猫が無理矢理私の布団の上に居座ろうとするのです。どうしてくれよう。
猫を蒲團にする、と云ふのは如何。或は蒲團蒸し。
<span style="voice-family:'伊武雅刀';">私は猫が嫌ひだ!</span>
「マナー」とか「エチケット」といった言葉は他人を叩き潰すための道具として使われることがあまりにも多すぎた。そのためこれらの言葉を真顔で使う人間に対しては拭いがたい不信感を感じる。
とか。
事実を捏造する際、重要な事実の認定をすっ飛ばしていきなり助言のような形で喋り始めるという一つのテクニックがある。
これは例えば「怒るな」「逃げるな」「またそれか」といったようなものだ。これらは相手が怒っているのかどうか、あるいは本当に「またそれ」なのかそうでないのか、といったような重要な事実の認定を省略している。またそれか、という発言はそもそも相手が前と同じことをやっていないと成立しないわけだが、それがさも当然のことであるかのように何の確認もせず次の段階に行くことにより、間接的に、しかし強力に事実を確定(捏造)することができるわけだ。
このような単純な手法でありながら、こうして生成されたウソの空間を後から否定するのは非常に困難である(「怒るな」という事実認定省略攻撃に比べて「怒っていない」という否定の言葉が持つエネルギーはあまりにも低い)。
とか。
これらの記述は同意出來るんだけどね。
カウンタ回すのクソ重い html エディタも JS も Java も ActiveX もスタイルシートも cgi も必要ない。
<html> <body> <div align="center"> ホームページ<br> <br> <img src="e.png"> </div> </body> </html>
添削。
<title>ほーむぺーじ</title>
<style>
*
{
margin:1em;
padding:0;
text-align:center;
}
</style>
<h1>ほーむぺーじ</h1>
<ul>
<li><img src="e.png" alt="e.png"></li>
</ul>
htmlもbodyも開始タグと終了タグの明示は必要ない。
と言ふか、e.pngつて何よ。譯が解らんから代替テキストの正しい値を書けない。上の記述は假のもの。
「面倒臭い事を言うな」と言ふ人間に限つて、htmlとheadとbodyの開始タグと終了タグを書くのが面倒臭くないらしい。
神田古本まつりでぼくと握手!
「後樂園遊園地で」云々のパロディだと書かなければ駄目ですか。書いても駄目ですか。
一人稱「ぼく」つて、本當に馬鹿つぽいですね。笑ひ。
マーク附け手作業推奬委員會・公式ウェブサイト/ネットワークパロディ文書アーカイヴ@PC Tips
「政教分離」を實現してゐない國々。
まあ、だからつまりは意識だけでもって話。
私の場合、意識だけでも
ではいけないらしい。
H-man AND NOW(バリッドちゃん)のHTML文書は、ISO/IEC 15445:2000準據のものだつたりする。W3Cランドからきたバリッドちゃんは、ISO-HTMLの敵か、身方か。
地獄の箴言の附屬掲示板地獄の箴言 掲示板で、木村さんが月曜評論10月號の「けつねうろん」の記事を批判。
國民新聞(平成13年7月)・「亡くなると仏様」 小泉首相、分祀否定
「神道と佛教とは別だ」と云ふ批判が出てくるものと豫想。
1番目
。
D_e_e_P_e_R [Depot >> Text_少佐]
全然關係ないが、我と我が戦ひの完全版を、早く作らないとな。
W3C子に強敵あらはる。
「白銀日記」ですか。
國語國字問題關係のコンテンツを擴充する計劃。
現状ではまだまだ不備が多い爲。
正字正かな關係者は、正字正かな關係の記事を増やして下さい。
貝割れ大根は、一體何處に行つてしまつたのだらうか。
ちよいと聞いてくれ>>1よ
ネタを一つ、沒にする。
「ノワール」は萌えアニメなのか? 10月25日(木) @ [ちぃたん日記]
私は昨日、「2」と「3」を買つて來ました。周囘遲れ。
雜誌「Linux Japan」でアストロビスタ氏が小泉首相の事を「アメリカの犬」と罵つてゐた。その眞似。
「××の犬」と呼べば惡口になると思つてゐるのか。
あれが「癒し系」なら「闇黒日記」も「癒し系」だ!
「癒し系」つて何よ。喰へるのか?
