闇黒日記



電撃作戰

平成13年10月15日

私は、不自然にならない限り、q要素の前後に「、」(讀點)を置いて、引用符がレンダリングされなくてもわかり難くならないやうにしてゐます。

隨分昔の「闇黒日記」で書きましたが。

平成13年10月15日

 あー、これ(炭疽菌)がWTCへの特攻テロと同じ連中によるモノなのか、もとより今のところはわかりようがないのだけれども、もしそうだとしたらこれ、言い方は悪いけど、心憎いばかりに鮮やかに次の手を打ってきたよなあと感じ入ってしまうな。

 テロを仕掛けてくる側は、すでに今までと全く違う戦争を仕掛けている、って意識のもとに、身軽な構成から次々と手を打ってくるのに対して、アメリカの方は相変わらず"国"なんてモノを背負って昔ながらの騎兵隊か警察官気取りの手法しかとれないでいるわけで、こういう状態が続く間は、たとえビンラディン(がホントに今回の事件の首謀者だったとして)を捕らえたり、彼のアジトを壊滅させたとしても、ゲリラたちにしてみればたいした痛手でもないのではないか。昔ながらの手法しかとれない、恐竜化した超大国のドタバタぶりを、テロリストたちは嘲笑しているのかも知れないな。

乱土労馬氏の一聯の發言は、極めて不快。テロリストを禮讚したいのなら、はつきりさう云ふ態度を取れば良いと思ふのだ。

言い方は悪いけど、のやうな「留保」を一々附けないで貰ひたい。或は、ねちねちとアメリカに嫌みを言ふのは止めて貰ひたい。アメリカを罵倒したいのなら、はつきり罵倒して貰ひたい。

平成13年10月15日

もっとも強硬な「宗教警察」と呼ばれているグループがありますよね。あれは本当はきちんとした省なんです。英語では“Ministry of Promotion ofVirtue and Prevention of Vice ”というんです。日本語に訳すと、勧善懲悪省という感じです。それを宗教警察と訳してしまっている。それも相当に意味合いが違う。

その人たちに会って食事をしたことがあるんですが、普通のいいオヤジなんです。宗教に則って、善悪を判断し、国を治めようとしているのですが、クリスチャンから見ると、とんでもないということになってしまう。

情報仕入元:2001-10-13 @ 「HTML鳩丸倶楽部」更新履歴

平成13年10月15日

以前、私のサイトの画面右側を飾っていた動画GIFは宇宙戦艦ヤマトの波動エンジンのフライ・ホイールが元ネタだったりします(笑)。

波動エンジンのフライホイールって、一體何の役に立つてゐるんでせうね。スーパーチャージャーとか。どうでも良いと言へばどうでも良い話ですが。

平成13年10月15日

 オトコノコとオンナノコに関しては、劇場、美術館、コンサート、カルチャーセンター、専門学校に足を運ぶ人間の、過半数、八割・九割が女性である現実(事実)について、どう考えていらっしゃるのでしょう? 日曜日の早朝にぴあに並ぶのも八割は女性です。女性より男性の方がお仕事がお忙しいというのは確かにあるかもしれませんが。

 勿論何事にも例外があり、男性もいらっしゃいますが、その半分は女性に引き連れられて来ている方だったりします。ただ男性が本当に行動を起こすと、凄い行動力をもっていることも勿論認めますが、ただ数が少ないんです。本当に女性より。それは、「不思議」なことです。同じ世界で、同じように本を読み、同じように音楽を聴き、同じようにテレビを見て、同じように教育されているのに、オンナノコばかりが頑張っているのが目立つのは、ただ凄く不思議なことです。例外の話をしてる訳じゃなくて現実の話です。一度劇場に足を運べばすぐに分かると思います。勿論、男性がメイン客の音楽のジャンルもあるとは思いますが、それでも全体で見れば、エンターテイメントな文化の大半を支えているのはもう絶対女性です。つまり日本の外に出向かなくてはいけない文化の大半を、女性の資本と好奇心と行動力と元気が支えているのです。これは凄くリアルな話です。強引に対概論とかいう話じゃありません。現実の話です。見に行く人がいなければ、名画は日本にはやってきません。チケットが売れなければ、資本が集まらず舞台の幕は開きません。例外だけでは支えられません。一割の男性だけでは名画は日本に呼べません。それが現実です。アタシは精神論の話をしているのではないのです。

藝術と云ふ極めて狹い領域の、さらに「女の子好み」のジャンルのみを見て、「女の方が多い」等と話を一般化されても困ると言ふか何と言ふか。矢鱈と「現實の話だ」「リアルな話だ」と連呼してゐる邊も、「現實離れした話」である事を却つて強調してゐるやうで。

