAMerを野放しにするISPは澤山あるが、ISP自身がSPAMを發信すると云ふのは何ともチャレンジャーな事である。
明治節。
トカゲはひたすら土に潜っている。考えてみればトカゲというのは日当たりのいい斜面などでよく見かける生き物だけど、日光浴をしている時間以外は潜って暮らしているのだな。いろいろ調べてみたら、小さなトカゲにはショウジョウバエが餌として適していて、ショウジョウバエなんてのは水槽に果物の皮なんかを入れておけば勝手にわいてくるものだというので早速試してみている。爬虫類の餌としては定番のミールワームはトカゲにはあまり適していないのだそうだ。果たしてこれから寒い時期にうまくいくのかどうか。死なせてしまわないように気をつけよう。
とかげつて、冬は冬眠するんではないでせうか。
ヒューレット・パッカードのプリンター用品は近所には置いていない
、の件。掲示板で色々と御意見を頂戴してをります。ありがたうございます。
良く考へてみれば、私の「混淆」説では説明が附きません。
もちろん、「は」と「が」の二つの助詞の差異を考慮するなどの解釋で、上記の例文を文法的にvalidであると看做す事は可能ですが、コンテクストから考へて不自然である、と私は考へるのであります。
コンテクストを含めて原文を引用し直します。
さあ作品をプリントアウトだ〜。と思ったらインク切れだったのだった。。。アホかもしれない。しかも朝方まで校正作業をしていたので起きたのは午後四時である。泣きながら日本橋へ行く(ヒューレット・パッカードのプリンター用品は近所には置いていない)。帰ってきてふと綴り紐と封筒が切れていることにも気づく。自分の三十二年の人生について疑問を抱く。
括弧の中に例の文章が出て來るのですが、それ以前の文章の主體は「私」です。文章の流れから、ここに描寫されてゐる行爲の主體が「私」(渡邊さん)である事は自明です。そして、泣きながら
の文章の註釋として、括弧の文章が續いてゐます。
ここで、括弧の中の文章における行爲の主體も、それ以前の文章と同樣に、省略されてゐます。この場合、普通ならば、この文章の行爲主體も「私」(渡邊さん)であると認識するのが自然でせう。ところが、置いている
の行爲主體は、「私」(渡邊さん)ではあり得ません。
括弧のあとの文章では、再び行爲主體が「私」(渡邊さん)に戻つてゐます。括弧の中の文章だけ、唐突に行爲主體が變化してゐる、と言へます。それは不自然な事ではないか。
主−述の對應と云ふ事にやたらと神經質になつた事が一時期、私にはありまして、それゆゑ今囘も、幾ら書き捨て
の文章だからと言つて「無神經」な事をされてはたまらんなあと感じられたのであります。
もっとも、おそらくは野嵜さんも単なる「間違いの指摘」をしているわけではない。僕が無意識で「売っていた」を書いていると判断しているのでいちいち指摘して僕の文章に対する「繊細さ」を喚起しようとしてくれているのであろうと思われるので、修正するつもりはないがこうやってまあ「反応」しておこうと思ったわけである。
さう云ふ事です。
僕は言語には二つの要素が交錯して存在していると考えていて、ひとつが「論理」でありもうひとつが「習慣」である。
それは私も全く同じ認識なのだが。
論理と習慣は、これまた對立するものではない、と私は認識してゐる。と言ふのは、習慣として固定されたものもまた、何らかの必然的・合理的な理由があつて固定されたに違ひないからであつて、詰り、習慣と云ふものが非論理的である筈はない、と私は考へるのである。
渡邊さんに限らず、言葉に論理以外のものを見ようとする人は、論理が人間の行動原理であると云ふ事を閑却してゐるやうに私には思はれる。
よくわからん時はひらがな。
言葉 言葉 言葉 掲示板の投稿、やたらと囘答しづらいものが多いのですが〜。
「置く」の主體は人(或は動物)でなければ論理的にをかしいのでして、だからといつて「置いていない」と云ふ風に否定であるならば主體が物でも良いかと云ふとさうでもないのでして。
と言ふか、説明拔きに、「ヒューレット・パッカードのプリンター用品は近所には置いていない」はgrammaticalだと思いますが。
と言はれても、「よくわかりません、説明して下さい」と云ふ「初心者的な應答」しか出來ないんですがー。あーうーほーほーほー。
ブラウザ市場を獨占するMicrosoft、伏兵Yahoo!に後から斬られる。
「シェアの高いブラウザの機能を乘取らう」と云ふYahoo!の發想つて、「シェアの高いIISを狙はう」と云ふウイルス作者の發想と殆ど一緒ですな。さすがインターネットのならず者。
もうひとつ野嵜さんの指摘にあったのは「売っていた」という文法間違いについてである。これはようするに日本語には一般文法的な必須要素がない、という話だと思う。「ヒューレット・パッカードのプリンター用品は近所には置いていない」というのは「ヒューレット・パッカードのプリンター用品を近所の店屋の人間は売場に置いていない」という意味であって、こういう省略は日本語としては「間違い」であるとは言えない。
ビールが置いていない
と云ふ一文について言葉 言葉 言葉 掲示板で議論がありました。
また、橋本進吉の以下の論文が參考になると思ひます。