K.A.R.R.を作らないやうに。
本物の鶉について。
うづらは可愛いのだが、うづら專門サイトには兇惡な作りのところがある。
『漢字と日本人』(高島俊男著・文春新書)讀了。
しかるにコンピューター文字を考へる人たちがみな、戰後略字を規範として考へてゐるやうであるのは認識不足である。
JIS漢字で「包攝」といふことを言ふ。
略字が正字を包攝するといふのが本末轉倒である。もしどうしても包攝するのなら、正字を立ててそれに略字を包攝すればよい。いまは略字を正字として學校で教へてゐるから略字を立てぬわけにはゆかない、といふのなら正字と略字とをどちらも立てるがよい。
云々。同感。
カヴァにも卷末にも、『電腦社會の日本語』(加藤弘一著)の廣告が出てゐない。關聯するテーマの既刊本を宣傳しない文藝春秋編集部は何を考へてゐるのだらうか。或は、『電腦社會の日本語』は既に品切れ・絶版なのであらうか。
こんな譯のわからない代物を教へられる生徒が可哀想だよ。
WindowsXPのXPを「ペケぽん」と呼ぼう
Mac OS Xも當然「ペケ」と呼ばないと。
Squall Kenta Labor Union スコール健太労働組合
いつの間にXHTML 1.1準據となつたのだ。
本日の買物。
売っていたの類例。
居酒屋を出てもう少し時間があったので喫茶店に入るが、ビールが置いていないので嘆き悲しみつつコーヒーを頼む(そういう暴走状態に入っているのは誰と誰であるかは賢明なる読者諸氏にはもはやおわかりのことだろうから詳述はしない)。
ビールが何を置いてゐなかつたのでせうか。
さきつさんと北里さんがお帰りということで大阪駅に移動、BEEさんが記念写真を撮影し、瞳夢さんの夜行バスの出発時間までまたどこかに入ろうと言うことで今度はちゃんとビールを置いている良識ある喫茶店に入ると、何故かコーヒーが置いていなくて瞳夢さんとBEEさんが嘆いていた。
コーヒーが何を置いてゐなかつたのでせうか。
「喫茶店にビールが置かれてゐない」「喫茶店にコーヒーが置かれてゐない」と書かなければ駄目です。
批判するのは良いけれど、批判しなくて良い事を批判して、批判すべき事を批判しないのは、感心しない。
というわけで、Netscapeなどで見たときにはこんなページが表示されてしまうわけですが、しかしさすがにMS、ただでは転ばないとはこのことです。
実はこのページ、MSのテクノロジーの粋を極めたページだけあって、なかなか奇妙なページになっているんですね。嘘だと思ったらソースをご覧頂くとすぐにお分かりかと思います。
まず、HEAD タグがありません。で、HEADタグが無いのに、いきなり META タグが忽然と現れます。HTMLの文法も何もあったもんじゃありませんが、どのソフトで作っているんでしょうかこれ。まさかフロントページでしょうかね。
で、こういう基本的なタグが無いのにもかかわらず、FONT FACEの MS Pゴシックなんて指定はあったりします。MSにとってはHTMLの文法よりも自社のフォントの方が大事なのでしょうかね。
そして極めつけは、なんと BODYの開始タグがありません。しかもどういうわけか終了タグだけはあります。なるほど、これは並大抵のテクノロジーでは出来る技ではありません。
それにしても私は古今東西いろんなページを見てきましたが、BODYタグを省略したページなんてものには初めて見ました。本文よりMSフォントを主張するとは、いやはやさすがMSのテクノロジーに最適化したページです。もう彼らの作るページは、HTMLなどをも越えた、人類の人知すら超越した存在になっているのかもしれません。
HTML 4.01の仕樣によれば、head要素、body要素の開始タグ・終了タグは省略可能です。
http://www.msn.co.jp/upgrade.asp
2001年10月22日午後11時現在のリソースには、以下の問題があります。もちろん、問題はこれだけではありません。
まあ、文書型宣言も記述されてゐない「不思議文書」に、まともな記述を求めても仕方がないのかも知れませんが。
公正を期する爲に、こちらも斬つておく事にしませう。