不況の時代に「生延びてゐる」人が目立つのは當り前。

情報仕入元:10月15日 @ [人間城の主な日々]


「女の方が偉い」とか「男の方が偉い」とか、言爭つても仕方がないやうに思ふが如何。或は、「ジェンダー論」なる「理論」は、人間の言動の要因一切を性に還元し、結果として人間の個性を壓殺してゐると私は思ふのだが。

平成13年10月15日

最近の若い者は、神道と云ふ言葉すら知らない。

平成13年10月15日

本日の買物。

ライシャワーの日本史
エドウィン O. ライシャワー著・國弘正雄譯・講談社學術文庫1500

平成13年10月15日

インパクの參加サイトを見て、「これからは、こんな風なホームページを作るべきなんだらうな」と思ふか、「こんな『ほーむぺーじ』を皆が作るから、ウェブにはろくなサイトが無いのだ」と思ふか。

――と云ふ「對比」ならば、恐らく簡單に受容れるであらう人も、平和とか戰爭とかいつた問題になると、「それとこれとは話が別」と言つて、無闇矢鱈と深刻な顔をし始めるから、日本人は馬鹿。と言ふか、こちらの意圖や論理を無視して、とにかく話を別にしてやらうと意氣込む人がやけに多いんですが、何で人の話を「文字通りの意味で」受容れませんか。苦笑ひ。

平成13年10月15日

なんかまた、近所で火事らしい。火の用心

うちに燃え移つたら殺す。

平成13年10月15日

久々に(?)思ひ切り「突つ込み」を入れたくなつた。

平成13年10月15日

平成13年10月14日

「正しいWordの使ひ方」の記事でも書かうかね。

平成13年10月14日

「國際法は或程度機能してゐるから、その機能を強化する必要がある」と考へるか、「國際法は或程度しか機能してゐないから、國際社會は無法地帶である」と考へるか。

前者は理想主義であり、後者は現實主義だが、日本では理想主義が屡々現實であるとなぜか見做される。その上、現實主義を「電波」呼ばはりする平和主義勢力まで存在するのだから笑へない。


対比になっていない気が。後者は「無法地帯である」という現状の認識なのか、「無法地帯であるべきである/なければならない」という意志なのか──意志の方であれば確かに対比か。

前者は理想主義であり、後者は現實主義だが、と私は書いてゐますが。と言ふか、「無法地帯であるべきである/なければならない」という意志なる馬鹿馬鹿しい代物を提示する方が無意味だと思ひますが。「愚論をでつち上げて笑つて、勝つた氣になる」と云ふ例の惡習を想起させますね。


なんか一言でかたづけられてゐますが。

どうして「同じ意志」でなければ對比にならない、と云ふ「批判」が出てきたのか、さつぱりわからない。「理想主義の理想を現實そのものと取違へて平氣な日本の『理想主義者』の『認識』」と「現實主義の認識」との比較を私はしようとしてゐたのだ、とまで言はないと、わからないんですかねえ。わからないんでせうねえ。

「對比」のあとに「註釋」を入れた積りなんですが、この手の「註釋」は無意味なんですねえ。

平成13年10月14日

そういえばブッシュさんはウサマ・ビン・ラディンさんをとっ捕まえてその後どうするつもりなんだろ。

それあもちろん、裁判をするに決つてゐます。

懲役数百年で刑務所にブチ込むのか、死刑にするのか。死刑にするとしたら、銃殺なのか絞首なのか電気椅子なのかガスなのか薬なのか。

もちろん、裁判で決めるんでせう。


……と言ふと、「そんな裁判、茶番に過ぎない」とか言つて嗤ふ馬鹿がゐるけれども、さう云ふ馬鹿に限つて「極東軍事裁判は茶番だつた」と言はないもの。どう云ふ譯ですかねえ。


ノリエガ將軍つて、どうなつたんでしたつけ。

……と云ふ譯で、infoseekで檢索すると、なんかろくでもないサイトがひつかかつたりしたのだが、ノリエガ將軍からイスラム原理主義者へと考察を進めてゐる文章を發見。

例によつてアメリカを諫める論調の文章だが、まあ參考までに。

それにしても、高千穂遙の『のりえが將軍』は本當にろくでもない話だつた。

平成13年10月14日

「テロリストがテロを行つたのはアメリカ政府とFBIの策動のせゐ」と云ふ主張(「噂の真相」)に説得力があると言ひたければ、「タリバンに對してアメリカが軍事行動をとつて町を破壞したのはテロリストのせゐ」と云ふ主張にも説得力を認めなければならない。