省略
と云ふ説明には、省略されてゐるとされる内容が複雜過ぎる、と云ふ難點があります。
やはり、
の混淆である、と解釋するのが妥當でせう。
個人的には、ようするに日本語には一般文法的な必須要素がない
、こういう省略は日本語としては「間違い」であるとは言えない
、と云ふ渡邊さんの認識・解釋には、極めて強い違和感を覺える。既存の文法に合致しない文例が出てきた時、文法そのものを否定しにかかるのは、非常に屡々見られる現象だが、性急である、短絡的である、と言ふほかない。
文法と云ふものを、單に「言葉と云ふ事實」を「再記述」したものだと考へるのは、よろしくない。或は、文法を「守るべき規範」と見て、言葉を束縛するものだと考へるから、排斥したくなるのである。渡邊さんは、文法を支配者と見、言葉を被支配者と見て、兩者の間に鬪爭を起させようとしてゐるやうに、私には思はれる。だが、文法と言葉とは、對立すべきものなのだらうか。
ロゴスとは即ち、言葉であり論理である譯だが、言葉と論理とは一體のものである。言葉が論理であるならば、當然のやうに一貫性が要求される。文法は言葉の論理を説明するものであると、私は信ずる。或は、「言葉の論理」=「文法」である。ならば、文法には「言葉の論理の持つてゐるべき一貫性」が反映されて當然である。
さう考へると、「言葉に誤りはない」とか、「文法で全てを解釋するのは間違ひだ」とか、さう云ふ言ひ方は簡單には出來なくなる。言葉の側には論理的な一貫性が既に存在してゐなければならないからである。
正しく用ゐられた言葉を或文法が説明出來ない時にその文法の不備を責める事は可能である。しかし、論理的な一貫性の認められる文法を、非論理的な「言葉の誤用」でもつて攻撃するのは、本末顛倒である。言葉の側が非論理的であるならば、非論理的な言葉の使用者が文法の論理を否定するのは、言葉の使用者の「逆切れ」である。
「その言ひ方は、文法的に間違つてゐる」と云ふ指摘は即ち「その言ひ方は、論理的でない、筋が通つてゐない」と云ふ指摘である。文法は萬能ではないが、文法の價値を否定するのは行き過ぎである。
「論理的に間違つてゐる」と云ふ批判を受けた人が、「論理的な指摘は無意味である」と切返すのは、いかがなものか、と私は思ふ。渡邊さんは違ふが、さう云ふ切返しをする人の多くが、論理的な批判であるか、感情的な誹謗であるかを區別せずに、一概に「批判は許されない」と言出すもので、それは餘りにも危險である。
閑馬さんところのおまけが消えてる事については誰も何も言わないんでしょうか。それとも俺が何も知らないだけでしょうか。
というよりも数日音沙汰がないくらいで騒ぐ方が変だと思われます。ちなみに俺も何も知りません。
"redo" period 77のアーカイヴを展開しようとする際にいつものメッセージが出ないとか、"redo" period 69に展開した"redo" period 77を上書きするとembryo.exeが起動しないとか、勘繰りたくなる状態なんですが。
どんな内容だつたのやら。
『現代神道研究集成(9)神道と國家』(神社新報社)讀了。現代の日本に於る「常識」の嘘を論理的に批判する論文を集めた、知性を刺戟する學術書。
「法制」に關する論文。
その他。
「改正限界説」によれば「日本国憲法」は無效である。「改正無限界説」によれば「日本国憲法」は民定憲法ではないとしか言ひやうがなくなる。
かう云ふ事をきちんと教へる憲法の解説書は滅多にない。小學校・中學校・高校は當然、このやうな考へ方(のある事)を教へない。
政教問題に關する論文。
宗教上の行爲と
宗教的活動とを峻別すべき事を説き、憲法の他の條項と比較檢討して「
國及びその機關には地方公共團體が含まれる」とする一般の解釋が誤りである事を實證した中山健男氏の「我が國における國家と宗教」。
その他。
G.H.Qにより出された覺書「神道指令」(「國家神道、神社神道ニ對スル政府ノ保證、支援、保全、監督竝ビニ弘布ノ禁止ニ關スル件」)及び「宗教法人法」による「神道の國家からの分離」が、實は日本史上最大の宗教彈壓であつた事實を、日本人は全然認識してゐない。
もちろん、ここで私が本書を紹介しても、殆ど誰も讀まうとしないだらう。「暖簾に腕押し」である。
日本のクリスチャンにも眞面目な人はゐるのでせうが、キリスト教を政治鬪爭の道具に使ふ似而非クリスチャンが矢鱈目立つので、困る。
學生の劇團は、どうしてお芝居の題名に「親爺ギャグ」を持込みますか。
日本人の國民性として、私は以下のものがあると思つて來た。
しかし、これらの事を含め、日本人を象徴的に表はす言葉は「オヤヂ」なのではないか、と最近は思ふやうになつて來た。我々のセンスは、妙に爺むさい。或は「おつさん臭い」。我々には「自己批判」と「自己改革」が必要である。
流行は、單に流行遲れを作るだけでしかない。
温故知新。眞に新しいものを求める者は、寧ろ傳統的なるものの中にある本質を再發見せよ、古きものの生命を再生せしめよ。
イエス・キリストは、舊約の文言を再解釋し、全く新しい宗教を打樹てた。日本のクリスチャンは屡々、斯る眞實を忘れる。
眞面目な人相手には、眞面目に應對する必要がある。
昨日の買物。「ノワール」DVD 4〜5卷。