HTMLの文法……、MSのページもなにですが、個人的には、http://www.asahi-net.or.jp/~FV6N-TNSK/gates/mstec.html【MSTEC】の方も、<H2>から始まったり、引用でもないのに<BLOCKQUOTE>っていうのも気になりますが……。
ほかに。
こちらのサイト、と云ふ、WAI的によろしくないアンカーを設置してゐる。
細かい事を言出したらきりがないので、指摘しません。しかし、MSNのリソースの非道さと、MSTECの非道さとは、同じやうなものであるやうに思はれます。
情報仕入元:HTML…… 投稿者 首領 投稿日 2001年10月22日 18時07分 @ [カナかな団の躁鬱]
大學ののぢせんぱいは、高校の同級生ののぢくんの親戚であると云ふ事實。
「入会に関する規約」を考へるよりも、「協会」の目的をきちんと定義し直した方が良いと思ふ。
形式主義に陷つてどうするんだ。
相對主義に逃げちや駄目だ、と云ふ事。
確かに私も配慮という言葉に対して「人それぞれ」という旨を発言をしました。しかし、私の中にあった意図は、人それぞれだからこそ何らかの基準が必要であって、その点を議論出来るのではないか、というものでした。確かに「人それぞれ」という言葉は、個人の自由を尊重する世界において、真実の一面を示す言葉であるでしょう。しかし、議論の段階で簡単に「人それぞれ」という言葉に落とし込んでしまうと、すべての議論が無に帰してしまって、相対主義の暗黒面に陥ってしまいます。「人それぞれ」という対象にこそ、どこまで共通した認識で、どこからが異なった認識ということの線引き、さらには必要であれば何らかの一定の基準が導き出されるのが、議論というものの一つの役目ではないかと思います。
かう云ふ「相對主義」なら、納得出來る。
IntelだらうがAMDだらうが、速いCPUが良いCPUだ。
本日の買物。
『漢字と日本人』には、國語改革批判が收録されてゐる。
でも、高島さんの表記も、妙なんですが。
「電撃HP」は手遲れ。
めも。
まだ讀んでません。
「ノストラダムスの大予言・アフガニスタン編〜恐怖の大王は、タリバンだった」
微苦笑。
坪内祐三編集『明治の文学第23巻 田山花袋』の紹介記事。
明治の文学に對抗してなのかどうかは知らないが、岩波書店が新日本古典文学大系明治編なんてシリーズを出すさうである。
"PC Tips"の「試驗場」に「假名遣の歴史」と云ふウェブページがある。この頁を真似て私も作つて見た。
http://members.jcom.home.ne.jp/pctips/www/test/kor.htmlは、もじら附屬のComposerで作成しました。所謂「日本語」のテキストを、EUC-KRで保存しただけの代物です。
もじらブラウザ(Win32)では、文字化けしません。
さう云ふCSSの使ひ方は感心しない。
19日の買物。
大久保忠利氏は「マルクス曰く」とすぐにやる「古臭い左翼の人」なのだけれども、「文法的にちやんとした文章を書ける人間を育てなければ困る」と主張してゐるのが面白かつたので『国語教育 構造と授業』を買つてみた。もつとも、BOOK OFFで賣價が100圓になつてゐなければ買はなかつたと思ふが。
大久保先生、文章を分析して見せたあと、以下のやうに述べてゐる。
文法教育は、今、あなたに「文法が見えてきた」ように生徒にもしてやる、そういう教育なのです。あなたは大人だから、たちまち、よく見えてきたでしょう。けれども、もし、ここのところを読まなかったら、一生、「文法の見えない人間」で終わってしまったかもしれません。そして「文法の見えない人間」は、とても多いのです。そういう人間の話しも文章も、レロレロなのです。しかも、どうすれば文法のしゃんとした文で話せ、書けるか、てんで手のつけようのなかった人々です。こんな人間で一生を終わらせないために、あなたのクラスの生徒たちに、明日からぜひ、「とりたて文法教育」をやってあげてください――それがぼくの願いです。
○心配いりません。成分(文素)はたった11種類です――ちょっと見ると、成分(文素)が無限にあるようですが、ほんとうはたった11種類しかありません。その11種類が、どんな形で・どんな働きをしているか、それをわからせるのが文法教育なのです。今にはっきりわかります。
變な文法學者特有の妙な表記と文體が嫌らしいが、ここで大久保氏が述べてゐる事(内容)は割とまとも。