感情的にアメリカを惡者にして罵りたい人間が日本には澤山ゐるから、理屈で何を言つても通じない。困つたものである。

平成13年10月13日

「テロ行爲を優しく許すのが、テロを無くすのには一番良い方法だ」と斷言出來るのは何なのだらう。

銀行強盜事件が起きたら、銀行に「金を扱ふのを自重しろ」と言ふのか。警察に「強盜を逮捕するな」と言ふのか。


掲示板荒しを優しく許すのが、掲示板荒しを無くすのには一番良い方法なのだらうか。そんな事をしたら、掲示板荒しはつけあがるだけだが。俺は「言論の自由」を守る爲に、掲示板荒しには徹底した戰ひを挑むのが筋だと信ずる者である。

と言ふか、アメリカに自重を迫つてゐるのは、何であれ「實力」を行使されると困る連中ばつかりだ。


「あー、また曲解してるー」とか云ふ聲が聞えるやうな氣がする。また「文字通り解釋しろー」とか言はれるんですか。出來るか馬鹿。

平成13年10月13日

上の文章が理解出來ない場合、「ネットワーク社會」を「2ちゃんねる」に、「ネットワーカ」を「2ちゃんねらー」に置換へるとよろし。それにしても、理屈で言負かすのならともかく、誹謗だの中傷だので相手を默らせる「論法」を當然のものだと思つてゐる人間に、軍事行動を取るアメリカを嘲笑する權利はないと思ふが如何。


アナーキストを自稱する人は、民主主義を否定してゐる事になりますから、要注意。

平成13年10月13日

Mozilla Browser for OS/2のNightly Build。

平成13年10月13日

KO線で『現代神道研究集成』を讀んでゐる乘客は、私です。

平成13年10月13日

PCの環境がアレなので、いつもと全然文體が違ふね。

平成13年10月13日

「政治には良いも悪いもない」というのが、ようするに以前から野嵜さんが主張する「政治と道徳を区別せよ」ということで、「政治的な正しさ」というもの自体を認めない、ということなのだろう。いいかえれば、相対的な正しさは「正しさ」ではない、という考えが、野嵜さんの基本的な「道徳観」ということなのであると思う。それ自体は成程と思う。それが正しいと思うわけではなく、態度として理解できるという意味合いにおいてである。

そういう意味で言うと、僕は「正しさ」とは「政治」の問題であり、「道徳」の問題ではない、と考えているのだ、と(野嵜さんの区分をあえて受け入れれば)主張しているのだといえばわかりやすいかもしれないと思う。そういう「態度の問題」が差異としてあるのであって、それを意識しない限りはすれ違いは永遠に続くだろうから。論点はそこにあったわけである。

僕は「政治」も道徳的であるべきであって、政治における「正しさ」は重要であると考えている。けれども「宗教的理念」と「政治的理念」というカテゴリーにおいて「正しさ」はそれぞれの形式で問題になると思っているわけで、宗教における正しさから導き出される「道徳」もあり、政治における正しさから導き出される「道徳」もあると考えているのである。そしてそれらの「道徳」あるいは「正しさ」は異質なものであるが、無関係なものではないとも考えている。政治における「正しさ」は相対的なわけではなく、事後的に判断される、と考えているわけで、事前的に決定されていないが、判断されるために手続き上の「普遍性」を要求する。この「普遍性」は宗教における「普遍性」とは異質である。「絶対性」の水準が違うのだといっても良い。

私が言つてゐるのは、飽くまでキリスト教には以下の區別がある、と云ふ事だ。

キリスト教社會で、政治と道徳とは歴然と區別されるのだし、キリスト教社會である西歐の文明が現在、世界を覆つてゐる事實は否めない。ならば日本は、西歐の流儀に從つて、西歐の社會(及び西歐の流儀で動いてゐる國際社會)でやつていくしかないではないか。何より日本は明治以來、西歐文明を採入れる方針をとつてきてゐるのだと云ふ事を忘れてはならない。さう私は言ひたいだけである。

日本人が政治と道徳を區別しない事、したがらない事は、わかつてゐる。だが、それでは明治以來の日本人の「脱亞入歐」の努力は、一體何だつたのか、と言ひたい譯である。相變らず日本人は、西歐人の物の見方を理解しないまま、日本人の物の見方を西歐人に一方的に押し附けようとしてはゐないか――と言ふよりも、日本人特有のセンチメンタリズムを自覺しないまま、センチメンタリズムで合理主義の西歐に對抗しようとしてゐるだけなのではないか。

センチメンタリズムが合理主義に勝てない事を、日本人は大東亞戰爭で身に染みて理解しなければならなかつた筈だが、いまだに、日本人的な餘りに日本人的な説得工作が效を奏すると日本人は思つてゐるのではないか、と言ひたい。感情的に「××の方が良いやうな氣がする」と言へば、それで説得は完了したかのやうに、日本人は思ひなしてしまふ節がある。渡邊さんの僕は「政治」も道徳的であるべきであって、政治における「正しさ」は重要であると考えている、にも私はその氣配を見出す。


某所で、「野嵜は自分の意見を言はず、他人を批判してばつかりゐる」と批判されてゐたのを見た。「自分の意見ばかり主張する」ばけらさんその他に「少しは他人の意見も尊重しろ」と意見して、その「他人の意見」を示した譯だが、私の發言の意圖は、いつもさつぱり傳はらない。


いま僕が国際法を尊重せよと主張しているのは「政治的責任」を意識してのことである。

「政治的責任」とか「道義的義務」とか、さう云ふものは嫌ひです。

それが日本の国家と世界にとって有益であると考えているからで、というか現在世界にある最大の政治的課題である地球環境問題と大規模なテロや内戦の問題を解決する糸口は自国の利益を優先して「自由競争」するよりも公共の場における対話的理性をもって「調整」したほうがよいと思うからである。むろん僕は軍隊を否定するわけではないし、戦争という手段がすべての事態において無効だとは思わない。けれども今回の事態に対し、アメリカの報復はプラスになることよりもマイナスの面が大きいと思うということである。

アメリカに言ふよりも、テロリストに言ふべき文句だと思ひますが如何。アメリカに一方的に我慢しろと命じ、テロリストには甘い顔をすべきだと主張する、根據が全然擧げられてゐないやうに思はれますが如何。或は、何で被害者のアメリカが我慢しなければならないのか、と云ふ理由がさつぱりわかりません。

と言ふか、テロリストは公共の場における対話的理性を持つてゐないからテロを行つたのであつて、即ち對話の意味が否定されてゐる現實がある譯で、それなのに「對話で解決すべきだ」と主張しても全然意味は無いのであります。


サルベージ。

無条件降伏してビンラディン氏を引き渡せば済むことなのですが、なんで戦争に反対する方々はタリバンがそうしないことをなじらないのでしょうか。

何か深い譯でもあるのでせう。その譯を他人が勝手に追求したら「電波」呼ばはりする爲とか。笑ひ。

平成13年10月12日

国際法に権威がないというのは、ある意味では僕もそうかもしれないとは思う。つねに「戦勝国」の利害を優先するかたちでしか国際法が機能してこなかった(キッシンジャーを人道に反する罪で国際法廷で裁くという運動はいまなお継続中であるが、まだ実現にはいたっていない)というのは確かであるし、イスラエルとパレスチナの紛争に関してアメリカが国連で拒否権発動を連発したり、京都議定書をめぐっても国際法の理念を踏みにじって平然としているのは周知の事実である。けれども、やはり僕は、むしろそうであるがゆえにこそ国際法は政治的に重要な「法」であると考える。たとえ戦勝国の利害に絡んだものとしてしか現在は機能していないとはいえ、それは確かに限定的には機能しているのであり、それを本来の理念に基づいてもっと大きく機能させていく、現在よりももっと大きな権威を認めていくように努力することが政治的に有益であると考えているのである。

強調部は、例によつて「紋切型」のキーワードであると私が感じた部分。

渡邊さんの主張は、「理念を現實のものとしていく努力をすべきだ」と云ふものだと思ふが、その「理念」の是非は重要な問題であつて、「限定的にしか機能してゐない國際法を、しつかりとした權威とする」のは、果して正しい事、良い事なのか。

そもそも、政治に「良い」も「惡い」もあるのだらうか。

前も書いたけども政治を力の論理や理念の闘争だけで考えるマキャベリやホップズの理論が挫折したのがナポレオン戦争から第一次世界大戦にいたるヨーロッパの歴史であり、敗北を知らないアメリカの論理を世界政治の基準にするのは危険であると思う。

マキャベリやホップズの理論が挫折した、と私は考へないのであつて、と云ふのは、現に「アメリカの論理」と云ふ形でそれらの理論は生きてゐるからである。危険と云ふ判斷をそつと插入して、渡邊さんは論理の流れを混亂させてゐるが、私はもつと單純に考へる。