ほかにも色々と、興味深い主張が見られる。
はきだめからツルを選び出して、全構文法を正しく整備するとともに、それに基づいて、民族の教育の中心的課題を背負う国語教育、その中で「コトバの見える人間を育てる」文法教育を正しく行うのが、われわれの崇高な任務の一つなのです。
もつとも、「論理は立派だが、實踐が伴はない」では全然駄目なのだが。田中幸一だつて、理屈だけは立派だつた。
また読売はバカなことを… 。 要約すれば、 「法案を通すのが正しいのに通さないのは何事だ」 と言ってるわけで、 マスコミがこういう批判の仕方をしてはいけないよ。
さう云ふ要約
も感心しない。
私自身はWindowsMEを利用して、IE5.5SP-2がインストールされているのですが、IE6.0に「乗り換える」ことはできますか?もしできるのなら、乗り換えたほうが、レンダリングについてはIE5.5よりも「いくらかまし」な状況になるのでしょうか?その辺のアドバイスをお願いします
IE5.5からもIE6に「乗り換える」ことはでき
る筈です。
「IE6を導入したWindows」で「Windowsの上書き再インストール」を行ふとIE5に戻つてしまふのですが、その環境ではにつちもさつちもいかなくなります。
HTML文書のレンダリング能力は、本質的な部分で、さつぱり變つてゐないみたいです。DOCTYPE宣言に應じてCSSの解釋を變へる、と云ふ邊が話題になりました。
Internet Explorer 6.0(Win32版)/User Agentレポート@PC Tips
IE5にあるセキュリティの問題がIE6では解消されてゐる、とかいつた話もありますが、實はさつぱり解消されてゐないとか云ふ噂もありますので、何が何やら。
- RANK:聖人
- 良い人です。ウルトラスーパーターボ機登載の良い人です。秩序と言う言葉はそう、あなたの為にあるようなものですね。かぁーっこぉいいー! GOOD!!
- <犯罪者協会議長 隠平猛雄 審査員のコメント>
- 悪行には向いてませんね。さんは悪いことしてもすぐに捕まります。
- <歌手 さだまさよし さんのコメント>
- 盗みをする前に言っておきたいことがある。俺より先に盗ってはいけない。俺より先に捕まってもいけない。メシはうまく作れ。いつも、ほっかぶりしていろ。ラ、ラ、ラ、ラァ〜・・・
- <中華料理 珍来軒 店長のコメント>
- Zzzzzz・・・ はっ!! い、いらっしゃい・・ あれ?ここどこ!? たしか仕込をしてて・・何か頭にガ〜ンと・・
- 悪人素質
- 160ポイント
- 強盗願望
- 0ポイント
- 殺人願望
- 384ポイント
- 運
- 512ポイント
- 破壊願望
- 0ポイント
- 知的犯罪
- 210ポイント
- あなたに懸けらた賞金
- 1266万円
人は見かけによらない。のかな?
情報仕入元:Diary : 2001/10/19 @ [Ancient library]
鳩丸のもののけも聖人らしい。嫌だねえ。
再マーク附けのやり方が人それぞれなのも興味深い。元のCGIの出力したHTML文書が屑だと云ふのが問題なのだが。
voice-family:'西村ちなみ';
とかvoice-family:'南央美';
とか指定出來るやうになりませんかね @media aural 。うーん、値に”人名”ですか。私としては、この指定は「考えない方がいい」「考えてはいけない」指定だと思います。
「@media aural」系のプロパティに、voice-family
プロパティは實在します。CSS2でvoice-family
の値は以下のやうに規定されてゐます。
[[<specific-voice> | <generic-voice> ],]* [<specific-voice> | <generic-voice> ] | inherit
- <generic-voice>
- Values are voice families. Possible values are 'male', 'female', and 'child'.
- <specific-voice>
- Values are specific instances (e.g., comedian, trinoids, carlos, lani).
H1 { voice-family: announcer, male } P.part.romeo { voice-family: romeo, male } P.part.juliet { voice-family: juliet, female }
仕樣では、<specific-voice>に「人名」も指定は出來ます。
フォントファミリーファイルならぬボイスファミリーというものは存在するのでしょうか? フォントファミリーと同様に考えるのであれば、すべての音素の発音が、ある程度以上の音程に対して用意されていなければなりません。[勝新太郎の声]や[オーソン・ウェルズの声]が発売されていたら面白いと思うのですが、現実的にはどうなんでしょう。
と、すみけんさんも述べてをられるのでして、荒唐無稽な話ではありません。
(西村)ちなみに、ビレッジセンターからデータ集CD-ROMのHeavenly Voices (1)西村ちなみが出てゐますので、うまい事CSSで指定出來れば、HTML文書をちなちなに讀上げて貰ふ事も出來なくはない筈です。
CD-ROMには、レコード・CDと同樣、品番かJANコードが附いてゐるんですが、これらのコードは確かメーカが勝手に附ける番號なので、一意に決らないらしいとか云ふ話です(URNにならないみたい)。AMDコードならURNになり得ると思ふのですが、恐らく誰もわからんでせう。そもそも、AMDコードは某社取扱のPCゲームソフト(の一部)等でしか使はれてゐませんし。
Word Word Word CriticismをAHLにかけたら95点なんて點數が出てきて焦る。
ulの終了タグを書き忘れてゐたのだが、1箇月以上、誰も指摘して呉れなかつた。みんな非道いよ。
さすがに、バカ呼ばわりはまずいかもしれない。
ああいう輩 は、中途半端に言及するくらいなら、社会に存在しないものと思って忘れるのが精神衛生上よろしいかと思われ。
「ソフトウェアもまた表現過程にほかならない」と云ふ言ひ方で、全ては説明し盡されてゐるやうに思はれる。
媒體は飽くまで形式である。表現の形式と表現の意圖とを混同してはいけない。
ソフトウェアに限らない。コンテンツについては、書き手にでなく読み手にすべての責任がある、とわたしたちは説く。(説いた責任は無い、とわたしたちは説く。)――どこそこのページが「偏っている」「おもしろくない」というなら、自分で偏っていない、おもしろいと思うページを作れば良い。そのページもどうせだれかに偏っているとか言われるだろうが、それは“相対性理論”。
なんでかう云ふ無責任な言論を、世間は許しておくのかね。「妖精現実」は極めて惡質。
あなたのためにあるのでないのに、あなたが文句を言うのは筋違いもはなはだしい。人間は人間の食堂に行くが良い。
「讀みたくなければ讀むな」と云ふ「論理」。「文句を言はれたくなければ、書くな」と言返したい。
或は、妖精は妖精の世界に歸れ。人間の世界で喋るな。
ここは人間の世界だ。妖精の世界ではない。妖精の癖に、人間の理解出來る言語で喋るな。
『XP』のクリーンなデスクトップ、パソコンメーカーが台無しに?
なんでもアイコンで表現すると、そのアイコンが「棄てて良いデータ」を示してゐるものなのかどうか、そもそもデータとは何か、わからなくなる、と云ふ羂。
「わかり易い」アイコンと云ふメタファによつてコンピュータの本質を隱蔽すると、コンピュータの本質をユーザが理解しづらくなるので、一定以上のレヴェルでユーザがコンピュータを活用出來なくなる、と云ふ羂。
- CSSでは、どの位、MSとかMozillaとかの獨自仕樣を使用してゐますか?
- はぁー、CSSにも独自仕様なんてあったんですねぇ
或意味、質問のミスだ。
charsetを指定されてゐるHTML文書なら、W3CのValidatorはちやんと檢證をして呉れます。
「ナジカ電撃作戰」は、面白いのだけれども、どこか肝腎なところがアレなので殘念なやうな。
際物を作つてどうする。
彼らは「フォントいじり系」と言つてゐますが、『虎よ、虎よ!』でベスターがやつた事を模倣してゐるに過ぎない譯で。
しかも、ベスターの亞流は僅かな期間ののち、悉く消滅した譯で。
小手先の技を弄するのは止めよう、と言はれても、小手先の技を覺えた素人は理解しようともしない譯で。
日本國には、「馬鹿」と言はれるのが嬉しい人が多いみたいだ。
この事實は、隨分前にも指摘したやうな氣がする。
以下の構成では問題なく動作すると云ふ羂。