即ち、アメリカ人は、西歐の傳統的なキリスト教精神に基き、神の領域である道徳と、カイザルのものに屬する政治とを峻別する。そして、政治の領域では、マキャベリズムやホッブズの理論が生きてゐると、アメリカ人は考へる。

引用の順番は入れ違ふが。

実際アメリカに限らず現在の西側諸国は「国際法」をその精神において無視して行動することは出来ない(何とかごまかして行動を正当化しようとするだけである)。

アメリカの「大義名分」に、ごまかしと云ふレッテルを貼つても仕方がない。行動を正当化しようとするのは、全ての人間がする事であり、それを非難するのは無意味である。現實に自由主義諸國とその他の多くの國々が正當なものだと見做して支持してゐるのだから、國際政治の場で、少くとも自由主義諸國の間で、アメリカの「大義名分」は受容れられてゐると言つて良い。

政治の領域においては、良いも惡いも無いのであつて、正しいと認められる事、多くの人を納得させる事のみが重要なのであり、と云ふのは、政治の世界は相對的な世界だからであるが、それを論理的に徹底させればマキャベリズムになる。その意味では、國際法による法治主義及び國際法の權威を國際社會が認める事が良いとか惡いとか云ふ議論は、議論自體が無意味である。

法律よりも「仁義」を優先するのが國際社會の現實である。さうなると、國際社會に「法治主義」を持込むのは、本質的に意味がない。國際社會は現實に「無法地帶」である、と私が言ふ所以である。


「健康になるためだったら死んでも構わない」というジョークがあったが、「平和主義」というのはそういうもので、戦争の抑止力にはなると思うのでけっこうなことだと思うが、「真理のためなら死んでも構わない」というのも同様にそうやって自己犠牲的になることに陶酔しているのが気持ちいいからやっているだけで大して違わないと思う。

全てを「欲望」だと解釋して納得してしまふ現代人の「感性」は、フロイトの殘した負債である。特に日本人は、「欲望」で全てを解釋する流儀を愛好するが、それで全てを割切つてしまふのは如何なものか、と思ふ。

ところで、WTCのテロがあったときに多くのアメリカ人及びヨーロッパ人が「自爆テロ」という方法について、「真理(あるいは世界)のために自分の命を犠牲にするという発想は西洋文化には存在しない」と語っていることについて野嵜さんはどう考えるのだろうか。僕も一般的にはヨーロッパにそのような自己犠牲の精神はなく(自己が自己自身であるために真理を保持し死を恐れないという伝統はあるが、自殺はキリスト教では認められていないから、ヨーロッパでは「生きる」ことは何より優先する宗教的義務でもあったように思う。「敵に殺される」ことを恐れて自己を曲げないという意味で「死を恐れない」ことが重要なのだ)、むしろ江戸期以降の日本にはそういう真理への犠牲的献身は一般的美徳として存在していたように思うのだが(忠臣蔵や特攻隊など実例はいくらでもある)。日本に馴染まないのは前にも書いたが「自由な自己」の観念であるだろう。

忠臣藏も特攻隊も、日本の歴史の中では、極めて特異なものだと私は見てゐる。「お涙頂載」式に脚色されたお芝居の「忠臣藏」と現實の赤穗浪士の刃傷沙汰とは區別すべきだし、特攻隊は史上初めて日本が負け戰に遭遇したと云ふ異常な状況を背景に考へる必要がある。


「自爆テロ」を考へる前に、「ハムレット」の一篇を讀返してみるのはどうか。自殺云々の前に、正義の觀念が人を屡々支配する事を考へてみるべきではないか。

そして、福田恆存がテロリストを主人公に書いた戲曲「解つてたまるか!」を讀んでみるのはどうか。

平成13年10月12日

マルクスの思想がキリスト教がなければ絶対に生まれないものであるにしても、マルクスはキリスト教を切り離そうとしたわけで、つまり唯物論というのは社会ダーウィニズムそのものなわけであって、思想と宗教の分離への意志が働いていたといっていいだろう。そういう意志が生じること自体ヨーロッパ近代という特殊な世界の特徴なのではないかと思うわけだ。

この言ひ方ならば、納得出來るのです。


無限で絶對の存在であるGodに屬するものと、有限で相對的な現世に屬するものとを峻別するキリスト教の傳統に基く西歐文明が、特殊であると言はれても、現在、世界で支配的である、と云ふ事實は動かせないやうには思ひますが。或は、我々日本人が物事を峻別しない「普遍」の側に立つてゐるにしても、明治以來西歐文明を受容れる方針を取つてゐる以上、物事を峻別する西歐のキリスト教精神を「上滑り」であつても學ぶ必要がある事は否定出來ない、と思はれますが。