HDDとその他のデヴァイスを一緒に繋ぐな、と云ふ風な事がHDDのマニュアルに書かれてゐたのだが、大丈夫らしい。
やけにHDDが遲いやうに思はれたのだが、[デヴァイスマネージャ]→[各種IDEの機器のプロパティ]-[設定タブ]の「オプション」欄内の「DMA」にチェックを入れるのがポイントである模樣。
やつと動きやがつたぜこん畜生め。
ヨシネンさんかい。
ノワール第一話は、あんなのだつたんですね。
ゴンゾーな人たちなんて、ウェブサイト制作者版のパロディも簡單に作れますね。
一人称がボク (できれば丸文字で) のかわいい女の子位は例外規定に入れて欲しいの心。
一人稱が「ぼく」だと、「ラヴ・ペア・シリーズ」のアンドロちゃんを聯想させるので、不可です。昔の岬兄悟はやらしくて良かつた。
で。そのうち、Web サイト構築にも風水が口を出し始めるんじゃないかと思うのですよ。たとえば、"Wind Report" には青系や黄系の色を多用するのが良い。
ふむ。
サイトを閲覽する際にも、或は、そもそもPCを使ふ際にも、風水的見地から、小煩い事を言はれるやうになつたりして。
……譯わからんと言へば譯わからんのですが、PCのパーツにだつて「相性」がある譯ですしねえ。
平和主義の何が良いのかねえ。
イデオロギーで人間の本質は變へられないのでして、平和主義で人間の暴力性が無くなる筈はありません。平和主義を半世紀以上奉じて來た日本國で、陰濕な惡口だの誹謗中傷だの「スタイリッシュな慇懃無禮」だのは、絶えてゐないではないですか。
平和主義者は「戰爭の何が惡いか」と言ふ人間の人格を否定して屡々平然としてゐるではないですか。「他人の生命を奪ふのは惡い事だ」と主張する人間に限つて、他人の人格を否定して平氣なのはどう云ふ事なのでせうか。平和主義者は屡々沒道徳的であり、道徳的におぞましい存在であります。
「人を殺しさへしなければ何を言つても良い」と云ふ風潮は、いかがなものか、と思ふ。或は、「綺麗な言葉を用ゐてさへゐれば、どんなに非道い内容の事を言つても許される」と云ふ風潮は感心しない。
あー、私は「報復攻撃すればテロは確實に根絶出來る」とは言つてゐないのでよろしく。報復しないよりはした方が増しだと思つてゐるだけです。
ボクの言い分は前の通り。こんな重要な決議は十分に論議をつくしてからでも遅くはないのではないかと言いました。執行部の説明は、国会では冒頭にやることも多い。こうすることによって、このあとの政府の言動にタガをはめる効果もあるとのことでした。そして決議は満場一致が望ましい。今回は自由党、共産党は反対だが、「わが国憲法の理念に沿って」の文言を入れることによって、参議院では社民党は賛成に廻ってくれた(実際は4人賛成、3人反対でした)。だから民主党から反対票は出したくなかったとのことでした。
綺麗な言葉に欺さるる事勿れ。
「一人稱がボク
の奴は、差別されて良いのではないか」とすら最近思ふ。「一人稱がボク
の奴は、例外ナシに馬鹿」。
せっぱつまらないとやらない。せっぱつまってからではできない
- 決断
- 正しいことはすぐに中断し、間違ったことには頑固にしがみつく
- どちらかじゃなくて両方欲しい
ふむう。
gobbledygook/debris+Diary 10/19にて、ご報告
を頂戴しました。ありがたうございます。
箱は「無名戰士くん」中身は「無名戰士くん改」にDVDドライヴを繋いだところ、起動すらしない状況に。
IDEのコネクションを全部外さないと畫面すら表示されない、と云ふ邊が謎。
動かない状態。
以前は、DVDのところにとつても遲いCD-ROMドライヴが入つてゐて、それで動いたんですけど、今はどう繋いでも動かない状況に。なんでやねん。
CD-RとDVDのドライヴの解説書に、「slaveにするとPCが起動しないかもよ」とか書かれてゐるし。
繋ぐな、と云ふ事ではないらしいが。
Extensible Stylesheet Language (XSL) 1.0 の公開について (W3C 勧告)
生まれて初めてDVDを買つた。DVDドライヴは明日据ゑつけます。
IDEのバスマスタドライヴァの導入が出來ない状態になつてゐるWindowsを入れ直さないと、DVDを見られない(と云ふ譯でもないが、一應ちやんとした状態にしないと氣持ちが惡いのです)。一晩(或はそれ以上)「ノワール」第1話はおあづけ。
可能性のある事は自由な事であるのかも知れないが、自由主義を標榜しつつ可能性の領域に逃込むのは感心しない。可能性を守る爲に、何もしないとか、判斷を留保するとかいつた態度をとるのは困る。何もしないよりは惡い事をした方が増しである。