平成13年10月12日

ということなんで実写のアダルトと公安にマークされるような内容やんなかったらだいたい問題ないです。

「言葉 言葉 言葉」は、公安にマークされてるかも知れない。

平成13年10月11日

宗教絡みの研究を本業とする者にとって最も避けなくちゃいけないのは、思想と宗教が分離してるのがヨーロッパ近代というごく特殊な世界のみだということを忘れて、それを一般化しちゃうことだ。

それはどうだらう。ヨーロッパの近代社會で、思想と宗教とは分離してゐる、と言へるだらうか。

寧ろ、思想と宗教とは分離すべきだ、と云ふテーゼが戰後の日本と云ふごく特殊な世界のみの「常識」でしかない、と云ふ事を忘れて、それを一般化する事こそ、避けるべきなのではないか。

平成13年10月11日

前も書いたとおり、僕はアメリカの報復戦争は支持しない。第一の理由として国際法的な正当性がない、ということを書いたが、それに関連して(いるんじゃないかと思われる)国際社会は本質的に無法地帯である、という意見があった。これは事実誤認というよりも「本質」という概念が「国際社会」というカテゴリーに適用できると考えるのが無茶であると思う。またあらゆる法がそうであるように国際法も抽象的なものだが、それが現実に機能しているからこそ極東裁判があり得たのだし、「人道に反する罪」が国際法廷で裁かれたりしているわけである。これらは手続き上においては「合法的」になされているわけだ。というよりもそもそも「法」とは手続きの問題である。無論「法」には限界があり、「超法規的措置」というものが政治的には存在する。しかしだからといって「法」が存在しないわけでも機能していないわけでもない。単純な話、例えば殺人を犯しある国で有罪判決を受けたとしても、何らかの手段で国外へ脱出し、その「外国」と有罪判決を下した国が犯罪者の身柄引き渡しの条約を締結していなければ、その「外国」に暮らしている限りその国での有罪判決は動かせないにしても実刑は下されない。この事実を持って刑法は抽象的で現実には無意味で世界は無法地帯だという結論を出す人は根本的に「法」という概念を勘違いしているといわねばならないだろう(近い実例では沖縄で少女に乱暴したアメリカ兵が日本の法廷では有罪になるところを条約に基づいて引き渡されたアメリカ法廷で無罪となった例を考えてみれば良い。これは「無法」ではない。ちなみにいううとタリバンが主張している犯人引き渡しの拒否も理屈としてはアメリカがこのとき行ったものと同じである)。

そもそも、或國民を裁判にかける事と、國家を裁くと云ふ事とは、區別されなければならないのだが、渡邊さんはその二つを區別してゐない。また、道徳的な罪と、政治上の或は法的な犯罪行爲とは、區別されなければならないのだが、渡邊さんはその二つを區別してゐない。


と言ふか、渡邊さんの論理では、アメリカの「テロに對する戰爭」を、イギリス・フランス・ドイツ・日本の政府、中華人民共和國その他の國及びNATOは「合法的」なものと考へるが、一方で、日本人の一部とイスラム諸國の人々などは「非合法」なものと考へる、と云ふ結論しか出せない筈である。

國際社會に統一された法的判斷は存在しないのであり、即ち國際社會は無法地帶である、と斷言して構はない。


法治主義を採用した社會では、裁判所の下した法的判斷を、人々は取敢ず決定的な結論として認めなければならない。もちろん、裁判所の下した法的判斷は、絶對的に正しい判斷である譯ではない、と認めなければならない。裁判所は、過ちも犯す筈だが、社會の秩序を維持する爲の裁定者として、法治國家では認められる。裁判所は、絶對的な道徳の守り神ではなく、相對的な政治の機關である。

法治國家において、裁判所は、秩序を維持する爲に機能する一種の權威である。しかし、國際社會にそれ程權威のある裁判所は存在しないし、秩序は無論、存在しない。國際社會は無法地帶である、と私が主張する所以である。


まあしかし戦争は起こる(というかもう起こっている)のだから、戦後について考えよう。そもそも戦争に単に反対するだけで、あるいは反対する理論的な根拠を出しただけで世界がどうにかなるものならもう200年前に世界平和は実現している。同様に理念(正義)のために戦って「理想の王国」が実現するものであれば2000年前に問題はすべて解決しているだろう。19世紀と20世紀の歴史が、いわゆる「平和主義」も「理念のための戦争(革命も含む)」も、最悪の事態へと向かう世界を止めることは出来ないというのを教えてくれているのである。違う方法を考えなければならないのだ。

だが、もし正義の爲の戰ひが、平和の爲の戰ひでないとしたら。

渡邊さんの論法は、平和主義者が屡々陷りがちな論法で、「全ての人間は究極的には平和を求めて行動してゐるに決つてゐる」或は「人間はとにかく生延びなければならない」と云ふ、誤つた「大前提」を元にしてしまつてゐる。だが、キリスト教徒にしろイスラム教徒にしろ、世界の大多數の人間は、「生延びる」事以上に「より善く生きる(即ち、より善く死ぬ)」事を重視する思想を信じてゐるのが現實なのである。

ひたすら平和主義者の「党派的自明性」を前提とした「事実の指摘」つまり狭い世界の中でしか通用しない、普遍性・客観性を欠いた「理屈」を繰返し述べても、駄目なのであります。


アメリカとイスラムの「文明の衝突」ばかりが注目されてゐるけれども、私にしてみれば「和をもつて尊しとなす」日本の文明と「正義や信仰の爲には命を捨てる事も厭はない」世界の文明との衝突の方が深刻な問題であるやうに思はれる。私が日本人だからである。

平成13年10月11日

「人間の欲望の中で、もつとも強力なものは何か」と云ふ問には、「食欲」だとか「性欲」だとかいつた答が提出されるのが普通であらう。

だが、「自分の言動を正當化したいと云ふ欲望」くらゐ強い欲望はない、と私は思つてゐる。

平成13年10月11日

石橋さんは『要するに、あなたは予め言いたい事を言うためのダシに五島さんの書き込みを「利用」できれば良かったのだ』と私を批判なさっています。しかし、公の場でなされる批評が、個人的な「私信」と違うのは当たり前なのです。どういう形式で書かれていても、対象は読者すべてであるべきです。だから「個」から入って「普遍」に到るという形式は、誉められこそすれ、悪く言われるべきものではありません。個人的に助言がしたいだけならメールを送れば良い。それをしないのは、私もそして石橋さんも「多くの読者」を意識して文章を書いている証拠なのです。……したがって、石橋さんの「情」に訴えるご意見は、ここでも「非論理」と「自己矛盾」を露呈します。石橋さんの口真似をすれば『要するに、あなた(石橋さん)も予め言いたい事を言うためのダシに私(アレクセイ)と五島さんの書き込みを「利用」できれば良かったのだ』というようなことにもなるわけですが、いずれにしろこういう言い方は、「普遍」を目指す「批評」に対する「冒涜的レトリック」と呼ぶべきなのです。

一見「論理的」なアレクセイの發言に紛れ込んでゐる、冒涜的レトリックと云ふ決めつけに注意されたし。この決めつけは、論理的な根據を缺く「レッテル貼り」にほかならない。この決めつけはパロディを否定するものであるが、「レッテル貼り」であるがゆゑに、アレクセイの感情的な偏見に過ぎないものだと推測出來る。しかし、感情的な否定くらゐ、本人が自覺ナシに「絶對の眞實だ」と思ひ込んでしまふものはない。アレクセイは、パロディを感情的に嫌つてゐるがゆゑに、私のパロディ(fankee_jr)を論理的に見る事が出來ず、冒涜的レトリックだと感情的に判斷してしまつたと考へられる。


人が「絶對的な眞實だ」と信ずるであらう事には、二種類のものがある。

平成13年10月11日

憲法第 9 条の精神を守る事は非常に素晴らしい事ですが、一億総無抵抗主義と化してテロに屈しない国家を作る、と言うのは政治より寧ろ宗教の役割です。

憲法第 9 条の精神を守る事など、全然素晴らしくないと思ひます。そもそも平和主義は、精神以前の生存のみを重視する代物です。平和主義は、とことん突詰めれば、精神を否定する思想にほかならないのであり、憲法第 9 条の精神と云ふ言ひ方自體が欺瞞的なものです。

或は、この素晴らしいも皮肉ですか。

平成13年10月11日

でも、被害者なら理不尽が許されるのか? 被害者の理不尽は「加害」にはならないのでしょうか? 