当たり前ですが、「報復すれば新たなテロが起きる」と言っている人は、「何もしなければテロは無くなる」と言っているわけではないので。
それぢや、一體何を言つてゐるんでせうか。
そんな事、言はれなくてもわかつてゐるわい。
利己的な遺伝子という本が流行った時も単なる熱力学的必然を妙な道徳に結びつける輩が多くてイヤな気分になったものだ。
エントロピーの法則を道徳に結び附ける連中が必ず無視するのは、「エントロピーが増大すると、そのうち熱死状態を迎へる」と云ふ事。
正義とは所詮その言葉を振りかざす者にとって都合のいい概念でしかない。野嵜さんは国家の依って建つ、その根本にある思想を指して正義とおっしゃっておられるのだと思うけれども、それが正義たりえるのはそれを振りかざす者たちにとってだけのことであり、その旗につきしたがって自分たちの正義のみを一方的に、疑いを挟むこともなく貫こうとする輩は、正義という言葉に酔って自ら考えることを放棄した人間であると思う。オレはそういう人間にはなりたくない、し、そうなりたくない、と考えてもがくことが人間の自由だと思う。
アフガニスタンのとんでもない僻地にたてこもるタリバン政權を相手に、アメリカは勝てるかどうかもわからない「戰爭」を行はうとしてゐるのですが、日本人から見れば「無茶」としか言へないやうな行動をアメリカと云ふ大國にさせる正義と云ふ觀念が、その言葉を振りかざす者にとって都合のいい概念でしかない
とは、私にはどうにも思へないのであります。
そもそも、乱土さんをして「自由こそが大切なのだ」と説かしめてゐるものもまた、「自由こそが人間にとつて大事な概念なのである」と云ふ「乱土さんの信ずる正義」なのであります。「正義を否定する人間すらも正義に衝き動かされてゐる」――全くもつて逆説的な事實ですが、私はこの事實を無視出來ません。
動物になくて、人間にあるものの一つが、正義の觀念である。人間が人間であらうとするならば、正義の觀念を人間は大事にしなければならない。
この種の論を見るたびに思い出すのが、「動物にはなくて、人間にあるものの1つが『満腹でもまだ食べようとする行動』である。人間が人間であろうとするならば、満腹でもまだ食べなくてはならない。」なる論なのですが。
全ての人間が満腹でもまだ食べようとする行動
を常にとるか、と言ふと、そんな事はないのであります。
しかしながら、どんな人間も、己の全ての言動を正當化せずにはゐられません。「『正しい』とか『正義』とか云つた觀念は全ての人間を支配してゐる」と私は思ひます。或は、「正義など存在しない」と云ふ主張、即ち正義の否定もまた一つの正義にならざるを得ないのでして、もし人が理論的な主張をするならば、「正義は存在する」と云ふ大前提は既に信じてゐなければならないのであります。
「正義は存在しない」と本氣で信じてゐる人は、自分が「正しい事」も何も主張する意義を見出せない筈であり、また、他人の主張の誤を指摘する理由を説明出來ない筈であります。
自由と云ふ事に就いても述べておきますが、「人は自由を捨てる時にのみ、自由を心から味はへる」と云ふ、やはり逆説的な事實があります。良く「××の自由」「××する自由」と言ひますが、人は「自由に××する」ものです。
可能性と云ふ抽象的な觀念を重視する「自由主義者」が實に多いのですが、現實には「複數ある可能性の中から自由に一つの方法・方針・行動・主義・思想(以下略)を選ぶ」と云ふ事で人間は自由を實現するものです。自由な選擇を經た人間は既に自由を失つてゐる譯ですが、さう云ふ形でしか自由は實現されません。
自由は、敗北する事によつてしか、實現されない。
さう云ふ逆説を、日本の「自由主義者」は屡々理解しないのですが、シェイクスピアの「ハムレット」と、福田恆存さんのハムレット論やシェイクスピア論、或は演劇論を讀んでいただければ、自由の觀念に對する見方が少しは變るのではないかと思ひます。
私も自由を信じる
のですが、私の信ずる自由と、乱土さんの信ずる自由とは、言はば「異る概念」なのです。だから話が噛合はないのであります。
「自由と正義」の話がなぜ「平和と正義」の話になったのかはわからないが、
話題を變へる時は一應、段落を改めるだけではなく、段落と段落の間にhr要素を挾んでゐるのですが、わかり難いでせうか。わかり難いでせうねえ。さう云ふ事です。
オレが賞賛(もとより礼賛する気などない)したいのは彼らが取った戦術であってテロリストという組織自体ではない。
戦術
は賞賛
したいが、組織
を礼賛する気などない
、と云ふ論理。「罪を憎んで人を憎まず」式の、あんまり意味のない區別だと思ひますが。それから、アメリカを虚假にしておきながら、罵倒したくないのだから罵倒などできない
、と逃げを打つのは卑怯だと思ひます。
今のところオレが興味を持っているのは、全く別種の戦術で臨んでくる勢力に対して、相変わらず正規軍をメインに据えた、正式な軍事行動しかとれない(国家として動く以上、それはアメリカにとっては外せない枷であることはもちろん承知しているが)アメリカが最終的な勝利を得られるのか、という点でしかない。
「興味がない」と云ふ言ひ方は、一番相手を突放した言ひ方だと思ひます。
ついでに言うと、オレは正義より自由の方が人間にとって大事な観念だ、と信ずる。動物になくて、人間にあるものの一つが、自由の観念である。人間が人間であろうとするならば、自由の観念を人間は大事にしなければならない。
「正義よりも自由が大事だ」と云ふ信念は、正義そのものだと思ひますが如何。或は、「正義よりも自由が大事だ」と本氣で信じてゐるならば、「正義と自由のどちらが大事だと思ふかは、各自の自由だ」と言はなければいけないのではないでせうか。「自由こそが至上の價値である」と信ずる人間が「正義よりも自由が大事だ」と言つてしまつたら、信念と行動が矛盾してしまふ事になります。矛盾した事を言つてしまつては、本氣で自由を信じてゐるのか、と疑はれても仕方がないのではないですか。
それから、たとえ甘ったれといわれようと
、つて何ですか。「俺は甘つたれではない」と主張したいのか、「別に甘つたれでも良いぢやないか」と拗ねて見せてゐるのか、よくわからんのですが。
京王電鐵の新しい自動改札機は、不正な乘車券が投入されると、液晶畫面に或意味「萌え萌え」の女性係員のCGを表示する。こんなところに凝るなよ。
本屋でMicrosoft Wordの「入門書」を見てみたが、ろくなものがないので愕然とした。
正しいWordの使ひ方。
正しいHTML文書の作り方と全く一緒。
「言論人」を自稱する人間が自分の都合の爲に一貫しない事を主張するのは異常だが、自國の利益の爲に國家が一貫した行動を取れないのはやむを得ない。或は、國家は自國の利益と正義の爲に、自己中心的な行動を取るのは自然である。
個人と集團とは區別出來る筈だ。そして、個人の從ふべき行動原理が道徳であり、集團の從ふべき行動規範が政治である。
その邊を取違へてゐる人が、日本には隨分澤山ゐるやうだ。個人が、自分の言動に關しては政治的なご都合主義を許しつつ、國家に「道徳的たれ」と命ずるのは、異常。
日本は極東裁判を認めたわけであり、であれば国際法を支持しなければならないだろう。
日本は「極東軍事裁判」を認めるべきでないと信ずるし、であるからして國際法なんてものも當然、認めない。
ついでに言ふと、俺は、自由よりも正義の方が人間にとつて大事な觀念だ、と信ずる。動物になくて、人間にあるものの一つが、正義の觀念である。人間が人間であらうとするならば、正義の觀念を人間は大事にしなければならない。
平和と正義を一緒に主張しようとするなんて無理。或は異常。他人との全ての爭ひを避ける爲には己の正義を捨てなければならないし、己の正義を守る爲には己の命を懸けて戰はなければならない事も屡々ある。「誰とも爭はずに、誰の信念も貫き通せるやり方がある筈だ」等と云ふ都合の良い考へ方をするのは勝手だが、それは「休むに似たり」の類の「考へ方」であるだらう。
實際のところ俺は、今囘のテロリストの信仰或は信念は凄まじいものである筈だと思つてゐるのであり、同時にアメリカ人の自由と民主主義への「信仰」もまた強烈なものである筈だと思つてゐるから、兩者の衝突は避けられないと思ふのであり、その兩者の間の溝は安易に埋められるやうなものではないと考へるがゆゑに平和主義を排斥してアメリカに一方的に荷擔する。
アメリカへのテロ行爲を「痛快」だと感じつつもテロリストを手放しで賞讃出來なかつたり、テロリストを支持出來ないと言ひつつアメリカを窘めたりする平和主義者は、結局のところ、平和主義と云ふ己の信念のみが大事なのであつて、テロリストの信念も、アメリカ人の信念も、共に否定してゐる。
對立する二つの意見を、共に同時に受容れようとするのは、共に同時に否定するのと同義である。少くとも私は今囘、アメリカ人の主張だけは肯定してゐる。だから、私は、他人の意見を聞入れる人間である筈だ。誰の意見も聞入れない頑迷固陋な人間ではない筈だ。他人を無視する人間ではない筈だ。