素晴らしい。「掲示板荒し」の「被害者」を裝つたアレクセイ田中は、反省すべし。

平成13年10月11日

アレクセイ、色々良い事を言つてゐるね。

まず貴方の今回のご意見(No.26)は、私の指摘を追認しているだけで何の反論にもなっておらず、「愚かな大衆」を笑う事の根拠提示にもなっておりません。その事実からも、貴方の「嘲笑」が根拠薄弱なものであったことが自己暴露される結果となっております。ですから忌憚なく結論から申しますと、貴方は早急に「過ちは改むるにしくはない」との認識に到るべきでしょう。

……こう書くと、「根拠は示した」それは『君が代を唄っているという事実の指摘』だとおっしゃるかも知れない。しかし、その種の「党派的自明性」を前提とした「事実の指摘」は、公には「根拠の提示」にはなりません。

いま私は『党派的自明性』ということを書きましたが、この意味がおわかりでしょうか? つまり、これは「君が代を歌うのは、説明するまでもなく、ダメなのは、自明な事実だ」といった意見に代表される「村(内)の論理」。つまり狭い世界の中でしか通用しない、普遍性・客観性を欠いた「理屈」を指しているのです。そして、こうしたものは「軍隊内論理(例えば、「忘れました」横行)」や「党内論理」として『神聖喜劇』や『天路の奈落』にも描かれていますよね。だが、そういう「非論理」ではダメなんだ、普遍的人間のレベルで「論理」は構築されなければならないのだ……ということは、大西ファンならば当然わかるはずなのです(冷静ならば、ですが)。

「罪を憎んで、人を憎まず」「俗情を憎んで、大衆を憎まず」……それが「論理的」な態度というものです。そして、そうした区別が貴方の「笑い」には決定的に欠けている。だから私はそれを『嘲笑』と表現したのです。「過った自己認識」に基づく、筋違いの『嘲笑』だと言って、反省を促したのですよ。

しかし「(笑)」の怖さは、「本音と冗談のボーダーライン」を曖昧にすることによって、予め「逃げ道」を確保してしまいがちだ、という点にあります。にもかかわらず、あるいはしたがって、素人の「綴り方」には、この手法が濫用されています。つまり「(笑)」付けておいて、相手が本気で怒った場合「冗談じゃないか。マジになるなよ。野暮なやつ」と言って、その批判をかわすような人が少なくないのです。無論、これは誠実な人間の態度ではありません。つまり「(笑)」を使用する人に求められるのは、いざと言う時は、真面目に誠実に対応するという覚悟なのです。その覚悟がない人は「(笑)」は使わない方がいい。なぜなら、それは明らかに「礼儀」に反することでもあるからです。

話を石橋さんのご批判に移しますと、石橋さんのおっしゃるのは、この「論理よりは礼儀」というのと同じ、一種の「礼儀論」です。「論理」と「礼儀」を別扱いにして「礼儀」の重要性を説いているのです。ですが島田荘司がその日本人論で「日本人は是非善悪を論じる場でも、礼儀論を持ち出して問題を摺り替えてしまう。だから日本人は論理的な議論が出来ないのだ」というようなことを言っています。つまり「情実」が好きな日本人は「議論の場においては、論理を尽くす事が則ち礼儀だ」という発想が出てこず、すぐに「何様のつもりだ」「正論だが不作法だ」「和を乱す」あるいは「正論を振り翳す」なんてことを言い出す。……石橋さんの使った「正論を振り翳す」という表現は、「情実」好きな日本人の「情」に訴える、割合良く使われる「レトリック」のなのです。

私は五島さんに「説明」の重要性を説いた。それは「論理に徹せよ」ということでもあります。したがって議論の場に「礼儀論」を持ち込む石橋さんが、私の言いたい事を本当に理解してくれているとは、私には到底信じられない。それは加藤典洋が大西巨人を理解していると言うのに近いのではないかと思うわけです(笑)。

「正論」の側に立てない「礼儀論」とは、所詮「俗情との結託」に過ぎません。「たとえ間違った事を言ったとしても、顔を潰されたくない」「身から出たサビでも、恥をかかされるのは御免だ」という「無責任な、しかしありがちな感情(甘え)」と結託し、「数」の力で「正論」を潰そうとするものなのです。

いやー素晴らしい。田中幸一には、これらのアレクセイの發言に耳を傾ける事を提案したい。


あれれ、あの田中幸一と、このアレクセイは、同一人物だよ。


私が貴方より『慧眼』であるのは明らかでしょう。そんなことが自慢にならないのは、貴方自身が保証しているんです。人の言うことは『決めつけ』で、自分の「説明のない批判」は『決めつけ』ではないと思い込める「客観性」の無さ。ものは、よく考えてから言いなさい(笑)。

いやー本當に素晴らしい。忘れつぽい田中には、是非とも思ひ出していただきたい文言の數々である。


と言ふか、これらの論理は、アレクセイが誰かを批判する時には正當であるとされる一方、誰かがアレクセイを批判する時には根據なく不當と決めつけられる。

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